2025年6月18日水曜日

【読書感想文】段 勲『鍵師の仕事 鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様』 / 脱税を逃さない正義のヒーロー

鍵師の仕事

鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様

段 勲

内容(e-honより)
マルサの査察で開けた台所の金庫の中身は?ボッタクリバーの金庫の中身は? 広域暴力団の組長から依頼のあった大型耐火金庫の中身は?…鍵師・吉川守夫が見た鍵穴の向こうには、およそ想像もできない世界が広がっていた。人間の欲望がうずまく、鍵穴の向こう側…全12話のエピソードには、現代人の“業”の深さが浮かび上がる。

 凄腕の鍵師から聞いた話をまとめたルポルタージュ。

 本人から聞いた話、さらにそれを小説仕立てにしているので脚色が入っているのかもしれないが、縁遠い世界の話なのでおもしろい。



 この本に登場する吉川さん(仮名)という人はベテランの鍵師で、そのへんの家の鍵なら一分とかからずに開けてしまうらしい。

 こういう人の手にかかれば、鍵をかけていたってかけてないのとほとんど変わらない。おっそろしい話だ。この人はまっとうに働いているからいいけど、中にはこの技能を悪いことに使う輩もいるだろう。狙われたらひとたまりもない。


 吉川さんは日本有数の腕の持ち主なので、「自宅の鍵をなくしたので開けてください」といった依頼だけでなく、様々な依頼が舞い込むのだとか。

 国税局が某社の脱税容疑で強制査察に入り、隠し金庫を発見した。だが肝心の金庫が開かない。閉じた金庫ごと押収し、
「ちょっと開けてくれないか」
 という国税局からの解錠依頼が、知人を通して吉川に飛び込んできたのだ。吉川は当局に急行し、すぐに開けてやった。以来、国税局鍵開けのご用達とばかり、よく仕事の依頼が来るようになった。やがて、東京・豊島区内に鍵屋を開業。昭和五〇年代に入って、さらに、
「どんなカギでも開けられ、しかも信用のできる無口な男」
 との評判が立ち、国税庁に限らず、裁判所、検察庁等、お堅い役所からも解錠の依頼が殺到するようになる。こうした官庁ご用達の鍵師は、都内では推定でざっと二〇人。裁判所からの依頼だけでも吉川は、多いときには月に二〇件を数えたことがあった。裁判所の主な依頼は、執行官に同行し、マンションや金庫を解錠し、財産の差し押さえ等を手伝うもの。なお、国税局からの依頼は、もっぱら強制査察の摘発だった。

 国税査察部、いわゆるマルサの御用達の鍵師なのだそうだ。

 なるほど、よからぬ金を貯めこんでいる人は銀行には預けられないのでたいてい自宅に隠すだろう。そして多額の現金や貴金属を隠すとしたら、金庫の中。金庫が見つかった脱税犯は、「鍵をなくした」「暗証番号を忘れた」と最後の抵抗を試みる。そこで鍵師の出番となるわけだ。


 ぼくは脱税する人間を心から憎んでいる。よくワイドショーやネットニュースでは有名人の不倫や薬物使用が話題になるが、ぼくからしたらどうでもいい。だってどっちもぼくには関係のないことだもの。

 でも脱税はちがう。被害者は国であり、国民だ。つまりぼくも被害者のひとりだ。脱税がなければぼくの税負担はもうちょっと軽かったかもしれないのだ。

 だから脱税を決して逃さないマルサ御用達の鍵師は、正義のヒーローだ。がんばれ!




 鍵をかける場所には大事なものを入れるので、当然鍵師は人間の泥臭い欲望のすぐ近くにいることになる。

 ヤクザの親分の金庫を開けたらとんでもないものが入ってたとか、開かない金庫をめぐって家族間の醜いがくりひろげられるとか、野次馬根性を刺激される話が並ぶ。

 中でも強烈だったのがこの話。

「はい、分かりました。加藤さんですね。お昼ごろまでには行きますから。あ、それと、鍵を開けるのは金庫ですか? それとも車なの?」
「違います……………」
「じゃ、マンションの鍵かなんか?」
「それも違います。実は、ちょっと言いにくいのですが、貞操帯なんです、知ってますか、女がする貞操帯という革のバンド」

 たしかにあれも「大事なものを守るために、鍵をかけて守るもの」だよなあ……。


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2025年6月13日金曜日

【読書感想文】春木 豊『動きが心をつくる 身体心理学への招待』 / 脳はキャプテン

動きが心をつくる

身体心理学への招待

春木 豊

内容(e-honより)
赤ちゃんは周囲の人を自分にひきつけるための反応を生得的に備えて生まれてくる。ひよこの緊急時に発するピーという高い発声に対して、親鳥は敏感に反応する。人間でも赤ちゃんの独特の泣き声は、親を動かす。また大人からみて微笑と見える赤ちゃんの顔面筋肉の反応は、周りの大人にかわいいと思わせるためのものであると考えられている。脳科学ではわからない心と身体の動きとの深~い関係。心身統一のための実践的ボディワークも紹介。

 多くの人は「脳が指令を発して身体を動かしている」とおもっているが、実はそんな単純なものではなく、その逆に「身体の動きが脳を動かしているんですよ」ということを説明している本。

 正直、そのへんのことについては脳科学者の池谷裕二氏の本にも書いてあったので、あまり新鮮味はなかった。「脳が『手を動かそう』と考えはじめる前に既に手は動く準備をしている」とか。

 特に後半の、著者が考案した体操のくだりは蛇足だったな。


 こうした検証実験で気をつけなければならないのは、表情を作ってもらうために、顔面反応をしてもらうときに、この操作が感情の研究であるということを被験者に知られないようにすることである。
 このための工夫として、T・ストラックらが行った方法は、被験者に前歯でペンを噛んでもらうことであった。こうすると口角が横に広がるが、この顔面反応は笑顔のときのものとほぼ同じものとなる。比較のために被験者にペンを唇で押さえてくわえてもらった。このようにして漫画を見てもらったところ、前歯でペンを噛んだ被験者のほうが、唇でくわえた被験者よりもより面白さを感じるという結果が出た。つまり笑顔のときになる口角が横上に広がるという顔面反応が快感情を起こしたということである。
 福原政彦が行った研究も興味深い。この実験では道具を使わず、発音の研究であるということにして、被験者に「イー」(口が横に広がる)という発声と「ムー」(唇がとんがる)という発声をしてもらった。このようにして作られた顔面反応が気分に及ぼす効果を調べたのであるが、快不快の気分に関しては、「イー」のほうが「ムー」よりも快であるとの回答が多かった。緊張弛緩の気分については「イー」のほうが弛緩すると答えている。興奮―沈静については、「イー」のほうが、沈静の気分になるとの答えが多かった。

 はっきりと「笑顔を浮かべる」という意識がなくても、ペンを唇で噛むことで「笑顔と同じような表情になる」だけでも、楽しい気分になるのだ。

 ぼくはこのことを知ってから、自分で「イライラしてるな」とおもうときは、意識的に笑顔をつくるようにしている。イライラしてるからといって顔をしかめていると、余計に嫌な気分になる。だから無理やりにでも笑顔をつくる。


「笑う門には福来たる」ということわざがある。昔の人はえらいものだ。笑うことでハッピーな心持ちになることを知っていたのかもしれない。



 現代人は脳を重要視しすぎだ。

 人体において脳は絶対的な司令塔で、肉体は脳の奴隷だとおもっている。

 でも脳だって肉体の一部だ。独立した存在ではない。サッカーでいうと、脳は監督ではなくキャプテンぐらいのポジションだ。自分もフィールド上で活動しながら、手とか足とかの他のプレイヤーに指示を出している。指示がなくても他のプレイヤー(手足)は勝手に動く。歩くときにいちいち「右足を出そう。次は左膝を曲げて、左足に重心を移しながら左足を前に出して……」などと考えないでも歩けるように。

 また、心臓や胃のように脳からの指示を受け付けずにオートで動くプレイヤーもいる。

 脳はプレイングマネージャーなので、脳が他の部位に指示を出すこともあるし、逆に他の部位の挙動が脳に影響を与えることもある。

 ということで、あんまり脳ばっかりちやほやするのはやめましょう。


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2025年6月9日月曜日

【読書感想文】高野 和明『6時間後に君は死ぬ』 / 特別な人になれなかった私たちへ

6時間後に君は死ぬ

高野 和明

内容(e-honより)
6時間後の死を予言された美緒。他人の未来が見えるという青年・圭史の言葉は真実なのか。美緒は半信半疑のまま、殺人者を探し出そうとするが―刻一刻と迫る運命の瞬間。血も凍るサスペンスから心温まるファンタジーまで、稀代のストーリーテラーが卓抜したアイディアで描き出す、珠玉の連作ミステリー。

 連作ミステリ。

 表題作『6時間後に君は死ぬ』は正直イマイチだった。ミステリ初心者にはちょうどいいのかもしれないけど、ある程度の数を読んできた人には物足りない出来だった。

 未来予知ができるという青年から「6時間後に君は死ぬ」と告げられた女性。彼の予知はどうやら百発百中らしい。彼女のそばにいるのは“いかにも怪しい男”と“彼女を守ってくれそうな男”……。

 はたして、「こうなるだろうな」と予想した通りの展開。ミステリとしてはライトすぎるな……。



 表題作で期待を裏切られたが、その後の作品まで読むと納得のいく出来だった。

『6時間後に君は死ぬ』の他に、おもうような仕事ができずに悩む脚本家が幼い頃の自分に出会う『時の魔法使い』、「この日は恋をしてはいけない」と告げられた女性が恋に落ちた相手の素性を探る『恋をしてはいけない日』、ダンサーを目指す女性が人生の節目節目でデジャヴを感じる『ドールハウスのダンサー』、そして『6時間後に~』で命を救われた女性が再びピンチに陥る『3時間後に僕は死ぬ』。

 いずれも未来予知をテーマにした作品だが、それぞれ切り口が違っていておもしろい。


“百発百中の未来予知”って題材としてはおもしろいけど、物語の中心に据えるには難しいんじゃないだろうか。

 なぜなら、読者は先に結末を知ってしまうわけだから。ある意味先にネタばらしをしている状態だ。結末がわかっている状態でハラハラドキドキさせるには、予言の的中にいたる過程によほど工夫を施さないといけない。その難しいことを、きちんとやっている。

 特に『恋をしてはいけない日』は、予言を的中させつつも見事な“読者への騙し”を入れており、鮮やかな短篇だった。




 好きだったのは『ドールハウスのダンサー』のセリフ。
「ええ。叔母は、何も起こらないのが最高の幸せだと言ってました。長い間生きてきて、ようやくそれが分かったと」
 何も起こらないのが最高の幸せ。
 眉を寄せた美帆に、館長は続けた。「普通の人として生きた実感でしょう。普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか。斯く言う私も、普通の人間ですが」
 年長者の言葉が、美帆にはよく分からなかった。ただ、いつかその意味が分かった時、自分の負った傷も癒やされるような気がした。

 ぼくも若い頃は「世界に名を轟かせる何者か」になりたかった。

 そんな淡い夢はかなわなかった。小説を書いたりしたこともあったけどものにならなかった。

 そして今は会社員としてそんなにめずらしくもない仕事をしており、結婚して二人の娘と暮らしている。お金持ちではないけれど生活に困っているわけでもない。人がおもしろがるような人生ではないけれど、大きな不満もない。そこそこ普通の人生と言ってもいいとおもう。よほど大きな犯罪でもしでかさないかぎり、きっとこの先も普通の人として生きてゆくのだろう。


 “特別な人”になりたくてもなれなかった言い訳になるけど、普通も悪くないとおもう。

 たとえばテレビに出ていっぱいお金を稼いでいる人を見てうらやましい気持ちがないわけじゃないけれど、今の生活を捨ててそんな人生を送りたいかと言われると、それは嫌だ。

 どこへ行っても好奇の目で見られたり、SNSで見ず知らずのやつらから中傷されたり、休みなく働いたりするような生活には耐えられないだろう。

 普通の人として生きることは、得られるものは大きくないが、失うものも少ないということなのだ。


「普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか。」という言葉は、そんな凡人に優しく寄り添ってくれる。

 そう、これがいいとおもって選び取ったからぼくは凡人になれたのだ……ということにしとこう。


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パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2025年6月6日金曜日

【読書感想文】松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 / ゆとり教育は典型的な失敗例

教育格差

階層・地域・学歴

松岡 亮二

内容(e-honより)
出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件によって子供の最終学歴は異なり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり日本は、「生まれ」で人生の選択肢・可能性が大きく制限される「緩やかな身分社会」なのだ。本書は、戦後から現在までの動向、就学前~高校までの各教育段階、国際比較と、教育格差の実態を圧倒的なデータ量で検証。その上で、すべての人が自分の可能性を活かせる社会をつくるために、採るべき現実的な対策を提案する。

 教育格差がよく問題になる。家の裕福さによって受けられる教育のかなりの部分が決まってしまう、ひいてはその後の人生も変わってくる、と。親ガチャという言葉もすっかり定着した。

 様々な研究や調査をもとに、日本における家庭のSES(Socio-Economic Status:社会経済的背景) と教育レベルの関連をさぐった本。




 教育格差が広がっていると言われているが、実際そんなことはないそうだ。

 日本では昔から家庭によって教育格差があり、その差は長期的に見てほとんど拡大も縮小もしていないようだ。また、日本の教育格差は他の先進国と比べると標準的な水準であり、格差が大きいわけではないけれど小さいわけでもないという。


 生まれ育った家庭による教育格差というと、「親が金持ちだと高学歴になる」という相関をイメージするが、それだけでもないという。

 同じ日本の中でも、どの地域で育つかによっても格差が生じるという。

 まず、東京23区と政令指定都市は、その他すべての地域と比べて教育意識が高い。これは2010年に実施された調査の結果なので、不思議なことではないだろう。報道などから思い浮かべる「教育格差社会」の姿だ。ただ、この大都市における教育熱を説明するのは「大都市だから」ではなく、「近隣の大卒(者)割合」である。住民(ご近所さん)における大卒割合の高低が、教育意識の背景にあるのだ。これは地点間の結果なので、調査回答者本人が大卒かどうかとは別である。本人が大卒であれ非大卒であれ、大卒割合が高い地域に住んでいると、高い教育や塾の利用などに対して肯定的に回答しているといえるのだ。近所の大卒割合が規範となり、望ましい教育達成の基準値が変わると解釈できる。
 さらに2010年SSPよりも調査規模の大きい2015年SSPを用いた研究(Matsuoka 2019b)では、大卒割合と教育熱の関連を繫げるものが何かを検討した。その結果、近隣の大卒割合と教育意識を媒介するのは、近隣の「身体化された文化資本」だった。文化資本については第3章で解説するので、ここでは、「高い教育を得ることを無意識のうちに当然視する町の文化的規範」くらいの理解で構わない。高い大卒割合を土台とした教育を肯定する雰囲気があり、それが教育熱に繫がっている──高い教育という、この社会において「望ましいもの」と親和的な文化のある近隣とそうでない近隣が日本の中にある、ということを意味する。換言すると、大卒割合によって町の文化的雰囲気が異なり、それが教育意識の高低の基盤となっている。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることが良いことであるというメッセージを意識的・無意識的に受けながら育つことになるのである。

 近隣の大人の学歴が、子どもの学歴に影響を及ぼすのだという。

 ぼくが育ったのは、兵庫県の中でも戦後に開発された住宅地だった。そこに住んでいるのはほとんどが「大阪や神戸に通勤しているサラリーマン家庭」であり、おそらく大卒率も高かった。子どものころ友だち「うちのお父さん、〇〇大学行ってたんだって」「うちは××大学って言ってたわ」みたいな会話をした記憶がある。

 そういう地域で育ったので、小学生の頃にはもう自分は大学に行くものとおもいこんでいた。「大学に行きなさい」などと言われるわけではない。ほとんどの人が「中学校を卒業したら高校に行く」とおもいこんでいるのと同様、「高校を卒業したら大学に行く」と考えているのだ。

 そこでは「どの大学に行くか」は話題になっても、「高校卒業後に大学に行くか、専門学校に行くか、就職するか」は話題にならない。

 高校のとき、卒業をしたら料理人として働くと言っていた同級生に「なんで大学行かないん?」と訊いてしまったことがある。今おもえばすごく傲慢で無神経な質問だ。でもそれぐらい、よほどの事情がないかぎりは大学に行くのが当然だとおもっていたんだよ当時は。


 また、教育格差とは単に成績だけの話でもないという。

 特に学校ランク・学校SESの両方と関連が強い「成功へのこだわり」を偏差値換算して図5‐9を作成した。(中略)高ランク校には「何でも一番になりたい」などの項目に肯定的な生徒が高い割合で在籍する。また、そのような学校の多くは学校SESが上位16%の学校だ。「生まれ」を背景にして高学力を獲得し受験を突破したという成功体験を持つ生徒たちが集まる進学校は成功への欲求が充満するサウナのようなものだ。
 一方、低ランクの学校は概ね低SESで、成功へのこだわりは平均的にだいぶ低い。そのような学校で業績主義的な成功である大学進学を煽っても、「生まれ」を背景に成功体験の積み重ねが少ない以上、生徒たちの反応は弱いだろう。

 親が高学歴・高収入であるほど、子どもの上昇志向も高いという。

 まあねえ、これが現実だよね。親が高学歴だと子どもにも自分と同等かそれ以上の学歴を期待するだろうし、そのためのサポートもする。結果的に子どもも高学歴を目指すようになる。

 かくして教育格差は再生産されていくことになる。




 最近、ぼくの住んでいる市では習い事・塾代助成金という制度が実施されている。小5~中3の子が塾や習い事の費用を、月1万円を上限として市が負担してくれるという制度だ。

 うちも恩恵は受けている。だが、これらの施策は教育格差の縮小に役立つかというと、たぶん役には立たないだろう(無駄とは言わないが)。

 まず、それなりにちゃんとした塾に行こうとおもったら月1万円では足りない。「塾代として毎月5万円払ってます」という家庭は、それが4万円になったら助かるだろう。だが「お金がないから子どもを塾に行かせられません」という家庭は、1万円補助してもらえたからといって「だったら月4万円出して塾に通わせよう」とはなりにくいだろう。

 また『教育格差』で書かれているように、世帯、地域によって親の意識、子どもの意識に格差がある。助成金で「子どもなんか放っておいても勝手に育つわ! 俺は塾なんか行ってなかったし!」という親の意識を変えるのはむずかしいだろう。

 習い事には、親の送迎や時間などの金銭以外のコストもかかるしね。




『教育格差』では、格差自体がいいとも悪いとも言っていない。世帯・地域間の教育格差があるという現実を指摘するにとどめている。

 ただ問題は、きちんとしたデータに基づかずに様々な政策が実施されていることだ。

 教育というのは、誰しも当事者であったから何かしらコメントしやすい分野だ。医療問題について語ってくださいとか、国家財政について意見をどうぞと言われても、知識がなければ何も語れない。でもみんな学校には行ってたし、その中で不満におもうこともひとつやふたつではなかっただろうから、専門知識がない人でもあれこれ言いやすい。結果、えらい人(ただしバカ)の思いつきで極端な方針転換がとられることが多い。

 例として、1990年前後に生まれた世代に施された“ゆとり教育”の失敗が挙げられる。

「思い込み」に基づいて授業時間数とカリキュラムが削減され、学習圧力が低下した結果、存在するデータでは授業内容の理解度に変化はなく、到達度はむしろ低下傾向で、学習意欲も改善しなかった(苅谷2002)。また、2002年度に実施された学習指導要領で土曜日が休みになったことで、SESによる学力格差が拡大した(Kawaguchi 2016)。さらには、低SESの生徒には学習へのインセンティブ(勉強するといいことがあるよ! という誘因)が見えづらくなり、1979年と比べて1997年には学習時間の格差が拡大(苅谷2001)し、土曜日が休みになった2002年の後にもSESによる学習時間格差が拡大した(Kawaguchi 2016)。
 そして「ゆとり」を忌避する親は、選択の「自由」を行使することになった。事実、首都圏の富裕層が近所の公立学校ではなく私立や小中一貫校などを選ぶ「リッチ・フライト」現象(Fujita 2010)が報告された。選択の「自由」を行使できるのは高SESの親なので(304)、市場デザインの工夫がないまま単に選択肢だけ増やすのでは、格差拡大の方向に進むことになるのは不思議な結果ではない。

「子どもが勉強しすぎらしい。授業時間を減らせば、勉強ばっかりしている子にゆとりが生まれ、学習意欲が増すはず!」という根拠のない思い込みによって導入されたゆとり教育。

 だが結果は狙いの逆だった。公立校での授業時間が減ったことで、教育熱心で経済的余裕のある親は、子どもを塾に通わせ、私立校受験への指向が高まった。結果的に格差は拡大。

「ゆとりがなかった層の子はますます学習に駆り立てられ、既に十分ゆとりがあった層の子はさらに学習時間が減る」という、なんとも皮肉な結果になってしまったのだ。

 素人がデータに基づかずに方針を決めると大失敗するという、お手本のような事例だ。

 



 くりかえしになるが、著者は教育格差が悪いと書いているわけではない。差はあるとはいえ格差はどの国にもある。どの時代にもある。「生まれた家によって受けられる教育に差がなかった社会」なんてものは存在しない。

 完全に平等な社会なんてイスラエルのキブツとかヤマギシ村みたいに、「子どもは完全に親元から離れて社会全体で育てる」という極端な社会主義を導入しないと不可能だろうし、それらの試みがうまくいかなかったのは歴史を見ればすぐわかる。

 平等を実現しようとすれば自由が損なわれる。いちばん賢い子に全員をあわせることは不可能なので、平等のためには「できる子ができない子のレベルに合わせる」ことになる。それは社会全体にとっても大きな損失だろう。


 個人的な考えでは、教育格差はそんなに悪いことじゃないとおもうんだよね。全員に平等にチャンスがあるってのはいい面もあるけど悪い面もあるとおもう。勉強が苦手で、勉強嫌いで、親も「勉強なんてしなくていいよ」って考えの子に高いレベルの教育を与えるのがはたして本人のためなのか? という気もする。

 幸いぼくは学校の勉強は得意なほうだったから学校教育はあまり苦ではなかったけど、「すべての子が高いレベルの音楽教育を受けられるように」とか「生まれ育った家庭によって格闘技を学ぶ機会に差があるのはおかしい。公平な格闘技教育を!」とか言われる世の中だったら、音痴で格闘技嫌いのぼくはさぞかし生きづらかっただろう。

 勉強が得意な子、勉強を重んじる親から生まれた子、勉強に時間を使う経済的余裕のある家庭の子が優先的に高い教育を受けられるのはそんなに悪いことじゃないとおもう。


 問題は、学校を出た後の社会のほうにあるんじゃないかとおもう。どういうことかというと、勉強ができることが金を稼ぐ手段として大きなウェイトを占めすぎているんじゃないかってこと。

 勉強ができるだけじゃなくて、掃除が得意であるとか、木工が上手だとか、他人の話に耳を傾けるのが苦にならないとか、お年寄りの世話が好きとか、そういう様々なスキルが金に結びつく世の中だったらいいのにな。


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2025年6月5日木曜日

小ネタ37 (ブザー /カレー / 植物の部位)

ブザー

 小学校に娘を迎えに行った。校門前で待っていたら小学生が大量に出てきたんだけど、数えてみたら五分ほどの間に防犯ブザーが七回鳴った(もちろんすべて誤報)。

 小学校の近くに住んでいる人で、防犯ブザーの音が聞こえたから様子を見に行く人、日本にひとりもいないとおもう。


カレー

 小学校に娘を迎えに行ったら、娘の口元にカレーがついていた。

 他の子も見てみたら、半分以上の子の口元にカレーがついていた。


植物の部位

 我々はいろんな植物のいろんな部位を食べている。

 実だけでなく、種子(豆など)、茎(ジャガイモなど)、根(ダイコンなど)、葉(キャベツなど)、花(ブロッコリーなど)と、ありとあらゆる部分を食べる。種類によって食べる部位が異なる。

 もしも宇宙からすごく強い生物がやってきて地球上の生物を食べることになったら、「チューリップは茎がうまい、キリンは脚がうまい、ハムスターは骨がうまい、ヒトは脳がうまい」みたいにあれこれえり好みを食べるのだろうか。

 どうせ食べられるなら全部残さず食べてほしい。


2025年6月3日火曜日

【読書感想文】知念 実希人『天久鷹央の推理カルテ』 / 頭のいい人は決めつけない

天久鷹央の推理カルテ

知念 実希人

内容(e-honより)
天久鷹央。天医会総合病院、統括診断部の部長を務める彼女は、明晰な頭脳と圧倒的な知識で、あらゆる疾患を看破する。そんな天才医師の元には各科で「診療困難」となった患者が集まり…。原因不明の意識障害。河童を目撃した少年。人魂に怯える看護師。その「謎」に秘められた「病」とは?現役医師が描く本格医療ミステリー、ここに開幕!書き下ろし掌編「蜜柑と真鶴」収録。


 小六の娘が「おもしろかったよ」と貸してくれたので読んでみた。

 このシリーズは本屋にたくさん積んであったので人気だということは知っていたが、 漫画っぽい表紙の小説は好きではないので手に取らなかった。たぶん娘に勧められなければ読まなかっただろう。

 食わず嫌いしていたが、読んでみたらちゃんとおもしろかった。こりゃあ人気になるわ。

 マンガ的なわかりやすいキャラクターは個人的には好きではないのだが、知念実希人さんの文体にはあってる。以前『ひとつむぎの手』を読んだときに「登場人物のキャラクターが平面的でマンガっぽいな」とおもったのだが、それだったらいっそティーン向け小説にしてしまったほうがいい。

 キャラの造形は漫画的でとっつきやすくしていながら、著者の医師という職業を活かした医療・病院の知識がふんだんに散りばめられ、医療ドラマ・ミステリとしてもちゃんとおもしろい。

 それぞれの短篇が、謎の提示→推理→解決という単純な種明かしでなく、謎の提示→推理→解決→新たな謎→解決という二段構えになっていて読みごたえがある。

 さらに感心したのは、一篇目の短篇がラストの事件の引き金になっていること。おお、うまい。短篇集でありながら長篇としても読める。ストーリーテリングの才能がすごい。



 気に入ったのは、メインキャラクターである天久鷹央の科学に対する姿勢。

「徹底した合理主義者」というキャラクターなのだが、これがほんとに合理主義者なのだ。

 あたりまえじゃないかとおもわれるかもしれないが、フィクションの世界では意外とそうでないキャラクターが多い。「ぼくは科学者だから妖怪の存在なんて信じないよ」「幽霊? どうせ見間違いだろ?」みたいなキャラ。

 それって合理主義でなくて、単なる偏狭な人間だからね。それって「地球は平らに決まってるだろ!」と考えていた人たちと一緒だからね。


 以前、「水に『ありがとう』と言いつづけるときれいな結晶をつくる。水は人の気持ちを理解できる」みたいな説が流行ったとき、SNSなどで「科学を理解してないやつがとんでもないことを言ってる」みたいな反応が多かった。

 ぼくはおもった。いやいや、おまえらの態度も科学的じゃないよ。だってそいつらが「水が人の気持ちを理解できるわけがない」と言う根拠って「とても信じられないから」とか「他の人がそう言ってるから」でしょ? 自分で何度も実験をして、水が人の気持ちを理解できないことを証明してみせたわけじゃないでしょ?

 ぼくだって「水が人の心を伝える」なんて話を信じてはいない。でも「ぜったいにちがう」と断定はできない。実験したわけじゃないし、現代科学では観測できない物質が伝えている可能性がゼロとは言えないからだ。

 だから宇宙人だろうと未来人だろうと幽霊だろうとテレパシーだろうと、「科学的にありえない!」という態度をとるのは科学的でない。


 で、やっと天久鷹央の話に戻るんだけど、この人は河童や幽霊の存在を否定しない。

「河童が出た」という話を聞いたら、とりあえず確かめに行く。もちろん信じてはいない。けれどはなから否定したりもしない。

 あらゆるものの可能性を否定しないし、同時にあらゆるものを疑う。常識も権威も自分自身をも疑う。

 天久鷹央は漫画チックなキャラクターではあるけど、でもほんとに頭のいい人の思考をするんだよね。先入観で「河童なんているはずない」と決めつけたりしない。己の知能に自信は持っているけど、過信はしない。自分がまちがえている可能性も常に持っている。己の過ちも認める。

 フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、未来予測の正答率が高かったのは、思想信条に従ってものを考えず、常に自分がまちがっている可能性を考え、他者の意見を切り捨てたりしない人たちだったそうだ。つまり、メディアで自信たっぷりに発言している政治家やコメンテーターとは真逆の人間ということだ。

 頭の中で考えた「頭のいい人ってたぶんこんなんだろう」ではなく、著者が実際に見聞きした頭のいい人を参考にしているからこその造形だろうな。


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2025年5月29日木曜日

【読書感想文】竹田 ダニエル『ニューワードニューワールド 言葉をアップデートし、世界を再定義する』 / 自分が嫌いな選択は「不自由な選択」認定

ニューワードニューワールド

言葉をアップデートし、世界を再定義する

竹田 ダニエル

内容(Amazonより)
言語化できずに頭の中に存在している「モヤモヤ」が晴れない。
社会の中で空気のようにある“何か”に抱く疑問や違和感が、解消できない。
日々、そんな風に感じていませんか?
本書で、竹田ダニエルさんはアメリカの若い世代から生まれた言葉の社会的背景を読み解き、内包する価値観の変化を鋭く分析します。
その分析と同時に言語化され、可視化されるのは現代社会に蔓延する“モヤモヤ”。
―新しい言葉を知ることは、新しい価値観を知ることであり、それは新しい世界を知ることでもある――
自分が置かれている環境や感情が言語化されたとき、初めてそれについて学び、話し合うことができるようになります。
今、あなたの頭の中にあるモヤモヤを捨てに、本書を開いてみませんか?

 アメリカ出身のライターがアメリカの現代カルチャーを紹介する本。

 雑誌の連載をまとめた本ということで、ずいぶん散漫で読みにくい。

 これといったテーマがあるわけではなく、いろんなところで書いたコラムをごちゃごちゃに並べただけという感じ。 

 この人のファンなら楽しめるのでは、という本。


 どういう人かよく知らないのだが、読んでいるだけでアッパークラスの人だということがよく伝わってくる。多様性だとかフェミニズムだとか、“高級な悩み”についてあれこれ語っている。

“高級な悩み”というのは、明日の飯をどうするとか、仕事がなくて生きていけないとか、そういうのとは違う、生活に困っていない人の悩みだ。こういう人たちへのカウンターとしてトランプ大統領が誕生したと言われている。

 まあ気持ちはわかるよね。自分が明日のパンのことで悩んでいるときに、やれボディケアが大変だとか、やれLGBTQの生きやすさに目を向けましょうとか、やれ家父長制が女性に向ける加害性がどうのと言われたら、しゃらくせえ、おまえらと真逆なことを言ってる候補者に投票してやるからな! となる気持ちも。


“高級な悩み”を持つことが悪いわけじゃないんだよね。それを、求めていない人にまで押しつけようとしてこなければ。

「私はマイノリティの人が生きやすい社会にしていきたい」ならいいんだけど、「だからあなたの言動はまちがってる。意識をアップデートしなさい!」と言われたら「うるせえそんなことは俺におまえと同じだけの財産を持たせてから言え!」と言いたくなるだろう。




 自己主張について。

 アメリカでは幼い頃から自己主張することを求められます。なぜなら、人種的に多様な国だから。文化や宗教、価値観などバックグラウンドが異なる人々が大勢暮らしているので、自分の考えは口に出して相手に伝えないと理解してもらえない。そして競争も激しく、静かに「察してもらおう」と待っていては損をしてしまいます。そういう社会に生きていると、誰かに質問されたら〝深く考える前にとりあえず何かを言おうとする癖〟がつきやすいし、みんな幼少期から〝自分をよく見せる訓練〟を受けているので、口先だけでうまいことを言うのは得意です。

 前半部分はよく聞く話だ。アメリカは自己主張しないと話を聞いてもらえない。日本のように「察してくれるよね」というスタンスでは永遠に伝わらない。

 おもしろかったのは後半。あくまで著者の印象ではあるけれど、「とりあえず何か言う」「口先でうまいこと言う」になりがちというのは納得できる。就活の場とかそんな感じだよね。どっかで聞いたようなあたりさわりのない意見を、さも重大な意見であるかのように語る。

 ぼくは就活のみんながとりつくろっている感じ(そしてお互いウソだと気づいていながら指摘せずにさも他人の言葉を素直に信じているかのような振るまうところ)がイヤでイヤでしかたなかったんだけど、アメリカではずっとあれをやっていなきゃいけないのか(あくまで印象)。つらいなあ。




「チョイス・フェミニズム」について。

  チョイス・フェミニズムとは、女性が自分の人生において自由に選択を行う権利を尊重しようという考え方だそうだ。

 だが昨今ではチョイス・フェミニズムに対して批判的な目を向けられているという。

 例えば女性が自身の選択の結果として主婦になることを選んだとしても、その背景に社会的圧力や経済的な制約がなかったかについては考慮しなければなりませんし、その選択は男性中心的な価値観の社会の中で行われている以上、社会的な影響から完全には逃れられていないという可能性は無視できない。専業主婦になるという選択だけではなく、例えばAV女優になるとかパパ活をするなどといった選択についても考えなくてはいけない。お金を稼ぐ手段として自分の性を売りにすることは、一見すると性的自己決定権が女性の手にあり、そうした選択は尊重されるべきとも語られますが、現在の社会が男性中心的であり女性はその影響を必ず受けていること、そしてその女性の選択が結果的に男性にとって都合のいい社会構造につながっていることについては議論すべきです。それなのに「本人の選択だから」といって議論を封じてしまうことが問題だと言われています。
 選択は完全に「自由な意思」に基づいたものではなく、内面化されたミソジニーの影響や、社会に染みついた家父長制の影響を受けているのです。そういった社会からの影響を無視することができない限り、女性が選択したからといってそのすべてを手放しに肯定するべきではない、という問題提起こそが「チョイス・フェミニズム」への批判です。
 
 ――「チョイス・フェミニズム」の姿勢が、家父長制の風潮を強化することにつながりかねないんですね。
 
 整形や脱毛といったルッキズムにまつわる選択も同じです。“可愛くなりたい”“痩せたい”という願望は、特定の美の基準に当てはまらなければ、偏見や差別を受けてしまうかもしれない、という社会の圧力からく不安の影響などを少なからず受けています。どうして、見た目がよくないといけないのか、その美の基準は誰が決めたのか、という構造を考えるべきですよね。

 げえ。気持ち悪い考え方!

 選択は完全に「自由な意思」に基づいたものではなく社会の影響を受けている。そんなのあたりまえじゃん!

 社会や家庭の価値観を受けずに考えた選択なんかあるわけないじゃない。社会的規範から完全に自由な意思が存在していると信じているなんてどうかしてる。


 「専業主婦になる」という選択は家父長制の影響を受けているのかもしれない。そのとおり。でもそれと同様に「母になってもフルタイムで仕事を続ける」という選択はフェミニズムの影響を受けているかもしれない。

 社会からの影響を無視できないから選択を手放しに肯定するべきではないというのであれば、専業主婦になった女性だけでなく働きつづけることを選んだ女性の選択にも疑問を持たないといけないよね。でもこういう人はそれはしないんだよね。


 自分が気に入る選択は「女性の自由な選択だから尊重しよう!」で、自分が気に入らない選択は「それは家父長制の影響を受けてねじ曲げられた選択じゃないの?」って言いたいわけだ。きしょっ。

 まちがっても「自分の意思でAV女優になることを選ぶ女性もいる」なんてことは認めたくないのだ。

 この人が専業主婦やAV女優を嫌いなのはべつにいいけど、その選択を否定しちゃだめだよ。


 自分の好き嫌いを正しい/まちがっているだとおもっている。人間誰しもゆがんでいる者だけど、自分が歪んでいることに無自覚な人ってたちが悪いよね。


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【読書感想文】朝井 リヨウ『正欲』 / マイノリティへの理解なんていらない

正欲

朝井 リヨウ

内容(e-honより)
自分が想像できる“多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな―。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繋がりは、“多様性を尊重する時代”にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。第34回柴田錬三郎賞受賞!


 (一部ネタバレを含みます。)


 性的マイノリティを題材にした小説。

「性的マイノリティ」は最近よく耳にする言葉だ。小説、漫画、ニュースなどでホットなテーマといっていいだろう。

 うちの小学生の娘も「付き合うのは男と女とはかぎらないんだよね」なんて言ってる。学校でもしっかりとLGBTQなんて言葉を教える。

 が。『正欲』で描かれるのは、その“いわゆる性的マイノリティ”からもはずれた性指向の人たちだ。


 この小説に出てくるのは「水」に性的昂奮をおぼえる人たち。「水に濡れた人」ではない。水そのものが対象なのだそうだ。

 マイノリティの中でもさらにマイノリティ。ぼくはそんな指向の人たちがいることすら知らなかった。



 自分とはまったく異なる価値観を持つ人の話を読むのは好きだし、それこそが小説の醍醐味でもあるとおもうのだが、『正欲』はあまりにも遠い世界すぎて最後まで入りこめなかった。

 だって水だもん。ヤギに欲情するとかならギリ理解できないこともないけど、水だよ? 無生物だよ。それどころか決まった形すらないんだよ。

 それこそがぼくが「自分と異なる価値観の人を遠ざけている」証左なんだろうけど、べつにそれでいいとおもうんだよね。

 はっきり言って、他人を理解することなんて無理だよ。ぼくはリベラル派を気取ってるけど、本音のところを言えば同性愛者は気持ち悪いとおもってるよ。決して口には出さないけど。実害があるわけじゃないからわざわざ弾劾したりはしないけど、自分から近づきたいとはおもわない。

 でもそれでいいとおもってる。おたがいさまだし。たとえばぼくは四十代のおっさんだけど、二十代の女性をエロい目で見たりする。とても書けない妄想をくりひろげたりもする。行動にはうつさないけど。

 それを気持ち悪いとおもう人もいるだろう。べつにいい。頭の中でエロいことを考える権利があるように、誰かがぼくのことを気持ち悪いとおもう権利もある。

 ただそれを口に出して「おまえ気持ち悪いよ」と言われたり、「エロいこと考えることを禁止する」とか言われたら反発する。

 こっちは迷惑をかけないようにしてるんだから、おまえもおれに迷惑をかけるな。それだけだ。流星街の掟だ。




『正欲』にこんな文章が出てくる。

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。
 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

 これはわかる。当事者でもないくせに多様性の理解とか叫ぶ人には、ある種の傲慢さを感じる。


 以前、あるニュースを見た。イギリスの放送局が日本の人形工場について取材したニュースだ。そこでつくっている人形というのはいわゆるラブドールというやつで、それも幼い女の子の形をした人形を、愛好家に向けて作っているのだ。

 それをイギリスの放送局は「こんな気持ち悪いことをしているやつらがいます! こんなことが許されていいんですか!」みたいな感じで報じていた。


 ぼくは人形愛好家ではないけれど、そのニュースを見て腹が立った。何が悪いんだ、と。

 たしかに気持ち悪いよ。幼い女の子の姿をした人形を愛して抱いているおっさんは。

 でもそんなことは当人たちだってわかってるはずだ。だからみんなこっそりやっている。こっそり買って家でこっそり楽しんでいるのだ。実際の少女に手を出したらいかんけど人形なんだから誰にも迷惑をかけていない。

 それを、森の石をひっくりかえして「うわこんなところにゴキブリがいるぜ! 気持ち悪い!」と言うように、わざわざ工場まで訪れて取材して「こんな気持ち悪い人間がいるんだぜ! どうだみんな気持ち悪いだろう!」と白日の下にさらすことで誰が得するんだよ。気持ち悪いものを見に行ってるおまえのほうが気持ち悪いよ。

 家に出たゴキブリを殺すのはふつうでも、わざわざ森にゴキブリを殺しにいくやつは異常者だ。


 差別に遭っている当事者でもないくせに多様性が大事とか言ってるやつって、そのタイプに近い。

 別に他者を理解する必要なんてない。というか理解なんかできるわけないし。

 そもそもLGBTQってなんだよ。なんでぜんぜんちがうものをひとくくりにしてるんだよ(同じ不快さをSDGsにも感じる)。「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」みたいなことだよね、LGBTQって。勝手にくくるな。


 一緒にトラウマを乗り越えていきたい?
 笑わせないでほしい。自分が抱えているものはトラウマなんかではない。理由もきっかけも何もなく、そういう運命のもとに生まれた、ただそれだけのことだ。こうなってしまった自分には何かしらの原因があって、それを吐露する場があれば何かが癒され変化するような次元の話ではない。
 そもそも、お前みたいな人間にわかってもらおうなんてこっちは端から思ってない。お前にはお前のことしかわからない。お願いだからまずそのことをわかれ。他者を理解しようとするな。俺はこのまま生きさせてくれればそれでいいから。
 関わってくるな。

 ぼくは音痴だ。ぜんぜん音程がわからない。

 他人からしたらどうでもいいことかもしれないけど、学生のときは「他人があたりまえにできていることが自分にはできない」ことがかなりのコンプレックスだった。

 当時のぼくに必要なのは他者からの理解などではなかった。「とにかくほっとかれること」だ。もしも「音痴でもいいじゃない。ぼくたちは音痴を差別しないからカミングアウトしても大丈夫だよ。さあ、一緒に歌おう!」なんて言われてたら地獄だった。 「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」なんて言われてたら最悪だった。

 別に他者のことなんてわからなくていいんだよ。危害さえ加えなければ。




 他の人があまり切り込まないテーマを扱っていて、その点ではいろいろ考えさせられるいい小説だった。

 ただ、物語としてはあんまりおもしろくなかった。

 登場人物が多いわりに、最後はわりと投げっぱなし。いやすべてきれいに決着しなくてもいいんだけど。でも、問題提起にすらなってないというか、書きかけで世に出しちゃったみたいな印象を受けた。

 そしてラスト直前の大也と夏月の口論。それまでずっと周囲に対して本心をひた隠しにしていた大也が、急に本音を赤裸々に吐露しはじめる。

 ここがそれまでの大也の言動と比べてずいぶんちぐはぐな印象。朝井リョウさんの小説にしては雑に感じたなあ。

 テーマの重さをストーリーが支えきれなかったような印象。




 いちばんぞっとしたくだり。
  採用率。その言葉は、YouTubeのコメント欄に書き込んだリクエストが採用される確率を表している。
 自分が属するフェチがマイナーであればあるほど、性的興奮に繫がるような素材は早く底を突く。何の努力もせずとも次々と〝オカズ〟が生成される同級生たちを横目に、血眼になって素材の自給自足を続けるほかなくなる。
 YouTubeのコメント欄にリクエストを書き込むという方法は、一体誰が始めたのだろうか。人間の承認欲求と特殊性癖者の性的欲求、その交点がまさか駆け出しの配信者のコメント欄であるなんて、一体誰が予見できただろうか。 『暑くなってきたら、夏らしく、水を使った企画はどうでしょうか。水風船を割れないまま何度投げ合えるか対決、ホースの水をどこまで飛ばせるか対決など、見てみたいです』
 今読み返してみれば、過去に大也が書き込んだ文面は観たい映像を引き出すためのリクエストとしてあまりに稚拙だ。もっと砕けた空気を醸し出すべきだし、そもそもこの文章の向こう側にポジティブな雰囲気の人間がいるとは想像しがたい。だけど、このコメントを読んだ小学生の配信者は、すぐにリクエストに応えてくれた。動画内で、「この企画、面白いのかなあ?」等と訝しみながらも、水を様々に操ってくれた。
 本人が気づいていないだけで、マイナーなフェチの需要に応える動画を投稿している配信者は、多い。
 息止め対決をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、窒息フェチがいる。早割り対決や膨らまし対決、セロテープ剝がし対決など、風船を使ったゲーム企画をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、風船フェチがいる。罰ゲームを電気あんまに指定しているリクエストなんて、わかりやすすぎてこちらが恥ずかしくなるくらいだ。駆け出しの動画配信者の飢餓感は、自給自足ではすぐに限界が訪れるようなマイナーなフェチに属する人間にとって、とても都合が良かった。
 そして、そのようなリクエストの対象になっているのは、大抵が十代の子どもだ。
 中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで、実は持ちつ持たれつな関係性であることを認知し合っているようで、その緊張感はひどく居心地が悪かった。一方子どもたちは、自分たちの行動がその行動以上の意味を持つ可能性に全く気づいておらず、その無邪気さはこちらの後ろ暗さを誤魔化してくれるほどだった。

 おおお。

 YouTubeのコメント欄ってこんなふうに使われるたのか……(現在は13歳未満のチャンネルはコメント欄が使用できないらしい)。

「中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで」と書いてあるけど、「もっと脱いでほしい」とかならともかく「水中息止めチャレンジ」や「風船ふくらまし対決」をリクエストされて、それがフェチズムを満たす要求だと気づけるだろうか。ぼくだったら気づかない。

 知りたくなかったな。知らなきゃなんともおもわなかったけど、知ってしまった今となっては水や風船を使ったゲームを見るたびに「これで昂奮してる人もいるのか……」と考えてしまう。


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2025年5月27日火曜日

半径1メートルの世代論

 ある報道番組で、氷河期世代の特集をしていたらしい。

 そこに、氷河期世代のタレント二人がゲストとして出演して、「私たち氷河期世代の生きづらさ」を語っていたそうだ。

 番組は観ていないのだが、「自分の言葉として世代の苦しみを語ってくれていてほんとによかった!」という感想が多くSNSに投稿されていた。


 うーん……。

 番組を観ていないのでどんな番組だったかわからないが、その感想を見るかぎりは建設的な意見につながるとはおもえないなあ。

 アメトーークだったら「ぼくたち氷河期世代ってこんなにつらいことだらけなんですよー」「はい次、氷河期世代あるある~!」でいいんだけどさ。

 

 ゲストが「私たち氷河期世代の生きづらさ」をどれだけ語っても、それって結局「私の生きづらさ」、せいぜい「私と仲のいい数人の友だちの生きづらさ」じゃん。

 それはそれで価値がないとはおもわないけど、世代論ではないよね? だってあなたはあなたの世代しか生きたことがないんだから。


 人が「私たちの世代は大変だった」と語るときって、たいてい「私やその周りの人たち」と「他の世代のうまくいっている人たち」を比べてるんだよね。

 だって、うまくいっている人には、他の世代の「何もかもうまくいかなかった人たち」は見えないもの。


 同世代であればいろんな人の姿を見える。百社受けて全部落ちた一つ上の先輩。就職できずにずっと非正規で働いている同級生。引きこもっているらしいと噂で聞いたかつてのクラスメイト。精神を病んで自殺してしまった友人。

 自分の体験と知人の話を総合すれば、「つらい世代」エピソードはいくつも出てくるだろう。


 十歳上、あるいは十歳下の世代はどうだろう。「何もかもうまくいかなかった人たち」をどれぐらい知っているだろう。

 たぶん、(そういう人と関わる仕事をしていなければ)ほとんど知らないはずだ。なぜなら、“自分と歳の離れた引きこもり”は姿が見えないし噂にも聞かないからだ。

 我々がふつう関わる歳の離れた人は、自分と近い仕事をしている人だったり、誰かの親だったり、同じ趣味を楽しんでいる人たちだ。

 仕事や家族や趣味を通して他者とかかわる余裕のある人たちなんだから、ほとんどは「まあそれなりにうまくやっていけている人たち」だろう。


 だから我々は「自分たちの世代はつらかった」「他の世代はもっと楽に生きられた」とおもってしまいがちだ。実際にはどの世代にもそれぞれの苦しさがあるのに。

「あの世代は良かった」というとき、その世代のずっと孤独のまま死んでいった人たちのことは想像すらしないのだ。


 氷河期世代がつらくないとは言わない。

 でもそれは数々の統計的事実から明らかにすべきことであって、個人の「つらかった話」をいくら集めても世代論にはなりえない。


 その世代のタレントを呼んでつらかった思い出を語らせるのには、気の毒コンテンツとして楽しむ以外の効果はないんじゃないかなあ。


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2025年5月23日金曜日

【読書感想文】川上 和人『無人島、研究と冒険、半分半分。』 / スペシャリストたちが結集

無人島、研究と冒険、半分半分。

川上 和人

内容(e-honより)
鳥類学者(川上和人) VS 南硫黄島(本州から約1200kmの無人島)。闇から襲いくる海鳥!見知らぬ、斜面。血に飢えたウツボ!史上最強の冒険が、今はじまる。

 鳥類学者が南硫黄島と北硫黄島を研究調査のために訪れた記録。

 以前別の本(『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』)を読んだときもおもったけど、文章がいちいちおもしろい。

 そういう目で周囲を見回してみると、崖のほど近くには角張った石がたくさん落ちている。もちろん調査隊員たちは、熟睡しながら寝返りをうって偶然落石を避けるイメージトレーニングもしてきているが、おそらく役に立つまい。テントは、崖下から一定の距離をとって設置するのが無難である。
 さて、テントを張ったはいいが、薄いシートの下はゴロゴロの玉石である。しかも、玉石は昼間の灼熱の太陽でアッツアツに熱されている。こんなところで寝たら、遠赤外線でじっくり美味しくグリルされ、注文の多い料理店南硫黄島支店が初出店してしまう。
 「おーい、ミナミイオウえもーん。たすけてよー」
 てってれー。
 「おりたたみベッドー!」
 島の環境は事前に把握していたため、我々はキャンプ用の折り畳みベッドを島に持ち込んでいた。一つのテントに二つのベッドを入れ、即席ツインルームを作る。
 南側から登ってきた私たちは北側を知らない。南半球だけを訪れてコアラに満足して地球を知ったつもりになった火星人のようなものだ。
 北半球にパンダがいるとも知らずに一生を終えていくとは哀れな火星人である。彼らの二の舞になるわけにはいかない。


 こういうギャグってえてして読んでいるとうすら寒くなるんだけど、その点、研究者は得だ。

 ふざけた文章でも、読んでいて「そうはいってもこの人の本職は研究者だもんな。余技としてふざけてるけど、まじめに研究もしてるんだろ。おもしろい人だな」と軽く受け止められる。

 プロのエッセイストの文章だと「この人はおもしろおかしい文章を書くのが仕事だから、なんとかして笑わせようと必死にふざけてるんだな」という魂胆が見えてしまって笑えない。

 そのへんのおじさんがバナナの皮ですべって転んだらおもしろいけど、プロの芸人が舞台の上で同じことをやっても笑えないのと同じだ。

 ぼくが文章を読んでおもしろいとおもうのは、研究者や歌人や翻訳者など、プロの作家・エッセイストでない人ばかりだ。文筆業の人の文章に対しては知らず知らずのうちに身構えているのかもしれない。




 この本の前半は小笠原諸島にある無人島・南硫黄島を訪れた記録であり、中盤は、そのすぐ近くにある北硫黄島の探索記、そして後半は最初の訪問から10年後に再訪したルポである。

 南硫黄島も北硫黄島も近い場所にある小さな無人島だが、その二島には決定的なちがいがある。北硫黄島にはかつて人が住んでいた(最大でも人口200人ほど)のに対し、南硫黄島のほうは有史以来ほぼずっと無人島(漂着して一時的に滞在していた人がいる程度)だったことだ。

 なので、この二島人が住んだことのない島に住む動物を比較すれば、「人間が生態系に与える影響」がわかるわけだ。


 これがおもしろい。

 基本的に人間は、「人間の影響を受けた自然」しか観察することができない。人間が行けない場所は観察できないのだからあたりまえだ。

 南硫黄島は、ほとんど人間の影響を受けていない。人は住んでいないし、ふだんは立入禁止の区域である(著者たちは特別な許可を受けて入島している)。そうでなくても、本土から1,000km以上離れているのでわざわざ訪れる人はまずいないだろう。

 そして周囲を海に囲まれているので哺乳動物も渡ってこれない。

 環境に大きな影響を与えるのは、実はネズミらしい。かつて自然豊かな島だったイースター島の森林が消滅したのは、人間の活動と、人間についてきたネズミのせいだそうだ。天敵のいない島で爆発的に増えたネズミが木の実を食べ尽くしてしまったのだとか。

 南硫黄島とよく似た地形でありながらかつて人が住んでいた北硫黄島にはネズミがいる。船に乗りこんでついてきたからだ。本来島にいなかったネズミの活動により、植生が変わったり、観測できる鳥の分布も変わったのだそうだ。地面近くに巣をつくる鳥は、ネズミがいる島ではヒナを食べられてしまうので生息できないのだ。

 人間がやってきたことで動物が絶滅したなんて話を耳にするが、人間が捕獲しすぎたからという理由だけでなく、人間が(意図しようとしまいと)連れてきた動物によって滅ぼされたというケースもあるのだ。

 惑星探索をするときは、宇宙船の中にネズミがいないかよく調べないといけないね。宇宙人を滅ぼしてしまわないように。




 南硫黄島と北硫黄島を探索しているのは鳥類学者の著者だけでない。昆虫の研究者、植物の研究者、カタツムリの研究者などが集まり、プロの登山家やNHKの撮影班などが加わり、探索チームを結成しているのだ。

 かっこいい。

 こういうの、あこがれるなあ。各分野のスペシャリストたちが結集して、それぞれが強みを生かして活躍する。ときにはそれぞれの目的に向かい、ときには力をあわせ、チームを高みへと導く。

 しびれるなあ。『七人の侍』みたいだ(観たことないけど)。


 ふつうは夜飛ぶオオコウモリが南硫黄島では昼間に飛ぶ、という話。

「じゃぁ、なんでこんなに昼間によく飛ぶんだろね。父島でも北硫黄島でも、こんなに昼間に飛んでることはないよね」
 いろいろな島でオオコウモリを見てきたハジメがそう言うのだから間違いない。
「捕食者がいないからじゃないですかね。父島にはノスリがいるし、北硫黄島では絶滅しちゃったけど昔はシマハヤブサがいたじゃないですか。でも、南硫黄にはシマハヤブサの記録もないし、昼間にも安全だから夜行性の縛りから解き放たれたってことで」
 これは鳥の研究者としての私の意見だ。
 シマハヤブサはハヤブサの亜種で、火山列島に固有の鳥だ。過去には硫黄島と北硫黄島にいたが、人間が入植してから絶滅してしまった。一方で南硫黄ではシマハヤブサの記録はない。この島には人間が影響を与えていないので、もしいたとしたら生き残っているはずだ。しかし、前回調査でも今回調査でも確認されていないので、もともといなかったと考えるのが合理的だ。私は捕食者不在説を唱えたが、ハジメの意見は違った。
「それよりも、食べ物が少なくて夜だけじゃ十分に食べられてないんじゃないかな。だから昼にも食物を探してるんだよ、きっと。さっき歯がボロボロだったじゃない。あれは、よほど食べ物がなくて、父島じゃ食べないような硬いもの食べてるんだよ」
 確かにそうかもしれない。
 オオコウモリは果実を好む動物だ。しかし、この島ではオオタニワタリというシダの葉にまで彼らの噛み跡があった。もちろん葉っぱは果実より栄養価が低い。食物が十分にある父島では見られない光景だ。こんなものまで食べるということは、相当に食物が不足しているのだろう。
 ただし、捕食者不在と食物不足は互いに相容れないものではない。両方とも正解ということにしておこう。
 食事をしながら議論をするのは楽しい。そして議論は調査地でするに限る。なぜならば生物の進化や行動は、それぞれの環境の中で育まれてきたものだからだ。

 コウモリの研究者と鳥の研究者。専門分野はちがえど、それぞれが知見を出しあうことで活発な議論が生まれる。他分野の専門家と話すことで、おもいがけないひらめきが得られることもあるだろう。

 すばらしい環境だ。

 マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』によれば、シリコンバレーでハイテク分野のイノベーションが次々に生まれたのは、会社同士の横のつながりがあったからだという。別分野の専門家たちが接することで多様な視点からのアイデアが生まれ、イノベーションに結びついたのだそうだ。

 南硫黄島のような場から偉大な発見が生まれるのだろう。

「いかにもすぐ金になりそうな研究」じゃなくてこういうところに国の金を使ってくれ!


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2025年5月21日水曜日

小ネタ36 (サクマドロップ / 超能力戦士ドリアン / 高校生になってラグビーを始めたジャイアン)

サクマドロップ

 サクマドロップには2種類の味がある。「ハッカ」と「ハッカじゃないやつ」だ。


超能力戦士ドリアン

 妻に「超能力戦士ドリアンのライブに行ってくる」と言われた。まったく知らなかったが、そういう名前のバンドがいるらしい。

「地球儀持ってライブやるんでしょ?」と訊いたら「それは宇宙海賊ゴー☆ジャス」と的確にツッコまれた。結婚して10年以上たつとここまで心が通いあうのだ。


高校生になってラグビーを始めたジャイアン

「ALL FOR ONE, ONE FOR ONE」


2025年5月14日水曜日

レベルアップがゲームの醍醐味

 ロールプレイングゲームで、ゲーム中盤で仲間が追加されるイベントが発生することがある。

 そのとき、仲間のレベルが高いとがっかりする。加入した時点でLV30とか。


 やめてくれよぉ。

 制作者は「ここで弱いやつを入れても足手まといになるだろうしレベル上げ大変だろうからLV30にしといたるわ」って感じなのかもしれないが、余計なお世話だ。LV1にしてくれ!

 RPGの楽しさはレベル上げなんだよ。


 現実世界では、スポーツでも楽器演奏でも勉強でも、なかなかレベルは上がらない。何ヶ月も続けていけばレベルは上がっているが、それは「いつのまにか」であって、「おっ、今おれレベル上がった!」という瞬間はそう訪れない。

 たとえば野球で「カーブを投げる」という目標に向けて練習するとする。

「曲がらんなあ」

「あれ今ちょっと曲がった気がする」

「けっこう曲がった……かな?」

「あ、今のは失敗」

「ちょっと曲がったけどぜんぜんストライク入らねえ」

「曲がってる!」

みたいな感じでグラデーション的に成長していく(ときには後退することもある)ので、はたしてどの時点をもって「カーブを習得した」と言えるのかよくわからない。

 でもゲームなら「ピロリロリン♪ やった!大谷はカーブを習得した!」みたいなメッセージがあって、そこからは自由自在に投げられるようになる。このわかりやすさこそがゲームの魅力だ。



 その楽しさをいちばんわかりやすく味わえるのがロールプレイングゲームだ。

 レベルが数値化されていて、レベルが上がればパラメータも変化して、レベル以外にも武器の強さとか魔法のパワーとかも数字でわかって、自分の分身が成長していることがはっきりわかる。

 レベル上げこそロールプレイングゲームの醍醐味だ。

「LV30で加入してくる仲間」はその楽しさを奪っている(あとゲームスタート時に主人公のレベルが5とかになってるやつも意味わかんない。序盤にレベルが下がることはまずないんだからスタートは1でいいだろ)。


 ぼくが大好きなのは、「中盤で加入してくるレベルの低いやつ」だ。

 たしかにレベルが低い仲間は足手まといだ。戦力にはならないし、それどころかどんどん回復してやらないとすぐ死ぬし。

 その代わり、敵を倒したときはぐんぐんレベルが上がる。一気に2以上もレベルアップすることすらある。ドラクエの「てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪」が鳴りやまないときなんて、最高に楽しい。



『ポケットモンスター』が人気になった要因のひとつが、実はこの「レベル上げの快感をいっぱい味わえること」なんじゃないだろうか。

 ふつうのRPGならレベルが上がるのはせいぜい数百回だ。4人のキャラクターが1→100までレベルアップしたら、99×4で396回。じっさいはLV99まで上がらないこともあるし、前述したようにLV30から加入するやつもいたりするから、もっと少ない可能性もある。

(最近のゲームをやってないので昔のRPG基準で話してます)


 一方、『ポケットモンスター』では100を超えるポケモンを仲間にできるので、それぞれ育成させれば合計で数千、数万回もレベルアップする。

 さらにパラメータの上昇だけでなく「わざをおぼえる」や「しんか」といった、わかりやすい成長イベントも発生。

『ポケットモンスター』はレベルアップを楽しむためのゲームなのだ。



2025年5月13日火曜日

【読書感想文】村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』 / とりとめのない話をとりとめもないままに

回転木馬のデッド・ヒート

村上春樹

内容(e-honより)
現代の奇妙な空間―都会。そこで暮らす人々の人生をたとえるなら、それはメリー・ゴーラウンド。人はメリー・ゴーラウンドに乗って、日々デッド・ヒートを繰りひろげる。人生に疲れた人、何かに立ち向かっている人…、さまざまな人間群像を描いたスケッチ・ブックの中に、あなたに似た人はいませんか。

「著者が体験した、または知人から聞いた、小説にするほどでもないとりとめのない話」をつづった短篇集。

 うん、たしかに「とりとめのない」という言葉がしっくりくる。スリリングな展開も鮮やかなオチもストーリーから導かれる教訓もない。

 それでも読めるのは村上春樹氏ならではだよな。なんてことのない文章なのに、読んでいて退屈しない。というか村上春樹作品ってだいたいそんな感じだし。『回転木馬のデッド・ヒート』よりは起伏があるけど、山場というよりは丘といった程度。



 前書きがあまりに「村上春樹っぽい」文章で、おもわず笑っちゃった。

 他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことであ我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
 事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
 少なくとも僕はそう考えている。

 うーん、村上春樹だなあ。いい意味でも悪い意味でも。

 このまどろっこしさよ。個人的には嫌いじゃないぜ。ビジネスの場で部下がこんな文章を書いてきたら「ふざけんな」と言うけど。




 八篇の「とりとめのない話」が収録されているが、ずっと退屈なわけではない。

 望遠レンズを使って好きな女の子の部屋をのぞいたり、毎日毎日嘔吐をくりかえしたり、両親が離婚したり、金をもらって行きずりの男と寝たり。

 めずらしい出来事が語られる。でも、ただそれだけなのだ。

「Aが起こったのはBが原因だったのです」とか「Aの結果、Cになってしまいました。Aをすべきではなかったのです」とかいったオチが用意されているわけではない。「Aが起こりました。おしまい」なのだ。

 起承転結の結がない。起・承・転・承みたいな感じでぬるっと終わる。


 これって逆にむずかしいんじゃないだろうか。

 人間って、物語が好きなんだよね。歴史的事実やスポーツニュースや政治を語るときでも、ついついそこに“物語”を求めてしまう。

 あの政治家がこんなことをしたのは〇年前に苦い思いをさせられたことの意趣返しだ、とか。苦節〇年のベテラン選手が期待のルーキー相手にプロの洗礼を浴びせた、とか。地震で誰かが命を落としたといったニュースにも、なぜ死ななきゃならなかったのかとか、死んだ人には幼い子どもがいて……みたいなストーリーを求める。「地震があった。死んだ」だけでは納得せず「〇〇だから死んだ」「〇〇なのに死んだ」といったお話を付与したがる。

 ストーリー仕立てにしたほうが記憶が定着しやすいとかのメリットもあるけど、物語は事実をゆがめてしまう原因にもなる。


『回転木馬のデッド・ヒート』は、見聞きしたとりとめのない話を、とりとめもないままに小説にしている。

 これって、かんたんなようで実はけっこうむずかしいことをやっているのかもしれない。

 

 ただ読んだ人の印象には残らないけどね。ぼくは数日前に読み終わったけど、もうどんな話だったか忘れかけてるもの。


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2025年5月12日月曜日

小ネタ35 (オヤジギャグ)

オヤジギャグ・1

 50代男性が「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど」と言っていて、そのザ・オヤジギャグに感心してしまった。

 丁寧に解説をすると

  • 「若者言葉のワンチャンをわからない自分」を俎上に上げて楽しんでいる
  • くだらないダジャレ
  • 今思いついたのではなく何度か口にしているかのようにすらっと出てきた
  • 2ちゃんというのが絶妙に古い。2ちゃんねるが5ちゃんねるになったことには対応していない

と、これぞオヤジギャグという点が目白押しだ。


オヤジギャグ・2

 ところで最近オヤジギャグという言葉をあまり聞かなくなった。最近のオヤジはあまりダジャレを言わない気がする。

 少し前(といっても二十年前ぐらい。ぼくもオヤジなので二十年前は少し前なのだ)は「オヤジってすぐダジャレを言うよね。キモ~い」みたいな風潮があったのだが、「ダジャレを言うオヤジは嫌われる」という意識が浸透しすぎたからだろうか。

 それとも「1950年代のオヤジが特別にダジャレを好きだった」といった世代の特徴だったのだろうか。

「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど~」のオヤジはいまや絶滅危惧種かもしれない。国を挙げて保護したほうがいい。


オヤジギャグ・3

 作業着をだましとったとして詐欺容疑で逮捕。


2025年5月9日金曜日

【ボードゲームレビュー】もじあてゲーム あいうえバトル

もじあてゲーム あいうえバトル 

内容説明(Amazonより)
50音の中から1文字ずつ攻撃して相手の言葉を推理する文字当てゲーム!
1文字ずつ攻撃して言葉を推理! みんな、なんて書いた?
相手の文字を全部当てろ! だんだんと明かされる文字。あの言葉はいったい何!?

お題から思いついた言葉を書いてまわりに見えないように置き、順番に1文字ずつ攻撃して当て合います。少しずつわかってくる文字から相手の言葉を予想して、すべての文字を攻撃しましょう。当てる推理と当てられるスリルが楽しいゲームです。


 こういうゲーム大好き! 言葉系のゲーム好きなんだけど、意外と多くないんだよね。なぜなら言葉系のゲームって紙とペンさえあればできるものが多いから。商品化しにくいんじゃないだろうか。

 ぶっちゃけると、この『あいうえバトル』も紙とペンがあればできてしまう。でも『あいうえバトル』についている「立てられるホワイトボード」があったほうが圧倒的に遊びやすい。ボードゲームとしては安めなので、なるべく買いましょう。


 ルールは以下の通り。

  1. お題(例:飲み物)が出され、各自7枚のプレートにお題にあう2~7文字の言葉を書く。濁点、半濁点は書かない。7文字に満たない分は「×」と書く。
    (レモネードなら「れもねーと××」と書く)
  2. プレートは自分だけが見えるように並べる。
  3. プレイヤーは順番に、五十音を一字ずつ宣言する。宣言された文字が書かれていた場合、そのプレートを公開する。
  4. 公開されたプレートを見て、他のプレイヤーがどんな単語を書いたか当てる。
    ただしわかっても口にしてはいけない。「×」を除くすべてのプレートが公開されたら負け。
  5. 最後まで残っていたプレイヤーが勝ち。


 ルールはだいたいこんな感じ。2~5人で遊べて、1ゲーム5~10分ぐらいで手軽に楽しめる。11歳の娘と遊んでいたのだが、横で見ていた6歳の娘も(説明を聞かなくても)すんなりルールを理解できた。

 6歳が傍で見ているだけで理解できるのだから、相当かんたんなルールだ。


 よくできているのが、「2~7文字の範囲であれば何文字の単語でもいい」というルール。

 最初にこれを見たときは「文字数が少ないほうがあてられる可能性が低くなるんだから有利じゃないか?」とおもった。ところがやってみてわかった、そんな単純なものではない。

 たしかに文字数が少なければ他プレイヤーに与える情報も少なくなるので、当てられにくくなる。
 だがここで効いてくるのが“「×」を除くすべてのプレートが公開されたら負け”というルール。文字数が多ければ、すべて公開されるまでにターン数を稼げるのだ。

 たとえばお題が「飲み物」で「かしすおれんじ」と書いていたとする。

「かし?お???」が公開されて、敵に「“かしすおれんじ”だな」とバレたとしても、そこからすべての文字が公開されるまでには最短でも4ターンかかる。その間に敵の文字をすべて公開してしまえば勝てるのだ。

 娘とやったときにこんなことがあった。「楽器」というお題で、ぼくは「ひあの(ピアノ)」と書いた。偶然にも娘もピアノを選んでいた。ただし娘が書いたのは「くらんとひあの(グランドピアノ)」。

 当然、勝ったのは娘のほう。すべてのプレートをめくるのに時間がかかるから。

 当てられにくい短い単語を書くか、すべて公開するまでに時間を稼げる長い単語を書くか。当てられたら終わり、ではないからこそ生まれる駆け引きだ。

    


「他人の書いた単語を当てる」だけでなく「自分の書いた単語を当てられないようにする」も重要だ。

 敵が「あ」を使っているかどうか気になる。だが「あ」と言うと、自分が書いた「あ」のプレートを公開しないといけない。だから言いたいけど言えない……。

 この心理を利用して、相手のプレートを推測することもできる。前半は「よく使われる文字を挙げる」のがセオリーだ。ん、ー、う、い、よ、ゆ、か、などがよく使われる文字だ。なのに誰も「ん」と言わない。ははあ、たぶん「ん」が含まれているな、とわかるわけだ。」


 このセオリーが定着すると、あまり使われない文字を使うと勝率が高まる。へ、ぬ、などはあまり使われないので、当てられにくい。

 だがこれも諸刃の剣で、「ぬ」が公開されてしまった場合に不利になるという弱点がある。一文字目が「ぬ」だったりすると、「ぬ」で始まる単語は少ないので、容易に答えを推測されてしまうのだ。



 シンプルなルールながらけっこう奥が深い。気軽に遊べて、長く遊べる。

 いいゲームだ。


 ちなみに6歳児はまだ日本語表記があやしい(バレーボールを「はーれほーる」と書いたり、氷を「こうり」と書いたりする)ので、「3文字目に“ー”と書いているがほんとは2文字目か4文字目に書く単語かもしれない」といったところまで読むことが必要になってくる。


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2025年5月8日木曜日

【読書感想文】エドワード・ブルック=ヒッチング『世界をまどわせた地図』 / 欲は地図をゆがませる

世界をまどわせた地図

エドワード・ブルック=ヒッチング(著) 関谷冬華(訳) 井田仁康(日本語版監修)

内容(e-honより)
本書で紹介する国、島、都市、山脈、川、大陸、種族などは、どれもまったくの絵空事だ。しかし、かつては実在すると信じられていたものである。なぜだろう?それらが地図に描かれていたからだ。神話や伝承として語り継がれていたものもあれば、探検家の間違いや誤解から生まれたものもある。なかには、名誉のため、あるいは金銭を集めるための完全な“でっち上げ”すらある。そのような幻の土地や国、島々は、20世紀の地図にもたびたび登場し、現代のグーグルマップにまで姿を現した。130点を超える美しい古地図と貴重な図版・写真とともに、人々を翻弄した幻の世界を読み解いていこう。

 小川哲『地図と拳』で参考文献に挙げられていておもしろそうだったので読んでみた。


 ほんとは存在していないのに地図に描かれていた国、島、都市、山脈、川、大陸、種族を紹介する本。

 といっても、ほとんどが島だ。ま、地続きだったら比較的行きやすいからすぐわかるもんね。海の上ならかんたんに行けないし、目印が少なく海流があるので思いもよらないところに行ってしまうので、誤認することも多いのだろう。


 存在しないものが地図に描かれる理由は勘違いやミス(地図を描くときの間違いや誤字)だけではない。

 名声欲しさに行ったことにするため、島を発見したことにして探検のスポンサーの名前をつけて次回探検の資金を集めるため、画家のちょっとしたいたずら(『地図と拳』で書かれていた“画家の妻の島”)など、故意に島がつけくわえられたケースも紹介されている。

 もしかすると、ほんとに存在していたけど地殻変動で消滅した島もあるかもしれない。島の消滅や誕生はときどき起こるらしいから。

「存在しない地形が地図に載ってしまった」は測量技術が未熟だった時代だけの話ではなく、21世紀になってからも「存在しない島がGoogleマップに載ってしまった」なんてことも起こっているのだとか。人工衛星で計測しててもミスは起こるんだな。


 大きな問題になったのが、メキシコ湾に存在するとされたベルメハという島。

 この島があるのとないのでは、メキシコの排他的経済水域が大きく変わってくる。そのため、どうやら存在しないらしいとわかってからも「あるはず!」という声が消えることはなかった。

 ベルメハの「消失」をめぐっては、気候変動に伴う海面上昇や海底地震など様々な説が浮上している。しかし、メキシコの上院議員のグループは2010年に、「誰にも気づかれることなく大きな自然の力が発生するとは考えられない。まして、220億バレル以上の石油が埋蔵されている地域で起こった大規模な自然現象に気づかないことはあり得ない」という声明を発表している。
 広く信じられているもう一つの説は、米国が油田の権利を手中に収めるために、米国の中央情報局(CIA)の手で島全体を破壊させたとするものだ。2000年11月には、メキシコの与党である国民行動党(PAN)の上院議員6人が、島が意図的に消滅させられた可能性について「濃厚な疑い」があると議場で発言した。1998年、PAN党の議長ホセ・アンヘル・コンチェロは、ベルメハ島が実在する可能性を追求するためにさらなる調査を要求した。その直後、車で連れ去られたうえに殺害され、犯人が捕まらなかったため、陰謀説はさらに広まった。コンチェロは、当時のセディージ政権が試掘権を米国企業に譲り渡そうと秘密の計画を立てているとも警告していた。
 結局、島はどうなったのだろうか。メキシコ国立自治大学のハイメ・ウルティアとメキシコ国立工科大学のサウル・ミランは、ベルメハほど大きい島を消し去るには水素爆弾が必要という結論を出した。ミランは、島が破壊されたのではなく、海の下に隠された可能性を指摘した。米国政府が何らかの方法でこっそりと海面下まで島を削ったのではないかというわけだ。
 メキシコ国立自治大学の地理学者イラセマ・アルカンタラは、ベルメハ島の存在を熱心に擁護し、取材陣にこう語った。「私たちはベルメハの存在について非常に正確な記述がある文書をいくつも見てきました。(中略)ですから、場所は違うかもしれませんが、私たちは島が存在することを固く信じています」

 アメリカが島を破壊した、あるいは削ったのではないかという説を信じる人も少なくなかったのだ。

 どれだけ科学技術が発達しても「信じたいものを信じる」という人間の習性はなかなか変えられないね。




 いちばんおもしろかったのは、スコットランドのペテン師グレガー・マグレガーの話。

 マグレガーは存在しない「ポヤイス」という国の話をし、そこに投資をする人たちを募集した。

しかも、彼の新たな母国の話ときたら! 天然資源が豊富な800万エーカー(320万ヘクタール)ほどのたいへん美しくよく肥えた土地があり、作物を育てれば豊作まちがいなし、海では魚も食用になるカメも豊富にとれる。町から少し離れれば狩りの獲物もどっさりいる。また、川は「純金の粒」でいっぱいだというのだ。さらに、この国を売り込むための案内書『モスキート・コーストの概要:ポヤイス国とはどんな場所か』(1822年)も出版され、理想郷の全貌や「巨額の利益を生む可能性がある、アルブラポイヤーなどの国内の非常に豊かな多数の金鉱」についてもくわしく紹介された。しかし何といってもきわめつけは、ささやかな金を出せばその楽園の一部が自分のものになるというところだった。
 たったの2シリング3ペンスでポヤイス国の土地1エーカー(0.4ヘクタール)があなたのものになります、とマグレガーは話に夢中になっている聴衆に語りかけた。ということは、11ポンドちょっとの金をかき集めれば、100エーカー(40ヘクタール)もの土地が手に入るわけだ。ポヤイス国は腕のいい働き手を必要としている。材木はたっぷりとあり、大きな商売ができる可能性がある。土地にしっかり手を入れれば、大地は豊かな恵みを与えてくれるだろう。イギリスで暮らす金額に比べればわずかな金で、王族並みの暮らしができるかもしれない。
 (中略)
 1822年9月10日、期待に胸をふくらませた70人の乗客と、十分な補給品と、スコットランド銀行の印刷機で刷られた(向こうで金や法定通貨と交換できるはずの)ポヤイスドルがいっぱいに入った金庫を乗せて、ホンジュラス・パケット号はポヤイス国に向けてロンドンの港を離れた。
 ポヤイス国行きの船を見送ったマグレガーは、その足でエディンバラとグラスゴーに行き、今度はスコットランド人を相手に同じ話をした。(中略)2度目の募集でもポヤイス国の土地は完売し、移住地に向かう船は今度も満員になった。1823年1月14日、200人を乗せたへンリー・クラウチ船長のケネルスレー・キャッスル号は、ホンジュラス・パケット号で一足先に新天地に向かった人々と合流すべく、スコットランドのリースの港を後にした。
 だが、目的地にたどり着いた移住者たちはひどく困惑した。彼らが目にしたのは、文明のかけらもない未開の密林と、マラリア病の発生源になりそうな沼地ばかりだった。ポヤイスという国も、豊かな土地も、文明化された都も存在しない。彼らは狡猾な夢想家に騙されたのだ。母国に帰るすべもなく、夢破れた移住者たちは補給品を船から降ろし、海岸で野営するほかなかった。4月になっても状況はまったく変わらなかった。町は1つとして見つからず、助けが来る様子はなく、野営地は絶望に包まれた。病気が広がり、1ヵ月のうちに8人の移住者の命が奪われた。「王女御用達」の座を約束された靴屋は再び家族に会う望みを絶たれ、銃で自らの頭を撃ち抜いた。

 存在しない「ポヤイス国」へと旅立った270人のうち、無事に帰ってくることができたのは50人にも満たなかったそうだ。

 ちなみにマグレガーはフランス→ベネズエラへと逃亡し、最期まで罰を受けることはなかったのこと。

 そのスケールの大きさに目を見張るが、やっていることは古典的な詐欺の手口だよね。「〇〇は確実に値上がりする。あなたにだけ特別に安くお売りします」と持ちかけて、二束三文の土地/物件/株券を売りつけ(あるいは売るふりをして)、お金を持って逃げる。

 何度も聞いたことのある、典型的な詐欺の手口だ。売るものは海の向こうの土地だったり造成予定地だったり火星の土地だったりするけど、基本的なやり口は変わらない。

 それでも人は騙されるんだなあ。欲はものの見方も地図もゆがませる。


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2025年5月7日水曜日

小ネタ 34 (説明しすぎる安西先生 / 説明しなさすぎる三井寿 / 宇宙船ドッキリ)

 

説明しすぎる安西先生

もう勝てないと諦めて逆転に向けて努力することをやめたらもう逆転することはないだろうからその時点で勝敗は決まってるようなもので、それってつまりそこで試合終了したのと同じだと言っていいとおもいますよ。


説明しなさすぎる三井寿

したいです……したいです……したいんです……したいんですよ……したいんですってば! だ・か・ら! したいんです!!


宇宙船ドッキリ

 宇宙船の乗組員になったらやりたいこと。ネジをひとつ船内に転がしておく。

 無重力になったらネジがふわふわと漂ってきて、「どこのネジが外れたんだ!?」とみんながパニックになるだろう。



2025年5月1日木曜日

【カードゲームレビュー】アップんダウン

アップんダウン

内容説明(Amazonより)
「アップんダウン」はモザイクゲームズがデザインしたオリジナル・カードゲーム。1から100までの数字カードと8枚の特殊カード、合わせて108枚のカードで構成されています。
ルールはとても簡単です。親は全員に5枚のカードを配ります。手番のプレイヤーは5枚の手札から1枚を場に出し、山札から1枚を補充します。つまり手札は常に5枚で変わりません。手札から出すカードは前の人の出した数字より大きな数のカードでなければなりません。ただし、1の位の数字が前と同じカードがあれば、小さな数字に下げることもできます。出せるカードが無い人はゲームから脱落します。こうして最後にひとり残った人がゲームの勝者です。それだけの単純なルールなのに、とてもスリリングなゲーム展開が味わえます。
1から100までの数字が読める人なら、年齢・言葉の違い・障がいのある無しを問わず誰でもすぐに遊ぶことができます。初心者向けの基本ゲームのほか、ギャンブル要素を盛り込んだ上級ルールや、パズル要素のある協力ゲームもあります。ぜひ「アップんダウン」をあなたの遊びのコレクションに加えてください。

 ルールは非常にシンプル。

「1~100のカードの中から5枚ずつ所持する。前の人が出したカードより大きいカードを出さなくてはならない。ただし1の位が一緒であれば小さいカードでも出せる(99の後に9を出す、など)」

 あと「パス」「逆回り」「自分以外の誰かを指名してその人の番にする」の特殊カードもある(2名でプレーするときはこれは全部同じ効果になる)。


 いろんなカードゲームで遊んだけど、ここまでシンプルなルールもめずらしい。六歳の娘でもすんなり理解できた。それでいて、かなり奥が深い。じっくり考える余地がある。


 また、ルールはほぼ一緒だが、3種のゲームが楽しめる。

 基本的な対戦ゲーム『ベーシック』

『ベーシック』とほぼ一緒だがチップを賭ける『キャリーオーバー』

 プレイヤー同士で協力してカードを使い果たすのを目指す『カルドサック』


 うちの家では、主にカルドサックをやっている。ちなみにカルドサックとはフランス語で「袋小路」の意味らしい。なんでこれだけフランス語なんだ。

 このゲーム、対戦にはあんまり向いてないんだよね。なぜなら運次第で一瞬で決着がついてしまうことがあるから。たとえば最初の人が「100」を出したら、次の人は下1桁が「0」のカードか特殊カードを持っていなければその時点で負けてしまう。カードを1枚も出すことなく。

 これはつまらない。なのでもっぱら、みんなが長く楽しめるカルドサックを遊んでいる。


 カルドサックの目標は、108枚のカードをすべて場に出すことだ。他のプレイヤーの手札を見ることもできる。

 公式ルールでは相談禁止となっているが、うちでは相談アリにしている。それでもむずかしい。何度かやったが、108枚すべて出し切ったことは一度もない(最高は107枚!)。

 パーフェクトを目指そうとおもったら、これまでに出したカードを覚えておく必要がある。「まだ97が出てないから7を置いといても大丈夫だな」みたいに。それかよっぽど運に恵まれるか。

 パーフェクトはかなりむずかしいけど、何度かやっていたら残り10枚ぐらいまでならなんとかなる。数手先まで読む力が鍛えられる。


 間口が広くて、奥が深い。

 理想的なゲームだ。誰でも遊べてずっと遊べる。


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ハンバーガーの値段、牛丼の値段

 ぼくが高校生のとき、マクドナルドのハンバーガーは59円だった。デフレどまんなかの異常価格だ。

 高校生といえば、行動範囲が広がって外食の機会は増え、けれど金がない時代。マクドナルドにはお世話になった。


 それもあって、ハンバーガーといえばいちばん安くて59円、トッピングをしてもせいぜい200円か300円ぐらいのもの、という“基準”ができてしまった。

 この“基準”はかなり長いこと残った。さらにマクドナルド以外にも適用されて、専門店の「ハンバーガー1,000円」なんて値段表示を見るたびに「200円か300円ぐらいで買えるハンバーガーに1,000円も出すなんて!」という気持ちになった。

 そのくせ、洋食屋の「ハンバーグ&パンのランチセット」だと1,200円であっても高いとはおもわない。ちょっとした洋食屋でランチを食べたらそんなもんだろうな、という気になる。

「ハンバーガー」も「ハンバーグ&パンのランチセット」もほとんど同じものなのに、前者は“マクドナルド基準”が適用されて「200円か300円ぐらいが相場」とおもってしまう。


“基準”は牛丼にも適用される。

 牛丼というと、吉野家やすき家や松屋の牛丼を想像してしまう。400円ぐらいのもの、という感覚だ。牛丼に1,000円は出さない。

 でも、ちょっといい感じの定食屋に「牛煮つけ定食 1,000円」というメニューがあったら特に抵抗なく頼める。牛丼なら600円でも高いとおもうけど牛煮つけ定食なら1,000円でも高くない。ほとんど同じものなのに。

 牛丼チェーンのせいで“基準”ができているのだ。これはぼくだけでなく、世間一般に広く認められている“基準”だろう。


 逆のパターンもある。寿司だ。

 寿司ははじめに高級感を持たせることに成功した。2個1,000円を超える寿司もめずらしくない(話はそれるが、堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』によれば寿司が1貫、2貫と数えられるようになったのは平成初期だそうだ。この後付けの伝統感も高級路線に一役買っているにちがいない)。

 だから回転寿司で1皿100円とか150円とかの値を見ると、すごく安いような気がする。寿司の“基準”はもっと高い位置にあるからだ。

 でも寿司ってそんなに高級であるべきものだろうか。たとえばコンビニおにぎりと比べても、入っているものもマグロ(ツナ)とかサーモンとかそんなに差はない。なんならおにぎりのほうがずっとご飯の量も多くて食べごたえがある。

 なのにおにぎりは庶民色の代表みたいな感じでいて、寿司の方は高級食でございという顔をしてふんぞりかえっている。これは最初の“基準”の設定に成功したからだろう。


 まったく新しい料理を開発したときは、まず最初は1食5,000円とかのべらぼうな値をつけて“基準”を引き上げておいて、それから「なんとあのホゲホゲ丼が1,000円で食べられます!」みたいにお得感を与えてやるほうがいいね。


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【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』


【読書感想文】吉田 修一『逃亡小説集』 / アクセルを踏んで逃亡したくなる気持ち

逃亡小説集

吉田 修一

内容(e-honより)
「もう、逮捕でもなんでもしてくれ」高校卒業後、地元の北九州を出て職を転々としてきた福地秀明。特に悪いことをした覚えもないのに不幸続きで、年老いた母親と出口のない日々を送る秀明は、一方通行違反で警察に捕まった時、ついに何かがあふれてしまった。そのまま逃走を始めた秀明は…(「逃げろ九州男児」)。職を失った男、教師と元教え子、転落した芸能人、失踪した郵便配達員―日常からの逸脱を描く4つの物語。


 恋愛関係に落ちてしまった女教師と男子高校生が沖縄への逃避行をする『逃げろ純愛』、覚醒剤使用が明るみに出て逃走する元アイドルとそれをかくまうファンの心理を描いた『逃げろお嬢さん』、網走のショーパブで働く男のもとに元妻の弟が郵便配達中に失踪したというニュースが飛び込む『逃げろミスター・ポストマン』など、「逃亡」を元にした短篇集。

 小説とはいえどれもモデルとなった実話があり、どれもいつかのニュースで耳にしたことがあるような気がする(覚醒剤使用で逃亡した元アイドルはかなり大きなニュースとなった)。


 強く印象に残ったのは『逃げろ九州男児』。

 些細な交通違反で警官に呼びとめられた男は、ふいに何もかもがどうでもよくなり警察官の制止をふりきって車で逃走してしまう。どんどん増える警察の追っ手をかわしながら、無茶ともいえる運転で暴走をする男。後部座席には母親を乗せたまま……。

 逃走しながら男は人生を回想する。高校卒業後に製鉄所に就職したがすぐにやめたこと、先輩の連帯保証人になって借金を背負ったこと、暴力団に入った友人から声をかけられたが助けを求めずまじめに働いて借金を返済したこと、体調を崩して仕事をやめたこと、転職したものの契約解除され住んでいるアパートも立ち退かねばならなくなったこと……。

 ほどほどに道を外れたものの、総じて見ればまっとうに生きてきたと言える男。だが様々なめぐりあわせて市役所に生活保護の申請をすることに。

 その帰り道に交通違反で捕まり、張り詰めていた糸が切れてしまったかのようにアクセルを踏みこんでしまう。逃げたところでどうなるものでもない、状況は悪くなるだけだとわかっているのに――。


 この心境、なんとなくわかる気がする。幸いにしてぼくは今のところ何もかも放り出して逃げだしてしまったことはないけれど。

 思いだすのは小学生のときのこと。書道の宿題が出た。作品展に飾るので、クラス全員提出すること。

 ぼくは提出していなかった。担任の教師が毎日催促する。提出してないのはあと六人だぞ。あと三人。そしてとうとう、あと一人になった。

 担任が言う。「一枚足りないぞー。出してないの誰だー」

 もちろんぼくにはわかっている。出していないのは自分だけだと。でも手を挙げることができなかった。わかっていた。作品には名前が書いてあるので、調べたら出していないが誰かなんてすぐにわかると。それでもぼくはすっとぼけた。このまま知らぬ顔をしていたらひょっとしてどうにかなるんじゃないかと。何かのまちがいで提出しなくてもよくなるんじゃないかと。

 もちろんそんな奇跡は起こらず、みんなの前で叱られた上に結局家で書道の作品を書いてくることになった。もしもあのとき自動車と運転技術があったなら、アクセルを踏んで逃亡していたことだろう。


 面倒なこと、やらなきゃいけないこと、嫌なことから逃げ出したくなることはよくある。

 突然バイトや仕事に来なくなる人を何人も見てきた。どう考えたって、何も言わずに行かなくなるより、おもいきって「辞めます」というほうが後々のことを考えればずっと楽だ。今は退職代行会社が流行っているが、よほどのブラック企業を除けば、ふつうに退職するほうが楽だ。代行会社を使ったってやらなきゃいけない手続きはどうせ一緒だもん。

 それでも多くの人が逃げ出してしまう。逃げない方が楽な場面でも。きっと誰の心にも逃避願望があるのだろう。




 しかし吉田修一さんって逃亡する小説が好きだよね。

『元職員』は横領した公社の職員がタイを訪れる話、『怒り』『悪人』でも殺人を犯して逃亡する男が書かれる。

 そしてぼくはこれらの小説が好きだ。逃げる、追われるという行為に何か惹きつけられるんだよね。

 ぼくはときどき追われる悪夢を見る。「悪いやつに追われる」夢ではない。「自分が悪いことをして追われる」夢だ。なんかずっと後ろめたさが脳内にこびりついてるんだよね。追われるほどの悪事はしてないはずなのに。

 吉田修一作品は、そんな「いつか逮捕されるかもしれない」と考えている人間にぐっと刺さるんだよね(くりかえすけどほんとに逮捕されるようなことはしてないんだよ、まだ)。


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吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……



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2025年4月28日月曜日

【読書感想文】ジェイン・マクゴニガル『幸せな未来は「ゲーム」が創る』 / 「ゲームはいい。なぜならゲームはいいから!」

幸せな未来は「ゲーム」が創る

ジェイン・マクゴニガル(著) 妹尾堅一郎(監修)
藤本徹(訳) 藤井清美(訳)

内容(早川書房HPより)
近年、世界のオンラインゲーマーのコミュニティは数億人に達し、莫大な時間と労力がヴァーチャルな世界で費やされている。これは現実に不満を持つ人々による「大脱出」にほかならない。 なぜ人々は「ゲーム」に惹かれるのか? それは現実があまりに不完全なせいだ。現実においては、ルールやゴールがわかりづらく、成功への希望は膨らまず、人々のやる気はますますそがれていく。 そんな現実を修復すべく、ゲームデザイナーの著者は、「ゲーム」のポジティブな利用と最先端ゲームデザイン技術の現実への応用を説く。コミュニケーション、教育、政治、環境破壊、資源枯渇などの諸問題は、「ゲーム」の手法で解決できるのだ


 ゲーム(ビデオゲームだけでなくボードゲームなども含む)は楽しいだけでなく、生活の向上やビジネスや環境問題など様々なことにプラスに働くんだよ、と語った本。


 ぼくもゲームは嫌いじゃないけど、この本はいただけない。

 ゲームをすると、みずからの意志でハードな仕事に励めるので私たちは幸福になります。よい仕事に忙しく励むこと以上に、私たちを幸せにしてくれるものはほとんど存在しないことがわかります。
(中略)
 医学的な定義によれば、抑うつ状態になると、ふたつの兆候、自信のない悲観的な気持ちと、活気のない沈んだ気持ちに苦しめられます。このふたつの兆候をはね返すためには、自分の能力に対する楽観的な気持ちを高めて、活動への爽快な高揚感を得る何かを見つける必要があります。このような前向きな心的状態を示す臨床心理学用語はありません。ですがこの状態は、まさにゲームがもたらす感覚を完璧に表しています。ゲームは、しつこいほどに楽観的な気持ちで、自分が得意(または得意になろうとしている)で好きなことに活力を集中する機会を与えてくれます。つまり、ゲームプレイは絶望の対極にあると言えます。
 私たちが優れたゲームをプレイしているとき──越える必要のない壁に立ち向かっているとき──、前向きな感情を最大限まで高めるべく積極的に活動しています。私たちは、激しく没頭していて、精神的にも肉体的にもあらゆる前向きな感情や経験を生み出す望ましい状態に身を置いています。ゲームをプレイすることで、あらゆる幸福感の根底にある神経組織、生理的組織──注意力に関する組織、報酬を司る中枢、意欲に関する組織、感情や記憶の中枢まで──が完全に活性化されます。
 この極度な感情の活性化こそが、今日のもっとも成功したゲームで気持ちが中毒的に高揚する根本的な理由です。生物学的な観点から言っても、私たちは楽観的な気持ちで没頭しているとき、前向きなことを考えたり、社会とのつながりを持ったり、自分の長所を強めたりする可能性が突如として高まるのです。心と身体が幸福になるように、積極的に条件づけているのです。

 この文章が象徴的なんだけど、結論ありきで議論が進んでいて、論拠がぜんぜんないんだよね。


 まともな本ならこの文章の後に「それを裏付ける実験・調査がある。〇〇の条件下で□□をしたところ、有為に△△が多かった。だからゲームをすると幸福になれるのだ」と続くだろう。だがこの本にはそれがない。

「ゲームはいい。なぜならゲームはいいから!」みたいな文章が延々と続く。

 いろんなゲームの例を挙げてあれこれ語っているけど、ずっとこの調子。どこまでいっても「私がいいとおもうからいいの!」レベルだ。


 著者はゲームデザイナーだそうだ。そんな人がゲームを悪く書くはずがない。ゲームはいいという結論が先に決まっている。

 それ自体は悪くない。たいていの科学は仮説からスタートする。問題は、仮説を裏付けるデータや実験結果がまるでないことだ。

 なんの論拠もなく、「失敗しても楽観的でいられるのはゲームに身につく精神的強さです」とか「ゲームによって得られる達成感、高揚感はビジネスにも好影響をもたらす」みたいなことが垂れ流される。

 は?

 これを読んでいても「ゲームのことばっかり考えてると著者みたいに論理性がなくなってしまうのかな」としかおもえない。




 ゲームの話はまるで得られるものがなかったが、「からかいあう」ことに関するこの話はおもしろかった。

 近年の科学的な研究が示しているように、からかいあうことは、お互いの好意的な気持ちを高めるのにもっとも速効性があって効果的な方法のひとつとされています。カリフォルニア大学の向社会的感情に関する先駆的な研究者であるダチャー・ケルトナーは、からかうことの心理的な効用に関する実験を行った結果、からかい行為がポジティブな関係を築き維持していく上で重要な役割を担っていると考えています。
「からかうことは社交のワクチンのようなもので、受け手の感情システムを刺激する」とケルトナーは説明しています。からかい半分の他愛のないおしゃべりは、お互いのネガティブな感情をとても穏やかに引き出すことを許容し、ごく少量の怒りや痛みや恥ずかしさを生み出す刺激となります。この小さな挑発はふたつの強力な効果を持ちます。第一に、信頼を確かめあうことです。人がからかうのは、相手を傷つけることができることを示しながら、同時に傷つけるつもりはないということを示しています。これはちょうど犬が他の犬と友達になりたくて甘嚙みするようなもので、互いを傷つけることができても絶対に傷つけないことをわからせるために牙をむき出すようなものです。反対に、誰かにからかわれるのを許容することは、弱い立場に身を置く意思を示すものです。相手はこちらの感情的幸福に配慮してくれるはずだという信頼感を積極的に示しているのです。
 他の人にからかわれることで、からかう側に自分の強さを感じさせる手助けもしています。社会的関係性の中で、自分が高い地位にいる事実を享受するひとときを提供しています──そして人間は、社会的地位の変化にものすごく敏感です。他の誰かに高い地位を経験させることで、私たちはその人たちの好意的な感情を強めているのです。人には自分の社会的地位を高めてくれる人を好きになる性質があります。

 これは男同士のコミュニケーションで特によく見られるね。

 たまに、女性作家や女性漫画家が男同士の友情を描こうとして、登場人物に
「おまえはほんといいやつだよな」
「いや、おれこそおまえにいつも救われてるよ」
みたいなセリフを交わさせることがある。

 男ならまずそんな描写はしないだろう。親しくなるほどお互いのことを褒めないものだから。語らずとも分かりあうことこそが一般的な男の友情だ。もちろん例外もあるだろうが。

 なるほどね。信頼感を示すためにわざと甘噛みをするわけね。

 



 感心したのが、英国で政治家の不正をチェックするためにゲームの仕組みを使った例。

 議員たちに政治資金不正報告の疑いが持たれたが、証拠を探すには数十万枚の書類を一枚一枚チェックする必要がある。ジャーナリストでもとても調べられる量ではない。

 そこで、チェックをするためにゲームの機能を使った。

 一〇〇万枚の政府文書が手中にあるのに、どの文書がどの議員の不正の証拠になる可能性があるか見分けるすべがなかったのですから、多くの人から得られるかぎりの協力を得る必要があるのは明白でした。そこで、ガーディアンは、「群集の英知」を活用することにしたのです。ただし、同紙がそのために使ったのは、ウィキではなくゲームでした。
 ゲームの開発は、ロンドンを拠点に活躍している、若いながらも実績のあるソフトウェア開発者、サイモン・ウィルソンに依頼しました。ウィルソンの任務は、「スキャンされたすべての申請書とその裏付け書類を四五万八八三二件のオンライン文書に変換、圧縮し、不正の証拠を見つけるために誰でもこれらの公的記録を調べられるウェブサイトを設立すること」でした。開発チームのわずか一週間分の労働と文書をホスティングするテンポラリーサーバーのレンタル料五〇ポンドだけで、ガーディアンは世界初の大規模多人数参加型調査ジャーナリズムプロジェクト「地元選出議員の経費を調べよう(Investigate Your MP's Expenses)」を立ち上げたのです。

 このプロジェクトを立ち上げ、不正を見つけたらポイントゲットというゲーム感覚で誰でも参加できるようにしたことで、多くの市民が手分けして膨大な書類をチェックし、数々の不正申告を発見することができたという。

 いいなあ。日本でもやってほしい。

 でも日本政府の場合、まず書類を公開しないからな……。


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2025年4月25日金曜日

自転車で公道を走りにくいときのたったひとつの冴えたやりかた

  NHKニュース『自転車交通違反に「青切符」来年4月からの方針 反則金の額は…』

警察庁は自転車の交通違反に対して、車やオートバイと同様に反則金の納付を通告するいわゆる「青切符」による取締りを来年4月1日から行う方針を固めました。反則金の額については携帯電話を使用しながら運転するいわゆる「ながら運転」を1万2000円とするなど、違反によって異なっていて、警察庁はパブリックコメントを実施したうえで、政令を改正することにしています。

 自転車の交通違反に対する罰則が強化されるらしい。

 携帯電話を使用しながら運転する「ながら運転」や信号無視、二人乗りのような明らかな違反はもちろん、一時停止、右側通行、歩道通行、傘差し運転、並んで走行のような「99%のライダーは一度はやったことがあるであろう」違反までが罰金の対象になるという。


 大賛成だ。もっとも制度を定めるだけでは意味がないので、じゃんじゃん取り締まってほしい。なんなら民間の取締員なんかを雇って大々的にやってくれ。

 とはいえすべての道路において等しく適用するのにはちょっと無理があるとおもう。

 たとえば郊外だと、「車やバイクはびゅんびゅん飛ばしていて、広い歩道には歩行者はほとんどいない」道がある。こんな道で、歩道を自転車が並んでゆっくり走っていても、危険でもなんでもない。すべてを厳しく取り締まれという気はない。

 あくまで他人に迷惑をかけている場合に限って、厳しく取り締まってほしい。


 歩行者としては、自転車に危険な目に遭わされることがよくある。特にぼくは幼い子を連れて歩いているのだが、歩道を歩いていてもけっこう怖い。ぜんぜんスピードを落とさず歩道を走る自転車がいる。ぼくが車道側を歩くようにしているのだが、わざわざ子どものいる側(車道と反対側)につっこんでくる自転車がいる。歩行者に対してベルを鳴らす自転車乗りがいる。傘をさしたまま歩道を走って、傘がぶつかってもおかまいなしで進む自転車がいる。

 控えめに言っても自転車乗りのマナーは最悪だ。もちろん全員ではないだろうが、ここ一年以内にひとつも違反をしたことのない自転車乗りは全体の5%もいないだろう。つまり最悪ってことだ。


 一方、罰則強化に対して不満の声も上がっているらしい。

「大型トラックとかがすれすれを走ることがあり、狭い車道を走るのは危険だ」

「罰則強化の前に自転車が安心して走れる道を整備してほしい」

「自転車専用レーンがあっても一時停止や駐車違反の車があって走れないことがある」

など。

 なるほど、なるほど。ぼくも一時は毎日のように自転車に乗っていたからよくわかる。たしかに車道を走るのは危険だし、自動車のマナーも悪いもんね。走りにくいよねー。



 安心してほしい、そうした不満を解決するかんたんな方法がある。

 自転車を降りて、押して歩道を歩くのだ。

 これですべて解決。はい、よかったね。


 はっきり言って、道が狭かろうが、路上駐車があろうが、そんなものは車両が歩道を走っていい理由にはならない。

 考えてみてほしい。車だって、いつでも好きなように走っているわけではない。路上駐車があってすれちがえなかったり、信号無視をする歩行者がいたり、車道に猫がいたり、いろんな事情で通行を妨げられる。

 そんなときに「危ないけど周囲が避けてくれるだろうという気持ちで突っ込みました」「路駐が邪魔だったので車で歩道を走ることにしました」「猫がいたから、対向車が来てるけど右車線を走ることにしました」といったことが許されるだろうか? そんな言い訳をしても、頭のおかしいドライバーとしかおもわれないだろう。

 だが、その頭のおかしい発想をする自転車乗りはいっぱいいる。しょうがないから歩道を走りました、じゃないんだよ。安全に走れないんなら止まるんだよ。



 車を運転していて「このまま進むとぶつかるかもしれない」と感じたらどうするか。止まる。または徐行する。ドライバーならあたりまえにやっていることだ。「しかたなく歩道を走る」「しかたなく逆走する」なんて選択肢はない。

 自転車も同じことをすればいいだけだ。

 幸い、自転車には「押して歩けば歩行者になれる」という強力な武器がある。これは車にはない選択肢だ。

 安全に通れないとおもったら(自分の安全だけでなく、もちろん歩行者やドライバーの安全も含む)止まる。そして安全になるまで待つか、自転車を押して歩行者として歩く。

 これで解決する。歩行者になったら歩道だって横断歩道だって道路の右側だって堂々と通れる。よかったね。

 これでほぼすべての問題が解決する(「歩道橋だけあって横断歩道がない」道とかはちょっと困るが、そんな歩道橋にはまずまちがいなくスロープがある)。


 自転車を降りて押して歩いてたら遅くなるじゃないかって?

 そうだよ。あたりまえじゃない。

 車だって、いつだって制限時間いっぱいで走れるわけじゃない。制限速度60km/hの道でも、止まったりスピードを落としたりして走るから、実際に進むスピードはもっと遅くなる。それを考慮に入れて早めに出発する。自動車ドライバーなら誰もがやっていることだ。


 自転車ライダーの公道に対する不満って99%が「自転車を降りて押して歩道を歩けばいいじゃない」で解決するんだよね。

「安全に進めないときは止まるか降りるかすればいい」という思考のできない自転車乗りが多すぎる。

 こち亀の両さんが「生きるか死ぬかで悩むな。悩んだらまずは“生きるモード”に切り替えて、そこから“どう生きるか”を悩め」と言っていたが、多くの自転車乗りがこれと同じで、危険がさしせまっていても“走るモード”を選び、そこから“どう走るか”を考えてる。

 人生と自転車はちがうんだから、ちゃんと“止まるモード”や“歩くモード”を選べよ。



 これはあれだな。

「安全に進めない状況なのにむりやり進んだ自転車乗りは死後、裸足で自転車に乗せられ、熱々の鉄板の上を延々と走らされ、疲れて足をおろすと大やけどをする無間業火鉄板サイクリング地獄に落とされるよ」

と教えてあげるべきだな。




2025年4月24日木曜日

【読書感想文】三浦 しをん『星間商事株式会社社史編纂室』 / 絶妙に「あんまりおもしろくない」

星間商事株式会社社史編纂室

三浦 しをん

内容(e-honより)
川田幸代29歳は社史編纂室勤務。姿が見えない幽霊部長、遅刻常習犯の本間課長、ダイナマイトボディの後輩みっこちゃん、「ヤリチン先輩」矢田がそのメンバー。ゆるゆるの職場でそれなりに働き、幸代は仲間と趣味(同人誌製作・販売)に没頭するはずだった。しかし、彼らは社の秘密に気づいてしまった。仕事が風雲急を告げる一方、友情も恋愛も五里霧中に。決断の時が迫る。

 大手商社が舞台。閑職とされる社史編纂室に異動させられた主人公が会社の歴史を調べるうちに、昔を知る社員たちが口を閉ざして語ろうとしない「高度経済成長期の穴」があることに気づく。はたしてその時期に何があったのか……。


 うーん、はっきり言ってつまらなかったな……。

 ミステリを用意しているのだが、「高度経済成長期の穴」という謎に対する答えがしょぼすぎる。社内政治的には重要な事件化もしれないが、その会社に縁もゆかりもない人間(つまり読者全員)にとっては心底どうでもいい話だ。

 ヒマなひとたちがヒマにあかせてどうでもいいことを暴くためにどうでもいいことをしている……という、退屈きわまりないストーリー。


 そしてストーリー以上にひどかったのが文体。

 文章のそこかしこにちりばめられた“ユーモア”が読むに堪えなかった。

「顔から噴いた火で、おんぼろのスプリンクラーが作動するかと思われた」
「大昔のギャグのように盥が落ちてきた気がした」
「ムンクの『叫び』が、ポンポンポンッと三人ぐらい脳内で身をよじった」

 ……ふるい。

 八十年代の少女漫画みたいなセンス。おもしろくない人ががんばっておもしろくしようと書いたのが伝わってくる。四十年間アップデートされていない。「ゆうもあ」という表現がぴったりのセンスの古さだ。

 まあこのへんの表現は中盤以降おとなしくなったのでなんとか読みおえることができたのだが。ずっとこの「ゆうもあ」が続いてたら途中で投げだしてたよ。


 登場人物も作者の分身みたいな感じで、いや小説の登場人物なんだから分身なのはあたりまえだけど、みんな「一様にクセはあるけど根はいいやつ」だ。悪役は悪役で「私はイヤなことをするために生まれてきました」みたいなザ・悪役だ。思想信条も背景も守るべき人もなんにもない、平板な悪人。




 これはあれだな、BLとか同人誌とかの界隈を書きたかっただけの小説だな。

 三浦 しをんはいわゆる腐女子というやつで、BLだの同人だのが大好きらしい(解説によると)。で、この小説の主人公もBLを愛していて、年に二回コミケで同人誌の即売会を開いている。

 そんで作中作として、この人の書いたBL小説がちょいちょい刺しこまれるのだが……。

 これがまたちょうど「ちょっとだけファンのいる同人レベル」なんだよね。おもしろいわけではなく、かといってツッコミを入れて笑えるつまらないわけでもない。絶妙に「あんまりおもしろくない」小説。ある意味リアル。


 そして作中作だけでなく、『星間商事株式会社社史編纂室』自体もそういう小説だった。記憶に残るほどつまらないというほどでもない、といったところかな……。


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2025年4月22日火曜日

【読書感想文】『生きものは不思議 最前線に立つ研究者15人の白熱!講義』 / 魚は論理的思考をする

生きものは不思議

最前線に立つ研究者15人の白熱!講義

目次
・海底にミステリーサークルをつくるフグの謎……川瀬裕司(千葉県立中央博物館分館 海の博物館主任上席研究員)
・「骨」までしゃぶり尽くして紡がれる命……ロバート・ジェンキンズ(古生物学者/地球生物学者)
・西之島の不毛の大地に、いつか花咲き鳥が舞う……川上和人(鳥類学者/森林総合研究所)
・奇妙な泳ぎ方には意味がある……渡辺佑基(海洋生物学者)
・イカ・タコ・アドベンチャー……池田 譲(琉球大学教授)
・小さな植物プランクトンの大いなる可能性……遠藤 寿(京都大学准教授)
・チンパンジーに音楽の起源を探る……服部裕子(京都大学ヒト行動進化研究センター)
・魚も鏡の姿を自分とわかる……幸田正典(大阪公立大学)
・チョウはどのように相手を見ているのか?……竹内 剛(大阪公立大学研究員)
・サムライ・スネイルの作法……千葉 聡(進化生物学者)
・新種発見の旅……岡西政典(分類学者)
・海に棲む哺乳類の不思議や魅力、そして紡ぐメッセージ……田島木綿子(海獣学者/国立科学博物館)
・イルカは賢いか……村山 司(東海大学海洋学部教授)
・日常にある灯……三上 修(鳥類学者)
・「ヒトとは何か」を探る動物研究……山本真也(京都大学高等研究院准教授)

 様々な生物について研究している研究者十五人による、研究報告&若い人へのメッセージ。

 なにしろ十五人もいるので一人あたりのページ数が少ないのと、中高生向けに書かれた本ということもあり、書かれている内容は軽め。とはいえテーマを絞って深い話をしている人もいて、おっさんが読んでもけっこうおもしろかった。

 生物学を志している人はもちろん、そうでない人にもなにかしらの指針を与えてくれるんじゃないだろうか。

 幼いころからイルカが大好きでそのままイルカの研究者になった、なんて人もいるが、あれこれ迷ったり回り道をしたりして自分でも予期せぬままこの研究をすることになった、なんて人もいる。それでもけっこう楽しくやっているのが伝わってくる。


 ぼくは今WebマーケティングだとかDXだとか労務だとかいろんな仕事をやっているが、どれも学生時代には自分がやるなんて想像すらしていなかった仕事だ(というかそんな仕事があることすら知らなかった)。それでもけっこう楽しくやっている。

 学校や就活企業は、やれ将来の夢だ、やれ天職だ、やれ仕事のやりがいだとえらそうなことを抜かすが、そんなものを無理に考える必要なんかない。なるようになるし、あかんときはあかん。




 幸田 正典『魚も鏡の姿を自分とわかる』より、魚の行動について。

 私は大学生になった時からサークル活動として南日本の海岸や沖縄のサンゴ礁の海に潜り魚の行動や生活を見てきた。卒論や博士論文の研究テーマも魚の行動・生態・社会に関するものである。動物行動学では魚は本能に基づき単純な行動をする、と長い間みなされてきた。しかし、サンゴ礁やアフリカのタンガニイカ湖に潜って魚たちの暮らしぶりを見ていると、彼らは物事をよくわかっているし、様々な感情も持っていることがわかってくる。自分の観祭や経験から、これまでの動物行動学が魚の動きは本能に基づいており単純だとする考えはおかしいし、魚はこちらが思っている以上に物事を理解していると確信するようになった。
 そして2010年頃から、魚の賢さについての研究を始めたのである。
 その頃、魚の様々な「賢い」振る舞いが少しずつわかってきた。例えば、魚も「A>BかつB>CならばA>C」という一種の三段論法ができる。2016年に我々自身もシクリッドという魚がこの能力を持つことを明らかにした。また、ヒトは互いに親しい相手をその顔で区別する。同じように社会性のある魚類も顔の違いで相手を識別できることがわかってきた。魚が知り合いの個体を顔で素早く正確に識別するのだ。ヒトとよく似ている。

 へえ。三段論法ってけっこう高度だよね。

 また、魚も鏡を使って自分の顔を認識できるのだそうだ。例えばあご(鏡を使わないと見えない位置)に寄生虫のような印をつけた後に鏡を見せると、こすってとろうとする仕草を見せるとするそうだ。

「鏡に写っているのが自分だと認識する」って、あたりまえにやっているけどけっこうすごい能力だよね。なぜなら自分の顔を直接見たことがないから。「鏡に写った母親」は実際の母親と見比べられるけど、「鏡に写った自分」は見比べる対象がいない。自分が上を向いたら向こうも上を向いた、下を見たら向こうも顔を下に向けた……という観測を重ねて帰納的に導きだすしかないわけで、ある程度の知能がないとできないことだ。

 魚は魚で、ちゃんと論理を持って生きているのだ。




 村山 司『イルカは賢いか』より、イルカに関する実験。

 しかし、ここで素晴らしいことが起きた。ナックには物に対応する記号(例えば「フィンを見せたら⊥を選ぶ」)と物の呼び方(例えばフィンを見せたら「ピー」と呼ぶ)を教えただけなのに、その逆の、記号に対応する物が何であるか(例えば⊥を見せたらフィンを選ぶ)や、教えてもいない記号の呼び方(例えば⊥を見せたら「ピー」と鳴く)まで自発的に理解できたのである。

 なんとイルカにはものの名前を教えることができるのだそうだ。しかも、声と文字の両方を使えるのだとか。さらには教えていないことまで自分で推論して学べるとか。賢い!

 イルカショーとか見てたら、めちゃくちゃすごいことやってるもんな。ひょっとしたら小学生とかより賢いかもしれないぞ。


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2025年4月17日木曜日

【読書感想文】小川 哲『地図と拳』 / 技術者の見た満洲国

地図と拳

小川 哲

内容(e-honより)
「君は満洲という白紙の地図に、夢を書きこむ」日本からの密偵に帯同し、通訳として満洲に渡った細川。ロシアの鉄道網拡大のために派遣された神父クラスニコフ。叔父にだまされ不毛の土地へと移住した孫悟空。地図に描かれた存在しない島を探し、海を渡った須野…。奉天の東にある“李家鎮”へと呼び寄せられた男たち。「燃える土」をめぐり、殺戮の半世紀を生きる。第168回直木賞、第13回山田風太郎賞受賞作。

 ハードカバーで600ページ超の重厚な大河小説。

 満洲国という国の誕生から消滅までを書いた群像小説。史実と創作がうまくからみあっていて、どの部分をとってもおもしろい。史実に忠実な部分と、おとぎ話のような奇想天外な部分がモザイク画のように入り混じっている。

 この小説を書くにあたって、途方もなく膨大な史料を読んだのだろう。と同時に、それらをかみ砕いて血肉とした上で小説に還元している。膨大な史料から小説を書く人には「調べたことを全部書かなくちゃ!」というタイプが少なからずいるのだが、この著者は見事に取捨選択している。

 手塚治虫は史実と虚構を織り交ぜるのがうまい人だったけど、『地図と拳』にも近いものを感じる。


 ただ、個々のエピソードはどれもすごくおもしろいんだけど、全体を通してみるとひどく散漫な印象を受ける。いろんな登場人物の視点で語られるし、登場人物の立場もみんなそれぞれ異なる(日本人技師、ロシア人神父、中国人の地主、中国人ゲリラ、日本人の軍人など)。時代も移り変わるし、登場人物も死んだり生まれたりして入れ替わる。

 それこそが著者の狙いなんだろうけど(人ではなく国の栄枯盛衰を書こうとしたのだろう)、読んでいて尻のおさまりが悪いというか、どういう立場で読めばいいのかわからない。神の視点で読むのが正解なのかもしれないが、ぼくは神を経験したことないからなあ。

 この読みづらさはどっかで経験したことあるとおもったら、あれだ、歴史の教科書だ。

 ぼくは本を読むのは好きだけど、歴史の教科書は苦手だった。それぞれまったくつながりのない説明がばらばらに並んでいるので、頭の切り替えに苦労するのだ。

 歴史の教科書が好きだった人ならもっと楽しめるのかもしれない。



『地図と拳』では、技術者として満洲国建設に関わった日本人が登場する。

 歴史の教科書だと「満洲事変をきっかけにして日本は満洲を占領した」と書かれるが、あたりまえだが軍人が戦いに勝ったからといって国はできない。計測をおこない、地図を作り、都市計画を立て、建物を建造する必要がある。

『地図と拳』の登場人物たちは、地図作成、都市計画、建築設計などを通して理想の満洲をつくりあげようとする。

 日本の大陸進出は身勝手な帝国主義によるものだったと教科書では教わるが、それは一面であり、すべてではなかったのだろう。少なくとも現場には使命感に燃えて、本気で啓蒙してやろうと考えていた人もいた。

 とはいえ侵略される側からしたらそんな理想や使命感なんて知ったこっちゃなくて「いい国であろうと悪い国であろうと侵略されたくない」としかおもえないだろうけど。

 住んでいる人間からすると、いい植民地より悪い独立国家かもしれない。



 これまでいろんな戦争文学を読んできたけど、つくづく感じるのは戦争のむなしさ。兵士も市民も大人も子どもも勝者も敗者も死者も生者も、みんな戦争によって悲惨な思いをする。得をする人なんてほとんどいない。

 それなのに、いざ戦争が始まってしまったらもはやどうすることもできない。止めようとしても止められない。個人も集団もえらくない人もえらい人も、誰にも止められない。





 圧倒的な資料にあたっているだけあって、随所に散りばめられたうんちくも楽しい。

「ずいぶんと建築に詳しいのだな」
 間取り、壁のレリーフ、柱の切り出し方、階段の形状、調度品の種類など、建物の薀蓄を熱心に語る細川に対し、思わずそう口にした。
 細川は珍しく照れ笑いを浮かべ「建築には歴史と思想が表れますから」と答えた。「それに、実用的な情報も得られます。この建物を見るだけで、ロシアが支那においてどのような狙いを持っているかがわかるのです」
「たとえばどんなことが?」
「なるほど」
「まず、地方の駐在武官ごときが本国から建材を取り寄せ、本国の建築家を使ってこれだけ立派な邸宅を建てていたという事実から、ロシアがかなり本気で、それも長期的に満洲を支配しようとしていたことがわかるでしょう」
「もう少し抽象的な側面の話もしましょうか。この建築は様々な意匠が折衷されていますが、基本的にはバロック主義と呼ばれている様式です。この建築が街の中でも一際目立っていることからわかると思いますが、ロシア人はこの地を占領する上で、清の風習を取り入れるつもりはなく、自分たちの文化を押しつけるつもりだったのです」
 細川は「もちろん、かなり具体的なこともわかります」と続けた。「この建築は街区から百五十メートルほど離れています。馬賊や団練が好んで使う武器である天門槍の有効射程からちょうど外れており、それでいてロシア軍の小銃の射程内に入る距離です。この家の街路に向いた窓には兵士を配置することもできますし、庭に機関銃を設置すれば街区に射線が通ります。煉瓦の壁は耐火性があり、榴弾に耐える厚さにもなっていて、暴動が発生したときには要塞に変わるのです。地下の貯蔵庫には、大量の食糧と弾薬が備蓄してあったのでしょう。ロシア軍はこの街を支配しつつも、馬賊や団練との戦闘に備えていました。万が一の際は、友軍が到着するまで守りきれるようにしていたのです」

 こういう話、大好き!


 ぼくは建築の知識は皆無なので、建物を見ても「でっけえなー」とか「掃除たいへんそうだなー」とかのアホみたいな感想しか出てこないけど、知識のある人が見ればこれだけの情報を引き出せるのだ。

 昔、今和泉隆行さんという架空地図を描いてる人の講演を聞きにいったら
「地図を見れば、その町がどんな歴史を持っていて、どこにどんな人が住んでいてどんな生活をしているかがだいたいわかる」
と語っていた。

 知識がある人って、そうでない人と同じものを見ていても目に映る景色がまったく違うんだよね。『ブラタモリ』でも、タモリさんはただの坂道や山(としか我々には見えないもの)からいろんな情報を引き出してるもんね。

 こういう、「自分は持っていない視点からものを見る愉しさ」を味わわせてくれるのが読書の喜びだ。




 いちばん印象深かった挿話。
  たとえば、ヨーロッパの古地図には「画家の妻の島」と呼ばれる島がいくつか含まれている。
 ヨーロッパでは専門家の調査結果を元に、最終的に職業画家が地図を清書することが多い。画家が地図を描き終えたとき、隣にいた妻がこう囁く。
「私の島が欲しい」
 画家はその話を聞いて、地図に一つの島を書き加える。こうして、架空の島や架空の国家、架空の大陸が描かれる。どうやら歴史上、そういった例がいくつも存在したようだ。

 なんかロマンがある話だなー。

 もしかしたら今でも、地球から遠く離れた宇宙の彼方に「天文学者の妻の星」があるかもね。


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2025年4月14日月曜日

【芸能鑑賞】『シークレットNGハウス』

 シークレットNGハウス
(Amazon Prime)


 おもしろかった。家族で観たのだが、特に小学生の娘がおもしろがって、すべて観終わった後はもう続きを観られないことをほんとに残念そうにしていた。シーズン2を頼む!


 まず人選が絶妙。謎解き王、守銭奴、ツッコミ役、果敢に攻める人、異様に勘がいい人、何も考えていない人、読みがことごとく外れるのにラッキーだけで勝ってしまう人……。

 すべて狙ったわけじゃないだろうけど、結果的にはすごくバランスのいいメンバーだった。それだけに敗退して去ってゆくのが残念。

 負けた人が仕掛け人として参加するようなシステムでもよかったのかなーと観ていておもった。


 そして司会進行の二人もちょうどよかった。こういうゲームって司会者によっては下品になってしまうが、二人に品があるのでそこまで悪辣な印象を受けない。それでいて底意地の悪さは存分に発揮していた(大縄跳びで「謝る」をNGに設定する意地の悪さよ!)。

 NG行動の設定が事前に用意されたものではなく、その場で司会の二人が決めるのもいい方向にはたらいていた。スタッフは大変だろうけど(どこからアウトにするかのボーダーをその場で決めないといけないので)、絶対にこっちのほうがゲームはおもしろくなる。




 シーズン1はものすごくおもしろいコンテンツだったのだけど、ただこれはたまたまめぐりあわせが良かったからで、ちょっとでも歯車が狂っていたら失敗に終わっていた可能性もある。

 特に1stステージは「数字を言ってはいけない」というルールが引っかかりやすすぎるのと、人数が多すぎて誰がNGになったのかわからないため、なにがなんだかわからないままNGが積みあがっていってしまった。「何がNGか推察する」というこのゲームの醍醐味にたどりつく前に終わってしまった印象。

 1stステージと敗者復活ステージはほぼ運ゲーだったので、「誰がNGになったかわからない」というルールは、終盤人数が減ってきてからの適用でいいとおもうな(決勝は誰がNGかわからないことがおもしろさを生んでいたが)。




 もうひとつ、シーズン2があるなら改善してほしい点は、守りを固めにくくしてほしいということ。

 実際、序盤は「何もしない」が最善策になってしまっていた。3rdステージや敗者復活ステージでようやく「30秒黙る」「指示に従わない」がNGに指定されていたが、これらは全ステージ共通のNGにしてほしいぐらい(参加者に公開してもいい)。

 だってこのままだと「一切の会話を拒否して、ときどき意味不明な奇声を発する」が最強の戦略になってしまうもの。


 攻め合いのほうが観ていておもしろいわけだから、攻める人が有利になってほしい。

 NGを「〇〇と言う」「〇〇をする」の“やってはいけないこと”だけではなく、「質問に答えない」とか「食べはじめるのがいちばん遅い」とかの“やらないといけないこと”にしないと、様子見ばかりが横行してしまうよ。

 それか、しりとりや古今東西みたいなゲームをさせて、強制的にしゃべらないといけない状況をつくるか。




 どのステージもそれぞれおもしろかったが、中でも2ndステージがいちばん良かった。

 参加者たちがだんだん状況をわかってきて腹のさぐりあいをする中、ゲストの仕掛け人が虚実入り混じった情報を与えて引っかきまわす。

 ゲストがいろいろ呼びかけてるのに参加者たちに無視されつづける、という状況が最高におもしろかった(この番組じゃなければ絶対にそんな扱いを受けることのない人だったのが余計に)。

 仕掛人がいたほうがおもしろい。




 シーズン1で十分おもしろかったけど、運営側も手探り状態だったので、まだまだおもしろくなりそうな余地がある。

 ぜひシーズン2やってください!


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2025年4月8日火曜日

小ネタ 33(だんごとたいやき / 用紙切っちゃいました / 藤子不二雄)


だんごとたいやき

『だんご3兄弟』の歌詞には「だんご」というフレーズが25回も出てくる。

 一方、『およげたいやきくん』に「たいやき」というフレーズは終盤に2回しか出てこない。

 子ども向け番組から生まれたヒットソング、和菓子をテーマにしている、という共通点がありながら、歌詞のつくりにはずいぶん差がある。

『およげたいやきくん』がヒットした1975年は直接的な表現をしなくてもみんな文脈を読んで理解できたが、『だんご3兄弟』が発表された1999年にははっきりと説明しないと伝わらなくなった。これは読書離れが進み子どもたちの読解力が低下してからだ……というようなことはもちろんない。


用紙切っちゃいました

 いちいちシュレッダーかけるの面倒だな……。

 そうだ!

 あらかじめ裁断しておいた紙を作って売ろう!これでいちいちシュレッダーする手間が省けるぞ!


藤子不二雄

 藤子不二雄はFとAに分かれた後、扱っているテーマに大きく差が出た。藤子不二雄Aは、ゴルフ、麻雀、ギャンブル、バー、女遊びなど「大人の世界」を描くことが増え、藤子・F・不二雄は一貫して「子どもの世界」を描きつづけた(大人向けSF作品も描いているが、その中でもギャンブルや性についての描写は少ない)。

 ピッコロが善の神様と悪のピッコロ大魔王とに分化したように、藤子不二雄も大人の心と子どもの心に分かれたのかもしれない。


2025年4月7日月曜日

小ネタ 32(結露 / 断熱性能 / 六角形)

結露

 半年ほど前に引越しをしたのだが、今の家は結露がひどい。冬の朝は窓ガラスに露がびっしりついていて、窓の下がびちょびちょになっている。しかたなく毎朝窓を拭く。

 前の家はこんなことはなかった。前の家は古かったので断熱性が悪く、家の中も寒かった。だから室温と外気温の差が小さく、あまり結露しなかったのだろう。断熱性が高いのも良し悪しだ。

 結露する分空気が乾燥するので、寝る前に濡れタオルを干して加湿している。加湿された分の水分が朝になると窓ガラスについている。結露させるためにタオルを干しているような気がする。

 窓ガラスの水分をとりつつ、その水を使って空気を加湿させる仕組みはないものか。


断熱性能

 以前、家の構造に詳しい人の話を聞いたことがあるのだが「断熱のこと考えたら窓なんていらんねや!」

 そのときはなんて無茶な意見を言うんだとおもったが、たしかに窓は断熱の敵だ。夏は窓から熱が入ってくるし、冬は熱が逃げる。おまけに結露する。

 景観や風通しといった“住人の気分”は無視して、家のことだけを考えれば窓がないほうがいいかもしれない。

 もっと言えばドアもないほうがいい。完全密閉された壁だけの家なんて最高だ。


六角形

 六角形は漢字の読み通りなら「ろくかくけい」、発音は「ろっかっけー」だが、ひらがな表記はそのどちらでもない「ろっかくけい」だ。八角形、十角形、十一角形なども同様。

「洗濯機」は発音は「せんたっき」でもかな表記するときは「せんたくき」だが、数字は促音便をそのままかな表記することが許されている。

 たぶんだけど、かなり日本語に堪能な外国人でも「六角形のよみがなを書いてください」という問題に正しく答えられる人は少ないとおもう。これぞクイズヘキサゴン。



2025年4月1日火曜日

【ボードゲームレビュー】TAKUMI ZOO

TAKUMI ZOO


内容説明(Amazonより)
誰よりも魅力的な動物園を作る"拡大再生産型"ボードゲーム。土地パネルでボードを開拓し、地形に合わせて飼う動物を選んで、一番ポイントの高い動物園を作りあげましょう。いかに人気の動物を集めて動物園の魅力を高めるかがポイントです。大人も子供も一緒に、じっくり楽しめる本格ボードゲームです。


 なんと小学生が作ったボードゲームだという。絵も、小学生が一生懸命丁寧に描きましたという感じでかわいらしい。

 小学生が作ったゲームなら小学生がやったら楽しいんじゃないかとおもい、娘と遊ぶ目に購入。




かんたんなルール

  • 全員5コインを持ってスタート
  • 毎ターン、山札から地形パネルを1枚ずつ引く。地形には草原・森・岩・水の4種がある。それを自分の動物園パネルに並べていく。
  • 動物を購入して、地形に置くことができる。地形によって配置できる動物は異なる。また動物によって必要なパネル数も異なる。
  • 動物を配置することで毎ターン入場料収入がある。動物により購入金額や収入金額が異なる。また、特定の組み合わせを満たすことで収入が増える。
  • 動物を買うとポイントが入る。最終的にこのポイントが多い人が勝ち。
  • 地形パネルには、「買える動物が増える」「次に引くパネルを見ることができる」「他のプレイヤーと地形を交換できる」「他プレイヤーを邪魔できる」などの特殊効果を持つものもある。


ええとこ

「地形によって飼える動物が異なる」+「一度置いた地形は基本的に変えることができない(一部変更の効果を持つパネルも存在する)」というルールがなかなかいい。地形パネルをどこに置いたほうがいいだろう、と考える余地が生まれる。

 何度かやっていると、草原の横に岩を置かないほうがいいとかわかってくる。ただしどのパネルが出るかは運次第なので、配置には頭を悩ますことになる。

 あと単純な勝敗だけでなくスコアが出るので、ひとりでも遊べるのもいい。ぼくは子どもの頃ひとりでカードゲームをするような孤独を愛する少年だったので、このルールはうれしい(さすがに大人になった今はひとりではやらないけど)。


やることが多い

 仕事量が多いのでかなり煩わしい。

 毎ターン、「収入を得る」「パネルを引く」「パネルの特殊効果を発動させる」「パネルを配置する」「動物を買う」「所有する動物の組み合わせが特定の条件を満たしているかチェックする」「柵を配置する」「買った動物に応じてポイントを増やす」と、やることが多い。

 必然的に、他のプレイヤーは待つ時間が長くなる。やっている間に飽きてしまう。やっているほうも待っているほうもつまらない。


 また、やることが多いので手順を忘れてしまう。

 特に最後の「ポイントを増やす」を忘れがちだ。ポイントを増やし忘れてもそのままゲームは問題なく進行してしまう。後で「あれ? さっきポイント増やしたっけ?」「さっき獲得したの何点だったっけ?」となり、ポイントがごちゃごちゃになる。勝敗に直結するところなのに。

 途中のポイントをなくして、最終所持金+最終的に保有している動物に応じたポイントで決着、とかのほうがすっきりするとおもうな。

 そして柵はいらない(他プレイヤーの邪魔をできる黒柵だけでいい)。


ポイントの稼ぎ方がよくない

 単純に言うと「動物を買ったときに支払った金額に応じてポイントが入る」という仕組みだ。

 これが「誰よりも魅力的な動物園を作る」という目的にあっていない。

 めずらしい動物を飼っていることや、入場者収入が多いことは、直接ポイントに結びつかない。

 ポイントを稼ぐ近道は「高い動物を買う」なので、たとえばゾウを所持しつづけるよりも「ゾウを買う」→「ゾウを売ってキリンを買う」→「キリンを売ってまたゾウを買う」というプレーをするほうが高得点になる。

 もしほんとにこんなことをやったら動物園失格だろう。でもこれが最適解なのだ。

 一応「ゲーム終了時に多くの動物を持っていたら5ポイント入る」というルールはあるが、その5ポイントを得るよりも売買をくりかえすほうがポイントを稼げてしまう。

「魅力的な動物園をつくる」ではなく「いかに動物の売買をくりかえすか」という動物ブローカーをめざすゲームになってしまっている。


ほぼ運ゲー

 引いた地形パネルによって飼える動物が決まる。おまけに序盤はお金も少ないので選択の余地はほぼない。草原を引いたからシマウマを買うしかない、のように半自動的に進んでいく。最初の3ターンぐらいはほぼ選択の余地がない。

 いくつか特殊効果を持つパネルもあるが、せっかくの特殊効果が無駄になることも多い。


 一方、序盤で「2マス分の効果を持つパネルを引く」「草原・森・岩・水パネルを1枚ずつ引いてボーナスを手にする」などのラッキーにめぐまれると、相当有利になる。後半でひっくりかえすのが難しくなるぐらいの差がついてしまう。

 中盤からはお金に余裕が出てくるので多少選択肢は生まれるが、それでも地形による縛りが強いので、選択の余地は小さい。そして勝ってようが負けてようがとるべき戦略は「より高い動物を買う」だけ。「負けているから可能性は低いが当たればでかい一発逆転を狙う」みたいな戦略はとりようがない。

 やることが多いわりに選択肢が少ないので「やらされている感」がすごく強い。ボードゲーム好きなぼくでも、子どもから「TAKUMI ZOOやろう」と言われると「めんどくせー」とおもうようになった。

 後半はお金が余るので、お金でできることがもっと多ければいいんだけどな。土地を増やすとか。高い動物を買おうにも、すでに売り切れだったり、スペースがなかったりして、お金の使い道がないんだよね。


無茶なルール

 いくつか“役”のようなものがあり、特定の動物を4種そろえると追加ポイントがもらえる。

 この役の難易度がひどい。かんたんな役はそこそこ作れるが、いちばん難しい役はロイヤルストレートフラッシュをつくるぐらいの難易度だ(それ以上かもしれない)。上から二番目の役でもストレートフラッシュぐらいの難しさはある。つまり、まずお目にかかることはない。そして超幸運にめぐまれてこの役をそろえたとしても、その頃にはもうお金はありあまっているのでボーナスの効果が薄い。実質ルールが死んでいる。

 この“役”が多彩であれば麻雀のような駆け引きのおもしろさが生まれるのだろうが。もったいない。


小学生にしてはすごい

 厳しいことばかり書いてしまったが、それは他の市販ボードゲームと比べたからで、小学生が作ったゲームとしてはめちゃくちゃすごい。最初は楽しめた(何度かやっていると攻略法が一本道になってただの作業になってしまうが)。

 大人が介入してルールを調整すればもっとおもしろくなるんだろうけど、それをしてしまうと「小学生が考えた」という最大の魅力が失われてしまうので、まあしかたない。逆に言うとこの粗さこそがこのゲームの長所かもしれない。

 欠点はあるけど、世の中に数多く出回っているボードゲームの中で平均点ぐらいのおもしろさはある。ちょっと改良すればずっとずっと良くなりそうだし。

 がんばれ未来の巨匠たち(TAKUMIだけに)!


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【ボードゲームレビュー】DORADA(ドラダ)


2025年3月27日木曜日

【ボードゲームレビュー】DORADA(ドラダ)


 DORADA(ドラダ)

 1988年にドイツで発売されたボードゲーム。発売中止になっていたらしいが、2024年に再販されたらしい。総合パズル雑誌『ニコリ』で紹介されていておもしろそうだったので購入。



【ルール】

  • 2~4人用。4人でやっても1ゲーム15分もかからないぐらい。
  • 基本的にはすごろく。1人4つの駒を持ち、サイコロを振った後にどれか1つの駒を動かし、ゴールを目指す。
  • 他人の駒や自分の駒の上に乗ることができる。上に他の駒が乗っている駒は動かすことができない。
  • 盤面中盤にはワープゾーンがあり、そこに止まると一気にゴールできる。
  • 盤面にはいくつか落とし穴があり、そこに落ちた駒はもう動かせない。ただし1つの穴につき落ちる駒は1つまでで、すでに誰かが落ちている穴は通常のマスと同じになる。
  • 盤面には「+4」「-3」などの指示があるマスがあり、止まった場合はその指示に従う。ただしこれらの指示に従って進んでいる場合にかぎり、他の駒を飛ばして移動する(このルールはちょっとややこしい)。
  • はじめは4つの駒を動かせるが、「既にゴールした」「落とし穴に落ちた」「上に他の駒が乗っている」駒は動かせないため、動かせる駒は減っていく。動かせる駒がひとつもない場合はパス。
  • すべての駒がゴール、または落とし穴に落ちたら試合終了。得点の高いプレイヤーが勝ち。落とし穴に落ちた駒は0点。ゴールした駒は、ゴール順に応じて点数が割り振られる。遅くゴールしたほうが得点は高くなる




【感想】

 シンプルなルールのすごろくなのにけっこう駆け引きが要求される。

 最後の「遅くゴールしたほうが得点は高くなる」というルールが非常にユニークかつゲームをおもしろくしている。

 これにより「いつゴールするのがベストか?」という迷いが生まれる。「ゴールできるけど、今ゴールしてもたぶん得点は低いだろうな。かといってこのチャンスを逃したらゴールできずに落とし穴に落ちてしまうかもしれない……」という葛藤が生じる。

 また「他プレイヤーの駒の上に乗ってじゃまをする(相手は選択肢が減るので落とし穴にはまりやすくなる)」という戦術が使えるので「いかに敵の駒の動きを封じるか」という攻防がくりひろげられることになる。基本的に「上に乗られて動けなくなる」のはマイナスなのだが、「すべての駒が動けなくなる」のはプラスにはたらく。なぜなら、ゴールが遅くなって高得点につながるから。ある戦略が状況次第でプラスにもマイナスにもはたらくのがおもしろい。。


 そして、いちばんいいのが運の要素が大きいこと。なんだかんだいってすごろくなので、最後はサイコロの出目で決まる。戦略をめぐらせることで勝率をある程度引き上げることはできるが、運が悪ければ負けるときは負ける。

 ぼくは子どもと遊ぶのだが手加減はしたくないので、このぐらいの「戦略も重要だが結局は運で決まる」ゲームがちょうどいい。確率も戦略もわかっていない小さい子でも勝てる(ただしわざと負けてあげることもできないので、「負けたらすぐ泣く子」と遊ぶのには向いてない)。


 あとゲームのデザインもいい。シンプルな盤面とシンプルな形の駒。材質もしっかりしている。ゴール地点には駒を10個以上積み重ねることもあるのだが、安定感があってぜんぜん倒れない。ボードゲームによっては「うっかり倒しちゃって状況がむちゃくちゃになってしまう」ことがあってけっこうなストレスなのだが、その心配も少ない。


 シンプルなルール、誰にでも勝つチャンスがある、ほどよい駆け引き、短時間で完結、とボードゲーム初心者に安心しておすすめできるゲームです。


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2025年3月25日火曜日

【読書感想文】貫井 徳郎『光と影の誘惑』 / ペンギン関係ないんかい


 光と影の誘惑

貫井 徳郎

内容(e-honより)
銀行の現金輸送車を襲い、一億円を手に入れろ―。鬱屈するしかない日常に辟易し、二人の男が巧妙に仕組んだ輸送車からの現金強奪計画。すべてはうまくいくかのようにみえたのだが…。男たちの野望が招いた悲劇を描く表題作ほか、平和な家庭を突如襲った児童誘拐事件、動物園での密室殺人など、名手・貫井徳郎が鮮やかなストーリーテリングで魅せる、珠玉の中編ミステリ4編。

 ミステリ中篇集。元は1998年刊行だそう。

 うーん、「おもしろくなりそう」な作品が多かったな……。

(以下、ネタバレ含みます)



『長く孤独な誘拐』

 息子が誘拐された。両親のもとにかかってきた誘拐犯からの電話。誘拐犯の要求は「息子を返してほしければ、今から言う子を誘拐しろ……」

 息子を誘拐された被害者が犯人になるという二重誘拐事件。これはおもしろい設定だとおもったのだが……。


 あたりまえだけど、「自分で誘拐&身代金受け渡しをやる」よりも「会ったこともない人に命じて誘拐&身代金受け渡しをさせる」ほうがはるかに難しいはず。それなのに順調に事が運ぶ。ということは……。

 かなり早い段階でオチが読めてしまう。そもそもミステリで誘拐事件が書かれる場合って、かなりの確率で狂言誘拐パターンだからね。



『二十四羽の目撃者』

 突然の海外コメディのような文体。そのわりにウィットに富んだ会話がくりひろげられるわけではなく、「怖い上司に怒られちゃったよ。とほほ……」「おっかない警察官に怒られちゃったよ。とほほ……」みたいな昭和臭の漂うやりとりが続く。

 そもそもこの人の文章は重めで、説明が多くてテンポが遅いので、こういう軽妙な文体は似合わないとおもうんだけど。

 動物園で起きた殺人事件、屋外の密室、という設定はおもしろかったんだけど、明らかになるのは「ミステリ作家が頭の中だけで考えたとうていうまくいくとはおもえないトリック」。なんだよ、「手袋に風船を結びつけておき、発砲後は風船が飛んでいくので現場に残らない」って。

 そして、意味ありげなタイトルも、動物園という舞台もぜんぜん本筋に関係なかった。ペンギン舎の横で殺人が起きてタイトルが『二十四羽の目撃者』なのに、謎解きにペンギン関係ないんかい。



『光と影の誘惑』

 現金輸送車から金を奪う計画を立てる二人の男。

 もう、「ふたりの胸中が交互に語られる」時点であのパターンだとわかる。さすがに今では手垢にまみれすぎた手法。1998年時点ではまだ古びてなかったのかなあ。

 しかも「かつて自分が騙して殺した相手と同じ苗字で顔もよく似た男が現れたのにまったく警戒しない」ってどうなのよ。雑ー!


『我が母の教えたまいし歌』

 父を亡くした大学生。葬儀を取り仕切っているうちに、一人っ子だとおもって育ってきた自分に姉がいたことを知らされる。さらに人付き合いの苦手な母がかつては社交的だったこと、両親の転居の時期にいろいろなことが起こっていたことなどが明らかに。はたして姉はどこにいるのか……。


 四篇の中ではこれがいちばんよかった。オチの切れ味もいいし、真相を明かしてすぱっと終わらせているのもいい。



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