2025年4月17日木曜日

【読書感想文】小川 哲『地図と拳』 / 技術者の見た満洲国

地図と拳

小川 哲

内容(e-honより)
「君は満洲という白紙の地図に、夢を書きこむ」日本からの密偵に帯同し、通訳として満洲に渡った細川。ロシアの鉄道網拡大のために派遣された神父クラスニコフ。叔父にだまされ不毛の土地へと移住した孫悟空。地図に描かれた存在しない島を探し、海を渡った須野…。奉天の東にある“李家鎮”へと呼び寄せられた男たち。「燃える土」をめぐり、殺戮の半世紀を生きる。第168回直木賞、第13回山田風太郎賞受賞作。

 ハードカバーで600ページ超の重厚な大河小説。

 満洲国という国の誕生から消滅までを書いた群像小説。史実と創作がうまくからみあっていて、どの部分をとってもおもしろい。史実に忠実な部分と、おとぎ話のような奇想天外な部分がモザイク画のように入り混じっている。

 この小説を書くにあたって、途方もなく膨大な史料を読んだのだろう。と同時に、それらをかみ砕いて血肉とした上で小説に還元している。膨大な史料から小説を書く人には「調べたことを全部書かなくちゃ!」というタイプが少なからずいるのだが、この著者は見事に取捨選択している。

 手塚治虫は史実と虚構を織り交ぜるのがうまい人だったけど、『地図と拳』にも近いものを感じる。


 ただ、個々のエピソードはどれもすごくおもしろいんだけど、全体を通してみるとひどく散漫な印象を受ける。いろんな登場人物の視点で語られるし、登場人物の立場もみんなそれぞれ異なる(日本人技師、ロシア人神父、中国人の地主、中国人ゲリラ、日本人の軍人など)。時代も移り変わるし、登場人物も死んだり生まれたりして入れ替わる。

 それこそが著者の狙いなんだろうけど(人ではなく国の栄枯盛衰を書こうとしたのだろう)、読んでいて尻のおさまりが悪いというか、どういう立場で読めばいいのかわからない。神の視点で読むのが正解なのかもしれないが、ぼくは神を経験したことないからなあ。

 この読みづらさはどっかで経験したことあるとおもったら、あれだ、歴史の教科書だ。

 ぼくは本を読むのは好きだけど、歴史の教科書は苦手だった。それぞれまったくつながりのない説明がばらばらに並んでいるので、頭の切り替えに苦労するのだ。

 歴史の教科書が好きだった人ならもっと楽しめるのかもしれない。



『地図と拳』では、技術者として満洲国建設に関わった日本人が登場する。

 歴史の教科書だと「満洲事変をきっかけにして日本は満洲を占領した」と書かれるが、あたりまえだが軍人が戦いに勝ったからといって国はできない。計測をおこない、地図を作り、都市計画を立て、建物を建造する必要がある。

『地図と拳』の登場人物たちは、地図作成、都市計画、建築設計などを通して理想の満洲をつくりあげようとする。

 日本の大陸進出は身勝手な帝国主義によるものだったと教科書では教わるが、それは一面であり、すべてではなかったのだろう。少なくとも現場には使命感に燃えて、本気で啓蒙してやろうと考えていた人もいた。

 とはいえ侵略される側からしたらそんな理想や使命感なんて知ったこっちゃなくて「いい国であろうと悪い国であろうと侵略されたくない」としかおもえないだろうけど。

 住んでいる人間からすると、いい植民地より悪い独立国家かもしれない。



 これまでいろんな戦争文学を読んできたけど、つくづく感じるのは戦争のむなしさ。兵士も市民も大人も子どもも勝者も敗者も死者も生者も、みんな戦争によって悲惨な思いをする。得をする人なんてほとんどいない。

 それなのに、いざ戦争が始まってしまったらもはやどうすることもできない。止めようとしても止められない。個人も集団もえらくない人もえらい人も、誰にも止められない。





 圧倒的な資料にあたっているだけあって、随所に散りばめられたうんちくも楽しい。

「ずいぶんと建築に詳しいのだな」
 間取り、壁のレリーフ、柱の切り出し方、階段の形状、調度品の種類など、建物の薀蓄を熱心に語る細川に対し、思わずそう口にした。
 細川は珍しく照れ笑いを浮かべ「建築には歴史と思想が表れますから」と答えた。「それに、実用的な情報も得られます。この建物を見るだけで、ロシアが支那においてどのような狙いを持っているかがわかるのです」
「たとえばどんなことが?」
「なるほど」
「まず、地方の駐在武官ごときが本国から建材を取り寄せ、本国の建築家を使ってこれだけ立派な邸宅を建てていたという事実から、ロシアがかなり本気で、それも長期的に満洲を支配しようとしていたことがわかるでしょう」
「もう少し抽象的な側面の話もしましょうか。この建築は様々な意匠が折衷されていますが、基本的にはバロック主義と呼ばれている様式です。この建築が街の中でも一際目立っていることからわかると思いますが、ロシア人はこの地を占領する上で、清の風習を取り入れるつもりはなく、自分たちの文化を押しつけるつもりだったのです」
 細川は「もちろん、かなり具体的なこともわかります」と続けた。「この建築は街区から百五十メートルほど離れています。馬賊や団練が好んで使う武器である天門槍の有効射程からちょうど外れており、それでいてロシア軍の小銃の射程内に入る距離です。この家の街路に向いた窓には兵士を配置することもできますし、庭に機関銃を設置すれば街区に射線が通ります。煉瓦の壁は耐火性があり、榴弾に耐える厚さにもなっていて、暴動が発生したときには要塞に変わるのです。地下の貯蔵庫には、大量の食糧と弾薬が備蓄してあったのでしょう。ロシア軍はこの街を支配しつつも、馬賊や団練との戦闘に備えていました。万が一の際は、友軍が到着するまで守りきれるようにしていたのです」

 こういう話、大好き!


 ぼくは建築の知識は皆無なので、建物を見ても「でっけえなー」とか「掃除たいへんそうだなー」とかのアホみたいな感想しか出てこないけど、知識のある人が見ればこれだけの情報を引き出せるのだ。

 昔、今和泉隆行さんという架空地図を描いてる人の講演を聞きにいったら
「地図を見れば、その町がどんな歴史を持っていて、どこにどんな人が住んでいてどんな生活をしているかがだいたいわかる」
と語っていた。

 知識がある人って、そうでない人と同じものを見ていても目に映る景色がまったく違うんだよね。『ブラタモリ』でも、タモリさんはただの坂道や山(としか我々には見えないもの)からいろんな情報を引き出してるもんね。

 こういう、「自分は持っていない視点からものを見る愉しさ」を味わわせてくれるのが読書の喜びだ。




 いちばん印象深かった挿話。
  たとえば、ヨーロッパの古地図には「画家の妻の島」と呼ばれる島がいくつか含まれている。
 ヨーロッパでは専門家の調査結果を元に、最終的に職業画家が地図を清書することが多い。画家が地図を描き終えたとき、隣にいた妻がこう囁く。
「私の島が欲しい」
 画家はその話を聞いて、地図に一つの島を書き加える。こうして、架空の島や架空の国家、架空の大陸が描かれる。どうやら歴史上、そういった例がいくつも存在したようだ。

 なんかロマンがある話だなー。

 もしかしたら今でも、地球から遠く離れた宇宙の彼方に「天文学者の妻の星」があるかもね。


【関連記事】

【読書感想文】中脇 初枝『世界の果てのこどもたち』 / 高カロリー小説

生きる昭和史/ 小熊 英二 『生きて帰ってきた男』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2025年4月14日月曜日

【芸能鑑賞】『シークレットNGハウス』

 シークレットNGハウス
(Amazon Prime)


 おもしろかった。家族で観たのだが、特に小学生の娘がおもしろがって、すべて観終わった後はもう続きを観られないことをほんとに残念そうにしていた。シーズン2を頼む!


 まず人選が絶妙。謎解き王、守銭奴、ツッコミ役、果敢に攻める人、異様に勘がいい人、何も考えていない人、読みがことごとく外れるのにラッキーだけで勝ってしまう人……。

 すべて狙ったわけじゃないだろうけど、結果的にはすごくバランスのいいメンバーだった。それだけに敗退して去ってゆくのが残念。

 負けた人が仕掛け人として参加するようなシステムでもよかったのかなーと観ていておもった。


 そして司会進行の二人もちょうどよかった。こういうゲームって司会者によっては下品になってしまうが、二人に品があるのでそこまで悪辣な印象を受けない。それでいて底意地の悪さは存分に発揮していた(大縄跳びで「謝る」をNGに設定する意地の悪さよ!)。

 NG行動の設定が事前に用意されたものではなく、その場で司会の二人が決めるのもいい方向にはたらいていた。スタッフは大変だろうけど(どこからアウトにするかのボーダーをその場で決めないといけないので)、絶対にこっちのほうがゲームはおもしろくなる。




 シーズン1はものすごくおもしろいコンテンツだったのだけど、ただこれはたまたまめぐりあわせが良かったからで、ちょっとでも歯車が狂っていたら失敗に終わっていた可能性もある。

 特に1stステージは「数字を言ってはいけない」というルールが引っかかりやすすぎるのと、人数が多すぎて誰がNGになったのかわからないため、なにがなんだかわからないままNGが積みあがっていってしまった。「何がNGか推察する」というこのゲームの醍醐味にたどりつく前に終わってしまった印象。

 1stステージと敗者復活ステージはほぼ運ゲーだったので、「誰がNGになったかわからない」というルールは、終盤人数が減ってきてからの適用でいいとおもうな(決勝は誰がNGかわからないことがおもしろさを生んでいたが)。




 もうひとつ、シーズン2があるなら改善してほしい点は、守りを固めにくくしてほしいということ。

 実際、序盤は「何もしない」が最善策になってしまっていた。3rdステージや敗者復活ステージでようやく「30秒黙る」「指示に従わない」がNGに指定されていたが、これらは全ステージ共通のNGにしてほしいぐらい(参加者に公開してもいい)。

 だってこのままだと「一切の会話を拒否して、ときどき意味不明な奇声を発する」が最強の戦略になってしまうもの。


 攻め合いのほうが観ていておもしろいわけだから、攻める人が有利になってほしい。

 NGを「〇〇と言う」「〇〇をする」の“やってはいけないこと”だけではなく、「質問に答えない」とか「食べはじめるのがいちばん遅い」とかの“やらないといけないこと”にしないと、様子見ばかりが横行してしまうよ。

 それか、しりとりや古今東西みたいなゲームをさせて、強制的にしゃべらないといけない状況をつくるか。




 どのステージもそれぞれおもしろかったが、中でも2ndステージがいちばん良かった。

 参加者たちがだんだん状況をわかってきて腹のさぐりあいをする中、ゲストの仕掛け人が虚実入り混じった情報を与えて引っかきまわす。

 ゲストがいろいろ呼びかけてるのに参加者たちに無視されつづける、という状況が最高におもしろかった(この番組じゃなければ絶対にそんな扱いを受けることのない人だったのが余計に)。

 仕掛人がいたほうがおもしろい。




 シーズン1で十分おもしろかったけど、運営側も手探り状態だったので、まだまだおもしろくなりそうな余地がある。

 ぜひシーズン2やってください!


【関連記事】



2025年4月8日火曜日

小ネタ 33(だんごとたいやき / 用紙切っちゃいました / 藤子不二雄)


だんごとたいやき

『だんご3兄弟』の歌詞には「だんご」というフレーズが25回も出てくる。

 一方、『およげたいやきくん』に「たいやき」というフレーズは終盤に2回しか出てこない。

 子ども向け番組から生まれたヒットソング、和菓子をテーマにしている、という共通点がありながら、歌詞のつくりにはずいぶん差がある。

『およげたいやきくん』がヒットした1975年は直接的な表現をしなくてもみんな文脈を読んで理解できたが、『だんご3兄弟』が発表された1999年にははっきりと説明しないと伝わらなくなった。これは読書離れが進み子どもたちの読解力が低下してからだ……というようなことはもちろんない。


用紙切っちゃいました

 いちいちシュレッダーかけるの面倒だな……。

 そうだ!

 あらかじめ裁断しておいた紙を作って売ろう!これでいちいちシュレッダーする手間が省けるぞ!


藤子不二雄

 藤子不二雄はFとAに分かれた後、扱っているテーマに大きく差が出た。藤子不二雄Aは、ゴルフ、麻雀、ギャンブル、バー、女遊びなど「大人の世界」を描くことが増え、藤子・F・不二雄は一貫して「子どもの世界」を描きつづけた(大人向けSF作品も描いているが、その中でもギャンブルや性についての描写は少ない)。

 ピッコロが善の神様と悪のピッコロ大魔王とに分化したように、藤子不二雄も大人の心と子どもの心に分かれたのかもしれない。


2025年4月7日月曜日

小ネタ 32(結露 / 断熱性能 / 六角形)

結露

 半年ほど前に引越しをしたのだが、今の家は結露がひどい。冬の朝は窓ガラスに露がびっしりついていて、窓の下がびちょびちょになっている。しかたなく毎朝窓を拭く。

 前の家はこんなことはなかった。前の家は古かったので断熱性が悪く、家の中も寒かった。だから室温と外気温の差が小さく、あまり結露しなかったのだろう。断熱性が高いのも良し悪しだ。

 結露する分空気が乾燥するので、寝る前に濡れタオルを干して加湿している。加湿された分の水分が朝になると窓ガラスについている。結露させるためにタオルを干しているような気がする。

 窓ガラスの水分をとりつつ、その水を使って空気を加湿させる仕組みはないものか。


断熱性能

 以前、家の構造に詳しい人の話を聞いたことがあるのだが「断熱のこと考えたら窓なんていらんねや!」

 そのときはなんて無茶な意見を言うんだとおもったが、たしかに窓は断熱の敵だ。夏は窓から熱が入ってくるし、冬は熱が逃げる。おまけに結露する。

 景観や風通しといった“住人の気分”は無視して、家のことだけを考えれば窓がないほうがいいかもしれない。

 もっと言えばドアもないほうがいい。完全密閉された壁だけの家なんて最高だ。


六角形

 六角形は漢字の読み通りなら「ろくかくけい」、発音は「ろっかっけー」だが、ひらがな表記はそのどちらでもない「ろっかくけい」だ。八角形、十角形、十一角形なども同様。

「洗濯機」は発音は「せんたっき」でもかな表記するときは「せんたくき」だが、数字は促音便をそのままかな表記することが許されている。

 たぶんだけど、かなり日本語に堪能な外国人でも「六角形のよみがなを書いてください」という問題に正しく答えられる人は少ないとおもう。これぞクイズヘキサゴン。



2025年4月1日火曜日

【ボードゲームレビュー】TAKUMI ZOO

TAKUMI ZOO


内容説明(Amazonより)
誰よりも魅力的な動物園を作る"拡大再生産型"ボードゲーム。土地パネルでボードを開拓し、地形に合わせて飼う動物を選んで、一番ポイントの高い動物園を作りあげましょう。いかに人気の動物を集めて動物園の魅力を高めるかがポイントです。大人も子供も一緒に、じっくり楽しめる本格ボードゲームです。


 なんと小学生が作ったボードゲームだという。絵も、小学生が一生懸命丁寧に描きましたという感じでかわいらしい。

 小学生が作ったゲームなら小学生がやったら楽しいんじゃないかとおもい、娘と遊ぶ目に購入。




かんたんなルール

  • 全員5コインを持ってスタート
  • 毎ターン、山札から地形パネルを1枚ずつ引く。地形には草原・森・岩・水の4種がある。それを自分の動物園パネルに並べていく。
  • 動物を購入して、地形に置くことができる。地形によって配置できる動物は異なる。また動物によって必要なパネル数も異なる。
  • 動物を配置することで毎ターン入場料収入がある。動物により購入金額や収入金額が異なる。また、特定の組み合わせを満たすことで収入が増える。
  • 動物を買うとポイントが入る。最終的にこのポイントが多い人が勝ち。
  • 地形パネルには、「買える動物が増える」「次に引くパネルを見ることができる」「他のプレイヤーと地形を交換できる」「他プレイヤーを邪魔できる」などの特殊効果を持つものもある。


ええとこ

「地形によって飼える動物が異なる」+「一度置いた地形は基本的に変えることができない(一部変更の効果を持つパネルも存在する)」というルールがなかなかいい。地形パネルをどこに置いたほうがいいだろう、と考える余地が生まれる。

 何度かやっていると、草原の横に岩を置かないほうがいいとかわかってくる。ただしどのパネルが出るかは運次第なので、配置には頭を悩ますことになる。

 あと単純な勝敗だけでなくスコアが出るので、ひとりでも遊べるのもいい。ぼくは子どもの頃ひとりでカードゲームをするような孤独を愛する少年だったので、このルールはうれしい(さすがに大人になった今はひとりではやらないけど)。


やることが多い

 仕事量が多いのでかなり煩わしい。

 毎ターン、「収入を得る」「パネルを引く」「パネルの特殊効果を発動させる」「パネルを配置する」「動物を買う」「所有する動物の組み合わせが特定の条件を満たしているかチェックする」「柵を配置する」「買った動物に応じてポイントを増やす」と、やることが多い。

 必然的に、他のプレイヤーは待つ時間が長くなる。やっている間に飽きてしまう。やっているほうも待っているほうもつまらない。


 また、やることが多いので手順を忘れてしまう。

 特に最後の「ポイントを増やす」を忘れがちだ。ポイントを増やし忘れてもそのままゲームは問題なく進行してしまう。後で「あれ? さっきポイント増やしたっけ?」「さっき獲得したの何点だったっけ?」となり、ポイントがごちゃごちゃになる。勝敗に直結するところなのに。

 途中のポイントをなくして、最終所持金+最終的に保有している動物に応じたポイントで決着、とかのほうがすっきりするとおもうな。

 そして柵はいらない(他プレイヤーの邪魔をできる黒柵だけでいい)。


ポイントの稼ぎ方がよくない

 単純に言うと「動物を買ったときに支払った金額に応じてポイントが入る」という仕組みだ。

 これが「誰よりも魅力的な動物園を作る」という目的にあっていない。

 めずらしい動物を飼っていることや、入場者収入が多いことは、直接ポイントに結びつかない。

 ポイントを稼ぐ近道は「高い動物を買う」なので、たとえばゾウを所持しつづけるよりも「ゾウを買う」→「ゾウを売ってキリンを買う」→「キリンを売ってまたゾウを買う」というプレーをするほうが高得点になる。

 もしほんとにこんなことをやったら動物園失格だろう。でもこれが最適解なのだ。

 一応「ゲーム終了時に多くの動物を持っていたら5ポイント入る」というルールはあるが、その5ポイントを得るよりも売買をくりかえすほうがポイントを稼げてしまう。

「魅力的な動物園をつくる」ではなく「いかに動物の売買をくりかえすか」という動物ブローカーをめざすゲームになってしまっている。


ほぼ運ゲー

 引いた地形パネルによって飼える動物が決まる。おまけに序盤はお金も少ないので選択の余地はほぼない。草原を引いたからシマウマを買うしかない、のように半自動的に進んでいく。最初の3ターンぐらいはほぼ選択の余地がない。

 いくつか特殊効果を持つパネルもあるが、せっかくの特殊効果が無駄になることも多い。


 一方、序盤で「2マス分の効果を持つパネルを引く」「草原・森・岩・水パネルを1枚ずつ引いてボーナスを手にする」などのラッキーにめぐまれると、相当有利になる。後半でひっくりかえすのが難しくなるぐらいの差がついてしまう。

 中盤からはお金に余裕が出てくるので多少選択肢は生まれるが、それでも地形による縛りが強いので、選択の余地は小さい。そして勝ってようが負けてようがとるべき戦略は「より高い動物を買う」だけ。「負けているから可能性は低いが当たればでかい一発逆転を狙う」みたいな戦略はとりようがない。

 やることが多いわりに選択肢が少ないので「やらされている感」がすごく強い。ボードゲーム好きなぼくでも、子どもから「TAKUMI ZOOやろう」と言われると「めんどくせー」とおもうようになった。

 後半はお金が余るので、お金でできることがもっと多ければいいんだけどな。土地を増やすとか。高い動物を買おうにも、すでに売り切れだったり、スペースがなかったりして、お金の使い道がないんだよね。


無茶なルール

 いくつか“役”のようなものがあり、特定の動物を4種そろえると追加ポイントがもらえる。

 この役の難易度がひどい。かんたんな役はそこそこ作れるが、いちばん難しい役はロイヤルストレートフラッシュをつくるぐらいの難易度だ(それ以上かもしれない)。上から二番目の役でもストレートフラッシュぐらいの難しさはある。つまり、まずお目にかかることはない。そして超幸運にめぐまれてこの役をそろえたとしても、その頃にはもうお金はありあまっているのでボーナスの効果が薄い。実質ルールが死んでいる。

 この“役”が多彩であれば麻雀のような駆け引きのおもしろさが生まれるのだろうが。もったいない。


小学生にしてはすごい

 厳しいことばかり書いてしまったが、それは他の市販ボードゲームと比べたからで、小学生が作ったゲームとしてはめちゃくちゃすごい。最初は楽しめた(何度かやっていると攻略法が一本道になってただの作業になってしまうが)。

 大人が介入してルールを調整すればもっとおもしろくなるんだろうけど、それをしてしまうと「小学生が考えた」という最大の魅力が失われてしまうので、まあしかたない。逆に言うとこの粗さこそがこのゲームの長所かもしれない。

 欠点はあるけど、世の中に数多く出回っているボードゲームの中で平均点ぐらいのおもしろさはある。ちょっと改良すればずっとずっと良くなりそうだし。

 がんばれ未来の巨匠たち(TAKUMIだけに)!


【関連記事】

【ボードゲームレビュー】街コロ通

【ボードゲームレビュー】ラビリンス

【ボードゲームレビュー】DORADA(ドラダ)


2025年3月27日木曜日

【ボードゲームレビュー】DORADA(ドラダ)


 DORADA(ドラダ)

 1988年にドイツで発売されたボードゲーム。発売中止になっていたらしいが、2024年に再販されたらしい。総合パズル雑誌『ニコリ』で紹介されていておもしろそうだったので購入。



【ルール】

  • 2~4人用。4人でやっても1ゲーム15分もかからないぐらい。
  • 基本的にはすごろく。1人4つの駒を持ち、サイコロを振った後にどれか1つの駒を動かし、ゴールを目指す。
  • 他人の駒や自分の駒の上に乗ることができる。上に他の駒が乗っている駒は動かすことができない。
  • 盤面中盤にはワープゾーンがあり、そこに止まると一気にゴールできる。
  • 盤面にはいくつか落とし穴があり、そこに落ちた駒はもう動かせない。ただし1つの穴につき落ちる駒は1つまでで、すでに誰かが落ちている穴は通常のマスと同じになる。
  • 盤面には「+4」「-3」などの指示があるマスがあり、止まった場合はその指示に従う。ただしこれらの指示に従って進んでいる場合にかぎり、他の駒を飛ばして移動する(このルールはちょっとややこしい)。
  • はじめは4つの駒を動かせるが、「既にゴールした」「落とし穴に落ちた」「上に他の駒が乗っている」駒は動かせないため、動かせる駒は減っていく。動かせる駒がひとつもない場合はパス。
  • すべての駒がゴール、または落とし穴に落ちたら試合終了。得点の高いプレイヤーが勝ち。落とし穴に落ちた駒は0点。ゴールした駒は、ゴール順に応じて点数が割り振られる。遅くゴールしたほうが得点は高くなる




【感想】

 シンプルなルールのすごろくなのにけっこう駆け引きが要求される。

 最後の「遅くゴールしたほうが得点は高くなる」というルールが非常にユニークかつゲームをおもしろくしている。

 これにより「いつゴールするのがベストか?」という迷いが生まれる。「ゴールできるけど、今ゴールしてもたぶん得点は低いだろうな。かといってこのチャンスを逃したらゴールできずに落とし穴に落ちてしまうかもしれない……」という葛藤が生じる。

 また「他プレイヤーの駒の上に乗ってじゃまをする(相手は選択肢が減るので落とし穴にはまりやすくなる)」という戦術が使えるので「いかに敵の駒の動きを封じるか」という攻防がくりひろげられることになる。基本的に「上に乗られて動けなくなる」のはマイナスなのだが、「すべての駒が動けなくなる」のはプラスにはたらく。なぜなら、ゴールが遅くなって高得点につながるから。ある戦略が状況次第でプラスにもマイナスにもはたらくのがおもしろい。。


 そして、いちばんいいのが運の要素が大きいこと。なんだかんだいってすごろくなので、最後はサイコロの出目で決まる。戦略をめぐらせることで勝率をある程度引き上げることはできるが、運が悪ければ負けるときは負ける。

 ぼくは子どもと遊ぶのだが手加減はしたくないので、このぐらいの「戦略も重要だが結局は運で決まる」ゲームがちょうどいい。確率も戦略もわかっていない小さい子でも勝てる(ただしわざと負けてあげることもできないので、「負けたらすぐ泣く子」と遊ぶのには向いてない)。


 あとゲームのデザインもいい。シンプルな盤面とシンプルな形の駒。材質もしっかりしている。ゴール地点には駒を10個以上積み重ねることもあるのだが、安定感があってぜんぜん倒れない。ボードゲームによっては「うっかり倒しちゃって状況がむちゃくちゃになってしまう」ことがあってけっこうなストレスなのだが、その心配も少ない。


 シンプルなルール、誰にでも勝つチャンスがある、ほどよい駆け引き、短時間で完結、とボードゲーム初心者に安心しておすすめできるゲームです。


【関連記事】

【ボードゲームレビュー】街コロ通

【ボードゲームレビュー】ラビリンス


2025年3月25日火曜日

【読書感想文】貫井 徳郎『光と影の誘惑』 / ペンギン関係ないんかい


 光と影の誘惑

貫井 徳郎

内容(e-honより)
銀行の現金輸送車を襲い、一億円を手に入れろ―。鬱屈するしかない日常に辟易し、二人の男が巧妙に仕組んだ輸送車からの現金強奪計画。すべてはうまくいくかのようにみえたのだが…。男たちの野望が招いた悲劇を描く表題作ほか、平和な家庭を突如襲った児童誘拐事件、動物園での密室殺人など、名手・貫井徳郎が鮮やかなストーリーテリングで魅せる、珠玉の中編ミステリ4編。

 ミステリ中篇集。元は1998年刊行だそう。

 うーん、「おもしろくなりそう」な作品が多かったな……。

(以下、ネタバレ含みます)



『長く孤独な誘拐』

 息子が誘拐された。両親のもとにかかってきた誘拐犯からの電話。誘拐犯の要求は「息子を返してほしければ、今から言う子を誘拐しろ……」

 息子を誘拐された被害者が犯人になるという二重誘拐事件。これはおもしろい設定だとおもったのだが……。


 あたりまえだけど、「自分で誘拐&身代金受け渡しをやる」よりも「会ったこともない人に命じて誘拐&身代金受け渡しをさせる」ほうがはるかに難しいはず。それなのに順調に事が運ぶ。ということは……。

 かなり早い段階でオチが読めてしまう。そもそもミステリで誘拐事件が書かれる場合って、かなりの確率で狂言誘拐パターンだからね。



『二十四羽の目撃者』

 突然の海外コメディのような文体。そのわりにウィットに富んだ会話がくりひろげられるわけではなく、「怖い上司に怒られちゃったよ。とほほ……」「おっかない警察官に怒られちゃったよ。とほほ……」みたいな昭和臭の漂うやりとりが続く。

 そもそもこの人の文章は重めで、説明が多くてテンポが遅いので、こういう軽妙な文体は似合わないとおもうんだけど。

 動物園で起きた殺人事件、屋外の密室、という設定はおもしろかったんだけど、明らかになるのは「ミステリ作家が頭の中だけで考えたとうていうまくいくとはおもえないトリック」。なんだよ、「手袋に風船を結びつけておき、発砲後は風船が飛んでいくので現場に残らない」って。

 そして、意味ありげなタイトルも、動物園という舞台もぜんぜん本筋に関係なかった。ペンギン舎の横で殺人が起きてタイトルが『二十四羽の目撃者』なのに、謎解きにペンギン関係ないんかい。



『光と影の誘惑』

 現金輸送車から金を奪う計画を立てる二人の男。

 もう、「ふたりの胸中が交互に語られる」時点であのパターンだとわかる。さすがに今では手垢にまみれすぎた手法。1998年時点ではまだ古びてなかったのかなあ。

 しかも「かつて自分が騙して殺した相手と同じ苗字で顔もよく似た男が現れたのにまったく警戒しない」ってどうなのよ。雑ー!


『我が母の教えたまいし歌』

 父を亡くした大学生。葬儀を取り仕切っているうちに、一人っ子だとおもって育ってきた自分に姉がいたことを知らされる。さらに人付き合いの苦手な母がかつては社交的だったこと、両親の転居の時期にいろいろなことが起こっていたことなどが明らかに。はたして姉はどこにいるのか……。


 四篇の中ではこれがいちばんよかった。オチの切れ味もいいし、真相を明かしてすぱっと終わらせているのもいい。



【関連記事】

【コント】驚きのラスト! もう一度読み返したくなる! あなたも必ず騙される

【読書感想文】竹宮 ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』 / なんか悔しいけどおもしろかったぜ



 その他の読書感想文はこちら


【読書感想文】安藤優一郎『百万都市を俯瞰する 江戸の間取り』 / のび太みたいなことをやる大名

百万都市を俯瞰する
江戸の間取り

安藤優一郎

内容(Amazonより)
江戸は五〇〇年以上も前から関東の港湾都市として賑わいを見せていたが、天正18年(1590)に徳川家康が居城に定めたことで、大きく変貌を遂げた。当初は軍事拠点として城の整備が進められ、関ヶ原で徳川家が勝利したのち武家人口・町人人口が急増すると、一大消費地点として発展。ついには世界最大級の百万都市にまで成長し、現代東京の礎が築かれることとなる。
本書では、そんな江戸という巨大城下町を、「間取り」を介して解説していく。具体的には江戸城のほか、武家地、町人地、寺社地、江戸郊外地という五つの土地毎に章を分け、各建物の内部構造や周辺の俯瞰図を見ながら、江戸に住む人々の暮らしに迫っている。(中略)この五つの切り口を通じて、城下町江戸で暮らす武士や町人の生活を、様々な間取り図とともに解き明かしていこう。(「はじめに」より)

「間取り」という切り口で、江戸の人々の暮らしをひも解く本。江戸城、武家、寺社などが中心。ぼくは落語は好きだけど時代小説も時代劇もほとんど見ないので、個人的には名もなき人々の暮らしぶりを知りたかった。でも紙も文字も一般的でない時代なので、一般人の暮らしぶりをわざわざ書き残したりはしない。間取り図を残すのは名のある家や金持ちだけだよね。当然だけど残念。

 

 改めて、市井の人々の暮らしって残りにくいものだと感じる。

 今の我々の暮らしも百年後の人々にとっては興味深い「歴史資料」になっているんだろうけど、わざわざ不動産広告のチラシを百年後に残したりしないもんな。子孫に残すなら貴重な金銀財宝よりも、「ごみとしかおもえないどうでもいい紙切れ」とかのほうがおもしろいかもしれない。いや、金銀財宝も欲しいけど。



 おもしろかったのが、江戸に多くあった大名屋敷について。

 各藩の大名たちが住む屋敷は、幕府から与えられた土地に建てられた。ただし与えられたのは土地だけで、建物はそれぞれで建てなければならなかったそうだ。

 だからだろうか、それぞれ趣向を凝らしてけっこう好き勝手に建てていたのだそうだ。

  別荘・倉庫・避難所として使われた下屋敷は上屋敷・中屋敷とは異なり、複数下賜される事例が珍しくなかった。尾張藩もその一つだが、江戸郊外で下賜されることが多かったため、江戸城近くで下賜された上屋敷や中屋敷よりも面積はかなり大きかった。なかでも、尾張藩の戸山屋敷(現新宿区戸山一~三丁目)の広さは群を抜いた。市谷屋敷以上の規模である八万五〇〇〇坪を下賜されたが、尾張藩では周囲の農地を購入して戸山屋敷に組み込んだため、その分を合わせると一三万坪にも達した。
 (中略)
 戸山荘二十五景の一つである龍門の滝でのアトラクションは、戸山荘の名物の一つになっていた。まず、巨大な池から滝へと流れていく水を堰き止めておく。訪問客たちが渓流に配された飛び石の上を渡り切ると、堰き止めの板を外して滝へ水を落とす。そうすると、今まで渡って来た飛び石が水中に没するという趣向であった。
 (中略)
 戸山荘(戸山屋敷)のように、とりわけ面積が大きかった下屋敷は庭園化する傾向がみられたが、楽しめたのは景観だけではない。本物そっくりの宿場町のレプリカも作られていたのだ。
 同じく二十五景の一つに数えられた「御町屋通り」は、東海道小田原宿をモデルにして造られたと伝えられる。図のように、三七軒もの町屋が七五間(約一三六メートル)にわたって立ち並んでいた。一軒の間口は平均約三間(五・五メートル)だった。
 米屋・家具屋・菓子屋・旅龍屋などの店舗や弓師・矢師・鍛冶屋などの職人の店つまり町屋が、時代劇のセットのように実寸大に造られたのである。本当に旅をしているかのような幻想を戸山荘の訪問客に湧き立たせる粋な趣向が施されていた。

 人口の滝をつくって客に見せたり、宿場町のレプリカを作ったり。

 これはあれだな。ドラえもんの道具を使ってのび太がやるやつだな。

 江戸に住む大名というと何かと不自由なイメージがあったんだけど、こんなふうにあんな夢こんな夢かなえているのを見ると、けっこう江戸生活を楽しんでいた大名も多かったのかもしれない。単身赴任で羽を伸ばすみたいな。




 さらに屋敷内の土地を貸したり農地にしたりして、生活の足しにしていたという。

 貸家もあるが、屋敷内の土地を貸して生活の足しにするのは、御徒に限らず御家人にとってはごく普通の経済行為だった。他の組屋敷の事例をみると、同じ御家人や藩士のほか、御坊主衆・学者・医師などが御徒の屋敷に地借している。
 御徒の組屋敷は深川でも与えられたが、深川の場合は個々の屋敷の規模は一三〇坪ほどであった。建坪二〇~三〇坪ほどの建物の構造も山本政恒の屋敷と似たようなものだが、裕福な者は土蔵や湯殿を持っていた。
 空いた土地は農地にする一方、地代を取って貸し付けた。農地には茄子や胡瓜を植え、自家用にしている。
 組屋敷は組単位で活用する方法もあった。東京の初夏の風物詩として入谷(現台東区)の朝顔市は有名だが、御徒などの御家人が内職として栽培した朝顔を市場に出したことがはじまりである。栽培するとなると相応の土地が必要だが、そこで活用されたのが組屋敷だった。組屋敷として与えられた土地を朝顔の栽培地として共同利用したわけだ。
 現在の東京都新宿区大久保周辺に住んでいた鉄砲百人組の同心が組屋敷で共同して栽培したツツジに至っては、江戸のガーデニングブームのなかで名産品となる。東京都新宿区の花はツツジだが、その由緒は大久保の百人組同心のツツジ栽培にまでさかのぼるのである。
 他の御家人の組屋敷では鈴虫や金魚の飼育も盛んであった。養殖には巨大な池が必要だが、組単位で土地活用すれば、それも可能だ。こうした御家人によるサイドビジネスが、江戸の庭園・ペット文化を支えていた。

 武士は武士としてふるまっていたようにおもってしまうけど、武士は武士でけっこう商売をやっていたのだ。

 江戸時代の人々はつつましい生活をしていたようなイメージを持っていたけど、我々と同じように経済活動をしたり、趣味にお金を使ったりしていたことがわかる。ガーデニングをしたりペットを飼ったり。歴史の教科書には書かれないし時代劇にもあんまり出てこないけどさ。

 ひょっとすると江戸の町人のほうがぼくらより贅沢な生活を送っていたのかもね。


【関連記事】

【読書感想文】速水 融『歴史人口学の世界』 / 昔も今も都市は蟻地獄

【読書感想文】江戸時代は百姓の時代 / 渡辺 尚志『百姓たちの江戸時代』



 その他の読書感想文はこちら


2025年3月21日金曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』


『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画44作目で、「映画ドラえもん」シリーズ45周年記念作品。絵の中の世界に飛び込んだドラえもんとのび太たちが、幻の宝石を巡って時空を超えた冒険を繰り広げる。
数十億円の価値がある絵画が発見されたというニュースを横目に、夏休みの宿題である絵に取り組んでいるのび太。そんな彼の前に、突然絵の切れ端が落ちてくる。ひみつ道具「はいりこみライト」を使い、その絵の中に入って探検をしていると、不思議な少女クレアと出会う。彼女の頼みを受けて「アートリア公国」を目指すドラえもんとのび太たちだったが、そこはニュースで話題になっていた絵画に描かれた、中世ヨーロッパの世界だった。その世界には「アートリアブルー」という幻の宝石がどこかに眠っているという。幻の宝石を探すことになったドラえもんとのび太たちだったが、やがてアートリア公国に伝わる世界滅亡の伝説がよみがえってしまい、大ピンチに陥る。

 映画館にて視聴。

 事前にレビューサイトをちらっと見たらかなり評判が良かった。「ドラえもん映画史上最高傑作」とまで書いている人もいた。期待しながら鑑賞。

 うん、これは噂にたがわぬ名作。史上最高傑作を決めるのはむずかしいが(ドラえもん映画のNo.1はたいてい子どものときに観た作品になる)、上位に入ることはまちがいない。

(以下、わずかにネタバレを含みます)



そんなに新しいことはしていないのがいい

 何がいいって、そんなに新しいことはしてないんだよね。

 ドラえもんの道具を使って非日常の世界に行って、そこで友だちができて、その世界になじんできたところで悪いやつが現れて、みんなで力を合わせて、ドラえもんの道具を使い、強大な敵と立ち向かう。最後は知恵と勇気で敵をやっつけてめでたしめでたし。

 典型的なドラえもん映画のパターンだ。40年以上前から大枠は変わっていない。

 でもこれでいい。制作者は、観客が何を求めているかをわかっている。

 ドラえもん映画を観にいく人は“ドラえもんの映画”を観たいのだ。脚本家や監督のクリエイティビティを見せつけられたいんじゃない(わかってる? 『のび太の×××××』を作った人たち)。

 いつものキャラクターたちが、いつものように行動し、いつものようにドラえもんが道具を出して解決する。そういう映画を観たいわけよ。「のび太が努力を重ねて演奏を上達させて音楽の力で敵をやっつける話」なんてやったら『ドラえもん』じゃないのよ(あっ書いちゃった)。

 ちゃんと『ドラえもん』の枠組みを守った中でおもしろい話を作ってほしい。『空の理想郷』や『絵世界物語』はそれができることを証明してくれた。マンネリと言われようと、同じところは同じでいい。なぜならドラえもん映画のメインターゲットである子どもたちは数年で入れ替わってゆくのだから。

 制約の中でいいものを作るのが真のクリエイターだとおもうよ。


秀逸なオープニング

 オープニング映像がすばらしい。『夢をかなえてドラえもん』に合わせて、のび太たちが名画の中で躍動する。いやがおうでもこれから始まる大冒険への期待をかきたてられてわくわくする。この映像だけくりかえし見たいぐらい。

 そして謎の少女、空から現れた欠けた絵。このミステリアスな導入をコミカルに描いているところもすばらしい。これからのストーリー展開に必要な導入をただの説明で処理せず、楽しいシーンとして見せてくれる。丁寧な仕事だ。

 中盤の水加工用ふりかけで家を作るシーンも、音楽ベースで楽しく見せてくれる。セリフはないけど何を言っているかがちゃんとわかる。いい仕事だ。


おなじみの道具

 原点回帰というか、今作では映画ドラえもんでおなじみの道具が数多く登場した。

 グルメテーブルかけ、着せ替えカメラ、とうめいマント、空気砲、ヒラリマント、瞬間接着銃……。

 今作のキーアイテムであるはいりこみライトは『ドラビアンナイト』などでおなじみの絵本入りこみぐつとほぼ同じ。

 ストーリー上重要な役割を果たす水加工用ふりかけ、かるがるつりざお、ころばし屋、本物クレヨン、モーゼステッキなども原作にも登場したことのある道具で、すぐに機能が理解できる。

 なので言葉による道具の説明がほとんどない。これがいい。

 小さい子にもすぐにわかるし、ストーリー進行のじゃまをしない。時空間チェンジャーみたいに「過去24時間内に行ったことがある場所と時間と範囲を指定して、現在いる空間と入れ替えることができる」なんてややこしい道具は出てこない。なんだそのごちゃごちゃした設定。『ドラえもん』読んだことあるのかよ(また『地球交響曲』の悪口になってしまった)。

「いちいちキャラクターや設定の説明をせずに済むのでストーリー展開に時間を割くことができる」というシリーズものの利点をうまく生かしている。


伏線のうまさとわざとらしさ

「わらわは風呂は嫌いじゃ」のセリフや流しそうめんのシーンが、結末に関するヒントになっているのがニクい。

 “後の展開への伏線になっているけど、それに気づかなくてもおもしろい”のがいい伏線だ。

 一方で、ボスとの戦闘で起死回生の役割を果たす道具については、少々わざとらしい。かなり強めに印象付けようとしてくるので「あ、これは終盤で使うやつだな」とわかるし、「あの道具さえあれば」なんて不自然なセリフまで出てくる。いちばんカタルシスを得られる場面だっただけに、もっとさりげなく提示してほしかったな。


 あと、ちょっと省略が効きすぎていた。

 しずかちゃんが二回目に絵世界に来たシーンとか、ジャイアンたちが眠りから覚めるシーンとかが省略されていたので、うちの子(11歳)は観終わった後に「いつジャイアンたちは目覚めたの?」となっていた。

 絵世界についての説明も短く、子どもが一度観ただけですべてを理解するのはかなりむずかしいんじゃないかとおもう。

 次から次にいろんなことが起こり、ストーリーのボリュームがあるので観ていて楽しいが、その代償として「子どもがすんなり理解できる」点が損なわれているように感じる。

 ディズニー映画もそうだけど、ターゲットが広がると同時にどんどんストーリーが複雑化して、本来のターゲットであった子どもが置いてけぼりになっているようにおもえる。少子化だからしかたないのかな……。


ほどよいメッセージ性

 ほとんどのドラえもん映画は、ただのエンタテインメントだけでなく、若干のメッセージ性も持っている。

 ほどよいメッセージは物語に深みを持たせてくれるが、それが強すぎると説教くさくておもしろくない。またメッセージが作品にあっていなくてはならない。「努力は大切だよ」というのはメッセージとして間違っていないが、それを『新恐竜』や『地球交響曲』のようにのび太が努力している姿で表現したら『ドラえもん』でなくなる。

『絵世界物語』から発される(とぼくが感じた)メッセージは、『ドラえもん』の世界にあったものだった。

 マイロが友だちとしてのび太に語る言葉、ラストシーンでテレビに映った下手な絵を見たのび太のパパのつぶやき。決して押しつけがましいものではなく、とことん優しい。教訓ではなく、ダメなものに対する肯定。

 よく落語は“業の肯定”の芸だと言われる。愚かでも、怠惰でも、狡猾でも、強欲でも、それが人間の性だとして否定しない。ぼくは『ドラえもん』も同じだとおもう。

 のび太は愚かで怠惰で狡猾で強欲だ。何度も同じ過ちをくりかえし、努力も反省も成長もしない。けれどドラえもんはとことんのび太を甘やかす。何度裏切られても、のび太の「努力せずにいい目を見たい」という欲求を叶えてやろうとする。

 穂村弘は、母親の無償の愛情を「自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなもの」と表現したが、のび太にとって、そして読者にとってドラえもんは“壊れた蛇口”だ。

 ダメでもいい。ダメだからいい。ラストのパパのセリフは、『ドラえもん』に通底する精神をきちんと汲んだものだった。


最古参のファン

 ぼくが映画館で『絵世界物語』を観たのは日曜日のお昼。当然、周りはファミリー客ばかりだった。

 その中で目を引いたのが、近くの座席に座っていた客。70歳ぐらいのじいさん二人連れだった。

『ドラえもん』の連載開始が1969年。ひょっとするとあのじいさんたち、当時からの『ドラえもん』ファンかもしれない。

 いいなあ。ぼくもじいさん同士で『ドラえもん』を観にいくようなじじいになりたいぜ。


【関連記事】

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の地球交響曲』

【映画感想】『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』

【映画感想】『のび太の宇宙小戦争 2021』

【映画感想】『のび太の月面探査記』

出木杉の苦悩

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』

夏休みの宿題をさっさと終わらせてしまう人の心理

 「夏休みの宿題をやっていかなくて、最初のうちは先生から早く宿題出せよと言われるのに、そのうち何にも言われなくなる。その経験が今の自分を形作っている」

と書いている人がいた。


 なんかしみじみと納得した。

 そうなんだよなあ。「早く宿題出せよ」と言われるのはつらいけど、あれは意地悪ではなく、むしろ温情だったんだよなあと大人になってから気づくんだよね。更生するなら今のうちだぞ、とチャンスをくれてるんだよね。


 今でも忘れない、小学二年生の冬休み、始業式の前日の夜になっても宿題が終わってなくて、半泣きになって両親に手伝ってもらいながら(といっても答え合わせをやってもらうとか)なんとか終わらせた。

 親からは「今度からは早めにやるんだぞ」と言われ、つくづくその通りだとおもい、それからぼくは長期休みの宿題は毎回早めにやるようになった。

 今おもうと、小二の冬休みの「始業式前日なのに宿題が終わってない」はいい経験だとおもう。あの失敗があったからこそその後の大きな失敗を回避できたのだろう。


 夏休みの宿題をやらないと、嫌なことからすぐ逃げる大人になるのかどうかはわからない。相関があるようにおもうが、もしかするとぜんぜん関係ないのかもしれない。


 大人になってわかるのは、バイト、いやそれどころか正社員であっても、「何も言わずに来なくなる大人はめずらしくない」ということだ。

 いやまあいろんな事情があるんだろう。精神的に追い詰められているのかもしれない。

 それでも、いや、だからこそ、「やめます」の連絡はしたほうがいい。だって何も言わずに辞めるほうがずっとめんどくさいことになるんだから。電話して「今日でやめます」と言ったら雇い主から文句を言われて(まあ文句っていうか当然の抗議なんだけど)嫌な思いをするかもしれないが、せいぜい数分だけだ。

 連絡せずに仕事をサボり、その後何度も電話がかかってきてそのたびに嫌な思いをして、その店や会社の近くに行くたびにびくびくしたりするほうがずっとしんどい。へたしたら一生嫌なおもいを引きずることになる。


「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」という言葉があるが、「面倒ごとをやるのは一時の苦痛、やらないのは一生の苦痛」だ。


「夏休みの宿題を早めに終わらす」というと「嫌なことに耐える性格」のようにおもわれがちだが、ぜんぜんそんなことはない。

「宿題をやること」と「宿題が終わっていないこと」のどっちが嫌かを考え、後者のほうがより嫌だとおもっているから宿題をさっさとやってしまうのだ。

 つらいことに耐えたくないから、つらいことをやってしまうのだよ。



2025年3月17日月曜日

【芸能鑑賞】『座王 武道館ライブ(2025.3.11)』

 『座王 武道館ライブ(2025.3.11)』を配信で鑑賞。

 配信は4/13までだそうです。みんな観ろー!


 まず気になったのは、なんで武道館なんだ。関西ローカルの番組のライブなのに。番組ファンも関西の人が多いだろうし、大阪城ホールとかでやったほうが絶対にいいとおもうんだけどな。


 残念だったのは、見逃し配信で観たので、ネタがけっこうカットされていたこと。下ネタはまだなんとなく何を言ってるかわかるけど、歌ネタはまるまるカットされていたのが残念。

 まあこれは会場に行くか生配信で観ろよ、という話なのでしかたない。

 でもせめて、歌を流せない分、テロップを入れるとかしてほしかったな……。テレビだと入れてるんだから。

 けっこう序盤にネタカットが続いたので(チープモノマネとか)、「配信を買ったのは失敗だったか……?」と嫌な予感がしたのだが、中盤以降はカットが少なくて良かった。決勝ネタがカットとかだったら目も当てられない。



 まだ配信中なのでネタバレを避けるため、個々のネタの感想や勝敗については書かない。

 ただ、博多大吉さんの審査がなあ……。

 あまりにも日和見主義というか。強いとされている人に有利すぎる。

「アクリルスタンドの人気順でジャッジの札を上げてるんじゃないの?」とおもうぐらい、番狂わせが起きない。

 これだけ後攻がウケてたらさすがに後攻の勝ちだろう、せめてドローだろ、とおもうような場面でも先攻の札が上がる(大吉さんが配信後のトークで「時間の都合でドローにしないよう言われた」と語っていたのでドローにしなかったのはしかたないが……)。

 そりゃあウケと審査員の好みが一致しないことはあるだろうけど、それにしてもやりすぎ。

 心情はわかるけど。座王のライブに足を運ぶ人からしたら、いつものメンバーが勝ち進むところを観たいけど。ぼくだって、たとえばヤーレンズ出井さんは好きだけど、そんなに出ていない出井さんが座王ライブで優勝したら「ええ……」って気持ちにはなるけど。

 でも、そこだけは厳しくやってほしい。

 今でこそ西田さんに有利なジャッジをする人が増えたけど、初期の頃ってむしろ逆で「若手ばかりがやってる場でベテラン枠で出ている西田さんばっかり勝つのはどうなの?」って雰囲気があって(実際に西田さんも口にしていた)、それでもその空気をはねのけて、「そうはいっても西田に上げざるをえない」ってぐらい笑わせて勝ちまくったから鬼と呼ばれるようになったわけで。

 R藤本さんだって、こんなベジータ一本槍のキャラ芸人に大喜利とかできるのかよ、っていう空気の中で、オールマイティに何でもこなす(最初は一分トークだけ避けてたけど)姿がかっこよかったわけで。


 こっちは「えー人気があるのにこの人が序盤で終わっちゃうのー。まあでもたしかに相手が良かったもんね……」というジャッジがある中で、それでも競合が勝ち進む姿が見たいんだよ! 甘めの判定でもらった勝利じゃなくて!

 第一回目のライブということで守りに入っちゃったのかなあ。

 もっと、座王というコンテンツの強さを信じてほしかったな。新参者に厳しいコンテンツは衰退していくぜ。


 ジャッジに不満は残ったものの、イベントの内容自体は大満足だった。

 進行が良かったね。編集の利かないライブだから「何もしていない時間」をどれだけ減らすかがカギになるとおもうんだけど、待ちの時間は必要最小限だった。次がどのお題になるかわからない中で、あれはすごい。セットの出し入れとか相当シミュレーションしたんだろうな。

 登場シーンはわくわくさせてくれたし、広い会場だけどしっかり観客席もウケていたし、ゲストたちも盛り上げてくれた。何より、出場者みんなしっかりネタを考えてきたのだろう、派手にすべっている人がひとりもいなかったのがすごい(あっ、即興お笑いバトルというタテマエなんだっけ)。


 結果的に、配信チケットを買ってよかったとおもえるライブだった。

 次は大阪開催で、大須賀さん、武将様、西森さん、田崎さん、ゴエさん、ギブソンさんら関西常連組を呼んであげてほしい。順番が逆な気がするけど。


【関連記事】

座王

【芸能鑑賞】『最強新コンビ決定戦 THEゴールデンコンビ』


2025年3月14日金曜日

【読書感想文】伊沢 拓司『クイズ思考の解体』 / こんなにも手の内を明かして大丈夫なのか

クイズ思考の解体

伊沢 拓司

内容(Amazonより)
東大卒クイズ王・伊沢拓司の待望の新刊!
執筆2年半のALL書き下ろし。クイズ業界関係者から大絶賛!
「高校生クイズ」で史上初の2連覇を果たし、「東大王」や「QuizKnock」創設で日本のクイズ界を牽引する伊沢拓司。彼の「思考過程」がまるっと見えてくる”
「クイズは無限の可能性を持つエンターテインメントです。クイズが文化として見直され注目をされている今こそ、クイズを解く時に何を考えているかという過程を解剖したい! それが私を育ててくれたクイズ界への恩返しになる。その使命感で無心に執筆を続けた、『クイズのために書いたクイズの本』です! 」(伊沢)
クイズを愛しすぎた“時代の寵児"が、「クイズ本来の姿」を長大かつ詳細に、繊細だが優しく解き明かす、クイズの解体新書。伊沢氏自らが長期間に渡って調査を行い、圧倒的な情報量を詰め込んだ超大作である。熱意のこもった、かつ親しみやすい筆致で、クイズの現在地をロジカルに体系化し、未来への発展をいざなう。クイズプレーヤーはもちろん、クイズ愛好者にはぜひとも手に取ってもらいたい、クイズ史の「マイルストーン」となる一冊になるだろう。


 最近読んだ小川 哲『君のクイズ』がめっぽうおもしろかったので、競技クイズについてもっと知りたくなって読んでみた。

 クイズメディア・QuizKnockの代表である伊沢拓司氏によるクイズ論。

 テレビ番組『東大王』で有名になった人らしいが(高校生クイズで前人未到の2連覇をしたことでも有名になったそうだが)、ぼくは『東大王』を観たことがないので、この人のことは最近まで知らなかった(別の番組で、クイズに答えた後に「どのような思考を経てこの回答にたどりついたのか」という思考の流れを説明しているのを見て、おもしろい人だとおもった記憶がある)。


『クイズ思考の解体』を読んで、あまりにあけすけに語っていることに驚いた。もうクイズから離れた人ならまだしも、今後もクイズプレイヤー・クイズ作家として活躍するであろう人がこんなにも手の内を明かしちゃって大丈夫だろうか、と他人事ながら心配になった。

 伊沢さんがここまで手の内を明かしている理由は序文で「マジックからロジックへ」というフレーズとともに丁寧に説明されている。

 だがそれを読んだ上でも、やっぱり「こんなに書いちゃって大丈夫?」とおもってしまう。個人の損得よりもクイズ界全体の発展のことを考えている人だからこそなんだろうな。



 この本で最も多くのページが割かれているのが、第2章の『早押しクイズの分類』だ。

 早押しクイズをパターン分けし、それぞれの構文を解剖し、クイズプレイヤーたちがどのような思考を経てどこでボタンを押しているのかを解説している。

 結論から述べてしまえば、「クイズ王たちの頭の中には、クイズの問題文をパターン化した『構文集』的なものがあり、それを用いることで問題文の展開をある程度予測できる」のである。そして、構文集の中から当てはまるものを引っ張ってくることで予測が可能になり、それゆえに他人より多くの情報を早い段階で手にすることができる。情報の先取りをすることで、他人より早い段階で多くのヒントを得て、正解を導き出す。これが早押しの仕組みであり、「構文の把握」が重要な理由でもあるのだ。ゆえに、この章ではそうした脳内「構文集」の可視化を目指す。こうした構文ひとつひとつがどのように成り立ち、なぜ展開が推測できるのか、というところにフォーカスしていくことで、早押しを構造的に捉え、クイズプレーヤーの技術を可視化することが本章のゴールである。

 問題文の序盤を聞いただけで構文を推測し、どこで早押しボタンを押せるかを判断する。

 この際「どこで早押しボタンを押せるか」というのは「どこで正解にたどりつくのか」とイコールではない。正解がわかってからボタンを押していたのでは、レベルの高いクイズプレイヤー同士の戦いには勝てない。「もう少し問題文を聞けば正解がわかりそう」「八割ぐらいの確率でこういう問題だろうと推測できる」ぐらいのタイミングで押しているのだそうだ。

 問題文を聞いている数秒の間に、この先に読まれる問題文を推測し、そこから答えの候補を記憶からひっぱりだし、同時に他のプレイヤーがどのあたりでボタンを押すかを読み、ボタンを押す/押さないの判断をする。

 もしクイズプレイヤーの頭の中をのぞくことができたら、きっと1秒未満の間にとんでもない量の思考をめぐらせていることだろう。もしかするとそうした処理を身体化してしまい思考より先に動作があるのかもしれない。

 ほとんどスポーツと一緒だ。


 では、具体的に「ここで押せる」を見ていきたい。
 いくつか、「ここで押せる」ポイントを並べてみよう。わかるものがひとつでもあったら素晴らしい。
 「いまにお」
 「おおかみのふ」
 「きがいっ」
 「ひゃくはちじゅうどいじょ」
 そして、対応する問題文と答えはそれぞれ以下のようになる。
 「『今に王になれ』という願いを込めて、所属する力士のしこ名に『琴』という字が〜」「佐渡ヶ嶽部屋」
 「狼の糞を混ぜていたことから、漢字では『狼の煙』と書く、~」→「狼煙(のろし)」
 「木が一本立つ舞台で、ウラジミールとエストラゴンのふたりが~」→「『ゴドーを待ちながら』」
 「180度以上の広角な範囲を撮影できるレンズのことを、~」→「魚眼レンズ」

 さて、これらは納得のいくものだろうか。それとも、思わずツッコミたくなるものだろうか。
 そこで行われるツッコミはおそらく、「いやいや、他にも答えの選択肢がありそうじゃねえか!」というものだろう。しかしながら、ここに挙げたものはどれも、他の選択肢について考え尽くされた結果として実践された「ここで押せる」なのだ。「80%を目指す」と先に述べたが、これらの場合は95%以上の確率で正解にたどり着けるようなポイントであろう。
 これらは多くのプレーヤーが別解を探し、それでもなお「高確率でこの正解になるだろう」と認識されているものである。

 このへんはほとんど競技かるたと一緒だ。

 ただし競技かるたと違うのは、「ここで押せる」でも100%正解が確定していないこと。
 百人一首で「む」と読まれたら上の句は「むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに」しかないから下の句は「きりたちのほるあきのゆふくれ」と決まる(こういう字を“決まり字”という)。でも「きがいっ」で始まる問題の答えは『ゴドーを待ちながら』とは限らない。

「きがいっぽんなら木、木が二本なら林、では木が三本なら?」という問題かもしれない。ただしこれだとかんたんすぎるので、クイズ愛好家向けの大会ではまず出題されないだろう。そういうわけで「ここで押せる」なのだ。「ここで決まる」ではない。

 そして競技かるたと異なるのは、クイズの問題は無限にあり、ということは「ここで押せる」もまだ発見されていないだけで無限にあるということだ。

 勝負の強さだけでなく研究や勝敗を決する、そのあたりは将棋や囲碁に似ているかもしれない。




『クイズ思考の解体』ではクイズの問題だけでなく、その周辺に関する思考も開陳している。

 また、置かれた状況によっても判断が異なってくる。
 苦手なジャンルの問題だとわかったとしても、その問題が最終問題、かつ自分が負けている状況なら、勝負しなければダメだ。どうせ最後まで聞いてもわからない確率が高いなら、ひとまず早く押して、自分の中にある少ない選択肢から何か答えなければならない。まずは解答権を取るのが先決である。
 一方、序盤戦なら当然考え方が変わってくるはずだ。苦手ジャンルなんだから、余計な誤答をするわけにはいかない。得意ジャンルが来たときのためにも、ここは我慢しよう……などと考えることができるだろう。

 クイズの大会とは「多く正解することを目指すゲーム」かとおもっていたのだが、どうもそうではないらしい。

 戦略的にあえて間違えたり、確率が低い勝負に出たり。極端なことを言えば、1ポイントしかとれなくても、他のプレイヤーが全員0ポイントであればそれでいい、という考えになる。

 サッカーのリーグ戦で「この試合は引き分けでもいい」とか「1点差の負けならかまわない」みたいな状況が生まれるが、それに近い。しかもその状況が刻一刻と変わる。




 ただの知恵比べではない、クイズの本当の魅力を存分に教えてくれる本だった。

 なにしろ「どうやって知識を増やすか」という話はほとんど出てこない。一流のクイズプレイヤーにとっては知識を増やすことなんて自明のことで、そこからがスタートなのだろう。

 知識があることは、将棋で言うところの「駒の動かし方を知っている」ぐらいの話なのだ。


小ネタ 31(見たことがない踊り / 一人称 / 幸せ)

見たことがない踊り

名前は多くの人が知っているが誰も見たことがない踊り

それはアルペン踊り


一人称

ケイちゃん「ケイちゃん、きのうあそびにいってね」

担任「自分のことを『ケイちゃん』と呼ぶのは小さい子みたいでみっともないですよ。もう三年生なんだから、おうちの外では、まわりの人から呼ばれる呼び名で自分のことを呼ばないほうがいいと先生はおもいますよ」

ケイちゃん「先生の一人称は『先生』ですよね? 『先生』というのは周囲の人が使う敬称であって、敬称を一人称として使うのは名前を一人称にすること以上にみっともないとケイちゃんはおもいます」


幸せ

 あるコンテンツを褒めるときの「まだ〇〇を読んだことがない者は幸せである」という陳腐化した言い回しをまだ聞いたことがない者は幸せである。

 これから先も聞かずにすむ者はもっと幸せである。



2025年3月12日水曜日

【読書感想文】森見登美彦『四畳半王国見聞録』 / 学生時代に通っていた定食屋の味

四畳半王国見聞録

森見登美彦

内容(e-honより)
「ついに証明した!俺にはやはり恋人がいた!」。二年間の悪戦苦闘の末、数学氏はそう叫んだ。果たして、運命の女性の実在を数式で導き出せるのか(「大日本凡人會」)。水玉ブリーフの男、モザイク先輩、凹氏、マンドリン辻説法、見渡すかぎり阿呆ばっかり。そして、クリスマスイブ、鴨川で奇跡が起きる―。森見登美彦の真骨頂、京都を舞台に描く、笑いと妄想の連作短編集。


 森見登美彦の真骨頂というか、いつもの森見登美彦というか。京都(その中でも主に左京区や上京区)を舞台に、『四畳半神話大系』『【新釈】走れメロス 他四篇』『有頂天家族』の家族が登場し、ボロアパートの四畳半が舞台で、図書館警察や詭弁論部などの組織も書かれており……と、どこを切っても森見登美彦ワールド。


 内容もいつもの感じで、四畳半世界の在り方を高らかに宣言する『四畳半王国建国史』『四畳半王国開国史』、マジックリアリズム満載の『蝸牛の角』、愛に飢えた男が詭弁を弄して哀れな自己弁護の言い訳をこねくりまわす『グッド・バイ』など、「らしい」作品が並ぶ。

 いくつもの森見作品を読んできた身からすると、またこれか、とおもいつつも、これこれこの味、と安心する感覚もある。大学時代に通っていた定食屋に久しぶりに行ったら当時とまったく変わらない料理が出てきた感じに近い。

 まったく新しいものを読みたければ他の作家の本を読むので、森見登美彦作品はこれでいいのだ。




 気に入ったのは『大日本凡人會』。凡人であることを目指す、非凡人たちによる結社「大日本凡人會」。メンバーは、マンドリンを弾きながら人生論を説くことで迷える学生をさらに迷わせることのできる丹波、妄想的数学により存在を証明することで物質を出現させることのできる数学氏、モザイクを自由自在に操る能力を持つモザイク氏、気分が落ちこんだときは周囲の空間を凹ませる能力を持つ凹氏、そして存在感がなさすぎて誰にも気づいてもらえない無名君。

 これらのほとんど役に立たない能力を、決して人の役に立てないことが大日本凡人會の会則である。

 だがある日、この会則をめぐって亀裂が走り、メンバーが脱退。脱退したメンバーはその能力を駆使して他メンバーの行動を邪魔するようになる……。

 能力バトルでありながら、言うこと、やることが徹頭徹尾くだらない。

 このファンタジーとくだらなさの融合、これぞまさに森見登美彦! という感じだ。

 森見氏の他作品を楽しめた人なら迷わずおすすめできる一冊。


【関連記事】

【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』

【読書感想文】めずらしく成功した夢のコラボ / 森見 登美彦『四畳半タイムマシンブルース』



 その他の読書感想文はこちら


2025年3月10日月曜日

【読書感想文】奥田 英朗『罪の轍』 / わからないからこそ魅力的

罪の轍

奥田 英朗

内容(e-honより)
昭和三十八年十月、東京浅草で男児誘拐事件が発生。日本は震撼した。警視庁捜査一課の若手刑事、落合昌夫は、近隣に現れた北国訛りの青年が気になって仕方なかった。一刻も早い解決を目指す警察はやがて致命的な失態を演じる。憔悴する父母。公開された肉声。鉄道に残された“鍵”。凍りつくような孤独と逮捕にかける熱情が青い火花を散らす―。ミステリ史にその名を刻む、犯罪・捜査小説。

(少しネタバレを含みます)


 息詰まる迫力のクライムサスペンス。

 北海道の礼文島で漁師をしていた青年。記憶力が悪いため周囲から「莫迦」と呼ばれ、道徳心が低くあたりまえのように窃盗をはたらく。放火と窃盗をはたらいて逃げるように東京に出てきてからも悪気なく窃盗をくりかえす。

 やがて青年の周囲で殺人事件が起きる。殺人を犯したのは窃盗常習犯の青年なのか。警察の捜査の手が青年の近くまで伸びたとき、日本中を揺るがす誘拐事件が発生。はたして誘拐事件の犯人は「莫迦」と呼ばれる青年なのか……?


 作中では「吉夫ちゃん誘拐事件」となっているが、明らかに戦後最大の誘拐事件とも呼ばれる 吉展ちゃん誘拐殺人事件(Wikipedia) をモチーフにした事件。

 ただしあくまでモチーフであり、酷似している箇所もあれば、ぜんぜんちがう創作の部分もある。

 この年に黒澤明の『天国と地獄』が公開され、その影響で身代金目的の誘拐事件が増えたそうだ。背景には電話機の普及もあるそうだ。なるほど、電話はスピーディーかつ匿名でのやりとりができるから誘拐事件に向いているのか。考えたこともなかったな。


 吉展ちゃん誘拐事件は日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、テレビで犯人の音声を公開して大々的に公開捜査がおこなわれた事件であり、この事件を契機に電話の逆探知が可能になった事件でもあり、様々な面で日本誘拐事件史における転換点の事件だったようだ。

 それはつまりこの時点で警察に誘拐事件捜査のノウハウがなかったということでもあり、『罪の轍』ではそのあたりの警察のドタバタを丹念に描いている。

 警察署ごとの面子争いのせいで連携がうまくとれなかったり、身代金として用意していた紙幣の番号を控えわすれたり、急な予定変更に対応できず身代金から目を離してしまいその隙に持ち逃げされたり、テレビで情報提供を呼びかけたせいで有象無象の情報が寄せられて混乱をきたしたり……。

 これらの大部分は、実際の吉展ちゃん誘拐事件でも実際にあったことだという。戦後の日本の誘拐事件で、犯人が捕まらず、身代金奪取にも成功したのは0件だそうだ(もっとも警察に知らされなかった事件があった可能性はあるが)が、それもこうした失敗を踏まえて捜査が洗練されてきたからなのだろう。



 犯人側の視点から描いたクライムサスペンスはいろいろ読んだことあるが、『罪の轍』が特異なのはその犯人像だ。

 通常、そうした小説で描かれる犯人は、知能が高く、用意周到で、落ち着いて計画を遂行する実行力を持った人物として描かれる。

 だが『罪の轍』に出てくる宇野寛治はそうした人物像とはかけ離れている。記憶力が弱く(ただし思考力が低いわけではなさそう)、いきあたりばったりに生きている。その刹那的な生き方ゆえに逮捕されることをあまり恐れておらず、それが犯罪に対する実行力につながっている。実行力があるというより理性が弱いといったほうがいいかもしれない。


 この人物像がなかなか新鮮で、悪いことをしでかしてもどこかユーモラスで憎めない。落語に出てくる滑稽な泥棒みたいな感じ。また生い立ちが不幸なのもあいまって、もちろん本人も悪いけど社会も悪いよね、という気になってしまう。

 大きな犯罪を成功させるのって周到に計画を立てる知能犯じゃなくて、案外こういういきあたりばったりのタイプなのかもしれないな。いきあたりばったりで無駄な行動が多いから警察も行動パターンが読みにくいし。自分が捜査する側だったら、「なんも考えてない犯人」がいちばん恐ろしいかもしれない。




 犯人側、その周囲の人々、警察の動き、どれも丁寧に書いていてそれぞれおもしろかった。

 ただ、ラストの復讐のための逃亡劇だけは違和感をおぼえた。ここだけ人が変わったようになるんだもの。無目的に生きてきた犯人が、突然使命感に燃えて行動しはじめる。きっかけがあるとはいえ、ころっとキャラクターが変わってしまうのにはついていけない。

 そもそも、何を考えているかわからないこそ不気味で魅力的だったのに、最後は復讐のためというわかりやすい行動。凡庸な人間になってしまった。


 ところでこの小説、同著者の『オリンピックの身代金』の登場人物がかなり登場している(書かれたのも、作中の時系列的にも『罪の轍』のほうが先)。

 単独の犯罪者 VS 警察組織 という物語の内容も似ているが、個人的には『オリンピックの身代金』のほうが好み。『オリンピックの身代金』の犯人のほうが心理がわかりづらくて不気味だったのと、国民の命よりも面子のほうを重視する警察や国家という組織の姿をも描いていたから。

 やっぱり人間も組織も、わからないからこそ魅力的だしわからないからこそ怖いんだよね。

 

【関連記事】

【読書感想文】奥田 英朗『オリンピックの身代金』 / 国民の命を軽んじる国家組織 VS テロリスト

【読書感想文】奥田 英朗『ナオミとカナコ』 / 手に汗握るクライムサスペンス

【読書感想文】奥田 英朗『噂の女』 / 癒着システムの町



 その他の読書感想文はこちら


2025年3月7日金曜日

ブログにコメントをつけることについて

 このブログにはコメント投稿があるのだが、ほとんどコメントを頂戴することはない。

 数ヶ月に一度あるかどうか。明らかなスパムとかもあるので、まともなコメント(記事に対する意見や感想など)は年に十件ぐらいだろうか。

 アクセス解析ツールによると、このブログには月10,000ぐらいのアクセスがある。それだけアクセスがあってもほとんど誰もコメントをつけないのだ。


 ことわっておくが、ぼくのスタンスとしてはコメントは大歓迎だ。

 さすがに悪口雑言は勘弁してほしいが、たいていのコメントはもらえるとうれしい。


 以前やっていたブログも含め、ぼくはもう二十年近く前からブログをやっている。

 その二十年で感じたのは、ブログというのはコミュニケーションツールではなくなったということだ。

 二十年前のブログは、書き手と読み手のコミュニケーションの場だった。書き手が話題を提供して、読み手がそれに対してコメントをする。場合によっては読んだ人が自分のブログにアンサー記事を書いたりもする。そこから別の人へと話題が広がり……ということがよくあった。

 それが、SNSが普及したことで、他者とのコミュニケーションはSNSでやりましょう、ブログは書き手が一方的に見解を述べる場、という感じになった。ある日突然そうなったわけではなく、ちょっとずつそうなった。


 ブログにコメントがつかないことを嘆いているぼく自身も、他者のブログにコメントをつけることはほとんどしなくなった。

「あーわかるわかる。ここに書かれている以外にもこんな事例もあるよね」なんてことをおもったりするけど、たいていコメント欄には書かない。

「コメントを書いたら、知らない人が急に会話に参加してきたみたいでいやな気持ちにさせてしまうんじゃないかな」なんて考えてしまう。

〝ブログがコミュニケーションツールだった時代〟を知っているぼくですらそうおもうのだから、物心ついたときからSNSがあったような世代の人にとっては「ブログにコメントをつけるなんてそんな非常識な!」という気持ちかもしれない。


 だからといって「もう一度ブログをコミュニケーションの場にしよう!」なんて唱える気もないし、「このブログを読んだ人はコメントを残せよな!」なんて言う気もないのだが、でも基本的にコメントをもらえたらうれしいですよ、ということだけ書いておく。

 ぼくも他の人のブログに臆せずコメントするようにしようかな。

 コメント機能をオフにしてないってことは、知らない人がなんか書いてもいいってことだもんね。


2025年3月6日木曜日

就活詐欺

 何度か書いているが、就活がほんとに嫌だった。人生でいちばんつらかったのは就活をしていた時期だったかもしれない。


 人と話すのが得意でないとか、慣れない場所に行かないといけなかったとか、基準のよくわからない試験を受け続けないといけないといけないとか、不採用になるたびに人格否定されたような気になるとか、そもそも働きたくなかったとか、いろいろあるけど、最近ふと「丸腰で戦地に行かなくてはならなかったのがつらかったのだ」とおもい、その言葉が当時の自分の心情をうまく言い表せていることに気づく。


 もっと後になって何度か転職の面接を受けたが、そんなに嫌じゃなかった。人間的に成長したからというのもあるが、転職の面接ではわりと対等に話ができる。

「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と自己を開示し、企業のほうは「こんな仕事をやってもらいます。あなたに対してこれだけの給与を払います。労働条件はこうです」と条件を提示する。お互いが相手に価値を感じれば採用→入社となる。単なる交渉だ。不動産屋で部屋を借りるのとそんなに変わらない。

 ところが就職面接に関しては「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と伝えるべきものがない。なぜなら仕事をしていないから。

 一応「アルバイトやサークルなどの課外活動を通してこんな経験を得られました」みたいなことを語るが、そんなものが仕事に何の役に立たないことは言ってる当人だってよくわかっている。

 結局のところ「自分はこんなことができます」がないので、企業側には“可能性”を売るしかないのだ。

 これがきつい。

 可能性を売るってさ、「金貸してくださいよ。万馬券当たったら倍にして返すんで」と変わらないわけじゃない。あるんだかないんだかわからないものを売るなんてほとんど詐欺だ。

 まれにその“可能性”を買って「給与と教育与えてあげる。出世払いでいいよ」と言ってくれる企業もあるが、やっぱり対等な取引じゃないよね。

 まだないものを売ってくるんだから就活がキツいのも当然だ。投資詐欺の営業やらされてるみたいなもんだもん。


2025年3月5日水曜日

【映画感想】『映画ドラえもん のび太の地球交響曲』


『映画ドラえもん
のび太の地球交響曲(シンフォニー)』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画43作目で、原作者である藤子・F・不二雄の生誕90周年記念作品。「音楽」をテーマに、ドラえもんとのび太たちが地球を救うための壮大な冒険を繰り広げる。 学校の音楽会に向けて、苦手なリコーダーの練習をしているのび太の前に、不思議な少女ミッカが現れる。のび太の奏でるのんびりとした音色が気に入ったミッカは、音楽がエネルギーになる惑星でつくられた「音楽(ファーレ)の殿堂」にドラえもんやのび太たちを招待する。ミッカはファーレの殿堂を復活させるために必要な音楽を一緒に演奏する、音楽の達人を探していたのだ。ドラえもんたちはひみつ道具「音楽家ライセンス」を使って殿堂の復活のため音楽を奏でるが、そこへ世界から音楽を消してしまう不気味な生命体が迫ってくる。

 Amazon Primeにて視聴。


 うーん、前々作『のび太の宇宙小戦争 2021』(コロナ感染拡大のため公開は2022年)や前作『のび太と空の理想郷』が良かっただけに、今作はがっかりな出来だった。

 細かいことはいろいろあれど、ドラえもんの映画である必要性がないんだよね。「子どもたちが音楽の力で災厄をふっとばすストーリー」なので、ドラえもんらしさがない。ドラえもん映画としてこれは致命的だ。


ドラえもん映画なのに『ドラえもん』じゃない

 まずやっぱり気になるのはジャイアンの存在。ドラえもんで音楽といえば、グレート音痴・ジャイアンの存在は避けては語れないだろう。なのにこの作品ではそこを華麗にスルーしている。ジャイアンがふつうにうまい演奏をしている。おいおい。「ジャイアンは映画のときだけいいやつになる」はもうお約束化してるからいい(原作でもいいやつになるときもあるし)として、ジャイアンがリズムや音程をちゃんととれたらだめだろ。

 もっとダメなのがのび太の造形。前半こそ「練習せずにリコーダーが上手になる道具出して~!」といつもののび太なのだが、中盤からは目標に向かってひたむきに努力を重ねる努力家の少年になっている。

 脚本家はなーんにもわかってない。のび太は何をやってもダメで、努力もせず、でも欲だけは人並みにあって、そんなダメダメなところをも愛をもって描いたのが『ドラえもん』という作品なんじゃないか。誰もが持っている、ずるくてめんどくさがりで身勝手な部分を、完全にはつきはなさずに愛するのがドラえもんという存在なんだよ。

 ほんのちょっと勇気をふりしぼったり、弱い者に対する優しさを見せたり、ごくまれに努力することはあるものの、のび太が継続的な努力をしたらそれはもうのび太じゃない(『のび太の新恐竜』でもこの失敗をやらかしていた)。

 前作『のび太と空の理想郷』ではちゃんと『ドラえもん』の通底にあるスタンスを理解して、「ダメな部分を愛そう」というメッセージを発していただけに、今作の「ダメな部分をがんばって克服せよ」というメッセージには失望した。『ドラえもん』をわかってないやつに脚本を書かせちゃだめだよ。

 ジャイアンものび太もへただけど、へたでもいいじゃない、へたでも音楽は楽しいよ、という方向こそがドラえもんの精神じゃないか?


 そして異なる者への愛の欠落。

 本作でノイズを殲滅するためにのび太たちはがんばっていたけど、むしろノイズを認め、ノイズと共存する道を探るのがのび太の生き方じゃないのか。ノイズはノイズで生きてるだけなのに、自分たちに都合が悪いからって殺しちゃっていいの? そういう人間の傲慢な姿勢にずっと警鐘を鳴らしてきたのが『ドラえもん』の漫画であり、映画であったはずなのに。

 そもそもノイズを倒すのがのび太の「の」の音ってなんじゃそりゃ。それこそノイズじゃねえか。


音楽というテーマに縛られている

『ドラえもん』なのに『ドラえもん』の世界じゃないという致命的な失敗以外にも、いろいろと粗さが目立つ作品だった。

 “音楽”というテーマを意識しすぎて、すごく窮屈な作品になっている。「音楽の力で危機を乗り越える」ことが最優先になっている。

 こっちはミュージカルを観たいんじゃないんだよ! すばらしい交響曲じゃなくてドラえもんの道具を楽しみに観てるんだよ!

 ドラえもんの道具+ちょっぴりのひらめきや勇気で危機を脱するのがドラえもん映画の醍醐味なのに、本作の勝利の決め手は、みんなで一生懸命演奏した音楽+ちょっぴりのひみつ道具である。そういうのは別の作品でやってくれ。


ひたすら雑

 ストーリーもなかなか粗雑だった。

 いきなり届く「今夜音楽室に来てください」という雑な招待状(時刻の指定すらなし!)。別々に招待状が届いたのになぜかあたりまえのように集まって、なんの疑いもなく夜の学校に集まる五人。のび太たちを招待したのも「言い伝えと同じく五人で演奏していたから」というめちゃくちゃ雑な理由。五人組なら誰でもよかったわけ? 言い伝えも完全なご都合主義。『のび太の大魔境』では言い伝えの謎がきちんと後半に解き明かされていたのと対照的だ。

 ドラえもんの映画といえばとにもかくにも「冒険!」なのだが、今作は冒険ではない。ただ巻き込まれただけだ。だから『月面探査機』や『宇宙小戦争2021』で描かれたような「怖い、でも行かなくちゃ」といった逡巡もない。

 そしてへたくそきわまりない伏線。リコーダーを忘れたのび太のために、とりよせバッグでもどこでもドアでもなく、時空間チェンジャーという大がかりな道具でリコーダーを取りにいくドラえもん。あらかじめ日記に「みんなでおふろに入った」とめちゃくちゃ不自然なことを書くのび太。

「さあ、ここが伏線ですよ! 後から回収しますよ!」と言わんばかりの白々しい伏線。

「約4万年前の世界最古の楽器」のくだりは「おおっ、それがキーアイテムとなってストーリーにつながるのか!」とわくわくしたのに、「キーアイテムを真似て作られたのが世界最古の楽器」と、なんとも微妙なつながり。肩透かしを食らった。

 ついでにいうと、細かいことだけど、作中で「4万年前のドイツで作られた」と明らかにおかしいセリフが出てくる。は? 4万年前にドイツがあったのか? よそから持ち込まれたのではなくそこで作られたものだとどうしてわかる? 科学に敬意のない人が書いたセリフなんだろうなあ。藤子・F・不二雄氏ならこんなバカなミスはしなかっただろうな。


魅力のないキャラクター

 今作の主要ゲストキャラクターはミッカだが、この少女がまたおもしろみに欠ける。思想がないのだ。故郷の星の住民たちが死滅したという過去を背負っているが、それはミッカが赤ん坊のときなので記憶がない。記憶がないのだから思想もない。迷ったり悩んだりしない。

 ミッカの隣にいるチャペックもただの説明役。過去のドラえもん映画では「ゲストキャラクターの隣にいるちょっと抜けたところのあるパートナー」が登場したものだが、そんなユーモラスな部分がチャペックにはない。

 また、ヴェントー、モーツェル、タキレンといったロボットたちも、実在の作曲家たちをモデルにしているからか、造詣に冒険心が感じられない。ただただストーリーを進めるためのキャラクターたちだった。


よそでやってよね

……とまあ、悪口雑言を書き連ねたけど、すごくつまんない映画だったかというとそうでもない。

 音楽以外には特に褒めるところもないけど、途中で観るのをやめるほどつまらなかったわけでもない。

 最大の失敗は、さっきも書いたように、ドラえもんの映画ではなかったということだけだ。『ドラえもん』のキャラクターが道具を使って活躍する映画を観たいとおもっていた期待を裏切ったこと。

 まったく別のキャラクターを作ってやったのならまあまあの映画になったのではないだろうか。

 いるんだよね。人気シリーズに乗っかって己のクリエイティビティ(笑止!)を見せつけてやろうとする出しゃばりが。『トイ・ストーリー4』とかさ。

 自分らしさを発揮したいのなら自分の作った世界でやりなよ。ドラえもんの世界を利用して表現しないでくれよ。

 それならこっちも何も言わないからさ。なぜなら観ないから。


【関連記事】

【映画感想】『映画ドラえもん のび太と空の理想郷』

【映画感想】『のび太の宇宙小戦争 2021』

【映画感想】『のび太の月面探査記』

出木杉の苦悩

【映画感想】『トイ・ストーリー 4』


2025年3月4日火曜日

『お料理行進曲』2番


『お料理行進曲』という曲をご存知だろうか。

 勇壮な音楽に乗せてコロッケの作り方を歌いあげるふしぎな味わいの曲で、アニメ『キテレツ大百科』のオープニング曲だったので今の中年にはなじみのある歌だ。

 テレビでは1番しか流れていなかったのであまり知られていないが、コロッケの作り方を説明した後は長尺の間奏が入り、2番ではナポリタンの作り方が歌われる。

 その中に、

炒めよう かるく 塩・コショウで
忘れるな スパゲッティ ケチャップで混ぜて

という歌詞があるのだが……。




 ナポリタンをつくるときにスパゲッティを忘れることなんてある?




2025年2月25日火曜日

いかにも浮気してるやつのFacebook

 高校時代の友人たちと話していて、Tという男の話題になった。


「Tって最近どうしてんの?」

「いろいろ悪いことしてるみたいやで。女癖悪いから」

「結婚して子どももいるんやろ?」

「そう。Facebookにマメに投稿してるんやけど、やたらと家族の写真載せてるわ」

「うわー。いかにもやなー」

「そりゃあな。ほんまに家族円満やったらわざわざFacebookでアピールする必要ないからな」

「やましい気持ちがあるからSNSでいいパパアピールするんやろな」

「この前ちょっと大きい地震があってさ、そのときにTのFacebook見たら『地震があったから子どもを守った。俺がこいつらを守っていけないという思いを改めて強くした』とか書いてて」

「うわー。モテようとしてるやん」

「いやほんま。心の中でおもっといたらいいことを、なんで世界に向けて発信するねんってことよ」

「自分のオヤジが、そんなことを世界に向けて発信してたら最悪やわ」

「いかにも浮気してるやつのFacebookって感じやな」


 というわけで、Facebookでいいパパアピールしてる男はもれなく浮気してます。現場からは以上です。



2025年2月20日木曜日

【読書感想文】『知りたくなる韓国』 / 政治参加せざるをえない国

知りたくなる韓国

新城 道彦 浅羽 祐樹 金 香男 春木 育美

目次
第1部 歴史
 第1章 朝鮮王朝時代
 第2章 大韓帝国~日本統治時代
 第3章 米軍政~大韓民国時代
第2部 政治
 第4章 韓国という「国のかたち」
 第5章 韓国外交における日韓関係
 第6章 南北関係とコリア・ナショナリズム
第3部 社会
 第7章 変化する韓国社会
 第8章 韓国家族の「いま」
 第9章 韓国の教育と就職事情
第4部 文化
 第10章 再考される伝統
 第11章 交差する文化
 第12章 模索しつつある韓国

 韓国のことを知りたかったので手に取った。池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』と同時に読み進めていたので理解しやすかった。



 韓国といえば民主国家というイメージを持っていたけど、実態として民主国家と呼べるようになったのは1987年以降のことで、それまでの大統領は「権力を失えば命や財産を奪われる」状態が続いていた。

 政党間の政権交代は1987年の民主化以降、30年間ですでに3回を数えます。現在の与党「共に民主党」と最大野党の自由韓国党に連なる2大政党の間で初めて政権交代が起きたのは、3回目の大統領選挙を通じた98年のことでした。2008年と17年にも入れ替わったため、与野党それぞれの立場をどちらの側も2回ずつ経験したことになります。
 選挙を通じた政権交代が可能になると、「革命」を起こす必要はなくなりますし、大統領の側も所定の任期を守り自ら退くようになりました。文在寅大統領は朴槿恵大統領の弾劾・罷免を「ろうそく革命」と称していますが、弾劾罷免はあくまでも憲法の所定の手続きに則って行われましたし、文在寅は選挙で選ばれたからこそ大統領という公職を任せられているのです。
 このように選挙が「街で唯一のゲーム」となり、そのルールブックたる憲法がすべてのプレーヤーに受け入れられることが重要です。何より、多数決による政治的競争(選挙)における敗者(少数派)が結果を甘受し、競争や体制の正統性に同意することが欠かせません。

 もっとも、1987年以降に大統領についた人に関しても、盧泰愚、李明博、朴槿恵は収賄などで有罪判決を受けており、なかなかきなくさい状況に変わりはないのだけれど……。




 暗殺やクーデター、大統領の暴走など(最近もあったね)いろいろ問題の多い韓国の政治ではあるけれど、それがポジティブな効果も生んでいるようだ。

 韓国人は政治や社会への関心が高く、とくに1980年代、学生の力で民主化を勝ち取った歴史には大きな意味があります。人権や言論の自由、より良い社会を作りたいという学生・市民の強い意志が直接的な行動を促しました。87年に韓国の民主化運動は頂点に達し、大学生と市民の力で軍事独裁政治に終止符を打ちました。その民主化の中枢にいたのが、「386世代」です。この言葉が生まれた90年代当時、「30歳代で、80年代に大学生活を送った60年代生まれ」の世代として、現在は50歳代で「586世代」とも呼ばれています。この民主化運動の時代を過ごした「386世代」は政治的団結ノムヒョン力が高く、盧武鉉大統領が当選するうえで大きく寄与したとされます。
 (中略)
 国全体が豊かになったなかで、格差社会が生んだ現象といえる就職難に直面している若者たちが、自ら「ろうそくデモ」を主導してきたことは大きな意味をもちます。市民団体の影響力が強い韓国では、ツイッター、フェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)と連動した路上デモや、「認証ショット」のように「投票へ行きました」と投票場で写真を撮ってSNSに投稿するなど、若年層を中心とした積極的なネット選挙運動が、2017年の政権交代につながったといわれています。直接的な行動が、政治や社会を動かせると人々は思うし、SNSの普及は若者の政治参加を促しています。韓国の10代20代の若者には、自分たちの置かれた状況は自己責任だけではなく、社会構造上の問題であるという認識が広がり、大学授業料半額デモなどさまざまなかたちで声を上げています。

 韓国人は若者も含めて政治参加意識が高いという。そりゃあなあ。ちょっと気を抜くと大統領が戒厳令を出したりする国なんだから、市民がちゃんと見張ってないといつ己の命や財産が危険にさらされるかわからないもんね。

 中国、北朝鮮、ロシアみたいなあぶなっかしい国々との距離も日本よりずっと近いし、そもそも今も戦争中の国だし(朝鮮戦争は終戦したわけでなくあくまで“休戦”状態)、いやおうなく政治や国際情勢には敏感になるだろう。

 そう考えると、日本人は政治参加意識が低いとか、若者の投票率が低いとか、悪いことのように言われるけど、平和の裏返しでもあるんだろうなあ。「誰が選ばれたってどうせ一緒でしょ」ってのは幸せなだよな。


 そしてつくづくおもうのは、大統領制(アメリカや韓国のように強い権限を持つ大統領制)ってぜんぜんいいシステムじゃないってこと。意思決定が早いとかのメリットもあるんだろうけど、一人に強大な権力を持たせるのはやっぱり不安定すぎる。権力は暴走するのが常だし。尹錫悦大統領の非常戒厳宣言や、トランプ大統領のあれやこれやを見ていると、権力が分散していた方が国民にとってはいいとおもえる。

 あんな危なっかしい制度を抱えていて、よく国としてまとまっていられるなと感じる。




 韓国は日本以上に若者が暮らしにくい国のようだ。

 高齢化は進み、2023年の合計特殊出生率は0.72だそうだ(日本は1.26)。3組の男女がいて、平均2人ぐらいしか子どもが生まれないのだ。かつて産児制限政策をおこなっていたのでそもそも若者の数自体が少ないし。今後、日本よりすごいスピードで高齢化が進むかも。

 韓国では就職氷河期が始まった2010年頃から、恋愛・結婚・出産を放棄する若者を「3放世代」と呼んでいましたが、近年はさらに就職やマイホームだけでなく、人間関係や夢さえも望みが持てない「7放世代」を超えて、健康や外見など人生のすべてを放棄した「N放世代」という呼称まで登場しました。2015年頃からは人間としての希望を失い、将来に対する不安と韓国社会に対する不満から、地獄のような韓国という意味の新造語「ヘル(hell)朝鮮」という言葉も生まれました。また、「土のスプーン(生まれながらの貧富の差を意味)」など、若年層に存在する格差への認識からは新階級論的な言説も生み出されています。富裕層の子どもを意味する「金のスプーン」に対比される言葉で、自分が財産のない庶民層に生まれたことを自嘲する表現です。
 ハンギョレ経済社会研究院の、19~34歳の若年層1500人を対象にした「青年意識調査(2015年)」では、社会的な成功において「自分の努力よりも、親の経済的地位が重要だ」と答えた人は7割を超えました。同年に発表された東国大学の金洛年教授の論文「韓国における富と相続」によると、個人の財産に占める親からの相続(贈与を含む)の割合は、1980年代の27%から2000年代には42%へ増加しており、本人の努力や能力より親から受け継いだ資産や不動産によって、財産の規模が決定されることが明らかになりました。相続による富の格差がますます拡大している韓国では、本人が努力しても現状を打破できず、放棄・絶望・リセットという言葉が、今日を生きる若者のキーワードとなっています。

 このへんの閉塞感は日本に近い。というより韓国が日本の状況を先取りしたというか。

 韓国は日本より人口も少ないので内需が小さく、アジア通貨危機のときに多くの企業がつぶれて外資が入ってきたので、国内の企業がそう多くない。おまけに今でも財閥が幅を利かせていて政治と強く結びついているので、財閥以外の企業は不利な立場に置かれ、賃金も上がらない。

 久しく安定している韓国だけど、またクーデターが起こる日は遠くないかもしれない。


【関連記事】

【読書感想文】池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』 / 約束よりも感情が優先される国

【読書感想文】「没落」の一言 / 吉野 太喜『平成の通信簿』



 その他の読書感想文はこちら


2025年2月18日火曜日

【読書感想文】池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』 / 約束よりも感情が優先される国

そうだったのか!朝鮮半島

池上 彰

内容(e-honより)
今、日韓関係は「史上最悪」と言われる。両政府は激しく対立し、互いの国民感情の悪化も報じられるなど、多方面に影響が及んでいる。一方、北朝鮮は核開発を進め、日本を威嚇するかのようにミサイル発射実験を繰り返している。なぜ、日本と隣国の韓国や北朝鮮との間に問題が起きてしまうのか。朝鮮半島の歴史を辿り、そもそもの原因をジャーナリストの池上彰が解説。フェアな視点で学べる一冊!

 朝鮮半島の近代史を説明した本。2014年刊行なのでちょっと古いが、近代以降の韓国・北朝鮮の歴史がよくわかる。

 ただ歴史を学ぶだけでなく「なぜ北朝鮮はあんな国になったのか」「なぜ韓国は日本に対していつまでも賠償を求めてくるのか」といった思想背景もよくわかる。

 北朝鮮に関してはだいたい事前の印象通りだったが、この本を読んで見方が変わったのは韓国のほうだった。



 1945年の日本敗戦(ポツダム宣言受諾)により、それまで日本に併合されていた朝鮮半島は、日本から離脱。ただしすぐに独立国になったわけではなく、北部はソ連、南部はアメリカの占領下におかれ、3年後の1948年に朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国がそれぞれ独立している。

 このあたりの経緯がなんとも韓国、北朝鮮の立場をややこしくしている。

 もし韓国が日本と戦争をしていたなら話はかんたんだ。「我々は日本と戦い、勝った。そして独立を手にした」と誇ることができる。

 だが朝鮮は国として日本と戦ってはいないから戦勝国ではない。太平洋戦争中は日本の一部だったのだから、見方によっては敗戦国側ともいえる。「戦って勝ち取った独立」ではなく「棚ぼた的に転がりこんできた解放」だったのだ。

 被占領下で独立のために戦っていた人たちもいたが、その人たちは建国には関わっていない。むしろ、体制(日本)側についていた人たちがアメリカの後ろ盾を得て建国したのが韓国という国だ。だから「我々は日本から独立を勝ち取ったのだ」とは素直に言いづらい。


 その点、北朝鮮はもうちょっとわかりやすい。

 北朝鮮建国の祖である金日成は、抗日ゲリラ戦を指導していたことになっている(実際はソ連に逃れていたのでそんなに戦っていないそうなのだが)。だから「戦って独立を勝ち取った」という神話がまかり通る。

 ここに韓国のコンプレックスがある。

 北朝鮮の指導者ばかりが日本と戦っていたわけではない。韓国の指導者も、日本と戦って祖国を建国した。こういう「建国神話」を作るため、「大韓民国臨時政府」の名前に頼ったというのです。
 (中略)
 北朝鮮は、抗日武装闘争で日本の支配と戦ってきた抗日ゲリラの指導者・金日成によって建国されたと主張しています。これ自体、実は「神話」でしかないことは、次の章で触れますが、北朝鮮が反日闘争を実践してきたという「正統性」を主張すると、韓国の指導者には具合が悪かったのです。新政府の中枢にいたのは、日本の植民地支配に協力した人物たちでしたし、李承晩は、アメリカでの生活が長く、日本の支配と直接戦っていたわけではなかったからです。

 このへんの「日本の植民地支配に協力した人たちが建国した」という後ろめたさのせいで、余計に反日運動が盛んになるのだという。戦って勝ち取った独立という“史実”がないからこそ、日本は我々の敵だという“神話”に頼る必要があるのだろう。

 この風潮は今でもずっと続いていて、韓国大統領は任期満了が近づいて人気・影響力が低迷しだすと、反日的な政策を打ち出して人気回復を図ることがくりかえされていると池上彰氏は指摘している。

 日本が韓国のことを考えている以上に韓国って日本のことを意識しているのかもしれないなあ。建国の経緯が経緯だけに。



  ずっと「北朝鮮は独裁国家、韓国は民主国家」というイメージがあったのだけれど、韓国が名実ともに民主国家になったのはおもっていたよりずっと最近なのだと知った。

 1980年代までは、大統領が自分の権力を強めるために憲法を改正したり、大統領の暗殺や軍事クーデターによって権力奪取がおこなわれたり、とても民主国家とはいえない状態が続いていた。

 全斗煥は、自分の後継者として、陸軍士官学校の同期で、常に自分と行動を共にしてきた盧泰愚を選びます。この盧泰愚が、大統領候補として、「国民大和合と偉大なる国家への前進のための特別宣言」を発表します。発表した日が六月二九日だったことから、この宣言は「六・二九民主化宣言」と呼ばれます。憲法を改正して、大統領は、議会による間接選挙ではなく、国民による直接選挙で選ばれるようにしたのです。
 また、言論の自由の保障や地方自治体での選挙を実施することも約束されました。

 この民主化宣言が1987年。ちょうど1988年のソウルオリンピックを境に、今のような民主国家になったのだそうだ。こういうのを見ると、今では「悪いやつらが金儲けする手段」になり下がってしまったオリンピック開催にも、ちゃんと意義があったんだなとおもえる。そういや日本も1964年東京五輪を機に街がきれいになったと言われてるしなあ。



 外国に対してはあまり悪い先入観を持たないように気を付けているのだが、それでも韓国といえば「昔のことをいつまでもいつまでもほじくりかえしてくる国」という印象が強い。


 1965年に締結された「日韓財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓請求権協定)について。

 この条約により、日本は韓国に一〇年間にわたり計三億ドルを無償で供与すると共に、二億ドルを低金利で貸し出すことを決めました。それ以外に、日本の民間企業が計三億ドルの資金協力をすることになりました。
 問題は、この資金の意味です。「賠償」という言葉の代わりに、「経済協力」という言い方になりました。
 韓国は、これを自国向けに「賠償」と説明日本は「経済援助」あるいは「独立祝い金」と説明しました。
 両国の間の請求権に関しては、第二条に次のように記されています。
 「両締約国(著者注・日本と韓国のこと)は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(中略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」
 この条約により、韓国の国民が日本政府や日本の企業に対して損害賠償などの請求権を持てないことが確定しました。日本は韓国に賠償代わりに経済協力資金を渡しているのだから、後は韓国国内の問題である。韓国の国民が損害賠償を請求したかったら、韓国政府に言うべきことだ。これが、この条約以後の日本の主張です。
 ですから、日本政府に言わせれば、最近の韓国で、戦時中に日本の企業が韓国人労働者に対して未払いだった賃金を要求する裁判が起こされたり、いわゆる「慰安婦」に対する補償を求めたりする動きなどは、この条約に反している、ということになります。

 両国の間で「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」という条約が結ばれた。日本から韓国に莫大な資金協力もおこなわれた(それがなければ韓国は今のような経済発展を遂げられたかどうか)。

 にもかかわらず、その後もずっと賠償を主張しつづけている。

 それも、個人が好き勝手に言ってるだけではない。政府や、裁判所までが、過去に結んだ条約を無視して「賠償をしろ」と主張している。

 この感覚はとうてい理解できない。

 感情的には納得のできないものもあるだろうが、「これで最終的に解決したものとする」という条約を一度締結したなら、以降はそれに縛られるというのがたいていの日本人の感覚だろう。

 ところが韓国社会では、どうもこのへんの感覚がちがうようだ。


 日本に対してだけではない。国内の問題でも同じようなことをしている。

 盧泰愚前大統領は、在任中、武器購入や電力事業など、国家的な事業で手数料を取る一方、財界から裏献金を受けていました。両方の合計額は五〇〇〇億ウォン(当時のレートで約五二七億円)。
 あまりの巨額に言葉を失います。
 盧泰愚前大統領の罪状は、それに留まりません。軍政時代、光州事件で弾圧に手を染めた責任を追及されます。
 そうなると、責任があるのは盧泰愚前大統領だけではありません。さらに前任の全斗煥元大統領の責任も追及されることになります。盧泰愚前大統領は収賄容疑で、全斗煥元大統領は、大統領在任中のクーデターの首謀者の容疑で逮捕されました。
 しかし、当時の世論が要求した内乱罪は時効で適用できませんでした。
 時効で過去の罪を追及できないときには、どうするか。当時のことを追及できる法律を後から作り、過去を裁く。これが韓国流の法運用です。二人を逮捕した後で特別法を制定し、大統領在任中の時効を停止したのです。議会で「五・一八民主化運動等に関する特別法」と「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件や軍事反乱などに対する権力犯罪の時効を停止しました。この特別法を根拠に、一九九七年四月、大法院(最高裁判所)は、全斗煥元大統領に無期懲役、追徴金二二〇五億ウォン(当時のレートで約二三二億円)、盧泰愚前大統領に懲役一七年、追徴金二六二八億ウォンの判決を言い渡しました。

 元大統領の過去の罪が明らかになる。なんとかして罰を受けさせてやりたい。だが法律ではもう時効なので裁けない。

 だったら過去にさかのぼって法律を変えて、昔の罪で裁けるようにしよう。

 これは一般に「法令不遡及の原則」に反するといって禁止されている行為である。どんなに今の感覚でひどいこととおもっても、それを裁く法律がなかった時代の罪は裁けない。日本国憲法第三十九条でも「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と定められている。


 だが韓国ではその原則よりも「許せないから罰したい!」という感覚のほうが優先されるようだ(これが韓国の法体制が「国民情緒法」と揶揄されるゆえんである)。

 うーん、文化の違いといえばそれまでなんだけどさ。

 まあ日本でも、こういう感覚の人は多い。有名人の何十年も前の発言を引っ張り出してきて「あいつはかつてあんなことを言ってたぞ!」と糾弾する人間が。今の基準で昔の言動を裁くのは卑怯だとおもうんだけど(今の基準に照らしたら歴史上の偉人なんかみんな何かしらの人権侵害に加担してるわけだし)。

 とはいえ「許せないから罰したい!」タイプの人は、市井の人々やテレビ関係者には大勢いても、さすがに日本政府や裁判所はそこまで直情的じゃない。感情は感情として、でも法律や約束のほうが大事だよ、という姿勢を崩さない。

 個人的には理解しがたいけど、まあ文化に正解はないから、そういう隣人だとおもって付き合っていくしかないよね。


【関連記事】

【読書感想文】金城 一紀『GO』~日本生まれ日本育ちの外国人~

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 / 野球はベースボールではない



 その他の読書感想文はこちら


2025年2月13日木曜日

【読書感想文】小川 哲『君のクイズ』 / 長い数学の証明のような小説

君のクイズ

小川 哲

内容(e-honより)
生放送のTV番組『Q-1グランプリ』決勝戦に出場したクイズプレーヤーの三島玲央は、対戦相手・本庄絆が、まだ一文字も問題が読まれぬうちに回答し正解し、優勝を果たすという不可解な事態をいぶかしむ。いったい彼はなぜ、正答できたのか? 真相を解明しようと彼について調べ、決勝戦を1問ずつ振り返る三島はやがて、自らの記憶も掘り起こしていくことになり――。読めば、クイズプレーヤーの思考と世界がまるごと体験できる。人生のある瞬間が鮮やかによみがえる。そして読後、あなたの「知る」は更新される! 「不可能犯罪」を解く一気読み必至の卓抜したミステリーにして、エモーショナルなのに知的興奮に満ちた超エンターテインメント!

 生放送のクイズ大会の決勝で、「一文字も問題が読まれないのに早押しボタンを押して正解」したプレイヤーが優勝した。

 多くの人が不正があったのではないかと考えたが、番組側も、優勝者も、「不正はなかった」以外は一切語らない。

 はたして不正はあったのか。もし不正がなかったのだとしたら、なぜ一文字も読まれていないクイズの問題に正解することができたのか――。この“難問”に決勝戦で敗れたクイズプレイヤーが挑む。



 おもしろかった。

 小説というより、長い数学の証明を読んだような気分だ。長い数学の証明を読んだことないけど。

 実際、ほとんど数学の証明のようだ。「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題がはじめに提示され、その問題に主人公が挑む。

 最初は『スラムドッグ・ミリオネア』みたいだな、とおもった。インドのクイズ番組出演したある無学な男が、難しい問題に次々に正解する。なぜ彼は難問に答えることができたのか? というストーリーの映画だ。


 だが『君のクイズ』は『スラムドッグ・ミリオネア』とはちがう。『スラムドッグ・ミリオネア』は決して少なくない偶然が起きていた。“奇跡の話”だ。

 だが『君のクイズ』は奇跡の話ではない。少しの偶然はあるが、きわめて論理的に「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題の正解にたどりつくまでの話だ。




『君のクイズ』は、クイズという競技の奥深さを紹介する本でもある。

 ぼくはクイズを知っているとおもっていた。テレビのクイズ番組はけっこう好きだし、なんならかなり得意なほうだ。高校のときにクラスでやったクイズ大会で優勝したし。

 だが、ぼくは本当のクイズを知らなかった。将棋でいうと「ルールと駒の動かし方を知っているだけ」の状態。入口に立っただけの素人だった。

 「誰も知らない問題に、たった一人で正解する──たしかに気持ちいい。最高の気分だ。でも、それだけじゃ勝てない。みんなが知ってる問題でも押し勝って取らなきゃいけない」「それはわかってるつもりなんですけど」
「リスクを負うことも必要だ。展開によっては、まだ五分五分でも他より先に押さなきゃいけない。『恥ずかしい』という感情はクイズに勝つためには余計だ。そんな感情は捨てた方がいい。笑われたって、後ろ指さされたっていいじゃないか。勝てば名前が残る」

「たくさん知識があればクイズに勝てるんでしょ」とぼくはおもっていた。

 でもそんなことはない。筆記テストをやって合計点を競うのであれば、知識量がものを言う。でもクイズ(特に早押しクイズ)は筆記テストとは違う。答える速さ、対戦相手に関する情報、駆け引き、度胸、そういったものが必要となる。

 自分がわかる問題は他のプレイヤーもわかる。だったら誰よりも早く回答ボタンを押さないと勝てない。答えがわかってからボタンを押してからじゃ遅い。「答えがわかりそう」という段階で押さないといけない。

「しゃ──」と聞こえる。そして本庄絆がボタンを押す。正解を口にして優勝が決まる。他の出演者たちが「まだ一文字しか読まれていないのに!」と驚く。
 数回目でわかったことがある。よく聞くと実際には問い読みのアナウンサーは「しゃくに──」と口にしていた。急に解答ランプが点いて慌てて口を閉じたようで、漏れるように小さな声で「くに」まで発音している。
 もちろん「しゃくに」と聞こえたからと言って、答えがわかるわけがない。だが、この問題が、番組の最終回に最終問題として出されたことを考慮に入れると、本庄絆の「一文字押し」が魔法でもヤラセでもなかった可能性が生じてくる。
 本庄絆は「『終わりよければすべてよし』」と答えた。『終わりよければすべてよし』はシェイクスピアの戯曲だ。『尺には尺を』『トロイラスとクレシダ』の三作をまとめて、シェイクスピアの「問題劇」と呼ぶことがある。「しゃくに」という言葉から「『尺には尺を』」を導きだした本庄絆は、答えが問題劇のうちのひとつ、『終わりよければすべてよし』ではないかと考えた。なぜなら、それが番組を締めくくる問題だったからだ。最終回の最終問題の答えが「終わりよければすべてよし」というのはなかなか洒落ている。だから一応、論理的な推理で答えにたどり着く可能性があったわけだ。クイズプレイヤーが、問題外の情報を考慮すること自体は珍しくない。クイズは学力テストではない。出題者と解答者と観客がいて、ストーリーがある。ストーリーに気づく能力もまた、クイズプレイヤーとしての資質の一部だ。

「しゃ」と聞こえた段階でボタンを押す。出題者が発した「しゃくに」という言葉を手掛かりに、またクイズ番組の最終回の最終問題であることを鍵に、「『尺には尺を』の中で用いられたことで知られる、結末が良ければストーリーのすべてが良いことを表す言葉とは?」的な問題が出されることを予想し、『終わりよければすべてよし』と答える。

 トップクイズプレイヤーはこういう戦いをしているのだそうだ。ひゃあ。

 

 競技かるたにも似ているよね。あれも、上の句をすべて聞いてから札を探していたら遅すぎる。はじめの何文字かを聞いて、これまでに読まれた札も考慮して、残っている札の中からたった一枚に確定する札を取らないといけない。「百人一首の内容を覚えている」なんてのは最低限のレベルで、やっとスタートラインに立っただけだ。

 競技クイズもそれと同じで、知識があることは最低限の条件。まだまだ競技クイズの登山口に立っただけなのだ。

 さらに言えば、テレビのクイズ番組によく出るクイズプレイヤーには、「知識が豊富」「競技としてのクイズに強い」に加え、「視聴者が楽しめる立ち居振る舞いや気の利いたコメント」も求められるわけで、とことんクイズの世界は奥が深い。




『君のクイズ』は競技クイズの説明とストーリーがうまくからんでいる。

 最後に明かされる、あまりすっきりしない真相も個人的には好き。小説にはほろ苦い味わいがあったほうがいい。文学的であることを意識せず、論理に徹したような文章もけっこう好み。

 クイズとかパズルが好きな人には刺さる本だとおもうよ。


【関連記事】

【読書感想文】矢野 龍王『箱の中の天国と地獄』 / 詰将棋に感情表現はいらない

【読書感想文】SCRAP『すごいことが最後に起こる! イラスト謎解きパズル』 / 複数人推奨パズル



 その他の読書感想文はこちら


2025年2月6日木曜日

【読書感想文】本岡 類『住宅展示場の魔女』 / 技巧がきらりと光る短篇集

住宅展示場の魔女

本岡 類

内容(e-honより)
「ハマってしまう」ってどういうことなのだろうか。「ハマって」しまったらどうなってしまうのだろう。何かに依存しないと安心感や安定感が得られない人たちを巡って起こるさまざまな事件をユーモラスに描く。「通販」に「ペット」、「懸賞応募」に「渓流釣り」、そして「住宅展示場見学」…。草原の落とし穴みたいに、日常生活の中にも口を開けて罠が待っている。

 2004年刊行の短篇ミステリ集。

 なかなか良かった。こういう短篇ミステリって最近あまり見ないなあ。ぼくが出会ってないだけかなあ。

 井上 夢人氏(元・岡嶋二人)が「短篇は長篇に比べて割に合わない」と書いていた。短篇でも長篇でも、アイデアをひねり出す苦労は大して変わらない。ミステリはアイデアの出来でほとんど決まるので。だが原稿料は枚数あたりで決まるし、ページ数がないと単行本にもできない。だから短篇は損だ、と。ショートショートの神様・星新一氏も似たことを書いていたし、ただでさえ本が売れない今、短篇ミステリは厳しい状況に置かれているのかもしれない。

 短篇を載せる雑誌も減っているだろうし。


 さて『住宅展示場の魔女』について。

 最初の、通販好きの取り立て屋が登場する『通販天国』、懸賞マニアの主婦が殺される『当日消印有効』を読んで、なるほど、軽い味のブラックコメディミステリね、とおもっていた。『女子高教師の生活と意見』にいたってはドタバタSFのような味わいだし。

 ところが四篇目『束の間の、ベルボトム』を読んで、評価をちょっと改めた。

 これは、なかなかいい小説だぞ。ミステリとしては新鮮さはないが、「若い頃のファッションを楽しみたい」とおもう中年の心境をうまくからめたことで、ほろ苦い味わいの短篇になっている。小説巧者だな。

 コメディ作品の『メリーに首ったけ』を挟み、次はコギャルの厚底ブーツという旬(だった)アイテムをミステリにつなげた『気持はわかる』。これもよくできている。軽妙ながら、ミステリとして隙がない。ちょっとしたアイデアなのだが、趣向を凝らして上質な短篇に仕上げている。

 これはなかなかの腕だぞ。調べたところ、1984年デビューらしい。つまり『住宅展示場の魔女』を書いた時点でデビュー20年。道理で技術が高いはずだ。脂ののっていた頃の阿刀田高氏のようなうまさがある。


 渓流釣りと殺人事件を融合させた『山女の復讐』も短篇ながら本格の味わい。釣りのエッセンスも織り交ぜられ、お得感がある。

 住宅展示場めぐりを趣味とする女に芽生えた悪意を描いた『住宅展示場の魔女』はミステリというよりサスペンス。

 ミステリに加えて、コメディ、SF、サスペンス、ペーソスなどいろんな要素がふんだんに散りばめられている。

 決して派手さはないが良作ぞろい。ベテランの技巧がきらりと光る短篇集だった。


【関連記事】

【読書感想文】東野 圭吾『天使の耳』 / ドライバーの頭おかしいルール

【読書感想文】まじめに読むと腹が立つ / 麻耶 雄嵩『あぶない叔父さん』



 その他の読書感想文はこちら


2025年2月5日水曜日

【読書感想文】マツコ・デラックス 池田 清彦『マツ☆キヨ ~「ヘンな人」で生きる技術~』 / ダブスタ上等!

マツ☆キヨ

「ヘンな人」で生きる技術

マツコ・デラックス  池田 清彦

内容(e-honより)
茶の間で引っ張りだこの人気タレント・マツコと、学会の主流になぜかなれない無欲な生物学者キヨヒコ。互いをマイノリティ(少数派)と認め合うふたりが急接近!東日本大震災後に現れた差別や、誰をも思考停止にさせる過剰な情報化社会の居心地悪さなどを徹底的に話し合った。世の中の「常識」「ふつう」になじめないあなたに、「ヘンな」ふたりがヒントを授ける生き方指南。

 十年ほど前、マツコ・デラックスという人がすっかりテレビになじんできた頃にふと「なんとなく受け入れてるけどこの変な人は何者なんだろう」とおもって買った本。ずっと本棚に置いてて、やっと手に取った。積読はいつものことだけど、十年は長い。




 2011年頃の対談ということで、当然ながら東日本大震災の話が多い。

 それはそれで時代を映す話ではあるけど、正直、読んでいておもしろみはない。

 あれだけの人が一度に亡くなった映像を見たら、奇をてらったことを言おうという気にならないんだよね。マツコさんも池田さんもあたりまえの話をしている。人間いつ死ぬかわからないとか、人間がどうやっても自然の力にはかなわないとか。

 ぼくはあの頃、ブログでコントのようなものを書いていたんだけど、やっぱり地震後しばらくは何も書けなかった。別に不謹慎だとか気にする必要はなかったんだけど、それでも何を考えても震災と結びつけて考えてしまう。ふざけようとか、わざと変なことを言おうとか、そういう気にならないんだよね。


マツコ:アタシも地震の直後の何日かは下痢がすごかったのよ。なんだか体調がとても悪くなっちゃって。よく、被災地の人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になるという話を聞くわよね。それに比べたらアタシのなんてずっと軽い症状なんだろうけど......。たぶん、程度の差はあっても、地震後にその影響で心身を病んじゃった人は東京にだっていっぱいいたと思う。
池田 :被災地じゃなくてもね。日本中にね。
マツコ:それでね、アタシの場合、体調が悪いのが少し改善されたのは、石原慎太郎がきっかけだったのよ。石原慎太郎が、地震の直後に「天罰」発言(「津波を利用して我欲を洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言)をしたでしょう。それ以前にも、ゲイを侮辱(たとえば二〇一〇年十二月に「同性愛者はどこかやっぱり足りない感じがする」「テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやる。日本は野放図になり過ぎている」と発言)した石原慎太郎のことを、アタシは、大っ嫌いだからさ。「このクソ親父め。『天罰だ』とかまたバカなことを言いやがって」とか言いながらずっと怒っていたら、それでいつの間にか元気になったのよ。

 怒りで元気になるというのはわかる気がする。

 怒るのってストレスなんだけど、同時にエネルギー源でもあるんだよね。誰かに向かって怒ったり攻撃したりするのって楽しいしさ。みんな悪口言うの大好きじゃない。いつだって「自分が悪者にならずに悪口を言える相手」を探してる。

 芸能人の不倫のニュースとかくそどうでもいいとおもっていたけど、ああいうのに怒ることで元気が湧いている人もいるのかもしれない。

 何の価値もないニュースだとおもっていたけど、もしかしたら気づかないところで役に立っているのかもね。




池田 :養老さんが今年(二〇一一年)、『希望とは自分が変わること』(「養老孟司の大言論I」新潮社)というタイトルの本を出していたけれど、つまり、あえてそう言わなければならないくらい、いまの人は「自分」を変えようとしないんだよ。いまの人って、自分がいて、相手がいて、その間で情報のやり取りをすることだけがコミュニケーションだと思っているんだよな。
 コミュニケーションというのはそういうものではないんだ。やり取りをすることによって自分や相手が変わることが本来のコミュニケーションなんだよ。そうではなかったら、自分が変わることもないし、変わらなければ、人間的に成長することもない。他人とのやりとりのなかで自分の考え方を変えてみたり、「ああ、そういうふうな考えもあるのか」と認識を新たにしたりとか、お互いにいろいろと調整をしながらうまく回っていくのが人間社会でしょう。そういうのをすっ飛ばして、自分と意見の違うやつは全部「敵」という感じになってしまう人が、いま、ほんとうに多い。
マツコ:いますよね。ある人が、「あいつはもともとこういう論調の人間だったのに、急にひよってこっちについた」と言って、知らない人のことを怒っていたんですよ。ひよったも何も、あんたはその人とずっといっしょにいたわけでもなんでもないんだろう?と思って、そんなことで怒っているのが不思議だった。さまざまな人から話を聞いたり、いろいろなものを見聞きしていくなかで、脳みその中が変わっていくんでしょ、とアタシは思うから、なぜその人が怒っているのかよくわからなかったんだけど、たぶんそれは、「あいつ」と言っている人についてのステレオタイプな情報を、その怒っていた人はずっと信じていて、その情報に自分が裏切られたと思っているということよね。

 ぼくの嫌いな言葉に「ダブルスタンダード」がある。正確に言うと、他人を糾弾する目的で「ダブルスタンダード」という言葉を使う人が嫌いだ。

「そんなこと言ってるけどおまえ過去にはこう言ってるじゃないか! ダブスタだ!」とドヤる人を見ると、ガキだなあとおもう。

 子どもってそうじゃない。ひとつの基準があらゆる場で通用するとおもってる。

「しゃべったらいけません」「えー、じゃあ火事になってもしゃべったらいけないのー?」

「暴力はいけません」「えーじゃあ警察官が犯人を逮捕するときも暴力を用いちゃだめなのー?」

みたいな感じ。五年生ぐらいのへりくつ。


 そんなわけないじゃない。ある状況における見解が他のどんな状況にもあてはまるはずないじゃない。

「外国人差別はいけない」と「日本人を優遇しないといけない状況はある」って十分両立する話だとおもうんだけど、ガキにはそれがわからない。一貫性を保つのがいいことだと信じている。

 また、同じ状況に対しても考え方が変わることもある。同じ汚職事件のニュースを見ても、小学生と、就活中の大学生と、中堅会社員と、定年退職後では、見方は変わるだろう。あたりまえだ。立場が変われば考えも変わる。良くも悪くも。まったく変わらないのは何も考えていない人だけだ。

 それに「職場で話す内容」と「気の置けない友人と酒場で話す内容」と「SNSで話す内容」が違うのもあたりまえだ。SNSで熱心に政治について語っている人も、たいていは人前で政治の話を声高らかには話さない(中には話す人もいるけど)。


 だからダブスタなんてあたりまえ。ダブルスタンダードどころかトリプルもクアドラプルもスタンダードを持っているのがまともな人間だ。

「ダブスタだ!」と吠えている人を見たら、「ああ小学生がなんかわめいてるわ」とおもうようにしている。




 マツコ・デラックスさんという人をテレビで観ていておもうのは、自分のことをよくわかっている人だなということ。

 とても客観的に、自分のポジション、自分が求められていることを把握しているように見える。

 たとえば、物事をずばずばと言うように見えるけど、基本的に語っているのは好き嫌いであって善悪ではない。また決して自分を良く見せようとはしない。どれだけ売れても偉くなろうとはしない。

池田 :そうやってマスコミはマツコさんをスターにしちゃったわけだけど、それに対する自己認識はどうなの?
マツコ:たぶん、ヒジュラ(男性でも女性でもない「第三の性」を指すヒンディー語 インドではアウトカーストの存在として、聖者として扱われたり、逆に極端に蔑まれたりしている)とかさ、そういうのが稀にあるじゃない? 結局、何か正体がよくわからないもの、どこか気持ちが悪いもの、既存の価値観では収まりのつかないものを、神格化これは自分でそう思っているわけじゃないから誤解しないでほしいんだけど―――して、すべてをその「神格化」したものになすりつけてしまってさ。で、最後は神輿から突き落とすんだろうと思っているんだけど。いまのテレビというのは、さっき池田先生も言ったように、ちょっと変わったことをなかなか言えない感じになってきているでしょ。その状況のなかで積もり重なったいろんな思いをいまアタシはぶつけられている感じはするのよね。そうして、みんながすっきりしたら、きっと「もうあんたは要りません」と言われるんだろうし。そういうのが刹那的だということも自分で肌で感じてわかっていて、その上でそれを引き受けてやろうと思ったの。「どうぞ、どうぞ、石でも何でも投げてください」というかまえで。
池田 :やけくそだね(笑)。
マツコそうなのよ。
池田 :大勢に乗って動いているということに関して、心のどこかでは「何かヘンだな」と思っている人もいっぱいいるんだよね。だけど、そのときに表立って「それはヘンだ」とは言えない。そこで、なんだかふつうじゃなさそうなヘンな人を祭り上げるようなことをやって、一種の欲求不満のはけ口にしているというか、それで自分のもやもやしたものを洗い流してせいせいしたい感じがあるのかな。きっとマツコさんはその象徴的な存在としていろいろなところに引っ張り出されているんだろうね。

 そうなんだよね。世間の人ってだいたいマツコ・デラックスという人を「なんだかよくわからない人」として受け止めているんだよね。ぼくもそうだった。気づいたらテレビに出ていたけど、どんな経歴の人で、どういう考えでああいう恰好をしているのかとかこの本を読むまでほとんど知らなかった。

 多くの視聴者はマツコさんの発言を「なんだかよくわからない人が変なことを言ってる」と受け止めている。だから少々乱暴な意見でも「まあ変な人が言ってることだから」と受け流している。

 そういうポジションを当人もよくわかってるんだよね。だから、どんな飯がうまいとか、あのお菓子が好きとかどうでもいいことは語っても、あの政治はおかしいとか、この法律は変えるべきとか、そういう“正しい”ことは言わない。「変な人が変なことを言ってる」範囲を決して踏み越えようとはしない。

 好き勝手言ってるようで、誰よりも自分を殺して求められる姿を演じている。つくづく賢い人だよね。


【関連記事】

【読書感想文】 マツコ・デラックス 『世迷いごと』

【読書感想文】中谷内 一也『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』 / なぜコロナパニックになったのか

【読書感想文】小説の存在意義 / いとう せいこう『想像ラジオ』



 その他の読書感想文はこちら


2025年2月1日土曜日

消防署の向かいの生活

 昨年、消防署の向かいのマンションに引っ越した。

 ご想像の通り、うるさい。

 うちは九階なのだがそれでもけっこうサイレンの音が聞こえる。出動時は窓を閉めていてもテレビの音が聞こえないぐらいだ。

 ま、それはいい。消防署が先にあって、それを承知で後からこちらが引っ越してきたのだから。消防署員の方々に対してはなんら不満はない。ごくろうさまです。


 発見したのは、音にはけっこう慣れるということだ。

 たぶん閑静な住宅街に住んでいた人が我が家に来たら「よくこんな騒々しいところで生活できるね」とおもうだろうが、慣れてしまえばどうということもない。寝室は消防署と反対側なので、深夜のサイレンも気にならない。さすがに窓を開けて寝ていたらサイレンで起きてしまうが。


 向かいなので、消防署の様子がよく見える。消防隊員たちはいつも訓練をしている。腕立て伏せをしたり、走ったり。また署の敷地内にSASUKEのセットみたいなやつがあって、そこで登ったり走ったりしている。

 すごいなあ。軟弱者としてはただただ頭が下がる。

 おもったのは、消防活動に関する道具の進歩はいろいろあるけど、現場で消火活動をする人たちに求められる能力ってのは江戸の火消しの頃から(あるいはもっと前から)そんなに変わってないんだろうな、ということ。

 どれだけ道具が進歩しても、最後は身軽さとかが求められるんだな。



【読書感想文】柞刈 湯葉『SF作家の地球旅行記』 / SF作家の空想力と好奇心

SF作家の地球旅行記

柞刈 湯葉

内容(e-honより)
人気SF作家・柞刈湯葉、初旅行エッセイ。 首里城、筑波山、ウラジオストク、モンゴルの草原…何のために旅に出て、何を思い、何を目指すのか。SF作家の目を通して楽しむ新感覚旅行記。 2019~2021年note投稿作品を大幅に加筆・修正した海外編4作&国内編8作、さらに[架空旅行記]として書き下ろし短編小説2作(月面編/日本領南樺太編)を加えた。

 SF作家による旅行エッセイ。

 出版社が企画した旅行記ではなく(昔はよくあったけど、今もそういうのあるのかな。出版社にそこまでの経済的余裕がないかもしれない)、著者がプライベートで行った旅行をnoteに投稿したものなので、そんなに肩肘張った旅でないのがいい。

 琵琶湖とか千葉とか筑波山とか、旅先としてはあまりメジャーでないところが逆に新鮮。国外でもカナダとかウラジオストクとか。途上国や田舎のような雑多な感じもなく、ヨーロッパの有名都市ほどの歴史があるわけでもない。

 ぼくはあまり旅をしないが、旅に対する姿勢は著者と近いものがある。あまり人が行かない場所に行きたいとか、何でもなさそうなものにおもしろさを見出したいとか、そういう気持ちがある。はっきりと「ここに行ってこれを見るんだ!」という感じではなく、「なんかおもしろいものないかなー」という気持ちで移動を楽しみたいのだ。

 知っているものを確認しにいく旅ではなく、知らないものを探しにいく旅。もちろんハズレを引いてしまうこともあるが、ハズレたこともまた楽しい。でも世の中には絶対にハズレを引きたくない! という人が少なくないんだよね。ハズレこそが旅の醍醐味なのに。

 そんな風に旅に対する姿勢が近い(とぼくは感じている)ので、『SF作家の地球旅行記』はおもしろかった。ぼくが憧れる旅だ。




 そしてなんといっても魅力は軽妙洒脱な文章。レポートと知識と空想とほら話が軽やかに錯綜する。

  心情はあまり書かれず思考や発想が多いので、ドライな文章で旅の雰囲気とぴったり合う。奥田民生『イージ㋴ー★ライダー』を聴きたくなった。


 カナダ旅行記『チップがないならポテトを食べればいいじゃない』より。

 これは日本にはない文化なのだが、北米のスタバでは店員に名前を聞かれる。本人確認をしているわけではなく、ドリンクの取り違えを防ぐためらしい。
 ただ、僕の本名は外国人にはまず聞き取れないので、初めて渡米したときはこの問題に大いに悩まされた。「え?」「もう一回言って」と何度も聞き返され、レジに無用な行列を作ってしまうのだ。「別に本名を言う必要はないので、自分に適当な英語名をつけるといいですよ」
 というアドバイスをもらったことがあるが、これは英語慣れした人の意見である。ジョンだのポールだのといった英語名もきちんと発音しないと伝わらないのだ。
 これについてはいまでは「ホンダ」と名乗ることでほぼ解決している。ホンダのバイクなら世界中で走っているので、日本人の顔をした客が「ホンダ」と名乗ればおおむねどの国でも通用する。こうした小手先のテクニックを蓄積していけば、英語ができずとも海外暮らしはわりと何とかなってしまう。

 旅行記というか滞在記というか。旅というとついつい、あれも見なくちゃこれも見なくちゃあれも食べなくちゃという気になるが、この人の旅は日常の延長。


 また、SF作家(であり生物学の研究者)でもあるだけあって、科学に対する知識も豊富だ。

 千葉旅行編『電車に乗ってチバニアンを見に行った』より。

 地球はおおきな磁石である、というのは小学校で習うのでご存知かと思うが、実はこのN極とS極はときどき入れ替わる。一番最近の入れ替わりが77万年前に起き、千葉の地層がそれをいい感じに記録しているため、77万年前以後の地質年代がチバニアン(千葉時代)となった、とのことである。
 なんで77万年も前の磁場がわかるのかと言えば、北京原人の学者が記録していたからとかそういうわけではない。溶岩が冷えて固まる際に、内部の磁鉄鉱などが地磁気の向きに揃うからである。いったん固まってしまえば地磁気が変動しても動かないので、岩石の年代さえ特定できればその時代の地磁気がわかるという寸法である。テープレコーダーやハードディスクと同じ仕組みだ。
 なお地球の地磁気はここ200年一貫して減衰しており、このペースで減り続けると1000~2000年後には地球の地磁気はゼロになってしまうらしい。そうなると太陽から吹き付ける荷電粒子が遮断できなくなり、電波通信に相当な悪影響があると言われている。
 地磁気の変動は複雑かつ未解明で「このペースで減り続ける」必然性はあんまりないのだが、1000年後まで人類文明が存続していれば、なにかしら対策が取られるかもしれない。

 こういう知識がそこかしこに散りばめられているのもおもしろい。

 このエッセイを読むと、ほんとに教養って人生を豊かにしてくれるスパイスだなとおもう。

 NHKの『ブラタモリ』なんかもそうだけど、なんの変哲もない道や坂や山でも、知識のある人が見ればそこからいろんな情報を引きだせる。そしておもしろがれる。

 柞刈湯葉氏も教養が深いので、有名観光地でない場所からもいろんな発見や空想をして楽しんでいる。こういう人は何をしていても楽しいだろう。



 旅行エッセイもおもしろいが、なんといっても真骨頂は巻末の、月面を訪れた『静かの海では静かにしてくれ』と日本領土となっている南樺太を訪れた『南側と呼ぶには北すぎる』である。

 もちろんこれはフィクションである。まだ月面旅行は気軽にはできないし、南樺太(サハリン)はかつては日本領であったが今はロシアが実効支配している(日本は南樺太を放棄したがロシアのものとは正式に決定していない)。どちらも気軽に旅をできる場所ではない。

 しかし人間の想像力は距離も時間も国境も次元も軽く飛び越えてしまうので、月面にだって「もしも終戦がもう少し早くて日本領のままだった南樺太」にだって行けちゃうのだ。


 月旅行記より。

 あと意外と困ったのは服である。地球のたいていの服は重力を受ける前提でデザインされるので、無重力下で動き回ると勝手にめくれ上がってしまうのだ。これが思った以上に厄介で、面倒になったのでシャツをズボンにインした。宇宙時代とは思えない昭和スタイル。

 なるほど。重力がある生活があたりまえになっているから考えたことなかったけど、服って重力があること前提なのか。

 無重力だったらスカートは履けないし、帽子だって脱げちゃうし、ネクタイは邪魔で仕方ないし(重力あっても邪魔だけど)、眼鏡もとれちゃうよね。宇宙時代の眼鏡はゴーグルみたいな形状になるのかな。

 言われてみればその通りなんだけど、月旅行を想像してもなかなか「無重力下での着こなし」までは想像が及ばない。さすがはSF作家だ。


 宇宙では換気という概念が存在しないため、初期の宇宙ステーションは常に人間の臭いが充満している場所だったらしい。宇宙研究施設だった時代、精悍な職業宇宙飛行士たちはこの過酷な環境を人類代表としての使命感で耐え抜いたが、観光地になるといよいよ問題が表面化しはじめた。
 その結果、強力な空気清浄機が船内のあちこちで常時回転するようになり、臭い問題は解決したが、代わりにファン音が鳴り響く環境になってしまったそうだ。

 臭いって生きる上ではかなり重要な問題だけど、目に見えないものだから、想像しにくい。「宇宙船の中はどんなにおいか」なんて考えたことないもんなあ。

 言われてみれば、宇宙ステーション内は臭くなりそうだ。いくら宇宙時代になったって人間は汗をかくしおならやゲップもする。

 たぶん剣道部の部室みたいな臭いになるんだろうな。柔道とか剣道やってた人は宇宙ステーションに入って「なつかしい!」という感情になるのかもしれない。


 とまあタイトルに冠した「SF作家の」は伊達じゃない、SF作家の空想力や好奇心が存分に楽しめる旅行記(+小説)でした。


【関連記事】

【読書感想文】SF入門に最適な短篇集 / 柞刈 湯葉『人間たちの話』

くだらないエッセイには時間が必要/北大路 公子『流されるにもホドがある キミコ流行漂流記』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2025年1月29日水曜日

【読書感想文】高橋 ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』 / 煙喜ぶ田舎者が書いた本

つけびの村

噂が5人を殺したのか?

高橋 ユキ

内容(e-honより)
2013年の夏、わずか12人が暮らす山口県の集落で、一夜にして5人の村人が殺害された。犯人の家に貼られた川柳は“戦慄の犯行予告”として世間を騒がせたが…それらはすべて“うわさ話”に過ぎなかった。気鋭のノンフィクションライターが、ネットとマスコミによって拡散された“うわさ話”を一歩ずつ、ひとつずつ地道に足でつぶし、閉ざされた村をゆく。“山口連続殺人放火事件”の真相解明に挑んだ新世代“調査ノンフィクション”に、震えが止まらない!


 2013年に起きた、山口連続殺人放火事件という殺人事件がある。

 住民わずか14人という限界集落で、村人5人が殺害され、さらに被害者宅に連続して火を放たれたという事件だ。

 連続殺人であることも注目を集めたが、この事件がさらに大きく扱われるようになったのは、一句の川柳だ。

 被害者宅の隣家の男が姿を消し、男の家には外から見えるように「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という川柳が貼ってあったのだ。

 男は逮捕されたが「周囲の人間から嫌がらせをされていた」「悪いうわさを立てられた」などと供述したことから、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」とは、気に入らない住民の悪い噂を広めて村八分をする陰湿な村人たちを皮肉りつつ犯行予告をした川柳なのではないかという憶測が飛び交うようになった……という事件だ。


 ぼくもこの事件のことはおぼえている。というより、事件の詳細はほとんどおぼえていなくて、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の川柳だけが強く印象に残っている。詩の力ってすごい。

 多くの人が「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」だと認識していたことだろう。ぼくもそのひとりだ。はっきりと「田舎者の陰湿さが引き起こした事件だ。これだから田舎者は」なんてことをネット上に書く人もいた。



 だが。

『つけびの村』を読むかぎり、どうもそんな単純に「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」と言える話ではないようだ。


 以前にも村で放火騒ぎがあった、過去に容疑者が怪我を負わされる刃傷沙汰があった、被害者たちは容疑者宅の前で集まって噂話をしていた……。

 話を聞くといろんな話が出てくる。

 しかし、読めば読むほど話がこんがらがってくる。なにしろ、14人しか住民のいなかった村で、5人が殺され、1人が逮捕されているのだ。生き残ったのは8人だけ。元々高齢者ばかりの村だったので、事件後に亡くなった人もいる。全員が関係者。当然、事件について語りたがらない人も多い。語ったところで、関係者なので、客観的・中立ない件とは言いがたい。

 芥川龍之介の『藪の中』のようだ。登場人物たちの語る内容がみんな微妙に食い違い、真相はまったくわからない。おそらく当人たちにだってわからないのだろう。

 いちばん真相を知っていたはずの容疑者は妄想性障害を患っていて、語ることは支離滅裂(そのため裁判では責任能力が争われたが、最高裁で死刑が確定)。

 もはや何が何だかわからない。


 読んでいるうちに、ふと気づいた。

「真相」なんて関係あるのか?

 容疑者は「他の住人から噂話の対象にされたり、村八分にされたりしていた」と主張しているが、それがどうしたというのだ?

 それが本当かどうかはわからない。だが仮に本当だったとしても、それが何なのだ? 村八分にされていたら、五人を殺害して家に火をつけていい理由になるのか?

 村の人たちが噂話をしていたかとか、田舎の人間付き合いが陰湿かとか、そんなことはどうでもいい。どっちにしろ人を殺して火をつけたらだめなのだ。

 だから「事件の背景をさぐる」なんて行為は、まったく意味がないのだ。




 そうおもって読むと、著者の“取材”と“執筆”こそがひどく陰湿なものにおもえてくる。

 容疑者だけならまだしも、被害者の遺族や隣村に行き、事件前の村の様子を探る。証言は集まるが、裏付けなどはまるでない。どれだけ証言を集めたって噂話の域を出ない。

 そして裏付けの取れていない“証言”をブログに書き、SNSに書き、本にして出版する。

 これって、定かでないうわさを広めているだけだよな……。著者こそが「煙り喜ぶ 田舎者」だ

 取材をするのはともかく、真偽の定かでない噂をそのまま書いちゃいかんだろ。しかも実名付きで。

 読めば読むほど、「誰がえらそうに語ってるんだ」と著者に対して憤りを感じる。


 極めつきはこれ。容疑者の親戚をわざわざ探して訪ねた話(××は原文では容疑者の名前が入っているがぼくが伏字にした。容疑者は死刑確定後も冤罪を主張しているらしいので)。

「お話を聞きた……」
 入り口からすぐの壁沿いに置かれた冷蔵庫の前に立っている。白地に小花柄のジャージー生地のネグリジェを着た長女は、痩せた身体に白髪頭で、××より世代が相当上の老婆だった。
 ここまで言うと、それを遮るようにきっぱりと長女は言った。
「いえ、私話すことないです、いま寝とるんじゃから。いま寝とるから、何にもできんから。もう、何にも話すことないです。いま自分の身体が一生懸命じゃから。心臓が悪いんですよ、寝とるんじゃから。だからお話しすることは、できんのですよね。はい」
 何を聞いても「いま寝とるんじゃから」しか返ってこなかった。平穏な日常生活を脅かされることになった元凶である××には、怒りしか持っていないようだった。
 田舎で起こった大きな事件。近所のものも皆、彼女たちが××の姉であることを知っている。姉たちは何も悪いことをしていないのに、多くの記者から事件について繰り返し聞かれ、いつまでも平穏な生活を送ることができない。私も取材に出向いている身なのでこんなことは言えた立場ではないが、弟が起こした事件に死ぬまで苦しめられるという意味では、彼女たちも被害者なのである。

 なにが「彼女たちも被害者なのである」だよ。おまえが加害者なんだよ。「こんなことは言えた立場ではないが」って、何を末端みたいな顔してんだよ。おまえは事件と無関係の親戚に多大な迷惑をかけてる主犯じゃねえか。「元凶である××には、怒りしか持っていないようだった」じゃねえよ。おまえのあつかましさに怒ってるんだよ。

 よく他人事の顔をできるな。




 読めば読むほど、著者の目的が野次馬根性としかおもえない。

「容疑者の無実を証明するため」とかならまだわかるよ。でもそんなことはない。たしかに容疑者は無実を主張しているが、著者はその言い分をまったく信じていない。

 事件にいたった背景をさぐるためというそれっぽい理由を用意しているが、そんなものいくら調べたったわかるわけがない(実際、わかったことといえば容疑者が妄想性障害を持っていたことぐらい)。犯人が心の中で何を考えていたかなんて本人以外にわかるわけない。いや本人にすらわからないだろう。


 野次馬根性のために嫌がる人に取材してまわり、不確かな噂を聞きだし、それを不確かなまま広める。やってることはSNSでデマを拡散する人と一緒。

 ルポルタージュとしてまったく意義を感じない本だった。

 まあそんなゲスい本があってもいいけど、私はゲスじゃありませんよという顔をして書くやつはいちばん嫌いだ。


【関連記事】

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

【読書感想文】「新潮45」編集部 (編)『凶悪 ~ある死刑囚の告発~』



 その他の読書感想文はこちら


いちぶんがく その23

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



さっそく「アザラシ回収装置」を見せてもらった。

 (渡辺佑基『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』より)




「やまうど今うめがら送るがらたべてくなんしょ」

 (小泉 武夫『猟師の肉は腐らない』より)




経済学者が数学を使うから科学者だと言い張るのは、星占い師がコンピュータや複雑な表を使うから天文学者と同じくらい科学的だと言うのと変わらない。

 (ヤニス・バルファキス(著) 関美和(訳)『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』より)




村に着くと、そこに地獄があった。

 (逢坂 冬馬『同志少女よ、敵を撃て』より)




懐かしさは、味のなくならないガムだ。

 (浅倉秋成『九度目の十八歳を迎えた君と』より)




さぁ、イタリアの田舎町の茶色い水に一緒に飛び込んでいただこう。

 (山舩 晃太郎『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』より)




一人ひとりが生地のままの男、女、子どもとなって、持てるものならなんでも持ち去った。

 (アントニー・ビーヴァー (著) 川上洸(訳)『ベルリン陥落1945』より)




「きみだってまんまと、ぼくの〝不幸な生い立ち〟に同情したじゃないか」

 (櫛木 理宇『死刑にいたる病』より)




こちらに向いているカメラのレンズは、選ばれた人しか通り抜けられない狭くて暗いトンネルに見えた。

 (朝井 リョウ『武道館』より)




自分は正しくてエライというナベツネオーラが行間から伝わってくる。

 (プチ鹿島『芸人式 新聞の読み方』より)



 その他のいちぶんがく


2025年1月27日月曜日

小ネタ29(全盲ランナー / GM / 世界海賊口調日)

全盲ランナー

 以前、ニュースで「パラリンピックで全盲ランナーが金メダルを獲得しました」と伝えていた。

 それ、わざわざ報道する必要ある?

 オリンピックならわかる。オリンピックで全盲ランナーがメダルを獲得したら特筆すべきニュースだろう。

 でもパラリンピックで障害者がメダルを獲るのはあたりまえだ。障害者じゃない人がメダルを獲ったらそっちのほうがニュースだ。

「パラリンピックで全盲ランナーが金メダル」と伝えるのは、「女子サッカーの大会で女子チームが優勝」とやるようなものだ。


GM

 ガムとゴムとグミはたぶん語源が一緒なのだろう。全部「G」+「M」の音だ。

 そのせいで我々は「G」+「M」を聞くとぶにぶにした感じを思い浮かべる。

 今後、ああいう食感のお菓子を開発したときは、食感をイメージしやすいように「G」+「M」の命名をするといい。ギモとかゲマとか。あとゴマとか。あとゴミとか。


世界海賊口調日

 毎年9月21日は世界海賊口調日(International Talk Like a Pirate Day)だそうだ。海賊のような口調で話す日とのこと。よくわからない。詳しく調べれば由来とかがわかるのだろうが、わかってしまうとつまらない気がするのであえて調べないことにする。

 ハロウィンとかより気軽に参加できそうなのがいい。相手やその場の雰囲気によって「海賊口調で話すかどうか」を決められるのもいい。仮装だとこうはいかない。ハロウィンよりもこっちが流行ってほしい。でも日本だと「海賊口調」のイメージがあまりないので、「侍口調」のほうが良さそうだ。



2025年1月24日金曜日

【読書感想文】高田 かや『カルト村で生まれました。』 『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』 / 宗教は人権と対立する

『カルト村で生まれました。』

『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』

高田 かや

内容(e-honより)
「平成の話とは思えない!」「こんな村があるなんて!」と、WEB連載時から大反響!! 衝撃的な初投稿作品が単行本に! 「所有のない社会」を目指す「カルト村」で生まれ、19歳のときに自分の意志で村を出た著者が、両親と離され、労働、空腹、体罰が当たり前の暮らしを送っていた少女時代を回想して描いた「実録コミックエッセイ」。

 集団生活をしていた“カルト村”で生まれ育った著者が、当時の思い出をふりかえったコミックエッセイ。

 作中でははっきり書かれていないが、明らかにヤマギシ村のことだとわかる。

 ヤマギシというのは、詳しくはWikipediaでも見てもらえばいいが、私有財産を否定し、農業や養鶏を通して、幸福な世界の実現を目指すという団体のことだ。集団生活をして、そこでは貨幣を使わず、農業などの労働に取り組んでいるそうだ。

 そういえば最近聞かなくなった。ぼくが子どもの頃は、ときどき近所までヤマギシの車が農作物や卵を売りにきていた。ぼくの母が「ヤマギシは、まあちょっとアレだけど、売ってるものはいいからね」と言葉を濁しながら買っていたのを思いだす。きっとその頃にはもう悪い評判が流れていたのだろう。

 そう、ヤマギシ会自体は1950年代から活動していたものの、1990年代からはオウム真理教のニュースもあって「カルト的なもの」に対する風当たりが強くなったことや、子どもに対する体罰などの問題や脱税が明るみに出たことで批判の声が強まったのだ(この本にもそのあたりの変化が描かれている)。



 この本には、ヤマギシ村での子どもたちの生活が赤裸々に描かれている(著者は十代後半で村を出ているので大人の生活はあまり詳しくない)。

 著者自身は、あっけらかんと「まあいろいろ問題もあったけど私にとってはそんなに悪くない村だったよ」というスタンスで描いているのだが……。


 いやあ、これはダメだろ……。

 まあ大人たちはいい。自分自身、ヤマギシ会の理念に共感し、自らの意思で私財を投げうって入村した人たちは、好きにしたらいい。

 ただ、子どもたちの扱いはさすがにかわいそうだ。

  • 親とは別の村で暮らし、会えるのは年に一、二回
  • 朝食はなし
  • 指導係に叱られたら食事なし
  • 指導係による体罰や数時間にわたる説教
  • 学校に行かせてもらえないこともある
  • 子どもも毎日労働。原則、休みはなし
  • ほとんどの子は高校や大学に行かせてもらえない

 これはどう考えたって虐待だよね(今は変わったところもあるようだが)。


 著者はヤマギシ村で生まれてヤマギシ村で育った人なのでそこの生活しか知らず、「今となってはいい思い出」みたいになっているみたいだけど、それは本人の性分と、結果的に今は大きな不満のない生活をできているからであって。

 子どもは自分の意思で外の世界に出ていくことはできないし、仮に出たとしても、高校にも行かず村で貨幣のない生活をしていた子がうまくやっていくことはむずかしいだろう(著者はいろんな事情が重なって両親と一緒に村を出て、たまたまいい経営者に雇われたという幸運が重なった)。


 どんなカルトでも(外の世界に危害を加えないかぎりは)好きにやったらいいんだけど、子どもが巻き添えにされるのは気の毒だ。

 以前、米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』という本を読んだ。オウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会といった“カルト”と呼ばれる団体内で育った子どもについて取材した本だ。

 カルトがカルトと呼ばれるのは世間一般の常識と衝突するからで、大人同士であれば「あの人はああいう人だから関わらないでおこう」とできるけれど、子どもは学校を通していやおうなく“世間”と関わらないといけない。そこに軋轢が生じる。

 たとえばエホバの証人であれば、親からは「遊んだりテレビを見たりスポーツをしたりするのはサタンの行いだ。学校の選挙やクリスマス会は参加禁止。参加しないことをみんなの前で宣言しろ」と言われる。しかし学校ではまったく違う論理が生きている。遊び、スポーツをし、テレビの話をし、クリスマス会などの行事が開かれる。成長すればするほど「うちの家庭は他と違う。うちの家庭のほうが少数派だ」ということがわかってくる。

 対立するふたつの“常識”の板挟みになる子は気の毒だ。どちらにあわせても待っているのは苦難の道だ。




 新興宗教はいろいろあり、その中には急速に信者数を増やしたものもある(正確にはヤマギシ会は宗教ではないのだろうが、思想や行動を縛る教えを信じているという点ではほとんど宗教と同じだとぼくには見える)。

 だが、二十世紀以降に誕生した宗教で、三十年以上にわたって信者数を増やしつづけた宗教はないんじゃないだろうか。

 どの宗教もだんだん衰退してゆく。最初は熱心な信者たちが集まってくるが、二世世代が増えると、どうしても「外の世界」との衝突が起こる。必然、悪い話も外に出るようになり、イメージが悪くなる。ぼくの友人にも創価学会二世がいたが、彼はすごく嫌そうに活動していた。そんな姿を見て、自分もやりたいなとおもう人は少ないだろう。

 そもそもの話、宗教の教義って人権って衝突することが多い。「必ず○○しなさい」「○○してはいけません」ってのが教義で、「人にはやる自由もあるしやらない自由もある」ってのが人権なのだから、対立するのが当然だ。

 だから人権が保障された近代社会において、宗教が拡大するのは無理なのかもしれない。自分の意思で入信した一世信者と違い、二世三世は人権を奪ってまで信者でいつづけさせることはできないのだから。

 昔からある宗教は、人権意識の低い時代だったからこそ拡大できて、拡大しきって「外の世界」との摩擦が小さくなったからこそ現在でも残れている。これから新興宗教が長期にわたって拡大しつづけることは無理なんじゃないかな。


【関連記事】

【読書感想文】米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』 / オウム真理教・エホバの証人・統一教会・ヤマギシ会

【読書感想エッセイ】中野潤 『創価学会・公明党の研究』



 その他の読書感想文はこちら