2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

読書感想文を書いたり、エッセイを書いたりしています(読書感想文 五段)。



読書感想文は随時追加中……

 読書感想文リスト



2025年6月27日金曜日

テレビが強かった理由

 ちょっと前まで、テレビは強いメディアだった。誰もが認めるところだ。

 テレビの影響力はすごかった。視聴率10%だったら、単純計算で1000万人近くが観ていたわけだ。世帯視聴率なので実際はもっと少ないけど、それでも数百万、多ければ数千万人に同時にリーチできていたわけだから、とんでもないメディアだ。

 ある番組で健康にいいと言われた食材が翌日のスーパーから消えた、なんて話も聞く。1000万人が視聴して、そのうち5%が買いに行ったとしても50万人が買うことになるわけだ。それも同じ日に。すごい。


 今それに匹敵するメディアってないだろう(テレビ自身も含めて)。

 YouTubeを月に一度以上利用する人が、日本で7000万人ぐらいだそうだ。

 少し前ならテレビを月に一度以上視聴する日本人なんて100%に近かっただろう。月に一度どころかほとんどの人は日に一度以上は視聴していたはずだ。しかもYoutubeは観られている動画が無数にあるけど、地上波放送は数チャンネルしかない。ほとんどの人が同じものを観ていた。


 じゃあ昔のテレビがそれだけおもしろかったのかっていうと、必ずしもそうとは言いきれない。テレビが強かったのは「テレビがおもしろかったから」ではない。


 テレビの最大の強みは、「手軽に見られる」ことと「みんなが見てる」ことだ。

 まず手軽さだけど、リモコンのボタンを押すだけですぐに再生が始まる。テレビ放送の再生に特化したデバイスが居間にどんと置いてあって、ボタンを1個か2個押すだけで再生が始まる。

 パソコンの起動ボタンを押して、起動するのを待って、ブラウザを立ち上げて、検索するなりURLを入力するなりブックマークを探したりして目的のサイトを開き、そこで動画を検索し、再生ボタンを押すのに比べてずっと手軽だ。


 そしてみんなが観ていること。

 テレビの話題は、かなりの確率で共通の話題になりうる。いきなり映画や小説の話題を振ってくる人はあまりいないが、いきなりテレビの話題を振る人はけっこういる。

 以前、同じ職場のおばちゃんから朝いきなり「X(女優)とY(芸人)が結婚したのびっくりしたねー」と話しかけられて驚いたことがある。みんながワイドショーネタに興味を持っているとおもっているのだ。それぐらい芸能ネタというのは一般的な話題だ。

 人は「昨日のあのドラマ観た?」「こないだの〇〇おもしろかったなー」という会話をしたいものだ。だからネット動画になってもコメント欄がにぎわっている。


 テレビは娯楽の王様とか言われていたけど、決してテレビのコンテンツが優れていたからではないだろう。もちろんおもしろい番組もいっぱいあったが、それと同じぐらい、おもしろい映画、おもしろい小説、おもしろい舞台演劇もいっぱいあった。コンテンツ自体の強さでテレビに劣っていたわけではない。

 それでもテレビが圧倒的に強かったのは、手軽に、みんなが観ることができたからだ。


 昨今、テレビ業界も斜陽産業になりつつあるらしく、有料配信などの会員制ビジネスを始めたりしている。

 たぶんうまくいかないだろうな、とおもう。そういう囲い込みって、テレビの強みであった「手軽さ」「大衆性」の対極にあるものだから。


 ついでに言えば、新聞も似たようなものだ。

 日本の新聞が強いメディアだったのは、大衆性(みんなが同じような記事を読んでいる)と手軽さ(毎朝家に配達されるのでかんたんに読める)に依るところが大きい。

 だから多くの人が購読をやめて大衆性が失われれば読まなくたって平気だし、一度購読をやめてしまえばわざわざ買ってまで読もうとはおもわない。


 我々はとにかくめんどくさがりなのだ。


 仕事以外でパソコンを使う人が減ってスマホにシフトしているのも、やはり手軽さが理由だろう。

 だから今後スマホに取って代わるものができるとしたら、スマホを手に取って画面をオンにするよりも手軽なもの、たとえばまばたきするだけで眼前に映像が浮かびあがってくるようなメディアなのだとおもう。



2025年6月26日木曜日

【読書感想文】鈴木 宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』 / 言語は記憶の邪魔をする

認知バイアス

心に潜むふしぎな働き

鈴木 宏昭

内容(e-honより)
見ているはずのものが見えていない。確かだと思っている記憶が違っている。後から考えると不思議な判断間違い。―誰もがよく感じる、このような認識のずれは、なぜ起こるのか、そのメカニズムを詳しく解説!

 認知バイアスとは、思いこみ、偏見、先入観などによって適切な判断をしてしまうことを指す。これはほとんど誰にでも起こることである。

 思いこみや偏見というとネガティブなイメージがつきまとうが、必ずしも悪いことではなく、むしろ判断をスピーディーにしたり、脳のエネルギー負担を抑えたり、プラスにはたらくことが多い。だからこそ人間の脳は思いこみ、偏見を持つように進化したわけだ。

 食物は腐ると刺激的なにおいを放つことが多い。だから刺激的なにおいがするものは食べないほうがいい。これは“偏見”だ。レモンのように刺激的なにおいだけど食べてもよいものも存在する。

 だが、採集生活をしている人がいちいち食べてみて「これは大丈夫」「これは危険」と判断していたら命がいくつあっても足りない。だから「刺激臭のするものは食べるな」「色鮮やかなキノコは食べるな」といった“偏見”にもとづいて行動するわけだ。すごいぞ偏見。

 認知バイアスを持っていなければとっくに人類は絶滅していたかもしれない。




 しかし認知バイアスがあるせいで、判断を誤ることも多々ある。

 こういう次第だから、目撃者証言などもかなり問題を含むことが了解できると思う。ずいぶんと古い実験だが、有名なものを紹介したい。これは実際のテレビ番組を用いた、2000名以上の参加者からなる、かなりコストのかかる実験である。番組の中では、廊下を歩いている女性が突然現れた男性に突き飛ばされ、バッグから財布を盗まれる場面が13秒間放送される。その中の3.5秒間には犯人の顔がしっかりと映されている。この放送の後、視聴者にはあなたたちが目撃者である、と告げられ、2分後に6人の被疑者が1から6の番号札を持って並んでいる写真が見せられる。そして一人ずつはっきりと映された後に、報告用の電話番号が伝えられ、自分が犯人だと思う人の番号を電話で伝えるように指示される。ちなみに6人の中に犯人はいないという選択肢もあり、これは0の数字で答えるようになっていた。
 これは7択の問題なので、ランダムに答えても14.3パーセントが正解する。さてどのくらいの人が正しく答えられたと思うだろうか。なんと正解したのは14.7パーセントに過ぎない。つまりでたらめに答えたのと変わりがないのである。また犯人は6人の中に存在したが、この中にはいないと答えた人(つまり0と報告した人)が1/4程度も存在した。

 人間は、見たものを見たまま記憶することが苦手なのだ。


 ぼくは以前、裁判員に選ばれたことがある。裁判で検察官の主張、被告人側弁護士の主張を聞き、その後評議室で裁判官と裁判員で議論をおこなう。

 そのとき、「たしか検察の主張ってこうでしたよね」「あれ、そうでしたっけ? 私の記憶だとこうだったような……」「じゃあもう一回裁判の記録を見返してみましょう」となることが何度かあった。それで記録を見返すと、どちらの記憶もまちがっていた、なんてこともあった。

 かなり集中して裁判を聴いているのに、採番から評議まで数日しか経っていないのに、細部はけっこう忘れている。裁判員だけでなく、プロの裁判官も記憶がおぼろげなことがあった(一応書いておくと、ちゃんと記録を見返すので誤認のまま評議が進むことはほとんどないはず)。


 以前別の本で読んだのだが、鳥はヒトに比べてものの形を正確に覚えられるらしい。

 だが、正確に記憶するせいで、ちょっと形が変わっただけで別のものと認識してしまうのだそうだ。これは不便だ。人の顔をおぼえても、ちょっと髪型が変わっただけで別人と判断してしまっては困る。

 つまり記憶はあいまいであるほうがよい面もあるのだ(むしろそっちのほうが多いのだろう)。

 この本によると、幼児期には写真のように見たものを記憶できるが、言語の発達とともにその能力は衰えていくのだそうだ。写真のように正確におぼえるよりも「眉が太くて柔和な顔つきのひげの濃い男性」のように特徴を取り出しておぼえるほうが効率がいいからだろう。

 それでは言語のもたらす影の部分に進んでみたい。直前に述べた記憶から始めることにしよう。これについてジョナサン・スクーラーたちが行った実験がある。この実験では、ある犯罪が行われた時のビデオを参加者たちに視聴させる。なお犯人の顔ははっきりと映っている。その後に、一方のグループの参加者には、ビデオに登場する人の顔を詳細に5分間言語的に記述するように求めた。もう一方のグループにはそうしたことをさせずにまった別のことをさせた。その後に犯人の顔写真を含んだ何人もの顔写真を見せ、その中のどれがビデオに登場した人物かを尋ねた。さてどう考えても一所懸命犯人の姿を思い出しながら文章で記述していたグループの成績の方がよいと思うだろう。片方のグループは、5分間その男の特徴を一所懸命思い出し、文章化までしているのに対して、もう一方のグループは何もしていないわけだから、その差は歴然と考えるだろう。しかし結果は逆になる。言語的に記述したグループの成績はもう一方のグループの成績よりも悪くなったのである。こうした現象は言語隠蔽効果と呼ばれている。

 言語能力が高いのも良し悪しである。




 対応バイアス、について。

 一般に、私たちは自分の行動の原因をその時の状況に求めるが、他人の行動の原因はその人の性格意思、態度などに求めることが多い。これは対応バイアスと呼ばれている。たとえば自分が遅刻をした時には「電車が遅れた」「たまたま朝寝坊した」「出がけに面倒な用事を押し付けられた」などとする。しかし他人が同じことをすると、「あの人はズボラだから」「ルーズな性格だから」と考えがちである。
 この原因の追究に社会的なカテゴリー、つまり所属集団が関わることもある。ある変わった行動をとる人がいたとしよう。たとえば、合コンの時に1時間以上にわたってコンクリートの話をし続ける男子学生がいたとする(伝聞だが、これは実話だ)。
 この非常に特異な行動の原因を人は考えてしまう。原因はいろいろと考えられる。理由は状況かもしれないが(合コンがあまりにつまらないので早く終わらせたかった)、前にも述べたように私たちは他者の行動の原因をその人の内面に求めがちである。「変わった性格」「空気が読めない」などで止まることもあるだろうが、その大学生の所属集団に求める場合もあるだろう。むろん人はいろいろな集団に属している。たとえばその男子学生は「静岡県出身、AKB48のファン、一人暮らし、東京大学」だとする。さて、この「コンクリートの話を合コンで長々とする」という行動の原因として適当なものはなんだろうか。おそらく東京大学に求める人が多いのではないだろうか。
 どうしてこのような帰属が起こるのだろうか。合コンでコンクリートの話をするというのは、相当に変わった出来事である。この出来事の原因の候補の中で、静岡出身、AKBのファン、一人暮らしなどはいずれもよくある珍しくないことである。一方、東大生というのは十分に珍しい。そうした次第で「東大だからあんな変わったことをする」という話が成立してしまう。そしてさらにおかしな東大生ステレオタイプが強化されることになる。つまり、変わったことの原因は、変わったこととされるのである。

 他人の行動の原因をその人の人間性に求めてしまうのが対応バイアスだ。

「罪を憎んで人を憎まず」の逆の思考だね。

 近所に騒音を出す人がいる。その人は外国人だった。「外国人だからマナーが悪いのだ」と考える。じゃあうるさいのが日本人だったら「日本人はマナーが悪い」と考えるのかというと、そうは考えない。「大学生はマナーが悪い」「派手な服を着てるからマナーが悪い」など、べつの“それっぽい属性”に理由を求める(もちろん自分自身がその属性に含まれていないことが前提である)。


 対応バイアスは、差別を生みだす大きな原因なのだろう。戦争を持続させるきっかけだって同じかもしれない。

「A国人はおれたちの国の人間を殺した。A国人は残虐だ。おれたちの国にもA国人を殺したやつがいるが、それはそいつが特別に悪いやつだっただけだ。よってA国人は滅ぼすべし!」みたいな発想になるのだろう(そしてそういう思考に導く政治家がいる)。


 バイアスを持つことは避けられないし、必ずしも悪いことではない。バイアスは我々が利用する道具だ。言語や自動車やナイフのように、いい使われ方もするし悪い使われ方もする。

 バイアスを抱くのは避けられないが、ただバイアスを持っているという意識は忘れないようにしたい。


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2025年6月23日月曜日

【読書感想文】中野 信子『脳の闇』 / 「好かれやすい」は防衛手段

脳の闇

中野 信子

内容(e-honより)
ブレない人、正しい人と言われたい、他人に認められたい…集団の中で、人は常に承認欲求と無縁ではいられない。ともすれば無意識の情動に流され、あいまいで不安な状態を嫌う脳の仕組みは、深淵にして実にやっかいなのだ―自身の人生と脳科学の知見を通して、現代社会の病理と私たち人間の脳に備わる深い闇を鮮やかに解き明かす。五年にわたる思索のエッセンスを一冊に凝縮した、衝撃の人間論!

 脳科学者が人間の思考についてあれこれとつづった本。

 様々な知見が紹介されてはいるが、研究報告というよりエッセイに近い。

 この人、他の著書を調べると『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』とか『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』とか、どう考えてもまともな学者のものとはおもえないタイトルが並んでいたので、「これはたぶんヤベー学者だな……。だいたいメディアによく出る脳科学者ってろくなやついねえんだよな……」と眉にたっぷり唾をつけてから読んだのだが、エッセイとして読む分にはなかなかおもしろかった。


 ぼくが好感を持ったのは、文章がわかりにくいところだ。

 ぜんぜん論旨が明解でない。あれこれ読んだあげく、「で、結局何が言いたかったのかよくわからない」となることもある。

 でも誠実な文章というのはそういうものだ。断定をしない、判断を避けて結論を保留にする、主張をする場合でも反対側の可能性も残しておく。結果、わかりづらくなる。真実に対して誠実であろうとすればわかりづらくなるのは必然だ。

 声のでかい人が言う「〇〇は正しい! ××はダメだ!」とは真逆の態度だ。


 とても『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』を書いたのと同じ人とはおもえない。ほんと、なんであんな本出したんだ。読んでないけど。



 好かれやすい人、について。

 どんな世界のどんな人であっても、人間は自分に興味を持ち、自分の言葉を聞いてくれる人に好意を持つものだ。要するに、この性質を使えばよい、ということになる。
 タイプではなくても心惹かれてしまう人というのが誰しもいた(いる)だろうと思う。
 その人は、おそらく「ああ、この人は私のことを好きに違いない」というサインをどこかで出してきたはずだ。あるいは、それを自分から勘違いしてしまったか。
 そのサインは、あなたにだけは自分の話を打ち明ける、あなたの話だけは面白く聞くことができる、あなたとだけは自分の秘密を共有できるといった関係性を使った方法であったり、あなただけが優れた才能の持ち主、あなただけがこの世界の中にあって美しい、あなただけが本当にすばらしい、となにがしかの特別性を付与する語り掛けをするという方法によって提示されているだろう。
 提示する側は、自分の好意を示すことによって、相手の歓心を得ることができる。けれども、歓心以上のものは特に必要ない場合も多い。このときに、齟齬が起きる。
 相手から、適度な好意だけを得られるのなら、それはバランスがとれているといえる。けれども、本気にさせてしまったときには厄介だ。相手が本気になってしまったときに、それをうまくあしらうことをしないと、面倒なことになりかねない。

(中略)

 私が面白いと感じたのは、この方法をセキュリティとして用いている人間が少なからずいる点である。既存の倫理基準が変わりつつある遷移期、不確実性の時代と言われる現代にあって、法も社会も自分を守ってくれる保証がない。なんなら、自分は虐げられてきた側の人間である、という自覚のある人物にとっては、こういうセキュリティを行動様式として身に着けでもしなければ、本当に死んでしまうかもしれないのだ。
 社会に守られ、そのシステムを信頼して生きてきた人間とは、根本のアーキテクチャが違う。それを互いに、狂っている、あるいは、思慮が足りない、といって貶すのはたやすい。けれども、本当にこの先の世界で必要とされるのはどちらなのだろう。何千年も生きることができたなら、その顛末を見届けてみたいものだと思う。

 好かれすぎる人、というのはいる。こちらが好きではない(どちらかといえば嫌いな)人から行為を向けられやすいタイプ、極端なことを言えばストーカーにつきまとわれやすいタイプだ。

 個人的な印象でいえば女性に多いようにおもう。

 ただ単にすっごい美人、という場合もあるだろうが、「誰にでも愛想がいい」「男性との距離が近い」など、「思わせぶりな態度をとりがちな人」であることも多い。

 だからだろう、ストーカー被害に遭った女性が「気を持たせるような態度をとったあなたも悪いんじゃないの?」と責められる、なんて話も聞く。


 でも、「その気もない相手に対して気を持たせるような態度をとる女性」も、決して相手をなぶって遊んでいるわけではなく、自分を守る手段として「思わせぶりな態度」をとっているのかもしれない。

 周囲(特に異性)から敵意、攻撃性を向けられやすい環境にいた場合、「私はあなたを好きですよ。だから攻撃しないでくださいね。守ってくださいね」というメッセージを発していないと身の安全を保てなかったのかもしれない。

 赤ちゃんがにこにこするのは「私を守ってください」というメッセージを(結果的に)発しているからだ、という話もある。

「気のない人に対して思わせぶりな態度をとる人」が女性に多い(ような気がする)のも、女性のほうが弱い立場に置かれやすく、誰かの庇護を求めることで身を守る必要があるとおもえばうなずける。

 そうだとすると、身を守ろうとする行動がストーカーを招き寄せてしまうこともあるわけで、なんとも皮肉なことだ。



 信用されやすい人、について。

 人間が何かを信じる際、現状では、明確な根拠は必要とされていないように見える。
 ほとんどの人はそこまで解像度よく対象を吟味してはいないし、論理的に判断を下してもいない。一つの判断にそんなに時間をかけていられないのである。
 人は、「大きな体の人」が「大きな声」で「自信たっぷりに話す」ことで、いとも簡単にその人の話を信用してしまうことがわかっている。実際に、心理学の実験で、グループのメンバーにリーダーを選ばせるという実験をしてみると、論理的に話す人ではなく、声が大きくて身体が大きく、確信を持って話す人が選ばれるという結果が出ている。逆に、とりわけ顔が見えるグループの中では、根拠を持って論理的に話す人は、むろ煙たがられる傾向がある。人間は、かくもあいまいで騙されやすい存在なのだ。

 さっきの「わかりづらい文章」の話にも通じるものがある。

 論理的に、科学的に、謙虚にものを語ろうとすれば、どうしても不明瞭な物言いになってしまう。「Aである可能性が高いがBを主張する人もいるしCも完全に否定されたわけではない」のように。

 だがメディアでは「絶対A! それ以外を信じるやつはバカ!」みたいな語り方をする人間のほうが重宝される。どっちが賢いかは考えたらすぐわかるとおもうのだが、それでも人は自信たっぷりの人間の言うことを信じてしまうのだ。




  正しい人、について。

 
 ニューヨーク市立大学バルーク校の研究グループが面白い実験を行っている。
 実験の場としては、マクドナルドの模擬店舗が使われた。研究グループは2種類のメニューリストを用意した。一方にはサラダなど、健康を連想させるメニューが載っている。もう一方には載っていない。客として現れた被験者には、その2種類のメニューリストのうちのいずれかが渡される。
 その結果、サラダが掲載されたメニューリストを受け取った客は、掲載されていないメニューリストを受け取った客よりも、明らかに、最も太りそうなメニュー――ビッグマックを選ぶ人が増加し、その割合は約10%だったものが約50%にもなったという。
 つまり、一緒にサラダを買ったり食べたりするわけでもないのに、ヘルシーさを演出する食べ物の名称がリストに載っていただけで、無意識に最もカロリーの高いメニューを購入してしまった、という人が相当数いたことになる。
 これがどういうことか、わかるだろうか。
 「健康」という、「倫理的に正しい」何かを想像すると、それがなぜか免罪符のような効果を発揮して、人間はより「倫理的に正しくない」行動を取ってしまいやすくなるということ。そして、倫理的に正しい何かというのは、健康だけとは限らないということ。「正義」や「平和」などの概念も同様に、倫理的に正しいと脳が判断する可能性が高く、同じ効果を持ってしまう可能性がある。
 要するに、正義! 平和! 人道! などと連呼する人ほど、怖ろしいともいえる。善意の発露として、残虐な行為を行いかねない。そういう「倫理的に正しい」人は、たくさんの免罪符が貼られた脳を持っているわけで、非人道的な行為を犯すことに微塵もためらいがないのではないかと、私などは真っ先に警戒してしまう。もし戦争が起きたら、善意の身内から殺されてしまう人も少なからず出ることだろう。

 いやほんと、正しい人ほどおそろしいものはないよ。

 ぼくは、駅前で通路をふさぎながら「盲導犬に募金を!」と呼びかけている団体を見たことがある。他方、たとえば路上ミュージシャンなどは通行の邪魔にならないようにしている。通路いっぱいに広がりながら演奏しているミュージシャンなんて見たことない。

 商品の宣伝などをしている車などはそんなに大きな音を出していない(昔はうるさいやつもいたがたぶん規制されたのだろう)。だが選挙カーや政党の街宣車なんかはとんでもなくうるさい音を出している。

「自分は正しいことをやっている」とおもうと、「正しい目的のためなんだからみんなも少しぐらいの不便は我慢しろ」という傲慢な発想になってしまうのだろう。おそろしい。




 うつ傾向について。

  この結果を受け、抑うつ気分は、複雑なタスクを遂行する場合や困難な状況下では、より良い決定を下すのに役立つのではないか、という主張をする研究者もいる。実際に、要求度の高いタスクでより適切な戦略を考えられるのは、こうした被験者だというのだ。例えば、オーストラリアの研究チームの報告では、死とがんについての短編映画を見せられて憂鬱な気分に陥った被験者のほうが、噂話の正確さを判断したり、過去の出来事を思い出したりする課題の成績が良かったという。さらに重要なのは、見ず知らずの人をステレオタイプ的に分類する傾向が大幅に低かったということである。
 つまり、外集団バイアスに対して自覚的であり、それを自省しながら抑えることに成功していた、ということになる。
 うつなどの気分障害は、人生における諸問題を効果的に分析し、対処可能にするという目的のために生まれた、脳に備え付けられた仕組みの一つなのかもしれない。たしかに気分は良くないものだ。けれど、抑うつ状態が存在せず、ストレスもトラウマもなく、自身の問題について深く長く反芻的に思考するという習慣がなければ、人間は、ひとたび自分が困難な状況に置かれたとき、その苦境を脱することが難しくなってしまうのではないだろうか。私たちの現在の繁栄は、ネガティブな抑うつ的反芻によってもたらされたものかもしれないのだ。

 なぜ人間はうつになるのか。うつになると行動力が落ちたり、ひどい場合には自殺をしたりするので、生存・繁殖にとっては不利になる。だったら「うつになりやすい遺伝子」は淘汰されて、常にハッピーな人間ばかりになりそうな気がする。

 だが、抑うつ傾向にもメリットはあるのだ。情報を正確に判断したり、問題の解消方法を考えたりするのには抑うつ状態は有利なのだという。有利な面もあるからこそ、人はうつになる。

 うつ病という言葉もあるが、うつは病気というよりは症状に近いのかもしれない。風邪(病気)と発熱(症状)の関係のようなものだ。身体が熱を出して細菌をやっつけて風邪を治そうとするのと同じように、うつ状態になることによって問題に対処しようとするわけだ。

 うつというと防衛的なイメージがついているが、実は戦闘状態なのかも。


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2025年6月18日水曜日

【読書感想文】段 勲『鍵師の仕事 鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様』 / 脱税を逃さない正義のヒーロー

鍵師の仕事

鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様

段 勲

内容(e-honより)
マルサの査察で開けた台所の金庫の中身は?ボッタクリバーの金庫の中身は? 広域暴力団の組長から依頼のあった大型耐火金庫の中身は?…鍵師・吉川守夫が見た鍵穴の向こうには、およそ想像もできない世界が広がっていた。人間の欲望がうずまく、鍵穴の向こう側…全12話のエピソードには、現代人の“業”の深さが浮かび上がる。

 凄腕の鍵師から聞いた話をまとめたルポルタージュ。

 本人から聞いた話、さらにそれを小説仕立てにしているので脚色が入っているのかもしれないが、縁遠い世界の話なのでおもしろい。



 この本に登場する吉川さん(仮名)という人はベテランの鍵師で、そのへんの家の鍵なら一分とかからずに開けてしまうらしい。

 こういう人の手にかかれば、鍵をかけていたってかけてないのとほとんど変わらない。おっそろしい話だ。この人はまっとうに働いているからいいけど、中にはこの技能を悪いことに使う輩もいるだろう。狙われたらひとたまりもない。


 吉川さんは日本有数の腕の持ち主なので、「自宅の鍵をなくしたので開けてください」といった依頼だけでなく、様々な依頼が舞い込むのだとか。

 国税局が某社の脱税容疑で強制査察に入り、隠し金庫を発見した。だが肝心の金庫が開かない。閉じた金庫ごと押収し、
「ちょっと開けてくれないか」
 という国税局からの解錠依頼が、知人を通して吉川に飛び込んできたのだ。吉川は当局に急行し、すぐに開けてやった。以来、国税局鍵開けのご用達とばかり、よく仕事の依頼が来るようになった。やがて、東京・豊島区内に鍵屋を開業。昭和五〇年代に入って、さらに、
「どんなカギでも開けられ、しかも信用のできる無口な男」
 との評判が立ち、国税庁に限らず、裁判所、検察庁等、お堅い役所からも解錠の依頼が殺到するようになる。こうした官庁ご用達の鍵師は、都内では推定でざっと二〇人。裁判所からの依頼だけでも吉川は、多いときには月に二〇件を数えたことがあった。裁判所の主な依頼は、執行官に同行し、マンションや金庫を解錠し、財産の差し押さえ等を手伝うもの。なお、国税局からの依頼は、もっぱら強制査察の摘発だった。

 国税査察部、いわゆるマルサの御用達の鍵師なのだそうだ。

 なるほど、よからぬ金を貯めこんでいる人は銀行には預けられないのでたいてい自宅に隠すだろう。そして多額の現金や貴金属を隠すとしたら、金庫の中。金庫が見つかった脱税犯は、「鍵をなくした」「暗証番号を忘れた」と最後の抵抗を試みる。そこで鍵師の出番となるわけだ。


 ぼくは脱税する人間を心から憎んでいる。よくワイドショーやネットニュースでは有名人の不倫や薬物使用が話題になるが、ぼくからしたらどうでもいい。だってどっちもぼくには関係のないことだもの。

 でも脱税はちがう。被害者は国であり、国民だ。つまりぼくも被害者のひとりだ。脱税がなければぼくの税負担はもうちょっと軽かったかもしれないのだ。

 だから脱税を決して逃さないマルサ御用達の鍵師は、正義のヒーローだ。がんばれ!




 鍵をかける場所には大事なものを入れるので、当然鍵師は人間の泥臭い欲望のすぐ近くにいることになる。

 ヤクザの親分の金庫を開けたらとんでもないものが入ってたとか、開かない金庫をめぐって家族間の醜いがくりひろげられるとか、野次馬根性を刺激される話が並ぶ。

 中でも強烈だったのがこの話。

「はい、分かりました。加藤さんですね。お昼ごろまでには行きますから。あ、それと、鍵を開けるのは金庫ですか? それとも車なの?」
「違います……………」
「じゃ、マンションの鍵かなんか?」
「それも違います。実は、ちょっと言いにくいのですが、貞操帯なんです、知ってますか、女がする貞操帯という革のバンド」

 たしかにあれも「大事なものを守るために、鍵をかけて守るもの」だよなあ……。


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