2050年1月1日土曜日

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2026年7月22日水曜日

【読書感想文】成田 悠輔『22世紀の資本主義 ~やがてお金は絶滅する~』 / わかりにくいことに価値がある本

22世紀の資本主義

やがてお金は絶滅する

成田 悠輔

内容(e-honより)
株価も仮想通貨も過去最高値を更新、生成AIの猛威が眼前に立ち現れ、かつてなく資本主義が加速する時代。お金や市場経済はどこへ向かうのか?この先百年で起きる経済、社会、世界の変容を大胆に素描。人の体も心も商品化される資本主義の行き着く果てに到来する「お金の消えた経済」。驚きの未来像が出現する。

 ぼくにとっては「テレビでたまに見る、変なメガネのよくわかんないけど賢そうな人」というイメージしかなかった成田悠輔さんによる、未来の資本主義の展望。


 まず率直な感想を書くと、すごくわかりづらい。

 でもこれは「わかりやすく書くことに失敗している」のではなく「わざとわかりにくく書いてる」からだとおもう。わざと既存の常識から飛び出そうと書いている、そんな感じだ。誰にでもわかるように書こうとおもったら、常識的なことしか書けない。

「わかりやすい文章」で5年後のことは書けても、100年後のことは書けない。現代の経済がどうなっているかを100年前の人に説明してもちっとも伝わらないのと同じように。



 ということでぼくは早々にこの本に書かれていることをきっちり理解することはあきらめ、一部だけでもわかればいいやという気持ちで読むことにした。


 意外だった事実。

 ただ、あまり知られていないが大切な事実がある。ネットは今のところ産業革命と呼べるような変容を作り出せてい「ない」という事実だ。第一次・第二次産業革命の前後で経済的な生産性が誰の目にも明らかなほど伸びたことと比べ、IT・ウェブ産業が世界を食べたこの数十年は産業革命と呼ぶには程遠い。
 地球全体の経済的生産性の伸びを見てみよう。全要素生産性と呼ばれる最も広く用いられる生産性の指標の世界全体での成長が、実はここ20年ほど停滞している。00年くらいまではいい兆しがあったが、05年以降は生産性のかつてない停滞期で、19世紀末以降最も成長が伸び悩んでいる。ウェブが家庭や職場に浸透しても、人類の経済的生産性には何の爆発も起きていない。ウェブの経済的価値はまだ花開いていないことになる。そしてこの傾向は日本や欧米のような先進民主主義国で特に著しい。
 そうなるのも不思議ではない。たしかにコンピューターやウェブは仕事を効率化した。手紙や書類を手やタイプライターで書いて郵便やFAXで送ることもなくなって、大量の人手を投入しなければ無理だった会計計算もExcelや会計アプリで一発だ。会議もやりとりもメールやSlackやTeamsやZoomで済むようになった。
 その一方で、ウェブは壮大な無駄も生んでいる。仕事するより気づけばTwitter/Xで罵り合い、インスタでマウントを取って、AVばかり見て、広告とPRまみれになり、オンライン会議中も関係ないページを眺めている。ウェブは古い無駄を省くことに成功したが、新しい無駄も生んだ。ウェブによる古い無駄の削減と新しい無駄の生成で差し引きゼロという可能性も十分にある。

 インターネットによって通信の速度は飛躍的に上がり、我々の連絡方法は大きく変わった。海外に文書を送ろうとおもったら1週間かかっていたのが、今だと1秒だ。

 当然、生産性は飛躍的に向上した……と思いこんでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。まるで生産性は向上していない。

 言われてみれば、ぼくらはインターネットによって大きな恩恵を受けているが、インターネットによって失ったものも大きい。SNSは人々の時間を奪うが、そのほとんどは無為に消えてゆく。かつては新聞や読書にあてていた時間がショート動画に溶ける。しかも、得るものがないだけならまだマシで、デマの拡散など生産性ゼロどころかマイナスの現象も多発している。

 インターネット、スマホ、SNS、動画サイト……。いずれもひまつぶしの手段としては有用だが、人類の発展に貢献しているかというとちょっと微妙なところだ。




「お金の必要性が少なくなる」という大胆な提言も。

 デジタルでグローバルな村落経済の発生は強烈な帰結をもたらす。お金の価値が下がっていくという帰結だ。なぜか。経済の実態の大半を記録できる太古の台帳経済や現在のデジタルグローバル村落経済では、実態と記録のズレが小さい。ということは、実態と記録のズレを埋める装置としてのお金の必要性が下がるからだ。お金に頼らず記録に直接尋ねて、信用するかしないか、取引するかしないか、罰するかしないかを決めればいい。記録を覗き見て判断するのは、古代では人間だった。現在、そして未来ではプログラムであり、ソフトウェアであり、AIである。

 物心ついたときから貨幣経済の中で生きてきたから「お金はなぜあるのか」なんて意識したことがなかった。教科書的には「物々交換をするのは不便なので、持ち運びやすくて保存が利いて好感しやすい貨幣が使われるようになった」という説明が正しいのかもしれないけど、それだけではお金の意義を正しく表していない。

 たとえばお金は使わなくても価値がある。往々にして「お金を持っている」ということ自体が価値を生む(反感を買うというマイナスの価値を生むこともある)。お金を持っている、お金を持っていそう、将来的にお金を稼ぎそう。それだけのことが重要な意味を持つ。「物々交換の代替手段」では説明がつかない現象だ。


「実態と記録のズレを埋める装置としてのお金」という表現は、たしかにお金の一面を正しく言い当てている。

 あの人はお金を持っているから、人から必要とされる仕事をやってきたのだろう、きっと能力の高い人なんだろう、という判断材料になる。高級車とか高級ブランドの服とかは、お金を使ったという証明であり、お金を使ったということはお金を持っていることの証明であり、お金を持っていることは能力が高いことや仕事をしてきたことの証明である。多くの人がそういうルールに従って生きている。

 だがその人の遍歴がすべてデジタル世界に記録される社会になれば(事実なりつつある)、お金を介さなくてもその人がどんな人かわかる。財布には現金が入ってないしユニクロの服を着ているけれど、多くの人から必要とされている人だということがデジタル世界の記録を見ればすぐわかる。この人なら信用できるし、低利子で金を貸してもいい。

 こういう世界になれば「金を持っていることをアピールするために使う金」が無意味になる。あいつブランド品で身を固めてるけどぜんぜん稼いでないじゃん、あいつ金は持ってるけど実家が金持ちなだけであいつ自身には何の能力もないじゃん、とばれてしまうから。

 個人的には、そんな世の中のほうが健全だとおもう。必要とするモノを手に入れるための交換手段という貨幣本来の役割が再び強くなるのだ。



 そしてその先にあるのは、経済を測れなくした社会。 

 だが、お金がもはや必需品でなくなる日も近い。経済社会活動を記録する情報やデータの量が増え実態と記録のギャップがなくなるにつれ、お金の役割は少なくなるからだ。その日を先取りして想像したい。情報・データ技術を用いて単純な価値尺度自体を蒸発させるような実験はできないだろうか?
 お金を使わず値段をつけず、価値が高いとか低いとか比べない経済である。測って比べるから大小や高低が生まれ、大小や高低のような非対称性はすぐに優劣に脳内変換される。大きいものが小さいものを制し、成長するものが勝つ。正の利子がつけば、富めるものがますます富む。そして規模が価値になる。とすれば、壊れた経済を修理する一番の方策は、経済を測れなくすることではないだろうか。

 わたしが欲している魚と、あなたが欲しているサンダルはどちらがより必要性があるのだろうか? もちろん比べようがない。だからとりあえず値段をつけて、同一の尺度で比較できるようにしている。

 しかしわたしに関するデータとあなたに関するデータと魚のデータとサンダルのデータが十分にあれば、同一の尺度など必要ないのではないか、ということだろうか。

 正直このへんの話になるとぼくにはもうついていけなかったが……。


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2026年7月17日金曜日

【読書感想文】ドン・マローニ『外人はつらいよ』 / これだから英語圏の人間は

外人はつらいよ

ドン・マローニ(著) 脇山 怜(訳)

内容(カバーより)
在日六年、アメリカ人ビジネスマン一家がくりひろげる涙と笑いの〝一大絵巻〟型破りのユーモアでつづるやぶにらみ日本文化論。

 仕事で日本に住むことになったアメリカ人が語る、日本文化論。

 この手の「外国人が見た日本」本は大好きでたいていおもしろい。なので古本屋で見つけて買ってみたのだが、これはちょっとはずれだった。

 理由のひとつは、あまりに古いこと。著者が日本にやってきたのが1970年。本の刊行が1975年。50年以上前。「日本人は往来で立小便をする」なんて書いてあるけど、さすがに今はそんな人はほぼ見ない。日米の文化比較というより、新旧の文化比較になってしまっている。これは50年もたってから手に取ったぼくのせいなんだけど……。

 もうひとつは、著者が日本どころかアメリカ以外の国を知らないこと。日本に来て困ったことに「英語が通じないこと」とか書いている。そりゃそうだろ。日本人からすると外国に行ったら母国語が通じないのは当然なのに、アメリカ人にとってはそうでないらしい。これだから英語圏の人間は……。

 文章がユーモアに満ちていて、そこはおもしろかったけどね。



「日本にかぎらずアメリカ以外はどこもそうだろって話」「著者の身の周りの人たちの話」が多く、日本論として読める箇所はそう多くない。

 私の見解を裏づけるような統計が政府から発表されているらしいのだが、どこにも見あたらないので、ただ私の言うことを信じていただくよりほかはない。実は、拡声器について新発見をしたのである。つまり、一人あたりの拡声器の普及率は日本が世界で第一位、と私は見ているのだ。

 選挙カーや街宣車は言うまでもなく、駅や電車・バスのアナウンスなど、日本は音声案内が多いと言われる。たしかにそうだよね。外国の交通機関では停車直前に「Next stop is ○○」と流すぐらい。日本だと音声案内が多すぎて、逆にどれが大事な情報かわかりづらい。

 著者は「英語でもアナウンスしているが日本版に比べてすごく短い。我々にだけ大事な情報が伝えられていないのではないかと不安になる」と書いている。その気持ちはわかる。でも大丈夫、カットされているのは「××の治療ならおまかせ、○○クリニックをご利用の方は次が便利です」といったどうでもいい情報だから。日本人だって聞いてないから。




 日本の生活に慣れた(といっても5年ぐらい)著者がひさしぶりにアメリカに帰ったときの話。

「マローニさん、それ、やめてくれませんかね」
「やめろって、いったい何をやめるんです?」
「私が何か一言いうたびに、フンフンうなずいたり、エーとかハーハーとかソーソーとか、とにかく何にしろ、モソモソつぶやくのはやめていただけませんかね。ところで、そのエーとか、ハーハーとか、ソーソーは、どういう意味なんです?」
「フンフンとかエーとかハーハーとかソーソーというのは、フンフンとかエーとかハーーとかソーソーという意味であって、それ以上の特別な意味はないんですよ」
 日本に長く居過ぎましたね、と言いたげなまなざしで私の説明を聞きながすと、彼はまた報告を続けた。私は全神経を集中して、癖を直そうと努めた。そのかいあって、その後は一度たりとも、むやみやっとうなずいたり、エーと言ったりはしなかったが、まったく容易なことではなかった。
 フンフンとつぶやきながらしきりにうなずく。これなんぞはアメリカに持ち帰った「日本癖」のほんの一例に過ぎない。エレベーターに乗るやセカセカと「閉扉」のボタンを押したり、人に紹介された時ペコペコおじぎしたり、立っている時も座っている時も腕組みしたり、といったような習慣も、人からへんな目で見られる。

 へえ。アメリカ人ってそんなにあいづちを打たないんだ。言われてみればそうかも。今度洋画を観るときはあいづちに注目してみよう。


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2026年7月14日火曜日

【映画感想】『トイ・ストーリー 5』

トイ・ストーリー5

内容(映画.comより)
おもちゃと子どもの絆を描いてきたディズニー&ピクサーの人気作品「トイ・ストーリー」シリーズの第5作。現代的なテクノロジーというかつてない脅威を前に、ウッディとバズが再び手を取り立ち向かう姿を描く。

ボニーのもとで暮らすバズやジェシー、フォーキーたちは、これまでと変わらぬ日常を送っていた。しかし、最新型の電子タブレット「リリーパッド」がやってきたことで状況は一変。多機能なデバイスに夢中になるボニーの姿を前に、おもちゃたちは自分たちの存在意義に疑問を抱き始める。「おもちゃはもう必要とされていないのか」という不安が広がる中、仲間からのSOSを受けたウッディが再びボニーのもとへ戻り、バズと再会する。かつての名コンビは、おもちゃの居場所を守るため、新たな脅威に立ち向かう。。

 うん、まあおもしろかった。映像はすごいし(でもすごすぎて、まるで実写映画を観ているようで、かえって驚きを感じなくなってしまった)。

 ストーリーも『4』に比べればぜんぜんいい。まあ『4』は大失敗作なので(ぼくは記憶から消してなかったことにしている)、それと比べればどんなものでもマシなんだけど。

 でもなあ。やっぱり『3』で終わりで良かったな、とおもう。続編をつくるとしても、登場人物を全部入れ替えて別のおもちゃの物語にしていれば良かったのに。

 ここから愚痴。


『4』で子どもを捨てて出ていったウッディを『5』で無理やり登場させたが、これはファンサービスでしかなく、出てくる必然性は何もない。ウッディが古くなったという設定もすでに『2』で通りすぎた話題だ(ハゲをギャグにするのはさすがに古すぎないか?)。

 オールドファンに向けて昔のようなウッディとバズの関係性を描きたかったのだろうが、ウッディとバズに今さら喧嘩をさせるのもしらじらしい。もうそんな段階はとっくに過ぎただろう。まして勝手に出ていったウッディがえらそうに仕切りだす正当性がどこにあるんだ?

 もうウッディのことは忘れて新しい一歩を踏み出してもいいんじゃない?(ていうかその覚悟がないくせに『4』みたいなのを作るなよ) 唐沢寿明のお声もだいぶ歳をとっていたし。



『3』までの3作は完璧だったし、その中であらゆる展開をやりつくしてしまった。主役の座を奪われる、置いていかれる、売られそうになる、盗まれる、捨てられる、寄付される。『おもちゃにとって何がいちばん幸福なことか』というテーマを3作かけてじっくり問いつづけ、これ以上ないという答えを提示してしまった。

 その後でどれだけピンチが訪れても、おもちゃたちが悩んでも、全部『3』までの焼き直しでしかないし、それでもまだ現状に不満を示すなら「じゃあサニーサイド保育園に行けばいいじゃない」としか言いようがない。

『3』で「保育園でずっと子どもたちの遊び相手として生きる」「いつか遊んでもらえなくなるとしても、今、子どもにとっての親友として生きる」という究極の二択を提示してしまった以上、それ以外の道を選ぶ理由がない(だからそれ以外の道を選んだ『4』は失敗作だった)。



 おもちゃの幸福と葛藤、というテーマについてやりつくしてしまったからだろう、『5』は人間の話が大きな部分を占める。

「子どもに、タブレットなどのデジタルデバイスをどのように扱わせるか」というのがメインの(そして陳腐な)テーマだが、それっておもちゃが心配することじゃないよね。保護者が考えることだ。おもちゃが教育方針にまで口を出すのは出しゃばりすぎ。

 実際ボニーはタブレットのチャットが原因でトラブルを引き起こすのだが、これは保護者が注意深く管理していれば防げたことで、『トイ・ストーリー』という装置を使って描くべきテーマとはおもえない。本来なら人間が人間に向けて言うべきことをおもちゃの口を借りて言わせているだけなので、説教くさいことこの上ない。

 やるとしても『インサイド・ヘッド』あたりで良かったのでは。



 そしてやっぱりぼくはボニーを好きになれない。『4』でもおもちゃを大事にしていない様子がありありと描かれていたが、『5』でもあっさりとおもちゃたちを裏切る。

 世間体を気にしておもちゃを手放そうとするボニー(しかもそれはアンディから託されたおもちゃ)。持ち主がこれでは、おもちゃとの間の信頼関係など築けるはずがない。もうこいつアンディとの約束なんて覚えてもいないんだろうな。嫌いだわー。

 アンディはおもちゃを託す相手をまちがえたな。ボニーに比べれば『1』のシドのほうがまだおもちゃを愛してるぜ(愛の形は歪んでるけど)。


 ただ、『2』からずっとしこりのように残っていたジェシーとエミリーの物語に結着がついたシーンは本当によかった。



 8歳の娘といっしょに鑑賞したのだが、娘は中盤ちょっと飽きていた。でもその気持ちはわかる。視点があっちこっち行くのでむずかしいんだもん。

「ボニー」「ジェシー」「バズたち」「ウッディたち」「ハイテクバズ軍団」と、それぞれのシーンが目まぐるしく変わる。ぼくは大人だし前作までの内容も頭に入っているから(『4』の内容は記憶から消去したけど)ついていけたけど、子どもには追いきれないよね。

 過去作ではシーンの切り替えは少なかった。『1』で言うと「2階と1階」「ウッディ&バズとその他のおもちゃ」ぐらい。『2』『3』も多くてせいぜい3シーンまで。

 これは意識的にやっていたんだろう。なるべくストーリー展開をシンプルにして、メインターゲットの子どもにも十分ついていけるようにしていた(時系列をさかのぼるシーンも極力なくしていた)。なぜなら、おもちゃで空想の世界にふける子どもたちは「数多くのシーンの切り替え」「時系列をさかのぼるストーリー展開」なんて考えてないのだから。幼少期におもちゃで遊んでいた気持ちを思い出させてくれる感覚が『3』にはあったが、こういった配慮が『4』以降失われた。監督の交代によるものだろうか。

 おもちゃに向けるあたたかい目を失ってしまったのは、はたしてエミリーやボニーだけなんだろうか。制作陣もまた子ども心を忘れてしまったんじゃないだろうか。

 制作陣に問いたい。あんたたちこそデジタル端末の使いすぎでは?


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【映画感想】『バズ・ライトイヤー』


2026年7月10日金曜日

【読書感想文】桐野 夏生『顔に降りかかる雨』 / 悪い意味で力作

顔に降りかかる雨

桐野 夏生

内容(e-honより)
親友の耀子が、曰く付きの大金を持って失踪した。被害者は耀子の恋人で、暴力団ともつながる男・成瀬。夫の自殺後、新宿の片隅で無為に暮らしていた村野ミロは、耀子との共謀を疑われ、成瀬と行方を追う羽目になる。女の脆さとしなやかさを描かせたら比肩なき著者の、記念すべきデビュー作。江戸川乱歩賞受賞!

 桐野夏生氏のデビュー作。デビュー作だなあ、という感じ。力の入れ方は伝わってくるが、技術が十分備わっていなくて空回りしている感じが。

 肩に力が入りすぎなんだよな。いっぱい調べていっぱい考えて書いたんだろうけど、それが伝わってしまう。もっとさらっと、なんでもないことのように提示してほしい。勝手な要望だけど。

 たぶん、女性を主人公にしたハードボイルド小説を書きたかったんだろうな。だから必要以上につっぱってる女性が主人公。いやそこまで無理してかっこつけんでも、という気になる。なんか「めちゃくちゃがんばって都会で強く生きる女性」って感じで、かっこいいどころか痛々しい。


 たとえば後の桐野夏生作品である『OUT』に出てくる女性は、もっとワイルドでありながら、もっと自然体だ。なんでもないことのように大胆な犯罪をやってのける。カッコイイとは、こういうことさ。

 まあこの青さもデビュー作の魅力と言えるかもしれないが。



(以下ネタバレを含みます)

 ストーリーも退屈だった。

 序盤で「主人公の親友が1億円の金とともに失踪した」という謎が提示されるが、どうも弱い。

 だって「大金に目がくらんで持ち逃げしちゃいました」ではミステリにならないことを読者は知ってるんだから。なんらかの事件に巻き込まれたことは容易に想像がつく。

 だから早くその「なんらかの事件」を見せてほしいのだが、それがなかなか書かれない。半分ぐらいは、ただいなくなった女の足跡を追うシーン。登場人物も多いしたっぷりページ数を割いているが、何も起こらなくて退屈。ここはもっとテンポよく書いてほしかったなあ。


 中盤でやっと“事件”が見えてくるが「ああこれが真相ではないんだろうな」というにおいがプンプン。明かされる真犯人もさして意外な人物ではない。というか大本命。いちばん身近な人物が犯人ってベタベタじゃん。

 まあこれは2026年に読んだからであって、刊行された1993年当時は十分意外だったのかもしれないけど……。



 ボディ・モディフィケーション(身体改造)、ネオナチ、ヤクザ、夫の自殺、不倫など刺激的な要素をこれでもかと詰め込んでいるけど、正直あんまり効果を発揮しているとはおもえない。なくてもミステリとして成立してるし。

 いろんな意味でデビュー作だなあ、という作品でした。


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