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2026年7月27日月曜日

【読書感想文】鈴木 忠平『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』 / 天才は理解されない

嫌われた監督

落合博満は中日をどう変えたのか

鈴木 忠平

内容(e-honより)
なぜ語らないのか。なぜいつも独りなのか。そしてなぜ嫌われるのか。謎めいた沈黙と非情な采配に翻弄された男たちの証言から、孤高にして異端の名将の実像に迫る。組織における人材登用術、リーダーの覚悟などビジネスパーソンにも影響を与えた傑作ノンフィクション。文庫版新章「それぞれのマウンド」収録。

 いい本だった。実におもしろいノンフィクション。


 この本を読むまで、落合博満という人に対してあまりいい感情を持っていなかった。ぼくがプロ野球を観るようになった頃にはすでに「球界でいちばん高い年俸をもらっているプレイヤー」だった。それも(ぼくから見れば)成績の割に高すぎる年俸をもらっている選手だった。

 ぼくがプロ野球を観始めたのは1993年。当時の落合選手は中日ドラゴンズで四番を打ってはいたがホームラン数は20本前後。正直、四番としてはものたりなさすぎる成績だ。なのに年俸三億円という破格の給料をもらっていた。

 その後、FAで読売ジャイアンツに移籍したことでぼくの印象はさらに悪くなった(アンチ巨人なので)。39歳、前年のホームラン数は17本。完全にピークを過ぎた選手なのに、年俸は四億円。なんでこんなに高く評価されてるんだ、とおもっていた。

 後年、中日の監督になってからもあまり印象は良くなかった。その頃にはぼくはあまりプロ野球を観なくなっていたのだが、「日本シリーズで8回まで完全試合をやっていた山井を交代させた監督」という印象だけが残っている。

 そんなこんなで、落合博満という人物に対するぼくの印象は「金に汚い非情な人」という印象だ。たしか契約更改でも毎回交渉が長引いていた。

(ただし「高い年俸をもらう」ことに関しては決して悪いことばかりでもないよな、ともおもう。トッププレイヤーが高い給料をもらうことで他の選手も「落合さんがあの成績であれだけもらっているんだったらおれももっと上げてくれ」と交渉しやすくなるので、選手全体の待遇改善に貢献している部分もある)



 監督としての落合氏の実績は圧倒的だ。

 落合氏がドラゴンズの監督を務めたのは2004年から2011年までの8年間。その9年間で、リーグ優勝4回、2位3回、3位1回。すべてAクラス(3位以上)。日本シリーズには5回出場して2007年には日本一にも輝いている(球団53年ぶりの日本一だ)。

 ちなみに落合氏退任後の2012年以降のドラゴンズの成績は2位→4位→4位→5位→6位と絵に描いたような転落をたどり、退任後の14年間で優勝は0回、Aクラスになったのも2回だけとすっかり弱小チームになってしまった(現時点で2026年もリーグ最下位だ)。いかに落合監督時代が強かったがわかる。


 だが落合監督は、親会社やファンから愛されなかった。選手やコーチの中にも監督のやり方に不満を漏らすものが少なくなかった。2011年のシーズンを最後に契約を打ち切られることとなる。

 なお、契約打ち切り直前の3シーズンのリーグ成績は2位→1位→1位である。こんなに好成績を残して切られた監督はそうはいない(リーグ5連覇を果たしてそのまま辞めた西武・森監督もいるが)。

 その二日後、落合は中日球団と新たに二年契約を結んだ。長嶋が恨みを吐き出した中日ビルの最上階にある貴賓室で、オーナーの白井文吾と握手を交わした。
 席上で、落合は二つの要請を受けた。
 ひとつは、この球団が五十年以上も手にしていない日本シリーズの勝利であった。この時点で中日は十二球団のうち、もっとも長く日本一から遠ざかっていた。
 薄紫のダブルに、濃紺のネクタイを締めた落合は、契約更新を勝ち取った席上で不敵に笑った。
「この三年間で強くなった。それでも日本シリーズには負けた。勝負事は勝たなくちゃだめだということなんだ。強いチームじゃなく、勝てるチームをつくるよ」
 私は部屋の片隅でペンを握っていた。落合の表情は何かを吹っ切ったように見えた。
 そして、もうひとつの要請は、ナゴヤドームのスタンドを満員にすることだった。
 このころから、喜怒哀楽を出さずに淡々と勝利を重ねる落合の野球は「つまらない」とささやかれるようになっていた。
 リーグ優勝しても、四万人収容のナゴヤドームにわずかな空席があるのはそのためだと、現場と興行とを結びつける者もいた。
 そんな声を知っていたのだろう。落合は自らに言い聞かせるようにこう語った。
「勝てば客は来る。たとえグッズか何かをくれたって、毎日負けている球団を観に行くか? 俺なら負ける試合は観に行かない」
 落合は勝つことで全てを解決しようとしていた。矛盾するような二つの命題を抱えて、新しい二〇〇七年シーズンを迎えようとしていた。

 うーん……。「勝てば客は来る。たとえグッズか何かをくれたって、毎日負けている球団を観に行くか? 俺なら負ける試合は観に行かない」これは正しくないとおもうなあ。落合さんはずっと選手・監督としてプロ野球の世界に生きてきた人だから勝利至上主義になるのは当然だが(そしてそれは決して悪いことではないのだが)、ファンからすると強いだけが愛される条件ではないんだよな。勝利だけを求めて球場に足を運ぶファンはむしろ少数派で、球場の雰囲気が楽しいとか、選手が身近に感じられるとか、スター選手を生で観られるとか、そういう要素のほうがずっと大事だ。

 ただ落合さんにファンサービスをしろというのも無茶な話で、問題は監督に「勝利」と「ファンサービス」と「人件費削減」というときに相反する課題をいっぺんに押しつけようとした球団にある。

 あくまで監督には勝利だけを追い求めさせ、ファンサービスの面は別の誰かをCMO(最高マーケティング責任者)とかに据えて任せるべきだとおもうのだが。



 単なるプロ野球の話にとどまらず、組織論、リーダー論として読んでもすごくおもしろい。

「選手が訊いてくるまでは教えるな」
「選手と食事には行くな」
「絶対に選手を殴るな」
 落合はかつての自分がそうだったように、自立したプロフェッショナルを求めていた。当然だろうと、宇野は思った。ただ一方で、そうした掟は徐々に緩和されていくべきものだとも考えていた。宇野は裏方スタッフを連れて飲みに出ることがほとんどだったが、ときには選手から声をかけられることもあった。そんなとき、落合の掟がちらつき、宇野が逡巡しているとある選手から言われた。
「宇野さん、大丈夫ですよ。途中で偶然会ったことにしましょう」
 その選手が言うことはしごく自然に思えた。戦いを共にする者たちは時間とともに境界線を失くし、互いの共有物を増やしていく。それがチームであり、信頼や絆というものではないか。ひいてはそれが強さになっていくのではないか。
 ところが落合は年々、選手やコーチとの境界線を鮮明にしていった。勝てば勝つほど繋がりを断ち、信用するものを減らしているように見えた。
 ある試合でノーアウト二塁の場面となった。クリーンアップを任された和田は、最低でも三塁へランナーを進めなければならないと考えた。だから定石通りに一、二塁間ヘゴロを打った。全体のために己を犠牲にするプレーであった。
 すると試合後、ベンチ裏の監督室に呼ばれた。紙コップに入ったコーヒーがテーブルに置かれているだけの整然とした部屋だった。
 落合は眉間に皺を刻んで、語調を尖らせた。
「いいか、自分から右打ちなんてするな。やれという時にはこっちが指示する。それがない限り、お前はホームランを打つこと、自分の数字を上げることだけを考えろ。チームのことなんて考えなくていい。勝たせるのはこっちの仕事だ」
 和田は再び呆気にとられることになった。
 それまで野球をやってきて、チームバッティングを讃えられたことはあっても、咎められたことなどなかったからだ。そうして、落合のイメージは百八十度変わっていった。

 多くのプロ野球の監督は、やっていることは少年野球の監督、野球部の顧問とそんなに変わらない。グラウンドの外でも選手たちの行動に口を出し、礼儀を教えたり、人生を語ったり、ときには暴力をもって指導したり(最近はそういう人は多くないが)。言ってみれば“指導者”だ。

 だが落合監督は指導者にはなろうとしなかった。あくまで監督。成長するのは選手自身。選手の能力を冷静に見極めて、勝つために必要な選手を試合で起用する。求められればアドバイスはするが、基本的には教えない。必要なのは「言われたことに従う選手」ではなく「勝つために必要な選手」。そのために何をどうやって身につければいいかは選手が自分で考える。


 理想を言えば、落合監督のやりかたのほうがいいとおもう。言われた通りに動く選手ばかりのチームよりも、全員が勝利のために何が必要かを考えて己を律するチームの方が強いだろう。状況の変化にも対応できるし、なんなら監督が代わっても強いはずだ。

 でもそれはあくまで理想の話だ。みんながみんな落合監督のように考えて動けるはずがない。まして(ぼくの勝手なイメージもあるが)野球選手なんて「上の言うことは絶対」の世界である野球部で生きてきた人たち。急に「自分の数字を上げることだけを考えろ。チームのことなんて考えなくていい」と言われたってなかなか切り替えられないだろう(ちなみに落合博満氏は高校野球部は体質が合わずサボってばかり→大学野球部も古いやり方についていけず退部というプロ野球選手としては超異色の経歴を持っている。この経歴が独特の思想を作りあげたのだろう)。


 落合監督のやり方は正しい。でもそれがうまくいくのはすべての選手が(技術だけでなく精神面でも)超一流だった場合だけだ。実現しなかったが落合氏がWBC日本代表監督になっていたらすごくいいチームを作っていたかもしれない。

 プロの選手になっても「指示してくれないとわからないよ」「細かく指導してほしいよ」というアマチュア精神の持ち主も多いから、落合監督のやり方は全員に支持されたわけではない。ただ、少なからず理解している選手・コーチもいたことが『嫌われた監督』には書かれている。

 落合監督退任後も彼らがそのマインドを継承させていけば中日ドラゴンズはずっと強いチームでいられたはず。……だがそうならなかったのは先ほど書いた通り。監督交代後は平均以下のチームになってしまった(監督だけの責任ではないにせよ)。

 一流の組織をつくるのはむずかしいが、それを維持するのはもっとむずかしいのかもしれない。



 落合博満という人はつくづく天才だったんだな、とおもう。もちろん選手としても超一流だったが、それは単に身体能力が高かったからではないとこの本を読むとわかる。

 他の人には気づかない観察眼、既存の常識にとらわれない野球理論など、とにかく指揮官としても天才的だったのだとわかる。

 ある選手の守備範囲がわずかに狭くなったことに気づき、別の選手のエラー数が多いのは守備範囲が広いから(他の選手なら追いつきもしない打球に追いつけるからこそのエラー)だと見抜く。しかも選手やコーチですら気付かないのに。

 落合監督が嫌われたのは、その“発見”を逐一説明しなかったからだ。説明することで選手の考える機会を奪うからというのもあるだろうし、天才だからこそ己の考えが周囲から理解されないことを知っていたかもしれない。

 他の選手・コーチ・監督と見ている景色がちがったんだろうな。


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2026年7月23日木曜日

【映画感想】『ひつじ探偵団』

ひつじ探偵団

内容(映画.comより)
ヒュー・ジャックマンが主演を務め、大好きな飼い主を殺された羊たちがその犯人を見つけ出すべく奮闘する姿を描いた異色のミステリー映画。
イギリスののどかな田舎町。羊飼いのジョージは、愛する羊たちに囲まれながらひとりで暮らしている。彼は毎晩羊たちに探偵小説を読み聞かせているが、実は羊たちは物語を理解しており、その時間を楽しみにしていた。そんなある日、ジョージが死体となって発見される。羊たちはこれが事故だと信じようとせず、最も賢いリーダーのリリーを先頭に調査に乗り出す。手がかりを追ううちに、ジョージには巨額の遺産があったことが判明。愛するジョージの無念を晴らすべく、犯人捜しに奔走する羊たちだったが……。

 Amazon Primeにて鑑賞。

 タイトルと画像でほのぼのアニマルコメディかとおもって観たのだが、これがなかなか、いやかなり見ごたえのある本格ミステリ映画だった。


 たったひとりで多くの羊たちと暮らしている牧場主のジョージ。彼は偏屈で人付き合いはうまくないようだが、羊たちのことは深く愛し、毎晩羊たちにミステリ小説を読み聞かせてやるほどだった。

 ある日、ジョージが牧場で変死。付近には殺人事件の痕跡。羊たち(人間の言葉を理解できる)は真相解明のため捜査に乗りだす。

 一方、ジョージの弁護士によって彼には多額の財産があったことがわかる。遺言書には養子に出されアメリカで暮らす娘が相続すると書いてある。だが遺言書はつい最近書き換えられたばかり。おまけに娘は事件直前にたまたまアメリカからやってきたところ。はたしてかぎりなく黒に近い娘なのか、それとも別の人物なのか。遺言書の中で示唆されている「二人の殺し屋、善き羊飼い、悪い羊飼い、マヌケ、春生まれの羊、冬生まれの羊」とはそれぞれいったい誰のことなのか……。



(以下、ちょっとネタバレを含みます)


 羊たちを主人公にしたコメディ映画でありながら、ミステリとしてはきわめて王道なのがすばらしい。事件の内容は観客に十分に語られ、容疑者、事件の動機もしっかりと、しかしさりげなく提示される。ヒントの分量も申し分なく、ちゃんと推理すれば真犯人にたどりつけるようになっている。そして真犯人は絶妙にちょうどいい人物。登場シーンは多く、それでいて意外な人物。

 ミステリとしてきわめてフェアだ(真犯人にたどりつく“色”はちょっと無理があるが……)。

 特に感心したのが序盤の「文化フェスティバル」のシーン。コメディパートなのだが、この映画においてすごく効果的な役割を果たしている。「文化フェスティバル」のせいでまんまと騙されるんだよね。


 ミステリとして優れているが、ヒューマン(羊だけど)ドラマとしてもよくできている。最初は何も考えていないように見えた羊たちの心の動きにだんだん共感できるようになってくる。そして死んだ後で見えてくるジョージの人間性。


 映像はおもしろく、ミステリとしてよくできていて、登場人物たちの心の動きや成長もしっかり描いている(それでいてくどくない)。

 いい映画だった。とにかく羊に対する愛がびんびんと伝わってくるぜ。


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2026年7月22日水曜日

【読書感想文】成田 悠輔『22世紀の資本主義 ~やがてお金は絶滅する~』 / わかりにくいことに価値がある本

22世紀の資本主義

やがてお金は絶滅する

成田 悠輔

内容(e-honより)
株価も仮想通貨も過去最高値を更新、生成AIの猛威が眼前に立ち現れ、かつてなく資本主義が加速する時代。お金や市場経済はどこへ向かうのか?この先百年で起きる経済、社会、世界の変容を大胆に素描。人の体も心も商品化される資本主義の行き着く果てに到来する「お金の消えた経済」。驚きの未来像が出現する。

 ぼくにとっては「テレビでたまに見る、変なメガネのよくわかんないけど賢そうな人」というイメージしかなかった成田悠輔さんによる、未来の資本主義の展望。


 まず率直な感想を書くと、すごくわかりづらい。

 でもこれは「わかりやすく書くことに失敗している」のではなく「わざとわかりにくく書いてる」からだとおもう。わざと既存の常識から飛び出そうと書いている、そんな感じだ。誰にでもわかるように書こうとおもったら、常識的なことしか書けない。

「わかりやすい文章」で5年後のことは書けても、100年後のことは書けない。現代の経済がどうなっているかを100年前の人に説明してもちっとも伝わらないのと同じように。



 ということでぼくは早々にこの本に書かれていることをきっちり理解することはあきらめ、一部だけでもわかればいいやという気持ちで読むことにした。


 意外だった事実。

 ただ、あまり知られていないが大切な事実がある。ネットは今のところ産業革命と呼べるような変容を作り出せてい「ない」という事実だ。第一次・第二次産業革命の前後で経済的な生産性が誰の目にも明らかなほど伸びたことと比べ、IT・ウェブ産業が世界を食べたこの数十年は産業革命と呼ぶには程遠い。
 地球全体の経済的生産性の伸びを見てみよう。全要素生産性と呼ばれる最も広く用いられる生産性の指標の世界全体での成長が、実はここ20年ほど停滞している。00年くらいまではいい兆しがあったが、05年以降は生産性のかつてない停滞期で、19世紀末以降最も成長が伸び悩んでいる。ウェブが家庭や職場に浸透しても、人類の経済的生産性には何の爆発も起きていない。ウェブの経済的価値はまだ花開いていないことになる。そしてこの傾向は日本や欧米のような先進民主主義国で特に著しい。
 そうなるのも不思議ではない。たしかにコンピューターやウェブは仕事を効率化した。手紙や書類を手やタイプライターで書いて郵便やFAXで送ることもなくなって、大量の人手を投入しなければ無理だった会計計算もExcelや会計アプリで一発だ。会議もやりとりもメールやSlackやTeamsやZoomで済むようになった。
 その一方で、ウェブは壮大な無駄も生んでいる。仕事するより気づけばTwitter/Xで罵り合い、インスタでマウントを取って、AVばかり見て、広告とPRまみれになり、オンライン会議中も関係ないページを眺めている。ウェブは古い無駄を省くことに成功したが、新しい無駄も生んだ。ウェブによる古い無駄の削減と新しい無駄の生成で差し引きゼロという可能性も十分にある。

 インターネットによって通信の速度は飛躍的に上がり、我々の連絡方法は大きく変わった。海外に文書を送ろうとおもったら1週間かかっていたのが、今だと1秒だ。

 当然、生産性は飛躍的に向上した……と思いこんでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。まるで生産性は向上していない。

 言われてみれば、ぼくらはインターネットによって大きな恩恵を受けているが、インターネットによって失ったものも大きい。SNSは人々の時間を奪うが、そのほとんどは無為に消えてゆく。かつては新聞や読書にあてていた時間がショート動画に溶ける。しかも、得るものがないだけならまだマシで、デマの拡散など生産性ゼロどころかマイナスの現象も多発している。

 インターネット、スマホ、SNS、動画サイト……。いずれもひまつぶしの手段としては有用だが、人類の発展に貢献しているかというとちょっと微妙なところだ。




「お金の必要性が少なくなる」という大胆な提言も。

 デジタルでグローバルな村落経済の発生は強烈な帰結をもたらす。お金の価値が下がっていくという帰結だ。なぜか。経済の実態の大半を記録できる太古の台帳経済や現在のデジタルグローバル村落経済では、実態と記録のズレが小さい。ということは、実態と記録のズレを埋める装置としてのお金の必要性が下がるからだ。お金に頼らず記録に直接尋ねて、信用するかしないか、取引するかしないか、罰するかしないかを決めればいい。記録を覗き見て判断するのは、古代では人間だった。現在、そして未来ではプログラムであり、ソフトウェアであり、AIである。

 物心ついたときから貨幣経済の中で生きてきたから「お金はなぜあるのか」なんて意識したことがなかった。教科書的には「物々交換をするのは不便なので、持ち運びやすくて保存が利いて好感しやすい貨幣が使われるようになった」という説明が正しいのかもしれないけど、それだけではお金の意義を正しく表していない。

 たとえばお金は使わなくても価値がある。往々にして「お金を持っている」ということ自体が価値を生む(反感を買うというマイナスの価値を生むこともある)。お金を持っている、お金を持っていそう、将来的にお金を稼ぎそう。それだけのことが重要な意味を持つ。「物々交換の代替手段」では説明がつかない現象だ。


「実態と記録のズレを埋める装置としてのお金」という表現は、たしかにお金の一面を正しく言い当てている。

 あの人はお金を持っているから、人から必要とされる仕事をやってきたのだろう、きっと能力の高い人なんだろう、という判断材料になる。高級車とか高級ブランドの服とかは、お金を使ったという証明であり、お金を使ったということはお金を持っていることの証明であり、お金を持っていることは能力が高いことや仕事をしてきたことの証明である。多くの人がそういうルールに従って生きている。

 だがその人の遍歴がすべてデジタル世界に記録される社会になれば(事実なりつつある)、お金を介さなくてもその人がどんな人かわかる。財布には現金が入ってないしユニクロの服を着ているけれど、多くの人から必要とされている人だということがデジタル世界の記録を見ればすぐわかる。この人なら信用できるし、低利子で金を貸してもいい。

 こういう世界になれば「金を持っていることをアピールするために使う金」が無意味になる。あいつブランド品で身を固めてるけどぜんぜん稼いでないじゃん、あいつ金は持ってるけど実家が金持ちなだけであいつ自身には何の能力もないじゃん、とばれてしまうから。

 個人的には、そんな世の中のほうが健全だとおもう。必要とするモノを手に入れるための交換手段という貨幣本来の役割が再び強くなるのだ。



 そしてその先にあるのは、経済を測れなくした社会。 

 だが、お金がもはや必需品でなくなる日も近い。経済社会活動を記録する情報やデータの量が増え実態と記録のギャップがなくなるにつれ、お金の役割は少なくなるからだ。その日を先取りして想像したい。情報・データ技術を用いて単純な価値尺度自体を蒸発させるような実験はできないだろうか?
 お金を使わず値段をつけず、価値が高いとか低いとか比べない経済である。測って比べるから大小や高低が生まれ、大小や高低のような非対称性はすぐに優劣に脳内変換される。大きいものが小さいものを制し、成長するものが勝つ。正の利子がつけば、富めるものがますます富む。そして規模が価値になる。とすれば、壊れた経済を修理する一番の方策は、経済を測れなくすることではないだろうか。

 わたしが欲している魚と、あなたが欲しているサンダルはどちらがより必要性があるのだろうか? もちろん比べようがない。だからとりあえず値段をつけて、同一の尺度で比較できるようにしている。

 しかしわたしに関するデータとあなたに関するデータと魚のデータとサンダルのデータが十分にあれば、同一の尺度など必要ないのではないか、ということだろうか。

 正直このへんの話になるとぼくにはもうついていけなかったが……。


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2026年7月17日金曜日

【読書感想文】ドン・マローニ『外人はつらいよ』 / これだから英語圏の人間は

外人はつらいよ

ドン・マローニ(著) 脇山 怜(訳)

内容(カバーより)
在日六年、アメリカ人ビジネスマン一家がくりひろげる涙と笑いの〝一大絵巻〟型破りのユーモアでつづるやぶにらみ日本文化論。

 仕事で日本に住むことになったアメリカ人が語る、日本文化論。

 この手の「外国人が見た日本」本は大好きでたいていおもしろい。なので古本屋で見つけて買ってみたのだが、これはちょっとはずれだった。

 理由のひとつは、あまりに古いこと。著者が日本にやってきたのが1970年。本の刊行が1975年。50年以上前。「日本人は往来で立小便をする」なんて書いてあるけど、さすがに今はそんな人はほぼ見ない。日米の文化比較というより、新旧の文化比較になってしまっている。これは50年もたってから手に取ったぼくのせいなんだけど……。

 もうひとつは、著者が日本どころかアメリカ以外の国を知らないこと。日本に来て困ったことに「英語が通じないこと」とか書いている。そりゃそうだろ。日本人からすると外国に行ったら母国語が通じないのは当然なのに、アメリカ人にとってはそうでないらしい。これだから英語圏の人間は……。

 文章がユーモアに満ちていて、そこはおもしろかったけどね。



「日本にかぎらずアメリカ以外はどこもそうだろって話」「著者の身の周りの人たちの話」が多く、日本論として読める箇所はそう多くない。

 私の見解を裏づけるような統計が政府から発表されているらしいのだが、どこにも見あたらないので、ただ私の言うことを信じていただくよりほかはない。実は、拡声器について新発見をしたのである。つまり、一人あたりの拡声器の普及率は日本が世界で第一位、と私は見ているのだ。

 選挙カーや街宣車は言うまでもなく、駅や電車・バスのアナウンスなど、日本は音声案内が多いと言われる。たしかにそうだよね。外国の交通機関では停車直前に「Next stop is ○○」と流すぐらい。日本だと音声案内が多すぎて、逆にどれが大事な情報かわかりづらい。

 著者は「英語でもアナウンスしているが日本版に比べてすごく短い。我々にだけ大事な情報が伝えられていないのではないかと不安になる」と書いている。その気持ちはわかる。でも大丈夫、カットされているのは「××の治療ならおまかせ、○○クリニックをご利用の方は次が便利です」といったどうでもいい情報だから。日本人だって聞いてないから。




 日本の生活に慣れた(といっても5年ぐらい)著者がひさしぶりにアメリカに帰ったときの話。

「マローニさん、それ、やめてくれませんかね」
「やめろって、いったい何をやめるんです?」
「私が何か一言いうたびに、フンフンうなずいたり、エーとかハーハーとかソーソーとか、とにかく何にしろ、モソモソつぶやくのはやめていただけませんかね。ところで、そのエーとか、ハーハーとか、ソーソーは、どういう意味なんです?」
「フンフンとかエーとかハーハーとかソーソーというのは、フンフンとかエーとかハーーとかソーソーという意味であって、それ以上の特別な意味はないんですよ」
 日本に長く居過ぎましたね、と言いたげなまなざしで私の説明を聞きながすと、彼はまた報告を続けた。私は全神経を集中して、癖を直そうと努めた。そのかいあって、その後は一度たりとも、むやみやっとうなずいたり、エーと言ったりはしなかったが、まったく容易なことではなかった。
 フンフンとつぶやきながらしきりにうなずく。これなんぞはアメリカに持ち帰った「日本癖」のほんの一例に過ぎない。エレベーターに乗るやセカセカと「閉扉」のボタンを押したり、人に紹介された時ペコペコおじぎしたり、立っている時も座っている時も腕組みしたり、といったような習慣も、人からへんな目で見られる。

 へえ。アメリカ人ってそんなにあいづちを打たないんだ。言われてみればそうかも。今度洋画を観るときはあいづちに注目してみよう。


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