2050年1月1日土曜日

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2026年6月30日火曜日

【読書感想文】樋口 耕太郎『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』 / 補助金はイノベーションを阻害する

沖縄から貧困がなくならない本当の理由

樋口 耕太郎 

内容(Amazonより)
沖縄には、謎が多い。圧倒的な好景気が続く中、なぜ、突出した貧困社会なのか。「沖縄の人は優しい」と皆が口をそろえる中、なぜ、自殺率やいじめ、教員の鬱の問題は他の地域を圧倒しているのか。誰もなしえなかったアプローチで、沖縄社会の真実に迫る。「沖縄問題」を突き詰めることは日本の問題を突き詰めることであり、それは、私たち自身の問題を突き詰めることだ――。「コロナ後の世界」のありかたをも問う、鮮烈の問題作。

 所得水準、子どもの貧困率、正規雇用率、ひとり親世帯率(そしてその貧困率)、進学率、自殺率など様々な指標で全国ワーストクラスの数字を出している沖縄県。

 なぜ「気候も人もあたたかい」と言われる沖縄県で多くの人が貧困にあえぐのか。

 野村証券などで働いた後に沖縄でリゾートホテル経営をおこない、経営から退いた後は沖縄の飲み屋で数千人の話を聞いたという著者が、中と外から見た「沖縄問題」。


第1章『「オリオン買収」は何を意味するのか』、第2章『人間関係の経済』、第3章『沖縄は貧困に支えられている』は様々なデータに基づく分析が光っておもしろかったが、第4章『自分を愛せないウチナーンチュ』あたりからデータはほとんどなくなり、「聞いた話」が続く。さらに第5章『キャンドルサービス』にいたってはほぼ沖縄と関係のない著者の人生観が語られる。

 せっかく前半で事実に基づく考察が光っていたのに、中盤からは「自尊心が低いのが原因だ」「愛がすべてを解決する」みたいな話になってくるのでげんなりしてしまった。中盤まではいい本だったのになあ。



 少し前に読んだ高橋哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』 (→ 感想)に、「沖縄が経済的に基地に依存している割合は低い」といったことが書かれていたが、樋口耕太郎氏はその論調に反論する。

 たしかに基地から直接沖縄県に流れる金は多くないが、基地を受け入れる(受け入れさせられる)ことと引き換えに、沖縄県は日本から非常に多くの補助金や軽減税率を与えられている。

  たとえば、沖縄県が本土復帰した1972年以来、沖縄で生産・消費されるビールや泡盛には軽減税率が適用されていた。これにより、沖縄企業生産のオリオンビールはキリンやアサヒといった大手企業よりもずっと有利な条件で販売することができ、そのため沖縄県内では高いシェアを誇っていた。

 復帰後の一時的な対策だったはずの酒税軽減措置はその後も政治的な理由などで延長をくりかえされ、50年以上たった今年2026年にやっとビールの酒税軽減は終了するらしい(泡盛は2032年予定)。

 だが多くの補助金や税制優遇がそうであるように、それにより助かるのは真に困っている人たちではなく、大手企業や政治家とつながりを持つ金持ちをさらに潤すことになっている。

 このように、利権は入れ子構造になっていて、「多くの弱者のため」に政治が動き、援助がなされるほど、一部の利権者が多大な配分に与る構造が存在するのだ。これらの利権は所得として計上されないことも多く、問題が表面化しにくい。
 社会の権力者たちは、「社会のため」を語りながら、意識的あるいは無意識に自分の利害を最優先する。多くの場合それほどの悪意もない。場合によってはその自覚すらない。
 このように、沖縄振興を目的として大量に注がれた税金が、沖縄社会を激しく歪める原動力になっているのだ。「弱者を助けるため」に活動する沖縄の利権者が、「成果」を上げれば上げるほど、沖縄内部に問題を生み出す原因を作り出してしまう。
 このように、社会を歪め、弱者を助ける名目で(無意識に)搾取し、格差を生み出し、維持しているメカニズムは沖縄社会の内部にある。そして、日本政府からの大量の経済援助が、その歪みの構造を支える重要な役割を果たしてしまっている。
 利権者たちは、必ずしもそれを意図しなくても、あるいは、自分が利権者だという自覚がなくても、結果的に、自ら多額の援助金を獲得し、大きな利益を手にしてしまうため、事業そのものには意識が向かない。事業家の自律心が奪われれば商品の質は低下する。

 このような「沖縄を助けるため」であったはずの補助金や税制優遇が利権構造をつくりだし、結果的に沖縄の産業の競争力が弱まっていると著者は指摘する。

 泡盛に対する軽減税率にしても、ごくごく一部の大手酒造メーカーの役員だけが莫大な利益を得る構造になっているという。



 沖縄はもっとも政治によって翻弄されてきた地域だ。

 在留米兵による少女暴行事件により基地反対運動が高まった際には、日本政府は基地をひきつづき沖縄に引き受けさせるため、有形無形様々な形で経済援助をおこなった。

 沖縄で野火のように広がった基地反対運動。これに対してなされた政府主導の強烈な「火消し」の多くは、目に見えない経済援助の形をとった。ここに挙げた事例はそのほんの一部である。そして、それに呼応するように、1995年以降、沖縄は目覚ましい「経済発展」を遂げた。
 このように、沖縄の経済発展には、ことごとく基地経済と(ときには過剰な)援助の影がつきまとう。
 もし、1995年の基地反対運動が熱を帯びていなかったら、普天間飛行場の移設問題が浮上していなかったら、
 
 2000年のサミットは沖縄で開催されていただろうか?
 首里城は世界遺産になっていただろうか?
 新2000円札の表面は守礼門だっただろうか?
 そもそも2000円札は発行されていただろうか?
 沖縄自動車道や那覇空港は今ほど整備されていただろうか?
 沖縄のリゾートの価格帯は、現在のような水準だっただろうか?那覇空港の発着便は、現在の水準にまで激増しただろうか?
 
 このように考えた場合の基地依存型経済の規模は「5%」どころか、県民総所得の相当規模を占めると考えるべきだろう。(中略)
 しかし不可解なのは、これだけの経済援助を受け、「経済発展」を遂げている沖縄が、日本最大の貧困社会だということだ。
 なぜ、日本で最も援助を受けている地域が、最も貧困なのか?これは問いの前提に誤りがあると考えるべきではないだろうか?
 経済援助は、そのやり方次第では、貧困を解消するよりも増幅させる可能性があるからだ。

 ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』に、政治が腐敗していて特定の有力者だけが利益をむさぼる構造になっている社会ではイノベーションが起こりづらく、自由な競争が保障されている国との競争に負けて衰退していくのだと書いてあった。


 沖縄はまさにその「イノベーションが起こりづらい」地域になってしまっている。補助金が多ければ、当然甘い汁を吸うのが大好きな連中がそこに群がってくる。リスクを負って新しいことに挑戦する者は既得権益者によってつぶされる。人々はますます新しいことに挑戦しなくなり、一部の権力者がますます肥大してゆく……。

 このスパイラルから抜け出すのは相当むずかしいだろう。



 また著者は、沖縄の人は、慣れ親しんだものを志向する傾向が本土の人よりもずっと強いと指摘する。

 周囲から「冷たい人」とおもわれるのを避けるため、少々高かったり品質が劣ったりしても、なじみの店、なじみの相手から買うことを選ぶ傾向があるという。

 助け合いの精神が根付いているという良さもある反面、新しい価値を生み出すビジネスが成功しにくい環境でもあるという。

 このように沖縄経済を捉えると、品質の良いもの、価値のあるもの、優れた商品が生まない理由が説明できる。
 消費者は、商品やサービスの良し悪しで選ばず、同じ商品を買い続ける性向が強く、沖縄では品質の良いもの、価値のあるもの、優れたサービスを顧客に提供しても、結果(売り上げ)につながりにくい。付加価値の高い事業が収益を上げにくい沖縄の社会構造である。それらの結果、沖縄社会では一流を目指す人が力を発揮しにくいのだ。
 人間関係で成り立つ商売は、長期安定的で、本土企業に対して強い参入障壁を作り出すという大きなメリットがある一方で、革新を妨げ、低品質、低付加価値、低報酬を特徴とした、沖縄独特の経済圏を作り上げてきた。
 このような環境下では、品質改善への重要性は低く、創造力は発揮されない。開発力、革新力、サービス力が低下し、県外の「厳しい」顧客に訴求する商品を生み出すことは難しくなる。

 これ自体はそんなに悪いことじゃないんだけどね。みんなが安定した生活が送れるわけだから。島の中でやってる分には。

 ただ県外、海外企業との競争には勝てない。

 でもこれって沖縄の企業がおかしいんだろうか。県外、国外の企業と競争して勝たなきゃならない! という本土の企業のほうがヘンなんじゃないかな、と個人的にはおもう。いいじゃない。島の人が島の人を相手に商売して、食っていけるぐらいの儲けが出てるんだったら、それで。

 グローバル化が進んだからそうも言ってられなくなったという現実はわかるんだけど、でも多くの人にとってグローバル化っていいことばかりじゃない、むしろ悪いことのほうが多いわけで。

「グローバル化してるのにそれについていけない沖縄企業が悪い!」と書いてるけど、ほんとは「そもそもグローバル化したのが悪い」なのかもしれない。そう言っても一度開いてしまった扉はなかなか閉じられないものなんだけど。


【関連記事】

【読書感想文】高橋 哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』 / 沖縄は「戦争特区」

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』



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2026年6月23日火曜日

【読書感想文】サイモン・マッカーシー=ジョーンズ『悪意の科学 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?』 / 己の中の悪意と向き合わされる本

悪意の科学

意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?

サイモン・マッカーシー=ジョーンズ(著) プレシ南日子(訳)

内容(e-honより)
悪意の力を明かし、人間観をくつがえす傑作!悪意はなぜ失われずに進化してきたか?悪意をもたらす遺伝子、脳の仕組みとは?なぜ自分に害が及んでも意地悪をするのか?善良な人まで引きずり下ろそうとするわけ。悪意と罰の起源とは?悪意にはどのような効用・利点があるか?悪意をコントロールするには?…脳科学・心理学・遺伝学・人類学・ゲーム理論などの最新成果を駆使して、まったく新しい人間観が示される…

 この本における「悪意」とは「自分が損をする(得をしない)としても他者に損害を与えるような行為」を指す。

 たとえばあおり運転とか。気に入らない運転の車があると、その後ろにぴったりついて嫌がらせをする。それをしたところで自分が得をするわけではない。むしろ損をする(事故に遭う確率が上がる)。それでもそうした運転をする人は後を絶たない。

 そこまでいかなくても、気に入らない有名人をSNSで攻撃するとか。たいていの場合、炎上させたって自分が得をするわけではない。むしろ自身の評判を下げるだけだ。それでも多くの人にとって「気に入らないやつを攻撃する」行動は楽しい。



“悪意”は決してひとにぎりの人だけが見せるものではなく、多くの人の選択となって社会全体に影響を及ぼすこともある。

 悪意の影響は、選挙の行方だけでなく、当選者が推進する政策やそれに対する有権者の反応にも及ぶ。所得配分に関する政策について考えてみよう。経済状況が悪化している時代には、貧富の差を縮める政府が支持されるはずだ。ところが2008年の不況の際、人々は政府による所得の再配分をさほど重視していなかった。これは減税により自分たちよりも低い社会階層の人々との差が縮まる場合、たとえ生活が多少楽になるとしても、減税を望まない人々が一定数いたためだと考えられる。人間の「最下位を避けようとする」性質が表れたのだ。

 最低賃金の引き上げに最も反対するのは、金持ちや経営者よりも「最低賃金よりはちょっと上の給与で働いている人たち」だという。ふつうに考えれば彼らは最低賃金の引き上げによって恩恵を被る立場の人たちだ。

 それでも「自分より下の立場の連中が自分と同じ位置にくるかもしれない」という思いが“悪意”に走らせる。貯蓄の少ない者が生活保護受給者を非難したり、貧しい者が金持ち優遇政策をとっている政党に投票したりといった例は枚挙にいとまがない。自らにとっての実益よりも「あいつらを困らせたい」という“悪意”のほうが優先されることは決してめずらしくない。

 そして“悪意”は直接的な攻撃の形をとらないことも多い。

 仕返しが可能な現実の世界で、自分を不公平に扱った人々に直接、悪意のある行動をすることは、最後通牒ゲームの結果から想像するよりもずっとまれだ。小規模な部族社会に関する人類学的研究では、人々が協力関係を維持するためにこのような行動をとることは確認されていない。彼らは別の形態のコストの低い反支配行動をとる。彼らは安上がりな悪意を使うのだ。
 不公平な人を罰する個人的なコストを減らす方法の1つは、1人あたりのコストを減らすことだ。それには集団内でコストを負担し合えばいい。小規模な社会では、目に余る行ないをした人々を個人ではなく集団が殺す。そうすれば個人に対する反撃を最小限にできるからだ。同様に西洋ではほかの人も同じ相手に罰を与えている場合のほうが、人々は気楽に罰を与える。人数が多いほうが安全だからだ。
 罰のコストを減らす別の方法は、直接的な対立よりも安上がりな方法を用いることだ。たとえばうわさ話(ゴシップ)や嘲笑、村八分などがこれにあたる。現実の世界、特に小規模な社会では、人々は直接的な対立よりもこれらの方法を使いがちだ。

 悪いうわさを流す、集団で村八分にする、といった方法だ。正面切って悪意をぶつけるよりも、こちらのほうが自らの立場は安全だ。

 人間はいじめが大好きなのは、喧嘩よりもいじめのほうがリスクが低いからだ。



“悪意”と書くと無条件で悪いもののようにおもえるが、悪意はメリットもある。というよりメリットがあるからヒトは悪意をはたらくように進化したわけだ。

 悪意の理由は単純だ。悪意のある行動をとると得するからだ。短期的に見ると悪意のある行動が、長期的な利益をもたらすことも多い。悪意+時間=利己主義というわけだ。反支配的悪意は乱暴者や支配者、暴君を引きずり下ろす。この場合、悪意は正義を守る手段となりうる。他者に害を及ぼす人に悪意を向けると社会関係資本が増える。そして、ほかの人々からの協力や高い評価という見返りが得られる。一方、自分に害を与える相手に悪意を向ければ、相手はわたしたちにもっと気を使わなければならなくなる。やがて人間は言葉の助けを借りて、コストのかかる罰をより安上がりで安全に使えるようになった。また、神や国家に悪意のある行動を委託するようにもなった。こうして今や人間は、ニーチェのいうところの「盗んできた歯」でかみつけるようになったのだ。

 極端な例でいえばテロやクーデター、そこまでいかなくてもスキャンダルをした議員を引きずりおろしたり、不正をはたらいた企業に対して抗議運動をすることで、不正が正されることがある。また不正に対する抑制にもなる。

「自分勝手なことをすると俺はおまえを罰するぞ」という意思表示が悪意、早く言えば「なめられないようにする」ということだ。悪意を見せることで、将来的に自分が厚遇されるようになるわけだ。

 誰も悪意を行使しなければ権力者のやりたい放題になってしまう。



 だが、悪意は不正を正すために使われるとはかぎらない。

 人より優位に立った人は悪意を向けられやすいが、幸運によって優位を得た人よりも、実力で優位に立った人のほうが悪意を抱かれやすいという。宝くじで大金を得た人よりも、事業で成功して大金を手にした人のほうがねたまれやすいのだ。

 さらに、みんなのためにコストを払った人、つまり「気前のいいひと」にも悪意を向ける。

 人助けや親切な行動を罰するのは、実験として行なうゲームだけの話ではない。人類学に目を向ければ、狩りに成功し、部族の全員で分け合えるような大きな獲物を捕らえた者が非難される事例が見られる。(中略)
 では、なぜ気前のいい人に罰を与える人がいるのだろう? これは反支配的傾向が引き起こされるためと思われる。貢献が少ない人々は、より多く貢献している人々が有利な地位を得たと感じるだろう。寛大な行動をした協力的な人々は地位や評判を手にする。そして、こうした気前のいい人々は支配的になるかもしれないと恐れられてしまう。ヴォルテールが言ったように、最善は善の敵なのだ。
 生物学的市場理論の観点からも、これに関連した説明ができる。生物学的市場理論では、人間は協力相手に選ばれるために競争していると考えられている。選ばれるための方法の1つは、ほかの人々より親切で気前よくなることだ。一方、競争相手を見劣りさせるという戦略もある。善人ぶる者を妨害すれば、実は悪意を持っていても、自分を比較的善良(もしくは少なくとも実際よりは悪くなさそう)に見せられるかもしれない。
 こうした行動をとると、ケチで自尊心がないと見なされるリスクを冒すことになる。しかしながら、自分をより魅力的なパートナーに見せるために気前のいい人々を罰するという発想を裏付ける証拠が見つかっている。人間は他者が別のゲームのパートナー候補を物色していると感じると、自分たちよりも多く貢献した人々に悪意から罰を与える傾向が強くなるのだ。

「気前のいい人」はリーダーに選ばれやすいし、恋愛市場でもパートナーから選ばれやすい。だから周囲から悪意を向けられやすい。


 ふうむ。たしかに自分の周りのことを思い返しても、「いつもおごってくれる上司」って、慕われるどころか嫌われていることのほうが多い気がする。

「いつもおごってくれるなんて優しい人だ!」ではなく「こいつこんなに稼いでるのかよ。だったらこっちに分けろよ」という気持ちになる。
(おごってくれるから嫌いなのか、嫌われてるから好かれようとしておごれるのかわからないけど)

 気前よくふるまうと感謝されるどころか悪意を向けられるなんて……。だったらあんまり気前よくしないほうがいいな。



 この本で挙げられている“悪意”の事例ってよく見聞きしたり、自分自身も同じように感じたりすることだけど、意外とこういうことについて書かれた本って多くない。

 みんな「自分は悪意を抱えていて、隙あらば成功者や自分より人気のあるやつを引きずりおろしたいという気持ちを持っている」ことを認めたくないからね。だから“悪意”ってなかなか研究対象にしにくかったのかもしれない。どうしたって己の中にある醜い感情と向き合うことになるからね。


 ぼくもこの本を読んで、自分の中のイヤな感情と向き合ってしまった。いやあぼくってイヤなやつだよな。わざと歩きスマホをしてるやつの前を横切って歩きづらくさせたり、あとわざわざ●●をしたり■■なやつの邪魔をしたり……(自粛)。


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2026年6月22日月曜日

【読書感想文】高野 和明『グレイヴディッガー』 / 風呂敷を畳むのに失敗していろんなものがはみ出してしまった

グレイヴディッガー

高野 和明

内容(e-honより)
改心した悪党・八神は、骨髄ドナーとなって他人の命を救おうとしていた。だが移植を目前にして連続猟奇殺人事件が発生、巻き込まれた八神は白血病患者を救うべく、命がけの逃走を開始した。首都全域で繰り広げられる決死の追跡劇。謎の殺戮者、墓掘人の正体は?圧倒的なスピードで展開する傑作スリラー巨編。


 一年以上前に死んだはずなのにきれいな状態で発見された死体、異常な殺し方の連続殺人事件、「見えない炎で焼き殺された」焼死体、なぜか追われる主人公。

 前半は謎だらけだ。犯人もわからなければ被害者の正体もわからない。被害者に共通していたのは骨髄ドナー登録をしていたことだけ。犯人の人数も謎だし、殺しの動機もわからない。主人公・八神が追われる理由も、ワルの八神が「どうしても骨髄提供をしたい」と考えて必死に警察から逃げ回っている理由もわからない。

 うーん、謎が多すぎて何が何やら。

 中盤で、タイトルになっている“グレイヴディッガー”という言葉が出てくる。

 その聞き慣れない単語は、しかし確かな重量感をもって耳の奥で反響した。「グレイヴディッガー?」
「ええ。英語で、『墓掘人』の意味です。魔女迫害の機運がイングランドに及んだ頃、異端審問官たちが何者かによって虐殺されるという事件が起こりました。魔女裁判と同じ拷問の方法を使ってね。それに怖れをなした異端審問官たちが、魔女狩りを自粛したのではないかというのです。今となっては事件の真相は分かりません。しかし当時の人々は、拷問によって殺された男が墓の中から蘇り、自分を殺した者たちに復讐をしたのではないかと噂しました。そして、この蘇った死者を、『グレイヴディッガー』と呼んだのです」

 魔女狩りをしていた異端審問官たちを私刑に処していたのが“グレイヴディッガー”らしい。言ってみれば「『魔女狩り』狩り」。

 これによってすべての謎がつながって一気に真相に近づく……とはならない。どうやら犯人が“グレイヴディッガー”を模倣して犯行をしているらしいということだけはわかるが、一向に真相は見えてこない。

 ひたすら八神が追手から逃げまわっている姿だけが描写される。ついに捕まった、とおもったらまた逃げて、やっと捕まった、とおもったらまた逃げて、今度こそ捕まった、とおもったらまた逃げて……。

 しつこい。もういいって。逃避行自体が目的の作品ならそれでいいんだけど、謎解きがメインなので逃亡劇は冗長に感じる。逃亡劇がなくても成立する小説だったんじゃないかな。



 きれいな状態で見つかった死体、公安組織、骨髄ドナー、グレイヴディッガーという一見ばらばらに見える伏線が一本につながる手腕は見事。ただ要素が多すぎて荒唐無稽な印象も受ける。

“グレイヴディッガー”側も、“グレイヴディッガー”に狙われる側も、「その目的のためにそこまでやらんだろ……」という感じなんだよな。やってることの壮大さのわりに、目的がしょぼすぎる。

 逆トロッコ問題みたいな感じ。「1人を助けるために5人の命を奪う」みたいなことをやってる。そんなやついるか?

 犯行のスケールの大きさに動機が釣り合ってないように感じた。


 あと最終的に「あいつもこいつもお咎めなし」で決着したのも、なんか腑に落ちない。あんな都内各地で大騒動をくりひろげておいて、みんな無かったことになっちゃうの!?

 ということで、おもしろい小説ではあったんだけど、風呂敷を畳むのに失敗していろんなものがはみ出してしまった印象。遠い外国が舞台、とかのほうがまだすんなり読めたかも。


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パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2026年6月15日月曜日

【読書感想文】鈴木 俊貴『僕には鳥の言葉がわかる』 / 情熱的で醒めた視点を持つ研究者

僕には鳥の言葉がわかる

鈴木 俊貴

内容(e-honより)
古代ギリシャ時代から現代まで、言葉を持つのは人間だけだと決めつけられてきた。しかし、シジュウカラたちは、それが間違いであることを教えてくれた。人間には人間の言葉があるように、鳥には鳥の言葉がある。シジュウカラは言葉を使って文を作る。世界を驚かせた研究者が綴る、大発見に至るまでの鳥愛あふれる研究の日々。


 少し前に、アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』という本を読んだ(→ 感想)。

 動物が音声を使って様々なコミュニケーションをとっていることを認めた上で、「とはいえ他の動物たちは人間の言葉に翻訳できるような言葉は持っていなさそうだ」といった論調だった(誤解を招きそうなので補足しておくと、人間が他の動物たちに比べて優れているとは書いていない。ただ異なると書いているだけだ)。


 それを読んだ後だったので、この『僕には鳥の言葉がわかる』というタイトルを見たときは「正確性を欠くタイトルだな。研究者としての知的誠実さが足りないのでは」と思っていた。

 そして読んでみた。

 いや、「鳥の言葉がわかる」という言葉は決して大げさじゃないな! もちろん「鳥の言葉を一対一で人間の言葉に翻訳できる」という意味ではないが、鳥の言葉を“わかる”ことは可能かもしれない。この場合の“わかる”とは、“理解する”というよりは“感じる”に近いけど……。



 シジュウカラのヒナが、親鳥の鳴き声によって異なる反応を見せることについて。

 夢中で観察しているといろいろなことに気がつくが、もっとも印象に残ったことはヒナの聞く耳の発達だ。この時期のヒナは、巣箱の外から聞こえてくる親鳥の声にも敏感に耳を傾けて、応じているようだった。
 たとえば、父親が近くで「ツツピーツツピー」とさえずると、「はやく餌を持ってきて」と言わんばかりに「ビビビ!」と激しく声を出す。すると、親も急いで巣箱の中に餌を運び入れるのだ。周囲から聞こえる様々な鳥の声のうち、自分の父親の声を覚えて、それにだけ餌を求めて鳴くのかもしれない。一体どうやって覚えたんだろうと不思議に思う。
 ある日、いつものようにカメラをつけて巣箱を観察していると、ハシブトガラスが近くの木までやってきた。ヒナは相変わらず「ビビビ!」と鳴いて、親に餌を求めている。「このままではマズいかも」と思った瞬間、「ピーツピ!」という親鳥の声が森に響いた。
 カラスに警戒して鳴いているのは明らかだ。この声は、人間やネコなど、他の動物が巣箱に近づいた時にもよく出すので、「警戒しろ!」という意味だろう。
 それと同時に、あることにも気がついた。先ほどまで騒がしかったヒナの声が聞こえないのだ。モニターで巣箱の中を確認すると、ヒナたちはググッとうずくまって静まり返っている。「そうか! ヒナは親鳥の声に対して静まることで、カラスに巣の場所を特定されないようにしてるんだ。それだけではない。もし、カラスが巣箱に気づいて嘴を突っ込んできたとしても、うずくまってさえいれば、つまみ出されずに済むだろう! なんて賢い方法なんだ」と僕は思った。
 親鳥はカラスがその場を去るまで警戒の声を出し続けた。そして、ヒナたちもずっとうずくまったまま、ひと声も発さず静かにしていた。

 ヒナたちは親鳥が近づくと餌をねだる声を出すが、親鳥が警戒音を出すと、鳴くのを辞めて巣の中でうずくまるという。

「じっとしろ!」というメッセージを伝えることに成功しているので、これは言語といってもいいのではないだろうか。最も人間が使う「じっとしろ!」とはまったく同じではないけれど。

 人間の「じっとしろ!」は敵に見つかりそうなときも、逆に獲物に気づかれないようにするときにも、朝礼で落ち着きのない生徒を叱るときにも使えるが、おそらくシジュウカラの「ピーツピ!」にそこまでの汎用性はない(どっちが優れているということはない)。



 カラスが巣に接近したときには「ピーツピ!」と鳴くシジュウカラは、ヘビが接近したときには「ジャージャー」という声で鳴く。

 そして「ピーツピ!」を聞いたヒナは、カラスから身を守るために巣の中でじっとするのに対し、「ジャージャー」を聞くと親鳥は地面を見下ろす。さらにヒナは巣箱から飛び立つ。

「ピーツピ!」のときは対カラスの行動(カラスが巣箱にクチバシを突っ込んでもつつかれないようにうずくまる)を取るのに対し、「ジャージャー」のときは対ヘビの行動(飛んで逃げる)をおこなう。異なる刺激に対して異なる音を出し、異なる音に対して異なる行動をアウトプットする。これは……言語だ。

 さらに著者は、枝に紐をつけて動かす実験をすることで、「ジャージャー」を聞いた後ではシジュウカラが枝をヘビと見間違うのに対し、音がない場合は見間違えないことを確かめる。

 そして二〇一七年五月、ようやく僕はすべての実験を終えた。気がつくと、実験を始めてから四年の月日が流れていた。結果はとてもクリアなものだった。八十四羽のシジュウカラからデータを得たが、本当予想通りの結果が得られた。
 ここまできて、ようやくシジュウカラの鳴き声にも“言葉”があると証明できた。「ジャージャー」という声を聞いたシジュウカラは、頭にヘビのイメージを思い描き、それを用いて視界の中からヘビのようなものを探す。だから、ヘビのような動きをする枝を、ヘビと見間違えて確認してしまうのだ。つまり、「ジャージャー」はヘビを示す"名詞"のようなものだといえる。
 これはすごい発見である! それまでにも、多くの動物学者がベルベットモンキーやミーアキャット、プレーリードッグ、ハンドウイルカなどの鳴き声を調べてきた。しかし、ある鳴き声が内的な感情ではなく、外的な対象物を指示し、聞き手にそのイメージを想起させることを明らかにした例は一つもなかった。僕の研究が、初めてそれを証明したのである。

 このあたりの実験の設計がすごくうまくて、実験の詳細を見ているだけでわくわくする。


 もしぼくが研究者だったら「カラスとヘビが近づいた時では異なる声を出して、異なる反応を見せる」と気づいた時点で「シジュウカラは敵によって言語を使い分けてる! まちがいない! やったぜ、オレすげー!」と発表しちゃうとおもうんだけど、鈴木俊貴さんはそこから数々の反論を想定して、その反論に負けないための実験をデザインしている。これがプロの研究者かー。

 研究者というと好きなことに対してまっしぐらな人、というイメージだけど、一流の研究者は情熱だけでなく醒めた視点も併せ持っているんだな。



 シジュウカラの“言語”はシジュウカラだけでなく、他の鳥も理解できるらしい。

 シジュウカラの鳴き声を聞いて他種の鳥が逃げたり、逆に他種の鳥の鳴き声を聞いてシジュウカラが警戒を強めたり。多種多様な鳥が協力して警戒に当たったほうが天敵から逃れる確率は上がるからだ。

 さらにそれを逆手にとって他の鳥を騙すことさえするというから驚きだ。

 たとえば、シジュウカラがタカを見つけて「ヒヒヒ」と鳴けば周りにいるコガラやヤマガラは一斉に藪に逃げ入るし、餌を見つけて「ヂヂヂヂ」と鳴けば、次から次へと集まってくる。反対に、シジュウカラもコガラやヤマガラの言葉を理解できる。森の中の小鳥たちは、周りに棲んでいるいくつもの鳥の言葉の意味を学習し、天敵から身を守ったり、食べ物を見つけるために役立てているのである。バイリンガルどころではない。“鳥リンガル”だ。
 たまに嘘をつくことだってある。たとえば、シジュウカラは、自分より体の大きなヤマガラやゴジュウカラが餌場を独占していると、「ヒヒヒ」とタカが来た時の声で警報を出すことがある。実は空にタカなんていないのに、そう鳴くのだ。すると、大きな鳥はまんまと騙され、藪に逃げ入る。その隙にシジュウカラは餌をゲットできるというわけだ。僕もしょっちゅう騙されるが、騙し騙される関係も、他種の言葉がわかるからこそ成り立つものだ。

 人間のように「嘘の情報を流して追い払ってやろう」と考えているわけではないだろうが、結果的には誤情報によって他個体の行動を操作しているわけでから、“嘘をつく”といっても大きな間違いではあるまい。


「鳥の言葉」と言ってしまうと誤解を招くかもしれないけれど、シジュウカラなどの鳥が部分的には人間と同等、あるいはそれ以上に高度なコミュニケーションをとっていることは間違いなさそうだ。

 研究内容もおもしろいし、文章も親しみやすいし、選んでいるトピックスもほどよく初心者向け、ほどよく専門的で、すごくよくできた本でした。


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