2050年1月1日土曜日

2019年2月20日水曜日

第二次性徴の本のおもいで


中学生のとき、友人たちと図書室で遊んでいた。
友人のひとりが、「保健体育」コーナーから第二次性徴について書かれた本を持ってきて「うわ。なんだこれ」と言った。
彼が指したページにはしゃがみこんで手鏡を持って自分の股間をのぞきこんでいる少女のイラストが描かれており、「自分の性器を知ろう」みたいなキャプチャがついていた。
「なんじゃこりゃ。この女なにやってんねん」
とぼくらはげらげら笑った。
しかしぼくは、笑いながらすごく昂奮していた。

まじめな内容の本だった。扇情的な絵ではなかった。イラストの少女はかわいくもないし無表情。股間そのものは手鏡に隠されてまったく描かれていない。
昔、ぎょう虫検査キットにキューピーちゃんが尻に検査シールをあてがっているイラストが描かれていたが、それに似ていたような気がする。色気もへったくれもない。


だが、そのことがかえってぼくの想像力を刺激した。エロいマンガに出てくる美少女だと「しょせんこれはエロ本の世界よね」というどこか醒めた目で見てしまうが、平凡な少女が股間を覗きこんでいるイラストには、かえって「ということはクラスのあの子やあの子もこんなことを……」と想像させるリアリティがあった。

同時に「女ってこんなことしないと自分の性器を見られないのか!」ということも衝撃だった。
男は自分の性器をよく知っている。鏡を使わなくても見られるし、立っておしっこをするときにも必ず目に入る。毎日何度となく顔をあわせる。いたってよく知る顔なじみだ。
ところが女は手鏡を使ってしゃがみこまないと自分のものが見えないらしい。しかも本にわざわざ「自分の性器を見てみよう」なんて書かれているということは、一度も見たことのない女も多いのだろう。

自分ですら見たことのない秘密の場所……。
その情報は、中学生にとってたまらなく刺激的だった。
「女の子は自分の性器を自分で見れない」という話は「力士が自分の尻を自分で拭けない」という話とよく似ているが、ぼくを昂奮させる度合いはまったくちがっていた。



図書室で見た第二次性徴の本が気になってしかたがなかった。
まだ精通のなかったぼくは、発散することもできず、悶々とした気持ちを抱えたまま暮らしていた。
またあの本を見たい。
だがひとりで図書館に行って第二次性徴の本を見るには、ぼくの自意識は高すぎた。

ぼくが性教育の本を見ている間、いつなんどき誰がやってくるかわからない。
しかも「保健体育」コーナーは図書カウンターから見えるところにあった。図書室が開放されている時間帯は、カウンターには教師か図書委員がいる。
誰も他の生徒の動向なんて気にしていないとは思いつつも、万が一「あいつ図書室で性教育の本を見てたぞ」なんて思われたら生きてゆけない。エロ本を拾っているところを見られるより恥ずかしい。

図書室で見るなんてできないし、まして借りるなんてもってのほか。性教育の本の貸出履歴カードに一生ぼくの名前が残ってしまう。



ぼくは図書委員になった。すべてはあの本をもう一度見るために。

誰にも見られないようにあの本を見るためには、人のいない時間を狙わなければいけない。
それには図書室にずっといてチャンスをうかがう必要があるが、それまでほとんど図書室に行ったことのないぼくが突然入りびたるようになるのは不自然だ。
図書室にずっといても不自然ではない人物、それは図書委員。

図書委員は放課後に図書室に待機して貸し借り手続きをする必要があるので、ほとんどの生徒はやりたがらない。委員決めのために手を挙げると、すんなりと図書委員になることができた。
「立候補なんてまじめだなー」
なんて友人から言われたが、
「もっとめんどくさい文化祭実行委員とかをやりたくないからな」
と言い訳をして、「ほんとはやりたくないんだけどな」というスタンスをくずさなかった。

数日後、さっそく図書委員としての仕事がまわってきた。
ぼくはTくんという隣のクラスのおとなしい生徒といっしょに貸出カウンターに座ることになった。委員は二人一組で貸出業務にあたるのだ。これは誤算だった。ひとりっきりになるチャンスがない。

初日は様子見。
ぼくが知ったのは、放課後に図書室に来る生徒は意外に多いということだった。
自分の放課後生活は、部活をやるか友人と遊びにいくか家に帰るかだったので、図書室に滞在する生徒がこんなにいるとは思いもよらなかった。常に数人が本を読んだり勉強したりしている。

その後も何度か図書委員としてカウンターに座ってチャンスをうかがっていたのだが、図書館に誰もいなくなる時間はなかった。
Tくんは決してサボることなく委員の仕事をこなし、毎日のように図書室にやってきて勉強をする三年生もいる。おまけに図書室担当の国語教師が図書室にいることも多かった。放課後の図書室はわりと繁盛しているのだ。

「他に誰もいないときを見はからってこっそり性教育の本を見る」というぼくの作戦は実現不可能のように思えた。
べつの方法を考えるしかない。

ある日、ぼくは返却された本を棚に戻しにいくついでに、そっと例の性教育の本を手に取り「誰だよこんなところにこの本入れたのは」と小さくひとりごとをつぶやきながら図書室の奥へと移動した。
誰も見ていないのに、「あるべき場所でない棚にある本を見つけた図書委員」の芝居をしながら。
そして性教育の本を、いちばん奥の棚へと移した。郷土資料があるコーナー。誰も見ないような本の棚。
そしてその日はそのまま帰った。
ほんとはすぐにでも読みたいところだが、万が一誰かに見られて「あいつ性教育の本を手にして隅っこに長時間いたぞ」と思われないために。

十日ほどたって、またぼくの貸出カウンター当番の日がまわってきた。
どきどきしながら頃合いを待った。奥の棚から人が少なくなる時間。
本を棚に返却しにいこうとするTくんをぼくは押しとどめた。「後でまとめていくからいいよ」と。

そして時はきた。何人かの生徒はいるが、自習机で読書や勉強にふけっている。そこから郷土資料コーナーは視界に入らない。
返却棚には数十冊の本。ぼくは「けっこう溜まってるなー。じゃあカウンターよろしく」とTくんに向かってクサい芝居をしながら書架へと向かった。これで少しぐらいカウンターに戻ってくるのが遅くなっても不自然に思われずに済む、はず。

そしてぼくは、何冊かの本を棚に戻してから郷土史コーナーへと向かった。隠しておいた本が本来の位置に戻されているのではないかということだけが懸念点だったが、本は依然そこにあった。やはり郷土史の本など誰も見ないのだ。

足かけ半年。ついにこの日が来た。
ぼくは、自分の姿を視認できる位置に誰もいないことを確認してから、おもむろにページを開いた。



そこから先のことはあまりおぼえていない。
とにかく、がっかりしたことだけはおぼえている。
「あれ? こんなんだっけ?」
というのが正直な感想だった。

はじめて見たときは「なんてエロいイラストなんだ!」とおもった。
その後、幾度となくこのイラストのことを思いえがいていた。その結果、ぼくの中で例のイラストのエロさがどんどん肥大化していったのだろう。
半年ぶりに実物を見てみると、「なんかおもってたほどじゃないな」としかおもえなかった。この程度のもののために半年も周到に準備してきたのが急にばかばかしくなった。

だがこの経験はぼくに大切なことを教えてくれた。
真のエロとは自分の頭の中にあるのだ、と。

2019年2月19日火曜日

【読書感想文】福田 ますみ『モンスターマザー』

モンスターマザー

長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い 

福田 ますみ

内容(e-honより)
不登校の男子高校生が久々の登校を目前にして自殺する事件が発生した。かねてから学校の責任を異常ともいえる執念で追及していた母親は、校長を殺人罪で刑事告訴する。弁護士、県会議員、マスコミも加わっての執拗な攻勢を前に、崩壊寸前まで追い込まれる高校側。だが教師たちは真実を求め、反撃に転じる。そして裁判で次々明らかになる驚愕の真実。恐怖の隣人を描いた戦慄のノンフィクション。

『でっちあげ』の作者による骨太のノンフィクション。
『でっちあげ』では、福岡「殺人教師」事件を取り扱っていた。小学校教師が児童をいじめていたとしてセンセーショナルに報道されたが、結局その"犯行"のほとんどが虚言癖のある母親によるでっちあげだった、というものだった。

『モンスターマザー』も構図は似ている。
男子高校生が家出をくりかえし、やがて自殺。母親は、男子高校生が所属していたバレー部内のいじめが原因だと主張し、メディアも大きく報じた。母親に味方する地方議員、弁護士、ルポライターも現れ、彼らは県や校長や先輩生徒を相手どって訴訟。

ところが事態は急展開。
学校内でいじめがなかったこと、母親の常軌を逸した言動に男子生徒が困惑していたことについての証拠や証人が次々に現れ、学校側のほぼ全面的な勝訴となった。それどころか母親は逆に民事訴訟を受けて敗訴。母親の言うことを真に受けてまともな調査をせずに校長を殺人罪で告訴した弁護士は懲戒処分となった。
(Wikipedia)「丸子実業高校バレーボール部員自殺事件」

裁判では学校、校長、先輩生徒が勝訴したものの、多くの犠牲を強いられた。裁判には長い期間を要し、傷つけられた名誉は快復していない。
母親は賠償金を一銭も払っておらず、懲戒処分になった弁護士は裁判で命じられた謝罪広告を出していない。なんとも気の滅入る話だ。



この本にはほぼ学校側一方だけの話しか載っていないので鵜呑みにするのは危険だが(母親や弁護士がろくに取材に応じないのでしかたないのだが)、多くの証人の発言、客観的な事実を鑑みると、他人に対して攻撃的で平気で嘘をつく、相当問題の多い母親だったのだろう。
 まず学校側がさおりに対し、心労をかけたこと、担任の出欠誤認について謝罪し、話し合いの場の設定が遅くなったことも詫びた。そして校長が、持参した謝罪文をさおりに手渡した。
(中略)
 しかしさおりは、文面に目を通すなり、それを突き返した。
「この内容では不十分です。これでは話し合いには応じられません」
 そして、立花担任が自分の非を認めていること、校長・教頭の謝罪、県教委の教学指導課が子供を捜すことを最優先にせよと指導をしているにもかかわらず実行しなか出ったこと、捜索について保護者からの要望を断ったことなどを新たに謝罪文に加えて、午後6時までにメールで送ってほしいと要求した。
 それだけではない。
「担任を代えていただきたい、子供もそう願っている。でも、子供には直接聞いてもらいたくない。私の許可を必ず取ってください。子供は信頼していた先生に裏切られ恐怖の心でいます」
この一件だけ見ても、「クレームをつけることに慣れている」と感じる。
そういえば少し前に子どもを虐待死させたとして大きくニュースになっていた父親も、学校に対して謝罪文を要求していたらしい。
こうしたクレーマーはトラブル慣れ・裁判慣れしている上に基本的に他人と信頼関係を築くことができないので、「あのときこういったじゃないか!」という言質を取りたいのだろうな。

だが「ひどい母親もいるね」で片付けてしまっては、何の解決にもならない。また同じようなことがくりかえされるだけだ。平気で嘘をつく親、他人を攻撃することに一切のためらいを感じない親は一定数存在するのだから。

長野・丸子実業「いじめ自殺事件」が大きな問題になった原因のひとつは、母親に多くの支援者が集まったことだ。
地方議員、弁護士、ルポライターが母親の言い分を信じて事を大きくしたために風評被害は拡大した(しかも彼らの多くは何の謝罪もしていない)。

学生が自殺したと聞くと、我々はほとんど反射的に「子どもが自殺? いじめだな! 学校が隠蔽しようとしているな!」と思いこんでしまう。テレビも新聞もこのシナリオに従って報道する。もちろんそういうケースもあるが、ほとんどはそんな単純な理由で人は死なない。親やきょうだいや交友関係や読んだ本や遺伝的気質や、いろんな影響を受けているはずだ。
けれどぼくらはわかりやすいストーリーが大好きだ。
「子どもを亡くしたかわいそうな母親 VS 事実をもみ消そうとする冷酷な学校」というわかりやすい筋書きを思いえがいてしまう。
 本書の事件が起きたのは2005年、『でっちあげ』の事件が起きたのは2003年である。当時も今も、学校現場でのいじめを苦にした青少年の痛ましい自殺は後を絶たず、深刻な社会問題になっている。マスコミが「いじめ自殺」を大きく取り上げるのは、いじめの卑劣さへの憤りが根底にあるにしても、一にも二にも、世間の耳目を引く恰好のネタであるがゆえだ。
 だからこそ、報道はヒートアップし、いじめ自殺に関する多くのレポートが生まれた。
 しかし、それらはいずれも、教師や学校、教育委員会を加害者として糾弾している。
 いじめ被害者の訴えを無視して適切な指導を行わず、結果的に被害者を自殺に追い込んだ教師。いじめをあくまで隠蔽しようとする、姑息で事なかれ主義の学校や教育委員会。
 要するに、子供や保護者は圧倒的に善であり弱者であり、それに対して学校は、明力な子供や保護者を抑圧する権力者として描かれている。
 きわめて単純な二項対立である。こんなにきれいに正と邪を色分けできる現実なんてあるのだろうかと首を傾げてしまう。
インターネットで、この事件について検索してみた。最近のものに関してはこの本の感想が多いが、十年ほど前のサイトやブログを見ると、ほとんどが「なんてひどい学校だ!」と憤る声ばかりだ(そして書きっぱなしで訂正も反省もない)。
先入観なしにものを見ることがいかにむずかしいか、教えてくれる。

母親を支援していた人も、学校側を中傷していた人も、学校を糾弾した議員も、きっと善意でやっていたのだろう。「かわいそうな被害者を支援するすてきなあたし」に酔っていたのだろう。だからこそ真相に気づきにくくなるし、気づいた後でも己の過ちを認められない。
たぶん、その人たちの大半は反省などしていないだろう。そしてまた同じようなことをくりかえすだろう。

自分も、タイミング次第ではそちら側にいっていただろう、という気もする。ぼくだって、高校生が自殺したというニュースを見たらまずはいじめじゃないか、学校に責任があるんじゃないか、と考えてしまう。ただぼくには行動力がないから何もしないだけで。

善意の人というのはおそろしい。
(ただし弁護士と医師の罪はきわめて重い。弁護士は少し調査すればわかることを調べずに思いこみだけで告訴しているし、医師は言われるがままに適当な診断書を書いている)



ところでこの本、読み物としてはすばらしい本なんだけど、ノンフィクションとしてみると危うさも感じてしまう。

学校側にしか取材できなかったというのもあるんだけど、あまりにも一方的な視点。おまけに学校側の人物に肩入れしすぎ。

全面的に学校側・教師の対応が正しかったかのように書いているが、ぼくから見ると学校の初期対応も最善のものではなかったように思う(学校側に自殺の責任があるとは思わないが、もっといい対応はあったんじゃないかな)。

教師たちの大きな問題にしたくない、警察沙汰にしたくないという思いのせいで(それは保身というより生徒のためだったかもしれないが)事が大きくなってしまった。

「学校の中のことは学校内で解決」というのは小さな問題ならうまくいくかもしれないが、悪質クレーマーのような悪意ある破壊者がやってきたときにまるで歯が立たない。
情報発信手段の向上などで、学校の問題を内部で閉じこめておくことはむずかしい時代になった。
早めに問題を外に出して専門家に介入してもらうことが、学校にとっても生徒や保護者にとってもいいはずだ。

『モンスターマザー』を読んでも「じゃあまたこういう親が現れたらどうしたらいいの」という問いには答えられない。
ひどい親とひどい弁護士がいたんですよ、だけではなく、どう対応すればよいかという視点もあればなおよかったように思う。



この本が特にノンフィクションとして惜しいと感じるのは、著者が学校側の正しさを伝えようとするあまり、「教育熱心な先生だった」とか「生徒の死に心から胸を痛めている」といったような、踏みこみすぎた描写をくりかえしているところだ。
そんなのは客観的に判断できるようなものじゃないのでなんとでも書ける。主観と事実がごちゃまぜになっているので、かえって嘘くさく感じてしまう。

ショッキングな事件だからこそ、事実だけを冷静に積みかさねてほしい。
他人の感情を勝手に推測しないでほしい。
どうしても気持ちを書きたいのであれば、作者の主観だということをはっきりさせてほしい。
学校側の人たちに感情移入してしまう気持ちはわかるけど、それは読者がやることであって、書き手はもっと突きはなした書き方をしないと。

事実に頼らず感情を揺さぶるような書き方をして同情を集めようとするって、それって『モンスターマザー』の母親がやってることと同じじゃないの?

せっかくいいノンフィクションなのに、変に説得力を持たせようとした結果かえって説得力がなくなってるの、もったいないなあ。

2019年2月18日月曜日

【読書感想文】時代劇=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』

あんちゃん

山本 周五郎

内容(e-honより)
妹に対して道ならぬ行為をはたらき、それを悔いてグレていった兄の心の軌跡と、思いがけぬ結末を描く『あんちゃん』。世継ぎのいない武家の習いとして、女であるにもかかわらず男だと偽って育てられた者の悲劇を追った『菊千代抄』。ほかに『思い違い物語』『七日七夜』『ひとでなし』など、人間をつき動かす最も奥深い心理と生理に分け入り、人間関係の不思議さを凝視した秀作八編を収録。
時代小説ってあんまり読んだことがなかったんだけど、そうか時代劇ってファンタジーなのか。
山本周五郎『あんちゃん』を読んでそう思った。

小説の名手と呼ばれる人の作品集だけあって、どの話もよくできている。人情味や心の機微が丁寧に描かれている。とはいえストーリー自体は無茶なものが多い。

ピンチを救ってくれた人が生き別れた父親で……とか、窮地で助けてくれたのはあのとき殺したはずの相手だった……とか、「ありえねえよ!」と言いたくなるような展開が続く。
まあフィクションに現実離れしてるとかツッコミを入れるのは野暮だけど、それにしたって話ができすぎじゃありませんか。

しかしそれでも小説として成立しているのは「よく知らない昔の話だから」だ。
これが現代日本を舞台としていたら「こんな都合よくいくかいな」「どんだけ狭い世界を生きとんねん」というツッコミの嵐だろう。

しかし江戸時代を舞台にすることで、「今ならありえないけど昔だったらこういうこともあったのかもしれないな」とか「当時は今よりずっと世間が狭かったのかもしれないな」とか思える。
わざわざ時代小説を書くのは、「読者がよく知らない世界」という舞台装置がほしいからなんだろう。

そういう点では、時代劇というのはファンタジー、もっというとライトノベルといっていいかもしれない。
官能小説は「ある日親が高校生の自分を置いて海外に行ってしまい大きな屋敷に一人ぼっち」「手違いで女子寮に入ることになってしまったぼくが……」みたいなありえない導入ではじまることが多い。ありえない設定だが、"エロ" という大目的があるためリアリティは無視される。
時代小説や時代劇もそれに近い。
「拙者剣の腕は立つが欲はないので人前ではひけらかさない。だがおなごを守るためなら……」とか「喧嘩が強くて庶民の感覚も持った正義感の強いお奉行様が街に出て……」みたいな中学生の妄想をそれなりの形に見せてくれるのが "江戸時代" という舞台なのだ。

ライトノベル作家になりたい人は、時代小説を書くといいかもしれないね。
一見正反対のようで、作者や読者の願望投影という点では実はすごく近いところにあるジャンルだから。
おまけに文芸界では高く評価してもらえるし。

妄想実現ファンタジーという点では『剣豪・島耕作』とか『町奉行・島耕作』とかもいいね。
うん、容易に想像できる!

2019年2月15日金曜日

洞口さんじゃがいもをむく


じゃあじゃがいもの皮をむく仕事でもすっかってことで応募即採用。世にじゃがいものむき手は足りていないらしい。

あたしのほかに七人のおばちゃんがいて、八人で理科実験室にあったような大机ひとつを囲んでじゃがいもをむく。
特にノルマとかはなくて、おしゃべりをしながら皮をむいてゆく。むいた皮をどんどん床に捨ててゆくのが愉しい。床にごみを落としちゃだめって言われて育ってきたから、ぽいぽいごみを投げていいってのが新鮮。
足もとが冷えることを除けばいい職場。こたつに入ってやったら最高なんだけどな。でもそうすると布団が汚れるから皮を放りなげるわけにいかないもんな。あと眠っちゃうし。

おばちゃん七人衆は圧倒的に速い。年の甲っていうと怒られそうだから経験年数の差っていっておくけど、巧みに包丁を使ってすらすらむいていく。バナナの皮をむくぐらいのスピード。あんなに鮮やかにむかれたら、むかれてる側のじゃがいもだって気持ちよかろうってなもんよ。

それに比べたらあたしはぜんぜん。おばちゃんが五個むいてるうちにやっと一個むくぐらい。
気のいいおばちゃんたちだから誰も責めるようなことは言わないけど、自分の皮むき偏差値三十五ぐらいなのは自分がいちばんよくわかるから、足引っぱって申し訳ない気持ちになる。
なんとかならんもんかねってワカさんに相談したらピーラー使えばいいじゃんってあっさり名回答。はっはーんこれができるホモサピエンスってやつか。ツールで解決。
あたしなんかピーラーって言葉すら知らなくて、皮むき器って言われてようやっと形状思いえがけたぐらいだからその差たるや。

ということで百均に行ってピーラー購入。
ピーラーだけ買うのもなんか恥ずかしかったからミルク味の飴ちゃんもいっしょに購入。七人のおばちゃんに貢ぐ用。

しかしまさかピーラーが職場の断絶を生むなんてね。
あたしが持ってきたピーラーを見ておっそれいいじゃんあたしも使おう派ともう慣れちゃったし包丁のほうが早いよ派にすっぱり分かれてたちまち勢力は四対四。
さらにピーラー使おう派も、百均のじゃものたりないからいいやつ買おう派と自腹切ってまで高いピーラー買うほどじゃないよ百均で十分よね派で二対二に分裂した(あたしは百均派)。
まだ分かれるのかなとおもったけど二対二になるとそれ以上は分裂しなかった。二人以上いないと派閥にはならないんだー。

べつに派閥ができたからっていがみあったり敵陣営に火矢を投げこんだりとかするわけじゃないんだけど、ツールが変わったことでなんとなく溝ができたような気がする。
あれ、なんかひび入ってない? 気のせいかとおもったけど、前は日によってばらばらだった座る場所も包丁派は包丁派、高級ピーラーは高級ピーラーで固まって座ることが多くなった。知らず知らずのうちに断絶が生じているのだ。

責任を感じた。
あたしが直接七人の中を切り裂いたわけじゃないけどあたしのピーラーが切り裂いたのだ。いや、ピーラーだから七人の仲をむいたというべきか。
なんておそろしいものを生みだしてしまったんだろう。原爆開発のマンハッタン計画に参加した科学者たちの気持ちが痛いほどわかる。

この状況を打破するアイテムはないかとリュックの中をほじくりかえしてみた。ツールにはツール。
ミルク飴が出てきた。おお。百均で買ったのを忘れていた。
ミルク飴をおばちゃん七人衆の口に押しこむとあらふしぎ。なんとなく顔が柔和になって以前のようにおばちゃん間の会話がはずみはじめたじゃないか。

やっぱりミルクよね。ミルク最強。マンハッタン計画、ミルクの前に敗れたり。

まあこのミルク飴のせいでその数週間後におばちゃんのトイレ立てこもり事件が起きるわけだけど、それはまたべつのお話。