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読書感想文リスト
中国とはどういう国なのかを問いなおす鼎談。
2013年刊行だが、ここ数年のトレンドなどの話はほとんどなく、もっと長期的・根本的な話をしているので内容は古びていない。
日本人は、中国に対してどういう印象を持っているだろうか。
ぼくは二度中国に行ったことがある。どちらも二十年ぐらい前。一度目は大学への短期留学で一ヶ月北京に。もう一度はその翌年に旅行で一ヶ月かけて天津・北京・桂林・広州・上海を転々と。
二度も行ったぐらいだから中国のことは好きだ。当時の中国は北京でもまだまだ地方都市という感じで、一本裏通りに入れば下町っぽかった。いろんなものがいいかげんで、それがぼくにとっては心地良かった。今はまったく違うのだろうが(二十年前でも上海はすでに大都会だった)。
いろんな面で日本とはちがうルールで動いている国だとおもったが、それこそが旅の醍醐味だ。ぼくにとってはおもしろいことばかりだった。一ヶ月の滞在期間につけていた日記はあれこれ書きすぎて本一冊分ぐらいの分量になった。
ただそれはぼくがお客さんとして「好きで中国を訪問した人」という立場だったから寛容になれた(というより自分が合わせるしかない)だけで、逆に「日本にやってきた中国人と深くかかわることになった人」や「仕事で嫌でも中国とかかわらざるをえなくなった人」であればまたちがった印象を持つのだろう。
『おどろきの中国』を読むと、中国が日本と異なるのはもちろん、欧米諸国のどこともまったく異なる国であることに気づかされる。
なるほど、中国はEUのようなものと考えたほうがすんなり理解できるのか。たしかに他民族だし話し言葉もちがうしめちゃくちゃ広いし人口も多いし、本来なら複数の国家であるほうが自然なのだ。
だが地形的に中国は戦争をしやすい。放っておいたらはてしなく戦争状態になってしまう。だから戦争をしなくて済むようにひとつの国としてまとまった……。
真偽は別にしておもしろい考え方だ。戦争をしやすい環境だからこそ戦争を避けようとする意思が強くなるというのはその通りかもしれない。
ぼくは中国史にくわしくないけど、たしかに中国って王朝の交代は何度も起こっているけど、国を分けるような内戦はそんなに起こってないよね(だよね?)。三国志とかの時代までさかのぼらないといけないのでは(あってる?)。
そういえば西洋の国が「アメリカ人であること」や「フランス人であること」に誇りを持っているように、中国人って「中国人であること」にあまり誇りを持っているように見えない。すごく主観的な話だけど。
スポーツでも、中国が強いのって体操とか卓球とか個人競技のイメージ。
日本人が「自分はアジア人だ」とおもっていないように、中国人も中国人としての意識は希薄なのかもしれない。
領土があって国民があって主権があって、というのが西洋文化の主権国家だけど、「中国」はもっとファジーなものなんだろうな。厳密に線引きできるものではなく、中央から離れるにつれてだんだん「中国」が薄くなってゆくイメージ。
「近所」みたいなものかもしれない。ほら、近所ってだいたいのイメージはできるけど明確な境界線はないじゃない。そんな感じ。
漢字の話もおもしろかった。
漢字って数が多くておぼえるの大変だから学習する上では不利だと言われがちだけど(実際そうなんだけど)、でも習得してしまえば読んで意味をつかむのが速いというメリットがある。上級者向けの文字だ。
アルファベットは庶民の文字で漢字はエリートのための文字なんだろうね。
漢字があったから中国はあの広大な国土を統一できた(表意文字じゃないので話し言葉が違っていても漢字を知っていれば意味が通じる)。また漢字がエリート向けの漢字だから、中国では「政治は一部のエリートがおこなうもの。庶民は政治にはタッチしない。ただし目に余る暴政がおこなわれたら権力は転覆させられる」という考えが根付いているという話も。
なるほどねー。たしかにそんな風にも見える。
ぼくらは「民主主義はいいものだ」という教育を受けて育ったので「ひとりひとりが政治に参加することが大切だ」という意識を持っているけど、べつにそれって普遍の真理じゃないよね。歴史を考えればそうじゃない社会のほうが圧倒的に多いわけで。
中国がヨーロッパの主権国家とは別の考え方で成り立っているとおもえば、いろんなことが理解しやすくなる。
欧米諸国からすると「中国が別の国であるチベットに攻め込んだ」という話だけど、中国からすると「あそこはうちの縄張りなんだから攻め込むも何も、うちが管理するのがあたりまえだろ」という感覚なのかもしれない。
たとえは悪いけど、ヤクザがみかじめ料をもらって地域のごたごたを解決していたのに、急に別の地域からやってきたやつらが「それって違法ですよね」と文句を言ってきた……みたいなことか。こっちはこっちのやり方でそれなりに秩序を保っていたのに急に法律だとか言われても……。
歴史的には日本も朝鮮もずっと中国の子分みたいなポジションだったのに、急にヨーロッパやアメリカの兄貴に近づいて「もうこっちはこっちでやらせてもらいます。お互い対等でいきましょう」と言われたら、そりゃ中国からしたらおもしろくないわなあ。
ちょっと話がそれるけど、ロシアもわりとこの感覚に近い気がする。ソ連時代を引きずっているというか「ワシはこの地域のボスやで」という感覚があって、それがウクライナ侵攻にもつながっているんじゃないかな。
中国共産党のトップや人民がどんなふうに考えているかほんとのところはわからないけど、「ひょっとしたらこんなふうに見えているんじゃないか」と想像するのには役立つ本だった。
西洋の考え方をしているかぎりは中国のことを理解できないんだろうな、という気がする。
小中学生のときよくあったこと。
クラスのおもしろいグループが、内輪でおもしろがるフレーズやノリを流行らせる
→ それを見聞きした、おもしろくない連中が真似をしだす
→ おもしろくないやつらが使うとおもしろくなくなるので、先駆者たちはもう使わなくなる
→ おもしろくない人たちだけが使うダサい行為になる。やがてそれも廃れる。
大人の世界でもやっぱりよく見られる。
「流行語を中高年が使うようになったらもう終わり」ってやつだ。
ネットミームなんかでもよくある。
最初に使う人はセンスのいい人。それを見ておもしろがって一緒になって使うのも、センスのいい人。いってみれば一次コピー。
だが一次コピーを見てさらに真似をする(二次コピー)人たちはもうセンスがない。こうなるともうオリジナルが持っていたおもしろさはほとんどなくなっている。
最近の例だと「地味ハロウィン」がそうだ。十年ぐらい前、まだハロウィンといえばドン・キホーテの衣装を着て騒ぐ程度だった時代に、「シュレッダーを交換してくれる人」とかをやりはじめたのはセンスのいい人だ。その周囲にいた、それをおもしろがる人たちもやはり感度の高い人たちだ。
だが地味ハロウィンが毎年恒例のイベントになってから入ってくる人たちはもうおもしろくない人たち。こういうイベントがおもしろいのはせいぜい二回目ぐらいまで。「まだ誰もおもしろがっていないことをおもしろがる人たち」の手を離れて、あとは「既におもしろいとされているものに乗っかりたい人たち」のものになってしまう。
悲しいことだ。
でも何かがメジャーになるために必要なのは「既におもしろいとされているものに乗っかりたい人たち」なのだからしかたがない。
元トレーダーによる半生記。
貧しい出自だったが数学的才能を武器に経済トレーダーになった著者はほどなくして大金を動かし、膨大なボーナスを稼ぐようになる。
だが自分のやっていることに虚しさを感じるようになり、会社に対して退職を申し出る。だが辞めさせたくない会社側はあの手この手で退職を妨害してくる……。
正直、かなり読みづらい。特に、同僚にこんなやつがいた、こんなやつもいた、上司はこんなやつだった……って書かれるのが。自伝の登場人物って書いている当人にとっては知ってる人だから細かく説明しなくていいし「あいつがこんなことをしたんだよ!」ってのがおもしろいエピソードになるけど、赤の他人からすると知らんやつでしかないからな。毎回ちゃんと説明しれないと「こいつどこのどいつだっけ」ってなるし、知らんやつのおもしろエピソードなんてたいていおもしろくないしね。
あとトレーディング業務の話もわかりづらい。これはぼくに金融の知識がないからかもしれないけど……。
ただ著者がだんだん世の中の矛盾に気づいてだんだんやる気を失っていく過程は十分に伝わってきた。
とんでもない大金をぽんと動かす。増えれば多少はうれしいが、百ドル儲けるのも一万ドル儲けるのも大して変わらない。損したって大したダメージにならない。感覚がおかしくなってくる。
ぼくも以前大きな金額を扱う仕事をしていた。広告費として月に数千万円を自由に使える立場にいたのだ(自由といっても前例から大きくはずれたことはできないけれど)。
最初は1日数万円を使うだけでも「もし失敗したら数万円の損失、自分の日当よりもずっと多い額」とびびっていたけど、だんだん麻痺してきて「百万円使ってみたけどイマイチだったな。ま、次行くか」ぐらいの気持ちになってくる。ただの画面上の数字でしかない。数千万といったらひとりの人間の人生を狂わせるぐらいの金額ということを忘れてしまう。
まあぼくの場合は給与が大したことなかったので、日常的な金銭感覚はそんなに影響を受けなかったけど、著者の場合は相当な額のボーナス(たぶんふつうの人の生涯賃金ぐらい)をもらっていたみたいなので、いろんな感覚が狂ってしまったのだろう。
トレーディングなんてまともな感覚を持っていたらやってられない。ぼくが投資信託をはじめたのは2010年頃。その少し後に東日本大震災が起こった。
ぼくは「これだけ大きな被害が出たら株価も下がっちゃうんだろうな」とおもいながら信託会社の管理画面を見て、驚いた。株価が上がっていたのだ。すごく。
えっ、なんで。そうおもった。経済的に大ダメージのはずなのに。
でも株価というのはそういうものなのだ。その後、コロナ禍でいろんな経済活動がストップしたり、外国で戦争が起きたり、そうした「悪いこと」が起こるたびに株価は上がった。
なんなんだこれは。株価ってのは経済の状態を反映するものじゃないのか。
詳しい仕組みはいまだによくわかっていないけど、社会が悪くなるほど株価が上がる傾向にあるということはぼくにもわかってきた。地震があると復興に予算が投じられるから、とか、コロナ禍でお金を使うところがなくなったから株式市場にマネーが流れ込んだから、とか、とにかくそういうことらしい。
多くの人が命を落としたり、失業したりすると誰かが儲ける。なんていやな世界だ。
『トレーディング・ゲーム』の著者も、世界が悪くなる方に賭けて利益を上げている。
こんなことをやっていたら気が変になるに決まっている。まともな感覚で続けられる仕事じゃない。
著者はトレーディングの世界に嫌気がさし、会社を辞めて格差問題に取り組むボランティア団体のために活動することを決める。
だが会社は退職を認めない。金のなる木を手放したくないのだ。未払いのボーナスを人質にとり、裁判を起こすと脅しをかけ、あの手この手で辞意を翻させようとする。
そんなことをして会社に恨みを持つ社員を残すほうがマイナスだろう、とおもうのだが……。他の社員への見せしめのためなんだろうか。それにしたってなあ。「辞めたら裁判起こすぞ」ってむりやり残留させた社員に、大金を預けてトレードをさせるのだろうか。怖すぎるだろ。
つくづくよくわからない世界だ。
まあ頭がおかしくなった人たちが頭のおかしいことをやるのは勝手にしてくれという話なのだが、問題はその人たちのせいで株価が大きく変動したり不動産が高騰したり多くの人が失業したり、そのくせ自分たちだけは倒産しそうになったら税金によって助けられたりすることだ。
自由主義経済ってクソだな、という感覚を改めて強くさせてくれる本だった。
かといって他にどんなやりかたがいいかわからないんだけど。
下っ端やくざを主人公とした小説。
強引な取り立てをおこない、拳銃や覚醒剤を扱い、ときには対立する組とも抗争をくりひろげる……という典型的なヤクザ。2011年刊行なのでこの頃はまだこういうヤクザもいたのかもしれないが、今となっては絶滅寸前だろう。少なくとも今のヤクザはこんなわかりやすい立ち居振る舞いをしていないだろう。
下っ端やくざとして泥くさい仕事に従事していた主人公・純平は、親分から「対立組の幹部の命を奪ってこい」と命じられる。いわゆる鉄砲玉というやつだ。純平は名を上げるチャンスととらえ、ふたつ返事で引き受ける。
知り合いに頼まれたトラブル解決のために暴力事件を起こし、逃げるどころかさらに喧嘩を売り……ととにかく無鉄砲。うむ、まったく共感できなくておもしろい。
ほんと、何から何まで共感できないんだよな。幸いやくざとか不良とかとは無縁な人生を歩んできたので、「メンツのためならどれだけ不利益を被ってもかまわない」という生き方にはただただあきれるばかりだ。かっとなって損とわかっていることをやってしまうことは誰しもあるだろうけど、それにしたって限度がある。
まして鉄砲玉なんて愚の骨頂。何の恨みもない相手を殺すなんて。それで「男が上がる」と当人は考えているのだろうが、どう考えたって周囲はそう見てくれない。「おだてられてうまいこと利用されたばか」でしかない。
出会った人たちの助言などから純平自身も、徐々に己の本当の立場に気づきはじめる。ただ利用されているだけ、使い捨ての駒にすぎない、鉄砲玉なんかやっても損しかない、と。
だが引けない。自分でも無駄なことだとわかっているが、それでも止まれない。
この、わかっていて泥沼に足を踏み入れていく流れの書き方がうまい。人生にはこういうことってある。そっちはだめだとわかっているのに吸い寄せられるように足が向かってしまうことって。そもそも他人の忠告を聞き入れて己のあやまちを認め方向を正せるような人間なら最初からやくざになんてなってないもんな。
次々にいろんなことが起こり、息もつかせぬ展開で惹きつける。登場人物も多いが、順に出てくるのですっきりまとまっている。奥田英朗さんはほんとに小説巧者だ。
十分に余韻を持たせたラストも個人的に好き。
大人からしたらアホとしかおもえない純平だけど、でも若さってこういうことだよなあ。
作中で紹介されている、明治時代の評論家である斎藤緑雨の言葉。
誰かを殺す人間は、殺される人間より価値のない人間である。たしかにね。
名もない市民が大統領を暗殺しても、大統領が一市民を暗殺することはない。なぜならその価値がないから。
相手が、自分にとって脅威であったり、はるかに強い力を持っていたりして、暴力以外にそれをかわす方法がないときに殺すわけだ。殺すということは相手のほうが書く上であることを認めることだ。
ふうむ。もし誰かを殺したくなったらこれを思いだそう。