2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

読書感想文を書いたり、エッセイを書いたりしています(読書感想文 五段)。



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2026年6月4日木曜日

【読書感想文】乙一『暗いところで待ち合わせ』 / 視覚にも聴覚にもよらないコミュニケーション

暗いところで待ち合わせ

乙一

内容(e-honより)
視力をなくし、独り静かに暮らすミチル。職場の人間関係に悩むアキヒロ。駅のホームで起きた殺人事件が、寂しい二人を引き合わせた。犯人として追われるアキヒロは、ミチルの家へ逃げ込み、居間の隅にうずくまる。他人の気配に怯えるミチルは、身を守るため、知らない振りをしようと決める。奇妙な同棲生活が始まった―。書き下ろし小説。

 全盲の女がひとりで暮らす家に、殺人犯として追われる男が忍びこむ。見えない女と、見つかりたくない男。女は男の存在に気づくが、気づかぬふりをしたまま静かな同棲生活を続ける……。



(以下、少しネタバレを含みます)


 いくら全盲だからって、同じ家、それも同じ部屋に何日も別人がいて気づかないのは無理があるだろう。

 完全に音を出さないのは不可能だし、温度とかにおいとか空気の流れとかも伝わる。視覚以外の情報に関しては全盲で他の感覚が鋭敏になっている人のほうが気づきやすいかもしれない。

 書いてないけどトイレどうしてたのよ。仮に夜中に行くとしても、トイレを流す音は相当でかいよ。流さなければそれはそれでばれるし。

「使ってない部屋に住みつく」とか「屋根裏に居つく」ならまだしも(昔屋根裏に住んでいた人がいたというニュースを見たことがある)、「住人に気付かれずに同じ部屋に居続ける」は相当無理がある。


 というわけで、前半は「さすがにこれはないわ」と冷めた目で読んでいた。

 でも中盤、男がいることを女が確信するようになってからはわりと入りこめた。

 男の存在に女が気づき、女が気づいたことに男が気づく。それでもふたりは言葉を交わさない。だが無言のまま一緒に食事をとるようになる。

 昨夜の夕食は、向かい側の席でいっしょにシチューを味わっている他人がいるという以外に、何も変わっていない。静かだったし、何かが見えるわけでもない。それでも心の深いところに、不思議な安らぎを感じた。
 お互いの関係が微妙な均衡の上で成り立っているだけで、偶然、いっしょに食事をしているだけだということはわかっていた。
 言葉をかけることはできなかった。声を発しただけで崩れて消えてしまうような、危ういつながりしかないように思えていた。

 聴覚にも視覚にも頼らないコミュニケーション。ただ「ここに存在する」ことによるコミュニケーション。最も根源的で、シンプルだからこそ強力なコミュニケーション。


  いい友だちの条件って「話してて楽しい」とか「趣味が合う」とかいろいろあるけど、親友の条件は「何もしなくてもいい」だとおもうんだよね。

 なんとなく部屋に遊びに来る。だからといって何もしない。それぞれ漫画を読んだりギターを弾いたり、好き勝手なことをしている。でも間が持つ。「なんかあるかな。UNOあるけどやる?」とか気を遣う必要がない。

 何もしない、会話もない、それが苦にならない間柄こそが親友だとぼくはおもう。夫婦もやがてそうなる(そうでなかったらやってられない)。


『暗いところで待ち合わせ』で描かれる関係は、緊張感もあるのだけれど、同時に気の置けない親友同士のような居心地の良さも感じられる関係だった。



 言葉にしにくいけど、なんとなく心地の良さを漂わせている小説だった。

 終盤は種明かしのような展開があって物語としてのおもしろさもあるのだけれど、どっちかっていうとストーリーよりも雰囲気が印象に残る小説だった。


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2026年6月2日火曜日

【読書感想文】アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』 / 「遊んでほしいワン」とは言わない

まじめに動物の言語を考えてみた

アリク・カーシェンバウム(著)  的場 知之(訳)

内容(e-honより)
動物にはヒトと同様に言語はあるのだろうか。では、何のために動物はしゃべるのだろうか。ヒトはどうして言語を使うようになったのか。


 ヒト以外の動物は言語(この本での言語とは、ボディランゲージなどは除く音声による言語)を持つのか。あるとしたらどのようなものなのか。言語を持つために必要な条件は何なのか。そもそも言語とは何なのか。

 オオカミ、イルカ、ヨウム(オウム)、ハイラックス、テナガザル、チンパンジーなどの動物の言語コミュニケーションを通して、まじめに動物の言語を考えた本。


 タイトルにあるように、ほんとにまじめ。

 ほとんどの人は「動物にも言語があってほしい」と思っているはず。動物語翻訳機みたいなものが発明されてペットの犬や猫と会話をすることができたらいいな、と。

 しかし著者の立場はあくまで冷静。「動物と会話したい」人たちに冷や水を浴びせるように、動物の言語は人間語に翻訳できるようなものではないと言いつづける。

「動物たちは鳴き声を使ってこんなことを言ってるんですよ!」とした方が話としてはおもしろいが、おもしろさよりも正確さのほうを優先している。少々堅苦しすぎるほどに。



 イルカは「自分自身の名前」を持っていて音声として発する、という話。

 イルカのホイッスルについて、確実にわかっていることが少なくともひとつある。イルカの各個体は、自分自身の名前を表すひとつの特別なホイッスルを発するのだ。
 この事実だけでも圧倒的な衝撃だ。これまでにわかっているかぎり、ヒトとイルカのほかに、自然状態で通常のコミュニケーションの一環として、自分に名前をつける動物はいない。イヌに自分の名前を覚えさせることはできる。他個体の声からその主が誰かを認識できる動物はたくさんいて、かれらは声を個体の「シグネチャー」として利用する。だが、自分自身を表すものとして独自の音の配列をつくりだすというのは、これらとは深層の部分で、本質的に異なる行動だ。しかもこの配列は、他個体にも認知され、使用される。かれらは本当に、自分自身をほかのイルカとは異なる「個」として理解していて、こうした理解をどの個体も等しくもっているのだろうか?どんなに疑り深い人でも、こうした可能性を考えずにはいられないはずだ。
 
 (中略)
 
 なぜ動物のなかで唯一イルカだけが自分に名前をつけるのかを説明するのは難しい。だが、答えは間違いなくかれらの社会構造にあるはずだ。世界にはたくさんの種のイルカがいるが、もっとも研究が進んでいるハンドウイルカとタイセイヨウマダライルカは、いずれも「離合集散型」と呼ばれる社会のなかで生きている。これは、ある個体と顔見知りの個体すべてからなる関係の輪の大きさはある程度固定的だが、関係の輪そのものは流動的である、という意味だ。食料や配偶相手など、そのときどきでどれだけ資源が手に入るかによって、大きな集団は分裂し、融合し、また分裂する。このような場合、ラジャに最後に会ってからずいぶんたつとしても、もし前回彼と協力してうまくことを運べたなら、ラジャのことを覚えておくほうが賢明だ。逆に、心底嫌いな相手のことも忘れないほうがいい。いずれにせよ、誰が誰かを知っていて損はない。

 自分自身の名前を持つということは、自分が他者からどう認知されるかをある程度わかっているということだろう。

「相手はおれのことをわからないかもしれない。でもおれと会ったことのあるやつならこの名前を聞けば思いだすよね!」という認知があるからこそ(もちろん明確に意図しているわけではないだろうが)自分の名前を発するわけだ。

「他のイルカは自分とは異なる認知を持つ個体である」と理解していないと、名前を名乗る必要がないもんね。その理解がなければ、仮に人間の持つような言語があったとしても「腹減った! 疲れた! 休もう!」みたいな感じになるだろう(主語は常に自分なので)。


 自分自身の名前を使うなんてやっぱりイルカって賢いね、とおもうが、話はそう単純ではない。

また、かれらにとってコミュニケーションをとる際に個体のアイデンティティがなぜそこまで重要なのかも、おおむね明らかになっている。広大な海のなかで、イルカは小グループをつくって生活しているが、グループのメンバーは顔見知りの個体リスト全体のごく一部でしかない。今週はこのメンバーで移動したり魚を獲ったりするけれど、来月、あるいは来年になれば、グループ構成はまったく違うだろう。かれらは付き合う相手を常に流動的に変える。したがって、他者の個体情報敵か味方か、家族か赤の他人かを認識することは決定的に重要だ。これはけっして簡単なことではなく、洗練されたコミュニケーションに加えて、たくさんの(おそらくは数十頭以上の)仲間のことを何年も何十年も覚えていられる、高度に発達した脳が必要だ。

 グループの構成員がたびたび変わるからこそ、名前が必要になるのだ。タコも知能が高いとされているが、タコはイルカのようにグループを作らないので名前を持つ必要がない。またオオカミのようにいつも決まったメンバーで群れをつくる動物も「ほら、おれだよ! 以前会った○○だよ!」と名乗る必要がない。

 言語を使うために必要なのは「知能」「発声器官」だけでなく、「そもそも言語を必要とするような生活をしているか」も重要なのだ。



 ヒトと動物が言語によってコミュニケーションをとるというのは夢のような話だが、実際にそれをおこなっている動物がいる。しかも、ヒトによって訓練されたわけでもないのに。

 ここで、ヒトと動物のコミュニケーションにおける例外中の例外を紹介しよう。ノドグロミツオシエはサハラ以南アフリカに広く分布する小さな鳥だ。外見こそ地味だが、この鳥は野生で自由生活を送りながら、ヒトとの驚異の協力関係を築きあげた。家畜化されたわけでも、飼育されたわけでも、訓練されたわけでもないのに、かれらはヒトがもつ、ハチの巣を壊してこじ開けるという便利な能力に気づき、さらにはヒトが蜂蜜を目当てにハチの巣を見つけて壊したがっていることを学習した。だが、僕たちヒトは広大なサバンナでハチの巣を見つけるのがあまり上手くない。一方、毎日木々の間を飛び回っているミツオシエには、おいしい幼虫がひしめく魅惑の食料庫に出くわすチャンスが豊富にある。そんなわけで、ミツオシエは名前のとおり、ヒトを蜂蜜のありかに導く。東アフリカの多くの部族は、ミツオシエとの間で互恵的な協力関係を保ち、導く側と導かれる側で双方が理解できる語彙を形成した。各部族はそれぞれに異なる口笛やその他の音声レパートリーを生み出し、その意味はヒトと鳥の間で共有されている。ミツオシエには、「ついてこい! ハチの巣を見つけたぞ!」を意味する決まった音声があり、現地部族にもまた蜂蜜採集に出かけたいときにミツオシエを呼ぶための、トリルとグラントを組み合わせた特別な音声がある。

 ミツオシエはヒトに蜂の巣のありかを教え、ヒトは蜂の巣を壊すことでミツオシエが蜂の幼虫を食べる機会を与える。見事な共生関係だ。その関係が言語によって支えられているのが興味深い。

 ヒトが利用している動物はいろいろいるけど、いちばん巧みに言語を使ってコミュニケーションをとっているのが、家畜でもペットでも類人猿でもなく野鳥だというのは意外。

 しかも対等な関係なのがすごい。ほとんどの家畜やペットって、人間からしたら「いたら便利だけどいなくてもなんとかなる」だが、動物側からしたら「ヒトに見捨てられたら生きていけない」場合が多い(その最たるものがカイコガ)。でもミツオシエはヒトがいたほうが便利だが、ヒトなしでも生きていける。ミツオシエこそが唯一のヒトの友だちと呼ぶにふさわしい動物かもしれない。



 動物の“言語”を理解する上で重要なのは、動物はヒトとはちがうし、ヒトになりたいわけでもないということを理解することだという。

 コミュニケーションでも同じことだ。動物が僕たちと同じ装備で同じ耳、同じ眼、同じ脳で――コミュニケーションをとっていると想像しつづけているかぎり、かれらの世界に踏み込むことはできず、かれらが言っていることを理解できない。けれども、僕たちの外へ、現代の人間社会の外へ踏み出して、動物たちのように物事を見て、聞いて、考えるのは、じつはそれほど難しくない。(中略)僕たちが苦戦する理由は、何よりもまず、僕たちがかれらの世界に住んでいないからだ。ものの見え方や聞こえ方がかれらと違うというのもあるが、それ以上に、僕たちはかれらのありのままの姿に目を凝らし、耳を傾けようとしていない。かれらと違って、僕たちの心配事は、食料を見つけ、捕食者を避け、配偶相手を惹きつけることではない。動物が探し求めているものに注目しなければ、かれらが何を話しているかは理解できない。動物たちを理解できないもうひとつの理由は、かれらに僕たちのようにふるまうことを期待しているせいだ。僕たちは、動物に人間らしさを求めがちだ。ペッのイヌやネコに語りかけるとき、僕たちはかれらに本気で自分のことをわかってほしいと願っている。かれらはある程度はわかってくれるが、このようなケースは例外だ。数千、数万年にわたる家畜化の過程で、動物とヒトの両方が、コミュニケーションの共通基盤を築くのに尽力してきたおかげなのだ。
 動物のありのままの姿に目を向け、かれらが暮らす世界のなかで、かれらの生活に密着して初めて、僕たちはかれらを理解できる。そうすればきっと、動物たちの現実が目に入り、かれらに言ってほしいことではなく、かれらが本当に言っていることが聞こえてくるはずだ。地球の生命の豊かな多様性を実感できる、じつに有意義なやり方だ。

 ぼくもいくつかの生き物を買ってきたからわかるけど、ついつい動物の中に「人間っぽい感情」を見いだしてしまうんだよね。愛情をもって観察するほど。

 イヌの動作を見て「しょんぼりしている」とか、ネコのしぐさから「放っておいてくれと言いたげだ」とか、ヒトの心理・行動を重ねあわせてしまう。

 だがヒト以外の動物は、「ヒトになれなかった動物」ではない。ヒトとはまったく異なる論理で動いているし、仮に彼らが言語のようなものを持つとしても、ヒトの言語とはまったく異なるものになるはずだ。少なくとも「遊んでほしいワン」とか「退屈だニャー」のような言語は持っていない(持てないのではなく、持つ必要がない)。


『まじめに動物の言語を考えてみた』でくりかえし語られるのは、動物の言語は(それがあるとして)人間の言葉のように単語に分解できるものではないということ。

 どっちかっていうと歌のほうが近いのかもしれない。より身体性を伴うし。


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2026年5月26日火曜日

【読書感想文】下川 裕治 仲村 清司『新書 沖縄読本』 / 諦観からくる明るさ

新書 沖縄読本

下川 裕治(編・著)  仲村 清司(編・著)

内容(Amazonより)
「癒し」イメージが先行するなか、長寿伝説の崩壊、格差の拡大、迷走する基地問題、サンゴを巡る島と本土のねじれなど、島は多くの問題で揺れている。 その一方でなぜ近年沖縄野球は強くなったのか、次々とメジャーの歌手を輩出する沖縄音楽の魅力の源泉とは。 沖縄ブームにも深く関わった著者たちが紡ぐ、沖縄の歴史といまを照らす21の物語。

 かつて沖縄を「心温かい人たちのいる南の楽園」として紹介する雑誌や本の出版に携わり、“沖縄ブーム”に一役買った著者たち。

 だがあたりまえだが実際の沖縄は楽園ではない。良いところと同じぐらい、あるいはそれ以上に、悪い部分もある。

 そんな沖縄の様々な面(主にネガティブな面)について、沖縄事情に明るいライターたちがつづった本。


 正直、いろんな人がいろんなテーマで書いているので散漫な印象だ。「あまり語られない沖縄の抱える問題」について書いてあるのかとおもいきや、沖縄の老舗ホテルがつぶれたとか、沖縄は野球熱が高いとか、琉球人を象った像がタイにあるとか、それがどうしたと言いたくなるような章もある。

「沖縄には鉄器が足りなかったから大規模農業ができず近くの人と助け合わなければならないので沖縄の人たちは温和な人柄になった」なんて話(司馬遼太郎が唱えた説)はおもしろかったが、ちょっと根拠があやふやすぎる。酒の場の話としてはいいんだけど。

 もうちょっとテーマを絞ってくれたほうが読みやすかったな。



 かつて「日本一長寿な都道府県」だった沖縄だが、県民の健康状況はどんどん悪くなっているそうだ。都道府県別肥満率はワースト1位に。

 原因のひとつが食文化のアメリカ化。かつては海藻などを豊富にとっていたことが健康につながっていたが、ファストフードやスパムなどを多く食べるようになり、健康状況は悪化の一途をたどっている。背景にはもちろん米軍基地の存在がある。

 それだけではない、経済的要因も大きい。

 大変ショッキングなことを述べるが、沖縄は男性の自殺率が全国平均をはるかに上回っていて、一九九五年の統計では全国二位。世代も二〇歳代から六〇歳代まで幅広い。厚生労働省の統計(二〇〇〇年度調査)で、男性の平均寿命が全国四位から二六位に転落したととは前述したが、当時、県が試算したところによると、自殺がなくなると平均寿命が〇・七七歳延びるとされた。沖縄は「癒しの島」「楽園の島」などとイメージされているが、実態はまるで違っていたことになる。もはや深刻というレベルを超えて、社会問題として認識すべきところにきているのではないか。
 そのように言い切ってしまうのには理由がある。警察庁が公表した二〇〇九年の沖縄の自殺者は四〇六人に上り、〇六年の四〇〇人を超え、過去最悪となっているからである。しかも、前年比で六九人も増加、その増加幅はなんと全国三位の水準である。その自殺者の多くが鬱病を発症していたわけだが、病気の原因としてあげられているのが失業による生活苦や多重債務なのである。

 沖縄県民は心身ともに不健康になっているわけだ。

 沖縄と本土の経済格差は拡大しているので、今後もこの傾向は続くのだろう。肥満率はともかく、自殺が多いのは「楽園」とは真逆だよなあ。

 このあたりの話は興味深かったので「沖縄のたどってきた歴史と健康度、幸福度」といったテーマで一冊にした本のほうが読みたかったな。



 宮古島の近くにあるため「離島の離島」とも呼ばれる伊良部島の話。

 2015年に宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋が完成し、島民はそれまでより便利な生活を送れるようになった。

 伊良部島の青年に橋の建設現場を案内してもらった。彼自身、この工事で仕事を得ていた。これといった産業がない島では、公共工事がもたらす経済効果は計り知れない。橋の建設は、完成後の便利さ以前に、島を潤してくれる有効な手段だった。
 しかし青年の表情は冴えなかった。
「素直には喜べないさー」
 彼が口にするのは、島の現実だった。
「橋ができると伊良部島の土地の値段は確実に上がります。いや、すでに上がってきている。沖縄本島や本土の業者が入ってきているって噂さー。すると、島の物価がじりじり上がってくる。島での商売が難しくなるってことになる。宮古島の大型店に行けば、安いものがいくらもあるからね。これまで伊良部で商店を経営してきた人のなかには、島を出ていく人も出るかもしれない。最終的には、島の人口が減っていく……」
 それは離島に限らない過疎地の現実だった。交通が不便だった村に立派な道路が完成する。道路建設という公共工事で村に金が落ちる。政治家は、さも自分の力で道路をつくったかのような持論を展開する。
「近くの町への通勤も可能になります。町から人が移り住み、村の活性化に結びつくわけです」
 しかしふたを開けてみると、現実という針は逆方向に振れてしまう。過疎の村から、人々は完成した道路を使って出ていってしまうのだ。道路建設はすぐに効力が消えるカンフル剤だったことを教えられるのだ。日本各地で起きた現象は、当然、島にも届いている。その流れに伊良部島も呑み込まれていってしまう不安に、島の若者は苛まれていた。

 ストロー効果ってやつだね。

 高速道路や橋ができて都市に行きやすくなることで地方の生活が便利になるかとおもったら、若者や働き手が都市に出ていってしまい、かえって地方の過疎化が進む現象。隔絶されているからこそ守られる生活もあるんだけど、失うまでなかなか気づけないよね。

 昔より交通網が発達したり情報伝達速度が上がったから「日本中どこに住んでも似たような生活を送れるようになった」はずなのに、現実には昔よりも東京一極集中が進んでいる。

 かんたんに帰ってこられるとおもうと出ていきやすくなってしまうんだね。




 戦前、人口過剰や土地不足を背景に、沖縄からブラジルなどへの移民が相次いだ。その傾向は戦後になっても変わらず、1954年からは南米・ボリビアへ集団移住する人たちがいた。

 たいていの移民がそうであるように、ボリビア開拓団は大きな苦労を強いられたようだ。政府から「海外に行ってがんばって働けばいい暮らしができる」と言われていったのに、裏切られた気になった人も多かったという。

 しかし、本土からの南米移民地に比べると、ボリビアの沖縄村は、そこに流れる空気が違っていたという。ボリビアのサンタクルス周辺には、九州の炭鉱で働いていた人が多く占める移民地もあった。上原はそこにも関わっていたから、雰囲気の違いがよくわかった。「沖縄の移民地には暗さがないんですよ。本土からの移民地と同じように貧しいのにね。沖縄の人は楽天的。現地に溶け込んでいくのも早かったな。それに比べると本土の移民地は重苦しかった。彼らはよく棄民という言葉を口にしました。つまり、われわれは、日本から棄てられたんだ……と。なにかのトラブルが生まれると、すぐに日本政府への要求を口にする。それがかなわないとわかっていても、日本にすがろうとする。でも、沖縄の人たちは違ったね。自立心があるんです」
 実際、沖縄村はその後、ボリビアの農牧大臣から「小麦の里」と激賞されてもいる。
 だが、それを移民の成功譚として書き留める前に筆が止まる。ボリビアに渡った沖縄の人々は、アメリカ占領下の琉球政府に頼ることを、はじめから諦めていたようなところがある。棄島した人たちに、棄民もなにもなかった。その背後には、戦争を通して日本から棄てられたような沖縄の現実が横たわっている。そのなかでは、琉球政府もまた犠牲者だった。それが当時の沖縄の人たちの共通認識だったような気がしないでもない。それを嗤って開墾に励む。沖縄村のエネルギーだった。

 ボリビアに渡った沖縄移民たちは明るかった。だがその明るさは本来の気質によるものだけでなく、「そもそも日本という国に期待をしていなかった」という背景によるものなのかもしれない。

 琉球処分によって琉球が日本のものになり沖縄県ができたのが1879年。1950年代の沖縄の人にとっては「我々は日本人だ」という意識は薄かったのかもしれない。アメリカ占領下だし。


 沖縄移民の明るさは、楽観から来るものではなく、むしろ諦観だったのかもしれない。そしてその感覚は現代では完全になくなったものなんだろうか。


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2026年5月25日月曜日

なんでおれのわかる話をしないんだ

 とあるテレビ番組でおじさんたちが「最近のアイドルの名前がわからない」といった話に興じていた。「若い人の出す話題がわからないことが増えた」と。

 古来よりさんざん語られてきた話なのでぼんやり聞いていたのだが、その中のひとりが口にした言葉にはっとさせられた。

「若い人たちが口にする話題がわからないときに『なんでおれのわかる話をしないんだ』と思う自分がいる」


 ぞっとしてしまった。

 ぼくも四十代なので、とっくに最近のアイドルはわからない(というか昔からあんまりわからない)。会社でも、若い人同士の話を聞いていると「それの何がおもしろいんだ」と思うことが増えた。

 ただそれでいいと思っている。若い人たちの話題に詳しいおじさんなんてかえって気持ちが悪い。自分が若いときのことを思いだすと「若い人の話題にがんばって入ってこようとする中高年」がいちばん不愉快だった。


 中年が若い人の流行についていけないことはかまわない。むしろ健全なことだ。

 ただ「なんでおれのわかる話をしないんだ」と考えだしたら、それはもう100%“老害”というやつだろう。自分が流行についていけないことを棚に上げて、世間を自分にあわせようとしているのだから。

 幸いにしてぼくはまだ「なんでおれのわかる話をしないんだ」と思ったことはない。でもそのうち思うかもしれない。そのときは首を掻っ切ってくれ。


「なんでおれのわかる話をしないんだ」と考える中高年の末路が新語・流行語大賞の審査員(平均年齢50歳以上)だが、ああはなりたくないものだ。


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