
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
人々はどのようにリスクをとらえ、どのように恐れる(または恐れない)かを心理学者が解説した本。ちくまプリマ―新書なので平易な内容。
身の周りにはたくさんリスクがある。当然ながら我々はリスクを恐れて避けようとするわけだが、正しく避けているわけではない。
たとえば飛行機に乗るよりも自転車のほうがずっと死亡率が高いのに(飛行機事故による死傷者は年間ゼロに近いが自転車は死亡者だけでも500人以上)、多くの人は自転車に乗るよりも飛行機に乗るときに恐怖を感じる。
それは認知バイアス(思考の偏り)が生じるからだ。
たとえば飛行機事故のほうが大きなニュースになって記憶に残りやすいから(利用可能性ヒューリスティック)、自転車のほうが日常的に利用するから(正常性バイアス)、自分でコントロールするものはリスクを低く見積もってしまうから(制御の錯覚)、といったバイアスにより、自転車よりも飛行機を恐れてしまうのだ。
数年前に新型コロナウイルスが流行し始めた頃、「変な恐れかた」をしている人をたくさん見た(ぼくもその一人だ)。感染症対策として仕事で他人に会うのは避けるのに飲み会には行く人、感染者が全国で数人しかいなかった初期には大騒ぎしていたのに数万人になったときは大きな話題にしなくなった人(これはほとんどの人がそうだろう)、マスクを一応つけてはいるけど鼻や口を出していた人。みんながよくわかんない行動をとっていた。
アホな人たちだけではない。賢いはずの人たちですらリスクを正しく見積もることができずに右往左往していた。日本政府ですらそうだった。たとえば最初の緊急事態宣言が発令されたのは2020年4月7日。その頃の1日の新規感染者数は全国で300人程度。今にしておもうと「あわてすぎ。もうちょっと落ち着け」と言いたくなる。でも当時は大真面目だったのだ(政府の人間が賢いかどうかはさておき)。
リスクをありのままに評価することがいかにむずかしいかがわかる。
「特定可能な犠牲者効果」について。
「戦争で1万人が死にました」と書くよりも、たった1人の手記のほうがずっと人々の胸を打ち心を動かすことがある。顔も知らない1万人よりも、顔を知っているだけの1人のほうが大きな価値を持ってしまうのだ。
ぼくはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に定期的に寄附をしているのでときどき会報が届くのだが、そこにはデータよりも「難民となった少年のエピソード」みたいなものに多くのページが割かれている。人を動かすのはデータよりもエピソードだと知っているからだろう。
それはそれでいい面もあるのだが(自分の家族よりも地球の裏側のことを心配していたら生活が成り立たない)、たとえば政治家のように大局的にものを見ないといけない人はエピソードに釣られないようにしてほしい。
以前、高校生がいじめを苦に自殺した直後に、とある大臣が「この反省を活かすために各学校はいじめ対策のやり方を見直してほしい」と語っていた。
冗談じゃない。たしかに不幸な事件だが、たった1件のケースを元に全国的な方針がころころと変わったら現場はやっていられない。仮に「全国的に見れば自殺者が減っている」という状況であれば、現在の方針を大きく変えないほうがいいだろう。政治家は一般人やワイドショーのコメンテーターみたいにそのときの感情で動いてはいけない。
またこれは、本来統計的に判断を下すべき人がストーリーを持ち出してきたときは要注意、ということでもある。
政治家が「このような事件がありました。対策をしなければなりません」なんて語りだしたときは、有権者を誤った方向に誘導しようとしている可能性が高いと見ていいだろう。数字で説得できないからストーリーの力に頼るのだ。
人は、人工的なものよりも天然のもののほうが身体に良いと思いこんでしまうバイアスも持っている。
(“天然の方が良い”ヒューリスティックとはなんとも野暮ったいネーミングだが、英語の"natural-is-better heuristic"をそのまんま訳したらしい)
これはおもしろいね。だって本来、人工的なもののほうがいいはずじゃない。天然のままだと利用しにくいから人の手を入れてるわけで。自然のものは雑菌だらけだし傷みやすい。
だから昔は人工的なもの=いいもの、だったはず。いつから“天然の方が良い”になったんだろう。公害とか環境破壊とかが言われだしたころだろうか。だとしたら“天然の方が良い”ヒューリスティックはせいぜいここ数十年のものだろう。
たしかに公害とか健康被害を引き起こすような科学技術もあるけど、少なくとも今使われている技術の大半は「天然よりいい(メリットが大きい)」はずなのに。
オーガニック野菜をありがたがる人って「化学肥料を使わずに育てた野菜」をそれ以外の野菜と比べているようで、ほんとは「化学肥料を使わずに育てた野菜の中の上位ひとにぎり」しか見ていないんだよね。
「塾に通って難関校に入った人」と「塾に通わずに難関校に入った人」を比べて、「塾なんか行かなくていい!」って言ってるようなもの。「塾に通わずに難関校に入れなかった人」の姿は見えてない。
人がついついやってしまいがちな「思考のクセ」について軽く学べる本でした。
データ分析の効用、手法、事例、課題点などについて概説した本。数式が出てこないので入門者向けでありながら、「こういったケースではうまくいかない」「このような実験は設計方法に誤りがある」といった実践的なあ説明も多く、かなり実用的な内容だ。
ぼくは十年以上マーケティングやデータ解析の仕事をしているのでわりと今さらな内容が多かったけど、それでも明確に言語化しているなと感心する。よくできた解説書だ。
ただ、いざデータ分析をやろうとなったときに課題になるのって、たいていの場合「データ分析のやり方がわからない」とか「どういった実験を設計するのがいいか」ということよりも、「そもそもデータにアクセスできない」といったことのほうが多いんだよね。
データ分析よりも、データを収集する、または誰かが収集したデータにアクセスする、ということのほうがよっぽどむずかしい。
政府などの公的機関でも企業でも、基本的に「自分たちが集めたデータは秘密にして、ごくごく一部の情報だけ公開する」というやり方をとっている。
もちろんライバル会社に盗まれたら困るようなデータもあるけど、そうじゃないものまで必要以上に囲い込もうとするんだよね、みんな。「せっかくうちが集めたんだから(ライバルでなくても)他の会社に得をさせたくない」という意識。で、誰も使うことなくデータが腐敗してゆく。
まあ私企業の場合はしょうがないとしても、政府だとか行政機関は「基本的に公開、よほど問題のあるものだけ非公開」とすべきだとおもうんだけどね。いちばんデータを持っているくせにしっかり抱えこむ。
安全保障関連以外は全公開ぐらいでいいんじゃないのかね。官房機密費なんてもってのほか。
行政機関が正当な理由なくデータを公開しないのは罪、ぐらいにしてもらいたいものだ。不正防止にもなるし(不正が明るみに出ると困るから公開したくないのかもしれないが)。
データを公開した成功事例。
タクシー配送アプリのウーバーは積極的にデータを公開して、大学などの研究機関に分析をしてもらっているらしい。その結果、どういった料金プランにするのが利益を最大化するかという考察ができているらしい。
研究機関からしても、現実のデータが扱える、データ収集を代わりにやってもらえるなどのメリットがあるので、双方にとって得があるわけだ。
昔に比べればコンピュータの発達によってデータの蓄積や分析は格段に楽になり、オンラインでの行動分析とかだとデータ収集のコストもすごく低い。
ずっと大規模かつ効率的にデータ分析ができるようになったにもかかわらず、「なんか公開したくない」といった理由で解析は進まない。
どれだけ道具が発達しても結局ネックになるのは人間なんだよな。データ分析の結果、自分がやってきた仕事は無駄だったと突きつけられるのはイヤだもんね。
勤勉なイメージが強いドイツ人だが、たいへんバカンス好きな国民だという。旅行に使う時間もお金も日本よりずっと多いそうだ。
「旅行」をキーワードにドイツを紐といた本。とはいえ途中でネタが尽きたのか、後半はドイツの大学事情とか、東西での経済格差とか(2001年刊行なのでまだ東西ドイツ統合して10年ぐらいしかたっていない)、旅行と関係の話題が並ぶ。
ドイツで盛んなFKK(Freikörperkultur:裸体主義)について。
近代都市の発達、労働の長時間化、そして高緯度による日照時間の短さによって健康を損なう人が増え、その結果として生まれたのがFKK。ただ裸で闊歩するのが好きな人たちかとおもったらこんな切実な事情があったとは。
まあ全裸である必要はないとおもうが……。
ドイツでは(日本の労基署とちがって?)労働監督局が企業を厳しく監督している、という話。
20年以上たってやっと日本もこの頃のドイツに追いついてきた感じかな。
なるほど、これぐらいちゃんと労働監督局が仕事をすればこそ、国民の余暇時間も増え、レジャー産業が発達したわけだ。
ドイツ人は労働時間が短く、余暇にたっぷり時間をかけることができる……と聞くといいなあとおもうのだが、物事にはいい面もあれば悪い面もある。
ふうむ。人々の労働時間が減るということは、有償のサービスが低下するということでもある。
店舗の数は減り、サービス提供時間は短くなり、サービスの質は落ちることになる。
たとえば宅配便業者の働き方が改善されるのはいいことだけど、そうなると「値上げします」「荷物は雑に扱うけど許してね」「時間指定配達やめます」「再配達やめます」「個別配達やめます。各自が配送センターまで取りに来い」ってことになっていく。はたして我々はどこまで許容できるだろうか。
その世の中ではたしかに労働時間は短くなって自由時間は増えるけど、その自由時間は「宅配センターへ荷物を受け取りに行く時間」とか「遠くのスーパーまで買い物に行く時間」とか「自分で家の修理をしないといけない時間」とかに消えてゆくことになるわけで、それってはたして自由時間と言えるのだろうか。
なんなら会社に行っていつもやってる仕事をやってるほうがずっと楽なんじゃないだろうか。
労働時間の短い社会では"無償の仕事"が増えてしまう。
むむむ。人間は労働から逃れられないのか。結局のところ「自分だけ短時間労働でみんなは長時間労働」がいちばんいいんだよな。うーん、身勝手ー!!
オープンダイアローグとは、精神医療の手法で、当事者や家族や支援者が集まって「対話」を重ねることで問題解決や心の平安を目指すという手法だそうだ。
ぼくは幸いにして今のところ特に悩みも抱えていないし、悩みを抱えている人を支援するような立場にもないけど、良書だという噂を耳にして手に取ってみた。いつ困窮するかわからないしね。
精神科の診療といえば患者と医師の一対一、あるいは横に看護師がいるけど聞いているだけ、みたいなパターンが多いのではなかろうか(あんまり知らないけど)。
ただオープンダイアローグでは、患者の家族とか、医師以外の病院スタッフとか、場合によってはケアワーカーといった人たちも「対話」に参加するそうだ。
ふたりっきりで話すとどうしても「質問する人と答える人」みたいな形になってしまうけど、三人、四人になると「その場にはいるけどただ話を聞いているだけ」という人が出てくる。この人は対話に参加していないようで、その間に自分の考えをまとめたり、新しいアイディアを思いついたりする。これが重要なのだという。
たしかにね。親しい人でないかぎりは一対一で話すのはしんどいけど三人以上だとわりと楽、ってのは自分の体験をふりかえってみてもよくわかる(あんまり多いとそれはそれで疲れるけど)。
今のぼくにとって最大の関心事は、子どもとの接し方だ。
うちの長女は中学生。絶賛反抗期なので、こちらが言ったことに対して、喧嘩腰の返事がかえってきたりする。そうするとこちらもムッとしてしまい、言い争いのようになったりする。お互い怒鳴るような物言いになり、当然ながらそうなると建設的な話し合いなどできるはずがない。
「じっくり相手の話を聞く」ことが大事だとはわかっているのだけど、理解しているのと実践できるのはまたちがう。
この「たとえばペンとか縫いぐるみとか何かシンボルになるものを使って、それを持っている人だけが話すというルール」はなかなかいい案かもしれない。特に子どもが小さいときは。
案外、形で行動を縛るってのは有効だよね。
たとえばテレビの討論番組を見ていると、出演者がお互いの話をさえぎって持論を展開し、最終的には声のでかいやつ、厚かましいやつがその場を制す……なんてことが起こる。あれだって、マイクが一本だけあって司会者がマイクを回す形にしたらあんな不毛なことも起こらないとおもうのだが。