2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

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2026年4月30日木曜日

【読書感想文】高橋 哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』 / 沖縄は「戦争特区」

沖縄について私たちが知っておきたいこと

高橋 哲哉

内容(e-honより)
沖縄になぜ基地が集中しているのか?基地問題を理解し、その解消を目指していくためには、沖縄が日本に併合された経緯や、その後何度も本土の犠牲になった歴史を知らなければならない。琉球処分、人類館事件、沖縄戦、アメリカによる統治、基地問題…。本土と沖縄の関係を読み解くための大事な一冊。

 沖縄の近代史と現在抱えている問題(主に基地問題)についての本。

 自分が沖縄の問題についていかに知らないかを思い知らされた。



 琉球王国が「琉球処分」を経て日本になった、という経緯すらぼくは知らなかった。歴史の教科書にも載ってなかったよ。日本の歴史においてかなり重要なトピックスだとおもうのに。沖縄の学生は教えられるのかな。

 吉田松陰が「琉球処分」の構想を示していたそうだ。

 その松陰が獄中で記したという「幽囚録』に、次のような趣旨の記述があります。
「日本はいま武力を整え、軍艦大砲を備えれば、外に向かって大きく飛躍することができる。蝦夷地、琉球、さらに朝鮮、満州、そして支那、ルソンなどを日本の支配下に収めることができる」。
 松陰はここで、日本の周辺地域を軍事力で奪取していく際に、琉球を他の諸藩の藩主と同じように幕府に従わせるのだ、という言い方をしています。のちに明治政府が行なう「琉球処分」は、まるでこの松陰の計画を実行するかのように進められたのです。「琉球処分」とは、一八七二年から七九年にかけて、明治政府が琉球王国を廃して沖縄県を設置した一連の措置をいいます。その際、明治政府は、全国で実施した廃藩置県と同じ形を取るために、まず琉球国王の尚泰を琉球藩主として封じて華族とし、東京に藩邸を与えます。そのうえで、清との朝貢関係を続けようとする琉球側の抵抗を押し切り、尚泰を強制的に東京に連行して沖縄県を設置し、琉球王国を滅亡させたのです。

 琉球王国は独立国家であり、文化圏としては日本より中国に近かったそうだ。だが江戸時代に島津氏に侵攻されて領土(奄美群島)を奪われ、さらに明治政府によって強引に日本に組み込まれた。その際琉球王国は中国(清)に助けを求めたが、日清戦争で清が破れたことにより日本のものになってしまったのだそうだ。

 知らなかった……。沖縄の人からしたら「そんなことも知らないのか」とおもうレベルの話なのかもしれないが。


 こういう経緯を知ると、単純に「沖縄も日本だ!」とはとても言えない。むりやり植民地にしたようなもんだもんな。

 さらに日本政府が沖縄にしてきた仕打ちはそれだけではない。

 太平洋戦争で日本軍が沖縄を“盾”にしたのは周知の事実だし、戦争の最中にも「沖縄を差し出すことで国体の護持(要するに天皇制の維持)を図っていた。戦後は沖縄はアメリカ統治下におかれた。さらに返還後も昭和天皇からアメリカに対して「米軍が沖縄に駐留を続けてくれることが望ましい」なんて秘密の要請があったそうだ(天皇が政治に口出ししている時点で完全に違憲行為だが)。

 ずっと日本政府は沖縄を「いざとなったら切って捨てるトカゲのしっぽ」という扱いをし続けてきたのだ。植民地扱いと変わらない。



 そしてそれは今も変わらない。

 返還後、日本全体の米軍基地面積に占める沖縄県の割合は、減るどころか年々増えている。

 かつては日本全体の米軍基地の11%ほどが沖縄にあったのだが(それでも面積を考えると十分多い)、今では75%を超えているそうだ。沖縄と本土の待遇の差は開くばかりだ(ちなみに「基地のおかげで沖縄経済は潤っている」というよくある言説はこの本の中で明確に否定されている。基地があることで経済効果はマイナスになるそうだ)。

 このように見てくれば、現在の日米安保体制下での在日米軍基地のあり方に根本的な矛盾が横たわっていることに気づくでしょう。日本の人口の九九%(有権者数でもほぼ同じ)を占める本土の人びとの政治的意思で選択され、その八割を超える圧倒的多数で支持され、今後も維持されていくだろう安保体制のもとで、人口・面積ともわずか一%程度の小さな沖縄に、全体の七割を超える米軍基地(米軍専用施設)が置かれているという矛盾です。


 これを見ると「多数決が民主主義とかけ離れたシステム」であることがよくわかる。よく多数決=民主主義だと勘違いしている人がいるけど。

 多数派が「嫌なことは少数派に押しつけてしまえ」とすれば、今のシステムだとかんたんにそれができてしまうんだよね。実際「医療費も介護費も年金も負担は下の世代に押しつけよう」という制度になってるし。

「選挙で多くの議席をとった」ってのは民意でもなんでもないのに、それをもって「民意を得た」と勘違いする(または勘違いしたふりをする)バカが政治家にもたくさんいるんだから、嫌になっちゃうよ。



 巻末に高橋哲哉氏と知念ウシ氏の対談が載っているのだが、知念氏の言葉が強く印象に残った。

 琉球諸島を中心に今ある米軍に加えて、自衛隊の軍事施設が増強されるのは、私たちの地域がまるで「戦争特区」にされているように感じます。「戦争はこちらへどうぞ」と日本政府のほうが、誘致しているような感じ。それが怖いんです。
 現実が怖いから、とにかくこの現実を正面から見ないで、生き延びるために少しごまかしながら、それでも気になってチラチラ見ているみたいな、そんなところもあるんです。ところがネットのニュースでヤマトゥの報道を見ると、まの報道を見ると、まったく危機感がないですね。
 それにコロナ禍がやや落ち着いたといって観光客がまたドッと増えました。南の島のパラダイス沖縄、観光客が夢見るリゾート・アイランドみたいな沖縄のイメージがふりまかれて、軍事基地化の恐怖感とのギャップがすごい。違う国の話みたいだし、私たちとは違う沖縄の現実を生きている観光客がいる。分裂している感じ。自分がバラバラにされるような感じです。

 軍事費を増やしたり米軍基地を増やしたりして沖縄を「戦争特区」にすればするほど、沖縄は危険になる。軍備を増強するほど危険になるのはあたりまえの話だ。戦争になったら軍事拠点がまっさきに狙われるのだから。

 軍備に関する負担だけは沖縄に押しつけておいて、さらにはそれを忘れさせようと「南国リゾート」のイメージだけを喧伝する。

 本土の人が思い描く「本土と沖縄」の関係と、沖縄の人のイメージはどんどん乖離してゆくばかりだ。



 ぼくが沖縄に関する政治ニュースを見ていていちばん気持ち悪いと感じるのは、「外部の人が口を出しすぎる」ことだ。

 もちろん沖縄の人といっても考え方は人によって違うから、政治について意見が割れるのは当然だ。でも、こと沖縄政治に関してはやたらと外部の人間が口を出す。

 あいつは間違っている、あの考えはおかしい、こっちが正しい。そういうのを沖縄の人が言うならわかるが、他県の人間が言うのはおかしくないか?

 だって鹿児島県政とか宮崎県政についてはああだこうだ言わないじゃない。なのに沖縄問題にはやたらと口を出す。まるで「沖縄の人間は沖縄のことをわかっていないからおれたちが正しい方向に導いてやる」と言わんばかりに。そんなわけないのに。

 そうやって県民の意見を封じ込めるほうが政府にとっては都合がいいんだろうけど。


 沖縄県人の本土への不満ってのは生半可なものじゃないだろうなとおもう(人によるだろうけど)。この本の中には独立の話も出てくるけど、今は「そんな話も出てきかねない」ぐらいでも、今の状況が続くようだとほんとに大規模な独立運動が起こってもおかしくないとおもえてくる。


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2026年4月27日月曜日

【読書感想文】宮口 幸治『ケーキの切れない非行少年たち』 / 「ふつうでいてほしい」が子どもを苦しめる

ケーキの切れない非行少年たち

宮口 幸治

内容(e-honより)
児童精神科医である筆者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。

 新書としては異例の120万部を突破した本。かなり話題になっていたのであちこちで噂を聞いた。いい評判も悪い評判も。

 タイトルが良すぎたんだろうね。すごくキャッチ―だもん。「ケーキの切れない〇〇」といったパロディを言いたくなるぐらい切れ味のいいタイトル。『ルポ 非行少年』だったら1割も売れなかっただろうな。まともに読んでいない人でもこのタイトルだけで何かを言いたくなる。

「境界知能」に関心を抱くきっかけにするにはすごくいい本だとおもう。入門書としては。

 著者の体験談が中心で裏付けとなるデータは多くないので、この本だけを元に何か方針を立てたりするのは危険だとおもうが。



 少年院などで多くの“非行少年(少女も含む)”と出会ってきた児童精神科医の著者は、彼らの多くが生きることに問題を抱えていることに気づく。

 これまで多くの非行少年たちと面接してきました。凶悪犯罪を行った少年に、何故そんなことを行ったのかと尋ねても、難し過ぎてその理由を答えられないという子がかなりいたのです。更生のためには、自分のやった非行としっかりと向き合うこと、被害者のことも考えて内省すること、自己洞察などが必要ですが、そもそもその力がないのです。つまり、「反省以前の問題」なのです。これでは被害者も浮かばれません。
 こういった少年たちの中で、幼い時から病院を受診している子はほとんどいません。彼らの保護者・養育環境はお世辞にもいいとは言えず、そういった保護者が子どもの発達上の問題(絵を写すのが苦手、勉強が苦手、対人関係が苦手など)に気づいて病院に連れていくことはないからです。病院に連れてこられる児童は家庭環境もそこそこ安定しており、その親も「少しでも早く病院に連れて行って子どもを診てもらいたい」といったモチベーションを持っています。
 非行化した少年たちに医療的な見立てがされるのは、非行を犯し、警察に逮捕され、司法の手に委ねられた後なのです。一般の精神科病院に、こういった非行少年たちはまず来ません。

 彼らの多くは単純な作業ができない。「かんたんな図形を描き写せない」「短い文章すら復唱できない」といったレベルだ。

「目で見たものを脳で処理する」「脳で記憶した図形を描く」といったプロセスに問題があるわけだ。これでは「さあ黒板に書かれた漢字をノートに書いてみましょう」と言われてもできるわけがない。


 もちろん知的能力が著しく劣っている場合は知的障害者とされて特別な教育を受けるわけだが、問題は「知的能力」なるものが(たとえばIQのような)単一の尺度でかんたんに測れるようなものではないことだ。

 こうやってこうやったらこうなる、といった論理的思考は、「思索の深さ」とも呼ばれています。何ステップ先まで読めるかを予想する力といってもいいでしょう。知的にハンディのある人はこの思索が浅いと言われていて、先のことを見通す力が弱かったりするのです。
 しかし、ここで大きな誤解があります。もし知的障害を持っていたのなら、それまでに周囲に気付かれて、何らかの支援を受けられていたのではないか、と。
 しかし、軽度の知的障害者は、日常生活をする上では概して一般の人たちと何ら変わった特徴が見られないのです。軽度の知的障害者でも陸上自衛隊に入隊したり、大型一種免許、特殊車両免許を取ったりすることは可能です。特に軽度の知的障害や境界知能の人たちは、周囲にほとんど気づかれることなく生活していて、何か問題が起こったりすると、「どうしてそんなことをするのか理解できない人々」に映ってしまうこともあるのです。

 たとえば、運転免許をとれるぐらいの記憶力はあるけど、お金の計算ができなくてあればあるだけ使ってしまう、といった人もいるわけだ。

 そういえばぼくも中学生のときに学校で全員知力テストみたいなのを受けさせられて、「情報処理能力や論理的思考力は問題ないが他人の感情を推し量るのが苦手」みたいな結果をつきつけられたことがあった。

 もしも学校が国語や算数ではなく他人とのコミュニケーションを教えることを最優先する場であったら、ぼくも知的障害者として扱われていたかもしれない。



 学校教育というのは、みんながある程度の能力を持っているという前提で、一斉に物事を教えるようにできている。それだとどうしても指導からこぼれおちてしまう子が生まれる。

 しかし、ここで考えてみてください。小学校なら国語、算数、理科、社会といった学科教育でびっしりと時間割が埋められ、週にわずか1時間、道徳の時間があるだけです。では、道徳の時間で社会面の支援をしているか? これも否です。また、「トラブルがあった時、その都度指導している」だけでは、社会面の支援は偶然に必要性があって生じた程度に過ぎません。つまり、今の学校教育には系統だった社会面への教育というものが全くないのです。これは大きな問題です。
 社会面の支援とは、対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、問題解決力といった、社会で生きていく上でどれも欠かせない能力を身につけさせることです。これらのどれ一つでも出来ていなければ、社会ではうまく生活していけないでしょう。
 そういった最も大切な社会面の支援が、学校教育で系統立ててほとんど何もなされていないということが、私にはどうしても理解できません。学校教育で何もなされていないので、少年院に入ってきた少年には、一から社会面について支援していかないといけないのです。
 すぐにカッとなってしまう少年には感情コントロールの方法を、人にものを尋ねたり、挨拶したり、お礼を言ったりしない少年たちには一からその方法を、教えていかなければならないのです。これら社会面は、集団生活を通して自然に身につけられる子どもも多いですが、発達障害や知的障害をもった子どもが自然に身につけるのはなかなか難しく、やはり学校で系統的に学ぶしか方法がないのです。それが学べないと、多くの問題行動につながりやすく、非行化していくリスクも高まるのです。

「現行基準では知的障害とは言えないけど授業についていけない子」は一定数存在する。著者の推定では15%ぐらいはそんな子なのでは、と。

 15%というとぜんぜんめずらしくない。クラスに何人もいることになる。

 でも、そうした子らを切り捨てているのが現状だ。人的・物的・金銭的リソースの都合でそうせざるをえないのもわかるが、年齢別のクラスではなくもうちょっと柔軟にクラス分けをできたらいいんだろうな。この子は二年生の勉強を教える前に「描き写す」「言われたことを覚えてくりかえす」トレーニングをしたほうがいい、とか。

(『ケーキの切れない非行少年たち』では、そうした子どもたちの能力を伸ばすトレーニング方法を紹介している)



 とはいえ、教育現場での平等神話は根深いものがあるので、「子どもの発達状況別クラス」ってのはなかなか受け入れられないだろうな。特に親には。

 たとえば「おたくのお子さんは三年生ですけど、発達状況に遅れが見られるので一年生クラスでじっくり教えていきましょう」と言われて、すんなり受け入れられるとはおもえない。


 以前、あるドキュメンタリーで、障害を持つ子(言葉が話せない、ひとりで立つことができない子)のお母さんが「我が子を特別支援学校には行かせず、地元の公立小学校に進ませる決断をした。障害があるからって差別されないように、普通の子と同じように、普通の教育を受けさせたかったので」と語っていた。

 これこそが差別発言(彼女は特別支援学校に行く子は普通じゃないと見なしている)なのだがそのことにはまったく無自覚で、番組もまるでそれが美談であるかのように扱っていた。

 特別支援校でその道のプロがサポートするのと、三十数人のクラスに入って専門知識のない教師が教えるのとどっちがその子の健全な発達に有効かは明らかだとおもうのだが、その母親は「我が子にあった教育」よりも「“ふつう”の教育」を選択した。

 でもこれはめずらしいことではない。他人事だから「絶対その子にあったサポートをできる学校のほうがいいですよ」とおもうけど、同じ立場にあったらすごく悩むだろう。

 ぼくだってできることなら我が子は特別支援学校に通う子ではなく、みんなと一緒の学校に通う子であってほしいと思う。差別と言われようが。

 でもその「ふつうでいてほしい」という親の思いが、子どもを苦しめるのもまた事実。

 非行少年として少年院に入ることになった子らの中には、特別支援学校や支援学級に通っていたらもっと良い道を進めていた子もたくさんいるはず。

「ふつう」なんてないとわかっているのに、みんな我が子が「ふつう」に育つことを望んでしまうのよねえ。


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2026年4月24日金曜日

【読書感想文】益川 敏英『科学者は戦争で何をしたか』 / 軍事費を上げれば社会不安は増す

科学者は戦争で何をしたか

益川 敏英

内容(e-honより)
ノーベル賞科学者・益川敏英が、自身の戦争体験とその後の反戦活動を振り返りながら、科学者が過去の戦争で果たした役割を詳細に分析する。科学の進歩は何の批判もなく歓迎されてきたが、本来、科学は「中性」であり、使う人間によって平和利用も軍事利用も可能となる。そのことを科学者はもちろん市民も認識しなければならないと説く。解釈改憲で「戦争する国」へと突き進む政治状況に危機感を抱く著者が、科学者ならではの本質を見抜く洞察力と、人類の歴史を踏まえた長期的視野で、世界から戦争をなくすための方策を提言する。

 物理学者である益川敏英氏が、人類の平和のために科学者はどうすべきかを語った本。

 益川氏は1940年生まれなので、終戦時は5歳。アメリカ軍の投下した焼夷弾が家の屋根を突き破ってきたという経験を持つそうだ(不発だったので命拾いしたそう)。

 実体験として戦争を語れる最後の世代だ。


 温度差の違いはあれど、戦争を経験している世代はほぼ例外なく「あんな思いはもうごめんだ」と語るよね。自身が悲惨な目に遭っているし、近い人を亡くしたり、戦争によって傷ついた経験を持つ人の話をくりかえし聞かされたりしているから。

 でも戦後に生まれた人の中には勇ましいことを言う人もいる。我が事として考えられないからこそなんだろうな。本当の貧乏を味わったことのない人が「貧しい暮らしもいいもんだ」と言うようなもので。

 残念ながら、そんな想像力の欠如に起因する“勇ましさ”が「現実的な意見」として幅を利かせるようになってきている。



 科学者と戦争は切っても切れない関係にある。

 戦争の規模拡大、軍拡競争に貢献してきたのはまちがいなく科学者だ。

 科学者自身は「人々の暮らしを良くするため」や「祖国を守るための最後の手段だから」という理由で軍事研究に協力するのかもしれないが、ひとたび成果が上がると科学者の手を離れて為政者の都合の良いように使われるようになってしまう。


「世界がナチスの手に落ちるのを防ぐため」に原爆開発をおこなったレオ・シラード。だが、ドイツは降伏した後もアメリカは原爆を手放そうとはしなかった。

 戦況が連合軍に傾く中、アメリカは最後まで抵抗しようとする日本に原子爆弾投下を決定しました。シラードはもともと戦争廃絶の理想を掲げる平和主義者でしたから、この決定に異を唱え、それに賛同する何人かの物理学者とともに、無警告での日本への原子爆弾投下に反対する請願書を書きました。少なくとも自分が進言し、開発に関わった兵器の使い道に発言する権利は残されていると考えていたからです。けれど、彼らの発言も請願書結局何の効力も持ちませんでした。政府は彼らの進言など聞く耳を持たず、日本に二発の原子爆弾を落としました。
 戦時下における科学者の立場というのは、戦争に協力を惜しまないうちは重用されるものの、その役目が終われば一切の政策決定から遠ざけられ、蚊帳の外に置かれます。国策で動員されるということはそういうことです。「便利なものをつくってくれてありがとう」で終わり。どんな軍事兵器もそれが完成した時点で研究者、開発者の手から離れ、一〇〇パーセント政府のものとなります。そして、それがどんな危険な使い方をされようと、発した当事者は手を出せなくなるのです。

 戦況を考えると、原爆を落とさなくても日本の敗戦は時間の問題だった。当初の目的であった「ナチスを倒すため」「戦争に勝利するため」という大義名分はなくなったが、それでもアメリカは原爆投下を決めた。核兵器の威力を見せつけることで戦後の世界情勢で優位に立ちたい、そんな思惑によるものだろうか。



 フリッツ・ハーバー(ハーバー・ボッシュ法でおなじみの)の話も教訓を与えてくれる。愛国者であったハーバーは第一次世界大戦中、祖国・ドイツのために毒ガス開発をおこなった。

 戦後、ナチスが政権を握ると、ユダヤ人を迫害した。ハーバーはユダヤ人であった。皮肉なことに、ハーバーが開発した毒ガスは同胞を虐殺するために使われたのだ。


 御用学者と呼ばれる人たちがいる。ときには事実や正義をゆがめてでも政府や大企業にとって都合のいい研究結果を出してくれる学者だ。公害が問題になったときに、大企業にとって都合のいいデータを出した研究者がたくさんいた。それなりの待遇を与えてもらえるから、学者にとっても政府や大企業の言いなりになることにはメリットがある。

 だが彼らはいつまでも守ってもらえるのだろうか。都合が悪くなればいつでも切られる、トカゲのしっぽのような存在ではないだろうか。すべての責任を押しつけられてはいさようなら、となる可能性だってある。

 時の権力者を都合よく利用してやる、ぐらいのスタンスならいいが、良心を捨てて強きに与するのは研究者自身にとっても危険だとおもうな。




 軍事費拡大について。
 国際情勢を見てみると、中東やヨーロッパなど、あちこちでテロや紛争が勃発し、いつ自分の国に火の粉が降りかかるか分からない状況です。こういう状況が軍需産業にとっては一番都合がいいのです。各国の危機感さえ煽っておけば、いくらでも武器や防衛のための装備が売れるからです。
「危ないですよ」「あの国が攻めてきますよ」とささやいて、そのためには「これぐらいの装備を持っていないと安心できませんよ」とビジネスに持っていく。
 軍需産業の関係者が日本の危機感を煽るのに一番効果的なのが、東アジア情勢の不安でしょう。北朝鮮の脅威や、尖閣諸島を巡る中国との攻防、南シナ海南沙諸島を巡る各国の領有権問題など、日本政府に危機感を煽る材料はいくらでもあります。彼らはロビー活動で、日本の首脳陣にそうした不安材料を巧妙に吹き込むわけです。そんなビジネスに乗せられて国家予算の中の防衛費がどんどん膨らみつつある、という側面もあるのです。

 まさに今の状況だよね。どんどん不安を煽って軍事費を上げようとする。なぜならそれで儲かる人がいるから。

「そんなこと言って悪い国に攻め込まれたら生命も財産も奪われるんだぞ!」という極論をぶつけられたら真正面から反論するのはむずかしい。都合の悪いときは「仮定の質問にはお答えできません」で逃げる政治家や官僚が、“仮定の話”を根拠に軍事費を上げようとする。

 不安を打ち消すための軍事費増強が悪いのは、天井がないこと。軍事費を増やして軍備を増強すれば周辺諸国との緊張は高まり(こっちが軍事費を増やしたら隣国のほうも「日本に攻め込まれたらどうする!」となるのは目に見えている)、ますます不安は強まる

 ちょっと考えればわかりそうなものだが、不安にさいなまれた人を冷静な意見でたしなめるのはむずかしい。怒りや不安は人間から冷静な思考を奪うからね。

「軍事費は国家予算の1%」とか決めておかないと、天井知らずで上がっていくよ(じっさいここ数年でぐんぐん上がっている)。得をするのは一部の人間だけ。



 原発の話。

 益川氏は、原発の必要性を認めたうえで、こう述べている。

 坂田先生が五〇年前に鋭く指摘したように、「設置者側と審査する側とのけじめが、ともすると不明確」どころか、その両者が結託して馴れ合いの審査で、設置のゴーサインを出してしまうことなどは日常茶飯事だったようです。そうしたでたらめの大きなツが原発事故を引き起こしたのです。
 原子力発電の技術は、現代の科学においてもまだこなれた技術ではないということを、私は以前から申し上げています。だから、この技術は危険でリスクも高いのだということを、言い続けながら使わなければいけなかったのです。リスクがあると表明すると同時に、安全面へのコストも十分にかける必要があった。ところが電力会社側は、つくる時だけお金をばらまいて、安全面にはお金をかけようとしませんでした。事故は起こるべくして起こったと私は見ています。

 ぼくもこの立場に近い。

 原発はすべて悪! みたいに語る人もいるけど、それは言いすぎだ。メリットも多い。

 が、同時にデメリットも大きい。問題は、デメリットを隠して原発稼働を推し進めてきたことだ。

「原発にはこういうリスクがあります。事故も一定確率で起こります。事故が起きたらこんなことになります。事故が起きたらこんな対処・保障をします」と説明した上で稼働してきたのならよかったのだが、現実には「原発は絶対安全! 絶対安全だから事故が起きたときのことなんて考えなくていい!」というちょっと知識のある人なら誰でも嘘だとわかる“神話”を元に設置・稼働を進めてきた。その結果が福島第一原発の事故であり、そして事故が起きた後も「安全です」という嘘のスタンスはくずさずに再稼働を進めようとしている。

 そりゃあかんたんに再稼働に賛同はできない。リスクもデメリットも正直に開陳することが安全性を高めることになるのにな。最初から嘘でスタートしちゃったから今さら「あれは嘘でした。ほんとはリスクあります」と言えなくなっちゃったんだろうな。

 過ちを認めるって政府がいちばん苦手なことだもんな。



 2015年刊行の本だけど、大国が戦争を引き起こし、様々な科学技術が人の命を奪っている今だからこそ改めて言葉が響いてくる本。

 反戦色が強くて青くさく感じられるところもあるけど、こういうことを言う人が減ってきたからねえ。前の戦争が遠ざかったからか、次の戦争が近づいているからか。


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【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』



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2026年4月22日水曜日

何歳の壁?

 「〇〇の壁」で調べてみた。


3歳の壁

4歳の壁

6歳の壁

小1の壁


小2の壁

小3の壁

小4の壁

小5の壁

12歳の壁

中1の壁

中2の壁

 これだけ壁が続いてたら逆に平坦じゃないか?

 これもう「5歳の谷」といったほうがいいだろ。