
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
工学博士である著者が、自身が見聞きした数々の“失敗”を学問に昇華させた本。
失敗を単なるマイナスととらえるのではなく、多くの学びを与えてくれる成功の種と考える。現実的で、非常に有意義な考え方だ。
常々書いているが、ぼくは「失敗しない人」を信じない。よくいるよね。己の失敗を認めない人。自分の功績だけを喧伝して失敗については口が裂けても語らない人。「あれはそのような意図ではなかった。誤解を与えたのであれば申し訳ない」と言い訳に終始する人。特に政治家に多い。最近も、自分の過去のブログと最近の発言の矛盾を指摘されて、あわててブログを削除したみっともない総理大臣がいた(おまけにブログを削除したことにも「HPをシンプルにした」という言い訳をして恥の上塗りをしていた)。
とあるドラマで、主人公が「私、失敗しないので」を決め台詞にしていた。最も信用してはいけない人だ。「絶対に失敗しない人」=「絶対に失敗を認めない人」である。当然ながら学びも成長もない。一生他人のせいにして生きていくだけだ(なのに人々はこういうダメな人を“強いリーダー”と勘違いしちゃうんだよな。バカなだけなのに)。
そんなどうしようもない「絶対に失敗しない人」にならないためには、失敗から学ぶ姿勢を身につけなくてはならない。
『失敗学のすすめ』では、失敗が起こる原因をいくつかの分類に分けている。
そのうちのひとつ。
よく「組織単位の不祥事」がニュースになっている。
会社ぐるみで犯罪行為に手を染めるような行為だ。最近も「不動産を買うために上司の命令で放火した」という事件がニュースになっていた。
ふつう、いくら上司に命令されたからってそんなことはしない。上司の命令よりも法律のほうが優先されるに決まっている。誰だってわかる。
でも。法律や社会のルールよりも、狭いコミュニティのルールを優先してしまうことがよくある。特別な人間だけではない。実に多くの人が過ちを犯す。
街中で子どもを殴る大人はほとんどいない。でも、学校の中、部活の中ではそんな大人は山ほどいる。街中で他人を大声で罵倒しない人が、会社の中では部下を大声で人格否定をして恫喝する。
特に「いいことをしている」と信じている人は危険だ。ボランティアスタッフが、通行の妨げとなる場所で活動をする。ボランティアをするという大義名分が、社会のルールを守るというあたりまえのことを上回ってしまうのだ。
組織のローカルルールが強くなりすぎると、とりかえしのつかない大失敗を招いてしまう。
先ほどの話にも通じるが、強い上下関係があると失敗は起きやすい。
成功者の周囲がイエスマンばかりになって、どんどん間違った道へ突き進んでしまう……。よく見る光景だ。
人間誰しも批判されることは嫌いだ。でも批判を遠ざけてしまうと、間違った道に進んでも引き戻してくれる人がいなくなる。えらい人がそのえらさゆえにえらくなくなってしまう。
部下から誤りを指摘されることを恥だと考える人は、誤りを修正する機会を失ってしまう。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とはよく言ったものだ。
失敗を起こしやすい体質について。
そうなのよね。会議って最初は「様々な意見を聞きたい」「みんなで議論して思考を深めたい」みたいな意図で始まって、はじめはそこそこ効果を上げる。でも回を重ねるごとに意義は失われてゆき、「やめて文句を言われたらいやだから」「失敗の責任を押しつけられないようにみんなで決めたということにしたい」みたいな理由でだらだらと継続してゆく。さらには「あいつは俺に反対意見ばかり言うからメンバーから外そう」なんて動きをする人間まで現れて、広く意見を聞くどころか、多様な意見を封じるために会議が使われたりする。
失敗から学ぶ、失敗の芽を早めに摘むための方法がいろいろ書いてあって参考になるんだけど、これを実践するのはむずかしそうだ。特に組織が大きくなればなるほど。
「失敗を防ぐよりも自分の評価を下げないことのほうが優先」という人がぜったいにいるからなあ。
ドラゴンボールのすごさのひとつに「悪役のネーミング」がある。
ふつう悪役って悪そう、強そうな名前をつけたくなるじゃない。濁点多めの。
なのにドラゴンボールの悪役はほとんどが悪役っぽくない名前を持っている。作中ではじめて殺人を犯した桃白白(タオパイパイ)なんて、漢字も音もすごくカワイイ。ピッコロもかわいい。音の響きだけでいえばピッコロの手下であるシンバルとかドラムのほうがよっぽど強そうだ。ベジータとかナッパなんて野菜だぜ。食べ物縛りで悪役の名前をつけるとなったら、ふつう肉の名前をつけない? ビフテキとかボルシチとかケバブとか。野菜をつけようとおもう?
でもセル編はふつうだ。ドクターゲロとかセルとか、いかにも悪役っぽいネーミングだ。まあセル編ってドラゴンボールの中ではちょっと異色だしな。主人公の交代を図っていた時期だし。ふつうすぎて逆に異色。
「議員が秘書を蹴った」とか「議員が大切なものを踏んづけた」といった醜聞の場合も『下半身スキャンダル』と言っていい。
通勤電車で、座席に座っていると目の前にヘルプマークつけている人が立った。席を譲ったら感謝された。
……と、ここまではお互い気分よくなれてよかった話なのだが、どうも譲った相手に顔を覚えられたらしく次の日もその次の日もぼくの前に立ってくるようになった。嫌になったので乗る車両を変えた。
歌舞伎の世界について、かねてよりきな臭さを感じていた。歌舞伎そのものというより、歌舞伎役者の持ち上げられ方について。
歌舞伎自体は嫌いでもなんでもないんだよ。そもそも観たことがないので嫌いになりようもない。
歌舞伎は一つの文化だ。落語とかバレエとかコントとかパントマイムとかアニメとかパチンコとかと同じで、一部の好きな人のために存在する文化。ぼくは興味ないけど、まあ害があるわけじゃないから好きにすれば? という文化。
でも、歌舞伎はなんだか不当に持ち上げられている気がする。なんか勝手に「我こそが日本文化の代表」みたいな顔をしている、というか。
オリンピック選手の扱われ方と同じような嘘くささを感じる。たとえばオリンピックのカーリング代表選手は、日本カーリング協会を代表してオリンピックに出ているわけであって、正確には日本の代表ではない。だってぼくのところに代表選考会への参加を呼びかけるお知らせは届いていないのだから。ぼくやあなたとはまったく無関係に決まった代表なのだから、日本代表ではない。なのに勝手に日本人すべてを代表しているような顔をしている。
歌舞伎も同じだ。歌舞伎界ではすごい人なのかもしれないが、そんなものは歌舞伎界の外では関係ない。ある学校でカリスマ的人気を誇る教師がいたからといって、日本人みんながその教師をあがめたてまつる必要はまったくない。
なのに、たとえばテレビに歌舞伎役者が出たときは「この人は歌舞伎界のすごい人なのである。だからみんなこの人を丁重に扱うように!」的な扱われ方をしている。パチンコ業界内で超有名な凄腕パチプロがテレビに出たときにも同じ扱い方をするか?
歌舞伎界が悪いわけじゃなくて、そんなふうに扱うメディアが悪いんだけど。
以前、永六輔『芸人その世界』という本を読んだ(⇒ 感想)。芸人(歌舞伎、新劇、落語、講談など)の発言を集めた本なのだが、それを読むと歌舞伎役者を含む芸人界がいかにヤクザな世界だったかがよくわかる。
でもそれはぜんぜん悪いことじゃなくて、まっとうに働いて生きていくことのできない人に、それなりに社会的立場を与えてくれるのが芸人という仕事だったのだ。本当ならヤクザに入っていたような人を、ヤクザ一歩手前の世界に拾いあげてくれる場が芸能界だった。
さっきわざと歌舞伎とパチンコを同列に扱ったけど、まさに歌舞伎はパチンコのような存在だったのだ。一応ギャンブルなので褒められた行為ではないけど、私営賭博や闇カジノに行くよりはまだマシだよね、という存在。
そんなふうに、“カタギとヤクザの狭間の存在”だった歌舞伎が、いつのまにか“日本を世界に誇る伝統芸能”になってしまった。それって何よりも、当の歌舞伎界にいる人たちにとって不幸なことなんじゃないだろうか。
世襲とか、五歳ぐらいの子どもを舞台に立たせて大人たちが大喜びしているところとか、今の価値観だとかなり気持ち悪いことやってるわけじゃない。「俺たちははぐれ者なんだから変なことやってるけど許してね」というスタンスなら許されていたことが、「国を代表する伝統芸能です」という看板をつけてしまうと許されなくなってしまう。
お笑い芸人も同じ道をたどっている。以前なら女遊びや喧嘩や軽犯罪や反社会的勢力との付き合いがあっても「まあ芸人なんだからしょうがないよね」と大目に見られていた。だけどコンプラの締め付けが厳しくなり、昔だったら「芸人だから」でお目こぼしされていたようなことでも今だと一発退場、なんてことになっている。
健全な社会になることでやりやすさを感じる人もいるだろうが、その反面、「まともな社会生活を送れないから芸人になった」タイプの人にとっては生きづらい世界になっているのではないだろうか。
かねてより「歌舞伎界ってそんなにきれいな世界じゃねえだろ。変に持ち上げてると当の歌舞伎界を締めつけることになっちまうぞ」という目で見ていたので、吉田修一『国宝』を読んで「よくぞ歌舞伎界の汚い面を書いてくれた!」と感じた。汚い面があるからこそ美しい面が光り輝くわけですよ。
主人公・喜久雄は、ヤクザの親分の息子として生まれ、中学校にも通わず背中に大きな刺青を入れるなど父の後を継ぐべく極道の道をまっしぐらに進んでいた。だが十五歳のときに抗争により父親が殺害される。以降、組の勢力は弱まり、喜久雄は伝手を頼って歌舞伎役者の家に預けられることとなる。
すっかり歌舞伎の魅力にとりつかれ、稽古に明け暮れる喜久雄。襲いかかる様々な試練を歌舞伎の実力と、ヤクザによるバックアップ、隠し子、政略結婚などの決してきれいとは言えない手段で切り抜けてゆく。だが喜久雄の歌舞伎役者としての成功と引き換えかのように、周囲の人間には次々と不幸が訪れ……。
「芸人たる者、芸さえ一流であれば他はダメでもかまわない(むしろ私生活が派手なほうがいい)」時代から、「芸人であっても社会人としての常識は身につけなくてはならない」時代へ。時代の変化とともに、一途に芸に邁進する喜久雄はどんどん周囲から孤立してゆく。
喜久雄と同じ時代を生きるお笑い芸人・弁天はテレビタレントとして大成功を収めた後にこう語る。
権威に逆らって生きることで成功したら、自分自身が権威になってしまう。成功するほど、かつて目指した姿から遠ざかってしまう。なんとむなしい道だろう。
歌舞伎に限った話ではなく、ある分野で傑出した成功を収めようとおもったら一種の異常者でないといけないのだろう。
この文章の中では“ヤクザな人間”と表現している。
たしかに、犯罪者の手口を紹介するニュースなんかを見ると
「犯罪をするためにめちゃくちゃ考えて、めちゃくちゃ努力してるじゃん。その能力があったらまっとうに働いても成功してただろ」
と言いたくなるような犯罪者がいる。
その逆で、ある程度成功している会社の経営者を見ていると倫理観や常識がぶっ壊れている人がめずらしくない。これは“ヤクザな人間”がたまたままっとうな道に進んだ例だろう(まっとうな経営をしていないケースも多いが)。
芸術の道でもヤクザな道でも、成功するのはイカれた人間が多いのだろう(ただしイカれた人間が成功するとは限らない)。
こないだ『教場』テレビドラマを放送していた。途中から観た。
「断片的にはけっこうおもしろいけど全体的によくわかんないドラマだな」とおもった。途中から観たせいだろうとおもって原作小説を読んでみた。
……うん、原作も同じだった。断片的なエピソードはおもしろいんだけど「全体的にどうだった?」と訊かれると答えに窮してしまう。神話とか聖書みたい。エピソードの詰め合わせで、全体を貫く芯のようなものがあまり見えてこない。
いや、全体を貫く芯はあるにはある。教場(警察学校)の教官である風間だ。どんな些細な変化も嘘も見逃さない厳格な教官。この教官の観察眼がストーリーを動かしている。
だが。この風間教官、ほとんど全智全能の神なんだよね。すべてを見透かしてしまう。あらゆる知識が頭に入っているし、どんな隠し事も風間教官の前では通用しない。弱点がまるでない。神といっしょだ。だから神話や聖書みたいな読後感になってしまう。『教場』を読んでいると、小説の登場人物を魅力的なものにするのは欠点なのだとつくづく感じる。
(ところでドラマ版ではこの風間教官をキムタクが演じていたのだが、実にぴったりの配役だとおもう。完璧すぎてつけいる隙のない人物として適役だった。人間的おもしろみのなさがぴったりハマっていた)
どの短篇もミステリとしてよくできているのだけど、よくできすぎている気もする。
風間教官がおもしろみのない人物であるのと対称的に、警察学校の生徒たちは実に人間くさい。悩み、迷い、疑い、失敗をし、嘘をつき、ごまかし、他人を陥れようとする。神の前で右往左往する哀れな人間、という感じだ。ぼくらが共感するのはこっち側だ。
絶対的な神である風間教官は、決して生徒の嘘を見逃さない。だから『教場』には常に息苦しさが漂っている。生徒たちと同じように、「おまえらの行動はすべて見張られているんだぞ」と言われている気分だ。まるで囚人になったような気分だ。いや、囚人ですらもうちょっと自由があるのではないか。看守は神ではないのだから。
このまとわりつくような息苦しさ、個人的には嫌いではない(フィクションとして楽しむ分には)。臭いとわかっていて汗の染みた靴下のにおいを嗅いでしまうように、ついつい引き寄せられてしまう不愉快さがある。
『教場』で書かれる警察学校の生活はとても厳しい。刑務所のほうがここよりずっと楽だろう、とおもえる。
もちろん小説なので実際の警察学校とはちがうのだろうが、一部は現実に近い(あるいは現実のほうがもっと酷い)のだろうなと思わされる。
徹頭徹尾管理され、理不尽な規則や暴力にも従わなければならない世界。生徒たちに人権はない。そんな場所にいる人間がまともな感覚を保てるはずがない。
校則の厳しい学校や強豪部活で往々にしてフラストレーションが集団内いじめに向かうように、理不尽な目に遭った者たちはさらに弱い者を攻撃するようになるのが世の常だ。(警察学校に限らず)警察内でハラスメントや暴力が問題になっているのをよく耳にする。
ぼくが疑問におもうのは、なんでそこまでして警察官になりたいんだろうということだ。この屈辱的な仕打ちを耐え忍んだ先に強大な権力が手に入るというのであればまだわかる。
だが理不尽な指導や暴力に耐えて耐えて警察学校を卒業したところで、その先に待つのはやはり上からの理不尽な指導に耐える日々だろう。公務員なのでものすごく給与が高いわけでもない。めちゃくちゃ出世して警視総監になったところで、己のために権力を使えるわけではない(まあそれなりの役得もあるだろうけど)。しょうもない政治家にぺこぺこしなきゃいけない。
一部の国では警察組織が腐敗していて、警官が賄賂を受け取ったり身内の犯罪をもみ消したりするという。そういう国だったら警察官を目指すのはまだ理解できるんだけどね。
ぼくのような怠惰な人間は、もっと楽で待遇のいい仕事はいくらでもあるのに、とおもってしまう。警察官を目指す人の気持ちはどうもよくわからない。
『教場』で書かれている警察学校の描写ってどこまで事実に基づいているのだろう。
ずいぶん取材をして書いたらしいのでどれも本当のような気もするし、さすがにそれは厳しすぎるだろうとおもう面もある。
たとえば生徒が毎日書いて提出しなければならない日記について。
正確な報告を挙げなければならないという理念はわかるのだが、一発退校処分はあまりに厳しすぎる。ついついストーリーを捜索してしまうことなんてよくあることだし(ぼくなんかほら吹きなので初日で退校になるとおもう)。
じゃあ警察官が正確な報告を挙げているかというと……。いやあ、警察組織ぐるみでの改竄や虚偽報告なんてしょっちゅう起こっているし、それがばれたときの処分もめちゃくちゃ甘いけどなあ。
誤りや虚偽を許さない組織だからこそ、逆にミスを認めることができずに大事にしちゃうのかなあ。