2050年1月1日土曜日

2018年2月21日水曜日

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉
奇想天外』

桂 米朝

内容(e-honより)
人間国宝・桂米朝演じる上方落語の世界。落語の原型は上方にあり。江戸の洒脱な落語とは違う上方の強烈な雰囲気を堪能していただく。第二巻「奇想天外」は、シュールな落語大全集。突拍子もない発想の、話芸だからこそ描ける世界。

この本の素晴らしいのは、落語の噺の文字起こしを載せているだけでなく、米朝さんの解説がついているところ。
埋もれかけていた噺をどうやって掘り起こしたかとか、時代とともにどんな変化を遂げたかとか、演じるときにどういった点に気を付けなければならないかとか、研究書として読んでもおもしろい。

米朝さんの解説は中国の故事を引いてきたり、浄瑠璃や歌舞伎の話がさらっとでてきたり、つくづく教養のある人だ。


地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)


演じると一時間を超える大作落語。
数十人の登場人物が入れかわり立ちかわりするのをたった一人で演じきるという落語の真骨頂のような噺。荒唐無稽な中に妙なリアリティがあるばかばかしさもいい。

地獄の寄席についての会話。

甲「なるほど、なるほど、立花屋花橘、文団治、米団治、文枝、文三、ああ、円都、染丸、桂米朝……、もし、米朝という名前で死んだ噺家はおませんが、あらまだ生きてんのと違いますか」
〇「あんじょう見てみいな、肩のところに近日来演と書いたある」
甲「……ははあ、あれもうじき死によんねんな。可哀そうにいま時分何にも知らんとしゃべっとるやろなあ。ああ、こらいっぺん見に行かないけまへんなァ。こっちのほうも何か賑やかな商店街みたいなものがありますが、あれは何でんねん」

こんなふうに笑いどころも多い。時事ネタもふんだんに盛りこまれていて、古くて新しい噺。

手塚治虫に『日本発狂』という漫画があるけど、死後の世界をユーモラスに描いている点や、死後に死ぬと生き返る点など、『地獄八景亡者戯』と似たところが多い。手塚治虫は落語好きだったらしいから、ひょっとするとこの噺から着想を得たのかもしれない。


伊勢参宮神乃賑(煮売屋~七度狐)(いせさんぐうかみのにぎわい)


いわゆる「東の旅」に分類される旅ネタ。東の旅は全部で二十話ぐらいあるが、そのうちの『煮売屋』『七度狐』を中心に収録。

陽気な道中の様子から、狐に化かされる怪異譚、そして後半の怪談へと目まぐるしく展開していくので、長いが冗長さがなく、退屈しない噺だ。それぞれのエピソードがちゃんとした骨格を持っている。もっとも『七度狐』は当初の形からだいぶ削られたらしいけど。七回も騙されたらさすがに途中で気づくわな。

煮売屋とは、総菜屋 兼 居酒屋のような店らしい。出てくる"イカの木の芽和え"という料理がずいぶんおいしそう。当時にしたらずいぶんしゃれたもの食べてたんだな。


天狗裁き


女房が亭主が見ていた夢の内容を知りたがって喧嘩になり、その仲裁に入った男も夢の中身を知りたがって喧嘩になり、その仲裁に来た町役も……というくりかえしからなる噺。

緊迫感のある奉行所の場面を出したり、突然天狗が出てくるという意外な展開になったり、単調なくりかえしにならないようよく工夫されている。

最後の一言でひっくりかえる、シュールで鮮やかなサゲ。個人的に大好きな噺。
星新一の『おーい、でてこーい』という名作ショートショートに通ずるものがある。

物語の世界では"夢オチ"というのは禁じ手とされたり一段下に見られたりするけど、これは夢オチが鮮やかに決まるという稀有な例。


 小倉船


正式なタイトルは『龍宮界龍都(りゅうぐうかいたつのみやこ)』。これも旅ネタ。
上方落語の旅ネタには、伊勢参りや金毘羅参りだけでなく、地獄、天空、竜宮城へ行くというSFもある。あちこち行っていて、大長編ドラえもんみたいだ。

海中に落とした財布を拾うために巨大なフラスコに入って海に潜る、というなんとも奇想天外でばかばかしいストーリー(もちろん財布はとれない)。
どうやったらフラスコの中に入るという発想が出てくるんだ。詳細は語られないけどゴム栓するんだろうな。ぜったい沈まないだろう。

落語って本題よりも枝葉末節のほうがおもしろいことが多いけど、これなんかその典型。海に潜ってからは笑いどころも少ないし、特に「酒代(さかて)に高(たこ)つくわ」のサゲは、「猩々という海中に棲む空想上の生物がいて大酒飲み」「船頭に渡すチップのことを酒代(さかて)という」の二つを知らないとさっぱり意味がわからないので、今解説なしでこのサゲを理解できる人はまずいないだろう。
中盤のなぞなぞのくだりはわかりやすく笑えるけどね。



骨つり


滅びていたものを米朝さんが復活させた噺。江戸落語にも移植され『野ざらし』の題で語られる。

しゃれこうべを釣りあげてしまった男が供養してやったところ美しい女が恩返しにくる。それを知った隣の男が骨を探しにいき、やっと見つけたしゃれこうべを供養するが石川五右衛門が現れて……というストーリー。
『花咲かじいさん』『こぶとりじいさん』『金の斧』など昔話によく見られる、「いい目にあった人の真似をした欲張りがひどい目に遭う」という類型の物語。

笑いどころの多い前半、怪談めいた中盤、目論見がはずれる終盤と、起承転結が整っている。

「ああ、それで釜割りに来たか」という、石川五右衛門の「釜茹で」と男色の「釜割り」をかけたとサゲは、今ならポリティカルコレクト的に危なそう。でもこういうのはちゃんと残しといてほしいな。



こぶ弁慶


これも「東の旅」シリーズのひとつ。
陽気な旅の道中が語られ、酒の席でのばか話になり(このくだりは『饅頭こわい』の前半とほぼ一緒)、土を喰うのが好きな男が現れ、土を食った男の肩にこぶが現れて弁慶の頭となり、騒動に巻き込まれるというあわただしい展開。

中盤までの主役がいつの間にかいなくなり、後半はまったくべつのお話として展開する。落語にはよくあるけど、慣れていないと混乱するよね。

手塚治虫の『ブラックジャック』に『人面瘡』という話がある。顔に別人の顔が出てきて勝手にしゃべりだす、手術でとってもまたすぐ出てくる、憑りつかれた男はついに発狂して死んでしまうという内容だ。小学生のとき読んだけど、めちゃくちゃ怖かった。しばらくこの話が収録されている単行本5巻だけは手にとれなかったぐらい。

人面瘡は昔からよくおどろおどろしい怪談として語られるモチーフなんだけど、そんな人面瘡ですら軽く笑いとばしてしまうのが落語のすごさだ。



質屋蔵


質屋の蔵に幽霊が出るという噂が立ったため、怖がりな番頭さんと熊さんがおびえながら寝ずの番をすることになる――という噺。

前半、延々と一人語りが続くシーンがある。落語自体が一人語りの芸なんだけど、その中で登場人物が声色を使い分けて延々と一人語りをする。いってみれば「落語の登場人物が落語をする」みたいな感じ。
米朝さんの『質屋蔵』を聴いたときは違和感をおぼえなかったけど、これを自然に演じるのは難しいだろうなあ。

終盤までリアリティのある話運びだったので、終盤でいきなり着物が相撲をとりだすという急転直下の展開。

菅原道真の掛け軸が「どうやらまた、流されそうなわい」というサゲだが、これまた「菅原道真が大宰府に流された」ということと「質に預けたものが返されないことを質流れという」ことを知らないとぴんとこないから、そのうち別のサゲになりそう。



皿屋敷


落語、とりわけ上方落語には「なんでもかんでもおもしろがる」という傾向がある。
眉をひそめるような事柄でも笑いとばしてしまう、というのは落語の最大の魅力かもしれない。

『皿屋敷』はその最たるもので、怪談話の代表格であるお菊さんをコミカルに描いている。
播州に住む男たちが皿屋敷に行き、「一枚、二枚……」を途中まで聞いて途中で帰ってくるという肝試しをするという噺。今でも大学生はよく幽霊の出るトンネルとかに行くし、昔からやってることは変わらんねえ。

姫路城に行ったときに城の敷地内に「お菊の井戸」なるものがあって「いくら播州とはいえ城内にあんのはおかしいだろ」と思ったが、やはりあれは後から作った井戸らしい。


犬の目


マッドサイエンティストもののSF噺。犬の目を人間に移植したら夜目が利くようになった――というなかなかブラックなお話。
手塚治虫『ブラックジャック』にも馬の脳を移植する話が……って手塚治虫の話ばっかりしてるな。

こないだ寄席で「戌年にちなんで犬が出てくる噺ばかりやります」というイベントがあったので行ったんだけど、そこで高座にかけられていた噺のひとつがこの『犬の目』だった。戌年にちなんで犬の目をくりぬく話かよ。ひでえ。

「眼球をくりぬいて洗う」「眼球が水につけすぎたせいでふやけてしまう」「ふやけた眼球は陰干しにして乾かす」「乾かしすぎたら塩水につけて戻す」という荒唐無稽なんだけど妙に説得力のある発想がおもしろい。
ぼくは花粉症だから今の季節は眼球をくりぬいて洗いたいぜ。


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2018年2月20日火曜日

【読書感想】『個人編集 日本文学全集 竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』


『個人編集 日本文学全集
竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』

池澤夏樹 (編集)
森見登美彦 ,‎ 川上弘美 ,‎ 中島京子 ,‎ 堀江敏幸 , 江國香織 (現代語訳)

内容(河出書房新社HPより)
絢爛豪華に花開いた平安王朝の珠玉の名作を、人気作家による新訳・全訳で収録。最古の物語「竹取物語」から、一人の女性の成長日記「更級日記」まで。千年の時をへて蘇る、恋と冒険と人生。
「もの」を「かたる」のが文学である。奇譚と冒険と心情、そこに詩的感興が加わって、物語と日記はこの国の文学の基本形となった。――池澤夏樹
竹取の翁が竹の中から見つけた〝かぐや姫〟をめぐって貴公子五人と帝が求婚する、仮名による日本最古の物語、「竹取物語」。在原業平と思われる男を主人公に、恋と友情、別離、人生が和歌を中心に描かれる「伊勢物語」。「虫めづる姫君」などユーモアと機知に富む十篇と一つの断章から成る最古の短篇小説集「堤中納言物語」。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとしてするなり」、土佐国司の任を終えて京に戻るまでを描く日記体の紀行文、紀貫之「土左日記」。十三歳から四十余年に及ぶ半生を綴った菅原孝標女「更級日記」。燦然と輝く王朝文学の傑作を、新訳・全訳で収録。
池澤夏樹氏の個人編集という形で刊行されている『個人編集 日本文学全集』の第三巻。全三十巻の予定だそうです(まだ刊行中)。
有名文学作品を、人気作家たちが訳すというなんとも贅沢なシリーズ。これは高校の図書館にはそろえとかないといけないシリーズだね。ほとんどの高校生は手に取らないだろうけど。話はそれるけど学校の図書館にある本ってなんであんなにつまらなさそうに見えるんだろう。


『竹取物語』『土佐日記』の冒頭と、『伊勢物語』の一部はたしか高校の授業で読んだはず……。中学校だったかな。
でも古文の授業って文章をやたらと分解して、これは絶対敬語だ、あれは已然形だ、と分類していく作業ばかりなので内容はまるで頭に入ってこなかった。

あの分類作業は、学術的な基礎スキルを身につけるという意味では役に立たないものではないけれど、やっぱりおもしろみには欠けるよなあ。あれで古典文学を好きになる学生はまずいないだろう。まあ学問だから全員に好きになってもらう必要もないんだけどさ。

もうちょっと歴史や文化史とからめて教えたらだいぶおもしろくなると思うのだが……。


森見登美彦 訳『竹取物語』


森見登美彦さんだからどんな変態的な訳をしているのかと思ったら、拍子抜けするほど素直な訳。
『竹取物語』は内容がなかなかぶっ飛んでいるから、変に文章でひねらないほうがいいのかもしれない。とはいえさりげなく「そこらを這いまわってうごうごするのだ」なんて森見節が光ったりしている。竹取物語だけに。

 それを見るや中納言は、「ああ、貝がないよ!」
 と、叫んだ。
 この出来事から、思い通りにいかないことを「貝がない」、すなわち「甲斐がない」と言うようになったのである。

ときどきこういう駄洒落が出てきて、「森見登美彦もくだらないこと書いてるなあ」と思ってたんだけど、調べたら原文にある駄洒落だった。こんなのあったっけ。覚えてないなあ。今読んだらぜんぜんおもしろくないけど、昔の人は笑ってたんだろうな。

解説で森見氏自身も書いてるけど、五人の求婚者のエピソードはのびのびと書かれていてておもしろい。ちゃんとキャラが立っているし、それぞれのエピソードに起承転結がある。たいしたものだ。

しかし森見登美彦さんは竹が好きだね。
大学の卒論も竹について書いたらしいし『美女と竹林』という本も出していた。



川上弘美 訳『伊勢物語』


歌物語。高校の授業で読んだはずだけどどんなんだったっけ……と思いながらも読んだら思いだした。ああ、こんなのあったなあ。「昔、男ありけり」ね。
古典の教師が「平安時代のプレイボーイ・在原業平の女遍歴を書いた話」って言ってたなあ。

以前、俵万智『恋する伊勢物語』というエッセイを読んだことがあったはずだけど、ぜんぜん覚えていないなあ。

改めて読むと、伊勢物語ってつまんないなあ。川上弘美が悪いわけじゃなくて、歌物語だから短歌がメインで、物語性はぜんぜんない。「男がいた。女に対して冷たくなった。女がこんな歌を詠んだ。それを見て、男がこんな歌を返した」みたいな断片的なストーリがだらだらと並んでいるだけ。

思春期のときに読んだらもうちょっと自分と重ねあわせて楽しめたかもしれないけど、三十すぎたおっさんからすると「どこにでも転がってる話じゃん」としか思えない。
恋愛って千年たっても基本的な構造は変わらなくて、突き詰めれば「セックスさせるかさせないか」だけの話だから、よほど凝った舞台装置を用意しないかぎりはおもしろみがないんだよね。人類誕生以来、ずっと同じようなことをくりかえしてるもんね。
安いJ-POPの歌詞みたいで、わざわざ物語として読むようなもんじゃないな。個人的に恋愛小説が好きじゃないってのもあるんだけど。

歌物語だから歌がメインなんだけど、和歌を楽しもうと思ったら原文で読まないといけないしね。ということで、これを現代語訳するという企画自体に無理があったのかも……。


中島京子 訳『堤中納言日記』


日本初の短篇集ともいわれる『堤中納言日記』。
これはけっこうおもしろかった。
『蟲愛づる姫君』とか『はいずみ』とか、今見てもユーモラスな話だ。

「嫌よねえ、姫って、眉もまるで毛虫じゃない」
「それでもって、歯ぐきは、毛皮を剝いた芋虫ってとこ」
 他の女房たちも言いたい放題。そこへ左近という女房がやってきた。

  冬くれば衣たのもし寒くとも烏毛虫多く見ゆるあたりは
  ──冬になりゃ暖かいわよ毛がいっぱい 見てよこの部屋毛虫がいっぱい

こんな感じ(ちなみに『風の谷のナウシカ』は『蟲愛づる姫君』にヒントを得たのだとか)。

感心したのが、和歌を五七五七七で訳していること。
俵万智さんも『伊勢物語』や『源氏物語』の和歌を現代語の和歌にしていたけれど、これはたいへんな苦労だろうな。まして中島京子さんは歌人じゃないし。

原文も訳も自由闊達に書かれていて、これがいちばん読んでいて楽しかったな。


堀江敏幸 訳『土左日記』


「土日記」だと思っていたんだけど、元々は「土日記」なんだね。知らなかった。
原文を読んでないので、原作者のせいなのか筆写した藤原定家のせいなのか訳者のせいなのかわからないけど、文章がすごく理屈っぽい。
物語じゃなくて論文を読んでるような気分。なんのためにわざわざ女のふりしてかな遣いで書いてるんだよ。
日記だからしかたないといったらそれまでなんだけど、テンポは悪いし、かな文字だけでややこしいことを考えているから頭に入ってこないしで読むのがつらかった。

ということで後半は読み飛ばした。


江國香織 訳『更級日記』


読書が好きな女の子が都会に憧れて出てきたけれどいざ現実を見てみると思ってたのとちがうことも多くてがっかりしちゃうわ、みたいな内容。たいしたことは書いてないんだけど、千年前の人と同じ気持ちを共有できるのがおもしろい。

 そんなふうにふさぎ込んでいる私を母が心配して、すこしでも慰めようと、物語を手に入れて読ませてくれた。すると、私は自然と慰められていった。『源氏物語』の若紫の巻を読み、続きを読みたくてたまらなくなったが、人づてに入手を頼もうにも誰に頼んでいいかわからず、馴れない都では見つけられるとも思えなくて、ほんとうにもどかしく、いても立ってもいられず、〝この源氏物語を、最初の巻から全部すっかり読ませてください〟と、心のなかで祈った。両親が太秦のお寺に参籠するときにも一緒について行って籠り、他のことは祈らずにそのことばかりをお願いした。すぐにも全巻読み通す意気込みだったのに、そう上手くはいかず、なかなか手に入らなかったので、まったく残念でいやになってしまった。そうこうするうち、私のおばさんだという人が田舎から上京してきたので挨拶に行くと、そのおばさんが、「ほんとうにかわいらしく、大きくなったのね」となつかしがったり驚いたりし、帰りがけに、「何をさしあげましょうね。実用的なものではつまらないでしょう。欲しがっているとうかがったものをさしあげましょう」と言って、『源氏物語』を五十数巻全部、大きな箱に入った状態のままくださり、さらに、『伊勢物語』『とほぎみ』『せりかは』『しらら』『あさうづ』といった物語も、袋に入れて持たせてくれた。それをもらって帰るときの、天にものぼるうれしさといったら!

このオタクっぽい文章よ。江國香織さんの引きこもりっぽさともよくマッチしていてなかなかおもしろく読めた。
とはいえほんとにただの日記で、特に印象に残るような事件が起きるわけでもなく、少しずつスピリチュアルな内容に傾倒していくので途中から飽きてしまった。歴史研究家の資料としては価値があるんだろうけど、他人が読んでおもしろいものではないな。
他人に読ませるために書いたものじゃないのかもしれない。



千年前と今とを比べてみると、娯楽としての文学はすごく進化しているけど、それを語る人間のほうがたいして進化していないんだな、と感じる。
たぶん千年後の人たちも、いい女をつかまえるために嘘をついたり、他人の失敗話をおもしろおかしく話したり、ほしい物語を求めて一喜一憂したりしてるんでしょうなあ。


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2018年2月19日月曜日

英語能力のフロッピーディスク化


小学校で英語教育を受けさせられる娘が不憫でならない。

まったくの無駄だとは思わない。ぼくも中学校・高校・大学で英語を学習したことで文章の構造や論理的な思考を学んだ。

でも「外国語でコミュニケーションがとれる能力」の価値は今後どんどん低下していく。


機械翻訳の精度は、今後飛躍的に上がる。疑いようもなく。
テキスト翻訳はもちろん音声翻訳も、十年以内に実用に十分耐えうるレベルになるだろう、とぼくは思っている。
「十年以内」でもずいぶん控えめに見積もったつもりだ。将棋でコンピュータが人間と対戦するようになってからプロ棋士をこてんぱんに打ち負かすようになるまでにかかった時間を見ていると、自動翻訳が実用化するのに十年もかからないと思う。

とくに英語なんて利用者が多いからまっさきに翻訳精度が上がる言語だ。
大多数の日本人にとって英語能力は今以上に不要のものになる。

詩的表現や若者言葉や業界用語にまで対応するのは難しいかもしれないが、旅行・買い物・初対面でのコミュニケーション、その程度のことは自動音声翻訳で事足りるだろう。もっとこみいった話はテキストでやりとりすればいい。どうしても必要なら通訳や翻訳者を使えばいい。ニーズが減って供給過剰になるから、通訳・翻訳の費用も下がるだろう。

少なくともビジネスシーンにおいては外国語能力はたいした価値を持たなくなる。ないよりはあったほうがいい、ぐらいのスキル。いってみれば、電卓やコンピュータが普及した時代における暗算スキルぐらいの重み。




義務教育での英語学習時間は増えていってるけど、むしろ今後減らしていったほうがいい。

2020年から小学校でプログラミングが必修化するらしいけど、英語学習で見につく論理的思考などの能力のうち大部分はプログラミング学習でも身につけられる。だからプログラミングをやるのであればその分英語学習時間を削ったほうがいい。

小学校の算数の一単元でそろばんを教えるけど、将来的にはあれぐらいの扱いにしてもいいと思う。そこまでいかなくても、せいぜい古文や漢文ぐらい。
英語は高等教育で学べば十分だ。小学校で算数や国語の授業時間を削ってまで教える必要はない。



ぼくが中学校のとき、技術の授業で「コンピュータ」という単元があった。
そこで教わったのは「フロッピーディスクのフォーマット方法」だった。

知ってますか、フロッピーディスクのフォーマット。
昔のフロッピーディスクって買ってもすぐに使えなかったんです。一回初期化しなきゃいけなかったんです。なんでって訊かれても困りますけどね。フロッピーディスクって何ですかって訊かれたらもっと困りますけどね。

ぼくがフロッピーディスクのフォーマット方法を習ったのは1995年。それが役に立ったことは一度もない。大学時代はフロッピーディスクを使っていたけど、フォーマット済みのフロッピーディスクが売ってたしね。もちろん高校入試にも出なかった。会社の採用試験にも出なかった。

あの時間はなんだったんだ。まあフロッピーディスクのフォーマットについて習ったのは一時間か二時間だけのことだったので、まあいっかと思う。こうして話のネタになるしね。

でも小学生のときから何千時間も英語学習に費やして、いざ自分が大人になったときに英語能力が「フロッピーディスクのフォーマット方法」レベルの有用性になり下がっていたら、「勉強した時間返せよ」って思う。

さっさと自動翻訳が普及して、教育関係のえらい人たちが「英語、そんなに役に立たなくね?」と早く気づいてくれることを祈る。

ていうか機械翻訳がどうこういう以前に、早期学習が英語能力の習得に貢献するという確かな根拠ってあるのかね?


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バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』


2018年2月18日日曜日

中敷きくせえ


靴を買いに行ったとき、ぼくの靴を試し履きさせてくれた店員のお兄さんに

「この中敷き、いいですよ。靴のにおいってほとんどが中敷きのにおいなんですよ! ぼくも足くさいって言われてたんですけど、この中敷きするようになってからくさいって言われなくなりました!」

って力説されて「ぼくの足、そんなにくさいのか……」と若干落ち込みながら言われるがままに店員おすすめ中敷きを購入した。



それから数か月。

ふむ。たしかにいい。

帰宅して靴を脱いだら、中敷きを取りだす。

くせえ。超くせえ。

そのまま中敷きを干しておくと、翌朝になるとにおいがだいぶ軽減している。

なるほど、中敷きが吸っていたにおいが一晩でなくなっている。

そのにおいは部屋中に飛散されているんだろうけど、その件については深く考えないことにする。

くさくなくなった中敷きを入れて出かける。帰ると、またくせえ。超くせえ。



はじめて知った。

靴のくささって積もりに積もった分泌物のにおいだと思っていたのだが、たった一日で歩いただけでこんなにくさくなるのか(しかも冬なのに)。

今までは中敷きを取りだしていなかったから、このくささを何年も溜めこんでいたわけだ。さぞかし凝縮した濃厚な香りだったことだろう。

店員さん、婉曲かつ直截的に「足くさいっすよ」と教えてくれてありがとう。