2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

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2026年2月18日水曜日

【読書感想文】吉田 修一『国宝』 / ヤクザな世界だからいい

国宝

青春篇 / 花道篇

吉田 修一

内容(e-honより)
1964年元旦、侠客たちの抗争の渦中で、この国の宝となる役者は生まれた。男の名は、立花喜久雄。任侠の家に生まれながらも、その美貌を見初められ、上方歌舞伎の大名跡の一門へ。極道と梨園、生い立ちも才能も違う俊介と出会い、若き二人は芸の道に青春を捧げていく。

 歌舞伎の世界について、かねてよりきな臭さを感じていた。歌舞伎そのものというより、歌舞伎役者の持ち上げられ方について。

 歌舞伎自体は嫌いでもなんでもないんだよ。そもそも観たことがないので嫌いになりようもない。

 歌舞伎は一つの文化だ。落語とかバレエとかコントとかパントマイムとかアニメとかパチンコとかと同じで、一部の好きな人のために存在する文化。ぼくは興味ないけど、まあ害があるわけじゃないから好きにすれば? という文化。

 でも、歌舞伎はなんだか不当に持ち上げられている気がする。なんか勝手に「我こそが日本文化の代表」みたいな顔をしている、というか。

 オリンピック選手の扱われ方と同じような嘘くささを感じる。たとえばオリンピックのカーリング代表選手は、日本カーリング協会を代表してオリンピックに出ているわけであって、正確には日本の代表ではない。だってぼくのところに代表選考会への参加を呼びかけるお知らせは届いていないのだから。ぼくやあなたとはまったく無関係に決まった代表なのだから、日本代表ではない。なのに勝手に日本人すべてを代表しているような顔をしている。

 歌舞伎も同じだ。歌舞伎界ではすごい人なのかもしれないが、そんなものは歌舞伎界の外では関係ない。ある学校でカリスマ的人気を誇る教師がいたからといって、日本人みんながその教師をあがめたてまつる必要はまったくない。

 なのに、たとえばテレビに歌舞伎役者が出たときは「この人は歌舞伎界のすごい人なのである。だからみんなこの人を丁重に扱うように!」的な扱われ方をしている。パチンコ業界内で超有名な凄腕パチプロがテレビに出たときにも同じ扱い方をするか?

 歌舞伎界が悪いわけじゃなくて、そんなふうに扱うメディアが悪いんだけど。


 以前、永六輔『芸人その世界』という本を読んだ(⇒ 感想)。芸人(歌舞伎、新劇、落語、講談など)の発言を集めた本なのだが、それを読むと歌舞伎役者を含む芸人界がいかにヤクザな世界だったかがよくわかる。

 でもそれはぜんぜん悪いことじゃなくて、まっとうに働いて生きていくことのできない人に、それなりに社会的立場を与えてくれるのが芸人という仕事だったのだ。本当ならヤクザに入っていたような人を、ヤクザ一歩手前の世界に拾いあげてくれる場が芸能界だった。

 さっきわざと歌舞伎とパチンコを同列に扱ったけど、まさに歌舞伎はパチンコのような存在だったのだ。一応ギャンブルなので褒められた行為ではないけど、私営賭博や闇カジノに行くよりはまだマシだよね、という存在。


 そんなふうに、“カタギとヤクザの狭間の存在”だった歌舞伎が、いつのまにか“日本を世界に誇る伝統芸能”になってしまった。それって何よりも、当の歌舞伎界にいる人たちにとって不幸なことなんじゃないだろうか。

 世襲とか、五歳ぐらいの子どもを舞台に立たせて大人たちが大喜びしているところとか、今の価値観だとかなり気持ち悪いことやってるわけじゃない。「俺たちははぐれ者なんだから変なことやってるけど許してね」というスタンスなら許されていたことが、「国を代表する伝統芸能です」という看板をつけてしまうと許されなくなってしまう。


 お笑い芸人も同じ道をたどっている。以前なら女遊びや喧嘩や軽犯罪や反社会的勢力との付き合いがあっても「まあ芸人なんだからしょうがないよね」と大目に見られていた。だけどコンプラの締め付けが厳しくなり、昔だったら「芸人だから」でお目こぼしされていたようなことでも今だと一発退場、なんてことになっている。

 健全な社会になることでやりやすさを感じる人もいるだろうが、その反面、「まともな社会生活を送れないから芸人になった」タイプの人にとっては生きづらい世界になっているのではないだろうか。




 前置きがすごく長くなってしまった。

 かねてより「歌舞伎界ってそんなにきれいな世界じゃねえだろ。変に持ち上げてると当の歌舞伎界を締めつけることになっちまうぞ」という目で見ていたので、吉田修一『国宝』を読んで「よくぞ歌舞伎界の汚い面を書いてくれた!」と感じた。汚い面があるからこそ美しい面が光り輝くわけですよ。


 主人公・喜久雄は、ヤクザの親分の息子として生まれ、中学校にも通わず背中に大きな刺青を入れるなど父の後を継ぐべく極道の道をまっしぐらに進んでいた。だが十五歳のときに抗争により父親が殺害される。以降、組の勢力は弱まり、喜久雄は伝手を頼って歌舞伎役者の家に預けられることとなる。

 すっかり歌舞伎の魅力にとりつかれ、稽古に明け暮れる喜久雄。襲いかかる様々な試練を歌舞伎の実力と、ヤクザによるバックアップ、隠し子、政略結婚などの決してきれいとは言えない手段で切り抜けてゆく。だが喜久雄の歌舞伎役者としての成功と引き換えかのように、周囲の人間には次々と不幸が訪れ……。

「芸人たる者、芸さえ一流であれば他はダメでもかまわない(むしろ私生活が派手なほうがいい)」時代から、「芸人であっても社会人としての常識は身につけなくてはならない」時代へ。時代の変化とともに、一途に芸に邁進する喜久雄はどんどん周囲から孤立してゆく。


 喜久雄と同じ時代を生きるお笑い芸人・弁天はテレビタレントとして大成功を収めた後にこう語る。

「……今じゃ、俺が言うこと為すこと、ぜんぶ正解になってまうねん。まるで御山の大将や。俺、芸人やで。不正解な人間やからこそ価値あったはずやねん。せやろ? 春ちゃんもよう知ってるやろ?」
「せやな。やること為すこと、ぜんぶ不正解やったな」
 思わず春江も笑えば、
「でも、おもろかったやろ?」
「でも、おもろかったわ」
「それが今じゃ何やっても正解や。いろんなとこ担ぎ出されて、ご意見番や。俺に言わせりゃ、人間のクズみたいなもんやで」
 言いながらいよいよ堪らなくなってくるのか、弁天の目にはうっすらと涙まで浮かんでおります。

 権威に逆らって生きることで成功したら、自分自身が権威になってしまう。成功するほど、かつて目指した姿から遠ざかってしまう。なんとむなしい道だろう。



 歌舞伎に限った話ではなく、ある分野で傑出した成功を収めようとおもったら一種の異常者でないといけないのだろう。

 ただ、このとき春江は、結局俊介もまた、堅気の人間ではないのだと思い知らされます。と言いますのも、堅気とヤクザの違いと申しますのは、世間のイメージとは少し違うところがありまして、真面目なイメージの堅気のほうが、実は要所要所できちんと手を抜くことができるのでございます。一方、堅気ではない人間は、なぜか総じてそれができませんので、結果、何をやっても自滅するのでございます。
 こう言い切ってしまいますと、反論も多かろうとは思いますが、小狡いのが堅気、一方、小狡くなれず、結局、大狡くなるしかないのがヤクザな人間と言えるのではありませんでしょうか。

 この文章の中では“ヤクザな人間”と表現している。

 たしかに、犯罪者の手口を紹介するニュースなんかを見ると
「犯罪をするためにめちゃくちゃ考えて、めちゃくちゃ努力してるじゃん。その能力があったらまっとうに働いても成功してただろ」
と言いたくなるような犯罪者がいる。

 その逆で、ある程度成功している会社の経営者を見ていると倫理観や常識がぶっ壊れている人がめずらしくない。これは“ヤクザな人間”がたまたままっとうな道に進んだ例だろう(まっとうな経営をしていないケースも多いが)。

 芸術の道でもヤクザな道でも、成功するのはイカれた人間が多いのだろう(ただしイカれた人間が成功するとは限らない)。



2026年2月16日月曜日

【読書感想文】長岡 弘樹『教場』 / そうまでして警察官になりたいの

教場

長岡 弘樹

内容(e-honより)
希望に燃え、警察学校初任科第九十八期短期過程に入校した生徒たち。彼らを待ち受けていたのは、冷厳な白髪教官・風間公親だった。半年にわたり続く過酷な訓練と授業、厳格な規律、外出不可という環境のなかで、わずかなミスもすべて見抜いてしまう風間に睨まれれば最後、即日退校という結果が待っている。必要な人材を育てる前に、不要な人材をはじきだすための篩。それが、警察学校だ。週刊文春「二〇一三年ミステリーベスト10」国内部門第一位に輝き、本屋大賞にもノミネートされた“既視感ゼロ”の警察小説、待望の文庫化!

 こないだ『教場』テレビドラマを放送していた。途中から観た。

「断片的にはけっこうおもしろいけど全体的によくわかんないドラマだな」とおもった。途中から観たせいだろうとおもって原作小説を読んでみた。

 ……うん、原作も同じだった。断片的なエピソードはおもしろいんだけど「全体的にどうだった?」と訊かれると答えに窮してしまう。神話とか聖書みたい。エピソードの詰め合わせで、全体を貫く芯のようなものがあまり見えてこない。

 いや、全体を貫く芯はあるにはある。教場(警察学校)の教官である風間だ。どんな些細な変化も嘘も見逃さない厳格な教官。この教官の観察眼がストーリーを動かしている。

 だが。この風間教官、ほとんど全智全能の神なんだよね。すべてを見透かしてしまう。あらゆる知識が頭に入っているし、どんな隠し事も風間教官の前では通用しない。弱点がまるでない。神といっしょだ。だから神話や聖書みたいな読後感になってしまう。『教場』を読んでいると、小説の登場人物を魅力的なものにするのは欠点なのだとつくづく感じる。

(ところでドラマ版ではこの風間教官をキムタクが演じていたのだが、実にぴったりの配役だとおもう。完璧すぎてつけいる隙のない人物として適役だった。人間的おもしろみのなさがぴったりハマっていた)

 どの短篇もミステリとしてよくできているのだけど、よくできすぎている気もする。


 風間教官がおもしろみのない人物であるのと対称的に、警察学校の生徒たちは実に人間くさい。悩み、迷い、疑い、失敗をし、嘘をつき、ごまかし、他人を陥れようとする。神の前で右往左往する哀れな人間、という感じだ。ぼくらが共感するのはこっち側だ。

 絶対的な神である風間教官は、決して生徒の嘘を見逃さない。だから『教場』には常に息苦しさが漂っている。生徒たちと同じように、「おまえらの行動はすべて見張られているんだぞ」と言われている気分だ。まるで囚人になったような気分だ。いや、囚人ですらもうちょっと自由があるのではないか。看守は神ではないのだから。

 このまとわりつくような息苦しさ、個人的には嫌いではない(フィクションとして楽しむ分には)。臭いとわかっていて汗の染みた靴下のにおいを嗅いでしまうように、ついつい引き寄せられてしまう不愉快さがある。



『教場』で書かれる警察学校の生活はとても厳しい。刑務所のほうがここよりずっと楽だろう、とおもえる。

 もちろん小説なので実際の警察学校とはちがうのだろうが、一部は現実に近い(あるいは現実のほうがもっと酷い)のだろうなと思わされる。

 徹頭徹尾管理され、理不尽な規則や暴力にも従わなければならない世界。生徒たちに人権はない。そんな場所にいる人間がまともな感覚を保てるはずがない。

 そう話すと尾崎は、分かってねえな、というように顔の前で手を振った。「集団の狂気ってのは怖いぜ。微妙なアリバイなんざ役に立たねえ」「どういうことですか」「学校側の締め付けが続くと、いずれはどんなことが起きると思う?
 学生のなかで犯人の燻り出しが始まるのよ。少しでも怪しいやつがいりゃあ、殴る蹴るのリンチまがいの手を使ってでもそいつに罪を認めさせ、出頭させる。いわゆるスケープゴートってやつだな。そうやって、できるだけ早いとこ一件落着を図るってわけだ。本当だぜ、おれが学生んときにも似たようなことがあったからな」
 すべては学校側の狙いどおりだよ。そうやって横並びの仲間より、縦の組織を大事にする人間を作るのさ──そう尾崎は付け足してから、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 校則の厳しい学校や強豪部活で往々にしてフラストレーションが集団内いじめに向かうように、理不尽な目に遭った者たちはさらに弱い者を攻撃するようになるのが世の常だ。(警察学校に限らず)警察内でハラスメントや暴力が問題になっているのをよく耳にする。


 ぼくが疑問におもうのは、なんでそこまでして警察官になりたいんだろうということだ。この屈辱的な仕打ちを耐え忍んだ先に強大な権力が手に入るというのであればまだわかる。

 だが理不尽な指導や暴力に耐えて耐えて警察学校を卒業したところで、その先に待つのはやはり上からの理不尽な指導に耐える日々だろう。公務員なのでものすごく給与が高いわけでもない。めちゃくちゃ出世して警視総監になったところで、己のために権力を使えるわけではない(まあそれなりの役得もあるだろうけど)。しょうもない政治家にぺこぺこしなきゃいけない。

 一部の国では警察組織が腐敗していて、警官が賄賂を受け取ったり身内の犯罪をもみ消したりするという。そういう国だったら警察官を目指すのはまだ理解できるんだけどね。

 ぼくのような怠惰な人間は、もっと楽で待遇のいい仕事はいくらでもあるのに、とおもってしまう。警察官を目指す人の気持ちはどうもよくわからない。



『教場』で書かれている警察学校の描写ってどこまで事実に基づいているのだろう。

 ずいぶん取材をして書いたらしいのでどれも本当のような気もするし、さすがにそれは厳しすぎるだろうとおもう面もある。


 たとえば生徒が毎日書いて提出しなければならない日記について。

 字面もそうだが、もちろん内容だって疎かにはできない。日記には事実しか書いてはいけないことになっている。もしも誤認した記述があったら、腕立てどころではない。一晩中、寮の廊下で正座していなければならなくなる。
 事実関係を勘違いしていないだろうか。水難救助は月曜の二時限目でよし。犯罪捜査も今日の四時限目で間違いない……。
 もっと恐ろしいのは、文章の中に実際にはなかったこと、つまり創作した内容を混ぜた場合だ。それが発覚したら退校処分となってしまう。
 たしかに書類は正確無比が第一だ。事実どおりの文章を書けない人間は、警察には必要ない。その理屈は分かる。
 とはいえ、いくらなんでもクビというのは厳しすぎないか。

 正確な報告を挙げなければならないという理念はわかるのだが、一発退校処分はあまりに厳しすぎる。ついついストーリーを捜索してしまうことなんてよくあることだし(ぼくなんかほら吹きなので初日で退校になるとおもう)。

 じゃあ警察官が正確な報告を挙げているかというと……。いやあ、警察組織ぐるみでの改竄や虚偽報告なんてしょっちゅう起こっているし、それがばれたときの処分もめちゃくちゃ甘いけどなあ。

 誤りや虚偽を許さない組織だからこそ、逆にミスを認めることができずに大事にしちゃうのかなあ。


【関連記事】

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2026年2月13日金曜日

【読書感想文】筑摩書房編集部『藤子・F・不二雄 「ドラえもん」はこうして生まれた』 / 評伝はきれいなだけじゃつまらない

藤子・F・不二雄

「ドラえもん」はこうして生まれた

筑摩書房編集部

内容(Amazonより)
富山の朴とつな少年が、一生の親友と出会い、プロの漫画家を目指す。SF(すこし・ふしぎ)漫画「ドラえもん」の誕生と日本漫画界の青春時代。

『ドラえもん』『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』などのヒット作で知られる漫画家・藤子・F・不二雄の評伝。青少年向け。


 独自に調べた内容はほとんどなく、藤子不二雄Ⓐの自伝や他の評伝の内容をまとめて再構成した本、という感じなので書いている内容に新鮮味はない。おまけに青少年向けなので内容もマイルドで、「こんなに漫画を愛した人だったんです」「こんな風に努力しました」といった記述ばかりで、はっきり言ってつまらない。

 伝記って、いい面と悪い面の両方があるからこそ書かれている人が人間として立ち上がってくるんだよね。かつて読んだ伝記でも「エジソンは学校では落第生だった、おまけに家の横に作った研究室を爆発でふっとばした」「野口英世は渡米費用を借りたが、その金を遊郭で使い果たしてしまった」とかのエピソードのほうが記憶に残っている。そういう人間くさいエピソードこそ伝記の醍醐味だとおもうぜ。

「エジソンは一生懸命研究して様々な発明品を残しました」だけだったらこんなに我々の印象に残ってなかったはず。



 まあつまらない評伝になってしまうのも無理はないというか、藤子・F・不二雄さんという人は偉大な漫画家ではあるが、人間としてはあまり面白味のある人物ではなかったようだ。

 アシスタントを抱えるまでになっていた藤本は、仕事においても一定のペースで仕事をしました。
 仕事場のある新宿に着くと喫茶店に立ち寄り、キャラクターやセリフを大まかに描くネームを作ります。さらに藤本は、一ページをいつも決まった時間で描いていたと言います。藤本が描くのは一ページ二時間。それ以上でもそれ以下でもなく、きっちり二時間でしたので、自ずと一日に描けるページ数は決まってきます。
 仕事を終えた後は、藤本はたいていまっすぐ家に帰り、仕事と家庭の時間をきっちり分けて淡々と規則正しい日常を送っていました。
 行動は時計のように正確で、品行方正そのもの。破天荒と称されるマンガ家が多いなか、周囲は藤本を「マンガ家にしては珍しい人格者」と呼びました。
 しかし藤本には、プロのマンガ家として一つの考えがありました。人気マンガを描くためには、「普通の人」でなければならないというものです。
 プロのマンガ家であるということは、マンガ作品を出版物にして、何万人もの読者に届けることです。それはつまり、大勢の人が共感を持つマンガを描くということで、そのためには普通の人であるべきだと藤本は考えていました。
 職業はマンガ家であっても、電車に乗って通勤し、仕事が終わって家に帰ると家族団らんの時間を過ごす。休日には部屋の掃除をして、映画を観に出かけたり、家族と食事をする。こうした日常の繰り返しが、プロのマンガ家には必要だと思っていたのです。

 特に仕事が安定してきてからの藤子・F・不二雄氏は、とにかくサラリーマンのような生活を送っていたようだ。

 だからこそ『ドラえもん』『パーマン』『エスパー魔美』『チンプイ』のような日常の中に非日常が混ざる作品を安定して供給できたのだろう。

 ぼくの家には藤子・F・不二雄作品がたくさんあるけど、読んでいておもうのは、とにかく絵が安定しているということ。ムラがないんだよね。「ああこの時期は忙しかったんだろうな」とか「このページを描いているときは筆が乗ってたんだろうな」とか感じることがまるでない。常に安定した品質の漫画を供給している(アシスタントたちの管理が上手だったおかげでもあるのだろう)。

 なるほど、あの安定した品質の作品はこうした安定した生活によって生み出されていたんだろうな。

 こうした姿勢にはプロとしての矜持を感じるが、評伝を書く立場からするとつらいだろうな。おもしろみがなさすぎて。赤塚不二夫氏みたいな人だったらエピソードにも事欠かないんだろうけど。




 ぼくがもっと知りたかったのは、数少ない合作漫画家としての「藤子不二雄」としての面だ。成功した合作漫画家は数いれど、そのほとんどが原案と作画に分かれている。

 藤子不二雄のように「二人とも案を出し、二人で描く」というスタイルで成功した漫画家はほとんどいないんじゃないだろうか(もっとも中期以降は同じペンネームを使ってはいたが別々に描いていたそうだが)。

「天使の玉ちゃん」でもらった稿料二千四百円のほかにも、二人は時おり、マンガの投稿で賞金をもらっていました。
 気づけばそのお金もだんだん増えてきたため、二人は郵便貯金に共通の口座を作り、稿料はすべてそこに貯金することに決めます。二人は貯まったお金を「公金」と称し、ともに相談しながら画材を買ったり、映画を見るための資金として使いました。
 とてもユニークなこのシステムは、後年、二人がマンガ家としてのコンビを解消するまで続けられることになり、共同名義で描いたマンガの稿料はすべて二分割していました。
 通帳は藤本が管理し、毎月月末には「公金」から二人の給料を支払います。どちらが何ページ描いたかなどは関係なく、お金があるときも無いときも、すべて二人で分かち合うのです。
 二人でアイデアを考え、二人でマンガを描き、お金も半分ずつ分ける。二人で一人のマンガ家「藤子不二雄」の誕生です。

 こんなシステムをとりながら、ふたりは喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかったという。すげえなあ。絶対に揉めそうなものなのに。

 以前、コンビ作家だった井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』という自伝エッセイを読んだことがある。そこには、はじめはうまくいっていたが、徐々に考え方や仕事の仕方に関して溝が深まり、やがてコンビ解消を決めるふたりの姿が書かれていた。それを読んで「まあそうだよなあ。友だち同士でクリエイティブな仕事をしていたらいつかはこうなるよなあ」とおもったものだ。

「ひとりでは漫才ができない漫才師」や「ひとりではバンド演奏ができないミュージシャン」ならまだしも、「ひとりで作話も作画もできる漫画家」となるとどうしてもコンビを続けなきゃいけない理由もないわけで。そんな状況で、40年近くも(少なくとも名義上は)コンビを続けた藤子不二雄はほんとに奇跡のコンビだとおもう。

 この本では、中期以降のコンビ間の関係がほとんど書かれていなかった。コンビ活動していなかったのだから当然かもしれないけど、もっとコンビの関係を掘り下げてほしかったな。


【関連記事】

【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』

【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』



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2026年2月6日金曜日

小ネタ45(お茶の間 / 近畿 / ふつうのおすもうさん)


お茶の間

 今や「お茶の間」という言葉は「テレビを見ている人のいる場所、またはテレビを見ている人」という意味でしか使われない。


近畿

 テレビCMで「近畿にいる私たちにお得な情報です!」というフレーズが流れていた。近畿にいない人が考えたのだろう。

 近畿の人はまず「近畿の人」と言わない。「関西の人」「関西人」と言う。「近畿」は地理の授業とか天気予報とかで使う“公的な言葉”だ。まず口語では使わない。

(兵庫・京都・大阪に住んだことのある私の実感。ひょっとしたら「近畿」を日常的に使う地域があるかもしれない)


ふつうのおすもうさん

 すれちがい際にちらっと耳に入ってきたのでどういう会話だったのかはわからないが
「ふつうのおすもうさんやで」
という声が聞こえてきた。

 後からじわじわおもしろくなってきた。ふつうのおすもうさん。ふつうのおすもうさん。

 おすもうさん自体が異形の者なのに。