2050年1月1日土曜日

犬犬工作所について

読書感想文を書いたり、エッセイを書いたりしています(読書感想文 五段)。



読書感想文は随時追加中……

 読書感想文リスト



2026年10月8日木曜日

小ネタ53(あたしンち / 三つ目 / 摩訶不思議アドベンチャー)

あたしンち

 最近、子どもといっしょに漫画『あたしンち』を読んでいる。今も描いているようだが、読んでいるのは今から30年ぐらい前に讀賣新聞の日曜版に連載されていた頃の作品。

 古い漫画なので、読んでいると「あーこれ今だったらヤバそうだな」とおもう話がある。

 たとえばお父さんがソファに寝転んだまま「おい、爪切り」と言ってお母さんに持ってこさせる。お母さんが遅いとキレる。

 たとえば高校生たちが花火を見ながら「えー酒買ってきてないのかよ」と話している。

 たとえば0歳児を温泉に連れていって、赤ちゃんが脱糞したのであわてて掃除をする。

「今だったら非難されそうだな」とおもうのだが、よく考えたらフィクションなんだから登場人物たちがどんな悪いことをしようが叩く必要はない(もっとよく考えたら現実の世界の人物だったとしても無関係な他人が叩く必要はない)。

 フィクションの世界の住人にまで品行方正さを求めるぼくのほうがおかしくなったのかもしれない。


三つ目

 最近、子どもといっしょに漫画『ドラゴンボール』を読みかえしている。気づいたのだが、天津飯は三つ目なのだが、誰もそのことに触れない。

 初登場時は謎めいたキャラクターなので「あいつなかなかやるな」みたいに噂されているのだが、誰も「あの三つ目のやつ」とは言わない。最大の特徴なのに。

 ヤムチャと天津飯はけっこうばちばち舌戦をくりひろげるのだが「今のうちにせいぜいえらそうにしておくんんだな」みたいなことは言うのに「この三つ目野郎め」みたいなことは言わない。

 特に初期のほうのドラゴンボールって時代が時代なので、チビだのハゲだのパンティー見せてくれだの、見た目いじりやセクハラがあたりまえにおこなわれている。なのに天津飯の三つ目だけはいじられない。

 さらにクリリンが「なあ天津飯さん、あんた目がいいだろ」と言うシーンがある。「目がいい」なのだ。「あんた目が三つあるからよく見えるだろ」ではない。明らかに気を遣っている。

 現代アメリカで肌の色に言及するのが絶対的なタブーであるように、あの世界では目の数だけは絶対にふれてはいけないタブーなのかもしれない。


摩訶不思議アドベンチャー

 アニメ『ドラゴンボール(無印)』の主題歌といえば『摩訶不思議アドベンチャー』だ。今聴いても、イントロが流れるだけでわくわくさせてくれる名曲だ。

 ところで『摩訶不思議アドベンチャー』の歌い出しは
「つかもうぜ! DRAGONBALL」だ。その後に
「さがそうぜ!  DRAGONBALL」と歌われ、2番では
「手にいれろ!  DRAGONBALL」
「追いかけろ!  DRAGONBALL」
だ。

 ……順番、変じゃないか?

 ふつうは、さがして追いかけてつかむことで手にいれるものだろう。


2026年10月5日月曜日

【読書感想文】瀧本 哲史『僕は君たちに武器を配りたい』 / 10年後に効いてくる

僕は君たちに武器を配りたい

エッセンシャル版

瀧本 哲史

内容(e-honより)
非情で残酷な日本社会で、20代が生き残るための思考法とは何か?不安に立ちすくむ日本人が、今こそ学ぶべき「本物の資本主義」とは何か?東大、マッキンゼーを経て、京大で人気No.1の授業を持つ客員准教授が世に問う必読の書。2012年度ビジネス書大賞受賞の名著をエッセンシャル版にして文庫化。

 エンジェル投資家だった瀧本哲史さんが若者に向けて書いた本(のエッセンシャル版)。

 かなり雑多な内容なので、個々のエピソードは読みやすくおもしろいのだが、一冊の本としてはまとまりに欠けるというか、「結局何について語った本だっけ?」という感じだ。


 全体を通したメッセージとしては、今後の世の中で必要とされる人間になるためにコモディティ化するな、というもの。

 コモディティとは、経済的な意味でいえば「代替可能な商品やサービス」だ。要は「替えのきかない人間になれ」で、至極あたりまえといえばあたりまえだ。



 悪者にされがちな派遣業界について。

 なぜなら、労働者の賃金が下がったのは、産業界が「派遣」という働き方を導入したのが本質的な原因ではなく、「技術革新が進んだこと」が本当の理由だからだ。自動車産業に代表される工場のラインがオートメーション化され、コモディティ化した労働者がそこに入っても、高品質の製品が作れるようになったことが、賃金下落の本当の原因なのである。
 派遣労働の禁止も、世間の人たちのウケを狙った小手先の改革にすぎず、賃金下落の本質を捉えていない。メーカーへの派遣が法律で禁止されれば、メーカーは次に、その仕事を外注に出し、請負先の企業がやはり低賃金で人を雇ってモノを作らせるだけだ。
 つまり賃金下落も、産業の発達段階の問題でしかないのである。産業の成熟化が進み、熟練労働者が必要なくなれば、新自由主義といった思想とは関係なく、労働者は必然的に買い叩かれる存在となってしまうのである。

 いまだに「派遣業界が悪の巣窟、派遣によって労働者の価値が低下した!」なんてことを言う人がいるけど、話が逆なんだよね。労働者の価値が低下したから派遣が多く使われるようになった。

 リーマンショックのときに「派遣切り」が社会問題化したけど、派遣業がなければ正社員切りがおこなわれていただけだろう。

「うちの会社だけで使われているやりかた」だらけであれば、かんたんに派遣社員は使えない。逆に、どの会社にいってもPCはWindows、表計算はExcel、会計ソフトは弥生会計……というように同じような仕事ができるのであれば正社員を多く抱えておく必要がない。繁忙期だけ派遣社員を雇ってもいいし、正社員が辞めてもまた同じような能力を持つ人を雇える。

 問題はいろんな仕事が代替可能になってきていること。

 いくらでも替えがきくとおもわれている人間は安く買いたたかれる。だからコモディティ化されていない(替えのきかない)人間にならなくてはいけない……という著者の主張はもっともなんだけど、いやあ、現実にはむずかしいよねえ。

 誰もがオンリーワンの能力を身につけられるわけじゃないし、そもそもどこか一点に特化した能力を持つ人はハマれば強いけど、それは適した場所が見つかった場合のみ。個性的な能力を持つ人ほど、汎用的な能力を持つ人に比べて適した場所を見つけるのがむずかしい。

 そもそも雇う側としては代替可能な人間のほうが都合がいい。その人が辞めても会社がつぶれないし、経営者としては強気の給与交渉ができる。経営者の利益と労働者の利益がおもいきり衝突してしまう。



 著者は、今後必要とされる能力はマーケター、イノベーター、リーダー、インベスター(投資家)としての能力だと主張する。

 市場を読み、新たなものを生み出し、他人をマネジメントし、投資家的な視点を持つことが必要だと。

 マーケターとしての資質の例。

 ある成績優秀な女性は家庭の経済的事情で短大に進学した。家族を支えるため少ない時間でバイトをしようとするとやはり家庭教師だろうと考えた。しかし、残念ながら本人の学力や教える能力と関係なく、「短大の女の子」に家庭教師を頼む人を見つけるのは難しかった。しかも、彼女の生活圏にはすでに大手の進学塾や家庭教師センターがしっかりと地盤を築いており、彼女がいくらビラを撒いたりしても、まったく生徒が集まらなかった。そこで彼女は戦略を変更する。「偏差値40以下の中学生だけを教える家庭教師」を始めたのだ。
 彼女が家庭教師を始めた地区は、教育熱心な地域であったため、学習塾も数多くあったが、そのほとんどは勉強のできる子どもを対象とする、有名私学を目指す指導を行っているところばかりであった。彼女はそうした学習塾がまったく相手にしていない、勉強ができないけれど、せめて高校ぐらいは卒業しておきたい、と考える親とその子どもをビジネスの相手としたのである。しかも彼女は「高校に無事に合格できたら特別ボーナスをいただきます」と成功報酬制の契約を結んだことから、初年度から大きく稼ぐことが可能となった。彼女の短大出という弱みは、基礎から親切に教えてくれそう、苦労しているから弱い人の気持ちが分かる、と逆に強みになったわけである。

 なるほどね。

 難関大を目指す子が家庭教師を選ぶなら、短大生よりも難関大に通っている大学生のほうが価値があるだろう。でも「学校の勉強についていけないのでせめて平均点ぐらいとれればいい」という子にとっては、短大生のほうが「親切に教えてくれそう」となるわけだ。

 自分の属性や能力はそうかんたんに変えられなくても、自分を売り込む市場を変えることで大きな価値を持つことがある。


 そういえば「勉強が得意な人が弁護士資格をとって弁護士になっても苦労する」と聞いたことがある。なぜなら弁護士業界では「勉強が得意」なのはあたりまえで、弁護士資格を持っていることは最低条件であって何の強みにもならないからだ。でも土俵を変えて「弁護士資格を持っている現場監督」とか「弁護士資格を持っている営業マン」とかは貴重な存在なので大きな強みになる(こともある)。


 ぼくも、難関大と言われる大学を出たが、就活に失敗し、無職期間を経たりいろいろあって、今はそう大きくない会社で働いている。決してエリートコースとは呼べないが、おかげで「○○大出てるんですか! めちゃくちゃすごいですね!」と言ってもらえる。おかげで得することもある。これが有名大企業に就職していたら、ぼくの学歴ぐらいの人なんてごろごろいるわけだからアドバンテージにはならなかっただろう。

 あえて得意分野とちがうところに行くことで活路を見いだせることもあるわけだ(ぼくの場合はあえてではなく紆余曲折あった末にそうなったわけだが)。



 すぐに役立つお手軽なノウハウは書いていないが、ほんのちょっとだけ未来を照らしてくれるような本だった。

 読んですぐではなく、10年後ぐらいに効いてくる本じゃないかな。


【関連記事】

【読書感想文】地図ではなく方位磁針のような本 / 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』

【読書感想文】瀧本 哲史『武器としての交渉思考』 / デモに効果がない理由



 その他の読書感想文はこちら


2026年10月1日木曜日

【読書感想文】堀江 貴文『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』 / がんばって炎上芸

すべての教育は「洗脳」である

21世紀の脱・学校論

堀江 貴文

内容(e-honより)
学校とは本来、国家に従順な国民の養成機関だった。しかし、インターネットの発達で国境を無視した自由な交流が可能になった現代、国家は名実ともに“虚構の共同体”に成り下がった。もはや義務教育で学ぶ「常識」は害悪でしかなく、学校の敷いたレールに乗り続けては「やりたいこと」も「幸せ」も見つからない。では、これからの教育の理想形とはいかなるものか?「学校はいらない」「学びとは没頭である」「好きなことにとことんハマれ」「遊びは未来の仕事になる」―本音で闘うホリエモンの“俺流”教育論!

 冒頭から「学校は必要ない!」なんてカマしてくるから「やっぱり読むんじゃなかったかな……」とおもいながら読んだのだが、わざと露悪的なことを言っているだけで言っていることはわりとふつうだった。平凡すぎて逆にがっかりしたぐらい。

「親や教師から言われたことを鵜呑みにするな」とか「これからの時代、国家の重要性はどんどん下がっていく」とか「学ぶことは重要だ。何かに打ちこんでスペシャリストを目指せ」とか、書いてあることはいたってまともだ。がんばって炎上芸をやっている、という感じだ。

 これまで堀江貴文さんの書いたものをちゃんと読んだことがなく、ときどきネットニュースで「ホリエモンの暴論に賛否両論!」みたいな記事を見る程度だったので、どんな乱暴な意見が読めるかと身構えていたのに、肩透かしを食らった気分だ。



 第1章の『学校は国策「洗脳機関」である』はかなり強めの語調で書かれていたのでおもしろかった(まったく賛同はできないけど)。

 それでは、なぜ学校は恣意的な常識を人に押し付けようとするのか?その常識によってどんな人間を育てようとしているのか?
 一言でいえば、従順な家畜である。
 社会は、とくに旧来型の企業では、従順な働き手を求めている。したがってその養成段階である学校で子どもたちは道徳規範を叩きこまれ、学力という形で「従順さ」に点数がつけられていく。
 受験のため、卒業のため、就職のため、どんな理不尽な勉強にも耐え、ひたすら情報処理能力を磨いていく。そんな従順さの指標が、受験社会における「学力」だ。
 企業からすると高学歴の人間は、理不尽な作業への耐性が強いという判断になる。いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのも、要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているからだ。

 ま、言ってることはわかるんだけど。

 でも世の中の人ってそんなにはっきりと「従順」と「独立志向」に分かれるものじゃないとおもうんだよね。まあ「一度も人の下で働いたことがなくて起業して成功した人」もいるけど、それよりは「従順さと独立志向の両方を持ち合わせて成功した人」のほうが多いはず。

 アーティストなんかでも、成功するのは芸術的センスが優れている人ではなくプロモーションが上手な人って言うし。すべての面で卓越した技能と知識を持った人なんていないんだから、ある面ではエゴイストで、ある面では従順な人のほうがうまくやれるとおもうんだけどな。

 たしかに学校には無駄も多いけど、それをもって学校は不要とまで言い切るのは極論だぜ。せっかく多くのノウハウが詰まった教育システムがあるんだから、全否定するんじゃなくて、必要に応じてうまく学校教育を利用したらいいとおもうよ。



 教育よりも他の話のほうがおもしろかった。

「所有」の話とか。

 ネットサービスに限らない。身の回りのモノについても、「所有」という概念が消えつつある。
 モノの行き来にかかる時間的コストは、極限まで下がった。国内の製品であれば、アマゾンで注文すれば翌日届いてしまう。プライム会員ならば、数時間以内に手に入れることだって可能だ。海外の商品ですら、2~3日で届くことにもはや誰も驚かない。
 これは、アマゾンの倉庫を借りてモノを保管してもらっているのとほぼ同じだ。そこから必要な時に運んできてもらうようなものである。
 極論でもなんでもなく、アマゾンやヨドバシカメラといった優良通販サイトさえあれば、僕たちはもう、手元にいちいちモノを置いておく必要がない。モノですら、アプリのように「アクセス」すれば届くのだ。
 インターネットの登場がもたらした恩恵は、「他者と通信できる」ことではない。情報やモノ、あらゆるものの「所有」の価値を著しく下げたことなのである。これこそ、インターネットのもたらした社会変化が「情報革命」と呼ばれる所以だ。

 立川こしらさんという噺家が、家を持っていないという話を読んだことがある。ずっとホテル住まいで、服なんかは使い捨てをしてるとか。たしかに移動の多い生活をする人にとっては家がないほうが合理的かもしれない。

 ぼくはここまで合理的な考えはできないけど、インターネット以前に比べれば「モノを所有したい」という欲はずいぶん減った。昔は本やCDをたくさんコレクションしていたけど、CDはもう聴かなくなったし、どんなに好きな本だってほとんど読み返すことはない。特に情報を得るツールに関しては、所有の価値はすごく下がった。

 あとこれは経済的余裕ができたからでもあるかな。貧しい人のほうがモノが多いという話を聞く。お金に余裕があれば「また必要になったら買えばいい」とおもえるもんな。



 個人的にはあんまり共感できなかった(ぼくは古い人間なので)けど、いちばん納得できたのは以下のくだり。

 そのことを解説するために、もう一つ、実際にされた質問を紹介しよう。
「土地を持っています。巨大施設は作れなさそうな狭さなので、ラグジュアリーなホテルをここに建てようと思うのですが、周りには強豪となりそうな宿泊施設も多いです。堀江さんならどのような方法で差別化を図りますか?」
 土地がある。狭さから見てこういったことにしか使えない。どうすればそこで勝ち上がれるだろうか。
 この質問は「ホリエモンチャンネル」でも取り上げ、「順序が逆だ」と指摘した。土地があるからホテルを作るのではなく、「ホテルを作りたいから土地を探す」のが本来の順番だ。ラグジュアリーなホテルを作り、人を楽しませたいと考えている人はいくらでもいる。その中の「本気」な人たちは、必ずこう考えているだろう。
「こんな雰囲気の、素敵なホテルをつくりたい。ロケーションはこうがいい。だから、日本のこのあたりで、こういった土地を探そう!」
 手持ちのものをうまく使うことだけを考えている人と、「これを作りたい」というビジョンがはっきりしている人。
 どちらの方がパフォーマンス高く理想を実現できるだろうか。そして何より、どちらの方が、お客にとって理想的な空間になるだろうか?比べるまでもなく、後者である。
 つまり、自分のやってきたことや、すでに持っているものから「やること」を決めてはいけないのだ。

 そうだよね。「自分の強みを活かそう」と考えてしまうけど、自分でおもう自分の“強み”なんて大したことじゃないんだよね。逆に自分からしたら「えっ、そんなのあたりまえのことでしょ」とおもうようなことが強みだったりする。苦労して身につけたことよりも、自然と身についたことのほうが価値がある。

 たとえばマンガの神様・手塚治虫さんは医師免許を持っているけど、最初から「せっかく取得したこの医師免許を活かして何かできないか?」と考えていたら、あの偉大な作品たちは生まれていなかっただろう。「医師免許なんかどうでもいい、マンガを描きたいから描く!」という意識だったからこそ大成したのだろう。

「せっかく長年この仕事をやってきたからそれを活かして次の仕事を探そう」とか「せっかく資格があるからこの資格を活かした仕事を」とかのセコい考えじゃだめだってことね。これは経験上、観測上でもうなずける話だ。



 読んでいておもったんだけど、この本を読んで「なるほど、さすがホリエモン。いいこと言う。俺もこんなふうに生きよう!」とおもう人は、堀江さんが最もばかにするタイプの人だ。堀江さんが言うところの“従順な家畜”だ。

 ここに矛盾がある。堀江さんはオンラインサロンとか有料メルマガとかやってるみたいだけど、その顧客こそが最も堀江さんが目指す人間から遠い人たちなんじゃないのか。

 それを堀江さんもきっとわかっている。わかっていて、でもお金を払ってくれる大事な客だから、その人たちを気持ちよくさせるようなことを言う。

 うーん。


【関連記事】

【読書感想文】佐々木 実『竹中平蔵 市場と権力  ~「改革」に憑かれた経済学者の肖像~』 / ホラーよりおそろしい

【読書感想文】大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』 / 自由競争も弱者救済も嫌いな国民

【読書感想文】ウォルター・ブロック(著) 橘 玲(超訳)『不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ』/ 詭弁のオンパレード



 その他の読書感想文はこちら


2026年9月28日月曜日

【読書感想文】宮本 常一『山に生きる人びと 』 / ダムに沈んだ村には帰りたくない

山に生きる人びと

 宮本 常一

内容(e-honより)
山には「塩の道」もあれば「カッタイ道」もあり、サンカ、木地屋、マタギ、杣人、焼畑農業者、鉱山師、炭焼き、修験者、落人の末裔…さまざまな漂泊民が生活していた。ていねいなフィールドワークと真摯な研究で、失われゆくもうひとつの(非)常民の姿を記録する。宮本民俗学の代表作の初めての文庫化。

 常に未読の本が十冊以上ある状態なので、いざ読もうと手に取ったときに「かつての自分はなんでこの本買ったんだろう……?」とおもうことがときどきある。

 これもそのうちの一冊で、ほんとになんで興味を持ったのかわからない。民俗学にまるで関心いないんだけど……。


 読んでみてもやっぱりわからない。古来日本の山中で生活していた人たちの様子をただそのまま描写しただけで、全体を通して何かが見えてくるというわけでもない。うーん、ほんとになんで買ったんだろう。

 そもそも山中で暮らしていた人たちに興味を持ったこともなかったので「イノシシとか山菜とかをとって生活していたのかな」ぐらいのぼんやりとしたイメージしか持っていなかった。ぼくの「昔の庶民の暮らし」って落語によって形成された部分が大きいんだけど、落語って町人の文化なので農村部や山間部はほとんど出てこないんだよね。『池田の猪買い』ぐらいか。

 山で暮らしている人は文書で記録を残すことも少なかっただろうしな。だからこういう資料は貴重なんだろう。


『山に生きる人びと』を読むと、山中で暮らす人たちも平野の人たちとまったくつながりを断って生きていたわけではないことがわかる。

 猟師にしても、農村の人たちのために農作物を野獣の被害から守ることを引き受けていたとか。炭焼きで木炭を作っていた人も、その木炭は鉄・銅・銀などの精錬に使われていたとか。小泉武夫『猟師の肉は腐らない』という本に、山奥にたった一人で暮らしている猟師が出てくるが、彼にしてもときどき町に下りて獲ったイノシシやドジョウを現金化し、調味料を買ったりしているらしい。完全な自給自足というのはできないものらしい。



 興味深かったのが、1186年にはじまった東大寺(奈良県)再建の記録。

 東大寺に使われた木材は、なんと周防の国(山口県)から持ってきたのだという。

 道すらない山中に入って100尺(約30メートル)以上の丈夫な材木をさがし、それを斧で伐り倒す。そこからがまたたいへんだ。

 さて、この伐り倒した木を運び出すのがたいへんな作業である。ろくろを二張つけて、七〇人あまりの人で一本の木をひいたという。この木をひくための綱も径六寸・長さ五〇〇尺、それを柱の本末に二本つけてひくのである。綱そのものの重さだってたいへんなものであるから、人力だけで一本の木をひくとなれば一〇〇〇人の人を必要としたであろうが、ろくろを用いることによって七〇人ですんだのである。しかしそれだけでは材木を運び出せない。谷をうずめ、岩を割って道をつくり、木を倒して橋をつくり、佐波川の本流まで運ばねばならぬ。そこからは流水を利用して下すことができる。材木を運び出すために山中につけた道は三〇〇丁にのぼった。

 道をつくり、橋をつくり、とんでもなく重い木を運ぶ。これを800年以上前、車も電気もない時代にやっていたのだ。

 さらにさらに。山口県から奈良県まで運ぶという大事業が残っている。

 重源は後白河法皇の命をうけて、とるものもとりあえず周防国へ下ってきて十分用意もととのわないなかにあって、とにかくこれだけの材木をまず奈良へ運んできた。大きな木であるから川を下して海へ出しても船に積むことはできない。これを船にひかせて瀬戸内海を東へのぼってきた。風力を利用して帆を張ってくればすこしはらくであろうが、なにぶんにも大きな木である。波のあるなかをひいてくるのは困難だから、風のないとき、橈でこぐ船でひいてこなければならない。そして淀川をさかのぼって山城の木津まで持ってきてそこから大八車にのせて牛にひかせた。牛の数は一二〇頭にのぼったといわれる。

 ひゃあ。材木を用意するだけでこの苦労。とんでもない公共事業だ。今のオリンピックや万博など比較にならないぐらいの大工事だったはずだ。ピラミッドや万里の長城の建設にも匹敵するぐらいの難事業だったはず。

 人間って(牛も使ってるけど)電気がなくてもこんなにすごいことができるんだなあ。つくづく、集団になった人間の力はすごいと感じさせられる。



 なんかおもしろかった話。
 ダムで沈む村の人たちが絶対反対して移住をこばんできたのが、新しい移住さきへおちついてみると、もうもとの山への愛着はほとんどなくなったという話はよく聞く。昭和三六年七月の集中豪雨で大きな災害に見まわれた長野県天竜川東岸山中の村々でも、そこにはとうてい住める見込みもなくて、天竜川西岸の駒ケ根市や伊那市へ移住した者もすくなくなかったが、それらの人を移住さきにたずねてみて、いずれも移住してよかったという感慨をもらしているのは印象にのこった。わずかばかりの畑を耕し、山林労務にしたがっているよりも、土地を持たず、その日働きの生活に不安はあるとしても、ここにおれば子供を一人前に学校へ通わすことができるだけでもありがたいといっていた。

 ふふふ。よく漫画とかで「ダムに沈んだ村」が感傷的に語られたりするけど、いざ移り住んでみると「こっちのほうがいいや」となるようだ。

 そうだよねえ。一度便利な生活を知ってしまうとなかなか戻れないよね。


 転居でも転職でも、躊躇する理由の多くは「今より悪くなったらどうしよう」という不安なんだよね。戦わせているのは「転居するメリット」と、「転居することのデメリット」+「最悪の事態になったときの不安」なんだよ。

 人は変化を恐れる。変化にともなうマイナスを、プラスよりもずっと大きく見積もる。生まれてから一度も村を離れたことのない人ならなおさら。

 ぼくもそうだったからわかる。高校生になるまで生まれ育った街を離れるのはすごく嫌だったし、できることなら戻ってきたいとおもっていた。でも故郷よりずっと人の多い街に住んでみると、ここを離れる選択はしたくない。故郷は故郷で今も好きだけど、今の生活を捨てて移り住みたいとはおもわない。

 立ち退きに反対している人とかも、いざ引っ越してみたら、一年後に「元の家に戻りたいですか?」と訊かれても首を横に振る人が多いんじゃないだろうか。


【関連記事】

【読書感想文】小泉 武夫『猟師の肉は腐らない』 / お金は便利なり

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈一〉 四季折々』



 その他の読書感想文はこちら