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2024年3月19日火曜日

【読書感想文】佐々木 実『竹中平蔵 市場と権力  ~「改革」に憑かれた経済学者の肖像~』 / ホラーよりおそろしい

竹中平蔵 市場と権力

「改革」に憑かれた経済学者の肖像

佐々木 実

内容(e-honより)
この国を超格差社会に変えてしまったのはこの男だった!経済学者、国会議員、企業経営者の顔を使い分け、「日本の構造改革」を20年にわたり推し進めてきた“剛腕”竹中平蔵。猛烈な野心と虚実相半ばする人生を、徹底した取材で描き切る、大宅壮一ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞ダブル受賞の評伝。


 何者なんだかよくわからないけど、とにかくネット上ではめったらやったら嫌われている人・竹中平蔵。そのわりに一部の政治家や財界人からはものすごく重用されている(らしい)人。

 ぼくの中では二十数年前に小泉純一郎がやっていた行政改革の旗振り役、のイメージが強い。その後はパソナグループなどで要職をまかされて、ときどき経済系のメディアに出てきて何かしらの提言をしている。そしてそのたびに猛反発を受けている。なんなら「日本を悪くしたA級戦犯」ぐらいに語られることもめずらしくない。もはやヒットラーと並ぶぐらいに「この人の悪口を言っても擁護する人がいない」存在だ。

 でも、竹中平蔵という人が何をしたのか、ぼくはほとんど知らない。どんな人間なのかもまるでわからない。メディアで語っているところは何度か見たことあるが、常に余裕をたたえた笑みを浮かべていて、本心のところで何を考えているのか、何に怒りを感じるのか、何を目指しているのか、そういったところがまるで見えない。

 一言でいえば、得体が知れない人だ。




『竹中平蔵 市場と権力』は、そんな竹中平蔵氏の評伝だ。評伝といっても著者は竹中氏に批判的なスタンス。本人へのインタビューなどもない。過去の言動、著作、そして周囲の人の談話から竹中平蔵という人の姿を描きだす。


 読んでいてまずおもうのは、竹中平蔵という人はすごく優秀な人なんだということ。

 頭が良くて、勤勉で、時流を読むのがうまく、人に取り入るのもうまい。「部下にしたいタイプ」だ。だからこそ小泉政権や安倍政権で重用されたのだろうし、様々な企業でも重要なポストを与えられたのだろう。

 官僚経験のある香西は早くから竹中の資質を見抜いていた。竹中がエコノミスト賞を受賞した際に寄せた祝辞のなかで的確な竹中論を開陳している。
 「研究者としての才能にもう一つ付け加わるのが、『仕掛け人』『オルガナイザー』『エディター』としての腕前ではないだろうか。人のよい私など、氏の巧みな誘いに乗せられて、感心しているあいだに仕事は氏の方でさっさと処理していてくれたという経験が、何度かある。この才能は、あるいは大蔵省で長富現日銀政策委員(筆者注長富祐一郎の当時の役職)などの薫陶をえて、さらに磨きがかかったものかもしれない。これは学者、研究者、評論家には希少資源であり、しかも経済分析が現実との接触を保ちつづけていく上で、貴重な資源である」

 部下にはしたい。が、同僚や上司だったら嫌なタイプだろうなともおもう。

 打算的で、他人に厳しく、権力者にとりいるのはうまいが重要でないとみなした人間に対してはとことん冷酷。目的のためなら他人を貶めることも躊躇しない。そんな印象を受ける。

 コネも権力もないところから己の才覚と努力で成りあがった人で、典型的な新自由主義者タイプだ。

「おれは恵まれない境遇から努力して今の地位を築いた。だからどんな境遇でもやればできる。できないのはやらなかったからだ。今あなたが貧しいのは努力をしなかったからだから、悪い境遇に陥るのもしかたない」というタイプ。謙虚でない成功者に多いタイプだ。

 こういうクレバーな人はビジネスマンとしては優秀だが、弱者への共感が欠けている。「どんなにがんばっても成功できない人」もいるし、「成功した人は運に恵まれていた」ということを認めたがらない。この手の人には政治家にはなってほしくない。というか政治に関わらないでほしい。どうか政治とは距離を置いて、せいぜい金儲けに勤しんでほしい。でもこういう人ほど政治に近づきたくなるんだよね。そっちのほうが儲かるから。努力をするよりもルールをねじまげちゃうほうがずっと楽だから。




 竹中平蔵という人は、よく言えば目端が利く人、悪く言えば小ずるい人である。

 シンクタンクにかかわる以前から、資産形成に対する努力には並々ならぬものがあった。九〇年代前半、アメリカと日本を股にかけて生活していた四年間、竹中は住民税を支払っていなかった。
 地方自治体は市民税や都道府県税といった地方税を、一月一日時点で住民登録している住民から徴収する。したがって、一月一日時点でどこにも住民登録されていなければ、住民税は支払わなくて済む。
 竹中はここに目をつけ、住民登録を抹消しては再登録する操作を繰り返した。一月日時点で住民登録が抹消されていれば、住民税を払わなくて済むからである。小泉内閣の閣僚になってから、住民税不払いが脱税にあたるのではないかと国会でも追及された。アメリカでも生活していたから脱税とはいえないけれども、しかし、住民税回避のために住民登録の抹消と再登録を繰り返す手法はきわめて異例だ。

『竹中平蔵 市場と権力』ではこの手のエピソードが何度も紹介されている。

 法律では裁かれないけど、決して公正とは言えない行為。そういうことをためらいなくできちゃう人なのだ。

 ことわっておくが、こういう人は決してめずらしくない。世の中にはたくさんいる。

「無料でどうぞと書いてあったから使う分以上に持って帰った」
「デパートの試食コーナーをうろうろして買う気もないのにおなかをふくらます」
「国会議員に毎月100万円支給される文通費は領収書不要なので生活費に使う」
「官房機密費は使い道を明らかにしなくていいから票を買うのに使う」
みたいな小悪党のマインドだ。いわゆるフリーライダー。

 こういうあさましい気持ちは、おそらく誰の心の中にも多かれ少なかれ存在する。もちろんぼくだって「払わなくて済むなら払いたくない」という気持ちは持っている。ふるさと納税なんて制度自体がそういう制度だ。

 ただ、竹中平蔵という人はその気持ちが人より強く、さらにばれても「法的には(ぎりぎり)裁けないじゃないか」と開き直れる人なのだ。さらに発言をひっくりかえすことにもためらいがない。

 くりかえし書くが、こういう人はめずらしくない。どこの町にもどこの職場にもいる。近くにいたら「あの人ちょっと厚かましいよね」ぐらいの存在だ。


 問題は、その人がふつうの人よりずっと賢く、ずっと権力者にとりいるのがうまく、ずっと野心的で、大きな権力を手にしてしまったことだ。

「ちょっと厚かましいおじさん」に権力を渡してしまったら、国中の貧富の差が大きく拡大し、多くの人が首をくくるような社会になってしまった。そんな感じだ。つくづく政治というのはおそろしい。




 竹中さんという人は、ほれぼれするほど世渡りがうまい。スネ夫もかなわないほど。

 森政権末期、竹中は森首相のブレーンの立場を確保しながら、次期首相候補の小泉に接近し、一方では、最大野党の党首である鳩山とコンタクトをとっていた。政局がどう転んでも、政権中枢とのパイプを維持できる態勢を整えていた。小泉政権発足とともに入閣した竹中は、小泉の「サプライズ人事」で突然登場してきた「学者大臣」という受けとめ方をされたけれども、実態は違っていたのである。

 森喜朗が首相だったとき、森首相のブレーンでありながら、次期首相と名高い小泉純一郎に近づき、さらに政権交代した場合にそなえて民主党の鳩山由紀夫にも接近していた。すごい。誰が政権をとってもそこに食い込む計算になっていたわけだ。

 節操がないけど、この節操のなさこそが最大の武器なんだろうな。




 以前、橋下徹『政権奪取論 強い野党の作り方』という本を読んで、橋下徹という政治家の、思想のなさに驚いた。

 彼はその本でこう書いていた。

 インテリ層たちは政党とは「政策だ」「理念だ」「思想だ」と言うけれども、そうではなくて、極論を言えば各メンバーの意見をまとめる力を持つ「器」でありさえすればよい。野党としては、政権与党に緊張をもたらすためのもう一つの「器」であることが大事なのであって、器の中身つまり政策・理念・思想などは、各政党が一生懸命、国民の多様なニーズをすくい上げて詰めていくものだと思う。つまり政党で死命を決するほど重要なのは組織だ。はじめから政策・理念などを完全に整理する必要はない。

 思想や理念は二の次で、まずは組織を固めて政権をとることだと書いている。「こうしたい」「こんな世の中にはなってほしくない」というビジョンがあってそのために政治家を目指すものかとおもっていたが、彼は逆で、まず権力を手に入れてからそれをどう行使するかを考える。

 その空虚さに良くも悪くも空恐ろしさを感じたものだが、竹中平蔵という人は橋下徹とはまたべつのタイプのおそろしさがある。

 政治家としての思想は軽薄でも、橋下徹という人物には人間味がある。好き嫌いが激しいし、ユーモアもある。反論されてむきになりやすいのは弱点でもあるが、その欠点こそが彼の魅力でもある。言ってみれば子どもっぽい。だからこそテレビでも登用されるのだろう。ぼくも、政策的にはまったく賛同できないが、テレビタレントとしての橋下徹はけっこう好きだ。


 その点、竹中平蔵氏は橋下徹の子どもっぽさを取り除いたような成熟した恐ろしさがある(童顔だから余計にギャップが大きくて怖い)。

 もっと冷徹に、もっとしたたかに、どれだけ時間をかけてもじっくりチャンスを待つタイプ。

 行動の目的も、「金持ちになりたい」とか「名を残したい」とかのわかりやすいものではない気がする。もちろん「国や地域をよくしたい」ではない。何かもっと大きな目的のために動いてる、いや動かされてるんじゃないか、という気さえしてくる。権力は好きだけど、それ自体が目的というわけでもなさそうだし(大臣にまでなったのに政治家の道をあっさり捨ててしまうところとか)。

 ぜんぜん根拠はないけど、何かに対する恨みとか憎悪が根底にあるのかな……。とにかく、説明のしようのない恐ろしさが終始漂ってるんだよね。竹中平蔵氏の行動には。




 竹中平蔵という人物のことがわかるようになるかとおもってこの本を読んでみたけど、結局よくわからなかった。むしろ底知れなさは深まったかもしれない。ま、ぼくの経済の知識が乏しくて専門的な話がまるでわからなかったってのもあるけど。

 なんかへたなホラーよりこわかったな。じんわりと。


【関連記事】

【読書感想文】からっぽであるがゆえの凄み / 橋下 徹『政権奪取論 強い野党の作り方』

【読書感想文】歴史の教科書を読んでいるよう / 辻井 喬『茜色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯』



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2024年3月13日水曜日

R-1グランプリ2024の感想

R-1グランプリ2024の感想。


真輝志 (入学初日)

 おもしろかった。個人的には優勝でもいいぐらい。

 青春アニメの第一話のような導入から、ナレーションによって微妙な未来を提示される。そのくりかえしから、執拗な軟式ラグビー部、女子生徒、英語、天の声が壊れる、女子生徒の人生との交錯など様々な変化をつけて飽きさせない。

 変化はあれど、ちゃんと最初の設定は壊さない。このバランス感が見事。寿司屋に行ったらいろんな種類の寿司を食べたいけど、だからってハンバーグおにぎりとかはちがうもんね。いくらおいしかろうと寿司の枠は壊さないでほしい。


ルシファー吉岡 (婚活パーティー)

 今までは見たルシファー吉岡のネタってたいていルシファーがヤバい人だったけど、このネタに関してはルシファーはツッコミ役。ちょっといい人すぎて変ではあるけど、でもまあ常識人の範囲にはおさまっている。これはこれでいい、というか、R-1グランプリという大会ではこっちのほうがいいんだろうな。

「ヤバい人」より「ヤバい人にふりまわされる人」のほうが安心して笑えるもんね。ベルの音や「私以前、私以後」といったフレーズの使い方も見事。

 でも個人的には、ずっとやってきた下ネタを捨てて、大会にあわせにきたルシファーさんを見るのはちょっと寂しい気もしたな。


街裏ぴんく (温水プール)

 前評判がよかったので楽しみにしていたのだが、期待外れだったな。やろうとしていることはわかるんだけどそれだったらもっとうまいやり方があったんじゃないの?

 だって「温水プールに行ったら石川啄木がいた」って嘘がすぎるじゃない。嘘のおもしろさってさ、「嘘かほんとかわからないけど自分にはギリギリ嘘だとわかる」ぐらいのラインを突くのがいちばんおもしろいわけじゃない。「おつむの弱い人はわからないけど自分にはわかる」ぐらいが。

 なんかさ、最初はもっと絶妙な嘘をついて(嘘っぽいけどありえなくもないぐらいの)、そこからちょこちょこ嘘を発展させて、でもときどき真実性の高いことも混ぜて……みたいな構成のネタを見てみたかったな。ハライチのラジオで岩井さんがやっているような。

 石川川石とか言ったときは一部の客が「へえー」とか言ってて、そうそうこういう嘘! とおもったんだけど、その後もまた真っ赤な嘘に終始してしまった。


kento fukaya (マッチングアプリ)

 んー。どこかで見たことのあるようなフォーマットを集めたネタだったな。

 おもしろくないわけじゃないんだけど、新鮮味がなかった。R-1って何をやるのも自由だから、新しい試みが感じられるものが見たいな。何をやるのも自由なんだけど、さすがに昨年優勝者の風味が感じられたのは、それはどうなのとおもってしまったな……。

 映像にツッコミを入れるネタって、よほどうまくやらないと「自分で用意したものに自分で文句をつけてる人」になっちゃうんだけど(もちろん実際はその通りなんだけど)、そこをうまく見せられるかどうかは「映像の中に第三者の人間味が感じられるか」にかかっている。昨年の田津原理音さんのネタはカードの開封という演出を入れることでうまく偶発性を演出していた。

 このネタに関してはkento fukayaさん以外の人の体温が感じられなかった。


寺田寛明 (国語辞典のコメント欄)

 昨年の「言葉のレビューサイト」に似たネタ。去年のほうがおもしろかった。

「この言葉にはこういうコメントがつくだろうな」という想像を、そこまで大きくは超えてこなかった。そして毎年のことだけど、この人のネタには「誰が演じても大して変わらない(というかもっとうまく演じられる人がいそう)」という問題が。なんならデイリーポータルZの記事でもいいんんだよな。


サツマカワRPG (不審者対策講習)

 なんか、R-1に何度も出ていたころの友近を思いだしたというか、もう優勝とか関係なく好きなことをやってやるぜ!という開き直りを感じた。ふつうはだんだんえぐみがとれていくものなのに、この人の場合は年々理解されなくなっていくのがおもしろい。

 一人コントだけど、防犯ブザーの音を効果的に使っていて、セリフはないけど子どもたちの表情が見えるよう。丁寧につくりこまれたいいコントだった(ラストのオカルト展開は個人的にはいらなかったようにおもうけど)。

 ところでハガキ職人をネタにしてたけど、そこまで伝わるのだろうか。劇場に足を運ぶようなお笑いファンならラジオを聴いている人も多いだろうから伝わるだろうけど、一般的にはそこまで伝わる題材じゃないとおもうな。ウエストランド井口がもう手をつけているところだしパワー面でも勝っているようにはおもえないので、流れ的に入れる必要あったのかなとおもってしまった。


吉住 (結婚の挨拶)

 結婚の挨拶に来た女性が武闘派のデモ活動家、というひとりコント。サツマカワRPGに続いて狂気性を扱ったコントだけど、どこか嘘くささが終始漂っていた。

 コンビだったら楽なんだけどね。ヤバい人に対してツッコミを入れる人がいれば、異常さが際立って笑いになる。

 ひとりだと、自分で説明をして、観客に心の中でツッコミを入れさせなくてはならない。でも「説明」という行為と「異常な人」は相性が悪い。異常な人は、自分がなぜその行為をするに至ったかを他人にわかりやすく説明しないから。

 異常な人というのはよくわからないから異常なのであって、丁寧に説明をしてくれたら狂気性が薄れてしまう。そこのジレンマをうまくクリアできているようにはおもえなかったなあ。


トンツカタンお抹茶 (かりんとうの車)

 サツマカワRPG、吉住と不快さをまとわりつかせたコントが続いた後で、ばかみたいに平和なネタ。これこれ、今はこういうのが見たいんだよ! 最高の出番順だった。

 何にも残らない最高にアホみたいなネタ(褒めてます)だったけど、だからこそ点数は低くなってしまったのかな。同じように意味のない歌ネタ『井戸』で優勝を勝ち取った佐久間一行さんはすごかったなあ。

 くぐもった声のコーラスのせいで聞き取りづらい箇所があったのが残念。からっぽなネタ(くりかえし書くけど褒めてます)だからこそ、ノーストレスで見たかったなあ。


どくさいスイッチ企画 (ツチノコ発見者の一生)

 作品の完成度は今大会ピカイチだとおもう。起承転結、ストーリーの寓話性、そして表現の巧みさ。ベテラン落語家のように完成された芸だった。

 アマチュアだというから発想のおもしろさで一点突破したのかとおもいきや、そんなことはなく、いちばん技術が高かった。

 技術を評価するタイプの審査員が少なかったのが残念だなあ。




【最終決戦】


吉住 (鑑識)

 女性監視機関が来たのが彼氏の職場だった、という発想はおもしろいが、その設定だったらこういう展開だろうな、という流れから大きく裏切りがなかったのが残念。

「1番にしちゃった」などのよくわからないデレ方はおもしろかった。女性芸人の「かわいい部分と怖い部分の使い分けで笑いをとりにいく手法」はさすがにもううんざり。


街裏ぴんく (モーニング娘。の結成秘話)

 一本目よりは絵がイメージしやすかった。「スマートボール」などのあってもなくてもいい題材が飛び出してくるのもおもしろい。

 とはいえ虚構全開で「嘘かほんとかわからないおもしろさ」がないのは相変わらず。二本目はみんな「この人の言うことは嘘だ」とわかっているわけだから、もっと虚実の境界ぎりぎりをえぐるようなネタでもよかったとおもうけどな。


ルシファー吉岡 (隣人)

 なんとなく中途半端な印象。隣室の会話を聞きすぎているルシファー吉岡の異常さを見せたいネタなのか、隣室の人間関係を見せたいのか。そしてひとり語りで説明するには隣室の“五人”という人数は多すぎやしないか。しかもその五人はどう考えても始終一室に集まる取り合わせじゃないだろ。「いっつも部屋に集まって遊んでる五人組」だったらもっと性格とか似てるとおもうんだよね。くそマジメタイプの女の子がこの部屋に入り浸るか?

 芝居がうまいからこそそのへんのリアリティの欠如が気になってしまった。




 SNSなんかを見ると「街裏ぴんくは何がおもしろいかわからなかった」「どくさいスイッチ企画はおもしろかったのに不当に点数が低かった」という声がとにかく多かった。

 まあこういう大会のたびに「優勝者は何がおもしろいのかわからない」「〇〇のほうがおもしろかったのに!」という声はあるんだけど(異論がない人はあまり声を上げないしね)、それにしても今回のR-1はその声が例年にないぐらい多くて、たぶん視聴者投票したら街裏ぴんくさんは下位に沈むだろう。ひょっとしたら「審査員票では優勝だけど一般投票なら最下位」もあるかもしれない。逆ならかっこいいんだけど。

 それぐらい会場と視聴者の乖離が大きかった。

 ぼく自身も同じように感じて、個人的に三人選ぶなら、真輝志、ルシファー吉岡、どくさいスイッチ企画になる。彼らのネタはおもしろいだけでなく「ひとりである必然性」があったからね。ひとりでしか表現できないネタ。吉住さんはツッコミがいたほうがおもしろかったんじゃないかな。

 でもまあやらせだとか陰謀論を唱えるつもりはない。たぶん会場のウケとテレビ視聴者のウケはちがうだろうし(大声、歌、勢い系のネタはテレビよりも会場の評価が高くなりがち)、審査員(特に野田クリスタルさんとザコシさん)の好みが偏っていただけで審査に良からぬ意図がはたらいていたとはおもわない。審査員を変えたって、それはそれでべつの問題が起きるだろうし(昔のR-1は芸人というよりタレントに近い人たちが審査員をやっていて、大衆の感性には近かったけどマニアックなものは拾われにくかったし、あと出番順に大きく左右されていた)。

 ということで「いや大衆から何と言われようとR-1グランプリが次の時代を切り拓いていくんだ!」ぐらいの信念があって今の審査員体制を貫くのであればそれはそれでいいんだけど、大会方針の二転三転っぷりを見ているととてもそんな信念や覚悟があるようには見えないんだよなあ……。


 ま、ちょっともやもやの残る結果にはなったけど、芸歴制限を撤廃したり、ネタ時間が増えたり、観ている側としては特に必要性も感じない敗者復活戦をやめたり、大会がいい方向に向かっていることはまちがいない。このままの方向性で進んでいってくれよ!!


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2024年3月8日金曜日

【読書感想文】藤原 辰史『給食の歴史』 / 今も昔もとんちんかん議員はいる

給食の歴史

藤原 辰史

内容(e-honより)
学校で毎日のように口にしてきた給食。楽しかった人も、苦痛の時間だった人もいるはず。子どもの味覚に対する権力行使ともいえる側面と、未来へ命をつなぎ新しい教育を模索する側面。給食は、明暗が交錯する「舞台」である。貧困、災害、運動、教育、世界という五つの視覚から知られざる歴史に迫り、今後の可能性を探る。


 戦前から現在に至るまでの給食の歴史について書かれた本。

 以上の簡単な整理からも分かるとおり、給食とは実に多面的な分野を往来する魅力的かつ複雑な現象である。政治史、経済史、農業史、災害史、科学史、社会史、教育史、運動史。さまざまな歴史分野の統合によって初めて全体像が明らかになると言えるだろう。

 子どものころはあたりまえのように給食を食べていて「あって当然」のものだった。現在、公立小学校の給食実施率は99%だそうだ。残りの1%は生徒数数人の学校とかかな。

 だが、その歴史をたどると、給食は決してあたりまえのものではなかった。

 明治時代は「金がなくて弁当がないから学校に行かない」という子が多かったため、給食が導入されるようになった。就学率を上げるために給食が導入されたわけだ。当時は食うや食わずの子どもも多かっただろうから「学校に行けばごはんが食べられる」というのはだいぶ魅力的なご褒美だったことだろう。言ってみればログインボーナスだ。


 そんなふうにしてはじまった給食だが、何度も廃止の危機に瀕しているそうだ。戦中・戦後の物資不足、アメリカによる占領が解かれて援助がなくなったことによる資金不足などの経済的事情に加え、「みんなに同じものを食わせるなんて社会主義的だ」と反対する議員がいたり、「本来弁当をつくるはずの母親が楽をしたいからだ。給食は親子の愛情を阻害する」なんてピントはずれの批判をする議員がいたりしたらしい。昔も今も、何もわかっちゃいないじいさんが法律を作っていたのだ。




 給食は政治の影響も大きく受けた。

 占領後、MSA協定からPL480にいたるまでの日米外交は、給食の意味合いを大きく変えた。目の前の外貨獲得、経済復興、飢えからの解放という喫緊の課題の裏で、アメリカは日本を食糧輸出先として自国のお得意先にし、あわせて共産主義の防壁にしようとした。この意図を、サムスはしっかりと受け取っていた。アメリカは給食を一つの道具として、国防と食糧の二方面から日本人の「安全」を左右できる力を握ろうとしたのである。 
 この結果、日本国内で麦の市場開拓とともに米食批判の勢いが増す。すでに述べたようにサムスは日本の米食文化に疑問を抱いていた。「日本人は占領開始の七五年も前に、すでに彼らの栄養摂取のパターンを決めてしまっていたが(明治に入っても米穀中心のパターンを変えなかったこと)、これは誤っていた」(サムス『GHQサムス准将の改革』)と断言している。そして、自分の政策を「日本のような大人口を食べさせるのに必要な食糧の量を決定する伝統的方法をくつがえすこと」だと評価し、根拠を下記の調査に求めている。「調査の結果、日本人の食生活における栄養摂取パターンは炭水化物が多すぎ、タンパク質、カルシウム、ビタミンが不足」しており、「農村の人々は穀物の入手が容易であったため、穀物消費量が多かった」(同右)。
 厚生省の大礒も同じである。「当初よりのアメリカ側の陰謀で、余った小麦を売りつける手段に使ったのだとさも知ったような言辞を弄する者が現われたが、これは全くの​噓」​だと語気を強めている(大礒『混迷』)。彼は、「米飯と味汁」というサムスの最初の提案が崩れたことを強調して、サムスに市場開拓の意図がなかったと弁護している。
 大礒にとって、日本の食事の欠点は、あまりにも一時に大量の白米を食べすぎること、副食の入る余地がないこと、そして、栄養素が欠けやすいことであった。「日本人の体格が国際的にみて劣っており、体力の面でも到底彼らの比ではないとか、病気にも罹りやすく、寿命も短く、乳児・幼児の死亡率もかなり高いという悩み」がずっと彼を支配していたのである(同右)。

 アメリカは敗戦国である日本に対して支援をしながらも「自国の余剰食糧を買ってもらいたい」「小麦や乳製品などの輸出を増やすために日本の食文化を欧米化したい」といった政治的意図に基づいて、給食に対する要求を出している(もっと単純に、自分たちの食生活こそが最良だという思い込みもあっただろう)。

 今でこそ米飯給食が増えたらしいが、ぼくが子どものころなんて米飯は月一、二回で、ほとんどはまずいパンだった。牛乳も不人気だったし(体質的に飲めない子もいるのにあれを強制するのはひどいよなあ)。政治的な理由もあったんだろうなあ。




 給食のメリットは数あれど、昔も今もトップクラスに重要なのが貧困対策だ。

 現在でも、学校給食が唯一の良質な食事である家庭は少なくない。「小学校教諭の友人から、クラス内に六人、給食で飢えをしのぐ子がいると聞きました。夏休みが明けるとガリガリになっているそうです」と伝える京都の三〇代女性もいれば、「小学校で給食を作る仕事をしていました。朝ご飯を食べずに学校へ来て、夕飯は菓子パンを食べるだけ、給食だけが唯一きちんとした食事だという子どもがいました」と答えたのは、千葉県に住む四〇代女性の調理員である。

 世襲議員や、官僚や大企業出身の議員にはこういう事情はなかなか見えないだろうなあ。

 だから「給食は親子の愛情を阻害する」なんてとんちんかんなことを言ってしまうのだ。




 たぶん、給食制度に反対する人は今ではほとんどいないだろう。

 じっさい、給食はありがたい。経済的な理由や、「各家庭の親が弁当を作らなくていい」という時間的な理由はもちろん、プロの栄養士が考えたバランスのよい食事をすることができる、季節の食材や地元の食材にふれる食育ができる、家族以外の人と食事をすることにより食事マナーを身につけられる、給食当番をすることで配膳などを学べる……。そしてなにより、みんなで同じものを食べるのは楽しい。

 うちなんか共働きなので夏休みや冬休みでも給食だけは実施してほしいぐらいだ(倍の値段になってもいいからやってほしい。そうおもっている家庭は多いだろう)。


 2020年頃、コロナ禍で「給食のときはそれぞれ前を向いてだまって食べること」というお達しが下された。うちの子は「だまって食べないといけないからつまんない」と言っていた。そりゃあそうだろう。本来なら給食なんて日々の学校生活のなかでも一、二を争うほど楽しいイベントなのに、それが無味乾燥なものに変えられてしまったのだから(ついでにコロナ禍では休み時間の遊びなども制限されてて、ほんとに気の毒だった)。


 もちろん嫌いなものを強制されたり、食べきれない子が居残りさせられたりといった“苦い記憶”はあるだろうけど、それはおおむね制度運用側の問題(というか教師の問題)であって、制度自体が悪いわけではない。

 そんな給食制度も、決してあたりまえのものではなく、先人たちの努力、給食をなくそうとする連中に対する闘いの結果として今存在するのだということを改めて知った。


 そういえば。

『となりのトトロ』で、サツキが「今日から私、お弁当よ」と言うセリフがある。お弁当を作るのを忘れていたお父さんに代わって、サツキがお弁当を作っているのだ。
(それも残り物ではなく、朝から七輪で魚を焼いたりしている。さらに弁当とは別に味噌汁など朝食も作っている。とんでもない小学生だ)

 あれはサツキがとんでもなくしっかり者だったからなんとかなったけど、そうじゃなかったら「学校に遅れる(あるいは行かない)」か「弁当を持って行かずに他の子らが弁当を食べているときに我慢する」しかないわけだ。

 戦争で両親のいない子も多かっただろうし、貧しい家も多いし、今のようにコンビニも冷凍食品もお惣菜屋もない時代、お弁当を用意するというのはたいへんな苦労だったにちがいない。

 給食があればサツキの負担もだいぶ軽減されただろうになあ。


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【読書感想文】貧困家庭から金をむしりとる国 / 阿部 彩『子どもの貧困』



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2024年3月7日木曜日

【読書感想文】奥田 英朗『コロナと潜水服』 / 本だからこそかける偏見

コロナと潜水服

奥田 英朗

内容(e-honより)
早期退職を拒み、工場の警備員へと異動させられた家電メーカーの中高年社員たち。そこにはなぜかボクシング用品が揃っていた―。(「ファイトクラブ」)五歳の息子には、新型コロナウイルスを感知する能力があるらしい。我が子を信じ、奇妙な自主隔離生活を始めるパパの身に起こる顛末とは?(表題作)ほか“ささやかな奇跡”に、人生が愛おしくなる全5編を収録。

 短篇集。すべて超常現象が起こる話。といって幽霊というほどおどろおどろしいものではなく、なんか霊的なふしぎなことが起こる、という程度。

 取り壊し寸前の古い家を買ったら男の子の気配を感じる『海の家』、追い出し部屋に異動させられた社員の前に謎のボクシングコーチが現れる『ファイトクラブ』、占いというより呪いをかける『占い師』、息子が人を見て新型コロナウイルスに感染しているかどうかを言い当てるようになる『コロナと潜水服』、中古車を買ったら前の持ち主の思い出の地に連れていかれる『パンダに乗って』の五編。


 個人的にはちょっと期待外れ。そもそも超常現象を扱った話が好きじゃないんだよなあ。なんとでもアリになっちゃうからさ。小説をつくるほうからしたらこんなに楽なネタもないんじゃないだろうか(書いたことないから知らないけど)。どんな不条理なことが起きても超常現象のせいにしたら「そういうものですから」で済ませられちゃうもんね。

 オカルトならオカルトで、ちゃんとルールを設定してほしいな。




 わりと好きだったのは『占い師』。

 プロ野球選手を彼氏に持つ女性。自身もミスコン女王、コンパニオン、フリーアナウンサーなど華やかな道を歩んできた。

 ある年、彼氏の成績が急上昇。たちまち球界の人気選手となる。だがそれと同時に彼女への連絡回数は減り、態度もそっけないものに変わってゆく。彼の周りには虎視眈々と有力選手を狙っている(ように見える)女性アナウンサー。

 彼女が“占い師”に相談すると、翌日から彼は絶不調に。自信を失った彼は彼女に癒しを求めるようになる。会う回数が増えたのはうれしいが、このままでは成績不振でクビになる。プロ野球選手でなくなった彼には魅力がない。

 再び占い師に相談すると成績が上昇するが……。


 活躍しすぎてほしくないが、さりとてまったく活躍しないのも困る、という女性の身勝手な欲望をあからさまに書いた短編。悪意に満ちている。

 男が書いているので「ああいう女はこんなもんだろ」とばかにした感じがありありと伝わってくるが、その乱暴さがかえって楽しい。小説なんだから、偏見や悪意に満ちていてもいい。エンタテインメントの読者が求めているのは正しさじゃない。

 小説なら許される。昔は「本には書けないようなことでもネットになら書ける」だったけど、今じゃ「ネットで書いたら炎上するようなことでも本ならそこまで多くの人の目に留まらないから大丈夫」になってるからね。


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