読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
秦の政治家が鹿を馬だと言い張り、部下たちに「これは馬だな」と訊いた。彼を恐れた部下は「鹿です」と答えた。正直に「馬です」と答えた部下もいたが、その部下たちは殺された。
……という逸話から「馬鹿」という言葉が生まれたという説がある。
なかなかよくできたエピソードだ。というのは、「知らないこと」「まちがえること」をバカと呼んでいるのではなく「まちがいに気づいていながら気づかないふりをすること」「まちがいを認めないこと」をバカと呼んでいるからだ。知見に満ちている。
つまり、思考することが苦手な首相がとんちんかんなことを言ってしまうのが馬鹿なのではなく、それに対して記者会見で見解を求められた官房長官が「その指摘はあたらない」と回答することが馬鹿だということだ。
青酸カリの生産管理
うちの5歳児がよく「ちいさなお葬式♪」ってCMソングを歌うんだけど、今日会った友人の子(6歳)も「ちいさなお葬式♪」と歌ってた。こないだは近所の8歳の子も歌ってた。
あのメロディには子どもに刺さる何かがあるんだろうか。
子どもが葬儀屋のCMソングを歌っていることにぎょっとするから余計に印象に残るのかもしれないが。
「今の日本は賃金も上がってるし失業率も低いから好況だ!」と主張している人がいて、それに対し「こんなに庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」と反論してる人がたくさんいた。
今が好景気かどうかは知らないが、少なくとも「庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」という反論は誤っている。
勘違いされがちだが、好況下においてべつに庶民の暮らしは良くならない。漫画サザエさんを読むと、高度経済成長期にニュースで物価値上がりを伝えていて、サザエさんが「家計が苦しいわ」とぼやいているようなシーンが出てくる(はっきりした記憶ではないが)。
好況であれば物価が上がり、物価が上がれば貯金は目減りする。ふつう賃金の上昇は物価上昇よりも遅れてやってくるから、安定した職についている人、年金受給者、貯金で食っている人などの生活は苦しくなる。そういう人たちにとってはデフレ不況のほうがむしろありがたい。
逆に、投資家や求職者、借金を抱えている人などにとっては好況のほうが得をすることが多いだろうが、どちらかといえば好況で生活が苦しくなる人のほうが多いのではないだろうか。
本来「好況」と「暮らしが楽になるか」はまったくべつのものなのだが、そこを一緒に考える人は多い。
なぜかというと、漢字のせいだろう。
好況、好景気という漢字を見ると、さも良いことずくめのようにおもえてしまう。好転、好評、好機、好人物、好青年、好印象と好がつく熟語はプラスの意味を持っている。だから「好況」「好景気」という単語を見ると良いものとおもってしまうのだ。そして「不評」「不人気」などに引っ張られて、不況、不景気は悪いものとおもってしまう。
「好況」は英語だと「boom」である。「boom」には他に「急激な増加」とか「ドーンという大きな音」とかの意味があるので、「好」というよりは「大」とか「拡」とかの意味が近いのではないだろうか。
好景気とは単純にいえば経済の拡大であり、拡大にはいい影響もあれば悪い影響も伴う。「好景気=いいもの」「不景気=悪いもの」という思い込みから脱するために、「好景気」「好況」ではなく読みはそのままに「広景気」「広況」の字を充てるのはいかがだろう。「高」の字でもいい。対義語は、経済の動きが鈍るという意味で「歩景気」「歩況」で。
おもしろかった!
バイオロギングという手法(生物に記録装置をとりつけてなるべく自然な行動を測定する方法)を使って野生生物の生態を研究している生物学者による、研究ルポ。
「生物学者なのになぜ物理の話?」とおもうかもしれないが、読めばわかる。生物の行動を知るには物理の知識がかなり有用なのだ。それを、ぼくのようにたいして物理の知識がない人間にも(なんとなく)わかるように伝えてくれる。文章も軽妙で、おもしろい。
たとえば。
マグロが速く泳げるのは、体温が高いからだという。運動効率を上げるためには体温が大事だとは知らなかった。変温動物であるにもかかわらず体温を高められるように進化したマグロは、他の魚よりも速く泳げるようになった。生物はいろんな進化をするものだ。
また、体が大きいほど速く移動できるという。代謝速度はおおよそ体重の3/4乗に比例するが、水の抵抗は体表面積(体重の2/3乗)に比例する。だから体が大きくなるほど代謝速度の余剰が生まれるというわけ。
そういや短距離走のトップ選手もみんな身体でかいもんなあ(たとえばウサイン・ボルトの身長は195cn)。移動の無駄をそぎ落としていけば、最終的には身体の大きさの勝負になるのか。
ところで、マグロはどれぐらいのスピードで泳ぐか知っているだろうか?
ぼくは「80km/hを超える」という話を聞いたことがある。本によっては「100km/h以上の速度で泳ぐ」と書いてあるそうだ。ところが著者によるとそれはとんでもない大間違いで、せいぜい7km/hぐらいなんだそうだ(それでも海中ではダントツで速い)。
100km/hと7km/hではぜんぜんちがうじゃないかとおもうが、それぐらい海中の生物の生態のことはよくわかっていなかったそうだ。実験場で計測した値(速度ではなく力を測ったりするらしい)と、野生のマグロを計測した値ではそれぐらい違うらしい。
ちなみに「マグロ 速度」で検索すると、わりと信頼あるサイトでも「マグロ100km/h近い説」を掲げている。
ほんとはどっちが正しいかはぼくには判断できないけど、やっぱり水中で100km/hってのは無理がある気がする。水中の移動は空気中の十数倍の抵抗を受けるんだから。
渡り鳥などの移動を記録するジオロケータの説明。
動物の移動はGPSを使って計測しているのかとおもいきや、そうでもないらしい。GPSは、位置情報を装置自体に記録しているため、動物につけて移動を記録した後、再度同じ動物を捕まえて装置を回収しなくてはならないらしい。しかし一度放した野生生物をふたたび捕獲するのは至難の業。GPSを回収しないことにはどこにいるかもわからないしね。
そこで、GPSを使わずに位置情報を計測するのがジオロケータだ。
なんと時刻ごとの照度の推移がわかれば地球上のどこにいるかがわかるというのだ。
精度が粗い、春分の日と秋分の日の前後はは機能しない(地球上どこにいても昼と夜の長さが同じになるので)などの問題はあるそうだが、「明るさを計測するだけで場所が特定できる」ってのはすごい仕組みだなあ。
緯度が低いほど昼の時間が長いとか、南中時間は東に行くほど早いとか、理科の授業で習うから知識としては知っていても、こうやって実際に活用することはむずかしい。
生物学と物理学と天文学の知識が結びつく。わくわくする話だ。
あとおもしろかったのは、鳥の翼の話。
「速く飛ぶより遅く飛ぶ能力のほうが大事」ってのはおもしろいね。なるほどなあ。ふつうは遅く飛ぶと落っこちちゃうもんな。遅く飛べるってことはそれだけ飛行技術が高いってことか。
「自転車は速く進むよりも遅く進むほうがむずかしい」にも似ているかもしれない。子どもの自転車はたいてい速すぎるし、年寄りの自転車は遅いせいでふらふらしている。
著者が自分で書いているように、後半になるほどどんどんおもしろくなる。
科学解説のパートだけでなく調査にまつわるエッセイ部分もおもしろい。科学好きにはおすすめの本。
世界でいちばん多くノーベル賞受賞者を輩出し、科学の分野でトップを走るアメリカ。
その一方で「地球温暖化は陰謀」など誤ったことを四六時中垂れ流すドナルド・トランプ氏を大統領に選ぶ国でもある。
アメリカ特派員となった科学を愛する著者が見た「アメリカ人の科学に対する考え方」とその背景とは――。
「アメリカでは進化論を否定していて、神が全生物を創造したと信じている人が多くいる」という話を聞いたことがある。
んなアホな、とおもった。
そりゃあどの国にだってアホな人はいるだろう。日本人だって進化論をきちんと理解している人は少ない。現生のサルが進化してヒトになったと勘違いしている人も多い。
でも、どうやら「どこにだって一定数のアホはいるよね」という話でもないようなのだ。
神が1万年前に人類(今の人類と変わらないヒト)を創造したと考える人が4割近く。進化したことは認めつつも生存競争と自然淘汰によるものではなく神のお導きによるものだと考える人も4割近く。あわせると4人に3人が神の介入を信じている。
アメリカには「創造博物館」なる博物館もあり、そこでは進化論をまっこうから否定して、「恐竜と人類が同じ時代に生きていた展示」などがおこなわれているらしい。
まあ日本にも「南京大虐殺はでっちあげ!」派など歴史捏造が好きな人たちがいる。たぶんどこの国にもそういう人はいるのだろう。
アメリカがすごいのは、この手の「創造論支持者」が政治的な力を持っていて、「学校で進化論を教えるな! 創造論を教えろ」という運動になり、州によっては州法で「創造論を教えること」「進化論に対する懐疑的な姿勢を育てるように」などと定められたこと。さすがは自由の国。自由の国にするということはこういうことも引き受けないといけないってことなんだなあ。
「創造論支持者」の考えは、何度読んでも理解しづらい。
日本にも熱心な仏教徒やクリスチャンはいるが、科学を否定する話は聞いたことがない。
生まれ変わるとか天国や地獄があるとか、科学と矛盾することについては「それはそれ、これはこれ」って感じで、わりと割り切っている。たぶん僧侶ですら、経典の教えを文字通り信じているわけではないだろう。「こう考えたほうがよりよく生きられますよね」ぐらいの考え方だとおもう。
大半の人は、信仰を持っていたとしても、信仰と科学は分けて考えている。でもアメリカには信仰で科学を上書きしている人が多いらしい。
「アメリカ人の多くが進化論ではなく創造論を信じている。人類と恐竜が同時代に生きていたとおもっている」と知ると「アホなんだな」とおもうかもしれない。
が、どうやらそういうわけでもないらしい。
知能が高く、かつ、十分な知識もある人でも、「人間の活動が地球温暖化を引き起こしているという話は陰謀だ!」と信じている人が多くいるという。
それは、知性や、科学に対する知識よりも、党派性のほうが強い影響を持つから。
具体的にいえば共和党支持であれば、温暖化に関する知識の多い人ほど「地球温暖化陰謀論」に傾き、逆に民主党支持者は温暖化に関する知識が多いほど「地球温暖化は人間の活動が引き起こした」と考えているらしい。
お互いに「あいつらは知識が足りないからまちがった情報を信じているのだ。理解が深まればおれたちの考えに同意するに違いない」と信じている。ところが実際は逆で、知識が増えれば増えるほど溝は深まっていくのだ。
「自分の信条と異なるデータ」を見せられて、計算問題を出題されると、なんと正答率が下がるという。「こんなはずはない」という思いが計算能力を狂わせるのだろう。
単純な計算ですら、党派性の影響を受けて揺らいでしまうのだ。まして「総合的にどちらが正しいか判断する」なんて問題では、党派性で目がくらんで正確に判断できなくなるのは明らかだろう。
政治家が、自分の推し進めている政策を批判されたときによく、「丁寧に説明して理解を深めていきたい」と口にするじゃない。
反対する側としては「いやいや、理解していないから反対しているわけじゃなくて、理解しているからこそ反対してるんだよ」とおもう。万博の良さを知らないから反対しているわけじゃなくて、知った上でそれを上回る万博の悪さを知っているから反対しているんだよ、と。
ぼくは政治家の「丁寧に説明して理解を深めていきたい」はその場しのぎの言い訳だとおもっていたんだけど、あれは本気で信じているんだろうなあ。本気で「反対するやつは理解が足りないから反対しているのだ」とおもっているのだ。どうしようもねえな。
タイトルの通り、人は科学的に判断するのが苦手らしい。
知能が足りないとか、知識が足りないとかいう理由もないではないが、それより「科学よりも感情や好き嫌いや思想信条を優先させてしまうから」らしい。だから科学者であってもよく間違える。いや、むしろ科学を生業にしている人のほうが、正誤が自身の人生の評価に直結する分、まちがいやすいかもしれない。
この本には、地球温暖化対策で石炭の使用量が減り、仕事がなくなって困っていた鉱山労働者たちが地球温暖化を否定するトランプを支持した、なんて話も出てくる。こういうのはわかりやすい。その“科学”がまかり通ると自分が困る。だから“科学”を否定してしまう。
己の損得が科学的な目を曇らせてしまう。それはまだわかる。誰しも陥る罠だ。
ただ問題は、「科学が苦手」ではなく「科学を悪用する人」もいることだ。
人々の経済活動が地球温暖化を引き起こしているとなると、活動が規制されてしまい、儲けが減る。だから「温暖化は陰謀だ」と主張する。
タバコ業者が「タバコが健康に悪いという決定的なデータはない」と言い逃れをおこない(ほんとはデータがあるのに)、タバコに対する規制を先延ばしにする。
公害問題が明らかになっても、原因物質を排出している企業が「この物質が原因だという決定的な証拠がない」と言い(たとえどんなに可能性が高くても)、対策を遅らせる。
原発推進しないと利益が得られない人が「原発は絶対に安全だ」と嘘をつき、強引に稼働させようとする。
その手の、意図的に誤った結論に誘導しようとする人に対しては、そもそも科学的な議論が成り立たない。なぜならその人や会社にとっては結論が決まっているのだから。どうあっても「だったら二酸化炭素排出の規制を強化しよう」「いったん原発の稼働は見送ろう」という結論に至るつもりはないのだから。だからあるはずのリスクをゼロに見積もってしまう。
「科学は苦手」はアメリカだけではなく、どの国にもあてはまることなんだろうね。ぼくも気をつけねば。
最初の章である『中古車販売店の女』を読み終えた時点での感想は、「奥田英朗作品にしてはつまらないな」だった。
同僚が中古車を買ったらすぐ故障した。クレームをつけにいくのに付き添いで中古車販売店に行ったら、学生時代の同級生の女がいた。学生時代は地味で目立たない女の子だったのに、やたら肉感的で男好きのするタイプになっていた。昔の同級生に詳しい話を聞くと、中古車販売店社長の愛人をやっているという噂も流れてきた――。
という話。タイトル通りの「噂の女」で、「田舎にちょっと派手でミステリアスな女がいると暇な人たちの噂のタネになるよね」という話。しかし噂は噂でしかないので、小説の題材としては弱すぎるよな……。
という印象だったのだが、二篇目、三篇目と読んでいくうちに印象が変わってきた。
連作短篇集になっていて、登場人物は毎回変わるのだが、噂になっている“糸井美幸”という女だけは共通している。
そして次第に明らかになってゆく“糸井美幸”の正体。最初は中古車販売店の従業員や雀荘のアルバイトだったのに、主婦になり、高級クラブのママになり、檀家総代になり、大きな金や権力を動かすようになる。
どうやら社長の愛人らしい、どっかの社長と結婚したらしい、その社長が風呂で死んで遺産を相続したと聞いた、睡眠薬を入手しているようだ、県会議員の愛人なんだそうだ、寺の住職が糸井美幸にそそのかされているらしい……。
ひとつひとつは単なる噂でも、積み重なっていくと信憑性が増してくる。ただし糸井美幸本人の内面は一切語られない。そもそもほとんどの人は「噂」「属性」で糸井美幸を判断し、彼女自身と向き合おうとしていない。
はたして糸井美幸は噂通りの悪女なのだろうか。それとも噂は噂でしかないのか。
このあたりの書き方が実にスリリング。最後まで糸井美幸自身の内面がつまびらかにされないのも、余韻を持たせてくれていい。
この小説、糸井美幸という女も魅力的なのだが、舞台である岐阜の地方都市の書き方が実にリアルでいい。作者の出身地だけあって、方言まじりの会話も活き活きしている。
なにがいいって、無関係の人間から見るとこの町が「どうしようもない町」なんだよね。
中小企業は社長が会社の金を私的に流用して税金をごまかし、そこの社員はやる気をなくしてサボり経費をちょろまかす。失業者は失業保険を不正受給してパチンコ屋に入りびたり、公務員は知人から賄賂をもらって公団住宅の入居権を斡旋する。資産家の家族は遺産をめぐって対立し、ろくな働き口がないシングルマザーは半ば売春の商売をする。土建屋は談合をし、役所の職員は談合を見逃すかわりに甘い天下り先を手に入れる。寺の住職は色仕掛けにころっと騙され、刑事は市民そっちのけで派閥争いに明け暮れる……。
ほんと、どうしようもない。しがらみ、汚職、利権、天下り、裏金など不正がはびこっており、ほとんどの人間が「こういうものだ」とおもって受け入れている。
もちろん小説なので、すべてがほんとにあるかどうかはわからない。
でも、どっかにはあるんだろうな。少なくとも過去にはまちがいなくあった。
しがらみや癒着がはびこっているのは地方だけではない。都市にだってある。でも、まだ都市には「不正に手を染めずに生きていく道」がある。
けれど若い人が減っているような地方で金持ちになるには、権力者にうまくとりいって、ときには不正に手を染めて、もらえるチャンスがある金は不正なやりかたでももらう……という道しかないんだろうなという気がする。だってそういうシステムができあがってるんだから。システムから離れて大っぴらにやっていくことはできない。目立つとシステムの中にいる人たちにつぶされてしまうから。
しがらみや癒着を前提にしたシステムが嫌いな人は都会に出ていくから、余計に地方のしがらみシステムは強固なものになる。
『噂の女』の糸井美幸という女は(たぶん)とんでもなない悪女だが、これはこれで適者生存というか、癒着が前提となっている地方都市で何も持たない女がのしあがろうとおもったらこういう方法を選ぶしかないよなあ。まじめに働いている者が報われる社会じゃないんだもの。
「みんなのお金をなんとかしてうまくかすめとる」というシステムで、全体が発展することはない。国体をやろうがオリンピックをやろうが万博をやろうが、それは本来別の誰かがもらうはずだった金をかすめているだけなので全体が潤うことはない。そして地方経済は衰退し、若い人は流出していき、減った利権を守るためにますます不正が横行し……。
そりゃあ衰退するわな。地方の衰退、国家の衰退の原因がここに詰まっている気がする。
ま、もちろんそれだけじゃないんだけど。人口減が最大の要因であることはまちがいないんだけど。でも、人口が減っている中で「じゃあいらないところは切ってもっとコンパクトに効率的にやっていきましょう」とできない理由もまた、ここにあるんだよな。
こういう「コネや賄賂や談合や天下りや癒着や便宜がなくなると困る!」って人が世の中にはいっぱいいるんだもの、そりゃあ国政も腐敗しますわなあ。