
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
ぼくにとっては「テレビでたまに見る、変なメガネのよくわかんないけど賢そうな人」というイメージしかなかった成田悠輔さんによる、未来の資本主義の展望。
まず率直な感想を書くと、すごくわかりづらい。
でもこれは「わかりやすく書くことに失敗している」のではなく「わざとわかりにくく書いてる」からだとおもう。わざと既存の常識から飛び出そうと書いている、そんな感じだ。誰にでもわかるように書こうとおもったら、常識的なことしか書けない。
「わかりやすい文章」で5年後のことは書けても、100年後のことは書けない。現代の経済がどうなっているかを100年前の人に説明してもちっとも伝わらないのと同じように。
ということでぼくは早々にこの本に書かれていることをきっちり理解することはあきらめ、一部だけでもわかればいいやという気持ちで読むことにした。
意外だった事実。
インターネットによって通信の速度は飛躍的に上がり、我々の連絡方法は大きく変わった。海外に文書を送ろうとおもったら1週間かかっていたのが、今だと1秒だ。
当然、生産性は飛躍的に向上した……と思いこんでいたのだが、どうやらそうではなかったらしい。まるで生産性は向上していない。
言われてみれば、ぼくらはインターネットによって大きな恩恵を受けているが、インターネットによって失ったものも大きい。SNSは人々の時間を奪うが、そのほとんどは無為に消えてゆく。かつては新聞や読書にあてていた時間がショート動画に溶ける。しかも、得るものがないだけならまだマシで、デマの拡散など生産性ゼロどころかマイナスの現象も多発している。
インターネット、スマホ、SNS、動画サイト……。いずれもひまつぶしの手段としては有用だが、人類の発展に貢献しているかというとちょっと微妙なところだ。
「お金の必要性が少なくなる」という大胆な提言も。
物心ついたときから貨幣経済の中で生きてきたから「お金はなぜあるのか」なんて意識したことがなかった。教科書的には「物々交換をするのは不便なので、持ち運びやすくて保存が利いて好感しやすい貨幣が使われるようになった」という説明が正しいのかもしれないけど、それだけではお金の意義を正しく表していない。
たとえばお金は使わなくても価値がある。往々にして「お金を持っている」ということ自体が価値を生む(反感を買うというマイナスの価値を生むこともある)。お金を持っている、お金を持っていそう、将来的にお金を稼ぎそう。それだけのことが重要な意味を持つ。「物々交換の代替手段」では説明がつかない現象だ。
「実態と記録のズレを埋める装置としてのお金」という表現は、たしかにお金の一面を正しく言い当てている。
あの人はお金を持っているから、人から必要とされる仕事をやってきたのだろう、きっと能力の高い人なんだろう、という判断材料になる。高級車とか高級ブランドの服とかは、お金を使ったという証明であり、お金を使ったということはお金を持っていることの証明であり、お金を持っていることは能力が高いことや仕事をしてきたことの証明である。多くの人がそういうルールに従って生きている。
だがその人の遍歴がすべてデジタル世界に記録される社会になれば(事実なりつつある)、お金を介さなくてもその人がどんな人かわかる。財布には現金が入ってないしユニクロの服を着ているけれど、多くの人から必要とされている人だということがデジタル世界の記録を見ればすぐわかる。この人なら信用できるし、低利子で金を貸してもいい。
こういう世界になれば「金を持っていることをアピールするために使う金」が無意味になる。あいつブランド品で身を固めてるけどぜんぜん稼いでないじゃん、あいつ金は持ってるけど実家が金持ちなだけであいつ自身には何の能力もないじゃん、とばれてしまうから。
個人的には、そんな世の中のほうが健全だとおもう。必要とするモノを手に入れるための交換手段という貨幣本来の役割が再び強くなるのだ。
そしてその先にあるのは、経済を測れなくした社会。
わたしが欲している魚と、あなたが欲しているサンダルはどちらがより必要性があるのだろうか? もちろん比べようがない。だからとりあえず値段をつけて、同一の尺度で比較できるようにしている。
しかしわたしに関するデータとあなたに関するデータと魚のデータとサンダルのデータが十分にあれば、同一の尺度など必要ないのではないか、ということだろうか。
正直このへんの話になるとぼくにはもうついていけなかったが……。
仕事で日本に住むことになったアメリカ人が語る、日本文化論。
この手の「外国人が見た日本」本は大好きでたいていおもしろい。なので古本屋で見つけて買ってみたのだが、これはちょっとはずれだった。
理由のひとつは、あまりに古いこと。著者が日本にやってきたのが1970年。本の刊行が1975年。50年以上前。「日本人は往来で立小便をする」なんて書いてあるけど、さすがに今はそんな人はほぼ見ない。日米の文化比較というより、新旧の文化比較になってしまっている。これは50年もたってから手に取ったぼくのせいなんだけど……。
もうひとつは、著者が日本どころかアメリカ以外の国を知らないこと。日本に来て困ったことに「英語が通じないこと」とか書いている。そりゃそうだろ。日本人からすると外国に行ったら母国語が通じないのは当然なのに、アメリカ人にとってはそうでないらしい。これだから英語圏の人間は……。
文章がユーモアに満ちていて、そこはおもしろかったけどね。
「日本にかぎらずアメリカ以外はどこもそうだろって話」「著者の身の周りの人たちの話」が多く、日本論として読める箇所はそう多くない。
選挙カーや街宣車は言うまでもなく、駅や電車・バスのアナウンスなど、日本は音声案内が多いと言われる。たしかにそうだよね。外国の交通機関では停車直前に「Next stop is ○○」と流すぐらい。日本だと音声案内が多すぎて、逆にどれが大事な情報かわかりづらい。
著者は「英語でもアナウンスしているが日本版に比べてすごく短い。我々にだけ大事な情報が伝えられていないのではないかと不安になる」と書いている。その気持ちはわかる。でも大丈夫、カットされているのは「××の治療ならおまかせ、○○クリニックをご利用の方は次が便利です」といったどうでもいい情報だから。日本人だって聞いてないから。
日本の生活に慣れた(といっても5年ぐらい)著者がひさしぶりにアメリカに帰ったときの話。
へえ。アメリカ人ってそんなにあいづちを打たないんだ。言われてみればそうかも。今度洋画を観るときはあいづちに注目してみよう。
うん、まあおもしろかった。映像はすごいし(でもすごすぎて、まるで実写映画を観ているようで、かえって驚きを感じなくなってしまった)。
ストーリーも『4』に比べればぜんぜんいい。まあ『4』は大失敗作なので(ぼくは記憶から消してなかったことにしている)、それと比べればどんなものでもマシなんだけど。
でもなあ。やっぱり『3』で終わりで良かったな、とおもう。続編をつくるとしても、登場人物を全部入れ替えて別のおもちゃの物語にしていれば良かったのに。
ここから愚痴。
『4』で子どもを捨てて出ていったウッディを『5』で無理やり登場させたが、これはファンサービスでしかなく、出てくる必然性は何もない。ウッディが古くなったという設定もすでに『2』で通りすぎた話題だ(ハゲをギャグにするのはさすがに古すぎないか?)。
オールドファンに向けて昔のようなウッディとバズの関係性を描きたかったのだろうが、ウッディとバズに今さら喧嘩をさせるのもしらじらしい。もうそんな段階はとっくに過ぎただろう。まして勝手に出ていったウッディがえらそうに仕切りだす正当性がどこにあるんだ?
もうウッディのことは忘れて新しい一歩を踏み出してもいいんじゃない?(ていうかその覚悟がないくせに『4』みたいなのを作るなよ) 唐沢寿明のお声もだいぶ歳をとっていたし。
『3』までの3作は完璧だったし、その中であらゆる展開をやりつくしてしまった。主役の座を奪われる、置いていかれる、売られそうになる、盗まれる、捨てられる、寄付される。『おもちゃにとって何がいちばん幸福なことか』というテーマを3作かけてじっくり問いつづけ、これ以上ないという答えを提示してしまった。
その後でどれだけピンチが訪れても、おもちゃたちが悩んでも、全部『3』までの焼き直しでしかないし、それでもまだ現状に不満を示すなら「じゃあサニーサイド保育園に行けばいいじゃない」としか言いようがない。
『3』で「保育園でずっと子どもたちの遊び相手として生きる」「いつか遊んでもらえなくなるとしても、今、子どもにとっての親友として生きる」という究極の二択を提示してしまった以上、それ以外の道を選ぶ理由がない(だからそれ以外の道を選んだ『4』は失敗作だった)。
おもちゃの幸福と葛藤、というテーマについてやりつくしてしまったからだろう、『5』は人間の話が大きな部分を占める。
「子どもに、タブレットなどのデジタルデバイスをどのように扱わせるか」というのがメインの(そして陳腐な)テーマだが、それっておもちゃが心配することじゃないよね。保護者が考えることだ。おもちゃが教育方針にまで口を出すのは出しゃばりすぎ。
実際ボニーはタブレットのチャットが原因でトラブルを引き起こすのだが、これは保護者が注意深く管理していれば防げたことで、『トイ・ストーリー』という装置を使って描くべきテーマとはおもえない。本来なら人間が人間に向けて言うべきことをおもちゃの口を借りて言わせているだけなので、説教くさいことこの上ない。
やるとしても『インサイド・ヘッド』あたりで良かったのでは。
そしてやっぱりぼくはボニーを好きになれない。『4』でもおもちゃを大事にしていない様子がありありと描かれていたが、『5』でもあっさりとおもちゃたちを裏切る。
世間体を気にしておもちゃを手放そうとするボニー(しかもそれはアンディから託されたおもちゃ)。持ち主がこれでは、おもちゃとの間の信頼関係など築けるはずがない。もうこいつアンディとの約束なんて覚えてもいないんだろうな。嫌いだわー。
アンディはおもちゃを託す相手をまちがえたな。ボニーに比べれば『1』のシドのほうがまだおもちゃを愛してるぜ(愛の形は歪んでるけど)。
ただ、『2』からずっとしこりのように残っていたジェシーとエミリーの物語に結着がついたシーンは本当によかった。
8歳の娘といっしょに鑑賞したのだが、娘は中盤ちょっと飽きていた。でもその気持ちはわかる。視点があっちこっち行くのでむずかしいんだもん。
「ボニー」「ジェシー」「バズたち」「ウッディたち」「ハイテクバズ軍団」と、それぞれのシーンが目まぐるしく変わる。ぼくは大人だし前作までの内容も頭に入っているから(『4』の内容は記憶から消去したけど)ついていけたけど、子どもには追いきれないよね。
過去作ではシーンの切り替えは少なかった。『1』で言うと「2階と1階」「ウッディ&バズとその他のおもちゃ」ぐらい。『2』『3』も多くてせいぜい3シーンまで。
これは意識的にやっていたんだろう。なるべくストーリー展開をシンプルにして、メインターゲットの子どもにも十分ついていけるようにしていた(時系列をさかのぼるシーンも極力なくしていた)。なぜなら、おもちゃで空想の世界にふける子どもたちは「数多くのシーンの切り替え」「時系列をさかのぼるストーリー展開」なんて考えてないのだから。幼少期におもちゃで遊んでいた気持ちを思い出させてくれる感覚が『3』にはあったが、こういった配慮が『4』以降失われた。監督の交代によるものだろうか。
おもちゃに向けるあたたかい目を失ってしまったのは、はたしてエミリーやボニーだけなんだろうか。制作陣もまた子ども心を忘れてしまったんじゃないだろうか。
制作陣に問いたい。あんたたちこそデジタル端末の使いすぎでは?
桐野夏生氏のデビュー作。デビュー作だなあ、という感じ。力の入れ方は伝わってくるが、技術が十分備わっていなくて空回りしている感じが。
肩に力が入りすぎなんだよな。いっぱい調べていっぱい考えて書いたんだろうけど、それが伝わってしまう。もっとさらっと、なんでもないことのように提示してほしい。勝手な要望だけど。
たぶん、女性を主人公にしたハードボイルド小説を書きたかったんだろうな。だから必要以上につっぱってる女性が主人公。いやそこまで無理してかっこつけんでも、という気になる。なんか「めちゃくちゃがんばって都会で強く生きる女性」って感じで、かっこいいどころか痛々しい。
たとえば後の桐野夏生作品である『OUT』に出てくる女性は、もっとワイルドでありながら、もっと自然体だ。なんでもないことのように大胆な犯罪をやってのける。カッコイイとは、こういうことさ。
まあこの青さもデビュー作の魅力と言えるかもしれないが。
(以下ネタバレを含みます)
ストーリーも退屈だった。
序盤で「主人公の親友が1億円の金とともに失踪した」という謎が提示されるが、どうも弱い。
だって「大金に目がくらんで持ち逃げしちゃいました」ではミステリにならないことを読者は知ってるんだから。なんらかの事件に巻き込まれたことは容易に想像がつく。
だから早くその「なんらかの事件」を見せてほしいのだが、それがなかなか書かれない。半分ぐらいは、ただいなくなった女の足跡を追うシーン。登場人物も多いしたっぷりページ数を割いているが、何も起こらなくて退屈。ここはもっとテンポよく書いてほしかったなあ。
中盤でやっと“事件”が見えてくるが「ああこれが真相ではないんだろうな」というにおいがプンプン。明かされる真犯人もさして意外な人物ではない。というか大本命。いちばん身近な人物が犯人ってベタベタじゃん。
まあこれは2026年に読んだからであって、刊行された1993年当時は十分意外だったのかもしれないけど……。
ボディ・モディフィケーション(身体改造)、ネオナチ、ヤクザ、夫の自殺、不倫など刺激的な要素をこれでもかと詰め込んでいるけど、正直あんまり効果を発揮しているとはおもえない。なくてもミステリとして成立してるし。
いろんな意味でデビュー作だなあ、という作品でした。