
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
我々はほとんど何も知らない。世の中は知らないものだらけだ。
べつに量子論とか超ひも理論とかの話をしているわけじゃない。たとえば我々が毎日のように使っている水洗トイレ、ファスナー、自転車。どういう仕組みで機能しているかと訊かれて正しく説明できる人はほとんどいない。スマートフォンのような複雑な機械にいたっては、そのすべてを完璧に理解している人などこの世にいないだろう。たった一人でスマホを一から組み立てられる人などいない。
問題は、知らないことではなく、我々が「知らないことを知らない」ことだ。
「あなたはファスナーについてどれぐらい理解してる? 正しく説明できる?」と訊く。「うーん、まあ60%ぐらいかな」と答える。なにしろこれまで何万回と使ったことがあるのだから。「じゃあファスナーがどうやって開閉するか説明して」と問われて、はじめて気づく。自分がファスナーについて10%も理解していなかったことに。
この本は、「なぜ我々は自分の知識について過大評価してしまうのか?」「なぜ我々は身の周りのものについて知らないのに社会はうまく機能しているか?」に答える本だ。
我々は「知識・記憶は脳の中にある」とおもいこんでいる。だが実際は必ずしもそうではない。
記憶、知識は身体と深く結びついている。「自転車でカーブを左に曲がるときにおこなう動作をすべて挙げよ」と言われて正確に答えられる人はまずいない。でも実際に自転車に乗ればなんなく左に曲がることができる。身体がおぼえているからだ。
PCのキーボードをたたくときいちいち「この文字を打つにはここを叩く」なんて考えていない。勝手に指が動いている。だから「Rのキーはどの指で打ちますか」と訊かれても即答できない。頭の中で(または実際に)指を動かして、はじめて「左手の人差し指」と答えられる。
人は、自分自身が知らなくても「知っていそうな人を知っている」だけで、「自分はわかっている」と感じやすくなるらしい。
周囲の人が持っている(であろう)知識も自分の知識と勘違いしてしまうのだ。
たしかに「〇〇さんの連絡先わかる?」と訊かれたとき、「自分が電話番号を記憶している」でなくても「スマホを見ればわかる」とか「隣にいる××さんに訊けばすぐ教えてもらえそうだ」という状況であれば「わかるよ」と答えることはある。
「研究者がある物質のはたらきを解明した」というニュースを見ただけで、そのニュースについてわかっている気になったらしい。
これはなかなかおそろしい。まったくわかっていないことをわかったつもりになってしまうのだ。
おまけに現代はインターネットのおかげで、情報にアクセスしやすくなった。多くのことが調べればわかる。可能性は広がった。科学でも歴史でも政治でも、調べればかなり詳しいことがわかる。でもわからない。実際には調べないからだ。
インターネットによって「アクセスできる可能性のある情報」は飛躍的に増えた。でも実際の知識はべつに増えていない(減っているかも)。真偽の定かではないごみみたいな情報はべつにして。
それでも人はは「アクセスできる可能性のある情報」がたくさんあるだけで自分の知識を高く評価してしまう。
結果インターネットは、「賢い人」ではなく「賢いつもり」の人間を増やしてしまったのだ。なんてこった! 自信だけあるバカだらけだなんて、控えめに言っても最悪じゃないか……。
この本を読むと、人間ってなんてバカなんだろうという気になる。特に政治にからむような話だとひどい。
2010年に成立した医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)への賛否について。
なんと、最高裁の判決がどんなものだったかも知らないのに「判決に賛成!(あるいは反対!)」と主張してた人が少なからずいたのだ。わからないのに反対するって……。
これはアメリカに限った話ではないんだろうな。日本でも「〇〇法案に賛成ですか?」なんて世論調査をやってるけど、その質問に「賛成/反対」と答えた人のうち、どれだけの人がその法案のことを正しく説明できるかというとかなり怪しいものだ(ぼくもたぶん無理だ)。
そして、対象についてよく知らない人ほど極端な意見を持つ傾向があるらしい。たしかになあ。SNSとか見てると、バカほど極端な意見をふりかざすもんなあ……。
きちんと説明されて対象への理解を深めれば意見は穏健なものになっていくらしいが、政治のように思想信条に関わるものであれば、知識を深めてもあまり立場が変わらないらしい。
人間の信条はそうかんたんに変わらないのだ。知識よりも思想信条のほうが優先されてしまう。
そもそも……。
人間は自分の誤解を正したいとおもっていないのだ(でも他人の誤解は正したい)。勘違いしたのなら、勘違いしたままでいたい。他人から「あなたまちがってますよ」と指摘されて考えを改める、なんてまっぴらごめんなのだ。
だからわかってない人に「あなたわかってませんよ」と言ってもほとんど無駄なのだ。考えを改めるどころか「だったらもういい!」と情報をシャットダウンしてしまったり、余計に意固地になってしまったりする。なんてバカなんだ人間たちよ(ぼくも含む)……。
我々はぜんぜん物事を理解していないし、理解していないことを理解していないし、おまけに正しい人の意見に耳を貸さない。
なんてどうしようもない種族なんだ人間よ。ヤハリ地球人ハ滅ボスシカナイヨウダナ……。と惑星破壊ミサイルの発射ボタンに手をかけた宇宙人よ、待ってください!
たしかに人間ひとりひとりはどうしようもないバカです。でも、それこそが希望だとおもいませんか?
『知ってるつもり』では、集団としての知恵の重要さを説いている。
ひとりひとりは何の知識もない人間が集まれば、集団になればトイレを作れる。ファスナーも作れる。自転車もスマホもロケットも作れてしまう。人間は集団になることでとんでもなく賢くなれるのだ。
これこそがヒトという種族がここまで繁栄している理由だろう。オオカミは群れをつくって行動するが、全員ほぼ同じような行動しかできない。俺たちは狩りに行ってくるからその間におまえらは寝床をバージョンアップしといてくれ、おまえは肉を捌く係で、おまえは捌いた肉を敵から守る係、おまえは食糧をみんなに公平に分配してくれ……という分業ができない。
ヒトは分業制度を取り入れたことで個としては弱くなった。ひとりで野菜と果実と肉と魚を獲得して調理して家を建てて服を作って生きていける人はいない。だがそれと引き換えに種としての強さを手に入れた。ひとりで生きていく力を捨て、集団として大きなことを成し遂げる力を手に入れた。
「頭がいい」は個人の能力だと考えてしまう。もちろん個体差はある。でもそんなものはあまり関係ない。みんなで10,000の仕事を成し遂げようというときに、個人の能力が1だろうが1.1だろうが大した問題ではない。1.1の力を持っているが周囲と協力しない人よりも、0.9の力しか持っていないが周囲に呼びかけて10のコミュニティを作れる人のほうがはるかに優秀だ。
ということで、真に頭がいいとは物事をたくさん知っているとか計算能力が高いとかではなく、他者とうまく協力する能力を持つことだと著者は語る。共感、傾聴、ムード作り、そういった能力のほうが重要なのだと。
なるほど……。これは身につまされる話だ……。
ぼくは人より本を読むし勉強もできるほうだし自分を頭がいい人間だとおもっていたが、頭がいいとはそういうことじゃないんだな。積極的に他人とコミュニケーションをとり、苦手な人もおだてたりすかしたりしながら上手にコントロールし、チームをまとめて全員でひとつのゴールに向かわせる(必ずしもリーダーでなくてもいい)ような人こそが真に有能で頭のいい人なのだ。頭の良さは個の中にあるのではなく、個と個の間にあるものなのだ。
いやあ、いい本だった。人間の愚かさと賢さの両方に気づかされた。そして己のアホさと。
もっと早く知りたかったぜ! 自分はひとりで世界を変える天才だとおもっていた学生時代に!
とあるシステムが「和暦の数値部分のみ」を使うよう設計されていた(例:令和8年3月であれば「0803」と表す)。
なんて想像力のない設計だろう。和暦の場合、1年の翌年が1年になることも理論上はありうる。不謹慎と言われようがそこまで想像してシステム設計するべきじゃないか。
男子高校生の「なりたい職業」ランキング第9位に「投資家」が入ったそうだ。
投資家って職業か? 「筋トレしてる人」や「読書家」と同じで、仕事とは別でやるもんだろう。他の仕事をせずに投資のリターンだけで食ってる人は無職だ。
言うまでもなく、高校生がなりたい「投資家」は「儲かっている投資家」だろう。それって「宝くじ高額当選者になりたい」と同レベルの戯言だろう。
「大相撲公式ファンクラブに年間三万円払って会員になってるのに大相撲のチケットが当たらない! 外国人客やツアー客が増えてるせいだ!」
と書いている人がいた。
気持ちはわかるが、井の中の蛙すぎる。
「道楽の中でも相撲のタニマチほど金がかかるものはそうはない」なんて話を聞く。年に数百万、数千万をポンと出す人がめずらしくない世界らしい(もっと出す人もいるのかもしれない)。
年間三万円は一般的には安くない額だけど、好角家の世界では下っ端も下っ端、とても「三万円も出してるんだぞ!」とでかい顔できる額じゃない。昭和時代からそうだ。外国人客やツアー客は関係ない。
「銀座のクラブで三万円出したのに特別扱いしてもらえなかった!」って言うようなもので、特別待遇してもらいたいんなら戦う土俵を変えたほうがいいよ。相撲だけに。
海外の本を読むと、章のはじめにどうでもいいフレーズが引用されていることがある。こんなやつ。
本題とまったく関係ないわけじゃないけど、あんまり関係のない引用。あってもなくてもどうでもいい引用。
学術的な本なのに聖書から引用していたり、『マザーグース』や『不思議な国のアリス』のような子ども向けのお話から引用していたり。海外の本の文化なんだろう。シェイクスピアとかもよく引用されているイメージだ。
あれを書くために著者はけっこう労力を割いているんだろうな。いろんな小説とかを引っ張り出してきて、章の内容にちょっとでも関係のありそうな文章を探しているんだろうか。それだけで何時間もかかりそうな気がする。あってもなくてもどっちでもいい引用なのに。息抜き的にやっているんだろうか。
日本で「あってもなくてもいい章のはじめの引用文」をやっている人はあまりいない。宮部みゆきとか伊坂幸太郎がやってた気がするけど、ノンフィクションではまず見たことがない。
日本の研究者もやったらいいのにね。それも海外のかっこいい小説じゃなくて、もっとどうでもいい文章を引用して。
おお、くだらない文章でもなんかそれっぽくなるな。
「まちのしくみ」についての入門書。
都市工学に関する本を読んでみようとおもって手に取ったのだが、あまりにも入門書すぎた。小学生向けぐらいの内容。
高さ数百メートルを超える超高層ビルが日本にほとんどないわけ。日本は地震が多いからだとおもっていたけど、実は技術的には地震に耐えられるような超高層ビルも建てられるんだそうだ。
なるほどねえ。超高層ビルを建てるメリットがあんまりないのか。
超高層ビルを建てても土地面積によって総床面積(すべてのフロアの床面積の合計)は決まっている。土地を広げれば総床面積も広げられるが、都心に広い土地を確保するのはむずかしい。かといって田舎に超高層ビルを建ててもしょうがない。
エレベーターのスペースが多く必要になるから実際に使える床はさらに狭くなる。防災設備も多く必要になるし、高いビルは移動に時間がかかるなど利用者にとっても不便なことが多い。タワマンも決して住みやすいとは言えないらしいし。
高すぎる建物には「目立つ」「見晴らしがいい」ぐらいしかメリットがないわけだ。
だからこそ国力を見せつけるために建てたりするんだろうけど。クジャクが派手な羽を広げるのといっしょだね。あんまりメリットがないからこそ、そんな建物を建てるぐらい余裕があることを示すためことができる。
この本に書かれているのは長く生きていたら自然と耳にするような知識がほとんどだったけど、知らなかったのはアルベルゴ・ディフーゾ(Albergo Diffuso)という観光地の形態。アルベルゴ・ディフーゾとはイタリア語で「ちらばっている宿」の意味だそうだ。
なるほど。これは楽しそうだ。温泉街とかって独特の雰囲気があってけっこう好きなんだよね。
ぼくは海外旅行に行ったときはなるべく現地の人と近い暮らしをしたいんだけど、ホテルに泊まってるとそれはむずかしい。地元スーパーとかに行っても調理手段がないからお菓子ぐらいしか買えなかったり。かといってホームステイとかはいろいろ気苦労も多そうだ。
こんなふうに「町全体が宿」だと、ホテル宿泊客と現地の人の中間ぐらいの生活ができそうだ。
調べたら、岡山県矢掛町や長崎県平戸市など、日本でもアルベルゴ・ディフーゾの取り組みは始まっているらしい。行ってみたいなあ。
ただ、日本に定着させようとおもったら「アルベルゴ・ディフーゾ」ってネーミングはよくないとおもうぞ。言いづらすぎる。
「散宿」みたいに短い言葉じゃないと定着しないぜ。