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読書感想文リスト
1983年公開『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』のリメイク版。前作映画は観たことがないが、漫画版は持っている。
小学一年生の娘といっしょに観に行った。骨太の原作をうまく調理できるのか、という不安もあったが概ね満足。
かなり原作に忠実なリメイクで、大幅に削られたシーンは特にない。ドラえもん映画史上屈指の恐怖シーンである「ジャイアンとスネ夫がこっそりバギーに乗って抜けだす」くだりもしっかり再現されている。映画では毎回危険な目には遭うが、あんなに明示的に死を意識させる状況は他にないよね。
原作を読んだときは「なんだか終盤がやけにあわただしい作品だな」と思ったが、2026年映画版でもその印象は変わらず。敵らしい敵が出てくるのが8割ほど経過してからだからね。だから終盤は説明台詞が多い(漫画版だと後半は文字だらけになる)。
ここは改善してほしかったところだな。
特に1983年時は冷戦下なので「二国間の対立」「軍拡競争が招いた地球滅亡の危機」というテーマが受け入れられやすかったのかもしれないが、今の時代に「核実験の失敗で国が滅んだ後も自動報復システムが起動している」という設定を台詞だけで理解させるのは相当苦しい。大人でも原作を読んでないとしんどいぜ。
ただ前半の「宿題を終わらせるまでキャンプに行ってはいけないとママから言われたのでみんなで協力してのび太の宿題を終わらせる」パートや、中盤の海底豆知識、藤子・F・不二雄氏の想像力が存分に発揮された海中生活の描写(特にトイレのリアリティにこだわるあたりがすばらしい)もそれはそれでおもしろい。物語として見ると冒頭の「のび太がドラえもんの力を借りずに宿題を終わらせる」シーンは蛇足かもしれないけど、日常から自然に冒険の世界へと連れてってくれる役割をはたしている。映画を見慣れている大人にとってはいらないかもしれないけど、子どもにとっては重要な描写だ。
反面、幽霊船のくだりはばっさり削ってもよかったんじゃないかと思う。幽霊船が移動してる意味がまったくわかんないし(しかも海上を移動してたよね)。
『海底鬼岩城』といえば、ドラえもん以上の存在感を見せるバギー。本作の主役といってもいい。
2026年版では、バギーの心境の変化(心があるのかわからないが)をより丁寧に描いている。原作で持っていた性格の悪さ、ポンコツ感も薄めで、ラストの悲劇性が際立つように作っている。
しずかちゃんだけでなく、のび太とバギーの「友だち」に関する会話など、くどいぐらいにバギーの胸中が強調される。そのへんは個人的には説教くさくて好きではないのだが、子ども向け映画としてはこれぐらいわかりやすいほうがいいのかもな。「前の持ち主に粗末に扱われていた」という背景を付与したのも心境の変化に説得力を与えている。結果的に『空の理想郷』のソーニャみたいになってしまったけど……(バギーとソーニャがたどる結末も似ている)。
逆にポンコツ感が増したのがボス・ポセイドン。AIがすっかり身近になった現代の感覚だと、ポセイドンのダメさが目に付いてしまう。感情的になりすぎ。自動報復システムAIがあんなに威張って何かいいことある? まったくしゃべらないほうがかえって不気味さが増したんじゃないかな。
あとしずかちゃんが攻撃されなかった理由の「我には女のデータが少ない」ってなんだよ。エロか?
原作でしずかちゃんが口にする「女の子だったら手荒なことはされないとおもうの」が今の時代にふさわしくないから回避したんだろうけど、結果的にもっとふさわしくない台詞になってないか? なんで今から地球を滅ぼそうとするやつが女のデータ集めるんだよ。
単純に「逃げ遅れたしずかちゃんがさらわれる」ぐらいでよかったのに。
ついでにいえば、アトランティスが滅んだシーンを爆発で表現してたけど、あれはおかしい。国が滅ぶほどの爆発なら、バギー1台突っ込んだだけで壊れるほど脆弱なポセイドンが無事なわけない。「放射性物質漏れでアトランティス人は死に絶えたが機械は動作を続けた」とかにしないと。
おっと。ちょっと愚痴が多すぎた。
良かったとおもえたのは、オープニング映像の美しさ。昨年の『絵世界物語』のオープニングもすばらしかったけど、あの「さあ今からドラえもんの映画が始まるぞ!」というわくわく感だけでも足を運んだ価値があると思える。
改変箇所で感心したのは、ラストのしずかちゃんの涙。漫画版だと涙がぽたりとドラえもんの上に落ちるのだが、今作では涙がふわっと周囲に広がる。そういえば忘れてたけどここは海中だった! 涙が落ちるわけないよな!(トイレにはこだわったF先生も涙のことは忘れていたのだろうか)
良くも悪くもオリジナルの印象が強くのこり、原作の強靭さを改めて実感するリメイクだった。
経営コンサルタント、エンジェル投資家、大学准教授などの経歴を持つ著者による、“若者に向けて”の交渉の指南書。
とっくに若者でなくなったぼくでも学ぶところは多かった。
交渉術といっても「交渉相手の斜め向かいに座れ」みたいな小手先の(そしてどこまで本当かわからない)テクニックではなく、もっと根本的なスキルについて語っている。スキルというより思考法、思想。
くりかえし語られるのは、交渉に必要なのは自分の要求を伝えることではなく、相手の話を聞くことだというメッセージ。
たとえば、学生が企業に対して「採用活動のあり方を変えてくれ」とおこなったデモ活動について。
そうなんだよね。この件にかぎらず、ほとんどのデモってただの主張であって交渉になってないんだよね。だから効果がない。
よく政治的な主張を大声で叫びながらデモをしている人たちがいるけど、あれなんて無意味どころか逆効果だとおもうんだよね。あれを聞いて「私の考えはまちがっていた! デモ隊の言うとおりだ!」と考えを改める人がどれぐらいいるとおもう? 「うっせえなあ。あいつら嫌いだわ」となる人のほうがずっと多いにちがいない。
政権に異議を唱えるデモにしても、政権からしたら「デモに参加するような連中はどう転んだって与党に投票することはないだろうから、これ以上嫌われたってどうってことない」って感じだろう。支持者からそっぽを向かれるのは怖いだろうけど、敵対する政党の支持者から嫌われるのは何のデメリットにもならない。
デモをすれば「おれたちはがんばった!」という自己満足は得られるのだろうが、デモが何かを動かすことはほとんど期待できない。「この法案を引っ込めてくれたら次の総選挙は与党に投票してやるぞー!」ならまだ検討する価値があるだろうけど(その約束を信じてもらえるかどうかは別にして)。
労働法では「労働三権」として、労働者に団結権、団体交渉権、団体行動権が認められている。
労働者が団結(労働組合の組織)する権利、労働組合が使用者と賃金や労働条件等について交渉する権利、そしてストライキをする権利だ。
この権利が力を持つのは、労働者がストライキをちらつかせられるからだ。
「賃金アップを認めないなら従業員が団結してストライキをするぞ。そうなったら困るだろ」
という交渉(もっとあけすけに言えば脅し)をするからこそ、使用者は
「しょうがない。ストで大きな損失を出すよりはマシだから給与を上げるか」
と折れるのだ。
労働者がたった一人で「給与上げてくれー!」と言っても交渉にはならない。「要望を聞き入れることのメリット、聞き入れないことによるデメリット」を語るからこそ交渉になるのだ。
交渉する上で重要なのは「バトナ」だと著者は語る。バトナとはBest Alternative To a Negotiated Agreementの頭文字をとった言葉で、直訳すると「交渉による合意のための最良の代替手段」みたいな感じかな。
要するに「交渉決裂時の他の選択肢」だ。
ぼくは転職時にこれを実感した。
数年前に転職したが、そのとき在籍中の会社をどうしてもやめたかったわけではない。「今の会社でもまあいいけどもっといい条件の会社があれば」ぐらいの気持ちだった。この余裕はすごく大事だ。転職先の会社と強気の給与交渉ができる。「別にこっちはこの会社でなくてもいいんですよ」という気持ちで臨めるのだから。
大学生で就活をしていたときはそのへんをわかっていなくて「たくさん内定をもらっても最終的には1社にしか行けないのだから、たくさん受けてもしょうがないだろ」という気持ちでいた。行きたい会社だけを受けるから、不採用だったときはすごく落ち込む。余裕を失ってどんどん追い詰められ、最終的には「内定が出たらもうどこでもいい」ぐらいの気持ちになっていた。
今ならわかる。大して行きたくなくても、とりあえず何社か内定はもらっておいたほうがいい。それがバトナとなって自信に満ちた面接ができる。
何事をするにも、時間的・経済的に余裕があったほうがいいということだ。不動産を探すにしても「どうしても今週中に引っ越し先を見つけないといけないんです」という人より「今よりいい条件の物件があれば引っ越してもいいかな」という人のほうが良い物件に出会えるはずだ(前者は不動産屋からしたらいいカモだろう)。
最終章で著者から若者に向けてのメッセージ。
いやほんと。
救命救急と同じだよね。「誰か救急車を呼んでください!」だと誰も動かないことが往々にしてあるけど、誰かひとりを指さして「あなた、救急車を呼んでください!」と言えば動いてくれるというやつ。
いきなり社会全体を動かすなんて無理に決まっている。まずは誰かひとり。できるだけ影響力のある誰か。
本気で世の中を変えようと思うのなら、デモをしたりSNSで愚痴ったりするより、地元選出の市議会議員にでも陳情に行くほうがよっぽど効果があるだろう。
ってこんな僻地のブログでぐちぐち書いてるぼくが言うなよって話なんだけど……。
工学博士である著者が、自身が見聞きした数々の“失敗”を学問に昇華させた本。
失敗を単なるマイナスととらえるのではなく、多くの学びを与えてくれる成功の種と考える。現実的で、非常に有意義な考え方だ。
常々書いているが、ぼくは「失敗しない人」を信じない。よくいるよね。己の失敗を認めない人。自分の功績だけを喧伝して失敗については口が裂けても語らない人。「あれはそのような意図ではなかった。誤解を与えたのであれば申し訳ない」と言い訳に終始する人。特に政治家に多い。最近も、自分の過去のブログと最近の発言の矛盾を指摘されて、あわててブログを削除したみっともない総理大臣がいた(おまけにブログを削除したことにも「HPをシンプルにした」という言い訳をして恥の上塗りをしていた)。
とあるドラマで、主人公が「私、失敗しないので」を決め台詞にしていた。最も信用してはいけない人だ。「絶対に失敗しない人」=「絶対に失敗を認めない人」である。当然ながら学びも成長もない。一生他人のせいにして生きていくだけだ(なのに人々はこういうダメな人を“強いリーダー”と勘違いしちゃうんだよな。バカなだけなのに)。
そんなどうしようもない「絶対に失敗しない人」にならないためには、失敗から学ぶ姿勢を身につけなくてはならない。
『失敗学のすすめ』では、失敗が起こる原因をいくつかの分類に分けている。
そのうちのひとつ。
よく「組織単位の不祥事」がニュースになっている。
会社ぐるみで犯罪行為に手を染めるような行為だ。最近も「不動産を買うために上司の命令で放火した」という事件がニュースになっていた。
ふつう、いくら上司に命令されたからってそんなことはしない。上司の命令よりも法律のほうが優先されるに決まっている。誰だってわかる。
でも。法律や社会のルールよりも、狭いコミュニティのルールを優先してしまうことがよくある。特別な人間だけではない。実に多くの人が過ちを犯す。
街中で子どもを殴る大人はほとんどいない。でも、学校の中、部活の中ではそんな大人は山ほどいる。街中で他人を大声で罵倒しない人が、会社の中では部下を大声で人格否定をして恫喝する。
特に「いいことをしている」と信じている人は危険だ。ボランティアスタッフが、通行の妨げとなる場所で活動をする。ボランティアをするという大義名分が、社会のルールを守るというあたりまえのことを上回ってしまうのだ。
組織のローカルルールが強くなりすぎると、とりかえしのつかない大失敗を招いてしまう。
先ほどの話にも通じるが、強い上下関係があると失敗は起きやすい。
成功者の周囲がイエスマンばかりになって、どんどん間違った道へ突き進んでしまう……。よく見る光景だ。
人間誰しも批判されることは嫌いだ。でも批判を遠ざけてしまうと、間違った道に進んでも引き戻してくれる人がいなくなる。えらい人がそのえらさゆえにえらくなくなってしまう。
部下から誤りを指摘されることを恥だと考える人は、誤りを修正する機会を失ってしまう。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とはよく言ったものだ。
失敗を起こしやすい体質について。
そうなのよね。会議って最初は「様々な意見を聞きたい」「みんなで議論して思考を深めたい」みたいな意図で始まって、はじめはそこそこ効果を上げる。でも回を重ねるごとに意義は失われてゆき、「やめて文句を言われたらいやだから」「失敗の責任を押しつけられないようにみんなで決めたということにしたい」みたいな理由でだらだらと継続してゆく。さらには「あいつは俺に反対意見ばかり言うからメンバーから外そう」なんて動きをする人間まで現れて、広く意見を聞くどころか、多様な意見を封じるために会議が使われたりする。
失敗から学ぶ、失敗の芽を早めに摘むための方法がいろいろ書いてあって参考になるんだけど、これを実践するのはむずかしそうだ。特に組織が大きくなればなるほど。
「失敗を防ぐよりも自分の評価を下げないことのほうが優先」という人がぜったいにいるからなあ。
ドラゴンボールのすごさのひとつに「悪役のネーミング」がある。
ふつう悪役って悪そう、強そうな名前をつけたくなるじゃない。濁点多めの。
なのにドラゴンボールの悪役はほとんどが悪役っぽくない名前を持っている。作中ではじめて殺人を犯した桃白白(タオパイパイ)なんて、漢字も音もすごくカワイイ。ピッコロもかわいい。音の響きだけでいえばピッコロの手下であるシンバルとかドラムのほうがよっぽど強そうだ。ベジータとかナッパなんて野菜だぜ。食べ物縛りで悪役の名前をつけるとなったら、ふつう肉の名前をつけない? ビフテキとかボルシチとかケバブとか。野菜をつけようとおもう?
でもセル編はふつうだ。ドクターゲロとかセルとか、いかにも悪役っぽいネーミングだ。まあセル編ってドラゴンボールの中ではちょっと異色だしな。主人公の交代を図っていた時期だし。ふつうすぎて逆に異色。
「議員が秘書を蹴った」とか「議員が大切なものを踏んづけた」といった醜聞の場合も『下半身スキャンダル』と言っていい。
通勤電車で、座席に座っていると目の前にヘルプマークつけている人が立った。席を譲ったら感謝された。
……と、ここまではお互い気分よくなれてよかった話なのだが、どうも譲った相手に顔を覚えられたらしく次の日もその次の日もぼくの前に立ってくるようになった。嫌になったので乗る車両を変えた。