
読書感想文は随時追加中……
読書感想文リスト
新聞を13紙も購読して読み比べしているという芸人・プチ鹿島さんによる政治コラム集。
タイトルには「2025」とあるが、コラムは2023~2024年に掲載されたものが中心。自民党裏金問題、安倍元総理暗殺・国葬問題、岸田首相→石破首相へのバトンタッチ、都知事選の話題など。
ほんの数年前のことだが既に「あーこんなこともあったなー」という感じだ。政局というのは目まぐるしく動くし、人々が忘れるのも早い。ぼくは政治ニュースが好きなのでわりとチェックしてるほうだとおもうのだが、それでも忘れている。
いわんや政治に興味のない人々にとっては、政治家がどれだけ悪さをしても1年もたてば記憶の隅にも残っていないのだろう。そりゃあ政治家は罪を認めて責任をとるより、のらりくらりと逃げるほうを選ぶよね。
プチ鹿島さんのお家芸といえばなんといっても「新聞読み比べ」。
同じ話題でも新聞によって書き方はぜんぜんちがう。それを「偏向報道だ! これだからオールドメディアは」と言うのは子どもの反応(逆に変更していない報道がどこにあるのか教えてほしい)。
良識ある大人は偏向報道であることを承知した上で、その違いを楽しむのだ。何紙も読むことで「なぜこの新聞はここには触れないのか」「なぜこの新聞だけがこの情報を知ることができたのか」が見えてくる。プチ鹿島さんは“書かれていないこと”を読み解くのが本当にうまい。
裏金問題等の「責任をとる」という理由で逃げるように衆院選不出馬を決めた自民党の大物・二階俊博氏について。
裏金なんか誰が見たって悪だろう。仮に裏金によって利益を得ている身だったとしても、少なくとも建前上は「裏金は許されない」というのがまともな大人だろう。
ところが北國新聞は《昭和の空気をまとう政治家には住みにくい世間になった》と「二階さんもおつらいよね。昭和の時代だったら許されることだったのに」と、裏金議員に同情してみせるのだ。すごい。
さらに「触れない方がいいことには触らない。伏せておくことは、しゃべらない。それで世の中は成り立つ。」なんて、報道機関として自殺に等しい宣言だとおもうのだが、それを堂々と書いてみせるのだ。
いやあ、地方にはまだまだすごい新聞があるんだなあ。権力とべったりであることを隠そうともしない。相当甘い汁を吸ってるんだろうな。そりゃあどれだけ不祥事をしても一部地方で自民党が勝ち続けるわけだ。
北國新聞に負けず劣らず、四国新聞もすごい。
四国新聞といえば、自民党の平井卓也議員の弟が代表取締役を務めていることもあり、ほとんど自民党の機関紙と化していることでも有名な新聞だ。
政権べったりの新聞だからこそ、権力者の本音が漏れる。
朝日新聞や毎日新聞相手なら警戒して言えないようなことも、太鼓持ち新聞相手なら気を良くしてついつい漏らしてしまうのだろう。
先ほどの北國新聞のコラムもそうだが、政権側の立場を新聞だからこそ「こんなこと書いたら批判されるだろうな」と気づかずに書いてしまうんだろうな。なぜなら己が批判精神を持っていないから。
あえて自分とはまったく異なるスタンスの新聞を読んでみると、いろいろと発見がありそうだ(ぼくはそこまでしようとはおもわないので、お金と時間を使ってやっているプチ鹿島さんには頭が下がる)。
2024年に最も話題を集めた政治家が斎藤元彦・兵庫県知事。
パワハラ、内部告発つぶし、阪神・オリックス優勝パレードをめぐる背任など様々な問題で不信任決議を受けた斎藤知事が出直し選挙に出馬。圧倒的不利かと思われたが、立花孝志氏らが積極的にデマをまき散らして知事を擁護(というより告発者や対立候補らを攻撃)。
結果的に、多くのデマに助けられたことも後押しして斎藤氏は再選を果たした。
この結果を受けて「オールドメディアの敗北」が話題になった。
一方の陣営がSNSやYouTubeで積極的にデマをまきちらしているのに、新聞やテレビは「中立報道」を理由に、あくまで候補者の主張をそのまま流すことに徹していた。
はたして、デマや真偽不確かな情報を蔓延している状況で「中立だから」といってあたりさわりのないニュース(「○○候補が駅前で主張を訴えました」みたいな報道)をすることが本当に中立なのか。デマを流す側が利する結果になっていないだろうか。
国民のほとんどが新聞やテレビなどのマスメディアから情報を得ていた時代であれば、「選挙期間中は批判をしない」が公平だったかもしれない。でもお行儀の悪い人たちが誤情報をまき散らしている時代に、マスメディアだけが「私たちは何も言わずにおきましょう」とやっていていいのだろうか。
古いメディアには古いメディアの良さがある。だけど時代が変わっても旧来のやり方をずっと守ることが正解ではないだろう、とおもうんだけどね。
選挙期間中だからって急に黙りこむ、ってのはもうやめてもいいんじゃない? 選挙期間でも悪いことは悪いこととして報じる必要があるでしょ。それこそが本当の中立・公平じゃないの?
著者はジェーン・スーという名前だけど生粋の日本人だそうだ。
幾人もの男と付き合ったけどとうとう独身のまま40代を迎えてしまった女性による「プロポーズされない101の理由」。
ぼくは既婚男性なので「プロポーズされない女性」とは真逆の属性なのだが、だからこそ楽しく読めた。自分とはまったく関係ない人に向けて書かれた本は素直に読める。
もしもぼくが結婚したかったという後悔を抱えている結婚適齢期を過ぎた女性だったら、突き刺さりすぎてまともに読めなかったかもしれない。
婚活を描いた小説・辻村深月『傲慢と善良』に「お見合いがうまくいかない人はみんな、自分に釣り合う相手じゃなければ納得しないし、その基準が控えめだと言いつつ、実は相当高い」という台詞が出てきた。
それなりに異性と交際してきたにもかかわらず(そして結婚願望があったのに)結婚できなかった人は、みんな突き詰めれば「求めるものが高い」に集約されるのだろう。
前にも書いたけど、ぼくの友人に稼ぎが良くて見た目もわりと良くて性格も穏やかで家事もきちんとやる男(既婚者)がいる。いわゆる“理想的な夫”だ。
だが彼は最初から理想的な夫だったわけではない。二十代の頃は仕事を転々としていて稼ぎも良くなく、生活も荒れていた。その頃から付き合っていた女性と結婚して、徐々に“理想的な夫”になっていったのだ。
最初から“理想的な夫”を探そうとしてもそんな男はまずいない。いたとして、とっくに結婚している。
残酷な話として、恋愛市場、婚活市場において女性は若ければ若いほど価値が高い。一方男性のほうは必ずしもそうではなくて、年齢が上がるほど収入は増える傾向があるし、角がとれて人あたりがよくなる人が多い(というより男は二十歳を過ぎてもまだまだガキすぎるんだよね)。もちろん悪化する人もいるけど。
「いい男がいない」のは当然で、探さないといけないのは「いい男になりうる男」なのだ。
プロポーズされない理由のひとつとして挙げられている『雑誌に書いてある「彼をその気にさせるアプローチ」を鵜呑みにした』。
これは男女関係にかぎらず、あらゆる人間関係に対して同じことが言えるね。友人でも、親子でも、上司と部下でも。
「相手のためをおもって」アドバイスをするとき、人はどうしても相手に変わることを求めてしまう。そして変わってくれなければ相手に腹が立つ。
「子どもの将来のことをおもって勉強するように言う」と、勉強しない子に対して腹が立つ。そうではなく「子どもが勉強をして難関校に入ってくれたら自慢できてうれしい」と正しく自分の感情を見つめることができれば、助言が聞き入れられなくてもさほど腹も立たない。宝くじがはずれたのと似たようなものだ。
「相手のためをおもって」という思考を捨てて「自分にとって好都合だから」と正しく認識することが心の平穏を保つ秘訣だね。
相反するものをひとりの人間に求めてしまう、ということについて。
そうそう。「常に女性の意志を尊重してくれる優しい男」は、「俺についてこい!」的なプロポーズはしない。女のほうから結婚しようと言いだしたら「じゃあ結婚しようか」と言ってくれるだろうけど。
都合のいいときだけマッチョさを求めてもそれは虫が良すぎるというものだ。
ほんと、男から見たら女に対して「そりゃそうですよ」と言いたくなることは多い。
社交的でマメで行動的な男と付き合った女が浮気されたら「そりゃそういう男は浮気する確率が高いよ。浮気されたくないなら気が利かなくて行動的でなくてモテない男を選ばなきゃ」とおもう。
もっとも男は男で、「積極性と奥ゆかしさ」とか「清純さとエロさ」のように決して相いれないものを女に対して求めてしまうのだけれど。
プロポーズされない理由をあれこれ書いていてそのどれもがもっともなんだけど、じゃあ「交際相手はいるのにプロポーズされなくて困っている」女性がこの本を読んだからと結婚できるようになるかというと……むずかしいだろうね。
理由はいろいろあるけど、いちばん大きいのは「著者自身がどうしても結婚した方がいいとおもっているわけではない」ということ。この本の随所からそれが感じられる。
プロポーズされなかったけど、そんな自分を否定したいわけじゃないし、むしろ肯定してあげたいし、ということはこれからも改める気はないし、かんたんに改められる人間ならもっと若い頃に改めてるし、そもそも本当に結婚したいのか自分でもよくわからないし……という気持ちが節々から伝わってくる。プロポーズされない自分をむしろ誇りにおもっているんじゃないだろうか。
著者自身が「世界一役に立たない結婚指南書」と書いているとおり、この本を読んだら結婚できるどころかむしろ結婚から遠ざかるんじゃないだろうか。
そもそも「結婚」じゃなくて「プロポーズされる」をゴールに置いている時点で根底から間違ってるしね。「転職成功」じゃなくて「スカウトされる」を目標にしてるようなものだもん。
「私たちは間違っていたけど、それも含めてトータルでは間違っていなかった」というメッセージ。自虐に見せかけた慰めの本だね。
昭和史を改めて見つめなおした本。
読んでいて感じたのは、左派による左派批判という感じ。この人自身は太平洋戦争を間違いだったと認めているし、戦争をくりかえしてはいけないと感じている。たぶん。でもそんなことは書かない。むしろそういう人を批判している。
「戦争はいけない。再びあの愚かな過ちをくりかえしてはいけない」と言うことで平和に対して貢献した気になった人を批判している。
戦争に対する反省ってのはそういうことじゃないだろ。いつどこで誰が何をした、それに対して周囲の人間や国民はこんな反応をした、それに対して他国はこういう行動をとった、その結果こうなった。こうした歴史に対する正しい向き合い方から反省や改善は生まれるのだろう。これが著者の主張だ。
そうだよね。左派だからこそ左派のダメなところを直してほしいんだよね。
「平和は大事! 戦争はいけない!」って教わって、そういうものなんだ平和は大事なんだな、って信じてる人って「天皇は神! おまえらは神のために死ね!」って言われて信じていた人たちと大差ない。
でもこういうことを言うと「おまえはどっちの味方なんだ!」「極右め!」とか言われちゃうんだよね。特に政治的に熱くなっちゃってる人に「その目的を達成したいのならそっちよりこっちの道を選んだ方がいいですよ」って言うと、全部否定されたとおもって反発しがちだ。耳に痛いアドバイスをしてくれる人こそ大事にしたほうがいいのに。
筆者の歴史研究に対するスタンスは、なるべく生の声を集めるというもの。
裁判記録というのはオフィシャルなものなので(ほとんどの場合)間違いではないのだけれど、それだけが正解かというとかなり怪しい。
現在ですら、政府が発表していることはかなり不正確だ。さすがにあからさまな嘘は少ないが(ときどきあるけど)、あえて書かないことは山ほどある。黒塗りだらけの開示資料を見れば明らかだ。オフィシャルな記録なんてものは一面的なものの見方でしかない。
市民たちの生の声というのは誤りや記憶違いも多くて信頼性には欠けるけど、公的な史料からはこぼれ落ちる事実を拾ってくれることもまた事実。
戦場で生死を分けるのは、人徳でも努力でもない。運だけだ。運が悪かったやつは死に、運が良かったやつは助かる。彼我の間に運以外の差はなく、だからこそ生還した者は死者の言葉を代わりに語る。
これを読んでぼくは、中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を思いだした。中島岳志氏はこう書いている。
「死者の声」に耳を傾ける必要がある、現代人の考えだけで正しさを決定することなどできない、という考え方だ。保阪正康の主張ともよく似ている。
このように、ぜんぜん別のテーマを扱った別の著者の本を読んでいても、驚くほどよく似た主張をしていることにぶつかることだ。読書の悦びのひとつだ。
死者の声に耳を貸す。現代では忘れられがちだが、重要な考え方だとおもう。歴史を見ればわかるように、人間はずっと間違いつづけてきた。今の政治も正しくないし、これから先も間違える。我々は必ず間違える。独裁制だろうが共和制だろうが間違える。
と考えれば「選挙で勝利したから民意を得た。我々が正しいと考える政策を進めていい」なんて愚かな考えには至らないはずだ。我々は間違える、という謙虚な考えを持つことが特にトップにとっては大事な資質だ。残念ながら人々はその逆の「私失敗しませんから」と考えるバカをリーダーに選んでしまうものなんだけど。
歴史は権力者や歴史学者が作るものではない。死者の声の中にこそ歴史があるはずだ。
筆者は、そうした善悪思想から離れた分析をやるべきだという立場をとる。このリアルな姿勢、嫌いじゃないぜ。
「あの戦略はどこが間違いだったか」と考えることはべつに反戦思想と矛盾しない。なのに戦略の分析をしたら「そうやって戦争の研究をしてまた戦争を始める気なのか!」と言いがかりをつけてくる人がいることは容易に想像できる。
そうやって戦争について本当にじっくり考えることを避けてきたことこそが、著者の語る「日本人は間違えた」ポイントなのだ。
日中戦争において、中国は内陸へ退却した。日本軍はそれを追いかけてどんどん内陸に進軍していった。そこに戦略はなく、ただ逃げる敵を追いかけたに過ぎない。
そもそも日本よりはるかに広くて人口もずっと多い国を制圧できるはずないなんて、誰でもわかることなのに。イギリスがアヘン戦争の後に要所の上海に租界を置いて効率的に統治したのとは対照的だ。
つまり日本軍は何も考えてなかったわけだ。ただ追いかけた。その結果、食料や物資が枯渇し、民間人から掠奪することになった。非軍人からの抵抗を受け、虐殺をした。国際的な非難を受けた。日本軍にとって、すべてが悪い方に転がった。
著者は「中国の巧妙な罠に嵌まった」と書く。はたして中国がそこまで見通して退却をしたのかはわからないが、日本軍の戦い方がまずかったのは間違いない。
これを「日本軍は虐殺という悪いことをした」と教えるだけでは真の反省にならない。当時の軍人だって「民間人から虐殺、掠奪しよう!」と思って進軍していったわけではない。彼らには彼らの事情があった。その理由を検討しなければ、また同じ状況になれば同じことをくりかえすことになる。
「侵略戦争だった。侵略戦争はいけないこと!」というイデオロギーからはこういう考察は生まれない。
反省は必要だが、それと冷静な分析は切り分けて考えなければならない。戦争に反対する者こそ戦争について知る必要がある。目を背ける人が多いけど。
戦争の文脈でよく語られる「反省」について。
ぼくは、右も左も外国の反応を気にしすぎだと思っている。
少なくとも国民の単位では、他国民に対して謝罪する必要なんてない(出兵した人は別にして)。かといって必要以上にはねつける必要もない。
ずっと昔、ぼくが中国に行ったときに出会ったある中国人から「おまえら日本人は中国人からたくさんのものを奪った」と言われたことがある(言っておくがそんなことを言ってきたのは大勢出会った中国人のうちひとりだけだ)。で、ぼくは「たしかに悪いことをした日本人はいた。それに対してはぼくも胸を痛めている」的なことを言った。
同じ日本人だからというだけの理由で過去のあやまちの責任をこっちに持ってこられても、知らんがな、である。そんなこと言ったら中国人が過去にどれだけ
とはいえ相手を怒らせていいことなんてないので「ひどいことだよね。私も心を痛めている」ぐらいは言ってあげたらいい。つまり「ナチスにひどいことをされたユダヤ人の子孫」に対するのと同じ態度をとればいい。
戦争に対する知識も思考もない反省なら、しないほうがマシかもしれない。
もう終戦から81年。戦争を体験した人がいなくなる時代になった。そろそろ「脊髄反射的な反省」をやめて、リアルな分析をできる時代になっているかもしれない。
断食により餓死しようとした作家の手記。
ぜんぜん理解できなくておもしろかった。こういう、自分とはまったく考え方がちがう、理解できる気すらしないぐらいぶっとんでいる人の本はおもしろい。
もう年老いて、身体にもあちこちガタがきて、もうすぐ仕事もできなくなり、介護が必要になるかもしれない。同居する家族もいない。世の中に迷惑をかけるだけの存在になるぐらいならいっそ自分で命を絶ったほうが……。
ここまでは理解できる。ぼくもこの状況になったら同じように思うかもしれない。むしろ、「ただ介護されるだけでこれ以上良くなる見込みもない老人って何を楽しみに生きてるんだろう」とすら思っている。
だが、「だから断食で餓死しよう」という発想になるのは理解できない。なんで断食? ぜったい苦しいし大変じゃん。
筆者は自然に死にたいって言ってるけど、餓死って自然な死じゃないし。動物だって餓死するのはごく一部でしょ。そもそも自死が不自然な死なのに、「自然に死にたい」って何言ってんだ……。
特に理解できないのが、断食で死のうとしているのに、薬は飲み続けていること。
一度、断食をして薬を飲むのもやめたところ、心臓発作を起こして入院することになったから、というのがその理由らしい。
うーん、わからん。心臓発作で死ぬならそれでいいんじゃないの? 心臓発作も苦しいだろうが、餓死ほどは長く苦しまないわけだし。断食で死にたいけど心臓発作で死にたくないという感覚がまったく理解できない。心臓発作のほうがよっぽど自然な死だとおもうんだけどなあ。
で、断食しているのに「食後の薬」を服用するものだから、胃が痛めつけられ、胃が痛いと手記に書いている。そりゃそうだろう。何がしたいんだこの人は……。
この人は、断食で死ぬために周到な準備をしている。
死のうとしていることを知り合いに知られると、止められてしまうかもしれない。止めなかった場合、その人が保護責任者遺棄致死に問われる可能性が出てしまう。なので誰にも言わずに断食を実行しようとしている。
連絡がないのを不審におもって知り合いが様子を見にきたら困るので、わざわざ引越しまでしている。高齢者の一人暮らしなんて賃貸物件を見つけるのもたいへんなのに。
首尾よく(?)死ねたとして、発見が遅れると遺体処理がたいへんだし借りている家にもダメージを受ける。そのため死ぬ寸前に知り合いに連絡をして、死んだら速やかに発見してもらえるようにする。
……と、あれこれ気を配ってスムーズに死ねるよう算段している。
ここまで配慮できる人が、なんで「断食しているのに薬を飲んでいるせいで胃が痛い」なんてことで困惑しているのか、ほんとによくわからない。
結果的に、この人は断食では死ねなかった(Wikipediaによると断食失敗の翌年に病院で心不全で亡くなったらしい)。
しっかり覚悟を決めて、盤石の態勢で臨んでも、人が断食で死ぬのはむずかしいらしい。ま、そりゃそうだろう。
山口良忠氏という裁判官がいた。戦後の食糧難時代、人々は闇市で食べ物を買って生きていた。厳密には食糧管理法違反だが、政府からの配給だけでは生きていけないので闇市で買っていたのだ。
だが山口氏は「闇米を取り締まる裁判官である自分が、闇米を食べるわけにはいかない」と闇市での買い出しを拒否し、配給の食糧を子どもに与え、自分はわずかな食べ物しか口にしなかった。
そして彼は死んだので「信念のために命を捧げた立派な裁判官」として有名になっている(もちろんこれを聞いて「なんてばかな人なんだろう」と感じる人もいるだろう)。「悪法もまた法なり」と言って死刑になったソクラテスに重ねて「昭和のソクラテス」とも言われる。
だが山口氏の死因は肺結核である。食べていなかったので栄養失調になったことが間接的な原因だが、餓死したわけではない。もし山口氏が結核にならず、「今日食べなきゃ死ぬ」という状況に追い込まれていたら、それでも信念を貫いていただろうか。生物の生存本能というのはそう弱いものではないだろう。
興味深いのは、筆者が死ぬことを決めてからも政治のことについて怒っていること。この本の随所に、政治に対する怒りが書かれている。
どうせ死ぬんなら政治のことなんてどうでもいいじゃない、と読んでいる側からしたらおもうんだけど、死を目前にしても義憤って抑えられないんだなあ。
人間、死期が近づいたらありとあらゆるものに感謝をして、穏やかに眠るように息を引き取る……というわけにはいかないもんなんだなあ、やっぱり。