2021年12月29日水曜日

パイナップル中毒にご用心

 夜中に腹が痛くなった。

 胃腸が弱いのでおなかを壊すのは日常茶飯事なのだが、今回のはいつもの痛みとちがう。トイレに行っても収まらない。風呂に入ってあったまっても収まらない。寝たら治るかとおもって布団に入っても、痛みが引くどころかどんどん痛くなって眠れない。


 急性盲腸炎とか? いや、でも盲腸炎は強烈な痛みっていうしな。

 食あたり? うーん、でもふだん食べているものしか食べてないしな。変わったものなんて……。


 あっ。

 食ったわ。

 干しパイナップル。

 いきつけのドライフルーツ屋さんで買った、ドライパイナップル。茶色くて、しわしわで、妻が「パイナップルのミイラ」って言ったやつ。

 あれかな。

「パイナップル 腹痛」で検索してみる。

 やっぱり。パイナップルにはプロメラインというたんぱく質を壊す成分が含まれていて、パイナップル加熱せずに食うと口内や腹が痛くなることがあるらしい。

 たんぱく質を壊す成分……。こえー!

 そういやキウイもたんぱく質を壊すからゼリーが作れない(ゼラチンが固まらない)と聞いたことがある。パイナップルも同じかな。

 これまでパイナップルで腹痛になったことはなかったが、ドライパイナップルがぼくの身体にあわなかったらしい。


 そうとわかればもう大丈夫。

 ぼくは「吐こうとおもえばわりとかんたんに吐ける」体質なので、こういうときに助かる。

 トイレに行って、水をがぶがぶ。胃の中身をゲロゲロ。

 ふうすっきり。数分すると嘘のように腹の痛みも治まった。

 ということでパイナップルのミイラにはご用心。



2021年12月28日火曜日

とりき

 よく小学生とドッチボールをする。


 ドッチボールがはじまるときの小学生たちの会話。

「チーム分けどうする?」

「じゃあ〝とりき〟な」


 とりき?

 鳥貴族?

 首をかしげていると、男の子ふたりが「とーりっき!」と言いながらじゃんけんをはじめた。
 勝ったほうから、他のメンバーを指名していく。

 ああ、あれか。
 ぼくが小学生のときは〝とりあいじゃんけん〟と呼んでいた(〝とりき〟の〝き〟ってなんだろう?)。

 要するに、代表者ふたりによるドラフト会議だ。
 じゃんけんで勝てば、好きなメンバーを自チームに引き入れることができる。負けたほうは残ったメンバーの中から、好きな子を選ぶ。
 ひとりずつ獲得するとまた「とーりっき!」とじゃんけんをおこない、ドラフト二巡目がスタートする。


 ぼくが子どものときもやってたけど、けっこう残酷なんだよなー。
 最後のほうまで残った子がかわいそうだなー。ぼくも指名されるのは後半だったなー。

 とおもいながら見ていたら、最後にひとりが残った(子どもが奇数だった)ときの反応に息を呑んだ。

「いるかいらんか、じゃんけんぽん!」


 ぞっとした。
 おいおいおい。それはさすがにひどすぎるだろう。


 じゃんけんで勝ったほうは、残りひとりを「いる」か「いらん」で選ぶというのだ。
 いくら「ドッチボールにおいて」という前提があるとはいえ「いらん」を宣告される子の身にもなってみろよ。

 あわててぼくが
「『いらん』ってのは言われた子が嫌な気持ちになるから、最後のひとりはじゃんけんで勝った方のチームに入ることにしよう」
と止めに入った。

 ふだんなるべく子どもの好きに遊ばせるようにしているが、このときはおもわずたしなめてしまった。




 ほんと、子どもって残酷だよね。
 ぼくが子どものときも同じことやってたけど。

 なにがひどいってさあ。ドッジボールだぜ。
 まだ野球ならわかるよ。メンバー全員に打順がまわってくるから、へたな子を入れるぐらいなら人数を減らして、その分うまい子に一回でも多く打席が回る方がいい。
 でもドッジボールに関しては、人数が増えて得することはあっても損することはまずない。ひとり残ったら「チームに入れる」でいいじゃん。


 まあ〝とりき〟はある意味公平ではある。
 グーパーで別れた場合は戦力が著しく偏ることがあるが、〝とりき〟であれば実力が伯仲する。強い子と弱い子がバランスよく両チームに入るので、ゲームとしては盛りあがる。

 しかしなあ。公平がいいとはかぎらんよなあ。
 最後にぽつんとひとり残されて、「おまえいらん」と宣告される子からしたら、死ねと言われるに等しいぜ。たかがドッジボールとはいえ。


〝とりき〟は絶対こうなるんだよね。
 強い子同士で〝とりき〟をした場合もそうだし、いちばん弱い子同士で〝とりき〟をさせても、結局強い子からとられてゆくから「三番目に弱い子」と「四番目に弱い子」が残ってしまう。

 なので、ぼくがドッジボールに加わるときは「大人がいるときは大人を最後に指名すること」と決めた。

 これで「最後に残されて『いらん』と言われる子」はいなくなるし、前半で目ぼしい選手が取られてしまって盛りあがりが後半失速するという〝とりき〟の構造的欠陥も軽減することができる(大人は強いからね。へへん)。


 だから、プロ野球のドラフト会議も、「その年の目玉選手は最後に指名すること」っていうルールにしたらいいよね。
 一番くじのラストワン賞みたいにさ。



2021年12月27日月曜日

2021年に読んだ本 マイ・ベスト12

 2021年に読んだ本は110冊ぐらい。

 去年は130冊ぐらいだったのでちょっと減った。おうち時間が減ったからかな。

 その中のベスト12。

 なるべくいろんなジャンルから選出。
 順位はつけずに、読んだ順に紹介。


堀江 邦夫
『原発労働記』


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 ノンフィクション。

 いくつもの原発で作業員として働いた著者による渾身のルポルタージュ。まさに命を削って書かれている。
 ここに書かれている原発の実態は、ごまかしと隠蔽ばかりだ。原発の管理がいかにずさんかがよくわかる。

 この本を読んでまだ「日本に原発は必要なんだ」と言える人がいるだろうか。



石井 あらた
『「山奥ニート」やってます。』


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 エッセイ。

 廃校になった小学校の分校で、ニートたちが集まって集団生活を送っている。その日々をつづったエッセイ。ぼくもかつては無職だったが、きっとその頃こういう人たちがいると知ったら気が楽になっただろう。

 山奥ニートという生き方に眉をひそめる人もいるだろうが、ぼくはこういう生き方を選ぶ人がいてもいいとおもう(ただし我が子が山奥ニートになりたいと言いだしたらやっぱり反対するとおもう)。本当の〝一億総活躍社会〟ってこういうことだとおもうんだよね。


前野ウルド浩太郎
『バッタを倒しにアフリカへ』


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 ノンフィクション。

 文句のつけようがないぐらいおもしろい。「おもしろい本」は多いし「すごいことをやっている本」も多いけど、「おもしろくてすごいことをやっている本」はそう多くない。これは類まれなるおもしろくてすごい本。

 近い将来、この人がアフリカを救うとぼくは信じている。


ブレイク・スナイダー
『SAVE THE CAT の法則』


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 ハウトゥー本なんだけど、なんか妙に感動してしまった。

 ロジカルに、手取り足取り脚本の書きかたを教えてくれる。
 これを読んだら自分にもハリウッド映画の脚本が書けるような気になってしまう。

 ストーリーをつむぎたいとおもっている人にとっては読んでおいて損はない本。


マルコ・イアコボーニ
『ミラーニューロンの発見』


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 ノンフィクション。

 他人の行動を観察しているときにまるで自分がその行動をとっているかのように活性化する脳細胞・ミラーニューロンについて書かれた本。

 この本を読むと、我々の行動がいかにミラーニューロンによって支配されているか気づかされる。人間はものまねによって動くのだ。笑っている人を見れば楽しくなるし、暴力映像を見れば暴力的になる。「暴力映像を観たからといって暴力的になるわけじゃない! 人間はそんなに単純じゃない!」と言いたくなる気持ちはわかる。だが、残念なことに人間は単純なのだ。目にしたものを無意識に真似してしまうのだ。


佐藤 大介
『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』


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 ノンフィクション。

 2020年に読んだM.K.シャルマ『喪失の国、日本』も猛烈におもしろかったが、この本もすばらしい。インドに関する本はどうしてこんなにおもしろいのか。

 インドのトイレ事情について語りはじめるんだけど、そこから話がどんどん広がっていって、政治、経済、貧困、犯罪、宗教対立、民族問題、環境問題、そして今なお根深く残るカーストなどについて斬りこんでいく。
 内容ももちろんおもしろいんだけど、なによりワンテーマを軸にいろんな問題に切りこんでいく手法が画期的。


橋本 幸士
『物理学者のすごい思考法』


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 気鋭の理論物理学者によるエッセイ。

 餃子のタネと皮を残さずに包むための最適解を求めたり、エレベーターに何人まで詰め込めるかを計算したり。最高なのは「僕は1時間、ニンニクを微分し続けていたのだ」という強力なフレーズ! これまでニンニクを微分しようとおもった人いる?

 物理学者の、常人離れした思考の一端に触れることができるエッセイ。


伊藤 計劃
『虐殺器官』


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 SF小説。

 今まで読んだSFの中でもトップクラスにおもしろかった。はじめから最後までずっと興奮した。主人公が属する暗殺組織もおもしろいが、なによりターゲットであるジョン・ポールがおこなっている「人々に殺し合いをさせる手法」のアイデアがすごい。
 ほらの吹きかたがすごくうまかった。ぜんぜん現実的じゃないのに、でも「ここじゃないどこかにはこういう世界もありそう」とおもわせてくれる。


荒井 裕樹
『障害者差別を問いなおす』


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 ノンフィクション。

 一部ではあるが、健常者社会に対して激しい闘いをしかける障害者がいる。この本を読む前のぼくは「そんなことしたらみんなから嫌われるだけじゃん。喧嘩をふっかけるんじゃなくて、友好的な関係を築かないと障害者の権利は拡がらないよ」とおもっていた。

 だがこの本を読んで、そうした考えは浅はかなものだと気づかされた。ときに差別されている側から(無意識に)差別している側に闘争をしかけないと差別は是正されないのだ。黒人奴隷が「白人から愛される存在」を目指していたら、いつまでたっても奴隷制はなくならなかっただろう。差別是正のいちばんの敵は、ぼくのような高いところから「お互い仲良くやりましょうや」と言う人間だったのだ。


奥田 英朗
『沈黙の町で』


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 小説。

 いじめをテーマにした小説はいくつも読んだことがあるが、『沈黙の町で』は今までに読んだどの小説よりもリアルに学生のいじめを描いていた。

 いじめの被害者は、小ずるく、自分より弱いものに対しては攻撃的で、平気で他人を傷つける言葉を口にし、他人を裏切る卑怯者で、すぐに嘘をつく少年。またいじめっ子グループにつきまとわれていたのではなく、むしろ逆に自分からいじめっ子グループについてまわっていた。逆に加害者とされるのは、人よりも正義感の強い少年である。

 それでも、いじめられていた子が命を落とせば「イノセントないじめられっ子」「悪いいじめっ子」という単純な構図に落としこまれてしまう。そして我々は「自分とは関係のない凶悪なやつがいじめをするのだ」と安心して目を閉じるのだ。


藤岡 拓太郎
『夏が止まらない』


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 二コマ~数コマのショートギャグ漫画。

 タイトルがおもしろくて、一コマ目がもっとおもしろくて、二コマ目でさらにおもしろいという、二コマ漫画なのに三段跳びみたいな作品もある。「適当に捕まえたおばさんに、自販機の飲み物をおごるのが趣味のおっさん」とか「仲直りをしたらしい小学生をたまたま見かけて、適当なことを言うおっさん」とか、タイトルだけでもおもしろいのに漫画はもっとおもしろい。

 二コマ漫画界の巨匠と呼んでいい。


永 六輔
『無名人名語録』


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 『無名人名語録』『普通人名語録』『一般人名語録』の三部作どれもおもしろかった。

 市井の人々(タクシードライバーとか飲み屋にいるおっちゃんとか定食屋のおばちゃんとかホームレスとか)がなにげなく言った一言を集めた本。SNSで交わされる言葉ともちょっとちがう。もっとプライベートな発言だ。これがしみじみ含蓄がある。

 ただ言葉を載せるだけで、余計な解説を挟んだりしていないところもいい。


 来年もおもしろい本に出会えますように……。


2021年12月24日金曜日

【読書感想文】横山 秀夫『ノースライト 』~建築好きに贈る小説~

ノースライト

横山 秀夫

内容(e-honより)
北からの光線が射しこむ信濃追分のY邸。建築士・青瀬稔の最高傑作である。通じぬ電話に不審を抱き、この邸宅を訪れた青瀬は衝撃を受けた。引き渡し以降、ただの一度も住まれた形跡がないのだ。消息を絶った施主吉野の痕跡を追ううちに、日本を愛したドイツ人建築家ブルーノ・タウトの存在が浮かび上がってくる。ぶつかりあう魂。ふたつの悲劇。過去からの呼び声。横山秀夫作品史上、最も美しい謎。

 バブル崩壊の影響で離婚して失意の中にあった建築士・青瀬は、「あなた自身が住みたい家を建てて下さい」という施主・吉野の依頼を受け、設計を請け負う。完成した「Y邸」は建築界から高い評価を受け、青瀬の代表作となる。だが数ヶ月後、Y邸には誰も住んでいない、それどころか引っ越した形跡すらないことが判明する。Y邸にあったのは一脚の椅子だけ。
 はたして吉野一家はどこへ行ったのか。青瀬は、残された「タウトの椅子」を手掛かりに吉野の行方を探す……。


 青瀬の少年時代の記憶、離婚前の家庭の記憶、ブルーノ・タウトの椅子、雇い主との関係、同僚の不倫のにおい、入札コンペ、かつての恋敵との再会……。様々な出来事が語られる。
 あれやこれやと詰め込んでいるが、終盤までなかなか収束しない。大丈夫か、これ風呂敷畳めるのか……とおもっていたら、ちゃあんと決着。さすが横山秀夫氏。うまい。

 うまいが、これだけの分量を割いてこれか……という気持ちも若干ある。

「吉野一家はどこへ行ったのか、なぜ青瀬にY邸の建築を依頼したのか」という最大の謎も、わかってみれば「なーんだ」というぐらいのもの。「えっ、あの人がまさか!?」「そんな意外な真実が!?」と驚くほどのものではない。
 というか「いくら父親の遺言だからってそこまでやらんだろ……」って感じなんだけどね。

 これまでの人生で数多く傷ついてきた中年の悲哀を描いた小説、とおもって読めばしみじみ味わい深いかもしれないけど、ミステリだとおもって読んだぼくにとっては正直期待外れだった。
 すごくうまく風呂敷を畳んだけど、畳んでみたらものすごくこじんまりとしてた。そんな気分。




 ミステリとして読むより、建築小説として読んだほうがいいかもしれない。

「北向きの家」を建てる。その発想が浮かりと脳に浮かんだ時、青瀬はゆっくりと両拳を握った。見つけた。そう確信したのだ。信濃追分の土地は、浅間山に向かって坂を登り詰めた先の、四方が開けた、この上なく住環境に恵まれた場所だった。ここでなら都会では禁じ手の北側の窓を好きなだけ開ける。ノースライトを採光の主役に抜擢し、他の光は補助光に回す。心が躍った。光量不足に頭を抱えたことのない建築士がいるなら会ってみたい。住宅を設計する者にとって南と東は神なのだ。その信仰を捨てる。天を回し、ノースライトを湛えて息づく「木の家」を建てる。北からしか採光できない立地条件でやむなくそうするのではなく、欲すればいくらでも南と東の光を得られる場所でそれを成す。究極の逆転プラン。まさしくそう呼ぶに相応しい家だった。
 青洲は憑かれたように図面を引いた。平面図。立面図。展開図。断面図。描いては捨て、描いては直しを繰り返した。採光のコンセプトが家の外形を決定づけたと言っていい。北面壁を最高軒高とする一部二階建て。北向きの一辺を思い切り長く引き、南側の辺を大胆に絞り込んだ台形状の片流れ屋根。縮尺二十五分の一の大きな模型を作って内部の光の当たり方を吟味した。季節ごと、時間ごとの入射角を計算し、屋内の構造と窓の位置・形状を決めていった。そして、それでも足りない光量を補うために、いや、この家を真に「ノースライトの家」たらしめるために、苦心惨憺の末考案した「光の煙突(チムニー)」を屋根に授けた。

 こんな感じで、随所に建築に関する記述が出てくる。正直言って建築に興味のないぼくにはちんぷんかんぷんだ。「よう調べたなあ」とおもうばかりだ。

 よく「医師が書いた医療ミステリ」とか「元銀行員が書いた経済小説」とかはあるじゃない。むやみに専門用語が並ぶやつ。

『ノースライト』も、油断しているとあの類かとおもってしまうんだよね。建築士が書いたんじゃないかと。横山秀夫氏の経歴を知らない人が読んだらそう信じるんじゃないかな(ちなみに横山秀夫氏は元新聞記者)。

 とにかく、「よう調べたなあ」という感想がまっさきに出てくる。建築好きならもっと楽しめるのかもね。


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【読書感想文】知念 実希人『祈りのカルテ』~かしこい小学生が読む小説~

【読書感想文】乾 くるみ『物件探偵』



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2021年12月23日木曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『世にも奇妙な君物語』~性格悪い小説(いい意味で)~

世にも奇妙な君物語

朝井 リョウ

内容(e-honより)
異様な世界観。複数の伏線。先の読めない展開。想像を超えた結末と、それに続く恐怖。もしこれらが好物でしたら、これはあなたのための物語です。待ち受ける「意外な真相」に、心の準備をお願いします。各話読み味は異なりますが、決して最後まで気を抜かずに―では始めましょう。朝井版「世にも奇妙な物語」。


 テイストもテーマもばらばらの五篇からなる短篇集。

 いずれも切れ味がいい。
 こういう「ショートショートよりも長い、意外性のあるオチが待ってる短篇集」って久々に読んだ気がするなあ。昔は阿刀田高さんがよく書いてたけど。

 個人的には短篇が好きなのでこういうのをもっと読みたいけど、そういや星新一さんや井上夢人さんが「アイデアを出すたいへんさは長篇も短篇もさほど変わらない。短篇のほうが難しいぐらいだ。なのにギャラはページ数に比例するから短篇は割に合わない」と書いていた。だからみんな書かないのかなあ。文学賞でもあんまり短篇は相手にされないしなあ。
 もっと短篇が報われる世であってほしい。


〝コミュニケーション能力促進法〟の下に非リア充が裁かれる『リア充裁判』やYahoo!ニュースやライブドアニュースのようなライト系ニュースサイトを題材にした『13・5文字しか集中して読めな』(誤字じゃなくてこういうタイトルです)は、展開に無理がありすぎて個人的にはイマイチ。特に『13・5文字しか集中して読めな』は主人公の息子の行動が嘘くさすぎた。
 登場人物の動きがあまりに作者にとって都合が良すぎて。行動の背景に保身やプライドの一切ない登場人物って嫌いだなあ。


 仲良しシェアハウスが一転サスペンス調に変わる『シェアハウスさない』もよかったが、いちばん好きだったのは『立て! 金次郎』。

 保育園での行事で、我が子の活躍が少ないことに口出ししてくる保護者に悩まされる保育士の主人公。彼は、どの子も平等に扱うことよりも、それぞれの子の特性にあった場を用意してやることこそが保育士の仕事だという信念を持っている。
 先輩保育士や保護者との軋轢も覚悟しながら、子どもたちをいちばん輝かせたいという信念を貫き通そうとした結果……。

 さわやかな青春小説のような展開から、急角度で放りこまれるブラックなオチ。「なるほど、そうくるか」とおもわず唸らされた。伏線もさりげなく、お手本のような短篇だった。
 つくづく往年の阿刀田高作品の切れ味のよさを思いだした。




 小説としていちばん好きだったのは『立て! 金次郎』だったが、おもしろかったのはラストの『脇役バトルロワイヤル』。

 いろんな意味でチャレンジングな小説だった。

 とあるドラマのオーディションとして集められた数名の役者。年齢も性別のばらばらの彼らに唯一共通しているのは「脇役が多い」ということだった……。

「『ほらほら、冷める前に食おうぜ』」
「ふっ」
 思わず、淳平は噴き出してしまった。確かに、『脇役』からあまりにもよく聞くセリフだ。
「大体食事のシーンでね、ちょっと主人公が悩んでたりしてブルーな気分のときですよ。行け行け金次郎みたいなやつでも俺これ言ってますよ確か。冷める前に食おうぜ、とか言って無理やり盛り上げて、それでも笑顔にならない主人公の表情がアップになって、はしゃいだ俺がお茶こぼしちゃってる音だけ入ってるみたいな」
「すごくわかるよ! なぜならボクもけっこう似てるとこあるからね!」
 思わず立ち上がった八嶋が、涼と握手を交わしている。 「ボクの場合は外見もあるだろうけどね。小柄でめがねってだけで、早口でよくしゃべるおとぼけな役ってのが多いんだよ。小柄でめがねが全員そういうヤツなわけじゃないのに」もう四十五なのにさ、とボヤく八嶋の姿は、見ようによっては大学生くらいにも見える。「いーっつも、刑事モノ、検察モノ、弁護士モノとかのチームに一人はいるちょっとヌケた小柄めがねだよ。重たくなりすぎないようにバランス取る調整役みたいな」
「あー……」
 淳平は思わずうなずいてしまう。確かに、いくら重たい事件を扱ったドラマだったとしても、八嶋が出てくるシーンになると、視聴者は一息つけるイメージがある。

 こうした「脇役あるある」が次々に語られる。これがなんとも底意地の悪い視点で、おもわずにやりとさせられる。

 この小説に出てくる「八嶋智彦」なんて八嶋智人さんほぼそのまんまだ。隠す気すらない。


「前やった法廷モノもさ、それも『世にも』だったかな? 完全にそういう役だったな。ボクがちょっと席外した隙に状況が変わっててさ、ボクだけついていけてないみたいな。えっ、どういうこと? みたいな表情できょろきょろするみたいなの、もう何回やったことか」
「【だけど○○だよね、まさか××が△△なんて】……このスタイルは、脇役のセリフとしてあまりにも多い。だけど、や、しかし、などの逆接から話し始めれば、前のシーンまで一体どんな状況だったのか、たった一言で視聴者に説明することができるからな。これが、ベテラン脇役界では有名な、【逆接しゃべり始め説明】だ」
「確かにさっき、桟見さん言ってたわね」そう言う板谷の顔色が、少しずつ、元に戻ってきている。「最近出たドラマでも、『でも大変だね。それやりながら、本の執筆も続けるんでしょ?』みたいなこと言わされて、それでうんざりしてたって」
「そう」
 渡辺は、不合格、と書かれている床に視線を落とす。
「主役は、絶対にこんな話し方をしない。場面の説明をするのは、いつだって脇役の仕事なんだ……」


 さらにこの短篇に出てくる役者は、『世にも奇妙な君物語』の一篇目~四篇目の小説をドラマ化したときの出演者、という設定。これまでの短篇の中で使われた台詞が五篇目の「脇役あるある」として小ばかにされるのだ。セルフディスリスペクトといったらいいだろうか。

 この短篇は、朝井リョウ氏の底意地の悪さが特に顕著に出ていて好きだった。




 どの短篇も、朝井リョウ氏の底意地の悪い視点が存分に発揮されている。

「シェアハウスって単語にイライラする人って、そういう、刺激ある仲間! とか、唯一無二の空間! とか、ぽやっとしてるけどやけにポジティブな言葉で何かをごまかしてる感じにむかついてるんじゃないかなって思うの。ほら、高校生とかに人気のあの番組もそうじゃん。若い男女が夢を追いながらひとつ屋根の下で暮らす日々を追いかける、何だっけ、似非ドキュメンタリーみたいな」

  (『シェアハウスさない』)


【覚えておきたい新世代法律特集①コミュニケーション能力促進法】
 20XX年4月、「コミュニケーション能力促進法」がついに成立した。内容について様々な議論がなされてきたため、成立したときには大きな話題となった。
 ○○年ごろから、どこの企業の人事部も、新入社員に最も期待する能力として「コミュニケーション能力」を挙げている。しかしどうやらそれは、語学力、語彙など、資格試験や検定等で測定することのできるものとは限らないらしい。条文の中でも、「年齢や性別、立場の違う者とスムーズに自分の考えていることや相手の思いをやりとりすることができる能力」と説明されているように、確固たる定義がされていない。ある人にとっては挨拶ができることが「コミュニケーション能力」であり、ある人にとっては食事の席で上司を上手に持ちあげられることが「コミュニケーション能力」なのかもしれないのだ。
 だが、定義に関して十分な議論がなされる前に法案は可決され、「クール・ジャバン戦略」に続いて「コミュニケーション・ワールド戦略」が発表された。優秀な人材を確保しますますの経済発展を目指すべく、国としても「日本人らしい豊かなコミュニケーション能力」の向上に費用を投じることになったのだ。国はまず「人と人との豊かな交流を生むに足る場所」の増加に重点をおき、フットサル場や野外バーベキュー施設等のレジャースペースの拡大、当時すでに流行の兆しを見せていた女子会の奨励、そしてそれをSNS等で共有し合う活動の促進など、様々な施策がとられた。「コミュニケーション特区」に定められた地区では、飲食店において一人がけのテーブルをなくす、一人暮らしを禁止しシェアハウスでの生活を徹底する等の実験的な特別措置がとられ、特区内と特区外におけるSNS上の「いいね!」の差を示すデータなどが主にインターネット上で大きな話題となった。

  (『リア充裁判』)


 この厭味ったらしい文章。いいねえ。

 シェアハウスにしてもフットサルにしても女子会にしてもアクセス数稼ぎのニュースサイトも、いい大人は「本人たちが楽しんでるんだからいいじゃん」でそっとしておくもんだけど、朝井リョウ氏は「それおかしくないですか」と言わずにいられない人なんだろうね。
 性格悪いなあ(褒め言葉です)。楽しく読めました。 ぼくも性格悪いからね。


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2021年12月21日火曜日

M-1グランプリ2021の感想


 M-1グランプリ2021の感想です。

 個人の感想です、って書く人がいるけど個人のじゃない感想とかある? 法人の感想? それとも国民の総意としての感想?


<1本目>


モグライダー (さそり座の女)

「美川憲一さんって気の毒ですよね」と、一瞬にしてあれこれ考えさせられる不穏な導入がすばらしい。単発のツカミかとおもったら本ネタへの導入とは。
「いいえ」のワンフレーズからそこまで想像を広げるのかと呆れさせ、「そうよ私はさそり座の女」と言わせるためだけに無駄な努力をふたりでくりひろげる。その緻密に計算された構成と、根底を貫く徹頭徹尾意味のないばかばかしさに大いに笑わされた。

 トム・ブラウンの「合体」ネタもそうだけど、バカなネタ、不条理なネタにこそ、背景にしっかりとした論理が求められる。言ってることは荒唐無稽だけど、「少なくともこの人の中では首尾一貫してる論理があるんだろうな」とおもわせなければならない。
 モグライダーのネタにはその〝狂人の論理〟があった。だから笑える。モグライダーを見習いなさい、敗者復活戦のさや香よ。ただむちゃくちゃやればいいってもんじゃないぞ。

 ツッコミもうまいし、ボケのあぶなっかしさも魅力的。後半出番だったら最終決戦に進んでいてもぜんぜんおかしくないネタだった。出番順に泣かされたなあ。

 反省点があるとすれば、歌に入るまでが早かったことだろう。1組目だったこともあるが、多くの観客にとっては「知らない人が出てきてまったく意味のわからない話をはじめた」わけで、早々に脱落してしまった人も多かったのではないだろうか。『さそり座の女』を知らない観客も少なくなかっただろうし。
 限られた時間とはいえ、前半の説明はもっと時間をかけて丁寧にやるべきだったのではないか。キャラクターが浸透してくれば、今回ぐらいの短さでもいいんだけど。

 ネタよりバラエティ番組で活躍しそうなふたりだなとおもった。


ランジャタイ (風の強い日に飛んできた猫が体内に入る)

 準決勝とは異なるネタをここで持ってくる度胸もすごい。2番手という出番順をものともせずに自分たちの空気で包みこんだ剛腕っぷりもさすが。

 ただ、設定もぶっとんでいて、中身のボケもぶっとんでいるのはいかがなものか。奇想天外な世界でベタなことをやりつづけるとか、オーソドックスな設定で奇抜なボケをするとかのほうが見やすかったんじゃないだろうか。

 しかし審査員がみんな甘い。このコンビは、どうせならぶっちぎりの最下位にしてあげたほうがよかったのに(本人たちも少なからずそれを期待していたフシがある)。70点とかつけてあげろよ!


ゆにばーす (ディベート)

 今大会の個人的最下位。好きじゃなかった。

 結局、内輪ネタなんだよね。去年のアキナといっしょで。このふたりの関係性やキャラクターありきで話が進んでいってしまう。

「うちらの関係性は何なの?」で笑いをとるためには、その前に「原さんのことを恋愛対象として見ることはできない」ことをちゃんと説明しないといけない。
 20年前だったら説明しなくてもよかったんだよ。説明しなくても「ああこの女は不美人だから恋愛対象として見られない扱いを受けても当然だ」とおもってもらえた。でも今の時代はそうじゃない。不美人だろうと、女芸人だろうと、「おまえは女じゃない」はセクハラで断罪される時代だ。ブスをブスといじっていい時代は南海キャンディーズが終わらせてしまった。
 まだ川瀬名人が超絶イケメンなら「おまえには恋愛感情持てへんわ」が説得力を持つかもしれないけど、川瀬名人のほうもアレなので「誰が言うてんねん」になっちゃう。そこをちゃんと言いかえせばいいんだけど、原さんが一方的に言われっぱなしなのでとても見ていられない。

 終始ふたりの関係性ありきのテーマだったので、ゆにばーすに思い入れのない者としては、まったく知らない人同士の合コントークを聞かされているような気分だった。

 ところで、そもそもの話になっちゃうけど「ツッコミだけが関西弁でキレ気味にツッコむ」って聞いていてつらいんだよね。攻撃的になりすぎてて。関西人のぼくですらちょっと怖い(ネプチューンとかにも同じものを感じる)。関西人同士なら気にならないんだけど、「関西弁じゃない人に関西弁でまくしたてる関西人」って、そっちのほうが異常者じゃん。
 おまけにゆにばーすは「背の高い男が背の低い女に高圧的にツッコんでる」から特にDV感が強い。よほどボケが強くないとしんどいなあ(このあたりのことはオズワルドの項で書く)。


ハライチ(敗者復活) (頭ごなしに否定)

 予選でも敗者復活でも古いネタをやっていて、なんで新ネタもないのに久々に参戦したんだろう、もう十分売れてるんだからネタがないなら出なくてもいいのに……とおもっていたが、なるほど、本当にやりたかったのはこれか。敗者復活戦とはまったくべつのネタを隠し持っていた。これはネタ番組じゃやらせてもらえなさそうだしなあ。

 クレイジーなネタで、ここでこのネタを持ってくる心意気はすごいけど、いかんせんボケが1種類しかないからなあ。おまけにランジャタイがむちゃくちゃやった後だから、「この大舞台でこれをやるか」という驚きも少ない。

 やりたいネタをやって清々しい顔で去っていった姿が印象的だった。


 ちなみに敗者復活戦は久々に生で視聴したんだけど、ぼくはカベポスターと男性ブランコ、あと1組は迷ったので娘が爆笑していたからし蓮根に入れました。ハライチもおもしろかったけど、時間オーバーしても続けていたのが印象悪かったのと、もう今さら敗者復活で上げなくてもいいでしょとおもったので。


真空ジェシカ (一日市長)

 個々のボケの強さはピカイチだった。台本で読んだらいちばんおもしろいのはこのネタじゃないかな。まあでもそれだけでは勝てないのが漫才のおもしろいところで。

 一日市長という枠組みを与えているとはいえ、基本的には大喜利の羅列なんだよね。「Q.沖縄の言葉にありそうでないものは?」「A.罪人(つみんちゅ)」「Q.この和菓子屋、不穏な気配がする。なんで?」「A.店のおばあちゃんがハンドサインで『ヘルプ・ミー』とやってきた」みたいな。
 めまぐるしく笑いの角度が変わるので、ついていけない客や審査員もいたんじゃないかな。

 台本はまちがいなくおもしろいので、後は技術が身につけばすごいだろうね。今回は表現にアラが目立った。
「沖縄の苗字」が十分伝わっていないのに「罪人(つみんちゅ」を持ってきたり、「青山学院が見くびられている」の笑いを引きずっている状態で「名門のタスキは重い」を発したためにかき消されてしまったり。本番の空気に対応できる技術はこれからなんでしょう。

「ミッキーはひとりじゃないですか」は良かったなあ。昭和なら「ミッキーなんていっぱいいるじゃねえか!」と裏を暴くだけで笑いになったけど、平成では「タブーに物申す」がダサくなった。そこで裏の裏をかいて「ミッキーはひとりじゃないですか」「そ、そうだよね」とやるのは令和の笑いって感じがしたなあ。タブーに切り込むんじゃなくてタブーをひと撫でするような笑い。

 ところで、最初から最後までずっとおもしろかったけど、最後の酸性雨だけは完全に蛇足だったようにおもう。あれのせいで突然ぶった切られたようなオチになってしまった。そこまでして入れなきゃいけないボケだったのか。「名門のタスキは重い」で落としてもよかったんじゃなかろうか。


オズワルド (友だちがほしい)

 準決勝を見たときもおもったけど、完璧なネタだとおもう。欠点がまったくない。

 モグライダーの感想でも書いた〝狂人の論理〟。言ってることはおかしいけど、「他人の気持ちがまったくわからなくて友だちができたことのない人ならこれぐらいのことは言うかも」の絶妙なラインを巧みに表現していた。
「いちばんいらない友だちでいいからさ」や「履かなくなったズボンと交換」の、他人の気持ちがわからないっぷりったら!

「友だちがいないやつのふるまい」というたったひとつのお題に対して、いちばんいらない友だち、一斉に解き放って5秒後においかける、脈拍、詐欺なんてしないなど、次々にくりだされるパンチのあるボケ。真空ジェシカとちがってお題はひとつなので、観ている側もついていきやすい。
 もちろんツッコミのワードもことごとく切れ味鋭く、非の打ち所がないネタだった。

 オズワルドといえば、昨年審査員から「序盤はロートーンで入ったほうがいい」「序盤から声を張ったほうがいい」と真逆のアドバイスをされていたが、このネタを見るとそんなことは実はどうでもいい問題だと気づかされる。

 あの問いに対する答えはかんたんで、「強くツッコむ理由があれば強くツッコめばいい」だとおもう。
 昨年のネタを例に出すと、「〝はたなか〟って発声すると口の中に何か詰め込まれるかもしれないから改名しようとおもってる」と聞かされた場合、理解不能な理屈ではあるがしょせんは他人事なので強くツッコむ理由にはならない。
 だが今年の「友だちいないから君の友だちひとりちょうだい。いらないやつでいいからさ」は、自分や友人の名誉にかかわる話なので、強く反発する理由になる。それだけの話だ。

 だからオズワルドは昨年の審査員からの問いに対して、「声を張るに値するボケを導入に持ってくる」という回答を用意した。完璧な回答だ。


ロングコートダディ (生まれ変わったらワニになりたい)

『座王』ファンとして、個人的にもっとも応援していたのがロングコートダディ。だけどあのローテンションなコンビでは爆発的にウケることはないだろうなとおもっていたので、今回の4位は上出来中の上出来だとおもう。
 しかし、観客が暖まっていてかつ疲れてもいない7番目(しかもオズワルドが盛り上げた後)という最高の出番順でこの結果だったということは、今後はこれを超えることはむずかしいんじゃないかという気もする。
 GYAO反省会で他の芸人が「あのネタの発想はすごい」と口々に褒めていたので、昔のキングオブコントのように現役の芸人が審査する形式だったら優勝できるかもしれないけど。

 このネタもたいへんおもしろかったのだけど、去年の準決勝で披露した『棚の組立』のネタがあまりにすばらしかったので、それと比較すると「おもしろいけどロングコートダディのおもしろさはこんなもんじゃないぞ」ともおもってしまう。『棚の組立』はコントに入らないし。あれこそ決勝の場で披露してほしかった。

「生まれ変わったらワニになりたい」→「肉うどん」までは正直いって凡庸な発想かもしれない。しかし二周目に入ってからの、「法則があるらしいですよ。あんまり大きな声では言えないんですけどね」といったさりげないやりとりがすばらしい。ああいう奇をてらっていない台詞こそが天空世界を強固なものにしている。あの台詞のおかげで、もうすっかり誰の目にも「天空の世界」が見えているはずだ。

「ラコステ」という軽めのボケや、「おまえは」をすぐにツッコまないところなど、本当におしゃれ。おもしろすぎないところがおもしろい。あそこで真空ジェシカのように強力なパンチが飛んできたら、たちまちこの繊細な世界が壊れてしまう(真空ジェシカは真空ジェシカでいいけど)。
 このネタを観て、つくづくおもう。やっぱりロングコートダディは漫才師ではなくコント師だと。

 ところで、反省会でこのネタの制作秘話を兎さんが語っていたんだけど、
「堂前がやってきて『生まれ変わるとしたら何になりたい?』と訊かれたので『ワニ』と答えた。そしたら次の日に堂前がこのネタを作ってきた」
だって。めちゃくちゃすごくない? そこから一日でここまで広げられる?

 他にも「堂前は一枚のアルバムを聴いて、そこから着想を得て単独ライブのネタをつくる」というとんでもない逸話も披露されていた。天才か。


錦鯉 (合コン)

 ばかばかしいだけでなく、「おじさんが合コンに行って若い子に相手にされない」という状況がずっとペーソスを漂わせていてよかった。やっぱりただおもしろおかしいだけじゃなくて、そこに悲哀や狂気や恐怖といった別の感情を揺さぶってくれるものが観たい

 審査員からも言われていたけど、緊張からかツッコミが強くなっていたのが気になった。そんなに頭を叩かなくても、という気になってしまう。だってべつに悪いことしてるわけじゃないもん。独身のおじさんが合コンに行ったっていいじゃない。ジェネレーションギャップがあるのもしょうがないじゃない。叩くことないじゃない。

 頭を叩く一辺倒じゃなく、ときに諭したしなめたり、ときに痛みに寄り添ったり、球種をおりまぜたツッコミを見せてほしいな。それができる技術のある人なんだから。
 はしゃいでるおじさんが叩かれてるのはかわいそうだ。悲哀を感じるのは好きだけど、それはあくまで漫才の設定の中だけでの話で。

 そこへいくと、オードリーの「おまえそれ本気で言ってるのか」「本気で言ってたらおまえと楽しく漫才やらねえだろ」「へへへへへ」はすばらしい発明だよな。あれがあるおかげで、どれだけ叩いていても嫌な感じにならないもの。


インディアンス (怪談動画)

 記憶を頼りに感想を書いてるんだけど(だからここに書いているセリフなどは実際とは微妙に異なるはず)、インディアンスのところではたとキーボードを打つ手が止まってしまった。はて。どんなネタしてたっけ?

 このネタにかぎらず、インディアンスの漫才は記憶に残らない。どんな設定だったか、どんなボケがあったか。観終わった後に何も残らない。そこがインディアンスのすごさでもあるんだけど、個人的にはM-1グランプリの舞台で観たいとはおもわない。近くのショッピングモールに営業で来たらいちばん笑うのはインディアンスかもしれないが。

 ロングコートダディとは対照的に、とにかくわかりやすく老若男女楽しめる漫才。たしかに楽しい。だが楽しい以外の感情は動かされない。

 理由のひとつが、インディアンスのボケは徹頭徹尾「ふざけ」であることだろう。狂気も悲しみも不条理もなーんにもない。作りだす世界はなにひとつおもしろくない。というよりそもそも世界なんて作っていない。現実と地続きの世界で、ただひょうきんな人がふざけている。だからインディアンスの漫才を見ても「田淵さんっておもしろい人ね」とおもうだけで「インディアンスの漫才の世界っておもしろいね」とはならない。

 強パンチとか中キックを隙間なくくりだす漫才。たしかに隙はないんだけど、こっちが見たいのは一か八かのスクリューパイルドライバーなんだよ!


もも (○○顔)

 ついにこういうコンビがM-1に出てきたか。
 2年ぐらい前に関西のネタ番組に「新星あらわる」みたいな紹介の仕方で出てきたときにも「M-1グランプリで勝つために特化したようなコンビだな」とおもったが、その印象は変わらない。
 もはや彼らは「漫才師」というより「M-1グランプリ師」といったほうがいいかもしれない。

 風貌からしゃべりかたからネタの構成まで、すべてがM-1グランプリのために作られている。もちろん他のタイプのネタもあるのだろうが、ぼくがテレビで5回ほど見たのはすべて「なんでやねん○○顔やろうが!」のネタだった。たったひとつのスタイルを極限までつきつめたコンビ。

「M-1に勝つためだけの漫才」をしていたコンビは以前にもいたが、ももはもっとすごくて「M-1に勝つためだけのコンビ」であろうとしているように見える。ええんかそれで

 2009年の夏。現在シアトル・マリナーズにいる菊池雄星投手は高校三年生だった。甲子園で背中の痛みを抱えながら登板を続け、負けたときに「一生野球ができなくなってもいいから、人生最後の試合だと思って投げ切ろうと思った」と語っていた。
 そのときにもおもった。ええんかそれで
 たしかに甲子園はほとんどの高校球児にとっては最終目標だけど、それはあくまでアマチュアで終わる凡百の球児にとっての話。プロ入りを目指す者からしたら通過点のひとつにすぎない。野球人生を棒に振るほどの価値はない。(菊池雄星選手の花巻東高校はあそこで負けててよかった。あのまま勝ち進んでいたら、メジャーリーガー・菊池雄星は存在していなかったかもしれない。)

 同じように、M-1グランプリに参加するアマチュアコンビなら「M-1に勝つためだけのコンビ」を目指すのはまちがってないが、プロの芸人として生きていくのであればその道は命を縮めているように見えてしまう。

 ミルクボーイも昔からずっとあのシステムを続けているけど、あれは題材を変えればいくらでも広がるからなあ。ももの「見た目と中身のギャップ」では先が見えてしまうので不安になる。心配です。

 あっ、今回のネタの感想書くの忘れてた。ええっと、練習の跡が見えすぎる一字一句がっちがちに固まった漫才は個人的に好きじゃないです。以上。


<最終決戦>


インディアンス (ロケ)

 いやあ、ほんとにどんなネタかぜんぜんおぼえてない……。どんなネタだったっけとおもって公式YouTube動画のコメント欄見にいったけど「おもしろかった!」「好き!」みたいなのばっかりで、「○○というボケが良かった」「○○というフレーズが好き」みたいな具体的な感想がぜんぜんない。やっぱり、おもしろかったと感じた人ですら内容は印象に残ってないんだな……。

 各組の漫才を無音で再生してどれがいちばんおもしろい? と訊いたら、インディアンスが優勝するかもしれない。


錦鯉 (逃げた猿をつかまえる)

 まず題材選びがすばらしい。逃げた猿をつかまえる人をやりたい、って絶妙にばかだもんね。「あれならおれのほうが上手につかまえられるわ!」って、まさに小学生の発想。いい大人は逃げた猿にむやみに近づかない。

 肝心のボケの内容は、ちょっとばかが過ぎた。「罠をしかけたことを5秒後に忘れちゃう」はさすがにやりすぎ。小学生相手にはばかウケだろうけど。

 ただ、全体的にばか一色な中「猿が森に逃げた!」「それでいいじゃねえか」とか、最後の「ライフ・イズ・ビューティフル!」とか、妙に考えさせる笑いやシュールなオチを用意しているのは見事。ばかばっかりだからこそ、ああいう角度のちがうボケがよく映える。

 あと、おじいさんをそっと寝かせていたシーンは、ラストのまさのりさんを寝かせるくだりへの伏線になってるんだね。よく練られてる。


オズワルド (おじさんに順番を抜かされる)

 これはネタが悪いというより、この状況にふさわしくなかったね。12本のネタを見た後に楽しむには、話が小難しすぎた。M-1グランプリって年々放送時間が長くなっていってて、今年は3時間半。テレビで観るだけでもしんどいのに、当然スタジオの観客や審査員はもっと前から準備していたわけで。もう最終決戦ともなるとまともに頭が働いてないんだよね(ミルクボーイの2本目の「最中一族の家系図」をリアルタイムで正しく頭に描けていた人がいただろうか)。

 あの時間にやるネタは、緻密な論理ではなく強烈なパワーが必要なんだろうね。マヂカルラブリーの『吊り革』のように、何も考えずに見られる、すべてをふっとばしてくれるようなパワーが。
 この時間にモグライダーやランジャタイを見たら大爆笑だったんだろうな。

 オズワルドが、ABCお笑いグランプリでやったもう一本のネタ『ダイエット』をここで披露していたら結果はどうなっていただろうか……。そんなことを考えてしまう。




 というわけで優勝は錦鯉。おめでとう。納得の優勝でした。

 しかし、島田紳助がM-1グランプリを創設した動機のひとつが「才能のない芸人に引導を渡すため」だったはず。10年たっても芽が出ないやつはやめなさい、という理由で。

 残酷なようで、引導をつきつけてやることこそが本当の優しさなんだよね。将棋の奨励会もそうだけど。
 10年やって芸人やめてもまだ30歳ぐらい。いくらでも他の道がある。

 だが、皮肉なことにM-1グランプリという目標ができたせいで芸人を目指す者、やめられない者が増えた。もものようにM-1グランプリに特化した芸人まで生まれた。
 そして、錦鯉・長谷川さんの50歳での優勝。

 錦鯉の優勝は文句なくすばらしいんだけど、おかげでますますやめられない芸人が増えるだろうな。
 M-1グランプリの存在意義が変わってしまった。青少年の心身の育成のために開かれる高校野球甲子園大会のせいで多くの青少年が心身を壊すように。




 今大会もおもしろかったが、M-1グランプリという大会はまた硬直状態に入ってきたなという印象を持った。2008~2010年頃もそうだった。
 審査員が固定化され、準決勝審査員はおじいちゃんばかり。真におもしろいものを追及した結果の個性ではなく、M-1グランプリで勝つための芸を磨いたコンビが決勝に進む。

 今回は初出場組5組などと言われていたが、ふたを開けてみれば、昨年も決勝に進んだ3組が3組とも最終決戦に進んだ。驚くほど新陳代謝が進んでいない。

 このままだと大会全体が停滞してしまうんじゃないかと勝手に危惧している。準決勝と決勝の審査員はがらっと変えたほうがいいんじゃないだろうか。
 新しい風を入れるってのはモグライダーやランジャタイのような変化球ばかり放りこむことじゃないぞ。正統派が多数を占めるからこそああいうコンビが輝くんだぞ。

 あと決勝経験者は敗者復活戦に出られないようにもしてほしいな。せめてあそこは新しい才能を発掘する場であってほしい。


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2021年12月20日月曜日

M-1グランプリ2021準決勝の感想(12/4執筆、12/20公開)


 オンライン配信で鑑賞。

 感想自体は準決勝の翌日に書いていたが、ネタバレ禁止とのことだったので決勝終了後まで公開を待っていました。もういいよね?

 以下感想。


滝音 (ダイエット)

 おもしろかった。特に「ブブブブブンブブン」。

 滝音は安定しておもしろいんだけど、その安定感が滝音の弱みでもあるような。ボケがツッコミで笑いを取るためのフリにしかなってないから、加速しながら笑いが増幅していきにないんだよね。

 ボケが強くなったら文句なく決勝だろうな。


ヨネダ2000 (YMCA寿司)

 ほぼ全編音声カットされてたので内容わからず。でも動きだけでもシュールでおもしろそうだった。

 

ニューヨーク (ドラマ)

 演技力を見せつけると言いながら、差別発言を口にしまくるというネタ。

 すっごく好きなんだけど、これが決勝に行けなかったのもよくわかる。テレビではまずいよ、これは。

「昨今はちょっと問題のある発言をすると、たとえそれが芝居の台詞であっても炎上する」を前提知識として持っていれば笑えるけど、そういう人ばかりではないからなあ。

 問題提起で終わるオチはすごく好きだった。


カベポスター (文化祭)

 好きだったフレーズは「道の駅みたい」。

 個人的には好きだけど、コンテストの準決勝にかけるネタとはおもえないほど地味な題材。まあこの地味さこそ彼らの魅力なのでこれはこれでいいけど。


マユリカ (結婚相談所の仲人)

 最初のボケ「パソコンとかないんですか」がピークだったなあ。

 結婚相談所という設定だったら、誰しもが「魅力のない相手ばかり紹介される」を想定するだろうけど、想定通りのボケが続く。はじめは紹介相手ではなく仲人にスポットを当てたボケでおもしろかったんだけど。こっち方面で続けていってほしかった。


ハライチ (ダイエット)

 ウケてなかったなあ。3回戦でもやったネタなので客もほとんど見たことあったんだとおもう。

 最初に見たときもおもったけど、このネタって大麻を扱ってるからチャレンジングなことしてるようで、ネタの構造的にはすごく単純なんだよね。おれたち大麻をネタに入れちゃうんですよ、すごいでしょ、っていう狙いが透けてしまう。

 とはいえ表現力はすごい。そのへんはさすがハライチ。


真空ジェシカ (一日市長)

 好きだったのは「ハンドサイン」「名門のタスキは重い」。

 オーソドックスな漫才コントなんだけど、ボケもツッコミも一発一発が重たい。全部のボケがはずしてなかった。このネタ、台本を読んでもおもしろいだろうな。

 この人たちのネタ、はじめて観たんだけど、これからもまだまだおもしろくなりそう。今これだけウケるんなら、キャラが浸透すればものすごくウケるだろうな。


東京ホテイソン (スマホゲームのガチャ)

 配信の最初に審査員が紹介されてるんだけど、年配の人ばかりなのね。五十前後の。はたしてこの題材、審査員に伝わるんだろうかと心配になった。そして決勝審査員にはもっと伝わらないんじゃないだろうか。

 そしてネタの中身も、単発大喜利の連続で一本のネタとしてのつながりがほとんどなかった。「ゲームのガチャで出てきたのはどんなキャラ?」というお題だから、なんでもアリになっちゃうんだよな。


見取り図 (地元のスター)

 好きだったボケは「飛沫エグい」「ラルフローレンのワクチン」。しかしまだテレビでネタにしていい時期じゃないかも。

 後半怒涛のボケが並ぶので、ああ勝ちにきてるなあと伝わってきた。Mー1に向けて作ってきたネタだなあ。

 おもしろかったとはいえ去年までの見取り図と比べて飛躍的に良くなったかというと、うーん……。でも、準決勝の審査員はそんなこと気にせず、「このメンバーの上位9組に入ってるか」だけで選んでほしいな。だったら入ってるでしょ。


ゆにばーす (ディベート)

 登場するなり拍手で盛り上げてからツカミ、は見事。一気に会場をつかんだ。

 個人的には好きなネタじゃなかった。根本のテーマが古いんだよね。こいつは女として見れないとか男としてアリどか、百年前から男女コンビがやってたようなテーマなので。古さをひっくり返すような展開があればよかったけど、古いままで終わってしまった。


ロングコートダディ (天界)

「ワニになりたい」で兎さん(ややこしいけど芸名)のほうがボケとおもわせておいて、まさかの堂前さんがボケというパターン。いや、ツッコミはいないからふたりともボケか。

 シンプルな漫才コント。ロングコートダディは好きなんだけど、個人的には昨年の「棚を組み立てる」ネタの方がずっと好きだった。漫才としての完成度も高いし、他にいないタイプのネタだし。


男性ブランコ (焼肉屋)

「メニュー名うるせえ」がおもしろかった。あと、いろいろやった後のシンプルな「生レバー」と。

 おもしろいボケはいくつもあるけど笑いどころが多くないので、しゃべり中心の漫才に対抗するのはむずかしいよな。コントに専念してもいいんじゃないかな。


アインシュタイン (宇宙からのお迎え)

 そんなにウケてなかったけど、個人的には今まで見たアインシュタインのネタの中ではいちばん良かったな。身の周りの題材ではなく、これぐらいぶっとんだシチュエーションのほうがアインシュタインには向いてるんじゃないかとおもう。和牛は逆に身近な題材を扱うようになってよくなったけど。


もも (決めごと)

 いつもの「なんでやねん、○○顔やろが」パターン。基本的には見た目とのギャップとあるあるネタなので何本か見ると飽きてしまう。わかりやすいし、はじめて観る人にはウケるだろうけど。

 しかしうまいというか、うますぎるというか。練習の痕が見えてしまうなあ。

「このパターンだけで大丈夫か」と余計な心配をしてしまうが、ハライチや東京ホテイソンのようにいったんワンスタイルで顔と名前を売ってからいろんなパターンに挑戦するのが売れるための早道なんだろうね。


オズワルド (友だちがほしい)

 いやあ、よかった。好きなフレーズは「お気に入りのズボン」「足の遅い友だち」など。

 準決勝観て「これはまちがいなく決勝行ったな」とおもわせてくれたのはオズワルドだけでした。非の打ち所がない。

 ツッコミのセンスはそのままに、ボケの狂気性がパワーアップ。これぐらい狂気みなぎるボケなら、かなり強めのツッコミでもバランスが取れるよね。優勝候補筆頭でしょう、これは。


ランジャタイ (高校最後のバスケの試合)

 著作権の事情で半分ぐらい音声カットされてたけど、だいたい何をやってるかがわかるのがランジャタイのすごさ。

 しかし、準決勝の客だから大ウケただけで、初見の客の前ではここまでウケないだろうという気もする。

 まあここは決勝に上がった時点で勝ちだよね。半端に五位とかにならずにぜひ最下位をとってほしい。


金属バット (スーパーのカート)

 金属バットにしちゃあ毒っ気が少なかったな。

 というのは、個人的な話で申し訳ないけど、ぼくが住んでるところは民度が低いのでスーパーのカートを持って帰るババアがいっぱい生息してるんだよね。だから「カートは無料」のボケが笑えなかった。実践してるやつがたくさんいるんだもん。

 どや顔の「もうええわ」は、準決勝イチ笑った。しかしあれは金属バットを知ってるから笑えるだけだな。


ダイタク (葬式)

 良かった点は「アメリカの未亡人スタイル」。

 他はだいたい「双子が葬式を題材にしたネタを作ったら」の想像の範囲内。


からし蓮根 (先輩刑事と後輩刑事)

「キッザニア」「人間の外来種」あたりがおもしろかった。

 あとは特に印象に残らず。


インディアンス (怖い動画)

 アンタッチャブルのコピーとよく言われるけど、このネタはノンスタイルみたいだったな。

 前説みたいな漫才だった。笑わせるというより盛り上げる漫才。今年も決勝トップバッターやってほしい。


ヘンダーソン (街コン)

 なかなか漫才中のコントに入らない……というネタ。これは完全に漫才を題材にしたコントだな。

 ちょっと台本に表現力がついていってなかったかなあ。


キュウ (境目をとっつかまえる)

 漫才で遊んでる。漫才の枠組みで何ができるかを実験してるようだった。この人たちのネタは「いかにすごいとおもわせるか」「いかに客の想像を裏切るか」が強すぎて、肝心の「いかに笑わせるか」がおろそかになっているようにおもう。


アルコ&ピース (鳥になりたい)

 アルコ&ピースらしいメタ視点のネタ。

 ウケてたけど、準決勝の客向けのネタだったなあ。他のコンビを引き合いに出してるので、これが決勝1組目だったら成立しない。

 ヘンダーソンと同じく完全にコントだけど、こういうネタってキングオブコントでは評価されないのかね。


錦鯉 (合コン)

 ボケのばかばかしさは昨年通りだが、ツッコミにスピード感が。渡辺さんに自信がみなぎっている。

 大会に向けて作りこんできたなー。

 個人的には、錦鯉にはあんまり「M-1で勝ちやすい」タイプのネタをやってほしくないな。彼らはおじさんであることが最大の強みなんだから。博多華丸大吉みたいに、おじさんにしかできない漫才をやってほしい。


モグライダー (さそり座の女)

 ほぼ全篇音声カットだったのでよくわからず。たぶん3回戦の玉置浩二のネタとほぼ同じ構成かな?


さや香 (かけ算は必要ない)

 序盤から熱量がありすぎた。余裕がなさすぎて見ていてしんどい。ギアを上げる場所はそこじゃないだろう。

 笑わせようとしてるんじゃなくて、勝とうとしているように見える。客よりも審査員を見ているというか。

 最近のさや香を見ていると、晩年のハリガネロックを思いだす。若くしてM-1グランプリで高評価をされてしまったがために、その後M-1にふりまわされて自分たちの漫才を見失ってしまったコンビ。ハリガネロックもボケとツッコミを入れ替えたりしてたなあ。

 ハリガネロックは解散してしまったけど、同じ道をたどらないことを願う。




 去年もおもったけど、準決勝の配信は決勝放送後にしてくれたらいいのに。

 準決勝で落ちた組がどんなネタをやったのかは観たいけど、決勝進出組のネタは当日まで楽しみにしておきたいから。

 去年、マヂカルラブリー以外のコンビは準決勝のネタを決勝一本目で披露した。多少のアレンジは加えていたけど。
 今年もほとんどの組がいちばん自信のあるネタ(準決勝のネタ)を決勝一本目に持ってくるだろうから、先に準決勝を見てしまうと決勝のおもしろさが目減りしてしまうんだよね。

 だから準決勝の配信は、決勝放送後にしてくれたらいいのになー。ネタバレも気にしなくていいし。




 今年の決勝進出組は、

  • 真空ジェシカ
  • ゆにばーす
  • ロングコートダディ
  • もも
  • オズワルド
  • ランジャタイ
  • インディアンス
  • 錦鯉
  • モグライダー
  • (敗者復活組)

 去年もそうだったけど、準決勝の出番順前半の組は極端に進出率が低い。去年は8組目のマヂカルラブリーまで合格者なし、今年も7組目の真空ジェシカまで合格者なし。だいたい3分の1ぐらいが合格してるのに、明らかに前半組の分が悪い。

 決勝は独特の空気もあるからしかたないけど、準決勝はもうちょっと冷静に審査してあげてほしいなあ。運も実力のうちとはいえ。


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2021年12月17日金曜日

悪の組織の忠義心

 ロールプレイングゲームなんかで、「世界征服を狙う大魔王とその部下たち」が出てくるじゃない。

 主人公は大魔王討伐を狙うけど、その前に魔王の部下であるザコキャラやら中ボスやらを倒していく。

 あいつらって、めちゃくちゃまじめだよね。

 どう考えても太刀打ちできないぐらいの実力差があっても、果敢に主人公に挑んでいく。己の命よりも組織の方針を優先する。なんたる忠義心。

 それを統べる魔王もすごい。目的を明確に提示して部下のモチベーションを高く保ち、全身全霊で戦わせる。


 あんなに一枚岩の組織、かんたんにつくれるものじゃない。

 集団になれば考えが衝突することもあるし、裏切ったり怠けたりするやつも出てくる。
 まあそりゃあ中には逃げたり裏切って主人公側の仲間になるモンスターもいるが、ごくごく少数。大半のモンスターは監視もされていないのに与えられた仕事を黙々とこなしている。えらい。〝モンスターがサボっていないか監視する憲兵モンスター〟ぐらいいてもよさそうなのに、見たことない。みんな真面目なのだ。

 あの組織は、アリやハチに似ている。

 それぞれが異なる役割を果たし、けれども全体としては一枚岩となり、共通の敵に果敢に立ち向かう。二割ぐらいはサボるやつもいるけど、全体として見るとおおむね意思統一がとれている。

 アリやハチの結束が固いのは、あれは血縁でつながった組織だからだ。
 アリやハチにとって、同じ巣にいるのは母であり、姉妹であり、おばや姪である。かなりの部分の遺伝子を共有している。だから、「遺伝子を残す」という全生物共通の目的を考えれば、己の利益とコミュニティの利益がほぼ一致しているわけだ。


 ということは、RPGにおける魔王や中ボスやザコモンスターたちは、あれみんな血縁関係にあるのではないだろうか。

 きっとそうだ。モンスターの見た目は多種多様だけど、じつはみんな兄弟なんだ。女王アリと働きアリと子育て専門アリがぜんぜんちがう見た目なのと同じで。
 で、モンスターたちはみんな魔王から生まれたんだ。魔王は女王なんだ。
 主人公たちが出会うモンスターたちはみんなメス。働きアリがみんなメスなのといっしょ。オスはいるけど、魔王のそばにいて交尾をするためだけに存在している。

 そりゃあ統制もとれるわ。みんな遺伝子が似てるんだもん。

 魔王軍の世界征服計画は、かあちゃんを中心にした大家族の奮闘記なんだな。なんか応援したくなるね。


2021年12月16日木曜日

日清食品とろけるおぼろ豆腐 おとうふの旨だし豆乳スープの話

 日清食品 とろけるおぼろ豆腐 おとうふの旨だし豆乳スープ


 うまい。とにかくうまい。

帆立・昆布・鰹の三種の出汁に、豆乳で仕立てた優しい味わいのスープです。まろやか豆乳スープと相性ピッタリな「とろけるおぼろ豆腐」をお楽しみください。

だ、そうだ。

 あるときこれをコンビニで買って、食ったらめちゃくちゃうまくて、さらにここにご飯を投入したらもう劇的にうまくて、ほら旅館でカニ鍋とか食って最後に旅館の人が「雑炊にしますねー」ってご飯を投入してくれるんだけど、なんせディナーコースの終盤だからもう腹いっぱいで「あーこれ空腹の状態で食ったらめちゃくちゃうまいんだろうけどもう腹いっぱいだから食えないや。もったいないけど」って無念な気持ちになるじゃない、あのうまさ。つまり「食いたいけど腹いっぱいで食えないや」のうまさを、空腹状態で味わえるってわけ。最高。

 スープがうまいし、ゆず皮が香りの面でも触感的にもいいアクセントになっているし、豆腐との相性も抜群。そりゃあ豆乳スープと豆腐の相性が悪いはずないよね。


 そんでうまかったからまたそこのコンビニに行ったらもう売ってなくて、しかたなく他のメーカーの豆乳スープを買ってみたところ、それはそれで悪くないんだけど、やっぱり『日清食品 とろけるおぼろ豆腐 おとうふの旨だし豆乳スープ』には遠く及ばない。

 スーパーで見つけて欣喜雀躍として買ったんだけど、さすがに同じカップスープを大量に買うのはなんか恥ずかしくて五個だけ買って毎日食べた。あたりまえだけど五日でなくなった。
 『日清食品 とろけるおぼろ豆腐 おとうふの旨だし豆乳スープ』が切れると禁断症状が出て手がふるえるようになったのでまた買いたいんだけど、うーん、こればっかり買いに行くのは恥ずかしいし、かさばるし、レジ袋も有料になっちまったしな……とおもってネットで検索したら箱で売ってたので6個入り×4箱で24個をまとめ買い。しかもまとめ買いするとお得になる。
 ネット通販ありがたや。これで一ヶ月近く持つ。ようやく手のふるえも止まった。


 まだやったことないんだけど、これを冬山で食ったらもう涙が出るほどうまいだろうな。

 ぼくはときどき登山をするんだけど、その目的は三つある。
「山頂でカップラーメンを食うこと」
「下山後、銭湯に行くこと」
「下山後、銭湯に行った後、ビールを飲むこと」
 この三つの目的のために山に登る。

 山頂で食うカップラーメンはうまい。山頂はだいたい寒い。夏でも汗が冷えて少し寒い。
 そこでお湯を沸かして食うカップラーメンは最高だ。

 だが、次回からはカップラーメンではなく日清食品とろけるおぼろ豆腐 おとうふの旨だし豆乳スープになるだろう。コッヘルで湯を沸かし、日清食品とろけるおぼろ豆腐 おとうふの旨だし豆乳スープに注ぐ。豆腐をくずさないようにゆっくり混ぜ、湯気がたっているやつをふうふうと吹きながらすする。臓腑の奥から温まる。
 三割ほど食ったら、そこに塩おにぎりをぶちこんで食う。うはあ。たまらん。


2021年12月15日水曜日

いちぶんがく その10

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




「遊ぶのが下手っていうことは、生きるのが下手っていうことなんですよ」

(永 六輔『無名人名語録』より)




「あの人、貧乏が似合うのよね」

(永 六輔『普通人名語録』より)




畜生、通貨を玩具にして独占的利益を挙げていやがる。

(服部 正也『ルワンダ中央銀行総裁日記[増補版]』より)




エイモスと私は、私一人が大馬鹿者なのか、それともたくさんの大馬鹿の一人なのかを調べることにした。

(ダニエル・カーネマン(著) 村井 章子(訳)『ファスト&スロー』より)




せめて、痴漢ぐらいはイキイキしている世の中でないと、危険ですよ。

(永 六輔『一般人名語録』より)




「ぼくが志あれど金はなし、の男だってことは、それはおまえも先刻承知済みのことだろう?」

(西村 賢太『小銭をかぞえる』より)




以前小さな蛙をまちがってのみこんでしまった人がそれ以来腹の底からは決して笑えなくなってしまったような、そんなような妙につっかかった様子の笑いだった。

(川上 弘美『センセイの鞄』より)




羨ましいとおっしゃるなら人生をそっくり取り替えて差しあげよう。

(鷺沢 萠『私はそれを我慢できない』より)




「むうう、不動産屋は信用しない方がいいのですよ、うけけけけ」

(京極 夏彦ほか『小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所』より)




自分の台詞が、返し付きの釣り針並みに相手の心に食い込んだのさえ、はっきり見て取れた。

(吉永 南央『オリーブ』より)




 その他のいちぶんがく


2021年12月14日火曜日

死にたくない人間の「死にたい」出来事

 ネガティブ思考ではあるが自己愛は強いので、「死にたい」とおもったことは一度もない。

 ただ「ああ死にたくなる人の気持ちがちょっとわかる」とおもったことは二度ある。

 二度とも同じ時期だ。


 本屋を退職する少し前のこと。
 どブラック企業だったので、その日も朝四時半に起きて車で出勤。用事があって別の店舗に行くことになったので、はじめての道を通っていた。

 自動車専用道路。朝五時台なので道はガラガラ。
 当然どの車もすごいスピードで走っている。高速道路ではないが信号がないのでみんな80km/h以上は出していた。

 ふと気づくと、周囲の車がスピードを落としはじめた。
 ラッキー! おっさきー! とすいすい走っていると、目の前がピカっと光った。

 そう、オービス(速度違反自動取締装置)だ。

 あーくっそーそういうことかー! みんなこれを知っていたからスピードを落としていたのかー。


 というわけで後日。
 35km/hオーバーでめでたく一発免停の通知が届いた。

 ちょうどその少し前に本屋を退職していたので、車に乗る必要がなくなった。通勤で必要だから乗っていただけで、車の運転は好きじゃない。
 だから免停自体は問題じゃない。乗れなくたってかまわない。
 指定された日に裁判所に出頭すべしとの指示があったが、どうせ無職の身。時間はいくらでもある。いやー仕事やめてよかったーと鼻歌まじりだった。そのときは。

 出頭を命じられたのは平日の朝九時。
 通勤ラッシュの電車で裁判所の最寄り駅へ。
 電車を降りると、いっしょにスーツ姿の男女が大量に降りる。駅の真ん前に某大手生命保険会社のビルがあり、そこに向かう人たちだった。
 駅から歩く人たちの九割が大きなオフィスに吸い込まれていく。日本の未来を背負って立つ、優秀なビジネスマンたちだ。

 残りの一割が、ぼくたち裁判所出頭組。
 大企業で働くスーツ姿の人たちと、裁判所に呼びだされた無職。

 その対比がなんともみじめで、死にたくなる人の気持ちがちょっとわかった。


 さらにその一週間後。
 無職なのでヒマである。近くのレンタルビデオ屋で会員カードをつくることにした。

 なにか身分証を、と言われてはたと困った。
 免停中なので免許証がない。会社を辞めたので保険証も返納してしまった。身分証がないのだ(当時はマイナンバーカードも住民基本台帳カードもなかった)。

 なんかないかと鞄の中をさぐったら、出てきたのがハローワークで交付された「失業認定証」。失業保険をもらうために発行されたやつだ。
 まあこれも公的機関が発行してるし氏名住所が書いてあるもんな……ということでこいつを見せたら無事に会員証をつくれた。

 しかし何も言わなかったけど、あの店員さん、ぜったいに
「こいつ失業中のくせにレンタルビデオ屋の会員になろうとしてんのかよ……。仕事さがせよ……」
とおもってただろうな。

 あのときは一瞬「自殺」という言葉が頭をよぎったぜ。


2021年12月13日月曜日

デス・ゲーム運営会社の業務

 デス・ゲームの運営会社で勤務している。

 デス・ゲームってのはあれだ。
 参加者を強制的に一箇所に集めて、覆面の男からの
「みなさんにはこれからゲームをしてもらう。かんたんなゲームだ。クリアしたものには賞金が与えられる。ただし失敗した場合は、ちょっとした罰が待っている」
的なメッセージからはじまって、多少の戸惑いはあっても結局は素直に参加して、最初の犠牲者が出て、参加者が力を合わせて謎を解いていって、健闘むなしく次々に命を落としていって、ひとりかふたりだけがクリアして、最後に意外な人物が黒幕だったことが判明して……っていう例のあれだ。

 きっとみんな漫画や映画で一度や二度や三十度は観たことがあるだろう。中学生が大好きなストーリーだ。

 あのデス・ゲームをうちの会社が運営している。

 といっても、デス・ゲームの企画や進行はおれの仕事ではない。企画部や運営部は花形なので、おれのような冴えない社員は任せてもらえない。今の部署で頭角を表せば抜擢されることもあるが、そんな例は十年に一度あるかどうか。基本的には採用段階で決まっている。有名大学のクイズ研究会にいたやつとか、大手広告代理店出身者とかがそういった花形ポジションに就くことになる。
 ちなみに進行役(「君たちにはちょっとしたゲームをしてもらう」的なことを言う人)は、プロの声優に外注している。進行役には凄みがないとリアリティがないので、そこだけはプロに任せている。


進行役さんの衣裳(一例)


 おれがいる営業部がやっているのは、もっと地味な仕事だ。

 たとえば会場の確保。デスゲームは殺人や監禁など法に触れることをするので、証拠を残さないためにも同じ場所は二度と使えない。
 なので毎回会場を新たに探さないといけないのだが、これが大変だ。
 人里離れた場所で、十分なスペースが必要。できれば携帯の電波が入らないことが望ましい。
 かといってあまりにへんぴな場所だと電気が使えないので、それはそれでなにかと不便だ。
 なかなか国内にはちょうどいい場所がない。国外ならあるのかもしれないが、参加者を眠らせて海外の会場まで運ぶのはまず不可能。
 会場の確保は毎回苦労するところだ。山の中に小屋を建てたこともある。


 それから、設営、警備。
 必要な機材を搬入・搬出したり、人が近づかないように警備をしたり。参加者の叫び声を聞きつけて警察がやってくることもあるので、ダミーのために会場から少し離れたところにテントを張り「キャンプで酔っぱらってばか騒ぎをしている若者」を演じたりもする。

 コンサートなんかだとイベント会社が学生バイトを使ってやってくれるらしいが、情報が漏れるのを防ぐために外注はしない。最近の若いやつはすぐにSNSで拡散するから。

 リハーサルも何度もやる。参加者の役になって、本番さながらにゲームに挑戦するのだ。失敗しても殺されないこと以外は本番と同じだ。進行役の声優さんにも来てもらう。


 営業部なので、もちろん営業もやる。

 デス・ゲームは金持ちの出資によって成り立っている。
 みんなも見たことがあるだろう。「庶民の命を賭けた殺し合いを、モニター越しにワイン片手に楽しむ金持ち」を。

 ただあれはフィクションならではで、本当はちょっと違う。
 金持ちが見るのは事実だが、リアルタイムで視聴なんかしない。リアルタイムだと間延びして退屈で見ていられない。こっちが編集したり効果音をつけたりドラマチックにしたものを楽しむのだ。金持ちはそんなにヒマじゃない。

 サブスク型の有料チャンネルで配信している。無料版もあるので、よかったらぜひ検索してみてほしい。もちろん暴力や殺人などの描写は有料会員限定だ。

 デス・ゲームは、有料会員による月額利用料と広告料によって成り立っている。基本的には金持ちが楽しむコンテンツなので、広告出稿したい企業は多い。広告料金も高めに設定している。

 金持ちに営業をかけたり、広告をとってきたりするのもおれたちの仕事だ。
 証拠が残るとまずいので、営業は対面でやる。メールも電話もFAXも使わない。うちの会社はアナログだ。


 仕事がおもしろいかと訊かれると、首を振らざるをえない。
 ゲームやクイズを考案する部署はおもしろそうだが、彼らは彼らで遅くまで残っていてたいへんそうだ。やりがいはあるだろうが激務だ。

 その代わりというべきか、営業部のほうはほとんど残業がない。きちんと有給休暇もとれる。労働問題でトラブルになって目を付けられたくないから、そのへんは他の会社よりもきっちりしている。
 企画・進行の部署も繁忙期こそ毎日残業しているが、それ以外はまとまった休みをとっている。給料も高いらしいし、なんだかんだいいながらみんな辞めずに続けている。

 おもしろいかと言われると答えはノーだが、辞めるほど嫌かというとそんなこともない。みんなだいたいそんなもんだろう。

 聞くところによると、薄給・激務・劣悪な職場環境で働かせるブラック企業もあるそうだ。さっさと辞めればいいのに。
 身体を壊すまで辞められない、そんなデス・ゲームに好き好んで参加するやつの気が知れない。


2021年12月10日金曜日

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』

 ぼくが小学生のときにいちばん読んだ本は、まちがいなくズッコケ三人組シリーズだった。
 著者は那須正幹さん、挿絵は前川かずおさん(後に逝去により高橋信也さんに交代)。


 今でこそ児童向けの文庫を各出版社が出しているけど、ぼくが子どものころって中学年以上の子が読む小説ってあんまり多くなった気がする。江戸川乱歩とかホームズとかルパンとかの、いわゆる名作小説か、翻訳小説か、あとは伝記とか。中学年以上が読むに耐える、純粋におもしろい小説はあまり多くなかった(ぼくが知るかぎり)。

 だから本好きの子はみんな『ズッコケ』を読んでいた。ちなみにぼくは一年生から読んでいたのだが、今読むと漢字が多く、ルビも少なく、よく一年生でこれを読んでいたなあと感心する。なにしろぼくは二歳でひらがなを半分ぐらい読めた、幼稚園で挿絵のない本を読んでいた、二年生で宮沢賢治作品を読破したなど数々のエピソードを持つ神童だったからね。今じゃ見る影もないけど。

 そんなわけで、ズッコケシリーズは誰もが読んでいるとおもっていたのだが、意外や意外、同世代の人に訊いてみても
「まったく知らない」「名前だけは知ってるけどほとんど読んだことはない」
という人がけっこういて驚かされる。

 ぼくは読書好きの母の影響で本に囲まれた生活をしていたからそれがあたりまえだとおもっていたけど、本をぜんぜん読まない家庭も少なくないんだよな。
 こないだ「家に本が一冊もない」という人と話してたら、「あ、でもうちの奥さんはわりと本読みますよ」って言うんで、「へえ。奥さんはどんな本読むんですか」って訊いたら「あれ読んだって言ってました、ほら、『ハリー・ポッター』」と言われて仰天した。
 本を読まない人からすると、読書歴が『ハリー・ポッター』で止まっている人でも「わりと本読みますよ」になるのか……。


 閑話休題。

 上の娘が小学二年生になり、「小説が読みたい」と言いだしたので、そろそろいいかとズッコケ三人組シリーズを勧めてみた。
 おもしろいと言っていたが、いかんせん読むのが遅い。おまけに習っていない漢字や聞きなれない言葉が多いので、しょっちゅうぼくに読み方や意味を訊いてくる。
 もうまどろっこしいので、ぼくが読んで聞かせてあげている。

 ……というのは口実で、ほんとはぼくもいっしょに読みたいんだよね。

 改めて読むと、小学生のときとは感じるところも違う。以下、感想。


『それいけズッコケ三人組』(1978年)

 シリーズ第一作にして唯一の短篇集。
 トイレにいるハカセが泥棒とニアミスする『三人組登場』、万引き中学生をこらしめる『花山駅の決闘』、同級生の女の子を脅かすつもりが逆におそろしい目に遭う『怪談ヤナギ池』、ハチベエが防空壕跡に迷いこむ『立石山城探検記』、モーちゃんがテレビの公開収録に挑戦する『ゆめのゴールデンクイズ』の五篇からなる。


 小学生のとき、『ズッコケ三人組』シリーズの主人公はハチベエだとおもっていた。持ち前の行動力でストーリーをひっぱる役どころが多いからだ。じっさい、名作との呼び声高い『花のズッコケ児童会長』や『うわさのズッコケ株式会社』の主人公はまちがいなくハチベエだ。

 だが改めて読むと、シリーズ通しての主役はハカセなんじゃないかとおもう。活躍シーンは多くないが、ハカセの一言をきっかけに物語が転がることがよくある。また、第一話『三人組登場』の主人公がハカセであったり、続編にあたる『ズッコケ中年三人組』シリーズではハカセの恋愛模様が描かれることからも、やっぱり真の主役はハカセだ。

『それいけズッコケ三人組』はどれもスリルあふれていておもしろい作品。『三人組登場』はサスペンス&コメディ、『花山町の決闘』はバイオレンス、『階段ヤナギ池』はホラー、『ゆめのゴールデンクイズ』はヒューマンドラマ。だが『立石山城探検記』だけは小学生にとってはおもしろい話ではなかった。

 題材が難しいし、ハチベエがただ真っ暗な穴の中を歩くだけで盛りあがりどころは少ない。ピンチではあるけど、スピード感がない。
 でも大人になってから読むと、ちがう楽しみかたができる。そうか、この時代って防空壕とか戦争体験者とかがまだ身近な存在だったんだな。1978年に小学6年生ということは、三人組の生まれは1966年ぐらい。両親はギリギリ戦中生まれかな。ちょっと上の世代だともう戦争体験があるんだよな。ズッコケ三人組の担任の宅和先生なんか戦争経験者どころか出征していた世代だよな。



『ぼくらはズッコケ探偵団』(1979年)

 二作目、長編としては一作目。

 推理小説だが、小学生のときはあまりあまりおもしろくなかったな。野球のボールが飛んでいった屋敷で殺人事件に遭遇する、という展開まではおもしろかったんだけど、中盤からは小学生にとっては難しかった。今読むとかなり本格的なミステリだ。

 ガラスは二度割れた、トリックに使われた釣り竿のさりげない提示、目撃者を消すための第二の事件など、ちゃんとしたミステリをやっている。児童文学なのに、決してこどもだましでないのが初期ズッコケシリーズのすばらしいところ(後期の怪盗Xなんかはこどもだましだけど)。

 ただ、やっぱり本格的なミステリを子ども向けにやるのはむずかしい。うちの子は、ガラスが二度割れたトリックなんかは説明してやらないとわかっていなかった。
 作者もそれをわかっていたのか、中盤には「学級会でおこなわれる男子と女子の対決」が描かれる。ハカセが口先三寸で女子をやりこめるところは、しょっちゅう悪さをしては女子に告げ口されていたぼくとしては痛快だったなあ。

 しかもこの学級会のシーンも無駄に差しこまれるわけではない。学級会では敵だった安藤圭子が終盤で命を狙われて、三人組が助ける展開は胸が熱くなる。



『ズッコケ㊙大作戦』(1980年)

 タイトルに環境依存文字が使われている作品。読めない人のために説明しておくと、○の中に秘、でマルヒです。そういやマル秘っていつのまにか聞かなくなったな。

 これも小学生のときはあまり好きな作品じゃなかった。男子小学生にとっては、恋愛をテーマにした小説よりも手に汗にぎる冒険譚のほうが魅力的なんだよね。
 でも今読むとずいぶん印象がちがう。これはすごい小説だ。

 スキーに出かけたズッコケ三人組。そこで謎めいた美少女と出会う。
 その数ヶ月後。スキー場で出会った美少女・マコが、転校生として三人のクラスにやってきた。マコはお金持ちで、誰にでも優しく、知性あふれる少女だった。おまけに水難救助をおこなう勇敢な一面もある。
 たちまち三人はマコの虜に。はたしてヒロインは三人のうち誰にほほえむのか……とならないのがこの作品のすごいところ

 マコのまわりには怪しい男がうろつき、お嬢様であるはずのマコはボロアパートに住んでいることが明らかになる。おまけに水難救助は自作自演だった。
 彼女は「お父さんがスパイに追われている」と三人に説明する。三人はそれを信じるが、すぐにそれも嘘だと判明。マコは虚言癖のある少女だったのだ……。


 男子小学生向けのフィクションでは、美少女は完全無欠の存在として書かれがちだ。美しくおしとやかで家柄も良く、誰にでもわけへだてなく優しい。そう、しずかちゃんのような存在。
 だがこの作品のマコはそんなうすっぺらい存在ではない。家は貧乏、嘘つき、見栄っ張り、保身のためなら人を傷つけ騙すこともいとわない……。とんでもない悪女である。

 小学生のとき、ぼくは「マコはなんて悪い女だ」とおもったものだ。
 だが大人になって読み返すと、それもまた一面的な見方だったと気づかされる。貧しい家に生まれ、恵まれない境遇で育ったマコ。周囲は何の苦労もなくのほほんと育った子どもたちばかり。これで博愛精神を持って生きていけというほうが無茶だろう。そのへんの小学六年生男子に比べて圧倒的に精神年齢が高いのだ。

 三人組は、マコの嘘を知りながらも最後まで騙されたふりをしてマコの夜逃げに協力してあげる。そういやサンジも「女の嘘は許すのが男だ」と言っていた。これこそ愛。
 見た目が良くて、性格が良くて、素直で、自分のことを好きな女の子に惚れるのなんて、あたりまえ。そうじゃない女の子を好きになっちゃうからこそ恋愛はおもしろい。

 この作品にかぎらず、基本的にズッコケシリーズに出てくる女の子ってみんな強いんだよね。『ぼくらはズッコケ探偵団』で重要な役割を演じる安藤圭子もそうだけど、ヒロインである荒井陽子や榎本由美子も、基本的に男子を下に見ている。ほとんどサルと同じぐらいにしかおもっていない(まあこの年頃の女子ってそうだよね)。
 後の作品でも、『大当たりズッコケ占い百科』や『ズッコケTV本番中』など、三人組が女子にふりまわされる話がいくつもある。
 あたりまえだけど、男子だろうが女子だろうが、ずるくて意地悪な面を持っているものだ。それをきちんと書いている。単なる〝美少女〟という記号に終始していない。


 改めて読むと、三人組だけでなく、脇役たちもみんな活き活きとしていることに気づく。へたな小説だと主要人物以外は物語を進めるためだけに存在する平坦な人物だが、ズッコケシリーズでは脇役もみんな生きて息をしている。

 刊行から四十年たってもおもしろい。大人が読んでもおもしろい。すごい作品だね、ほんと。


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【読書感想文】『あやうしズッコケ探険隊』『ズッコケ心霊学入門』『とびだせズッコケ事件記者』




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2021年12月9日木曜日

【カードゲームレビュー】UNO FLIP(ウノ フリップ)

UNO FLIP(ウノ フリップ)


 みなさんご存じUNO の上級者バージョン。

 みなさんご存じって書いたけどみんな知ってるよね? 知ってるという前提で話しますよ。UNOを知らない人はお引き取りください。




 UNO FLIPは、表はふつうのUNOとほぼ同じ。

 え? ふつうのUNOがわからないって?

 おまえまだいたのか! さっき帰れって言っただろ! とっととけえれ! パッパッ(塩を撒く)


 ええと、どこまで話したっけ。
 そうそう。表はふつうのUNOのほぼ同じってことだね。
 ちがいといえば、ドロー2がドロー1になってることぐらい。
 そして「フリップ」というカードがあること


 誰かが「フリップ」を出せば、すべてのカードを裏返しにしないといけません。
 ユーザーの手持ちカードも、山札も、捨て札も。

 そして「ダークサイド」に切り替わる(表側は「ライトサイド」)。

 ダークサイドになっても基本ルールは同じ。
 色か数字がカードを出していく、残り1枚になったらUNOと言う、そのへんはおんなじ。

 ただ、特殊カードが少々えげつない。
 5枚引かせる「ダークドロー5」とか、全員スキップしてもう一度おれのターンになる「ダークスキップ」とか、指定された色が出るまで山札からカードを引きつづけなくてはならない「ダークカラーワイルド」とか。
 特に「ダークカラーワイルド」は防ぎようがない(指定された色を所有していても、新たに出るまで山札から引きつづけなくてはならない)し、運が悪いと10枚以上引かされることも。キングボンビーのような存在だ。

 ダークサイドにも「フリップ」があり、出されると再びライトサイドに戻る。
 ライトサイドとダークサイドをいったりきたりしながら攻略を目指すという『ドラクエ7』のようなゲームだ(わかりづらい例え)。




 カードの両面を使うってことは、他の人が持ってるカードの裏側を見っておけば、フリップ後の所有カードが全部わかっちゃうんじゃない?
 とおもったあなた。甘い。

 たしかにそのとおりだ。
 他人のカードをよく見れば、「あああいつダークカラーワイルド持ってるな」ということはわかる。

 だが他人のカードをずっとおぼえておくのはものすごくむずかしい。そもそも自分が何を出すか考えるのでせいいっぱいで、他人のカードを見ている余裕なんかない。

 仮に他人のカードがわかったところで対策を打ちづらいのがUNOのおもしろいところだ。
 だから「他人の(裏返した後の)カードがわかる」というのはほとんどアドバンテージにならない。




 欠点といえば「フリップ」が連続して出されたときに山札や捨て札を裏返すのがめんどくさいことと、ダークサイドの色が微妙なこと。

 ライトサイドが青、黄、赤、緑で、ダークサイドは青、ピンク、紫、オレンジ。
 そう、青がかぶってる。
 厳密にいえばダークサイドのほうがちょっとだけ明るい青なんだけど、そして両面に似た色があってもゲームの進行上特に問題はないんだけど、でもなんかイヤ。

 4色中1色だけよく似た色ってのが気持ち悪いんだよなー。
 ぜんぶ同じにするか、ぜんぶちがう色にするかにしてほしい。


 そのへんをのぞけばとってもスリリングでおもしろいゲーム、UNO FLIP。

 裏も気にしながらカードを出さないといけないのでより戦略性が増す。

「フリップ」カードを抜けばふつうのUNOとしても遊べるよ。……あ? ふつうのUNOがわからない? まだいたのかてめえ、いいかげんにしないと警察呼ぶぞ!!


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2021年12月7日火曜日

【読書感想文】金城 一紀『GO』~日本生まれ日本育ちの外国人~

GO

金城 一紀

内容(e-honより)
広い世界を見るんだ―。僕は“在日朝鮮人”から“在日韓国人”に国籍を変え、民族学校ではなく都内の男子高に入学した。小さな円から脱け出て、『広い世界』へと飛び込む選択をしたのだ。でも、それはなかなか厳しい選択でもあったのだが。ある日、友人の誕生パーティーで一人の女の子と出会った。彼女はとても可愛かった―。感動の青春恋愛小説、待望の新装完全版登場!第123回直木賞受賞作。


 在日朝鮮人から在日韓国人になった少年の話。

 日本で生まれ、日本で育った。両親が朝鮮人(ハワイに旅行に行くために韓国人になった)だったため、在日朝鮮人として育ち、朝鮮学校で学んだ。だが高校進学時に朝鮮学校には行かず日本の普通高校を選択したことで、在日朝鮮人からも日本人からも有形無形の攻撃を加えられる……。




 ぼくの知り合いに、在日韓国人はふたりいる。

 ひとりはぼくのおばさん。伯父(母の兄)が結婚した相手が韓国人だったのだ。韓国旅行中に知り合ったそうだ。結婚して、ずっと日本に住んでいる。
 彼女が日本に来たのは大人になってからだし、結婚するために自分の意志で日本に来たわけだから、いわゆる〝在日韓国人〟とはちょっと違う。

 もうひとりは、ぼくが中学に留学したときに寮で同室だったKさんだ。日本で生まれて日本で育った韓国人。八歳も上の人だったが、気があってよく連れ立って出かけた。

 メールアドレスも聞いたのだが、日本に帰ってすぐに音信不通になった。メールが返ってこなくなったのだ(ぼくだけでなく、別の知人もKさんと連絡がとれなくなったそうだ)。

 なんだよ、あんなに毎晩話したのに、帰国したらシカトかよ。冷たいぜKさん。と、当時はおもったが、今にしておもうと「あれでよかったのかもしれない」となんとなくおもう。


 ぼくは北京の寮でKさんと同室だった。外国人寮だったので、いろんな国の人がいた。ぼくと、在日韓国人のKさんが同室になったのはほんとに偶然だった。なにしろ寮の申し込み書類には、生まれ育った国や話せる言語を書く欄などないのだ。日本人と韓国人を同室にしたら、たまたま韓国人のほうが日本語を話せたというだけだった。

 ぼくからしたら、Kさんが同室だったのはラッキーだった。日本語の通じない外国人と同室になる可能性も高かったのだ。同室の人と十分な意思疎通ができないのは苦労しそうだ。
 ぼくとKさんはお金を出しあって一台の自転車をレンタルし、二人乗りして北京の街をあちこち出かけ、得体の知れないものを食べ、いろんな冗談を言い合った。


 あの北京の夏、ぼくとKさんはまちがいなく友人だった。
 でも、もしぼくがKさんと出会ったのは北京の寮でなかったら。出会ったのがもし日本だったら。
 ぼくは積極的にKさんと親しくなろうとしただろうか。Kさんはぼくに、自分が韓国人であると打ち明けただろうか。

 中国では、日本人のぼくも、在日韓国人のKさんも、外国人だった。外国人同士の連帯感のようなものがたしかにあった。もしぼくらが出会ったのが日本だったら、親しくはならなかったんじゃないだろうか。

 きっとKさんにはそれがわかっていたのだ。だから日本に帰国してからは連絡が途絶えた。Kさんにとってぼくは信用に足る人間ではなかったのだろう。




 ぼくは「誰に対しても差別的な意識を持たずに平等に接したい」とおもっている。これは嘘じゃない。

 でも、こういう気持ちを持っていることこそが、差別意識を持っていることのあらわれだ。ほんとに誰にでもフラットに接する人は、こんなことすら考えないにちがいない。

 そう、ぼくは「在日韓国人だからって他の人とちがう接し方をしない」とおもっているだけで、その根底にはやっぱり線を引いてしまう気持ちを持ってるのだとおもう。まあぼくの場合は外国人だけでなく、日本人に対しても線を引くけど。




 ぼくは差別意識を持っている。
 ただそれを知識や理性で押さえ込んでいる。だからあからさまには表に出さない。でも、やっぱり根底にはある。

 以前、行政から送られてきたアンケートに答えているときにその差別意識に気づかされた。

 そのアンケートは、LGBTに関するものだった。

「同性間での婚姻を認めることについて」という質問には賛成に丸をした。
「同性カップルについて不快感を持ちますか」という質問には「いいえ」に丸をつけた。
「知人がトランスジェンダーだったらどうですか」という質問にも「不快じゃない」に丸をつけた。
 だが、「自分の子どもが同性愛者だったら?」という設問でペンが止まってしまった。正直にいって、それはイヤだ。

 ぼくはリベラル派を自称していて、LGBTも外国人も障害者もみんな平等に扱われるべきとおもっているが、それはあくまで「自分と関わらない範囲で」の話なのだ。
 自分の関係ないところでは誰が何をしようが勝手でしょ、とおもっているが、積極的に関わろうとはおもっていないのだ。

 そう、ぼくは自分では差別主義者とおもっていない差別主義者だったのだ。いちばん恥ずかしいやつだ。




『GO』を読むと、日本で生まれ育った日本人として、自分がいかに有利な立場に置かれていたのかに気づかされる。


 僕は新しい煙草に火をつけ、深く吸って吐き出したあとに、言った。
「俺、これまで差別されてもぜんぜん平気だったんですよね。差別する奴なんてたいていなに言ったって分からない奴だから、ぶん殴っちゃえばよくて、喧嘩だったら負けない自信があったから、ぜんぜん平気だったんですよね。多分、これからも、そういった奴らに差別されるなら、ぜんぜん平気だと思うんですよ」
 僕はまた煙草の煙を吸って、吐いた。
「でも、彼女に会ってからずっと差別が恐かったんです。そんなの初めてでした。俺、これまで本当に大切な日本人と出会ったことがなかったんですよね。それも、めちゃくちゃ好みの女の子となんて。だから、そもそもどんな風につきあったらいいかもよく分からなくて、それに、もし自分の素性を打ち明けて嫌われたら、なんて思っちゃったから、ずっと打ち明けられなかったんです。彼女は差別するような女じゃない、なんて思いながらも。でも、結局は彼女のこと信じてなかったんですよね……。俺、たまに、自分の肌が緑色かなんかだったらいいのに、って思うんです。そうしたら、寄ってくる奴は寄ってくるし、寄ってこない奴は寄ってこない、って絶対に分かりやすくなるじゃないですか……」
「俺はおまえら日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺してやりたくなるよ。おまえら、どうしてなんの疑問もなく俺のことを《在日》だなんて呼びやがるんだ? 俺はこの国で生まれてこの国で育ってるんだぞ。在日米軍とか在日イラン人みたいに外から来てる連中と同じ呼び方するんじゃねえよ。《在日》って呼ぶってことは、おまえら、俺がいつかこの国から出てくよそ者って言ってるようなもんなんだぞ。分かってんのかよ。そんなこと一度でも考えたことあんのかよ」


 日本で暮らす上では、〝外国人〟というだけで大きなハンデを背負っている。指紋の提出を義務付けられたり、外国人登録証明書なるものを携帯しなければならなかったり、就職や結婚や転居にも制約がかかる。

 それでもまあ、自分の意志で日本に来た外国人なら「自分で選んだ道でしょ」という言い分も通るが、戦時中に強制連行されてきた外国人や、その二世・三世にいたってはまったくもって自分の意志で外国人になったわけではない。日本で生まれ、日本で育ち、日本語を話していても外国人登録証明書を携帯しないと罰を受ける。

 そんな生活、想像したこともなかった。


 チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだときも同じことをおもった。女性であるというだけで、いかに生きづらさを感じているか。そして男性のほうは、いかに特権を無意識に享受しているか。




 在日韓国人がどうとか、差別感情がどうとかだけでなく、単純に小説としておもしろかった。スピード感があって。村上龍の青春小説のようだった。

 しかし気に入らなかったのが、ヒロイン・桜井の造形。なーんか、あまりに理想的な女性じゃない? 物語を前に進めるための都合のいいキャラクターって感じだったな。


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2021年12月6日月曜日

読書感想文の反論

 ブログに読書感想文を書いている。

 絶賛する文章を書くこともあれば、徹頭徹尾批判で終わることもある。
 入試小論文なら肯定的な意見と否定的な意見を半々ぐらいで入れたほうがいいのだろうが、ぼくが書いているのは感想文なので知ったこっちゃない。

 まあよほどひどい作品でないかぎりはいい点も見つけて書くようにはしているが、それでも肯定:否定=1:9になるものもあるし、0:10になることもある。

 まあぼくが書いているのは書評ではなく感想文だからね。自分のためだけに書いているのでつまらないものはつまらないと書かせてください。


 書いた読書感想文は、Twitterに投稿している。
 もちろんTwitterに全文書くことはできないので、感想文の要約を数十字で書いてブログへのURLリンクといっしょに投稿する。


 投稿したツイートに対して、著者本人からリアクションされることがある。きっとエゴサーチをしているのであろう。
 こっちが肯定的な感想文を書いたときは、きっと著者本人だってうれしいだろう。「いいね!」やリツイートをしてもらう。ぼくも「このハッピーな感想が著者に届いた!」とうれしい。

 一方、「ひどい本だった」と書いたときに著者からリアクションをもらうことはほとんどない。
 たいていの人は、エゴサーチをして否定的な感想文を見つけても、無視するか、そっとミュートやブロックにするぐらいだろう。

 めったにないことだが、こないだ著者本人(らしきアカウント)から反論意見がきた。


「貴殿は私の著書の出来が悪いと書いているが、具体的な例も挙げずにそんなことを書くのは卑怯だ。正しく読んでいないにちがいない。批判するのであればきちんと読んだ上で書くべきだ」
的なことが書いてあった(もっと直接的な言葉だったが)。


 ふむ。たしかに読まずに批判したり、具体的な例を挙げずにあの本はダメだと書くのは卑怯かもしれない。

 だが、ぼくは 最初から最後まで読み、具体的な例を挙げてその本の悪口を書いた のである。

 ブログ内で何箇所かを引用し、その文章に対してこれは差別意識丸出しの罵詈雑言であるから単なるエッセイとして垂れ流すのならともかく客観的な批評であるかのように書く姿勢は好かん、とこう書いたのだった。

 だがそのすべてを1ツイートに記載することはもちろんできないから、ツイートには「この本で書かれているのは批評ではなくただの悪口」とだけ書いたのだ。


 おそらく反論を寄せてきた著者(らしきアカウント)は、そのツイートだけを見て、リンク先のブログ記事を読むことなく
「具体的な例も挙げずに誹るのは卑怯だ。正しく読んでいないのではないか。批判するのであればきちんと読んだ上で書くべきだ」
と書いてきたのであろう。

 見出ししか読まない人から、「きちんと読んだ上で批評しろ」と叱られる。


 ううむ。
 なんちゅうか、人間っていいなとおもえる出来事でしたね(テキトー)。


2021年12月3日金曜日

予約が嫌いだ

 予約が嫌いだ。

 予約をするとものすごく脳のリソースをとられる。
 ○月○日○時にあのお店を予約したからその前後に他の予定を入れちゃいけない、どうしても外せない用が入ったら早めにキャンセルの電話を入れなくちゃいけない、○時に着くためには○時に家を出なくちゃならない、何かあるかもしれないからそれより30分は早めに出た方がいい、それまでに事故とか急病とかになったらキャンセルの連絡ができないかもしれない、そしたらお店に迷惑をかけてしまう、事故にも病気にも遭わないようにこの1週間はつつましく生きなくてはならない。
 そんな「かもしれない運転」を強いられる。しんどい。


 ぼくが10分カットの床屋を利用するのは、予約が嫌いだからだ。あと安いから。
 10分カットは、実はさして早くない。休日に行くと30分以上待たされることもある。だったら美容院を予約して、行ってすぐ切ってもらうのと変わらない。
 でも10分カットは予約しなくていい。予約して1週間「かもしれない運転」に苦しめられることをおもえば、1時間待つぐらいぜんぜんたいしたことじゃない。

 いっとき腰が痛くて整体に行ってたけど、毎回予約をしなくちゃいけないのがつらかった。腰の痛みよりも予約の痛みのほうが大きいぐらいだ。なんだ予約の痛みって。

 歯医者や整骨院に行くと、治療を複数回に分けてすぐに次回予約をさせようとする。よく知らないけど、保険点数を稼ぐための事情とかがあるんだろうか。ああいやだいやだ。3時間かけてもいいから1回で済ませてくれ。


 ホテルの予約なんてぞっとする。
 美容院や歯医者ならせいぜい30分か1時間ぐらいのものだが、ホテルを予約したら部屋をまるまる一室、一両日も空けてくれるのだ。ひゃあ、申し訳ない。ぜったいにキャンセルできないじゃないか。

 とはいえホテルを予約せずに旅に出る勇気はぼくにはない。
 ぼくが「旅行に行きたい」とおもいながらほとんど旅に出ないのは、予約が嫌だからだ。

「いつか行きます。明日かもしれませんし、十年後かもしれません。いつ行っても泊まれるようにしておいてください」
っていう予約ができたらいいのにな。そんな、ささやかすぎる願い。


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2021年12月2日木曜日

【読書感想文】さくらももこ『たいのおかしら』 ~自分をよく見せない文章~

たいのおかしら

さくらももこ

内容(e-honより)
「こんなにおもしろい本があったのか!」と小学生からお年寄りまでを笑いの渦に巻き込んだ爆笑エッセイの金字塔!!著者が日常で体験した出来事に父ヒロシや母・姉など、いまやお馴染みの家族も登場し、愉快で楽しい笑いが満載の一冊です。「巻末お楽しみ対談」ではもう一度、全身が笑いのツボと化します。描き下ろしカラーイラストつき。


 ご存知、『ちびまる子ちゃん』作者によるエッセイ。

 小学二年生の娘もそろそろこういうの楽しめるかなー、『ちびまる子ちゃん』好きだしなーとおもって買ったものの、「さすがにこれは二年生がひとりで読むにはまだ早すぎるわ」とおもった。漢字にルビがふってないし、前提となる知識が必要な話も多いしね。

 ということでぼくが読んだ。

 



 二十年ぐらい前に『さくらももこ編集長 富士山』という雑誌を買ったことがある。さくらももこさんのエッセイを読むのはそのとき以来だ(『ちびまる子ちゃん』の単行本にあるおまけページは除く)。

『さくらももこ編集長 富士山』にはエッセイが何篇か載っていたのだが、それがことごとくつまらなかった。
 えっ、あのおもしろいエッセイ漫画を描く人がこんなにつまらない文章を書くの、と驚いたぐらい。

 なので「さくらももこのエッセイ=つまらない」という認識を二十年近く持っていたのだが、今読んでみるとちゃんとおもしろい。
『富士山』のときだけがつまらなかったのだろうか。疲れていたのかな。


 グッピーを死滅させた話とかおっかない小杉のババアの話とか、それほど大したことは起こらないのにおもわず笑ってしまう。

 特に、グッピーを死滅させた話なんて、書きようによっちゃめちゃくちゃ後味の悪い話なのに、それを軽妙なエッセイに仕上げるのだから大した腕だ。


 ぼくは小学生のとき、事故でかわいがっていた文章を死なせてしまった。でもその話は家族以外誰にも言ったことがないし、書いたこともない。これからも心に秘めたままだとおもう。なぜなら、つらすぎて誰にも言えないから。
 上手に笑い話にでもしたほうが供養になるのかもしれないが、今もって吐きだせないままだ。三十年近くたった今でもずっと心の中でもやもやしている。




 おもしろいエッセイを書く才能というのは、うまい文章を書く能力やいい小説を書く力とはまた違う。
 どちらかといえば、文才よりも生き様によるものだとおもう。


 十五年ぐらい前に、mixiやらFacebookといったSNSが流行った。それまでにもホームページを開設したり、ブログを作ったりする人はいたが、SNSはそれらとは一線を画していた。それは「特に書きたいことがあるわけでもない人がネット上に文章を上げるようになった」ことだ。

 ホームページやブログをわざわざ開設する人は、なにかしら世に向けて発信したいものを持っている人だった。ところがmixiやFacebookは「誘われたから」ぐらいの消極的なユーザーを大量に招き入れた。「こういうのあんまり好きじゃないんだけど、誘われたのに無碍にするのも悪いから」ぐらいの人が大勢いた。

 そして「誘われたから」SNSアカウントを作ったユーザーも、「せっかくだから」ぐらいの気持ちで日記を書いて投稿した。
 その中に、驚くほどおもしろい文章を書く人がいた。

 ぼくの知人に、おもしろい文章を書く人がふたりいた。
 ひとりは、高校時代の友人Nくん。もうひとりは実の姉。
 彼らに共通しているのは、ぜんぜん本を読まないこと。そしてオンラインでの活動にあまり興味がないこと。これまでホームページもブログも(少なくともぼくが知る限りでは)やってこなかった。
 ぼくの姉なんて小説やノンフィクションはおろか漫画すらほとんど読まない人間で、機械にもとんと疎くて携帯ではメールしかしないおばあちゃんのような人間だったのに。

 Nくんと姉の書く文章はおもしろかった。自分の失敗談を淡々とつづっているだけなのに、おもわず笑ってしまうものだった。語彙が豊富なわけでも、構成がうまいわけでも、エッジの利いた表現をするわけでもない。学校の作文みたいな文章だ。
 テーマも新奇なものではない。身近な出来事をつづっているだけだ。
 なのにおもしろい。

 なぜ彼らの文章はおもしろいのか。
 ぜんぜんおもしろくないその他大勢の文章との違いは何なのか。

 ぼくは考え、そして気づいた。
 彼らは、まったく自分をよく見せようとしていないのだ。

「こんなにめずらしい体験してるんやで」
「こんなにすごい人と知り合いなんやで」
「こんなに見事な文章書けるんやで」
「こんなに鋭い着眼点持ってるんやで」

 そういう気持ちが微塵もないのだ。あるのかもしれないが、読んでいる側にはまったく伝わってこない。

 ほら、Facebookの文章って自慢話が氾濫してるじゃない。失敗談かな? とおもってもじつは失敗談に見せかけた自慢話だったりするわけじゃない。それって読む側にはすぐわかるじゃない。ああ、こいつ自分をよく見せるために書いてるな、と(ことわっておくが非難しているわけではなくそれがふつうだ)。
 Nの文章も、姉の文章も、自慢の要素がひとつもなかった。


 意外や意外、こんなにおもしろい文章を書く人がいたのか。SNSは彼らの意外な文才を発掘してくれた。すばらしい。

 とおもいながらNと姉の投稿をチェックしていたのだが、Nも姉もぜんぜん投稿をしてくれない。まさに三日坊主。ふたりとも、二、三回投稿しただけでまったく投稿しなくなった。たぶんログインすらしていないのだろう。

 よく考えたら当然の話で「自分をよく見せたいとおもってない人」には書く動機がないのだ。金にもならないのに、自分をよく見せたいとおもっているわけでもないのに、わざわざ時間と頭を使って文章を書く動機がない。

 だから「自分をよく見せたいとおもってない人」はSNSもすぐに飽きてしまう。SNSを続けるのは、何かを発信して自分をアピールしたい人ばかりなのだ。悲しいぜ。

 二十年ブログをやっている自己顕示欲の塊であるぼくが言うなって話だけど。


 ふだん目にするエッセイってさ、「文章書きたいです!」って人が書いたものばかりじゃない。あたりまえだけど。
 でも「いやいや私は文章なんて書きたくないです。身の周りのことを書くなんて恥ずかしいし、書けません」って人をむりやり拉致監禁してエッセイを書かせたら、そのうちの何パーセントかはめちゃくちゃおもしろい文章を書くんじゃないかとおもうんだよね。それか「助けて助けて助けて……」っていう地獄のメッセージのどっちか。


 前置きが長くなったが、さくらももこという人は、表現を生業にする人でありながら「自分をよく見せてやろう」が強くない人だとおもう。いや、もちろんそんなことはないんだろうけど、この人のエッセイからは「自分をよく見せてやろう」がほとんど感じられない。
 まるで「頼まれたから書きました。ほんとは書きたくないんだけど」なんて気持ちで書いたんじゃないか。そんな気さえしてくる。




『ちびまる子ちゃん』の読者にはおなじみの、父ヒロシ(本物)の話。

 私も三歳半になり、やっとひとりで便所に入れるようになった。しかし、当時の我が家のくみ取り便所は幼児がひとりで入るのが危険であったため、必ず誰か大人が監視する事になっていた。
 私が用を足している時、ヒロシはふざけて便所の電気を消してしまった。三歳の私の恐怖は、とてもここに書ききれるものではない。大絶叫を発し、小便の途中でパンッを上げ、慌てて立ちあがったとたんに片足が便壺の中にはまってしまった。
 私の悲鳴を聞きつけた母がものすごい速さでとんできて、ぼっ立って呆然としているヒロシを押しのけて私を救出してくれた。
 ヒロシは母に叱られた。ものすごく叱られた。私はヒロシなんてこの際徹底的に叱られるべきだと思っていたので、わざとダイナミックな泣き声を放ち、
「おとうさんがァ、わざとやった」などと稚拙な言語で責め立ててやった。
 ヒロシは、ウンともスンとも言わずに、ただウロウロして私と母の周りに佇んでいた。母は、私の汚れた片足を、ヒロシの古いパンツでふいていた。そして「これ、あんたのパンツだけど、この子の足ふいたら捨てるからねっ。バチだよっ」と怒鳴った。くだらないいたずらをしたために、ヒロシは自らのパンツを一枚失ったのである。

 ああ、父ヒロシだなあ。漫画のまんまのキャラクターだ。どっちも同じ人物をモデルにしてるんだからあたりまえなんだけど。

 だめな父親だなあ、とおもうけど、自分が父親になった今、父ヒロシの気持ちもちょっとわかる。ぼくも娘にちょっかいをかけてしまう。

 娘の鼻をつまんでみたり、まじめな質問をされているのにふざけて答えたりして、娘に叱られる。ささいないたずらでも娘はむきになって怒るので、それがおもしろくてついついふざけてしまう。

 こんなことやってたら娘が成長したらまったく相手にされなくなるだろうとわかっているのに、それでもやってしまう。自分が子どものとき、嫌だった父親になってしまう。ああ、こうやってだめな父親は再生産されてゆくんだなあ。




 巻末に脚本家の三谷幸喜さんとの対談が載っているのだけど、笑ってしまったやりとり。

さくら よく犬は飼い主に似るって言いますけど……。
三谷  それはあるかもしれない。僕も妻も人見知りが激しくて、妻は世間的にはオキャンなイメージがありますけど、普段はとってもひっこみ思案。「とび」もそういうところありますね。妻が犬と散歩してると両方とも、なるべく皆と目を合わさないようにして道の隅っこを、うつむいて目立たないように歩いてますから。おしっこする時も、実に控え目にやってますよ。
さくら 奥さんが?
三谷  犬が、です。


 これは天然なのか狙ったものなのか……。そりゃ訊くまでもなく小林聡美さん(当時の三谷さんの妻)は控え目にやるでしょ。

 三谷幸喜脚本のコメディみたいなやりとりだな。


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2021年12月1日水曜日

おいしくいただけない時代

 かつては、たとえば「芸能人が大食いに挑戦!」的なテレビ番組では、出演者が食事を残したときには 「この後スタッフがおいしくいただきました」というテロップが出てきた。

 ぼくはEテレばかり観ているので知らないんだけど、たぶん今はなくなったんじゃないかな。

 だってコロナ禍においては「他人が残したものを口にする」なんて、「食べ物を粗末にする」以上の大罪だもの。


 かといって「このごはんはこの後手を付けずに廃棄しました」と書くわけにもいかない。

「一度はギブアップした出演者が後から食べました」だと、演出的によくなさそうだ。「なーんだ、まだ食えたんじゃん」となってしまう。


 今はどうしてるんだろう。大食い番組自体がなくなったんだろうか。

 それとも、大食い番組であっても、小分けにして出すようにしたんだろうか。

「超巨大ラーメンに挑戦!」という番組だけど、ファミレスで幼児のために出してくれるようなちっちゃい丼によそってから挑戦者に出すとか。わんこそばスタイル。

 これなら、残しても 「この後スタッフがおいしくいただきました」と言える。おおもとの巨大ラーメン自体には箸をつけていないから。


 しかしテレビは視覚的なメディアだから、それじゃあつまらないだろうな。

「5kgの超巨大ラーメンに挑む!」って言いながらちっちゃい丼でラーメンをすすっている映像じゃサマにならないもんな。


 どうするのがいいのかね。

「この後豚のエサにして豚がおいしくいただきました。ついでにその豚もスタッフがおいしくいただきました」とかどうかな。

 それでもやっぱり「豚にラーメンみたいな味の濃いものを食べさせるなんて!」という苦情がきたりするのかな。

「このラーメンは豚の健康にも配慮したものです」って書かなきゃいけなくなるな。

 だったらもう最初っから、出演者がラーメンすすっているときに「これは豚のエサです」とテロップ出すほうが早いね。




2021年11月30日火曜日

ダイエットと節約に失敗する方法

 節約もダイエットもそうだけど、「節約してる」「ダイエットしてる」とおもってる時点でもうほとんど失敗してる。

 だって痩せてる人ってダイエットしてないもん。食べたいのを我慢してるわけじゃなくて、そもそも食べたくない。

 節約もそう。貯金をしてる人は買いたいものを泣く泣く我慢してるわけじゃなくて「そんなに欲しいとおもわない」。


 ぼくは生まれてからこのかた、一本も煙草を吸ったことがない。だから煙草を吸いたいとおもうことがない。あたりまえだけど。

 禁煙中の人は、ずっと煙草を吸いたい、でも吸っちゃいかんというストレスにさらされる。

 でも煙草を吸ったことがない人は、煙草が吸えないことに関して一切のストレスを感じない。ノーストレスで禁煙に成功しているともいえる。

 当然、禁煙に成功する確率が高いのは「ついこないだまで煙草を吸っていた人」ではなく「一本も煙草を吸った人」のほうだ。吸ったことない人が吸わないことを禁煙っていうのか知らんけど。


 だからさ。

 身も蓋もないことを言うけど、ダイエットも節約も成功しないのは当然なんだよ。

「痩せなきゃ」「お金貯めなきゃ」っておもう時点でもうストレス環境に自分を追いこんでるんだから。成功する人はがんばらずに食べる量や使うお金を減らすんだから。


 ということで、「ダイエット」「節約」で検索してここに来たあなたには残念なお知らせなんですが、あなたはもう失敗してるんですね。ごめんなさいね。でもそうなんです。


 ところでさ。

 さっき「煙草を吸ったことがない人は煙草が吸えないことをストレスとは感じない」って書いたじゃない。

 あれ、ほとんどすべてのことにあてはまるよね。

 お酒を飲んだことがない人は酒が飲めないことをストレスに感じないし、ラーメンを食べたことがない人は夜中にラーメンが食べたくなったりしない。

 でも、例外もある。

 童貞の性欲。

 あれだけは、経験したことがないのに猛烈に追い求めてしまう。

 なんでなんだろうね。


2021年11月29日月曜日

【読書感想文】中町信『模倣の殺意』 ~そりゃないぜ、なトリック~

模倣の殺意

中町信

内容(e-honより)
七月七日の午後七時、新進作家、坂井正夫が青酸カリによる服毒死を遂げた。遺書はなかったが、世を儚んでの自殺として処理された。坂井に編集雑務を頼んでいた医学書系の出版社に勤める中田秋子は、彼の部屋で偶然行きあわせた遠賀野律子の存在が気になり、独自に調査を始める。一方、ルポライターの津久見伸助は、同人誌仲間だった坂井の死を記事にするよう雑誌社から依頼され、調べを進める内に、坂井がようやくの思いで発表にこぎつけた受賞後第一作が、さる有名作家の短編の盗作である疑惑が持ち上がり、坂井と確執のあった編集者、柳沢邦夫を追及していく。著者が絶対の自信を持って読者に仕掛ける超絶のトリック。記念すべきデビュー長編の改稿決定版。


 この作品、『そして死が訪れる』というタイトルで乱歩賞への応募され、その後『模倣の殺意』と改題されて雑誌に掲載、単行本刊行時には『新人賞殺人事件』というタイトルになり、文庫化の際は『新人文学賞殺人事件』とまたタイトルが変わり、そして復刊の際には『模倣の殺意』に戻った、という複雑な経緯をたどっているそうだ。
 つまり(いくらか手が加えられているとはいえ)ひとつの作品なのに、四つの題名を持っているわけだ。なんともややこしい。


 最初に刊行されたのが1973年ということで、今読むと「うーん……当時は斬新だったのかもしれないけど……」となんとも微妙な出来栄えである。

 トリックも強引だし、アリバイ工作も嘘くさすぎる。
「○時にちょうど時計台の前で撮ってもらった写真があります」とか
「○時には××にいました。ちょうどその時刻に知人に××に電話をかけるように依頼していたので証明できます」とか。

 いやいやいや。
 アリバイがどうとか以前に、それもう「私が犯人です」って言ってるようなもんじゃない。犯行時刻にたまたま時計台の前で撮った写真があるって……。


 それから、トリックは賛否両論あるとおもうけど、ぼくは「否」だとおもう。これはフェアじゃない。

 以下、そのトリックについて語る(ネタバレあります)。




(ここからネタバレ)


『模倣の殺意』のストーリーをかんたんに説明すると、坂井正夫という売れない作家が不審な死を遂げ、それを中田秋子という編集者と、津久見伸助というルポライターがそれぞれ追う。中田秋子のパートと津久見伸助のパートが交互に語られる。


『模倣の殺意』には、犯人が仕掛けたトリック(さっき挙げたアリバイ工作など)とは別に、〝著者から読者に仕掛けられたトリック〟がふたつある。
 いわゆる叙述トリックというやつだ。

 ひとつは、中田明子と津久見伸助が同時期に別行動をとっているように見えて、じつは中田秋子のパートが、津久見伸助のパートの一年前の出来事であるということだ。

 これは(今となっては)めずらしい叙述トリックではない。というか定番といっていい。ぼくもすぐにそうじゃないかとおもった。
 ミステリで別々の語り手による話が交互に進んでいく場合は、時間や空間が隔たれていることをまず疑ったほうがいい。


 もうひとつのトリックは、中田明子が追っている坂井正夫と、津久見伸助が追う坂井正夫が、同姓同名の別人ということだ。

 これはフェアじゃない。
 前にもやっぱり〝同名の別人〟が出てくるミステリを読んで、同じことをおもった。ずるい。

 いや、同姓同名を登場させるのが全部反則とはいわないが、同姓同名の人間がいることを早めに提示するとか、坂井正夫Bは坂井正夫Aになりすますために同じ名前を名乗ったとか、もう少しフェアな書き方があるだろう。

 だってさ。それってミステリのルール以前に、小説のルールに違反してるじゃない。

「田中は家に帰った。その夜、田中は彼女を殺した」
って書いておいて、「じつははじめの〝田中〟と次の〝田中〟は別人でしたー!」っていうようなもんじゃない。そりゃないよ。
 特にことわりがなければ、同じ名前が指す人物は同じものっていう暗黙のルールがあるじゃない。この、日本語の最低限のルールを破っておいて「トリックでしたー!」ってのはずるすぎる。それはトリックじゃなくてただの反則だ。

 下村敦史『同姓同名』っていう同姓同名を扱ったミステリ小説があるらしいけど(読んだことはない)、同姓同名をミステリに使うならそんなふうに最初にことわらなきゃいけないとおもうよ。


 しかもこの『模倣の殺意』、どっちも坂井正夫が出てくるんだけど、どっちも作家志望で、どっちも七月七日の七時に殺されるんだよ(一年ちがいだけど)。
 強引すぎでしょ。

「だまされたー!」じゃなくて「著者と読者の間にある最低限の信頼関係を踏みにじられたー!」という気持ちしか湧いてこなかった。そりゃないぜ。


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2021年11月26日金曜日

本屋で働いていたころの生活

 十数年前、本屋で働いていたころの生活。


 朝四時半に起きる。
 朝食。まだ胃が起きていなくて気持ち悪くなることもよくあった。

 五時二十分に家を出る。冬だと外は真っ暗。当然めちゃくちゃ寒い。
 車をびゅんびゅん飛ばして六時ぐらいに職場に着く。

 始業が六時半なので、それまでの間職場の椅子で寝る。椅子をふたつ並べて横になる。
 家でギリギリまで寝ていると遅刻するので(そして車を飛ばしすぎて事故ったことがあるので)、早めに着いて職場で寝ていたのだ。
 慢性的に寝不足だったので、仮眠なのにすごく深い眠りに達した。携帯のアラームをかけるのだが、アラームが鳴って「起きなきゃ」とおもうのに身体がまったく動かないことがあった。脳は起きているのに身体が起きられなくて金縛り状態になっていたのだ。

 タイムカードを押し、業務開始。金庫を開けてレジ金の準備をする。冬は寒すぎてうまく指が動かないこともあった。
 売場に行き、レジの電源をつけたり釣銭の用意をしたりしていると早朝番のバイトがやってくる。ほとんど大学生。フリーターのバイトも多かったが、フリーターは早起きができないのだ(偏見)。


 七時から本の荷出し。
 本屋で働いているというと、よく「本屋って朝遅いからのんびりできそうだよね」と言われた。とんでもない。
 店にもよるが、ぼくが働いていた店では六時前にはもうその日発売の雑誌が到着していた(書籍はもうちょっと遅くて七時ぐらい)。本を届けてくれる人が店の鍵を持っていて、勝手に鍵を開けて本を置いていってくれるのだ。
 もっとも、到着時間は店によってずいぶんちがうようだ。ある店の新規オープンを手伝いに行ったことがあるが、その店は九時ぐらいだった。それはそれでたいへんで、到着から開店まで時間がないのでめちゃくちゃあわただしい。オープンと同時に買いに来る人もいるし、そういう人は目当ての本がなければよそに行ってしまったりする。しかも開店してから本を並べることになるわけだが、客がいるとものすごく本を並べづらい。本屋の客は本に集中しているので、近くで店員が本を並べたそうにしていてもどいてくれないのだ。


 毎月一日や二十三日、二十五日あたりは雑誌の発売が多くて忙しかった。一日はわかるとして二十三日や二十五日の発売が多いのは、給料日をあてこんでのことだろう。ぼくは幸いにして「給料日まで買いたいものを我慢する」という生活をしたことがないのでこのへんの感覚はわからないが、世の中には給料日にふりまわされる人が多いことを本屋で働いて実感した。雑誌に限らずすべての賞品で月末は売上が伸びて二十日頃は低迷するのだ。

 入荷した本をすべて並べおわるのが、早くて開店の十時ぐらい。つまり最短でも三時間かかる。
 なんでそんなにかかるのかとおもうかもしれないが、数百冊の本を所定の位置に並べるのはかなり大変なのだ。郊外型の大型店舗だったし。
 特に時間がかかるのが雑誌とコミック。雑誌は付録がついているので、ひとつひとつに輪ゴムで止めなくてはならない。コミックはシュリンク袋(透明袋)をかけないといけない。あの袋ははじめからついているとおもうかもしれないが、あれはひとつひとつ書店でかけているのだよ。そして返品するときには破って捨てる。返品した商品は別の店に行き、そこでまたシュリンク袋をかけられる。うーん、無駄だ。
 あれはなんとかならんもんかねえ。客の質が良ければあんな袋かけなくてもいいのだが。そうはいっても立ち読みで済ませちゃう客はいっぱいいるわけで。ううむ。元も子もないことをいうと、コミックというもの自体が店舗で売るのに向いていないのかもしれない。
「短時間見てしまえばもう用済みになるもの」を売るのは難しい。効率だけを考えるなら、タバコ屋みたいに客が「『ONE PIECE』の15巻ください」と言って店員が奥から取ってくる……みたいにするのがいいのかもしれない。よくないな。


 それから、定期購読や注文品があるので、これは売場に出さずに取り置かなくてはいけない。新刊雑誌は発売日がわかるからいいとして、注文品はいつ入荷するかわからない。
「今注文されているのは何か」を頭に入れておいて、売場に出さないように気を付けなくてはならない。

 本の注文というのはほんとゴミ制度で、いつ入荷するかもわからないし、へたすれば注文後一週間ぐらいしてから「やっぱ無理でした」と言われることもある。
 それを客に伝えると、当然ながら怒られる。「無理なら無理って注文したときに言ってよ!」と。
 しごくもっともだ。ぼくでもそうおもう。
 でも書店の注文制度って、今はどうだか知らないけど、当時はほんとにひどかったのだ。そりゃAmazonに客とられるわ。


 あと本を並べるだけならいいのだが、売場の面積は有限なので、新たに何かを並べるならその分何かを減らさないといけない。「売れる量=新たに入ってくる量」であれば返品がゼロになるので理想だが、現実はそううまくはいかず新たに入ってくる量が圧倒的に多い。

 雑誌は鮮度が短いので、「発売から二十日経ったものを返品する」とかでなんとかなるのだが(しかし雑誌の発売日はばらばらではなく同じ日に集中しているのでそう単純な話でもないのだが)、問題はコミックや書籍、文庫だ。
 鮮度が長いので「どれを残してどれを返品するか」を判断しなくてはならない。これは店の売れ筋傾向や担当者の好みによって変わるのでなかなかむずかしい。本を読まないバイトに任せると「出版日の新しさだけで残すかどうか決める」とかになってしまうので任せられない。

 まだコミックや文庫は最終的には担当者が「おもしろそう」とおもうかどうかで決められるのだが、どうしようもないのが実用書だ。
「はじめての料理」みたいな本が各出版社から出ているのだが、どれも同じに見える。じっさい内容は大差ないにちがいない。
 これを、どっちを残してどっちを返品するかなんて決められない。最後は「出版社の担当がいい人か嫌なやつか」で決める。
 だいたい料理とか手芸とか家庭菜園なんて次々に新しい本出さなくていいんだよ。十年前とやることはほとんど変わらないんだから! ……と書店員はおもうのだが、出版社には出版社の事情があるのだろう。


 本の荷出しは力仕事だ。
 ファッション誌なんかめちゃくちゃ重い。それを何十冊と運ぶのだ。
 ぼくがいちばん嫌いだった雑誌は『ゼクシィ』だ。めちゃくちゃ重い上に、毎号かさばる付録がつく。その割に値段が三百円しかなかった(広告だらけなので安いのだ)ので、利益にならない。
 大嫌いだったので、自分が結婚するときも『ゼクシィ』は買わなかった。

 荷出しをしていると汗をかく。夏なんかクーラーをつけていても汗びっしょりだ。冬でもあたたかくなる。とにかくハードな仕事だ。


 本を並べおわると銀行に行く。
 ぼくが働いていたのはまあまあの大型店舗だったので、一日の売上が百万円ぐらい(本だけでなくDVDレンタルやCD販売もやっていた)。その売上を午前中のうちに入金しないといけないのだ。

 ATMではなく窓口で入金していた。なのでけっこう待たされた。
 ただ、待たされている間は本を読めるので好きな時間だった。

 日によっては銀行の後、配達に行く。喫茶店や美容室で定期購読をしている店に雑誌を届けにいくのだ。
 ぼくはこれが大嫌いだった。
 まあ配達については以前にも書いたけど割愛。

【読書感想文】書店時代のイヤな思い出 / 大崎 梢『配達あかずきん』


 十二時ぐらいに店に戻る。十二時~十四時ぐらいはバイトが交代で休憩をとるので、その間ぼくはレジに立たなくてはならない。

 平日の昼間は暇なので、レジ内で返品作業や発注作業をする。
 返品もまた力仕事だ。本がぎっしり詰まった段ボールを運ばなくてはならない。

 十四時頃、バイトの休憩が終わってやっと休憩をとれる。
 六時半から働いて十四時まで休憩なし。すごく疲れている。

 が、休憩は三十分しかない。今おもうと完全に労基法違反なのだが、当時はそういうものとおもっていた。
 十五分ぐらいであわただしく飯を食い、寝る。十分ぐらいなのに熟睡する。
 休憩の途中でもバイトから内線で呼びだされることがあり(クレーム対応とか)、心底いらついた。この時間に訪問してくる出版社の営業は嫌いになった。

 そうそう、出版社の営業がやってくるのだ。アポなしで。

 で、「こんな本出るんで入荷してください」と言ってくる。
 最初のほうは言われるがままに注文していたら(本は返品可能なので売れなくても懐が痛むわけではない)、営業が調子に乗って勝手に送ってきたりするようになったので、厳しく接するようになった。

 で、営業が来る頻度がどんどん減っていき、仕事が楽になった。営業が来なくてもいっこうに困らないのだ。本はどんどん出版されてどんどん取次から送られてくるので。

 出版社の営業ってのはほんとに質が悪くて、たとえば「売場の整理していいですか」とか言ってきて、「ありがとうございます」なんて言ってると、自分の出版社の本をどんどん前に持ってきて、他の出版社の本を奥に押しやったりする。ひどいやつになると、勝手に返品用の場所に他の出版社の本を押しこんだりする。ほとんど犯罪だ。
 もちろん人によるけど、ひどい営業が多かったので、どの営業に対しても冷たくあたるようになった。
 今でも覚えてるぞ。特にひどかったのはSと生活社のジジイだ。なれなれしくため口で話してくるからこっちもため口で返してやったら、あからさまにムッとしていた。へへん。


 十四時半に休憩が終わって、発注業務をしていたら十五時。退勤時刻だ。六時半+八時間+休憩三十分。

 あたりまえだが、定時に帰ることなどできない。なにしろ交代の社員がやってくるのが十七時なのだ。社員不在になってしまう。
 二交代制なのだが、早番(六時半~十五時)と遅番(十七時~二十五時半)というシフトはどう考えてもおかしい。二交代制といいつつ空白の時間があるのだから。

 しかも、早番は最低二時間は残業しないといけないのに、遅番が二時間早く出勤するということは絶対にない。ちくしょう、遅番め!
 ……と当時は遅番社員を憎らしくおもっていたのだが、悪いのは遅番ではなくこの制度をつくった会社である。恨むのなら会社を恨まなくてはならない。でも現場にいると、身近な人間に怒りの矛先を向けてしまうんだよね。


 夕方ぐらいになると店が忙しくなってくるのでレジに立ったり売場に出たり。
 書店だけならそこまで売場は忙しくならないんだけど、レンタルDVDやCDも扱ってたからね。学生や仕事終わりの人が来て忙しくなる。

 十八時過ぎにミーティングをして、本格的に遅番の社員と交代。ここでやっと「レジが忙しいので来てください」と呼ばれることがなくなる。
 溜まっていた発注作業やメールの返信をする。話好きの店長(遅番)につかまってどうでもいい話につきあわされることも。

 早ければ十八時半ぐらいに退勤。遅ければ二十時半ぐらい。

 出勤時は道がすいているので家から店まで四十分だが、帰宅時は混んでいるので一時間かかる。

 勤務時間+通勤時間で十四時間から十六時間ぐらい。ぼくは最低でも七時間ぐらいは寝ないと頭が働かない人間なので、余暇時間などゼロだった。寝る時間ほしさに夕食を食べないこともよくあった。
 もちろん本を読む時間なんかぜんぜんなかった。本屋なのに。


 年間休日は八十日ぐらい。給料は薄給(時給換算したら最低賃金の半分ぐらいだった)。

 よう続けていたわ、とおもう。

 転職を二回おこない、総労働時間は当時の半分近くになった。そして給料は当時の倍以上。ってことは労働生産性が四倍になっていることになる。

 あの頃必死にがんばってたけど、今おもうと「あの努力はほとんど無駄だったな」とおもう。もっと早く転職していればよかった。
 環境が悪ければ努力をしても先がない。環境を変えるほうがいい。


 社会全体の労働生産性を上げるには、ブラック企業を廃絶することですよ。

 労働基準監督署に予算をまわしてちゃんと仕事をさせること。それがすべてじゃないですかね。