2019年10月31日木曜日

【読書感想文】正しい人間でいたいけどずるもしたい / ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』

ずる

噓とごまかしの行動経済学

ダン・アリエリー(著)  櫻井祐子(訳)

内容(e-honより)
クリエイティブな人、偽ブランドを身につけている人、共同で仕事をする人は、「ずる」しやすい?不正による報酬が高額になると、ずるはむしろ減る?キャッシュレスになると不正が増える?行動経済学の第一人者であるアリエリー教授が、楽しい実験を通して「ずるをするのは悪人だけではない」ことを明らかに!私たちがちょっとした嘘やごまかしを正当化してしまうからくり、ずるを未然に防ぐ効果的な方法を考える。

世の中の人はみんなずるをする。ぼくもあなたも。
人間はずるをする生き物だ。そういうふうにできているのだからしかたがない。
「いついかなるときもずるをしてはいけません」と道理を説いても意味がない。それは「永遠に寝てはいけません」と同じで、どだい無理な話なのだから。

だったら、ずるを防ぐためには「人がどういうときにずるをしやすいのか」「逆にずるをしにくくなるのはどんなときか」を検証し、ずるをしたくなくなる仕組みをつくる必要がある。

たいていの人は、ずるを防ぐためには「罰を重くすればいい」と考える。
ずるによって得られる便益よりも、発覚する可能性、発覚したときの損失が大きくなればずるをしなくなるだろうと。

けれど話はそう単純ではない。
ぼくらは利害の大きさを計算した上でずるをしているわけではないのだ。
 この考えを検証するために、わたしたちはまず鉛筆のジョークの大学版を試すことにした。ある日わたしはMITの寮にこっそり忍びこんで、そこいらじゅうの共用冷蔵庫に魅力的なエサをしこんだ。冷蔵庫の半数には六本パックの缶コーラを入れ、残りの半数には一ドル札を六枚のせた紙皿を忍ばせて立ち去った。それから何度か冷蔵庫に舞い戻っては、缶コーラと札の減り具合をチェックした。缶コーラと札のいわゆる「半減期」を調べたわけだ。
 学生寮というものに行ったことがある人ならわかると思うが、缶コーラは七二時間以内に跡形もなく消滅した。だがとくに興味深いことに、札は手つかずのまま残っていた。学生は一ドル札を一枚とって、近くの自動販売機まで行き、缶コーラを手に入れ、お釣りまでものにすることもできたのに、だれ一人そうしなかったのだ。
缶コーラと現金なら、現金のほうがいい(死にそうなぐらいのどが渇いている場合をのぞく)。
コーラは飲むしかできないが、現金ならなんにでも使える。コーラだって買える。
おまけにコーラを盗むほうが現金を盗むよりもばれやすい。コーラは現金とちがってポケットに隠せない。「たまたま同じメーカーのコーラを持っている確率」は「たまたま同じ造幣局でつくられた現金を持っている確率」よりも低いから、言い逃れもしにくい。

盗むことによって得られる利益、盗んだことがばれる確率、どちらをとっても現金を盗むほうがいい。
だけど現金よりもコーラを盗むほうが抵抗が小さい。

それは、我々がずるをするかどうかを損益ではなく「盗んでも自分の心が痛まないか」に従って決めているからだ。

上に引用した文の最初に出てくる「鉛筆のジョーク」というのは、
友だちの鉛筆を盗んだ息子に対して父親が「どうして他人の鉛筆を盗むんだ! 鉛筆がほしければお父さんに言えば、いくらでも会社から持ってきてあげるのに!」と叱る、
というものだ。
これはジョークだが、この父親の感覚はきわめて一般的なものだ。
多くの人は、友人が財布を置きっぱなしにしていたからといってそこから千円を抜きとったりはしないが、会社の経費申請を少しごまかして千円多く請求することにはあまり良心が痛まない。
それは、後者は「会社は儲かっているから」「サービス残業をしていることもあるからこれでチャラだ」「みんな多かれ少なかれやっていることだから」と言い訳がしやすいからだ。

ぼくらはずるをしたい。
だけど「自分は正しい人間だ」と思いたい。
この、本来なら決して両立するはずのない二つの願いを叶えるため、「ずるをしてもいい言い訳を用意する」わけだ。

だから、ずるを防ぐには言い訳をしづらい状況を作ってやればいい。



この本には、様々な検証実験によって得られた「ずるをしたくなる条件」が紹介されている。

様々な決断を強いられた後、欲求をはねつけた後など、疲れているときは不正に走りやすいとか。
他人の不正を目撃したときは自分も不正に走りやすいとか(特に同じコミュニティの人間の不正だと効果が大きい)。
小さな不正をした後は大きな不正をするのに抵抗を感じにくくなるとか。

政治家が不正をはたらいても「お金返すからいいでしょ」「かぎりなく黒に近いグレーだけど証拠がないからセーフでしょ」「はいはい、発言を撤回すればいいんでしょ」とやっているが、あれは知らず知らずのうちに国民に大きな影響を与えてるんじゃないかとぼくは心配している。
ああやって居直る政治家が増えるにともなって、一般市民の間にも不正が増えるんじゃないかなあ。
なかなか統計的に調べられないことだけど。



とりわけおもしろかったのは、
人は、自分が利益を得るときよりも他人が利益を得るときのほうが不正をしやすい
という実験結果だった。

私利私欲のために不正をはたらくのは良心のブレーキがかかりやすいが、「チームのため」「会社のため」「政党のため」とおもうと、言い訳がしやすくなる分不正に走りやすくなるのだそうだ。

これを知って、いろんなことが腑に落ちた。


以前、歩道橋の上で道いっぱいに広がって「盲導犬のために寄付をおねがいしまーす!」と呼びかけている人たちがいた。
すごく邪魔だったんだけど、本人たちは「私たちは今他人のためにいいことをしている!」という幸福感に酔っているから、ぜんぜん悪びれてないのね。
選挙カーがやかましい音を垂れ流すのも同じ理由なんだろうね。
「地域のため、国のために自分がやらねば!」という崇高な理念がある(と本人はおもっている)から、騒音をまきちらして人に迷惑をかけても平気でいられるんだろう。
まともな感覚を持っている人だったら、あれだけ多数の人から「うるせえ消えろ」って思われたら死にたくなるもんね。

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2019年10月30日水曜日

ギネスで村おこし


「どうするよ?」

 「困るよなあ。こんなに余るなんて」

「予算が足りんっちゅうことは今までにもあったけど、こんなに余るのははじめてよなあ。どこで計算をまちがえたんやろか」

 「どうする?」

「無理やりにでも使うしかないわなあ。来年から予算減らされたらかなわんし」

 「一回集めた税金を返すってわけにもいかんしなあ」

「何に使うよ」

 「建物つくれるほどの額じゃないもんなあ。かといってかんたんに遣いきれるほどの額でもないが」

「やっぱり村おこしやで」

 「村おこしかあ」

「みんなが納得するのは村おこしよ、結局」

 「まあな。村おこしって大義名分があれば誰も反対せんもんな」

「おまけに成果を求められんじゃろ、村おこしは。その結果どれだけ人が来たかなんか誰も気にせんもん」

 「やってみることに意義があるんやもんな、村おこしは」

「そうよそうよ、みんな薄々わかっとるんよ、やっても無駄やって。けど隣の村がやっとるのにうちだけやらんわけにはいかんっちゅうてやっとるだけよ」

 「じゃあ村おこしやな」

「問題はどうやって村おこしするかよなあ。どうやったらみんなが納得するような村おこしになるかやで」

 「あれなんかどうじゃろ、ギネス」

「ギネス?」

 「ほら、ようテレビでやっとるじゃろ。ギネスに挑戦っちゅうて。大勢でなわとび跳んだりしとるやつ」

「おお、おお、やっとるな」

 「あれなんかええんじゃないか。テレビも来るし。テレビに映ったら、みんな満足じゃろ」

「ちがいない。テレビに映ったら村おこしは成功じゃ。完全に村がおこっとるわ」

 「よっしゃ、決まりやな。ギネスやギネスや」

「しかし何でギネスに挑戦するんや。世界一になれる特技の持ち主なんか村におらんじゃろ」

 「特技なんかいらんなよ。あんなもん」

「そんなことないやろう。世界一やぞ」

 「ギネスに載るのは二種類あるんや。ひとつは、世界一速く走るとか、世界一重いものを持てるとかのすごいやつ。これは才能や努力や運が必要なやつやな。
  で、もうひとつは金と人手さえかければどんなあほでもできるやつ。もっとも多くの洗濯ばさみを身体につけるとか、世界一たくさんの人間が同時にでんぐり返りをするとか

「おお、そういやそんなんもやっとるな。テレビで観たことあるわ」

 「言ってみれば、最初のやつは“誰もまねできんやつ”やな。で、もうひとつは“誰でもできるけどあほらしいから誰もやらんやつ”や

「なるほどなるほど。わしらがめざすんは後のほうやな」

 「もちろんそうよ」

「なにがええかのう。洗濯ばさみをつけるのは痛そうやなあ」

 「かんたんなんは、やっぱり巨大な食べ物系やろな」

「巨大な食べ物?」

 「そうそう、世界一でかいピザとか、世界一長い海苔巻きとかをつくるやつ。あれなんか金さえかけりゃかんたんやろ」

「なるほどな。金は余っとるし、ちょうどええのう」

 「しかもギネス申請が終わったらみんなで食べりゃあええしな。村おこしは成功するわ、腹はいっぱいになるわ、みんな満足じゃ」

「おまえは天才か」

 「問題は何の食べ物を作るかやな。ピザとか海苔巻きとかは他にもやっとるやつがおるやろうから、競争が激しくないもんがええなあ。今流行っとるいうし、世界一多いタピオカミルクティーでも作るか」

「おいおい大事なことを忘れとるぞ」

 「なんや」

「一応村おこしやねんからな。村に関係あるもんやないとあかんやろ。この村にタピオカミルクティー飲ませる店なんか一軒もないやろがい」

 「おおそうか」

「それにタピオカブームはもう終わりらしいぞ」

 「村に関係あるもんか。村の特産いうたら……」

「まあ、おろうふやろうな」

 「おろうふかあ……。おろうふなあ……」

「しょうがなかろう。村の特産といえるもんが他にないんやから」

 「しかしおろうふなんか今どき誰も食べんぞ。おまえ、最後におろうふ食べたんいつや」

「うーん……。たしかコウジの結婚式の引き出物でもらったような気がするなあ」

 「コウジの結婚式ってもう二十五年くらい前やぞ。あそこの上の子が去年東京の大学卒業したゆうとったで」

「そんな前になるか。おろうふ、食べとらんなあ」

 「あれはうまいもんじゃないからなあ」

「ただしょっぱいだけやもんな」

 「しかもご飯がすすむしょっぱさじゃないよな」

「そうそう。食欲がなくなるタイプのしょっぱさ。海の水を飲んだような」

 「しかもあれ、栄養もまったくないらしいぞ」

「戦争で食糧がない時代にしょうがなく食べとっただけやからな。あんなもの今誰も食べんぞ」

 「そらそうよ、みんな食べるようなもんなら村の特産やなくて全国的に広まっとるわ」

「そうかあ。まずいから特産なのか」

 「そうそう。日本中どこいってもそうよ。特産品はまずい」

「まてよ。ほんなら、まずくて栄養がないことを逆手にとったらどうや」

 「どういうことや」

「ダイエットにええんやないか。栄養価が低い。まずいからあんまり食べられん。おまけに食欲もなくなる。ダイエットにぴったりやないか」

 「あかんあかん」

「なんでや」

 「おろうふ、カロリーだけはそこそこ高いんや」

「えっ、そうなんか」

 「そうそう。カロリーと塩分だけは高いんや。だから身体にも悪い」

「つくづくどうしようもない食べ物やな……」

 「だからこそ食糧のない時代でも残っとったんや。まずいけど腹だけは膨れるいうて」

「まあでも、逆に言うたら不人気やからこそインパクトもあるんちゃうか。ほれ、寿司を百皿食うたって話題にはならんやろ。寿司はうまいから、胃袋のでかいやつやったらそれぐらいはいけるやろなあとおもうだけやもん。けどおろうふをたくさん食べるやつはおらんからな。出されても残すぐらいやもん」

 「ああ。こないだおろうふ生産者連盟の集まりがあったけど、誰もおろうふに手をつけんかったらしいぞ。つくっとる人間ですら食わんのよ」

「だからこそ、や。ピンチはチャンスやで。そんなおろうふを大量に食うなんてやった村は他にないやろ。ギネス記録は約束されたようなもんや」

 「しかしなあ」

「まだなんかあるか」

 「おろうふは見た目が悪いやろ。悪く言えば吐瀉物みたい、良く言えばなおりかけの傷口みたいな見た目しとるやろ。そんなおろうふを集めてもテレビが紹介してくれんのとちゃうかな……」

「つくづくどうしようもない食べ物やな……」



2019年10月29日火曜日

【読書感想文】悪口を存分に味わえる本 / 島 泰三『はだかの起原』

はだかの起原

島 泰三

内容(e-honより)
「裸は適応的な進化だったはずがない」。では、ヒト科のただ一種だけの例外的な形質、生存の保温保水に圧倒的に不利な裸化は、なぜ、いつ起こったのか。同じく例外的に裸化した小型哺乳動物はそれぞれが独特の生態を身につけた。では、人類が獲得した生きのびるための術とは?自然淘汰説を超え、遺伝学・生物学などを参照しつつ現代人類の起原を探る。

はだかの起源といっても、「男は何歳から女の裸に興味を持つのか」とか「服を脱ぐと気持ちいいのはなぜなのか」みたいな話ではなく、「なぜ人類は体毛に覆われていないのか」というお話。

ううむ。
考えたことなかったけど、言われてみるとふしぎだなあ。
ぜったいに体毛はあったほうがいいよね。毛に覆われているほうが寒さや乾燥にも強いし、直射日光から肌を守ってくれるし、けがもしにくい。



体毛に覆われていない哺乳類は、ヒトだけではない。
きわめて少ないが、いるにはいる。
クジラ、セイウチやゾウアザラシなどの海獣、ゾウやサイやカバ、イノシシ科バビルーサ、ハダカオヒキコウモリ、ハダカデバネズミ。そしてヒト。

『はだかの起源』では、それぞれの動物がはだかである理由を説明する。

クジラのように一生を水中で過ごす生物には毛は必要ない。
体毛には防水、保湿、保温などの効果があるが、水中なので当然防水も保湿も関係ない。また保温につながるのは毛と皮膚の間に空気が入るからなので、水中であれば保温効果もない。
(ただしラッコのように陸にも上がる動物は毛があったほうがいい。毛の中に空気を蓄えることで保温できるから)
ゾウやセイウチのように体重一トンを超える動物は、体重の割に体表面積が小さくなるので、熱を放散させるために毛がないほうがいい。
ハダカデバデズミは土の中に巣をつくり、巣の入り口を塞ぐことで湿度を保ち、仲間同士でくっついて熱を保つことができるので毛が無くても大丈夫。

……というように、それぞれの動物ごとに毛のない理由をひもといてゆく。
つきつめると、保湿、保温の機能を捨てるだけの特質を持った哺乳類だけが、はだかでも生き延びることができるのだ。

ところがヒトの身体には保温、保湿の機能が備わっていない。
なぜヒトははだかになったのか?

人類水生生活説などいくつかの理由が提唱されているが、著者はひとつひとつ根拠を挙げて反証してゆく。



で、著者の出した結論がおもしろい。

それは「はだかのほうがいい理由なんてない。ヒトのはだかは単なる欠陥である」というものだ。

たまたまヒトは火や衣服や住居をつくることができたから、欠陥品だけど生きのびることができただけ、というものだ。

これは、あたりまえのようでなかなかできない発想だ。
ついついぼくらはヒトこそがいちばん高等な動物であるとおもってしまう。いちばん優秀な動物だから完全無欠の存在だ、と。

でもそうでもない。ヒトは欠陥だらけだ。
弱いし、一度にたくさんの子を産めないし、脳が発達しているせいで余計なことまで考えてしまうし。

はだかであることに理由なんてない。
衝撃的な結論だ。これが正しいかどうかはわからないけど。



……と、「ヒトはなぜはだかなのか?」という謎解き部分もおもしろかったのだが、この本の真骨頂はそこではない。

なんといってもすごいのが、著者の口の悪さだ。
もう、悪口のオンパレードなのだ。
ダーウィンを筆頭に、他の研究者をけちょんけちょんに書いている。
議論が甘いからといって、人間性から知性まで徹底的にけなす。

たとえばこんなふうに。
(太字・下線はぼくによる)
 このダーウィンの文章は、頭の中で文章を構成する人の典型的な文章で、書いているうちに、人間の顔が想像の中で浮かび、これが四足になったと考えると顔が下向きに想像され、そこは日陰だと思うのである。
 しかし、現実には地面を向いている獣たちの顔というのはない。顔は顎の下から喉まではともかくとして、頭とひとつながりの方向、つまり、正面から上を向く。だから、「太陽の熱」というなら、頭と顔は同じ熱の受け方をする。「顔は熱を受けない」と考えて、だから「男性の顔の毛」はこの仮説に「都合がよい」と思うダーウィンは、この一つの文章を作っているときに、ライオンなりなんなりの写真を確かめることをしないタイプの思索家なのである
 悪口になってしまうが、あえて言ってしまえば、こういう「思索家」は結局グウタラなのだ。サルの研究をするのに餌場ですませたいタイプ、動物の研究を本ですませたいタイプの研究者は、立ち上がって図鑑を取り出して見るという手間さえ惜しむ。文章を作る上では、そういう資料を参照する中断がないほうが、てっとり早いからである。
 しかし、このモリスの変な文章は、問題がどこにあるのかを本当は自分でも分かっていないためだ必要な事実を網羅しない、事実を確認していない、事実を取りあげる原則が決まっていない、事実の括り方が思いつきである、という四拍子揃った無原則さである。これでは、毛のない哺乳類の全体観はつかめない。
 この手の人は、論理的な矛盾は問題にしない。この手法では、論理的な整合性よりも、そこをぼんやりさせていることこそ望ましい。読み手の心の中に印象を作るのであって、説得するのではない。これが無意識下への刷り込み作業である。これが、サブリミナル手法である。この手の文章を書かせると、ライアル・ワトソンはダーウィンやグールドと同じようにうまい。どうも、うまい文章を作る欧米人は、同じ手法を使うと見える
 私は、こういうバカ話が学術的装いを凝らして流布するという、人間世界に愛想をつかしている。しかし、誰もが私のような経験をしているわけではないから、再び深呼吸を一○回繰り返して、心を平静にして雑賀さんに答えることにした。なにしろ、こういう細部だけを誇大に取り上げた空想的な話に、人間は実にたやすくだまされるからである。順を追って説明すれば、あるいはこの人間特有の妄想癖を崩すことができるかもしれないと、もう一度、深呼吸した。

はじめは「四方八方に喧嘩売りすぎだろ……。なんてめんどくさそうな人なんだ……」とあきれていたのだが、そのうち悪口がおもしろくなってきた。

一応フォローしておくと、著者は全方位的に喧嘩を売っているわけではない。評価するところは評価している。

とはいえ、さすがに度が過ぎる。
論旨が甘いからといって「グウタラ」だの「問題がどこにあるのかを本当は自分でも分かっていない」だの。挙句には「人間世界に愛想をつかしている」ときた。悪魔に身を売ったのかよ。

あまりに悪口の表現が多彩すぎて、議論を展開するときよりも悪口書くときのほうがエネルギー使ってるんじゃねえのとおもえるぐらい。
もしかしたらダーウィンの悪口を書きたくてこの本を書いたのでは?

いやあ、いろんな意味で楽しませてもらった。
おもしろい本ですよ。
著者とお近づきにはなりたくないけど。

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2019年10月28日月曜日

【読書感想文】おもしろさが物悲しい / 又吉 直樹『火花』

火花

又吉 直樹

内容(e-honより)
売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、共に過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩むことになる。笑いとは何か、人間とは何かを描ききったデビュー小説。第153回芥川賞受賞作。
へそまがりな人間なので、話題作、タレント本というとついつい避けてしまう。
「ふだん本なんて読まないくせに話題になっている本だけ読む」人間だとおもわれるのがイヤなのだ。といっても誰もぼくが何を読んでいるかなんて気にしないわけだから、完全に自意識過剰だ。それはわかっている。わかっていてもどうにもならないから自意識過剰なのだ。

というわけで『火花』も「おもしろい」という評判や、描かれている題材などからすごく興味を持っていたにもかかわらず、テレビによく出ている人が書いた+芥川賞受賞作という超話題作だったためにずっと遠ざけてきた。
しかし、そもそも何のためにやっているのか自分でもよくわからない意地を張っていても何の得もない。
ということで、読みたい本は話題作だろうとタレント本だろうと読むことにしようと決意して『火花』を手に取った。大仰な決意をしないと好きな本も読めないのだから、我ながらめんどくさい性格だ。



『火花』の主要登場人物である徳永と神谷も、負けず劣らずめんどくさい性格の人間たちだ。
芸人である以上、売れたいとおもっている。評価されたい、テレビに出たいとおもっている。
けれど自分がおもしろいと信じていることだけをやりたいともおもっている。
もちろん、自分がおもしろいとおもうことだけをやって、周囲からも認められるのがいちばん幸福だが、そうはいかないのが笑いの世界だ。
どこかで折り合いをつけなければならない、けれど妥協したくない、だけど評価もされたい。

表現の世界に身を置く人間であれば誰でも抱えている普遍的な悩みなのだろう。
しかし普遍的な悩みだからといって当事者にとっては悩みが軽くなるわけではない。
ずっとひりひりした痛みを抱えながら先の見えない闘いを続けるしかない。

これがスポーツならまだわかりやすい。勝ち数が多いとか防御率が低いとか、歴然とした指標があるから。
多少は監督のえこひいきも入るだろうけど、チーム一の成績を出している選手を起用しないことはよほどのことがないかぎり難しいだろう。

しかし「おもしろさ」は数値化できないし時代や場所によっても変わるものだから、芸人はずっと「おもしろい」を模索しつづけなければならない。
しかもおもしろければいいというものでもない。笑いをたくさんとった者が売れるとはかぎらない。

「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実践する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝を途中でポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。枝を落として、幹だけに栄養が行くようにしてるつもりなんやろうけど。そういう側面もあるんかもしらんけど、遠くからは見えへんし実も生らへん。だから、これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」
「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」
「確かにそうやと思います」僕は率直に同意した。
「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん? 共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」と一語一語噛みしめるように言った。
これは『火花』の中で、傍若無人にふるまっているように見える芸人たちが交わす会話だ。
ここまで明快に言語化されているかどうかはわからないが、きっとほとんどの芸人たちはこれに近いことを考えながら生きているのだろう。そして考えれば考えるほど答えがわからなくなる。


ぼくの家の近くには公園があり、そこでよく漫才師の卵が稽古をしている。近くに芸人の養成所かなにかがあるのだろう。彼らは並んで一方向を見ながら派手な身振り手振りで話しているので(でも声は小さい。公園なので)、すぐに漫才の稽古だとわかる。
もちろん公園で練習するぐらいだからプロ未満の芸人なのだろう。だが彼らの顔は真剣そのものだ。稽古をした後は、小声でぼそぼそと話している。あそこがちがう、ここはこうしたほうがいい、などと話しあっているのだろう。
サラリーマンの商談のほうがよっぽど笑顔にあふれてるよ、というぐらい真剣なおももちで話しあっている。

まじめさとふまじめさ、常識と非常識、賢さと愚かさ、新しさと古さ、優しさと冷酷さ。いろんな「相反する要素」を持たないと生きていけない世界。
外から見た華やかさとは真逆の苦しい世界なんだろうなあ。



こういう小説は芸人界の内情を垣間見れておもしろい(フィクションなんだけど作者も芸人だとついつい実在の芸人と重ね合わせてしまう)。
でもこうやって芸人の悲哀を見せてしまうのは、今後の芸にとってはマイナスの影響のほうがずっと大きいんじゃないだろうか。「ぼくらめちゃくちゃ苦労してて命を削りながらネタつくってるんです」って言われると、もう笑えなくなっちゃう気がする。
特に漫才は、ネタのキャラクターと実際の芸人の姿が地続きになっているから。

そういや、高山トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』、ユウキロック 『芸人迷子』など芸人の私小説を読んだけど、どちらもコンビ解散してから書いてるんだよね。又吉直樹さんのピースも、『火花』が芥川賞を受賞してからほどなくして活動休止してるし。
やっぱり内情を暴露してしまうと、もう漫才は続けられないのかもしれないな……。


芸人が書いているだけあって随所にユーモアがちりばめられているんだけど、そのクオリティも十分に高いんだけど、だけどぼくは笑えなかった。
笑いよりも悲哀のほうが先にきてしまったのだ。
笑わせることは物悲しい。

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2019年10月26日土曜日

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吉岡斉 他『原発 決めるのは誰か』
ジョージ・フリードマン『100年予測』
ジョージ・フリードマン『続・100年予測』
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アンドリュー・パーカー『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』
エド・レジス『不死テクノロジー』
リチャード・フォーティ『生命40億年全史』
マイケル・ドブズ『零時1分前 キューバ危機13日間のカウントダウン』
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郡司芽久『キリン解剖記』
越智啓太『美人の正体』
越智啓太『つくられる偽りの記憶』※写真撮るの忘れた
前川ヤスタカ『勉強できる子 卑屈化社会』
ルートポート『会計が動かす世界の歴史』
今和泉隆行『「地図感覚」から読み解く 新しい地図の読み方』
幸田文『おとうと』
乾くるみ『スリープ』
乾くるみ『セブン』
清水 潔『桶川ストーカー殺人事件』
共同通信社会部『30代記者たちが出会った戦争』
堤未果『㈱貧困大国アメリカ』
堤未果『日本が売られる』
堤未果『政府は必ず嘘をつく』
堤未果『沈みゆく大国アメリカ』
堤未果『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』
麻耶雄嵩『あぶない叔父さん』
斎藤貴男『ちゃんとわかる消費税』
井上夢人『おかしな二人 岡島二人盛衰記』
冲方丁『天地明察(上・下)』※上下セットで1冊扱いとします
田丸雅智『ショートショート千夜一夜』
沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』
オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』

★ 多少の汚損はご勘弁。読めないほどの汚れや書きこみはありません。
 もし複数の人が同じ本を指定した場合は早い者勝ちとさせていただきます。

★ 選んだのと同じ冊数の本を私に送ってください。
 送り先はTwitterのメッセージでお伝えします。

★ 送ってくれる本について
 基本的におまかせしますが、あなたが読んでそこそこおもしろかったものでお願いします。
 ノンフィクション、小説、エッセイ、対談、漫画に限らせていただきます。
 実用書、ビジネス書、自己啓発本、ライトノベル、写真集、画集はお断り(個人的に好きじゃないので)。
 汚損の激しい本、成人指定図書、雑誌、辞書、教科書、参考書、市販されていない本(付録・カタログなど)もご勘弁。
 上下巻の上巻だけ、とかもナシで。 

★ 交換は3冊以上でお願いします。
 細かく何度も送るのは面倒なので。お金もかかるし。

★ 送料は送る側負担でお願いします(こちらから送る分はこちらで負担します)。

★ 送付先は日本国内に限らせていただきます。

★ 連絡元が明らかに捨てアカウントである場合などには交換を断らせていただく場合もございます。あしからず。

どうぞよろしく。

2019年10月25日金曜日

神経質とおおらかの組み合わせ


娘(六歳)の友だちに、Nちゃんという女の子がいる。
公園でいっしょに遊んでいると、このNちゃんと娘がよく喧嘩をする。
喧嘩というか、娘がNちゃんに対して一方的に怒っている。

Nちゃんの性格は、良く言えばおおらか、悪く言えばがさつ。
対する娘は神経質。

よくあるのは、こんなケースだ。
娘がボール遊びをしている。公園の隅に自転車を停めている。
するとNちゃんが娘の自転車に勝手に乗る。
それを見た娘、「勝手に乗らんといて!」と激怒。
Nちゃんは怒られても平気な顔で「だって使ってなかってんもん」とへらへらしている。

傍から見ていると、正直どっちの言い分もわからんでもない。
まあ他人のものを勝手に使うのはよくないな、とおもう。
ぼくだってイヤだ。使ってなかったとかそういう問題ではない。「貸して」と言ってくれれば貸したのに、無許可で使われると腹が立つ。

でも、だからってそこまで大声を張りあげて怒るようなことでもないだろう、ともおもう。
Nちゃんにはまったく悪気がないのだし、実害もないのだから。


よく「自分がやられてイヤなことは他人にしてはいけないよ」と子どもに対して教える。
しかしこの場合、その教えは通用しない。
なぜならNちゃんにとっては「自分が使っていない間に友だちが自分の自転車を使う」のはイヤなことじゃないのだ。

じっさい、Nちゃんが友だちに対して怒っているところはほとんど見たことがない。叩かれたとか、悪意あることをされたときだけだ。
ただ、怒られているところはよく見る。


意地悪をしたり意地をはりあったりしているわけではなく、ただ価値観がちがうだけなのだ。
そしてこういう関係の場合、常にといっていいほど「几帳面/神経質」なタイプが「おおらか/がさつ」に怒りを向けることになる。

ぼくの両親の関係が、まさにそうだ。
常に母が父に小言をいう。「〇〇してよ」「〇〇しないでって言ったじゃない」
父は、うんと返事をする。言い返さない。けれど改めることもない。また同じことをして同じように注意される。

それでも長年夫婦としてやっているわけだから、なんだかんだで相性のいい組み合わせなんだろう。
几帳面同士だとぶつかるし、おおらか同士だとやるべきことがなされないだろうから。
ぼくとしても、母がしっかりしてくれていたおかげで助かったことはよくあるし、父の無神経さに救われたことも(すごく少ないけど)ある。
「叱る側」「叱られる側」に役割分担されていたほうがうまくまわることも多いのだろう。


だから、娘には
「Nちゃんに対して腹の立つことも多いだろうけど、こっちが怒ってもへらへら笑って聞き流してくれる相手ってのはすごくありがたい存在だよ。もしかすると一生の親友になるかもしれないから大事にしな」
と伝えたいんだけど、これを六歳児にわかるように伝えるのは無理かなあ……。


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2019年10月24日木曜日

ちくちくの肌着


赤ちゃんの肌着って、縫い目が外側にくるように着せるんですよ。
縫い目とかタグとかがちくちくして赤ちゃんのデリケートなお肌を傷つけちゃうから。

それ聞いたとき、はーん、なるほどーとおもったんだけど、同時に「だったら大人の肌着もそうしたらいいのに」とおもったんですよ。

そりゃあぼくの肌は赤ちゃんみたいにデリケートじゃないですけど、そうはいってもちくちくするよりちくちくしないやつのほうがいいでしょ、誰だって。
外から見えない肌着であれば、見た目よりも肌触り重視でいいじゃない。

サイいるでしょ、サイ。
あのツノでかふとっちょ。
サイの肌ってがっさがさじゃないですか。触ったことないですけど、見るからに。
あれだってね、たぶん内側はぬるぬるしてるとおもうんですよ。血とか粘膜とかで。見たことないですけど。サイの皮めくったことないんで。
あれが逆だったらどうなるとおもいます?
体内側がごわごわがっさがさで、外に出てる部分がぬるぬるだったら。
空気の乾燥したサバンナで生きられないだろうし、めちゃくちゃ痛いとおもうんですよ、サイ自身が。
サイがしゃべれたら「もう絶滅するー!」って絶叫するぐらいの痛みだとおもうんですよね。

がっさがさ

だからね。パンツも内側を優しい素材にしてあげるべきなんですよ。
内側ソフト、外側ちくちく。これでいきましょうよ。
外側がちくちくしてるほうが外敵から身を守るのにも役立つしね。栗みたいに。


2019年10月21日月曜日

力づくで子育て


もう六年ほど子育てをしている。
娘を叩いたことは一度もないが、押さえつけたことやねじふせたことは何度もある。

「魔の二歳児」という言葉がある。
だいたい二歳ぐらいでいわゆるイヤイヤ期を迎えることから、そう呼ばれるのだ。

この時期の、聞き分けのなさったらない。
育児をしたことのない人にはわからないだろう。ほんとにどうしようもない。

泥酔した人って話が通じないじゃないですか。
あれを百倍ひどくしたのがイヤイヤを発動した二歳児だとおもってもらえばだいたいまちがいない。

「くつはかない!」
 「でも靴履かないとお外行けないよ」
「はかない!」
 「じゃあ外行けなくていいの?」
「いや! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「くつはかない!」
 「じゃあどうやって行くの? ベビーカー乗る?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあだっこで行こうか?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあはだしで行く?」
「いやだ!」
 「はだしが嫌なら靴履いて」
「いやだ!」
 「おとうさんが履かせてあげよっか?」
「いやだ!」
 「じゃあ自分で履く?」
「いやだ!」
 「もうお出かけやめとこっか」
「いやだ! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「いやだ!」
 「なにがいやなの?」
「いやだ!」
 「それじゃわかんないよ」
「いやだ!」
 「もうおうちにいようよ」
「いやだ!」
 「じゃあ靴履こう」
「いやだ!」

これ、ぜんぜんおおげさな話じゃなくて、二歳児のいる家庭では日常茶飯事だからね。

なにがすごいってこれだけ話しても事態が一ミリも動いてないってこと。
官房長官の記者会見ですらこれよりは若干話になる(若干ね)。

二歳児ってなまじっか言葉が通じるから余計に厄介なんだよね。


まあこっちがひまなときであれば、イヤイヤを発動されてもつきあってあげたり、あるいは放置したりするんだけど。
でもそういうわけにはいかないこともある。
五分以内に家を出ないと会社に遅刻するときとか、お店でイヤイヤが発動したときとか、土砂降りの中、道端で急に「歩きたくないしだっこされるのもいや」と言いだしたときとか。

こういうときは力で押さえつける。
自分の左手と左脚と右脚を使って娘を押さえつけ、右手で靴を履かせる。
全力で暴れる娘を、こちらも全力で抱きかかえながら反対側の手で傘をさして雨の中走るとか。

一度、じたばたと暴れる娘を抱きかかえて、通勤鞄を持ち、保育園に持っていく鞄を持ち、保育園のおひるね用布団をかつぎ、傘をさしながら保育園まで走ったことがある。
あのときは千手観音が我が身に宿ったとしかおもえない。


さすがに娘が六歳になった今は、力で押さえつけることはなくなった。
娘も暴れなくなったし、もし六歳が本気で暴れたら抱きかかえることはできないだろうから。

けれど幼いころは、「力づく」に頼る場面は多かった。
おじさんになって運動不足になったという人もいるが、ぼくは子どもができてからのほうが圧倒的に筋力を使うようになった。
子どもをかついだり、ひきずったり、荷物を持ったり、走りまわったり。

子育てに体罰を使うのはよくないが、「力づく」は必要だぜ。


2019年10月18日金曜日

【読書感想文】税金は不公平であるべき / 斎藤 貴男『ちゃんとわかる消費税』

ちゃんとわかる消費税

斎藤 貴男

内容(e-honより)
政治家の嘘、黙り込みを決めたマスコミ、増税を活用する大企業によって隠された消費税の恐るべき真実。導入から現在まで、その経緯と税の仕組みを一からわかりやすく解きほぐし、日本社会を「弱者切り捨て」へと向かわせ、新たに「監視社会」に導く可能性をも秘めた消費税の危険性を暴き出す。文庫化にあたり、武田砂鉄氏との対談を収録。消費税論の決定版。

大筋では著者の書いていることに納得。消費税よくない。
ただなあ。どうも議論が荒っぽいんだよねえ。

法律とか統計とかよく調べているんだけどね。そこは感心するんだけど、肝心の論理がちょこちょこ飛躍している。

Aが増えている。同時期にBも増えている。だからBが増えたのはAのせいでしょう!
……みたいな展開が多い。
いや疑似相関とか因果関係が逆とかいろいろ可能性はあるじゃない。

あと感情的な議論はやめようと書いているくせに、おもいっきり感情に訴えかけてきたり。
「源泉徴収制度はナチス時代のドイツのやりかたを参考に作られたのです。それを今でも使っているんです!」とか書いてある。

いやええやん。ナチス政権の考えたやり方だとしても、いい制度なら真似したらええやん。
問題視するのはそこじゃないでしょ。

まあまあ。
しかしこうやって改めて税金のことを説明してくれる人って貴重だね。
みんなよくわかってないもんね。もちろんぼくも。

税金を徴収する側(=税務署)としては、国民が税金のことをよく理解してない状態がいいからね。
そっちのほうががっぽりとれるわけだから。
だからこそ、国民は自分自身でちゃんと勉強しなくちゃいけない。



題は『ちゃんとわかる消費税』だが、消費税以外の話のほうがおもしろかったな。
規制緩和の話とか。
航空機のキャビン・アテンダント(CA)が真っ先に契約社員に切り換えられていきました。もちろん当事者は怒ったけれど、世間は「企業にとってよいことなら労働者にとってもよいはずだ」というように受け止めたのです。
 これは労働組合のナショナルセンターである連合の人に聞いた話ですが、最初がキャビン・アテンダントだったことには大きな意味がありました。他にも、早くから派遣に切り換えられていったのは、女性の、当時で言うOLたちでした。男性の仕事はすぐには派遣にならなかった。今は性別に関係なくどんどん派遣や請負に切り換えられてしまっていますが、あの頃の連合は、女性について「主たる家計の担い手ではない」という古い認識から離れられずにいたのです。連合の組合員の圧倒的多数は大企業の男性正社員でしたから、「女性の労働者がいくら非正規になったところで関係ないし、社会全体にとってもたいした影響はないだろう」と放置してしまっていた。ところが、次第に製造業に派遣が広がって、主たる家計の担い手であった男性も同じような目に遭っていきます。新自由主義の搾取のスタイルに当事者として被害を受けるようになるまでは、労働組合も問題の所在に気づくことができなかったわけです。
これってまさに寓話『茶色の朝』だよね。

寓話を解説しちゃだめですよ/『茶色の朝』【読書感想】

『茶色の朝』は、こんな話。
ある日、茶色以外の犬や猫を飼ってはいけないという法律が施行される。
"俺"とその友人は法律に疑問を持つが、わざわざ声を上げるほとでもないと思い"茶色党"の決定に従う。茶色の犬や猫は飼ってみればかわいいし、慣れてみればたいしたことじゃない。
だが"茶色党"の政策は徐々にエスカレートしてゆき、「以前茶色じゃない犬を飼っていた」という理由で友人が逮捕される。"俺"は自分の身もあぶなくなったことに気づきこれまで抵抗してこなかったことを悔やむが……。


契約社員への切り替えをまずはキャビン・アテンダントからはじめたってのは、実に巧妙だよね。上にも書かれているようにCAは女性が多いってのもあるし、容姿や学歴に恵まれた人のつく仕事ってのも大きいとおもう。やっかみを買いやすい立場だから、「どうせさんざんいい思いをしてきたんだろ」「仕事を失ったってたいして困らないだろ」と思われて反対運動が支持されにくかったってのもあるんじゃないかな。
「自分には関係のないエリート様が少々困ったところで平気でしょ」ってなぐあいに。
ところが「CAもやったんだから」という理由で、一度開いた穴はどんどん広がってゆき、しまいには堤防は決壊してしまう。
「じゃあ他の職種も規制緩和しましょう」「女性だけ対象にして男性だけ守るのは差別だから男性も非正規に切り替えましょう」となってゆく。
自分の身が危なくなってから反対してももう遅い。

最近めっきり聞かなくなった「高度プロフェッショナル制度」も同じだよね。
最近話題にならなくなった、ってのが恐ろしいところだよね。みんなが忘れた頃にどんどん導入されてゆくんだろうね。

消費税も、軽減税率だのキャッシュレス還元だのといろんな目くらましを用意して「なんだ、それならたいして困らないか」と思わせながら増税してるからね。
本当の苦しみは遅れてやってくるんだけど。



消費税増税に関して、新聞業界が「軽減税率」という毒まんじゅうを食わされて批判の拳をあっさりおろしてしまったことについて。
斎藤 こんなことは私が言うべきことじゃないかもしれないけど、もう本気で再編成を考えないと新聞の存在価値そのものがなくなっちゃうんじゃない?
武田 再編成?
斎藤 経営統合とか、宅配からの撤退とか。
武田 新聞社の記者と話していても、現場にそういった危機感はないですね。
斎藤 現場の人には全然ないでしょう。まだ自分たちのことをエリートだと勘違いしたまんまなんじゃないのかな。そこがまた質が悪い......どうしてこんなこと言うかというと、自分自身が業界紙の出身で、ろくでもないことを嫌というほど見聞きし、自分でも多少は経験したからなんですよ。会社に金がなくなると、ベテラン記者が懇意の大企業に行って金を貰ってくる。それで記事だか広告だかわからないような記事が載る。それができる記者が優秀な記者だってことになるわけだ。それを何十年もやっている先輩が何人もいて、それはそれで私も嫌いじゃないというか、否定なんかしません。そういう生き方もあると思う。業界紙というのはそういうものだし、相手の業界の人がわかっていればいいことだからね。でも、一般紙はそれとは違う信用の上に成り立っているわけじゃないですか。なのに今、一般紙がやっていることって、業界紙とまったく同じなんだよ。現場の記者からは見えないところで、どの新聞社も同じことをやっている。私がいた業界紙は記者と営業と広告の距離が近かったから見えちやったんだけど、彼らには見えないんでしょうね。

ぼくも広告の仕事をやっているので、「公的機関の仕事」のおいしさはよくわかる。
いくつかやったことがあるけど、はっきりいってめちゃくちゃ楽なんだよね。
値切ってこないし、成果も求められないし。

だからお金に困っている新聞業界が「原発のPR記事載せてください」とか言われたら飛びついてしまうのも無理はないとおもう。
で、スポンサー様になってもらったら舌鋒鋭く批判できなくなるのも気持ちもわかる。

でもなあ。
それってその場しのぎにはなるけど、長期的に見たらぜったいに寿命を縮める道だとおもうんだよなあ。

メディアの役割って「事実を伝える」と「解説する」があるとおもうんだよね。
事実を伝えるのはもちろん大事だけど、「なぜこうなったのか」「このままだとどうなるのか」「防ぐにはどうすればよいか」「外国だと似たケースでどうしているのか」「これによってダメージを受けるのは誰なのか」「逆に得をするのは誰なのか」などを論じることも重要。

で、政府や大企業からお金をいただいている新聞は「解説する」役割を放棄することになる。少なくとも批判的な解説はできなくなる。
「官房長官はこう言ってます」「〇〇社はこう発表しました」だけ伝える存在になる。
でもメディアが「事実を伝える」必要性はどんどん減っていっているわけだよね。昔なら新聞やテレビを通さないと国民に届けられなかった情報でも、ホームページやSNSでかんたんに発信できる。事件があれば現場近くの一市民が写真を撮ってツイートしてくれる。
単純な情報の量やスピードでいったら、新聞がネットに太刀打ちできるはずがない。

だから今後新聞が生き延びる道があるとすれば(あるかわからないけど)、「解説する」に力を入れないといけない。なのに目先の金欲しさにそれを捨てている。
政府広報紙になったらもう誰も新聞を読まないでしょ。じっさい産経新聞の部数減なんかいちばんすごいみたいだし。

と、えらそうに理想を語るのはかんたんだけど現実にはまあ無理だろうね。
新聞が「事実を伝える」を捨てて「解説する」に方針転換しようとしたら、記者を減らして、日刊をやめて、宅配をやめて、広告を減らして……ととんでもない数の人を切らないといけない。もちろん自分たちの給料も減らす必要があるだろう。
ぜったいに不可能だ。

ぼく自身は新聞を読むのは好きだし(とってないけど)、新聞社に勤める友人もいるので新聞社にはなんとか生き残ってほしいけど……。あと十年もつのかな。



消費税だけでなく、いろんな税がどう移り変わっていったのかを知ると、ある大きな流れが見えてくる。
それは「富める者には甘く、貧しい者には厳しく」という流れだ。

ここ数十年、消費税はずっと増えてきた。逆進性(貧しい者に対する負担がより大きいという性質)が大きいにも関わらず。
また税金ではないが社会保険料負担も増える一方。
対照的に減っているのは、法人税や高所得者に対する所得税。
そして輸出型企業は消費税によって逆に儲けている(輸出免税制度)。

誰が見ても一目瞭然だ。
日本はどんどん「金持ちに優しく、貧乏人に厳しい国」になっている。最大の原因はもちろん自民党だが、かつての民主党も手を貸している。
 弱肉強食、適者生存は世の習いですが、政府までが人間一人ひとりの命や尊厳や人権を尊重する建前を放棄してしまったら、世の中は獣たちのジャングルと変わらなくなってしまうじゃないか、と私は考えています。国家のためと言いながら、小さいところが辛うじて食べていくために稼いだお金までぶんどるというのが消費税増税です。そうやって巻き上げた税金を大企業に回す仕組みを強化して、それでGDPが増えたとしても、そんなものを本当の意味での「経済成長」と言えるのかどうか。
 成長ではなく搾取です。搾取を成長にみせかけるなどというのは、最も卑劣な手段だと思います。国家社会のためでさえありません。早い話、「なぜ消費税を上げたいかって? 俺や俺の身内が儲かるからだよ」というのが増税したい人たちの本音ではないでしょうか。

政府がこういう方針だからか、「貧しいのは努力が足りないせいだ。才能や努力によって儲けた人間から何の努力もしていない人間に金をまわすなんて不公平じゃないか」なんて自己責任論を口にする人間も少なくない(金持ちが言うんならまだわかるんだけど、そうじゃない人間が言うのがちゃんちゃらおかしい)。

だがぼくは言いたい。
そうだよ、不公平だよ。
税金ってそもそも不公平なもんなんだよ。
完全に公平にするんなら政府なんていらないじゃない。

金持ちは自費で水道をひき、警備員を雇い、子どもに家庭教師をつけ、医者を雇えばいい。貧乏人は川の水を飲み、何が起こっても自分たちで解決し、教育は受けられず、病気になったら死んでゆく。
まさに弱肉強食。政府は何もしない。これがいちばん公平だ。

でもそんな社会はみんな望んでいない。
だから国家をつくり、税金を出しあって警察や消防や学校や病院やインフラをつくってきたわけじゃない。
だから税制が不公平ってのはあたりまえの話なんだよね。

ねずみ小僧とかロビンフッドとかがやっていたような義賊システムを制度化したのが政府なんだから(ねずみ小僧もロビンフッドも元々は義賊じゃないらしいけど)。

だから、このまま低所得者から高所得者への財産移管を進めていってたら、そのうち大多数の国民が「国なんかいらないよな」ってことに気づいてしまうんじゃないかな。

これって日本だけの話じゃなくて、近いうちに今みたいな形の国家は解体に向かうのかもしれないなあ、とぼんやりと考えている。


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2019年10月17日木曜日

ゴミックマ


伊藤園のおーいお茶をよく買うのだけれど、コンビニ限定でおまけがついていることがある。
こないだも「リラックマ オリジナルペットボトルカバー」がついていた。

ああ、いやだな、とおもう。

こんなのいらない。
ペットボトルカバーなんていらない。飲みおわったらすぐ捨てたいからペットボトルを買っているのに。
仮にカバーを使うとしてもリラックマは趣味じゃない。

いらないなら使わなければいいじゃないかとおもうかもしれないが、新品のモノを開封もせずに捨てることが心が痛む。
地球環境、なんて言葉が脳裏によぎる。

で、おーいお茶に伸ばしかけた手を引っこめ、他のお茶を選ぶことになる。

企業としては販売促進のためにやっているんだろうけど、少なくともぼくに関しては逆効果だ。
ぼくにとってはリラックマ オリジナルペットボトルカバーはゴミなのだ。
「ゴミ付き」と「ゴミ無し」の商品があれば、ゴミ無しを選ぶのは当然だ。
コラボをやるとしても、せめて「リラックマ オリジナルペットボトルカバー付き」「リラックマ無し」の二種類から選べるようにしてほしい。



ぼくはピルクルという乳酸菌飲料が好きで、仕事のときは毎朝飲んでいる。

いっとき、このピルクルがYouTuberのヒカキン氏をパッケージに載せていた。


ヒカキン氏については、ぼくはよく知らない。
すごい人気のYouTuberらしい、ということは知っているが彼の動画は一度も観たことがない。
だから好きでも嫌いでもない。

ただ、飲み物に人の顔が印刷されてるのがすごくイヤだったので、コラボをしている間ずっとピルクルを買わなかった。
似たような乳酸菌飲料を買って「やっぱりピルクルのほうがおいしいな」とおもいながら飲んでいた。
ぼくにとっては、少し味が落ちることよりもおじさんの顔が印刷された飲み物を口にするほうがイヤだったのだ。


もちろんコラボをしたりおまけをつけたりすることで新たに買うようになる層がいることは理解している。でも、「いつもの」を求めている客がいるということもメーカーのマーケティング担当者には知っておいてもらいたいな。

あと、コラボのせいでリラックマもヒカキンもちょっと嫌いになった。
おまえらさえいなければ……。


2019年10月16日水曜日

【読書感想文】一歩だけ踏みだす方法 / 鴻上 尚史『鴻上尚史のほがらか人生相談』

鴻上尚史のほがらか人生相談

息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋

鴻上 尚史

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

悩み相談といえば、ぼくの中では『中島らもの明るい悩み相談室』。


なぜか中学生のときに母親から「これおもしろいからあんた読み!」と全巻プレゼントされた思い出の本。

まじめなのかふざけてるのかわからないような悩みに、中島らも氏がふざけて回答。さらにまだ若かった西原理恵子、みうらじゅん、蛭子能収といったイラストレーターがふざけたイラストを添えるというもうめちゃくちゃな人生相談だった。
これを朝日新聞紙上でやっていたんだからいい時代だったんだなあ。


で、鴻上尚史さんの人生相談。ネット上でも少し話題になったりしてるね。
こっちは中島らも版とはちがっていたってまじめ。相談するほうも、相談されるほうも。
どちらも劇作家なのにこうもちがうかね。

しかし劇作家は人生相談に向いているのかな。
劇団というのは個性的な人たち、社会にうまくなじめない人たちが濃密な時間を過ごす場だから、そこに長くいるといろんな処世術が身につくのかもしれないね。



鴻上尚史さんの人生相談は、なんだかすごくいい。

特別なことを書いているわけじゃない。目からウロコが落ちるようなアドバイス、「そんな解決方法があったのか!」と驚くような解決は書かれていない。
ややこしい人とは少し距離をとりましょう、とか、病院に行って専門医に相談しましょう、とか、新しいことに手を出してみましょう、とか。
ごくごくあたりまえのこと。
たぶん質問者自身でも思いつくようなこと。

なのに心に染み入る。

それは、
・鴻上さんが質問者に寄り添うような語り口で書いている
・今さら言っても仕方のないことを責めない
・今日からでも実行できそうな手近な道を示している

あたりが理由なのかなあ、と読んでいておもった。

逆にいうと、ぼくも含めて世の中の多くの人たちは他人の悩みに対して
・突き放すような口調で
・今さら言っても仕方のないことを責める
・それができたら苦労しない、という解決方法を示す
という態度をとっているんだよね。

「親のくせにそんなことするなんて子どもがかわいそう」とか
「学生時代にちゃんと勉強しとけばよかったのに」とか
「そんな会社、やめたらいいじゃん」とか。

特にインターネット上では、そういう「へのつっぱりにもならないアドバイス」があふれてるよね。
「そんな人とは離婚したらいいとおもいますよ」とか。
できるならとっくにしてるっつうの。

でも鴻上さんは、我が事のように親身に寄り添いながら「一歩だけ踏み出す方法」を教えてくれる。

たとえば、「四歳の娘を憎たらしいと思ってしまう。娘を愛せない」という相談者に対する回答。
「娘にどう接するか」をアドバイスする前に、いくつか確認したいことがあります。
「理屈が通じない」理不尽に直面した時に、それを乗り越えるには、まずエネルギーが必要です。
 そして、エネルギーはちゃんと寝ないと生まれません。ごんつくさん、ちゃんと寝てますか?
 ごんつくさんが働いているのか、シングルマザーなのか、父親がまったく子育てに協力してくれないのか、分かりませんが、まず、ちゃんと寝ることが必要です。
 シングルマザーだとしても、娘さんが一人で4歳なら、それなりに寝られると思います。なによりも、0歳からイヤイヤ期を乗り越えてきたんですから。
 そして、理不尽を乗り越えるためには、ちゃんとした睡眠と共に、精神的余裕が必要です。
 精神的余裕は、まず、ごんつくさんが一人になれる時間を確保しているかどうかです。
 娘さんを預けて、ちゃんと一人になれる時間がありますか? もし、そんな時間がないのなら、公的サポート、家族、大人、民間サービス含めて、なんとか方法を見つけて下さい。
 そして、もうひとつ、精神的余裕は、ごんつくさんの悩みを理解してくれる人と話さないと生まれません。

子どもを愛せない親に対して、“正義の人”は「親なんだから子どもを愛さなくちゃいけない」とか「そんな親に育てられる子どもがかわいそう」とか言いがちだけど、そんなことは本人は百も承知だし、おまえはだめだと責められたって事態が良くなることはまずありえない。

鴻上さんの「ちゃんと寝る」「一人になれる時間をつくる」「愚痴をこぼしあえる人をつくる」というアドバイスなら今日からでも実行できそうだし、悩みなんて案外そんなことがきっかけで解決するんじゃないかな。

ぼくも子育てをしている真っ最中で、やっぱり子どもに対して憎らしくおもうことはある。
見え見えの嘘をつかれたり、わけもなく反抗的な態度をとられたり、こっちの言ったことを無視されたりしたら、やっぱりむかつく。

でもぼくが今のところ子どもを虐待していないのは、子ども以外の人と過ごす時間があったり、「こんなこと言われちゃったよ」と妻に話すことができたり、子育て以外の楽しみを持っていることが大きいとおもう。
これが、24時間自分がひとりで子どもの面倒を見なきゃいけない、子育て以外に楽しみがない、という状況だったらカッとなって手をあげてしまうかもしれない。

たいていの問題って、結局、ウェイトの問題なのかもしれない。
人生において子育てのウェイトが大きい人は子育てに悩むし、仕事が大事な人は仕事に対する悩みが大きくなるだろう。
だって、「月に一回行く趣味のサークル」に関して悩みなんか発生しないでしょう。たいていのことは「月に一回だけだから」とおもえば受けながせるし、どうしてもいやなことがあればサークルをやめればいい。月に一回がゼロ回になったところで生活はほとんど変わらない。

だから「選択肢を多く持つ」のはいろんな悩みに対する解決になりそうだ。
新しいところに行く、新しい人と会う、新しい本を読む。
人間関係で悩んでいるときは新たな人間関係を築きたくなくなるけど、でもちょっと無理してでも新しい人に会いにいったほうがいいんだろうね。「既存の人間関係の重み」が相対的に下がるから。


うーん、鴻上さんの回答は、考えれば考えるほどじわじわ味が染みだしてくるいい回答だなあ。



やはりいっしょに過ごす時間が長いからだろう、家族に関する悩みが圧倒的に多い(あと「世間」に関する悩みも)。
そういや『中島らもの明るい悩み相談室』でも家族に関する相談が多かったなあ。


長男である兄に比べて家庭内で冷遇されてきた妹が、「兄が家業をついだのに経営がいかなかったから戻って助けてくれ」と親から泣きつかれたという相談に対する回答。
 大人になったら、家族を捨てなきゃいけない時も来るのです。それは、残酷だからとか冷たいからではなく、自分の人生を生きるためです。
 子供の頃、親はとても賢くて、従う対象でした。でも、自分が大人になると、親の愚かさが見えてきます。一人の人間としての限界がくっきりと分かります。
 そういう時、もちろん、「家族」として歩み寄れることはあるでしょう。
 正月に帰省して共に食事するとか、両親の古い人生観を黙ってうなづくとか、近所のグチを聞いてあげるとか。
 でも、自分の人生を差し出さなければいけないことは、歩み寄る必要がないのです。歩み寄ってはいけないのです。そんなことをしたら、残りの人生がだいなしになるのです。
 A子さん。どうか自分の人生を生きてください。

たいていの人って、学校とかで「おとうさんおかあさんを大切にしましょう」ってなことを教わるとおもうんだけど、あんなの嘘だとおもっといたほうがいい。

あれって、ほとんどの大人が「自分は親を大切にできなかったなあ」とおもっているから子どもに教えているだけなんだよね。
裏を返せば「親を大切にしないのがあたりまえ」ってことだ。

長く生きていればなんとなく「親を大切に」なんてやらなくていいとわかってくるけど、若いうちは真に受けてしまう。
で、自分にとって害になる親でも無理してつきあってしまう。

「親を大切に」という教えは害のほうが大きいんじゃないかとおもう。特に自分が親になっていっそうそうおもうようになった。

ぼくらはしょせん遺伝子の乗り物だ(by リチャード・ドーキンス)。
遺伝子を残す上で、親なんか大切にしても何の役にも立たない。

だからぼくは自分の子どもに言いたい。
親なんか大切にしなくていい! そんな余裕があるなら自分の子どもや孫を大切にしろ!


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2019年10月15日火曜日

【読書感想文】まじめに読むと腹が立つ / 麻耶 雄嵩『あぶない叔父さん』

あぶない叔父さん

麻耶 雄嵩

内容(e-honより)
寺の離れで「なんでも屋」を営む俺の叔父さん。家族には疎まれているが、高校生の俺は、そんな叔父さんが大好きだった。鬱々とした霧に覆われた町で、次々と発生する奇妙な殺人。事件の謎を持ちかけると、優しい叔父さんは、鮮やかな推理で真相を解き明かしてくれる―。精緻な論理と伏線の裏に秘された、あまりにも予想外な「犯人」に驚愕する。ミステリ史上に妖しく光り輝く圧倒的傑作。

はっはーん。そうきたか。

あらすじの「事件の謎を持ちかけると、優しい叔父さんは、鮮やかな推理で真相を解き明かしてくれる」という一文を読んで、はあはあなるほど、よくあるアームチェアディテクティブものかなとおもって読んだのだが……。

一篇目『亡くした御守り』の結末が衝撃的だった。
え? え? え? うそ? そんなのあり? それでいいの?
うそでしょ、まさか、とおもっているうちに物語が終わってしまった。

いやーこれは反則すれすれだね。ギリギリアウトかもしれん。
おもしろいけど。完全にだまされたけど。
九割シリアスで来たのにラストでいきなりコメディに急展開というか。これ以上書くとネタバレになりそうだからこのへんでやめとくけど。

ちなみにこのタイトル、アメリカのミステリ作家メルヴィル・デイヴィスン・ポーストの『アブナー伯父の事件簿』のパロディだそうだ。
っちゅうことで、あんまりまじめに読まずに「トンデモミステリ」として読んだほうがいいかもしれないね。まじめに読むと腹が立つから。



というわけで一篇目はあっと驚く展開だったのだが、同じパターンが続くので正直二篇目以降は先が読めてしまった。
少しずつ趣向を変えているのはわかるのだが、そのへんになると「裏の裏で来るかな」とこっちは身構えているのでもうびっくりしない。

トリック自体もちゃんと考えられているんだけど、なにしろ「一篇目の仕掛け」が強烈すぎたのでトリックに驚きはない。
出オチのような短篇集だった。


ところでこの本の主人公、高校生のくせに彼女とラブホテルに行ったり、別の女といちゃいちゃしたりしていて、許せん!
おまけにいっちょまえに将来の悩みを抱えていたり三角関係で悩んだりしているのだが、これがミステリ部分とあんまりからんでいなくて結局のところ何が書きたかったのかよくわからない。

「あぶない叔父さん」というせっかくの奇抜な設定があるんだから、もっとバカ丸出しな小説が読みたかったな。


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2019年10月11日金曜日

競輪場でボードゲーム


ボードゲームをしたい。

モノポリーとか人生ゲームとか。
カードゲームでもいいけど。
三十代になった今、友人たちとボードゲームをやったら楽しいだろうなとおもう。


けれど「ボードゲームしない?」と誘うのは気が引ける。
お互いいい年で、それぞれ仕事も家庭もあって、そこそこ忙しい。そんなおっさんたちがボードゲームのために集まってくれるだろうか。

仮に集まったとしても、家に招待するためには妻にお伺いを立てて、部屋を掃除して、子どもの相手もしつつ……と考えるとめんどくさすぎて「だったらもういいや」となってしまう。


ボードゲームってそんなんじゃないんだよね。

なんとなく集まったもののやることなくて、
「ひまだなー。何かないの」
「んー。人生ゲームならあるけど」
「おっ、それでいいじゃん」
みたいな感じでだらっとはじめたい。

で、やりはじめたら意外と盛りあがって「人生ゲームもけっこう盛り上がるね」みたいな感じになりたい。

そんで片付けながら「おもしろかったなー。またやろっか」みたいなことは言うのだが結局その「また」は訪れない、みたいな感じがボードゲームの正しいありかただとおもう。

ボードゲームのために時間と場所をセッティングして関係各所にお伺いを立てて……みたいなかしこまった感じでやりたくない。

友人と家呑みをすることもなくなった今、「やることないからボードゲームでもすっか」みたいな機会はもう訪れないのかな。寂しいな。



うちの近くの銭湯で、よく「ボードゲームの集い」というイベントをやっている。
風呂上がりにビールでも呑みながらボードゲーム。
楽しそうだな、とおもう。

けれど参加しようとおもったことはない。
ただボードゲームをしたいのではなく、気心の知れた友人とボードゲームをしたいのだ。

「ボードゲームの集い」に行ったとする。
みんな初対面。
軽く自己紹介をして、ルールを確認して、「じゃあよろしくお願いしまーす」ってな感じでゲームがスタートする。

「あーそうきましたか」
「なるほど、いい作戦ですね」
「いやいや、運が良かっただけですよ」
「さすがお強い」
「いやはや、ボードゲームも奥が深いですなあ」
みたいな会話をくりひろげながらゲームが進行して……ってちがうんだよ! そういうのがやりたいんじゃないんだよ!

ぼくがやりたいのは
「ちょっとおればっか集中攻撃すんなよ!」
「おまえが弱いのが悪いんだろ!」
「じゃあこのカード使ったるか」
「あっ、おまえふざけんなよ。ごめん、やめてやめて!」
「はいだめー。使う!」
「じゃあこのカードで回避!」
「えっ、おまえそれ持ってんのかよ、ないって言ってたじゃん」
「だまされてやんのーバーカバーカ! はいビリ決定~! よわっ! よわっ!」
「こいつほんと死ねばいいのに」
みたいな、底意地の悪さをむき出しにした攻防なのだ。

初対面の人たちが集まる場でこういう感情むき出しのプレーをして「なんなのこの人……」という冷ややかな眼を受け流せるほど、ぼくの度量は大きくない。

だから「ボードゲームの集い」に行けばボードゲームのおもしろさを味わうことはできても、童心に返って心の奥底から楽しめないだろうな、とおもうのだ。

ぼくがやりたいのは高級カジノみたいな大人のやりとりじゃなくて、競輪場みたいな魂のシャウトなんだよね。
競輪場行ったことないけど。

2019年10月10日木曜日

【読書感想文】記憶は記録ではない / 越智 啓太『つくられる偽りの記憶』

つくられる偽りの記憶

あなたの思い出は本物か?

越智 啓太

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

自我が揺らぐぐらいおもしろい本だった。
この著者(本業は犯罪心理学者らしい)の『美人の正体』もおもしろかったが、こっちもいい本。
自分の専門分野ではないから、かえって素人にもわかりやすく説明できるんだろうね。

「虚偽記憶」という言葉を知っているだろうか。
その名の通り、嘘の記憶。実際に体験していないにもかかわらず実体験として記憶に残っていることがら。

かつてアメリカで、多くの人が次々に自分の親に対して「かつて性的虐待を受けた」として訴訟を起こしはじめた。
訴えられた親たちは戸惑った。なぜならまったく心当たりがなかったから。どうして成人した子どもたちが今になってそんなことを言いだすのか。
しかし多くの人々は自称被害者たちの言うことを信じた。なぜなら、わざわざ嘘をついて実の親を性犯罪の加害者にしようなんてふつうはおもわないから。嘘をつくメリットがない(というよりデメリットのほうが大きい)からほんとだろう、という理屈だ。

訴えた"自称"被害者たちは、ジュディス・ハーマンという精神科医の患者だった。ハーマンから「記憶回復療法」を受け、抑圧されていた記憶を取り戻したと主張していた。
その後、様々な検証がおこなわれた結果、今では彼らの「取り戻した記憶」はほとんど「記憶回復療法」によって植えつけられた偽りのものだったとされている……。

というなんとも後味の悪い話だ(想像だけど、ハーマン自身も悪意があってやっていたわけではなく誤った信念に基づいていただけで善意でやっていたんじゃないかなあ)。

そこまでいかなくても、嘘の記憶が発生することはある。
ぼくにも「今おもうとあれは虚偽記憶だったんだろうな」という記憶がいくつかある。

子どもの頃寝ていたら泥棒が寝室に入ってきてタンスをあさっていたこととか(家族は全員否定している)、

小学三年生ぐらいのときに断崖絶壁から落ちそうになったけど木にしがみついてなんとかよじのぼった記憶とか(たぶんこれは実際に起きたことが自分の中で誇張されてる。山の急坂からすべり落ちそうになったぐらいだとおもう)。

関連記事: 捏造記憶



第3章~第5章の『生まれた瞬間の記憶は本物か?』『前世の記憶は本物か?』『エイリアンに誘拐された記憶は本物か?』は、正直少し退屈だった。なぜならぼくが「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とおもっているから。

しかし著者は、「エイリアンに誘拐されたなんて嘘に決まってるだろ」というスタンスはとらず、エイリアンに誘拐されたと証言する人の共通点や時代による変化など、「なぜエイリアンに誘拐されたと信じるにいたったのか」を丁寧に検証している。
また「彼らの証言は疑わしく見えるものの、エイリアンに誘拐された人などいないという証拠が挙げられない以上、否定することはできない」とあくまで科学的謙虚さをくずさない。
このスタンスが立派だ。なかなかできることではない。
「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とハナから決めつけていた自分を反省した。


『ムー』的なものが好きでない人には第3章~第5章は退屈かもしれないが、その他の章はきっとおもしろいはず。
記憶に対する考え方が変わる。



SFだと記憶を植えつける装置なんてものが登場するが、じっさいにはそんなものを使わなくてももっとたやすく人の記憶は改竄できるそうだ。

こんな実験が紹介されている(ここに出てくロフタスという人は、ジュディス・ハーマンの虚偽記憶に対して反証した人だ)。
 たとえば、ロフタスは次のような実験を行っています。
 まず、目撃者役の実験参加者には、車が事故を起こす動画を見せます。その後、この事故について、目撃者からいろいろな情報を聞き取っていくわけですが、その中にその車のスピードを尋ねる質問があります。「その車がぶつかったときにどのくらいのスピードが出ていましたか?」という質問です。ただ、彼女はそのときの質問をいくつかのバリエーションで聞いることにしました。具体的には、「ぶつかった」の部分をニュアンスの異なったさまざまな語に変えて聞いてみたのです。
 興味深いことに、ここで使用される単語によって、実験参加者の回答は大きく変わってくることがわかったのです。たとえば、「その車が接触した(contacted)とき」と質問した場合には、実験参加者は自動車のスピードを時速三一・八マイル(時速五一・二キロメートル)と推定しましたが、「その車が激突した(smashed)とき」と質問すると、推定された測度は、時速四○・三マイル(時速六五・六キロメートル)になっていました。彼らが実際に見たのは同じ映像ですから、質問の仕方がその記憶の内容に影響してしまったのだということがわかります。
(中略)
 ロフタスは、この現象を示すために次のような実験を行いました。この実験で使われた動画では、じつは車が激突したとき、そのフロントガラスは割れていませんでした。ところが、スピードについて推定させたあとで、「車のフロントガラスは割れていましたか」と聞くと、「ぶつかった(hit)とき」と聞いた群の実験参加者は八六%が「割れていなかった」と正しく答えたのに対し(車のスピードについて質問しなかった群では、八八%)、「激突(smashed)」で質問した群の実験参加者は、「割れていなかった」と答えた人は、六八%に大きく減り、三二%が実際には割れていなかったフロントガラスを「割れた」と答えてしまったのです。

質問するときに使う単語のニュアンスだけで、同じ映像を見てもこれだけ記憶が変わるのだ。
まして、質問をする側に「事故加害者の罪を重くしてやろう」という意図があったりしたら、さらに記憶は大きくゆがめられることだろう。


じっさいには体験していない人に「子どもの頃に迷子になっておじいさんが助けてくれたことをおぼえていますか?」とくりかえし質問をするという実験の結果が紹介されている。
はじめは「おぼえていない」と語っていた被験者は(体験していないんだからおぼえていないのがあたりまえだ)、「たしかに経験しているはず」と何度も言われるうちにありもしない記憶を「おもいだした」そうだ。
 家族としばらく一緒にいたあとに、おもちゃ屋に行って迷子になったと思う。それであわててみんなを探し回ったんだけど、もう家族には会えないかもって思った。本当に困ったことになったなあと思ったんだ。とっても怖かった。そうしたら、おじいさんが近づいてきたんだ。青いフランネルのシャツを着ていたと思う。すごい年寄りというわけではないけど頭のてっぺんは少し禿げていて灰色の毛がまるくなっていて、めがねをかけていた。
また、ニーアンが、その記憶がどのくらいはっきり思い出せるかを一~一一までの段階で判断するようにクリスに求めたところ、「八」と答えました。
(中略)
いろいろな手がかりを頭の中で探すと、おそらく関連がありそうないろいろな記憶の断片が思い出されてきます。ユーアンの実験でいえば、ショッピングモールに行った記憶や、どこか(たぶんショッピングモール以外の場所)で迷子になった記憶、お母さんが見当たらなくて不安になった記憶や、見知らぬ男性と話した記憶などです。しかし、それらの記憶自体は、あくまで断片であり、いつどこでの体験なのかはあまりはっきりしないかもしれません。第1章でも述べたように、記憶の内容自体と、それがいつ、どこでの記憶(ソースメモリー)なのかを判断するのは、異なったメカニズムであるからです。
 しかし、本人はこのようにして想起された記憶の断片をそのとき」の記憶が蘇ってきたと考えてしまうのです(ソースモニタリングエラーです)。すると、ヒントとして呈示されたストーリーに従ってそれらの記憶がパッチワークのように貼り合わされていき、次第に現実感のある記憶が完成されていきます。さらに、頭の中でこれらのイメージを反芻するに従って、記憶はより鮮明で一貫した構造を獲得していきます。そして最終的には、リアルな偽の体験の記憶が形成されてしまうわけです。つまり、体験しなかった出来事でも一生懸命考えることによって、フォールスメモリーが完成してしまうのです。

会話をくりかえすだけであっさりと偽の記憶がつくられてしまうのだ。
しかも一度形成されてしまった偽の記憶は強固なものになり、「あれは実験のためにやったことでほんとはあなたはそんな体験していないんですよ」と説明しても「いやたしかに体験したことだ」と納得しなくなるそうだ。

ぞっとする話だ。

ぼくには六歳の娘がいるが、子ども同士の喧嘩を見ているとつい数分前の記憶があっさり書き換えられることがよくあることに気づく。

たとえばAちゃんがBちゃんを叩き、それをきっかけに喧嘩になる。
だがAちゃんは「Bちゃんが先に叩いてきた!」と主張する。涙ながらに一生懸命訴える。
「一部始終を見てたけど先に手を出したのはAちゃんだったよ」と伝えても、一歩も引かない。
このとき、たぶんAちゃんには嘘をついているという自覚はない。「Bちゃんが先に叩いてきた!」と言っているうちに、自分の中で偽の記憶が形成されてしまい、それを本気で信じているのだ。

よくある虚言癖の子どもというのも、たいていこういう経緯をたどって嘘をついているんんじゃないだろうか。
「嘘ばかりつく子」というより「想像や発言によって記憶がすぐに書き換えられてしまう子」なんだとおもう。


こうなると、私の記憶は本物か? という問いが当然生じる。
ぼくらはふつう、自分の記憶は正しいとおもっている。「私の記憶が真実であることは、少なくとも私自身は知っている」と思いこんでいる。起きたことを忘れることはあっても、起きていないことをおぼえていることはありえないとおもっている。
でもそれは誤りかもしれない。

って考えると自我が揺らいでくる。
自分の記憶がほんとかうそかわからないなら、何を信じて生きていけばいいんだろう……と。



しかし記憶が不確かであること、容易に改変されることは必ずしもマイナスであるとはいえないと著者は見解を述べている。
  これらの現象は病理的な現象のように思われますが、もっと広い観点から見てみると、このような記憶の改変は、じつは私たちの記憶システムがもっている正常なメカニズムのひとつではないかとも考えることができます。上記のような一見異常な記憶の想起でも、想起によって自らのアイデンティティを確認したり、自らの精神的な不調の原因を納得させようとする動機が含まれていましたし、いまの自分が昔の自分よりも優れていると思うために過去の自分の記憶を悪い方向に改変したり、また、高齢者になると自分の人生をよきものとして受け入れるために逆に過去の記憶を美化して書き換える傾向は、もっと頻繁に起こっていることがわかりました。記憶は過去の出来事をそのままの形で大切にとっておく貯蔵庫であるという考え方自体かそもそも間違っているかもしれないのです。
なるほどねー。

そういえば、地下鉄サリン事件で有名になった毒物のサリンには「記憶を強化する」という効果があると聞いたことがある。
記憶力が良くなるんならいいじゃないかとおもってしまうが、嫌な思い出(地下鉄でサリン事件に遭ったこととか)も薄れずに残ってしまうためPTSDなどに悩まされやすくなるのだとか。
すぐに忘れてしまうのも問題だが、忘れられないのもよくないのだ。

記憶があいまいなおかげで「自分は昔より成長している」とおもえたり、「私の人生は悪いものではなかった」とおもえるのなら、それはそれでいいことだ。

だから、重要なのは「記憶とは記録だ」という認識がまちがいだと気づくことだね。
記憶はすぐに改変される、だから自分の記憶も信用ならない、という認識を持っておくのが「記憶との正しい付き合い方」なのかもしれないね。


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2019年10月8日火曜日

有段者になろう


ぼくは段を持っていない。

おもえば、ずっと段とは無縁の人生を歩んできた。

格闘技は見るのも好きじゃない。
将棋や囲碁は趣味でやる程度。
書道のように集中力を要するものは苦手。

持っている資格は、普通運転免許、英検三級、漢検二級。それだけ。
英検や漢検に級はあっても段はない。
小学生のとき通っていたスイミングスクールで四級ぐらいまでいったけど、こちらも段はない。

だからだろう、「有段者」という響きにあこがれる。
「学生時代は剣道部にいました。剣道二段です」
なんて言われると、「まいりました」と言ってしまいそうになる。段を持っているだけで「技あり」一本とられた気分だ。

吉本新喜劇だったかで
「わしは柔道・剣道・空手・書道・そろばんあわせて七段や!」
「書道四段とそろばん三段やけどな」
みたいなギャグがあったけど、一段も持っていないぼくとしてはただただ「すごいじゃないか」とただただ感心してしまう。


たぶんこの先も段をとることはない。
なんだか悲しい。
ぼくの人生、無段で終えるのか……。

そうだ!
自分が家元になればいいんだ。
そして自分に段を発行すればいいんだ!
段なんて言ったもん勝ちだもんな。

だからぼくは今日から「読書感想文五段」を名乗ることにした。

柔道でいったら全日本選手権に優勝する人が五段だったり、将棋(プロ)でいうと四段になることで晴れてプロになったりするので、五段というのは相当な強さだ。

よしっ、今日からぼくは読書感想文五段!
プロフィールも更新したぜ!


2019年10月7日月曜日

【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

超予測力

不確実な時代の先を読む10カ条

フィリップ・E・テトロック (著) ダン・ガードナー (著)
土方 奈美 (訳)

内容(e-honより)
「専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ」という調査結果で注目を浴びた本書の著者テトロックは、一方で実際に卓越した成績をおさめる「超予測者」が存在することも知り、その力の源泉を探るプロジェクトを開始した。その結果見えてきた鉄壁の10カ条とは…政治からビジネスまであらゆる局面で鍵を握る予測スキルの実態と、高い未来予測力の秘密を、米国防総省の情報機関も注目するリサーチプログラムの主催者自らが、行動経済学などを援用して説く。“ウォール・ストリート・ジャーナル”“エコノミスト”“ハーバードビジネスレビュー”がこぞって絶賛し、「人間の意思決定に関する、『ファスト&スロー』以来最良の解説書」とも評される全米ベストセラー。

おもしろかった!
仕事、投資、政治、軍事、趣味その他いろんなことに使えそうな知見がぎっしり。

この本のテーマは「予測」だ。
著者は多くのボランティアを集め、大規模な予測実験をした。
「北朝鮮は三年以内に韓国に軍事攻撃をしかけるか?」といった近未来に関する問いをいくつも用意し、回答者たちは「その可能性は30%」などと予測する(途中で変更してもよい)。

「Yes/No」で答えられる質問ばかりなので、チンパンジーがやっても50%は正解する。
大半の予測者の成績はサルと大差なかった。
だが、その中に明らかに高い正解率を出した人たちがいた。研究機関の専門家よりも正解率が高かったのだ。
著者は彼らを「超予測者」と呼び、重ねて実験をした。すると超予測者の多くは続いてのテストでも高い成績を出した。

超予測者とはどういう人たちなのか?
彼らにはどんなやりかたで高いスコアをたたきだしているのだろうか?
そして我々が彼らのような高い予測力を身につけることは可能なのだろうか?

……という本。
わくわくする内容だった。



「超予測者」というと百発百中で未来の出来事を言い当てる超能力者みたいな人を予想するかもしれないが、もちろんそんなことはない。
彼らもまちがえる。ふつうの人が50%まちがえる問題を、彼らは30%とか40%とかまちがえる。

なーんだそんなもんかとおもうかもしれないが、このちがいが大きい。
ルーレットで赤と黒が出るかを60%の確率で的中させることができれば確実に大金持ちになる。

超予測者自身も、重要なのはわずかな違いであることをを知っている。
100%は不可能。50%を60%にする、60%を61%にする。そのために学び続けられる人が超予測者になる資格を持っている。

つまり、予測の精度を上げるためには「自分はまちがっているのでは?」という反省を常にしつづけることが重要だということだ。

「おれは正しい! まちがってるはずがない!」って人はまちがえる。「私は誤っているかもしれない」という人が正解に近づける。皮肉にも。
 ビル・フラックも予測を立てるとき、デビッド・ログと同じようにチームメートに自分の考えを説明し、批判してほしいと頼む。仲間に間違いを指摘してもらったり、自分たちの視点を提供してもらいたいからだが、同時に予測を文字にすることで少し心理的距離を置き、一歩引いた視点から見直せるからでもある。「自分自身によるフィードバックとでも言おうか。『自分はこれに賛成するのか』『論理に穴はないか』『別の追加情報を探すべきか』『これが他人の意見だったら説得されるか』といった具合に」
 これは非常に賢明なやり方だ。研究では、被験者に「最初の予測が誤っていたと思ってほしい、その理由を真剣に考えてほしい、それからもう一度予測を立ててほしい」と要求するだけで、一度めの予測を踏まえた二度めの予測は他の人の意見を参考にしたときと同じくらい改善することがわかっている。一度めの予測を立てたあと、数週間経ってからもう一度予測を立ててもらうだけでも同じ効果がある。この方法は「群衆の英知」を参考にしていることから「内なる英知」と呼ばれる。大富豪の投資家ジョージ・ソロスはまさにその実例だ。自分が成功した大きな理由は、自らの判断と距離を置いて再検討し、別の見方を考える習慣があるためだと語っている。

知的謙虚さのほかに、超予測力のためには思考の柔軟さも必要であるとしている。

 ではなぜ二つめのグループは一つめのグループより良い結果を出せたのか。博士号を持っていたとか、機密情報を利用できたといったことではない。「何を考えたか」、つまりリベラルか保守派か、楽観主義者か悲観主義者かといったことも関係ない。決定的な要因は彼らが「どう考えたか」だ。
 一つめのグループは自らの「思想信条」を中心にモノを考える傾向があった。ただ、どのような思想信条が正しいか、正しくないかについて、彼らのあいだに意見の一致はなかった。環境悲観論者(「ありとあらゆる資源が枯渇しつつある」)もいれば、資源はふんだんにあると主張する者(「ありとあらゆるものにはコストの低い代替品が見つかるはずだ」)もいた。社会主義者(国家による経済統制を支持する者)もいれば、自由市場原理主義者(規制は最小限にとどめるべきだと主張する者)もいた。思想的にはバラバラであったが、モノの考え方が思想本位であるという点において彼らは一致していた。
 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

なんていうか、世間で大きな声で何かを叫んでいるのってこれとは真逆な人たちだよね。

政治家や評論家やアナリストとかが「これからこうなる!」って叫んでるけど、この人たちのありかたは「謙虚」「柔軟」とは正反対に見える。
自分の正しさを疑うことなく、思想信条に基づいて、新たな情報の価値を低く見る。

当然彼らの予測はあまり当たらない。チンパンジー並みの成績しか出せない(逆にいうとどんなバカの予想でもチンパンジー程度には当たってしまう)。
予測が外れてもろくに検証されずに「私は元々こうなるとおもっていた」という後出しじゃんけんの一言で済ませてしまう。
あるいは「こんな悪いことになったのは私の言うとおりにしなかったからだ!」「おもっていた以上に良い結果になったのは私ががんばったからだ!」と己の手柄に持っていくか。

これは、チンパンジー並みの正答率しか出せない政治家や評論家が悪いというよりも、そういう人の発言に耳を傾けてしまう我々が悪いよね。
だってみんなはっきりものをいう人が好きなんだもん。
「Aの可能性もあるしBが起こる可能性も捨てがたい。もちろんCが起こる可能性もゼロではないので備えを欠いてはいけない……」
という人より
「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」
って人の発言のほうをおもしろがってしまう。

だけどおもしろいからってチンパンジー並みの政治家を持てはやしちゃだめだ。それだったらまだタコにワールドカップの勝敗予想をさせるほうがマシだ(古い話だな)。



予測精度を上げるためには、検証が欠かせない。
 コクランが例に挙げたのは、サッチャー政権が実施した若年犯罪者に対する「短期の激しいショック療法」、すなわち短期間、厳格なルールの支配するスパルタ的な刑務所に収容するという手法である。それは効果的だったのか。政府がこの政策を一気に司法制度全体に広げたため、この問いに答えるのは不可能になってしまった。この政策が実施されて犯罪率が下がったら、それは政策が有効だったためかもしれないが、他にも考えられる理由は何百通りもある。反対に犯罪率が上昇した場合、それは政策が無益あるいはむしろ有害だったためかもしれないし、逆にこの政策が実施されなければ犯罪率はさらに高くなっていたかもしれない。当然政治家はどちらの立場もとる。与党は政策は有効だったと言い、野党は失敗だったと言うだろう。だが本当のところは誰にもわからない。政治家も暗闇で虹の色を議論しているようなものだ。
「政府がこの政策について無作為化比較試験を実施していれば、今頃はその真価がわかり、われわれの理解も深まっていたはずだ」とコクランは指摘する。だが政府はそうしなかった。政策は期待どおりの成果を発揮すると思い込んでいたのだ。医学界の暗黒時代が何千年も続く原因となった無知と過信の弊害がここにも見られる。
これはイギリスの話だが、日本の政治もほとんどが検証されていないようにおもう。

本来なら、政策導入前に「これを実施することによって〇〇の効果が見込めます。□□年までに××、□□年までに××の効果が得られなければ効果はなかったものとして中止します」といった検証プロセスを設定するべきだ。
(ちなみにぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、Webマーケティングの世界ではこれはやってあたりまえのことで、やっているからといって誇るようなことではない)

残念ながらぼくは寡聞にして、政治の世界においてこのようなプロセスが公表されているのを聞いたことがない(仮にやっていたとしても公表しなければ意味がない。なんとでもごまかせてしまうのだから)。

もちろん政治においては数値で検証不可能なことも多い。人々の幸福度を上げるのが目的であればどうやったって恣意的になるし、結果が出るまでに十年以上かかるような政策もざらだ。
でも、仮目標として指標を定めるなり、スモールゴールを設定するなり、やろうとおもえばできることはいくらでもある。
それをしないのは、「失敗を認めたくない人間」ばかりが政策立案をしているせいなのだろう。

さっきの例でいうと「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」っていうタイプ。言い換えると、チンパンジータイプ。


これはもう根本的に制度が誤っているんだろうね。
まちがえた人間を失脚させて、まちがえなかった人間を引き上げる制度にしていると、まちがいが減るかというとそんなことはない。
「まちがいを認めない人間」「まちがいをごまかす人間」ばかりになってしまう。そして予測精度は0.1%も改善しない。

改めるには、「まちがいを発見した人間(己のまちがいも含む)」に褒章を与えるような制度にしないといけないんだけどなあ。



この他にも、かつてドイツ軍が強かったのは「予測がはずれる前提で作戦を立てていた」からだとか、おもしろいエピソードがたくさん。

重要な意思決定に携わる人間は全員読むべき本だね。チンパンジーのままでいいならべつだけど。


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2019年10月4日金曜日

【読書感想文】設定の奇抜さ重視なのかな / 田丸 雅智『ショートショート 千夜一夜』

ショートショート 千夜一夜

田丸 雅智

内容(e-honより)
多魔坂神社のお祭りの夜、集うのは妖しの屋台と奇妙な人々…。欲しいと念じたものが出てくるヒモくじ屋。現れたゴロツキどもが引いたヒモの先には(「ヒモくじ屋」)、夜店ですくった人魚がみるみるうちに成長して(「人魚すくい」)、モデルにスカウトされたエリカが突然行方不明に(「ラムネーゼ」)、降り注ぐ優しい雨を、自分のものにする方法(「雨ドーム」)他、珠玉のショートショート全20編。いちどページを開いたら止まらない!わずか5分間の物語が、あなたを魅惑と幻想の世界へと誘います。巻末には、しりあがり寿さん描き下ろし「あとがきの夜」も特別収録。

神社のお祭りの夜をテーマにしたショートショート集。
全篇が「多魔坂神社のお祭り」に関係するという設定はおもしろい。神社のお祭りってあちこちでふしぎなことが起こってそうな気がするもんなあ。

ショートショートというと、どうしても星新一と比べてしまう。
死後二十年たってるのにまだ星新一とか言ってるのかよとかおもうかもしれないけど、ぼくにとっては神様みたいな人で物語の楽しみを教えてくれた人だから、どうしたって「星新一と比べてどうか」という目で読んでしまう。

ショートショートとは何かという質問に対しては、ぼくは短さ以上に「切れ味の鋭いオチ」が重要だと答える。
以下に意外性を見せるか、読者をだますか、余韻を残すかがショートショートに欠かせないものだと。

その基準でいくと、この『ショートショート 千夜一夜』はものたりなかった。
奇抜な設定はおもしろくて、起承転結の起承までは申し分ないのに、最後の最後で期待を下まわってくる。ハードルを上げて上げて、最後にハードルの下をくぐってくるというか。えっ、なにそのおもってたよりしょぼいオチ。悪い意味でだまされた気分。

まあショートショートに求めるものがちがうんだろうね。
この作者は、たぶん設定の奇抜さを重視しているんだろう。
大喜利のお題にいかに切れ味よく回答するかより、いかに独創的ないいお題を出すかに力を入れているというか。


しかしそんな中で『ストライプ』は設定もオチも秀逸だった。
ストライプのシャツの中から男の声がする、まるでストライプ模様が檻のようになって出られないようだ……という導入から、丁寧な話運びに「シャツ」「檻」を活かした鮮やかなオチ。
そうそう、ぼくがショートショートに求めるのはこれなんだよね!


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2019年10月3日木曜日

【読書感想文】計画殺人に向かない都市は? / 上野 正彦『死体は知っている』

死体は知っている

上野 正彦

内容(e-honより)
ゲーテの臨終の言葉を法医学的に検証し、死因追究のためとはいえ葬式を途中で止め、乾いた田んぼでの溺死事件に頭を悩ませ、バラバラ殺人やめった刺し殺人の加害者心理に迫る…。監察医経験三十年、検死した変死体が二万という著者が、声なき死者の声を聞き取り、その人権を護り続けた貴重な記録。

元監察医によるエッセイ集。あと小説もちょっと(たぶん実話をそのまま書くのはプライバシー的にまずいので事実に若干手をくわえて小説にしたんだろう)。

監察医とは、変死があったときに解剖をして不審な点がないかを調べる医師のことだそうだ。
「変死」と聞くとついつい「奇妙な恰好をした死体が姿を現した」という横溝正史世界的な死に方を想像してしまうが、医師が病死であると明確に判断したもの以外の死は法律的にはすべて「変死」という扱いになるそうだ。
だから交通事故死も自殺も変死になるし、自宅で心臓発作を起こして死んだなんて場合も変死扱いになるそうだ。
日本で死ぬ人の10~20%ぐらいは「変死」だそうで、だからそんなにめずらしいものではない。

「朝起こしに行ったら死んでいた」とか「風呂場で心臓発作を起こしたらしく死んでいた」なんてのはよく聞く話だ。
もちろんその大多数は病死なんだけど、ごくまれに「家族が殺して病死に見せかけた」というケースもあるそうだ。

で、解剖をしてそれを暴くのが監察医の仕事。
検死のプロである監察医が「病死にしては不自然な点がある」と判断すれば、そこから警察が捜査を開始するわけだ。

そういやこの前、テレビで「死体農場」というものを見た。
アメリカにある実験施設で、死体を様々な環境に放置して、死後どんな変化が起こるのかを観察するための施設だそうだ。
温度や湿度などを変えて死体の腐敗進行度合いを見ることで、犯罪事件の捜査に役立てるのだという。


日本ではそこまでのことはできないだろうが、監察医は死体に関する知識を多く持っているから、殺人事件の捜査には大いに貢献してくれる。
 臨死体著者の話を聞いたことがあるが、その人の場合は、かなり以前に死んだおじいさんが現われて、遠くの方からこっちへ来いと手招いていたが、行かなかった。もしもその通りにしていたら、自分は死んでしまったのかもしれないといっていた。
 私には臨死体験はないが、そのような現象があるならば、死に近づいたために心不全や血圧の低下の状態が起き、脳の血液循環不全のために幻想が出現したのではないかなどと、私は考えてしまう。その意味では、ゲーテが死ぬ前に残した有名な言葉「もっと光を!」は納得のいく言葉だと思っている。
 いまわの際の一言が、こうして現代までいい伝えられているのは、ゲーテという偉大な詩人の言葉であったからであろうし、とらえる側も言葉の中にゲーテを意識し、すばらしくふくらんだイメージを抱いて味わっているためでもあろう。
 だが、解剖生理学的に考察してみると、死が近づくと少なからず心不全、呼吸不全、脳機能不全などが生じ、神経系統の反応は鈍くなり、思考力も視力も衰える。体温も低下し、筋肉の緊張もゆるんでくる。
 バレーボールのような球形をしている眼球も、神経が麻痺すると緊張がゆるみ、たとえばラグビーのボールのような形に歪みが生じてくるのではないだろうか。そうなると正常時の焦点はズレて正しい像を網膜に結ばなくなる。
 脳機能の低下と焦点のズレなどから、明るさを感ずる力も弱くなるため、死期が近づくと、目の前が暗くなり、ものが見えにくくなる。

ふつうの医師は生きている人たちの病気を診るのが仕事だけど、監察医は死体を調べるのが仕事。同じ医師の資格を持っていても、相手はまったくちがう。

犯罪を見逃さないためには欠かせないポジションだね。

……とおもったら、この監察医制度があるのは全国で五都市だけ(東京23区・大阪市・名古屋市・横浜市・神戸市)だそうだ。
じゃあその他の地域はどうしているのかというと、監察医ではなく、そのへんのお医者さんが呼ばれて調べるのだそうだ。近所の内科クリニックのお医者さんが検死をしたりするのだとか。

専門医が見れば「死後この時間でこうなっているのはおかしい」とか「自殺でこんな痕がつくはずがない」とか気づくようなことでも、一般の医師なら見逃してしまうこともよくあるだろう。

たぶん、「自殺や事故に見せかけた殺人」が見過ごされることもよくあるんだろうな。

ということで、もしも計画殺人をするなら監察医制度のある五都市以外でやるのがオススメだぜ!


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【読書感想文】役に立たないからおもしろい / 郡司 芽久『キリン解剖記』



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2019年10月2日水曜日

燃える金属バット


「猿としたらエイズ」「黒人とかな」 吉本芸人のネタにHIV陽性者ら批判「差別を強化」
「猿とエッチしたらエイズになるわ」「黒人とかな」――。
吉本興業所属のお笑いコンビ「金属バット」のこんな発言を収めたネタ動画が、YouTube上で84万回以上、再生されている。
HIV陽性者の団体や支援団体は「ショックというよりも呆れた」「差別や誤解を強化するのはやめてほしい」などと批判している。
金属バットという漫才コンビのネタが炎上しているらしい。

少し前にAマッソというコンビのネタ中の発言が差別的だとして炎上し、それが飛び火してきたようだ。
きっと「どっか他にも差別的な発言してる芸人がいるんじゃねえか」と血眼になって探してきたやつがいたんだろう。ごくろうなこった。

(ちなみにAマッソの発言についてはここでは触れない。なぜならぼくがそのネタを観ていないから。ネタ全部を観ずに、ある発言がどういう意図で発せられたものかを判断できるわけがない)


この記事を読んだぼくの感想は、
あーあ、ばかに見つかっちゃったな。
だ。

まず、ぼくは金属バットが好きなのでどうしても彼らに肩入れしてしまうことをあらかじめ断っておく。
このネタも何年か前にYouTubeで観て、爆笑した。
(もっぱらYouTubeで観るだけなのでぜんぜんお金落としてないのよ。ごめんね。でもDVD出してくれたら買うよ)


でもまあ、たしかにいろいろとまずい発言の多いネタだ。
こうやって一部を切り取られたら勝ち目はないだろうなとおもう。

彼らの最大の落ち度は「(誰がYouTubeにアップロードしたのか知らないが)削除申請をしなかった」ことだとおもう。
(しかしYouTubeにアップしていなければぼくは観られなかったので感謝している)

しかしなあ。
わざわざ動画を観にいって、あるいは動画を観ることもせずに非難している人を見ると、そりゃあ世界から差別はなくならないな、とおもう。
差別大好きすぎるだろ。


いきなりで申し訳ないが、ぼくは男同士の性的な接触を気持ち悪いとおもう。
なにかの拍子にその手の画像や映像を観てしまったことがあるが、とっさに「気持ちわるっ!」とおもった。それはもう反射的に。ごめんね。

でも、そういうのを求めている人がいることも理解している。ゲイの人たちがプライベートな空間でそういう行為をすることまで否定しない。
もしも、ふつうの銭湯に行って男同士でいちゃついているのを見たら「おい公共の場でなにやっとんねん。やめろや」とおもう(男と女でもおもう)。
でもゲイバーとかでいちゃつくのはどうぞご勝手に、だ(そういう場なのか知らないが)。ぼくには関係のない場所だからね。

わざわざ非難するために漫才動画を観る(あるいはその書き起こし記事を読む)人は、ゲイバーに乗りこんでいって「おい! 不愉快だからやめろ!」というようなもんだ。おまえが不愉快なんだよ。


上にリンクを貼った記事の中にNPO法人「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」の代表が出てくるが、まあこの人が当事者として憤りを感じるのは仕方ないとおもう。つくづく同情する。
もしこの人がたまたまおもしろい漫才を探してこの漫才を目にしたのであれば、金属バットに怒りをおぼえるのは無理がない。

でも
こんなことを言ってる輩がいますぜ! ねえ、当事者としてどうおもいます? イヤな気持ちになったでしょ? それを記事にしたいんでコメントくださいよゲヘヘ
とわざわざ教えに来たやつがいたのだとしたら、怒りはそいつに向けたほうがいい。金属バットが俗悪でないとは言わないが、そのゲヘヘのほうが百倍俗悪だからだ(しかも己の邪悪さに気づいていない可能性が高い)。



ところで、批判コメントを読んでいると、どうも漫才の構造を理解できていない人が多いんじゃないかとおもった。

漫才の古典ギャグとしてこういうやりとりがある。
「今日のお客さんはべっぴんさんはべっぴんさんぞろいやねえ。端からべっぴんさん、べっぴんさん、ひとつ飛ばしてべっぴんさん」
「失礼やないか!」

もはや人口に膾炙されすぎてパロディ元にしかならないギャグだが、漫才をはじめて見る小学六年生の前でやったら今でもそこそこウケるだろう。

でも、これを小学一年生の前でやったらウケないとおもう。
「君かわいいね、隣の君もかわいいね、ひとり飛ばして、その隣の君もかわいいね」
と言ったら、一年生たちは当惑してしまうんじゃないだろうか。このおじさんたちはどうしていきなりひとりだけばかにするんだろう、と。

でも六年生にはわかる。
おかしいのは「飛ばされたひとり」ではなく「飛ばした漫才師」のほうであると。
その構造が理解できる。だから笑う。
「あの漫才師は客の容姿が悪いことをばかにして嘲笑した!」とはおもわない。


金属バットの漫才も同じだ。
金属バットの漫才で笑う観客は、三倉佳奈やHIV患者をバカにして笑っているのではない。
「偏見に満ちてむちゃくちゃなことを言う小林(坊主のほう)」を笑っているのだ。

もしも「三倉佳奈はエイズ患者だ」「HIV患者は獣姦や黒人とのセックスをしたせいだ」と信じている人がいたら、その人は金属バットの漫才では笑えないだろう。だってその人にとっては小林の言っていることは至極まっとうなことなのだから。

「私はお2人のネタの露悪的手法よりも、それを聴いて観客が笑っているということに、より絶望を覚えます。いまだに、エイズに対して、蔑んだりバカにされて当然のものだと内心思っている人がいるんだなと」
上記のNPO法人代表はこう発言しているが、ぼくは賛成できない。
当然のものと思っていないからこそ笑えるのではないか、と。
(ただし差別意識があるのは間違いない。「先天性の白血病」だったらちっとも笑えないだろうから)

ちなみにそのあとに続く「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という発言には全面的に同意する。ネットに流さなければバカに見つからずに済んだだろうから。


漫才師は、その芸の性質上、ひとりが極端なことを言う、ピントの外れたことを言うことが多い。

エッセイで「〇〇という考えはどうだろう。私はこれが正しいとはおもわない」と書くべきことを漫才にすると、「〇〇だよ」「そんなわけあるかい!」になる。
もちろん「そんなわけあるかい」までがセットで漫才師からのメッセージなのだが、それを理解できない人がいる。
前半の発言だけを切り取って、「あいつは『〇〇だよ』と言っていた! 問題発言だ」と騒ぎたてる。
そりゃ問題発言だろう。わざと問題になるような切り取り方をしているんだから。
漫才師は、漫才中はふたりでひとりなのに。

漫才師の会話を切り離してあれこれ言うのはフェアではない(上記NPO法人の代表はちゃんと全体の文脈を踏まえて話しているが)。
それって、俳句の上の句だけを詠んで全体を論じるようなもんでしょ。



なんだかずいぶん擁護したけど、金属バットのあのネタはやっぱりまずいとおもう。

使っている言葉がよくなさすぎるし、ネタ全体を通して観ても、演者と観客の間に差別意識の共有がないといえば嘘になる(どっちかというと差別意識をまきちらすというより差別意識に気づかせるネタだとはおもうが)。

不愉快におもう人がいるのは当然だ。

だが「私は不愉快におもう」と「だからそんなことをしてはいけない」はまったくべつの話だ
さっきの同性愛者の話でいうと「ぼくは男性同士の性的関係を不愉快におもう」が「そんなことするな」とはおもわない。

その間には大きな隔たりがあるはずで、それこそが社会性だとおもうのだが、いい歳をしても社会性が身についてなくて「快/不快」と「善/悪」が隣り合わせになっている人がいる。少なからず。

(ちなみに前述の記事のNPO法人代表の人はそこをちゃんと区別している。
「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という言葉にはそれが表れている。とても立派な考えの人だとおもう)


だからぼくが金属バットに言いたいことは、
こら! そんなこと言ったらだめだぞ! でももっとやれ!
ってこと。


2019年10月1日火曜日

夢のような道具、夢が叶った時代


子どもの頃、カメラがほしかった。

ぼくだけではないとおもう。
子どもはみんな写真が好きだ。なにかというと撮りたがる。
今でも、大人がカメラを構えると子どもたちは「撮らせて!」と寄ってくる。

今だったらスマホを貸して「ここを押すんだよ」と言えば済む話だが、ぼくがこどものときはそうかんたんにカメラを貸してもらえなかった。

カメラがいまより高価だったこともあるが、それよりもフィルム代がもったいなかったことのほうが大きい。

若い人でも知っているとおもうが、昔のカメラは撮影にフィルムが必要だった。
フィルムは27枚撮りとか36枚撮りとかあって、正確にはおぼえていないが500円以上はしたとおもう。
で、写真を撮った後に現像して写真としてプリントするのにもお金がかかった。お店や枚数によって料金はちがったが、1,000円近くはした。
つまり1枚の写真を撮影してプリントするのに、50円ぐらいかかっていたわけだ。

今だったらスマホで10枚ぐらいあっという間に連写してしまうが、当時なら10枚撮れば500円がふっとぶことになる。
当然、子どもに気軽に「撮っていいよ」なんて言ってくれる大人はいなかった。



中学生ぐらいのとき、カメラを買おうとおもって調べたことがある。
カメラ本体なら、お年玉とかで十分買えるものがあった。
けれど断念した。
上記のように、ランニングコストがかかるからだ。

写ルンです(使い捨てカメラ)をかばんに入れて持ち歩いていたが、めったに撮らなかった。ここぞというときにしか撮らないので、36枚を撮りおわるのに半年とか一年とかかかった。

現像して写真を目にする頃にははじめのほうに撮った写真のことなんか忘れているので、はじめて見るのに「あーこんなこともあったなー」と古いアルバムをめくるような(この表現も伝わらないかも)感覚を味わえた。

高校生になって自由に使えるお金が多少増えたことで写真を撮るペースは増えたが、それでもフィルムを使い切るのに一ヶ月はかかった。

大学生になってはじめてちゃんとしたカメラを買った。
中国に行ったときに買った「長城」という謎のブランドのカメラだ。中国で買ったのは、もちろん安かったからだ。日本円にして1,500円くらいだった。

けれど長城はあまり使わなかった。
もうそのころにはデジカメが世に出ていたし、携帯でも(粗いとはいえ)写真を撮れるようになっていたからだ。
ほどなくしてぼくも30,000円ぐらい出してコンパクトデジカメを買い、フィルムカメラとはおさらばした。



こないだ親戚が集まったとき、娘、姪、甥にデジカメをプレゼントした。
トイカメラというやつで、まるっこくてかわいいデザインのおもちゃのカメラだ。
おもちゃといってもMicroSDカードを差しこめば写真を何千枚も撮れるし、USBで充電もできる。モニターもあるから、PCがなくても撮った写真を見ることができる。
フラッシュとかズームとかはついていないが、子どもが撮って遊ぶだけなら十分すぎる機能だ。

これが1台3,000円で買えた。
ぼくが15年前にはじめて買ったデジカメの10分の1の値段。でも画素数は同じぐらい。メモリは進化しているので保存できる枚数はずっと多い。

子どもたちは大喜びして写真をばしゃばしゃと撮っていた。
ぼくのおしりを撮ってきゃっきゃと笑っている。

ぼくが子どもの頃だったら、くだらないことに使うなと叱られたことだろう。
けれど誰も叱らない。どれだけ撮ってもフィルム代も現像代も電池代もかからないのだから。
くだらないことに使ってもいい時代になったのだ。
いい時代になったものだ。



ちなみにぼくが子どもの頃にずっとほしかったものは、カメラのほかにもうひとつある。

トランシーバーだ。
あの当時、トランシーバーにあこがれなかった子どもはたぶん一人もいなかっただろう。でも今は誰もほしがらないんだろうなあ。
え? トランシーバーとは何かって?

昔の少年がみんな憧れた、夢のような道具だよ。
残念ながら、その夢はもう叶っちゃったんだけどね……。