マッシミリアーノ・スガイ
イタリアで生まれ育った後、日本に移住した著者による日本の食エッセイ。
こういう「外国人から見た日本エッセイ」は、なじみのある題材でありながら毎回新鮮な視点に気づかせてくれるのでおもしろい。
コリン・ジョイス『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート』も、M.K.シャルマ『喪失の国、日本』も、高野 秀行『異国トーキョー漂流記』 も、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』も、みんなおもしろかった。
「外国人から見た日本エッセイ」にハズレなし。
おでんについて。
まず「おでんください」と言ったのに「どれにします?」と言われて困った、という話が新鮮。
たしかに、おでんって料理名のようでありながら、じっさいのところは「麺類」「鍋料理」みたいな、広めのジャンル名だよね。
たとえばラーメンであれば、種類はいろいろあれど、少なくとも麺はぜったいにある。麺がないとラーメンとは呼べない。でもおでんには、「これがないとおでんじゃない!」って食材が存在しない。大根、玉子、こんにゃくなど定番の食材はあるけど、必須ではない。「すみません、今大根切らしてるんですよ~」でもおでんは成立する。「麺を切らしてるんですけど、ラーメン提供できます」とはならない。
そんなことに改めて気づかされる。
そしてそれぞれの具に対する観察眼が鋭い。
言われてみれば、おでんってよくわからないものだらけだよね。日本人だってあたりまえのように食べてるけど、ごぼ天とかはんぺんとか巾着とかかんぴょうとかがんもどきとかはんぺんとか、外国人から「これ何?」と訊かれたら説明に窮してしまうものばかりだ。
つくづく感心するのは、マッシさんの柔軟性。この人ほんとにイタリア人? とおもうぐらい、日本の料理を受け入れている。
和食や日本のスイーツはもちろん、パスタやピッツァのようなイタリア発祥の料理ですら、日本のものを絶賛する。これができる人はなかなかいない。
ぼくも食に関しては好奇心旺盛なほうだとおもうけど、それでも海外で和食が“魔改造”されてたら、「うーん、これはこれで悪くないけど、でもこれはオリジナルとは別料理だよね……」とか言ってしまうとおもう。カリフォルニアロールもまだ寿司とは認めてないし。
和風パスタをここまで絶賛できるイタリア人がどれぐらいいるだろうか(リップサービスも多分に含まれているんだろうけど)。日本人ですら気が引けて「日本はもしかしたらイタリア以上に“パスタ力”を持っているかもしれない」なんて言えないぞ。
カフェの役割について。
へえ。たしかに日本のカフェって、最大の目的はコーヒーじゃないよね。たいていの場合、打ち合わせをしたいとか、自習をしたいとか、疲れたから座って休みたいとか、時間をつぶしたいとかの理由で行くものであって、正直言うと別にコーヒーじゃなくてもいい。極端なことを言えば「コーヒーを置いてないカフェ」があっても客は入るだろう。
ぼくがイタリアに旅行に行ったときにカフェに入ったことがあるけど、驚いたのは「立って飲んでいる人」がいたことだ。
日本だったら「コーヒーのないカフェ」は成立しても「座席のないカフェ」はなかなか成り立たないだろう(コーヒースタンドはあるけど少ない)。座るためにカフェに行くと言ってもいいぐらいだ。
立ち喰いそばに行くのはとにかく腹を満たしたい人、立ち呑み屋に行くのはとにかく酒を飲みたい人。イタリアでカフェに行くのはとにかくコーヒーを飲みたい人なのだ。
冒頭で、「外国人から見た日本エッセイにハズレなし」と書いたけど、この本はハズレではないけどアタリというほどでもなかった。
マッシさんが絶賛しすぎなんだよな。とにかく日本の全料理を褒める。手放しで褒める。日本人として悪い気はしないけど、ここまで褒められると「ちょっと大げさすぎるな」という気がしてくる。
褒めるのにも緩急が必要なんだよな。「あれもすばらしい、これも最高、ここは完璧!」と言われるよりも「あそこはちょっと好きになれないけどでもこういうところはすごくいいとおもうよ!」と言われたほうが真実味があってうれしい。
そう、甘さを抑えることでかえって甘さを引き立たせる日本のスイーツのように。
その他の読書感想文は
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