2020年12月2日水曜日

【読書感想文】インド人が見た日本 / M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

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喪失の国、日本

インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」

M.K.シャルマ(著) 山田 和(訳)

内容(e-honより)
インド人エリートビジネスマンが日本での赴任経験を語った体験記。90年代に日本が喪ったものを、鋭い観察力で描いた出色の日本人論

 これはおもしろい!! 今年いちばんおもしろかった。

 たまたま古本屋で見つけた本なのだがもう絶版になっているらしい。もったいない。今読んでもめちゃくちゃおもしろいのに。

 この本が日本語に訳されることになったきっかけがもうおもしろい。

 訳者がインド・ニューデリーの書店で元本を購入。だがデーヴァナーガリー文字・ヒンズー語で書かれていたので読むことはできなかった。
 その後、ニューデリーから遠く離れた町を旅していると、インド人から家に来ないかと誘われた。危険を感じながらも男の家に行き会話をしていると、なんとその男が件の本の著者であることがわかった……!

 というなんともできすぎた話。インドには約10億の人がいるのに、たまたま著者に出会うなんて。
 そして著者に英訳してもらい、英文を和訳する形で日本語版刊行の運びとなったのだとか。
 神も仏も信じないぼくでも、このエピソードには神秘的なものを感じずにはいられない。神秘の国・インドだから余計に。




 日本語版刊行に至った経緯もおもしろいが、中身はもっとおもしろい。
 インドの会社員である著者シャルマ氏が、業務で来日。会社から与えられた使命は「日本のことを知ること」。遊んでいてもいいから日本の暮らしを見聞きするように、というなんともうらやましい使命を帯びて1992年に来日している。

 1992年といえばバブル崩壊期とはいえまだまだ日本は世界トップクラスの経済大国。かたやインドは1991年に社会主義計画経済から自由主義経済になったところなので、まだまだ経済的には後進国。その差は大きかった。
 当然ながらインドから日本にやってきた著者にとっては見るものすべてが驚きだったらしく、その衝撃をみずみずしく伝えている。

「空港の係員が誰もワイロを要求しないし誰もが真面目に働いている」とか「バスの運転席に神棚も仏陀の聖絵も線香もない」といったことで驚いている。そんなことで驚いていることに驚く。
 インドってほんとに「我々が安易にイメージするインド」なんだなあ。三十年前の話だから今はどうだか知らないけど。


 以前、コリン ジョイス『「ニッポン社会」入門』という本を読んだ。日本在住のイギリス人記者によるエッセイ。プールに国民性が表れる、「猿も木から落ちる」「ずんぐりむっくり」「おニュー」といった表現の秀逸さ、日本的な行動とは何か……。どのコラムもおもしろかった。
 その本に書かれていたが、日本人は特に「外国人から日本がどう見られているか」を気にする民族らしい。ぼくもご多分に漏れず、「外国人から見た日本」の話が大好きだ。
 ふだんは意識しないことに気づかされる。

 たとえば『喪失の国、日本』のこんな文章。

 客を迎える部屋である「座敷」は、紙を張った障子戸で仕切られていた。その紙は、私が予想していたよりずっと薄いものだった。紙を透かして光が入ってくる。
 障子戸は、壁と窓(明取)と扉という三つの機能を兼ね備えていた。それは引き戸という、希有な、じつに知的な構造によって、壁になり、出入口にもなり、そこから人が現れたり吸い込まれたりするのだった。開閉のためのスペースがまったく要らない発想には感心した。

 障子なんて何度も見てるけど、こんなに深く考察したことなかった。たしかに、壁と窓と扉の三つの機能を兼ね備えてるな。言われてみると、すごくよくできたシステムだ。もしガラスが発明されていなかったら、障子が世界中で使われていたかもしれない。


 高野秀行さんの『異国トーキョー漂流記』 という本に、
「日本人がインド旅行に行くとただの乞食にまで深淵なるインド哲学を感じてしまうように、多くの外国人も日本に『東洋の神秘』を求めてやってきて、何の変哲もないものに勝手に『東洋の神秘』を感じて帰っていく」
みたいなことが書かれていた(十数年前に読んだ本なのでうろ覚えだが)。

 シャルマ氏も、日本のあれこれに「東洋の神秘」を見出す。

 日本では「学ぶ」ことは教えを乞う行為なのではなく、手伝いをすることであり、ひたすら自我(アートマン)を滅して師に尽くしつつ、その間に師の技術を「盗む」ことなのである。したがって師はただ弟子を酷使し、場合によっては打擲する。
 カウンターの向こうで客と接する板前とその弟子は、下駄と呼ばれる木製の伝統的な靴を履いており、弟子が粗相をしたり仕事が遅いときは、下駄で弟子を密かに蹴飛ばす。それで弟子の足は、いつも生傷の絶え間がないという。師は蹴飛ばすときも客とにこにこ話をしていて、他の人間にはそのことを気づかせないということだ。
 それが師の愛の形で、日本では「しごき」という独特の愛の概念をもって理解されているそうである。これは、バラモン教以後に栄えた仏教の空(スーンニヤ)の思想の実践のように私には思える。日本の伝統料理文化の継承は、このような一種の宗教的「修行」にも似た形でなされる。これは「トレーニング」や「ラーニング」という概念ではなく、「アセティック」すなわち「苦行」という訳語が適当だろう。店内には小さな白木の神殿が祀られていたが、それを見て私はインドの道場(アカーラー)を思い出した。

 板前の大将が弟子を蹴飛ばしている姿に、シャルマ氏は仏教の〝空〟や〝苦行〟を見出す。
 おもしろい考察だけど、残念ながら考えすぎだよ。虫の居所が悪いから蹴飛ばすのを「愛によるしごき」って言ってごまかしてるだけだよ。残念ながらそこには哲学も宗教もない。あるのは身勝手さだけだ。




 シャルマ氏は知性的な人物の例に漏れず、ユーモアのセンスも一級品だ。

 二回目の西洋トイレの試みはさらに難解で、意表を突いたディズニーランドだった。便器の後部に機械がついていて、さまざまな押しボタンがあったが、それはトイレット・ペーパーを使用せずに用が足せる装置だった。
 正直いって私は恐れた。トイレ一つにもさまざまな操作知識が要求される。日本はインドのように、石器時代の名残をどこにも残していない。
 すべてがデジタル化されていて、私はコンピュータの技術訓練校に行かないまま本番に臨んだ生徒のように、やけっぱちな気分を味わった。それも、最も自由で最も個人的な空間であるはずのトイレで。
 私は慎重に、注意深く、ボタンの上に書かれた英語や絵文字の意味を読んだ。ボタンを押すと、便器の内部から尻を目がけて温水が出、そのあとに温風が吹き出した。おどろいて腰を上げたとき水が飛び散ったが、瞬時に止まったのは機械が自動検知したのにちがいない。何といってもおどろいたのは、「ここを押せ(プッシュ・ヒア・アフター・ユーズ)」と書かれたボタンを押したときだった。水が流れるとどうじに、便座を覆っていた紙がモーター音とともにするすると回りはじめたのである。
 梯子というのは、さらに一軒二軒と酒場を飲み歩くことである。そして多くの場合、次第に風紀の乱れた店に行くことである。
 稲田氏が最初の店で「私はピンク・サロンの常連でね」と言い出したとき、私はその意味を「共産主義的な会合にしょっちゅう出席している」という意味に受け取った。
 それで「これからピンク・サロンに行こう」と言い出したとき、何と真面目な人かと感心した。「呼称」がもつ差別について語るに値する人であると思ったのである。
 稲田氏の誘いに、皆が「よし行こう行こう」と言いはじめた。で、われわれはそこに向かった。が、そこは共産主義者の会合の場ではなく、おどろいたことに「ハーレム」だった。

 まるでコントだ。ユーモアあふれる描写が随所に光る。

 日本人が海外旅行して失敗した話もおもしろいが、外国人が日本で衝撃を受けた話はもっとおもしろい。




 シャルマ氏は生粋のインド人なので、宗教やカーストを常に心に持っている。
 それでいながら、日本という異文化に対する敬意を忘れず、なんとか溶け込もうとしている。異文化コミュニケーションのお手本のような姿勢だ。

 たとえば彼は豚肉を口にしないが、豚肉を食べる日本人のことを責めたり蔑んだりしない。日本には「お気持ちだけいただきます」という言葉があることを知るとなんとすばらしい姿勢かと感心し、自分も「お気持ちだけいただきます」といって豚肉を食べる相手と席を共にする。

 豊かな好奇心、克己心、理性、洞察力を兼ね備えている。なんとすごい人かとおもう。
 彼の異文化に飛びこむ姿勢に感心する。

 たとえば日本では知人の家に招待されたとき玄関で靴をそろえるのがマナーだが、インドでは「靴を触るのは低いカーストの人間だけ」という規律があるそうだ。

 だからシャルマ氏が日本の家に招待されたとき、彼は逡巡する。靴を触るなんてまるで召使じゃないかと。カーストのない国で育った我々には想像するしかないが、我々が外国で「家に招待されたときは主人の靴をなめるのがマナーです」と言われるようなものだろう。

 だがシャルマ氏はどれだけ抵抗を感じる行為でも、実害がないかぎりは極力日本式に従って行動する。そこに日本に対する深い敬意を感じずにはいられない。


 シャルマ氏は日本のテクノロジーに感心し、日本人の優しさや気配りの細やかさに最上級の賛辞を贈る。

 だが、日本に長く滞在し、日本のことや日本人のことを深く知るにつれ、彼は日本人の浅薄さ、傲慢さ、狭量さに次第に気づくようになる。
 後半は鋭い指摘が続くが、日本人としては耳が痛い。なぜならことごとく図星をついているからだ。

 表面上は反戦主義だが本当に過去の戦争に向き合ってない、押しつけられた反省を受け入れているだけ、グローバリゼーションなどと言いつつも見ているのは欧米だけ、欧米のやりかたは合わせるのに他のアジアの国は軽視して日本のやりかたを押しつけようとする、行く先の宗教や文化を調べようとしない、非効率な仕事ばかりしている、インドを安い労働力確保と市場拡大の場としかとらえておらずインドへの敬意も理解も持っていない……。

 これらの指摘はことごとく当たっている。日本に対する敬意を持ち深い理解をしようという姿勢を持っているシャルマ氏が言うから余計に突き刺さる。
 そして日本の欠点は二十年以上たった今でもほとんど改善されていない。90年代前半は日本をお手本にしようとしていたインドはその後完全に日本に見切りをつけ、アメリカに視線を定めたことがすべてを物語っている。
 そしてこれはインドだけではないだろう。技能実習生などといって海外の若者を食いつぶしている日本に向けられる目はどんどん厳しくなり、能力ある若者は日本よりもアメリカや中国を選ぶようになるだろう。

 タイトルにある『喪失の国』は、その後の日本の運命を見事に言い当てていた。




 引用したい部分が何十箇所もあったが、あんまりやると引用の範囲を超えてしまうのでやめておく。

 とにかくおもしろい本だった。
 くりかえしになるけど、絶版になっているのがつくづく惜しい。電子書籍にして残してほしい本だ。


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