2024年4月26日金曜日

小ネタ13

馬鹿の故事

 秦の政治家が鹿を馬だと言い張り、部下たちに「これは馬だな」と訊いた。彼を恐れた部下は「鹿です」と答えた。正直に「馬です」と答えた部下もいたが、その部下たちは殺された。

 ……という逸話から「馬鹿」という言葉が生まれたという説がある。

 なかなかよくできたエピソードだ。というのは、「知らないこと」「まちがえること」をバカと呼んでいるのではなく「まちがいに気づいていながら気づかないふりをすること」「まちがいを認めないこと」をバカと呼んでいるからだ。知見に満ちている。

 つまり、思考することが苦手な首相がとんちんかんなことを言ってしまうのが馬鹿なのではなく、それに対して記者会見で見解を求められた官房長官が「その指摘はあたらない」と回答することが馬鹿だということだ。


高度なダジャレ

 青酸カリの生産管理


小さなお葬式

 うちの5歳児がよく「ちいさなお葬式♪」ってCMソングを歌うんだけど、今日会った友人の子(6歳)も「ちいさなお葬式♪」と歌ってた。こないだは近所の8歳の子も歌ってた。

 あのメロディには子どもに刺さる何かがあるんだろうか。

 子どもが葬儀屋のCMソングを歌っていることにぎょっとするから余計に印象に残るのかもしれないが。


好景気

「今の日本は賃金も上がってるし失業率も低いから好況だ!」と主張している人がいて、それに対し「こんなに庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」と反論してる人がたくさんいた。

 今が好景気かどうかは知らないが、少なくとも「庶民の生活が苦しいのにどこが好景気だ!」という反論は誤っている。

 勘違いされがちだが、好況下においてべつに庶民の暮らしは良くならない。漫画サザエさんを読むと、高度経済成長期にニュースで物価値上がりを伝えていて、サザエさんが「家計が苦しいわ」とぼやいているようなシーンが出てくる(はっきりした記憶ではないが)。

 好況であれば物価が上がり、物価が上がれば貯金は目減りする。ふつう賃金の上昇は物価上昇よりも遅れてやってくるから、安定した職についている人、年金受給者、貯金で食っている人などの生活は苦しくなる。そういう人たちにとってはデフレ不況のほうがむしろありがたい。

 逆に、投資家や求職者、借金を抱えている人などにとっては好況のほうが得をすることが多いだろうが、どちらかといえば好況で生活が苦しくなる人のほうが多いのではないだろうか。

 本来「好況」と「暮らしが楽になるか」はまったくべつのものなのだが、そこを一緒に考える人は多い。

 なぜかというと、漢字のせいだろう。

 好況、好景気という漢字を見ると、さも良いことずくめのようにおもえてしまう。好転、好評、好機、好人物、好青年、好印象と好がつく熟語はプラスの意味を持っている。だから「好況」「好景気」という単語を見ると良いものとおもってしまうのだ。そして「不評」「不人気」などに引っ張られて、不況、不景気は悪いものとおもってしまう。

「好況」は英語だと「boom」である。「boom」には他に「急激な増加」とか「ドーンという大きな音」とかの意味があるので、「好」というよりは「大」とか「拡」とかの意味が近いのではないだろうか。

 好景気とは単純にいえば経済の拡大であり、拡大にはいい影響もあれば悪い影響も伴う。「好景気=いいもの」「不景気=悪いもの」という思い込みから脱するために、「好景気」「好況」ではなく読みはそのままに「広景気」「広況」の字を充てるのはいかがだろう。「高」の字でもいい。対義語は、経済の動きが鈍るという意味で「歩景気」「歩況」で。


2024年4月25日木曜日

【読書感想文】渡辺 佑基 『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』 / マグロはそこまで速く泳がない

ペンギンが教えてくれた物理のはなし

渡辺 佑基

内容(e-honより)
ペンギン、アザラシ、クジラにサメにアホウドリ…大自然を生き、その生態が多くの謎に包まれた野生動物たち。彼らに直接記録機器を取り付ける「バイオ(bio=生物)+ロギング(logging=記録)」によって明らかにされた、驚きの姿とは?若き生物学者が七転八倒しながら動物たちの背景にある物理メカニズムを読み解き、進化的な意義に迫る!第68回毎日出版文化賞受賞作。

 おもしろかった!

 バイオロギングという手法(生物に記録装置をとりつけてなるべく自然な行動を測定する方法)を使って野生生物の生態を研究している生物学者による、研究ルポ。

 「生物学者なのになぜ物理の話?」とおもうかもしれないが、読めばわかる。生物の行動を知るには物理の知識がかなり有用なのだ。それを、ぼくのようにたいして物理の知識がない人間にも(なんとなく)わかるように伝えてくれる。文章も軽妙で、おもしろい。



 たとえば。

 マグロという魚は、他のあまたの魚類とは根本的に異なる生理的な特徴をひとつもっている。
 体温が高いのである。種やサイズにもよるが、マグロ類はまわりの水温よりも一〇度ほど高い体温を常に保っている。血管や筋肉の配置が特殊化しており、尾びれの往復運動によって発生した熱を体内にため込むことができるからである。
 魚類は変温動物であり、体温は周りの水温と常に等しいというのが一般的な常識である。けれども中にはマグロのような常識外れの魚がいることを覚えておこう。
 ともあれ体温が高ければ筋肉の活性が上がるので、マグロは尾びれをすばやく振り続けることができる。尾びれの振りの速さはそのまま遊泳スピードに直結するので、マグロは他の魚に比べて速く、持続的に泳ぐことができる。
 そして速く泳ぐことができれば、途方もない長距離の回遊も限られた時間内に成し遂げることができる。たとえば東西に八〇〇〇キロも広がる太平洋を、もしも時速二・五キロのイタチザメが横断しようとすれば、片道一三三日もかかる計算になる。いっぽう時速七キロのマグロなら、わずか四八日でそれができる。ただし実際の魚は矢のように直進するのではなく、水平的にも鉛直的にもうろうろするので、それよりはずっと長くかかる。

 マグロが速く泳げるのは、体温が高いからだという。運動効率を上げるためには体温が大事だとは知らなかった。変温動物であるにもかかわらず体温を高められるように進化したマグロは、他の魚よりも速く泳げるようになった。生物はいろんな進化をするものだ。

 また、体が大きいほど速く移動できるという。代謝速度はおおよそ体重の3/4乗に比例するが、水の抵抗は体表面積(体重の2/3乗)に比例する。だから体が大きくなるほど代謝速度の余剰が生まれるというわけ。

 そういや短距離走のトップ選手もみんな身体でかいもんなあ(たとえばウサイン・ボルトの身長は195cn)。移動の無駄をそぎ落としていけば、最終的には身体の大きさの勝負になるのか。


 ところで、マグロはどれぐらいのスピードで泳ぐか知っているだろうか?

 ぼくは「80km/hを超える」という話を聞いたことがある。本によっては「100km/h以上の速度で泳ぐ」と書いてあるそうだ。ところが著者によるとそれはとんでもない大間違いで、せいぜい7km/hぐらいなんだそうだ(それでも海中ではダントツで速い)。

 100km/hと7km/hではぜんぜんちがうじゃないかとおもうが、それぐらい海中の生物の生態のことはよくわかっていなかったそうだ。実験場で計測した値(速度ではなく力を測ったりするらしい)と、野生のマグロを計測した値ではそれぐらい違うらしい。

 ちなみに「マグロ 速度」で検索すると、わりと信頼あるサイトでも「マグロ100km/h近い説」を掲げている。

 ほんとはどっちが正しいかはぼくには判断できないけど、やっぱり水中で100km/hってのは無理がある気がする。水中の移動は空気中の十数倍の抵抗を受けるんだから。



 渡り鳥などの移動を記録するジオロケータの説明。

 動物の移動はGPSを使って計測しているのかとおもいきや、そうでもないらしい。GPSは、位置情報を装置自体に記録しているため、動物につけて移動を記録した後、再度同じ動物を捕まえて装置を回収しなくてはならないらしい。しかし一度放した野生生物をふたたび捕獲するのは至難の業。GPSを回収しないことにはどこにいるかもわからないしね。

 そこで、GPSを使わずに位置情報を計測するのがジオロケータだ。

 ジオロケータは数分に一回程度、周りの明るさ(照度)を記録する。測位に使うパラメータはそれだけ。ジオロケータが小型化できるのも、そのわりに長もちするのも、電波を発信したりせず、ただ黙々と照度を記録していくだけだからである。そして一年間の照度の記録から、一年間の鳥の移動経路を算出することができる。
 照度から移動経路がわかる。これは狐につままれたような、でも言われてみればごく簡単な、大航海時代の船乗りも使った天測である。
 一日のうちの照度の変化に注目すれば、照度が急に上がった日の出の時刻と、照度が急に下がった日の入りの時刻がわかる。そして日の出の時刻と日の入りの時刻がわかれば、その日の昼間の長さがわかる。さらに日の出と日の入りの真ん中をとれば、南中の時刻もわかる。必要なのは昼間の長さと南中の時刻。さあ、これで測位の準備は早くも完了。
 地球スケールで見たとき、昼間の長さは緯度(南北方向)によって変化する。夏の間は緯度が高くなるほど昼は長くなるし、逆に冬の間は、緯度が高くなるほど昼は短くなる。だから昼の長さがわかれば、おおざっぱな緯度を推定することができる。
 次に南中の時刻。再び地球スケールで見たとき、南中の時刻は経度(東西方向)によって変わる。たとえば東京とロンドンとでは九時間の時差があるから、南中の時刻もだいたい九時間ずれている。だから南中の時刻がわかれば、ざっくりとした経度を推定することができる。
 このようにして照度の記録から、地球上のだいたいの緯度、経度を推定するのがジオロケータの測位システムである。シンプルこのうえなし。

 なんと時刻ごとの照度の推移がわかれば地球上のどこにいるかがわかるというのだ。

 精度が粗い、春分の日と秋分の日の前後はは機能しない(地球上どこにいても昼と夜の長さが同じになるので)などの問題はあるそうだが、「明るさを計測するだけで場所が特定できる」ってのはすごい仕組みだなあ。

 緯度が低いほど昼の時間が長いとか、南中時間は東に行くほど早いとか、理科の授業で習うから知識としては知っていても、こうやって実際に活用することはむずかしい。

 生物学と物理学と天文学の知識が結びつく。わくわくする話だ。



 あとおもしろかったのは、鳥の翼の話。

 烏にとって飛行速度を下げられるメリットは大きい。ゆったりと空中を舞いながら周辺を広く見渡し、食べ物を探すことができるし、グンカンドリの場合は空中で速度を落とし、ターゲットの鳥にいやらしく付きまとうことができる。そのうえ遅く飛ぶことができれば、上昇気流に乗って上空で円を描く際、円の半径を小さくできるので、規模の小さな上昇気流をうまく利用できるというメリットがある。
 これには少し説明が必要かもしれない。上昇気流に乗って円を描くとき、烏の体には外向きの遠心力がのしかかる。遠心力が強すぎると、カーブで曲がりきれない車のように鳥の体も円の外にはじき出されてしまう。 遠心力は「(速度)の二乗(回転半径)」に比例する。外にはじき出されないよう遠心力を低く保つためには、分子である速度を下げるか、分母である回転半径を増やすか、どちらかしかない。大きな翼のおかげで速度を下げることできれば、回転半径は増やさないで済む。つまり小回りができるようになる。しかも遠心力に対して速度は二乗で効く。ということは、速度をほんの少しでも下げることができれば、回転半径はずっと小さくて済む。
(中略)
 意外なことに、鳥の普段の生活で重宝するのは遅く飛べる能力である。遅く飛べる鳥は速くも飛べるが、速く飛べる烏が遅く飛べるとは限らない。

「速く飛ぶより遅く飛ぶ能力のほうが大事」ってのはおもしろいね。なるほどなあ。ふつうは遅く飛ぶと落っこちちゃうもんな。遅く飛べるってことはそれだけ飛行技術が高いってことか。

「自転車は速く進むよりも遅く進むほうがむずかしい」にも似ているかもしれない。子どもの自転車はたいてい速すぎるし、年寄りの自転車は遅いせいでふらふらしている。



 著者が自分で書いているように、後半になるほどどんどんおもしろくなる。

 科学解説のパートだけでなく調査にまつわるエッセイ部分もおもしろい。科学好きにはおすすめの本。


【関連記事】

【読書感想文】おもしろくてすごい本 / 前野 ウルド 浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

【読書感想文】カラスはジェネラリスト / 松原 始『カラスの教科書』



 その他の読書感想文はこちら


2024年4月23日火曜日

【読書感想文】三井 誠『人は科学が苦手 ~アメリカ「科学不信」の現場から~』 / 宗教と科学が共存しない国

人は科学が苦手

アメリカ「科学不信」の現場から

三井 誠

内容(e-honより)
子どものころから科学が好きだった著者は、新聞社の科学記者として科学を伝える仕事をしてきた。そして二〇一五年、科学の新たな地平を切り開いてきたアメリカで、特派員として心躍る科学取材を始めた。米航空宇宙局(NASA)の宇宙開発など、科学技術の最先端に触れることはできたものの、そこで実感したのは、意外なほどに広がる「科学への不信」だった。「人は科学的に考えることがもともと苦手なのではないか」―。全米各地に取材に出かけ、人々の声に耳を傾けていくと、地球温暖化への根強い疑問や信仰に基づく進化論への反発の声があちこちで聞かれた。その背景に何があるのか。先進各国に共通する「科学と社会を巡る不協和音」という課題を描く。

 世界でいちばん多くノーベル賞受賞者を輩出し、科学の分野でトップを走るアメリカ。

 その一方で「地球温暖化は陰謀」など誤ったことを四六時中垂れ流すドナルド・トランプ氏を大統領に選ぶ国でもある。

 アメリカ特派員となった科学を愛する著者が見た「アメリカ人の科学に対する考え方」とその背景とは――。



「アメリカでは進化論を否定していて、神が全生物を創造したと信じている人が多くいる」という話を聞いたことがある。

 んなアホな、とおもった。

 そりゃあどの国にだってアホな人はいるだろう。日本人だって進化論をきちんと理解している人は少ない。現生のサルが進化してヒトになったと勘違いしている人も多い。

 でも、どうやら「どこにだって一定数のアホはいるよね」という話でもないようなのだ。

 米ギャラップ社の世論調査(2017年5月)によると、「神が過去1万年のある時に人類を創造した」との考え(創造論)を支持する回答が38%に上った。米国人の3人に1人は今でも、数百万年にわたる人類の進化を否定し、神が突然、人類を創造したと考えているのだ。「人類は数百万年にわたり進化してきたが、そこには神の導きがある」とする回答への支持も同じく38%だった。このグループは、「神が約6000年前に人類を創造した」とする保守的なキリスト教のグループとは違って数百万年にわたる人類進化を認めつつも、そこには「神の導き」があるとする。化石などの証拠との矛盾はないが、「神のおかげ」という考え方は維持している。

 神が1万年前に人類(今の人類と変わらないヒト)を創造したと考える人が4割近く。進化したことは認めつつも生存競争と自然淘汰によるものではなく神のお導きによるものだと考える人も4割近く。あわせると4人に3人が神の介入を信じている。

 アメリカには「創造博物館」なる博物館もあり、そこでは進化論をまっこうから否定して、「恐竜と人類が同じ時代に生きていた展示」などがおこなわれているらしい。


 まあ日本にも「南京大虐殺はでっちあげ!」派など歴史捏造が好きな人たちがいる。たぶんどこの国にもそういう人はいるのだろう。

 アメリカがすごいのは、この手の「創造論支持者」が政治的な力を持っていて、「学校で進化論を教えるな! 創造論を教えろ」という運動になり、州によっては州法で「創造論を教えること」「進化論に対する懐疑的な姿勢を育てるように」などと定められたこと。さすがは自由の国。自由の国にするということはこういうことも引き受けないといけないってことなんだなあ。


「創造論支持者」の考えは、何度読んでも理解しづらい。

 日本にも熱心な仏教徒やクリスチャンはいるが、科学を否定する話は聞いたことがない。

 生まれ変わるとか天国や地獄があるとか、科学と矛盾することについては「それはそれ、これはこれ」って感じで、わりと割り切っている。たぶん僧侶ですら、経典の教えを文字通り信じているわけではないだろう。「こう考えたほうがよりよく生きられますよね」ぐらいの考え方だとおもう。

 昔、エホバの証人の信者が、命を救うために輸血をした医師に対して訴訟を起こした事件があった。大きな話題となったが、それが大きな話題となるということは、それが特異な思想だったからだ。

 大半の人は、信仰を持っていたとしても、信仰と科学は分けて考えている。でもアメリカには信仰で科学を上書きしている人が多いらしい。



「アメリカ人の多くが進化論ではなく創造論を信じている。人類と恐竜が同時代に生きていたとおもっている」と知ると「アホなんだな」とおもうかもしれない。

 が、どうやらそういうわけでもないらしい。


 知能が高く、かつ、十分な知識もある人でも、「人間の活動が地球温暖化を引き起こしているという話は陰謀だ!」と信じている人が多くいるという。

 それは、知性や、科学に対する知識よりも、党派性のほうが強い影響を持つから。

 具体的にいえば共和党支持であれば、温暖化に関する知識の多い人ほど「地球温暖化陰謀論」に傾き、逆に民主党支持者は温暖化に関する知識が多いほど「地球温暖化は人間の活動が引き起こした」と考えているらしい。

 お互いに「あいつらは知識が足りないからまちがった情報を信じているのだ。理解が深まればおれたちの考えに同意するに違いない」と信じている。ところが実際は逆で、知識が増えれば増えるほど溝は深まっていくのだ。


 ショッキングだったのは、銃規制の場合だ。政治的な思いに応じて結果が異なったのだ。銃規制に前向きな民主党支持者の場合、銃規制が効果を上げて犯罪が減ったとする想定の問題に取り組んだグループでは、計算能力が高い人ほど正答率が上がった。自分の思いを確認できる計算は、きっと楽しかったに違いない。「やっぱりそうだよな」といった感じだ。
 一方、銃規制のために逆に犯罪が増えたとする想定の問題、つまり自分の思い(銃規制をすると犯罪が減る)と異なる想定の問題に取り組んだ民主党支持者では、計算能力が高い人でも正答率は上がらなかった。
 政治的な思いが計算能力を奪っているのだ。銃を持つ権利を重視して銃規制に反対の姿勢を取る共和党支持者の場合でも、この傾向が確認できた。
 銃規制が効果を上げて犯罪が減ったとする想定の問題に参加した共和党支持者は、計算能力が高い人でも正答率がそれほど上がらなかったのだ。問題で示されたデータが、「銃規制すると犯罪が増える」という自分の思いに合わないからだろう。一方、銃規制のために犯罪が増えたとする想定の問題、つまり自分の思いとデータが一致した問題に取り組んだ共和党支持者では、計算能力が高くなるにつれて正答率が上がった。

「自分の信条と異なるデータ」を見せられて、計算問題を出題されると、なんと正答率が下がるという。「こんなはずはない」という思いが計算能力を狂わせるのだろう。

 単純な計算ですら、党派性の影響を受けて揺らいでしまうのだ。まして「総合的にどちらが正しいか判断する」なんて問題では、党派性で目がくらんで正確に判断できなくなるのは明らかだろう。


 政治家が、自分の推し進めている政策を批判されたときによく、「丁寧に説明して理解を深めていきたい」と口にするじゃない。

 反対する側としては「いやいや、理解していないから反対しているわけじゃなくて、理解しているからこそ反対してるんだよ」とおもう。万博の良さを知らないから反対しているわけじゃなくて、知った上でそれを上回る万博の悪さを知っているから反対しているんだよ、と。

 ぼくは政治家の「丁寧に説明して理解を深めていきたい」はその場しのぎの言い訳だとおもっていたんだけど、あれは本気で信じているんだろうなあ。本気で「反対するやつは理解が足りないから反対しているのだ」とおもっているのだ。どうしようもねえな。



 タイトルの通り、人は科学的に判断するのが苦手らしい。

 知能が足りないとか、知識が足りないとかいう理由もないではないが、それより「科学よりも感情や好き嫌いや思想信条を優先させてしまうから」らしい。だから科学者であってもよく間違える。いや、むしろ科学を生業にしている人のほうが、正誤が自身の人生の評価に直結する分、まちがいやすいかもしれない。


 この本には、地球温暖化対策で石炭の使用量が減り、仕事がなくなって困っていた鉱山労働者たちが地球温暖化を否定するトランプを支持した、なんて話も出てくる。こういうのはわかりやすい。その“科学”がまかり通ると自分が困る。だから“科学”を否定してしまう。

 己の損得が科学的な目を曇らせてしまう。それはまだわかる。誰しも陥る罠だ。

 ただ問題は、「科学が苦手」ではなく「科学を悪用する人」もいることだ。

 地球温暖化の科学を認めれば、温室効果ガスを抑えるための政府の規制強化を受け入れることになりかねない。だから、「地球温暖化は起きているかもしれないけれど、人間の影響かどうかはわからない」「地球温暖化が進んだらシロクマは困るだろうが、私たちには関係ない」などと言って、地球温暖化の研究者の見解に異議を差し挟んでいる。
 地球温暖化へのそうした異議を、ヘイホーさんは「本当の意図を隠す煙幕だ」と指摘した。戦場で味方の動きなどを隠す人工的な煙が煙幕だが、ヘイホーさんがいう煙幕は、懐疑派の人たちが「規制が嫌い」という本当の意図を隠すために使う、目くらましのようなものだ。「規制が嫌いだから」とそのまま言うと、わがままなだけと思われるので、「地球温暖化の科学は疑わしい」という「煙幕」を使っているという構図だ。
 だから、煙幕を真正面から受け止めてデータや事実を積み上げて説得しても、議論は空回りになるだけなのだろう。

 人々の経済活動が地球温暖化を引き起こしているとなると、活動が規制されてしまい、儲けが減る。だから「温暖化は陰謀だ」と主張する。

 タバコ業者が「タバコが健康に悪いという決定的なデータはない」と言い逃れをおこない(ほんとはデータがあるのに)、タバコに対する規制を先延ばしにする。

 公害問題が明らかになっても、原因物質を排出している企業が「この物質が原因だという決定的な証拠がない」と言い(たとえどんなに可能性が高くても)、対策を遅らせる。

 原発推進しないと利益が得られない人が「原発は絶対に安全だ」と嘘をつき、強引に稼働させようとする。

 その手の、意図的に誤った結論に誘導しようとする人に対しては、そもそも科学的な議論が成り立たない。なぜならその人や会社にとっては結論が決まっているのだから。どうあっても「だったら二酸化炭素排出の規制を強化しよう」「いったん原発の稼働は見送ろう」という結論に至るつもりはないのだから。だからあるはずのリスクをゼロに見積もってしまう。


「科学は苦手」はアメリカだけではなく、どの国にもあてはまることなんだろうね。ぼくも気をつけねば。


【関連記事】

【読書感想文】ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』 / 科学と宗教は紙一重

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』



 その他の読書感想文はこちら


2024年4月16日火曜日

【読書感想文】奥田 英朗『噂の女』 / 癒着システムの町

噂の女

奥田 英朗

内容(e-honより)
「侮ったら、それが恐ろしい女で」。高校までは、ごく地味。短大時代に潜在能力を開花させる。手練手管と肉体を使い、事務員を振り出しに玉の輿婚をなしとげ、高級クラブのママにまでのし上がった、糸井美幸。彼女の道行きにはいつも黒い噂がつきまとい―。その街では毎夜、男女の愛と欲望が渦巻いていた。ダークネスと悲哀、笑いが弾ける、ノンストップ・エンタテインメント!

 最初の章である『中古車販売店の女』を読み終えた時点での感想は、「奥田英朗作品にしてはつまらないな」だった。

 同僚が中古車を買ったらすぐ故障した。クレームをつけにいくのに付き添いで中古車販売店に行ったら、学生時代の同級生の女がいた。学生時代は地味で目立たない女の子だったのに、やたら肉感的で男好きのするタイプになっていた。昔の同級生に詳しい話を聞くと、中古車販売店社長の愛人をやっているという噂も流れてきた――。

 という話。タイトル通りの「噂の女」で、「田舎にちょっと派手でミステリアスな女がいると暇な人たちの噂のタネになるよね」という話。しかし噂は噂でしかないので、小説の題材としては弱すぎるよな……。




 という印象だったのだが、二篇目、三篇目と読んでいくうちに印象が変わってきた。

 連作短篇集になっていて、登場人物は毎回変わるのだが、噂になっている“糸井美幸”という女だけは共通している。

 そして次第に明らかになってゆく“糸井美幸”の正体。最初は中古車販売店の従業員や雀荘のアルバイトだったのに、主婦になり、高級クラブのママになり、檀家総代になり、大きな金や権力を動かすようになる。

 どうやら社長の愛人らしい、どっかの社長と結婚したらしい、その社長が風呂で死んで遺産を相続したと聞いた、睡眠薬を入手しているようだ、県会議員の愛人なんだそうだ、寺の住職が糸井美幸にそそのかされているらしい……。

 ひとつひとつは単なる噂でも、積み重なっていくと信憑性が増してくる。ただし糸井美幸本人の内面は一切語られない。そもそもほとんどの人は「噂」「属性」で糸井美幸を判断し、彼女自身と向き合おうとしていない。

 はたして糸井美幸は噂通りの悪女なのだろうか。それとも噂は噂でしかないのか。

 このあたりの書き方が実にスリリング。最後まで糸井美幸自身の内面がつまびらかにされないのも、余韻を持たせてくれていい。




 この小説、糸井美幸という女も魅力的なのだが、舞台である岐阜の地方都市の書き方が実にリアルでいい。作者の出身地だけあって、方言まじりの会話も活き活きしている。


 なにがいいって、無関係の人間から見るとこの町が「どうしようもない町」なんだよね。

 中小企業は社長が会社の金を私的に流用して税金をごまかし、そこの社員はやる気をなくしてサボり経費をちょろまかす。失業者は失業保険を不正受給してパチンコ屋に入りびたり、公務員は知人から賄賂をもらって公団住宅の入居権を斡旋する。資産家の家族は遺産をめぐって対立し、ろくな働き口がないシングルマザーは半ば売春の商売をする。土建屋は談合をし、役所の職員は談合を見逃すかわりに甘い天下り先を手に入れる。寺の住職は色仕掛けにころっと騙され、刑事は市民そっちのけで派閥争いに明け暮れる……。

 ほんと、どうしようもない。しがらみ、汚職、利権、天下り、裏金など不正がはびこっており、ほとんどの人間が「こういうものだ」とおもって受け入れている。

「うちもアカン。あやうくお茶ひくところやった。十時になって団体客が来たけど、中央署の警察官の送別会の流れ。もう最悪」
「うそー。可哀想」
「警察官やとあかんの?」博美が聞いた。
「当たり前やないの。平塚さん、知らんの。警察なんかやくざより性質が悪いわ。体は触るわ、威張り散らすわ――」
「そうそう。それに店も大赤字やし」
「なんで赤字になるの」
「警察はどんだけ飲み食いしても一人三千円。この界隈の昔からの決まりごと。ママに聞いたら、店を開いたとき、飲食店組合の上の人が来て、警察とは持ちつ持たれつやでそうしてくれって強制やあらへんけど、いろいろな付き合いを考えると、アンタの店もそうしたほうがええよって言われたんやと。そんなもん脅しやないの」
 博美は彼女たちの打ち明け話に驚いた。世の中に裏はつきものだが、実際に知ると唖然とする。「まあ、その代わり、駐車違反は見逃してもらうけど」
 仲間の建設会社の社長が、役人の再就職受け入れを渋るようなことを言い出したので、日頃親しくしている同業者団体「躍進連合会」のメンバーでその会社に押しかけ、説得にあたることにした。
 躍進連合会とは、名目上は親睦団体ということになっているが、内情は公共事業に携わる地元建設業界の談合組織である。だから説得というより、詰問に近かった。業界のしきたりを破ってどうするつもりだ、というわけである。
 県庁及び市役所の建設部や水道部の退職者を、定年時の役職に応じて四百万円から七百万円の年収で五年間雇用するというのが、会の決まりだった。幹事役は連合会の理事で、もちろん役所側にも斡旋係がいる。談合と天下りが世間で批判されて久しいが、地方は基本的に昔と変わらない。地縁血縁の社会に競争はそぐわないのである。
 幹部が異動する際には餞別を集めるのが、警察のしきたりだった。中でも署長が交代するときは、地域の商工会や飲食店組合が「栄転祝い」を包むのが慣例化していて、その合計金額は数百万円と言われている。署長はおいしいポストなのだ。
 通常は、地元とのつながりが深い地域課や生活安全課が、企業や商店組合を回って集めていた。やくざのミカジメ料とどこがちがうのかと、最初は尚之も驚いたが、今は感覚が麻痺して違和感も消えた。組織のやることに疑問を抱かないのが、警官の出世の早道なのである。

 もちろん小説なので、すべてがほんとにあるかどうかはわからない。

 でも、どっかにはあるんだろうな。少なくとも過去にはまちがいなくあった。

 しがらみや癒着がはびこっているのは地方だけではない。都市にだってある。でも、まだ都市には「不正に手を染めずに生きていく道」がある。

 けれど若い人が減っているような地方で金持ちになるには、権力者にうまくとりいって、ときには不正に手を染めて、もらえるチャンスがある金は不正なやりかたでももらう……という道しかないんだろうなという気がする。だってそういうシステムができあがってるんだから。システムから離れて大っぴらにやっていくことはできない。目立つとシステムの中にいる人たちにつぶされてしまうから。

 しがらみや癒着を前提にしたシステムが嫌いな人は都会に出ていくから、余計に地方のしがらみシステムは強固なものになる。

 『噂の女』の糸井美幸という女は(たぶん)とんでもなない悪女だが、これはこれで適者生存というか、癒着が前提となっている地方都市で何も持たない女がのしあがろうとおもったらこういう方法を選ぶしかないよなあ。まじめに働いている者が報われる社会じゃないんだもの。


「みんなのお金をなんとかしてうまくかすめとる」というシステムで、全体が発展することはない。国体をやろうがオリンピックをやろうが万博をやろうが、それは本来別の誰かがもらうはずだった金をかすめているだけなので全体が潤うことはない。そして地方経済は衰退し、若い人は流出していき、減った利権を守るためにますます不正が横行し……。

 そりゃあ衰退するわな。地方の衰退、国家の衰退の原因がここに詰まっている気がする。

 ま、もちろんそれだけじゃないんだけど。人口減が最大の要因であることはまちがいないんだけど。でも、人口が減っている中で「じゃあいらないところは切ってもっとコンパクトに効率的にやっていきましょう」とできない理由もまた、ここにあるんだよな。

 

 こういう「コネや賄賂や談合や天下りや癒着や便宜がなくなると困る!」って人が世の中にはいっぱいいるんだもの、そりゃあ国政も腐敗しますわなあ。


【関連記事】

【読書感想文】岡 奈津子『〈賄賂〉のある暮らし ~市場経済化後のカザフスタン~』 / 賄賂なしには生きてゆけない国

【読書感想文】山内 マリコ『ここは退屈迎えに来て』 / 「ここじゃないもっといい場所」は無限にある



 その他の読書感想文はこちら


2024年4月9日火曜日

【読書感想文】平山 夢明『或るろくでなしの死』 / ぼくらはみんなろくでなし

或るろくでなしの死

平山 夢明

内容(e-honより)
良識を示そうとした浮浪者が誰にも相手にされずに迎える「或るはぐれ者の死」、他国で白眼視されながら生きる故郷喪失者の日本人が迎える「或る嫌われ者の死」、自らの欲望に女の子を奉仕させようとしたくだらない大人が迎える「或るろくでなしの死」、過去の栄光をよすがにダメな人生をおくるぼんくらが迎える「或る英雄の死」…。本人の意志や希望と関係なく不意に訪れる7つの“死”を描いた傑作短編集!

 とにかくグロテスクで救いようのない物語が続く短篇集。


 作者によるあとがきにはこうある。

 此処に収められた七つの物語は全てが<死>にまつわるものです。
 物理的な<死>は勿論のこと、なかには生き甲斐の<死>主人公の<死>よりも周囲の世界の<善>が死んでしまう場合もあります。
<或るはぐれ者の死>では、まともを装っている世間の顔を引っぺがそうとした浮浪者が、
<或る嫌われ者の死>では、祖国を失い他国で嫌われ者として生きなければならない日本人が、
<或るごくつぶしの死>では、他人を家具のように扱いながら逃げ切ろうとした青年が、
<或る愛情の死>では、災厄による悲劇をナルシシズムに置き換え自らを崇めた母親が、
<或るろくでなしの死>では、ある少女を取り巻く世界が、
<或る英雄の死>では、過去の栄光を、よすがにしていたぼんくら男たちの友情が
<或るからっぽの死>では、皮肉な力を身につけた青年の愛が、
それぞれ徹底的に蹂躙され、破壊されていきます。


 まともな人はほとんど出てこない。浮浪者、浮浪者にことさら厳しい警察官、他人をモノのように扱うクズ男、息子の死をきっかけに発狂した母親、殺し屋、娘を虐待する親、小動物を虐殺する子ども、痴呆老人をからかいにいく男、自死願望のある女とそれを利用して保険金を手に入れようとする親……。

 ひどいやつらばかり出てきて、ひどい行動ばかりとって、ひどい目に遭う。いやあ、救いがない。


 特にぼくの気が滅入ったのが「或るごくつぶしの死」。

 田舎から出てきた浪人生が幼なじみのおつむの足りない女と再会して、そのままヒモのような生活を送り、妊娠させて、どっちも責任感も決断力もないからずるずる中絶することなく日を過ごしてそのまま出産し、当然ながらふたりとも子どもを育てる気もないので劣悪な環境で放置され……というどうしようもない物語。どうしようもないけれど、こんなことって世の中には履いて捨てるほど転がってる話なんだろうな。


「やらなきゃいけないとわかってるのにどうしてもやる気がしなくて後悔するとわかっていながら先延ばしにしてしまう」って多かれ少なかれ誰にでも経験のあることだとおもう。


 小学四年生のときのこと。習字の宿題が出た。いついつまでに作品を提出せよ、と言われた。習字が大嫌いだったぼくは書く気がしなくて、ずっと提出しなかった。担任の先生が「提出されてる数がクラスの人数より五点少ないです」「まだ三人出してません」と言い、とうとう「一人だけ出してません」になった。ぼくだけだ。

 先生が「出してない人、手を挙げて」と言った。ぼくは手を挙げなかった。なんとかやりすごせないかとおもっていた。あたりまえだが、ごまかせるはずがない。先生はクラス全員を立たせ、ひとりずつ作品に書かれた名前を読み上げていき、呼ばれた人から座っていった。立っているのはぼくひとりだけになった。

 先生に「どうせわかるんだから正直に言いなさい」と怒られた。その通りだ。どうせ数分でばれることだ。でもその数分を、ぼくは先延ばしにしたかった。


 何年か前に、ある芸人が税金を滞納していたことが明らかになり、しばらく謹慎を余儀なくされていた。彼は「どうしようもなくルーズだった」と語っていた。たぶんその言葉は本心だったのだろう。ぼくには彼の気持ちがわかる。

 たぶん彼にはわかっていたはずだ。絶対に払ったほうがいいことを。ごまかせるはずがないことを。いつかはやらなくちゃいけないことを。後に延ばせば延ばすだけ状況が悪くなることを。

 でもやりたくない。このままずっと先延ばしにしていたら、万に一つ、うやむやになってしまうんじゃないか。

 そんな心境だったんじゃないかと想像する。




 今ではぼくは心を入れ替えて、「やらなきゃいけないこと」はなるべく早く終わらせる人間になった。夏休みの宿題は七月中に終わらせるタイプだった。

 でもそれはぼくがちゃんとした人間だからではなく、むしろ逆で自分の中に「どうしようもなくルーズ」な部分があることを自覚しているからこそだ。未来の自分を信じられないから、なるべく早く片付けてしまう。締切ギリギリになったら「万に一つ、うやむやになってくれるんじゃないか」という考えが首をもたげるかもしれないから。


 幸いぼくは今、定職について、所帯も持って、一応社会的にちゃんと生きているけど、ちょっと環境が変わったりしたら「或るごくつぶし」になっていたかもしれないとおもうんだ。


2024年4月5日金曜日

【読書感想文】武田 砂鉄『わかりやすさの罪』 / だめなんだよ、わかりやすくちゃ

わかりやすさの罪

武田 砂鉄

内容(e-honより)
「すぐわかる!」に頼るメディア、「即身につく」と謳うビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く観客…。「どっち?」と問われ、「どっちでもねーよ!」と言いたくなる日々。納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うための一冊。


「わかりやすさが大事だよ」と求められる風潮に逆らい、いやいやわかりにくいことこそ大事なんじゃねえのか、ということを手を変え品を変えわかりにくく書いた本。

 論旨は明快ではなく、話はあっちへ行きこっちへ脱線し、そうかとおもうと同じところをぐるぐるまわり、はっきりした結論がないままなんとなく終わる。

 とにかくわかりにくい本。しかしそのわかりにくさこそが重要なのだ。


 目の前に、わかりにくいものがある。なぜわかりにくいかといえば、パッと見では、その全体像が見えないからである。凝視したり、裏側に回ってみたり、突っ込んでいったり、持ち上げたり、いくつもの作用で、全体像らしきものがようやく見えてくる。でも、そんなにあれこれやってちゃダメ、と言われる。見取り図や取扱説明書を至急用意するように求められる。そうすると、用意する間に、その人が考えていることが削り取られてしまう。
 本書の基となる連載を「わかりやすさの罪」とのタイトルで進めている最中に、池上彰が『わかりやすさの罠』(集英社新書)を出した。書籍としては、本書のほうが後に刊行されることになるので、タイトルを改めようかと悩んだのだが、当該の書を開くと、「これまでの職業人生の中で、私はずっと『どうすればわかりやすくなるか』ということを考えてきました」と始まる。真逆だ。自分はこの本を通じて、「どうすれば『わかりやすさ』から逃れることができるのか」ということをずっと考えてみた。罠というか、罪だと思っている。「わかりやすさ」の罪について、わかりやすく書いたつもりだが、結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない、そう思っている。

 物事が「わかりにくい」のにはたくさん理由がある。

「説明が下手だ/足りないから」もそのひとつだが、それがすべてではない。「自分の前提知識や理解が足りないから」「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「わかりやすい理由なんてないから」など、いろんな理由がある。

 池上彰さんがかつて(民放番組に出るようになる前)やっていたのは、「説明が下手だ/足りないからわからない」を取り上げて、わかりやすく解説するという仕事だった。

 だけど、考えることが苦手な人の要望に応えすぎた結果、「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「わかりやすい理由なんてないから」みたいなことまで“わかりやすく”解説することを求められ、池上彰さんができる範囲で解説して、その結果、「どんなことでも上手な人の手にかかればわかりやすく説明できるものなのだ!」と考える人が増えてしまった。

 注意深く見ていれば、池上彰さんが「あえてお茶を濁していること」や「そもそも近づくことを避けているもの」に気づくのだが、ぼーっと見ている人は「このおじいちゃんは何でも説明できてしまうのだ」とおもってしまうのだろう。池上彰さんの番組に出る他の出演者は、「わかりそうなこと」しか質問しないしね。


 その結果、“わかりにくいもの”に出会ったときに「これは誰にもわからないものだな」とか「おれの知能や知識では判断できないものだ」と考えずに、「自分にでも理解できる説明がどこかにあるはずだ」と考えてしまう。



 少し前にも書いたけど、大谷翔平選手の通訳が違法ギャンブルをしていた件について「わかりやすい解説」をしている人がSNSにいた。多くの人が「なるほど、わかりやすい!」と言っていた。

 だめなんだよ、わかりやすくちゃ。

 だってそれはわからないことなんだから。当事者にしか、いやひょっとしたら当事者にすらわからないことなのに、誰かが“わかりやすい”解説をして、それに対して「なるほど、そうだったのか!」とうなずく。そして「やっぱり大谷さんがそんな悪いことするわけないとおもっていた」あるいは「やっぱりな。おれは前から大谷はいけすかないやつだとおもっていたんだよ」と元々持っていた思い込みを強化するための材料にする。


「わからない」状態はストレスを感じる。「なるほど、腑に落ちた!」のほうがスッキリする。腑に落ちてしまったらそれ以上考える必要がないから。

 だから脳の体力がない人は「わかりやすい説明」に飛びつく。足腰の弱い人がエレベーターや動く歩道で移動するように。けれどエレベーターや動く歩道だけでは行ける場所が限られてしまう。誰かに用意された場所に連れて行ってもらえるだけ。



 わかりにくさを抱えることの重要性を説いているので、もちろんこの本はわかりやすくない。

本来、起きていることの全体像を見にいくためには、それなりに時間をかけて様子見しなければいけない。様子見しながら持論を補強していく。俺の意見がたちまち確定している人というのは、様子見に欠けている。第三者の当事者性には、相手を見る時間が必要。「馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」になってはいけないのだ。自分が「わからなさ」を重宝する意味は、こんなところからも顔を出す。つまり、ある判断を迫られた時、ある事象への意見を求められた時、ひとまずその意見は、暗中模索しながら吐き出されたものになる。わからない部分をいくばくか含みながら、吐露される。わからない自分と付き合いつつ、わからない自分の当事者性を獲得しつつ、その対象に向かっていく。

 うん、よくわからない。著者自身ですら考えがまとまっていないまま書いているんだろうな、って箇所も散見される。

 でもそのわかりづらさが新鮮だ。おもえば、インターネット上で見られる文章はどんどんわかりやすくなっている。

 昔は動画はもちろん画像ですら載せにくかったからテキストばかりで長文を書いていた。それがブログになり、ほとんどが1000字以内に収まるようになり、画像が増え、さらにSNSでは短文の羅列が中心になり、動画が増え、そこで語られる言葉はどんどんシンプルなものになっていく。わかりやすく、わかりやすく。

 この本を読むと、久々にわかりにくいものを読んだなーという気になる。久しく使っていなかった筋肉を動かしたような気持ちよさがある。


 ぼくが書いているこのブログは時代遅れだとおもう。ほとんど人の役には立たない。書いているのは「読書感想文」であって要約や嚙み砕いた解説ではない。書いていることに一貫性はなく、そのときどきでころころ変わる。ちっともわかりやすくない。

 わかりやすいものが増えている時代だからこそ、わかりにくいブログがあってもいいよね。


【関連記事】

【読書感想文】ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』 / 科学と宗教は紙一重

思想の異なる人に優しく語りかける文章 / 小田嶋 隆『超・反知性主義入門』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2024年4月4日木曜日

編集中 いちぶんがく その22

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



積み重なっていくCDの分だけ、遠藤のプライドもどんどん高くなっていく。

 (山内 マリコ『ここは退屈迎えに来て』より)




「うん、おれたちは死ぬんだよ、心配しなさんな」

リチャード・プレストン(著) 高見 浩(訳)『ホット・ゾーン ウイルス制圧に命を懸けた人々』より)




「お前はアルゼンチン国立図書館長か」

(杉元伶一『就職戦線異状なし』より)




さらに小声で申しますが、そういう人々は、あまり美しくない、まあ健康的かもしれないが人目にさらすべきではないような顔をしているのではないか、と思います。

(福田 和也『悪の対話術』より)




素直論に幻滅したようだった。

(矢部 嵩『保健室登校』より)




オーストラリアの砂漠で、重くて騒がしいバスケットボールを抱えて数年間を生きのびることができるだろうか。

(ヘレン・E・フィッシャー『愛はなぜ終わるのか』より)




嬉しい時にしか泣けない人なのだ。

(杉井 光『世界でいちばん透きとおった物語』より)




あなたにどうやって仕返しするか、時間をかけてじっくり考えなくちゃ。

(ジョージー・ヴォーゲル(著) 木村 博江(訳)『女の子はいつも秘密語でしゃべってる』より)




ありとあらゆる種類の負け犬と狂人をごった煮にしたスープ。

(平山 夢明『或るろくでなしの死』より)




最初に断っておくが、池上彰が悪いわけではない。

(武田 砂鉄『わかりやすさの罪』より)




 その他のいちぶんがく


2024年4月2日火曜日

【読書感想文】ジョージー・ヴォーゲル『女の子はいつも秘密語でしゃべってる』 / 女の子のおしゃべりのような本

女の子はいつも秘密語でしゃべってる

ジョージー・ヴォーゲル(著)  木村 博江(訳)

内容(e-honより)
女の子はみんな、親友になんでも打ち明ける。そうやっておしゃべりしながら、悩みも苦労も乗り越えていく。べつに悩みがなくてもおしゃべりする。だってわくわくするし、楽しいから!女の子の言うことは、文字通りの意味とは限らない。でも、女どうしならわかりあえる。それって女の子の「秘密語」だから―。女の子独特のおしゃべりや言葉づかいの秘密を初めて明かし、女性にとっておしゃべりがいかに大切かを説く、ユニークな本。


「女性がどんな目的でどんなときにどんな話をしているか」について書いた本。

 ちゃんとした学術書を多く出している草思社の刊行なので研究報告をまとめた本かとおもって手に取ったのだが、そんなことなくて、「私の周りの女性はこんなふうに語ってるわ」「私の場合はこうだった」というエッセイ的な内容がほとんど。

 事実よりも感情を重視、サンプル数が少なくて偏っている、女について語っているのにそれと比較すべき男についてはまるで調べてない、とりとめのない話が続いて明確な結論はなくふわっと着地する……。

 つまりこの本自体が“女性のおしゃべり”っぽい内容になっている。身をもって女性のおしゃべりはこういうものですと示してくれているのかも……。



 一般的に、女の子はおしゃべりが好きだ。

 十代どころか、三歳ぐらいでもう男女には差がある。保育園の子をよく見ると、言語の習得は圧倒的に女の子のほうが早い。言葉を話し出すのも早いし、男の子が単語で話しているのに女の子はもう大人みたいな話し方をしている(もっともこれは単に大人の口真似をしているだけだ。女の子のほうが真似が好き&上手なのだ)。うちの五歳児は、ひとりでシルバニアファミリーで遊んでいるときもずっとしゃべっている。声色を変えたりしながら一人何役も演じている。一人二役で喧嘩までしている。

 女の子は早くから女同士のお喋りの大切さをさとるようだ。十代の女の子の大半が、大好きなことのひとつに「お喋り」をあげている。「座ってただお喋りするのが好きなの」という答え方が多いと、ヴィヴィアン・グリフィスは書いている(『思春期の少女とその友人たち』)。まるで、生産的ではない悪いことをしているかのような言い方だ。
 この年代ですでに、私たちはお喋りはよくないことだと学びとっている。学校が女の子のお喋りに批判的な見方をするため、いっそうこの傾向が強まるとグリフィスは言う。「教室で女の子がもっともよく叱られる原因が、笑うこと、そして喋ることだ。そしてお喋りだというだけで、十代の女の子は男の子にくらべてばかだと思われてしまう」と彼女は書いている。「女の子のお喋りに対する批判は、たんにそれだけにとどまらず、フェミニストの研究者が指摘するように、女同士のお喋りへの根深い蔑視とつながっている」

「そしてお喋りだというだけで、十代の女の子は男の子にくらべてばかだと思われてしまう」はたしかにそうだよなあ。雄弁は銀、沈黙は金というように、ずっとしゃべっている人よりも寡黙な人のほうが深く物事を考えているように見えてしまう。

 じっさいはそんなこともなくて、言語的なアウトプットをすることで学びが深まる分野と、そうじゃない分野があるんだろうけど(たとえばおしゃべりをしながら数学の複雑な問題を解くのは難しいとおもう)。




 人との付き合い方も男女で異なる(傾向にある)。

 女同士は、おたがいに対等でいたがる。個性はそれぞれちがっても立場は対等、というわけだ。それでこそ私たちは、おたがいの運命や問題や体験に共感できる。ハイスクール時代と同じように、私たちは仲間に入りたいのだ。異質な者は仲間からはみだす。見捨てられてひとりになるのは、恐ろしい。
 そこで私たちは、友だちの悩みを聞いても本音は伏せ、彼女の意向を支持し、自分の体験とはそぐわなくても彼女の見方に合わせる。それで友だちは自分が愛されていると感じ、お返しに私たちを愛してくれる。そこには競争はいっさいなし。競争は自分と相手とのあいだに差をつけ、対等な立場を破ることだ。

 女性同士が話しているのを見ると、十歳ぐらい歳が離れていても互いにタメ口でしゃべっているのをよく見る。男同士だとまずそんなことはない。たとえどんなに親しくなったって、十歳上の男性に対してタメ口で話しかけたらムッとさせるのではないだろうか。

 十歳上の人になれなれしく話している女性は、男性から見ると「失礼だ」と映るかもしれない。でもそっちのほうが人との距離は縮められる。

 少し前に、ビールのCMで「保育園で顔をあわせるお父さん同士がぜんぜん言葉を交わさないけどお互いに理解しあわっている」という状況が描かれていて、「そうそう、こんな感じ!」と話題になっていた。

 ぼくも毎日保育園の送り迎えを担当しているのでよく顔をあわせるお父さんがいるけど、あいさつぐらいしか交わさない(よそのお母さんともだけど)。保育園でお母さん同士がおしゃべりをしている、というのはよく見るけど、お父さん同士が必要最小限以上のおしゃべりをしているのはまず見ない。

 まだ親しくなってない人にぐいぐいと話しかけることができる人がうらやましい。男でもいないでもないけど、女のほうが圧倒的に多い(男のぐいぐいは警戒されるしね)。




 これからはビジネスの世界でも女性的なやり方が主流になっていくだろうと著者は書く。

 インターネットの『ヘルス・スカウト・ニュース・リポーター』の中で、コレット・ブーシェはある研究結果を紹介し、「女性は男性とはちがう権力の木を上るが、同じようにてっぺんまで行く」と書いている。その研究では、男性が状況を与えられるとすぐに上に立とうとするのに対し、女性は慎重にまず仲間をつくり、その力を借りて最終的に支配力を握ることがわかった。
 この研究結果はボストンのノースイースタン大学で、男女各五八人を対象におこなった実験にもとづいている。被験者は、同性同士の四、五人のグループに分けられた。グループは一週間あいだをおいて二度顔を合わせ、子育てにかんする問題を話しあった。そのようすはビデオに撮られ、毎回集まりが終わったあとで、参加者に個別のインタビューがおこなわれた。質問の内容はグループのメンバーについてで、誰がいちばんよく話したと思うか、誰がいちばんなんでもよく知っていると思うか、などだった。
 男性ばかりのグループでは、一回目の集まりですぐにリーダーが決まり、ほかの男性は序列めいたものをつくってその下に従った。かたや女性ばかりのグループでは、べつの構成力が働いた。「一回目の集まりでは、はっきりとリーダー的な存在は決まらなかった」と実際に研究をおこなったマリアン・シュミッド・マストは述べている。「男性グループと異なり、女性グループでは参加者全員のあいだで平等に力が分配された。全員がだいたい同じていどに話し、同じていどに話をさえぎられた」二回目の集まりでは、前回よりおたがいに打ち解けて協力態勢がつくられ、女性の各グループにリーダーができた。
 昔から男性は支配的な傾向が強いと考えられている。そして実験でも男性ははっきりと優位な姿勢をとりたがった。かたや女性は無頓着で、最初からすべてを支配したがるようなところはなく、グループの参加者全員が平等に意見を述べられるようにした。
 だが、「まず立ち止まって考える」方式のほうが実りが大きい場合もある。自分のまわりの人びとと知りあい、理解しあえると同時に、自分がリーダーになるとき助けてくれそうな仲間をつくることができるからだ。

 男性はわかりやすい役職・ポジションを欲しがるのに対し、女性は上に立つことを好まない。ただし上には立たないが慎重に仲間を増やしていき、自分の立場を強固なものにする。だから後に上に立った際にも地盤ができているのでやりやすい。

「新たに管理職についた人が、自分の手腕を見せつけるために前任者のやりかたを破壊して、部下との信頼関係もできていないのでむちゃくちゃにしてしまう」というシチュエーションがよくあるが(企業でもあるし、知名度のみで知事や市長になった人もよくやる)、あれは男性的な行動だね。あれをやって組織が良くなることはまずないので、女性式のほうがいいよね。

 パワハラやセクハラなど“男性的”なやりかたのまずさが多く露呈してきている昨今だからこそ(“男性的”というのはイコール男性の、ということではない。宝塚音楽学校でのパワハラのような例もある)、今後はビジネスの分野でも「女性らしいやりかた」が主流になってくるかもしれないね。 


【関連記事】

【読書感想文】レイチェル・シモンズ『女の子どうしって、ややこしい!』 / 孤立よりもいじめられていることに気づかないふりをするほうがマシ

【読書感想文】ヘレン・E・フィッシャー『愛はなぜ終わるのか 結婚・不倫・離婚の自然史』 / 愛は終わるもの



 その他の読書感想文はこちら


2024年3月26日火曜日

夫婦喧嘩センサー

 家のリフォームをすることになった。

 妻が
「トイレをこうしたいんだけど」
「床の色とあわせて壁紙をこうしようとおもってて」
「洗濯機を置くスペースはこれが使いやすいかとおもって」
と言ってくるので、

「いいんじゃない」
「どっちでもいいからそれでいいよ」
「まかせるよ」
と答えていた。


 あまりにもぼくが自分の意見を言わないからだろう、
「こうしたい、とかないの?」
と妻に言われた。
(とがめる口調ではない。ただ純粋に訊いた、という感じで)


ぼく 「んー。まったくないわけじゃない。強いて言うならこっちのほうがいいかな、みたいなのはある」

妻  「じゃあそれを言ってほしいな」

ぼく 「えっと……。意見を求められて否定されたら嫌な気持ちになるじゃない。『AとBのどっちがいいとおもう?』って聞かれて、ぼくがじっくり検討して『A』って答えて、なのに結局Bになったら、じゃあ聞くなよって不快な気持ちになる。それだったら最初から自分が関与していないところでBになってるほうがずっといい。だから『最終的な決定権をあなたに預けます。ぜったいに言われた通りにします』という段階で聞いてくるんならいいけど、ひとつの参考意見として聞きたいだけなら、答えたくない」

というようなことを告げた。



 ぼくには、結婚式の準備で妻と喧嘩をした苦い記憶がある。

 結婚にいたるまでに妻とは八年ほど付き合ったが、その間まったくといっていいほど喧嘩をしなかった。はじめての喧嘩が結婚式の準備だ。

 ほんとに些細なことだった。

 結婚式の会場に使うテーブルクロスをどんな色にするか決めなきゃいけなくなった。黄色か紫か。どっちがいいかと訊かれて、「超どうでもいい」とおもいながらも、「どうでもいいよ」と答えちゃいけないとおもい、一応考えて「こっちがいい」と紫を選んだ。

 結婚式で決めなきゃいけないことは山ほどある。その後も、招待状をどうするか、引き出物をどうするか、「司会の人の胸につけるコサージュをどうするか」なんて超絶どうでもいい質問もあった。決断というのはけっこう脳のエネルギーを使うものだ。だんだん疲れてきた。

 そんなとき、妻(になる人)が言った。

「さっきのテーブルクロスだけど、やっぱり黄色がいいな」


 はっきり言って、ぼくからしたらテーブルクロスの色なんかどうでもいい。黄色だろうが紫だろうが、心底どうでもいい。さっきは49.9対50.1の差で紫に決めただけで、黄色がイヤな理由なんてまったくない。

 ただ「一度決めたことを覆そうとしてきた」ことに猛烈に腹が立って「そうやって一回決めたことを再検討してたら永遠に終わらないだろ!」とわりと強めに言った。

 すると妻が「だったらここは私が譲るから新婚旅行の行程はそっちが折れてよ」と言い出し、「いやいや新婚旅行はまったく関係ないし、そもそもテーブルクロスについてはぼくが我を通したわけじゃなくて決定事項を覆すのはおかしいよねって……」


 今書いててもほんとくだらない喧嘩なので、このへんでやめておく。

 ぼくが書きたいのは、どっちが正しいとか、どっちが悪いとかではない。夫婦間の喧嘩になった時点でふたりとも悪いのだ。

 目的は自分の正当性を主張して相手の非を認めさせることではない。世の中にはディベートという“競技”のルールを他のことにも適用できるとおもってるおばかさんがいるが、ぼくはお利巧なので、ディベートの技術など人付き合いには屁のつっぱりにもならないことを知っている。


 つまり何が言いたいかというと、夫婦仲を保つためには「ちょっとでもぶつかりそうな気配を感じたらなるべくそこに近寄らないようにする」技術が必要だということだ。

 そして、自宅のリフォームというのは、そこら中に火薬のにおいが立ち上っている戦場だということだ。自宅のリフォームをするときに、夫婦それぞれが「こうしたい!」という意見を出して、ぶつからないわけがない。

 十年以上も結婚生活を送っていると、そういうセンサーが鋭敏になるね。


【関連記事】

ディベートにおいて必要な能力


2024年3月25日月曜日

風呂の蓋が割れた

 風呂の蓋が割れた。

 うちの風呂の蓋って、海苔巻きをつくるときの巻き簾みたいなタイプ。蛇腹になってて、使わないときはごろごろって転がして丸めて、使うときはごろごろって転がして伸ばして浴槽にかぶせるやつ。


 そいつがまっぷたつに割れた。落とした拍子にちょうど真ん中あたりで割れた。


 で、割れたとはいえぜんぜん使えるからそのまま使ってるんだけど……。


 圧倒的に割れてるほうが使いやすい


んですよ。


 まず軽くなった。あの蓋ってけっこう重いから大人でも両手でよっこいしょって持ち上げなくちゃいけない。小学四年生の娘なんかふらふらになって抱えていた。それが、重さが半分になったことで軽々持ち上げられるようになった。

 それから半身浴をしやすくなった。ぼくは(娘も)お風呂に浸かりながら本を読むことがあるんだけど、今までは蓋を半分だけ丸めて、その上にタオルや本を置いていた。でも丸めてロールケーキみたいになった蓋が邪魔だし、丸めたら元々下側にあったところが外側に来るので濡れてしまう。それが、半分だけ蓋をすることで、乾いた蓋の上を広々と使えるようになった。

 逆に、デメリットは今のところまったくない。割れたことでただ使いやすくなっただけだ。

 あれ? じゃあはじめから半分のサイズ×2でよかったんじゃない?


 半分サイズのお風呂の蓋。これは売れる! とおもって調べたら、すでにありました。というか今はそっちが主流になりつつあるみたい。

 想像だけど、「半分サイズのお風呂の蓋」を開発した人も、たまたま蓋が半分に割れちゃって、こっちのほうが使いやすいじゃない! ってなって商品化したんじゃないかな。


 ほら、よく、失敗から発見や発明から生まれるっていうじゃない。

 トウモロコシのお粥をつくろうとして失敗してパリパリになってしまったことでコーンフレークが誕生したとか。

 ニトログリセリンがこぼれて土と混ざって固まっているのを見たノーベルがダイナマイトを発明したとか。

 つくづく、失敗は発明の母だね。

 タイミングがよければぼくもノーベルになれたにちがいない。


2024年3月22日金曜日

【読書感想文】ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』 / 科学と宗教は紙一重

禍いの科学

正義が愚行に変わるとき

ポール・A・オフィット(著)  関谷冬華(訳)

内容(e-honより)
科学の革新は常に進歩を意味するわけではない。パンドラが伝説の箱を開けたときに放たれた凶悪な禍いのように、時に致命的な害悪をもたらすこともあるのだ。科学者であり医師でもある著者ポール・オフィットは、人類に破滅的な禍いをもたらした7つの発明について語る。私たちの社会が将来このような過ちを避けるためには、どうすればよいか。これらの物語から教訓を導き出し、今日注目を集めている健康問題(ワクチン接種、電子タバコ、がん検診プログラム、遺伝子組み換え作物)についての主張を検証し、科学が人間の健康と進歩に本当に貢献するための視点を提示する。


 良かれとおもって生み出された科学技術が、多くの人の命や健康を奪った例を集めて紹介する本。

 目次は以下の通り。
「第1章 神の薬アヘン」
「第2章 マーガリンの大誤算」
「第3章 化学肥料から始まった悲劇」
「第4章 人権を蹂躙した優生学」
「第5章 心を壊すロボトミー手術」
「第6章 『沈黙の春』の功罪」
「第7章 ノーベル賞受賞者の蹉跌」
「第8章 過去に学ぶ教訓」




 たとえばアヘン。誰でも知っているいおそろしい麻薬だが、人をダメにするために生みだされたわけではなく、当初は鎮静剤だったそうだ。「ぐずる子供をおとなしくさせるため」などにも使われていたという。

 だが中毒性の高さや健康に及ぼす悪影響が明らかになり、中国のように社会全体にまで深刻な被害を及ぼすようになった(それがアヘン戦争につながったのは世界史で習った通り)。

 アヘンから中毒性をなくし鎮静効果だけを取り出そうとして作られたのがモルヒネやヘロイン、オキシコドンなど。しかしどれも期待していたような結果にはつながらず、中毒性、副作用があることが後に判明する。

 麻薬って「悪いやつが悪いことのために作っている」というイメージがあったけど、少なくとも最初は「人々の役に立つように」とおもって作られているんだね。結局は悪いやつに悪い目的で使われてしまうんだけど。




 また、バターのヘルシーな代用品としてつくられたマーガリンが後に心臓病リスクを高めることがわかったり(最近は心臓病のリスクを高めるトランス脂肪酸の少ないマーガリンも作られているらしい)、空気中の窒素からアンモニアを大量生産できるハーバー・ボッシュ法によって農産物の収穫量が飛躍的にはねあがった一方、土壌から流出した窒素が河川や海を汚したりと、一見いいものとおもわれていたものが後に深刻な被害をもたらす例がいくつも紹介されている。

 知らないうちにトランス脂肪酸を含む不飽和脂肪酸を推進していた消費者団体は、自分たちの活動を悔いた。2004年にCSPIの事務局長はこう述べている。「20年前、私を含めた科学者たちはトランス脂肪酸に害はないと考えていた。後から、そうではなかったことがわかってきた」。1年後、ハーバード大学医学部教授でハーバード大学公衆衛生学部の栄養学科長を務めるウォルター・ウィレットは、『ニューヨーク・タイムズ』紙にこう語った。「多くの人々が専門家の立場からバターの代わりにマーガリンを食べるように勧めてきたし、1980年代に内科医だった私も人々にそうするように告げていた。不幸にも早すぎる死に彼らを追いやってしまったことも少なからずあったはずだ」。

 また、ノーベル化学賞とノーベル平和賞を受賞したライナス・ポーリング(異なる分野のノーベル賞をひとりで受賞したのは現在までこの人ただ一人)はビタミンの大量摂取が健康に良いと唱え、それがむしろ身体に悪いことを示す様々なデータが出た後でもビタミン大量摂取健康法(メガビタミン健康法というそうだ)を主張しつづけた。

 一度「これは健康にいい(or 悪い)」と信じてしまうと、なかなか考えを転向させるのはむずかしいのだ。たとえノーベル賞を二度も受賞するほど賢い人でも。

 いや、賢い人だからこそかもしれない。

 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』によると、認知能力が優れている人ほど情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなるそうだ。賢い人は自分が賢いことを知っており、「自分はまちがっていない。なぜなら~」と過去の判断を正当化するのがうまいんだそうだ。

 ノーベル賞を二度も受賞したら、なかなか「自分はまちがってて他の連中の言うことのほうが正しいのだ」とは認められないだろうね。




 著者は「どんなものにも代償はある」と書いている。すべてのものには良い面もあり、悪い面もある。多くの生命にとって欠かせない水ですら悪い面はある。

「〇〇はいいことずくめ!」という言説を見たら、嘘つきか無知のどっちかだとおもったほうがいいかもしれない。

 もっとも、この本はこの本で、「〇〇はいいと言われていたけど悪かった!」と逆の方向に振れすぎている(いい面を無視しすぎている)きらいがあるけど。




 いちばん興味深かったのは「第6章 『沈黙の春』の功罪」の章。

 1962年にレイチェル・カーソンによって著された『沈黙の春』は世界中でベストセラーになった。農薬の大量使用に警鐘を鳴らしたこの本は環境問題を語る上では避けて通れない一冊となっていて、たしかぼくの学生時代の教科書にも載っていた。

 この本に書かれている内容は(現代科学から見ると誤っているところがあるにせよ)大きな問題があるわけではない。問題は、この本の影響が大きくなりすぎて、「農薬=悪」という単純な考えをする人が増えてしまったことにある。

 その結果、数多くの殺虫剤や農薬の使用が制限された。中でもマラリア予防に効果的だったDDTの使用が世界中で制限された。

 発疹チフスも命にかかわる怖い病気だが、これまでどんな病気よりも数多くの人々の命を奪い、これからも奪い続けようとしている感染症――マラリアとは比べものにならない。ハマダラカに刺され、マラリア原虫が肝臓や血液中に侵入することで感染するマラリアは、高熱、強い悪寒、出血、見当識障害を引き起こし、やがて死に至る。レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版した1962年の時点で、マラリアを抑え込むための最大の武器はキニーネやクロロキンなどの治療薬でも、蚊よけ網(蚊帳の類い)や沼池の水抜きなどの環境対策でもなかった。マラリアと戦うための、最も効果が高く、最も安上がりな最高の武器は、何といってもDDTだった。散布計画が実施されると、南アフリカのマラリアの患者数は1945年の1177人から1951年には61人に激減し、1940年代半ばに100万人以上の患者がいた台湾は1969年には患者がわずか9人になり、1946年に7万5000人がマラリアに罹患していたイタリアのサルデーニャも1951年には患者が5人になった。
(中略)
 1955年、世界保健総会は、世界保健機関(WHO)にDDTを使用した世界マラリア根絶計画に着手するよう指示した。根絶計画が実行に移された1959年の時点で、すでに300万人以上がDDTにより命を救われていた。1960年までに、マラリアは11カ国で根絶された。マラリアの罹患率が下がるにつれ、平均余命が延び、作物の生産量が増え、土地の価格も上昇して、人々は相対的に豊かになっていった。おそらくWHOの計画によって最も大きな恩恵を享受したのは、1960年に散布が開始されたネパールだろう。当時のネパールでは、200万人以上がマラリアに罹患し、主な患者は子供たちだった。1968年には、患者数は2500人まで減った。マラリア対策が開始される前のネパールの平均寿命は28才だったが、1970年には42才になった。
 蚊が媒介する病気はマラリアばかりではない。DDTにより、黄熱やデング熱の発生も大幅に減少した。さらにDDTは、ネズミに寄生して発疹熱を媒介したり、プレーリードッグやジリスに寄生してペストを媒介したりするノミにも効果があった。これらすべての病気が多くの国で事実上根絶できたことを踏まえて、米国科学アカデミーが1970年に行った試算によれば、DDTは5億人の命を救ったと推定された。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりもたくさんの命を救ったといっても過言ではないだろう。

 『沈黙の春』では、DDTの使用をすべてやめろと主張していたわけではない。過度の使用が生物濃縮や耐性を持つ蚊を誕生させるという警鐘を鳴らしただけだ。

 だが単純な人たちにはそんなことはわからない。「DDTは悪い! 一切使うな!」という声は高まり、DDTは使用が禁止されてしまった。

 環境保護庁が米国でDDTを禁止した1972年以降、5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは、5才未満の子供たちだった。『沈黙の春』の影響は、枚挙にいとまがない。
 インドでは、1952年から1962年の間に行われたDDT散布により、年間のマラリア発生件数は1億件から6万件に減少した。しかし、DDTが使用できなくなった1970年代後半には600万件に増加した。
 スリランカでは、DDTを使用する前は280万人がマラリアに罹患していた。散布をやめた1964年には、マラリアにかかった患者はわずか17人だった。その後、DDTを使用できなくなった1968年から1970年の間に、スリランカではマラリアの大流行が発生し、150万人がマラリアに感染した。
 1997年にDDTの使用が禁止された南アフリカでは、マラリア患者は8500人から4万2000人に、マラリアによる死者は22人から320人に増加した。

(レイチェル・カーソンが意図したものではなかったが)結果だけ見れば『沈黙の春』が多くの命を奪うことになってしまった(マラリア患者が増えたのは『沈黙の春』で指摘された通りにDDT耐性を持つ蚊が増えたからだとする説もあるらしい)。




 科学の話に限らず、物事を単純化しようとする人は多い。「〇〇は悪だ!」「△△にすればうまくいく!」「今の状況が悪いのは××のせいだ!」という言説があふれかえっている。

 残念ながら世の中はそんなに単純ではない。物事にはいい面もあれば悪い面もある。人にも組織にも国にも悪い面もあれば悪い面もある。

 でも「〇〇はいいところもあるし悪いところもある。人によってはいい人に映るし、そうとらえない人もいる。正しいこともしたし間違えることもあった」という言説はウケない。


 これを書いている今、大谷翔平選手の通訳が違法ギャンブルに手を染めていて、その資金が大谷選手の口座から送金されていたことが大きなニュースになっている。

 大谷選手が通訳の違法ギャンブルを知っていたのか知らなかったのか、口座から送金したのは誰なのか、大谷選手も罪に問われるのか、そのへんのことは現在(2024/3/22現在)明らかになっていない。とにかく不明瞭だ。

 そんな中「真実はこんなことじゃないかと推測する」とSNSに長文を書いている人がいた。そこまでは別にいい。ぼくが怖いとおもったのは、それに対して「わかりやすい解説だ!」というコメントがたくさんついていたことだ。

 いや、わかりやすいもなにも、それって単なる憶測なんだけど……。

 当人にしか(ひょっとしたら当人にすら)わからないことに対しての“推測”を“わかりやすい解説”だとおもってしまう人がいるのだ。算数の問題じゃないんだから「これがいちばんわかりやすい解説!」があるわけないのに……。

 その“わかりやすい解説”に飛びついてしまう人たちは、わからないものをわからないままにしておくことができないのだ。わからないままにするのって知的に負担のかかることだから。「たったひとつのシンプルな真相」があることにするほうがずっと楽だから。

「真相はわからないから保留」にするのはたいへんだ。脳にストレスがかかる。「応援している大谷選手が犯罪に手を染めていた」という望ましくない可能性も残しておかなくてはならない。それに耐えられない人は「これこそがわかりやすい真相だ!」に飛びついてしまう。正しいかどうかはどうでもいい。


 環境問題も、原発問題も、基地問題も、人権も、平等も、政治も、教育も、すべての人にとって最良な答えがあるわけがない。どの道にもいい面もあれば悪い面もある。

 それぞれを比較して「こっちのほうがより多くの人にとってちょっとだけマシな結果になるようにおもえる。でもその判断も誤っていることが将来的に明らかになる可能性があるから軌道修正する余地を残しておかなくてはならない」とするのが科学的な態度だ。

 はっきりいって、すごくめんどくさい。「未来永劫変わらない普遍的な唯一解」があると信じるほうが楽だ。

 でもそれは科学じゃなくて宗教だ。

 科学と宗教ってぜんぜん違うようで、実はすごく近くにあるものかもね。間違えるのが科学、間違えないのが宗教。「こっちを選べばまちがいない!」なものは科学じゃないです。


【関連記事】

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』

【読書感想文】マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』 / 多様性だけあっても意味がない



 その他の読書感想文はこちら


2024年3月19日火曜日

【読書感想文】佐々木 実『竹中平蔵 市場と権力  ~「改革」に憑かれた経済学者の肖像~』 / ホラーよりおそろしい

竹中平蔵 市場と権力

「改革」に憑かれた経済学者の肖像

佐々木 実

内容(e-honより)
この国を超格差社会に変えてしまったのはこの男だった!経済学者、国会議員、企業経営者の顔を使い分け、「日本の構造改革」を20年にわたり推し進めてきた“剛腕”竹中平蔵。猛烈な野心と虚実相半ばする人生を、徹底した取材で描き切る、大宅壮一ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞ダブル受賞の評伝。


 何者なんだかよくわからないけど、とにかくネット上ではめったらやったら嫌われている人・竹中平蔵。そのわりに一部の政治家や財界人からはものすごく重用されている(らしい)人。

 ぼくの中では二十数年前に小泉純一郎がやっていた行政改革の旗振り役、のイメージが強い。その後はパソナグループなどで要職をまかされて、ときどき経済系のメディアに出てきて何かしらの提言をしている。そしてそのたびに猛反発を受けている。なんなら「日本を悪くしたA級戦犯」ぐらいに語られることもめずらしくない。もはやヒットラーと並ぶぐらいに「この人の悪口を言っても擁護する人がいない」存在だ。

 でも、竹中平蔵という人が何をしたのか、ぼくはほとんど知らない。どんな人間なのかもまるでわからない。メディアで語っているところは何度か見たことあるが、常に余裕をたたえた笑みを浮かべていて、本心のところで何を考えているのか、何に怒りを感じるのか、何を目指しているのか、そういったところがまるで見えない。

 一言でいえば、得体が知れない人だ。




『竹中平蔵 市場と権力』は、そんな竹中平蔵氏の評伝だ。評伝といっても著者は竹中氏に批判的なスタンス。本人へのインタビューなどもない。過去の言動、著作、そして周囲の人の談話から竹中平蔵という人の姿を描きだす。


 読んでいてまずおもうのは、竹中平蔵という人はすごく優秀な人なんだということ。

 頭が良くて、勤勉で、時流を読むのがうまく、人に取り入るのもうまい。「部下にしたいタイプ」だ。だからこそ小泉政権や安倍政権で重用されたのだろうし、様々な企業でも重要なポストを与えられたのだろう。

 官僚経験のある香西は早くから竹中の資質を見抜いていた。竹中がエコノミスト賞を受賞した際に寄せた祝辞のなかで的確な竹中論を開陳している。
 「研究者としての才能にもう一つ付け加わるのが、『仕掛け人』『オルガナイザー』『エディター』としての腕前ではないだろうか。人のよい私など、氏の巧みな誘いに乗せられて、感心しているあいだに仕事は氏の方でさっさと処理していてくれたという経験が、何度かある。この才能は、あるいは大蔵省で長富現日銀政策委員(筆者注長富祐一郎の当時の役職)などの薫陶をえて、さらに磨きがかかったものかもしれない。これは学者、研究者、評論家には希少資源であり、しかも経済分析が現実との接触を保ちつづけていく上で、貴重な資源である」

 部下にはしたい。が、同僚や上司だったら嫌なタイプだろうなともおもう。

 打算的で、他人に厳しく、権力者にとりいるのはうまいが重要でないとみなした人間に対してはとことん冷酷。目的のためなら他人を貶めることも躊躇しない。そんな印象を受ける。

 コネも権力もないところから己の才覚と努力で成りあがった人で、典型的な新自由主義者タイプだ。

「おれは恵まれない境遇から努力して今の地位を築いた。だからどんな境遇でもやればできる。できないのはやらなかったからだ。今あなたが貧しいのは努力をしなかったからだから、悪い境遇に陥るのもしかたない」というタイプ。謙虚でない成功者に多いタイプだ。

 こういうクレバーな人はビジネスマンとしては優秀だが、弱者への共感が欠けている。「どんなにがんばっても成功できない人」もいるし、「成功した人は運に恵まれていた」ということを認めたがらない。この手の人には政治家にはなってほしくない。というか政治に関わらないでほしい。どうか政治とは距離を置いて、せいぜい金儲けに勤しんでほしい。でもこういう人ほど政治に近づきたくなるんだよね。そっちのほうが儲かるから。努力をするよりもルールをねじまげちゃうほうがずっと楽だから。




 竹中平蔵という人は、よく言えば目端が利く人、悪く言えば小ずるい人である。

 シンクタンクにかかわる以前から、資産形成に対する努力には並々ならぬものがあった。九〇年代前半、アメリカと日本を股にかけて生活していた四年間、竹中は住民税を支払っていなかった。
 地方自治体は市民税や都道府県税といった地方税を、一月一日時点で住民登録している住民から徴収する。したがって、一月一日時点でどこにも住民登録されていなければ、住民税は支払わなくて済む。
 竹中はここに目をつけ、住民登録を抹消しては再登録する操作を繰り返した。一月日時点で住民登録が抹消されていれば、住民税を払わなくて済むからである。小泉内閣の閣僚になってから、住民税不払いが脱税にあたるのではないかと国会でも追及された。アメリカでも生活していたから脱税とはいえないけれども、しかし、住民税回避のために住民登録の抹消と再登録を繰り返す手法はきわめて異例だ。

『竹中平蔵 市場と権力』ではこの手のエピソードが何度も紹介されている。

 法律では裁かれないけど、決して公正とは言えない行為。そういうことをためらいなくできちゃう人なのだ。

 ことわっておくが、こういう人は決してめずらしくない。世の中にはたくさんいる。

「無料でどうぞと書いてあったから使う分以上に持って帰った」
「デパートの試食コーナーをうろうろして買う気もないのにおなかをふくらます」
「国会議員に毎月100万円支給される文通費は領収書不要なので生活費に使う」
「官房機密費は使い道を明らかにしなくていいから票を買うのに使う」
みたいな小悪党のマインドだ。いわゆるフリーライダー。

 こういうあさましい気持ちは、おそらく誰の心の中にも多かれ少なかれ存在する。もちろんぼくだって「払わなくて済むなら払いたくない」という気持ちは持っている。ふるさと納税なんて制度自体がそういう制度だ。

 ただ、竹中平蔵という人はその気持ちが人より強く、さらにばれても「法的には(ぎりぎり)裁けないじゃないか」と開き直れる人なのだ。さらに発言をひっくりかえすことにもためらいがない。

 くりかえし書くが、こういう人はめずらしくない。どこの町にもどこの職場にもいる。近くにいたら「あの人ちょっと厚かましいよね」ぐらいの存在だ。


 問題は、その人がふつうの人よりずっと賢く、ずっと権力者にとりいるのがうまく、ずっと野心的で、大きな権力を手にしてしまったことだ。

「ちょっと厚かましいおじさん」に権力を渡してしまったら、国中の貧富の差が大きく拡大し、多くの人が首をくくるような社会になってしまった。そんな感じだ。つくづく政治というのはおそろしい。




 竹中さんという人は、ほれぼれするほど世渡りがうまい。スネ夫もかなわないほど。

 森政権末期、竹中は森首相のブレーンの立場を確保しながら、次期首相候補の小泉に接近し、一方では、最大野党の党首である鳩山とコンタクトをとっていた。政局がどう転んでも、政権中枢とのパイプを維持できる態勢を整えていた。小泉政権発足とともに入閣した竹中は、小泉の「サプライズ人事」で突然登場してきた「学者大臣」という受けとめ方をされたけれども、実態は違っていたのである。

 森喜朗が首相だったとき、森首相のブレーンでありながら、次期首相と名高い小泉純一郎に近づき、さらに政権交代した場合にそなえて民主党の鳩山由紀夫にも接近していた。すごい。誰が政権をとってもそこに食い込む計算になっていたわけだ。

 節操がないけど、この節操のなさこそが最大の武器なんだろうな。




 以前、橋下徹『政権奪取論 強い野党の作り方』という本を読んで、橋下徹という政治家の、思想のなさに驚いた。

 彼はその本でこう書いていた。

 インテリ層たちは政党とは「政策だ」「理念だ」「思想だ」と言うけれども、そうではなくて、極論を言えば各メンバーの意見をまとめる力を持つ「器」でありさえすればよい。野党としては、政権与党に緊張をもたらすためのもう一つの「器」であることが大事なのであって、器の中身つまり政策・理念・思想などは、各政党が一生懸命、国民の多様なニーズをすくい上げて詰めていくものだと思う。つまり政党で死命を決するほど重要なのは組織だ。はじめから政策・理念などを完全に整理する必要はない。

 思想や理念は二の次で、まずは組織を固めて政権をとることだと書いている。「こうしたい」「こんな世の中にはなってほしくない」というビジョンがあってそのために政治家を目指すものかとおもっていたが、彼は逆で、まず権力を手に入れてからそれをどう行使するかを考える。

 その空虚さに良くも悪くも空恐ろしさを感じたものだが、竹中平蔵という人は橋下徹とはまたべつのタイプのおそろしさがある。

 政治家としての思想は軽薄でも、橋下徹という人物には人間味がある。好き嫌いが激しいし、ユーモアもある。反論されてむきになりやすいのは弱点でもあるが、その欠点こそが彼の魅力でもある。言ってみれば子どもっぽい。だからこそテレビでも登用されるのだろう。ぼくも、政策的にはまったく賛同できないが、テレビタレントとしての橋下徹はけっこう好きだ。


 その点、竹中平蔵氏は橋下徹の子どもっぽさを取り除いたような成熟した恐ろしさがある(童顔だから余計にギャップが大きくて怖い)。

 もっと冷徹に、もっとしたたかに、どれだけ時間をかけてもじっくりチャンスを待つタイプ。

 行動の目的も、「金持ちになりたい」とか「名を残したい」とかのわかりやすいものではない気がする。もちろん「国や地域をよくしたい」ではない。何かもっと大きな目的のために動いてる、いや動かされてるんじゃないか、という気さえしてくる。権力は好きだけど、それ自体が目的というわけでもなさそうだし(大臣にまでなったのに政治家の道をあっさり捨ててしまうところとか)。

 ぜんぜん根拠はないけど、何かに対する恨みとか憎悪が根底にあるのかな……。とにかく、説明のしようのない恐ろしさが終始漂ってるんだよね。竹中平蔵氏の行動には。




 竹中平蔵という人物のことがわかるようになるかとおもってこの本を読んでみたけど、結局よくわからなかった。むしろ底知れなさは深まったかもしれない。ま、ぼくの経済の知識が乏しくて専門的な話がまるでわからなかったってのもあるけど。

 なんかへたなホラーよりこわかったな。じんわりと。


【関連記事】

【読書感想文】からっぽであるがゆえの凄み / 橋下 徹『政権奪取論 強い野党の作り方』

【読書感想文】歴史の教科書を読んでいるよう / 辻井 喬『茜色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯』



 その他の読書感想文はこちら


2024年3月13日水曜日

R-1グランプリ2024の感想

R-1グランプリ2024の感想。


真輝志 (入学初日)

 おもしろかった。個人的には優勝でもいいぐらい。

 青春アニメの第一話のような導入から、ナレーションによって微妙な未来を提示される。そのくりかえしから、執拗な軟式ラグビー部、女子生徒、英語、天の声が壊れる、女子生徒の人生との交錯など様々な変化をつけて飽きさせない。

 変化はあれど、ちゃんと最初の設定は壊さない。このバランス感が見事。寿司屋に行ったらいろんな種類の寿司を食べたいけど、だからってハンバーグおにぎりとかはちがうもんね。いくらおいしかろうと寿司の枠は壊さないでほしい。


ルシファー吉岡 (婚活パーティー)

 今までは見たルシファー吉岡のネタってたいていルシファーがヤバい人だったけど、このネタに関してはルシファーはツッコミ役。ちょっといい人すぎて変ではあるけど、でもまあ常識人の範囲にはおさまっている。これはこれでいい、というか、R-1グランプリという大会ではこっちのほうがいいんだろうな。

「ヤバい人」より「ヤバい人にふりまわされる人」のほうが安心して笑えるもんね。ベルの音や「私以前、私以後」といったフレーズの使い方も見事。

 でも個人的には、ずっとやってきた下ネタを捨てて、大会にあわせにきたルシファーさんを見るのはちょっと寂しい気もしたな。


街裏ぴんく (温水プール)

 前評判がよかったので楽しみにしていたのだが、期待外れだったな。やろうとしていることはわかるんだけどそれだったらもっとうまいやり方があったんじゃないの?

 だって「温水プールに行ったら石川啄木がいた」って嘘がすぎるじゃない。嘘のおもしろさってさ、「嘘かほんとかわからないけど自分にはギリギリ嘘だとわかる」ぐらいのラインを突くのがいちばんおもしろいわけじゃない。「おつむの弱い人はわからないけど自分にはわかる」ぐらいが。

 なんかさ、最初はもっと絶妙な嘘をついて(嘘っぽいけどありえなくもないぐらいの)、そこからちょこちょこ嘘を発展させて、でもときどき真実性の高いことも混ぜて……みたいな構成のネタを見てみたかったな。ハライチのラジオで岩井さんがやっているような。

 石川川石とか言ったときは一部の客が「へえー」とか言ってて、そうそうこういう嘘! とおもったんだけど、その後もまた真っ赤な嘘に終始してしまった。


kento fukaya (マッチングアプリ)

 んー。どこかで見たことのあるようなフォーマットを集めたネタだったな。

 おもしろくないわけじゃないんだけど、新鮮味がなかった。R-1って何をやるのも自由だから、新しい試みが感じられるものが見たいな。何をやるのも自由なんだけど、さすがに昨年優勝者の風味が感じられたのは、それはどうなのとおもってしまったな……。

 映像にツッコミを入れるネタって、よほどうまくやらないと「自分で用意したものに自分で文句をつけてる人」になっちゃうんだけど(もちろん実際はその通りなんだけど)、そこをうまく見せられるかどうかは「映像の中に第三者の人間味が感じられるか」にかかっている。昨年の田津原理音さんのネタはカードの開封という演出を入れることでうまく偶発性を演出していた。

 このネタに関してはkento fukayaさん以外の人の体温が感じられなかった。


寺田寛明 (国語辞典のコメント欄)

 昨年の「言葉のレビューサイト」に似たネタ。去年のほうがおもしろかった。

「この言葉にはこういうコメントがつくだろうな」という想像を、そこまで大きくは超えてこなかった。そして毎年のことだけど、この人のネタには「誰が演じても大して変わらない(というかもっとうまく演じられる人がいそう)」という問題が。なんならデイリーポータルZの記事でもいいんんだよな。


サツマカワRPG (不審者対策講習)

 なんか、R-1に何度も出ていたころの友近を思いだしたというか、もう優勝とか関係なく好きなことをやってやるぜ!という開き直りを感じた。ふつうはだんだんえぐみがとれていくものなのに、この人の場合は年々理解されなくなっていくのがおもしろい。

 一人コントだけど、防犯ブザーの音を効果的に使っていて、セリフはないけど子どもたちの表情が見えるよう。丁寧につくりこまれたいいコントだった(ラストのオカルト展開は個人的にはいらなかったようにおもうけど)。

 ところでハガキ職人をネタにしてたけど、そこまで伝わるのだろうか。劇場に足を運ぶようなお笑いファンならラジオを聴いている人も多いだろうから伝わるだろうけど、一般的にはそこまで伝わる題材じゃないとおもうな。ウエストランド井口がもう手をつけているところだしパワー面でも勝っているようにはおもえないので、流れ的に入れる必要あったのかなとおもってしまった。


吉住 (結婚の挨拶)

 結婚の挨拶に来た女性が武闘派のデモ活動家、というひとりコント。サツマカワRPGに続いて狂気性を扱ったコントだけど、どこか嘘くささが終始漂っていた。

 コンビだったら楽なんだけどね。ヤバい人に対してツッコミを入れる人がいれば、異常さが際立って笑いになる。

 ひとりだと、自分で説明をして、観客に心の中でツッコミを入れさせなくてはならない。でも「説明」という行為と「異常な人」は相性が悪い。異常な人は、自分がなぜその行為をするに至ったかを他人にわかりやすく説明しないから。

 異常な人というのはよくわからないから異常なのであって、丁寧に説明をしてくれたら狂気性が薄れてしまう。そこのジレンマをうまくクリアできているようにはおもえなかったなあ。


トンツカタンお抹茶 (かりんとうの車)

 サツマカワRPG、吉住と不快さをまとわりつかせたコントが続いた後で、ばかみたいに平和なネタ。これこれ、今はこういうのが見たいんだよ! 最高の出番順だった。

 何にも残らない最高にアホみたいなネタ(褒めてます)だったけど、だからこそ点数は低くなってしまったのかな。同じように意味のない歌ネタ『井戸』で優勝を勝ち取った佐久間一行さんはすごかったなあ。

 くぐもった声のコーラスのせいで聞き取りづらい箇所があったのが残念。からっぽなネタ(くりかえし書くけど褒めてます)だからこそ、ノーストレスで見たかったなあ。


どくさいスイッチ企画 (ツチノコ発見者の一生)

 作品の完成度は今大会ピカイチだとおもう。起承転結、ストーリーの寓話性、そして表現の巧みさ。ベテラン落語家のように完成された芸だった。

 アマチュアだというから発想のおもしろさで一点突破したのかとおもいきや、そんなことはなく、いちばん技術が高かった。

 技術を評価するタイプの審査員が少なかったのが残念だなあ。




【最終決戦】


吉住 (鑑識)

 女性監視機関が来たのが彼氏の職場だった、という発想はおもしろいが、その設定だったらこういう展開だろうな、という流れから大きく裏切りがなかったのが残念。

「1番にしちゃった」などのよくわからないデレ方はおもしろかった。女性芸人の「かわいい部分と怖い部分の使い分けで笑いをとりにいく手法」はさすがにもううんざり。


街裏ぴんく (モーニング娘。の結成秘話)

 一本目よりは絵がイメージしやすかった。「スマートボール」などのあってもなくてもいい題材が飛び出してくるのもおもしろい。

 とはいえ虚構全開で「嘘かほんとかわからないおもしろさ」がないのは相変わらず。二本目はみんな「この人の言うことは嘘だ」とわかっているわけだから、もっと虚実の境界ぎりぎりをえぐるようなネタでもよかったとおもうけどな。


ルシファー吉岡 (隣人)

 なんとなく中途半端な印象。隣室の会話を聞きすぎているルシファー吉岡の異常さを見せたいネタなのか、隣室の人間関係を見せたいのか。そしてひとり語りで説明するには隣室の“五人”という人数は多すぎやしないか。しかもその五人はどう考えても始終一室に集まる取り合わせじゃないだろ。「いっつも部屋に集まって遊んでる五人組」だったらもっと性格とか似てるとおもうんだよね。くそマジメタイプの女の子がこの部屋に入り浸るか?

 芝居がうまいからこそそのへんのリアリティの欠如が気になってしまった。




 SNSなんかを見ると「街裏ぴんくは何がおもしろいかわからなかった」「どくさいスイッチ企画はおもしろかったのに不当に点数が低かった」という声がとにかく多かった。

 まあこういう大会のたびに「優勝者は何がおもしろいのかわからない」「〇〇のほうがおもしろかったのに!」という声はあるんだけど(異論がない人はあまり声を上げないしね)、それにしても今回のR-1はその声が例年にないぐらい多くて、たぶん視聴者投票したら街裏ぴんくさんは下位に沈むだろう。ひょっとしたら「審査員票では優勝だけど一般投票なら最下位」もあるかもしれない。逆ならかっこいいんだけど。

 それぐらい会場と視聴者の乖離が大きかった。

 ぼく自身も同じように感じて、個人的に三人選ぶなら、真輝志、ルシファー吉岡、どくさいスイッチ企画になる。彼らのネタはおもしろいだけでなく「ひとりである必然性」があったからね。ひとりでしか表現できないネタ。吉住さんはツッコミがいたほうがおもしろかったんじゃないかな。

 でもまあやらせだとか陰謀論を唱えるつもりはない。たぶん会場のウケとテレビ視聴者のウケはちがうだろうし(大声、歌、勢い系のネタはテレビよりも会場の評価が高くなりがち)、審査員(特に野田クリスタルさんとザコシさん)の好みが偏っていただけで審査に良からぬ意図がはたらいていたとはおもわない。審査員を変えたって、それはそれでべつの問題が起きるだろうし(昔のR-1は芸人というよりタレントに近い人たちが審査員をやっていて、大衆の感性には近かったけどマニアックなものは拾われにくかったし、あと出番順に大きく左右されていた)。

 ということで「いや大衆から何と言われようとR-1グランプリが次の時代を切り拓いていくんだ!」ぐらいの信念があって今の審査員体制を貫くのであればそれはそれでいいんだけど、大会方針の二転三転っぷりを見ているととてもそんな信念や覚悟があるようには見えないんだよなあ……。


 ま、ちょっともやもやの残る結果にはなったけど、芸歴制限を撤廃したり、ネタ時間が増えたり、観ている側としては特に必要性も感じない敗者復活戦をやめたり、大会がいい方向に向かっていることはまちがいない。このままの方向性で進んでいってくれよ!!


【関連記事】

R-1グランプリ2023の感想

キングオブコント2023の感想


2024年3月8日金曜日

【読書感想文】藤原 辰史『給食の歴史』 / 今も昔もとんちんかん議員はいる

給食の歴史

藤原 辰史

内容(e-honより)
学校で毎日のように口にしてきた給食。楽しかった人も、苦痛の時間だった人もいるはず。子どもの味覚に対する権力行使ともいえる側面と、未来へ命をつなぎ新しい教育を模索する側面。給食は、明暗が交錯する「舞台」である。貧困、災害、運動、教育、世界という五つの視覚から知られざる歴史に迫り、今後の可能性を探る。


 戦前から現在に至るまでの給食の歴史について書かれた本。

 以上の簡単な整理からも分かるとおり、給食とは実に多面的な分野を往来する魅力的かつ複雑な現象である。政治史、経済史、農業史、災害史、科学史、社会史、教育史、運動史。さまざまな歴史分野の統合によって初めて全体像が明らかになると言えるだろう。

 子どものころはあたりまえのように給食を食べていて「あって当然」のものだった。現在、公立小学校の給食実施率は99%だそうだ。残りの1%は生徒数数人の学校とかかな。

 だが、その歴史をたどると、給食は決してあたりまえのものではなかった。

 明治時代は「金がなくて弁当がないから学校に行かない」という子が多かったため、給食が導入されるようになった。就学率を上げるために給食が導入されたわけだ。当時は食うや食わずの子どもも多かっただろうから「学校に行けばごはんが食べられる」というのはだいぶ魅力的なご褒美だったことだろう。言ってみればログインボーナスだ。


 そんなふうにしてはじまった給食だが、何度も廃止の危機に瀕しているそうだ。戦中・戦後の物資不足、アメリカによる占領が解かれて援助がなくなったことによる資金不足などの経済的事情に加え、「みんなに同じものを食わせるなんて社会主義的だ」と反対する議員がいたり、「本来弁当をつくるはずの母親が楽をしたいからだ。給食は親子の愛情を阻害する」なんてピントはずれの批判をする議員がいたりしたらしい。昔も今も、何もわかっちゃいないじいさんが法律を作っていたのだ。




 給食は政治の影響も大きく受けた。

 占領後、MSA協定からPL480にいたるまでの日米外交は、給食の意味合いを大きく変えた。目の前の外貨獲得、経済復興、飢えからの解放という喫緊の課題の裏で、アメリカは日本を食糧輸出先として自国のお得意先にし、あわせて共産主義の防壁にしようとした。この意図を、サムスはしっかりと受け取っていた。アメリカは給食を一つの道具として、国防と食糧の二方面から日本人の「安全」を左右できる力を握ろうとしたのである。 
 この結果、日本国内で麦の市場開拓とともに米食批判の勢いが増す。すでに述べたようにサムスは日本の米食文化に疑問を抱いていた。「日本人は占領開始の七五年も前に、すでに彼らの栄養摂取のパターンを決めてしまっていたが(明治に入っても米穀中心のパターンを変えなかったこと)、これは誤っていた」(サムス『GHQサムス准将の改革』)と断言している。そして、自分の政策を「日本のような大人口を食べさせるのに必要な食糧の量を決定する伝統的方法をくつがえすこと」だと評価し、根拠を下記の調査に求めている。「調査の結果、日本人の食生活における栄養摂取パターンは炭水化物が多すぎ、タンパク質、カルシウム、ビタミンが不足」しており、「農村の人々は穀物の入手が容易であったため、穀物消費量が多かった」(同右)。
 厚生省の大礒も同じである。「当初よりのアメリカ側の陰謀で、余った小麦を売りつける手段に使ったのだとさも知ったような言辞を弄する者が現われたが、これは全くの​噓」​だと語気を強めている(大礒『混迷』)。彼は、「米飯と味汁」というサムスの最初の提案が崩れたことを強調して、サムスに市場開拓の意図がなかったと弁護している。
 大礒にとって、日本の食事の欠点は、あまりにも一時に大量の白米を食べすぎること、副食の入る余地がないこと、そして、栄養素が欠けやすいことであった。「日本人の体格が国際的にみて劣っており、体力の面でも到底彼らの比ではないとか、病気にも罹りやすく、寿命も短く、乳児・幼児の死亡率もかなり高いという悩み」がずっと彼を支配していたのである(同右)。

 アメリカは敗戦国である日本に対して支援をしながらも「自国の余剰食糧を買ってもらいたい」「小麦や乳製品などの輸出を増やすために日本の食文化を欧米化したい」といった政治的意図に基づいて、給食に対する要求を出している(もっと単純に、自分たちの食生活こそが最良だという思い込みもあっただろう)。

 今でこそ米飯給食が増えたらしいが、ぼくが子どものころなんて米飯は月一、二回で、ほとんどはまずいパンだった。牛乳も不人気だったし(体質的に飲めない子もいるのにあれを強制するのはひどいよなあ)。政治的な理由もあったんだろうなあ。




 給食のメリットは数あれど、昔も今もトップクラスに重要なのが貧困対策だ。

 現在でも、学校給食が唯一の良質な食事である家庭は少なくない。「小学校教諭の友人から、クラス内に六人、給食で飢えをしのぐ子がいると聞きました。夏休みが明けるとガリガリになっているそうです」と伝える京都の三〇代女性もいれば、「小学校で給食を作る仕事をしていました。朝ご飯を食べずに学校へ来て、夕飯は菓子パンを食べるだけ、給食だけが唯一きちんとした食事だという子どもがいました」と答えたのは、千葉県に住む四〇代女性の調理員である。

 世襲議員や、官僚や大企業出身の議員にはこういう事情はなかなか見えないだろうなあ。

 だから「給食は親子の愛情を阻害する」なんてとんちんかんなことを言ってしまうのだ。




 たぶん、給食制度に反対する人は今ではほとんどいないだろう。

 じっさい、給食はありがたい。経済的な理由や、「各家庭の親が弁当を作らなくていい」という時間的な理由はもちろん、プロの栄養士が考えたバランスのよい食事をすることができる、季節の食材や地元の食材にふれる食育ができる、家族以外の人と食事をすることにより食事マナーを身につけられる、給食当番をすることで配膳などを学べる……。そしてなにより、みんなで同じものを食べるのは楽しい。

 うちなんか共働きなので夏休みや冬休みでも給食だけは実施してほしいぐらいだ(倍の値段になってもいいからやってほしい。そうおもっている家庭は多いだろう)。


 2020年頃、コロナ禍で「給食のときはそれぞれ前を向いてだまって食べること」というお達しが下された。うちの子は「だまって食べないといけないからつまんない」と言っていた。そりゃあそうだろう。本来なら給食なんて日々の学校生活のなかでも一、二を争うほど楽しいイベントなのに、それが無味乾燥なものに変えられてしまったのだから(ついでにコロナ禍では休み時間の遊びなども制限されてて、ほんとに気の毒だった)。


 もちろん嫌いなものを強制されたり、食べきれない子が居残りさせられたりといった“苦い記憶”はあるだろうけど、それはおおむね制度運用側の問題(というか教師の問題)であって、制度自体が悪いわけではない。

 そんな給食制度も、決してあたりまえのものではなく、先人たちの努力、給食をなくそうとする連中に対する闘いの結果として今存在するのだということを改めて知った。


 そういえば。

『となりのトトロ』で、サツキが「今日から私、お弁当よ」と言うセリフがある。お弁当を作るのを忘れていたお父さんに代わって、サツキがお弁当を作っているのだ。
(それも残り物ではなく、朝から七輪で魚を焼いたりしている。さらに弁当とは別に味噌汁など朝食も作っている。とんでもない小学生だ)

 あれはサツキがとんでもなくしっかり者だったからなんとかなったけど、そうじゃなかったら「学校に遅れる(あるいは行かない)」か「弁当を持って行かずに他の子らが弁当を食べているときに我慢する」しかないわけだ。

 戦争で両親のいない子も多かっただろうし、貧しい家も多いし、今のようにコンビニも冷凍食品もお惣菜屋もない時代、お弁当を用意するというのはたいへんな苦労だったにちがいない。

 給食があればサツキの負担もだいぶ軽減されただろうになあ。


【関連記事】

国民給食

【読書感想文】貧困家庭から金をむしりとる国 / 阿部 彩『子どもの貧困』



 その他の読書感想文はこちら


2024年3月7日木曜日

【読書感想文】奥田 英朗『コロナと潜水服』 / 本だからこそかける偏見

コロナと潜水服

奥田 英朗

内容(e-honより)
早期退職を拒み、工場の警備員へと異動させられた家電メーカーの中高年社員たち。そこにはなぜかボクシング用品が揃っていた―。(「ファイトクラブ」)五歳の息子には、新型コロナウイルスを感知する能力があるらしい。我が子を信じ、奇妙な自主隔離生活を始めるパパの身に起こる顛末とは?(表題作)ほか“ささやかな奇跡”に、人生が愛おしくなる全5編を収録。

 短篇集。すべて超常現象が起こる話。といって幽霊というほどおどろおどろしいものではなく、なんか霊的なふしぎなことが起こる、という程度。

 取り壊し寸前の古い家を買ったら男の子の気配を感じる『海の家』、追い出し部屋に異動させられた社員の前に謎のボクシングコーチが現れる『ファイトクラブ』、占いというより呪いをかける『占い師』、息子が人を見て新型コロナウイルスに感染しているかどうかを言い当てるようになる『コロナと潜水服』、中古車を買ったら前の持ち主の思い出の地に連れていかれる『パンダに乗って』の五編。


 個人的にはちょっと期待外れ。そもそも超常現象を扱った話が好きじゃないんだよなあ。なんとでもアリになっちゃうからさ。小説をつくるほうからしたらこんなに楽なネタもないんじゃないだろうか(書いたことないから知らないけど)。どんな不条理なことが起きても超常現象のせいにしたら「そういうものですから」で済ませられちゃうもんね。

 オカルトならオカルトで、ちゃんとルールを設定してほしいな。




 わりと好きだったのは『占い師』。

 プロ野球選手を彼氏に持つ女性。自身もミスコン女王、コンパニオン、フリーアナウンサーなど華やかな道を歩んできた。

 ある年、彼氏の成績が急上昇。たちまち球界の人気選手となる。だがそれと同時に彼女への連絡回数は減り、態度もそっけないものに変わってゆく。彼の周りには虎視眈々と有力選手を狙っている(ように見える)女性アナウンサー。

 彼女が“占い師”に相談すると、翌日から彼は絶不調に。自信を失った彼は彼女に癒しを求めるようになる。会う回数が増えたのはうれしいが、このままでは成績不振でクビになる。プロ野球選手でなくなった彼には魅力がない。

 再び占い師に相談すると成績が上昇するが……。


 活躍しすぎてほしくないが、さりとてまったく活躍しないのも困る、という女性の身勝手な欲望をあからさまに書いた短編。悪意に満ちている。

 男が書いているので「ああいう女はこんなもんだろ」とばかにした感じがありありと伝わってくるが、その乱暴さがかえって楽しい。小説なんだから、偏見や悪意に満ちていてもいい。エンタテインメントの読者が求めているのは正しさじゃない。

 小説なら許される。昔は「本には書けないようなことでもネットになら書ける」だったけど、今じゃ「ネットで書いたら炎上するようなことでも本ならそこまで多くの人の目に留まらないから大丈夫」になってるからね。


【関連記事】

【読書感想文】奥田 英朗『オリンピックの身代金』 / 国民の命を軽んじる国家組織 VS テロリスト

【読書感想文】求められるのは真相ではない / 奥田 英朗『沈黙の町で』

【読書感想文】奥田 英朗『ナオミとカナコ』 / 手に汗握るクライムサスペンス



 その他の読書感想文はこちら


2024年3月6日水曜日

【読書感想文】松沢 裕作『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』 / がんばったってダメだって

生きづらい明治社会

不安と競争の時代

松沢 裕作

内容(e-honより)
日本が近代化に向けて大きな一歩を踏み出した明治時代は実はとても厳しい社会でした。景気の急激な変動、出世競争、貧困…。さまざまな困難と向き合いながら、人々はこの時代をどう生きたのでしょうか?不安と競争をキーワードに、明治という社会を読み解きます。

 岩波ジュニア新書。

 最近、この手のジュニア向けの本がけっこうおもしろいことに気がついた。若かったころは「子ども向けに書いた本なんて」と手にも取らなかったけど、つくづく良書が多いんだよな。


 序盤に書いてあることは「明治時代って、江戸時代のような身分社会が崩れて、立身出世が実現できるようになった時代のように語られるけど、ほとんどの人々の暮らしはひどいものでしたよ」という内容で、まあそりゃそうだろうなとしかおもえなかった。

 以前に紀田 順一郎『東京の下層社会』という本を読んだことがあるが、明治時代の貧民層や娼婦の暮らしは、そりゃあひどいものだったようだ。『生きづらい明治社会』では木賃宿で暮らす人々をネットカフェ難民にたとえているけど、とても比べられるようなものじゃないだろう。たしかにネットカフェ難民も楽な暮らしではないが、明治の木賃宿暮らしに比べれば天国のような生活だろう。

 あたりまえだけど、明治時代は劣悪な環境で人がばたばたと死んでゆく、過酷な時代だった。




 この本でおもしろかったのは、中盤以降に出てくる「通俗道徳」で明治時代の貧困を語っている点。

 ここで「通俗道徳」という歴史学の用語を紹介しておきたいと思います。人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、日本の歴史学界では「通俗道徳」と呼んでいます。この「通俗道徳」が、近代日本の人びとにとって重大な意味をもっていた、という指摘をおこなったのは、二〇一六年に亡くなった安丸良夫さんという歴史学者です。
 安丸さんは、勤勉に働くこと、倹約をすること、親孝行をすることといった、ごく普通に人びとが「良いおこない」として考える行為に注目します。これといった深い哲学的根拠に支えられるまでもなく、それらは「良いこと」と考えられています(だからそれは「通俗」道徳と呼ばれます)。
 それは確かに良い行為であると、私たちも普通に考えるだろうと思います。そこまでは大した問題ではありません。問題はその先です。勤勉に働けば豊かになる。倹約をして貯蓄をしておけばいざという時に困ることはない。親孝行をすれば家族は円満である……。しかしかならずそうなるという保証はどこにあるでしょうか。勤勉に働いていても病気で仕事ができなくなり貧乏になる、いくら倹約をしても貯蓄をするほどの収入がない。そういう場合はいくらでもあります。実際のところ、個人の人生に偶然はつきものだからです。
 ところが、人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人ががんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となるわけです。

 おもしろかったのは、つい最近読んだマイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』にも似たような記述があったからだ。

 近年、アメリカでも特に「努力すれば成功する。成功しなかったのは努力が足りないからだ」という考えが強くなっているという。だから成功者は富を独占する権利がある、と。能力主義(メリトクラシー)という考え方だ。

 現代アメリカと明治日本で同じ兆候が見られる。こういう「おもわぬ本と本がつながる」のが読書の醍醐味だ。

 著者は、「通俗道徳」の考え方が強くなるのは明治に入ってからだと指摘する。

 人びとが、通俗道徳一本やりで、完全にわなにはまり切ってしまうのは、明治時代に入ってからです。第一章でみたように、地租改正によって村請制は廃止され、人びとを無理やり助け合わせる仕組みは消滅しました。いやいやながら豊かな人が貧しい人を助ける必要はもうなくなったのです。
 そして政府は、といえばこれまでのべてきたようにカネがありません。何らかの理由で貧困におちいった人を助けるのに割く予算はないのです。こうして、人びとが貧困から逃れるためには、通俗道徳にしたがって、必死で働くことが唯一の選択肢となりました。
 くり返しますが、通俗道徳を守って生きていればかならず成功するわけではありません。しかし、このように助け合いの仕組みも政府の援助も期待できない社会では、成功した人はたいていが通俗道徳の実践者です。こうした状況のなかでは通俗道徳のわなから逃れることはとても難しいことです。実際に、がんばって働き、倹約し貯蓄して、成功した実例が身近に珍しくないからです。
 こうして、明治時代の前半の小さな政府のもとで、人びとは通俗道徳の実践へと駆り立てられてゆき、その結果、貧困層や弱者に「怠け者」の烙印をおす社会ができあがっていったのです。

 生まれによって階級が決まっていた江戸時代と異なり、明治時代は(理論上は)貧富の差に関係なく誰でも成功できる時代になった。実際、貧しい家庭の出身で経済や学問の世界で名を上げた人物もいた。針の穴を通すような低い確率だけど。

 そのせいで、貧しい暮らしをしている人が「努力が足りなかったから自業自得だ」とみなされるようになってしまった。

 のしあがるチャンスが0%の社会より1%の社会のほうがしんどいかもしれない。




「やればできる」が幅を利かせる社会の何がまずいかというと、できなかった人が救済されなくなることだ。だって「できなかったのはやらなかったから」なんだから。

 それに加えて政治の問題もあった。

 なぜ、増えた税金を、貧困者を助けるためにつかうという流れができなかったのか。第三章の、窮民救助法案否決の部分でのべたのとおなじ理由をここでもあげることができます。この時期の衆議院議員選挙でも、選挙権には、依然として財産による制限があり、また女性に選挙権はありませんでした。貧困者に選挙権がない以上、貧困対策は、政党の支持拡大の手段にはなりません。それにひきかえ、交通網が整備されたり、学校が増設されたりすることは、富裕層には有利です。交通網整備によって、地方と都市のあいだの物流の便がよくなれば、地方の製造業者や地主には、製品や農産物を都市で販売するうえでメリットがあります。また、学校ができて学生が集まれば、それだけのお金がその地方に落ちることにもなります。家や土地をもつ人、商店主などには利益になります。そうした利益を地方にもたらしてくれる政党や議員を、有権者は支持することになるわけです。

 明治時代には普通選挙がおこなわれておらず、選挙権、被選挙権を有するのは高額納税者に限られていた(総人口の約1%)。金持ちが投票して金持ちを選ぶのだから、貧しい者のための法が整備されるはずがない。おまけに通俗道徳や能力主義が強い時代。カネやコネのないほとんどの人にはさぞ生きづらかったことだろう。


 日清戦争以前の「小さな政府」の時代に、人びとは、自分で努力する以外に生き延びる道のない、「通俗道徳のわな」に、はまってゆきました。このわなに一度はまってしまうと、そこから抜け出すのはとても難しいのです。「実際に成功している人は努力した人」という現実がそこにある以上、成功した人たちは、自分の地位を正当化するために、このわなにむしろしがみつこうとします。自分が成功したのは、たまたま運がよかったとか、親が金持ちだったとか、そういうことではなく、自分が努力した結果なのである、と。自分の富、自分の地位は道徳的に正しいおこないの結果なのである、と。努力したのに成功しなかった人たち、いくら努力しても、貯蓄の余裕もなく、生活が改善する見込みもなかった人たちのことは忘れ去られてゆきます。

 マイケル・サンデル氏が『実力も運のうち 能力主義は正義か?』でも指摘しているように、この「やればできる。できなかったのはやらなかったから」の考えは諸外国でどんどん強くなっている。もちろん日本でも。

 電気グルーヴの『スネークフィンガー』という曲に

 がんばったってダメだって 努力をするだけムダだって

という歌詞があって、 昔は「ひっでえこと言うな」と思って聴いてたけど、最近聴いたときは「これはこれでそんなにひどい歌詞でもないな」とおもうようになった。

 少なくとも「やればできる!」を連呼する人よりはよっぽど人情味があるとおもうな。


【関連記事】

【読書感想文】マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 / やればできるは呪いの言葉

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』



 その他の読書感想文はこちら


2024年3月5日火曜日

小ネタ12

切手

 切手が値上げするらしい。はがきは63円→85円、封書は84円 or 94円→110円になるそうだ。

 ずいぶん高くなるなあと感じたが、よく考えたら、日本中どこにでも、しかも相手の玄関にまで届けてくれるサービスが100円前後だなんてそれでもめちゃくちゃ安いよなあ。

 しかしスケールメリットがあるからこそ100円かそこらでできているわけで、値上げによって利用者が減ればスケールメリットもなくなってさらに値上げして……と値上げスパイラルになるかも。

 ま、「面倒だから手紙出さない」人はたくさんいるけど「63円が85円になるから出さない」って人は少ないだろうな。



後頭部

 散髪が終わった後、理容師が手鏡で後頭部を見せてくれて「どうでしょう?」と言われる。

 どうでしょうと言われても、自分の後頭部を見るのなんて散髪後だけなので、いつもと比べていいのか悪いのかわからない。

 せめて髪を切る前にも手鏡で後頭部を映して「こちらがカット前の後頭部です」とやっといてくれよな(やらなくていい)。


知らんけど

関西人「知らんけど」

論語「子曰く」

ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」



2024年3月4日月曜日

小ネタ11

ネーミング

 おしりふきは汎用性が高くてすごく便利なのに、ネーミングのせいで使われにくくなっている。もっとしゃれた名前にできないものか。


五十音順

 世界史の教科書に出てくる人物名を五十音順に並べたら、たぶん愛新覚羅(あいしんかくら)が最初だろう。

 ……とおもったけど、愛新覚羅よりもアイザック・ニュートンのほうが前だな。世界史の教科書には出てこないかな。他にもっと早い人はいるかもしれないが、最後は完顔阿骨打(わんやんあぐだ)でゆるぎない。


メイン

 学生時代、中国に旅行していた。数人の日本人で話していたとき、話の流れでひとりの女の子が「それだったら私みんなのためにメイドさんになったげるわ」と言った。

 そのとき「メイド・イン・チャイナやな」と言ったのは、ぼくの生涯ベストダジャレだとおもう。


SDGs

 娘が小学校でSDGsについて教わっている。

 それはいいんだけど、いまだに「一年生の算数で数回使うおはじきセット」とか「三年生で数回使うだけのそろばん」とかを生徒全員に買わせるのはなんでなんだ。学校で買って貸与してくれよ。鍵盤ハーモニカとかは口をつけるからわかるけど。SDGsってなんなんだ。




2024年3月1日金曜日

ハーファログ現象


 テレビで「電車内での通話は禁止行為とされているのはなぜなのか、改めて考えてみよう」という話題をやっていた。

 たしかに考えてみれば妙な話だ。かつては電車内での携帯電話の使用自体をやめましょうと言われていたが(ペースメーカーに悪影響を及ぼすという理由で)、それもなくなった。

 また、電車内での通話がうるさいと言われればたしかにそうなのだが、隣の人とうるさくしゃべっている人もいる。電車内での大声でのおしゃべりもマナー的には良くないが、禁止行為というほどではない。

 じっさいぼくも電車内で通話している人がいれば「やめろよ」と不愉快におもうが(口には出さない)、それは「禁止されている行為をしている」から腹を立てるのであって、そもそも禁止されていなければそこまで腹は立たない。


 番組では「ハーファログ現象」という言葉を紹介していた。

 近くに電話でしゃべっている人がいると、聞いている人の脳が「相手は何と言っているんだろう?」と勝手に想像してしまい、ストレスがかかるのだという。番組では「脳が乗っ取られたような状態」とまで言っていた(さすがにそれは言いすぎだ。それぐらいで乗っ取れるのなら話しかけるだけでも乗っ取れてしまうだろう)。

 まあ、それもわかる。たしかに会話の一方の声だけが聞こえてくる状況は非常にストレスフルだ。


 昔、自室にいたら隣の部屋で姉が観ているテレビの音が聞こえてきたことがあった。

 漏れ聞こえてくる程度なので、何を話しているかはわからない。だがひとりの声だけが妙に甲高くてやかましいのだ。他の人たちの声はぼそぼそ低い音が聞こえてくるだけで気にならないのだが、ひとりの声だけがとにかくやかましい。まるで猿の鳴き声のように。

 なんでこいつの声だけがやかましいのだろうとおもって隣の部屋に行ってテレビ画面をのぞいて納得した。明石家さんまがしゃべっていたのだ。


 それはそうと、「ハーファログ現象」のせいで一方の声だけが聞こえる電車内の通話が不愉快ということであれば、いい解決策がある。

「スピーカーONにするのであれば電車内で通話してもよい」というルールにするのだ。


2024年2月29日木曜日

【読書感想文】門倉 百合子『70歳のウィキペディアン 図書館の魅力を語る』 / (悪い意味で)さすがウィキペディアン

70歳のウィキペディアン

図書館の魅力を語る

門倉 百合子

内容(e-honより)
人生がどんどん面白くなる。ウィキペディアンにあなたもなりませんか!


 ウィキペディアン(Wikipediaの編集者)をやっている70歳女性のエッセイ。

 とはいえ、もともと司書や、会社員として資料整理の仕事などをしていたということで、これまでのスキルを十分に活かした上での活動。

 この人は「誰でもウィキペディアンになれるんですよ。やってみませんか」ってなことを書いているが、これを読むかぎりでは「ずぶの素人が手を出すのはなかなかむずかしそうだな……」という気がする。

 ぼくは毎日のようにブログに文章を書いている人間だが、それでも好き勝手にやっているから書けるのであって、「出典を明らかにするように」「出典は第三者が書いたものに限る」「事実と感想を切り分けて事実のみ書くこと」なんて制約をつけられたらちょっと気後れしてしまう。

 まあそれが仕事であればやってやれないことはないとおもうけど、Wikipediaの編集は無償。書いた人の名前が売れることもないし、資料の検索や整理が好きでないとなかなかできることじゃないよな。


 そういやずっと昔、ぼくがはじめてWikipediaなる存在を知ったころ(二十年近く前)、一度編集をしてみたことがある。

 自分ではちゃんと書いたつもりだったんだけど、「根拠不明瞭」とかのコメントをいっぱいつけられて、心が折れてしまった。なんで好き好んで卒論みたいなことをせにゃならんのかと。




 ただ自分で編集や執筆をやりたいとはおもわないけど、Wikipediaには常日頃お世話になっている。

 もちろん問題はあるけれど、他のWebサイトに比べればずっと信頼のおける情報が手に入るし、なにより誰でも無料でアクセスできるというのはほんとにありがたい。

 翌朝起きて記事を見てみると、既に別のウィキペディアンにより記事が手直しされ、「新しい記事」の候補になっていることもわかりました。そして翌29日には早くも「新しい記事」としてWikipediaメインページに掲載されたのです。ここに載るとたくさんのウィキペディアンの方が見てくださるので、実際に何人かのウィキペディアンによって記事にいくつも手が入り、書誌事項の書き方を整えてくださる方、インフォボックスや写真やカテゴリーを整えてくださる方などいらして、どんどん記事がグレードアップしていきました。Wikipediaは確かに成長する百科事典なのだ、としみじみ感じ、また「集合知」とはこのことか、と実感したものです。

 こういう人たちがいるおかげだよな。ひとりが書いているのではなく、複数の人たちが知識を結集して書いている、というのがWikipediaの最大の価値だとおもう。それによって中立が保たれやすいし、信頼性も増す。無償で知恵や労力を出しあうことをいとわない人たちが世界中にいっぱいいる、っておもうと、この世の中も案外悪いものではないなとおもえてくる。




 とはいえ。

 正直にいうと、この本、ぜんぜんおもしろくなかった。

 う~ん、さすがはウィキペディアン。書かれていることが事実の羅列で、心の動きだとかこぼれ話だとかがまったくといっていいほどないんだよなあ。まったく知らない人の堅苦しい日記を読んでいるだけ。とにかく退屈。

 これを読むんだったらWikipediaを読んでいるほうがずっとおもしろいな……。


【関連記事】

まったく新しい形容詞は生まれるだろうか / 飯間 浩明『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』【読書感想】

大正時代の国語辞典



 その他の読書感想文はこちら


2024年2月28日水曜日

【読書感想文】マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 / やればできるは呪いの言葉

実力も運のうち

能力主義は正義か?

マイケル・サンデル(著)  鬼澤 忍(訳)

内容(e-honより)
努力して高い能力を身につけた者が、社会的成功とその報酬を手にする。こうした「能力主義(メリトクラシー)」は一見、平等に思える。だが、本当にそうだろうか?ハーバード大学の学生の3分の2は、所得分布で上位5分の1にあたる家庭の出身だ―。「やればできる」という言葉に覆い隠される深刻な格差を明るみに出し、現代における「正義」と「人間の尊厳」を根本から問う、サンデル教授の新たなる主著。

 世界中で広まる「能力主義」の背景や問題点を問う本。

「能力主義」とは、かんたんにいうと、高い能力を持っているものが大きな報酬を手にすべきとする考え方だ。これだけなら「あたりまえじゃないの?」とおもう人も多いだろう。

 そう、たいていの人は能力主義の考え方を持っている。能力主義の反対にあるのは、(極端な)共産主義、年功序列主義、貴族制度など、一般に悪しきものとされている考え方だ。

 がんばってより高い能力を身につけた者が、それに見合った対価を獲得する。これだけならちっとも悪いこととはおもえないかもしれない。だからこそ能力主義の考え方はどんどん広がっている。疑問すら持たない人も多い。

 だが、能力主義は様々な弊害も生みだしていると著者は指摘する。




 能力主義の欠点のひとつは、それがはびこることによって、成功を収めた人が自分の成功はすべて能力と努力によるものだと考えてしまうことだ。

 競争の激しい能力主義社会で努力と才能によって勝利を収める人びとは、さまざまな恩恵を被っているにもかかわらず、競争のせいでそれを忘れてしまいがちだ。能力主義が高じると、奮闘努力するうちに我を忘れ、与えられる恩恵など目に入らなくなってしまう。こうして、不正も、贈収賄も、富裕層向けの特権もない公正な能力主義社会においてさえ、間違った印象が植え付けられることになる――われわれは自分一人の力で成功したのだと。名門大学の志願者に求められる数年に及ぶ多大な努力のせいで、彼らはほとんど否応なくこう信じ込むようになる。成功は自分自身の手柄であり、もし失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだと。
 これは、若者にとって重荷であるだけでなく、市民感情をむしばむものでもある。われわれは自分自身を自力でつくりあげるのだし、自分のことは自分でできるという考え方が強くなればなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。こういった感情を抜きにして、共通善に配慮するのは難しい。

 あたりまえだが、成功はすべて努力によるものではない。経済的に恵まれた国に生まれたこと、健康に成長したこと、飢えずに大人になれたこと、戦争や天災や事故で命を落とさなかったこと、良い教育を受けられたこと、どれひとつとっても己の努力によるものではない。ひとことでいえば「運が良かった」ことに尽きる。

 また、現在の成功とは基本的に「たくさん金を儲けること」だ。ふつう「成功者」と言われて思い描くのはCEOだとか経営者だとかトッププロスポーツ選手とかのお金持ちだろう。貧しい国で多くの命を救った医師とか、人命救助のスペシャリストとかではなく。

 つまり能力主義のいう〝能力〟とはたまたま時代や環境のめぐりあわせがよくて株でもうけたり、他人を出し抜く力に長けていたり、別の金持ちに取り入るのが上手だったりとかの金儲けに直結する能力であって、掃除がうまいとか介護をがんばれるとかの能力ではない。とすると、はたして〝能力〟にめぐまれたからといって多くの富を一手に集める権利があるかというとはなはだ怪しい。


 少し前に〝親ガチャ〟という言葉が流行った。あの言葉自体はあまり好きではないのだが(広く使われすぎたせいで)、一片の真実も含んでいる。実際、どんな親のもとに生まれて育つかは運でしかない。そして親の経済状況や性格や教育方針によって、子どもの成功確率は大きく変わる。過酷な環境から成功する人もいるが、「やってできた人もいる」と「やればできる」はまったくちがう。それなのに「やればできる」「成功したのは努力したから」だと欺瞞を口にする人は後を絶たない。




 ま、おもう分には勝手にしたらいい。「自分が成功できたのは努力したからだ」「自分が成功できていないのは努力が足りないからだ。もっとがんばろう」と考えるのは自由だ。

 問題は、それを他人に押しつけて「やればできるはずだからもっとがんばれ!」「おまえの境遇が悲惨なのは努力が足りないからだ!」と言う輩が多いことだ。

 政治家が神聖な真理を飽き飽きするほど繰り返し語るとき、それはもはや真実ではないのではという疑いが生じるのはもっともなことだ。これは出世のレトリックについても言える。不平等が人のやる気を失わせるほど大きくなりつつあったときに、出世のレトリックがひどく鼻についたのは偶然ではない。最も裕福な一%の人びとが、人口の下位半分の合計を超える収入を得ているとき、所得の中央値が四〇年のあいだ停滞したままでいるとき、努力や勤勉によってずっと先まで行けるなどと言われても、空々しく聞こえるようになってくる。
 こうした空々しさは二種類の不満を生む。一つは、社会システムがその能力主義的約束を実現できないとき、つまり、懸命に働き、ルールに従って行動している人びとが前進できないときに生じる失望。もう一つは、能力主義の約束はすでに果たされているのに、自分たちは大損したと人びとが思っているときに生じる落胆だ。後者のほうがより自信を失わせるのは、取り残された人びとにとって、彼らの失敗は彼らの責任ということになるからである。

 著者は、ふたつの階層社会を例に挙げている。ひとつは身分制による階層社会。もうひとつは能力主義による階層社会。どちらも貧富の差は大きく、ひとにぎりの上層部が富を独占している。後者は今のアメリカのような国だ。

 前者は階層が出自によって決定するので、低い階層の人がどんなに努力しても上位階層に行くことはできない。後者の社会ではごくまれにではあるが、低い階層から上位階層に昇りつめることのできる者もいる。少ないとはいえ上昇のチャンスがある分、後者のほうがまだマシだとおもうかもしれない。

 自分が最下層にいたらどちらがつらいだろうか。もちろん前者はつらい。決して上昇のチャンスがないのだから。だが「自分の境遇が悪いのは自分のせいではない。また金持ちのやつらも、彼らがそれに見合う能力や実績を持っているから金持ちになっているのではない」とおもえる。

 一方、後者の階層社会では「おまえが貧しいのはおまえの努力が足りないからだ。見ろ、貧しい階級から努力して金持ちになった連中もいるではないか。おまえが貧しいのはおまえがダメだからだ」と言われるのだ。そんなことを言われる世の中で「貧しくたって楽しく生きられるさ」とおもえるだろうか。




 だが、その強い魅力にもかかわらず、能力主義が完全に実現しさえすれば、その社会は正義にかなうという主張はいささか疑わしい。まず第一に、能力主義の理想にとって重要なのは流動性であり、平等ではないことに注意すべきである。金持ちと貧乏人のあいだの大きな格差が悪いとは言っていないのだ。金持ちの子供と貧乏人の子供は、時を経るにつれ、各人の能力に基づいて立場を入れ替えることが可能でなければ―――つまり、努力と才能の帰結として出世したり没落したりしなければ―――おかしいと主張しているにすぎない。誰であれ、偏見や特権のせいで、底辺に留め置かれたり頂点に祭り上げられたりすべきではないのである。
 能力主義社会にとって重要なのは、成功のはしごを上る平等な機会を誰もが手にしていることだ。はしごの踏み板の間隔がどれくらいであるべきかについては、何も言わない。能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ。

「能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ」

 つまりはこういうことなんだよね。能力主義ってのはべつに公正な分配方法ではなく、(富を多く持つ者の側が)不平等を正当化するための理屈なんだよね。

 でも「やればできる!」「貧しい者でも努力によって成功を勝ち取れる!」ってのは耳当たりのいい言葉だから広まってしまい、持てる者からすれば「おれの成功はおれ自身のおかげ」と再分配を拒むための言い訳になり、持たざる者にとっては「自分が成功していないのは自分の努力が足りないから」という呪いの言葉になってしまった。


 著者は「機会の平等は、不正義を正すために道徳的で必要な手段である。とはいえ、それはあくまでも救済のための原則であり、善き社会にふさわしい理想ではない。」と書いている。

 まったくの同感だ。少なくとも経済競争の勝者の側がふりかざしていい理論ではないよね。




 これはぼくの勝手な想像だけど、能力主義の蔓延は世の中が平穏だから、ってのも要因のひとつなんじゃないだろうか。

 たとえば戦争や大震災なんかで周囲の人がたくさん亡くなっていたら「自分が成功したのはひとえに自分が努力したからだ」なんて考えには至りにくいんじゃなかろうか。

 まじめで誰からも愛されるいいやつだったけど、流れ弾に当たって死んでしまった。すごく頭が良くて何をやらせても上手にできるやつだったけど、地震で死んでしまった。すぐ近くにいた自分はたまたま居た場所がよかったおかげで助かった。

 そんな経験をしていたら、とても「おれの成功はおれの努力のおかげだから報酬を独占する権利がある」なんてならないのでは(なる人もいるだろうけど)。


 ぼくの場合も、幼なじみのSという男の死がその後の考え方に影響を与えた。Sはサッカーがうまくて、運動神経抜群で、勉強もできて、努力家で、さわやかで人当たりがよくて、女の子からとにかくモテて、でも男からも好かれていて、誰もが口をそろえて言う「いいやつ」だった。いい大学に行き、そこでも友だちに恵まれていた。誰もがSは順風満帆な人生を送るのだろうとおもっていた。

 しかしSは二十代半ばで病気で死んでしまった。「いいやつほど早く死ぬ」なんて言葉をぼくは信じてはいないけど、それでもそう言いたくなるほどあっけなく。

 それ以来、諦観というほどではないけど、「人生がうまくいくかなんて運次第」という考えがぼくの中で強くなった。能力に恵まれて努力家でいいやつだったSが早く死んだのだから。才能や努力は成功に貢献する一要素ではあるけれど、そんなに大きなものではない。


【関連記事】

【読書感想文】能力は測れないし測りたくもない / 中村 高康『暴走する能力主義』

【読書感想文】マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』



 その他の読書感想文はこちら


2024年2月27日火曜日

【読書感想文】マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』 / 多様性だけあっても意味がない

多様性の科学

画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織

マシュー・サイド(著)  トランネット(翻訳協力)

内容(ディスカヴァー・トゥエンティワンHPより)
経営者からメディア、著名人までもが大絶賛!なぜグッチは成功しプラダは失敗したのか。なぜルート128はシリコンバレーになれなかったのか。オックスフォード大を主席で卒業した異才のジャーナリストが、C I A、グローバル企業、登山隊、ダイエットなど、あらゆる業界を横断し、多様性の必要性を解き明かす。自分とは異なる人々と接し、馴染みのない考え方や行動に触れる価値とは?

(↑出版社HPの文章。「主席で卒業」じゃなくて「首席で卒業」だよね。学長じゃないんだから)


 様々な研究結果をもとに、多様性がある組織がいかに強いかを解説した本。

 たとえばCIA(アメリカ中央情報局)。当然ながらそこで働く職員は、みんな優秀な人たちだ。だが彼らは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を事前に見抜くことができなかった。実際にはテロリストの不穏な動きを示す様々なサインがあったので、多くの情報が集積するCIAなら事前に気づいてもおかしくなかった。

 にもかかわらず彼らがサインを見落としていたのは、CIAの職員が白人、男性、アングロサクソン系、プロテスタントという似たバックボーンの人たちばかりだからだと著者は指摘する。


 世の中には賢い人がいる。だが世界一賢い人でも、集団の力には適わない。

 たとえば同じテストを100人が受ける。1位の人は95点だった。この人とまったく同じ考えをするクローンを4人集める。平均点は95点だ。

 一方、テスト上位4人を集める。95点、94点、93点、92点の人たち。平均点は93.5点。

 平均点は前者のほうが高い。だが実際の成績は後者のほうが良くなる。違った人たちを集めれば、足りないものを補い合えるからだ。

 ここまでは納得しやすい話だろう。多様性は大事だ。最近SDGsだとかダイバーシティだとかよく聞くようになったけど、べつに道徳的正しさだけでなく、単純な損得のことを考えても、多様性は重要なのだ。


 だが。多様性が大事だと理解していても、実現するのはむずかしい。

 ほかにもこんな実験がある。米コロンビア・ビジネス・スクールのキャサリン・フィリップス教授は、被験者を特定のグループに分け、複数の殺人事件を解決するという課題を与えた。各グループには、証拠やアリバイ、目撃者の証言や容疑者のリストなどさまざまな資料が提示された。グループの半数は4人の友人で構成され、残りの半数は友人3人とまったくの他人――社会的背景も視点も異なる人物――が1人だ。本書をここまで読んだ方はもうおわかりだと思うが、結果は他人を含めたグループのほうが高い成績を上げた。彼らの正解率は75%。友人ばかりのグループは54%にとどまった。ちなみに個人で取り組んだ場合の正解率は44%だった。
 しかし特に興味深いのは次の点だ。多様性のあるグループと画一的なグループでは、メンバーがまったく異なる体験をしていた。前者はグループ内の話し合いについて「(認知的な面で)大変だった」と感じていた。多角的な視点でさまざまな議論がなされ、反対意見も多く出たからだ。しかも高い確率で正解を出したものの、それを知るまで自分たちの答えには強い自信を持っていなかった。
 一方、画一的なグループの体験は180度違っていた。彼らは気持ち良く話し合いができたと感じていた。みな似たような視点で、互いに同意し合うことがほとんどだったからだ。結局正解率は低かったが、自分たちの答えにかなりの自信を持っていた。つまり盲点を指摘されることはなく、それがあることに気づく機会もなかった。彼らは異なる視点を取り入れられないまま、自分たちが正しいと信じた。画一的な集団が犯しやすい危険はこれだ。重大な過ちを過剰な自信で見過ごし、そのまま判断を下してしまう。

 多様な人たちと同意するために話しあうのは大変なのだ。

 なかなか答えの出ない問題(たとえば安楽死に対する議論のような)に対して、「日本生まれ日本育ちの世襲政治家四人」で話しあうより、「障碍者の高齢男性、外国人専業主婦、フリーターの青年、女子中学生」で話しあうほうが、様々な立場から異なる意見が出る分、良い答えは出やすい。でも、後者のほうがずっと大変でストレスのかかる作業になるだろう。

 多様性が大事とわかっていても、それを実際の行動に落とし込むのは容易ではない。だから政治家でも企業でも「意思決定の場はおじさんばっかり」になっちゃうんだろうね。そしてちっとも賢明でない結論を導きだしてしまう。




 多様性の実現を妨げる要因のひとつが、ヒエラルキーだ。

 多様性が力を持つのは、それぞれの立場の人が臆することなく意見を言えるからこそ。だが人が集まるとヒエラルキー(上下関係)が生まれ、それが自由闊達な意見の交換を妨げる。

 ヒエラルキーは意図的に形成する場合もあるが、人間はそもそもこういう生き物なのだ。
 人の心の奥底にこれだけ浸透した順位制は、進化の過程で重要な役割を果たす。群れなり集団なりが選択に迫られたとき、それが単純な問題なら、リーダーが決定を下してほかの者が従うのが理にかなっている。そのほうが迅速に一体となって行動できる。進化の過程では、支配的なリーダーがいる集団のほうが勝ち残る確率が高い。
 しかし問題が複雑になると、支配的な環境が悪影響を及ぼす場合がある。ここまで見てきたように、集合知には多様な視点や意見――反逆者のアイデア――が欠かせない。ところが集団の支配者が、「異議」を自分の地位に対する脅威ととらえる環境(あるいは実際にそれを威圧するような環境)では、多様な意見が出にくくなる。ヒエラルキーが効果的なコミュニケーションの邪魔をするのだ。ヒエラルキーの中で生きることをプログラミングされた人間だからこそそうなる。これは一種のパラドックスと言っていいだろう。

 ヒエラルキーがあると、上司の意見に逆らえなくなる。結果的に「上司の言うことを復唱するだけのコピー」が量産されることになる。こうなるとメンバーに多様性があっても意味がない。

 ヒエラルキーが部下を萎縮させる力はすごい。

 173便の墜落事故後間もなく、フライトシミュレーターを使った研究調査で被験者の乗組員を観察した際も、同じ問題が起こった。「機長はあらかじめ間違った判断を下す(つまり能力が低い)フリをするように指示されていた。クルーが進言するまでの時間を計るためだ」とフィリンは解説する。「結果、クルーの反応を観察していたある心理学者はこう言った。『副操縦士らは機長に意見するより、死ぬことを選んだ』」
 この話をちょっと聞いただけでは、上司に意見するより死ぬほうを選ぶなどおかしなことに思えるだろう。自分ならそんなことはしないと考える。しかしこうした行動は無意識のうちに起こる。人は反射的にそうなる。どんな職場でも同じだ。部下はいつでも上司の機嫌をとろうと、意見やアイデアを持ち上げる。身振りや手振りを真似しさえする。多様性はそうやって排除される。決して最初から多様な意見がないのではなく、表明する場がないのだ。
 エラスムス・ロッテルダム大学経営大学院による研究では面白い結果が出ている。1972年以降に実施された300件超のビジネスプロジェクトを分析してみると、地位の高いリーダー(シニア・マネージャー)が率いるチームより、それほど高くないリーダー(ジュニア・マネージャー)が率いるチームのほうがプロジェクトの成功率が高かったのだ。これは一見すると驚くべき結果かもしれない。もっとも知識や経験のある人物が「いない」チームのほうが、いい結果を出せるとはどういうことか?

 なんと「上司に正しい意見を告げないと自らが命を落とす」ような場面ですら、人は意見を言うのをためらってしまう。実際、それが原因で多くの人が命を落とす登山事故や飛行機事故が起こっている。

 それは、いわゆる“えらい”リーダーがいるから。えらいリーダーがいると、
「こんなことを指摘したらリーダーが機嫌を損ねるから」
「悪いことが起こっているのに気付いたが、とっくに上司は気づいているにちがいないとおもった」
などの理由で、メンバーたちの自由な意見を封じることになってしまう。


 そこで、良い意見を集めて組織をブラッシュアップさせていきたいと考えるのなら、下からでもものを言いやすい“仕組み”が必要になる。「さあ忌憚のない意見を聞かせてくれ」でおもったことを自由に言えるなら苦労はしないわけで。

 心理的安全性が高い文化の構築に加えて、現代の最先端組織は、効果的なコミュニケーションを促す仕組みを取り入れ始めている。その1つは、Amazonが実践していることで有名な「黄金の沈黙」だ。10年以上前から、同社の会議は、PowerPointのプレゼンテーションやちょっとしたジョークではなく完全な沈黙で始めるようになった。出席者は最初の30分間、その日の議題をまとめた6ページのメモ(箇条書きではなく、いわばナレーションのように筋立てて文章化したもの)を黙読する。
 これにはいくつか効果がある。まず、議題を提案した人自身が、その議題について深く考えるようになる。CEOのジェフ・ベゾスはこう言う。「20ページのPowerPointプレゼンテーションを作るより、いい(中略)メモを書くほうが難しい。何がより重要かしっかりと考えて理解しておかないと、文章で説明することはできない」
 しかしこの黄金の沈黙にはもっと深い効果がある。ほかの人から意見を聞く前に、新たな視点に立って議題を見直すことができるのだ。文章に書き起こすことで、会議の前に、自身の提案の強みや弱みをそれまでとは別の角度から考えられるようになる。そして実際に会議が始まると、もっとも地位の高い者が最後に意見を述べる。このルールも、多様な意見を抑圧しない仕組みの1つだ。
 チームの効果的なコミュニケーションを促す仕組みの2つ目は、「ブレインライティング」だ。口頭で意見を出し合うブレインストーミングと要領は同じだが、こちらは各自のアイデアをカードなどの紙に書き出し、全員に見えるように壁に貼って投票を行う。「この方法なら、意見を出すチャンスが全員にあります」と米ケロッグ経営大学院のリー・トンプソン教授は言う。「1人や2人だけでなく、チーム全員の脳から生み出されるアイデアにアクセスできるので
 トンプソン教授は、ブレインライティングで守るべきルールはたった1つだという。「誰のアイデアか」を明らかにしないことだ。「これは極めて重要なルールです。意見やアイデアを匿名化すれば、発案者の地位は影響しません。つまり能力主義で投票が行われます。序列を気にせず、部下が上司に媚びることなく、アイデアの質そのものが判断されるのです。これでチームの力学が変わります」

 話す前に読む、地位の低い者から意見を言う、アイデアを匿名化する。なるほど、これならいろんな立場・性格の人から意見を集められそうだ。良いチームは良い仕組みを取り入れている。

 逆に上司が「おれは~とおもうんだけど君たちはどうおもう?」なんてやってる会議は無駄だからすぐにやめたほうがいい。劣悪上司の劣化コピーをつくっているだけなので。




 人間が集まると自然とヒエラルキーが生まれる。ただそのヒエラルキーには「支配型ヒエラルキー」と「尊敬型ヒエラルキー」の二種類があると筆者は書く。

 前者は「おれが上の立場だからおれに従え」と居丈高にふるまうリーダーのいるヒエラルキー。後者は、知恵や人徳で周囲からの尊敬を集め、自然にできるタイプのヒエラルキー。言うまでもなく、後者のほうが自由闊達な議論がなされ、正しい決定を導きだす可能性が高い。

 が、支配型ヒエラルキーにも(少ないながらも)いい面もあるという。それは、上意下達に向いていること。「法改正でこうなったから従うように!」のような、絶対に従わなきゃいけないルールを守らせるのは支配型ヒエラルキーのほうがスムーズだ。

 だから軍隊でも官僚組織でも、末端に関していえば支配型ヒエラルキーのほうがうまくいくかもしれない。問題は、その意識のまま意思決定権のあるトップにまで昇りつめてしまうこと。こうなるとよくない。

「おれが言ったことに黙って従え!」タイプは旅団程度の小さな組織のトップ(つまり中間管理職)には向いているかもしれないが、師団や軍団のような決断を強いられるポジションには向いていない。なぜなら「おれが言ったことに黙って従え!」タイプのもとには価値のある情報が集まってこないから。耳に痛いことを進言してくれるタイプがいなくなるので(いても冷遇されてしまうので)、「リーダーが聞きたい情報」しか入ってこなくなる。政治家なんかでもよく見るタイプだね。

 トップは黙って耳を傾けるだけ、みたいなのがあるべき姿なんだろうな。




「多様性」の恩恵を受けるには、必ずしも多様な人々を集めなくてもいい。なんとある実験によれば「外国に住んでいるところを想像する」だけで連想力が向上したという。

 研究分野を切り替える科学者がいい論文を書くとか、楽器や芸術活動にいそしむ科学者のほうがノーベル賞受賞者が多いとかのデータもあり、「自分が多様な人間になる」ことで思考の幅が広がるのだそうだ。




 イノベーションを生みだすのは、ひとりの天才ではなく、知恵が結集されたときだという話。

 こうした点について、ヘンリック教授は次のように考えてみるといいと言う。たとえば、2つの部族が弓矢を発明すると仮定する。一方は大きな脳を持つ頭のいい「天才族」。もう一方は社交的な「ネットワーク族」。さて、頭のいい天才族は、1人で個人的に努力をして、1人で想像力を働かせ、人生を10回送るごとに1回大きなイノベーションを起こすとしよう。一方ネットワーク族は、1000回に1回のみだ。とすると、単純計算では、天才族はネットワーク族より100倍賢いことになる。
 しかし、天才族は社交的ではない。自身のネットワークにはたった1人友人がいるだけだ。しかしネットワーク族は10人友人がいる。天才族より10倍社交的だ。ではここで、たとえば天才族もネットワーク族も全員が1人で弓矢を発明し、友人から意見を聞くとしよう。ただし友人1人につき、50%の確率で学びが得られるとする。その場合、どちらの部族がイノベーションを多く起こすだろう?
 実はこのシミュレーションの結果は我々の直観と相容れない。天才族の中でイノベーションを起こすのは、人口の1%のみにとどまるのだ。1人で発明にたどり着くのはその半数。一方ネットワーク族は、99%がイノベーションを起こす。1人で発明にたどり着くのは残りの0.1%のみ。しかしそのほかはみな友人から学び、改善のチャンスも得られ、さらにその知識をネットワークに還元できる。それがもたらす結果は明らかだ。これまでの実験データや歴史上の数々の実例を見てもわかる。次のヘンリック教授の言葉がその真実を突いている。「クールなテクノロジーを発明したいなら、頭が切れるより社交的になったほうがいい」

 よく言われるのは、ビートルズがあの時代のリバプールという小さな町で誕生した奇跡について。あれはべつに「世界的な音楽の才能にあふれる四人がたまたま同時期・近い場所にいた」のではなく、「そこそこ音楽の才能があった四人がいて相互に影響を与えたから世界的なバンドになった」のだろう。すごい人とすごい人がお互いに影響を与えあうことで、それぞれがもっとすごい人になる。

 若い頃は「すごい人間になりたい」とおもって孤高の存在にあこがれたけど、社交的になってすごい人間の近くにいくことのほうが大事だったんだなあ。中年になってから気づいたよ。もっと早く気づきたかった。


 互いに影響を与えあってイノベーションを生み出すのは個人だけでない。企業もまたそうだ。

 1960~1980年代には、ルート128と呼ばれるボストン周辺の企業が繁栄を極めていた。だが、やがてイノベーションの舞台はシリコンバレーへと移ってゆく。その原因は、ルート128は互いに孤立していたからだと著者は指摘する。

 こうした企業はほかから孤立するにつれ、極めて独占的になっていった。自社のアイデアや知的所有権を保護するため探偵を雇う企業もあった。人々の交流は社内の人間同士だけになっていった。各社のエンジニアが集うフォーラムやカンファレンスもほとんど開かれることはなかった。「秘密主義が顧客、仕入れ業者、競合企業などとの関係をすべて支配した」とサクセニアンは指摘する。またある識者も「壁はどんどん厚く、高くなるばかりだった」と言う。
 もちろん秘密主義そのものは理にかなっている。自社のアイデアを他企業に盗まれたくはない。しかしそれには代償を伴った。自社のエンジニアを幅広いネットワークから隔離した結果、多様な視点の交流や融合、それがもたらすアイデアの飛躍など、イノベーションを起こす土壌を図らずも塞いでしまったのである。そのためルート128周辺の企業は「縦割り」の力ばかりが働いたとネットワーク理論の専門家は言う。アイデアは階層的な組織の内部のみを流れ、外へ出ていくことはなかった。サクセニアンによれば、テクノロジーに関わる情報は各組織内に閉じ込められ、周辺の他企業など「横」への拡散はほぼ見られなかったという。

「成功の秘訣」だとおもっているものなんて、大した価値はない。ほんとに貴重なアイデアは特許をとるだろうし、人を囲い込もうとすればかえって有能な人ほど離れてゆく。


 そういえば。独創的なアイデアでもなんでもないけれど。

 高校生のとき、ぼくは数学がよくできた。ほとんどのテストで満点だった。だから数学の授業の前になると、友人や、そんなに親しくもない同級生がぼくのもとに集まってきた。「宿題教えてくれ」「これどうやって解いた?」と。ぼくはどんどん教えた。親切心というより、教えるのは優越感を味わえて楽しいから。結果、ますますぼくは数学ができるようになった。他人に教えることで自分の思考も整理されるし、他人の解法を見ることで新たな発見もある。陥りやすいミスにも気づける。

 自分の発見やアイデアなんてどうせたいしたことはない。どんどん他人に公開したほうが、結果的によいものが生まれる。




 一方。多様性は重要だが、単に多くの人が集まると、かえって多様性は損なわれるという話。

 しかし多様性豊かな環境は、矛盾した現象ももたらす。インターネット上でも実社会でも同じことが起きる。世界が広がるほど、人々の視野が狭まっていくのだ。多様な学生が集まる大規模なカンザス大学では、画一的なネットワークが生まれ、多様なビジネスマンが集まる交流イベントでは、顔見知りとばかり話す傾向が見られた。
 これは現代社会における特徴的な問題の1つ、「エコーチェンバー現象」「同じ意見の者同士でコミュニケーションを繰り返し、特定の信念が強化される現象」につながる。インターネットは、その多様性とは裏腹に、同じ思想を持つ画一的な集団が点々と存在する場となった。まるで狩猟採集時代に舞い戻ったかのようだ。情報は集団間より、むしろ集団「内」で共有される。

 大人数が集まる大学だと、自然と人種や階層ごとにコミュニティが生まれ、その中だけで過ごすことになる。反面、人数の少ない大学では、いやおうなくいろんな人種・階層の人が話す機会が増え、結果的に交流の多様性が高まるという。

 SNSも同じで、全世界のあらゆる人とつながれる……というのはあくまで理論上の話で、実際は自分と似た属性・思考の人たちばかりフォローするようになってしまう。そのため多様な考えに触れるどころか、自分がもともと持っていた考えを補強するような意見ばかり集めてしまう、余計に思想が先鋭化してしまうのだ。

 ぼくもいっとき旧Twitterで政治系のアカウントをあれこれフォローしていたからよくわかる。なるべく多方面の意見を見ようとおもっていても、やっぱり自分と真逆の考えに触れるのはストレスが溜まるから、どうしても近い思想の人ばっかりフォローしちゃうんだよね。それに気づいてもうSNSはほぼ見ていない。




 それまでの流れとはちょっとちがうけど、『平均値の落とし穴』の章もおもしろかった。

 被験者は食べたものをすべて、実験用に用意されたモバイルアプリに記録した。基本的に食べたいものを食べてよかったが、朝食だけは標準化されていた。具体的にはパンのみ、バターを塗ったパン、粉末状の果糖を水で溶いたもの、ブドウ糖を水で溶いたものを日替わりで摂取する。朝食の総数は5107食、その他の食事は4万6898食、総カロリーは1000万カロリーにのぼり、血糖値など健康状態を示すデータとともにすべて記録された。そして今回、エランは平均値を一切計算せず、共同研究者とともに一人ひとりの被験者の反応を詳細に分析した。
 結果は目を見張るものだった。被験者の中には、アイスクリームを食べて健康的な血糖値を示す人もいれば、すしを食べて乱高下する人もいた。これとはまったく逆の反応を示す人もいた。「医学的にも栄養学的にも、いわゆる平均とは異なる結果を示した人が大勢いました」とエランは言う。「まるで正反対の反応を示すケースも多々ありました」

「~は身体に良い」とか「~の食べすぎには要注意」なんていうが、あんまりあてにならないようだ。人間の身体というのは、我々がおもっているよりずっと多様で、それぞれ異なる性質を持っている。だからアイスクリームを食べると不健康になる人もいれば、アイスクリームで健康になる人もいる。

「~は身体に良い」というのはまったくの嘘ではないが、あくまで平均の話。そして身長・体重・その他あらゆる数値がすべて平均通りの人がいないように(すべて平均通りだとしたらその人はかなり異常だ)、みんな平均からそれぞれ離れている。

「~は身体に良い」の類は眉に唾をつけて聞いといたほうがいいね。

 最近では個人の血糖値データなどを測定して「この人にとっては~が血糖値を下げるらしい」といった診断もできるようになってきているらしい。それが一般化したら「同じ食事が誰に対しても同じ効果を上げるとおもっていたなんて21世紀初頭はなんて乱暴な時代だったんだ!」となるかもしれないね。




 ということで、ついつい引用が長くなってしまうぐらいおもしろい箇所だらけの本でした。ただ「多様性が大事!」だけじゃなくて、なぜ大事なのか、どうすれば多様性は損なわれるのか、それを防ぐためにはどうしたらいいか、などまで書いてくれているのがいいね。


【関連記事】

【読書感想文】『くじ引きしませんか? デモクラシーからサバイバルまで』 / 多数決よりはずっとずっとマシなくじ引き投票制

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』



 その他の読書感想文はこちら


2024年2月22日木曜日

エレベーターのボタンを両方押すとかえって遅くなる。自分自身も。

 

 エレベーターに早く来てほしくて、ボタンをふたつとも(ふつうの呼び出しボタンと車椅子用エレベーター用呼び出しボタン)押すやつがいる。早く現世から退場してほしい。

 彼ら彼女らが愚かなのは、「自分さえよければ他人はどうでもいい」やつだからではない(それもあるが)。「他人はもちろん、自分も損しているのにそれに気づいていないから」だ。

 エレベーターのボタンを両方押すと、かえって遅くなる。


 たとえばエレベーターが2機あるとする。1機は小さめのエレベーター(A)、もう1機は車椅子用エレベーター(B)とする。ともに1階に停止している。

 10階から1階に行きたい人が[↓]のボタンを押す。するとエレベーター(A)が上昇をはじめる。

 数秒遅れて5階の人が[↓]のボタンを押す。エレベーター(B)が上昇をはじめる。

 他にボタンを押す人がいなければ、エレベーター(A)もエレベーター(B)も1階から呼び出された階まで上昇し、人を乗せ、止まることなく1階に到着する。どちらも必要最低限の時間で1階に到着する。


 一方、10階から1階に行きたい人の思考能力が欠如しており、[↓]のボタンを押し、さらに車椅子用エレベーター呼び出しボタンも押した場合を考える。

 この場合、エレベーター(A)が上昇をはじめ、10階に向かう。少し遅れてエレベーター(B)も10階に向かう。

 5階の人も[↓]のボタンを押すが、エレベーターは2機とも5階を通過して10階に向かう。なぜなら両機とも「10階から先に呼び出された」という指示を優先するから。

 10階でボタンをふたつとも押した阿呆は、先に到着したエレベーター(A)に乗る。当然ながら、エレベーターが到着する時間はボタンをひとつだけ押したときと変わらない。

 少し遅れてエレベーター(B)も10階に到着するが、誰も乗る人がいないのでそのまま無駄に待機する。

 エレベーター(A)は阿呆を乗せて下に降りる。そして5階で止まる。5階で呼び出した人を乗せるため。


 つまり、阿呆がボタンをふたつとも押すことで、

・5階の人は、本来スムーズに来たはずのエレベーター(B)に一度素通りされるので損

・10階の阿呆は、本来ノンストップで1階まで降りられたはずなのに、途中で5階に止まるので損

・エレベーターは両方とも10階に向かうことになり、無駄にエネルギーを消費

と、三方一両損なのだ。

 ボタンを全部押す阿呆は思考能力が欠如しているので「全部押せば早くなる。少なくとも遅くはならない」と信じているかもしれないが(すべてのエレベーターが独立して動いているのであればその通りだが、そんなエレベーターはほぼないだろう)実際は「全部押しても早くはならない。状況によっては遅くなる」のだ。


 自分自身も損をすることに気づかず、今日も阿呆はエレベーターのボタンを全部押す。



 ということで、エレベーターのボタンを全部押すやつはきっちり捕まえて、1時間の違反者講習を受けさせることにしようぜ!



2024年2月20日火曜日

小ネタ10

ジブリの乗り物

 ジブリアニメでいちばんスリルのある乗り物は、ドーラの飛行船でもなく、ポルコ・ロッソの飛行艇でもやく、キキのほうきやトンボの改造自転車でもなく、誰が何といってもリサの軽自動車。


今はもう

 ひゃくねんやすまずに チクタクチクタク

 おじいさんといっしょに チクタクチクタク

 いまは もう うごかない

 その点P


四段論法

 馬鹿な子ほどかわいい

 かわいい子には旅をさせよ

 旅は道連れ

→ 馬鹿は道連れ



2024年2月16日金曜日

懺悔

 みんなで食べようと買ってきたじゃがりこを置いていたら、なくなっている。家族の誰かが食べたにちがいない。

 買ってきてから、なくなっていることに気づくまで、家にひとりでいたのは長女だけ。

 長女は学校から帰った後にときどきお菓子を食べている。だらしないのでよく机の周りにお菓子のごみが置きっぱなしになっている。

 長女に「食べた?」と訊くと、知らないという。

 しかし、状況的に長女以外はありえない。

「食べたらだめって言ってるわけじゃないんだよ。何も言わずに置いといたお父さんが悪いんだから。食べたからって怒ったりしないよ」と伝えた後に、「食べたでしょ?」と訊くと、やはり長女は「食べてない」と言う。

 以前にも同じようなことがあって、そのときも犯人は長女だったのだが嘘をついてごまかそうとした。こいつぜんぜん反省してないじゃないか。

「なあ、食べるなって言ってるんじゃない。食べたことを隠すなって言ってるの!」と強めに叱った。長女は「知らんし……」と言ったきり黙りこんでしまった。


 出勤のために家を出てからも、もう、なんで嘘を認めないんだとぷりぷりし、電車の中で「子ども 嘘 認めない」なんて検索してどう対処したら潔く嘘を認められるんだろうと考え、帰ってからも長女に対して「今日はお菓子食べたらだめだよ!」なんて冷たくあたっていた。

 少しして、長女が食料品置き場をごそごそやっていたとおもったら、出てきたのだ、じゃがりこが……。


長女「あったよ」

ぼく「えっ……、どこに」

長女「べつのお菓子の袋の奥のほうに入ってた」

ぼく「あー……。ごめんなさい」


 めちゃくちゃばつが悪い。

 しかも、長女はそれ以上何も言わないのだ。いっそ「ほら、食べてないって言ったじゃん!」とか責めたててくれたほうがまだいいのに、何も言わないのだ。ぼくの謝罪をあっさり受け入れ、あとは普通に接してくる。余計に心苦しい。

 こいつ、なんて大人なんだ……! 父親があんなにみっともないふるまいをしてというのに……!


 愚かな自分を忘れぬよう、自省のためしたためる。



2024年2月14日水曜日

【読書感想文】杉井 光『世界でいちばん透きとおった物語』 / フォークだけすごいピッチャー

世界でいちばん透きとおった物語

杉井 光

内容(e-honより)
大御所ミステリ作家の宮内彰吾が死去した。宮内は妻帯者ながら多くの女性と交際し、そのうちの一人と子供までつくっていた。それが僕だ。「親父が『世界でいちばん透きとおった物語』という小説を死ぬ間際に書いていたらしい。何か知らないか」宮内の長男からの連絡をきっかけに始まった遺稿探し。編集者の霧子さんの助言をもとに調べるのだが―。予測不能の結末が待つ、衝撃の物語。

【核心のネタバレは避けるようにしますがネタバレにつながるヒントにはなってしまうとおもいます】