2019年9月18日水曜日

【読書感想文】チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

このエントリーをはてなブックマークに追加

82年生まれ、キム・ジヨン

チョ・ナムジュ (著) 斎藤真理子 (訳)

内容(e-honより)
ある日突然、自分の母親や友人の人格が憑依したかのようなキム・ジヨン。誕生から学生時代、受験、就職、結婚、育児…彼女の人生を克明に振り返る中で、女性の人生に立ちはだかるものが浮かびあがる。女性が人生で出会う困難、差別を描き、絶大な共感から社会現象を巻き起こした話題作!韓国で100万部突破!異例の大ベストセラー小説、ついに邦訳刊行。

キム・ジヨンという人物の半生を通して女の生きづらさを描いた小説。

フェミニズム小説、というジャンルでくくられているらしいが、これは男こそ読むべき小説だね。
そうか、女であるというだけでこれほどまでに人生が変わってくるのか。

逆に女性にとっては「なにをいまさら」「女が生きづらいのなんてあたりまえじゃない」と感じるかもしれない。


この本で描かれるキム・ジヨン氏は、ごくごく平凡な人生を歩んでいる(ちなみにぼくは1983年生まれなのでほぼ同い年)。
ごくふつうの家庭に生まれ、ふつうの学校に行き、ふつうの会社に就職し、ふつうの男性と恋愛をして結婚して、ふつうの家庭を築く。
もちろんその間にはそれなりの苦難はあるのだが、クラスメイトから意地悪されるとか、教師から理不尽に怒られるとか、進路に迷うとか、就職先が決まらないとか、恋人とすれちがうとか、当事者にとっては深刻でも、言ってみればどうってことのない悩みだ。

ふつうの人がふつうの人生を送ってふつうの苦難をふつうに乗り越えるだけなので、とても小説の題材になるような話ではないのだが、このふつうさこそが「女の生きづらさ」を鮮やかに浮かびあがらせている。
「でも就職説明会のときに来てた先輩たち、見たでしょ。うちの学校からでも、いい会社にいっぱい行ってるよ」
「それ、みんな男じゃない。あんた、女の先輩を何人見た?」
 ハッとした。目がもう一つ、バッと開いたような気分だった。言われてみればほんとにそうだ。四年生になってから、それなりの就職説明会や先輩の話を聞く会などには欠かさず出席してきたが、少なくともキム・ジヨン氏が行った行事に女性の先輩はいなかった。キム・ジヨン氏が卒業した二〇〇五年、ある就職情報サイトで百あまりの企業を対象に調査をした結果、女性採用比率は二九.六パーセントだった。たったそれだけの数値で、女性が追い風だと報道していたのである。同じ年、大企業五十社の人事担当者に行ったアンケートでは、「同じ条件なら男性の志願者を選ぶ」と答えた人が四四パーセントであり、残り五六パーセントは「男女を問わない」と答えたが、「女性を選ぶ」と答えた人は一人もいなかった。
きっと、韓国だけじゃなく日本でも、そして他の多くの国でも、進路に悩む女性が味わっている気持ちだろう。

昔ほどあからさまな女性差別は少なくなった(東京医科大学のようにいまだに露骨な差別をしているところもあるけど)。
男女雇用機会均等法により、求人票に「男子のみ」なんて書いたらいけないことになった。
けれども見えづらくなっただけで、意識としてはそれほど大きく変わっていない。

若い女性に求められるのは、令和の時代になっても「職場の華」「かわいげ」だったりする。
能力のない女性は求められず、かといって能力の高すぎる女性も敬遠される。
おとなしくてかわいくて気が利いて、多少のセクハラは笑って受けながしてくれる女性(もちろん表立ってこんなことを口にする企業はないが、この条件に当てはまらない女性は就職に苦労する可能性が高いだろう)。
「会社の将来を背負って立つ人材」は、男に対しては求められても女はほとんど求められていない。

ぼくだって、いざ自分が採用する立場になったら「長く働いてくれる人をとるんだったら、能力が同じなら男を選ぶかな」とおもってしまう。
「だって現実問題として女のほうが結婚や出産で職場を離れる可能性が多いし……」と言い訳をして。「属性の可能性」で個人を判断することこそが差別なんだけどね。



 遅刻常習犯だった五人の反省文メンバーは、翌日からまっ先に登校するようになり、午前中はずっと机に突っ伏して寝ていた。何かたくらんでいるようだったが、大きな校則違反などをしたわけでもないので先生たちも何も言えない。そしてついに事件は起きた。ある朝早く、不良娘が路地で露出狂を取り押さえたのである。一本橋の上で仇に出くわしたようなものだ。彼女が露出狂とにらみ合うと、後ろに隠れていた四人がいっせいにとびかかり、準備しておいた物干しロープとベルトで露出狂を縛り上げて近所の派出所に引っぱっていった。その後派出所で何があったのか、露出狂がどうなったかを知る人はいない。ともあれその後露出狂が現れることはなかったが、五人は謹慎処分を受けた。一週間というもの授業を受けられず、教務室の隣の生徒指導室で反省文を書き、グラウンドとトイレの清掃をして帰ってきた彼女たちは、固く口をつぐんでいた。先生たちはときどき、その生徒たちとすれ違うと頭をトンと小突いたりした。
「女の子が恥ずかしげもなく。学校の恥だぞ、恥」
 不良娘は先生が通り過ぎたあと、低い声で「畜生」と言い、窓の外につばを吐いた。
露出狂を捕まえたのに謹慎処分を受ける女子中学生。
もし捕まえたのが男子学生だったらどうだろう。きっと「お手柄中学生!」という扱いだっただろう。

ひどい話だ、とおもう。
けれどもしも自分の娘が露出狂を捕まえたらどうおもうだろう。手放しで「よくやった!」とは言えない気がする。
「悪いやつを捕まえたのはえらいけど、でもあんまりあぶないことはしないほうがいいよ。どんなやつかわからないから」
と、苦言のひとつも呈してしまうだろう(息子でも言うだろうけど、娘に対するほどではないだろう)。

黙っていればセクハラをされ、性犯罪の被害者になればおまえにも落ち度があったと言われ、反撃すれば生意気だの恥ずかしいだのと言われる。どないしたらええねん。



たいていの男は、自分が下駄を履かされている(というか女が下駄を脱がされているのかも)ことに無自覚だ。ぼくも含めて。

「女はたいへん」と聞くと、おもわず「でも男には男の苦しさがあるんだよ」と言い返したくなる。

ぼくが「男の生きづらさ」をもっとも感じたのは、無職だったときと、フリーターをやっていたときだった。
いろんな人から「いい歳した男がいつまでふらふらしているんだ」「フリーターでは将来妻子を養っていかなくちゃいけないのに」と言われた。
もちろん女でも言われていたかもしれないけど、定職についていない人に対する風当たりは、男のほうが女よりずっときつい。たぶん。

ただしそれは「男のほうが正社員雇用されやすい」からこそ、と言えるかもしれない。正社員になりやすいからこそ、そうでない人の居場所がなくなるのだ。
「男なのにずっとパート/派遣ってわけにはいかんだろう」と言われることはあっても、「女なのに」と言われることはほとんどないだろうからね。

やっぱりトータルで考えると、女のほうが生きづらいとおもう。
月経・出産という身体的な障壁もあるし(というかこれが「障壁」になっていることが本来おかしいんだよね。ほとんどの女性が体験することなのだから。せいぜい「近眼」ぐらいのハンデであるべきだよね)、たびたび性的な目を向けられるというのも大きなストレスだろうし。
美人すぎて苦労する、ってのは女ならではだろうね。男のイケメンはいいことしかないだろう(イケメンになったことないから想像だけど)。


ぼくは三十年以上「男」として生きてきたので、「女の苦しみ」を我がことのように感じることはなかった。
しかし娘を持つ身になって、その生きづらさを想像して気が滅入るようになった。
この人も将来、男から容姿をあけすけに審査されるのだろう、性的な目で見られるのだろう、気が弱ければ身勝手な男に屈服させられそうになるのだろう、気が強ければ女のくせに生意気だとおもわれるのだろう、就職で差別されるのだろう。
……と、娘がこれから味わう苦労を想像してため息をつく。

しかしその苦労を味わわせるのは、かつてのぼく(もしくはこれからのぼくかも)なのだ。
我ながら、ずいぶん身勝手な話ですわ。

【関連記事】

差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿