2021年3月19日金曜日

【読書感想文】あなたの動きは私の動き / マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』

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ミラーニューロンの発見

「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学

マルコ・イアコボーニ(著)  塩原 通緒(訳)

内容(e-honより)
「生物学におけるDNAの発見に匹敵する」と称されるミラーニューロンは、サルで発見された、他者の行動を見たときにも自分が行動しているかのような反応を示す脳神経細胞。この細胞はヒトにおいて、他者が感じることへの共感能力や自己意識形成といった、じつに重要な側面を制御しているという。ミラーニューロン研究の第一人者自らが、驚くべき脳撮像実験などの詳細を紹介しつつ、その意義を解説する。


 ミラーニューロンを知っているだろうか。ものまね細胞とも呼ばれ、他人の行動を観察しているときに、まるで自分がその行動をとっているかのように活性化する脳細胞だ。

 ごはんを食べるとき、脳の中の食事に関する部位が活発に働く。これは当然だ。
 だが、テレビの出演者がごはんを食べるシーンを見ているときにも、脳の中では同じ部位が活発に働く。自分は食べていないのに。

 同様に、殴られた人を見たときは痛みを感じ、重いものを抱えている人を見たときは筋肉が緊張する。

 観察を通して、我々は他人の行動を追体験しているのだ(ちなみに見るだけでなく、聴くことによっても同様のことが起こる)。
 これはヒトだけでなく、高等なサルなど一部の動物でも起こる。
 この追体験を引き起こしているのがミラーニューロンであり、ミラーニューロンによって我々は学習をしたり他人の感情を想像したりできるのだ。

人が精密把持でカップをつかむのを見れば、私の精密把持ミラーニューロンは発火する。これまでのところ、私は把持行動をシミュレートしているだけだ。しかし、その背景が飲むことを想起させるなら、ほかのミラーニューロンの発火もそのあとに続く。それらが私の「論理的に関係する」ミラーニューロンで、この場合ではカップを口元に運ぶ行動をコードするミラーニューロンである。この一連のミラーニューロンを活性化させることにより、私の脳は他人の意図をシミュレートすることができるのである。ガレーゼの言葉を借りるなら、「他人がもう一人の自分になるようなもの」だ。あるいはメルロ=ポンティの言葉を借りるなら、「他人の意図が私の身体に住みつき、私の意図が他人の身体に住みつくようなもの」である。ミラーニューロンの助けによって、私たちは他人の意図を自分の脳内で再現できる。そして他人の心理状態を深いところまで理解できるのである。

 我々は、他人の気持ちをある程度理解できる。「今怒ってるな」とか「機嫌いいな」とか。それは、ミラーニューロンによって他人の行動を追体験しているからだ。

 



「誰かと会話をする」
「誰かに向かって話をする。相手はじっと聞いていて、自分だけが話す」
というふたつのシチュエーションを考えてみる。
 どっちがやりづらいかと訊かれると、多くの人は後者のほうだと答える。「対話」よりも「スピーチ」のほうがしんどいのだ。

 でもよく考えてみれば、一人語りのほうが負担は小さいようにおもえる。
 一人語りならどういう構成で話すか事前に計画が立てられるが、対話だとどういう方向に話が転がっていくか予測しづらい。また話のペースも、一人で語るときのほうがコントロールしやすいはずだ。

少なくともあと二つの大きな要因から、一人語りは容易だと言える。第一の要因は、発言の様式に関係している。たいてい一人語りをする場合は構造の整った完全な文章になるけれども、会話の発言はほぼ例外なく断片的で、足りない情報を聞き手が推測して補わなくてはならない。そして第二に、会話においては話し手と聞き手の役割交換が矢継ぎ早に行なわれる。これはきわめて負担の大きい認知作業である。

 ロボットなら、「一方的に話す」ほうが圧倒的にかんたんだ。対話は高度な技術を要する。

 にもかかわらず、人間は一方的なスピーチよりも対話のほうを得意とする。
 それもまたミラーニューロンによって、相手の「話す」動作を自分でも経験しているからだ。
 相手が行動を起こさなければ相手の感情が読めず、不安になるのだ。




 ミラーニューロンが行動を助けているというより、我々はミラーニューロンによって動かされている。

じつのところは擬態が先で、それが認識を補助するという考えである。その仕組みは、こんなふうではないかと推察できる。まず、ミラーニューロンが当人に考えさせる間もなく自動的に他人の表情のシミュレーション(本書でときどき使っている言葉で言うなら「脳内模倣」)を行なわせる。このシミュレーションの過程には、擬態される表情の意図的かつ明白な認識は必要とされない。これと同時に、ミラーニューロンは大脳辺縁系に位置する感情中枢に信号を送る。このミラーニューロンからの信号によって誘発された大脳辺縁系の神経活動が、観察された表情と関わりのある感情を私たちに感じさせる。微笑んだ表情なら喜びを、眉をひそめた表情なら悲しみを、といった具合である。これらの感情を自分の内側で覚えたあとで、初めて私たちはそれを明白に認識できる。歯のあいだに鉛筆をくわえることを求められた被験者は、この鉛筆をくわえるという行動に必要とされる運動活動によって、観察した顔を擬態するはずのミラーニューロンの運動活動を妨げられる。したがって、その後に起こるはずだった感情の明白な認識へとつながる神経活性化のカスケードも、途絶えさせられてしまうのである。

 笑っている人を見ると楽しくなる。つられて笑顔になってしまう。

 我々は「笑顔を見ると自分も楽しくなる。だから笑顔になる」と理解する。だがじっさいには順番が逆で、「笑顔を見ると自分も笑顔になる。だから楽しくなる」なのだ。模倣が先で感情は後からついてくるのだ。

 だから「鉛筆を歯でくわえる」ことによって表情の模倣が封じられてしまうと、相手の感情が読めなくなる。

 自閉症の治療もミラーニューロンがカギを握っているという。
 自閉症はミラーニューロンの機能が他の子よりも低い。「他者の真似をする」能力が低いのだ。そこで、セラピストが自閉症児の行動を模倣したり、逆に模倣させたりすると、自閉症の子は他者との関わり方を身につけるようになるのだそうだ。


 ぼくには七歳と二歳の娘がいるが、彼女たちを見ると「人間って真似によって成長するんだな」と気づかされる。

 二歳児の言語能力の発達はすさまじい。毎日新しい言葉をおぼえる。昨日は使わなかった言葉を使うようになっている。
 だが、言葉の意味を理解して使っていない。周囲の人が話す言葉を真似しているだけだ。真似して意味もわからず使っているうちに、
「この言葉はこの状況にふさわしい」
「ここでこれを言ってもおもうような反応が得られなかった」
という経験を通して、言葉の意味を理解してゆくのだ。たぶん。

 七歳の娘もそうだ。自転車に乗れるようになったのも、さかあがりができるようになったのも、一輪車に乗れるようになったのも、きっかけは真似だ。他の子がやっているのを見て、真似をして、乗れるようになった。
 自転車に乗っている人を一度も見たことがない子は、どれだけ「これにまたがって足でここをまわすように動かせば速く走れるよ」と言ってもきっと乗れるようにはならないだろう(というか乗ろうとすらしないだろう)。

 模倣がなければ成長はない。



 共感や学習に役立つミラーニューロンだが、いいことばかりでもない。負の面もある。

 たとえばアルコール依存症の人が、他人が飲酒しているのを見るとミラーニューロンによって自分も飲んだような気持ちになり、かんたんにまたアルコールに手を出してしまう。

 研究室の設定状況の中で子供を使って行なわれる、調整された実験の結果ほど明白で決定的なものはないだろう。そして実際に、メディア暴力への頻繁な接触は模倣暴力に強い影響を及ぼしていた。一般に、この種の実験は子供に短い映像を見せるかたちで行なわれる。暴力的な映像と、そうでない映像を見せるのである。その後、子供が別の子供といっしょに遊んでいるところや、倒しても自動的に起き上がる空気で膨らませた等身大の「ボボ人形」などを相手にしているところを観察する。すると、これらの実験でたいてい観察される一貫した点が見つかる。暴力的な短篇映像を見た子供は、暴力的でない映像を見た子供に比べ、その後に攻撃的な行動を人間に対しても物体に対しても見せることが多くなるのである。このメディア上の暴力による模倣暴力への影響は、未就学児にも思春期の子供にも、男児にも女児にも、生来の性質が攻撃的な子供にもそうでない子供にも、そして人種にも関わりなく、一貫して観察されている。この結果はかなり説得力のあるものだ。

 暴力映像に触れる機会が多い子ほど、暴力的な行動をとった(しかもその傾向は継続した)。

 これはあくまで実験室での結果であって、「だから暴力的な映像やゲームが暴力を助長する」とは断言できない。だが「相関がある可能性はすごく高い」とは言える。

 暴力的なゲームをしても暴力をふるわない子もいるし、ゲームに関係なく暴力を振るう子もいる。「元々暴力的な子が暴力映像を好む」という逆相関もあるだろう。
 しかし、全体的な傾向としてはやはり暴力映像が暴力行動につながりやすいといえそうだ。

 でも、規制にはつながりにくいんだよね。
「暴力的な映像やゲーム」は多くの人が求めているから一部の人にとって金になるが、暴力反対は(直接的には)金にならないから。社会全体として見れば暴力が減れば大きなコストカットになるんだけど。
 暴力映像によって金儲けをしてる人は、「どうやら暴力を促す傾向があるみたい」では納得してくれないから。

 でもある程度は規制したほうがいいんだろうな。
 表現の自由もあるから「暴力映像を全面禁止しろ!」とは言わない。ぼくはどちらかといえば規制反対派だ。刺激的な映像を観たいときもあるし。暴力表現を伴うニュースを報じないことがいいともおもわない。

 だけど「暴力映像は暴力を誘発しやすい」という認識は常に持っておく必要はあるよね。作り手も、受け手も。
 それを承知で作るのと、「それでも伝えなければならないことがある」という覚悟で作るのはぜんぜんちがうよ。


「暴力映像を観たからといって暴力的になるわけじゃない! 人間はそんなに単純じゃない!」
と言いたくなる気持ちはわかる。

 だが、残念なことに人間は単純なのだ。目にしたものを無意識に真似してしまうのだ。無意識だから止めるのがすごく難しい。

「気の持ちよう」「意志あるところに道は通ず」なんていうけど、人間の意思ってそんなに自由じゃないんだよね。環境や身体によって左右される部分が大きい。つまり、自分ではどうにもならない。


 このミラーニューロン、知れば知るほどおもしろい。

「意思はどこまで自由なのか」とか

「他者の行動を自分も(脳内で)体験しているのなら、自己と他者の間に境界線を引けるのだろうか」

とか、いろいろ考えてしまうね。


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