2019年12月31日火曜日

【読書感想文】フィクションの検察はかっこいい / 伊兼 源太郎『巨悪』

巨悪

伊兼 源太郎

内容(e-honより)
東京地検特捜部の検事・中澤源吾と特捜部機動捜査班の事務官・城島毅。高校時代野球部のダブルエースだった二人は、ある事件をきっかけに「検察」の道を選ぶ。二人の前に立ちはだかる、政治家、企業、秘密機関―「消えた二兆円」。真相に辿り着く過程で明らかになる現代の「巨悪」の正体とは。元新聞記者の著者渾身の検察ミステリー巨編。
元新聞記者の小説だけあって、文章が硬っくるしくて読みにくかった。
そんなにちゃんと書かなくていいよ、適当にはしょってくれていいよと言いたくなる。
すごくちゃんと調べてしっかり構想立てて一生懸命書いてるんだろうなーと伝わってくる(もちろんそれはマイナス)。司馬遼太郎かよ。

小説としてはあんまり好きじゃなかった。登場人物がやたらと多くて、説明が事細かで、とにかくまだるっこしい。
主人公ふたりの背景にあるものも、「ああよくある悲しい過去ね」としかおもえなかった。

この半分の分量だったらスピーディーで楽しめただろうなあ。
 復興予算は東日本大震災発生の二ヵ月後、瓦礫処理費用などに第一次補正予算の四兆円が計上され、さらに第二次補正予算で約二兆円、十一月には第三次補正予算の約九兆円が加算されている。財源は半分以上が所得税や法人税、個人住民税などで、主に国民への増税で賄われている。今後三十年近く続く増税を、誰もが「復興のためなら」と受け入れたのは記憶に新しい。
 それにもかかわらず、当初は被災地以外にもその復興予算が投じられた。特に生活再建の本格的な予算として位置づけられた第三次補正予算では、九兆円という大枠が決められると、各省庁が競い合って要求を出し、それを積み上げる形で中身が作られ、いわば、予算の奪い合いが公然と行われた。
 各庁の予算要求の根拠は、政府が作成した復興基本方針だ。その冒頭に掲げられた理念は「被災地における社会経済の再生や生活の再建に国の総力を挙げて取り組み、活力ある日本全体の再生を図る」という立派な一文。このうち、『活力ある日本全体の再生』という文言によって、被災地以外にも復興予算投入が可能になった。
 当時の第三次補正予算で組まれた約五百事業のうち、四分の一が被災地とは無関係の事業だったと現在判明している。例えば、法務省は北海道と川崎の刑務所で職業訓練を拡充するために、文部科学省は今や跡形もない旧国立競技場の補修費に、農林水産省は反捕鯨団体の対策などに大金を使用している。
ノンフィクションだったらめちゃくちゃおもしろいんだろうけどなあ。復興予算について調べてみたくなった。

告発っぽいネタもあるんだけど、自由共和党とか民自党とか言われてもなあ。フィクションだからしょうがないんだろうけど、たぶんモデルもいるんだろうけど。これが実名だったら最高なんだけど。
「検事さん。なにゆえ過去の特捜部では都合の悪い証拠を隠したり、調書を捻じ曲げたりしたんですか」
「簡単に言うと、それができるからでしょう」
「怖い話だ」
「ええ。できるからといって何でもやっていいわけではないのに、それを忘れてしまった検事が複数いた。これは特捜部だけでなく、誰もが陥りかねない問題です。私が言うのも妙ですが、国民全体が特捜部の不祥事を反面教師にすべきでしょう」
 自分の吐いた台詞が中澤の胸に重たく響いた。海老名が幕を下ろすように結論づける。「政治家も特捜部も、お互い責任重大ですな」
この小説の検察はかっこいい。小説の検察
実際の検察組織の中にも巨悪に挑もうとがんばっている人がちょっとはいるんだろう。と、おもいたい。

とはいえ税金で支援者を接待して、あからさまに証拠を隠蔽していることが誰の目にも明らかな政権を今も放置している以上、現実の検察はまるごとダメ組織と言わざるをえないよねえ。悲しいことに。

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2019年12月27日金曜日

2019年に読んだ本 マイ・ベスト12

2019年に読んだ本は100冊ぐらい。その中のベスト12。

なるべくいろんなジャンルから選出。でも今年はノンフィクション多め。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』


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アメリカの奴隷制度のことを歴史の教科書を読んで知っていた……つもりになっていた。 でもぜんぜん知らなかったのだと教えてくれた本。

本当の奴隷の生活を知った今となっては軽々しく「まるで奴隷のようだ」なんて使う気になれない。
ごくふつうの社会人であり家庭人であった人が奴隷に対してはとんでもなく残忍な仕打ちをする。人間は(おそらくぼく自身も)置かれた環境によってこんなにも残酷になれるのかと背筋が凍った。


文部省『民主主義』

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昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。

現在、政府与党はルールをねじまげ、隠蔽を重ね、民主主義をぶっ壊そうとしている。こうなる未来を予見していたかのような官僚の言葉。

当時の官僚は立派だったんだなあ。今の腐敗しきっている政府に手を貸している官僚は全員これを読んで反省しろ。反省しないやつは社会のゴミクズだからすぐ現世から卒業しろ。いやほんとに。


小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

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長年、オンチであることをコンプレックスに感じていたぼくは、この本を読んで救われた。

音楽の先生ってみんな子どもの頃から苦労せずに音程をとれた人だから、オンチの人の気持ちがわからないんだよね。そしてちゃんとした指導もしない。 「音がずれてるよ」と言うだけ。どうやったら正しい音がとれるのか、具体的な方法は何一つ示さない。
ぼくは今でもオンチだけど、オンチとはどういう状態なのか、どういうトレーニングをすれば克服できるのかがわかっただけでもずいぶん気持ちが楽になった。


西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』

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ほぼ著者の実体験であろう私小説。
見事なまでのクズっぷりでかえってすがすがしいぐらい。自分が家賃をためこんだくせに、家賃を催促する大家を逆恨みして殺意を抱いたり。ラスコリーニコフかよ。

しかしこの本を読んでいると「己の中の北町寛多」に否が応でも向き合わされる。怠惰で、嫉妬深くて、小ずるくて、身勝手きわまりない自分に。おもしろいけどつらい。


トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

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真実を明らかにするために、自らの健康や、ときには命をも賭けた人たちの記録。
毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。

が、そんなクレイジーたちのおかげで今の我々の安全で快適な生活がある。いろんな意味で「ようやるわ」と言いたくなった。


トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

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トースターをゼロから作るために、鉱山に行って鉄鉱石を拾い、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作ろうとし(これは失敗したけど)、銅の含有量の多い水を電気分解して銅をとりだし、辺境の山でマイカ(雲母)を採取する。

もう説明不要。ただただおもしろい。


福島 香織『ウイグル人に何が起きているのか』

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ウイグル人たちがどんな残酷な目に遭っているか、のレポート。

もうすぐ世界一の経済大国になろうかという国(しかも国連の常任理事国)の中でこんなことが起こっているとはにわかに信じがたい。21世紀の世の中で。

そしていちばんの問題は、(日本も含めて)ほとんどの国がウイグル問題を知りながら見て見ぬふりを決めこんでいるということ。なぜなら中国が軍事的にも経済的にも大国だから。
対岸の火事じゃないよ、ほんとに。



フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

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「Yes/No」で答えられる質問を出したところ、大半の人の正答率はチンパンジーといっしょ、つまり50%前後だった。
ところが明らかに高い正解率を出す人たちがいる。

自分の正しさを常に疑う、思想信条に従って予測しない、過去の予測の検証をくりかえす、こういう人たちの未来予測は的中しやすい。
……つまりほとんどの政治家やコメンテーターたちとは正反対の人たちだよね。


島 泰三『はだかの起原』

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「なぜ人類は体毛に覆われていないのか」というお話。
保温、保湿、防水、外からの攻撃を守るなど様々なメリットのある毛。なのに人類にはない。
謎を解き明かすためにいろんな仮説をつぶしていく過程はすごく刺激的だった。

……そしてそれ以上に刺激的だったのが、著者の悪口。他の研究者のことをけちょんけちょんに書いている。主張はもちろん人間性まで全否定。

主張のおもしろさと悪口のおもしろさで合わせ技一本の入賞。


今村 夏子『こちらあみ子』

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とにかくすごい小説。圧倒された。

「好きじゃ」
「殺す」
の応酬のすごみたるや。
別世界の住人とおもっていた人の人生を追体験させてくれた。


デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

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いいニュースと悪いニュースがある。
戦場における人間の行動を調査したところ、ほとんどの人間は敵を殺そうとしないことがわかった。人間は基本的に人を殺したくないのだ。それが戦うべき敵であっても。これがいいニュース。

悪いニュースは「人を殺したくない」という気持ちを取り払うために、軍があの手この手で兵士を教育(というかほぼ洗脳)していること。その取り組みは効果を上げて、近代の戦争では大半の兵士が躊躇なく引き金をひけるようになっているらしい。


ビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』

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こんな重厚な本が文庫で1,700円ぐらいで買えるなんて! 全科学をぎゅっとまとめた本だからね。森羅万象が1,700円。安すぎる。

文章は軽妙かつユーモラスでおもしろい。中学生ぐらいで読んでいたらもっと勉強を好きになっていたんじゃないかなあ。


来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2019年12月26日木曜日

【読書感想文】森羅万象1,700円 / ビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』

人類が知っていることすべての短い歴史

ビル=ブライソン (著)  楡井 浩一 (訳)

内容(e-honより)
こんな本が小学生時代にあれば…。宿題やテストのためだけに丸暗記した、あの用語や数字が、たっぷりのユーモアとともにいきいきと蘇る。ビッグバンの秘密から、あらゆる物質を形作る原子の成り立ち、地球の誕生、生命の発生、そして人類の登場まで―。科学を退屈から救い出した隠れた名著が待望の文庫化。137億年を1000ページで学ぶ、前代未聞の“宇宙史”、ここに登場。

宇宙はどうやってできたか、地球の大きさはどれぐらいか、地球の年齢は何歳か、原子や素粒子の世界はどんな法則で動いているのか、地震や噴火は予想できるのか、生命はどうやって誕生したのか、人類はどう進化してきたのか。
そして、それらの謎を解き明かすために科学者たちがどのような取り組みを続けてきたのか。

といったことを上下巻二冊に収めている。文庫にしては分量はちょっと多いが、それ以上に内容は重厚。全二十巻の本を読んだぐらいの読みごたえがあった。
それでいて、文章は軽妙かつユーモラスでおもしろい。いやあ、いい本だ。ほんとに中学生ぐらいで読んでいたらもっと勉強を好きになっていたんじゃないかなあ。
 というわけで、無から、わたしたちの宇宙は始まる。
 目のくらむようなただ一回の脈動、言葉では表現できない速さと広がりを伴う栄光の一瞬を経て、特異点は天空に容積を、概念ではとらえられない空間を獲得する。この強烈な最初の一秒(多くの宇宙学者がその詳細に分け入ろうとしてキャリアを捧げる)で、重力が、そして物理法則を支配するほかのすべての力が作られる。一分足らずで宇宙はとてつもない大きさに広がり、さらに高速で成長を続けていく。大量の熱が生まれた後、百億度まで下がり核反応を引き起こすのに十分な温度に達して、比較的軽い元素──おもに水素とヘリウム、それに少量(原子一億個につき一個)のリチウム──が発生する。三分後には、現在、存在する、もしくは今後、存在が確認される、あらゆる物質の九八パーセントがすでに生成されている。宇宙の誕生だ。そこはこの上ない不可思議さと愉快な可能性を秘めた場所。そして美しい場所だ。しかもサンドウィッチをこしらえるぐらいの時間でできあがる。
最初の宇宙誕生の説明でもう強烈なパンチを喰らう。
一秒で重力が作られる。数分で(サンドウィッチをこしらえるぐらいの時間で)宇宙のあらゆる物質のほとんどが誕生する。
この文章を読むだけでくらくらする。

「宇宙はどうやってできたのか」なんて、もう人間が一生かけても追求しきれないテーマじゃない。
それがこれだけの文章に凝縮されてるんだよ。密度がすごい。ブラックホールか。

ぼくは宇宙にロマンを感じない人間なんだけど、次から次にくりだされるとんでもないスケールの話を読んでいるとただただ圧倒されて、まるで宇宙空間に連れていかれたような気分になる。



読めば読むほど、地球ができて、生物が誕生して、哺乳類が生まれて、そこからヒトへと進化して、絶滅せずに生き残って、こうして文明を築いているのってほんとに奇跡の連続なのだとしみじみおもう。
生まれてきたことに感謝、生きているだけですばらしいとクサいことを言いたくなる。
 一九七八年、マイケル・ハートなる宇宙物理学者が計算を行ない、地球が今よりほんの一パーセント太陽から離れるか、五パーセント接近しているかしていたら、居住不可能だったと結論づけた。ごく狭い幅であり、実際、それは狭すぎた。以来、計算の精度が上がって、もう少しゆるやかな数値五パーセント近づき、一五パーセント遠ざかるあたりまでが精確な居住可能圏とされた――になったが、それでも、狭い地帯には違いない。
 どのくらい狭いか理解するためには、金星を見るといい。金星は、地球より四千万キロ太陽に近いだけだ。その熱が到達する時間差は、わずかに二分。大きさと構成要素において、金星は地球に非常に似ている。が、軌道における小さな違いがあらゆる違いにつながった。太陽系ができて間もないころ、金星は地球よりほんの少し暖かいだけで、おそらく海洋も有していたらしい。しかし、その数度の余分の熱のため、表面の水を保つことができなくなり、環境に悲惨な影響がもたらされた。水が蒸発して、水素原子が宇宙に逃げ、酸素原子は炭素と結びついて、温室効果ガスである二酸化炭素の濃いガス体を形成する。金星は息ができなくなった。わたしと同年代の人なら、金星のこんもりした雲の下には生物が潜んでいるかもしれない、もしかしたら、熱帯植物だって茂っているかもしれないと天文学者たちが期待した時代のことを思い出すだろうが、今では、わたしたちが常識的に考えつくどんな生物にも、きびしすぎる環境であることがわかっている。
地球が生物の棲める環境になったのはすごい確率の偶然が重なった結果だけど、しかし宇宙はそんな奇跡が十分起こりうるぐらい広大なのだ。
銀河には1000億から4000億ぐらいの星があり、そんな銀河が他にも1400億ぐらいあるそうなのだ。うへー。

ってことで、理論上は宇宙のどこかには地球の他にも生物が誕生する星はちょこちょこあるみたい。
とはいえ光に近い速さで移動したとしても寿命がつきる前にたどりつける距離にはまずいない。
ということで「宇宙人がいるか?」という問いに対する答えは、「たぶんいるけど地球人が遭遇する可能性はほぼない」だ。ロマンはあるけど会えなかったらいても意味ないよなー。



かなり平易な文章で書かれているので「科学系の本を読むのが好き」レベルのぼくでもわかりやすかったのだが、量子力学のくだりだけはまったく理解不能だった。
いや書いてあることはわかるんだけど。でもまったく納得ができない。
 要するに、相反する前提にもとづいていながら同じ結果をもたらすふたつの理論が、物理学界に登場したのだ。これはありえない状況だった。
 最終的には、一九二七年、ハイゼンベルクが画期的な折衷案を思いつき、量子力学として知られるようになる新たな規律を生み出した。その中心にある“ハイゼンベルクの不確定性原理”によると、電子は粒子なのだが、波に置き換えて描写することも可能な粒子だという。理論構築の中心に据えられた不確定性とは、電子が空間を抜けて動く際にとる経路か、ある瞬間に電子が存在する場所か、どちらかを知ることは可能でも、その両方を知ることは不可能とする理論だ。一方を計測しようと試みれば、どうしても他方を妨害してしまう。この問題は、単にもっと精密な機器があれば解決するというわけではない。それは、宇宙の不変の特性なのだ。
 つまり事実上、電子が特定の瞬間に存在する場所は、けっして予測できない。できるのは、存在する見込みの高い場所を列挙することだけだ。ある意味で、デニス・オーヴァバイが述べたように、電子は確認できるまで存在しないと言ってもいい。あるいは少し見かたを変えて、電子は確認できるまで「どこにでも存在すると同時に、とこにも存在しない」と考えるべきかもしれない。
電子は規律ある法則に基づいて動いているのに、その場所を予測できないというのだ。それは現時点での観測技術や理論が未成熟だからというわけではなく、もう絶対に不可能。

ん? そんなことってあるか? 法則がわかれば電子がどこにあるかは理論上特定できるはずじゃないの? と素人はおもうんだけど。

物理学者のファインマンは「小さな世界の物質は、大きな世界の物質とはまるで異なる動きをする」との言葉を残したらしい。
微小な世界のための量子論と広大な宇宙のための相対性理論はまったく別個の体系で動いている。相対性理論は素粒子のレベルにはまったく影響を及ぼさない。だと。

なんで? 「家庭の決まりと国家の法律は完全に独立していて、国家の法律は家庭の決まりに一切影響を及ぼさない」だったら明らかにおかしいじゃん。家庭のルールが法律にまったく影響を受けないわけないじゃない。内包されてるんだから。
……とおもっちゃうぐらいに素人なので、ここは何遍読んでも納得できない。



いやほんとどこをとってもおもしろい。
宇宙も原子も地球の構造も生物の進化も細胞も全部おもしろい。
 しかし、いったん進化が軌道に乗ると、哺乳類は驚異的な――ときには、不合理なまでの勢いで―発展を遂げた。一時は、犀(さい)の大きさのモルモットだの、二階建て家屋の大きさの犀だのが存在していた。捕食連鎖に空白が生じると必ず、哺乳類が(文字通り)身を起こしてその空白を埋めた。南米に移住した大昔のアライグマ科動物は、捕食連鎖の空白を発見して、熊ほどの体型と獰猛性を備えた生物へと進化した。鳥類も、不釣合いなほど繁栄した。数百万年ものあいだ、北米で最も獰猛な生物は、タイタニスという肉食の飛べない巨鳥だったと考えられている。この巨鳥が史上最高に恐ろしい鳥だったことは間違いない。体長は約三メートル、体重は三百六十キロ以上あり、気に入らない相手の首を楽々と食いちぎれるほどのくちばしを持っていた。この科の生物は、周囲を脅かしながら五千万年生き延びたが、それでも、一九六三年にフロリダ州で骨が発見されるまで、その存在についてはまったく知られていなかった。
こんなことがさらっと書いてあるけど、夢が膨らむよね。
サイの大きさのモルモット、クマみたいにでかくて凶暴なアライグマ、360kgの身体で相手を食いちぎる巨長……。
ほとんどSFの世界だ。人間が想像するような生物はだいたい過去に存在したんじゃないかと思わされる。
「5つの眼がある生物」なんてのもいたらしい。こんなのも空想の範疇をを超えてるよね。ぼくらが空想できるのはせいぜい三つ目とか偶数個の眼を持つ生物ぐらいだもんね。なんで半端な5個なんだよ。


随所に散りばめられている科学者たちの逸話も楽しい。
 シャップにも増してつきに見放されていたのがギョーム・ル・ジャンティーユだ。この天文学者の経験については、ティモシー・フェリスが著書『銀河の時代──宇宙論博物誌』に鮮やかにまとめている。ル・ジャンティーユは金星の通過をインドから観測するために、フランスを一年前に出発したのだが、いろいろな支障が生じて、太陽面通過の当日にはまだ海の上にいた──揺れる船上では、ぐらつかずに計測できる見込みなどないから、最悪の観測地点といえた。
 ル・ジャンティーユはめげずにそのままインドの土を踏み、現地で次の一七六九年の金星通過を待った。準備期間が八年あったので、第一級の観測台を建て、機器を幾度もテストし、万全の準備態勢で二度めの金星通過の日を迎えた。一七六九年六月四日の朝、目覚めたときは晴天だった。ところが、ちょうど金星が太陽の前を横切り始めたころ、ひとひらの雲がするすると太陽を覆ったかと思うと、ほぼ通過時間の三時間十四分七秒のあいだじゅう、そこに居坐ったのだった。
 落胆を胸に、ル・ジャンティーユは機器を荷造りし、最寄りの港に向かったが、途中で赤痢にかかって一年近くも臥せってしまう。まだ衰弱している体にむち打って、それでもようやく船に乗り込んだ。船はアフリカ沖でハリケーンにぶつかり、すんでのところで遭難しそうになる。やっとのことで帰り着き、家を出てから十一年半、何も達成できないままに戻ってみると、留守のあいだに彼が死んだと決めつけた親戚たちが、土地財産をすべて山分けしたあとだった。

金星の太陽面通過を観測するためにフランスからインドに行ったらいろんな不運に恵まれて帰るまでに11年半(しかも悪天候のため観測できず)、帰ったら財産がなくなっていた……。

ひー。なんてかわいそうな人なんだ。この人の生涯だけで一冊の本になる。
トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』を思いだした。いつの世にも、科学のために命も生活も家族も名誉も財産も犠牲にする人たちがいるんだなあ。
彼らをばかだと嗤うのはかんたんだけど、彼らの献身がなければ科学の発展はなかったのだ。



長くなりすぎたのでこのへんにしとくけど、
「カンブリア爆発で生物が爆発的に誕生したわけではない(カンブリア紀に化石化しやすい体になっただけ)」
とか
「カメが地球上で覇権をとりそうになった」
とか、紹介したいことはいっぱいある。

でも書ききれないからこの本を読んでとしか言いようがない。
こんな重厚な本が文庫で1,700円ぐらいで買えるなんて! 全科学をぎゅっとまとめた本だからね。森羅万象が1,700円。安すぎる。

最後まで読んだ後に『人類が知っていることすべての短い歴史』というタイトルを改めて見ると、つくづく我々は自分たちの棲むこの世界のことをわかっているようでぜんぜんわかっていないんだなあと感じ入る。


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2019年12月25日水曜日

寝具の魅力

娘たちとの遊び。

よく娘たちと寝室であそぶ。
ぼくに課せられた使命は、妻が料理をしている間、キッチンに次女(一歳)を近づけないこと。
包丁、火、熱湯、熱々のグリル、落ちた食べ物。そういったものから、なんでもさわりたい、なんでも食べたい年頃の次女を遠ざけることが求められている。
そこで、キッチンから遠い寝室で遊ぶことになる。

最近よくやるのは、布団とマットを組み合わせてすべりだいやテントやトンネルや船をつくるという遊びだ。
長女(六歳)はもちろん大はしゃぎだし、最近すべりだいをすべれるようになった次女も楽しんでいる。よたよたしながら坂(マット)をのぼり、すべりだい(マット)をすべり、テント(マット)に出入りし、トンネル(マット)をくぐり、船(マット)の上で歓喜の声をあげる。もうぜいぜいはあはあ言いながら遊んでいる。
あとは、ぼくが娘たちを布団の上に放りなげたり、マットの坂道に乗せて転がしたり、どったんばったん遊んでいる。



ぼくも子どもの頃、寝室で遊ぶのが好きだった。
一歳上の姉と、ベッドをトランポリンにしたり、枕を投げたり、布団の上で逆立ちをしたり、押し入れに入ったりして遊んでいた。
子どもはみんな寝室で遊ぶのが好きだ。

寝具というのは特別な魅力がある。
寝具を見ていると、ついつい飛びこみたくなる。どったんばったん遊びたくなる。

子どもだけでない。大人も同じだ。
家具売場のベッドを見るとついつい乗りたくなる。じっさいに腰をかける人も多い。さすがに飛び乗ったりする大人はまずいないが、本音はみんなやりたいはずだ。ぼくもやりたい。ウォーターベッドなんかたまらん。あんなとこにダイブしたらめちゃくちゃ愉しいだろうな。ぽよんぽよん弾んでみたいな。

ぼくが大金持ちになったら、でっかい部屋にキングサイズのベッドを三つ並べて、その上にとびきり弾力のあるマットとふかふかの布団を敷いてぴょんぴょん跳びはねるんだー!

あと押し入れの中に電灯と本とパソコンを持ちこんで秘密の書斎もつくるんだー!(それは今でもやろうとおもえばできる)


2019年12月24日火曜日

14 ÷ 4 =?


「いちご14個を家族4人で分けます。1人あたりのいちごは何個でしょう」

算数だったら正解は
「3あまり2」
「3.5」
「3と1/2」
のいずれかになる。

が。
現実にはたぶんそのどれでもない。

「1人が3個ずつ食べてからじゃんけんをして、勝った2人がもう1個ずつ食べる」
「おかあさんが『2個でいいわ』と言ったので、残りの3人が4個ずつ食べる」
みたいなことになる。

算数だと「3あまり2」だけど、現実にはまずいちごはあまらない。
「平等を期すために3個ずつ食べて、余った2個は捨てよう」とはならない。
「2つはナイフで2等分して、3.5個ずつ食べよう」ともならない。
みかんなら分割するかもしれないけど、イチゴを分割して食べる家庭はほとんどない。


だから同じ「14 ÷ 4 =?」という問題であっても、

「長さ14メートルのロープで1辺1メートルの正方形を囲うといくつ囲える?」
の場合は
「3個囲って2メートル余る」から
答えは「3あまり2」で、

「14個のみかんを四つ子が分けると1人いくつ?」
だったら
「1人3個ずつ。残る2つは2等分」だから
答えは「3.5」になるし、

「いちご14個をおとうさん、おかあさん、子ども2人で分けるとき、子どもはいくつ食べられる?」
なら
「両親、またはおかあさんが遠慮するだろうから子どもは4個食べられる」で
「4」が正解だよね。

2019年12月23日月曜日

M-1グランプリ2019の感想 ~原点回帰への祝福~

M-1グランプリ2019の感想。

ここ数年(というかこのブログでは)感想を書いていなかったんだけど、今年はいろいろおもうところがあったので。
そのおもうところは後で書くとして、まずは各ネタの感想を。



ニューヨーク (ラブソング)


今年のM-1グランプリはおもしろかったという声が多かったが、その最大の立役者は彼らだとおもう。殊勲賞をあげたい。というか個人的にはネタもめちゃくちゃおもしろかった。

歌ネタということでポップで楽しく、それでいて持ち味のどす黒い偏見や悪意がさりげなく散りばめられているネタ。
トップとして満点だった。
もともと彼らの悪意に満ちたネタは大好きだったんだけど、こういう大会には不向きだろうともおもっていた。
だがこのネタでは「自作の歌」にツッコむ、という形をとることでその嫌らしさをうまく隠すことに成功した。ほんとの悪意は安易な作詞をするミュージシャンだったりそれに共感する女性だったりに向いているのだが、表面的には嶋佐個人が攻撃されているように見えるのでバレにくい。
また「『100万回』って言っときゃ喜ぶ」みたいなさりげない悪意を撒きちらしながら、それを後からボケに活かしているところなどはつくづく見事。ただの悪口が笑える悪口になった。

間奏をつくってその間にまとめてツッコむところなんかほんとに感心した。昔、銀シャリが「いっぺんにボケて後からまとめてツッコむ」という形の漫才をよくやっていたけど、同じことでも歌に乗せればまとめてツッコむ必然性が生まれて違和感なく聞ける。

ネタ、テクニックともにハイレベル。個人的には2位ぐらい。
なんでこれが最下位なんだよ!



かまいたち (UFJとUSJ)


いやあすごい。UFJとUSJをまちがえるってめちゃくちゃしょうもない題材だよ。他の芸人なら1秒でボツにするぐらいの。それを発端にあそこまでのネタに仕上げるってとんでもない技術だよね。表現も多彩、緩急も自在でぜんぜん飽きさせないし。
芸歴数十年のコンビを入れても、今いちばん腕のある漫才師じゃないかな。

めちゃくちゃおもしろくてめちゃくちゃうまくて非の打ち所がひとつもなくて、でもだからこそ「もう君たちM-1出なくていいやん」って思っちゃうんだよね。知名度もあるわけだし。藤井聡太棋士が全国高校生将棋コンクールに出てきたみたいな感じというか。もう優勝しても得られるものほとんどないでしょ。



和牛 (不動産屋の内見)


コントへの導入が見事だよね。
台詞の途中でいつの間にか不動産屋に変わっているというボケで軽く笑いもとりつつ、スピーディーかつスムーズにコントに入る。

とはいえネタは、ボケがほぼ2パターン(「住んでる」と「事故物件を喜ぶ」)なので、ちょっと物足りない。
コントへの入り方とか、ツッコミがいつのまにかボケになるとか、動きのおもしろさも見せるとか、テクニックでいえばまちがいなくトップなんだけど。
どうしても過去の和牛と比べちゃうんだよね。2018年のオレオレ詐欺ネタと比べると、ねえ……。

ところで敗者復活戦も観ていたのだが、敗者復活戦ではやらなかった細かいボケがいくつか足されていた。たった数時間の間に。
たぶん、敗者復活は時間オーバーに厳しい(強制終了になる)から削っていた台詞を、時間制限のゆるい決勝戦で足してきたんだろうね。測ってないけど、決勝はけっこう時間オーバーしてたんじゃないかな。
そのへんのしたたかさも含めてさすが。



すゑひろがりず (合コン)


おもしろいし笑ったし大好きなんだけど、基本的には言い換えのおもしろさの一点勝負なので、そこまで評価されないだろうなあとおもっていたら意外と点数が高かったので驚いた。
発想自体は第1回キングオブコントでチョコレートプラネットが披露していた「ゴルゴンコンパリオン」だったり、関西ローカルで武将様(ミサイルマン岩部)がやっている「戦国でやっていたシリーズ」だったりとほぼ同じで、とりたてて目新しいものはない。
とはいえ間の取り方や鼓の打ち方扇子の広げ方、表情にいたるまでどこをとってもよくできていて(本物に近いというより我々の頭の中にある「能や狂言ってこんな感じ」という雑なイメージにぴったり)、どんなくだらないことでも継続って大事だなあと感じ入る。

鼓の音を聞いただけで笑っちゃうんだけどもうDNAレベルで何か刻まれているとしかおもえない。たぶんどんなにふつうのことを言っても鼓をぽんと打つだけで笑っちゃうんじゃないかな。

このコンビニ関しては決勝進出しただけで大勝利だよね。




からし蓮根 (教習所)


関西賞レースの常連なので何度もネタを観たのだが、どうもぼくの好みからは外れている。何が悪いというわけじゃないんだけど、新しさを感じないんだよなあ。

このネタに関しても、ボケる → ツッコむ → 終わり。またボケる → ツッコむ → 終わり。という流れが単調で、深みがない。ツッコミを受けてさらにボケる、それをさらに広げて……みたいな転がってゆく展開がぼくは好きなので。

生徒がバックで逃げるという盛り上がるシーンをラストにもってくる構成は好き。
でも、そのために「教官が生徒を残して車を降りる」というリアリティに欠けるストーリーを用意したせいで説得力に欠ける。ディティールを大事にしてほしいなあ。




見取り図 (お互いを褒めあう)


個人的には前回大会のネタのほうが好み。
とはいえ、ずっと圧倒的なツッコミ高ボケ低だったコンビが、ボケが強くなってバランスのとれたコンビになりつつあるのはいいことだ。
これだけ腕のあるツッコミがいるんだから、きれいに整ったボケだけでなく、もっと理不尽なボケを投げつけてもいいんじゃないかとおもう。
せっかく腕のいい板前がいるのに切り身の魚しか料理させないようなもったいなさがある。



ミルクボーイ (コーンフレーク)


今からすごくダサいこと書きますけど、
ぼくはずっと前からミルクボーイおもしろいとおもってたからね!

いやほんとほんと。優勝してからこういうこと言いだすのはめちゃくちゃダサいけど。
去年の記事にも書いてるし。

それからミルクボーイはいつ決勝に行くんだろう。毎年準々決勝止まりなのがふしぎでしかたない。独自性もあるしめちゃくちゃおもしろいのに。元々おもしろかったのにひどい偏見を放りこんでくるようになってさらにおもしろくなった。
近いうちに決勝に行ってくれることを切望する。

とはいえぼくも決勝に行くことは願っていたが優勝するとまではおもっていなかった(今年の決勝進出が決まった後でさえも)。
理論で構築していくタイプのコンビだから、勢いが評価される決勝ではあんまりウケないんじゃないかとおもっていた。

数年前のオールザッツ漫才ではじめて彼らの漫才を観て
「こんなにうまくて新しくておもしろい漫才をするコンビがいるのか!」
と驚き、そう遠くない将来いろんな賞を獲ることになるだろうと期待していたのだが、賞を獲るどころか大会で姿を観ない。
あのネタだけが良かったのか? とおもっていたら、翌年のオールザッツ漫才で『滋賀』のネタを観てもう一度衝撃を受けた。さらにおもしろくなっとる……!
『叔父』『デカビタ』など、どのネタもフォーマットは同じでありながら安定しておもしろい。なのにオールザッツ漫才でしか姿を観ることができない。関西はわりと土日の昼間とかに漫才番組をやっていて若手も出るのだが、ミルクボーイはそこにも出ない。M-1グランプリも準決勝まで行けない。決勝はともかく準決勝に行く実力はあるだろ!
……と他人事ながらずっとほぞを噛む思いをしてきただけに、今回の出場→優勝はちょっと信じられない。当人たちが「こんなことありえない」というリアクションをしていたことにもうなずける。

今回のネタは、客席との一体感も含めて完璧な出来だった。中盤以降は何を言ってもウケる状態。突飛なことを言っているわけではないのにずっとおもしろい。2005年大会のブラックマヨネーズがこんな感じだった。こんなにウケることはもう二度とないんじゃないかとおもえるぐらい。

「おお、ミルクボーイがM-1の決勝でウケてる……!」と万感の思いで観ていたので、肝心のネタの内容はあんまり覚えていない。
予選動画でも観たネタだったけど、何度観てもおもしろいよね。
「あの五角形は自分の得意分野だけで勝負してるからやとおれは睨んでる」「朝の寝ぼけてるときやから食べてられる」「浮かんでくるのは腕を組んだトラの顔だけ」
あれもこれもと話題を詰め込むのではなく、ワンテーマをとことん突き詰めたからこそ出てくる珠玉のフレーズ。
よかったなあ。




オズワルド (先輩との接し方)


由緒正しい東京スタイル、って感じの漫才だった。おぎやはぎのスタイルでPOISON GIRL BANDのシュールなネタをやっている、って印象。

出で立ちや声のトーンにどうしても目が行ってしまうけど、ネタの作りがすごく丁寧だった。寿司だけに。
「理論上は」「国民の意見」などのセンスあふれるフレーズを散りばめながら寿司屋から自然にバッティングセンターに移り、「回転寿司」「高速寿司捨てマシーン」という強いワードへ。うまい。
大会では評価されにくいこのタイプのスタイルにしては大健闘。




インディアンス (おっさん女子)


個人的に、楽しいだけの漫才って好きじゃないんだよねえ。あさましいとか見苦しいとかねたましいとかみじめったらしいとか、そんな負の感情を刺激してくれる笑いが好きなんだよ。

中川家礼二がコメントしていたように、素が見えないせいでずいぶん無理をしてるように感じてしまう。明るさが痛々しい。強弱もないし。
この道の先にはアンタッチャブルという巨人がいて、そこと比べるとボケ・ツッコミとも小粒感がぬぐえない。内面からにじみ出てくるものがないんだよねえ。

そしてネタの導入に無理があった。
「おっさんみたいな彼女っていいよね」が共感を得られないまま話を進めていっちゃったものだから、ずっと入っていけないままだった。時間をかけてでも「おっさん女子がなぜいいか」をプレゼンする丁寧さがあったらなあ。

今回の個人的最下位。



ぺこぱ (タクシー)


予選動画ではじめてこのスタイルを観てそのときはたしかにおもしろかったんだけど、2回目にしてもう飽きてしまった。“型”を壊す笑いだから、これ自身が“型”になってしまったらもうおもしろくないんだよね。
(ついでにいうと壊される“型”っぽい漫才をやっていたのがからし蓮根だとおもう。だからからし蓮根の直後の出番順だったら最高だった)

ぼくはこの人たちのネタを他に観たことないんだけど、このネタを観るだけでも
「ああ苦労していろんなスタイルを模索しつづけた末にたどりついた形なんだろうなあ」
という悲哀が感じられてよかった。しっかり作りこまれたネタなのに、それでも魂の叫びが漏れ聞こえてくるようだった。



【最終決戦】

ぼくが3組選ぶなら、ミルクボーイ、かまいたち、ニューヨーク。
ニューヨーク以外の順位についてはおおむね納得。

ぺこぱ (電車で席を譲る)


彼らにとって不運なことに、1本目最後出番→2本目トップ出番 と2本続けてネタをすることになってしまった。
さっきも書いたように、型を壊すタイプのネタなのでからくりがばれている2本目はただでさえ弱くなるのに、連続出番ということでさすがに飽きてしまった。

とはいえ「キャラ芸人になるしかなかったんだ」などの“魂の叫び”は一本目よりさらに強烈。
人間的魅力は十二分に伝わった。


かまいたち (となりのトトロ)


1本目と同じく、くだらない題材を大きく膨らませる技術は圧巻。
他の芸人だったら
「おれとなりのトトロ一回も見たことないわ~」
「だからどうしてん。おんねん、こういうしょうもない自慢するやつ」
みたいな(学天即がやりそう)、せいぜいあるあるネタのひとつにする程度の題材なのに、それをここまで掘りさげられることに恐れいる。幅が狭い分、深みがとんでもない。
どんなお題をもらっても4分の漫才にできるんじゃないだろうか。

共感しやすい話から宗教っぽい語り口のぞくぞくするボケまで持っていく話術は見事の一言。
ほんと、うますぎて若手ナンバーワン漫才師を決める大会にふさわしくない。



ミルクボーイ (もなか)


何が悪いというわけでもないのになぜか好かれない最中(もなか)、という渋い題材でたっぷり4分間。
技術もあって安定しておもしろいのにずっと売れないミルクボーイの漫才を最中に重ね合わせているんじゃないだろうか。そんな気すらした。それほどまでにこのスタイルに対する執念が感じられた。

ミルクボーイのスタイルは何年も前から完成されていた。「ほな〇〇やないか」「ほな〇〇とちゃうやないか」のくりかえし。数年前からほとんど変わっていない。
どのネタも安定しておもしろい。ちゃんとウケる。でも評価されない。

何年も結果が出なければ限界を感じてスタイルを変えそうなものだ。スタイルを変えたことで新しい道が開ける芸人も多い(たぶんぺこぱもそうだろう)。
だが自分たちのスタイルを信じ、貫いた。そして最高の栄誉を勝ち取った。どちらの姿も美しい。

ミルクボーイは、今年勝てなかったら来年以降勝つのはむずかしかっただろう。
正直、2本目のネタは1本目よりウケていなかったようにおもう。ネタが劣っていたというより新鮮さが落ちていたせいだ。

それでもほとんどの審査員はミルクボーイを評価した。
ぼくが票を入れるなら、やはりミルクボーイに入れたとおもう。
「笑いの量とか技術とか総合的な評価でいえばかまいたちのほうが上。しかしミルクボーイには新しさがあった」
という理由で。
きっと似たような理由で票を入れた審査員もいたはずだ(あとかまいたちは既にキングオブコントの称号を手にしているからもういいだろという気持ちもはたらいたとおもう)。

「その日いちばんおもしろいコンビを決める」という趣旨からいえば、新しさとか過去の実績とかで評価をするのはフェアでないのかもしれない。
けど、それでいいとおもう。M-1グランプリは、同じぐらいのおもしろさであれば、より新しいもの、より陽の当たらないものを照らす大会であってほしいとぼくはおもう。



ぼくが2019年のM-1グランプリを観終わって抱いたのは、ぼくの好きだったM-1グランプリが帰ってきた! という感覚だった。

うまさよりも粗削りでも新しいものを評価する大会、知名度や人気ではなく「なんだかわからないけどおもしろい」を評価する大会、当初のM-1グランプリはそういう大会だった。
まだまだ技術的には下手で全国的な知名度も低かった麒麟、笑い飯、千鳥、南海キャンディーズ、POISON GIRL BANDらを決勝に上げて世に問うてきた大会。
その頃のM-1グランプリは、「今いちばんおもしろい」というよりどっちかといったら「次にいちばんおもしろくなる」コンビを決める大会だった。毎回一組は「こんな漫才観たことない!」とおもわせてくれるコンビがいた。

でも、2006年から2008年ぐらいを潮目にその流れが変わってきた。
既に評価されているもの、技術の高いもの、万人から笑いをとれるもの、そういったものが評価されるようになった。

2015年に復活して芸歴15年まで参加できるようになってからはよりその傾向が強くなった。
トレンディエンジェル、銀シャリ、スーパーマラドーナ、和牛……。復活後のM-1を彩ったコンビたち、そのネタはおもしろいしぼくも好きだが、「なんだこれ!」という驚きは感じなかった。
うまい、達者だ、よくできているネタだ、がんばって稽古したんだろうな、しっかり対策立ててきたんだな。そうおもうことはあっても「こいつら次は何するんだ!?」というわくわく感はなかった。

その流れが再び動きはじめたのは2017年。
和牛、ミキ、かまいたち、スーパーマラドーナといった並みいる“達者な漫才師”を抑え、とろサーモンがチャンピオンに立った。
正直いって、「笑いの量」という点でいえばあの日のとろサーモンはぼくの中では1位ではなかった。
だが何を言いだすかわからない、どこまでが台本でどこからがアドリブかわからない、そういう即興性、破壊力ではダントツの1位だった。
他の出演者が美しい交響曲を聞かせる中、型破りなジャズでその場の聴衆の心をわしづかみにしたのがとろサーモンだった。

そのとき撒かれた種は2018年にも花を咲かせた。
和牛のネタ構成や表現力は見事の一言だった。ジャルジャルの稽古量は圧巻だった。ミキのしゃべりのうまさにはますます磨きがかかっていた。
けれど大会を機に大きく評価を上げたのは独自のスタイルを持ちこんだ霜降り明星であり、トム・ブラウンだった。
うまさよりも新しいものを。その要求は高まりつつあった。もちろん霜降り明星もうまくて達者だったが、何より評価されたのはその革新性だった。

そして2019年。新しさを求める気運は満開の花を咲かせた。
次から次へと披露される新鮮な漫才。
演者の知名度が低かったこともあり、ほとんどのコンビが笑いとともに驚きを届けてくれた。

そうだよ。M-1はこうでなくっちゃ!
一流の商品が高い値札をつけられて並ぶデパートではなく、なんだかわからないけど大化けする可能性を秘めた原石が発掘される蚤の市であってほしいんだよ!


そろそろ芸歴10年までに戻してもいいんじゃないかなあ。

「10年やって準決勝にも行けないやつは才能ないからやめなさいよ」ってのが大会創設の意図だったわけだしさ。



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2019年12月20日金曜日

六歳と一歳との平日夜

平日夜の過ごし方。
オチも何もないけど、将来自分で読み返したくなるかもしれないので書いておく。


ぼくが家に帰ると、一歳が出迎えてくれる。
「あっ!あっ!」といいながらとたとたと玄関までやってくる。
たいてい何か持っている。
おもちゃだったり、紙切れだったり。あるいはパプリカを口の中に入れている(夕食前はおなかがすいて不機嫌になるのでパプリカを渡されている。パプリカをしゃぶっている間はごきげんになる)。
手にしたおもちゃをぼくに見せてくれる。ぼくの鞄の中身を見ようとする。ぼくの脚にしがみついてくる。

一歳を抱えて手を洗い、リビングに行く。
六歳が寄ってきて「本よんで」「しょうぎしよ」などという。
一歳児の相手をしながら六歳児と将棋を指す。本を読む。最近はドラえもんの漫画を読むことが多い。六歳はもう自分で本を読めるのだが、読んでもらうほうが好きなのだ。
一歳がまとわりつくと料理がしづらいので、妻が料理をしている間に一歳の相手をするのがぼくの仕事だ。

夕食。
一歳がごはんを食べる手伝いをする。最近少しだけフォークやスプーンが使えるようになったが、うまくフォークを刺せないことも多い。刺すのを手伝ってあげる。スプーンでごはんをすくってやる。
コップでお茶を飲めるようになったが、飲んだ後にお茶をわざとこぼすことが多い。こぼさぬようコップに手を添える。
一歳の相手をしながら妻や六歳と話す。保育園でしたことを聞く。大げさに褒めてやったり六歳クイズにわざとまちがえたり。

夕食の後は一歳の歯みがきをする。歯は四本しか生えていない。上の前歯二本と下の前歯二本。いとをかし。四本しかないので歯みがきは一瞬で終わる。
六歳は自分で歯みがきをするが、雑なこときわまりないので仕上げをしてやる。六歳はぼくの膝の上に座って口を開ける。わざと口を閉じたりするので「あー」とか「いー」とか言いながら仕上げをする。
妻が料理や洗い物をし、ぼくが子どもの相手をするという役割分担にいつのまにかなった。ぼくが洗い物をしようとすると妻はあからさまにイヤそうな顔をして「それより子どもの相手してあげて」という。ぼくの洗い物が雑なのが許せないのだ。

風呂を沸かしている間に自分の歯みがきをし、一歳と六歳と遊ぶ。絵本を読んだり風船で遊んだり。
一歳と六歳と風呂に入る。一歳を膝の上に乗せて洗う。六歳は自分で身体を洗う。
一歳を湯船に漬ける。おぼれないように六歳が身体を支えてくれる。助かる。ひとりめのときはたいへんだった。
その間に自分の髪と身体を洗い、一歳と六歳と湯船に漬かる。狭いがリラックスできる。ペットボトルや水風船や水鉄砲で遊ぶ。
ぼくが先に出て身体を拭いてパジャマを着てから、一歳児を風呂から出し保湿クリームを塗りたくる。おむつを履かせる。パジャマを着せる。たいていその途中で逃げるので追いかけながら服を着せる。
次に六歳にも保湿クリームを塗ってやる。六歳はすぐにくすぐったがる。しかし自分では塗らずに必ず「お父さんぬって」と言いにくる。

妻が風呂に入っている間にまた一歳と六歳と遊ぶ。ぼくのおなかの上に二人を乗せたり、寝室でかくれんぼをしたり。ぼくと六歳が布団の下に隠れ、一歳が布団をめくって「あっ!あっ!」と言う。

妻が風呂から出てくると一歳はおっぱいをもらいにいく。
六歳は「やっと行った!」と言って本をぼくのところに持ってくる。一歳がいるとじゃまをされるので落ちついて本を読めないのだ。
最近は長めの児童文学を読むようになったので読みおわるまでに三十分ぐらいかかる。端からぼく、六歳、妻で寝る。一歳の寝る場所は決まってない。あちこち移動して好きなところで寝る。
六歳はすぐ寝る。ぼくも少しだけ本を読むがすぐ眠くなって寝る。

2019年12月17日火曜日

犯罪者予備軍として生きる


犯罪者予備軍として生きている。

その意識が芽生えたのはいつからだろう。
たぶん二十歳を過ぎたあたりから。そして無職だった期間がいちばんその気持ちが強かった。

といっても、べつに犯罪を企図しているわけではない。
「周囲の人から犯罪者とおもわれているかもしれない」という思いを持って日々生きている、ということだ。


たとえばひとりで公園に行く。
ベンチに座ってぼんやりする。

法的にはなんの問題もない。公園は市民の憩いの場だからだ。

だが、「世間の目」的にはどうだろう。
二十歳を過ぎたいい大人が、だらしない恰好で、何をするでもなく、公園のベンチに座っている。
不審者ではないだろうか。
小さい子どもを連れて公園に来ているお母さんは警戒しないだろうか。
警戒する。
ぼくが逆の立場なら「なんだあいつ」とおもう。


「男女で公園のベンチに座って話しこんでいる」「子どもが公園でサッカーをしている」「お父さんが子どもを連れて散歩している」ならまったく問題ない。
「スーツ姿の男性が公園のベンチでお弁当を食べている」はぎりぎりセーフ。目的がわかるから。
だが「普段着の大人の男がひとり公園に座っている」はアウト。法的にはセーフでも“世間的”にはアウト。
むしろ「明らかに家のなさそうなボロボロの服のおじさんが公園で空き缶を集めている」ほうがまだ目的がわかりやすいだけマシかもしれない。少なくとも「なんでこんなとこにいるんだよ」という目は向けられないだろう。

世間の目なんて気にしなくてもいい! と言うのはかんたんだが、社会で生きるぼくらはそんなに強くない。
“世間”から白い眼を浴びながら生きていくのはすごくしんどい。“世間”にあわせるほうが楽だ。少なくともぼくにとっては。

だからぼくは用もないのに公園に行ったりしない。
もし行くならこぎれいな恰好をする。
本を読む、たいして飲みたいわけでもないコーヒーを飲むなどして「目的のある人」であることをアピールする。


また、ぼくの所属する会社は服装自由だが、ぼくはスーツを着て出勤している。
なぜならスーツを着ているだけで、“世間”からの風当たりはぐっとやわらぐから。
サングラスにジャージ姿よりも、スーツ姿のほうが見知らぬ人から警戒されずに済むから。

高校生のときは、まだぼくは「犯罪者予備軍」ではなかった。
人目を気にせず好きなことをできた。
学校帰りに公園に行ってベンチの上にひっくりかえって昼寝をしたこともある。
周囲の人からは「変な学生」とおもわれるかもしれないが、変質者には見えないだろう。学校の制服、という帰属を表すサインを持っていたから。

屋根の上によじのぼって本を読んでいたこともある。
近くを歩いている人からしたら「あそこの息子さん変な子ね」とはおもっただろうが、「警察に通報しなきゃ!」とまではおもわなかっただろう。学生の特権だ。

でも今のぼくは、公園で寝ることも意味なく屋根によじのぼることもできない。
通報されかねないから。
少なくとも「変わった子ね」という生あたたかい視線ではなく、「ヤバい人だ」という凍てつく視線を向けられることは必至だ。

なぜなら、いい歳した男は存在自体が犯罪者予備軍だからだ。



子どもが生まれたことで、ぼくの犯罪者予備性はぐっとやわらいだ。

ベビーカーを押していると、赤ちゃんをだっこしていると、子どもと手をつないでいると、どこで何をしていても不審者扱いされない。

昼日中に公園にいても、道端に立ち止まっても、ショッピングモールの女性下着売場の前を歩いても、エレベーターで女子高生と乗り合わせても、「あの男こんなとこで何やってんのかしら。犯罪者じゃないの」という視線を感じない。

だって子ども連れだからな! 子連れは無敵だ。子どもはフリーパス。どこにいても許される。

そういや貧しい国だと、乞食に赤ちゃんを貸す商売があると聞く。
子連れの乞食のほうが多く恵んでもらえるからだそうだ。
子どもは免罪符。子どもを連れているだけで世間はぐっと優しくなる。

そして、子どもを連れて公園に行くぼくはこうおもう。
「なんだあの男、昼間っからベンチに座って。怪しいやつだ。うちの子に変なことするんじゃねえだろうな」と。


2019年12月16日月曜日

ハナクリーンの話

ハナクリーンSの話をしようとおもう。

知っているだろうか、ハナクリーンSを。
その名の通り、鼻をクリーンにする道具。またの名を、右の鼻から入れた液体を左の鼻から出す装置。

作っているのが東京鼻科学研究所で、販売しているのがティー・ビー・ケー。
なるほど、Tokyo Bikagaku KenkyujoでTBKなのだな。しらんけど。

ハナクリーン公式ホームページ

東京鼻科学研究所の沿革を見ると、
1979年2月 創業 鼻洗浄器「ハナクリーン」発売
1987年9月 鼻洗浄器「ニューハナクリーン」発売
1992年9月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ」発売
1994年11月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ30」発売
1995年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンEX」発売
1997年9月 鼻洗スプレー「ぐ~クリーン」発売
1998年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンα」発売
1999年9月 鼻洗スプレー「ハナぴゅあ」発売
1999年11月 鼻洗浄器「ハナクリーンS」発売
……と続く。一貫して鼻を洗うことしかやっていない。実に潔い。
創業以来40年、一途に人々の鼻をきれいにすることだけを考えてやってきたのだ。なんと尊い考えだろう。スポーツ選手とか芸能人ではなく、こういう会社にこそ国民栄誉賞をあげてほしい。

と、ぼくがさっき知ったばかりのこの会社を絶賛するのは、昨日試してみたハナクリーンSの効果がすばらしかったからだ。

添付しているサーレという薬をお湯で溶かし、ハナクリーンSを使って鼻に注ぎこむ。

おお、ぜんぜん痛くない。
ちょうどいい濃度、ちょうどいい温度なのでまったく痛くないのだ。ぬるま湯を飲むのと同じで、ただ流れこむだけ。
はじめはおそるおそるやっていたのだが徐々に勢いよく入れる。そして鼻をかむ。
これを何度かくりかえすと、鼻の奥にたまっていた鼻水が一気に流れ出てすっきりする。
鼻が通るようになり、右の鼻から入れた液体が左の鼻から出てくる。口からも出てくる。鏡を見るとめちゃくちゃマヌケな姿だが、これが気持ちいい。

水道管のパイプ洗浄剤ってあるじゃない。ぬめり詰まりをごぼっととるやつ。あれをやってる感覚。快感。
あー、人間って管なんだなーと実感する。
管なんだよね。鼻や口から肛門までの長い管。管のまわりに、管をとおるものを消化する器官や、それらを支える骨や筋肉がついている。単純化すればただの管。
溜まりに溜まった鼻水を洗い流すと、管に戻れる気がする。


何かの本で(たぶん『完全自殺マニュアル』だったとおもう)、服薬自殺に失敗したときは胃洗浄という処置をとられるがそれがめちゃくちゃ苦しい、と書いてあった。
胃にチューブをつっこんで液体を流し、胃を洗い流すのだという。

苦しいだろうな。
でも、終わったあとはめちゃくちゃすっきりするんじゃないかな。
胃や食道にこびりついた汚れを一気に洗い流すのだから、きっと気持ちいいだろう。
ちょっと経験してみたい気もする。でも苦しいのはイヤだな。

ぼくが死んだら、口から高圧の水を一気に流しこんで、食道や胃や腸のものを全部ずばずばずばーっと洗い流してほしい。
想像するだけでめちゃくちゃ気持ちよさそうだ。死んでるけど。汚いから誰もやりたくないだろうけど。
ただ、まちがっても入口と出口を逆にはしないでほしい……。

2019年12月15日日曜日

ツイートまとめ 2019年2月



栄枯盛衰


災害


漢字能力


こなきじじい

例外

牧歌的

暫定一位

目出し帽

ジャム

分別

褒め言葉

揺れる想い

飲むヨーグルト

持つとこ

ひげ


自動運転車

懐かし

かわいがられる場

最先端

共感

知識人

2019年12月13日金曜日

【読書感想文】怒るな! けれど怒りを示せ! / パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』

日本人のための怒りかた講座

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
「怒りは悪」と思われがち。しかし、怒りを否定することは人間らしさを否定することです。仮に怒りを抑えたとしてもストレスがたまるだけで問題は解決しません。必要なのはコミュニケーション。身の回りの不愉快な出来事を引き起こしている相手と向き合い、誤解されずに怒りをきちんと伝える技術です。「知られざる近現代マナー史」を参照しながら、具体的な「怒る技術」を伝授する一冊。

ぼくも「怒れない日本人」だった。
腹が立つことがあっても
「いちいち波風を立てるより自分が我慢すればいいや」
とおもうことが多い。

でも最近ちょっとは見ず知らずの他人に注意できるようになった。

ついこないだも、マンションのエレベーター内で犬を歩かせている人に(うちのマンションをペット禁止ではないが共用スペースを歩かせるのは禁止)「犬は歩かせないでくださいね」と言った。
電車の列に割り込もうとしてくるおばさんに「後ろに並んでくださいね」と注意したこともある。

ぼくが他人に注意できるようになったのは子育てをしているせいかもしれない。
子どもと接しているとどうしても叱ることが増える。
子どもは一般常識を持っていないから「言わなくてもいつかわかってくれるだろ」が通用しない。言わなきゃわからない(ほんとは大人もそうなんだけど)。
それに「この子をそこそこの常識を持った大人に育てる」という社会に対する使命感があるから、「自分が我慢すればいいや」というわけにもいかない。

で、子ども相手に叱っているとよその子も叱れるようになる。よその子を叱れるようになるとよその大人も叱れるようになる(怖い人のぞく)。

そのうちに有効な注意の仕方もわかってきた。
怒りとぶつけても反発されるだけ、あいまいな叱り方をしても響かない、皮肉も通じない、具体的に「〇〇して」と要求を伝えるのがいちばん有効。

これは三歳児相手でもおっさんでもおばさんでも年寄りでもだいたい同じだ。
「こら!」とか「周りの迷惑を考えろ!」なんて叱っても相手を怒らせるだけで意味がない。迷惑行為をする人はそれがたいした迷惑じゃないとおもっているからやっているわけで。
自分の常識を押しつけようとしたってうまくいくわけがない。
「あなたがやっている〇〇は私にとって不愉快だから今この場ではやめてください」
これぐらいが適切だし、限界だとおもう。いついかなるときも正しい行いを他人に求める権利までは市民は持っていない。
「タバコのポイ捨てはやめてくれ」と言われて心を入れ替えてすっぱりやめるような人間はそもそもはじめからポイ捨てしないでしょう。



マッツァリーノ氏の主張はこうだ。
迷惑をかけている他人に注意すべき。
我慢したって自分のストレスが溜まるだけ。
注意したって改めてもらえるとはかぎらないが言わないよりは言ったほうが可能性があるだけマシ。
ただし深追いはいけない。聞き入れられなくてもあきらめる。喧嘩をしたり相手を貶めるのが目的ではなく、行動を改めてほしいだけなのだから。
できる範囲でかまわない。怖い相手には言わなくたっていい。
首尾一貫してなくていい。自分が注意したいときだけでいい。

しごくもっともだ。
(ちなみに後半の体罰やペットの話はおもしろいけどテーマがずれる氏のブログの再掲なので、この本にまとめるのはいかがなものか)

タイトルには「怒りかた講座」とあるが、これは適切ではない(あえて不適切な言葉を使っているのだろう)。
氏が主張し、実践するのは「怒る」ではなく「交渉する」だ。
「それをやめてくれないか」と、相手への敬意をある程度示した上で頼む。
正義のためではない。あくまで自分が快適に生きるために。
 なにしろ、大正一三年の読売新聞の投書欄に、「近頃は私のような年寄りが電車に乗っても若い人たちが席を譲ってくれない。本を読むふりなんかして腹が立つ」と七○歳のおばあさんが投書してるんですよ。社会道徳は戦後やバブル崩壊後に廃れたわけじゃないんです。戦前、明治大正の時代から、状況はまったく変わってません。
 そして、そういったぶしつけなこどもやオトナの行動を見て憤慨するも、その場で面と向かって相手にいえない人がほとんどなのも、いまと同じ。その場でいえず、あとで新聞に投書してうっぷんを晴らす気弱な正義漢がたくさんいたのも、いまと変わりません。いまならさしずめ、その場でいえなかった怒りを、あとでブログやツイッターに書きこむのでしょう。メディアが変わっただけで、やってることは一緒です。
 つまり、勝手なことをする人間と、それを不愉快に思いながらも叱れない人がいて、結局は勝手な人間がのさばり続けるという世間の構図は、戦前もいまも、ずーっと変わっていないのです。
 戦前の保守教育も戦後のリベラル教育も、公徳心や社会道徳を育むという目標いては、どちらも失敗しています。これが、庶民史の真実です。
時代が変わっても人間の性質は変わらない。
昔も今も迷惑な人間はいて、それに眉をひそめる人間もいて、けれどその大半は見て見ぬふり。

マッツァリーノ氏は言う。「昔は悪いことをしたら叱ってくれるがんこ親父がいたもんだ」と語る人間は多いが「私は悪いやつを叱る」という人間は少ない、と。
みんな「誰かが嫌な役目を引き受けてくれないかな」と虫のいい期待を抱いているだけで、自分がなんとかしようとはおもわない。これでは社会は変わらない。

とはいえ社会は少しずつ変わっている。
全体としては、迷惑行為は減ってきているとはおもう。ゆるやかにではあるけど。

昔よりは分煙もされているし、セクハラ、パワハラ、アルハラなんて言葉もできて弱い立場の権利が守られるようになってきた。
少しずつだけど「誰もが暮らしやすい社会」に向けて前進してきている。

それは、わずかではあるけど声を上げた人がいるからだろう。
煙たがられても声を上げた人が。
たぶん最初に「セクハラはやめて!」と言いだした人は「なんだよブスのくせに。お高くとまってんじゃねえよ」的な反応を浴びたことだろう。
それでも、そういう人がいたから多くの人が後に続きやすくなったのだ。
迷惑なことは我慢をせずに声を上げたほうがいい。無理のない範囲で。
 なかなか怒らない人は、精神力が強いのでしょうか。人格者なのでしょうか。そうとはかぎりません。ただ単に鈍感なだけ、いわゆる空気の読めない人である可能性も高いのです。自分のことに怒らない人は、他人への共感能力も低いのです。人格者どころか、他人の痛みや苦しみを想像できない鈍い人なのかもしれません。
 そういうタイプの人は、自分も平気なんだから、他人もこれくらい平気だろう、こんなことで苦しんだり困ったりするわけがない、と勝手に決めつけて、ガマンや泣き寝入りを迫る薄情な人間です。
 一方で、ささいなことで怒るのだけど、じつは、他人に対しても人一倍気配りをしてる人もいます。他人の無神経さに敏感に反応して腹を立てるからこそ、自分も他人に不快な思いをさせぬよう配慮するのでしょう。
 ささいなことでは怒らない人が、必ずしも人間的にすぐれているとはかぎらないのです。怒らない人は他人や世の中のことに無関心な、心の冷たい人なのかもしれません。怒らないからやさしい人だと考えるのもまちがいです。やさしい人だからこそ、不正や不条理に対して人一倍腹を立てるんです。

マッツァリーノ氏も書いているが、「こんな小さなこと」で怒れない人は、大きなことだともっと怒れない。

政治家の不正に声を上げたときに「そんな些細なことを問題視するよりもっと大事なことがあるだろ」と言う人がいるが、その手の人が「もっと大事なこと」をきちんと批判しているのを見たことがない。

現代人の脳がネアンデルタール人よりも小さいのは「自己家畜化」したからだという説があるが、「こんなささいなことで怒るなんて」と抑えている人は自己家畜化している真っ最中なのだろう。

感情を制御できない大人はみっともないけど、怒りの感情を完全に抑えることは社会を悪くする。
学校でも職場でも怒りを抑えることばかり求められるけど、抑えるんじゃなく適正な言葉で表出する方法を教えないといけないね。

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【読書感想文】タイトル大事なんとちゃうんかい / 須藤 靖貴『小説の書きかた』

小説の書きかた

須藤 靖貴

内容(e-honより)
読めば読むほど小説が書きたくなる、文章がうまくなる。そして、ひとの気持ちがわかるようになる。海風が吹き抜ける県立高校文芸部を舞台にしたアタマとココロの新・実用小説!

本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

物語を通して小説の書きかたを伝える、という『もしドラ』の柳の下のドジョウを狙ったような本。

ハウツー本は好きじゃないんだよなあ。
とおもいながらもせっかくもらったので読んでみた。
うーん、やっぱり……。

「小説の書き方を小説を通して伝える」という意図は買うけど、肝心の物語がおもしろくない。
男子高校生一人と女子高校生三人が共同して一篇の小説を書くという話なのだが、まったくといっていいほど事件が起こらない(起こるハプニングが「書きあげたものの出来がイマイチだった」レベル)。
女子三人も個性がなさすぎて、とうとう最後まで見分けられなかった。
あえてつまんない小説を読ませることで失敗例を提示してくれたのかも。

ふつうにハウツー本として書いたほうがまだマシだったんじゃないだろうか。
書いていること自体はこれから小説を書く人にとってはためになるのかもしれないけど、肝心のこの本がおもしろくないんじゃあなあ。
タイトルとかさ。
「タイトルは作品の顔だからめちゃくちゃ重要」みたいなことを本文中で書いといて、で、この本のタイトルが『小説の書きかた』かよ。なんじゃそりゃ。ひねりゼロ!



まあおっさんが読む本じゃないなあ。
高校生ぐらいのときに読んでたら、「自分も今すぐ書かねば!」と奮いたっていたかもしれない。

ずっと本が好きだったし、そういう人ならたいてい経験があるとおもうけど、ぼくも学生のときは「自分でも書けるはず!」とおもって物語が書いてみた。
しかしながらというか、当然ながらというか、すぐに挫折。書くことのむずかしさを思い知った。おもしろくないとか以前に、書けないんだよね。書けば書くほど自分の文章のダメさが目について。

今は「作家になってやる!」「文壇に名を轟かせてやる!」みたいな野望もなくなったのでこうしてブログにだらだらと文章を書いているが、長く書いていると書くペースやリズムをつかめてきて、少なくとも書いている自分自身は楽しめるようになった。読む人が楽しんでいるかどうかは知らないが。

だから、物語を書きたい人は、こういう本を読むのも無意味ではないのだろうけど、その一万倍ぐらい「書き続けてみる」が大事だとおもう。書かないと書けないのだから。


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2019年12月11日水曜日

【読書感想文】昭和の少年が思いえがいた未来 / 初見 健一『昭和ちびっこ未来画報 』

昭和ちびっこ未来画報 

初見 健一

内容(e-honより)
本書には1950~70年代の間に、さまざまな子供向けのメディアに掲載された“未来予想図”が収録されています。小松崎茂、石原豪人をはじめとする空想科学イラストの巨匠たちが描いた未来画を暮らし、交通、ロボット、コンピューター、宇宙、終末の六項目に分けて紹介。

未来予想が好きだ。
このブログでも、真鍋 博『超発明 創造力への挑戦』、ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』、エド・レジス 『不死テクノロジー 科学がSFを超える日』といった硬軟さまざまな未来予想本を紹介してきた(ページ下の【関連記事】参照)。

未来の世の中(21世紀後半~22世紀ぐらい)はこうなる、という予想もおもしろい。
わくわくして長生きしたくなる(20世紀生まれのぼくが22世紀まで生きるのはまず不可能だろうが。少なくとも肉体は滅びるはず)。

それもおもしろいが、過去の未来予想もおもしろい。
50年前、100年前の人たちが予想した未来を、21世紀を生きるぼくが答え合わせをすることになる。
これがたまらなくおもしろい。
優越感をくすぐられる。なにしろこっちは未来人だ。20世紀人の「未来」については圧倒的にこっちのほうが知識がある。
「ははーん。こんなことを予想してたのかー。しょせんは20世紀人、ばかだねー」
とか
「おっ、まあまあいいセンいってんじゃん。とはいえここまでの予想しかできないのが20世紀人の限界だよなー」
とか上から目線で語れる。
べつにぼくの力で科学が進歩したわけではないのだが(むしろ過去の人のおかげなのだが)、しかし「新しい知識を持っている」というのはそれだけで優位に立てる条件なのだ。未来人でよかったー(20世紀生まれだけど)。



『昭和ちびっこ未来画報』は過去の未来予想を集めた本だ。

1950~1980年ぐらいの少年誌に掲載されていた「未来はこうなる!」というイラストがたっぷり載っている。全ページカラー。
すごくおもしろい。
イラスト(小松崎茂氏のものが圧倒的に多い。未来予想イラスト界の大家だ)もいいし、著者のツッコミも笑える。

雑誌だけでなく大阪万博の「未来生活」の写真なんかもあって、昭和の少年(あるいは大人も)がどんな未来を思いえがいていたかがよくわかる。もちろん全面的に信じていたわけではないだろうけど。


都市の未来予想はけっこうあたっている。

立体交差道路、動く歩道、モノレール、屋上ヘリポート、室内野球場、街頭テレビ。
どれも2019年現在あたりまえのように存在しているものばかりだ(モノレールはあまり一般的にならなかったけど)。

とはいえ「そりゃないだろ」というアイデアもあふれている。


高速道路で事故が起こらないように、巨大ロボットが違反車を(物理的に)つまみあげるという仕組み。
こえー。
こんなにすごいロボットが動いているのに「速度おとせ」という看板で注意を呼びかけているのが笑える。看板は進歩しないのかよ。

っていうかこんなロボットを動かす技術があるならとっくに自動運転車が実用化されてるだろ……。そもそも自動車が必要なくなってるんじゃないか。

あと「空港が空を飛ぶ」とか、脱線した機関車を持ち上げる飛行艇とか、いろいろツッコミどころの多いアイデアもおもしろい。
そんなすごい飛行艇が飛んでるのにまだ機関車使ってるのかよ。

すごいスピードで郵便物を運ぶ「ゆうびんロケット」は、ああ昔の人のアイデアだなあという気がする。
そうだよね。「いかに速く手紙を届けるか」という発想になっちゃうよね。「電子メールが一般化して紙の手紙を出す必要はほとんどなくなる」というパラダイムシフトにたどりつくのはむずかしい。

 今だっていろんな学者が「どうやって健康を維持するか」とか「安全でエコな自動運転車を作るにはどうしたらいいか」とか頭を悩ませているけど、将来的には肉体が不要になっている可能性もあるもんなあ。そうなったらとうぜん自動車なんて不要になるわけで。



コンピュータ、通信などの分野に関しては現在の状況は昔の想像をはるかに超えているかもしれない。
誰もが手のひらサイズの高性能コンピュータを持ち歩いている時代なんてほとんど誰も予想しなかっただろうなあ。

しかし、宇宙開発、海底開発、気象操作などは残念ながら「未来予想」にとうてい及ばない。
宇宙や海底は、今のところ「そこまでする必要がない」から開発してないだけで、「もうすぐ陸上に人類が住めなくなる」などのせっぱつまった状況になればちょっとはマシになるんだろうけど。
天気を操るとか台風を鎮めるなんてアイデアが紹介されてるけど、制御するどころか2019年になっても予想すらまともにできてない状態だもんな。
地球は手ごわいな。

ロボットに関しては、昔の少年が思いえがいていたヒト型ロボットが活躍する時代は当分こないんじゃないかな。ヒト型であるメリットがあんまりないもんな。



登山サポートロボットやおかあさんロボットの想像画が描かれているが「キモいし無駄」という感想以外は出てこない。
特におかあさんロボットの不気味さといったら……。ぜったいこの触手で絞め殺されるだろ。



終末予想も数多く紹介されている。

核戦争、温暖化、隕石の衝突、大洪水などで地球が滅ぶという暗黒未来予想だ(寒冷化がしきりに唱えられているのが20世紀らしい)。

放射能により動物や植物が巨大化・凶暴化、なんてのも昭和のSFって感じだなあ。ゴジラとかウルトラマンとかでも「放射能により凶暴化」ってのはけっこう扱われてるもんなあ。

今だったらアウトだよね。原発事故地域の風評被害がーってなってしまう。
けどそれはそれで臭い物に蓋って感じでイヤな感じなんだよなあ。
「風評被害はやめろー」って言う人の大半が被害者を慮ってるわけじゃなくただ単に遠ざけてるだけに見える。



著者も書いているけど、少年誌の定番だった未来予想は最近ではすっかり鳴りを潜めてしまった。
ぼくが子どもの頃読んでいた雑誌でも見た記憶がない。

ノストラダムスだ終末論だのオカルトが流行るのは歓迎しないけど、長生きしたいとおもわせてくれるような未来予想がもっとあってもいいのになあ。
未来に期待が持てない時代になってしまった。さびしいな。まあ人口も経済も衰退していく一方の今の日本じゃあなあ。


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【読書感想】真鍋 博『超発明: 創造力への挑戦』

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

【読書感想文】 エド・レジス 『不死テクノロジー―科学がSFを超える日』



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2019年12月9日月曜日

【読書感想文】靴下のにおいを嗅いでしまうように / たかたけし『契れないひと』

契れないひと(1)

たかたけし

内容(yanmaga.jpより)
わたしのしごとは、わたしになにをさせるのでしょう‥‥。子供向け英会話教室の体験を勧誘する訪問販売員ノグチマイコ♪ 今日も顔も知らないお客様のお宅の玄関の前に立ち、一生懸命お仕事をしています。されど毎回、契約が獲れなくて、上司に怒鳴られ、泣いています。苦笑と悲哀に満ちた幸薄ガールの営業GAG日誌♪『契れないひと』、そこはかとなく連載スタートです♪

たかたけしさんのデビュー作。
……だけどぼくはもう十年来のたかさんのファンだ。

とある趣味を通して(ネット上で)たかさんと知り合い、たかさんのブログ に魅了された。
ぼくは文章を読んでおもしろいとおもうことはあっても笑うことはないのだが、たかさんの文章だけは別だ。文章だけでこんなに笑わせられる人がいるのかと大いに感心し、こんなすごい文章をタダで読むことができるなんてブログっていいなあとおもいつつも、この人が世に出ないのはおかしい、『SPA!』あたりですぐに連載させるべきだろうと勝手に憤っていた。

そんなたかさんがついにデビュー。それもヤングマガジンで……ヤングマガジン?
そう、文章ではなく漫画でのデビューだというのだ。お、おめでとう……。

もちろんそれはそれでたいへん喜ばしいことなんだけど、いつかエッセイ集も出してくれることをぼくは今も願いつづけている。
東海林さだお氏のような『漫画以上にエッセイに定評のある漫画家』になってくれたらいいなあ。



前置きが長くなったけど、『契れないひと』について。

なんというか、見ちゃいられない。なのに見ちゃう。
やはりヤンマガで連載されていた 蓮古田二郎『しあわせ団地』という漫画を思いだした。


『しあわせ団地』の主人公・はじめは、仕事をしようとせず、家事もせず、妻に対しては暴言をぶつけるというどうしようもないクズ人間だ。
一応ギャグではあるのだが、はじめのせいで妻がひどい目に遭うことが多く、読んでいていたたまれない気持ちになる。ギャグなのに痛々しいだけでぜんぜん笑えない。
……なのになぜか気になる。ついつい読みたくなる。
イヤな気持ちになるのがわかっているのだから読まなきゃいいのに、読んでしまう。そして胸糞悪さを感じる……。


『契れないひと』も似た印象の漫画だ。
主人公・野口は英会話教室の飛び込み営業。子どものいる家庭をまわり、体験レッスンに勧誘する。結果が出なければ猛烈なパワハラを受けるブラック職場。レッスンもおそらく質の悪いものだと野口自身もうすうす気づいている。
気の弱い野口は契約をとれない。上司に罵声を浴びる。言われるがままに法律ギリギリ(ギリギリアウト)なやりかたで営業をかける……。

上司や会社はもちろん、野口にも共感できない。
自分のやっていることが顧客を幸せにしないことだとうすうすわかっている。
だけど言われるから、怒られるのがイヤだから、英会話教室を勧める。
会社内では立場の弱い野口も、客からしたら立派な加害者だ。
うじうじして身の不幸を嘆いているように見えるけど、あんたも悪人なんだよと言いたくなる。

……でもそれは高みの見物だから言えることであって、ぼくも同じ立場に置かれたらやっぱり野口と同じような行動をとってしまうかもしれない。少なくとも「この会社のやり方は間違っています!」と抗議することなんてできない。せいぜいがさっさと逃げだすぐらい。

だいたいの人は同じようなもんだろう。
数々の腐敗した軍隊や企業や政府の暴走も、ほとんどが「一握りの頭のおかしいトップ」+「その他大勢のうすうすヤバいと感じながら流れに身を任せた部下」によってなされてきた。

不善に立ち向かうのはエネルギーがいる。思考停止するほうがずっと楽だ。
考えることを止めて上司の言われるがままに行動する野口の姿は、まさに自分含めた「弱い人間」の姿だ。

己の弱さを見せつけられるから不愉快だ。でもここに描かれているのはまちがいなく自分の姿。だから読んでしまう。自分の靴下のにおいをついつい嗅いでしまうように。

『契れない人』はそんな漫画だ。



職業に貴賤はないというが、そんなのは嘘だ。
貴いだけの職業はないかもしれないが、賤しいだけの職業はある。振り込め詐欺やってる連中とか。

まあだいたいは「かなり貴い」から「かなり賤しい」のどこかに位置しているわけだが、やっぱり達成感とか社会貢献度とかを感じにくい仕事はある。

ぼくも広告の仕事をしているが、その中でもやってて意義を感じる仕事とそうでない仕事がある。
風俗やギャンブル関係の依頼は断るようにしているが、うさんくさい育毛剤とか不動産投資セミナーとかの広告をつくっているときは
「うーん……あんまり胸を張って勧められるものじゃないけど……」
とおもいながらも金になるからしょうがないと自分を半ば騙しながらやっている(またうさんくさい商売ほど金銭的条件がいいんだよね)。
残念ながら清廉潔白だけで食っていけるほどの技能を持っていないので。


ぼくもそれなりに悪い大人になったので「明らかな違法じゃなければ目をつぶろう」ぐらいにおもえるんだけど、そんなふうに感じられない人もいる。
「悪いことはやめましょう!」って人。
ほんとうならそっちのほうが正しいんだけど、悲しいかな今の世の中は正しい人が住みやすいようにはできていない。
「だったらおまえこの仕事やめろよ」となってしまう。

ついこないだ『ルポひきこもり未満』という本を読んだけど、そこに出てくる「社会でうまくやっていけない」人たちは、まさにそんな感じだった。
ふつうの人が「まあそんな真剣に考えなくていいじゃない」「ちょっとぐらいの悪いことだったらみんなやってるんだからさ」と思えることを、許せない人。

おかしいのはその人たちなんだろうか。それともこの狂った社会に順応できているぼくだちなんだろうか。



『契れない人』の世界の住人はみんな狂っているんだけど(人だけじゃなく犬も)、回を重ねるごとにどんどん狂気が増している。
この先どうなるのか。たぶん不快な展開が待っているんだろう。わかっている。わかっているけど、でも読んでしまうんだろうなあ……。


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【読書感想文】失業率低下の犠牲者 / 池上 正樹『ルポ ひきこもり未満』

ルポ ひきこもり未満

レールから外れた人たち

池上 正樹

内容(e-honより)
派遣業務の雇い止め、両親の多重債務、高学歴が仇となった就職活動、親の支配欲…。年齢も立場も、きっかけも様々な彼らに共通するのは、社会から隔絶されて行き場を失ってしまった現状である。たまたま不幸だったから?性格がそうさせているから?否。決して他人事ではない「社会的孤立者」たちの状況を、寄り添いながら詳細にリポート。現代社会の宿痾を暴き出し、解決の道筋を探る。制度と人間関係のはざまで苦しむ彼らの切実な声に、私たちはどう向き合うことができるのか…。

ひきこもり、あるいはそれに近い状態の人たちの事例が紹介されている。
この本で紹介されている人たちのケースは様々だ。うまく問題を克服して社会に出られた人、今ももがき苦しんでいる人、そしてひきこもりの末に自殺した人……。

以前、久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』という本の感想でこんなことを書いた。

生活保護を受けている多くの人にとって、お金がないことは「結果」であって「原因」ではない。
現代日本では“あたりまえ”とされていることをできないことが原因だ。

だからお金を支給するだけでは解決にならない。

羽が折れたせいでエサがとれない鳥に対して、エサを与えて「次からは自分でエサをとれよ」と言っても何も解決しないのと同じように。

「ひきこもり」の問題も同じだ。
外に出られないことには原因がある。「出てきなさい」というだけで解決するような問題ではない。ただ仕事を与えて外に出すだけではだめだ。

ぼく自身、いっとき半ひきこもり状態だった。
気心の知れた友人とであれば出かけるが、それ以外の人とは会いたくない。一週間のうち五日か六日は終日実家にいるなんてこともあった。

あれはつらいものだ。「出たくない」とおもっているわけではない。
常に「出たくない」と「でも出なきゃだめだ」が闘っている状態だ。外に出なきゃいけないことは自分がいちばんわかっている。けど動けない。
そんな状態の人に「まず一歩外に出てみよう」と言ったって無駄だ。羽が折れた鳥に対して「さあ外に出ておいでよ。襲いかかってくる犬も猫もいるけど怖がらなくていいよ」と言うようなものだ。まずは身を守る方法を身につけさせなくては。

ぼくの場合は一年ぐらい半ひきこもりを続けた後、「バイトぐらいはしなくちゃな」ということでバイトをするようになり、そのまま正社員登用されてひきこもりを脱することができた。
でもこれはたまたま運が良かっただけだとおもっている。
実家に経済的余裕があったから一年の休息をとることができたけど、その余裕がなく無理して外に出ていたら心を壊していたかもしれない。
一念発起して受けたバイトの面接に落ちていたら意欲をなくしていたかもしれない。
正社員登用されていなかったらそのまま中年フリーターになっていたかもしれない。

いろんな「ラッキー」が重なっただけで今はそこそこ落ち着いた暮らしをできているけど、ほんの少し歯車がずれていたらぼくも『ルポ ひきこもり未満』に載る側だったかもしれない。



ひきこもりに対しては行政も対策を立てている。
が、あまり機能していない。

ひとつには、年齢制限を課していることがある。
これまでの公的支援が上手くいかなかった理由は、このように支援対象者を年齢や状態などで線引きしてきたことにある。勇気を出して、藁にもすがるような思いでたどり着いた最初の相談窓口の担当者から「あなたは支援の対象ではない」「あなたはここではない」などと冷たく突き放され、あるいは一方的な関係性の支援によって、社会に出ることを諦めてしまう――そんな経験をしてきた当事者たちは少なくない。
 こうした支援のあり方は、話題になっている「8050問題」のひきこもり長期高齢化や、地域で家族ごと潜在化していく大きな要因にもなっていて、当事者たちから「排除の暴力」と批判されてきた。
 柴田さんとやりとりしていた当時、ひきこもり支援の国の施策は、内閣府の「子ども・若者育成支援推進法」が法的根拠とされてきた。そのため、現場の自治体でも、「ひきこもり支援」のゴールは「就労」とされ、「三九歳以下の若者就労支援」に重きが置かれた。その支援の対象から弾かれた本人や家族は、せっかく相談にたどり着いても、せいぜい精神医療へと誘導されるのが実態だった。
せっかく支援制度があっても「二十代・三十代のひきこもりの人が対象」などと制限を設けてしまう。

まあ救いやすいほうから救うという考えもわからんでもないが、しかしより深刻なのは中高年のひきこもりのほうだ。
若ければ本人の意志次第でなんとかなることも多いが(その意志を奮いおこすのがたいへんなんだけど)、中高年の場合は本人の意志だけではどうにもならないことも多い。
正社員はもちろんアルバイトや派遣の職すらなかなか見つからない。周囲の目は厳しくなるどころか認知すらされなくなる。

ほんとはここにこそ行政が手を伸ばすべきなんだろうけど、成果が上がりづらいからか、放置されてしまう。
本人だけでなく、社会にとっても大きな損失なのだが。


『ルポ ひきこもり未満』に出てくる人の経歴を見ると、「たまたま運が悪かっただけ」の人も多いようにおもう。
たまたま最初に入った会社がブラック企業だった、たまたま直属の上司がパワハラ体質だった、たまたま会社の経営が傾いた。
本人の意思でどうにもならない事情が大きい。
もちろんどんな逆境でも乗りこえられるスキルや精神力を持った人もいるが、そんなのは少数派だ。
些細なきっかけでひきこもり生活に転落してしまう。そして一度道を外れると復帰するのはすごくむずかしい。

役所で非正規雇用をされている人の話。
 さらに、濱口さんが何よりも苦痛だったのは、仕事がないのに採用され続けていたことだという。何もすることがないのに職場にいることは、とても耐えがたかった。
 何をしていればいいのかわからないまま、時間が過ぎるのを待つ。指示も何もない。指示があっても、「何もしなくていいよ」と言われる。濱口さんは、生きている価値を否定されているような感覚に襲われた。
 そんなひどい状況であっても、「政治的な約束」を実行するために、その後も非正規は、採用され続けた。
 そもそも濱口さんは、失業対策のために雇われているから仕事がない。仕事を与えられないけど、自分も何かしなければと思っていた。雇わなければいけないことになっているから、給料も支払われる。
 同僚の中には、「仕事しないなら、私、行かない」と言って辞めてしまった人たちもいた。とにかく仕事がなかった。
 一方で、残業するほど忙しくしている部署もあった。しかし、職場側は、同一賃金を払わなければならなくなるため、非正規には仕事をさせようとしない。「働き方改革」が言葉の響きだけで骨抜きになるのではないかと懸念されるのは、まさにこの点である。当初、もらっていた仕事も、途中から来なくなることもあった。
 失業率の数字を下げるといっても、構造的な面での「からくり」に過ぎない。仕事がないために、スキルを付けないまま歳を取っていく。すると、求人欄で足を切られて応募ができなくなるという、負のループにハマっていく。
非正規雇用を増やし、一人でやっていた仕事を二人で分ければ数字上の失業率は低下する。
だけど出せる金は限られているから一人あたりの給料は減る。
「ギリギリ生活できる人」を増やしたにすぎない。

公務員はどんどん非正規化されていっている。
政府が「失業率が下がった!」と喧伝するためだけに弱い立場の人が犠牲になっているのだ。

一億総活躍時代の実態は「みんなで貧しくなろう」だ。


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2019年12月6日金曜日

保育士の薄着至上主義と闘う


六歳の娘が熱を出した。
一日休ませたら元気になったので保育園に行くことに。
さすがに今日はあったかくしときなさい、長袖長ズボンで行きなさい(これまで半袖半ズボンだった。どうかしてる)というと、娘は泣いて抵抗する。
イヤだイヤだ、半袖半ズボンじゃないとイヤだ、と。

で、どうしてそんなに長袖長ズボンを嫌がるんだとくりかえし訊くと、娘が口を開いた。
「だって先生が長袖長ズボンはダメって言ってた……」


娘の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
保育士が「長袖長ズボンはダメ」とはっきり言うとはちょっと考えられない。
だが、それに近い保育士からのメッセージはぼくも受信していた。

保育士たちがやたらと薄着を礼賛すること。

おたよりでも「冬でもなるべく薄着で過ごすよう指導しています」などと書いていること。

他の保護者が「うちの子はおなかこわしやすいんで長袖を着せていったら『なるべく半袖にしてくださいねー』と言われた」と語っていたこと。

少し前に子どもたちがみんな半袖半ズボンだったので「みんな寒くないん?」と訊いたら、子どもたちが口をそろえて「長袖なんか着るわけないやん!」と言ったこと。


矯正まではしなくても、園の方針として「なるべく薄着で過ごさせる」というスタンスでいるらしいこと、そしてその方針を子どもたちがまるで金科玉条のように絶対視していることを前々から感じとっていた。



くだらない。ほんとくだらない。

そのくだらなさがぼくにはよくわかる。
なぜならぼく自身、「一年中半袖半ズボンで過ごした子ども」だったから

「半袖半ズボンは元気の証」と信じていたぼくは、小学二年生のとき、親からどんなに言われても長袖長ズボンを着なかった。
もちろん寒かった。がたがた震えていた。家に帰ったらストーブの前に直行した。風邪もひいた。
他の大人たちから言われる「こんなに寒いのに半袖半ズボンなんてすごいねー」という言葉を、文字通りの褒め言葉として受け取っていた。本音は「ようやるわ。あきれた」なのだと理解していなかった。

そんな経験のあるぼくだからこそわかる。
無理して薄着でいることのメリットなんて何もないということが。



しかし多くの保育士が「薄着でいると元気になる」と信じているように見える。
保育士は、自分の経験から「薄着で遊んでいる子は元気な子が多い」とおもってしまうのかもしれない。

あほらしい。
典型的な[前後即因果の誤謬]だ。
薄着でいるから元気になるんじゃない、元気だから薄着で外で遊べるのだ。

その理屈で言うなら、「病院にいる子は公園にいる子より不健康な子が多い。ということは病院に行くと不健康になる」ということになってしまう。

ぼくが子どもの頃は「おひさまの下でいっぱい遊んで真っ黒になるまで日焼けした子は元気になる」と言われていた。
これも同じだ。元気だから外で遊べるだけの話だ。
現代において「紫外線をたっぷり浴びると元気になる」なんていう人はまさかいないだろう。
なのにまた同じ失敗をくりかえそうとしている。


いや知りませんよ。
もしかしたら、ほんとうに薄着で過ごすことが免疫力を高めるのかもしれませんよ。

でもそれを科学的に検証しようとしたら、多数の子どもを集め、ランダムに二つのグループに振り分けて、片方のグループには防寒具を着せ、片方のグループの子どもたちはどんなに寒がっても半袖半ズボンしか着せず、その二つのグループの数年後、数十年後の健康状態にどれだけ差が出たかを検証しないといけない。
そんな非人道的な実験が今の日本で認められるとは到底おもえないから、たぶん検証不可能だろう(仮に他の国で実験したとしてもそれはその国の気候でしかあてはまらない話だ)。

だから薄着で過ごすことが健康にいいかどうかを議論するのがそもそも無駄だ。
だったら「快適なほうを選ぶ」でいい。



仮に、子ども数百人を用いた非人道的実験がおこなわれて「半袖半ズボンだと元気になる」という結果が得られたとする。

それでもぼくは真冬に薄着で過ごさせることには賛成しない。

健康がすべてに優先するわけではない。

もしも「パンツ一丁で過ごすと元気になる」というデータが出たら、どうだろう。
男も女もパンツ一丁で過ごすか。パンツ一丁で往来を歩くか。
そんなバカなことはしない、と誰もがおもうだろう。
なぜならパンツ一丁で歩くことは健康云々に関係なく、非常識だからだ。

社会常識を教えるのも教育の役割だ。

「冬でも半袖半ズボン」は社会常識からは外れている。
たまにいるけどね、真冬でも半袖のおじさん。
あれを見て、たいていの人は「ああアレな人なのね」とおもう。
そりゃ冬でも半袖半ズボンのおじさんから「私の恰好見てどうおもいますか」と訊かれたら、面と向かって「ばかじゃないかとおもいます」とは言えないから「あ……えー……健康的ですごいなーと……おもいます……」と答えるだろうけど、それは本心ではない。

「冬には冬にふさわしい恰好があります。寒い中で半袖半ズボンで過ごすのはおかしなことです」と教えてやるのが保育士の仕事だろう。

子どもは「少し肌寒いからもう一枚着ていこう」などと判断する力がないからこそ、大人が先回りして防寒対策をしてやらねばならない。
(中学校などで衣替えの時期が決まっているのも同じ理由だとおもう)



いくら「あったかい恰好をしなさい」と言っても娘が「でも長袖長ズボン着てる子は弱いって言われるから……」と渋っていたので、洗脳を解くためにかなりきつい言葉で言い聞かせた。

「いい? 長袖長ズボンをダメってのは先生のウソなんだよ。ウソ! だから信じちゃダメ! その証拠に先生たちは長袖長ズボン着てるでしょ! 先生も適当に言ってるだけ!」

「寒いときに我慢して半袖半ズボンにする人はバカなだけ! バカなの! 先生が言ってることはバカなこと!」

娘が持っている保育士への信頼感を壊すようなことはできればしたくなかったが、強固に「薄着至上主義」を信じこまされていたので仕方がない。

何度も言うことで、ようやく娘も長袖長ズボン+コートを着てくれた。
洗脳が解けたかどうかはわからないが、まずは呪縛を解く行動をとることが必要だ。



……みたいなことを、二十分の一ぐらいに希釈して保育士への連絡ノートに書いた。

「いつもお世話になっております。ふざけたことをぬかさないでいただくようお願いいたします」みたいな感じで。

そしたらすぐ連絡があって、すんませんまちがってましたすぐ改めます、とめちゃくちゃ丁重に詫びられた。

……なんだかなあ。
それはそれで腑に落ちないというか。

「いやあなたはそういいますけどやはり薄着で過ごすことが大事だと私たちは考えるんですよ!」みたいな気概はないのかよ。
おまえら確固たる信念もなしに、他人に薄着で寒い中過ごすことを半ば強要してたのかよ。それただの虐待じゃん。

プロの保育士として信念があるんだったらちゃんとそれを主張しろよ、と。
信念がないんだったらはじめっから他人に自分の価値観を押しつけんなよ、と。

そんなふうにおもうわけです。
我ながらめんどくせえ保護者だなあ。



2019年12月5日木曜日

ニュートンのなりそこない


うちの次女。
こないだ一歳になった。
よちよちと歩くようになり、すれちがう人みんなに笑顔をふりまき、パーとかアイーとかの音を発するようになり、どこをとってもいとをかし。百パーセント癒しだけの存在だ。ウンコすらかわいい。

そんな彼女、近ごろは物理法則に興味を持ちだした。
机の上にあるものをひきずりおろしたり、箱を逆さにして中身をぶちまけたり、コップをひっくりかえしてお茶をこぼしたり、飽きもせずにそんなことをくりかえしている。
エントロピーが増大する一方なのでやめてほしいのだが、まあこれも彼女の正常な発達のために必要なんだろうとおもって基本的にはあたたかく見守っている(液体をこぼそうとするのは止めるが)。

こういう作業を何十回、何百回とくりかえすことによって
「これぐらい力を弱めると手からものが落ちる」
「ものを持っている手を離すととこれぐらいの速さで下に落ちる」
「液体は低い方に向かって流れる」
といった物理法則を経験的に学んでゆくのだろう。



ここでぼくはニュートンにおもいを馳せる。


ニュートンが「なぜものは下に落ちるのだろう」と疑問を持ったとき、周囲の人たちはどんな反応をしただろう。

「なるほど。言われてみればふしぎだ。何か大きな力がはたらいているのかもしれない。その力がなんなのか、どれぐらいの大きさなのか、気になるところだ」
……とはならなかっただろう。まちがいなく。

「は? 上から落としたら下に落ちるにきまってるだろ。わけのわからないこと言ってないで働け」

「なに赤ん坊みたいなこといってるんだ。落ちるから落ちる、それが答えだよ」

「だったらおれが教えてやるよ。おまえがクズだからそんなことを疑問におもうんだよ! わかったら働け!」

みたいなことを言われていたはずだ、ぜったい。
かわいそうなニュートン。

いや、ニュートンはまだいい。
そんな反応を受けながらも彼は研究に打ちこみニュートン力学を確立して後世に名を残したのだから。

ほんとうにかわいそうなのは、「なぜものは下に落ちるのだろう?」という疑問を持ちながらも「そんなこと考えるひまあったら働け」という声に負けて、研究の道をあきらめた数多くの、そして無名のニュートン予備軍たちだ。
もしも「たしかにふしぎだね。その理由をつきつめてみたらすごい発見につながるかもしれないよ」と言って背中を押してくれる理解者がいれば、彼らのうちの誰かがニュートンになっていたかもしれないのに。

そんな気の毒なニュートンのなりそこない。彼らと同じ道を我が子に歩ませないために、我が子がわざと食卓にお茶をこぼしてぬりひろげているのをぼくは今日もあたたかく見守る。
……でも液体はやめてくれって言ってるだろ!


2019年12月4日水曜日

【読書感想文】人間も捨てたもんじゃない / デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

戦争における「人殺し」の心理学

デーヴ=グロスマン (著)  安原 和見 (訳)

内容(e-honより)
本来、人間には、同類を殺すことには強烈な抵抗感がある。それを、兵士として、人間を殺す場としての戦場に送りだすとはどういうことなのか。どのように、殺人に慣れされていくことができるのか。そのためにはいかなる心身の訓練が必要になるのか。心理学者にして歴史学者、そして軍人でもあった著者が、戦場というリアルな現場の視線から人間の暗部をえぐり、兵士の立場から答える。米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍軍士官学校の教科書として使用されている戦慄の研究書。

戦争について考えるたびにおもう。
自分が戦争に行くことになったらどうしよう、と。
もちろん「殺される」恐怖もあるが、「殺す」恐怖もある。どちらかといったら「殺す」恐怖のほうが強いかもしれない。
ぼくが最後に人を殴ったのは中学一年生のとき。たあいのない喧嘩で。本気じゃない。怪我させるつもりすらなかった。それ以来、人を殴ったことはない。
そんな自分が戦場に出向いたとき、はたして見ず知らずの相手に向かって引き金を引けるのだろうか。

また、周囲の人間についても想像する。
自分の友人のアイツや同僚のアイツも、戦争に行ったら敵兵をばんばん撃ち殺すんだろうか。気のいいアイツらが戦場に行けば冷徹な殺人マシーンに変わるのだろうか。
ぼくのおじいちゃんも戦地に行ったそうだが、あの優しいおじいちゃんも敵兵を殺したんだろうか(ぼくがその疑問をぶつけることのないままおじいちゃんは亡くなってしまった)。

だとしたら、戦場のいったい何が人間をそこまで変えるのだろうか。



『戦争における「人殺し」の心理学』は、ぼくの長年の疑問に答えを示してくれた。

まずぼくが根本的に勘違いしていたことだが、戦場に行ったからといって人は殺人マシーンに変わらないということだ。
 第二次世界大戦中、米陸軍准将S・L・A・マーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちに戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士一○○人のうち、平均してわずか一五人から二〇人しか「自分の武器を使っていなかった」のである。しかもその割合は、「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
 マーシャルは第二次大戦中、太平洋戦域の米国陸軍所属の歴史学者であり、のちにはヨーロッパ作戦戦域でアメリカ政府所属の歴史学者として活動した人である。彼の下には歴史学者のチームがついていて、面接調査に基づいて研究を行っていた。ヨーロッパおよび太平洋地域で、ドイツまたは日本軍との接近戦に参加した四○○個以上の歩兵中隊を対象に、戦闘の直後に何千何万という兵士への個別および集団の面接調査が行われたのである。その結果はつねに同じだった。第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか一五から二〇パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。
最前線に立って、敵兵を目の前にして、殺さなければ自分や仲間が殺されるかもしれない状況において、手元には弾の入った銃があって、それでも大多数の兵士は敵を撃たないのだという。
熾烈を極めた第二次世界大戦の戦闘ですら、発砲した兵士は銃を持っていた兵士の15~20%ぐらい。その中の大半は空に向かって撃つなどの威嚇射撃だったので、敵兵めがけて撃った兵士は全体の2~3%ぐらいだったというのが著者の見立てだ。

これを知ってぼくは安心した。
なんだ、人間もそこまで捨てたもんじゃないな。
ああよかった。人間は基本的に殺人が嫌いなのだ。

積極的に敵兵を殺す2~3%の人間にしても、イコール快楽殺人者というわけではないようだ。
 面接調査に応じたある復員軍人はこう語ってくれた。彼の考えでは、世界の大半は羊なのだ。優しくておとなしくて親切で、真の意味で攻撃的になることはできない。だがここに別の種類の人間がいて(彼自身はこちらに属する)、こちらは犬である。忠実でいつも油断がなく、環境が求めればじゅうぶんに攻撃的にもなれる。だがこのモデルにならって言えば、この広い世界には狼(社会病質者)や野犬の群(ギャングや攻撃的な軍隊)も存在するわけで、牧羊犬(兵士や警察)は環境的にも生物的にもこれらの野獣に立ち向かう傾向を与えられた者だ、ということになる。
彼らは攻撃的な資質は持っているが、あくまで「殺してもいい状況になれば殺せる」なので、兵士や警察官といった職業につけばむしろ英雄として社会から受け入れられやすい。
もちろん反社会的勢力に属した場合はたいへん危険な存在になるわけだが、それは彼ら自身の罪というより社会の責任の話だろう。


水木しげる氏の戦争体験談で、「ぼくは臆病だったので戦闘になってもすくみあがってしまって何もできなかった」というようなことを書いていたが、水木しげる氏だけが特に臆病だったわけではなく、あれこそが標準的な行動だったのだ。
「さあ戦闘だ。敵を撃つぞ!」と思えるのはごくごく少数の人間だけなのだ。

多くの兵士は戦争を通して精神病になる(戦いが長期化するとほぼ全員が精神に支障をきたす)が、空襲を受けて家や家族を失った人が精神病になる割合は平時と変わらなかったそうだ。
つまり、「自分が殺されそうな目に遭う」よりも「敵を殺す」ほうが精神的な負担は大きい。
多くの兵士は人間としての尊厳を守り、他人を殺すぐらいなら死を選ぶ。なんて美しいんだ!いいないいな人間っていいな!



……ところが、面と向かっている相手を殺しにくい」だけで、条件を超えると殺人の抵抗はぐっと下がる。
チームで戦っているとか、あ仲間が殺されるとか、強い上官から命令されるとか、既に一人以上殺しているとかの条件がそろうと、殺人の敷居は下がるのだそうだ。

特に重要なのは「相手の顔を見なくて済むこと」で、対象との距離が離れれば離れるほど殺人は容易になるそうだ。
 圧倒的な音響と圧倒的な威嚇力で、火薬は戦場を制覇した。純粋に殺傷力だけが問題だったのなら、ナポレオン戦争ではまだ長弓が使われていただろう。長弓の発射速度と命中率は、銃腔に旋条のないマスケット銃よりはるかに高かったからである。しかし、中脳で考えている怯えた人間の場合、弓矢で「ヒュン、ヒュン」やっていたのでは、同じように怯えていてもマスケット銃を「バン!バン!」鳴らしている敵にはとてもかなわない。
 言うまでもなく、マスケット銃やライフル銃を撃つという行為は、生物の本性に深く根ざした欲求、つまり敵を威嚇したいという欲求を満足させる。と言うよりむしろ、なるべく危害を与えたくないという欲求を満たすのである。このことは、敵の頭上に向けて発砲する例が歴史上一貫して見られること、そしてそのような発砲があきれるほど無益であることを考えればわかる。
なるほど。
日本でも織田信長が火縄銃を使って戦いのありかたを変えたと言われているけど、単純な強さでいえばそんなに強くなかったんじゃないかな。
当時の銃は準備にも時間がかかっただろうし、命中率も高くなかっただろう。暴発の危険性だってあっただろうしね。
だが「相手をびびらせる」「殺人への抵抗を小さくする」という点で、銃は他の武器に比べて圧倒的に優れていたからこそ火縄銃戦法は成功を収めたのだろう。


太平洋戦争のとき、米軍のパイロットは空襲で日本本土に焼夷弾を落としていった。結果、多くの民間人が命を落とした。
攻撃を加えた米軍のパイロットが特別に冷酷非情だったわけではない。彼らだって、ナイフを渡され「これで民間人を百人殺せ」と言われたら、そんなことはできないと尻ごみしていたことだろう。たとえ相手が無抵抗だったとしても(いや無抵抗だったらなおさら良心がとがめたかもしれない)。

だが飛行機から焼夷弾を落とすのはナイフで人間の腹を切り裂くよりもずっとかんたんだ。
飛行機からは姿の見えない敵、自分がやることは相手の肉を切り裂くことではなくボタンを押すだけ、そういう「抵抗の少なさ」が大量殺人を可能にしたのだ。


だから近代の軍隊がおこなう訓練は、銃の命中率を高めるとかのテクニック的訓練よりもむしろ「人を殺したくない気持ちを抑えこむ訓練」に力を注いでいる。
 こうして第二次大戦以後、現代戦に新たな時代が静かに幕を開けた。心理戦の時代──敵ではなく、自国の軍隊に対する心理戦である。プロパガンダを初めとして、いささか原始的な心理操作の道具は昔から戦争にはつきものだった。しかし、今世紀後半の心理学は、科学技術の進歩に劣らぬ絶大な影響を戦場にもたらした。
 SL・A・マーシャルは朝鮮戦争にも派遣され、第二次大戦のときと同種の調査を行った。その結果、(先の調査結果をふまえて導入された、新しい訓練法のおかげで)歩兵の五五パーセントが発砲していたことがわかった。しかも、周辺部防衛の危機に際してはほぼ全員が発砲していたのである。訓練技術はその後さらに磨きをかけられ、ベトナム戦争での発砲率は九〇から九五パーセントにも昇ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制の三方法の組み合わせだった。
人間としてごくあたりまえに持っている「人を殺したくない」という気持ちを抑えるために、ほとんど考えずに引き金を引ける訓練を近代軍はおこなってきた。いや訓練というより洗脳といったほうがいいかもしれない。

結果、第二次世界大戦 → 朝鮮戦争 → ベトナム戦争 と、回を重ねるごとにアメリカ軍の発砲率は飛躍的に向上した。

……ところが。
訓練によって発砲するまでの抵抗感は減らすことができたが、発砲した後、人を殺した後の嫌悪感までは減らすことができなかった。
かくして、ベトナム戦争に従軍した兵士たちは(アメリカ国内の反戦ムードもあいまって)帰国後に罪の意識に押しつぶされ、多くの兵士がPTSDなどの精神的不調に陥った。


なんちゅうか、軍隊ってそういうものなんだといわれればそれまでなんだけど、つくづく狂ってるなあ。
人間性を壊す訓練を施すわけだもんな。
そして戦いが終わったら「さあ前と同じように生活せえよ」と言われるわけで、殺されるも地獄、殺すも地獄、いやほんと戦争なんて行くもんじゃないよ。あたりまえだけどさ。



この本を読みながらおもったんだけど、自衛隊はいざ殺し合いとなったらめちゃくちゃ弱いだろうね。
だっておそらく自衛隊員たちは「殺すための訓練」を受けていないだろうから。それどころか「殺さないための訓練」しか受けていないだろう。

どれだけ装備や技術が優れていても、隊員たちが敵を撃たないんじゃ戦いに勝てるわけがない。
敵を殺せない自衛隊と「殺すための訓練」を受けてきた軍隊が向きあったら、もう1対100ぐらいの負け方をするはず(『戦争における「人殺し」の心理学』ではそういう例が紹介されている)。

だからいくら軍事費を上げたって、自衛隊は戦闘集団としてはまるで役に立たない。
その解決策としては
・だから自衛隊は軍であることを捨てよう
・だから自衛隊を正式な軍にして敵を殺す訓練をしよう
のふたつがある。
ぼくの意見はもちろん前者だけど……。後者を唱える人が増えているようにおもうなあ。戦争を知らないからなんだろうなあ……。
そういう人にはぜひ『戦争における「人殺し」の心理学』を読んで自分が帰還兵になった気持ちを想像してほしい。



この本にはあまり書かれていないけれど、人を殺すための条件として「年齢」はかなり重要だとおもう。

ぼくも小中学生のときは「あいつ殺したい」とか「死ねばいいのに」とかよくおもっていた。
もしも当時のぼくがデスノートみたいな「こちらの身は安全で絶対にバレない殺害方法」を持っていたら、ばんばん教師や級友を殺していたとおもう。

でも今はそこまでおもわない。殺したいほど憎んでいる人はいないし「死ね」と呪うこともない。
せいぜい「あいつ会社クビになればいいのに」「あいつ逮捕されねえかなあ」「たちの悪い病気になればいいのに」ぐらいで、子どものときに比べればずっと穏健な思想になった(卑屈ではあるが)。
嫌いなやつに対しても「まああんなやつでも死ねば悲しむ人もいるだろうから死ぬことはあるまい」ぐらいの優しさは抱けるようになったのだ。

たぶんぼくだけでなく、子どもはそういう生き物なんだとおもう。ブレーキのかけどころを知らない。だから子どもに銃を持たせたらカッとなっただけですぐにぶっ放しちゃうとおもう。

ゲリラやテロ集団が少年兵を育成するのも、少年のほうが「人を殺したくない」という気持ちが弱いからなんだろう。

未来の戦争は「子どもがゲームをする感覚で敵を殺せる兵器」が活躍するんだろうなあ。いや、もうあるのかも……。



この本、中盤まではおもしろかったんだけど(ちょっと冗長ではあるが)、最終章はいらなかった。
「アメリカ国内には暴力的なゲームや映画が増えている。そのせいで暴力行為への抵抗感がどんどん下がっている!」
みたいな話が延々と。
いや「もしかしたらそうなんじゃないかとわたしは危惧している」ぐらいだったらいいんだけどね。たしかなデータもなしに断言されても。

最終章は完全に蛇足。
これで評価を落としたなあ。

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生きる昭和史/ 小熊 英二 『生きて帰ってきた男』【読書感想】

若い人ほど損をする国/NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』



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2019年12月3日火曜日

【食レポ】監獄ラーメン

(この文章は実在のお店とは何の関係もありません)

歩く。どこで飯を食おう。
一蘭という看板が目に入る。一蘭。聞いたことある。有名ラーメン店じゃないか。
食にこだわりのないぼくでも聞いたことのあるお店なのだからよほどうまいのだろう。

細く暗い階段を降りると目の前には食券の自販機が。
ラーメンが九百円。む。高い。
ちょっとためらうが、すでにぼくの後ろからは新たな客が降りてきている。引き返しづらい。
ラーメンの券を買って席に着く。

自販機の横には細い廊下がある。ラーメン屋に廊下?
ホテルじゃあるまいし。
廊下を進んで、驚いた。
テーブルと椅子がずらり。席と席の間には仕切り板。

これは。
うわさには聞いたことがあるが、実物を見たのははじめてだ。
「ラーメンに集中できるように席と席の間が仕切られているこだわりのラーメン屋」じゃないか!
まさか実在するなんて。

緊張しながら席に着く。
どこかで見た光景。そうだ、高三のときに夏季講習で行った予備校だ。予備校の自習室だ。
目の前には紙が一枚。オーダー用紙らしい。
麺の硬さ……(やわらかめ・ふつう・かため)みたいな選択肢がいくつも並んでいる。
設問に次々に答えてゆく。センター試験を受けたときのことをちらりと思いだす。

目の前にボタンがある。ボタンを押すと目の前の扉が開いた。どうやらそこは通路になっているらしい。
店員が出てきた。が、店員の顔は見えない。扉の高さは低く、店員の手元しか見えない。これもラーメンに集中できるようにする配慮なのだろう。

これはもう個室だ。
まさかラーメン屋に入って個室に案内されるとはおもわなかった。
席にひとつずつ蛇口までついている。「ラーメンに最適な厳選した水が出ます」と書かれている。うむ。しゃらくせえ。

傍らにはメモ用紙が置かれている。
なんでも「店員に伝えたいことはこちらに書いて提出することもできます。ラーメンに集中できるように」とのことだ。なるほどなるほど。しちめんどくせえ。

おそるおそる周りを眺める。緊張する。人がラーメンに集中しているのをじゃまするなと怒られるのではないだろうか。
意外とカップルや友人同士の組み合わせもいる。小さい声で会話をしている。
こんなカプセルホテルみたいなラーメン屋に来るカップルがいることが信じられない。そういうプレイを楽しんでいるのか?

なんだかまるで監獄に入ったような気分だ。
そのとき目の前の扉が開いた。
「23番、メシだ!」
番号で呼ばれ、目の前にどすんとラーメンが置かれる。そうだった、ぼくはこの監獄に収監されたのだった。

さあ食おうとプラスチックのスプーンを手に取り……スプーン?

ボタンを押す。扉が開いて店員が姿を現す。といっても手元しか見えないのだが。
「あの……」と言いかけると店員がメモ用紙を指さす。そうだった。私語は禁止なのだ。
あわててメモ用紙に鉛筆を走らせる。芯が丸まっているので書きづらい。
「お箸をください」
と書いて渡すと、店員が低い声で言った。
「だめだ、当店では先の尖ったものの使用は禁止されている。自殺に使われるおそれがあるからな」

おまえはしゃべるんかい。
「せめてフォークを」
と書きかけたところで目の前の扉が閉まった。規則は厳しい。
もう一度看守を呼ぼうかとおもったが、これ以上抗議して懲罰房に入れられたらかなわない。あそこに入れられたら一週間麺ののびきったラーメンしか食べさせてもらえないのだ。

しかたない。スプーンで食うしかない。
まずは丼をもってスープをすする。
うまい……。冷えていない。味がついている。こんなうまいものをこの監獄で食えるなんて。

スプーンで麺をたぐりよせ、慣れぬ手つきで口元にたぐりよせる。
うまい……。いつもの粉っぽいパンと具のないスープとは大違いだ。この監獄であたたかくて味のついている食事をとらせていただけるなんて、ぼくはなんて幸せなんだろう。
身体の芯からあたたまる。すきま風の吹きこむ独房にラーメンのやさしい香りがあふれる。
なんてすばらしいお店なんだ、一蘭。


2019年12月2日月曜日

かわいそうおばさん


妻が言う。
「二人目の育児になってから、“かわいそうおばさん”が寄ってこなくなった」

 「かわいそうおばさん? なにそれ?」

「赤ちゃんを連れて歩いていると、やたらとかわいそうかわいそうっていうおばさん。ひとりじゃなくて複数いる。『寒いのに外に連れだされてかわいそうねー』とか『あらー。泣いてるの。かわいそうねー』とか言ってくるの」

 「えっ、なにそれ。子どもは寒くたってお出かけが好きだし、赤ちゃんが泣くなんてごくごくふつうのことなのに」

「そう。今ならそうおもえるんだけどね。でもこっちははじめての子育てでいろいろ神経質になってるから、いちいち気にしちゃうのよねえ。自分の子育ては良くないのかもしれない、って」

 「その人たちは何が目的なんだろう」

「さあ。おまえの子育てはなってないって言って優越感にひたりたいんじゃない? だっこして歩いてたら『あらー。おんぶじゃなくてかわいそうねー』って言われたこともあるからね」

 「えええ。だっこがかわいそうなんだ。そういう人は、おんぶしてたらしてたで『だっこじゃなくてかわいそうねー』って言うんだろうね」

「だろうね。でも、そういうオバハンは気にする必要ないっておもうようになったら、向こうから寄ってこなくなった。はじめての育児で不安になってる母親ばっかり狙うんだろうね、かわいそうおばさんは。きっと弱ってるにおいをかぎわけるのよ。サメがケガした獲物の血のにおいに集まってくるように」

 「こえー。でもぼくもよく赤ちゃん連れて歩いてたけど、そんなおばさんには会ったことないなー」

「あいつらは弱い獲物しか狙わないからね。男の人のところには行かないのよ」

 「こえー。でもそうやって弱っているお母さんを狙って攻撃せずにはいられないなんて、きっとそういうおばさんたちは子育てでいろんなイヤな思いをしたんだろうね。だから後輩をいたぶらずにはいられない」

「先輩からしごかれつづけたから、自分が三年生になったときに後輩を殴るみたいな」

 「“かわいそうおばさん”が本当に『かわいそう』と言いたいのは過去の自分なのかも」

「そう考えると“かわいそうおばさん”こそがかわいそうな存在……とはならないからね! 自分がイヤな目に遭ったからって若い母親をいじめていいことにはならんわ! ×××××(書くのもはばかられる悪口)!」


ということで、幼い子どもを持つおかあさん。
“かわいそうおばさん”はほうっておくのがいちばんです。
もしくは「泣いてるの。かわいそうねー」と言われたら

そうなのよ、今日はあいにくいつも面倒を見てくれてる召し使いがお休みをとっちゃって。ばあやがいなくてほんとにかわいそうだわオホホホホ!

ぐらいのことを言って撃退するのがいいんじゃないっすかね。


2019年11月29日金曜日

【読書感想文】人はヤギにはなれない / トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』

人間をお休みしてヤギになってみた結果

トーマス・トウェイツ(著)  村井 理子(訳)

内容(e-honより)
仕事はパッとしないし、彼女に怒られるしで、ダメダメな日々を送る僕。いっそヤギにでもなって人間に特有の「悩む」ことから解放されることはできないだろうか…というわけで本気でやってみました。四足歩行の研究のためにヤギを解剖し、草から栄養をとる装置を開発。医者に止められても脳の刺激実験を繰り返し―。イグノーベル賞を受賞した抱腹絶倒のサイエンス・ドキュメント。

トーマス・トウェイツ氏の『ゼロからトースターを作ってみた結果』がめったらやたらとおもしろかったので(感想はこちら)、同じ著者の別プロジェクトであるこちらも購入。

『ゼロからトースターを作ってみた結果』もそうだったけど、このまとめサイトみたいなタイトルはどうにかならんかったのか(原題は『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』)。
いや興味を惹かせるという点では悪くないんだけど、「結果」はないだろう「結果」は。トースター・プロジェクトもそうだけど、結果じゃなくて過程を楽しむプロジェクトなんだからさ。


誰しも「人間以外の動物に生まれ変わったら楽だろうな」なんて考えたことがあるだろう。
ぼくも一時間に一回考えている(すぐ精神科行ったほうがいい)。

セミとかはいやだけど、来世も人間がいいですか、それともちゃんと世話をしてもらえる家の飼い猫にジョブチェンジしてみます? と訊かれたら本気で悩んでしまう。



『人間をお休みしてヤギになってみた結果』は、トーマス氏がヤギとして生きる(四つ足で丘を越えて草を食べる)ためのチャレンジを書いた本だ。

これもおもしろそう! とおもったのだが……。

うーん……。
『ゼロからトースターを』はその行動力に感心したものだが、『ヤギになってみた』はなかなか動きださないんだよね。
シャーマンを訪れて話を聞いたり、ヤギと人間を分けるのは何かと思索をくりかえしたり、ヤギを育てている人に話を聞きに行ったり……。
ぜんぜんヤギにならないんだよね。

ヤギになるのは終盤も終盤。
ヤギに囲まれて義足みたいなのをつけた人間が四つ足で歩いている写真はおもしろいけど、肝心の心境の変化はほとんどつづられていない。
痛いとか疲れたとかばかりで、そりゃそうだろうな、そんなのやってみなくてもだいたい想像つくよ。
結局「ヤギになってみた結果」ではなく「人間が四本足で歩いて草を食べてみた結果」だった。がっかり。



とまあプロジェクト自体はあまり実りのあるものではなかったけど、ヤギとヒトを分けるものについてあれこれ考えていく中にはおもしろいところもあった。
それに加えて、これはすべての種に見られることだが、家畜化は脳の萎縮をまねく。犬の脳は狼の脳より小さく、一般的な家畜のヤギは野生のヤギよりも小さな脳を持つし、豚の脳はイノシシの脳より小さい。そして興味深いことに、過去三万年間において、人間の脳も萎縮しているのだ。実際のところ、ホーレンシュタイン・シュターデル洞窟のライオンマンを彫った人間は、我々と比較して、テニスボール一個分大きい脳を持っていたのだ。彼らはまた、我々よりも体格がよく、大きな歯と、よりしっかりとしたあごを持っていた。
 この進化のパターンは、人間も家畜化のプロセスを辿っており、凶暴さをそぎ落とされる方向に淘汰されつつあるという、興味深い考えに行きつく。ただし、人間を家畜化したのは、人間自身なのだ。この自己家畜化プロセスは、どのように行われたのだろう? ハーバード大学の生物人類学教授のリチャード・ランガム氏によれば、それは以下のようになされた可能性があるという。誰か(怒っている若い男性の場合が多い)が、その暴力的な気質で集団を混乱させ続ける場合、集団の残りのメンバーは団結して、その若い男に対処しようと決める。そして不穏なことが起こる。集団の残りのメンバーたちは結託して彼の頭に岩を打ちつけたり、崖から突き落としたり、槍で突き刺したりするというわけだ。手荒いやり方ではあるが、問題は解決する。

現代人の脳は、ネアンデルタール人よりも小さいのだそうだ。
そういや島 泰三『はだかの起原』にも同じことを書いていた。

ふうむ。多くの人は現代人が地球史上いちばん賢いとおもっているけど、じつはそうではないのかもしれない(賢さの定義をどう決めるかによるだろうけど)。
自分でエサをとらなくてもいい環境がそうさせるのか、賢すぎる個体は社会で生きづらいのか、ただ単に経年劣化しているだけなのか……。

ということは今後どんどん脳は縮小していくんだろうか。有史以来ずっとくりかえされてきた「最近の若いやつは……」は意外と正しかったのかもしれない。



ヤギの生活をするためにはただよつんばいになればいいとおもってたんだけど、そもそも人間はよつんばいで生きていくことはできないのだそうだ。
「その通り。僕らはものごとを快適にして痛みを軽減することはできるけれど、体の各部位にかかる圧力を減らすことはできない。その圧力が君を破壊するってわけだ」
 破壊なんて強い言葉だけれど、でも彼らはゆずらなかった。それじゃあ、義足をつけてマラソンを走った男性は?
「それは素晴らしいことだな」とジェフは言った。「でも、臨床的観点で言うと、狂気の沙汰だ。マラソンが終わった後の足の状態を見てみたい。フニャフニャになるまで叩いたハムみたいになっているはずだ。しかしそうだったとしても、そのランナーは二本足で立っていたわけだ。君の場合は問題が山積みだよ。例えばどうやって頭を上げておく? めちゃくちゃ辛いはずだ。ヤギには人間よりも強い項靱帯というものがある。それは、ピンと張ったロープのようなもので、首の後ろ側にあって、それがあるおかげで頭を上げておくことができるんだ。でも君にはそれがない。それから、たとえ項靱帯のような装具を作ることができても、君はそれを作るべきじゃないと思う。だって快適過ぎてしまうから。君には疲れてもらわなくちゃならない。疲れることで、止まることができるからね。長期間頭を上げ続けて、神経や頭への血流に影響を与えることを避けないと」
ヒトも大昔は四足歩行する動物だったんだろうけど、それは遠い昔。今さら四足歩行には戻れないのだ。

そういや昔から「オオカミに育てられた子」という言い伝えがある。ローマ神話のロームルスとレムスだったり、有名な例だとアマラとカマラだったり、フィクション作品にも数多く出てくる(ぼくがすぐ思いうかべたのは手塚治虫『ブッダ』のダイバダッタ)。
でもどれも信憑性に乏しいらしい。少しだけ行動を共にするぐらいはあっても、人間はオオカミの行動ペースについていけないのだそうだ。


ということで、人間はヤギにもオオカミにもなれない。残念ながら人間として生きていくしかなさそうだ。
とりあえず現世は。

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【読書感想文】最高! / トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

【読書感想文】悪口を存分に味わえる本 / 島 泰三『はだかの起原』



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2019年11月28日木曜日

【読書感想文】たのむぜ名投手 / 藤子・F・不二雄『のび太の魔界大冒険』

のび太の魔界大冒険

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
「もしも……魔法の世界になったら!!」。魔法が使えることを夢見るのび太が、もしもボックスでそう願うと、次の日の朝には、街の空は空飛ぶじゅうたんでいっぱい!!ママは指先から光を出して朝食を作り、小学校では物体をうかす授業をしている。そう、本当の魔法世界になったのだ!!そんななか、のび太とドラえもんは魔界博士の満月先生とその娘の美夜子に出会い、博士の魔界接近説を聞いた。魔界が接近して地球をほろぼすというのだ。にわかに信じがたいのび太たち。だが、次の日、再び満月博士の家を訪ねると、博士の家が跡形もなく消えていた!!すべてが謎のまま夜を迎えると、昼間からのび太たちのそばにいた不思議なネコが、月の光を浴びて、美夜子になった!!彼女は博士が魔物にさらわれたと言い、いっしょに魔界に乗りこんでほしいと哀願する。さあ、どうする!?のび太、ドラえもん!!仰天摩訶不思議の大長編シリーズ第5弾!!
小学生のときに買ってもらって、何度もくりかえし読んだ本。
娘がドラえもんを読むようになったので、娘といっしょに読んだ。二十数年ぶりに。

いやあ、やっぱりおもしろい。
これは大長編ドラえもんの中でも最高傑作だ。

まずなにがいいってドラえもんがふつうに道具を使えること。
大長編ドラえもんって、たいていドラえもんの道具が使えなくなるんだよね。
いろんな事情で使える道具に制約がかかる話が多いんだけど、魔界大冒険はもしもボックス以外は使える(もしもボックスも終盤でドラミちゃんが持ってくるので使えるようになる)。道具を使えるのに倒せない敵、ってのがいい。敵の強大さがはっきりわかる。

やっとの思いで大魔王のところにたどりついたのに、あえなく一蹴されるとことか。
タイムマシンやもしもボックスといった反則級の能力を持つ道具を使ってもどうにもならなくなる絶望的な展開とか。
石ころ帽子をかぶっての緊張感ある潜入シーンとか。
ハッピーエンドかと思わせておいてもう一度ひっくりかえす裏切りとか。
とにかくハード。何度も絶望させられる。だからこそ、最後の最後で大魔王を倒したときのカタルシスはすごい。
「たのむぜ名投手」このセリフもしびれるし、期待に見事応えてみせるジャイアンはほんとにかっこいい。

誰もが空想したであろう「もしも魔法が使えたら」という導入の自然さから、楽して魔法が使えるわけではないというせちがらさを経て、徐々にのび太が魔法を使えるようになってゆく姿も王道冒険ストーリーもいい。
この展開で心躍らない子どもはいないでしょ。

のび太とドラえもんが喧嘩して仲直りするシーン、美夜子さんがのび太を信じて後を託すところなど、些細な心の動きを丁寧に描いているのも名作たるゆえん。

石像、帽子の星、最後のオチなど、伏線の張り方も自然で、SFとしても完成度が高い。
ちょっと絶賛しすぎかなと自分でもおもうが、褒めるところしかないのだ。

あと悪役が魅力的なのもいい。大魔王はちょっと印象に残らないけど、星の数で張り合う魔界の連中は妙に人間くさくていい。

そしてなんといってもメジューサ。
ドラえもん映画史上もっともおっかない敵じゃない?


子どものときはトラウマになるぐらいこわかった。今読んでもやっぱりこわい。
最恐にして最強。
だって
・空を飛べる(しかも速い)
・時空の流れに逆らって飛べるのでタイムマシンで逃げても追いつかれる
・人間を石にする
・石にされた人間は動けなくなるが意識だけは残る
と、とんでもない凶暴性。弱点もない。

なによりおそろしいのは、こいつはドラえもんとのび太を石に変えた後、どこへともなく姿を消して二度と現れないってことだ。大魔王は倒されたことがはっきりと描かれるが、メジューサの行方は最後までわからない。パラレルワールドではまだ生きているにちがいないとぼくはおもっている。

今も時空のはざまでうなり声を上げながら人々を石に変えるために飛びまわってるのかもしれない……。


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【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』



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