何度も観た『となりのトトロ』だけど、ひさしぶりに観てみたら新たな発見だらけだった。
ぼくは現在、ふたりの娘の父。
かつてはサツキやメイの立場で観ていた『となりのトトロ』も、今ではおとうさんの視点で観てしまう(たぶんサツキとメイのおとうさんはぼくより若い)。
いちいち感動して泣いてしまう。
それも、なんでもないシーンで。
たとえば病院におかあさんのお見舞いに行った帰りに
サツキが「メイは大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの!?」と言い、
メイが「おかあさんはいいの」と返すシーン。
ああ。
メイもがんばってるんだよなあ。おかあさんが入院した当初は、毎晩寝る前に泣いていたんだろうなあ。サツキは自分も寂しいのに「メイのそばにいてあげる」という役割を自らに課すことで寂しさをまぎらわせていたんだろうなあ。
そんな日々を乗りこえて「大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの?」という冗談を言いあえるようになったんだねえ。ふたりともよくがんばったねえ。
おとうさんが大学に行く日だからおばあちゃんにメイを預けたのに、メイが寂しくなって小学校に来ちゃうシーン。
我慢しなくちゃいけない、いい子にしていなくちゃいけないと思いながらも、やはり耐えきれなくておねえちゃんに会いにいってしまう。だけどわがままを言ってはいけないとも思っているから、おねえちゃんを前にすると何も言えない。
しょうがないよ、まだ四歳だもん。メイちゃんはよくがんばったよ。
病院に行ってサツキがおかあさんに髪を結ってもらうときの表情。
サツキはおかあさんと話しながらはにかんでいる。メイに対するときの「姉の顔」とはまったくちがう。おとうさんにも見せない顔。おかあさんだけに見せる、こどもの顔。
おかあさんの退院が延びたと聞かされたときのサツキとメイの喧嘩。
ずっと我慢して退院の日を心待ちにしていたのにそれが先になると聞かされたメイの悲しみ。
おかあさんの病気が重いのではという不安に押しつぶされそうになりながらも、懸命に「しっかり者の姉」という役割を果たそうとする、けれど折れてしまいそうになるサツキの心細さ。
ついでに、好きな子が困っているからなんとかしてあげたいけど自分の立場では何もできないカンタのもどかしさ。
子どもの頃に読んだときには気づかなかった心の動きに胸がしめつけられる。
しかし、ぼくがいちばん感情移入をしてしまったのはカンタのおばあちゃんだった。
メイが行方不明になったときのおばあちゃんの心境を思って、ぼくも心がつぶされそうになった。
「ばあちゃんの畑のもんを食べりゃ、すぐ元気になっちゃうよ」
と言ってしまったせいで、メイがトウモロコシを持って病院に行ってしまった。
「メイちゃんはここにいな」
と言ったにもかかわらずメイは駆けだしてしまった。
そして今、メイがいなくなった。
池からは女の子のサンダルが見つかった……。
幼い子どもを持つ親として、おばあちゃんの心境が痛いほどよくわかる。
子どものときはなんとも思わなかったが、四歳の子が行方不明になるというのはとんでもないことだ。まっさきに命の心配をする。
あのとき「すぐ元気になっちゃうよ」なんて言わなければよかった。励ますために言ったつもりだったが、おかあさんの退院を心待ちにしている四歳の子に言うには無責任すぎる言葉だった。
あのとき、むりやりにでもメイの手をつかんで止めていれば……。
もしものことがあったら一生悔やんでも悔やみきれない。
ばあちゃんは自分のことをずっと責めていただろう。
自分のせいで小さい子が死ぬなんて、自分が死ぬことよりもおそろしい。
サツキの到着を持っているときのばあちゃんの「ナンマンダブナンマンダブ」には魂の祈りが込められている。
だからばあちゃんはサツキの「メイんじゃない」にどれだけ救われただろう。
池の中をさがしていた男の人(おそらくばあちゃんの息子)からは「なんだぁ。ばあちゃんの早とちりか」と"人騒がせなばあさん"扱いされたが、その言葉にどれだけ安堵しただろう。自分が人騒がせなばあさんになっただけで良かったと心から思っただろう。
そして、メイはもちろん、サツキも、おかあさんもおとうさんも、おばあちゃんがどれだけ祈っていたかを知らないんだろうなあ。
でもぼくはわかっているからね、おばあちゃん。ぐすっ。
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