2020年12月31日木曜日

ツイートまとめ 2020年5月

コロナ禍

擬音語

宿題

変わり者

あと猫の鳴き声と

リツイートラッシュ

未知と無知

2度漬け

反骨

タトゥー



公共性

否定形

ポケット

2020年12月28日月曜日

学校教育なんて進歩してるだけ

 娘が小学校に行くようになった。
 宿題をチェックするのだが、感じるのは「今の小学校でちゃんとしているなあ」ということ。


 たとえば、ひらがな。
 書き取りの宿題が出るのだが、先生のチェックはめちゃくちゃ厳しい。
 字形がちょっとでもくずれていたら「おなおし」のチェックが入る。翌日また書いてこなくてはならないのだ。
「か」という文字だと、ノートのマス目を四分割して、左上の部屋と左下の部屋の真ん中の線から出発して、右上の部屋を経由して、右下の部屋ではねて……と事細かに決められていて、少しでもずれていたら「おなおし」だ。

これだと「おなおし」の対象


 厳しいなーとおもうけど、でもそれぐらいきっちり教えてくれるほうがいい。
 しかも「きれい」「きたない」じゃなくて、「右上の部屋を通っていないからダメ」と客観的な基準に基づいて指導してくれるのがすばらしい。

 ぼくが子どもの頃なんか「読めればいいじゃん」と読むことすらままならない字を書いていた(そして先生もがんばって解読してくれていた)ので、ずっと字が汚いままだった。

 自然にくずれていくことはあっても自然にきれいになっていくことはないのだから、はじめは厳しく教えてくれたほうがいい。
 おかげで娘は教科書体みたいなきれいな字を書くようになった。


 この前、作文の宿題が出された。課題は遠足のこと。
 そこでも、きちんと作文の構成を伝えられていた。

 まず「遠足に行った」と全体の説明をして、「何をしたか」を時系列に沿って書いていき、「特に印象に残ったこと」を挙げ、「なぜそれが印象に残ったのか、自分はどう感じたのか」を書き、最後に「今回の遠足の印象はどうだったのか」で締めるように、と指導されているらしい。
 そして最後にタイトルをつけるように、とも言われているらしい。

 すばらしい。
 ぼくらのときは「段落のはじめは一字下げる」とか「句読点が行の先頭に来てはいけない」といった文章を書く上での決まりごとは伝えられていたが、内容に関してはぜんぜん指導してもらった記憶がない。
「『せんせい、あのね』で書きはじめてあとはおしゃべりするように書きましょう」みたいな適当な指導だった。今考えるとろくでもねえやりかただな。指導でもなんでもない。


 もちろん「まず概要を伝えて、出来事を伝えて、特に印象に残ったことを書いて……」というのは唯一の正解ではない。
 他人に読ませる文章を書くなら、話のピークや違和感を与えることをあえて冒頭に持ってきたほうが惹きつけられる。
 とはいえはじめて作文を書く小学一年生は基本の型通りの文章で十分だ。まずは身体の正面で両手でキャッチできるようになってから、片手で捕ったり身体をひねりながら捕球したりするものだ。




 ぼくもやってしまいがちだけど、「学校の教育なんて……」といちゃもんをつける人は「自分が教育を受けたときの印象(のうち自分がおぼえている部分だけ)」で語っていることが多い。

 でも、改めて学校教育を見てみると、ちゃんと進歩している。
 よく「学校の体育の授業はとにかくやってみろと言うだけでテクニック的な指導をしてくれない」という話を耳にするし、ぼくも自分の体験に基づいて「ほんとそうだよね」とおもっていたけど、今の体育の授業を見ているわけではない。
 三十年前の記憶に基づいて語っているだけだ。

 三十年間刑務所に入っていて、昔の肩にかけるタイプの携帯電話しか知らない人が「携帯電話なんてぜんぜんダメだよ」と語っていたら滑稽でしかないだろう。
 それと同じことが教育の分野ではなぜかまかりとおっている。

 学校教育は変わっていないようで意外と進歩している。
 昔のイメージだけで批判しないように気を付けなければ。


 ま、ぼくが見ているのはサンプル数1なので、他のクラス・他の学校がどんな指導してるか知らないけど。


2020年12月25日金曜日

2020年に読んだ本 マイ・ベスト12

今年読んだ本の中のベスト12。

2020年に読んだ本は130冊ぐらい。今年はちょっと多かった。
コロナはあまり関係ない。むしろ通勤時間が減ったので読む時間は減ったかもしれない。にもかかわらず冊数が増えたのは読むスピードが速くなったからか? この歳で?

130冊の中のベスト12。
なるべくいろんなジャンルから選出。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ちなみに今年のワーストワンはダントツで、
 水間 政憲『ひと目でわかる「戦前日本」の真実』
でした。十年に一度のゴミ本( 感想はこちら )。



エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル
『カルチャロミクス 文化をビッグデータで計測する』


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 ノンフィクション。

 ありとあらゆる書籍データから、発行年ごとに使われている単語を集計。それをグラフ化することで、意外な事実が見えてくる。

 本に出てくる単語を数えているだけなのに、いろんなものや国の栄枯盛衰や、文法変化の法則、思想弾圧の歴史が見えてくる。



杉坂 圭介『飛田で生きる』



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 エッセイ。

 現代に残る遊郭・飛田新地(大阪)で料亭という名目の売春宿を経営していた人物による生々しい話。

 意外にも飛田新地の料亭は、暴力団は徹底的に排除、定められた営業時間はきっちり守る、料金は明朗、あの手この手で騙しての勧誘もしない……と、ものすごくまじめにやっているそうだ。
 売春は非合法なのに飛田が生き残っている理由がわかる。なんだかんだいっても今の社会に必要な場所なのだ。



ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』

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 ノンフィクション。

 人類の性行動は他の動物とまったく異なる。交尾を他の個体から隠れておこなう、受精のチャンスがないときでも発情する、閉経しても生き続ける……。ヒトの性行動は例外だらけだ。おまけにどれも、一見繁殖には不利なことばかりだ。

 この本で知ったのだけど、オスが子育てをする動物は決してめずらしくない。ヒトのオスが乳を出せるようになる可能性もないではないらしい。あこがれのおっぱいが自分のものに……(そういうことじゃない)。



朝井 リョウ『何者』

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 小説。

 就活をしていた時期は地獄の日々だった。就活の場では、ぼくは何者でもなかった。履いて捨てるほどいる学生の中のひとり。それどころかコミュニケーション能力の低いダメなやつ。自尊心が叩き潰された。

『何者』には当時のぼくのような登場人物が出てくる。何者でもないのに、他者より優れているとおもっているイタい人間が。
 おもいっきり古傷をえぐられた気分だ。やめてくれえとおもいながら読んだ。個人的にすっごくイヤな小説だった。それはつまり、いい小説ということでもある。



福場 ひとみ『国家のシロアリ』

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 ノンフィクション。

 信じたがたいことだが、東日本大震災の復興予算のうち莫大な金額が災害とはまったく無関係なことに使われていた。外交費用、税務署の庁舎整備、航空機購入費、クールジャパン振興費……。おまけに被災した自治体への支給は渋っておいて、国会議事堂の電灯を変えたりスカイツリーの宣伝に復興予算が使われていた。

 なんとも胸糞悪い話だが、これは事実なのだ。そしていちばんおそろしい話は、流用の責任を誰一人とっていないということ。

 おそらくこれからコロナウイルス関連予算も同じように無関係なことに使われるのであろう。だって誰一人責任をとってないんだもの。官僚が味をしめてないはずがない。



更科 功『絶滅の人類史 なぜ「私たち」が生き延びたのか』

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 ノンフィクション。

 人類700万年の歴史がこれ一冊に。

 ぼくは、ヒトが他の動物よりも優れているから今の地位を築いたのだとおもっていた。
 だがヒトの祖先は他のサルよりも弱かったからコミュニケーション能力が発達し、ネアンデルタール人よりも小さく脳も小さかったため、飢えに強く、道具を作ることができた。

 ホモ・サピエンスはぜんぜん優れた種族じゃないのだ。



ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

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 小説。

 言わずと知れた有名作品だが、やはり長く愛される作品だけあってすばらしい。特にラストの一文の美しさは強烈。物語すべてがこの一文のためにあったかのよう。まちがいなく文学史上トップクラスの「ラスト一行」だ。

 みんな頭が良くなりたいとおもってるけど、賢くなるのって幸せにはつながらないよね。娘を見ていてもつくづくそうおもう。



伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』


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 ノンフィクション。

 目が見えないことは欠点だと感じてしまうけど、目が見えないからこそ「見える」ものもあるということをこの本で知った。

 目が見えないことが障害になるのは、彼らが劣っているからではなく、社会が「目が見えること」を前提に作られているからだ。
 この先テクノロジーが進歩すれば、目が見えないことは近視や乱視程度の軽微なハンデになるかもしれない。



マシュー・サイド『失敗の科学』


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 ノンフィクション。

 多くの事例から、失敗が起きる原因、失敗を減らすシステムを導きだす本。全仕事人におすすめ。

 世の中には「まちがえない人」がたくさんいる。
 人気のある政治家やテレビのコメンテーターはたいていそうだ。「私の言動はまちがっていた」と言わない。
 こういう人は失敗から何も学ばない。学ばないから何度でも同じ失敗をする。

 トップに立つべきは「失敗しない人」じゃなくて「失敗を認められる人」であってほしいのだが。



櫛木 理宇『少女葬』


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 小説。

「イヤな小説」はけっこう好きなんだけど、そんなぼくでもこの小説は読むのがつらかった。
 イヤな世界に引きずりこまれる。

 二人の少女のうちどちらかが惨殺されることが冒頭で明かされるので、気になるのは「どっちが殺されるのか?」
 そうおもいながらサスペンスミステリとして読むと胸が絞めつけられる。

 決して万人にはおすすめできない小説。



坂井 豊貴『多数決を疑う』


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 ノンフィクション。

 ついつい「多数決=民主主義」とおもってしまいがちだけど、この本を読むと多数決が民主主義からほど遠い制度だとわかる。
 市民からいちばん嫌われている候補者が選ばれることもありうる制度。まったくいい制度じゃない。
 多数決のメリットはほとんど「集計が楽」だけといってもいい。

 政治家のみなさんは、そんなダメダメ制度によって選ばれただけであって、決して「民意を反映して」選ばれたわけではないとよーく肝に銘じてください。



M.K.シャルマ
喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』



 エッセイ。

 今年いちばんおもしろかった本。
 1992年に来日したインド人が見た日本。ユーモアが随所に光るし、観察眼も鋭い。
 そしてインドや日本に対する批判も的確だ。特に今読むと、シャルマ氏が20年以上前に指摘した「日本の欠点」はまるで改善されておらず、それが原因で日本が衰退したことを痛感する。




来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2020年12月24日木曜日

他人丼

 こないだ遠方に住む友人に他人丼の話をしたら、通じなかった。
 どうも他人丼は全国共通の食べ物ではないようだ。

 関西だと、定食屋にはまずある。親子丼を出している店ならたいてい他人丼も置いている。たいてい親子丼より五十円か百円高い。

 他人丼を知らない人のために一応説明しておくと、牛肉を卵でとじてご飯の上に乗っけた料理だ。親子丼の鶏肉を牛肉に変えただけ。親子じゃないから他人丼。


 幼少期から耳にしているが、改めて考えるとずいぶん珍妙なネーミングだ。

 そもそも親子丼自体が猟奇的な名前だ。
「じゃあな。あの世で息子に会えるのを楽しみにしてろよ」と言いながら引き金に手をかける殺し屋の台詞みたいだ。
 だいたいその鶏と卵は親子じゃないし。食肉用の鶏の肉と、採卵用の鶏の卵だし。赤の他人だし。

 親子丼が妙なネーミングなのだから、それをベースにした他人丼はもっと変だ。
 まだ親子丼は(親子じゃないにしても)同種の肉と卵、という際立った特徴を名前にしているわけだが、他人丼は「際立った特徴を持っているわけじゃないから」というわけのわからんネーミングだ。
 「鶏肉とウズラの卵で他人丼」だったらまだわからんでもないが、牛は胎生だし。かすってすらいない。

「この恐竜は首が長いから〝首長竜〟と呼ぼう」 これはわかる。
「しかしこっちの恐竜は首が長くないから〝首長くない竜〟と呼ぼう」 これは納得できん。
 他人丼ってのはそういうことだ。〝非親子丼〟だ。
 だいたい、ほとんどの丼が他人だ。天丼だってエビとアナゴは他人だし、カツ丼も豚と卵は他人だ。
 他人であることは特徴じゃない。


 トゲナシトゲトゲという虫がいる。正式名称ではないらしいが。
 トゲトゲ(トゲハムシ)の仲間だけどトゲがないからトゲナシトゲトゲ。わけがわからん。

 ちなみに、トゲナシトゲトゲの仲間に例外的にトゲのあるものもいて、そいつはトゲアリ トゲナシトゲトゲと呼ばれているそうだ。もっとわけがわからん。

 その例でいくと、遺伝子を組み換えて牛に卵を産ませることができたとき、その卵と別の牛で他人丼を作ったら「親子非親子丼(ただし親子じゃない)」になるね。


2020年12月23日水曜日

【映画鑑賞】『万引き家族』

『万引き家族』

(2018)

内容(Amazonより)
高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である祖母の初枝の年金だ。それで足りないものは、万引きでまかなっていた。社会という海の、底を這うように暮らす家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、口は悪いが仲よく暮らしていた。そんな冬のある日、治と祥太は、近隣の団地の廊下で震えていた幼いゆりを見かねて家に連れ帰る。体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、信代は娘として育てることにする。だが、ある事件をきっかけに家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれが抱える秘密と切なる願いが次々と明らかになっていく──。

 カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した作品……っていってもパルムドールが何なのか知らないけど。なんかおいしそうな響き。

 評判にたがわぬいい作品だった。
 あっ、ぼくのいう〝いい作品〟ってのはいろいろ考えさせられる作品ってことね。感動するとかスカッとするとか老若男女誰でも楽しめるとかドラ泣きとかそういうのを求めている人の入口はこっちじゃありません。あしからず。

 しかし、リリー・フランキーの芝居はいいね。
『そして父になる』『凶悪』『万引き家族』と観たけど、どれもすごく印象に残る。


(ネタバレ含みます)


 ほんでまあ、作品名そのまんまなんだけど、万引きをやっている家族の話。っていっても万引きで生計を立てているわけじゃなくて、一応おとうさんは日雇いの仕事してるし、おかあさんはクリーニング屋で働いてるし、おかあさんの妹は女子高生リフレみたいな準風俗店みたいなとこで働いてるし、おばあちゃんも年金もらってるみたいだし、ってことでみんなそれぞれ働いてるわけ。
 でもおかあさんはクリーニング屋でポケットの中の金目のものをくすねちゃうし、おばあちゃんがもらってるのもどうやら年金じゃないみたいだし、おとうさんと男の子はタッグを組んで万引きをするし、家出してきたちっちゃい女の子をかくまっちゃうし、みんなそれぞれあかんことをやってるわけ。

 で、観ているうちにどうやらほんとの家族じゃないってことがわかってくる。どうもそれぞれおばあちゃんの家に転がりこんできてるみたい。年金や土地家をあてにして。
 とはいえおばあちゃんも騙されているわけではなく、そこそこ頭はしっかりしているようだし、騙されたふりをしているような感じで家に入れている。
 あんまり説明がないから想像するしかないんだけど。

 みんな悪いことをしながら、でもけっこう楽しくやっている。
「貧しいながらも楽しい我が家」って感じで、観ようによっちゃあ『三丁目の夕日』みたいな古き良き日本の暮らしをしているわけ。『三丁目の夕日』観たことないから完全にイメージで書いてるけど。


 この家族(血はつながっていないがまぎれもなく家族)は万引きに代表されるように数々の法律違反をしているわけだけど、観ていると「べつに悪いことはしていないんじゃないか」っていう気持ちになってくる。

 学校では「法律違反=悪いこと」って教わるし、だいたいの人はそうおもって生きているわけだけど、でもそこって完全にイコールではないんだよね。

「警察が取り締まってなければちょっとぐらい制限速度を超えてもいい」「ちょっとだけだから駐車禁止だけど停めてもいっか」「赤信号だけど急いでるし車も来てないから」「労働基準法なんかきちんと守ってたら会社がつぶれちゃうよ」みたいな感じで、ほとんどの人は法律違反をしている。

 こないだM.K.シャルマ『喪失の国、日本』という本を読んだ。インド人が見た日本の印象について書かれているんだけど、シャルマ氏は
「インド人は観光客には高い金をふっかけるし、土地に不慣れな人がタクシーに乗ってきたら遠回りして高い料金を請求する。日本人は『インド人は悪い』と怒るけど、インド人からしたら交渉や自分でチェックをしない日本人のほうが悪いとおもう」
というようなことを書いていた。
 インド人と日本人のどっち悪いということではなく、単なる文化の違いなんだとおもう。所変われば品変わるというように、それぞれの土地には土地のしきたりや慣習がある。そしてそれはときに成文法よりも強力にはたらく。
「ちょっとでも隙間があいていれば行列に割りこんでもいい」「一秒でも置きっぱなしにしているものは持っていってもいい」という文化は、世界中あちこちにある。
 海外のあまり治安の良くない地域で「財布の入ったカバンを置いてちょっと目を離しただけなのに盗られた!」と怒っても、それは「置いとくほうが悪い」という話だろう。

 万引き家族がやっていることも「そういう文化」だ。

 彼らは「お店に置いてあるものはまだ誰のものでもない」「店がつぶれなきゃいいんじゃないの」「家で勉強できないやつが学校に行く」と、独特のルールを設けている。日本の法律からは外れているが、一応彼らには彼らの論理があるのだ。
 だからどこでもかまわず万引きをするわけではないし、近所の人や同僚ともうまくやっていけるし、困っている人に手を差し伸べたりする。

 悪というより「日本の法律とは別の枠組みで生きている人たち」なのだ。
 万引き家族のような人たちはあまり可視化されていないだけで、日本の中にもけっこういるとぼくはおもう。ブラック企業経営者だって同類だし。




 児童虐待やネグレクトの本をたくさん読んで、
「子育ては親がするもの」という考えはおかしいとおもうようになった。

 いや、子育てしたい親はすればいい。ぼくも自分の子は自分で育てたい。
 でも、育てたくない親や、育てられない親や、育てちゃいけない親はたくさんいる。親が十人いたら、そのうち三人ぐらいは「親に向いていない人」なんじゃないかとおもっている。

 だが「親に向いていない人」から子どもを引き離すことは、今の日本では非常に難しい。どんなに実子をネグレクト・虐待をする親でも、殺しさえしなければほとんど罪に問われない。
 なにしろ、NHKスペシャル「消えた子どもたち」取材班 『ルポ 消えた子どもたち』によると、18歳になるまで家の中に子どもを監禁して学校に一度も通わせてもらえなかった親に下された判決がなんと「罰金10万円」だ。人間ひとりの人生を台無しにしても罰金10万円で済むのだ。司法が「親は10万円払えば子どもの人生をむちゃくちゃにしてもいい」と認めているに等しい。

「ぜったい親に育てられないほうがあの子は幸せだよね」と隣人や学校や児童相談所がおもったとしても、親が手放そうとしなければ、親から子どもを引き離すことはできないのだ。どう考えても制度の方がおかしい。


『万引き家族』で描かれる血縁以外でつながった家族は、子育てに向いてない親の下で育った子どもにとっては理想に近いんじゃないだろうか(もちろん万引きはダメだけど)。

 血縁ってそんなにいいもんじゃないとおもうんだよね。『おとうさんおかあさんは大切に』『親の子への愛情は海より深い』とか、うそっぱちですよ。中にはそういう親もいるってだけで。

「新卒で入った会社で定年まで働けるのがサラリーマンにとって何よりの幸せ」っておもう人がいるのは認める。会社にとっても労働者にとっても理想かもしれない。
 でも「だから新卒で入った会社がどんなにブラックでも辞めちゃだめ」ってのはまちがってる。
 それと同じように「実の親に育てられて大人になるのがいちばんいい」ってのも間違いなんだよね。現状が悪ければ、転職するように育つ家庭を変えたっていい。


「子育てに向いていない親」が悪いと言ってるわけじゃないんだよ。
 よく「子育てできないのに産むな」っていうけど、そんなの無理な話だよ。ぼくだって子どもをつくるときは一応ある程度の覚悟はしていたけど「五つ子が生まれてくる想定」とか「難病で年間数百万円の医療費がかかる子が生まれてくる想定」とか「出産直後に大地震に遭って家も財産も失う想定」まではしてませんよ。ほとんどの親がそうでしょう。そんなこと考えてたら誰も子どもなんか産めない。

 どんな子が生まれてくるかは産んで育ててみなきゃわからないし、自分の健康状態だって夫婦仲だって仕事だってどうなるかわからないわけじゃん。

 だから、産んでみて、育ててみて「あっやっぱ無理そうだわ」っておもったらかんたんに手放せる(または「手放させる」)仕組みがあったらいいとおもうんだけどね。誰にも責められることなく。
「うちら付き合ちゃう?」みたいなノリで付き合って「なんかおもってたのとちがうわ」で別れる。そんな感じで親や子を手放せてもいいとおもう。

 中世以前の日本は、わりと手軽に養子をとっていたという。次男坊や三男坊は家督を相続できないから子どものいない家の養子になる、みたいな感じで。
 むずかしい手続きを経なくても、お互いの利害が一致すればふらっと移籍できてもいいんじゃないかな。

 血のつながった家族でもなく、児童養護施設でもない、もっとゆるやかにつながれる枠組みがあってもいいのにな、と『万引き家族』を観ておもった。


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2020年12月22日火曜日

M-1グランプリ2020の感想

 M-1グランプリ2020の感想


大会の運営について

 今年はコロナ禍の開催ということでいろんなものをそぎ落とした大会だった。結果的に、余計なものがなくなってすごく良かった。
 ほんと、M-1大好き芸能人に集まっていただきましたとか、アスリートによる抽選とか、誰がうれしいんだって感じだもんね。
 そういう無駄な要素がなくなって、その分審査員コメントとかが長くなって見ごたえがあった。コロナが収束してもこのままでやってほしい。

 あと、「一本目の上位組から、最終決戦の出番順を決める」→「一本目一位が三番手、二位が二番手、三位が一番手」になったのもよかった。
 あれ毎年無駄な時間だったもんね。みんな後から選ぶから。
 ぼくの記憶にあるかぎりでは、そうじゃない順番を選んだのは麒麟ぐらい。

 無駄な時間だった上に、最終決戦進出組にとっても「漫才と漫才の間にバラエティ的な立ち居振る舞いを求められる」ことでけっこう負担になってたんじゃないかな。あれがないほうがネタに集中できるよね。


1.インディアンス(敗者復活)

「昔ヤンキーだった」

 速いテンポで完成度の高い漫才をやっているからこそ、ところどころの穴が目立つ。構成の雑さが。
 去年は「おっさんみたいな彼女がほしい」というわけのわからん設定を客に納得させる前に話が進んでたが、今年は「ツッコミ側がわざと言い間違いをしてボケをアシストする」が打算的すぎて笑えなかった。
 わかるんだけど。フリの時間を短縮して笑いを詰め込むために、「ツッコミのフレーズそれ自体が次のボケにフリになっている」テクニックだということは。
 でもなあ。インディアンスの笑いって「どこまでが素のキャラクターなのかわからない笑い」だとおもうんだよね。練習の跡が見えてはいけない漫才。
「言い間違えた」ことにするんだったら、その後にハモリボケみたいな「がんばって練習しました」ボケを入れてはいけない。「罵声を美声と間違える」はボケ側がやらなきゃいけないとおもうよ。
 個人的にはこういう台本の粗さがあると笑えない。

 ただ去年よりは格段におもしろかったし、トップバッターとしてはこれ以上ないぐらいの盛り上げ方をしたので、そのへんはもっと評価されてもよかったのにな。毎年トップバッターで出てほしい。


2.東京ホテイソン

「謎解き」

 東京ホテイソンのスタイルを知っていたらおもしろいんだけど、これって初見の人はどう見たんだろう。
 一つめの笑いが起こるまですごく時間がかかるから序盤に自己紹介的な軽いボケがあってもよかったんじゃないかなとおもう。ツカミって大事だなあと改めて感じた。ツカミがあればもっとウケたんじゃないかな。
 劇場でおじいちゃんおばあちゃんの前でネタやってる吉本芸人だったら、「自分たちのことを知らない人でもまず笑えるツカミ」を入れるんじゃないかとおもう。

 あと、フレーズはおもしろいんだけど、自然な流れで出たフレーズではなく突然湧いて出てきたものだからなあ。話の流れで「アンミカドラゴン新大久保に出現」ってなったらめちゃくちゃおもしろいんだけど、脈略なく出てきたら「なんでもありじゃん」って気になってしまう。

 ちなみに数えてみたらボケ数が6個だった。もしかしたらM-1史上最少かもしれない。


3.ニューヨーク

「トークに軽犯罪が出てくる」

 時代にマッチしたネタ。「無料でマンガ全部読めるサイト」とか絶妙にいいとこを突いてくるなあ。でも審査員は全員わかったんだろうか。

 あぶなっかしい題材を笑いに変える技術はさすが。この題材を他のコンビがやってたらドン引きされてしまいそう。
 「現実にいる」レベルの悪いことを、後半「犬のうんこを食べた」とか「献血」とかで壊してくるところはよくできている。ただ、軽犯罪の対比として出てきた「選挙に行く」はべつに善行じゃないからなあ。選挙に行くのは自分のためだし。

「マッチングアプリで知り合った人妻とゲーセンでメダルゲーム」はすごくよかった。よく考えたらぜんぜん責められるようなことじゃないんだけどね。マッチングアプリで知り合った人妻とゲーセンでメダルゲームをしたって何の罪にもならないんだけど。でもなぜだろう、そこはかとなく漂うあやうさ。絶妙。


4.見取り図

「敏腕マネージャー」

 前にこのネタを観たときもおもったけど、見取り図はこういうコント漫才のほうがあってるとおもうんだよな。
 見取り図はツッコミの出で立ちや声量が強すぎて、ボケを上回ってしまうことがある。「そこまで厳しくツッコまなくても」と。
 その点、このネタはボケがとんでもなくヤバいやつなので、ツッコミが強くても違和感がない。立場的にも「大御所タレントとマネージャー」だったら強く言っていい関係だし。

 このコンビにマッチしたすごくいいネタだとおもう。二人の見た目も大御所芸人とマネージャーみたいだし。


5.おいでやすこが

「カラオケで盛り上がらない」

 ネタの強度がすごいね。元々こがけんがピンでやってるネタだから、ボケ単体でも笑える。そこにあの笑えるツッコミが乗っかるんだからそりゃあおもしろいに決まってる。ネタを前に観たことあるのに、それでもはじめて観たときと同じところで笑わされた。

 両者の持ち味がちょうどいい配分で発揮された、ピン芸人同士のコンビのネタとして完璧な出来栄え。
 またボケの「違和感があってすごく気持ち悪いんだけどでも即座におかしいと切り捨てるほどでもない」ぐらいの曲の作り方が絶妙。だからこそ、あの力強いツッコミでどかんと吹き飛ばしてくれるとすごく気持ちいい。ツッコミが飛ぶたびに爽快感があってもっともっと観たくなる。

 しかしあの絶叫ネタは漫才を正業にしていないコンビならではだよなあ。一日に何度も舞台に立つ正業漫才師だったら無理じゃなかろうか。


6.マヂカルラブリー

「高級フレンチ」

 準決勝のネタ(電車)を観たとき、いちばんどう評価されるかわからないと感じたのがマヂカルラブリーだった。文句なしにおもしろいんだけど、でも漫才としての掛け合いはぜんぜんないので、審査員からの評価は厳しいものになるかもしれないと感じていた。

 で、決勝。
 まずつかみが最高。せりあがってきた瞬間に大きな笑いが起こった。過去最速のつかみ。さらに「どうしても笑わせたい人がいる男です」で完全に場の空気を制した。
 あれだけつかんだからその後丁寧にフリをきかせても客はちゃんと聞いてくれる。いい構成。

 ネタも良かった。何がいいって、ナイフとフォークを斜めに置いて「終わりー」があること。あれがあるのとないのじゃ安心感がぜんぜん違う。ここまでが一連のボケです、というのがはっきりわかる。ショートコントのブリッジのような。
 むちゃくちゃをやっているようで、ああいうわかりやすいボケをちょこちょこ挟む構成がほんとに丁寧。バランスがすごくいい。
 ただ後半のデモンのくだりは……。


7.オズワルド

「畠中を改名」

 ネタの構成も完璧に近いし熱量もすごいし、これが最終決戦に行けないの? という気がした。シュールなボケを丁寧にツッコみながら、ツッコミでも笑いを取る。
 しっとりとしたしゃべりだしから、後半はどんどん盛り上がる。「ザコ寿司」「ボケ乳首」「激キモ通訳」など独特のフレーズもウケ、ラストの「てめえずっと口開いてんな」も完璧。悪いところがひとつもなかった。

 このネタで5位に沈んだのは、もう順番のせいとしか考えられない。おいでやすこがとマヂカルラブリーが根こそぎ笑いをとっていったので笑い疲れが起こったんじゃないだろうか。審査員も、ちょっとここらで点数下げとこうみたいな気持ちになったのではと邪推する。


8.アキナ

「地元の友だちが楽屋に来る」

 四十歳前後がやるネタじゃないよね。もっといえば四十前後のコンビが五十歳前後の審査員の前でやるネタじゃない。
 ローカルアイドル漫才師の成れの果て、って感じのネタだった。女子高生からキャーキャー言われてる二十代の漫才師がやるネタだよね。なんかかわいらしさを出そうとしてて。
 アキナが好きな人はおもしろいんだろうけど。「ふだんそれ俺が担当してんねん」って動き、何それ? アキナファンじゃないから知らんけど。せめて登場後にやっといてよ。

 準決勝を観たときもアキナはなんで決勝進出できたんだろうとふしぎだったけど、決勝でもやっぱり見てられなかったな……。


9.錦鯉

「パチンコ台になりたい」

 後半出番で錦鯉が出てきたら優勝もあるとおもってたんだけど、意外とウケなかったな……。まあでも錦鯉が最終決戦に進んでたら、おいでやすこが、マヂカルラブリー、錦鯉と掛け合いをしないコンビばかりになってたので大会的にはよかったとおもう。

 序盤にもっとバカさを伝えていればな。さっきも書いたけど、ほんとにつかみって大事だね。「この人はバカにしていい」ということが周知されればもっと素直に笑えたのに。
 つかみの「一文無し、参上」は失敗だったのかもね。冷静に考えれば49歳で貯金ゼロ、って笑える話じゃないもんね。
 はじめにもっとばかばかしい自己紹介してたら違う結果になったんじゃないかな。


10.ウエストランド

「マッチングアプリ」

 おもしろいんだけど、まあこういう結果になるよね。どう考えても万人受けするネタじゃないもん。これは決勝に上げた審査員が悪い。
 恨みつらみを並べるには、風貌がそこまでひどくないんだよね。多少かわいげがあるし。どうしようもない見た目とか、生い立ちが悲惨とか、「これなら世を儚むのもしょうがない」と思わせるほどのバックグラウンドがあれば素直に受け止められるんだけど。

 かつて有吉弘行氏が悪口芸で一世を風靡したとき「没落期間が長かったしみんなそれを知ってたから俺は悪口を言っても許される」みたいなことを言っていた。
 マツコ・デラックス氏も歯に衣着せぬ物言いをするけど、あの巨大な女装家なら世の中に対して不満を言いたくなる気持ちもわかるよな、と納得できる。
 ウエストランドはそこまでじゃないんだよね。もうちょっとがんばれよ、とおもってしまう。

 あと言ってる内容がわりと納得できる話だったので、ただのボヤキ漫才に終始してしまった。「芸人はみんな復讐のためにやっている」ってのもけっこう当たってるっぽいし。中盤まではそれでいいんだけど、後半は「もはや誰も共感できない突き抜けた偏見」にまでいってほしかったな。
 10組中9位だったけど、キャラクター的には最下位だったほうが得したとおもう。ここは上沼恵美子さんが怒ってあげたほうがよかったんじゃないかな。


 最終決戦進出は3位の見取り図、2位マヂカルラブリー、1位おいでやすこが。
 まあ順当。ぼくが選ぶなら見取り図の代わりにオズワルドを入れたい。


見取り図

「地元」

 持ち味なんだけど荒々しいなあ。大柄な男が荒っぽい言葉で怒ってたら怖い。
 キャラクターに入っているコント漫才のほうがいいなあ。

 しかし地元の話題で喧嘩になるかね。兵庫出身で大阪人を多く見てきたぼくにはわかるが、大阪人は東京と京都以外は下に見てるので、和気郡なんか喧嘩相手にならない。


マヂカルラブリー

「吊り革につかまりたくない」

 ネタの選択がすばらしい。こっちを先に持ってきてたら優勝できなかったんじゃないかな。このネタは掛け合いがまったくないので、1本目だったら辛い点を付けた審査員もいたとおもう。でも最終決戦は審査員全員から評価される必要がないので、これだけぶっとんだネタでも優勝できる可能性がある。
 もうすでにマヂカルラブリーを知っているから、むちゃくちゃをやっても受け入れられる土壌があるしね。意外と策士だね。


おいでやすこが

「ハッピーバースデー」

 1本目に比べるとツッコミが弱い。ほんとに1本目で体力を使いすぎてちょっと疲れてるやん。
 こっちはボケ主体で引っ張っていくネタだけど、おいでやす小田がキレてるところを見たいからなあ。もっともっと怒らせるネタをやってほしい。
 1本目は「何度言われても知らない曲ばかり歌う」「約束が違う」「誰の曲か答えない」「話を聞かない」という強くツッコむべき理由があるけど、こっちのネタは曲が独特なだけで祝っていること自体は間違ってないしね。長い曲を歌うこともそれ自体がおかしいわけじゃないし。


 優勝はマヂカルラブリー。おめでとう。納得の優勝。
「あれは漫才か、コントじゃないか」みたいな議論もあるみたいだが、ぼくはマヂカルラブリーのネタは完全に漫才だとおもう。あれがコントだったら異常なのは野田クリスタルじゃなくて電車なのでおもしろくないし。
 漫才の定義は「立って話すか」「掛け合いがあるか」とかではなく、「言葉に人のおもしろさが出ているか」どうかだとぼくはおもう。そしてマヂカルラブリーのネタにはそれが存分に発揮されていた。




 今年もおもしろい大会だった。アキナ以外はおもしろかった。

 ところでマヂカルラブリーの1本目は何年か前の敗者復活戦でやっていたネタ。こんな感じで、昔のおもしろいネタをどんどんやったらいい。
 一方、キングオブコントは「準決勝でやった2本のネタを決勝でしなければならない」というルールだ。あれはよくない。毎年観ている審査員やわざわざ準決勝会場に足を運ぶ熱心のファンにウケるネタと、テレビでウケるネタは違うのだから。

 



 思いかえせば十年ほど前(今調べたら2008年だった)。M-1グランプリの敗者復活戦で観たマヂカルラブリーに衝撃を受けた。当時まったくの無名に近い状態で準決勝まで進出したマヂカルラブリー。「のだでーす、のだでーす、のーだーでーす!」の自己紹介で一気に引きこまれた。「いじめられっこ」のネタもおもしろかった(ちなみにやっていることは今とあまり変わってない)。
 これは近い将来決勝に行くだろうとおもっていたがずっと遠かった。ようやく出場した2017年も最下位。
 M-1には恵まれないコンビなのかとおもっていたが、一気に優勝。しかし今回も出番順や会場の空気によっては最下位になってもふしぎじゃなかったネタだった。最下位も優勝もあるコンビってすごく魅力的だね。


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M-1グランプリ2020 準決勝の感想(12/3執筆、12/22公開)

 昨年から映画館でパブリックビューがはじまったM-1グランプリ準決勝。
 観にいきたかったが、平日夜は子持ちの人間にはちょっと生きづらくて断念。

 だが今年はオンライン配信、しかも見逃し配信も可能ということで3,000円のチケットを購入して観てみた。
 感想自体は準決勝の翌日に書いていたが、ネタバレ禁止とのことだったので決勝終了後まで公開を待っていました。もういいよね?


ラランド

 料理番組をやってみたい。

 キューピー3分クッキングのテーマに乗せて料理番組を進行。
 ボケのクオリティは安定しているのだが、あまり練られてない感じがした。このネタを改良し続けたらもっともっとおもしろくなるだろうなという気がする。

 でも後半のってきておもしろかった。サーヤの狂気が随所に感じられてよかった。


タイムキーパー

 幼稚園の先生をやりたい。

 大人びた口調の子ども、子どもが真理を突く、というのはベタ中のベタなので前半は退屈だった。既視感があるからよほど新しい視点がないときついよなあ。

 でも後半は「幼稚園の先生をやりたい」ではなく「芸人で売れなかったら幼稚園の先生をやりたい」という導入をフリに使っていたり、アンパンマンのマーチを回収したりと、構成が見事だった。

 まったく知らないコンビだったけど、構成もいいし技術もあるし今後が楽しみなコンビ。


金属バット

 結婚をためらっている。

 いやあ、おもしろいなあ。
 よく聞くとそこまでたいしたことを言ってないんだけどね。
 でも口調とか所作で笑わされる。たいしたこと言ってなくてもおもしろいって、これぞ漫才師という感じ。
 罪人面、つくね、ヘキサゴンのOBなど力のあるワードをさりげなく挟むのもいい。

 個人的にはすごくおもしろかったけど、決勝進出できなかったのもわかる気がする。差別的だからねえ。ゴールデン番組でやらすのは怖いよね。


ウエストランド

 マッチングアプリで彼女を探す。

 恨みつらみが心の底から出ている。「誰も傷つけない笑い」に対するアンチテーゼが痛快だった。
 どこまでがネタかわからない魂の叫びという感じで、なんかちょっと感動してしまった。

 しかしよくこれが決勝に行けたなあ。おもしろかったけど、決勝で評価される気がしないんだよなあ。


ニッポンの社長

 ラーメン屋の大将をやりたい。

 言葉と動きがあってない、というボケをひたすらくりかえす。
 とはいえ、一点突破でいくにはボケが弱かったのかもしれない。後半はもっとむちゃくちゃになってもよかったのかなあ。


ランジャタイ

 ポケットから友だちが出てくる。

 トム・ブラウンを彷彿とさせるむちゃくちゃさ。
 ずっと何やってるのかわからない。
 はまればおもしろいんだけど個人的にはまったくはまらなかった。


祇園

 ポリティカルコレクトネス的に正しい桃太郎。

 こういうの、バカリズムライブで数年前にやってたなあ。
 ちょっと前半急ぎすぎた気がする。「クレームがつきにくいようにする」という説明が雑だったかな。ここをもっと丁寧に説明していれば惹きつけられたのかも。

 しかし同系列・同クオリティのボケが並ぶので中盤からは客の想像を下回っていた。


マヂカルラブリー

 吊り革につかまりたくない。

 マヂカルラブリーらしいばかばかしさがあふれていてよかった。だいぶ早い段階で吊り革がどうでもよくなるが、もうそんなことは気にならない。
 以前決勝戦に進出したときは「同じボケをひたすらくりかえす」だったのだが、今回はリセットすることなく「どんどんエスカレートしていく」構成なので、中盤以降どんどんおもしろくなってきた。

 ただ気になったのは、導入部をのぞいてコンビ間の掛け合いがまったくないこと。
 野田がボケ、村上がツッコみ、野田が一切耳を貸さずにボケ続ける。
 このスタイルは審査員に評価されにくいんじゃないかな……。


からし蓮根

 居酒屋の店員をする。

 導入の「いじられろ」のツッコミはおもしろかった。
 他にもおもしろいフレーズが随所にあったんだけどね。でも何十組が観たときに「からし蓮根が特におもしろかった!」とはならないんだよねえ。


カベポスター

 古今東西ゲーム。

 すっごくよく考えられてるなあ。
 ボケ・ツッコミとも必要最小限の言葉で堅実に笑いをとってくる。
 よくできているけど、逆に言うと、台本が見えてしまうことでもある。

 独特のセンスが光るネタをやっていたのに、後半の岐阜いじりはちょっと安易だったなあ。


ゆにばーす

 ドッペルゲンガーにきれいな彼女がいた。

 自分たちでも「人の見た目をいじって笑いを取る時代は終わったよ」と言ってたけど、まさしくその通りで、「おまえは見た目がブス」「おまえは性格が悪い」「俺は彼女ができない」で素直に笑える時代ではない。

 ってことで、終始古くさい印象のネタだった。


キュウ

 ルパン三世と質量保存の法則。

 独特のセンスが光るんだけど、これは漫才じゃなくてコントだよね。完全に芝居だもん。
 この人たちはコントやったほうがいいんじゃないかな。テレビじゃなくて舞台で。小林賢太郎も引退したことだし。


アキナ

 友だちの女の子が単独ライブに来る。

 全体的に身内向け感が漂ってたなあ。アキナファンにはたまらないだろうな、という感じのネタ。二人のいろんな顔が見られるネタだもんね。アイドル漫才師みたいなネタだ。

 秋山が文句を言いながらも山名にずっと従う理由がないんだよなあ。説得力に欠ける。


おいでやすこが

 カラオケで盛り上がらない。

 いやあ、すごかった。本人たち(というかおいでやす小田)の熱意もすごかったし、R-1グランプリから強制的に締めだされた直後だったので観客も全員応援している空気だった。

 そこまで強いボケじゃないのに、ツッコミのパワーで強引に笑いをかっさらう。
 すごいなあ。漫才師でもここまで強いツッコミはそうそういないよね。
 もう地団駄踏みすぎてタップダンスみたいだったもんな。もう何言っても笑える状況だった。


オズワルド

 ハタナカを改名したい。

 いなり寿司、試合前のゴールキーパー、君もそっち側。
 ワードのセンス、強弱のつけかた、絶妙な不条理さ、そしてクライマックスでの「口開いてんな」ツッコミ。盤石。

 こういうローテンション系の漫才ってM-1で勝てないイメージがあるんだけど、もしかしたら今年オズワルドがそのジンクスをくずすかもなあ。


ロングコートダディ

 組み立て式の木の棚を作る。

 以前にも観たことがあったが、めちゃくちゃ好きなネタ。
「マウントとってこようとする男っているよね」みたいな導入にしたほうがわかりやすいんだけど、そこを説明しないところがおしゃれ。
 センスの塊って感じだ。
 ただまあ万人受けするネタではないよね。あとここも完全にコント。

 このネタをするには兎の演技力がちょっと追い付いてないんだよね。


インディアンス

 人助けをした話。

 脱線に次ぐ脱線。中川家の漫才のようだが、自然に脱線するのではなく、脱線することが目的になってるように感じる。脱線しすぎて本筋がわからなくなってしまう。
 テンポが速すぎるのかもなあ。これだけテンポが速いと「がんばって練習したね」という感じがしてしまう。そしてインディアンスは練習の跡が見えたらだめな芸風なんだよね。


東京ホテイソン

 謎解きゲーム。

 いやあ、数年前にM-1準決勝に進出したときは若くしてスタイルを確立させているものだと感心したけど、その独特の芸風を貫きつつもちゃんとネタを進化させてるのがすごい。まだ完成していなかったのか。
 構成の巧みさと不条理さのバランスが絶妙でいいネタ。

 しかし答え合わせが必要で、ほんとに謎解きゲームみたいなネタだね。


コウテイ

 学校の先生をやりたい。

 バッファロー吾郎を思いだす。小学校の休み時間みたいなネタ。
 熱意はすごいけど、ぼくにはまったくおもしろさがわからないんだよね。これはコウテイの問題じゃなくて、ぼくがもう若くないってことなんだろうね。おっさんにはついていけんわ。


学天即

 宇宙旅行。

 うまい、うまいけど……。
 劇場で安心して笑える漫才って感じで、コンテストで数千組のトップに立つ漫才ではないよなあ。

 ボケる→ツッコむ で終わっちゃうのがなあ。銀シャリはその後さらに応酬が発生するので、それと見比べると学天即は見劣りしてしまう。


ダイタク

 出国管理局。

「何年双子やってんだよ」などのフレーズはおもしろいけど、このコンビはそろそろ双子ネタを脱却してもいいんじゃないかとおもう。
 それだけの腕があるコンビなんだから。


見取り図

 マネージャー。

 数年前の見取り図は、ツッコミはうまいけどボケが弱いコンビだった。
 でもここ数年でボケが強くなり、コンビバランスがよくなった。
 特にこのネタはボケが異常者なので、ツッコミの強さがちょうどいい。「これだけ無茶なことされたらこれぐらいきつく注意するのも仕方ない」という説得力がある。


ぺこぱ

 不動産屋。

 いやあ、絵に描いたように迷走してるな。個人的には準決勝でいちばんおもしろくなかった。
 自分たちのスタイルを逆手に取ったネタなんだが、正直ぺこぱのスタイルはまだそこまで浸透してないよ。
 たった一年であのスタイルに見切りをつけるのはまだ早い。本人たち的には飽きられる前に次の一手を探してるんだろうけど。でも東京ホテイソンがスタイルを貫きつつ新境地を開拓したのを見た後だから余計に低い評価になる。


滝音

 不動産屋。

 ワードはおもしろい。が、いかんせんネタの内容が薄い。何の話だったかほとんど覚えてない。
「ナックル投げあうキャッチボール」とか「ミニチュアなヘルニア官房長官」とかの言葉のおもしろさは抜群なので、あとはそれに見劣りしないストーリー展開があればなあ。


ニューヨーク

 コンプライアンス違反のエピソードトーク。

 時代にマッチした話題。ニューヨークって常に「時代に乗っている」感がある。
 ニューヨークの「意地の悪いツッコミ」は一般受けしなさそうだけど、このネタはボケ側が全面的に悪なのでキツめの言葉をぽんぽんぶつけても嫌な感じがしない。
 よくできている。


錦鯉

 パチンコ台になりたい。

 いやあ、ばかだなあ(褒め言葉)。来年五十歳のおじさんがこれをやってるというのがめちゃくちゃおもしろい。
 出番順もよかったね。若手や中堅がさんざん練りに練ったネタをやって、最後に出てきた49歳がいちばんバカやってんだもん。そりゃ笑うって。
 ツッコミもうまいよね。熟練の味という感じ。いい意味でフレッシュさがないのがいい。

 本選でも後半の出番順になってほしい。



 決勝進出を決めたのは、

  • ウエストランド
  • マヂカルラブリー
  • アキナ
  • おいでやすこが
  • 東京ホテイソン
  • 見取り図
  • ニューヨーク
  • 錦鯉

 準決勝を観るかぎり、だいたい納得のメンバー。

 ぼくが選ぶなら、アキナをはずして金属バットを入れるかな。


2020年12月21日月曜日

【読書感想文】現実だと信じればそれが現実 / 道尾 秀介『向日葵の咲かない夏』

向日葵の咲かない夏

道尾 秀介

内容(e-honより)
夏休みを迎える終業式の日。先生に頼まれ、欠席した級友の家を訪れた。きい、きい。妙な音が聞こえる。S君は首を吊って死んでいた。だがその衝撃もつかの間、彼の死体は忽然と消えてしまう。一週間後、S君はあるものに姿を変えて現れた。「僕は殺されたんだ」と訴えながら。僕は妹のミカと、彼の無念を晴らすため、事件を追いはじめた。あなたの目の前に広がる、もう一つの夏休み。

 説明しがたい小説だな……。

 同級生のS君が殺されたのでその犯人探しをするミステリかとおもいきや、S君が生まれ変わって主人公の前に現れるので、犯人は序盤であっさりわかる。あとは証拠をつかむだけ……かとおもいきや、真相が二転三転。

「S君がクモに生まれ変わる。おまけにしゃべれる」
「S君が殺される前から、口に石鹸を詰め込まれて足を折られた犬や猫の死体が見つかっている」
「主人公の母親の様子が明らかにおかしい」
「S君はどうも重要なことを隠しているらしい」
「主人公の妹がとても三歳とはおもえない」
「主人公の妹が死ぬことが序盤に明かされる」
「S君の近所に住む老人もどうやら何かをしっているらしい」
「ふしぎな力で預言ができるおばあさんがいる」
「主人公たちのクラスの担任が小児性愛の趣味を持っている」

 とにかくいろんな要素がこれでもかと詰め込まれていて、少々胸焼けする。

 随所に〝違和感〟が散りばめられているので、読みながらけっこう頭を使う。この描写は絶対後で効いてくるやつだな……、この台詞は後から意味がわかるんだろうな……という感じで。

 で、これらの伏線が終盤で一気に収束するのかとおもいきや……。

 んー……。ま、収束はするんだけどね。一応。謎の答えは説明される。
 でも同時にまた新たな謎がたくさん生まれて、それに関しては明らかになるようなならないような、なんとも曖昧な形で終わってしまう。

 ことわっておくけど、作者が投げっぱなしたとか、風呂敷を畳めなかったとかじゃないよ。意図してやってるんだとおもう。あえて宙ぶらりんな結末にしたというか。

 ただ、ぼく個人的にはすぱっと明快な解決を期待していただけに、この結末は「うーん……。意図はわかるけど……」と、どうも煮え切らないものだった。


 マジックリアリズムという手法がある。

 現実と非現実の境界を意識的に曖昧にして、空想と現実を融合させるような書き方だ。森見登美彦『太陽の塔』とかがわかりやすい。

『向日葵の咲かない夏』を読んだ感想は、
「ミステリとおもって読んでいたらマジックリアリズム小説だった」
というものだ。
 数学の問題だとおもって文章を読みながら解を求めていたら、突然「作者の気持ちを答えなさい」と言われたようなもので、「それなら最初からそう言ってよ!」という気になる。




 まあ、現実と空想の境が判然としないってのは、ある意味リアリティがあるんだけど。

 特に子どもにはその傾向がある。うちの七歳の娘なんか、嘘をついているうちに、完全にその嘘が「ほんとにあったこと」として信じこんでしまってるもん。
 まあちっちゃい子の場合は嘘が稚拙だから見破れるんだけど、中には大人になっても、現実を嘘で塗りかえてしまう人がいる。総理大臣にもそんな人がいた。たぶん嘘を嘘とおもってなかったんだとおもう。

 人間の記憶なんて実にあいまいだから、現実と空想の境界なんてもともとあやふやなものなのかもしれない。現実だと信じればそれが現実だよね。


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2020年12月18日金曜日

【読書感想文】小説の存在意義 / いとう せいこう『想像ラジオ』

想像ラジオ

いとう せいこう

内容(e-honより)
深夜二時四十六分。海沿いの小さな町を見下ろす杉の木のてっぺんから、「想像」という電波を使って「あなたの想像力の中」だけで聴こえるという、ラジオ番組のオンエアを始めたDJアーク。その理由は―東日本大震災を背景に、生者と死者の新たな関係を描き出しベストセラーとなった著者代表作。

 ぼくの中でいとうせいこう氏は「みうらじゅんといっしょにザ・スライドショーをやってた人」というイメージだ(ザ・スライドショーのDVD-BOXも持っている)。あと『虎の門』というテレビ番組もときどき観ていたので、「何をやっているのかわからない文化人」というカテゴリの人だ。

 じっさい、日本のラップ界の開祖のようなラッパーだったり、編集者だったり、知れば知るほど「やっぱり何をやっているのかわからない人」だ。

 そんないとうせいこう氏の小説が芥川賞候補になったと聞いて興味を持っていたのだが、刊行から七年を経てようやく手に取ってみた。




 うまく説明できる自信がないけれど、いい小説だったなあ。
 ああ、こういうことを書くのは小説という媒体がうってつけだよなあ、むしろこういうことを書くために小説があるのかもしれない。そんな気になった。


(ネタバレ含みます)


 一言でいうと「鎮魂」。

 ある日、たくさんの人の耳にラジオ放送が聞こえてくる。DJアークによる生放送。受信機がなくても聞こえてくるし、決まった放送時間もないし流れる曲は聴く人によってちがう。

 で、どうやらDJアークは既に死んでいるのだとわかる。東日本大震災の津波に押し流されて命を落とし、高い樹の上に引っかかったままになっているらしい。

 そしてこの「想像ラジオ」を聴くことのできるリスナーもまた死んでいるらしい。しかし生きている人にも聴こえる場合がある……。

 とまあ、一応わかるのはこんなとこ。
 明確な説明はないので「どうやら」「らしい」というしかないのだが。

 要するにですね。わけがわからないわけですよ。
 なぜこんなことが起こっているのか。いやほんとに起こっていることなのか。聴こえる人と聴こえない人の違いはなんなのか。なんにもわからない。わからないものをわからないまま書いている。いや、作者の中では明確な答えはあるのかもしれないけど、作中で明示されることはない。

 これは、我々「死ななかった者」が「死んだ者」について考えるときと同じなんだよね。
 なんにもわからないわけ。どれだけの人が死んだのか。死んだ人はいつ死んだのか。死んだ人は何を考えたのか。流されていったあの人はほんとに死んだのか。死んでいった彼らは何を望んでいるのか。なぜ彼らは命を落として我々は生きているのか。なんにもわからない。

 東日本大震災によって、いろんな「わからない」がつきつけられた。死者の近くにいた人はもちろんだし、たとえば遠く離れた地で知人が誰も被災しなかったぼくのような人間ですら「わからない」をつきつけられた。

「ありがとう。言われてみれば確かに僕はどこかで加害者の意識を持ってる。なんでだろうね? しかもそれは被災地の人も、遠く離れた土地の人も同じだと思うんだよ。みんなどこかで多かれ少なかれ加害者みたいな罪の意識を持ってる。生き残っている側は。だから樹上の人の言葉を、少なくとも僕は受け止めきれないのかもしれない。うん、今日初めてネットサーフィンも無駄じゃないと思ったな」

 地震が起きたあの日、ぼくはたまたま仕事が休みだったので家でぼんやりテレビを観ていたら、人や家や車が次々に濁流に呑まれるものすごい映像が目に飛びこんできた。

 それからしばらく、なんとかしなきゃ、こうしていていいのか、という妙な焦燥感がずっとあった。
 日本中が自然と自粛ムードになったけど、やっぱりあの映像を目にしたら「被災者のためになんかしなきゃ」「笑ってていいのか」って気になっちゃうよね。

 地震にかぎらず毎日たくさんの人が理不尽に命を落としてるわけだけど、人間の想像力なんて限りがあるからふだんは見ないように蓋をしている。いちいちどこかの誰かのために胸を痛めていたら自分が生きていけない。
 でも、大地震のショッキングな映像なんかで蓋が開いてしまうと、ずっと心が痛い。
 長く生きていても、ぼくらは「理不尽な死」を克服することはできないんじゃないだろうか。ただ目をそらすことしかできないのかもしれない。




 この小説には「理不尽な死」を乗りこえるヒントは書かれていない。
 小説の中でちょっとだけ展開はあるけど、基本的に何も解決しない。というか何が問題で、どうなったら解決なのかも判然としない。

 ただ、あの震災で直接的ではないけど傷を受けて、その処理をどうしたらいいかわからないままとりあえず蓋をしている人が自分だけじゃないことだけはわかる。
 震災への向き合い方は、それがすべてなのかもしれない。


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阪神大震災の記憶

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2020年12月17日木曜日

【読書感想文】女が見た性産業 / 田房 永子『男しか行けない場所に女が行ってきました』

男しか行けない場所に女が行ってきました

田房 永子

内容(e-honより)
世の中(男社会)には驚愕(恐怖)スポットがいっぱい!エロ本の取材現場を「女目線」で覗いて気づいた「男社会」の真実。


 かつてエロ本のライター・漫画家をやっていた著者による「女から見た性風俗/男」の話。

 なんていうか、著者のもやもや感がひしひしと伝わってきた。著者自身もまだうまく整理できていないんじゃないだろうか。
 風俗産業は男に都合よくできている、それは女性を人間扱いしていない、でもそれはそれなりのニーズがある、そんな風俗産業を必要としている男がいる、必要としている女もいる、自分自身もエロ本で仕事をしていた、だから一方的に断罪はできないがでもやっぱり変じゃないか……。という苦悩がストレートにぶつけられている。

 だから著者は男にとって都合よく作られた風俗もエロ産業も否定はしない。ただ「男にとって都合のよい世界だ」という事実を指摘し、同時に「女にとって都合のよい性風俗がもっとあってもよいのではないか」という希望を書いている。


 そう考えてみると、自分が10代の頃、周りがセックスをしはじめた時、くわえ方とか握り方とか、みんな彼氏から教わっていた。女から男への施しは、まず男のほうからの「こうして欲しい」という要望からはじまるのが、習わし、ぐらいの感じだった。そして、セックスがはじめての10代の女から、男に対して「こうして欲しい」と言うなんていうのは「概念」すらなかった。まず、男のほうからフンガフンガとむしゃぶりついてきて、それに対応しながら自分の気持ちよさを探すという受動的な感じだった。そこに「演技」が存在するのは当然だ。男たちが「演技してるんじゃないか」という点にやたら心配しているのが謎だったが、それはセックスの前提として、「男の体については、男が知っている」「女の体についても、最初は男のほうが知っている」みたいな法則、いや「知っているということにしておきたい」という願望が、男側にあるからじゃないだろうか。男は特に10代後半、20代前半の頃は往々にして女に対して威張りたがるところがある。女よりも物知りで頭がよい風に振る舞いたがる。現実がそれと違う場合は、自己を改めるのではなく不機嫌になることで女側に圧力を感じさせ「すごい」と言うように誘導する。そういった特徴は男によく見られる。
 女は、男のように思春期の頃からオナニーしたり自分の性器に興味を持つことを肯定されてこなかった。そういった背景と、男の特徴と圧力により、「女の体については男のほうが知っている」かのように女も思ってしまう。セックスする前から、女の「演技」ははじまっているのである。

 ぼくもたいへんエロ本のお世話になっていたし、そこに書かれていることの八割ぐらいは真に受けていた。
「〇〇するのは女がヤりたがっているサイン!!」なんて記事を読んで本気にしていた。

 考えてみれば、性に関する知識を得る場ってものすごく限られてるんだよね。
「教科書に載っている表面的なお勉強知識」か
「エロ本に載っている眉唾話」か
「実践で得た知識」しかない。極端だ。
 先輩・友人から聞いた話だってそのそれかだし、今はエロ本じゃなくてインターネットになったんだろうけど書かれている話の信憑性は大して変わらない。基本的に「男にとって都合のよい話」であふれている。

 BLや宝塚歌劇のようにフィクションとして楽しめばいいんだけど、問題は「男にとって都合のよい話を男は信じてしまう」ことなんだよな。
 いやほんと、「電車の中で痴漢されたがっている女の見分け方」なんて記事はほんとに犯罪を誘発してる可能性あるからね。「男の願望だから」で済まされる話じゃない。

 でも昔に比べれば「女から見た性」についても語られる機会が増えた。インターネットという匿名/半匿名で語ることのできるメディアができたおかげで。
 本当に少しずつではあるけど、「性の世界の主導権を握るのは男」という状況は変わってきているのかもしれない。




〝健康な〟男たちはいつでも、自分を軸にものごとを考える。ヤリマンの話をすれば「俺もやりたい」と口に出したり、「ヤリマン=当然俺ともセックスする女」と思って行動するし、男の同性愛者の話をすれば「俺、狙われる。怖い」と露骨に怯えたりする。そこに、「他者の気持ち」「他者側の選ぶ権利」が存在することをすっ飛ばして、まず「俺」を登場させる。そのとてつもない屈託のなさに、いつも閉口させられる。理由は、「だってヤリマンじゃん」「だってゲイじゃん」のみ。
 自分が「男」という属性に所属している限り、揺るがない権利のようなものがあると彼らは感じているように、私には思える。それは彼らが小さい頃から全面的に「彼らの欲望」を肯定されてきた証しとも言えるのではないだろうか。

 なんのかんの言っても、この社会はヘテロの男を中心にできている。

〝自分が「男」という属性に所属している限り、揺るがない権利のようなものがあると彼らは感じているように、私には思える。〟
 この文章はぼくに突き刺さった。ぼく自身、まさにそうおもっていたからだ。いや、そうおもっていることにすら気づいていなかった。ほんとに無意識に享受していたから。

 べつに「男が女に欲情するのは当然のこと」と考えることはいいんだよ。生物として当然のことだし。
 でも、だったら「女が欲情するのも当然の権利」「ゲイが男に欲情するのも当然の権利」と考えなくてはならないし、自分が望まない性的願望の対象になることも受け入れなくてはならない。だけどほとんどのヘテロ男性は「それは気持ち悪い」と考える。
「若い男が性的にやんちゃするのはむしろ健全」とおもう一方で、「ぶさいくな女が色気出すんじゃねえよ」「あいつゲイなの。俺もエロい目で見られてんじゃねえのか、気持ち悪い」と考える。考えるだけでなく、ときには平然と口にする。その権利が自分たちだけにあるとおもっている。




  AVモデル(セミプロみたいな感じ)をしている女性と話したときの感想。

 かなちゃんは私ともすごく友好的に話してくれて、私も心から「いい子だな」と思ったし、もっと話してみたくなった。しかし私自身とはものすごく離れた存在だと思った。
 私はそういう人たちや現象に人一倍興味を持っているくせに、同時に警戒している人間だから、遠い。警戒は、軽蔑とも言い換えられる。尊敬も軽蔑も、「自分にはできないと認める」という意味では、同じことだと思った。
 私はかなちゃんみたいな自分の力ひとつで稼いで一人暮らししている女の子をものすごく尊敬もしてるけど、同時に軽蔑もしてるんだ、と分かった。今まで、風俗嬢やAV嬢に対して自分が持っている、蔑みと劣等感、矛盾した過剰な感情、これは尊敬と軽蔑、どっちなのだろうかという思いがあった。それが、両方であるということが分かって、「敬蔑しているんだ」と自分で認めることができて、すごくスッキリとした。

 そうなんだよ。ほとんどの人のAV女優に対する接し方って「穢れた商売をしている劣った存在」とみなすか、あるいは逆に「AV女優マジ天使、超リスペクト」みたいな感じで、いずれにせよ同等の人間と見ていない。
 ぼくらと同じように飯食って寝てクソして笑って怒って泣いて……という同じ感情を持った人間として見ていない気がする。もちろんぼくも。

 だってつらいもん。AVに出ている人たちが、自分や、友だちや、家族と同じような人間だと認めてしまうと、社会の矛盾に押しつぶされてしまいそうになるもの。どっか自分とはぜんぜん違う世界に生きている人たちだとおもいたい。

 早く精巧なフィギュアやVRが性産業の主役になって生身の人間にとってかわるといいなあ。でも性産業って女性の最後のセーフティーネットみたいになっているので、それがなくなってしまうのははたしていいことなんだろうか……。


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【読書感想文】もはやエロが目的ではない / JOJO『世界の女が僕を待っている』



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2020年12月16日水曜日

いちぶんがく その2

ルール

■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




突発的なテロを除けば基本的に治安は良い。


(JOJO『世界の女が僕を待っている』より)




「ハローワークでわかったんだけど、おれの単純な属性で判断されると、そんなものなんだよ」


(村上 龍『55歳からのハローライフ』より)




隷属する喜びというのは確かにあるのだ。


(櫛木 理宇『寄居虫女』より)




いきなりターミネーターばりの図体のでかいのが入ってきて、赤ん坊に「はい、あーん」と食べさせようとすれば。


(松原 始『カラスの教科書』より)




「絵の中にいる人間は、絵なんて描かないもんよ」


(山田 詠美『放課後の音符』より)




「萌え」というのは「萌える対象」があって始まるものではなく、「萌えたい」というこちら側の内側の都合で始まっていくものなのだ。


(堀井 憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』より)




現状の制度の何がいけないのかがよくわからないまま、変えることだけが先に決まっているように見えることさえあるのだ。


(中村 高康『暴走する能力主義 ── 教育と現代社会の病理』より)




よくしゃべるが聞く素養がなくおもしろくもない鬼から恋愛相談をされるとか、さすが地獄である。


(津村 記久子『浮遊霊ブラジル』より)




だが民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である。


(坂井 豊貴『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』より)




今日も元気だ、小便が旨い。


(石川 拓治『37日間漂流船長 あきらめたから、生きられた』より)





2020年12月15日火曜日

ルーツをたどる旅に出てしまう病

 どうも男は歳をとると、ルーツをたどる旅をしたくなるらしい。

『ファミリーヒストリー』というNHKの番組があるが、あの番組のゲストも男性が多い。
 男のほうが自身のルーツを気にするようだ。
 もしかしたら、男は苗字が変わらないことが多いのでルーツを意識しやすいのかも。完全夫婦別姓になったら女もルーツも気にするようになるのかも。


 図書館や大きい書店にはたいてい「郷土史」のコーナーがある。
 そこそこのスペースをとっているからわりと売れるのだろう。
 まことに勝手な憶測だが、おじいちゃんしか読んでいないイメージだ。


 ショートショートの神様と言われる星新一氏も、父親の生涯を書いた『人民は弱し官吏は強し』『明治・父・アメリカ』や、祖父の伝記である『祖父・小金井良精の記』といった著作を残している。

 漫画の神様・手塚治虫氏も『陽だまりの樹』で自身の曽祖父である手塚良仙について書いている(手塚治虫の曽祖父が江戸時代の人だと考えると、江戸時代ってけっこう近いなという気がする)。

 その分野の頂点を極めると先祖について調べたくなるものなのかもしれない。




 ぼくの祖父も晩年、若くして亡くなった父親(つまりぼくの曽祖父)のことを調べていた。

 曽祖父は裁判官をしていて法律の本を出したりもしていたので、古本屋をめぐって父親の著書を探していた。
 ぼくも祖父から「もし古本屋で〇〇(曾祖父の名前)の書いた本があったら教えて」と言われていた。

 残念ながらほどなくして祖父はガンで亡くなってしまった。おそらく曽祖父の著書には出会うことはなかった。


 こないだ国会図書館のWebサイトで著作権の切れた本が閲覧できると知ったので、曽祖父の名前で検索してみた。
 あった。めずらしい名前なのでまちがいない。
 鉄道法に関する著書を出していた。戦前の鉄道法に関する本。こんなもの誰も読まない。古本屋ですら店頭に並ぶことはないだろう。

 たぶんぼくが読まなかったらもう誰も読まないだろうな……。永遠に忘れ去られてしまうんだろうな……。
 会ったこともない人だけど、ぼくの曽祖父。この人がいなかったらぼくは生まれていなかった。

 なんらかの形でこの人のことを残したほうがよいのでは。おじいちゃんの遺志をぼくが引き継ぐ使命があるのでは……という気になってきた。


 はっ。いかんいかん。

 これは中高年男性が罹患しやすい「自分のルーツをたどる旅に出てしまう病」の初期症状だ。

 あやうく図書館の郷土史コーナーに通い詰めて先祖の伝記を執筆して自費出版してしまうところだった。
 そうなったらもう手遅れだ。あぶないところだった。


2020年12月14日月曜日

【読書感想文】車と引き換えに売られる食の安全 / 山田 正彦『売り渡される食の安全』

売り渡される食の安全

山田 正彦

内容(e-honより)
私たちの暮らしや健康の礎である食の安心安全が脅かされている。日本の農業政策を見続けてきた著者が、種子法廃止の裏側にある政府、巨大企業の思惑を暴く。さらに、政権のやり方に黙っていられない、と立ち上がった地方のうねりも紹介する。

 堤未果さんの『日本が売られる』『(株)貧困大国アメリカ』、高野誠鮮、木村秋則両氏による『日本農業再生論』などで書かれていたことが、いよいよ現実になろうとしている。
 日本の農業が海外の大手企業に売られようとしている。日本政府の手によって。

 モンサント社というアメリカの会社があった(今は買収されてバイエルになった)。
 グリホサートという農薬を作り、その農薬に耐性を持つ遺伝子組み換え作物などを販売している会社だ。
 グリホサートは人体に害をもたらすことがわかり、今は世界各国で使用が厳しく規制されている。また遺伝子組み換え食品も安全性が証明されていないため、遺伝子組み換え食品であることの表示がスーパーやレストランで義務化されている。

 が、世界的な流れに逆行するように、グリホサートの仕様基準をゆるめ、遺伝子組み換え食品を販売しやすくしている国がある。日本だ。

 これまで見てきたように、世界では有機栽培への流れが加速している。アメリカやEU、韓国はもちろん、ロシア、中国もあらたなビジネスチャンスとして国を挙げて後押ししている。世界のそういった流れのまったく逆を行くのが、驚くことに日本だ。
(中略)
 2017年1月、厚生労働省は、突然グリホサートの残留基準を緩和した。  小麦はそれまで5ppmだったのが、一気に6倍に引きあげられて30ppmに、ソバは0.2ppmから150倍の30ppmへ、ひまわりは0.1ppmから400倍の40ppmへそれぞれ緩和された。
 厚生労働省は、グリホサートに発がん性などが認められず、一生涯にわたって毎日摂取し続けても健康への悪影響がないと推定される一日あたりの摂取量として設定したという。もちろん、額面通りに受け取ることはできない。
 第五章で記したように、EUをはじめとして、世界はグリホサートの使用を禁止する方向へ動いている。アメリカの裁判でもモンサントが発がん性を認識しながらも隠蔽を行っていたことが明らかになり、巨額の賠償金を命じられている。世界の動きを知らないのか。

『売り渡される食の安全』には、日本の農業が世界の流れに逆行する姿がくりかえし書かれている。

「国家が主導して遺伝子組み換え作物を使わせようとする」
「既存の種を保護するための法律を撤廃し、種子保護のための予算を削減する」
「グリホサートの残留基準を緩和する」
「遺伝子組み換えでないことを表示するための基準を達成不可能なレベルに厳しくして、実質的にすべての食品が表示できなくする」
といった、政府・農水省の動きが紹介されている。

 そんなばかな、とおもうだろう。
 なぜ日本政府が率先して食の安全を海外に売り渡そうとするのか、と。
 そんなことをするはずがないじゃないか、と。

 だが、著者(元農林水産大臣)は、政府が食の安全を売り飛ばしている背景をこう分析している。
 たとえばアメリカが日本車に高い関税を課すのを避けるために、代わりに農業を差しだしている、と。日本の農業市場を明け渡すことで、工業製品への関税をお目こぼししてもらおうとしているのだと。

 これは著者の推測だが、だいたいあっているだろうとぼくもおもう。
 たとえば今年(2020年)、日本政策投資銀行が日産自動車へ融資した1800億円のうち、1300億円に政府保証を付けていた。もしも日産自動車が返済不能になっても1300億円は国が補填する、ということだ。税金を使って一企業を保護しているわけだ。
 コロナで困っている企業、団体、個人は山ほどいるのに、国が真っ先に保護しているのは自動車メーカーだった。
 また、医療機関がひっ迫している中でGoToキャンペーンをやっていることを見れば、ある業種を守るために他の業種を切り捨てることぐらいは今の政府なら平気でやるだろうなとおもう。


 海外では厳しく規制されている農薬・遺伝子組み換え食品が日本では積極的に売られている。
 とすれば、農薬・遺伝子組み換え作物を作っている企業からすると日本は絶好の狩り場だ。どんどん参入する。
「日本の食べ物は安全」とおもっているのは日本だけで、世界的にはまったく信頼されていないということが『日本農業再生論』にも書かれていた。




 農業や水は生命に直結するものなので、経済的な損得だけで判断してはいけない。「半年間農産物の供給がストップしますがつらいのはみんな同じです。がんばって乗りこえていきましょう!」というわけにはいかないからだ。
 割高になっても安定的に供給するシステムを守っていかなくてはならない。

 だが、ここ十年ほどの日本政府は規制緩和の名のもとにどんどん農業や水や医療といった市場を海外に向けて開放している。
 参入が増えれば価格は下がり、一時的に消費者は恩恵を被るだろう。だが万が一の事態に(たとえば世界的大凶作になったときに)資本家たちは「日本市場は利益にならんから手を引くわ」となる可能性がある。
 そうならないように種子法を含む様々な法律で(一見不利益に見えても)インフラを守ってきたのだが、その仕組みがどんどん破壊されている。

 どう考えても話が逆だ。
 自動車は自由競争に任せればいい。日本の自動車が売れないなら代わりの産業を築かなくてはならない。じっさい、国を挙げて自動車産業を保護しているうちに、非ガソリン車の分野で日本メーカーはどんどん遅れをとろうとしている。そりゃそうだろう。売れなくなっても国が守ってくれるんだもの。

 人類の歴史を振り返れば、たとえば19世紀なかごろのアイルランドではジャガイモ飢饉によってもたらされた飢えや伝染病によって、100万人を超える犠牲者が出たとされている。主食としていたジャガイモが、北アメリカ大陸からもちこまれたと見られる葉枯病でほぼ全滅となったことが原因だった。当時のアイルランドでは、1種類のジャガイモだけが栽培されていたようだ。瞬く間に蔓延していった葉枯病に対抗しうる手段は残念ながらなかった。
 第二次世界大戦後、ロックフェラーなどの財団が「緑の革命」として、イリ米と称して化学肥料を多用させて多収穫を目指す品種がアジア一円に広がった。ところがウイルスに感染して、アジアのお米は全滅に近い被害をこうむった。幸い、インドにあった一品種がウイルスに耐性を持っていて、救われた。日本でも、第一章で記したが、93年の冷害で甚大な影響が出た。このような例は枚挙にいとまがない。
 多様な品種が存在するからこそ、予期せぬ気候変動や突然のウイルスの感染、病害虫の大量発生などから、生きていくうえで欠かせない米を救うことができる。日本は地域ごとに土壌や気候の多様性に富んでいる。特定のエリアでしか栽培されていない品種は、地域振興を進めていくうえでの看板をも担ってきた。くり返しになるが種子法によって、米作りが公的な制度や予算で支えられる状況が維持されてきたからにほかならない。
 種子法の廃止や農業競争力強化支援法によって、民間企業の進出がさらに促されればどうなるか。
 株式会社では利益を生み出すことが何よりも優先される。コストや労力をかけて数多くの品種を維持するよりは、同一品種を広域的かつ効果的に生産していくだろう。政府が掲げる品種数の集約が進めば、リスクが高まることは自明の理なのである。

 今回のコロナ騒動を見れば、自然を予測・制御することは不可能だとわかる。

 均質な遺伝子を持った作物を育てていれば、病気の蔓延や害虫の大量発生などがあった場合に全滅してしまう可能性がある。
 たとえば日本にあるソメイヨシノはすべて元は一本の樹なので、遺伝子がまったく一緒だ。ソメイヨシノに強い病気が流行ったらあっという間に全滅してしまうだろう。ソメイヨシノなら「花見ができなくて残念だ」で済むが、米や小麦なら命にかかわる。

 農業に関しては非効率でも多様性を残し、国が保護しなきゃいけないよね。
 今回のコロナで、「ムダがないと何かあったときに対応できない」ということがみんな骨身にしみてわかっただろうし。


【関連記事】

【読書感想文】「今だけ、カネだけ、自分だけ」の国家戦略 / 堤 未果『日本が売られる』

【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』



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2020年12月11日金曜日

【読書感想文】今ある差別は差別でない / 北村 英哉・唐沢 穣『偏見や差別はなぜ起こる?』

偏見や差別はなぜ起こる?

心理メカニズムの解明と現象の分析

北村 英哉  唐沢 穣

内容(e-honより)
必然か?解決可能か?偏見や差別の問題に、心理学はどのように迫り、解決への道筋を示すことができるのか。第一線の研究者が解説した決定版。


 まるで教科書のような本だった。
 もっとはっきり言うと、つまらない。国籍、障害、見た目、性別、性嗜好、年齢などいろんな分野の差別・偏見の問題を網羅的に取り扱ってはいるのだが、網羅的すぎて引っかかりがないというか……。
 教科書を読んでいるみたいだった。
 うん、そうだった。教科書ってつまらなかった。ひととおり過不足なく書いてるんだけど、その過不足のなさがつまらなかった。おもしろいのは〝過剰〟な部分だからね。




 この例のような微かな偏見や、その偏見を手がかりとした差別は現実にも実行されている。ただし、差別をしている者は、自分が差別しているという自覚をもたず、自分のことを平等主義的だと信じ込む傾向があり、彼らはさらに、差別される側に同情的であり、少数派集団の人たちに対しての好意や同情を積極的に示そうとすることもある。この無自覚の偏見がふとしたはずみで表に出ることもあるが、そこで本人が自分の偏見や差別に気づくとは限らない。ここでの偏見や差別は何らかの形で正当化され、差別した当人は自分のことを平等主義的だと思い続けることができる。たとえば、少数派集団の一人に嫌な感じを抱いたとしても、その感情が自分の偏見から生じた敵意や嫌悪であるとは考えず、そのときやりとりしていた相手の個人としての言動が自分に嫌な感じを抱かせるものだったと考えることができ、結果的に当人の偏見は放置され、微かな差別が続いていく。

 これは常々おもっている。
「自分は差別をしていない」「これは差別とおもわれたら困るんだけど」みたいなことを言う人間こそが差別丸出しの発言をする。
 差別であることを責められても「誤解を招いたのであれば申し訳ない」と謝罪にならない謝罪で切り抜ける。

 人は差別や偏見からは逃れられないのだとおもう。なぜならそれこそが知恵だから。
「集団Aのメンバーが悪いことをした。集団Aのまた別のメンバーも悪いことをした。集団Aは悪いやつらだ」
と判断することで、人間は生きぬいてきたのだから。
 偏見を持たない人間は生きられなかった。「先月あそこに行ったやつが死んだ。先月べつのやつが行って死んだ。でもまあおれは大丈夫だろう」と考える人間は命を落とす確率が高くて子孫を残せなかった。
 偏見を持つ人間の子孫が我々なのだから、偏見を持たないわけがない。
 ぼくもリベラリストを気取ってはいるが内心では××や△△をバカにしまくってるし。

 偏見を持たないのはバカだけだ(これこそ偏見かもしれないが)。
 必然的に差別もなくならない。
 そもそも差別だって合理的な理由をつけられる場合がほとんどだからね。「高齢者が身体的能力も知的吸収力も衰えるので採用しません」ってのは年齢差別だけどほとんどの人はそこに一定の合理性を感じるだろう。

 だから「差別をなくそう」ではなく、「差別感情がなるべく実害につながりにくい世の中にしよう」ぐらいの目標を立てたほうがいいよね。




 以前、『差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準』という文章を書いた。
 世の中には「許されない差別」と「許される区別」がある。

 たとえば「女性だから採用しません」は、力仕事とかでないかぎりは言ってはいけないことになっている。
「〇〇地域の人は採用しません」もダメだ。
 でも「三十代までしか採用しません」は原則ダメだがほとんどの会社がやっている。
「応募資格:大卒以上」は堂々と掲げられている。
 大卒以上がよくて男性のみがダメな理由を論理的に説明できる人はいないだろう。なぜならそこに論理的な違いはなく、「今まで慣例的におこなわれてきた線引きかどうか」だけで判断しているからだ。


『偏見や差別はなぜ起こる?』では、差別が起こる理由として「システム正当化理論」が紹介されている。

 ジョン・ジョストらは、我々がこのような不公正な現状に折り合いをつけようとするプロセスを、システム正当化理論(systemjustificationtheory)で統合的に説明しようと試みている。この理論によると、人には現状の社会システムを、そこに存在しているという理由のみで正当化しようとする動機(システム正当化動機)がある。なぜなら、人は不確実で無秩序な状態を嫌うがゆえ、たとえ現状のシステムに問題があったとしても、それを織り込んだうえで予測可能な社会の方がはるかに心地よいと考えるからである。現状の社会秩序の肯定は、恵まれた、社会的に優位な集団の成員にとっては自尊心の高揚にもつながり精神状態を安定させる。恵まれない、社会的に劣った集団に属する成員にとっては、現状の肯定は自尊心を低下させ精神状態の悪化につながる。しかし同時に、現状を受け入れさえすれば、「なぜ私はこのような恵まれない集団に属しているのか」という、個人レベルでは解決が困難な問いからは解放される。個人や所属集団の成功に対する関心が薄い場合、恵まれない劣位集団において現状のシステムを受け入れる傾向はさらに強くなるという。

 この説明はすごくしっくりくる。

 そうなのだ。
 我々は絶対的な正/悪の基準を持っているような気になっているが、そんなものはない。
「今あるものは正しい。今認めらていないものは悪い」で判断しているだけだ。

 だから「男子校・女子校はOK。でも血液型A型しか入れないA型校は差別」とおもってしまうのだ。本質的な違いはないのに。

 自分の信ずるもの、頼るものの一つが権威や現状の社会のあり方そのもの(現状肯定)であった場合には、これを批判する者が敵に見えてしまう。自分が大切にするものの価値を貶める言説に出会うと屈辱感を感じる。ここにも現状肯定派と改革派との根深い対立の芽がある。本来、同じ社会で生きる者は、互いに知恵を出し合って、みんながより生きやすく、住みやすくしていく改善策があるのならば、改善とその方法を議論し、共有していくことが理想的であろう。しかし、現状を肯定するあまり、そうした「改善」についてもみずからの存立基盤を脅かす批判をなすものとして、過剰に警戒し、敵意を抱くといった反応が呼び覚まされることがあるのだ。
 議論を勝ち負けの勝負、競争と見てしまうと、たとえみずからが利益を享受するような改革であってもみずからが提案、主導したもの以外はすべて敵意をもって対するといった非合理的な対応が現実に現れることになる。議論や交渉という場をどのような枠組み、フレーミングで理解するかといった解決態度の違いによって不毛な対立を続けたり、それを避けたりすることができるのだ。

 この姿勢は政治や政策に対する議論でもよく見られるよね。
 今のシステムを最良のものとみなして、それにそぐわない案は(たとえ改善案であっても)すべて否定する姿勢。

 日本政府を批判すると「そんなに日本が嫌なら日本から出ていけ!」という人たち。
 日本が好きだからより良くしたいのに……という正論はそういう人には通じない。なぜなら彼らにとっては常に「今が最良」なのだから。


 偏見・差別に関する議論よりも、この「システム正当化理論」についてもっと深掘りしてほしかったな。
 システム正当化理論に関する本を探してるんだけどなかなか見つからないんだよな……。


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差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準

刺青お断り



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2020年12月10日木曜日

牛のいる生活

 父母はともに昭和三十年生まれだ。
 だが生まれ育った環境は大きく違う。

 母の父は建設省(今の国土交通省)の国家公務員だった。地方都市を転々としていたが、その暮らしは決して苦しいものではなかったようだ。
「休みの日になると父の取引先の人が来て、庭の手入れをしてくれた」
「犬が死んで悲しんでいたら、その話を聞いた父の取引先の人が犬を贈ってくれた」
など、今の時代だったら贈収賄で完全アウトな話を母から聞いたことがある。
 当時は役人に贈り物をするのはあたりまえだったようだ。

 一方の父の育ちはまったく違う。
 福井県の小さな村で育った(今は町になっているが)。農家。
「囲炉裏を囲んでごはんを食べていた」
「冬は家の中に牛を入れていた」
 といった、日本昔話みたいなエピソードを持っている。農家なので、乳牛でも肉牛でもなく役牛だ。トラクター代わりの牛。
 豪雪地帯なので冬は雪をかきわけて小学校に通い、歩いて通える距離に中学校がなかったので中学生で既に下宿をしていたそうだ。

 母が手塚治虫の漫画やアニメに夢中になっていた頃、父は中学生にして下宿をする日々。とても同じ時代を生きた人とはおもえない。

「うちは親父が農閑期に運送業をやっていたので村の中で一軒だけ電話を引いていた。それが自慢だった。村中みんなうちに電話を借りに来た」と語る父と、
「電話なんかどの家にもあった。その頃うちは子どもたちがチャンネル権争いをしていた」と語る母。

 まったく生い立ちがちがう。
 たぶん結婚当初はいろいろたいへんだっただろうな。価値観がちがいすぎて。


 父は大阪の大学に出てきて、大阪で就職した。大阪で働き、横浜や東京やカイロに単身赴任をしていた。
 今は郊外の家でPCを使いリモートワークをしている。家に牛はいない。

 幼少期と老年期でここまでちがう暮らしをしている人は、人類の歴史をふりかえってもそう多くはいないだろうな。


2020年12月9日水曜日

【読書感想文】ぼくやあなたたちによる犯罪 / 加賀 乙彦『犯罪』

犯罪

加賀 乙彦

内容(河出書房新社ホームページより)
ある日突然、何処かでそっと殺意が芽生える! さりげない日常に隠された現代人の魂の惨劇が、様々な人間模様の底から露わにされて行く――。名作「宣告」に続く犯罪小説集。

 医学者であり犯罪学者でもある作家による犯罪小説集。
 フィクションではあるが実在の事件をモデルにしているらしい。

 残忍な連続殺人犯などは登場せず、ごくごくふつうに暮らしていた善良な市民がある日突然殺人、放火、窃盗といった犯罪に手を染める姿を丁寧に描写している。

 ぼくは犯罪に手を染めたことが(まだ)ないし、身内にも犯罪者は(たぶん)いないので想像するしかないのだけど、人が犯罪に走るときってこんな感じなんだろうなーというリアリティを感じる。

 こないだ河合 幹雄『日本の殺人』という本を読んだ。
 それによると、殺人犯の大半は人殺しが好きな凶悪犯などではなく、ごくふつうに生きていた人たちが何かのはずみで手をかけてしまったケースだ。殺すのも家族や顔見知りが大半で、「見ず知らずの人を殺す」というのはニュースで大々的に報道されるから印象に残りやすいがじっさいは例外中の例外なのだという。

 この『犯罪』で描かれる事件も、おおむね現実に即している。犯罪とは無縁の生活をしていた人が何かの拍子にかっとなって殺してしまう。
 『大狐』という短篇では狐に憑かれたような状態になって人を殺してしまう男が出てくるが、まさに「狐に憑かれた」「魔が差した」としか言いようのない殺人事件はあるんじゃないだろうか。自分でもなぜ殺したのかわからない、というような。
 ぼくは人を殺したことはないけど、「あのときなんであんなに怒ったんだろう」「つい乱暴な物言いをしてしまったけど今おもうとぜんぜん大したことじゃなかった」とおもうことがある。たぶん、たまたま寝不足だったとか腹が減ってたとか、原因は些細なことなんだろうけど。

 たいていの場合はそれでも「家族に怒鳴ってしまった」ぐらいで済むのだろうが、めぐりあわせが悪ければ人を傷つけたり、あるいは殺してしまうこともあるかもしれない。
「あのときはちょっと言いすぎたな」と「かっとなって殺してしまった」は別次元の話ではなく、地続きのものなのだ。

 ほとんどの殺人は、平気で人を殺せる別人種による犯行ではなく、ぼくやあなたのような人たちの失敗なんだおもう。


『犯罪』は犯罪学者が書いたものだけあって、そのへんの書き方がすごく丁寧だ。

 また分析も教訓もなく、ただ事実をもとに想像で補いながら淡々と事実と当事者の心境の変化を書いているのも誠実な態度だ。
 素人にかぎって「犯罪者の心理」を決めつけるけど、そんなことわかるわけがないんだよね。真実など誰にも(加害者当人にも)わからないんだから。


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【読書感想文】犯罪をさせる場所 / 小宮 信夫 『子どもは「この場所」で襲われる』



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2020年12月8日火曜日

ツイートまとめ 2020年4月


コロナ関連

バブル

なぞなぞ

ニコリ

千年後

麻薬

大喜利

2020年12月7日月曜日

【読書感想文】どこをとっても思いこみ / 押井 守『凡人として生きるということ』

凡人として生きるということ

押井 守

内容(e-honより)
世の中は95%の凡人と5%の支配層で構成されている。が、5%のために世の中はあるわけではない。平凡な人々の日々の営みが社会であり経済なのだ。しかし、その社会には支配層が流す「若さこそ価値がある」「友情は無欲なものだ」といったさまざまな“嘘”が“常識”としてまかり通っている。嘘を見抜けるかどうかで僕たちは自由な凡人にも不自由な凡人にもなる。自由な凡人人生が最も幸福で刺激的だと知る、押井哲学の真髄。

 つれづれなるままにつづったエッセイ。

 まったくのどに引っかかることのないゼリーのような文章。ゼリーももちろん需要はあるのだけど(主にファンからの)、仮にも新書として出すのであればもうちょっと骨のある文章を書いてほしい。腹へってんのに流動食出されたら怒るぜ。

 奥付を見てみたら、2008年刊行。ああ、なるほど。
 この時期に出版された新書ってゴミクズが多いんだよなあ。新書がよく売れて(というか他の書籍や雑誌が売れなくなって)、なんでもかんでも新書にしていた時代だから。


 ぼくは押井守という人を名前しか知らない。アニメも映画もほとんど観ないので。そんな人間にとってはまったく読む価値のない駄文だった。

 個人ブログをそのまま本にした文章。

 親が自分の子供を虐待して殺してしまったというニュースを、最近よく耳にするようになった。児童虐待の報告件数もこのところ急増しているようだ。
 もっとも実際はどうなのか、と言うとどうもはっきりしない点もある。幼い子供の命を、親の手による虐待から救えなかったという反省もあって、近ごろは家庭内での児童虐待もすぐに通報されたり、児童相談所が家庭内に立ち入って調べたりするようになったので、児童虐待が表に出る件数が単純に増えているのかもしれないからだ。
 しかし僕はある根拠から、確かに虐待は増加しているのではないかと思っている。つまり、親による子供の虐待は文明が必然的にもたらした結果だと考えるからだ。
 近ごろの若者はセックスに興味を持たないとか、嫌がるといった話もよく耳にする。それもこれも、僕は人類の文明化がもたらしたものであり、おそらく先進国ではどこでも同時に起きている現象ではないかと考えている。

 終始こんな感じ。
 社会問題を斬るのに、掲げる武器はただひとつ。「己の思いこみ」のみ。
 一切の根拠はない。まず「児童虐待が増えている」「近ごろの若者はセックスに興味を持たない」という前提が正しいかどうかを調べようとすらしない。
 ちょっと調べればいくらでも先行調査が出てくるのに「都合のいいデータを引っ張ってくる」ことすらしない。
 思いこみを出発点にして、思いこみを元に考察を重ね、思いこみで結論を下す。
 重ねていうが、仮にもこれが新書として出されてるんだよ。エッセイとしてもレベルが低いとおもうが(だって論が乱暴なだけでおもしろくないんだもの)。


 思いこみ、偏見、くりかえし、よく聞く話のオンパレード。全国の居酒屋で一万人のじいさんが「俺がおもうには」としゃべってる「なんら新しい切り口のないつまんない持論」みたいなのがひたすら続く。

 すっかりうんざりしてしまって、後半は
「もう、おじいちゃんったらしょうがないわねえ。いつまでも昭和を引きずってちゃだめよ」
と、介護するような気持ちで読んでいました。


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【読書感想文】ただのおじいちゃんの愚痴 / 柳田 邦男『「気づき」の力』



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2020年12月4日金曜日

【映画感想】『凶悪』

 

『凶悪』

(2013)

内容(Amazonより)
史上最悪の凶悪事件。その真相とは?
ある日、雑誌『明朝24』の編集部に一通の手紙が届いた。それは獄中の死刑囚(ピエール瀧)から届いた、まだ白日のもとにさら されていない殺人事件についての告発だった。彼は判決を受けた事件とはまた別に3件の殺人事件に関与しており、その事件の 首謀者は“先生”と呼ばれる人物(リリー・フランキー)であること、“先生”はまだ捕まっていないことを訴える死刑囚。 闇に隠れている凶悪事件の告発に慄いた『明朝24』の記者・藤井(山田孝之)は、彼の証言の裏付けを取るうちに事件に のめり込んでいく……。

 実際にあった事件(上申書殺人事件)を元にした映画。

 ピエール瀧演じる須藤という男は、なんとも凶悪。暴力団組長であり、死体を切り刻んで焼却したり、土地欲しさに生き埋めにして殺したり、保険金目当てに大量の酒をむりやり飲ませて殺したり、殺人、死体遺棄、レイプ、覚醒剤、放火、ありとあらゆる犯罪をおこなう。一切のためらいもなく。

 そしてもうひとりの「凶悪」が、リリー・フランキー演じる〝先生〟と呼ばれる人物だ。
 先生は自分で手を下すことこそ多くないが、殺人や保険金詐欺を計画して須藤に実行させる。

 このふたりの怪演が光る。電気グルーヴの映像作品を何度も観て、『東京タワー』や『おでんくん』の作品に触れたぼくでも、ピエール瀧とリリー・フランキーを大嫌いになりそうになる。それぐらい悪人の演技が見事。

 しかしピエール瀧が大麻所持で逮捕されたときでも、ピエール瀧が覚醒剤を取り扱うこの映画の配信を止めなかったAmazon Primeの判断はすごい。
「役者のプライベートと作品の価値は無関係だろ」とおもっているぼくですら、「これ公開しても大丈夫なの?」と心配するレベルだ。


 ストーリーとしては、須藤が捕まり、週刊誌記者の執念深い取材の結果〝先生〟も逮捕されて懲役刑を下されるのだが、わかりやすい「悪 VS それを追いつめる正義の記者」でないのがいい。

 記者はたしかに使命感に燃えて事件取材にあたるのだが、彼の行動も決して褒められたものではない。
 認知症である実母の介護を妻に押しつけ、家庭のことは一切顧みない。妻は追いつめられ、記者の家庭は崩壊する。
 家庭人として見たら、この記者もまたクズ野郎だ。

 そして、凶悪犯である須藤や〝先生〟も、大笑いしながら見ず知らずの人間を殺す一方で、子どもと楽しくクリスマスパーティーをしたり、弟分をかわいがったり、近しい人物から「情に厚い」と評されたりする。

 こういう描写があるからこそ、余計に彼らの凶悪さが際立つ。
 決して彼らは別世界の住人ではなく、我々の隣人で愛想よくしている人間なのかもしれない。いやそれどころか、我々の中にも「凶悪」は眠っているのかもしれない。


 いちばん凄惨だったシーンが「老人にむりやり大量の酒を飲ませ、スタンガンで危害を加えるシーン」だ。
 このシーンで、須藤と〝先生〟はめちゃくちゃ楽しそうに笑うのだ。電気ショックを受けて苦痛に身をよじらせる老人の真似をして、息ができなくなるぐらい笑う。ほんとに心の底から爆笑しているという感じ。

 まるで、バラエティ番組で身体を張っている芸人を見る我々のような顔で。


2020年12月3日木曜日

重箱の隅

コンビーフの缶は台形ではなく四角錐台だ(角が丸くなっているので正確には四角錐台でもないが。



「逆三角形」はおかしい。
頂点が上を向いていようが下を向いていようが三角形は三角形だ。

あえていうなら、下の図の黒い部分のような図形(三角形をくりぬいた形)は「逆三角形」と呼べるかもしれない。



「棒を垂直に立てる」という言い方がいやだ。

垂直は対象に対して90度の角度を差す言葉なので、
「棒を地面に対して垂直に立てる」または「棒を鉛直に立てる」と言うべきだ。
〝水平〟はよく使われるのに、〝鉛直〟は日常的には使われない。



万里の長城。

たいていの人はチョー↑ジョー↑と「頂上」のイントネーションで発音している。
だが〝長い城〟なので、入城とか荒城とかと同じく「→ →」と平坦に発音するのが正しいのではないか。



最近知った「地方によって呼び名が変わるもの」。
ぜんざい。

ぼくは関西で生まれ育った人間なので、ぜんざいといえば小豆汁なのだが、関東のぜんざいは汁なしなのだそうだ。
関西人にとってのぜんざいは、関東では「しるこ」だそうだ(関西ではぜんざいがつぶあん、しるこがこしあんだとWikipediaには書いてある)。

ぼくが関西人だからかもしれないが、濁音の多いぜんざいがつぶあん、清音のしるこがこしあん、という関西風の呼び名がしっくりくる。

「地方によって呼び名が変わるもの」はいろいろある。
スコップとシャベルとか、ワイシャツとカッターシャツとか、豚まんと肉まんとか、ぶた汁ととん汁とか。

日本語はひとつのようで、案外統一されていないのだ。


北を「上」と呼ぶことについて。
細かいことを気にする性質なのに、「北を上と呼ぶこと」は気にならない(自分が呼ぶことはないが)。

なぜならそっちのほうがわかりやすいから。

東と西の感覚ってむずかしくない?
頭ではわかっているが、いまだに肌感覚としては身についてない。

「東が右、西が左」とおぼえてはいるが、東が上の地図を見たりすると「ええと、南はどっちだったっけ」と当惑する。
英語のEASTとWESTも毎回迷う。
いつも「ええと、極東がFAR EASTだから……EASTが東か」とおもう。

東西って人間の身体になじまない概念なんじゃないだろうか。
「西を向いたとき、右斜め後ろの方角は?」と訊かれて、考えずに即答できる人はどのぐらいいるのだろうか。


2020年12月2日水曜日

【読書感想文】インド人が見た日本 / M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

喪失の国、日本

インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」

M.K.シャルマ(著) 山田 和(訳)

内容(e-honより)
インド人エリートビジネスマンが日本での赴任経験を語った体験記。90年代に日本が喪ったものを、鋭い観察力で描いた出色の日本人論

 これはおもしろい!! 今年いちばんおもしろかった。

 たまたま古本屋で見つけた本なのだがもう絶版になっているらしい。もったいない。今読んでもめちゃくちゃおもしろいのに。

 この本が日本語に訳されることになったきっかけがもうおもしろい。

 訳者がインド・ニューデリーの書店で元本を購入。だがデーヴァナーガリー文字・ヒンズー語で書かれていたので読むことはできなかった。
 その後、ニューデリーから遠く離れた町を旅していると、インド人から家に来ないかと誘われた。危険を感じながらも男の家に行き会話をしていると、なんとその男が件の本の著者であることがわかった……!

 というなんともできすぎた話。インドには約10億の人がいるのに、たまたま著者に出会うなんて。
 そして著者に英訳してもらい、英文を和訳する形で日本語版刊行の運びとなったのだとか。
 神も仏も信じないぼくでも、このエピソードには神秘的なものを感じずにはいられない。神秘の国・インドだから余計に。




 日本語版刊行に至った経緯もおもしろいが、中身はもっとおもしろい。
 インドの会社員である著者シャルマ氏が、業務で来日。会社から与えられた使命は「日本のことを知ること」。遊んでいてもいいから日本の暮らしを見聞きするように、というなんともうらやましい使命を帯びて1992年に来日している。

 1992年といえばバブル崩壊期とはいえまだまだ日本は世界トップクラスの経済大国。かたやインドは1991年に社会主義計画経済から自由主義経済になったところなので、まだまだ経済的には後進国。その差は大きかった。
 当然ながらインドから日本にやってきた著者にとっては見るものすべてが驚きだったらしく、その衝撃をみずみずしく伝えている。

「空港の係員が誰もワイロを要求しないし誰もが真面目に働いている」とか「バスの運転席に神棚も仏陀の聖絵も線香もない」といったことで驚いている。そんなことで驚いていることに驚く。
 インドってほんとに「我々が安易にイメージするインド」なんだなあ。三十年前の話だから今はどうだか知らないけど。


 以前、コリン ジョイス『「ニッポン社会」入門』という本を読んだ。日本在住のイギリス人記者によるエッセイ。プールに国民性が表れる、「猿も木から落ちる」「ずんぐりむっくり」「おニュー」といった表現の秀逸さ、日本的な行動とは何か……。どのコラムもおもしろかった。
 その本に書かれていたが、日本人は特に「外国人から日本がどう見られているか」を気にする民族らしい。ぼくもご多分に漏れず、「外国人から見た日本」の話が大好きだ。
 ふだんは意識しないことに気づかされる。

 たとえば『喪失の国、日本』のこんな文章。

 客を迎える部屋である「座敷」は、紙を張った障子戸で仕切られていた。その紙は、私が予想していたよりずっと薄いものだった。紙を透かして光が入ってくる。
 障子戸は、壁と窓(明取)と扉という三つの機能を兼ね備えていた。それは引き戸という、希有な、じつに知的な構造によって、壁になり、出入口にもなり、そこから人が現れたり吸い込まれたりするのだった。開閉のためのスペースがまったく要らない発想には感心した。

 障子なんて何度も見てるけど、こんなに深く考察したことなかった。たしかに、壁と窓と扉の三つの機能を兼ね備えてるな。言われてみると、すごくよくできたシステムだ。もしガラスが発明されていなかったら、障子が世界中で使われていたかもしれない。


 高野秀行さんの『異国トーキョー漂流記』 という本に、
「日本人がインド旅行に行くとただの乞食にまで深淵なるインド哲学を感じてしまうように、多くの外国人も日本に『東洋の神秘』を求めてやってきて、何の変哲もないものに勝手に『東洋の神秘』を感じて帰っていく」
みたいなことが書かれていた(十数年前に読んだ本なのでうろ覚えだが)。

 シャルマ氏も、日本のあれこれに「東洋の神秘」を見出す。

 日本では「学ぶ」ことは教えを乞う行為なのではなく、手伝いをすることであり、ひたすら自我(アートマン)を滅して師に尽くしつつ、その間に師の技術を「盗む」ことなのである。したがって師はただ弟子を酷使し、場合によっては打擲する。
 カウンターの向こうで客と接する板前とその弟子は、下駄と呼ばれる木製の伝統的な靴を履いており、弟子が粗相をしたり仕事が遅いときは、下駄で弟子を密かに蹴飛ばす。それで弟子の足は、いつも生傷の絶え間がないという。師は蹴飛ばすときも客とにこにこ話をしていて、他の人間にはそのことを気づかせないということだ。
 それが師の愛の形で、日本では「しごき」という独特の愛の概念をもって理解されているそうである。これは、バラモン教以後に栄えた仏教の空(スーンニヤ)の思想の実践のように私には思える。日本の伝統料理文化の継承は、このような一種の宗教的「修行」にも似た形でなされる。これは「トレーニング」や「ラーニング」という概念ではなく、「アセティック」すなわち「苦行」という訳語が適当だろう。店内には小さな白木の神殿が祀られていたが、それを見て私はインドの道場(アカーラー)を思い出した。

 板前の大将が弟子を蹴飛ばしている姿に、シャルマ氏は仏教の〝空〟や〝苦行〟を見出す。
 おもしろい考察だけど、残念ながら考えすぎだよ。虫の居所が悪いから蹴飛ばすのを「愛によるしごき」って言ってごまかしてるだけだよ。残念ながらそこには哲学も宗教もない。あるのは身勝手さだけだ。




 シャルマ氏は知性的な人物の例に漏れず、ユーモアのセンスも一級品だ。

 二回目の西洋トイレの試みはさらに難解で、意表を突いたディズニーランドだった。便器の後部に機械がついていて、さまざまな押しボタンがあったが、それはトイレット・ペーパーを使用せずに用が足せる装置だった。
 正直いって私は恐れた。トイレ一つにもさまざまな操作知識が要求される。日本はインドのように、石器時代の名残をどこにも残していない。
 すべてがデジタル化されていて、私はコンピュータの技術訓練校に行かないまま本番に臨んだ生徒のように、やけっぱちな気分を味わった。それも、最も自由で最も個人的な空間であるはずのトイレで。
 私は慎重に、注意深く、ボタンの上に書かれた英語や絵文字の意味を読んだ。ボタンを押すと、便器の内部から尻を目がけて温水が出、そのあとに温風が吹き出した。おどろいて腰を上げたとき水が飛び散ったが、瞬時に止まったのは機械が自動検知したのにちがいない。何といってもおどろいたのは、「ここを押せ(プッシュ・ヒア・アフター・ユーズ)」と書かれたボタンを押したときだった。水が流れるとどうじに、便座を覆っていた紙がモーター音とともにするすると回りはじめたのである。
 梯子というのは、さらに一軒二軒と酒場を飲み歩くことである。そして多くの場合、次第に風紀の乱れた店に行くことである。
 稲田氏が最初の店で「私はピンク・サロンの常連でね」と言い出したとき、私はその意味を「共産主義的な会合にしょっちゅう出席している」という意味に受け取った。
 それで「これからピンク・サロンに行こう」と言い出したとき、何と真面目な人かと感心した。「呼称」がもつ差別について語るに値する人であると思ったのである。
 稲田氏の誘いに、皆が「よし行こう行こう」と言いはじめた。で、われわれはそこに向かった。が、そこは共産主義者の会合の場ではなく、おどろいたことに「ハーレム」だった。

 まるでコントだ。ユーモアあふれる描写が随所に光る。

 日本人が海外旅行して失敗した話もおもしろいが、外国人が日本で衝撃を受けた話はもっとおもしろい。




 シャルマ氏は生粋のインド人なので、宗教やカーストを常に心に持っている。
 それでいながら、日本という異文化に対する敬意を忘れず、なんとか溶け込もうとしている。異文化コミュニケーションのお手本のような姿勢だ。

 たとえば彼は豚肉を口にしないが、豚肉を食べる日本人のことを責めたり蔑んだりしない。日本には「お気持ちだけいただきます」という言葉があることを知るとなんとすばらしい姿勢かと感心し、自分も「お気持ちだけいただきます」といって豚肉を食べる相手と席を共にする。

 豊かな好奇心、克己心、理性、洞察力を兼ね備えている。なんとすごい人かとおもう。
 彼の異文化に飛びこむ姿勢に感心する。

 たとえば日本では知人の家に招待されたとき玄関で靴をそろえるのがマナーだが、インドでは「靴を触るのは低いカーストの人間だけ」という規律があるそうだ。

 だからシャルマ氏が日本の家に招待されたとき、彼は逡巡する。靴を触るなんてまるで召使じゃないかと。カーストのない国で育った我々には想像するしかないが、我々が外国で「家に招待されたときは主人の靴をなめるのがマナーです」と言われるようなものだろう。

 だがシャルマ氏はどれだけ抵抗を感じる行為でも、実害がないかぎりは極力日本式に従って行動する。そこに日本に対する深い敬意を感じずにはいられない。


 シャルマ氏は日本のテクノロジーに感心し、日本人の優しさや気配りの細やかさに最上級の賛辞を贈る。

 だが、日本に長く滞在し、日本のことや日本人のことを深く知るにつれ、彼は日本人の浅薄さ、傲慢さ、狭量さに次第に気づくようになる。
 後半は鋭い指摘が続くが、日本人としては耳が痛い。なぜならことごとく図星をついているからだ。

 表面上は反戦主義だが本当に過去の戦争に向き合ってない、押しつけられた反省を受け入れているだけ、グローバリゼーションなどと言いつつも見ているのは欧米だけ、欧米のやりかたは合わせるのに他のアジアの国は軽視して日本のやりかたを押しつけようとする、行く先の宗教や文化を調べようとしない、非効率な仕事ばかりしている、インドを安い労働力確保と市場拡大の場としかとらえておらずインドへの敬意も理解も持っていない……。

 これらの指摘はことごとく当たっている。日本に対する敬意を持ち深い理解をしようという姿勢を持っているシャルマ氏が言うから余計に突き刺さる。
 そして日本の欠点は二十年以上たった今でもほとんど改善されていない。90年代前半は日本をお手本にしようとしていたインドはその後完全に日本に見切りをつけ、アメリカに視線を定めたことがすべてを物語っている。
 そしてこれはインドだけではないだろう。技能実習生などといって海外の若者を食いつぶしている日本に向けられる目はどんどん厳しくなり、能力ある若者は日本よりもアメリカや中国を選ぶようになるだろう。

 タイトルにある『喪失の国』は、その後の日本の運命を見事に言い当てていた。




 引用したい部分が何十箇所もあったが、あんまりやると引用の範囲を超えてしまうのでやめておく。

 とにかくおもしろい本だった。
 くりかえしになるけど、絶版になっているのがつくづく惜しい。電子書籍にして残してほしい本だ。


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2020年12月1日火曜日

かー坊のこと

小学校一年生のとき、近所に「かー坊」という五年生のおにいちゃんがいた。

本名は川口とか川崎とかだったとおもうが、みんなからかー坊と呼ばれていた。
ぼくたち一年生も「かー坊」と呼んでいた。

かー坊はぼくたち一年生とよく遊んでくれた。
集団登校のときも、放課後も、休みの日も。
公園で、かー坊 VS ぼくたち一年生三人組 でラグビーをしたのをおぼえている。
マツナガくんがかー坊の上半身にしがみつき、ぼくがかー坊の下半身にしがみつき、その隙にエビハラくんがボールを抱えてトライを決めた。

かー坊がうちに来ていっしょにドンジャラをしたこともある。
かー坊が鼻くそをほじった手で「のび太のママの7」のパイをさわったので、ぼくらの中では「ママの7」は引くと嫌がられるハズレパイになった。

うちの母は「あの子はちっちゃい子と遊んでくれてやさしいねえ」と言っていた。

かー坊はぼくが二年生になるぐらいでどこかに引っ越していった。
すぐにぼくらはかー坊のことを忘れた。




高校生ぐらいのときに部屋の片づけをしていて、ドンジャラが出てきた。
そういやのび太のママがババ抜きのババみたいな扱いを受けていたなあ。
ひさしぶりにかー坊のことをおもいだした。

そして、不意にわかった。
ああ、そうか。
かー坊は「ちっちゃい子と遊んでくれるやさしいおにいちゃん」とおもっていたけど、ほんとは「ちっちゃい子しか遊び相手がいないおにいちゃん」だったんだと。

一年生のときはわからなかったが、自分が大きくなればわかる。
ふつう、五年生は一年生と遊ばない。
ごくたまに遊んだとしても、毎日のように遊んだりしない。
一年生の家に遊びに行ったりもしない。

だっておもしろくないもの。
同級生と遊ぶほうがずっと楽しいもの。

かー坊は、当時の言葉でいう〝知恵おくれ〟だったんだとおもう(当時は知的障害も発達障害もみんなひっくるめてそう呼ばれていた)。
だから同級生の遊び相手がいなかった。一年生と遊ぶほうが楽しかった。


当時はなんともおもわなかったことが線でつながった。
集団登校のとき、かー坊が一年生といっしょに歩いていて、他の五年生は話しながら歩いていたこと。
人前で鼻くそをほじることからもわかるように、異様にだらしなかったこと。
五年生になっても「かー坊」と若干見下したようなあだ名で呼ばれていたこと。
母の「あの子は優しいねえ」という言葉も、たぶん素直な称賛ではなかったのだろう。


でも、当時のぼくらにとってはまちがいなくかー坊は「優しいおにいちゃん」だった。
一年生三人がかりで五年生にラグビーで勝ったことからは、いろんなことを学んだ。

でもママの7に鼻くそつけたことはまだ恨んでるからな、かー坊!



2020年11月30日月曜日

【読書感想文】タイトル負け / 塩田 武士『騙し絵の牙』

騙し絵の牙

塩田 武士(著)  大泉 洋(写真)

内容(e-honより)
出版大手「薫風社」で、カルチャー誌の編集長を務める速水輝也。笑顔とユーモア、ウィットに富んだ会話で周囲を魅了する男だ。ある夜、上司から廃刊の可能性を匂わされたことを機に組織に翻弄されていく。社内抗争、大物作家の大型連載、企業タイアップ…。飄々とした「笑顔」の裏で、次第に「別の顔」が浮かび上がり―。俳優・大泉洋を小説の主人公に「あてがき」し話題沸騰!2018年本屋大賞ランクイン作。

 俳優である大泉洋さんのキャラクターをイメージして書いた「あてがき小説」なんだそうだ。

 その試みが成功しているかどうかは……残念ながらぼくがドラマも映画もほとんど観ない人間なので(『水曜どうでしょう』も観たことない)、大泉洋さんのキャラクターをよく知らないんだよね。
 観たのは『アフタースクール』ぐらいかな。でもあんまり印象に残ってないな。見た目から「ユーモラスな芝居をする役者さんなんだろうな」と想像するだけで……。




 大泉洋氏のファンでないぼくにとって、残念ながらこの小説は「期待はずれ」だった。

 いや、けっこうおもしろかったんだよ。でも読む前のハードルが上がりすぎて。
「あてがき小説」という変わった趣向、『騙し絵の牙』という挑戦的なタイトル、騙し絵になっている表紙写真。
 いったいどんな仕掛けがあるのかと身構えて読んじゃうじゃない。
『騙し絵の牙』ですよ。
「今から読者であるみなさんを騙します。最後にあっと驚くこと請け合い。さあ、見破ってごらんなさい」
っていうタイトルじゃん。

『騙し絵の牙』では最後に「意外な事実」が語られるんだけど、ものすごくささやかなんだよね。
「意外といえば意外だけど、人間誰にでもそれぐらいの秘密はあるよね」
ってぐらい。ささやかー!

『騙し絵の牙』というタイトルで読者に挑戦状を叩きつけるんなら、もっとすごい仕掛けがなきゃダメでしょ。
 〇〇は二人いたとか、〇〇と□□は同一人物だったとか、1章と2章は別の時代の話だったとか。

 小説の内容は悪くないんだけどタイトルがダメだなー。宿野かほる『ルビンの壺が割れた』もそうだけど。
 読者を欺くんならなんとかの季節にとかなんとかラブみたいなさりげないタイトルをつけなきゃ(ネタバレになるので一応自粛)。




〝仕掛け〟部分は期待はずれだったけど、雑誌編集者の仕事っぷりを書いたお仕事小説としてはおもしろかった。
 綿密に取材してることがうかがえる。

 ぼくは大学時代「なんとなくおもしろそうだから」という適当すぎる理由で出版社数社にエントリーした。結果は全滅。地方の出版社も含めてことごとく不採用だった。
 当時は「ぼくの能力を見抜けないなんて見る目のない採用担当だ」と不満だったけど、今にしておもうと「ちゃんと見抜いていたんだな」と感じる。
 ぼくにはできない仕事だわ。編集って。
 まず人と話すのが苦痛だもん。一日中パソコンに向き合ってるほうがずっといい。そんな人間に編集ができるはずがない。

『騙し絵の牙』の主人公・速水は雑誌の編集長。
 あっちに頭を下げ、こっちを笑わせ、そっちを励まし、あっちを持ちあげ、こっちを売りこみ、そっちから夜中に呼びだされ……。
 とんでもない仕事量とその幅の広さだ。おまけに速水はコミュニケーション能力の塊のような男で、プライベートを犠牲にする仕事の鬼。部下からの人望も厚く、上からもむずかしい仕事をこなせると期待されている。
 そんなスーパーマンのような男でも、出版不況には逆らえず、雑誌廃刊一歩手前で東奔西走させられる。

 もう読んでいてつらい。
 速水の仕事はほぼ完璧だといってもいい。それでも結果がついてこないのは「もう出版業界がだめだから」以外にない。
 速水氏もわかっている。それでも必死にもがきつづける。編集が、文芸、紙媒体が好きだから。


 ぼくも書店という出版業界の端くれの端くれにいた人間なのでわかる。紙の出版が今後伸びることはない。個人の努力でどうこうなる問題じゃない。
 毛筆業界やそろばん業界のように趣味のものとして細々と続いていくだろうが、あと二十年もしたら市場規模は今の数分の一になっているだろう。

 だから「そこであがいても無駄だよ」とおもう。局地的に勝つことはできても大勝することはない。さっさと見切りをつけて他の業界で勝負したほうがいい。速水のような優秀な人間ならどこにいってもやっていける。戦い方が悪いんじゃなくて戦う場所をまちがっているんだ。

 でも速水は必死にあがく。柳のように柔軟な人間なのに、根本のところは揺るがない。傍から見ると、その根本がまちがっているのだが。

 終盤、速水たち労働組合と経営陣が団体交渉をする場面がある。
 編集者、イラストレーター、フォトグラファー、印刷業者、作家、読者たちのために出版文化を残そうとする労働組合と、あくまで経営を第一に考え不採算部門を切り捨てようとする経営陣。
 作中では経営陣が悪者側として描かれるが、ぼくは経営側に肩入れしながら読んだ。
 出版文化だなんだのといっても経営者には利益を出す責務がある。文化を守るために会社をつぶすわけにはいかない。
 知恵と努力で苦難を乗り切れる可能性があるならまだしも、今の出版業界が以前の水準に戻る見込みは万に一つもない。良くてほんの少し延命させるだけだ。

 どう考えたって「紙をつぶしてデジタルに舵を切る」方針は正しい。
 いまさらデジタル化したってうまくいくとはおもえないが、それでも紙と心中するよりはまだ可能性がある。

仕事の物差しが「採算」なら、編集者ほど虚しい仕事はない。無駄が作品に生きる感覚は、現場を踏んで初めて得られる。だが、その成果が表れるのは行間であって、目につかないところに潜む特性がある。一目瞭然の数字とは、ほど遠いところに身を置く。

 これは速水の心中を吐露した文章だが、なんと青くさい感傷か。気持ちはわかるが、作家ならともかく、編集長ともあろう立場にあってこの青くささはどうだ。


 会社一筋に生きてきた人なら速水に共感できるのかもしれない。
 だが幾度かの転職をしてきて、これから先も「今の仕事があぶなくなったら別の業界に移ろう」とおもっているぼくとしてはまったく同情できない。
 こっちは一労働者だ。業界や会社と心中する義理なんかねえぜ。

 まあ速水の場合は、単なる「業界への愛着」以外にも雑誌や文芸に執着する理由があるのだが、それにしてもこの浪花節に共感できるのは、まだ終身雇用制を信じられた1960年代生まれまでじゃねえのかな。
 こっちはハナからそんなもの信じてないからなー。
(とおもったが著者の塩田武士さんは1979年生まれだった。ぼくとそう変わらないのにずいぶん無邪気に会社を信じている人物を主人公にしたもんだ)


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