2023年5月31日水曜日

側転の因数分解

 九歳の長女が「体育の授業で側転をやらなきゃいけないのにぜんぜんできない」と言う。

 やってみてもらうと、たしかにぜんぜんできない。からっきしだ。

 どこがダメかというと、足が上がっていない。側転は足を真上に上げなきゃいけないのに、長女の足は腰の高さぐらいまでしか上がっていない。惜しいとこにすら達してない。これではいくら側転を練習してもだめだろう。もっと根本のところに原因がありそうだ。


 まず足を上げる練習をしなきゃだめだよね、ということで調べてみると「カエルジャンプ」なる練習がいいらしい。

 両手を床につき、ジャンプして両足を上げる練習だ。足と足でタンタンと二回拍手(拍足?)ができるようになるといいと書いてある。

 で、長女にカエルジャンプをしてもらったのだがまったく足が上がらない。四歳の次女のほうがはるかに高く足を上げている。

 恐怖心があるからおもいっきり飛べないのかなとおもい、身体を支えてやる。「どんなに跳んでも支えてるのでひっくりかえらないよ」と伝えるが、それでもまったく跳べない。どうやらびびってるわけではなく、単純に地面を蹴るが足りないらしい。


 地面を蹴る力を鍛えるにはどうしたらいいんだろう、と調べてみると、「壁に向かって倒立をするといい」とある。

 やってもらう。案の定、まったくできない。

 まずはうまくいくイメージをつかんでもらおうとおもい補助をしてやるが、それでも倒立ができない。腕で身体は支えられるのに、お尻が落ちてしまうのだ。

 腕の力が足りないわけではなく、足を上げる力が足りないらしい。


 倒立ができないときは、後ろを向いて(つまり壁のほうに顔を向けて)倒立をするといいそうだ。

 が、やはりできない。エビぞりみたいな恰好になってしまう。長女はバレエをやっていて身体が柔らかいのだが、それがマイナスにはたらいているのか、変にそりかえった格好になる。

 ぼくが両手両足を床につけ、「このまま後ろに下がっていき、足を壁にくっつけるだけだよ」と教える。

 するとここで衝撃的な事実が判明。

 なんと長女は両手両足歩きができないのだ。


 え? なぜ?

 走ったり鉄棒をしたり縄跳びをしたり踊ったりは人並み以上にできるから、そんなに運動神経が悪いわけではないとおもうのだが、なぜか「両手両足を床につけて歩く」動作だけができない。すぐにぺちゃんとつぶれてしまう。

 ぜんぜんむずかしい動作じゃない。四歳の次女はかんたんにできている。

 長女は体幹が異常に弱いらしい。


 ということで、

  側転ができない

   ↓

  なぜなら足が上がらないから

   ↓

  なぜなら地面を蹴る力が弱いから

   ↓

  なぜなら足を上げようとするとお尻が落ちてしまうから

   ↓

  なぜなら両手両足歩きができないから

   ↓

  なぜなら体幹が弱いから


 逆算をしていくことで原因らしきものは突き止められた。

 さあ、あとは体幹トレーニングをして両手両足歩きをできるようにして……。

 ……ううむ、先は長そうだ。



 しかし、お手本を見せるためにぼくがじっさいに何度も側転をやってみせて気づいたんだけど、これ、ジャンプ力必要か?

 検索すると「カエルジャンプの練習をしましょう」とか「手をついて横に跳んでみましょう」とか言われるんだけど、ぼくが側転をするときはほとんどジャンプなんかしていない。

 じゃあどうやって回っているかというと、重心移動だ。

 両手を挙げて、勢いよく左に動かす。右足をおもいっきり上げる。すると、重心が左に移動する。その勢いで勝手に左足が持ち上がる。あとは慣性で勝手に回る。そんな感じだ。

 今まで意識したことなかったけど、改めて自分の身体がどうなっているか考えてみると、ほとんどジャンプをしていない。わずかに地面を蹴っているけど、それよりも重心移動の力で回っている。

 側転にジャンプ力って必要なのかな? 慣れてきたらジャンプ力なしでも回れるけど最初は必要なのかな?



2023年5月29日月曜日

【読書感想文】ミハイル・ゴルバチョフ『我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝』 / ロシアは四面楚歌

我が人生

ミハイル・ゴルバチョフ自伝

ミハイル・ゴルバチョフ(著) 副島 英樹(訳)

内容(e-honより)
「私は、生きてきた歳月を後悔しない。」現代史の生き証人、東西冷戦終結の当事者が自らの言葉ですべてを語る。巻末にゴルバチョフ氏の最新の論考を収録!

 ミハイル・ゴルバチョフ。通称ゴルビー。

 ソビエト連邦最後の首脳。ソ連が崩壊したのがぼくが小学校低学年の頃だったので、リアルタイムではゴルバチョフ大統領のことはほとんど知らない。

 ただ、そのインパクトのある名前と、印象的な顔(「額にソ連の地図がある」なんていわれていた)が妙に印象に残っている。

Wikipedia「ミハイル・ゴルバチョフ」より

 かんたんに経歴を書くと、ミハイル・ゴルバチョフ氏は1931年生まれ。貧しい家庭で育ち、青年時代には独ソ戦も経験する(出征はしていない)。ソ連共産党の書記などとして活躍し、54歳でソ連のトップである書記長に就任。

 ソ連の建て直しを図った「ペレストロイカ」や情報公開「グラスノスチ」など、おもいきった改革を進める。書記長時代にはチェルノブイリ原発事故も起こっている。アメリカ・レーガン大統領と軍縮交渉をおこなうなど冷戦の終結に努める。

 1990年に大統領制を導入しソ連の初代大統領に就任するもクーデターの勃発などで政権は弱体化、1991年にソ連は崩壊し、ゴルバチョフは最初で最後の大統領となった。

 大統領辞任後もロシアの政治に関わりつづけたが、2022年8月に91歳で死去。


 そんなゴルバチョフ氏の自伝。

 2022年7月に刊行され、奇しくもその1か月後にゴルバチョフ氏は亡くなっている。こういっちゃなんだけど、タイミングいいよね。

 申し訳ないけど、ゴルバチョフ氏の訃報を目にしたぼくの感想は「まだ生きてたのか」だった。それぐらい、長く政治の表舞台からは遠ざかっていたので。




 ゴルバチョフ氏は、「おひざ元のロシアでは評価が低く、西側諸国からは高く評価されている」人物だそうだ。海外からのほうが高く評価される首脳というのはなかなかめずらしい。

 大きな理由のひとつが、ゴルバチョフ氏が推し進めたペレストロイカにある。

 ざっくり言うと、ゴルバチョフ氏はソ連を「アメリカや西ヨーロッパのような国にしようとした」のがペレストロイカだ。統制経済から自由経済へ。

 だから西側諸国からは歓迎されたが、既得権益を失ったソ連国内では人気がなかった。ゴルバチョフ氏のせいで既得権益を失った人がおおぜいいたからね。

 また民主化により失業者が出たり、物価が上がったりして、生活が苦しくなったりもしたそうだ。それまでは「ぼちぼち働いていれば食うに困ることはない。貧しいけどみんな貧しいからしょうがないよね」だったのが、「一生懸命働けば豊かになれるけど、一生懸命働かないと食っていけない」になった。どっちがいいかはかんたんに決められないけど、前者が突然後者になったら困る人はいっぱいいるよね。


 実際、国民所得の成長のテンポはこの15年で半分以下になり、90年代初めまでには事実上、経済的不況のレベルにまで落ち込んでいた。これまで精力的に世界の先進諸国に迫る勢いだった我が国は、明らかに後れをとりはじめていた。さらに、生産効率や製品の品質の向上、科学技術の発展、最新の技術やテクノロジーの開発・応用においても、これらの国々との格差は、我々に不利な方向に拡大していった。
「総生産量」を追い求めることがとりわけ重工業において「最高任務」となり、目的そのものとなった。同じことが、基本建設[工場や住宅など基本財産となるものの建設をめぐっても起きた。そこでは、施工期間の長期化によって、国家の富のかなりの部分が失われていた。高くつくだけで、最先端の科学技術の指標には貢献しない施設が増えていく。よき労働者、よき企業とは、労働力や原料や資金をより多く使い尽くすものだと認識された。そして消費者は生産者の権力下に置かれ、施されるものを使うしかない。
 我々は一つの製品に対して、他の先進国よりもかなり多くの原料、エネルギー、その他の資源を費やした。我が国の天然資源や人的資源の豊かさは、甘えを生んだ。荒っぽく言えば、我々を堕落させたのである。我々の経済は、量的拡大を目指す路線によって数十年のうちに発展を遂げる可能性を秘めていた。しかし、他者の援助を当てにする雰囲気が強まり、良心的で質の高い労働への威信が落ちはじめ、「平等至上主義」の心理が意識に根を張り出す。  簡潔に言えば、量的拡大を目指した成長の惰性が、経済的な行き詰まりや成長の停滞へと我が国を引きずり込んだのだ。

 ソ連がアメリカなどの国から遅れをとっていたことを考えると、国のトップとしては改革に舵を切らなくちゃいけないのもわかるけど。


 市場主義経済だと成果は市場で判定される(儲かる仕事がいい仕事)からわかりやすいんだけど、社会主義経済だと労働を「勤勉かどうか」で判定するしかなくなる。これはよくない。

「勤勉」ってのは成功するための手段のひとつであって(必須条件ではない)、「勤勉」それ自体を評価の対象にするとろくなことがない。「勤勉」を良しとすると、効率の悪い働き方をするのが最適解になっちゃうんだよね。「1時間で10作る人」よりも「10時間かけて10作る人」のほうが勤勉だからね。イノベーションが起こりにくくなる。

 またソ連には資源があった。これはいいことでもあり、悪いことでもある。

「オランダ病」という言葉がある。オランダでガス田が見つかったために他の産業が衰えたことに由来する言葉で、「資源があることでかえって産業が衰えてしまう」状態を指す言葉だ。

 ソ連もまたオランダ病に陥っていたのだろう。この病気に罹患すると、資源が尽きるまではなかなか方針を改めることができない。




 ゴルバチョフ氏より三代前に書記長だったブレジネフ氏の話。

 アカデミー会員チャゾフの記憶によれば、ブレジネフ書記長の病は70年代初めに進行しはじめた。脳梗塞と、鬱や無気力を誘発する鎮静剤の多用が致命的な影響をもたらしていた。みるみるうちに様子が変わっていった。かつてはよりエネルギッシュであったうえ、もっと気さくで、正常な人間関係を築いていた。審議を促したり、政治局や書記局会議の議論にさえ関わったりすることがあった。だが、今となっては根本的に状況は変わった。議論や、ましてや何らかの自己批判を彼のほうからすることなどもはやなかった。
 おそらく、ブレジネフの健康状態や知的な側面に鑑みて、進退問題を提起する必要があったのだろう。これは人として当然のことであり、人道的観点や国益から見ても妥当なことだった。しかし、ブレジネフと彼の側近たちは、権力を手放すことは考えたくなかった。そして、あたかもブレジネフの退任でそれまでの均衡が崩れて安定が損なわれるということを、自らにも、そして周囲に対しても思い込ませたのだった。つまり半死半生の人であってもやはり、「余人をもって代え難い」のだと。 政治局のある会議で、議長役〔ブレジネフ〕が「意識を失い」、議論の思考回路が飛んでしまったのを覚えている。全員が何事もなかったように振る舞ったが、やりきれぬ思いが残った。会議の後、私はアンドロポフ〔1914~84年。ブレジネフの後継のソ連共産党書記長〕と思いを語り合った。
「いいか、ミハイル」と言って彼は、以前私に語ったことを、ほぼそのまま繰り返した。我々はレオニード・イリイチ〔ブレジネフ〕のこの地位を維持するためにあらゆることをしなければならない、と。これは党や国家の安定の問題であるだけでなく、国際情勢の安定の問題ですらあったのだ。

 要するに、健康上の理由でまともな思考や判断ができなくなっていたのに、そっちのほうが都合がいいとおもう人が多かったので、側近たちは彼をそのまま書記長の座に留めおいたのだそうだ。

 うーん。気持ちはちょっとわかるけど。トップの人は変にしゃしゃり出るよりも、お飾りとして何もせず座っているのがいちばんスムーズに動いたりするけど。

 とはいえ、議論ができず、ときには意識や記憶を失ったりする人がソ連のような大国のトップを務めていたなんて……。おっそろしい話だなあ。案外こういうのが戦争の一因だったりするんだろうな。




 ゴルビーの自伝を読んでいると、はじめのほうは理性的かつ客観的に物事を見られる人物なのに、トップ(書記長)になったあたりから、急に謙虚さを失って「人のせいにする」ようになったという印象を受ける。

 軍縮会議がうまくいかなかったのは、こっちが妥協しているのにアメリカが譲らなかったせい。改革がうまくいかなかったのは、国内の反対派がじゃまをしたせい。国民の暮らしが悪くなったのは、後任者(エリツィン)のせい。

 手柄は自分のものにして、失敗の原因はすべて他人に押しつける記述が目立つようになる。

 実際はどうかわからないけどさ。周囲の邪魔があったせいでうまくいかなかったのかもしれないけどさ。でも、そこを乗り越えてなんとかするのが政治家の仕事でしょうよ。

 自伝だからゴルバチョフ氏側の言い分しかわからないけど、書記長になって以降はずいぶん勝手な人だなあという印象を受けた。まったく謙虚さがない。


 この傲慢な姿勢、何かに似ているなあとおもったら日本の政党だ。自民や維新が特に顕著だけど、失敗の原因はすべて他党に押しつけて、手柄だけは自分のものとして吹聴する。「我々がおこなったアレは失敗だった」なんて反省を口にしているのは一度も聞いたことがない。与党、権力者がかかる職業病みたいなものかもしれない。

 やっぱり国や社会体制にかかわらず、権力を持つと人は傲慢になっちゃうんだよね。「己の失敗を認める」がいちばんむずかしい。どこでもおんなじだね。




 あと、読んでいて感じたのは、被害者意識がすごいなということ。これはゴルバチョフ氏が、というよりソ連、ロシアが。

 自分たちは敵に囲まれている、周囲はすべて敵、心を許せる外国はない、そんな意識がずっと漂っている。たぶんこれはゴルバチョフ氏だけじゃなくて現大統領であるプーチン氏も持ってる感覚なんじゃないかな。ひいては、ロシア国民が共通して抱いている感覚かもしれない。

 まあ当たらずとも遠からずなんだけどさ。アメリカ、NATOにはさまれて。日本もアメリカ側だし、中国共産党とだって良好ではないし。四面楚歌と感じてもふしぎではない。

 冷戦中はもちろんそうだったけど、冷戦が終わってからも西側諸国はロシアを敵と見ている。日本人だって、中国や韓国は「いろいろめんどうなこともあるけどまあうまくつきあっていきたいアジアの友人」ぐらいの感覚を持っている人が多いが、ロシアに関しては「まったくわかりあえない国」って距離感だもんなあ。

 ロシアのウクライナ侵攻もそういう雰囲気が引き起こしたのかもしれないなあ。


【関連記事】

【読書感想文】資源は成長の妨げになる / トム・バージェス『喰い尽くされるアフリカ』

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』



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2023年5月25日木曜日

コンパだか

 大学のとき、サークルの大きめの飲み会があったのにくせ毛の友人が合コンに行くからという理由で参加せずに、そのときに先輩が言い放った

「まったく、コンパだか天パだか知らないけど、参加しないとかふざけてるよな」

という台詞がすごくよかったのでいつか使ってやろうとおもっているのだが、それから二十年たつがいまだ機会がない。


2023年5月23日火曜日

親に似てしまった子

 九歳の長女。

 両親のどっちに似ているかというと、迷わず父親似だと答える。つまりぼく似。

 外見の話ではない。性格や趣味嗜好がぼくに似ている。それも、悪いところが似てしまった。


片付けができない

 まったく持って片付けができない。脱いだら脱ぎっぱなし。パジャマも靴下も床に落ちてる。「片づけて」と言うとしぶしぶ洗濯かごへと持っていくが、言われないとやらない。

 タンスは機能していない。なぜなら着替えを探すときに服を全部床にひっぱりだして、そのままにしておくから。毎回服の山の中から今日着る服を探してる。「片づけて」と言うとしぶしぶ(以下略)。

 勉強机はありとあらゆるものが山積みになっている。引き出しは全部開きっぱなし。なぜなら引き出しの上にも物が積み重なっていて閉まらないから。

 ごみを捨てない。勉強机の周りからいつのものかわからないお菓子の袋が出てくる。ごみを食卓の上に置いたままにしている。あえてそのままにしてみるが、まったく気にすることなく食事をしている。


 とにかく片付けができない。これはもう何かの病気なんじゃないかとおもう。もしくは悪い魔法使いの呪いか。

 宿題は毎日ちゃんとやるし、習っているピアノもちゃんと練習しているし、親から見てもまじめな子だとおもう。なのに片付けだけがまったくダメ。「誰かが片付けてくれるとおもってる」わけではない。そもそも「どれだけ部屋が汚くてもまったく気にならない」から片付けなきゃいけないという発想自体がないのだ。


 おもえば、ぼくも掃除ができなかった(ぼくは宿題もできなかったしふまじめだったけど)。

 子どもの頃は母親から毎日のように「片付けて」「たまには掃除しなさい」と言われていたが、99%聞き流していた。自主的に片付けをしたことなんてほぼない。

 一応、友人が家に来るときぐらいは片付けをした。でもそもそも「許容できる部屋の汚さ」が人とだいぶちがうので、ぼくが「きれいになった!」とおもっている部屋は他人から見たらすごく汚い部屋だったとおもう。


 今でも片付けは苦手だ。できない、と言ってもいい。さすがにごみはすぐ捨てるが「また後で使うもの」を片付けることができない。また使うんだから出しっぱなしにしとけばいいじゃん、とおもってしまう。

 さすがに職場でも家でも共有スペースはきれいに使うよう心掛けているが、自分の机まわりはぐっちゃぐちゃだ。


食べ方が汚い

 食べているものをぽろぽろこぼす。食事の後、机の下を見るとぼくの椅子の下と長女の椅子の下だけすごく汚い。次女もこぼすが、まあこれは四歳児なのでしかたがない。四歳児とぼくが同じくらい食べ物をこぼす。で、それに輪をかけて長女がこぼす。ほんとに汚い。誰に似たんだ。そう、ぼくだ。

 昔からずっと「おまえ、よくこぼすな」と言われてきた。改まった席での食事などでは大丈夫なのだが、食べながらテレビを観ていたり、話が盛り上がったり、本を読んでいたりするともうだめだ(本を読みながら食べなきゃいいのだが)。どんどんこぼす。楽しい飲み会のときなんかはアルコールも手伝ってぼくのお皿のまわりは食べかすやこぼれた醤油だらけだ。

 片付けと同じで、そもそも「こぼさないようにしよう」という意識が低いのだ。飲み物はこぼしたらたいへんだけど、食べ物はちょっとぐらいこぼしてもしょうがないや、とおもっているんだとおもう。

 中国の食堂に行ったとき「殻や骨など食べかすは床に落としていい」というルールだった。なぜか食事マナーだけはぼくは中国人の血を引いているようだ(長女にも受け継がれている)。


音痴

 まったく音感がない。音の高低がわからない。というか気にしていないらしい。

 長女が三~四歳のときに歌っているのを聞いて「下手だけどこの年齢だからこんなもんか」とおもっていたのだが、長女の保育園の友だちが歌っているのを聞いて愕然とした。ちゃんと音程をとれているのだ。長女がへたなのは年齢のせいではなかったらしい。

 ぼくもド音痴だ。自分が音痴であることに中学生ぐらいまで気づかなかったぐらい音痴。友人から「おまえ音痴やなー」と言われ、まさかそんなはずはとおもい、自分の歌を録音して聴いてみて衝撃を受けた。なんつーひどい歌……。というか歌なのか。念仏よりも高低がない。

 小畑千尋『オンチは誰がつくるのか』という本によれば、幼いころからのトレーニングでだいぶマシになるらしい。だがぼくも音痴なのでトレーニングができない。そこで絶対音感のある妻にこの本を渡して「直してあげて!」と言ったのだが「小さい頃はそんなもんよ」ととりあってくれなかった。音痴じゃない人には、音痴になることのつらさがわからないのだ。

 ということで長女は今も歌がへただ。ずっとピアノを習っているのに歌がへた。それとこれとはべつらしい。今はよくても、中高生ぐらいで友だちとカラオケとか行くようになったらつらいおもいをするんだろうな……。だけどぼくにはどうすることもできないんだ。音の高低がわからないから。


理屈っぽい

 ああいえばこういう。注意をされたときに、理屈をつけて言い逃れしようとしたり、極端な例を挙げて反論してきたり、他人のミスはねちねちと責めたてたり……。いちいち理屈っぽい。

 ぼくも小学生のときはそんな子だった。担任教師から「おまえはへりくつばっかりや」と言われた。

 最近、とある有名人が論破王だとかなんだとか言われているらしいが、あんな感じだ。つまり嫌なやつである。

 ガキのころは「相手を言い負かしたら勝ち」とおもっているが、歳を重ねると「場を収める」「わざと負けてやる」「適当にあしらってやりすごす」ことが大事な局面のほうがずっと多いことに気づく。いちいち理屈で反論してもいいことなんてまるでない。

 人の振り見て我が振り直せということわざがつくづく身に染みる。娘がへりくつをこねくりまわしたり、枝葉末節を捕まえて揚げ足をとったりしているのを聞いていると、我が子ながらなんて憎らしいんだろうとおもう。ぼくの両親や担任の教師も同じ思いをしていたのだろう。

 子は親を移す鏡なんていうが、醜いところをデフォルメして映す鏡だ。悪意のこもった似顔絵に近いかもしれない。




2023年5月22日月曜日

THE SECOND(2023.5.21放送)の感想


 おもしろかったね。

 トーナメント形式とか、観客審査とか、後攻が超有利な予選(不戦勝を除いて先攻の4勝19敗はさすがに偶然では片づけられないだろ)とか、いろいろ不安要素があった大会だったけど、ふたをあけてみると陵南戦の湘北のように不安要素がいい方に転んでいい大会となりました。

 決勝トーナメントでは先攻の2勝5敗で後攻有利な状況は変わってなかったんだけど、うち1敗は同点での敗退だったことを考えればまあくじ運の妙と言える範囲。なによりM-1グランプリやキングオブコントのようなトップバッター超不利という大会に比べるとはるかに良かった。

 予選では1組ごとに点数をつけていたのを、2組終えてからの採点にしたことでよくなったんだろうね。失敗を認めて軌道修正できる人はえらい。手さぐり状態の第1回大会だった、ということを考えれば大成功といっていいだろうね。

 これを機に、比類なき大会として君臨していたM-1グランプリが、長年不公平だと言われているのにいっこうに改善しようとしない「トップバッター超不利なシステム」や「単なる人気投票となり下がった視聴者投票敗者復活システム」を改めてくれるといいなあ。


 なにがよかったって観客がよかったよね。

 対戦後に審査員コメントを訊いていたけど、みんな的確だった。「〇〇のファンだから〇〇に3点入れましたー」「うるさくて嫌いだったんで1点です」みたいなアホ客がいなかった(少しはいたのかもしれないけど)。

 どうやって審査員を集めたのか知らないけど、審査員のほうもぜったいに選考されてるよね。ふつうに「審査してくれるお笑いファン募集!」ってやったらこんないい観客にはならないもんね。M-1やR-1で審査員をやってた××さんとかよりずっとまともだったね。



 まず優勝したギャロップについてだけど、いやあ、よかったね。1本目のカツラ、3本目のフレンチシェフのネタは6分にぴったりの内容。2本目の電車のネタも後半に盛り上がりどころがあって、ちゃんと勝つためのネタを3本用意してきたって感じだったね。

 ただいくつかアラもあって、導入が少し雑というか、毛利さん側の論理にかなり乱暴なところがあって、そこが処理されていないところが気になった。それがM-1の4分間だったらマイナスになってたのかもしれないけど、6分もあったのと、3段階評価だったので、多少のアラには目をつぶってもらえたのかもね。

 また、3本目のフレンチシェフのネタは笑うポイントが少なかったけど、それが3時間以上やって笑い疲れている客にはちょうどよかったのかもしれない。あの時間帯にカツラネタみたいな頭を使うネタをやってたらついていけないもんね。

 いろんな意味で大会にぴったりマッチしたコンビだったので納得の優勝。



 逆に大会のルールにあってなかったのがテンダラー。

 彼らの持ち味はなんといっても音楽に乗せたコミカルな動きだけど、歌いながらキレのある動きをしつづけるのは相当体力を使うはず。あのダンスパートは1分ぐらいしかできないんじゃなかろうか。6分のネタ、しかも最大3本披露するかもしれないとなれば、どうしても序盤は力をセーブしなくちゃいけない。4分ネタだったらテンダラーがギャロップに勝ってたかもねえ。

 テンダラーのネタは、いかにも劇場や営業に立ちつづけているコンビのネタって感じだったね。細かいネタの組み合わせで、何分にも調整できる。前のコンビが長引いたり、あるいは欠場が出たりしても調節できるネタ。それが今回はマイナスに響いたのかもね。

 先攻だったことも大きく不利になったかもね。テーマが散漫だったので、後で思いかえしたときに何のネタだったのか思い出しにくい。



 準優勝のマシンガンズもよかったなあ。1本目や2本目は正直あんまり好きじゃなかったけど(2本目なんか相当古いネタだよね?)、大会中最低得点となった3本目が個人的にはいちばん好きだった。

 今までM-1とかでも「もうネタがない」って言ってるコンビはあったけど、まさかほんとにないとは。まるで並みいるプロの中に一組だけセミプロがいるかのようで、そこが勝ち進んじゃうハプニングっぽい感じも含めていちばん笑った。

 客席とのグルーブ感もあったようにおもえたけど、妙に冷静な審査結果で派手に散る。その散り方も含めて見事。

 いちばん好感度を上げたのはこのコンビだろうね。自分たちの売り込みには成功した。来年はもう出なくていいよね。あ、ネタがないから出られないか。



 金属バットは6分ネタに向いているかとおもって期待してたんだけど、やや期待外れだった。たたずまいとかフレーズとかが語られることが多いコンビだけど、ぼくが好きなところは金属バットのネタのストーリー性なんだよね。昔やってた谷町線のネタとかプリクラのネタとか、立ち話からとんでもないところまで話を展開していて、そのストーリーテラーとしての才能に感服してたんだけど、今回のネタは大喜利の羅列みたいで話がふくらまなかった。



 スピードワゴンは、昔からやっていることがずっと変わんないね。良くも悪くも。

 さすがに50歳のおじさんに「四季折々の恋」というテーマで漫才をやられると見ていてキツい。それが小沢さんの魅力でもあるんだけど。あと井戸田さんが安達祐実と結婚していたことをネタにするには鮮度が落ちすぎじゃないか。

 でも「するりと小沢の世界に入ってしまう潤」のくだりは笑った。



 三四郎のネタはM-1の予選でしか観たことなかったので、M-1から解放されたらこういうネタをやるんだ、と新鮮だった。

 固有名詞満載でふつうの大会ならあんまり評価されないネタだけど、テレビやラジオでおなじみになった三四郎のキャラクターや、観客審査ということをうまく利用して許されていた。「彼らにしかできない漫才」って熟練の味が出ていてよかった。

 でもやっぱり「こういう大会では売れてない人に勝ってほしい」という気持ちが湧いてしまうので、素直に応援しづらい。



 超新塾。現行体制になってからネタを見るのははじめて。

 盛り上がるんだけど、5人だったらこういうネタだろうな、外国人を使うならこういうネタをやるだろうな、という想定を超えてはこなかったな。あとツッコミの声質がちょっと弱いというか。4人に対してツッコミを入れるなら相当声量がないとバランスがとれない。プラン9の漫才にも同じことを感じたけど。

 ネタ以外の部分でもいろいろボケを用意していたのがよかった。



 囲碁将棋。優勝候補の一角として挙げられていたけど、下馬評に劣らぬ漫才だった。

 ほとんど動きを使わず会話だけでじっくり聞かせる漫才で、同じく話術で魅せるタイプのギャロップとの東西しゃべくり漫才対決はほんとに見ごたえがあった。

 ちなみに9歳の娘といっしょに観ていたのだが、娘は囲碁将棋の漫才を観て「ぜんぜんおもしろくない」と言っていた。そうだよえ。囲碁将棋のやっていることってかなり前提知識を必要とするもんね。あるあるをそのままネタにするんじゃなくて、「あるあるを知っている前提でその上にネタを乗せる」漫才というか。

 ものまねのネタでいうと「もしも五木ひろしがロボットだったら」「受け答えがたまたまあいうえお作文になってしまった児玉清」みたいなネタを知らないと、囲碁将棋の漫才は理解できない。副業のネタにしても「強豪校近くのパン屋」「学校指定の制服屋」みたいなものを実体験として知っていないと理解できないので、囲碁将棋で笑うためには人生経験が必要だ。

 だからこそポップなネタ番組にはあんまり呼ばれないんだろうけど、大人向けの漫才をやるコンビがこうして評価される場ができたことはほんとにいいことだ。



 総じておもしろい大会だったんだけど、おもしろすぎて疲れてしまった。贅沢な悩みだけど。

 途中で松本人志さんが「このへんで歌を聞きたい」と言っていたけど、あれは半分本音だったとおもう。6分のおもしろい漫才を14本ぶっつづけに聴くのはしんどいよ。寄席だったら途中でマジックショーとか大道芸とかを挟むけど、ああいう色物の重要性がよく理解できた。



 予選はともかく、決勝はそんなに厳密に順位つけなくてもいいんじゃないかとおもった。

 とにかく上質な漫才が見られればいいので、昔のキングオブコントみたいにみんなが2本ずつネタをやっていちばんおもしろかったコンビ3組に投票、みたいな感じでもいいんじゃないかな。

 やっぱり3本は多いし、1本だとものたりないし。



2023年5月18日木曜日

レトロニムと生爪

 携帯電話ができたので、それまで単に「電話」と呼ばれていたものが「固定電話」と呼ばれるようになった。

 それはわかる。

 じゃあ「生爪」の「生」ってなんなんだろう。

 今は付け爪とかあるけど、たぶん付け爪ができる前から「生爪」という言葉はあったはず。


 なんでわざわざ「生」をつけたんだろう。

 生じゃない爪って、茹でガニの爪ぐらいしかおもいつかない。そんなのは例外なんだから、そっちを「茹で爪」と呼べば済む話だ。わざわざ我々の手足についているほうを「生爪」と呼ぶ必要はない。

 だいたい、「生爪」と「茹で爪」を区別しなくちゃいけない状況なんかある?

 

 電話はわかるよ。

「今晩、電話するね」

「え? どっち? 家の電話? それともこの持ち運びできるほう?」

ってなるから、「固定電話」「携帯電話」という区別ができた。


 寿司もわかる。

「なんだよ、寿司をごちそうしてくれるって言うから目の前で職人が握ってくれるやつだとおもったのに皿が周回するタイプのほうかよ!」

ってなるから、「回転寿司」「回らない寿司」という呼び方ができた。


 爪はどうだろう。

「なんだよ、爪を食べたっていうから人間の爪かとおもったらカニの爪かよ!」とはならない。

「爪がはがれて痛そうっていうから心配したのにおまえの爪じゃなくて茹でたカニの爪かい!」ともならない。

 わざわざ「生爪」「茹で爪」なんて言わなくても、前後の文脈でどっちかわかる。



 どういう経緯でわざわざ「生爪」という言葉ができたんだろう。

「生脚(ストッキングなどを履いていない脚)」は新しい言葉なのに、「生爪」は古い。なぜだ。

 他に、身体の部位で「生」がつくものはあるだろうか。

「生脳」とかだいぶ気持ち悪い。

「生眼」「生足」「生手」は、「裸眼」「裸足」「素手」だな。これらは衣類で覆うことがあるからわかる。

「生肉」「生レバー」は……。これは人体には使わないな。

「生乳」は……。加熱処理していない乳のことです。誰だ、エロいことを考えたのは!






2023年5月17日水曜日

いちぶんがく その20

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



それは誰かというと、いまこの原稿を書いている人です。

(速水 融『歴史人口学の世界』より)




なんとこの学園では、創立者が銅像の姿で永遠に掃除をし続けているのです。

(辛酸なめ子『女子校育ち』より)




そのとき、ちょうど殺人の罪で死刑の執行を待つばかりとなっていた一卵性双生児の囚人が二人いた。

(ゲアリー・スミス(著) 川添節子(訳)『データは騙る 改竄・捏造・不正を見抜く統計学』より)




みんなどういう肉で口をもぐもぐさせているのか。

(東海林 さだお『がん入院オロオロ日記』より)




彼は笑おうとしているのだ。

(東野 圭吾『真夏の方程式』より)




しかし、何でも買える社会は、何でも買わなくてはならない社会でもある。

(岡 奈津子『〈賄賂〉のある暮らし 市場経済化後のカザフスタン』より)




それは、女というより人跡未踏の川にいる水中生物のように見えた。

(笹沢 左保『人喰い』より)




あとは味方のエラー2つ、スタンドの殴り合い2回、停電1回だけだった。

(ロバート・ホワイティング(著)松井 みどり(訳)『ニッポン野球は永久に不滅です』より)




機械から取り出した生地はしっとり指にからみつき、ぐにゃりと気を失った美少年のようだ。

(麻宮ゆり子『世話を焼かない四人の女』より)




元素には科学史があるように社会史もある。

(サム・キーン(著) 松井 信彦(訳)『スプーンと元素周期表』より)




 その他のいちぶんがく


2023年5月15日月曜日

【読書感想文】澤村 伊智『ぼぎわんが、来る』 / 知らず知らず怨みを買っている恐怖

ぼぎわんが、来る

澤村 伊智

“あれ”が来たら、絶対に答えたり、入れたりしてはいかん―。幸せな新婚生活を送る田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。それ以降、秀樹の周囲で起こる部下の原因不明の怪我や不気味な電話などの怪異。一連の事象は亡き祖父が恐れた“ぼぎわん”という化け物の仕業なのか。愛する家族を守るため、秀樹は比嘉真琴という女性霊能者を頼るが…!?全選考委員が大絶賛!第22回日本ホラー小説大賞“大賞”受賞作。


 母が読書家だったので実家にたくさん本があり、ぼくも母の本棚の本を手に取って読んでいた。ぼくが本好きになったのは母の影響が大きい。

 母の本はあれこれ読んだのだが、まったくといっていいほど読まなかったジャンルがある。それが、恋愛小説と(霊が出てくる系の)ホラー小説だった。

 恋愛小説に関しては男女で求めるものがだいぶちがうので、女性向け恋愛小説を男が読まないのも必然かもしれない。

 ホラーについては、なぜだかわからないけどぼくの琴線にまったく触れなかった。やはり母が好きだったミステリやサスペンスは好きになったのに、ホラーだけは読もうという気にならなかった。

 ホラーが好きじゃないというと「はあ、怖いからだな」とおもわれるかもしれないが、むしろ逆だ。

 ぼくがホラーを苦手とするのはちっとも怖くないからだ。

 幽霊だのお化けだのの存在は信じちゃいないし、「仮に人知を超えた存在が存在したとしても対策のしようもないわけだし怖がるだけ無駄」とおもってしまう。

 たとえばヘビが怖ければ草藪に近づかないとか細長いものがあれば避けるとか対策を立てられるけど、目に見えない神出鬼没の存在は対策の立てようがない。そんなものを怖がってもしかたがない。だからぼくは霊的なものは怖くないし、怖がらない。

 殺人鬼とか通り魔とか交通ルールを守る気のないドライバーとかは怖いんだけどね。




『ぼぎわんが、来る』は心霊系のホラー小説である。

 なぜか〝ぼぎわん〟なる存在につきまとわれる主人公一族。〝ぼぎわん〟が来ても返事をしてはいけない。もし返事をしたら山に連れていかれる。死ぬ寸前まで〝ぼぎわん〟におびえていた祖父と祖母。彼らの心配が的中するかのように、主人公の身の回りで次々に怪異現象が起こりはじめる。そしてついに主人公は〝ぼぎわん〟に襲われ……。


 一章を読みおえたときの感想は「ああ、やっぱり怖くないな」だった。

 身の周りで不吉なことが起こり、近しい人がけがをしたり命を奪われたりし、化け物にだんだん追い詰められ、化け物がやがてはっきりと姿を現したときはもう逃れようがなくて……。

 ホラーの王道パターン。怪談を怖がれる人にとっては怖い話なんだろう。でもぼくにとってはちっとも怖くない。「こんなやついるわけないし、もし存在したとしたら狙われたらどうしようもないから怖がってもしょうがない」とおもえる。

 が、二章を読み進めるうちにその印象が変わった。

 おお、これは怖い……。

 以下ネタバレ。


2023年5月9日火曜日

歯医者の金づる

 冷たいものを飲むと奥歯が痛む。虫歯だ。

 こわいものみたさというか、いたいもの味わいたさで、何度もやってしまう。べつに飲みたくもないのに奥歯のずきずきを味わうために冷たいお茶を飲んでしまう。

 奥歯の痛みをじっくり観察してみる。

 ふつうに飲んだら痛くない。奥歯のある位置に冷たいお茶を流すと痛む。ということは、口に含んだ液体は口いっぱいに広がるわけではなく、口の奥のほうには届いていないことがわかる。

 また、冷たいお茶を口の中央部に溜めておいて、少しぬるくしてから奥へと流すと痛くない。

 冷たいのは痛い、ぬるいのは平気、だったら熱いのはどうだろうとわざわざ熱いお茶を沸かして飲んでみた。うーん、ちょっとだけ痛い。でも冷たいお茶にくらべたらぜんぜん。

 以上のことから、虫歯が痛むのは

  冷たいお茶 > 熱いお茶 > ぬるいお茶 = 何も飲まない状態

 だということがわかりました。


 自由研究はそのへんにして、歯医者に行く。

 いつも行っている歯医者で予約がとれなかったので、自宅近くのH歯科に行ってみることにする。Googleマップで口コミを見ると高評価だ。「説明が丁寧」というコメントが多い。

 行ってみると、なるほど、しっかり説明してくれる。

 あなたの歯はこういう状態です、放っておくとこうなります、ですからこれから治療をしていきます、治療には5回ほど通院が必要です、最初は○○をして次の週は○○を……と事細かに説明してくれる。

 これはいい。改めて考えると、歯医者と接骨院や整体院ってぜんぜん説明してくれない上に、やたらと長期にわたって通わせようとしてくるんだよね。たとえばちょっとした風邪で内科に行った場合は1回で済むのに、歯医者や整骨院は何回も通わされる。しかるべき理由があるのかもしれないけど、患者に説明してくれないのでどうも「何度も通って金を落とす金づる」扱いされてるんじゃないかという気になってしまう。

 ちゃんと説明してくれるなんていい歯医者だなとおもったのだが、ふと見ると診察室の壁に「Google口コミを投稿してくれたら500円相当のメンテナンスグッズをプレゼント!」と貼り紙がある。

 なんだかだまされた気分だ。

 じっさいいい印象を持っていたのに、プレゼントで釣って口コミを書かせる歯医者だとわかったとたんにその印象が弱まってしまった。ぼくが「説明が丁寧でいい歯医者だ」とおもった印象までもが、まるで誰かに操作されていたかのような気になってしまう。


 それはそうと、それから毎週H歯科に通った。

 歯を削ったり、薬を詰めたり、仮の蓋をつけたり、翌週にはまたそれを外したり、かぶせものの型をとったり……。

 で、行くたびに請求される料金がちがう。やることがちがうからなんだろうけど、1,500円ぐらいの日もあれば、6,000円請求されたこともある。6,000円っていうのはちょっと油断ならぬ額だぞ。タイミングが悪ければ財布にないことだってある。クレジットカードも使えないし。先に言っといてほしいな。

 で、先週には「次回がいよいよ最後になります。お会計10,000円ぐらいになりますので準備しておいてください」と前もって言われた。前もって言ってくれるのはありがたいが、それだったら全5回の4回目に予告するんじゃなくて、1回目のときに言ったほうが良くないか? だってトータルで20,000円以上かかるんだぜ。人によっては「だったら治療やめます」ってこともありうる額だ。

 それを、歯を削って、仮の蓋をして、かぶせものの型をとって、もう後戻りできない状態になってから「ラストは10,000円!」っていうのはずるくないか? まるでディアゴスティーニじゃないか。


 さらに、次が全5回の治療のいよいよ最後ってときになって、今度は反対側の奥歯が痛みだした。冷たいお茶が染みる。

 さては……。

 患者が治療を終えて離れてゆかないように、歯科医が反対側の奥歯に虫歯菌をしこんだのでは……!?


 やはり「何度も通って金を落とす金づる」扱いされてるんじゃないかというおもいが拭えない。


2023年5月8日月曜日

【読書感想文】津村 記久子『この世にたやすい仕事はない』 / やりがいがあってもなくてもイヤだ

この世にたやすい仕事はない

津村 記久子

内容(e-honより)
「一日コラーゲンの抽出を見守るような仕事はありますかね?」ストレスに耐えかね前職を去った私のふざけた質問に、職安の相談員は、ありますとメガネをキラリと光らせる。隠しカメラを使った小説家の監視、巡回バスのニッチなアナウンス原稿づくり、そして…。社会という宇宙で心震わすマニアックな仕事を巡りつつ自分の居場所を探す、共感と感動のお仕事小説。芸術選奨新人賞受賞。


 ちょっと変なお仕事小説。

 同じ会社で10年以上働いていた「私」だが、燃え尽き症候群のようになって退職し、人付き合いや文章を読むことや仕事にのめりこむことがイヤになる。「たやすい仕事」を求める私に紹介されたのが、「ある小説家の生活をひたすら監視しつづける仕事」「バスのアナウンスに入れる近隣の施設の広告の原稿作成の仕事」「おかきの袋の裏に書いてあるちょっとした豆知識を考える仕事」「『熱中症に気をつけよう』などのあまりメッセージ性のないポスターを貼ってまわる仕事」「広大な公園の中にある小さな小屋にいるだけの仕事」など、一風変わった仕事ばかり。

 どの仕事にもそれなりのやりがいとそれなりの楽しさがあるが、それなりの苦労やストレスもあり……。




 特におもしろかったのは第三章『おかきの袋の仕事』。

 労働環境はいいし、周りの同僚もいい人ばかりだし、仕事の責任も軽いし、でもそれなりにおもしろさもある。徐々にのめりこむ主人公。さらに自分の仕事がおもわぬ高評価を受け、会社の業績にも貢献する。

 だが仕事が認められるようになると周囲からの期待は高まり、同時にプレッシャーや責任感を強く感じるようになる。やりがいやおもしろさと感じていたことが次第に重荷に感じられるようになり……。

 この感覚、なんとなくわかるなあ。

 やりがいがないのはイヤだけど、やりがいがあるのもやっぱりイヤなんだよね。

「あんまり期待されていなかった仕事で期待以上の成果を上げる」とか「自分の仕事が会社の業績に大きく貢献する」ってそれ自体はすごくおもしろいことなんだけど、おもしろいがゆえに重荷になってしまうんだよね。重圧は増えるし、二回目以降は最初ほど評価もされないし。あんまりうまくいきすぎると、イヤになることが増えてしまう。

 プロ野球で三冠王を達成した選手なんて、翌年はすごくやりにくいだろうなあ。昨年より悪ければがっかりされるし、昨年以上の成績を出しても前ほどは評価されない。


 ぼくが書店で働いていたとき、ある人の業務を引き継いだ。担当売場にあれこれ手を入れたので、前年と比べて売上が大きく伸びた。で、ぼくはさっさと異動願いを出してその売場を離れた。なぜなら、1年目は前年比120%の売上を出せても、2年目は良くて100%ぐらいにしかできないとわかっていたから。

 これが理想の働き方だよね。新しい場所に行って業務を改善し、改善したらさっさとそこを離れて次の場所に移る。なかなかそんな仕事ないけど。




 ぼくは今までに四社で正社員として働いてきた。もうすぐ五社目に移る。

 幸いなことに転職を重ねるたびに労働時間は短くなり、給与は増えていった。どんどん働きやすくなっている。ぼく自身が多少スキルを身につけたこともあるし、時代という要因もある(ぼくが大学卒業した頃は景気も良くなくて人出も余っていたのでブラック企業全盛期だった)。

 でも転職がうまくいった最大の要因は運だ。どんな仕事もやってみるまでわからない。慣れてきたら仕事の内容についてはある程度想像がつくが、上司や同僚や顧客がどんな人かは働いてみないとわからない。

 だから転職を迷っている人にはどんどん転職を薦めたい。嫌だったらまたやめればいい。幸い、今の日本は働き手の数が減っている。また次の仕事が見つかりやすい状況だ。

 いろんな会社で二十年ぐらい働いてわかったのは、どの会社もそれなりに良さはあって、それなりに悪さがあるということだ。あたりまえだけど。

 就活生向けにR社やM社が「あなたに最適な仕事が見つかる! 適職診断」なんてやってるけど、最適な仕事なんてない。「わりと我慢できる仕事」と「これ以上我慢できない仕事」があるだけだ。きっと自営業や社長になったって、仕事に対する不満はずっと残るだろう。好きなことを仕事にしている人はいるけど(少ないけど)、好きなことだけを仕事にしている人はいない。

 どんなに給与が良くて楽でやりがいがあっても、不満の種は決して消えない。


 もしぼくが大学生に戻って就活をやり直すとしたら「やりがいとか仕事がおもしろそうかとか」は一切捨てて、雇用条件だけを見るな。業種はなんでもいい。長くなくて安定している労働時間とそこそこの給与。やりがいなんてのはどの仕事にもあるし、どの仕事でも完全には満たされない。でも労働環境がきついと生活すべてがだめになる。労働なんかのために人生を捨てることはない。

 就活したときは仕事選びを「終の棲家を購入するようなもの」って考えてたけど、「賃貸物件をさがすようなもの」ぐらいに考えたらよかったな。どの部屋を借りるかは大事だけど、ぜったいに失敗はあるし、大失敗ならまた引越せばいい。引越しによって失うものはそんなに多くない。「どんな部屋に住んでいるか」は私という人間を示す要素のひとつではあるけど、一生を決定づけるほど大事なことではない。

 二十年近く働いた今だからそうおもえるんだけど。




『この世にたやすい仕事はない』の主人公は他人にあまり心を開かない。ぼくもそういう人間なので、彼女の思考はわりとよく理解できる。

 私は改めて、同じ場所にいて話ができているということは、同じ場所にいて話ができているということは、心理的な距離もないということになる、という仮の定義をまったく疑わない人たちというものを目の当たりにした、ということに気が付き、ちょっと感動して震えた。どういうことなんだろう。団塊ぐらいの年齢の人ってみんなこんな価値観なのか。いやいやまさかな。

 わかるなあ。世の中には「私は腹を割って話したのだからあなたも当然そうすべきだし、そうしてくれているはず」と信じている人っているよなあ。

 たとえば「会社をやめます」って言ったときに「辞めるって決める前になんで相談してくれんかったん」って言った上司とか。安心して相談できる上司、相談して改善するとおもえる環境やったら辞めてへんで!


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