2021年1月29日金曜日

【読書感想文】「定番」は定番の言葉じゃなかった / 小林 信彦『現代「死語」ノート』

現代「死語」ノート
現代「死語」ノートⅡ

小林 信彦 

内容(e-honより)
「太陽族」「黄色いダイヤ」「私は嘘は申しません」「あたり前田のクラッカー」「ナウ」…。時代の姿をもっともよく映し出すのは、誰もが口にし、やがて消えて行った流行語である。「もはや戦後ではない」とされた一九五六年から二十年にわたるキイワードを紹介する、同時代観察エッセー。


 戦後の流行語の中から、使われなくなった「死語」を拾い集めて著者(昭和7年生まれ)の解説をつけたエッセイ。

 死語というのはおもしろい。生き残っている言葉よりも確実にその時代を映している。

 たとえば1961年(昭和36年)の流行語。

 <女子学生亡国論>
 早大の国文学科に暉峻康隆という教授がいた。
 マスコミにも登場するいわゆる<名物教授>だったが、この人が「私大の文学部は女子学生に占領されて、いまや花嫁学校」と発言した。
 それじたいはどうということもないが、慶大教授でテレビタレントでもある池田弥三郎という人がいて、「女子学生亡校論」をとなえ、この二つが混じって<女子学生亡国論>になったといわれる。<亡国>とは<国をほろぼす>という意味だから、現在だったら冗談ではすまされない。

 すごい。著者は「それじたいはどうということもないが」と書いている部分も相当まずい(このへんの感覚が昭和7年生まれか)。
 今こんな発言したら退職に追いこまれるかもしれない。

 しかし今では「文学部は女子学生だらけ」なんてあたりまえすぎて誰も言わない。それだけ女性が高等教育を受けることがあたりまえになったということだ。




 1986年(昭和61年)の流行語。

〈定番〉
 ファッション用語で、流行に左右されぬ、常に人気のある商品のこと。商品番号が一定していることから出た言葉で、この年、各女性誌で広まった。
 現在ではファッション以外の世界でも用いられる。だから、死語ではないのだが、発生が珍しいので触れてみた。

 えっ。
「定番」ってそんなに最近の言葉だったの。驚いた。
 もっとも言葉としてはもっと古くからあったのかもしれないが、流行語として選ばれるぐらいだから1986年以前はあまり使われなかったのだろう。

 1986年まで「定番」が一般に使われていなかったのは、それまでは「定番」がなかったからではなく、逆に「定番」があたりまえだったからだろう。
 服は長く着るのがあたりまえ。流行を追って毎年のように買い替えるなんて考えられない。すべてが定番。だからあえて「定番」を使う必要がなかった。
 ところがバブル期(1986年といえばちょうどバブルがはじまった頃だ)から、ファッションは消耗品になった。だから「流行り物」ではないという意味の「定番」という言葉が生まれた。携帯電話が生まれたことで「固定電話」という言葉が生まれたように。

 こういうところにもバブルの片鱗が見てとれる。




 言葉には時代の空気が濃厚に反映されている。

 昭和三十年代は流行語も景気がいい。明るく楽しい言葉が多い。
 だが高度経済成長期ぐらいから暗い言葉が増えはじめる。公害、過労死など高度経済成長のひずみが目に付くようになったのだろう。冷戦の影響も大きいはず。

  1995年(平成7年)の流行語(死語)。

〈ジャパン・パッシング〉
 経済的に強い日本を叩く、いわゆる〈ジャパン・バッシング〉の時代は終り、安全神話の崩れた無力な日本を諸外国は黙殺しようとしている、とテレビで多くの評論家が語った。
 日本を〈パスする〉――これが〈ジャパン・パッシング〉だと言われたが……。

 bashing(非難)ではなくpassingね。「無視」みたいなニュアンスだろうね。
 バブル期に日本は叩かれていたが、今おもうと叩かれていたうちがハナ。すっかり歯牙にもかけられない国になってしまった。




 流行語・死語の移りかわりを見ていると、流行の担い手がだんだん若くなっているように感じる。戦後の流行語は大人の言葉が多い。政治経済用語だったり、小説や映画のフレーズだったり。
 次第に子ども向けテレビ番組や中高生発信の流行語が増えてくる。大人たちが文化の先導者でなくなってゆく。

 くだらない流行語が増えてゆくのだが、あながち悪いこととも言いきれない。社会が抱える深刻な問題が小さくなったからこそ、テレビやアニメの言葉の重みが相対的に増したのだろう。
 歴代流行語大賞(ユーキャン)を見ていると、ここ最近の流行語なんてテレビ・スポーツの言葉ばかり。ほんとにバカみたいだけど、2020年はほとんどコロナ関連だったことをおもうと(2021年もたぶんそうだろう)今となっては懐かしい。またバカな言葉が流行語になる時代になってほしい。


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レトロニム



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2021年1月28日木曜日

だらしない人


 自分でいうのもなんだが、ちゃんとしている人間だ。

 まあ部屋は汚いし、服はよれよれになっても穴が開くまで着つづけるし、風呂では適当に身体を洗ってすぐ湯船に飛びこんでしまうし、食べ物はよくこぼしてしまうし、だらしないところを挙げればきりがないんだけど、人に迷惑をかけないようにはしている。こぼしたものは拾うし。

 約束の時間に遅れるとか、人に金を借りるとか、できもしない約束をするとか、そういうことはしない。
 だらしないのは「他人に迷惑をかけない範囲で」だけだ。家族にはちょっと迷惑をかけるけど。

 これはもう性分だ。
 だらしない人がだらしなくするのが楽であるように、きっちりするほうが楽なのだ。心労が少なくて。

「遅くとも約束の時刻の五分前には着くように」とおもって出発するから、たいてい十五分くらい前に着いてしまう。
 たいていカードで支払いをするのに「何かあったときのため」とおもって財布には常に二万円は入っている。残金が一万円を切るとすごく不安になる。
「急に結婚祝いが必要になったときのために」とおもって新札の一万円札を常に数枚置いている。いらないのに。なぜなら結婚祝いを急に渡さなきゃいけないような状況はまずこないから。


 一方、世の中にはすごくだらしない人がいる。

「給料日前だから金がないんですよ。今月使いすぎちゃって」とか
「ごちそうさま。あっ、お金ないや。貸してもらっていいですか。この後ATMでおろして返すんで」とか言える人。
 すごい。ごはんを食べた後でお金がないことに気づけるなんて。それ、ぼくもお金をギリギリしか持ってなかったらどうするつもりだったんだ。

 あるいは、十五分も遅刻してきてるのに「ごめんごめん」と言っただけで泰然としてる人。ぼくだったら土下座するぐらい謝る局面なのに。

 ちょっとうらやましい。

 ひとつには、だらしない人のほうが楽しく生きているように見えること。余計な心配とか抱えていなさそうに見える。

 もうひとつは、そういう人ってたいていみんなから愛されるキャラクターであること。
 まあこれはあたりまえの話で「もうあいつはしょうがねえな」って許せるキャラクターだからこそ、だらしない行為を続けられるのだ。
 だらしないから愛されるのか、愛されるからだらしなくなるのかわからないが、とにかくだらしない人は憎めない。

「不愛想で、時間にルーズな人」とか「他人の欠点をねちねちと責めてきて、方々から借金してる人」とかいないでしょ。
 いや、いるんだろうけど、そういう人からはみんな離れてゆくから目につかない。

 だから、ぼくらの身の周りにいる〝だらしない人〟は、たいてい気のいい人だ。
 時間に遅れても、持ち合わせがなくても、「もう、しょうがねえなあ」で許されちゃう人。愛嬌のある人。
 うらやましい。


 ぼくのように愛嬌のない人間は、なるべく周囲に迷惑をかけないようにきっちりと生きるしかないのだ。



2021年1月27日水曜日

【読書感想文】食生活なんてかんたんに変わる / 石川 伸一『「食べること」の進化史』

「食べること」の進化史

培養肉・昆虫食・3Dフードプリンタ

石川 伸一

内容(e-honより)
私たちがふだん何気なく食べているごはんには、壮大な物語が眠っている。食材を生産、入手するための技術、社会が引き継いできた加工や調理の方法、文化や宗教などによる影響…。人間は太古の昔から長期間にわたって、「食べること」の試行錯誤を重ねてきた。その食の世界が今、激変してきている。分子調理、人工培養肉、完全食のソイレント、食のビッグデータ、インスタ映えする食事…。こうした技術や社会の影響を受けて、私たちと世界はどう変わっていくのだろうか。気鋭の分子調理学者が、アウストラロピテクス属の誕生からSFが現実化する未来までを見据え、人間と食の密接なかかわりあいを描きだす。

 テクノロジーの発展にともない、「食べること」はどう変わってきたのか、そしてこれからどう変わってゆくのかを大胆に予想した本。

 この手の未来予測本は大好きなので、読んでいて楽しい。五十年後ぐらいに答え合わせをしたい。




 我々がふだん「食と健康」について考えるとき、「食べ物」と「ヒト」についてしか考えない。こういう人はこれを食べるといい、というように。
 だが、ヒトの体内で食物を分解・吸収するために働いているのは腸内細菌だ。
 だから将来、腸内細菌をコントロールする方向に進歩すると著者は指摘する。

 腸内細菌の人体への影響、健康との関わりが明らかになるにつれて、次はその腸内細菌をいかにコントロールするかというテクノロジーに注目が集まっています。腸内細菌のマネジメントは、日常的に口に入れるもの、つまり食べものなどによって、自分の健康に良い微生物の集団として制御することが、一番簡単で効果的です。ふだん私たちは、〝自分〟にとって都合の良いごはんを考えますが、健康維持のためには、「自分にとってのごはん」と同様に、自分のお腹にいる「腸内細菌にとってのごはん」も入念に考えなければならなくなるでしょう。
 ある種のオリゴ糖などの「プレバイオティクス」のように、腸内の善玉菌を増殖させる成分もすでに明らかになってきています。が、年齢や性別、体調や病気、さらには自分の遺伝子によって、腸内細菌の種類と割合などをよりきめ細やかにコントロールする時代がやってくるでしょう。そうなると健康は、これまでの「食べもの」と「ヒト」の二者の相互関係を考えるだけでは不十分で、「食べもの」「ヒト」「腸内細菌」の関係を〝三位一体〟で考えることが必要となります。

 ふうむ。たしかに腸内細菌のマネジメントは欠かせないよな。
 健康を考える上で「食べ物」と「ヒト」のことしか考えないのは、国家を考える上で「領土」と「資源や輸出入などモノの流れ」だけを考えて、国民を無視するようなものだよね。
 ぼくらの身体の国民は細菌だ。

 ヒトの成人の脳と腸は、重量がどちらも1キログラム程度で、ほぼ同じくらいの重さです。それに対して、ヒトと同じ程度の体重の哺乳類の大半は、脳の大きさがヒトの約5分の1程度なのに対し、腸の長さが人間の約2倍あります。つまり、ヒトは相対的に大きな脳と、小さな腸を持っている動物といえます。
 このヒト特有の脳と腸の大きさの比は、最初の狩猟採集民の登場とともに始まった、腸から脳への一大エネルギー転換の結果だという説があります。初期ヒト属は、食事に肉などを追加することによって、大きな腸よりも大きな脳をもつ種へと変わっていきました。つまり、腸にエネルギーが以前ほど使われなくなった分、そのエネルギーを脳の成長と維持にまわすことができるようになったといえます。

 他の動物にはないヒトの特徴、といえばまずは「大きな脳」が思いうかぶが、「短い腸」もヒトの特徴だ。加熱調理をすることでエネルギーを効率的に摂取することができ、食事に長い時間をかけなくても大きな脳を維持できるようになったわけだ。
 ってことは生野菜やフルーツばっかり食ってる人って脳の活動が鈍いのかな。たしかに極端な菜食主義者って脳の活動が鈍いイメージが




 ヒトにはわずかな遺伝子の違いがあり、その個体差は「遺伝子多型」とよばれています。この遺伝子多型が、アレルギー体質や薬に対する効きやすさなどの違いを生み出しています。
 医療から始まった個別化、すなわちテーラーメイド化は、現在、栄養分野にも波及しており、個人個人の体質や遺伝子多型に合った栄養指導としての「テーラーメイド栄養学」があります。薬だけでなく、食品がヒトの身体に及ぼす影響の程度も、人によって違うことがあります。これは、遺伝子多型によって、栄養素の消化、吸収、代謝、利用などに個人差があるためです。
 食品の摂取にともなって起こる遺伝子発現を網羅的に解析する手法は、「ニュートリゲノミクス」とよばれ、個人の「体質」を調べるのに用いられています。個々人の遺伝子多型を考慮した適切な食事を摂ることで、「個の疾病予防」や「個の健康増進」に有効な役割を果たすことが期待されています。ニュートリゲノミクスによる遺伝子多型研究や、胎児期のエピジェネティクス研究などにより、ふだんの生活から、個人に最適な食のデザインを目指す「テーラーメイド栄養学」にますます注目が集まっていくでしょう。

 ぼくは太らない。
 炭水化物が大好き。甘いものも好き。たいして運動もしない。
 でも太らない。昔からずっと痩せ型で、四十手前になった今でもほとんど体重が変わらない。そういう体質なのだ。エネルギーの貯蔵ができないし消費カロリーが多い(=燃費が悪い)タイプ。
 現代ではお得な体質だが、食糧不足の時代には真っ先に死んでしまうタイプだ。

 だから「太らないためには糖質や炭水化物を控えましょう」なんて聞くと、アホじゃねえのとおもう。
 もちろんダイエットには運動や食事制限が重要だが、それ以上に「体質」も大きな要素だ。

 すぐ太るタイプと、ごはんや甘いものを食べても太らないタイプがいる。それを無視してダイエットや食事療法を語るなんて無意味。
 未来では、「21世紀前半までの人はすべての人にいい食事があるとおもってたんだって。ライオンとシマウマに同じ餌を与えとけばいいとおもってたのかな」なんて言われてるかもね。



 食生活が変わることに抵抗を感じる人も多いだろう。
 コロナ禍で会食を控えましょうと言われていても、なかなか変えられない政治家も多い。

 でも、人間の食生活なんてかんたんに変わるものだ。
 我々は「家族そろって食事をするのが正しい姿」とおもいこんでいるが、「家族そろって食事」の歴史はすごく浅い。

 家族関係学が専門の表真美氏は、日本の家族団らんの歴史的な変遷を調べています。その調査によれば、近代までの一般的な家庭の食事は、個人の膳を用いて家族全員がそろわずに行われ、家族がそろっても食事中の会話は禁止されていました。では、食卓での家族団らんは、どのように始まり、どのように普及していったのでしょうか。
 かつて、団らんの移り変わりには、「欧米からの借りものとしての団らん」「啓家としての団らん」「国家の押しつけとしての団らん」があったことが知られています。
 食卓での家族団らんの原型が誕生したのは、明治20年代でした。教育家・評論家の蔵本善治が、食卓での家族団らんを勧める記事を書き、キリスト教主義の雑誌にも同様の記述が複数登場しました。その後、国家主義的な儒教教育と結びついた記事により、家族そろって食事をするべきだという意見が広がっていきました。
 その後、家族団らんが、一般的な家庭の食事風景になったのは1970年代頃でした。NHKの国民生活時間調査によると、この頃、家族で食事している家庭は約9割に達しています。共食が常識だったこの時代の家庭科の教科書には、家族一緒の食事を促す記述はほとんどみられません。

「最近の家族は子どもの塾通いなどでみんなばらばらに食事をとっている! 個食だ! けしからん! 子どもの正常な発達が!」
なんて人がいるけど、一家そろって食事をしていた時期なんて日本の歴史からしたらごくわずかなのね。

「昔はよかった」系の人が理想とするのは昭和時代が多いけど、日本の歴史において昭和ってすごく異常な時代なんだよね。
 専業主婦が主流だったのは昭和だけ、自由恋愛で結婚するのが多数派になったのも昭和、自分で職業を選ぶようになったのも昭和、人口が増えたのも経済が成長したのも二十世紀だけが異常なスピードだった。そもそも「伝統」を意識するようになったのが近代以降。

 食生活なんか数十年でかんたんに変わる(その上さもずっと昔からそれが続いていたと信じこんでしまう)のだから、今世紀後半にはまったく食生活になっているかもしれないね。
 すでにコロナ禍のせいでずいぶん変わったし。


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2021年1月26日火曜日

【読書感想文】ご都合のよいスタンド能力 / 東野 圭吾『ラプラスの魔女』

ラプラスの魔女

東野 圭吾

内容(e-honより)
ある地方の温泉地で硫化水素中毒による死亡事故が発生した。地球化学の研究者・青江が警察の依頼で事故現場に赴くと若い女の姿があった。彼女はひとりの青年の行方を追っているようだった。2か月後、遠く離れた別の温泉地でも同じような中毒事故が起こる。ふたりの被害者に共通点はあるのか。調査のため青江が現地を訪れると、またも例の彼女がそこにいた。困惑する青江の前で、彼女は次々と不思議な“力”を発揮し始める。


(ネタバレ含みます)

「ラプラスの悪魔」という概念がある。
 ピエール=シモン・ラプラスによって提唱されたもので、「初期状態がすべてわかればその後何が起こるかわかる」という考え方だ。
 たとえば坂道の上にボールがあり、坂の角度、ボールの質量、摩擦の大きさ、大気圧、風向きと風速などがわかっていればボールがどこまで転がるかは事前に予測できる。それと同じように、宇宙誕生の瞬間の状況を理解できれば、未来も含めこの宇宙で起こる出来事すべてを言い当てることができる、というわけだ。

 たしかに理論上は可能かもねーという気になるが、この考え方は現在では否定されている。カオス理論なるものによって複雑な事象の未来余地ができないことがわかった(らしい)のだ。もっとも、カオス理論について書かれた本を何冊か読んだが、ぼくにはさっぱり理解できなかったが。


 まあそんな「ラプラスの悪魔」の能力、つまり物理的な動きを予見する能力を人間が手に入れたら……というSF小説だ。

 SFには説得力が必要だ。嘘をもっともらしく見せるハッタリ、といっていい。『ラプラスの魔女』は残念ながら、そのハッタリが弱かった。

 能力を獲得した経緯については冗長といってもいいほどの理由付けをおこなっている(はっきりいって能力が説明されるまでがものすごく長い。読者はとっくにわかってるのに)。脳の損傷、天才的外科医による手術、損傷した部位を補うための超常的な回復……。
 それはいい。「こういうわけで物理的な動きを予想できるようになりました」これは納得できる。たとえば一流アスリートは一般人よりもボールの動きを読む力に長けているわけだから、「それのもっとすごい版」を獲得するのであれば「まあそんなこともありうるかもしれないな」とおもえる。

 ただ、この小説に出てくる「ラプラスの悪魔」の能力は度が過ぎる。紙片の落ちる位置や気体の流れる方向を予測したりするのはいいとして、「人間の行動もだいたい予測できる」「その場にいない人間の行動まで読める」「話術によって他人の意思を操れる」といった能力まで付与されている。それラプラスの悪魔の能力をはるかに超えてるやん……!

 当初は「物理的な変化を予測する」能力だったのに、いつのまにか未来予知能力に進化しているのだ。能力が進化するってもはやジョジョのスタンドやん。
 あと「奇跡的に獲得した」はずの能力だったのに、あっさりと別の人物にコピーできてるし。エンヤ婆の弓矢かよ。




 そして……もっとも興醒めだったのは、ぼくが大嫌いな「真犯人が訊かれてもいないのに過去の犯行や自分の内面をべらべらとしゃべる」があること。『プラチナデータ』もそうだったけど。
 おしゃべりな犯人を登場させる小説ってダサいよね。最後に犯人が敵を相手に一から十まで言っちゃうやつ。犯人は冷酷非情で頭脳明晰なはずなのに、なぜか最後だけ親切なバカになって自分にとって不利なことをべらべらとしゃべっちゃう。火曜サスペンスか。

 ああ、やだやだ。もう「訊かれてもいないのにべらべらとしゃべる犯人」は条例で禁止にしてほしい!


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2021年1月25日月曜日

夫婦間の負担が公平であってはいけない


■増田やはてブの年長者の方にお知恵をお借りしたいです


 これを読んでいろいろ考えた。
 ぼくは生まれ育った実家を除けば、二回他人との共同生活を送り、一度は失敗して一度は今のところうまくいっている。

 一回目は大学生のとき。姉の通う大学とぼくの大学が近かったので、2LDKで3年間いっしょに暮した。
 これは失敗した。そこそこうまくやってたのは最初の半年ぐらいで、最後の一年ぐらいはほとんど口も聞かなかった。

 姉弟だから実家生活の延長でうまくいくだろうとたかをくくっていたのだが、姉弟だからこそうまくいかなかったのかもしれない。遠慮の無さが悪いほうに転がった(今の関係は良好だけどね)。


(以前書いた記事)  姉との二人暮らし

 うまくいかなかった理由はいろいろあるけど、よく衝突したのは家事の負担をめぐってだった。
 はじめは料理や洗濯や掃除の分担を決めていたのだが、求める水準が姉とぼくとではずいぶんちがった。ぼくはだらしない人間なので部屋が汚れても平気だし洗濯物が溜まってもいいし料理も食えて腹が膨れりゃなんでもいい。姉は全般的にきっちりしている。

 そういうふたりが「家事を半分ずつこなそう」なんて無理がある。姉はぼくのやりかたに文句をつけ、そのたびにぼくはやる気をなくてしてますます家事を雑にやるようになった。


 二度目の共同生活は、九年前から。結婚して妻と暮らすことになった。
 これも最初はいろいろとぶつかった。やはりぼくのやりかたが気に入らない妻が不満を抱えた。特に、「妻が先に住んでいた家にぼくが後から転がりこむ」という形だったので、妻はそれまでのやりかたを変えなければならないことがあったし、ぼくはぼくで既にあるルールを押しつけられる形だったので気に入らないことも多かった。

 いろいろぶつかったが、ぼくにとって助かったのは、妻があきらめてくれたことだ。
「この人が洗い物を丁寧にやることを期待するより自分がやったほうが早いしストレスも少ない」
とおもってくれたことだ。
 幸か不幸か妻のお父さんがまったく家事をしない人だったそうなので、「それよりはマシ」とおもってくれたらしい。

 そんなわけで妻がぼくに期待する家事負担は50ではなく10か20ぐらいになった。
 子どもができ、妻が産休・育休をとったことで、妻のほうが家にいる時間が長くなったこともある。

 その代わりといってはなんだが、生活費はぼくのほうが多く入れているし(妻は時短勤務なのでその分給料も減っているので)、ぼくはぼくの得意なことをやっている。休日はほぼずっと子どもといっしょにいる。その間妻は昼寝や趣味に時間を使っている。




 で、冒頭の記事の話に戻るけど。
(3歳が書いたとかいうのはめんどくさいから無視する)

 たった二例ではあるが、ぼくが共同生活に失敗と(今のところ)まずまずうまくいってる経験からいうと、この人みたいにきっちり家事の分担を分けて50:50にもっていこうとするとまず失敗する。

 55:45だからダメとかそういう問題じゃなくて、そもそも「どうやったら損をしないか」って考えてる時点でもうダメ。

 人間関係はファジーなほうがうまくいく。貸し借りとか損得をあいまいにしとくほうがいい。
 お隣さんからリンゴをおすそ分けしてもらったとき、そのリンゴの市場価格を調べてその日のうちに同額の現金または商品でお返しする人はうまく近所付き合いができない。
 友だちや恋人に
「あの飲み会のときは自分が〇円多く出した。旅行のときは向こうがガソリン代を払った。こっちは引っ越しの手伝いをしてあげた」
と勘定を口にする人からはみんな離れていく。
「ああこの人は自分のことを損得の対象としてしか見てないんだな」っておもうから。


 ぼくの友人夫婦の話をする。
 妻のほうが重い病気になり、遠くの病院に入院することになった。結局一ヶ月くらい入院していた。その間、夫のほうは大変そうだった(もちろん妻のほうも大変だっただろうが)。仕事をしながら、入院にまつわるあれやこれやをして、子どもたち(ふたりとも保育園)の面倒も見なければならない。子どもたちのおじいちゃんおばあちゃんに来てもらったりもしていたが、負担は相当大きかっただろう。フルタイムで働きながら家事と育児を一手に引き受けていたのだから。

 幸い妻の病気は治り、今は何事もなく暮らしている。そして大変な局面を乗り越えたこの夫婦は、入院前よりも仲良くなったらしい。
 もしも夫のほうが「どんなときでも家事は半分ずつ」とか「入院中は自分が全部やってたんだから退院後はそっちの負担を大きくするべき」とか言ってたら。まちがいなく、夫婦仲は修復不能なほど壊れていただろう。


 夫婦は持ちつ持たれつであるべきだが、それは何もすべてを50:50でやるということではない。家庭への貢献は、生活費とか、家事とか、育児とか、介護とか、高額な生命保険に入るとか、食卓でおもしろい話をするとか、いるだけで場がなごむとか、いろいろあるはずだ。当然ながら全部を数値化して貢献度合いを半分ずつにすることは不可能だ。


 だから冒頭の相談についてもしぼくがアドバイスするとしたら、「そんなこと気にするな」としか言いようがない。気にすること自体がまちがいなんだから。
 身も蓋もない結論になっちゃうけど。


2021年1月22日金曜日

【読書感想文】江戸時代は百姓の時代 / 渡辺 尚志『百姓たちの江戸時代』

百姓たちの江戸時代

渡辺 尚志

内容(e-honより)
江戸時代の人口の八割は百姓身分の人々だった。私たちの先祖である彼らは、何を思い、どのように暮らしたのだろうか?何を食べ、何を着て、どのように働き、どのように学び、遊んだのか?無数の無名の人々の営みに光をあて、今を生きる私たちの生活を見つめなおす。

 江戸時代の人々、と聞いて我々がイメージするのは将軍、武士、商人、町人などが多い。歴史の教科書でも時代劇・時代小説でも舞台になるのはたいてい町か城。農村が舞台になることはほとんどない。
 庶民の娯楽である落語でも、農村が出てくるのは『池田の猪買い』『目黒のさんま』などほんのひとにぎりの噺だし、それらも主役は町人や武士であって百姓は脇役だ。

 だが江戸時代、人口の八割以上は農民だった。江戸時代の庶民とはつまり、農民なのだ。我々も祖先をたどればほぼ間違いなく百姓にいきあたるだろう(ぼくは二代前であたる)。

 圧倒的多数が農民であったにもかかわらず、ぼくらは江戸時代の農民の暮らしを知らない。
 小学校の社会の教科書に「千歯こきなどの道具が広まって農業が便利になった」とか書いてあったぐらい。あとは「飢饉のときは娘を売った」「厳しい年貢の取り立てで食うや食わずの生活を送っていた」「米などめったに食えずあわやひえを食っていた」といった〝過酷な生活〟のイメージしかない。




『百姓たちの江戸時代』では、当時の文献をもとに江戸時代の農民の生活を暮らしをしている。

 この本によると、一般的なイメージよりずっと豊かな生活が浮かびあがってくる。
 けっこう米を食べていた。頻繁に貨幣を使って買物をしていた。農業だけでなく金融や投資で稼いでいる農家もあった。寺子屋で勉強して読み書きのできる農民も少なくなかった。

 意外といい暮らしをしている。

 信濃国(今の長野県)の農家であった坂本家という家の文書によるデータ。

 坂本家の年中行事と交際をみましょう。元旦に賽銭の記載があり、行き先は不明ですが初詣に行っています。年始・年玉の記載もありますが、数は多くありません。年始には、柿やするめを持参しています。二月には、初午(二月の最初の午の日に、稲荷社で行なわれる祭り)・二ノ午への小遣いがあります。桃の節句には、離・離菓子を買い、文政八年(一八二五)には、離餅を作って、他家にも配っています。また、慶応元年(一八六五)には、端午の節句のために、五月三日に飾り鯉一枚を買っています。一二月には、歳暮・門松・羽子板を買っている年があり、海老や田作を買っているのも正月用でしょう。餅は、文政七年(一八二四)一二月に餅米四斗、粟四升、文政八年末に餅米三斗二升、餅粟四升をついています。今日につながる、各種の年中行事が行なわれていたのです。

 この坂本家は村の中ではトップクラスの裕福な農家だったらしいが(収支を記録して文書にして残しているぐらいだから当然だ)、とはいえ桁外れな金持ちというほどではなく、村に数軒あるレベルの家だった。今でいうなら年収1000万ぐらいの層だろうか。

 これを見ると、けっこう生活に余裕があるなという気がする。雛人形や鯉のぼりや羽子板や、季節ごとの食べ物といった縁起物を頻繁に買っている。

 さらに坂本家では農地を人に貸して小作料をとったり、農具や種子や馬を売買したり、お金のやりとりを頻繁にしている。
 江戸時代というと遠く離れた昔という気がするが、じっさいは百年前(大正時代)の農村とそう変わらない生活をしていたのかもしれない。

 都市の生活は近代以降で一変しただろうが、農村の暮らしはあまり変わっていないかもしれない。ぼくの父(昭和30年生まれ)も家で牛を飼ってたらしいし。




 江戸時代の土地・財産に関する考え方について。

「どの農家にも、先祖から譲り受けた耕地や財産がある。それらを自分の物だと思うことは、最大の誤りである。ゆめゆめ自分の物だとは思うな。それらは、家を興した先祖の耕地・財産であって、先祖からの預かり物である。大切に所持して、子孫に伝えるべきだ。……家の先祖は主人、現時点での家長は手代・番頭のようなものだ。時の家長は、主人の宝を預かって家を経営しているのであり、生涯に一度は功績を立てて家を発展させることが、父母・先祖への孝となるのだ」(『農業要集』)。
「家督相続について。先祖より代々伝わった家財・田畑・山林などは、皆預かり物である。預かり物はすべて大切に手入れし、損じた品は補充し、一品たりとも不足のないようにして子孫に譲るのが、家長の第一の務めである」(『吉茂道訓』)。
 以上の例からわかるように、江戸時代においては、村の耕地は個々の家のものであると同時に村全体のものでもあり、耕地の所有は村によって強い規制を受けていました。百姓たちは、土地を排他的・独占的に所持しようとするのではなく、村に依拠し村の力に支えられつつ所持地を維持していこうと考えていたのです。
 こうした土地所有のあり方は、近代以降のそれとは大きく異なっています。しかし、多くの百姓たちは、自分の所持地について独占的な権利を主張するだけでは所持地を維持していくことは難しいと考えていました。他者を排除して土地を囲い込むことだけを考えていては、経済的困難から所有権を手放さなければならないような危機的状況におかれたとき、誰も助けてはくれません。逆に、共同所有(共有)と個別所有(私有)が重なり合ったような江戸時代の所有形態であれば、個々の百姓が困窮したときには村が援助してくれます。そこで、江戸時代の百姓たちは、前記のような所有のあり方を主体的に選択したのです。
 われわれは、他者を完全に排除するほど所有権が強固になると考えがちですが、江戸時代の百姓たちは、村の共同所有のもとで、村の保護と規制を受けたほうが、家の所有権が確かなものになると考えました。村、すなわちほかの村人たちの総意を受け入れるなかで、自家の永続を目指したのです。個と集団の共生の思想だといえるでしょう。

 村に所属する家が、家や田畑を村外の人間に勝手に売ってはいけないことになっていたそうだ。

 この考え方、非合理的なようですごく理にかなった考えかもしれない。

 資本主義社会では、基本的に「取引は自由である」という考えにのっとって動いている。当事者間の同意さえあれば、法に触れないかぎりはどんな契約をしても自由。
 資本主義社会では「個人の土地売買を村が制限する」ことは、自由な取引を阻害するものとして悪とみなされる。

 だが、自由な取引がおこなわれた結果どんな世の中になったかというと、富める者がますます富み、貧しい者はどんどん奪われる社会だ。当然だ。「なくなっても生活に困らない金がふんだんにある者」と「明日の生活に困っている者」が対等の契約を結べるわけがないのだから。

 たとえば古い商店。商店街組合に属していて、何をするにも組合のお伺いを立てないといけない。他との兼ね合いもあるので勝手に安売りをすることもできない。不自由だ。
 ところが組合がなくなって競争が完全自由化されると、大手資本のショッピングモールがやってきて、資本にものをいわせた価格と品揃えで古い商店を軒並みつぶしてしまう。
 これと同じことが様々な業界でおこなわれている。小資本は根こそぎつぶされて、大手資本の言いなりになる以外の生きる道は絶たれてしまう。

 消費者にとっては一時的な恩恵があるかもしれないが、総収入が減ることは長期的には損だ。生産者もまた消費者なのだから。

 カルテルやギルドは不自由だが、すべてのメンバーが長期的に繁栄していくためには必要なものだったのだ。


 斎藤 貴男『ちゃんとわかる消費税』という本に、こんな一節があった。

航空機のキャビン・アテンダント(CA)が真っ先に契約社員に切り換えられていきました。もちろん当事者は怒ったけれど、世間は「企業にとってよいことなら労働者にとってもよいはずだ」というように受け止めたのです。
 これは労働組合のナショナルセンターである連合の人に聞いた話ですが、最初がキャビン・アテンダントだったことには大きな意味がありました。他にも、早くから派遣に切り換えられていったのは、女性の、当時で言うOLたちでした。男性の仕事はすぐには派遣にならなかった。今は性別に関係なくどんどん派遣や請負に切り換えられてしまっていますが、あの頃の連合は、女性について「主たる家計の担い手ではない」という古い認識から離れられずにいたのです。連合の組合員の圧倒的多数は大企業の男性正社員でしたから、「女性の労働者がいくら非正規になったところで関係ないし、社会全体にとってもたいした影響はないだろう」と放置してしまっていた。ところが、次第に製造業に派遣が広がって、主たる家計の担い手であった男性も同じような目に遭っていきます。新自由主義の搾取のスタイルに当事者として被害を受けるようになるまでは、労働組合も問題の所在に気づくことができなかったわけです。

 規制緩和がなされれば、当初は「ごく一部の人だけが大きく損をして、他の人たちはちょっとだけ得をする」んだよね。
 だから「規制緩和だ」「既得権益をなくせ」という為政者に民衆は喝采を送る。
 だが、はじめはごく一部だった「大きく損をする人」はどんどん広がる。CAだけだった派遣労働者が、他の業界にも拡がっていったように。


 様々な規制緩和の結果、日本の財産(土地とか労働とか種子とか水とか流通とか)はどんどん海外に売られている。

 江戸時代の農村のような「村人の財産は村のもの」という考えを守っていれば、防げていたかもしれない。今さらもう遅いのかもしれないけど。


 江戸時代の農村のやりかたのほうが百パーセントいいとは言わないけど、古くからあった(一見無駄な)システムには合理的な理由があると気づかされる話だ。


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2021年1月21日木曜日

いちぶんがく その3

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



「悪者退治をしたくてうずうずしてるやつらはわんさといるんだから、そいつらが大挙して押し掛けてくるよ」


(星野 智幸『呪文』より)




「イラクでのAV撮影」という、現地で死刑になってもおかしくないような仕事の依頼もあった。


(雨宮処凛『「女子」という呪い』より)




砂糖を腹一杯食べているアリを捨てる手があるか?


(高野 秀行『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』より)




事件後、彼らの暮らしていた部屋のベランダに置かれた洗濯機には、脱水をかけられたままの洗濯物が残されていたという。


(吉田 修一『女たちは二度遊ぶ』より)




二回目の西洋トイレの試みはさらに難解で、意表を突いたディズニーランドだった。


(M.K.シャルマ(著) 山田 和(訳)『喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』より)




「あいつら人間の内側を金に変えよる」


(塩田 武士『騙し絵の牙』より)




ポケットにつっこんでいた手がマッチに触れたとたん、ぼくにはすばらしい思い付きが生れた。


(加賀 乙彦『犯罪』より)




20歳以上サバを読んでる人との会話ってものすごい大変だということを知った。


(田房 永子『男しか行けない場所に女が行ってきました』より)




お袋の口から出てくるべき音じゃないと思った。


(いとうせいこう『想像ラジオ』より)




「どう見ても、瓶の口が仔猫の頭よりも小さいのに、どうやって入れたっていうの?」


(道尾 秀介『向日葵の咲かない夏』より)




 その他のいちぶんがく



2021年1月20日水曜日

【読書感想文】原発事故が起こるのは必然 / 堀江 邦夫『原発労働記』

原発労働記

堀江 邦夫

内容(e-honより)
「これでは事故が起きないほうが不思議だ」。放射能を浴びながらテイケン(定期点検)に従事する下請け労働者たちの間では、このような会話がよく交わされていた―。美浜、福島第一、敦賀の三つの原子力発電所で、自ら下請けとなって働いた貴重な記録、『原発ジプシー』に加筆修正し27年ぶりに緊急復刊。


 いい本だった。ものすごく読みごたえがある。これぞプロレタリア文学、という読後感。

 著者は1978年から1979年にかけて美浜原発(福井県)→福島第一原発(福島県)→敦賀原発で働き、その体験記を『原発ジプシー』として発表。絶版になっていたが、2011年の福島第一原発事故を受けて内容の一部を削除して再刊したのがこの本だ。


 2011年3月の東日本大震災の影響で福島第一原発で事故が起こったことはみんな知っているだろう。
 ぼくは「想定を超える大きな地震と津波が起きたせいで事故が起こった」とおもっていた。だが『原発労働記』を読んでその認識は変わった。たしかに地震と津波は事故の引き金になったが、もし地震が起きていなくてもいつか必ず事故は起きていただろう。




 実際に現場で働く労働者から見た『原発労働記』を読むと、その安全管理の杜撰さに驚かされる。

 作業は、線量の関係でもう従事できないと言われていた「雑固体焼却助勢」。計画線量が当初の一○ミリレムから、三倍の三○ミリレムに引き上げられたという。実際に浴びた線量が計画線量をオーバーしかけると、その労働者を作業から外すのではなく、逆に、計画線量のほうを上げてしまう……。所詮、「計画線量」とは、この程度のものでしかないのだろう。
 木村さんが「IHI」(石川島播磨重工)の下請労働者として福島原発で働いていたときのことだ。そこの労働者たちは、現場に着くとポケット線量計やアラーム・メーターなどをゴム手袋に詰め、それをバリア(木製の箱)の下に隠してから作業にとりかかっていた。五〇ミリレムのアラーム・メーターが一〇分で〝パンク〟するような高線量エリアで、一時間から二時間の作業。が、ポケット線量計の値は、二〇~五〇ミリレム程度。彼らはその値を一日の被ばく量としてそのまま報告していたという。
「最初はオレだって、そんなことやらなかったよ。でも、みんなやってるんだし……。会社の者もなにも言わんしねえ」

(注:100ミリレムは1ミリシーベルト)

 こんな話ばかり出てくる。
 電力会社は「厳しい基準で運用されているのでぜったいに事故が起こることはありません」と主張している。たしかに厳しい基準はある。だが、問題は現実にその基準が守られていないということだ。

「一定以上の被曝をした労働者は働けない」というルールを作ったって、
「あと五分だから」「せっかく来てもらったのに追い返すわけにはいかないから」「人手が足りないから」となんのかんのと理由をつけて破られる。
『原発労働記』には、

「検査の結果、基準値を上回ったから何度も検査を受けなおさせる。基準値を下回るまで再検査をする」

「放射能測定器が壊れていたから基準をオーバーする放射能を被曝してしまったが、そのまま報告すると始末書を提出しないといけないので嘘の数値を書くように指示された」

「息苦しくて作業にならないので全員規定のマスクを取って作業している」

「急に汚染水があふれたから防護服を着ないままあわてて水をかきだした」

といったエピソードがくりかえし語られる。
 めちゃくちゃ杜撰だ。これでよく「原発は安全です」なんて言えたものだ。


 原発に限らず、どんなルールもどんどんゆるくなるのは世の習わしだ。当初に作ったルールが何十年も厳密に守られることなんてない。まして現場を知らない人間が作ったルールなんて。

 今の新型コロナウイルス対策だってどんどん基準がゆるくなっている。当初は「〇人以上の新規感染者が出たらレッドゾーン」みたいなことが言われていたのに、感染者数が増える一方だからその基準はどんどんゆるくなり、とうとう最近では国や都道府県は明確な数字を言わなくなった。やっていることは四十年前とまったく変わっていない。




 そもそも、ルールをばか正直に守るメリットがまったくないんだよね。
 厳密に基準を守っていたら、人手が足りなくて原発が運用できなくなる。労働者も、働けないと給料がもらえない。
 働かせる側も働く側も、嘘をつくほうがメリットがある。これでルールを守るはずがない。

 そして、どんどん環境が悪くなっていく。

  過酷かつ危険な仕事をしているので、原発労働者の体調が悪くなる
→ 働き手が減る
→ 人手が足りないから無理して働かせる
→ 事故や健康被害が増える
→ さらに働き手が減る
→ 労働者が集まらないからいろんなところに声をかける
→ 仲介会社が入ることで労働者の給料が減る
→ ますます働き手が減る

という悪循環。

 病院にむかう車のなかで、安全責任者は「治療費の件だけど……」と、つぎのようなことを話しはじめた。
「労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故のあったことがバレてしまうんですよ。ちょっとマズイんだよ。それで、まあ、治療費は全額会社で負担するし、休養中の日当も面倒みます。……だから、それで勘弁してもらいたいんだけど、ねえ」
 そして彼は、二、三年ほど前に福島原発内で酸欠事故が発生し、「そのときには新聞にジャンジャン書き立てられて、そりゃあ大変でしたよ」とつけ加えた。
 なぜ彼がこの例を引き合いに出したのか、その理由は明らかだ。もしあんたが労災でなければいやだと言い張ったなら、事故が公になり、東電に迷惑をかけることになる。そうなれば会社に仕事がまわってこなくなり、最終的には、あんた自身が仕事にアブレることになるんだぜ」ということを暗にほのめかしているのだ。事を荒立てるな、そっとしておけ、そうすれば八方丸く収まるではないか……。ここに原発の「閉鎖性」が生まれてくる土壌があるようだ。

 ここに書かれている原発の実態は、ごまかしと隠蔽ばかりだ。
 原発内で事故があっても救急車を呼ばない。付近の住民やマスコミに知られて「やっぱり原発は危険だ」とおもわれたくないから。原発構内でゴミを燃やすと煙が上がって近隣住民に嫌がられるので、外に持っていってこっそり燃やす。

 安全や生命よりイメージ操作に腐心している。「原発は安全だ」という嘘のイメージを守るために、安全性を犠牲にしている。本末転倒だ。


 原発労働者は常に危険にさらされている。

 昼休み。いよいよ原発内で働くことになりそうだ、と、私をこの職場に紹介してくれた石川さんに話す。彼は開口一番、「そりゃ、良かったなあ」と言い、その直後に、「でも、良かったって言えないかもしれんなあ……」と、つぎのようなことを話してくれた。
「管理区域内には、キャビティと呼ばれる大きなプールがある。燃料棒を入れとく所だ。定検が始まると、そこの水を抜き、壁面を掃除する仕事があるんだが、これが実にシンドイ。潜水夫みたいに、空気を送るホースのついたマスク――エア・ラインというんだけど――をつけ、上から水が滝のように落ちてくるなかで、壁面をウエスで掃除するんだ。まあ、人間ワイパーみたいなもんさ。
 けど、堀江さんもこの仕事やるかもしれんから言っとくけど、気いつけんならんのは、エア・ホースから空気が来なくなることがあるんよ。ホースが折れたり踏まれたりでね。これがこわい。じゃあどうするか。まずは、エア・ホースを思い切って引っぱって、プールの上にいる者に合図することだ。それでもダメな場合は、マスクを脱いじゃうことだな。放射能を吸い込んじゃうって? その通りさ。……でも、だよ。空気がストップしてその場で死んじゃうのと、放射能を吸ってでも、少しでも長く生きてんのと、どっちがいい。なっ、そうだろ」
 石川さんは、そのあと私に、いかにして素早くマスクを脱ぐか、そのためにはマスクはどのようにつけたら良いか、といったことを具体的に教えてくれた。〝少しでも長く生きる〟ためのギリギリの生存方法を――。

 こんなふうに「どっちも危険だけどどっちがまだマシか」という選択を常に迫られている。
「酸欠でぶったおれるほうがマシか、マスクをはずして放射能を浴びるほうがマシか」とか。


 そして当然ながら筆者たちも身体を壊している。白血球数が減少した、歯ぐきから血が出た、目まいがする……。
 身体を壊した労働者に対する電力会社からの補償は、ない。




 この本を読んでよくわかった。そもそも原発は無理があったのだ。最初から。
 地震が起きなくても、いつかは必ず大事故を起こしていた。

 メルトダウンまでいかなくても、小さな事故はしょっちゅう起こっている。
 そのとき、実際に対応する現場の人間はほとんど正しい知識を持っていない。

「そのサイクルなんとかいうのは、どんなテストなんだい」と、別の男の声。
「いや、ただね、そう新聞に書いてあったんよ。まあ……、運転前のいろんなテストじゃないのかなあ……」
 なんとも頼りない答えに、今度はバスの前の方から、「そうだよな、わしらが詳しいことを知ってたら、こんな仕事してないもんな」という声が飛んだ。
 このやりとりに、それまで静かだった車内が大爆笑となった。しかし、車内がふたたび元の静けさにもどったとき、「わしらが詳しいことを知ってたら……」のひとことが、なぜか妙に私の心に引っかかってきた。
 三日前、初めて「高圧給水加熱器」のピン・ホール検査をやったとき、この装置がどのような働きをするものなのかという疑問に、先輩の西野さんや、四年間も発の作業をしてきた石川さんでさえ、「わからん」と口を濁してしまっていた。
 近代科学の粋を集めたといわれている原発だから、それなりの高度で複雑な構造をもっていることはわかる。だが、自分たちがなにをやっているのかもわからぬままで仕事をしていることほど、「おもしろみ」のない労働もない。こんな疎外された労働、だからこそ、石田さんがグチをもらすのではないかと、ふと思った。


 この本を読んでまだ「日本に原発は必要なんだ」と言える人がいるだろうか。


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2021年1月19日火曜日

ツイートまとめ 2020年6月


コロナ禍

インターネットの闇

アリの生態

図書館

エンディング

映画の未来

バナナ

無責任

転職会議

受刑者向け

価値観

理科2

需要と供給

少年ナイフ

切り替え

リコメンド

アイドル

99.9%

0.01%

二重チェック

メガネ

定型文

理想

2021年1月18日月曜日

【読書感想文】女子校はインドだ/ 和山 やま『女の園の星』

女の園の星

和山 やま

内容(Amazonより)
ある女子校、2年4組担任・星先生。生徒たちが学級日誌で繰り広げる絵しりとりに翻弄され、教室で犬のお世話をし、漫画家志望の生徒にアドバイス。時には同僚と飲みに行く…。な~んてことない日常が、なぜこんなにも笑えて愛おしいんでしょう!?どんな時もあなたを笑わせる未体験マンガ、お確かめあれ!

『このマンガがすごい!2021』オンナ編第1位になった作品(しかしオトコ編オンナ編って区分、そろそろ時代遅れじゃないかね)。

「受賞時点での巻数が少ない」「メジャーな雑誌に連載されていない」「ギャグ」で、『このマンガがすごい!』に選ばれる作品って外れがないよね。『聖☆おにいさん』とか『テルマエ・ロマエ』とか(ぼくが漫画をよく読んでいたのは十年前までなので情報が古い)。

 ってことで『女の園の星』を読んでみた。うん、おもしろい。
 なんていうか、一言でいうなら「センスがいい」。
 ギャグなんだけど、舞台はごくふつうの女子校だし、ありえない状況も起こらないし、むちゃくちゃ変な人も出てこない。登場人物のテンションも低め。シチュエーション、キャラクター、ストーリー、どれもが常識の範囲内。なのに笑える。これはもうセンスがいいとしか言いようがない。

 やってることは「教師が学級日誌に描かれている内容に首をかしげる」「あまり付き合いのよくない教師がめずらしく同僚と飲みに行く」など、ごくごくふつうのことなんだけどね。
 女子校が舞台でありながら色気も一切なし。というか生徒はほとんど個性がない。変なのは鳥井さんぐらい。
「あるある」と「ねーよ」の間の絶妙なところをついてくる。「ない……けどひょっとしたらあるかも」ぐらい。

 ぼくは女子校生に通ったことがないので(あたりまえだ)、余計にそうおもうのかも。ほとんどの男にとって女子校って未知の世界だから、「ないとおもうけど女子校なら起こりうるのかも」とおもってしまう。
 どんな不思議な出来事でも「インドでの出来事」とつけくわえれば「いやインドならありうるかも……」という気になるのと同じだ。女子校はインドなのだ。


 おもしろかったので次の巻も買おうとおもったらまだ1巻しか出てないんだな。それで『このマンガがすごい』1位になるなんてすごい。

 仕方ないので同じ作者の『夢中さ、きみに。』を買って読んでみた。こっちは男子校が舞台。こっちもおもしろい。でもこっちは「ねーよ」が強すぎるな。ぼくが男子だったからかもしれないけど。


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2021年1月15日金曜日

【読書感想文】国の金でばかなことをやれる場 / 酒井 敏 ほか『もっと! 京大変人講座』

もっと! 京大変人講座

酒井 敏 ほか

目次
はじめに ようこそ!京大変人講座へ!
1 熱帯生態学の教室 アリ社会の仁義なき掟―女王アリと働きアリの微妙な関係(昆虫の世界は、知らないことだらけ!
2 科学哲学の教室 曖昧という真実―割り切れないから見えてくる、グレーゾーンに潜む可能性(デカルトは「すべてを疑う」ことを徹底できなかった!?
3 アート&テクノロジー学の教室 アートはサイエンスだ!―アーティストと研究者、二足のわらじで見つけた日本の美(音の振動から生まれたアート
4 宇宙物理学の教室 そうだ!宇宙に行こう!―手話と学問の意外な関係性(ブラックホール、この摩訶不思議な世界
一番小さい学科を選んだら、天文学科だった!? ほか)
5 SUKIる学の教室 「できない」から「できる」んだ―「他人事」になる社会の中で、自分の唯一性を持って生きる(「できない」って、ダメなの?
おわりに 「本能の声」に気づく、従う 


 前作『京大変人講座』のほうがおもしろかったな。

 アリの話はおもしろかったけど書いてあることはごくごくふつうのアリの生態の話だった。ぼくもけっこうアリは好きなので『クレイジージャーニー』の島田拓氏の回とか『香川照之の昆虫すごいぜ!』のアリの回とかを観ていたので、既に知っていることばかりだった。
 アリのことを知らない人からしたらめずらしい話かもしれないけど、「変人講座」というテーマにはあんまりそぐわない気がするな。
「変なアリもいるから変人でもいい」ってのは持っていき方としてちょっと苦しいな。


『SUKIる学の教室』に関しては書いてあることがさっぱり理解できなくて、なんだこりゃ? ぼくの理解力が足りないのか? とおもっていたのだが、おしまいに越前屋俵太さんが「まったく意味がわからなかった」と書いてて安心した。ああ、ぼくだけじゃなかったのか。
 わからなくて当然、わからないことを楽しめ、という講義みたいだ。ふうむ。そういう意図か。最初に言ってよ。



 京大には「変人のほうがえらい、ふつうのやつはつまらない」という風土がある。少なくともぼくが通っていたときはまだそういう風潮があった。

 そして、私は真面目な人こそが常識を脱した変人になれると考えています。
 真面目な人=変人というと、意外に思われるでしょうか。でも私は、真面目な人ほど変人になると確信しています。
 真面目な人は「ちゃんと自分の頭で考えている人」であり、自分の頭で考えている人は、確実に変人になるのです。
 なぜなら、世の中の大多数の人は「世間体」や「常識」に流されて生きています。周りに流されるがまま、「みんながやってるから」という理由で周りに合わせた言動をとっていくうちに、「常人」になっていきます。
酒井 「研究」って言うとなんかかっこいいイメージがあると思いますけど、たぶん本人は、勝手におもしろがってやっているだけなんです。

越前屋 変人たちは「ねばならぬ」で動いているわけじゃなくて、ニコニコしながら研究してるわけだ。

伊勢田 周りの人とか指導教員が「それは研究じゃないよ」と止めたりすれば、「もっとスタンダードな研究をしよう」と考えるかもしれません。でも、京大では他の人と違うことをやっているのを見たら「おう、おもしろいからやれよ」「いいじゃん! いいじゃん!」と、むしろあおるような場合もあります。

越前屋 そうか! みんな止めないんだ。そういう意味では、京大は治外法権なのかもしれないですね。

酒井 もちろん「そんな研究に何の意味があるんだ?」と言い出す人も、いることはいます。だけど、そういう人たちに大きな力があるわけでもない。だから、あれこれ言われても「そんなもん放っておけばいいんだ」と、突っぱねることができるんです。

伊勢田 たしかに、そういうところがありますね。


 多くの学問ってそういうところから生まれるんだよね。ダーウィンだって進化生物学の謎を解き明かそうとおもって学問をはじめたわけじゃないだろうし。たいていの偉大な研究者がそうだろう。

 しかしそんな京大でも、ニュースなんかを見ているとどんどん「人に迷惑をかけないように意味のある行動をとりましょう」という方向に向かっていっているように見える。ちょっとずつだけど。
 国の金でばかなことをできる場所って日本にまだ残ってるんだろうか。どんどん「税金でくだらないことに使うなんてとんでもない!」というせちがらい世の中になっていってる。

 京大にはずっとバカ養成所であってほしいけど。


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【読書感想文】変だからいい / 酒井 敏 ほか『京大変人講座』



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2021年1月13日水曜日

【読書感想文】働きやすい職場だから困る / 仁藤 夢乃『女子高生の裏社会』

女子高生の裏社会

「関係性の貧困」に生きる少女たち

仁藤 夢乃

内容(e-honより)
「うちの孫がそんなことをするはずがない」「うちの子には関係ない」「うちの生徒は大丈夫」「うちの地域は安全だ」―そう思っている大人にこそ、読んでほしい。


「居場所のない高校生」や「性的搾取の対象になりやすい女子高生」の自立支援をおこなっている著者による、〝女子高生産業〟のルポルタージュ。
〝女子高生産業〟とはJKお散歩とかJKリフレとか、要は「お金を払って女子高生と過ごす」商売だ。当たり前だがいっしょに散歩したりお話したりするだけで済むとはかぎらない。利用客の多くは「あわよくばそれ以上のこと」を狙っているのだから。

 だが表向きは風俗店ではないので違法行為をしたという証拠がないかぎりは警察も厳しく取り締まることができず、性産業への入口となっていることが多い。


 事務所についたらインターホンを押し、「普通のマンションだから、友達の家に遊びに行くときみたいな感じ」で挨拶をする。店長がドアを開けたら部屋に荷物を置いて、チラシを持って準備完了。マンションの前の通りで客引きをする。ただ、それだけだ。

(中略)

 客が入ったら事務所の下まで連れて行き、料金を受け取る。それを持って彼女だけ部屋に上がり、店長にお金を渡す。「何分行ってきまーす」と伝えて客の元へ戻り、そこからお散歩が始まる。客は彼女を連れてどこにでも行くことができる。
 時間は店が管理し、支払った分の時間になると少女の携帯に「終わりの時間だよ。延長するかお客さんに聞いてみて」と店から電話がかかってくる。延長しない場合はその場で解散し、少女だけ事務所に戻るという流れだ。客と店のスタッフが顔を合わせることはない。
 好きなときに事務所に現れ、チラシを配って客引きをし、お金を持って戻ってくる。客と散歩に行き、また客引きに行く彼女たちに、店がしてやることはほとんどない。少女たちは客からお金を運んでくるいい餌だ。レナは「店の人は女の子が心配だから、ビラ配り中もたまに見回りに来る」というが、それは少女を監視し管理するためである。

 これを読んで、鵜飼いの鵜みたいだな、とおもった。
 高校生が客引きをして、高校生が会計をして、高校生が客とお散歩をする。店側はほとんど何もしてない。チラシを作り、終わりの時間を連絡するだけ。トラブルになったら出ていくんだろうけど、やってることは「ショバ代をとるヤクザ」そのものだ。なんと楽な商売だろう。何もしなくても鵜が勝手に魚をとってきてくれるのだ。

 女子高生からしても楽な仕事だろう。ふつうのアルバイトよりはるかに稼げるのだから。
 だが世の中そんな甘い商売はない。当然ながら危険はある。見ず知らずの男とふたりっきりになるのだから、性的暴行を受ける危険性は高い。客の多くはそういう目的で近寄ってきているのだし「金を払ってるのだから」という意識は人を強引にさせる。


 誰が見たってよくない商売だろう。堂々と「JKお散歩で働いてます」「JKお散歩利用してます」と言える人はまあいない。

 でもなくならない。手を変え品を変え、未成年を対象にした準性産業はなくならない。なぜなら需要があるから。
 男側の需要はもちろん、女子高生側の需要も。

 レナによると、彼女がこの仕事をしている理由は、部活や受験勉強のためシフト制のアルバイトをする時間がなかなか取れないこと、家計が苦しいこと、「そんな中、仕事を一生懸命頑張っている父親に小遣いをもらうのを遠慮してしまうことの3つ。そして、彼女には「うちは他の家と違う事情がある」という意識が強くある。
「同級生も一緒にお散歩を始めたんですけど、その子にはちゃんと親がいるから、帰りが遅いと怒られるし、受験に備えて勉強しなさいと言われてやめました。うちはパパが夜の仕事だから、遅く帰ってきてもわからない。だから、パパより早く帰ってくるのが目標。3時までにはお家に帰るから、ばれてない」
 レナは「うちは父子家庭だから」「あの子のうちには親がいるから」と何度も口にした。彼女を見ていると、心のどこかで父親に気づいて欲しいと思っているのではないかとすら思えた。そして同時に、「家庭を支えたい、迷惑をかけたくない。自分のことは自分でしなければ」という意思を持っていることが伝わってきた。

 高校生が働ける場所はそう多くない。酒を出す店では働けないし夜遅くも働けない。大学生以上しか雇わない店も多い。授業やテストや部活で時間の融通も利かない。

 働けてもたいていは最低時給。小遣い稼ぎならそれでもいいかもしれないが、生活費を稼がなくてはならない高校生にとっては厳しいだろう(そして生活に困っている子どもは年々増えている)。

 そんな高校生にとって、JKビジネスは働きやすい職場だ。短時間でも働ける。働きたいときだけ出勤すればいい。うまくやれば月に何十万円も稼ぐことができる。
「働けない」か「JKビジネスで働く」の二択しかないケースも多いだろう。
(男子だったら「働けない」か「学校をやめる」か「非合法な手段で稼ぐ」の三択になる)

 稼がなくてはならない高校生は年々増えているのに、高校生が稼げる社会になっていない。
「売る女子高生」や「買う男」だけの問題ではないのだ。




 少し前に、杉坂 圭介『飛田で生きる』という本を読んだ。飛田というのは大阪市内に今も残る遊郭。半ば公然と売春がおこなわれている場所だ。

 遊郭というと怖いイメージがあるが、『飛田で生きる』を読むかぎり飛田新地という街は他の風俗街に比べてずっと安全であるようだ。
 そもそも売春という非合法なことをやっているので、必要以上に警察に目をつけられないために「開業時は警察に届ける」「暴力団と関わらない」「営業時間を守る」「無理なスカウトや引き抜きをしない」「料金は事前にきちんと伝える」「従業員に健康診断を受けさせる」といったことを徹底しているらしい。
 もちろんそれでもリスクはあるだろうが、極力トラブルにならないような工夫がされている。

 それに比べると、JKビジネスはすべてが緩い。そもそも「未成年者を働かせる」「ヤクザが関わっているところも多い」「料金は交渉次第」「営業時間も場所も不規則」「届け出はしない」「従業員の身元確認もしないことがある」など、何から何まであぶなっかしい。




「そうはいってもJKビジネスで働くのなんて一部のグレた女子高生だけでしょ」とおもうかもしれないが、そうでもないようだ。
 この本によると、まじめに勉強や部活に取り組んでいたり、生活費に困っていないような高校生も働いているらしい。

 はじめは「不良の子」「お金に困っている子」だけかもしれないが、そういう子がJKビジネスをすることで、そうでない子も足を踏み入れるようになるのだ。
 友人から「私もやってるけどあぶない目に遭ったことなんてないよ」と誘われたら、敷居は下がるだろう(そして店側は女子高生に紹介料を払って友だちを紹介させる)。

 JKリフレやお散歩、売春に流れていく少女たちの多くは「衣食住」を求めている。「寂しいから」「居場所を求めて」ではない。寂しさを埋めるためだけなら、少女はわざわざおじさんを相手にしない。女子高生を相手にする若い男はいくらでもいる。たとえ男性の前でそういう振る舞いをしたとしても、女同士の本音トークではそんな風には語られない。彼女たちは生活するため、お金や仕事が欲しくて男性を相手にしているのだ。
 家庭や学校に頼れず「関係性の貧困」の中にいる彼女たちに、裏社会は「居場所」や「関係性」も提供する。彼らは少女たちを引き止めるため、店を彼女たちの居場所にしていく。もちろん、少女たちは将来にわたって長く続けられる仕事ではないことを知っているが、働くうちに店に居心地の良さを感じ、そこでの関係や役割に精神的に依存する少女も多い。
 一見、「JK産業」が社会的擁護からもれた子どもたちのセーフティーネットになっているように見えるかもしれないが、少女たちは18歳を超えると次々と水商売や風俗などに斡旋され、いつの間にか抜けられなくなっている。


 以前読んだ本に、ドイツでは売春が合法だと読んだ。
 合法だから店はきちんと届けていてルールをきちんと守っているから、利用客にとっても働く女性にとっても安全だ。
 日本も風俗やJKビジネス(男子も)を公営化したらいいんじゃないかな。

 衛生管理や健康管理をきちんとして、年齢制限をして、料金をきちんと定めて、税金もとって(もちろん未成年者はお散歩はさせても売春はさせない)。

「国がJKビジネスをやるなんて!」とおもうかもしれないが、結果的にはそっちのほうが高校生の安全を守れるとおもうんだよね。
 外貨も獲得できるし。


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【読書感想文】売春は悪ではないのでは / 杉坂 圭介『飛田で生きる』



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2021年1月12日火曜日

片付けられない人の片付け術

 部屋が汚い。
 子どものおもちゃであふれかえっている。

 二歳の次女が散らかすのはしかたないが、七歳の長女のものもあふれかえっている。いや、こっちのほうがひどい。

 学習机とおもちゃ箱があるのに、ものであふれかえっている。机の引き出しはぱんぱんだし、机の上はいろんなものが乱雑に積みあげられていて今にもくずれおちそうだ。もちろん机で勉強なんてできないから宿題は食卓でやっている。

 ある日、長女が「お気に入りの耳かきがない」と言ってきたのを機に、机が汚すぎるから耳かきが見つからないのだと言い、いっしょに大掃除をすることにした。

 ところがいっこうにはかどらない。

「これは?」
 「いる」
「これは捨ててもいいやろ?」
 「だめ」
「さすがにこれはいらんやろ?」
 「だめ、置いとく」

 ぜんぜん処分できない。捨てていいと言われたのは折り紙の切れはじとかお菓子の包み紙といった「正真正銘のごみ」だけで、他の「ほぼごみ」は捨てさせてくれない。

 ビーズ、髪留め、ちゃちなアクセサリー、モスバーガーのワイワイセットについてくるおもちゃ、空き箱やヨーグルトの容器で作った家、ガチャガチャの景品、もう終了したプリキュアシリーズのグッズ、書き損じた手紙、もう全部解きおわったパズルの本、付録目当てで買った二年前の雑誌……。
 リサイクルショップに持っていっても全部で十円ぐらいにしかならない(それどころかお金をとられるかもしれない)ようなものばかりだ。
 これらを一括処分したいのだが長女の許可がおりない。


「半年以上使ってないものはこの先も使うことないから捨てよう」と言っても首を縦にふってくれない。
 とはいえ、勝手に捨てることはしたくない。ぼく自身、過去にごみのようなものを集めていたし、今もぼくの机の上はしょうもないものばかりだ。
 子どもの頃、大切にしていたものを母親に勝手に捨てられて嫌な思いをしたこともある。そしていまだに根に持っている。親子とはいえ、他人のものを勝手に処分してはいけない。

 捨てないなら片付けてと言っても、わかったといって机の上にとりあえず置くだけ。それは片付けとは言わん!


 このままではらちがあかない。深いため息をついた。

 そのとき、ふとひらめいた。
 大きめの段ボール箱を持ってきて、娘に渡す。
「しばらく使わないけど捨てたくないものは全部この箱の中に入れて。この箱に入ってるものは捨てないから」

 すると、それまでいっこうに片付けが進まなかったのがうそのように、どんどん机のまわりが片付きはじめた。

 そうなのだ、ぼくも同じ人種だからわかるが、片付けられない人というのは
「たぶん使わないけどいつか必要になるかもしれない」
ものを捨てられないのだ。
 だから、「使わないけど捨てるわけでもない場所」を作れば、あっというまに片付けられるのだ。

 これでよし。とりあえず部屋はきれいになった。


 問題は、この「使わないもの箱」に入れたものをいつか処分させてくれる日がくるのだろうか、ということ。

 そしてもうひとつの問題は、あれだけ大掃除をして片付けたのにやっぱり耳かきがどこにもないということ……。


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2021年1月8日金曜日

【読書感想文】そのまま落語にできそう / 山本 周五郎『人情裏長屋』

人情裏長屋

山本 周五郎

内容(e-honより)
居酒屋でいつも黙って一升桝で飲んでいる浪人、松村信兵衛の胸のすく活躍と人情味あふれる子育ての物語『人情裏長屋』。天一坊事件に影響されて家系図狂いになった大家に、出自を尋ねられて閉口した店子たちが一計を案ずる滑稽譚『長屋天一坊』。ほかに『おもかげ抄』『風流化物屋敷』『泥棒と若殿』『ゆうれい貸屋』など周五郎文学の独擅場ともいうべき“長屋もの”を中心に11編を収録。

 以前読んだ山本周五郎の小説『あんちゃん』は、実力はあるのに無欲な主人公がつつましく生きていたが、優しいので女にはもて、他人のピンチを救ったことで正当に評価されて大出世……というポルノ小説ばかりが並んでいたが、『人情裏長屋』のほうはもっとバラエティに富んでいておもしろかった。

 とはいえ『おもかげ抄』『人情裏長屋』『雪の上の霜』あたりはその手の〝お天道様は見ている〟系の単純な勧善懲悪小説なんだけどね。


 しかし化け物と暮らすことになる『風流化物屋敷』、乞食を殿様に仕立てあげて大家を騙す『長屋天一坊』、怠け者の男が幽霊を貸す商売をはじめる『ゆうれい貸屋』なんて、まさに落語そのもの。
 これ、ほとんどそのまま落語にできるんじゃないかなあ。星新一氏が何篇か落語作品を書いているけど、それと似た味わい。

 個人的には『長屋天一坊』が特におもしろかったな。話が二転三転するし、登場人物も「成金で強欲な大家」「器量が悪く好色な大家の娘」「おつむの足りない乞食」「いたずら好きな長屋の住人」と役者がそろっている。


 今『落語っぽい』と書いたけど、昔は落語や講談と小説の区分ってそれほどはっきりしてなかったんじゃないのかな。文字で読むか噺を聴くかのちがいだけであって、中身はほとんど同じようなもので。

 それが、小説のほうは時代に合わせてどんどん変化していったのに対し、落語だけが取り残されてしまった。いや、落語だって変化はしてるんだけど、そのスピードは小説に比べてずっと遅い。なんだかんだいってもいまだに古典落語のほうが主流だもん。
 ぼくも古典落語は好きだけど、もっと変化のスピードを上げないと落語の世界に未来はないとおもうな。


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2021年1月6日水曜日

焼きそば屋が存在しない理由

 焼きそばが好きだ。

 ぼくの住む大阪は粉もん文化だと言われ、そこかしこにお好み焼き屋やたこ焼き屋がある(お好み焼き屋は京都のほうが多いとおもう。学生が多いからだろうか)。

 お好み焼きもたこ焼きも嫌いではないが、焼きそばのほうがずっと好きだ。
 だからぼくはお好み焼きに行けばたいてい焼きそばを頼むし、たこ焼き屋でも(メニューにあれば)焼きそばを頼む。

 ふとおもったのだが、焼きそばの地位は低い。

「お好み焼き屋」や「たこ焼き屋」はあっても「焼きそば屋」はない。あくまで焼きそばはサブメニュー。主役ではない。
 焼きそば屋ってないのだろうかと調べたが、やはり「焼きそば出しているお好み焼き屋」ばかりが検索にヒットする。どこまでも焼きそばは二番手なのだ。
 焼きそばが有名な店があったとおもえば上海風あんかけ焼きそばとか。そういうんじゃないんだよ、ぼくが探してるのは。ごくごくふつうの焼きそばの名店はまず見当たらない。

 焼きそばをメインにしているのは、祭りの屋台ぐらいだ。


 なぜこんなに焼きそばの地位は低いのだろう。うまいのに。焼きそばを嫌いな人はほとんどいないのに。
 その理由を考えた。

 ひとつは、作り方がかんたんなこと。たこ焼きのように専門の機材もいらないし、お好み焼きよりも手間がかからない。
 なにしろそばと豚肉とキャベツと人参・ピーマン・もやしあたりを放りこんで炒めるだけだ。あらかじめ具材を切っておけば三分でできてしまう。屋台にうってつけだ。

 もうひとつは、これは焼きそばの最大の長所でもあるのだが、誰がつくってもうまいことだ。
 具材の大きさがばらばらでも、ちょっとべちゃべちゃでも、ちょっと焼きすぎて麺の一部が焦げても、ちょっと味が濃くても薄くても、焼きそばはうまい。ほぼ失敗しない。
 特製のダシとか秘伝のタレも必要ない。市販のソースで十分うまい。塩でもうまい(ぼくはソースよりも塩のほうが好きだ)。

「かんたんでまずくならない」は焼きそばの最大の長所だが、同時に短所でもある。
 かんたんで誰がつくってもうまいがゆえに、焼きそばは軽視されている。だから焼きそば専門店もないのだ。


 全国的にはあまり有名ではないが、明石焼きという食べ物がある。本場・明石では玉子焼きというらしい。
 卵と小麦を溶いたものを球状に焼いて中にたこを入れたもの。たこ焼きとほぼ同じものだが、たこ焼きよりももっと大きく、もっとふわふわしていて、ソースではなく出汁につけて食べる。

 明石焼きを作ったことはないが、見ただけで「こりゃあ素人には作れないな」とわかる。
 めちゃくちゃふわふわしていて、このふわふわ感を保ちつつきれいな球形にするのはいかにも難しそうだ。卵と小麦と水のバランス、火加減、職人の技術、どれひとつ欠けてもあんなにきれいな球形のふわふわにはならないだろう。
 出汁にもこだわりが感じられる。コクがあり、なんとも優しい味。出汁だけ飲んでもおいしい。
 何より明石焼きには専用の機材がいる。たこ焼き器よりも大きな穴の空いた銅板。
 一家に一台はたこ焼き器を持っているという関西の家庭でも、明石焼き用の鉄板を持っている家はまずない。

 そんなわけで、明石焼きは〝粉もん〟でありながら格調が高い。
「小腹が減ったなあ。たこ焼きでもつまむか」とはなっても
「小腹が減ったなあ。明石焼きでもつまむか」とはならない。
 明石焼きはそうそう気軽に食えるものではないのだ。たこ焼きのようにあらかじめ作っておくことができないから注文してから出てくるまでに十分以上は待たされるし、出汁につけて食べるのでたこ焼きのように歩きながら食べることもできない。
 関西人は「たこ焼きのうまい店」を知らない。なぜならたこ焼きはそのへんで売っているのを気が向いたときに買ってつまむものであって、わざわざ食べに行くものではないからだ。だが明石焼きの有名店はいくつもある。
 たこ焼きは軽食だが、明石焼きは食事なのだ。


 明石焼きと焼きそばのうまさは大して変わらない。どっちがうまいですか? とアンケートをとれば両者は拮抗するだろう。
 原価も大して変わらない。
 にもかかわらず焼きそばの地位が低く、明石焼きが格調高い扱いを受けているのは、ひとえに「作ることの難しさ」によるものだ。

 その点、寿司はうまくやっている。
 寿司はたしかにうまいが、刺身を酢飯の上に乗っけただけの料理だ。誰でも作れる。それなのに、刺身の何倍もの値段を平気でとる。
 あれが成立しているのは「寿司を握るのは難しい」と客に思わせているからだ。
 板前が何十年も修行して絶妙な力加減で握っているからこの味わいが出る、という話を流して、それを客に信じさせることに成功したからこそばか高い値段をふっかけることができるのだ。

 焼きそばも、地位向上のためには「焼きそばを作るのはむずかしい」と一般消費者に信じこませなくてはならない。
「キャベツ五年、人参十年、そば一生」みたいな言葉を流布し、
「中学出て焼きそば職人について四十年修行し、やっと店を持たせてもらえるようになりやした」みたいなストーリーを作り、
「焼きそばは一本、二本じゃなくて、一花、二花と数える」みたいな謎のルールを押しつけ、
「ソースはクロ、紅しょうがはクレナイ、かつお節はウオと呼ぶ」みたいな無意味な隠語を使い、
「キャベツの切り口を見れば職人の腕がわかる。通はキャベツから食べる」みたいなくそどうでもいいマナーをふりかざすようにすれば、
焼きそばも寿司のように高級料理の扱いになるはず。

 ま、そんな焼きそば屋にぼくは行きたくないけど……。


2021年1月5日火曜日

交通事故履歴


 小学五年生のとき。
 友人と自転車リレーをしていた。コースは住宅地の道路一周。車道を全速力で走るのだ。
 車道を全速力で下っていたら、前から自動車が来た。ぶつかったが、両者ともあわててブレーキをかけていたので衝撃はほぼなかった。
 すみませんすみませんと謝って逃げるようにその場を離れた。
 車道を全速力で走っていたのでこっちが悪いのだが、もし怪我でもしていたら9:1で自動車の過失になっていただろう。向こうからしたらとんだ災難だ。


 高校二年生のとき。
 自転車での通学途中に、信号のない横断歩道で自動車とぶつかった。
 このときもあわててすみませんすみませんと謝って逃げるようにその場を離れた。「車を傷つけてしまった!」という気持ちで頭が真っ白になっていたのだ。
 よくよく考えてみれば、飛びだしたこちらも悪いが、横断歩道で一時停止していなかった自動車のほうが責任は重い。
 後で気づいたら自転車のタイヤが曲がっていて修理に金がかかった。だがこちらから逃げてしまったので後のまつり。
 修理代ぐらいもらえばよかったと後悔したものだ。


 二十二歳のとき。
 はじめて買った自動車で他の自動車とぶつかった。交差点での衝突事故。向こうのほうが優先で、こちらが一時停止を守っていなかったのでぼくが悪い。たしか過失割合は9:1ぐらいだったとおもう。
 就職した会社を数ヶ月でやめて、気持ちが落ち込んで心療内科に通っている時期だったので、余計に落ちこんだ。
 警官のおっさんに「なに? 仕事を辞めて病院に通ってる? 心療内科? どうせコンビニ弁当ばっかり食べてるんだろ。だからだよ。ちゃんとしたもん食べないとだめだぞ」とめちゃくちゃ理不尽かつ事故とまったく関係のない説教をされて腹が立った。


 二十七歳のとき。
 朝五時、出勤途中。雨なのにスピードを上げていたため、信号で止まれず前の車に衝突。停車中の車に後ろから衝突したので10:0でぼくが悪い。
 ぼくの乗っていた車はエアバッグが飛びだして廃車になった。
 幸い相手に怪我はなかったが、歩行者がいたら殺していたとおもうとぞっとした。めちゃくちゃショックを受けて二度と車を運転したくないとおもった。ついでに自動車通勤必須の仕事もやめようとおもった。


 こうして並べると、過失の差はあれど、ぼくがスピードを出しすぎていなければ防げていた事故ばかりだ。
 基本的にスピードを出しすぎる性質なのだ。
 よく「ハンドルを握ると性格が変わる」というが、これはぼくには当てはまらない。なぜならぼくはせっかちで、歩いているときも「おらおらどけどけ」と思いながら歩いているからだ(ぶつからないようにはしているが)。

 自分でもよくわかる。ぼくは運転に向いていない。
 だから今は車を所有していない。もう八年ぐらいハンドルを握っていない。完全なペーパードライバーだ。
 これから先も、自動運転車が実用化しないかぎりは車を所有することはないだろう。


2021年1月4日月曜日

【読書感想文】徹頭徹尾閉塞感 / 奥田 英朗『無理』

無理

奥田 英朗

内容(e-honより)
合併で生まれた地方都市・ゆめので、鬱屈を抱えながら暮らす5人の男女―人間不信の地方公務員、東京にあこがれる女子高生、暴走族あがりのセールスマン、新興宗教にすがる中年女性、もっと大きな仕事がしたい市議会議員―。縁もゆかりもなかった5人の人生が、ひょんなことから交錯し、思いもよらない事態を引き起こす。

 衰退しつつある郊外の都市を舞台に、職業も年齢もばらばらの五人の生活を描いた小説。


(ネタバレあり)


 妻に不倫をされて離婚した地方公務員は人妻買春サークルにはまり、女子高生は引きこもりの青年に拉致監禁され、悪徳商法のセールスマンは同僚が殺人を犯し、新興宗教の会員である女性は対立する宗教団体の陰謀で職を失い、市議会議員は悪巧みが市民団体に暴露された上に近しい支援者が犯罪に手を染めてしまう。

 女子高生と新興宗教会員以外は自業自得とはいえ、はじめは小さなきっかけだったのにどんどん深みにはまり、気が付けば引くに引かれぬ状況に追い込まれる。進むも地獄、退くも地獄。そしてさらに突き進んで状況は悪化してゆく一方。

 人間が道を踏み誤るときというのはこういうものなのだろう。いきなり大犯罪に手を染めてしまうのではなく、「いつでも引き返せる」とおもっているうちに気づけば退路を断たれている。傷口を浅くしようとあがくことで、どんどん傷口を広げてしまう。

 ギャンブルで身を持ちくずす人だって、いきなり全財産をつっこんですべてを失うわけではない。はじめは小さな負けなのだ。

 この前、河合幹雄『日本の殺人』というノンフィクションを読んだが、殺人犯の大多数は犯罪志向性のある人間ではなく、たまたまめぐり合わせが悪かったために近しい人を殺してしまうのだという。
 破滅への道は、ぼくやあなたのすぐ横で口を開けて待っているのだ。




 同じ著者の『ララピポ』も、転落人生を描いた小説だった。著者はこういうのが好きなのだろうか。

 とはいえ『ララピポ』はまだからっと乾いていた。ユーモアもあった。
『無理』のほうはじとっとしている。『ララピポ』が真夏なら、『無理』は冬の曇天という感じ。とにかく気が滅入る。

『無理』の舞台であるゆめの市が、もう救いがない。人も企業もどんどん出ていき、街にあるのは大型ショッピングセンターと観覧車だけ。公務員以外にろくな働き口がない。店はつぶれ、バスの本数は減り、生活保護受給者が増えたため受給資格は厳しくなり、若者は都会に出ていき、残るのは行き場のない人間だけ。
 これはフィクションだが、似たようなことが日本中あちこちで起こっている。そしてこれは日本全体の縮図でもある。


 後味の悪い小説はけっこう好きなんだけど、『無理』は読んでいてちょっと息苦しかったな。終始閉塞感が漂っていて。
 ラストも事態はまったく好転せず、かといって悪事が自分にかえってくるような勧善懲悪パターンでもなく、悪事とは無関係なひどい目に遭って終わりという投げやりな展開。とことん救いようのない小説だった。

 個人的には嫌いじゃないけど、小説を読んですかっとしたいという人にはまったくお勧めできません。


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