2021年6月30日水曜日

四刑

 子どもの頃、「四刑(しけい)」という遊びをよくやっていた。物騒な名前の遊びだ。
 検索してみたのだけれど、見当たらない。Wikipediaにしけいという項目があったが、ぼくらがやっていた「四刑」とはけっこうルールが違う。


 ぼくらがやっていた四刑は、こんなルールだ。

  1. まずじゃんけんで順番を決める。
  2. 1人目が壁に向かってボールを蹴る。
  3. 壁に当たってはねかえってきたボールを、2人目がまた壁に向かって蹴る。蹴れるのは一度だけ。
  4. 蹴っても壁に当たらなければ「一刑」となる。また、順番でない人がボールに触れた場合も「一刑」となる。
  5. 「四刑」になれば負け。罰として、壁にくっつくようにして立つ(壁を向く場合と壁に背を向ける場合がある。壁を向く方が怖い)。他の人が執行人として、負けたものに向かってボールを蹴る。当たる痛さよりも「ボールが当たるかも」という恐怖のほうが大きい。

 だいたいこんなルールだった。
 スポーツのスカッシュにちょっと似ている(もちろん小学生のときはスカッシュなんて知らなかった)。
 壁とボールさえあれば何人でもできるので、休み時間のたびにやっていた。


 確実に壁に当てるためには、ボールが壁に近いうちに蹴ったほうがいい。しかし壁にはねかえった直後はボールの勢いがあるので蹴りづらい。といってボールの勢いがなくなるのを待っていたら壁から遠ざかって当てづらくなる。なかなかむずかしい。

 駆け引きも生まれる。たとえば3番の人が3刑になっているとする。すると1番の人はわざと弱く蹴って、ぎりぎり壁に当たるようにする。すると2番の人は壁のすぐ近くからおもいっきり蹴ることができる。3番は不利になる。3番を殺すために1番と2番が協力するわけだ。

「順番でない人がボールに触れた場合も一刑となる」というルールも、ゲームをよりおもしろくしてくれる。
「壁を狙わずに他の人を狙って蹴る」という戦略も生まれる。他人に当てることができれば、一刑となるのは当てられた人だ。
 自分の順番はまだまだだからと油断していると、不意にボールを当てられてしまうこともある。常に緊張感を持っていなくてはならない。


 壁とボールさえあればできる上に、さまざまな戦略が立てられて奥が深い。

 もっと流行ってもいいのになあ。大人になった今やってもおもしろいかもしれない。


2021年6月28日月曜日

古いマンガばかり買い与えている

  七歳の娘に、古いマンガばかり買い与えている。

 ドラえもん、ちびまる子ちゃん、21エモン、パーマン……。ぼくが子どものころに読んでいたマンガばかりだ。
 おっさんになると古いマンガが読みたくなる。新しいマンガもおもしろいけど、手を出すのに気力がいる。『鬼滅の刃』とか「あれだけ流行ってるんだからまちがいなくおもしろいんだろうなあ」とおもうけど、新たに読みはじめるのがなんとなく億劫だ。
「流行ってるから手を出す」って恥ずかしいし。

 そんなわけで、娘といっしょに21エモンやパーマンを読んでいる。パーマンってもう五十年以上前のマンガなんだなあ。でも娘は楽しんで読んでいる。令和の子どもでも楽しめるのだ。
 こないだAmazon Primeで『パーマン』の昔のアニメを娘に見せてやったら大喜びで観ていた。ギャグシーンでは笑いころげていた。

 ぼくが昔読んでいたマンガやほしかったけど持っていなかったマンガを、娘のためと言いながら買い集めている。




 そういやぼくも小学生の頃、母親から昔のマンガを買い与えられた。
 べつにお願いしたおぼえもないのに、手塚治虫の『ブッダ』『三つ目がとおる』『火の鳥』『ブラック・ジャック』『鉄腕アトム』といったメジャーどころから『プライム・ローズ』『紙の砦』『日本発狂』『ルードヴィッヒ・B』などのマイナー作品までどっさり買ってくれた。『シュマリ』『奇子』『きりひと讃歌』など、性描写も多くてどう考えても子ども向けじゃないマンガもうちにあった(『火の鳥』や『シュマリ』は母が昔買ったものだった)。

 家に遊びに来る友人からは「おまえんちめずらしいマンガあるな」と言われた。
 手塚治虫が亡くなった数年後だった。ふつうの小学生の部屋には手塚治虫作品はなかった。

 あと中学生のときに『サザエさん』全集が刊行されて、それも母からプレゼントされた。
 正直『サザエさん』はマンガ自体がおもしろかったわけでもなかったが(新聞四コマなので時事ネタが多く後で読むとわかりづらい)、昔の世相が知れるおもしろさはあった。


 どうせなら当時人気のあった『ドラゴンボール』などを買ってもらえるほうが当時のぼくはうれしかったが、それでもマンガをたくさん読めるのはうれしく、手塚治虫作品を何度もくりかえし読んだ。




 当時は気づかなかったが、最近になってあの頃の母の気持ちがわかった。
 我が子に、自分が読んだものを読んでほしいという気持ち。
 特にぼくの姉は本を読まない人だったから(マンガもあまり読まなかった)、ぼくはいろいろな本を買い与えられた。
 マンガだけではない。東海林さだおや群ようこのエッセイ、北杜夫のユーモア小説、椎名誠の私小説。母がぼくに買ってくれたものもあるし、母の本棚からぼくが勝手に手に取ったものもある。ジェフリー・アーチャーの短篇集とか。


 母の少女時代のことはよく知らないけど、きっとサブカル少女だったのだろう(もちろん母が少女だった頃にそんな言葉はないが)。
 だから母のふとした気まぐれで、ぼくは手塚治虫マンガを買い与えられたり、平日の昼間に落語会に連れていかれたりした(学校をサボって)。

 こういう姿勢はちゃんと受け継いでいかないとな。
 だからこれからもぼくは娘に昔のマンガを買い与えようとおもう。妻からの「部屋が散らかるから、マンガ買うんだったら片付けして」という言葉を聞き流しながら。


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2021年6月25日金曜日

【読書感想文】ちょっと嘘っぽくてちょっとだけ嫌な展開 / 新津 きよみ『星の見える家』

星の見える家

新津 きよみ

内容(e-honより)
安曇野で一人暮らしをする佳代子。病気がちの弟のため、家族で引っ越し、ペンションを始めたのだが、体調が回復した弟が東京の高校に進学したことを機に、家族はゆるやかに崩壊していく。一人になった佳代子は、ペンションをやめベーカリーを始めるのだが、そこにはある秘密が…(表題作)。再び生きることを目指す女性の恐怖と感動を描く、オリジナル短編集。


 短篇集。内容も登場人物はバラバラだが、主人公はみんな四十代ぐらいの女性。

『危険なペア』には三人の女性が出てくるが、全員「均等法一期生」。そんな言葉があるなんてぼくもこの本で知ったのだが、男女雇用機会均等法が施行された1986年4月に社会人となった世代を指す言葉らしい。
 この本の刊行が2009年なので、主人公たちは45歳ぐらい。今だと60手前か。団塊の世代と団塊ジュニアの間ぐらいだね。


 均等法一期生である主人公たちは、みなあまりいい境遇に置かれていない。
 離婚してシングルマザーになっていたり、失業していたり、機会に恵まれずいまだ独身だったり。

 今もそうだけど、均等法一期生の女性ってとりわけたいへんだっただろうなあ。タテマエとしては男女平等になってるけど、実態はぜんぜんそうなってない。上の人たちはみんな古い考えのまま。

 いつだって楽な時代なんてなかったとはおもうけど、何がつらいって「理想と現実の違いが大きい」ことがいちばんつらい。
 ぼくは80年代生まれなんだけど、この世代はそもそも世の中に対してあまり期待していない人が多い。生まれたときからずっと不況で、羽振りが良かった時代をほとんど見ていない。子どものころからリストラだ経営破綻だというニュースを観てきた。
 だからそもそも「がんばれば必ずいい暮らしができるようになる」とか「ふつうに就職してふつうに結婚してふつうにサラリーマンと専業主婦になって……」とかの価値観を持っていない。

 でも、均等法一期生世代とか団塊ジュニア世代はきっとそうじゃない。子どものころにはまだ「ふつうにがんばればいい暮らしができる」幻想が生きていたんじゃないかな。
 上の世代を見ているとおもうもん。「幸せは努力すれば勝ち取れるものとおもってるんだろうなー」って。

 そういう「理想とはほど遠い生活を送っている中年女性」をうまく描いている。まあ理想通りの人生を送っている人なんてどこにいるんだって話だけど。




 サスペンスやミステリっぽい短篇が並ぶが、どれもいまひとつ。
 どうも切れ味が鈍いんだよね。
 軒並み期待を下回ってくる。
 あっと驚く展開はない。かといってほんとにありそうかというと、そこまでのリアリティはない。
 ちょっと嘘っぽくてちょっとだけ嫌な展開が続く。


 一篇選ぶとしたら『再来』。

「主人公の娘が、前世の記憶を持っているらしい」と
「主人公の友人がかつて誘拐軟禁事件の被害者だった」というまったく別の話が同時進行で語られる。

 これがどうつながるのか……という謎の張り方はおもしろかった。

 だが結末は、うーん……悪くはないけど……。
 ほとんどつながらないのか……。


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2021年6月24日木曜日

『一周だけバイキング』に感動した

『テレビ千鳥』というテレビ番組の『一周だけバイキング』という企画がすばらしかった。

 おもしろいのはもちろんだが、ただおもしろいだけでなくぼくはちょっと感動してしまった。テレビにはこんなこともできるのか。もう三十年以上テレビを観てきて「テレビってこんなもん」というイメージがあったけど、いやいやまだまだテレビの可能性はあるんだな。こんなことでおもしろいテレビ番組が作れるなんて知らなかった。
 それぐらいすごい企画だった。




『一周だけバイキング』はこんな内容だ。

 ホテルのバイキングが用意されている。
 内容はかなり豪華。ステーキとか揚げ物とかが並んでいるので、朝食バイキングではなく夕食だ。和洋中、いろんな料理が並んでいる。シェフが立っていて、注文を受けてから目の前で調理してくれるコーナーもある。

 そこに芸人がやってきて、料理を取る。トレイを持ち、皿を何枚か載せ、そこに自分が食べたい料理を載せていく。ごくごくふつうのバイキングだ。
 ふつうのバイキングとちがうのは一点だけ。料理を運べるのは一度だけということ。ふつうのバイキングであれば「料理をテーブルに持っていき、食べたらもう一度料理を取りにいく」ができるが、『一周だけバイキング』ではそれができない。
 あとはふつうのバイキング。もちろん、一度皿に取った料理を戻すことはできない。

 それだけ。




 これに、何人かの芸人が挑戦する。
 芸人だからといってボケたりしない(ボケる人もいるがたしなめられる)。奇をてらわずに、真剣に自分が食べたい料理だけを皿に取る。
 つまり、ぼくらがホテルの夕食バイキングに参加したときと同じことをするだけだ。
 で、それを他の芸人がモニターで見ながら、料理のチョイスについてあれこれ言う(その音声はバイキング参加者には聞こえない)。

 ごくふつうの場所で、ごくふつうのことをする。それだけ。
 観たことない人はそれのどこがおもしろいんだとおもうかもしれないが、これがめちゃくちゃおもしろかった。

 もちろん芸人がコメントを入れるので、ワードの選定とかツッコミのタイミングとか比喩とか、そういうのはおもしろい。
 それもおもしろいが、でも『一周だけバイキング』のいちばんのおもしろさは芸人のトークよりもバイキングそれ自体にある。


 大人であれば、人生において何度もバイキングに参加したことがあるだろう。ホテルの朝食はバイキング形式のことが多い。結婚式の二次会などちょっとしたパーティーでもビュッフェスタイルのことがよくある。
 バイキングを食べ終わって、「ああすればよかった」と後悔したことはあるだろうか。ぼくは毎回後悔する。

 まちがいなく取りすぎる。
「取り放題」「どれだけ取っても同じ値段」「準備も後片付けもしなくていい」という甘い誘惑が理性を狂わせる。
 おまけにホテルの料理はどれも見栄えがいいしおいしそうだ。
 あれもこれもと皿に載せ、気づけばパン三個とベーコンエッグとウインナーと海苔とチーズとコーンフレークとヨーグルトとゼリーとスクランブルエッグと生卵を取っている。朝からこんなに食えないのに。でも無理して食う。苦しくなる。

 何度取りにいっていいのだからちょっとずつ取ればいいのに、大量の食べ物を目の前にするとそんな理性はどこかへ行ってしまう。
 人類がバイキングをするようになったのはたかだかここ百年ぐらいの話。常に飢餓の恐怖と隣り合わせだった人類が数万年かけて身につけた「食えるときに食っとけ」という本能の前に、理性など太刀打ちできるはずがないのだ。


『一周だけバイキング』でも、やはり芸人たちは失敗する。
 わざと失敗を狙っているわけではない。食べたいものを取るだけなのに失敗する。

 エビフライを取ったら、その後にシェフがその場で天ぷらを揚げてくれるコーナーがあって、「揚げたてのエビ天があるんならエビフライいらなかった」と後悔する。

 だし巻き玉子を取って、スクランブルエッグがあるのでそれも取って、そしたらその後にふわふわのオムレツ(これもシェフがその場で焼いてくれる)があって「玉子ばかりになってしまった!」と後悔する。

 前半に揚げ物をごっそり取ったら、後半に上等のステーキが待っていて「こんなに揚げ物取るんじゃなかった!」と後悔する。

 匂いに誘われてカレーライスをとってしまい、すべての料理がカレーの匂いに包まれてしまう。

 あれもこれもと取っているうちに皿がトレイに載りきらなくなる。

 全部よくある失敗だ。ぼくもよく玉子だらけにしてしまう。

 テレビに出ている芸人だから、きっと収入も多いだろう。一流レストランで食事をする機会も多いだろう。自腹でなく料理をごちそうしてもらえることも多いだろう。
 それでも失敗する。
 目の前に並んだごちそうを見て、理性はあっという間に雲散霧消する。

 その様子がおもしろい。
 人間、どれだけ立派になっても結局は食欲のままに生きる動物なのだということをバイキングは知らしめてくれる。




 何がすごいって、ぜんぜん特別なことはしてないわけよ。
 ごくふつうのバイキング。ただ「一周だけ」というルールがあるだけ。それだって無茶を言ってるわけじゃない。実際、チェックアウトの時刻が迫っていて一周で決めなければならない状況もある。

 ごくふつうの場所で、ごくふつうのことをする。それだけですごくおもしろい。
 画期的だ。テレビってこれでいいんだ。

 この手法、バイキング以外にも使えそうだ。
 荷造りをするとか、保護者会で自己紹介をするとか、10人でバーベキューをするためにスーパーで買い物をするとか、家具を選ぶとか。そういう「みんなやったことあるけど数年に一回ぐらいしかやらないから失敗しがちなイベント」を真面目にやる。

 それをそのまま撮るだけで十分おもしろくなりそうだ。




 ところで『一周だけバイキング』だが、芸人以外の唯一の参加者が長嶋一茂さんだった。
 この人のバイキングは見事だった。皿を贅沢に使い、いろどりも良く、肉に野菜にスープに果物と栄養バランスもばっちり。取りすぎることもなく、ほぼ完璧といってもいい出来。しかもそれを自然にやってのけていた。
 育ちの良さはこういうところに出るのかと感心した。


 ところで、以前テレビで元プロ野球選手が語っていた。
 昔、ジャイアンツの宿舎には選手のための食べ物がどんと置いてあった。夏になるとスイカが切って並べてある。
 三角形に並んだスイカを次々に取り、てっぺんの甘いところだけを食べて他は全部残す選手がいた。それが長嶋茂雄だった、と。

 親子でこんなにもちがうものなのか。


2021年6月23日水曜日

【読書感想文】理想の女友達 / 角田 光代『対岸の彼女』

対岸の彼女

角田 光代

内容(e-honより)
専業主婦の小夜子は、ベンチャー企業の女社長、葵にスカウトされ、ハウスクリーニングの仕事を始めるが…。結婚する女、しない女、子供を持つ女、持たない女、それだけのことで、なぜ女どうし、わかりあえなくなるんだろう。多様化した現代を生きる女性の、友情と亀裂を描く傑作長編。第132回直木賞受賞作。

 この小説には、二組の〝女の友情〟が描かれる。

 ひとつは、専業主婦・小夜子と女社長・葵。
 もうひとつは、高校生時代の葵と同級生のナナコ。

 どちらも構図は似ている。
 いろんなしがらみに縛られて生きている小夜子は自由闊達に生きているように見える葵にあこがれ、人間関係のわずらわしさに苦悩していた高校生時代の葵もまたしがらみとは無縁のナナコにあこがれる。

「ねえ、アオちん、あんな場所でなんにもこわがることなんかないよ。もしアオちんの言うとおり、順番にだれかがハブられてったとして、その順番がアオちんになったとしても、あたしだけは絶対にアオちんの味方だし、できるかぎり守ってあげる。ね、みんなが無視したって、たったひとりでも話してくれたらなんにもこわいことなんかないでしょ?」
 葵は何も言わなかった。ただドーナツの輪から空を見続けていた。
「でもこれは、協定でも交換条件でもなんでもない。もしあたしが無視とかされても、アオちんはべつになんにもしないでいいよ。みんなと一緒に無視しててほしいくらいだよ、そのほうが安全だもん。だってあたしさ、ぜんぜんこわくないんだ、そんなの。無視もスカート切りも、悪口も上履き隠しも、ほんと、ぜーんぜんこわくないの。そんなとこにあたしの大切なものはないし」
 葵は頭上にかざしたドーナツを顔に近づけて、一口囓った。それをまた空にかざす。アルファベットのC形ドーナツから空を見る。輪のなかの青色が、空に溶けだしていくようだと葵は思った。

 誰しもこんなふうに生きていたいと願うだろう。だけどたいていの人はそうはできない。周囲の顔色をうかがいながら、嫌われないように、目立たないように生きる。


 ……と書いたものの、じつはぼくはそういう窮屈な生き方はあまりしてこなかった。
 学生時代は目立つことが大好きで、生徒会長になってふざけたスピーチをしたり、浴衣を着てうろうろしたり、学ランなのにネクタイをしたり、授業中に大きな声を出したりしていた。
 とはいえぼくの場合は「自由気ままに生きていた」というよりは「自由気ままに生きている人のふりをしていた」というほうが近かった。浴衣を着たかったというより、〝浴衣を着る変なやつ〟とおもわれたかったのだ。

 それでも、平均的な高校生に比べればずっと人目を気にせず生きていたとはおもう。
 周りの人たちのほとんどはおもしろがってくれたが、一部の心ない人から「きもい」「調子乗ってる」なんて言葉をぶつけられたこともある。もちろん心は痛んだけど、ぼくにとってはおもしろがられることのほうが大事だったから「変なやつ」として生きていくことを選んだ。

 でもそういう生き方ができたのは環境のおかげだったとおもう。
 高度経済成長期に開拓された新しい町だったとか、校則の厳しい学校ではなかったとか、学校にヤンキーが少なかったとか、ぼくの母親も「変な息子」に困りながらちょっとおもしろがっていたとか、そういう環境があったからこその話だ。

 そしてなにより、ぼくが男だったというのが大きいとおもう。


 特に十代ぐらいの頃は女子の友情を見ていると「窮屈な関係だなあ」とおもっていた。
 どこへ行くにも何をするにも決まったグループ。誰かがトイレに行くときはついていく。別のグループに出入りすることは、元のグループとの決別を意味する。同じようなファッションをして同じマンガを読み同じ音楽を聴いて同じテレビ番組を観る。
 耐えられん。

 ぼくにも仲のいいグループはあったけどメンバーは固定ではなかった。
 サッカーをするときはこのメンバー、野球をするときはこのメンバー、漫画の貸し借りをするのはこいつ、こいつとはちょっと真面目な話をすることもある。そんな感じだった。

 女子のグループは何をするにも一緒のくせに、クラス替えとか進学のタイミングであっさりつながりが切れる。あんなにずっと一緒だったくせに、嘘のようにつながりが切れる。
 なんなんだあの関係は。

 もちろん女子のグループにもいろんな関係性があるんだろうけどさ。


 小田扉『そっと好かれる』という、ぼくの大好きなマンガがある。短篇集だが、このマンガに出てくる女性はみんな他人の目から自由だ。
 自分のやりたいことだけをやっている。他人からどうおもわれようと一切気にしない。

 すごいなあとおもうと同時に、でも現実にはこんな女性いないよなとおもう。だからこそギャグマンガになるのだ。
(現実にもいるけどたいていアブない人だ)

『対岸の彼女』に出てくる葵(大人時代)とナナコも、〝理想の女友達〟を体現している。
 フィクションの世界にしかいない、人の評価から自由な女性だ。




 とはいえ、〝理想の女友達〟に見えた葵とナナコも、いろいろな事情を抱えていることが中盤以降明らかになる。決して悩みのない順風満帆な日々を送っているわけではないことがわかる。

 彼女たちの暗い過去を読んで、ぼくは逆に安心した。
 ああ、やっぱりふつうの人だったんだ。

 特に若い頃は人目を気にせずに生きていくのはむずかしいよね。歳をとるといろんなことがどうでもよくなってくるんだけどね。




 ぼくは「自分は社交的な人間ではないし、今後もそうだろう。友人はいるけど、今後新たに友だちができることは期待していない。歳をとったら寂しいジジイになるんだろう」とおもって生きている。
 自分自身についてはもう覚悟もできているし、諦めも持っている。

 だからそれはいいんだけど、自分の娘のこととなるとそうはおもえない。

「だけど、友達、たくさんできたほうがやっぱりいいじゃない?」耳に届く自分の声は、みっともないくらい切実だった。けれど小夜子は知りたかった。あかりの未来か、自分の選択の正否か、葵の話の行き着く先か、何を知りたいのかは判然としなかったが、しかし知りたかった。
「私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」
 小夜子は正面に座る葵をじっと見つめた。目の前でぱちんと手をたたかれたみたいに思えた。そうだ、あかりに教えなければならないこと、それは今葵が言ったようなことなんじゃないか、泣きわめくあかりを保育士さんに預け、まだ友達ができないのかとじりじり焦り、迎えにいったあかりから友達の名がひとりも出ないことにまた落胆するのは、何か間違っているのではないか……葵を見つめたまま、小夜子は考えた。

 下の子は二歳なのでまだ性格はわからないけど、上の子はだいぶ性格が見えてきた。人見知り、頑固、他人に厳しい。おせじにもみんなから好かれるタイプではない。我が子を見ていて心配になる。
 なんとかして、周囲とうまく付き合っていってほしいなあとおもう。
 少々自分を押し殺してでも、周りと合わせて生きていってほしい。休み時間に一緒にトイレに行く友だちができてくれたらいいとおもう。

 自分は「親しくない人には好かれなくてもいいや」と生きてるのに、娘のことだと「無難に、ふつうに生きていってほしい」とおもう。
 我ながら、勝手な願いだけど。


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2021年6月21日月曜日

君はよその子

 娘(小二)の友だちについておもうこと。


 Sちゃん

 娘のいちばんの親友。保育園のときからなので、一歳からの付き合い。
 小学校はちがうが、今も毎週のように遊ぶ。
「誰か誘う?」と訊いたらまっさきに「S!」と言う。
 家も近いし、両親も気さくな人なので誘いやすい。

 昨年、不登校になった(このブログにも書いた)。でも二学期ぐらいからふつうに学校に行くようになった。ただ慣れるのに時間がかかってただけらしい。

 よそのおっさんから見ても「頭いいなー」とおもう。頭良すぎて憎らしいぐらいのときもある。
 勉強ができるのもそうだけど、それ以上に場の空気を読むことや、さらには周囲の意見を操作するのがうまい。
 公園で遊ぶとき、自分の好きでない遊びになりそうになったときに、表立って反対するわけでなく「ん-。でもそれだと××だから○○のほうがよくない?」みたいな感じでうまいこと自分のやりたいことに誘導する。
 Sちゃんとその妹がおもちゃをもらうと、「こっちほしい!」とは言わずに、わざと欲しくないほうを「あっ、これ(妹)ちゃんが好きそう!」とか「(妹)ちゃん、これおもしろいよ!」とかそそのかして、巧みに妹にいらないものを選ばせる。メンタリストか。

 そんな子だから、遊ぶときはたいていSちゃんが中心になる。走るのも速いし頭を使ったゲームも強い。
 当分はクラスでも中心人物だろうなあ。


 三兄弟

 こちらも一歳からの付き合い。なんと三つ子(女二人、男一人)。三卵性三つ子。
 娘とは小学校はちがうが毎週遊ぶ。

 三つ子なのに、引っ込み思案、お調子者、しっかり者と性格がまったくちがうのがおもしろい。お調子者がふざけて引っ込み思案と喧嘩になり、しっかり者は我関せずといった様子で冷ややかに見ている……なんてことがよくある。

 うち二人は運動神経がいいのだが、一人はふつう。決して運動が苦手なわけではなく平均ぐらいにはできるのだが、残り二人がよくできるのでどうしても見劣りしてしまう。気の毒だ。

 遺伝子もよく似ていて、育った環境もまったく一緒なのに、ぜんぜん違う三人(顔は似ているが)。
 この三人を見ていると、子どもがどう育つかなんて遺伝子でも育て方でもなく、運で決まるんだなあとおもう。


 Tくん

 娘の保育園のときの友だち。これまた小学校はちがう。
 妙に気になる子。というのも、ぼくの子どものときに似ているから。

 人の話を聞かない、落ち着きがなくてひとところにじっとしていられない、怒ると手が付けられなくなる、好きなことには集中するが興味のないことはまるでだめ、身のまわりのことはだらしない、どんくさい、プライドが高い……。
 子どもの頃のぼくといっしょだ(今もあまり変わっていない)。
 でもTくんの親には言ったことがない。悪口としか受け取られないだろうから。

 昔のぼくを見ているようで、すごく気になる。ちょっとだけ育てたいとおもうぐらい。

 Tくんと会ったときは追いかけまわす。「おーい、Kー! 遊ぼうぜー! おまえの大好きなおっちゃんが来たでー!」と。Kは嫌がって逃げる。だけどぼくにはわかっている。本気で嫌がっているわけではないと。

 このTくん、発達障害と診断されたらしい。
 じゃあぼくもきっと発達障害だったんだろうな。当時はそういう言葉がなかったからばれなかっただけで。
 だからTくん、大丈夫やで。このおっさんもそこそこまっとうに生きてるから。


 Nちゃん

 娘のライバル。
 同じ保育園、同じ学校、一年生のときも二年生のときも同じクラス。家も近い。
 だけどあまり仲良くはない。しょっちゅう喧嘩をしている。

 性格がとにかく娘と合わないのだ。よくいえばおおらか、悪くいえば無神経なNちゃんと、神経質な娘。
 娘が怒ってばかりいる。そしてNちゃんは娘が怒るのが楽しいらしく、わざと怒らせるようなことばかりする。いたずらをしたり真似をしたり。怒られてもへらへらしている。
 娘が悪さをしてぼくに叱られると、すかさずNちゃんが近づいてきて「なあなあ、なんでさっき怒られてたん?」とうれしそうに訊いてくる。人の不幸が大好きなのだ。

 あまりに喧嘩ばかりしているので、だったら近づかなきゃいいじゃんとおもうのだが、小学生の世界は狭いのでなんだかんだで付き合っている。他に誰もいないときは娘からNちゃんを誘ったりもする。そして喧嘩になる。好きにせえ。


 Mちゃん

 娘の小学校の友だち。
 今までずっと保育園の友だちと遊んできたが、この子は小学校からの友だち。

 父親として感じるのは、やっぱり遠慮というか壁があるなってこと。
 保育園からの友だちはとにかく遠慮がない。そりゃそうだ。なんせ向こうが一歳のときからの付き合いだ。ぼくは毎日保育園に行くので、向こうから物心ついたときから近くにいるおっさんだ。当然遠慮がない。容赦なくぶんなぐってきたりする。
 だが小学校からの知り合いであるMちゃんはそうではない。突然ぼくの背中に飛びのってきたり、いきなりぼくのケツを叩いてきたり、ぼくをブタ呼ばわりしてきたりしない(ぼくにSM趣味があるわけではないよ)。
 せいぜいボールを強めに投げつけてくるぐらいだ。

 おっさんはもっと粗雑に扱ってほしいんだけどなあ。さびしいぜ。


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質問できない子



2021年6月17日木曜日

ツイートまとめ 2021年1月



プレミアム



懐メロ

あるある

ゲル

真実

ジム

病みつき

清水ミチコ

ノットスマート

感染予防

2021年6月15日火曜日

【読書感想文】求められるのは真相ではない / 奥田 英朗『沈黙の町で』

沈黙の町で

奥田 英朗

内容(e-honより)
北関東のある町で、中学二年生の名倉祐一が転落死した。事故か、自殺か、それとも…?やがて祐一が同級生からいじめを受けていたことが明らかになり、家族、学校、警察を巻き込んださざ波が町を包む…。地方都市の精神風土に迫る衝撃の問題作。


 中学生の学校内での転落死、その中学生は同級生からのいじめに遭っていたらしい……というショッキングな事件をきっかけに、地方都市の中学生、保護者、教師、警察のそれぞれの思惑を描いた群像劇。

 自分の中学生時代を思いだした。それぐらい、中学生の生態をうまく描いていた。


 少し前に重松 清『十字架』という小説を読んだ。中学生がいじめを苦に自殺した後に残された者たちを書いた小説なので、テーマとしては『沈黙の町で』よく似ている。だが『十字架』は教科書のようだった。ありていにいえば現実感に欠けていた。

『十字架』のいじめは、一般的にイメージされるいじめだ。
 たちの悪い不良が、気の弱い同級生をいじめる。暴力で脅して金銭を要求する。周りは気づいているけど見て見ぬふり。
 いじめ自殺のニュースを見たときに多くの人が想像するのはこういういじめだろう。つまり、大人が「こうであってほしい」とおもういじめである。

「どこかにすごく悪いやつがいる」「そいつは自分とはまったく別の人種だ」と考えるのは楽だ。それ以上問題について考える必要がないから。
「ヒトラーがいたから大虐殺が起こった」「政治家が強欲だから政治が悪い」「公務員が怠けてるから財政が厳しい」と、一部の誰かを諸悪の根源と見なして善悪の間にはっきりと線を引いてしまえば、複雑に入り組んだ現実に目を向けなくて済む。

 でも、多くの問題と同じようにいじめもそんなに単純な問題じゃない。
 強いやつが弱いやつにいじめられることもある。いじめられっ子が悪人である場合もある。いじめっ子にやむにやまれぬ事情がある場合もある。またいじめる/いじめられるの関係も容易に逆転する。

『沈黙の町で』は、その複雑な構造を丁寧に書いている。




 小説の序盤で見えてくるのは、「よくある中学生のいじめ」だ。身体が小さくて喧嘩の弱い子が、同級生からいじめられていた。背中をつねられたり、ジュースをたかられたり。
 こういっちゃなんだが、「よくある話」だ。本人にとってはただごとでなくても。

 だが、小説を読み進めるにつれて徐々に真相が浮かびあがる。
 いじめの被害者は「気が弱くて立ち向かえないかわいそうな少年」ではなかったらしい。小ずるく、自分より弱いものに対しては攻撃的で、平気で他人を傷つける言葉を口にし、他人を裏切る卑怯者で、すぐに嘘をつく少年だったことが明らかになってくる。またいじめっ子グループにつきまとわれていたのではなく、むしろ逆に自分からいじめっ子グループについてまわっていた。

 一方のいじめっ子の首謀者とされた少年たちにも別の顔が見えてくる。いじめられっ子が不良にからまれているのを助けたり、いじめられっ子の罪をかばってやったり。
 彼らは積極的にいじめをはたらいていたのではなく、むしろいじめに引きずり込まれたのだ。

 だが、いじめられっ子の少年が死ねばそんな事情はすべてなかったことになる。
「いじめられていたかわいそうな少年」と「いじめていたひどい少年」という単純な図式の中に置かれてしまう。

「AがBの背中をつねったことがある」と「Bが校舎の屋上から転落死した」というまったく別の出来事が、いともたやすくわかりやすい因果関係で結ばれてしまう。




 ぼくが中学生のとき、休み時間に金を賭けてトランプをするのが流行っていた。といっても中学生なので賭け金は一回百円とかそういうレベルだ。
 男子中学生の、大人ぶりたいとかスリルを味わいたいとかの気持ちを満たしてくれる遊びだ。ぼくも何度かやったことがある。やっていたのは不良グループではなく、ちょっと背伸びしたいだけのふつうの生徒だった。

 あるとき何人かがトランプをしていると、Tという男が「おれも入れて」と言ってきたそうだ(ぼくはその場にいなかった)。Tはクラスでいちばん背が低く、運動も勉強も下の上といったところでみんなから軽んじられていた。
 Tも加わり何ゲームかした。勝負に弱かったのか運が悪かったのか、Tは負けが続いて五百円か千円ほど負けた。
 金を払うように言われたTは「今は持ってない」と言った。翌日、勝った生徒が「払えよ」と言うと「明日持ってくる」とTは言う。そんなことが何日か続いた。勝った生徒も、そうでない生徒も「早く払えよ」とTに言った。
 するとTは担任教師に報告した。金を要求されているが払えなくて困っている、と。
 もちろんゲームに参加していた生徒は全員怒られた。当然Tの借金はチャラ。

 Tの告げ口によって叱られた生徒たちはおもしろくない。Tに参加を強制したわけでもない。Tが自分からやりたいと言ったのだ。イカサマをしてTだけを負けさせたわけでもない。
 学校にトランプを持ってくるのは校則違反だし、金を賭けるのはもちろんダメだ。でもそんなことはみんなわかった上でやっている。もちろんTも。
 もし自分が勝ったらだまって金をもらっていただろうに、負けたときだけ教師に告げ口するTは卑怯だ。
 それ以来、クラスの男子はしばらくTと口を聞かなくなった。トランプに参加していなかったメンバーも含めて。ぼくも、その話を聞いて「Tはなんてずるいやつだ」と感じた。
 また教師に告げ口されたら困るから殴ったり蹴ったりといった直接的な行動はなかったが、みんなでTを無視していたのだからこれもいじめといえばいじめだろう。
 もしもこれでTが自殺でもしていたら、「中学生の陰湿ないじめ」と報道されていただろう。Tのずるさはまったく語られることがないまま。




 いろんなケースがあるからいじめは一概に語ることはできない。
 中には同情の余地もないぐらい一方的な加害がおこなわれるケースもあるだろう。

 でも、たいていの場合、いじめる側も無作為に相手を選んでいるわけではない。
 周囲に迷惑をかけたとか、嘘をついたとか、約束を破ったとか、過失があるものだ。

 ぼくが中学生のとき、ちょっとヤンチャなやつらに囲まれてこづかれたことがある。きっかけは、「ぼくが友人の教科書だとおもって油性ペンで落書きをしたら、ヤンチャグループの一員の教科書だった」だ。完全にぼくが悪い。
 まあそのときは長期的ないじめには発展しなかったが、人やタイミングによってはそこからいじめが続いていたかもしれない。

 もちろん「いじめはあかん」は大前提として、きっかけとなった出来事自体は「いじめられる側が悪い」ことも多い。

 ネットでの中傷なんかを見てもわかるけど、暴走しやすいのは悪意じゃなくて正義なんだよね。
 誰かを集中攻撃する原因は、往々にして「あいつは悪いやつだ」だ。

 悪意はそこまで暴走しない。たいていの人には良心があるから悪意にはブレーキがかかる。でも正義にはブレーキがかからない。制裁を下すとか正義の鉄槌を下すとかの大義名分があると、人はどこまでも攻撃的になる。
「外国を侵略しよう」で虐殺はできなくても、「愛する祖国を守るため」であれば見ず知らずの人たちを虐殺できるのが人間だ。

 皮肉なことに「弱い者いじめをするな」が、いちばんいじめにつながりやすいのだ。


 いじめ自殺事件があると、新聞やテレビの報道は「いじめられた子は純粋無垢で全面的にかわいそうな子」というスタンスになる。
 死者に鞭打つわけにはいかないのもわかるが、「イノセントないじめられっ子」「悪いいじめっ子」という単純な構図に落としこむのも危険だとおもう。

 「いじめはあかん」と伝えることが大前提だし、いじめ自殺した子に鞭打つ必要はないけど、いじめた子を「同情の余地のない極悪非道な生徒」と扱うことは事実を覆い隠すことにつながる。

 悪意だけでなく正義感のほうがいじめにつながりやすいんだよ、悪を悪ということがいじめになることもあるんだよ、と教えることもまた大事なんじゃないだろうか。

「どっかの悪人が悪いことをした」だけだったら「自分とは関係のないこと」になってしまう。そうじゃなくて「わたしやあなたと同じぐらいの優しさを持った子が、優しさのために行動してもいじめの加害者になる状況がある」と教えることのほうが大事だとおもうな。

 とはいえ、それを自分が中学生のときに教えられて理解できたかというと……。




 『沈黙の町で』では、死亡した中学生の遺族が「真相を知りたいだけ」という言葉をくりかえす。この気持ちは理解できる。

 だが、調査する中で明るみに出るのは遺族にとって都合の悪い真実だ。
 死亡した中学生は他の生徒から嫌われていた、女子には攻撃的にふるまうタイプだった、当初いじめの首謀者とおもわれていた生徒はむしろかばう側だった……。

 結果、遺族は知りたかったはずの「真相」から顔をそむけてしまう。都合の悪い真相には耐えられない。
 このあたりの心境、すごくよくわかる。
 そうなんだよね。人間、真実なんて知りたくないんだよ。
 知りたいのは「自分が望む真相」だけ。
「死んだ息子がかわいそうないじめられっ子だった」は受け入れられても、「死んだ息子はときに加害者であり嫌われ者だった」には耐えられない。


 ぼくはこの遺族の愚かさを嗤うことができない。
 たぶん自分も同じ状況に置かれたら目をそむけてしまう。信じたいことだけ信じてしまう。子どもを亡くしてつらいときならなおさらそう。現実なんて受け入れられない。

 ミステリ小説は「真実を明らかにすること」が主目的だけど、現実はそうじゃないんだよね。
 求められるのは真実ではなく、「こうあってほしい」ストーリーなのだ。




 いじめの関係だけでなく、親同士の微妙な敵対関係、大人には意味不明な男子中学生の行動原理、教師の派閥争い、記者や検察や弁護士の見栄や欲、地方都市の人々の関心事など、細部にわたってリアリティがすごい小説だった。
 まるで、ほんとうにあったことをそのまま書いたんじゃないかとおもうぐらいに。

 奥田英朗さんの書いたものって、ユーモア小説や軽いエッセイしかほとんど読んだことがなかったけど、こんな重厚な小説も書けるのか……。


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2021年6月10日木曜日

ツイートまとめ 2020年12月



初対面

関西弁

上方浸水大賞

泣いて馬謖を斬る

GoToキャンペーンのおかげ

言い逃れ

ウイルス側

指の名前

ピスタチオ

DV

2021年6月8日火曜日

オリジナルの公園あそび

 子どもたち(小学校低学年)と遊んでいるときに思いついた、オリジナルのあそび。


スパイおにごっこ

(5人~)

1. まず鬼を決める。
 くじ引き、または鬼が選ぶことで、スパイをひとり決める。
 みんなが目をつぶって後ろを向き、鬼がこっそりスパイの背中をタッチする。鬼とスパイにだけは、誰がスパイかわかる。他の子には誰がスパイかわからない。

2. 全員ばらばらに離れた状態になってからおにごっこスタート。
 鬼は他の子を追いかける。スパイは鬼から逃げるふりをしながら他の子に近づいてタッチする。
 タッチしているところを他の子に見られると鬼だとばれるので、なるべくこっそりと。

3. タッチをしても鬼は鬼のまま。タッチされた子はスパイになる。
 どんどんスパイが増える。

4. スパイはうそをついてもいい。

5. 最後のひとりが捕まったら終わり。


 子どもは嘘や芝居が上手でないので、たいていすぐにばれて中盤からはふつうのおにごっこ(増え鬼)になる。
 鬼とスパイが会話をしているところを見られたりして、すぐにばれる。




全員おにごっこ

(4人~)

1. 全員が鬼であり、鬼から逃げなければならない

2. 他の子の背中をタッチすれば1点。背中以外はタッチしても無効。
 腕などをつかむのは禁止。

3. 同じ子をタッチできるのは1回まで。
 また、協力してお互いにタッチしあうのは禁止。

4. 最初に3点稼いだ子の勝ち。


 タッチをされてもマイナスにはならないので、積極的に攻めたほうがいい。ずっと背後を守っていると点が稼げない。




じゃんけんおにごっこ

(基本的に3の倍数。6人がベスト)

1. グーチーム、チョキチーム、パーチームに分かれる。

2. グーチームはチョキチームをタッチする。チョキチームはパーチームをタッチする。パーチームはグーチームをタッチする。

3. 標的となるチーム全員をタッチしたチームの勝ち。


 ずっと逃げていると勝てないのでこれまた積極的に攻めたほうがいい。
 足が遅い子でもうまく立ちまわれば捕まらずに済む(グーチームの子はチョキチームの近くにいるかぎりパーチームは近寄りづらい)。

 四チームでもできる。AがBを狙う、BがCを狙う、CがDを狙う、DがAを狙う。こっちのほうがより戦略が重要になる。AとCはお互い標的ではないので、いっしょにいることで「B・Dに襲われにくい」というメリットがある。そうなるともちろんB・Dも手を組むことになる。




ボールあてサバイバル

(3人~)

1. あまり広すぎないスペースでおこなう。ボールがふたつ以上あるといい。

2. 他の子にボールを当てる。先に三回当てた子の勝ち。


 すごくシンプルだが非常に熱くなる。いちばん無防備なのはボールを投げようとしているときなので、積極的に攻めすぎても狙われやすくなる。
 同盟を結んだり、裏切りが発生したりといった展開もある。
 たいへんアグレッシブな遊びなので、男の子は大好きだが女の子は敬遠しがち。




ワニのいる川を渡る

(3人~)

1. ワニチームと人間チームに分かれる。ワニチームは1~3人。川の幅などによって調整する。

2. 10メートルほどの間隔をあけて2本の線を引く。その線の間が川、線の外側が陸地。

3. ワニチームは川の中しか移動できない。

4. 人間チームは片方の陸地からもう片方の陸地に移動する。途中でワニにタッチされたら、元の陸地に戻る。

5. ワニ以外チームは、制限時間(3分ぐらい)の間に2人(ここも人数によって調整)が川を渡れば勝ち。制限時間内に渡れなければワニチームの勝ち。


 個人戦ではなく「何人かは捕まってもいい」というのがポイント。
 誰かがおとりになっている間に他の子が川を渡れば勝てる。
 何度捕まっても再スタートできるので、小さい子もいっしょに遊べる。

 今回紹介した遊びの中では、これがいちばん誰もが楽しめる遊び。



2021年6月7日月曜日

【読書感想文】中学生の気持ちを思いだす / 津村 記久子『まともな家の子供はいない』

まともな家の子供はいない

津村 記久子

内容(e-honより)
気分屋で無気力な父親が、セキコは大嫌いだった。彼がいる家にはいたくない。塾の宿題は重く、母親はうざく、妹はテキトー。1週間以上ある長い盆休みをいったいどう過ごせばいいのか。怒れる中学3年生のひと夏を描く表題作のほか、セキコの同級生いつみの物語「サバイブ」を収録。14歳の目から見た不穏な日常から、大人と子供それぞれの事情と心情が浮かび上がる。

 中学生女子の日常を描いた小説。
 家にいづらくて図書館に行ったり、あまり親しくない同級生に塾の宿題を写させてもらったり、男子の尾行をする友人につきあったり、特に何が起きるわけでもないが、おもしろかった。
 中学三年生の夏ってこんな感じだったなあ。けだるいしむかつくことだらけだし特に大人には腹が立ってばかり。何かしないといけないような気もするし、でも何にもなれないし。

 スガシカオの『奇跡』という歌がよく似合う小説だ。何か起こりそうな予感だけがあって何も起こらない。




 タイトルの通り、『まともな家の子供はいない』に出てくる大人はみんな問題を抱えている。不倫、買い物中毒、失業、別居、子どもへの無関心……。
 でも問題といえば問題だけど、大人からすると「まあそんなこともあるよね」という程度の問題だ。わりとよく聞く話だもん。
 他人事であれば些細な問題。でも子どもからすると、親の失業や不倫は大問題だ。自分の人生が大きく揺らいでしまう。だけどどうすることもできない。

 中学生って、いちばん親に対する目が厳しくなる時期だよね。
 小学生とちがって親のダメなところとかいろいろ見えてくるしさ。といって「家を出る」とか「自分でバイトする」とかの選択肢はないしさ。何をするにも、最後は親にお伺いを立てなければならない。
 高校生ぐらいだったら「卒業して実家を出るまでの辛抱」と耐えられるかもしれないけど、中学生からしたら親元を離れられるまでは途方もなく長い。

 それに高校生ぐらいだと「教師も親も自分らとたいして変わらない人間なんだからおかしなところもだめなところもあるさ」とおもえるようになってくるんだけどね。
 中学生にとっては、親や教師は立派な人間でいてほしいという願望と、親も教師はだめなやつだという現実の両方が存在する。だから大人が許せない。




 あとさ、自分が中学生のときはそんなこと想像もしなかったけど、今自分が親になっておもうのは
「親も十数年やってたら疲れてくる」
ってこと。

 ぼくはまだ親になって八年ぐらいだけどさ。でも新人親の頃に比べるといろいろとだらけてきている。
 たとえば親になったときは「子どもの前で極力スマホは使わないようにしよう」っておもってたんだよね。子どもをほったらかしでスマホに興じてる親を蔑んでた。
 で、実際必要なとき以外は子どもの前ではさわらなかった。ゲームをしたり娯楽の動画を観たりなんてもってのほか。
 でも今は子どもの前でスマホを見ちゃう。ゲームをすることもある。ああ、だめな親だ。

 そんな感じで「こういう親になろう」という決意は、時とともにどんどんくずれてゆく。子どもの前で不機嫌になってしまったり、よく確かめもせずに叱ったり、ごろごろだらだらしてしまう。

 ちゃんとした親をやりつづけるのもしんどいんだよな。
 だから子どもが中学生になったときにはもっとダメな親になってるとおもう。自分が嫌悪してた大人になるとおもう。

 それに、まだうちの娘は七歳だから「おとうさんあそぼー!」と言ってくれるし、「買い物に行くけどいっしょに行く?」と訊いたら二回に一回ぐらいはついてきてくれる。
 なついてくれるからこっちもいい父親であろうとするけど、反抗期を迎えて口も聞いてくれなくなったら、こっちも人間だから「立派な父親でいる」モチベーションも低下するだろう。

 おもいかえせば中学生のとき、親が離婚した同級生が何人もいた。うちの親は離婚しなかったが、当時はしょっちゅう喧嘩していた(今は仲がいい)。

 子どもが親に依存しているように、親もけっこう子どもに依存しているんだよね。だから子どもが離れていったら親もよりどころを失う。
 だから子どもが中学生ぐらいになると親も離婚したり不倫したりするんじゃないかな。中学生のときはそんなこと想像だにしなかったけど。
 ぼくも気をつけねば。




 この小説を読んでておもいだしたんだけど、中学生のとき、毎月親からおこづかいをもらうのが嫌だったなあ。
 もちろんこづかいはほしいんだけど。でも、毎月1日はこづかいの日って決まってるんだけど、父親は1日にくれないんだよね。忘れてるのかそれともわざと忘れてるふりをしてるのか。だからこっちから「おこづかいちょうだい」と言わないといけない。
 それがすごく恥ずかしかった。
「保護者と被保護者」という立場を否が応でもつきつけられるわけじゃない。おこづかいをあげる側ともらう側なんだから。「おい、こづかい」なんて言うわけにはいかない。
 だから日頃どれだけ「父親なんてうっとうしいぜ」「おれはひとりでも生きていけるぜ」「親となんか口も聞かねえぜ」ってスタンスを気取ってても(不良ではなかったけど)、毎月1日だけは「おこづかいちょうだい」とおねだりする息子にならないといけない。それが嫌だった。
「こうありたい」自分と「この程度の」自分のギャップをまざまざと見せつけられる日だったんだよね。毎月1日は。




 この物語自体がおもしろいというより、「自分が中学生だったときの気持ち」を思いだしたり「自分が中学生の親になったときの気持ち」を想像したりさせてくれる小説だった。

 こういう小説もいいよね。いろんな感情を引き起こすトリガーとなる小説。


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中高生の居場所をつくるな



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2021年6月4日金曜日

【読書感想文】クズ男に甘い / 東野 圭吾『恋のゴンドラ』

恋のゴンドラ

東野 圭吾

内容(e-honより)
都内で働く広太は、合コンで知り合った桃美とスノボ旅行へ。ところがゴンドラに同乗してきた女性グループの一人は、なんと同棲中の婚約者だった。ゴーグルとマスクで顔を隠し、果たして山頂までバレずに済むのか。やがて真冬のゲレンデを舞台に、幾人もの男女を巻き込み、衝撃の愛憎劇へと発展していく。文庫特別編「ニアミス」を収録。

 東野圭吾作品で「衝撃の愛憎劇」なんて書いてあるから、てっきり殺人事件に発展するのかとおもったらそんなことはなかった。

 基本的にはラブコメだ。でも人によってはサスペンスとおもうかもしれない。
 あらすじに書いてある通り、浮気がばれそうになる男の話だ。
 シチュエーションコメディとしてはおもしろいけど、この「浮気がばれるかばれないか」で一冊引っ張るのは無理があるのではないかとおもっていたら、この話はあっさり終わってしまう。短篇集だったのだ。

 とはいえ連作短篇集で、ここの短篇はそれぞれリンクしている。ある短篇の脇役が次の話の主人公になる……という感じ。
 このへんの構成はすごくうまい。
 まあリアリティはないんだけど。偶然が続きすぎて、どんだけ世間狭いねんって感じで。

 とはいえ、求められるリアリティなんてテーマによってずいぶん変わってくるとおもうんだよね。
『恋のゴンドラ』みたいなポップなラブコメの場合、そこまでリアリティを追求しなくていいとおもう。
 本格ミステリでこれだったら怒るけどね。




 しかし『夜明けの街で』を読んだときもおもったけど、東野圭吾さんはダメな男に甘いよね。ダメな男というか、クズな男というか。浮気をしちゃう男に対する処遇が甘い。

 浮気をした男はそれなりにしっぺ返しを食らうけど、それがすごく軽い。
 こっぴどく怒られて終わり、ぐらいなのだ。それでクズ男を許してしまう。
 女性作家だったらもっとひどい目に遭わすとおもうんじゃないかな。尻の毛までむしりとるぐらいにさ。

 登場人物への処遇の方法に、作者の恋愛観が表れるような気がするな。


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2021年6月3日木曜日

【読書感想文】最後にいきなりカツ丼出されるような / 桐野 夏生『夜の谷を行く』

夜の谷を行く

桐野 夏生

内容(e-honより)
山岳ベースで行われた連合赤軍の「総括」と称する凄惨なリンチにより、十二人の仲間が次々に死んだ。アジトから逃げ出し、警察に逮捕されたメンバーの西田啓子は五年間の服役を終え、人目を忍んで慎ましく暮らしていた。しかし、ある日突然、元同志の熊谷から連絡が入り、決別したはずの過去に直面させられる。連合赤軍事件をめぐるもう一つの真実に「光」をあてた渾身の長編小説!

 はじめにことわっておくと、山岳ベース事件(凄惨な事件なので苦手な人は閲覧注意)を知らない人には何が何だかわからない小説だとおもう。

 山岳ベース事件の生き残りの四十年後を書いた小説だが、事件に関する説明はこの本には書かれていない。事件の内容を知っていることを前提に書かれているので、この本を読む前にWikipediaでもいいから事件の概要を知っておくことをお勧めする。




 山岳ベース事件にはなぜか惹きつけられる。
 事件はぼくが生まれるより前の事件だが、知れば知るほど「特殊な状況に置かれた人間がいかに異常なふるまいをするか」ということをまざまざと見せつけてくれる。
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のDVDも買った。フィクションだとわかっていても身の毛がよだつほどの生々しさを感じた。
 人間ってこんなにかんたんに狂えるのか。思考能力はこんなにたやすく奪われてしまうのか。

 ちなみに、「山岳ベース」よりもその後の「あさま山荘事件」のほうが有名だが、あれは追いつめられた人間が人質をとって立てこもっただけなので異常性は感じない。
 「山岳ベース」事件は怖い。
 人間が潜在的に持っている残酷性をはっきりとつきつけられるので怖い。人間って集団になるとこんな残酷なことをやれるのか。三十人近くいて誰も止めないのか……。

 もし自分が山岳ベース事件の場にいたらどうしていただろう……という考えを拭い去ることができない。戦ったり逃げたりできただろうか。殺されていただろうか。それとも、殺す側にまわっていただろうか。

 自分がどうしていたかはわからない。
 ただ「おれは絶対その場にいてもリンチには加担しなかった」というやつだけは信用できないとおもう。真っ先にリンチに加担するのはそういうやつだ。きっと。


 少し前に清水潔『「南京事件」を調査せよ』という本を読んだ。
 南京大虐殺と山岳ベース事件は似ているとおもう。命令されれば(場合によってははっきりと命令されなくても)、人間はどこまでも残虐になれる。特別に凶暴な人でなくても、ごくふつうの人がかんたんに他人を殺してしまう。




『夜の谷を行く』は、山岳ベース事件の生き残りである西田啓子(架空の人物だがおそらくモデルはいる)を主人公にした小説だ。
 舞台は二〇一一年。東日本大震災の前後。
 西田啓子は指導部ではなかったもののリンチに加担したため服役し、学習塾講師を経て、今ではひとりで暮らしている。ジムに通うのと焼酎を飲むのが好きな、老婆の静かな暮らしだ。
 しかし彼女の生活に四十年前の事件はずっとついてまわる。親戚の縁を切られ、唯一付き合いのある妹とは四十年たった今も事件をめぐって諍いが絶えない。姪の結婚にも啓子の過去が影響を及ぼす。

 彼女は「あの事件はすべてまちがいだった」とおもっているわけではない。もちろんすべてを肯定しているわけではないし、誤ちを犯したことは認めている。とはいえ、すべてが誤りだったとおもっているわけでもない。しかたなかったことや、正しいこともあったとおもっている。

 このへんの心の動きがすごくリアルだ。
 人間って、そんなにかんたんに過去の自分を全否定できるものじゃない。
 戦争に行って戦った人が、終戦後に「あの戦争はすべてまちがいでした」と言われても全面的に受け入れられたわけじゃなかっただろう。まちがいもあったけど、彼らが国や家族を守るために戦いに挑んだことまでもが誤りだったと受け入れられた人は少なかったんじゃないだろうか。

 山岳ベース事件は、外にいた人からしたら
「なんでそんなことしたんだ」
「自分だったらぜったいにそんなばかなことはしない」
と言いたくなることばかりだ。

 でも当事者である西田啓子にはそうおもえない。過去に対して線を引いてきれいさっぱり忘れることができない。
「間違いだったとされていることをしてしまった」とはおもっているが、「間違ったことをしてしまった」とはおもっていない。

「心からの反省」だとか「過去を悔やんでの改心」なんてしたことがあるだろうか。
 ぼくはほとんどない。
「もっとうまく立ちまわればよかった」ぐらいのことは考えるが、「あのとき自分はなんであんなばかなことをしてしまったんだろう」とまではおもわない。それをしてしまうと今の自分の存在が揺らいでしまうから。

 裁判所や刑務所で改悛の意志とかいうけど、あんなの噓っぱちだよね。まあ一パーセントぐらいは本気で改悛する人もいるのかもしれないが、ほとんどは「へたこいた」ぐらいにしかおもっていないとおもう。




 この小説、わりと平坦に話が進んでいくんだけど最後に大きなどんでん返しがある。
 たしかにびっくりしたんだけど、そういう小説だとおもってなかったのでかえって肩透かしを食らったような気になる。
「ははあ、元連合赤軍メンバーの心情を静かにつづる小説なんだな」とおもっていたら最後の最後で急にミステリになるというか。
 コース料理でスープと前菜と魚と肉を味わって「そろそろデザートかな」とおもってたら、突然カツ丼が運ばれてくるような。
  えっ、あっ、いや、たしかにカツ丼好きですしすごくおいしそうなカツ丼ですけど、今はそんなの求めてないんですけど。


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2021年6月2日水曜日

【読書感想文】全漫画中最高の1コマ / つの丸『モンモンモン 8巻』

モンモンモン 8巻

つの丸

内容(e-honより)
モンモンたちを追いかけてきたくまチョン&チャラ子を加え、世界一周の旅は続く! 砂漠、大海原、芸術の都に西部の荒野。やっと日本に帰りつくはずが、モンモン兄弟がたどり着いたのは…なんと北極! 雪と氷の世界をサバイヴして、ぶじ故郷の土を踏むことはできるのか!? ハイパーモンキーギャグ、ここに堂々の完結!!

『モンモンモン』の8巻について語る。

 なぜ8巻なのか。
 それは8巻には『モンモンモン』の最終話が収録されており、そして『モンモンモン』の最終話『原崎山に4番目の陽が昇る!!の巻』こそ週刊少年ジャンプのあらゆる漫画の中でもっともすぐれた最終回だとぼくがおもうからだ(いうほどたくさん読んでるわけじゃないけど)。

 だが『モンモンモン』の最終話のすばらしさはあまり知られていない。
 作者のつの丸といえば、『モンモンモン』の次回作である『みどりのマキバオー』のほうが圧倒的に有名だし(アニメ化もされた)、連載当時にジャンプを読んでいた人でも『モンモンモン』の最終回を知らない人は多い。なぜなら、『モンモンモン』の最終回はジャンプ誌上に載らなかったから。

『モンモンモン』は話半ばでジャンプ連載を打ち切られ、単行本刊行時に書き下ろしとしていくつかの話が追加された(ちなみに終盤も決してそのおもしろさは衰えてないとぼくはおもう)。最終話『原崎山に4番目の陽が昇る!!の巻』は書き下ろし作品だ。だからジャンプを毎週読んでいた人でも、単行本を手に取っていないかぎり最終話の内容は知らないわけだ。




 8巻の話をする前に、もう少し『モンモンモン』全体の話をしよう。

『モンモンモン』はチンチンやうんこやおならがたくさん出てくる下品なギャグ漫画だ。主人公は(猿とはいえ)チンチン丸出しでいつも鼻をほじりながらおならをしている。ここまで下品な主人公もそういない。
 前半は過激な暴力シーンも多かった。下ネタ、暴力、悪ふざけ。PTAが嫌いなものだらけだった(エロはない)。

 だが同時に、作品全体を強烈な「兄弟愛」「家族愛」が貫いていた。

 主人公・モンモンはかなり身勝手なキャラクターだ。傍若無人で気配りは皆無。そんな性格だから弟であるモンチャック(こちらは常識的なキャラ)に迷惑をかけつづける。だがモンモンは「兄貴として弟を守る」という姿勢だけは崩さない。結果的にモンチャックを困らせることになろうとも。

 ここに感じるのはほとんど「母性」だ。

 モンモンにとって弟・モンチャックは常に庇護する対象でありつづける。モンチャックのほうが頭もいいし世渡りもうまいが、モンモンはモンチャックに嫉妬や負い目を感じることはない。理由はない。母が母であるがゆえに子を愛するように、モンモンはモンチャックを守りつづける。
 モンモンはモンチャックの兄貴というより母なのだ(中盤で実母モンローと再会するが、モンローの存在感は薄い。再開後もモンチャックにとっての母はモンモンといえる)。

「ピント外れな愛情を注いでくる兄貴」は、『モンモンモン』を支えるギャグのひとつとなっている。岡田あーみん『お父さんは心配性』のお父さんと同じ構図だ(ただしあのお父さんの愛情には嫉妬も含まれているのでどこか生々しい。『モンモンモン』のほうがより純粋な愛情といえる)。




 さて、そんなモンモンの「母性」がギャグとしてではなく、シリアスに描かれるシーンが作品を通じて一箇所ある。それが最終話『原崎山に4番目の陽が昇る!!の巻』だ。ふう。やっとここに話が戻ってきた。

 ネタバレになるが、海に落ちたモンチャックを、モンモンは身を挺して守ろうとする。おならを吸いながら弟を助けようとするこのシーンは、くだらないギャグと自己犠牲精神とが融合したすばらしいシーンだ。

 で、この行動がすっごく自然なのだ。
 ふつうに考えたら「他人のために命を賭ける」って異常な行動じゃん。フィクションだったらよくあることだけど、でもどっか嘘くさい。1巻の第1話で、めちゃくちゃ強いはずのキャラが知り合い程度の少年のために片腕捨てたら「なんでだよ」ってなるわけじゃない(シャンクスのこととは言ってません)。
 だけどモンモンの場合は、最初っから最後までずっとモンチャックを守るために動いてるんだよね。だってそこには「母性」があるから。損得や、防衛本能すら超越した「母性」で動いてるから。
 それがずっと描かれてるから、命を賭けて弟を守ろうとするモンモンの行動はすごく自然だ。むしろこれ以外の行動をとることは考えられない。

 自分の命も危ないのに助けにきた兄・モンモンにモンチャックは問う。「自分も泳げないくせになんで助けにきたのさ!」と(記憶だけで書いてるので細かい言い回しはちがうかも)。
 それに対してモンモンは答える。「おれはおまえの……兄貴だからだ!」(この台詞ははっきり覚えている)と。

 この台詞がすごい。質問に対する論理的な答えになっていない。だがこれ以外の答えはないし、この台詞でモンチャックはすべてを理解するし、読者も納得する。なぜなら母性とはそういうものだから。




 さて。
 モンモンとモンチャックがどうなったかはここでは明かさない。
 なぜなら、最終巻・最終話の最後のコマを読めばすべてがわかるからだ。

 このラストシーンがほんとうに美しい。
 うんこちんこおならはなくその汚いギャグ漫画をやってきたのは、このシーンのためのフリだったのではないかとおもうぐらいオシャレなエンディングだ。
 数々の伏線が最後の1コマでぴたっとはまり、数年間の出来事がすべて読者の前に提示される。たった1コマで。
 ああ、あの酒場の占いはこれだったのか、くまちょんのあの態度はこういうわけか、チャラ子のあの台詞はそういうことか。

「ラスト数行のどんでん返し系」の小説はいくつも読んだが、いまだに『モンモンモン』を上回るものには出会っていない。あれほど1コマで様々な感情を喚起させる漫画にも出会ったことがない。


 この感情を味わうために、多くの人に『モンモンモン』の最終巻の最終話の最後のコマを見てほしい。もちろんこれだけ見てもわからないから、1巻から読んでほしい。
 1巻とか絵も汚くて内容も下品でギャグもいまいちでほんとにどうしようもない漫画だけど、そこをなんとか辛抱してつきあってほしい。


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2021年6月1日火曜日

ツイートまとめ 2020年11月


投票率


アメリカ大統領選

セイシ

オオキン

技の名前

のび太の宇宙小戦争2021

へっぴり腰

コロナ

大喜利

生きたまま2歳児に届く

ウソつき

ほげほげ ほげほげ

優越感

若者受け