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2020年1月10日金曜日

【読書感想文】逆に野球が衰退しない理由を教えてくれ / 中島 大輔『野球消滅』

野球消滅

中島 大輔 

内容(e-honより)
いま、全国で急速に「野球少年」が消えている。理由は少子化だけではない。プロとアマが啀み合い、統一した意思の存在しない野球界の「構造問題」が、もはや無視できないほど大きくなってしまったからだ。このままいけば、三十年後にはプロ野球興行の存続すら危ぶまれるのだ。プロ野球から学童野球まで、ひたすら現場を歩き続けるノンフィクション作家が描いた日本野球界の「不都合な真実」。
いっときは熱心なプロ野球ファンだった。
小学生のときは毎年春になると選手名鑑を買い、新聞の結果をチェックして、テレビで試合を観戦して、スポーツニュースも観て、ときには『週刊ベースボール』を買うこともあった(なぜか新聞の結果を毎日ノートに書き写していた時期もある)。プロ野球関連の本も読みあさった。

人生の最大の楽しみが野球だった。
公園でも友人たちと野球をし、その成績をノートに記録していた。
家でもひとりでプロ野球カードゲームなる遊びをしていた。自分と自分で対戦して、その結果をノートに記録していた(もしかしたら野球よりも記録することが好きだったのかもしれない)。

中学生になってそれほど熱心なプロ野球ファンではなくなった。他にいろいろ楽しみができたからかもしれない。
とはいえ新聞の結果は欠かさず見ていたし、テレビでタイガース戦をやっていれば(他に観たい番組がなければ)観ていた。

高校一年生のとき、横浜高校の準々決勝での延長17回の死闘、準決勝での6点差逆転ゲーム、決勝でのノーヒットを観て高校野球ファンになった。
反比例するようにプロ野球を観る機会は減った。高校野球を観た後だと、プロ野球の試合は冗長で観ていられないのだ。

そして今。プロ野球はまったく観ない。知っている現役選手は十人いるだろうか。
そもそもテレビでやっていないのだから観る機会がない。新聞もとっていないので結果もわからない。テレビのニュースも観るのをやめたのでまったく情報が入ってこない。ふだん観ないのに日本シリーズだけ観たっておもしろくない。日本シリーズもオールスターゲームもWBCも観ない。昨年どのチームが優勝したのかもしらない。
二十数年前の選手はよく知っているが、現役選手のことはそこらへんのOLと同じくらいの知識しかない(負けるかも)。



野球への興味をなくしているのはぼくだけでないようだ。
 プロ野球の営業面を短期的に見るなら、CRMビジネスを回していけば成果は出るだろう。ただし中期的、長期的な視点に立ったとき、「ファンの延べ人数は増えているけれど、実人数が増えていない」のは大きな課題になる。
「2017年スポーツマーケティング基礎調査」(出典:三菱UFJリサーチ&コンサルティングとマクロミル)によると、日本のプロ野球ファンは2009年の3780万人から2017年には2845万人に減少。この調査は男女各1000人から回答を得て、年齢階層別のファン率と年齢階層別の人口を掛け合わせて算出した数字だ。
 スタジアムに足を運ぶ人の延べ人数が増え続けている一方、同調査における「プロ野球ファン」が減少しているという対極的な事実は、球場には行かなくてもテレビ観戦やニュースで結果を確認するといったライトファンが少なくなった可能性を示唆している。
球場に足を運ぶ熱心なファンは増えている一方、「テレビでやっていれば観る」程度のライトなファンは減少しているという。
ぼくの体感とも合致する。
ぼくが子どもの頃、プロ野球は大人の男のたしなみだった。熱心なファンではなくても「好きな球団は?」と訊かれたら答えられる必要はあったし、「好きな選手は笘篠です」「おっ、渋いですなあ」みたいな会話のひとつもできなければいけなかった。ぼくは子どもだったのでよく知らないけど、たぶんそう。
ぼくなんか兵庫県で育ったので阪神タイガースの話題はあいさつみたいなものだった。
「ノムさんはあきませんな」「久慈を出したのは痛かったなあ」とやっていた。

でも今、少なくともぼくの周りにはあいさつ代わりに野球の話をする人はいない。
前置きなしに「今年もあきませんな」といって阪神のことだなと伝わる時代ではなくなったのだ。
 1990年代から社会が激変し続けるなか、当たり前のように、人々(特に子ども)と野球の関わり方も大きく変わった。
 40年前の少年は誰もが気軽に野球遊びを行なっていた一方、高校まで続ける割合は5%に満たなかった。それでも野球のルールや楽しみ方を知っており、テレビで「見る」スポーツとして熱中した。そうして巨人
戦のテレビ視聴率は1970年代後半から平均20%を記録し、多少の増減はあれども2000年まで同等の数字を維持している。
 しかし、イチローがMLBに移籍した2001年に年間平均15.1%を記録すると、徐々に下落していく。遂には地上波から姿を消し、同時に「見る」スポーツとしての野球は日本で存在感を薄めている(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東)。
 そうした環境で生まれ、野球少年は減り続ける一方、子どもの頃に野球を選択した少年の1割が高校生になっても野球を続けている。「する」スポーツとしての野球は、いまだ一定の支持者がいると言える。
 では、残り9割の高校生はどうだろうか。子どもの頃に触れなかった野球を大人になり、「見る」ようになる割合が高まるとはなかなか考えにくい。彼らが就職した後、可処分所得を有料放送中継観戦に使う割合は減っていくはずだ。そうしてプロ野球は収入を減らすと、現在のような規模を維持するのは難しくなる。
人々が野球離れを起こしたのはテレビの影響が大きい。
デーゲームの中継がなくなり、ナイター中継もなくなり、プロ野球ニュースもなくなった。
昔なんかオープン戦を中継していたんだぜ。サンテレビ(兵庫県のテレビ局)なんてタイガース戦の中継を再放送してたんだぜ。スポーツ中継の再放送って。今じゃ信じられん。

みんなが野球を観なくなったからテレビ中継がなり、テレビ中継がなくなったことで野球はますます観られなくなった。
野球は「テレビをつければやっている」スポーツではなくなり、「お金を払ってわざわざ観にいかないといけない」スポーツになった。

『野球消滅』ではその原因をいろいろ挙げているのだが……。


ちょっと待てよ、と言いたい。
筆者は野球ファンとして「日本人の野球離れ」の原因をあれこれ考えているけど、ぼくからすると理由はひとつだ。

今までがおかしかっただけ。


だってそうでしょうよ。
子どもたちが集まれば野球をし、中学高校では健康な男子は野球部に入って丸刈りにし、テレビでは昼も夜も野球を流し、他の番組をつぶして野球を流し、野球が延長すればまた別の番組をつぶし、ついさっき中継が終わったところなのに夜のニュースでは野球の結果を長々と報じ、翌朝のニュースでも野球の話題を報じ、会社ではおっさんたちが野球の話に興じている……。
どう考えたってそっちのほうが異常な世界でしょ。昭和の人間、どれだけヒマなんだよ。もっとやることなかったのかよ。なんで一スポーツの地位がそこまで高いんだよ。

しかも野球をやるには高価な道具が必要で、グローブ、ミット、バット、ボール、ベース、スパイク、プロテクターをそろえれば数十万円かかる。
専用のスタジアムも必要だ。野球場は特殊な形なので基本的に野球しかできない。サッカースタジアム兼陸上競技場のように、他の競技との兼用はむずかしい。
ボールは遠くまで飛んでいくし当たると危険なので周囲に民家や道路のある場所でやるためには高いフェンスがいる。
試合をするためには最低十八人の選手が必要で、控え選手、審判、監督を入れたら三十人近くはいないと成立しない。
費用、人数、場所などゲームをするまでのハードルがとにかく高い。

野球自体は嫌いじゃないけど「野球を好きにならないなんて何かがおかしい!」という傲慢さを見せつけられると「そういうとこだぞ」と言いたくなる。
野球離れに理由なんてなく、適正値に近づいただけなんだよ。



この本の中では、子どもを野球から遠ざける原因、それに対する提言も書かれている。
怪我をするまで選手を酷使することとか、うまい子(というより早熟な子)ばかり起用されてそうでない子に出番がまわってこないこととか、野球をやるために金銭的・時間的なコストが大きいとことか。

中でもぼくが大きくうなずいたのはこれ。
 現在の日本野球界の問題は、勝利至上主義のチームばかり存在していることにある。第三章で「高校野球の二極化」について取り上げたが、勝亦准教授は高校野球のそもそものあり方について指摘する。
「高校野球の二極化という話になるのは、『強い・弱い』という軸だけで見るからです。そこにもう一つのY軸をつくって、例えば『競技性が高い・レクリエーション(楽しむことを重視)』という軸があるとします。そうなると、『うちはレクリエーションがすごく高くて、同時に強いチームを目指そう』というチームが出てきます。チームが2軸のマトリクス表の中でどの辺に位置しているかがわかると、子どもたちは選びやすいし、自分はどこで野球をやりたいかをもっと考えるようになると思います。
 今は『甲子園優勝』という軸しかなく、その軸から離れた人が軟式野球をやっていたりしますよね。だから、選択肢を増やせばいい。子どもたちが自分の進路を考えるという意味でも、高校野球こそ理念が大事だと思います」
そうなんだよねえ。中学高校ぐらいで「楽しく野球をやる」環境がないんだよね。

ぼくが高校に入学した時。
ぼくは野球が好きだった。だが野球部には入りたくなかった。体育会系のノリも厳しい練習も丸坊主も休みの日の試合も朝練もなにもかもイヤだったからだ。
ソフトボール同好会があったのでそこに入ろうかとおもったのだが、顧問の先生から「うちは女子だけ。男子は野球部に入りなさい」と言われた。
しかたなくぼくは野外観察同好会に籍を置き(活動は半年に一回)、放課後友人たちと公園で野球の真似事をして過ごした。

勝たなくていい、そんなにうまくならなくていい、だからきつい練習をしなくていい、練習は楽しいのだけでいい、気軽に休んでいい、気が向いたときに参加するだけでいい、手を抜いてもいい。
そういう場がないんだよね。

大人になってから草野球チームに助っ人として何度か参加したことがあるが、そこでもやはり勝利至上主義が幅をきかせていた。
ぼくらのチームは半数近くが野球経験者だったので適当に楽しくやっていたのだが、相手はすごくいいバットを使って、へたなぼくら相手にも全力でプレーして(キャッチャーが野球未経験者なのに盗塁までしてくる)、味方のエラーや凡退には容赦ない罵声を飛ばしていた。
ああいやだ、なんで楽しく野球をできないんだろう。「ちょっと力の差があるのでそっちの攻撃時は6アウトで交代にしましょう」とかあってもいいのに。


今までが人気スポーツだったから、「野球は野球道だから楽しくなくていいんだよ。厳しい練習についてこれないやつはやらなくていいよ。やる気がないならやめちまえ」って言ってきたのが野球の世界なんだよね。
それで「じゃあやめます」って子どもが増えてきて、今になって「えっ、ちょっと待って、ほんとにやめるやつがあるか」ってあわててるのが今の状況。ざまあみろとしかおもわない(野球という競技自体は好きなんだよ、ほんとに)。

著者はあれこれ改善提案を挙げているけど、まず野球界(特に学生野球)は悪い意味で伝統ある組織だからなかなか変われないだろうし、仮に変わったとしても野球が国民的人気スポーツになる日はもう来ない。

過去の栄華にすがって見苦しくあがくよりは、さっさと「一部の愛好家からの人気の高いスポーツのひとつ」に舵を切るほうがまだうまくいく可能性が高いんじゃないだろうか。
今のタグビーやテニスみたいに。
ま、無理だろうけど。

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2019年12月23日月曜日

M-1グランプリ2019の感想 ~原点回帰への祝福~

M-1グランプリ2019の感想。

ここ数年(というかこのブログでは)感想を書いていなかったんだけど、今年はいろいろおもうところがあったので。
そのおもうところは後で書くとして、まずは各ネタの感想を。



ニューヨーク (ラブソング)


今年のM-1グランプリはおもしろかったという声が多かったが、その最大の立役者は彼らだとおもう。殊勲賞をあげたい。というか個人的にはネタもめちゃくちゃおもしろかった。

歌ネタということでポップで楽しく、それでいて持ち味のどす黒い偏見や悪意がさりげなく散りばめられているネタ。
トップとして満点だった。
もともと彼らの悪意に満ちたネタは大好きだったんだけど、こういう大会には不向きだろうともおもっていた。
だがこのネタでは「自作の歌」にツッコむ、という形をとることでその嫌らしさをうまく隠すことに成功した。ほんとの悪意は安易な作詞をするミュージシャンだったりそれに共感する女性だったりに向いているのだが、表面的には屋敷個人が攻撃されているように見えるのでバレにくい。
また「『100万回』って言っときゃ喜ぶ」みたいなさりげない悪意を撒きちらしながら、それを後からボケに活かしているところなどはつくづく見事。ただの悪口が笑える悪口になった。

間奏をつくってその間にまとめてツッコむところなんかほんとに感心した。昔、銀シャリが「いっぺんにボケて後からまとめてツッコむ」という形の漫才をよくやっていたけど、同じことでも歌に乗せればまとめてツッコむ必然性が生まれて違和感なく聞ける。

ネタ、テクニックともにハイレベル。個人的には2位ぐらい。
なんでこれが最下位なんだよ!



かまいたち (UFJとUSJ)


いやあすごい。UFJとUSJをまちがえるってめちゃくちゃしょうもない題材だよ。他の芸人なら1秒でボツにするぐらいの。それを発端にあそこまでのネタに仕上げるってとんでもない技術だよね。表現も多彩、緩急も自在でぜんぜん飽きさせないし。
芸歴数十年のコンビを入れても、今いちばん腕のある漫才師じゃないかな。

めちゃくちゃおもしろくてめちゃくちゃうまくて非の打ち所がひとつもなくて、でもだからこそ「もう君たちM-1出なくていいやん」って思っちゃうんだよね。知名度もあるわけだし。藤井聡太棋士が全国高校生将棋コンクールに出てきたみたいな感じというか。もう優勝しても得られるものほとんどないでしょ。



和牛 (不動産屋の内見)


コントへの導入が見事だよね。
台詞の途中でいつの間にか不動産屋に変わっているというボケで軽く笑いもとりつつ、スピーディーかつスムーズにコントに入る。

とはいえネタは、ボケがほぼ2パターン(「住んでる」と「事故物件を喜ぶ」)なので、ちょっと物足りない。
コントへの入り方とか、ツッコミがいつのまにかボケになるとか、動きのおもしろさも見せるとか、テクニックでいえばまちがいなくトップなんだけど。
どうしても過去の和牛と比べちゃうんだよね。2018年のオレオレ詐欺ネタと比べると、ねえ……。

ところで敗者復活戦も観ていたのだが、敗者復活戦ではやらなかった細かいボケがいくつか足されていた。たった数時間の間に。
たぶん、敗者復活は時間オーバーに厳しい(強制終了になる)から削っていた台詞を、時間制限のゆるい決勝戦で足してきたんだろうね。測ってないけど、決勝はけっこう時間オーバーしてたんじゃないかな。
そのへんのしたたかさも含めてさすが。



すゑひろがりず (合コン)


おもしろいし笑ったし大好きなんだけど、基本的には言い換えのおもしろさの一点勝負なので、そこまで評価されないだろうなあとおもっていたら意外と点数が高かったので驚いた。
発想自体は第1回キングオブコントでチョコレートプラネットが披露していた「ゴルゴンコンパリオン」だったり、関西ローカルで武将様(ミサイルマン岩部)がやっている「戦国でやっていたシリーズ」だったりとほぼ同じで、とりたてて目新しいものはない。
とはいえ間の取り方や鼓の打ち方扇子の広げ方、表情にいたるまでどこをとってもよくできていて(本物に近いというより我々の頭の中にある「能や狂言ってこんな感じ」という雑なイメージにぴったり)、どんなくだらないことでも継続って大事だなあと感じ入る。

鼓の音を聞いただけで笑っちゃうんだけどもうDNAレベルで何か刻まれているとしかおもえない。たぶんどんなにふつうのことを言っても鼓をぽんと打つだけで笑っちゃうんじゃないかな。

このコンビニ関しては決勝進出しただけで大勝利だよね。




からし蓮根 (教習所)


関西賞レースの常連なので何度もネタを観たのだが、どうもぼくの好みからは外れている。何が悪いというわけじゃないんだけど、新しさを感じないんだよなあ。

このネタに関しても、ボケる → ツッコむ → 終わり。またボケる → ツッコむ → 終わり。という流れが単調で、深みがない。ツッコミを受けてさらにボケる、それをさらに広げて……みたいな転がってゆく展開がぼくは好きなので。

生徒がバックで逃げるという盛り上がるシーンをラストにもってくる構成は好き。
でも、そのために「教官が生徒を残して車を降りる」というリアリティに欠けるストーリーを用意したせいで説得力に欠ける。ディティールを大事にしてほしいなあ。




見取り図 (お互いを褒めあう)


個人的には前回大会のネタのほうが好み。
とはいえ、ずっと圧倒的なツッコミ高ボケ低だったコンビが、ボケが強くなってバランスのとれたコンビになりつつあるのはいいことだ。
これだけ腕のあるツッコミがいるんだから、きれいに整ったボケだけでなく、もっと理不尽なボケを投げつけてもいいんじゃないかとおもう。
せっかく腕のいい板前がいるのに切り身の魚しか料理させないようなもったいなさがある。



ミルクボーイ (コーンフレーク)


今からすごくダサいこと書きますけど、
ぼくはずっと前からミルクボーイおもしろいとおもってたからね!

いやほんとほんと。優勝してからこういうこと言いだすのはめちゃくちゃダサいけど。
去年の記事にも書いてるし。

それからミルクボーイはいつ決勝に行くんだろう。毎年準々決勝止まりなのがふしぎでしかたない。独自性もあるしめちゃくちゃおもしろいのに。元々おもしろかったのにひどい偏見を放りこんでくるようになってさらにおもしろくなった。
近いうちに決勝に行ってくれることを切望する。

とはいえぼくも決勝に行くことは願っていたが優勝するとまではおもっていなかった(今年の決勝進出が決まった後でさえも)。
理論で構築していくタイプのコンビだから、勢いが評価される決勝ではあんまりウケないんじゃないかとおもっていた。

数年前のオールザッツ漫才ではじめて彼らの漫才を観て
「こんなにうまくて新しくておもしろい漫才をするコンビがいるのか!」
と驚き、そう遠くない将来いろんな賞を獲ることになるだろうと期待していたのだが、賞を獲るどころか大会で姿を観ない。
あのネタだけが良かったのか? とおもっていたら、翌年のオールザッツ漫才で『滋賀』のネタを観てもう一度衝撃を受けた。さらにおもしろくなっとる……!
『叔父』『デカビタ』など、どのネタもフォーマットは同じでありながら安定しておもしろい。なのにオールザッツ漫才でしか姿を観ることができない。関西はわりと土日の昼間とかに漫才番組をやっていて若手も出るのだが、ミルクボーイはそこにも出ない。M-1グランプリも準決勝まで行けない。決勝はともかく準決勝に行く実力はあるだろ!
……と他人事ながらずっとほぞを噛む思いをしてきただけに、今回の出場→優勝はちょっと信じられない。当人たちが「こんなことありえない」というリアクションをしていたことにもうなずける。

今回のネタは、客席との一体感も含めて完璧な出来だった。中盤以降は何を言ってもウケる状態。突飛なことを言っているわけではないのにずっとおもしろい。2005年大会のブラックマヨネーズがこんな感じだった。こんなにウケることはもう二度とないんじゃないかとおもえるぐらい。

「おお、ミルクボーイがM-1の決勝でウケてる……!」と万感の思いで観ていたので、肝心のネタの内容はあんまり覚えていない。
予選動画でも観たネタだったけど、何度観てもおもしろいよね。
「あの五角形は自分の得意分野だけで勝負してるからやとおれは睨んでる」「朝の寝ぼけてるときやから食べてられる」「浮かんでくるのは腕を組んだトラの顔だけ」
あれもこれもと話題を詰め込むのではなく、ワンテーマをとことん突き詰めたからこそ出てくる珠玉のフレーズ。
よかったなあ。




オズワルド (先輩との接し方)


由緒正しい東京スタイル、って感じの漫才だった。おぎやはぎのスタイルでPOISON GIRL BANDのシュールなネタをやっている、って印象。

出で立ちや声のトーンにどうしても目が行ってしまうけど、ネタの作りがすごく丁寧だった。寿司だけに。
「理論上は」「国民の意見」などのセンスあふれるフレーズを散りばめながら寿司屋から自然にバッティングセンターに移り、「回転寿司」「高速寿司捨てマシーン」という強いワードへ。うまい。
大会では評価されにくいこのタイプのスタイルにしては大健闘。




インディアンス (おっさん女子)


個人的に、楽しいだけの漫才って好きじゃないんだよねえ。あさましいとか見苦しいとかねたましいとかみじめったらしいとか、そんな負の感情を刺激してくれる笑いが好きなんだよ。

中川家礼二がコメントしていたように、素が見えないせいでずいぶん無理をしてるように感じてしまう。明るさが痛々しい。強弱もないし。
この道の先にはアンタッチャブルという巨人がいて、そこと比べるとボケ・ツッコミとも小粒感がぬぐえない。内面からにじみ出てくるものがないんだよねえ。

そしてネタの導入に無理があった。
「おっさんみたいな彼女っていいよね」が共感を得られないまま話を進めていっちゃったものだから、ずっと入っていけないままだった。時間をかけてでも「おっさん女子がなぜいいか」をプレゼンする丁寧さがあったらなあ。

今回の個人的最下位。



ぺこぱ (タクシー)


予選動画ではじめてこのスタイルを観てそのときはたしかにおもしろかったんだけど、2回目にしてもう飽きてしまった。“型”を壊す笑いだから、これ自身が“型”になってしまったらもうおもしろくないんだよね。
(ついでにいうと壊される“型”っぽい漫才をやっていたのがからし蓮根だとおもう。だからからし蓮根の直後の出番順だったら最高だった)

ぼくはこの人たちのネタを他に観たことないんだけど、このネタを観るだけでも
「ああ苦労していろんなスタイルを模索しつづけた末にたどりついた形なんだろうなあ」
という悲哀が感じられてよかった。しっかり作りこまれたネタなのに、それでも魂の叫びが漏れ聞こえてくるようだった。



【最終決戦】

ぼくが3組選ぶなら、ミルクボーイ、かまいたち、ニューヨーク。
ニューヨーク以外の順位についてはおおむね納得。

ぺこぱ (電車で席を譲る)


彼らにとって不運なことに、1本目最後出番→2本目トップ出番 と2本続けてネタをすることになってしまった。
さっきも書いたように、型を壊すタイプのネタなのでからくりがばれている2本目はただでさえ弱くなるのに、連続出番ということでさすがに飽きてしまった。

とはいえ「キャラ芸人になるしかなかったんだ」などの“魂の叫び”は一本目よりさらに強烈。
人間的魅力は十二分に伝わった。


かまいたち (となりのトトロ)


1本目と同じく、くだらない題材を大きく膨らませる技術は圧巻。
他の芸人だったら
「おれとなりのトトロ一回も見たことないわ~」
「だからどうしてん。おんねん、こういうしょうもない自慢するやつ」
みたいな(学天即がやりそう)、せいぜいあるあるネタのひとつにする程度の題材なのに、それをここまで掘りさげられることに恐れいる。幅が狭い分、深みがとんでもない。
どんなお題をもらっても4分の漫才にできるんじゃないだろうか。

共感しやすい話から宗教っぽい語り口のぞくぞくするボケまで持っていく話術は見事の一言。
ほんと、うますぎて若手ナンバーワン漫才師を決める大会にふさわしくない。



ミルクボーイ (もなか)


何が悪いというわけでもないのになぜか好かれない最中(もなか)、という渋い題材でたっぷり4分間。
技術もあって安定しておもしろいのにずっと売れないミルクボーイの漫才を最中に重ね合わせているんじゃないだろうか。そんな気すらした。それほどまでにこのスタイルに対する執念が感じられた。

ミルクボーイのスタイルは何年も前から完成されていた。「ほな〇〇やないか」「ほな〇〇とちゃうやないか」のくりかえし。数年前からほとんど変わっていない。
どのネタも安定しておもしろい。ちゃんとウケる。でも評価されない。

何年も結果が出なければ限界を感じてスタイルを変えそうなものだ。スタイルを変えたことで新しい道が開ける芸人も多い(たぶんぺこぱもそうだろう)。
だが自分たちのスタイルを信じ、貫いた。そして最高の栄誉を勝ち取った。どちらの姿も美しい。

ミルクボーイは、今年勝てなかったら来年以降勝つのはむずかしかっただろう。
正直、2本目のネタは1本目よりウケていなかったようにおもう。ネタが劣っていたというより新鮮さが落ちていたせいだ。

それでもほとんどの審査員はミルクボーイを評価した。
ぼくが票を入れるなら、やはりミルクボーイに入れたとおもう。
「笑いの量とか技術とか総合的な評価でいえばかまいたちのほうが上。しかしミルクボーイには新しさがあった」
という理由で。
きっと似たような理由で票を入れた審査員もいたはずだ(あとかまいたちは既にキングオブコントの称号を手にしているからもういいだろという気持ちもはたらいたとおもう)。

「その日いちばんおもしろいコンビを決める」という趣旨からいえば、新しさとか過去の実績とかで評価をするのはフェアでないのかもしれない。
けど、それでいいとおもう。M-1グランプリは、同じぐらいのおもしろさであれば、より新しいもの、より陽の当たらない大会であってほしいとぼくはおもう。



ぼくが2019年のM-1グランプリを観終わって抱いたのは、ぼくの好きだったM-1グランプリが帰ってきた! という感覚だった。

うまさよりも粗削りでも新しいものを評価する大会、知名度や人気ではなく「なんだかわからないけどおもしろい」を評価する大会、当初のM-1グランプリはそういう大会だった。
まだまだ技術的には下手で全国的な知名度も低かった麒麟、笑い飯、千鳥、南海キャンディーズ、POISON GIRL BANDらを決勝に上げて世に問うてきた大会。
その頃のM-1グランプリは、「今いちばんおもしろい」というよりどっちかといったら「次にいちばんおもしろくなる」コンビを決める大会だった。毎回一組は「こんな漫才観たことない!」とおもわせてくれるコンビがいた。

でも、2006年から2008年ぐらいを潮目にその流れが変わってきた。
既に評価されているもの、技術の高いもの、万人から笑いをとれるもの、そういったものが評価されるようになった。

2015年に復活して芸歴15年まで参加できるようになってからはよりその傾向が強くなった。
トレンディエンジェル、銀シャリ、スーパーマラドーナ、和牛……。復活後のM-1を彩ったコンビたち、そのネタはおもしろいしぼくも好きだが、「なんだこれ!」という驚きは感じなかった。うまい、達者だ、よくできているネタだ、がんばって稽古したんだろうな、しっかり対策立ててきたんだな。
そうおもうことはあっても「こいつら次は何するんだ!?」というわくわく感はなかった。

その流れが再び動きはじめたのは2017年。
和牛、ミキ、かまいたち、スーパーマラドーナといった並みいる“達者な漫才師”を抑え、とろサーモンがチャンピオンに立った。
正直いって、「笑いの量」という点でいえばあの日のとろサーモンはぼくの中では1位ではなかった。
だが何を言いだすかわからない、どこまでが台本でどこからがアドリブかわからない、そういう即興性、破壊力ではダントツの1位だった。
他の出演者が美しい交響曲を聞かせる中、型破りなジャズでその場の聴衆の心をわしづかみにしたのがとろサーモンだった。

そのとき撒かれた種は2018年にも花を咲かせた。
和牛のネタ構成や表現力は見事の一言だった。ジャルジャルの稽古量は圧巻だった。ミキのしゃべりのうまさにはますます磨きがかかっていた。
けれど大会を機に大きく評価を上げたのは独自のスタイルを持ちこんだ霜降り明星であり、トム・ブラウンだった。
うまさよりも新しいものを。その要求は高まりつつあった。もちろん霜降り明星もうまくて達者だったが、何より評価されたのはその革新性だった。

そして2019年。新しさを求める気運は満開の花を咲かせた。
次から次へと披露される新鮮な漫才。
演者の知名度が低かったこともあり、ほとんどのコンビが笑いとともに驚きを届けてくれた。

そうだよ。M-1はこうでなくっちゃ!
一流の商品が高い値札をつけられて並ぶデパートではなく、なんだかわからないけど大化けする可能性を秘めた原石が発掘される蚤の市であってほしいんだよ!


そろそろ芸歴10年までに戻してもいいんじゃないかなあ。

「10年やって準決勝にも行けないやつは才能ないからやめなさいよ」ってのが大会創設の意図だったわけだしさ。



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キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


2019年11月27日水曜日

【映画感想】『アナと雪の女王 2』

『アナと雪の女王 2』

内容(ディズニー公式より)
命がけの妹アナによって、閉ざした心を開き、“触れるものすべてを凍らせてしまう力”をコントロールできるようになったエルサは、雪と氷に覆われたアレンデール王国に温かな陽光を取り戻した。そして再び城門を閉じることはないと約束した。それから3年――。
深い絆で結ばれたアナとエルサの姉妹は、王国を治めながら、失われた少女時代を取り戻すかのように、気の置けない仲間たちと平穏で幸せな日々を送っていた。しかしある日、エルサだけが“不思議な歌声”を聴く。その歌声に導かれ、仲間のクリストフやオラフと共に旅に出たアナとエルサは、エルサの持つ“力”の秘密を解き明かすため、数々の試練に立ち向かう。果たしてなぜ力はエルサだけに与えられたのか。そして姉妹の知られざる過去の“謎”とは? 旅の終わりに、待ち受けるすべての答えとは――。

そうそう、こういうのでいいんだよ。続編って。
ちゃんとエルサはエルサ、アナはアナのままでいてくれてる。

最近ディズニーの続編といえば『シュガー・ラッシュ:オンライン』『トイ・ストーリー 4』と、立て続けに「前作の世界観をぶっ壊す」作品が続いていたので、こういう「ちゃんと前作までのキャラクター造形を尊重する」作品を観てほっとした。

『シュガー・ラッシュ:オンライン』も『トイ・ストーリー 4』も、「この作品さえおもしろけりゃいいだろ」って感じで作ってんだよね(その狙いすら成功してるかどうか怪しいけど)。
でもこっちは「ディズニー作品」を楽しみに来てるわけ。映画一本だけを楽しめればそれでいいわけじゃないん。過去の作品もあわせて楽しむために新作映画を観にいってるの。そういう心情を理解してねえんだろうなあ、『シュガー・ラッシュ:オンライン』『トイ・ストーリー 4』の制作陣は。

あ、いかんいかん。また愚痴が長くなる。

愚痴を読みたい奇特な人は以下からどうぞ。
【映画感想】『トイ・ストーリー 4』
【映画感想】『シュガー・ラッシュ:オンライン』



前作『アナと雪の女王』、ぼくは数年前にDVDで観た。
そのときおもったのは
「たしかにおもしろい。よくできている。でも、社会現象になるぐらいヒットするほどかなあ。他のディズニー作品もこれに負けず劣らずだとおもうけど。どうしてこれだけがそこまでヒットしたんだろう」

『2』を観てその謎が解けた。
映像、そして音楽に圧倒されたのだ。
なるほど。前作が大ヒットしたのもこれが理由か。
これは劇場で観なきゃだめだ。

はっきりいって『2』のストーリーは難解だ。
過去と現在が交錯するし、エルサが何のために行動しているのかもわかりづらい。

行動目的がシンプルだった前作とは対照的だ。
「追われたから山へ逃げて一人で生きていくエルサ」「エルサを追いかけるアナ」「アナの具合が悪くなったのでお城に向かうクリストフたち」「捕らえられたので逃げるエルサ」「氷漬けになったアナを助けようとするエルサ」
と、前作の行動はすごくわかりやすい。
人物の善悪もはっきりしている。

『2』でははっきりと悪人として描かれるのは××××××(ネタバレのため伏字)ぐらい。しかし××××××はもう死んでいる。あとの登場人物はわけもわからず右往左往としているだけだ。
観ているこちらも戸惑う。誰に感情移入していいのやら、何を期待すればいいのやらさっぱりわからない。

だが。
CGによる壮大な映像と迫力ある音楽がそんな疑問をふっとばしてくれる。
観終わった後は「なんだかわからんがすごいものを観た!」と感じる。そう、感じるのだ。

『アナと雪の女王2』がDVD化されたときの評価はあまり高くないのではないかとおもう。
なぜならストーリーが前作に比べて不明瞭だから。こういうのが好きな人もいるだろうけど万人受けはしづらいから。
映像や音楽の迫力はDVDで観ても伝わらないだろうから。
音楽ライブをYouTubeで観るようなもので、富士山を写真で観るようなもので、形は伝わるんだけどその匂いや手触りや温度は伝わらない。

だから興味のある人はDVD化を待たずに劇場に行くことをおすすめします。
そして小難しいことを考えずに迫力に浸ってほしい。

いやーすごかった。映像と音楽が。
ぼくはピクサースタジオを好きなんだけど、ピクサーの映像技術はディズニースタジオに完全に抜かれてしまったな。


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2019年7月17日水曜日

【映画感想】『トイ・ストーリー 4』

『トイ・ストーリー 4』

内容(ディズニー公式より)
“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”―― 新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズら仲間たちの前に現れたのは、彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。しかし、彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう。ボニーのためにフォーキーを探す冒険に出たウッディは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会いを果たす。そしてたどり着いたのは見たことのない新しい世界だった。最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは…?

≪公開中の映画に関するネタバレを含みます≫

ぼくは『トイ・ストーリー』シリーズの大ファンだ。
これまでの3作、および短篇作品もくりかえし観た。『4』の公開は何年も楽しみにしてきた。
ほかのファンと同じようにぼくも「あんなに完璧な『3』の後に続編を作れるのか?」とおもったが、同時に「でもピクサーならその不安をふっとばしてくれるすばらしい作品を生みだしてくれるはず」と信じていた。

で、『4』を観賞。
結論からいうと、不満がたくさん残る作品だった。
ぼくが大ファンじゃなかったら素直に楽しめたんだろうけど、思い入れが強い分、わだかまりも多く残った。

1~3までの作品とはずいぶん毛色がちがうなあとおもって調べてみたら、やはり『トイ・ストーリー』の生みの親であるジョン・ラセターが制作から離れたということで(離れた理由については自分で調べてください))、どうりでまったく別物になっているわけだ。
換骨奪胎。
変わったところが、ことごとく好きじゃなかった。




変えることが悪いとはおもわない。
同じようなことをくりかえすだけではマンネリを生む。『トイ・ストーリー3』ではウッディたちをアンディの元から去らせるという大転換をおこなって見事に成功を収めた。

今回の『4』では最終的にウッディがボニーやバズ・ライトイヤーたちと別れて新しい世界へと旅立つが、その決断自体は否定しない。

置かれた境遇が変われば心境も変わるし、「おもちゃは子どもに愛されるためにある」というウッディの自我は前三作で常に危機にさらされてきた。結果的にウッディたちは「子どもと一緒にいる」を選んできたが、唯一無二の選択だったわけではなく「悪いこともあるけどまあしょうがないよね」という妥協を内に含む決断だった。
だから今さらウッディの信念が揺らいだとしても驚かない。

ただ、これまでのウッディたちの決断を否定するのであればそれなりの理由が必要だ。『4』には「なるほど、それならウッディの信念が変わるのもしょうがないよね」と観客に思わせるだけの説得力がまったくなかった。

ひとことでいうと「」。
ストーリー展開、心理描写、リアリティ、整合性。ひたすらに雑。
いや『4』がほかの映画にくらべて悪いわけではない。『3』までがきめ細やかすぎただけ。『4』ではそれが受け継がれていないだけ。

もう少し具体的にいうと、前作までは「課題があって、おもちゃたちが100点ではないけど一応納得できる解決を導きだす」というストーリーだった。
だが『4』では「まず解決があって、そのために課題を設ける」という作り方をしている。

まず「ウッディがボニーやバズたちと離れる」というゴールがあり、そのために
  • ウッディがボニーやその親からないがしろにされる
  • ボニーの心の支えになるフォーキーというおもちゃを登場させる
  • 子どものおもちゃから離れて自由闊達に生きている、ボー・ピープというキャラクターと出会わせる
など、着々と「ウッディ引退のための花道」が準備されてゆく。いや、花道というより追い出し部屋か。
以前のウッディならフォーキーに対して嫉妬ぐらいは抱いていたはずなのに、まるで自分の引退を悟っているかのように己の持てるものをフォーキーに譲りわたしてゆく。

そして、自分自身が不要になったことを(それなりの葛藤があるとはいえ)あっさり受け入れて新天地へと旅立つ。

まるで、社内に居場所がなくなってきたと感じているベテラン社員が、会社が用意した早期退職制度に応募して「おれの実力なら独立してもやっていけるっしょ」と起業するみたいに。
アンディ社でエースを張り、子会社のボニー社で不遇を強いられてきたウッディが、脱サラして喫茶店のマスターに。どう考えてもこの先うまくやっていけるとはおもえない。
独立するのであれば、追い立てられるような逃避的独立ではなく、前向きな理由でのリスタートであってほしかった。




制作者の敷いたレールを最短距離で走らせるために、前作までで丁寧に描いてきた
  • 常に自分が主役でいたいというウッディの人間くさい欲
  • アンディとボニーが交わした、おもちゃを大切にするという約束
  • ボー・ピープは陶器のおもちゃだからアクションができないという制約
  • 直情的なウッディに比べて思慮深いバズのキャラクター
  • ウッディとバズの深い友情
といった設定はあっさり無視されている。

そしてなにより、「子どもの友だちでいることがおもちゃにとってなによりの幸せ」というウッディの信念、ときにはそのせいでバズに嫉妬心を燃やし、プロスペクターやジェシーとの約束を反故にし、居心地の良い保育園やおもちゃの仲間たちに別れを告げたほどの頑固な信念は、「あっちのほうがなんとなく良さそう」ぐらいの軽いノリであっさり捨てられてしまう。


ほぼ称賛一色だった前作とはちがい今作は賛否両論だそうだが、その"否"はほとんどここに向けられているのだろう。
過去三作に対する思い入れの強い観客ほど、ウッディやボニーの豹変っぷりには戸惑いを感じるはずだ。

主役の座から降ろされることも、子どもが成長すればいずれ遊んでもらえなくなることも、子ども部屋の外にはいつまでも子どもと遊んでもらえる場所があることも、ウッディはこれまでの三作で味わってきた。
それでも愚直なまでに信念を曲げなかったウッディが『4』ではさしたるきっかけもなくあっさり考えを転向させてしまう。

よほど現状がつらいとか、よほど移動遊園地が魅力的な場所であるとかの「これまでの決断を覆すほどの根拠」は描かれない。これこそぼくが「雑」と思うゆえんだ。

ボニーの元を離れて生きていくという決断を見せられても、「だったらあのときサニーサイド保育園に行ってたらよかったじゃない」としかおもえない。
強権的政治を敷いていたロッツォが退場したサニーサイド保育園はおもちゃの楽園だ。しかもボニーの家からおもちゃでも移動できる距離にあるから今からでも行ける。
「他のおもちゃといっしょにサニーサイド保育園」に背を向けたウッディが、なぜ「単身で移動遊園地」は受けいれるのか?

移動遊園地がサニーサイド保育園に勝っているところはただひとつ。
「ボー・ピープがいる」という点だけ。
それだけでウッディがあっさりボニーやバズを捨てちゃうの? 子どもと遊んでもらえなくなってもかまわないの?
まさか「恋愛はすべてに勝る」ということをトイ・ストーリーを通して伝えたいわけじゃないよね?

トイ・ストーリーの世界観において、おもちゃは単なる子どもの友だちではない。制作者たちも語っているように、彼らの役割は「保護者」だ。
おもちゃたちは子どもを守るために行動している。第一作でウッディが憎いバズを助けにいくのも、『2』でさらわれたウッディを他のおもちゃたちが連れ戻しにいくのも、理由は「アンディが悲しまないように」だ。
だからこそ『3』ではアンディが家を出ていくときにアンディのママが感じる我が身を引き裂かれるようなつらさがおもちゃの視点を通して描かれる。あのシーンは時間にすればわずかだったが、強烈な印象を放っていた。
『4』でも、ボニーがはじめて幼稚園に行くときに寂しがらないようにウッディがついていったり、モリー(アンディの妹)が寝るときに怖がらないようにボーがついていたことが語られたり、おもちゃは子どもたちの保護者としてふるまっていた。
なのに、ボーと出会ったウッディはあっさり保護者であることをやめてしまう。


「新しい生活のほうがなんとなく良さそう」とボニーのもとを離れるウッディの姿は、まるで新しい男を見つけて子どもを置いて去ってゆく母親だ。
母親には母親の人生があるからそういう選択を否定する気はないけど、でもピクサー映画で見せる必要はあるか?
ぼくは、自分が母親に見捨てられたような気分になった




『3』までと『4』の制作者の「おもちゃへの愛」は、アンディの母親とボニーの両親のちがいにはっきりと描かれている。
アンディがおもちゃを大切にする気持ちをよく理解しているアンディの母親。一作目では最後の最後までウッディを捜すアンディに寄り添うし、『2』では高値を付けてウッディを買い取ろうとするアルに対していくら積まれても売らないと言い切る。

だがボニーの両親はアンディのママとはちがう。
ボニーのおもちゃを平気で踏んづけるし、旅行先でボニーのお気に入りのおもちゃがあるかどうかも確認せずに車を出そうとする。おもちゃがなくなっても「まあそのうち出てくるだろう」ぐらいで済ませる。
「おもちゃなんてなくなればまた買えばいい」ぐらいの気持ちなんだろうな。それは制作者の気持ちがそのまま表れたものだ。
ボニーの父親のもとにアルが現れて「あなたのお子さんのおもちゃを300ドルで売ってください」と言ってきたら喜んで手放すだろうな。『トイ・ストーリー4』の監督も。




不満を書きだしたら止まらなくなってきた。
いいところも書こうとおもっていたのに。ファンにはうれしい、ティン・トイのさりげない登場シーンやコンバット・カールの再登場とか。

ティン・トイ
迷子のシーンを通して「自分より弱いものを守る立場に置かれることで強くなる」ことを表現していたこととか。

それでも思いかえすほどに、納得のいかないところが次々に出てくる。

ボー・ピープのキャラクター変化とか。
内面が変化するのはぜんぜんかまわない。環境が大きく変わったのに同じ性格でいるほうが不自然だ。
でも、物理的な制約を飛びこえてしまうことはいただけない。
さっきも書いたけど、ボー・ピープは陶器の人形だ。激しいアクションには耐えられない。服は着色されているから着替えられない。折れたらかんたんに修復できない。
だから『2』では留守番を強いられたし、『3』では姿すら見せない。『4』ではそういった設定をぜんぶ無視している。
「おもちゃの材質や形状に応じた動きをする」ってのがトイ・ストーリーの魅力なのに、それがかんたんに捨てられている。

『4』におけるボー・ピープのキャラクターは、いかにもここ数年のディズニーヒロインという感じだ。
『シュガーラッシュ』シリーズのヴァネロペに代表される、旧習に縛られずに自分がもっとも輝くフィールドで戦うかっこいいヒロイン。
いっしょに観ていたうちの六歳の娘も「ボーがかっこよかった! ボーがいちばん好き!」と言っていた。そりゃそうだろうな。かわいくてかっこいいお姉さん。女の子は大好きだろう。
そういうキャラクターが出てくることには大賛成だ。
でもその役目を担うのはボー・ピープじゃないでしょ。陶器製の電気スタンドじゃないでしょ。ウッディを役立たず呼ばわりするのは、ウッディが誰よりも仲間思いなのを間近で見てきたボーじゃないでしょ。




『4』が雑な印象を与えるのは、キャラクターたちのその後の描かれ方が投げやりだからでもある。

これまでの作品では、キャラクターたちにしかるべき居場所が与えられていた。
たとえば『3』では、序盤に家を出た軍曹やグリーンアーミーメンたちはラストでサニーサイド保育園にたどりつき、そこではケンやバービーを中心におもちゃにとって居心地のいいコミュニティがつくられている。
ロッツォの手下として強権的支配に手を貸していたおもちゃたちも心を入れ替えて仲良くやっている。
最後まで無慈悲だったロッツォにすら居場所が与えられていた(ひどい目には遭うが彼を拾うのはおもちゃを愛している人物だ)。『2』でウッディを傷つけたプロスペクターも同じだった。

だが『4』はすべてがなげっぱなしだ。
移動遊園地に残ったウッディたちのその後が描かれるが、ダッキーとバニーは子どもにもらわれたいと願っていたのに叶わなかった。おもちゃを大切にしない家に残されたバズたちに明るい未来が待っているのだろうか? ベンソンは最後まで感情のないロボットとして描かれていて、ギャビーギャビーとはぐれた後にどうなったのかはわからない。不気味な存在から一転してかわいらしい赤ちゃんの心を取り戻した『3』のビッグベビーとは対照的だ。

おもちゃだけではない。ボニーというキャラクターの造形もひどかった。
ボニーがウッディを気にするシーンあった?
ウッディに話しかけたり、ウッディをさがしたりするシーンあった? ウッディから保安官バッジを引きちぎるシーンだけじゃない?
あれが、アンディが信頼しておもちゃを託した子?




愚痴はまだ続く。
ギャグシーンがうわすべりしていたこと。

デューク・カブーンが笑い担当だったんだろうけど、百人が百人ともケンを思いうかべるだろう(あと『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』のコンバット・カールと)。つまり既視感しかない。

あとはダッキーとバニーの妄想コント。
ありえない展開がくりひろげられた後に「実はこれ、ダッキーとバニーの妄想でした!という流れが何度かある。
これ、おもしろくないとか以前に、完全に話の流れを妨げていた。
せっかく物語の世界に没入してるのに、「はいこれはぜんぶ作り物ですからね」といちいち現実に引き戻される。
しかも『2』のスターウォーズパロディや『3』のバズのスパニッシュモードのようなストーリーの流れにからんだギャグではなく、このシーンがあってもなくても本筋にはまったく影響を与えないようなとってつけたギャグパート。
「さあ、ここは笑うとこでっせ!」という制作者の声が聞こえるようで、完全に鼻白んでしまう。いかりや長介の「だめだこりゃ。次いってみよう!」という声が聞こえてくるようだった。
劇場でもほとんどウケていなかった。

おもしろかったのも鍵を手に入れるとこぐらい。でもあれも場面を区切って回想にしないでほしかった。
前作までは、ほぼすべて時系列にそって描かれていた。
回想が入るのは、ジェシーがエミリーとの思い出を語るシーンとロッツォが持ち主と離別するところぐらいかな。それでも単純な回想にはせずに「今語っている」という形をとっていた。
あれも、観客が物語の世界から現実に引き戻されないための工夫だったのだろう。時系列順に描かれることで、「この物語はまさに今目の前で起こっている」かのような気持ちで見ることができる。
『4』ではその約束も壊されてしまった。観客は(数分前の)回想シーンを通して「これはしょせん作り物ですよ」という野暮な事実をつきつけられる。


そう、ありていにいえば「野暮」なのだ。すべてにおいて。
永遠の友情なんてありえない、おもちゃなんてしょせん替えの利くモノにすぎない、このお話はつくりもの。この映画は、いちいち現実を突きつけてくる。
そんなことはわかっている。わかってるけど、なんで金を払ってつまらない現実を見せられなきゃならんのか。こっちは夢を観にきてるのに。




不満ばかりになってしまった。
書く前は「『昔は良かった』ばかりだと老害くさくなるから、良かった点と悪かったとこを半々ぐらいで書こう」とおもっていたのに。

でも、そうなんだよ。観ているときはおもしろかったんだよ。観終わったときの感想も、少なくとも半分は「良かった」が占めていたんだよ。これはほんと。
ピクサー作品の中でも平均以上の出来だとおもうよ。

ただ、高級イタリアンの店に入ったら出されたのがサイゼリヤの料理だった、みたいな気持ちにはなるよね。
ええ、おいしいですよ。サイゼリヤ。ぼくは大好きですよ。
でも高級イタリアンで出されたら「サイゼリヤはおいしいからまいっかー!」とはならない。味の問題じゃない。

要するにまったくべつの物語を作りたいならトイ・ストーリーの看板掲げて商売すんじゃねえよ、ってことなんですよ。
『トイ・ストーリー4』という名前の映画をつくる以上は、壊しちゃいけない部分がある。なのにこの映画では深い考えもなくそこを踏みにじっている。


「おもちゃが動いてしゃべるけどトイ・ストーリーじゃない」物語を作ればよかったんだよ。それならなんの不満もない。
ジョジョとスティールボールランとジョジョリオンみたいに、設定だけ活かしてまったく別のキャラの物語にすればよかったのに。


願わくば、『5』をつくってウッディに「あの決断は失敗だった」と語らせてほしい。
それが、おもちゃを愛する少年だったぼくの願いだ。


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2019年4月1日月曜日

【映画感想】『のび太の月面探査記』

『のび太の月面探査記』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編劇場版シリーズ39作目。直木賞受賞作「鍵のない夢を見る」、ドラえもんのひみつ道具を各章のタイトルに起用した「凍りのくじら」などで知られる人気作家の辻村深月が、映画脚本に初挑戦し、月面を舞台にドラえもんとのび太たちの冒険を描いた。月面探査機がとらえた白い影がニュースとなり、それを「月のウサギだ」と主張したのび太は、周囲から笑われてしまう。そこで、ドラえもんのひみつ道具「異説クラブメンバーズバッジ」を使い、月の裏側にウサギ王国を作ることにしたのび太。そんなある日、不思議な転校生の少年ルカが現れ、のび太たちと一緒にウサギ王国に行くことになるのだが……。監督は「映画ドラえもん」シリーズを手がけるのは3作目となる八鍬新之介。ゲスト声優に広瀬アリス、柳楽優弥、吉田鋼太郎ら。

劇場にて、五歳の娘といっしょに鑑賞。

「娘といっしょにドラえもんの映画を観にくるのははじめてだな」とおもっていたけど、よく考えたら、ドラえもんの映画を劇場に観にいくこと自体はじめてだ。

子どもの頃、テレビでやっているのを観たり漫画版で読んだりしていたので、すっかりよく観ていた気になっていた。
1作目『のび太の恐竜』 ~14作目『のび太とブリキの迷宮』あたりまでは、読んだりテレビで観たりしていた。
そのへんでぼくが大きくなったのと、内容が説教くさくなってきたので、しばらく遠ざかっていた。
昨年、娘がドラえもんを楽しめるようになってきたので、AmazonPrimeで『のび太の南極カチコチ大冒険』を鑑賞。 「最近のドラえもん映画ってこんな複雑なストーリーなのか……」とおもった記憶がある。
(あと『緑の巨人伝』を観て「これはひどい……」とおもった)



さて、『のび太の月面探査記』である。
映画館の入場時に、特典グッズ(ドラえもんのチョロQ)をもらえる。子どもだけかとおもったいたらおっさんにももらえる。うれしい。
これこれ、子どもの頃こういうグッズほしかったんだよなー。テレビで予告編を観るたびにほしいとおもっていた。

べつにぼくのうちが貧しかったわけではないけど、田舎だったので映画館まで行くためにはバスと電車二本を乗りつがないといけなかった。だから基本的にぼくらの町の人間にとって映画というのはテレビかビデオで観るもので、そもそも「映画館に行く」という発想がなかった。

今回の『月面探査記』だが、原作が辻村深月氏だと聞いていたのでおもしろそうだとおもっていた(とはいえデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』が好きになれなかったのでそれ以降の作品は読んでないんだけど)。
『凍りのくじら』でドラえもんを扱っている人、という知識だけはあったので。読んでないけど。


映画の感想だけど、まず、「これドラえもんの映画にしてはむずかしくない?」とおもった。

[異説クラブメンバーズバッジ]という道具が出てきて、これが今回のキーアイテムになる。
というかほとんど他の道具が出てこない。他に目を惹くのは[エスパー帽]ぐらいで、あとは映画でおなじみの[どこでもドア][タケコプター][ひらりマント][空気砲][コエカタマリン]などで、使用にあたって説明すらされない。

[異説クラブメンバーズバッジ]がなかなかややこしい。
天動説やツチノコ生存説のように、異説として一定の支持のある説をマイクに吹きこむと、メンバーズバッジをつけている人たちにはその説が実現しているように見える、という道具。
ううむ、むずかしいね。
「異説として一定の支持がある説じゃないとダメ」「バッジをつけている人にしか共有されない」という制約があるので、なんでもやりたい放題&全人類に適用される[もしもボックス]の劣化版という感じの道具だね。

しかしこの制約がストーリー上重要なカギを握っている。特に終盤の大逆転は、[異説クラブメンバーズバッジ]によく似た道具が登場することで実現する。
が、[異説クラブメンバーズバッジ]がすでにわかりにくいのに(うちの五歳の娘はぜんぜんわかっていなかった)、それに似ているけど異なる効力を持つ道具が登場するので(しかも簡素な説明しかない)、「え? つまりどういうこと?」とおもっている間にどんどんストーリーが進んでしまう。
ラスボスとの戦闘中なのでくだくだ説明する時間がないんだろうけど、メインストーリーにからんでくる話なのでもう少しわかりやすく表現することはできなかったのかな……とおもってしまう。


また、今作には[カグヤ星][エスパル][エーテル][ムービット]という独自の概念がいくつか登場する。
[エスパル]は[カグヤ星]から脱出して千年前から月に住んでいた種族、[ムービット]は月に住んでいるがのび太たちが[異説クラブメンバーズバッジ]によってつくりだした種族。

のび太たち地球人を含めれば三種類の種族が月にいる(さらにカグヤ星にはカグヤ星人もいる)わけで、このへんもややこしい。


観終わった後で娘に「どんな話だった? おかあさんは観てないから、おかあさんにわかるように教えてあげて」と言ったところ、エピソードひとつひとつはちゃんとおぼえていたが、やはり「どういう種族がいて何のために戦ったのか」「[異説メンバーズクラブバッジ]がどういう役割を果たすのか」については理解できていなかった。



だがストーリーがこみいっているからといって、おもしろくないかというとそんなことはない。
娘は「おもしろかった! 来年も観にいきたい!」と言っていた。

細部はけっこう練っているし登場人物も多いが、
・のび太やジャイアンなどの主要キャラはきちんと自分に与えられた役割をこなしている。
・敵味方、善悪がはっきりしている。敵はいかにも邪悪な容貌・声をしている。
「悪人とおもったら実は善人」「悪人にも悪人なりの正義があり同情すべき点もある」といった多面性もほぼない。
・ストーリーの骨格は「仲間を守るために悪を助ける」というシンプルなものから大きく逸脱しない。

といったところはきちんと押さえられていて、だから五歳児が観ても(全部はわからなくても)楽しめるのだろう。
このへんはさすがドラえもん映画だ。



この映画の見どころのひとつは
「のび太たちが一度家に帰った後、さらわれた仲間を助けにいくために再結集する」というシーン。
ポスターにもなったシーンだ( https://corobuzz.com/archives/133477 )。

台詞はほとんどないが、「死をも覚悟して心の中で家族に別れを告げる」姿が胸を印象的だ。
特にスネ夫に関してはへたれであるがゆえにその葛藤も大きいであろうことが想像できて、より胸を打つ。

のび太やジャイアンは映画版だとやたらかっこいいが、スネ夫は映画でも臆病で保身的な人間として描かれる。
『のびたの恐竜』では、命の危険を背負ってでもピー助を故郷に送りとどけようとするのび太(とジャイアン)に対して、スネ夫はピー助をハンターに売りわたして自分たちの命を助けてもらおうとする。
のび太とジャイアンの男気が光るシーンだが、ぼくだったらスネ夫側につく。他者(しかも恐竜)を救うことよりも自分の身を守ることを真っ先に考える。ほとんどの人間はそうだろう。
じつはスネ夫がいちばん人間らしいキャラクターなんだよね。だからこそ『のび太の宇宙小戦争』で活躍するスネ夫にはぐっとくる。

『月面探査記』で、再集合の時刻にスネ夫だけは姿を現さない。
怖気づいてしまったのかという雰囲気が漂う中、ジャイアンが「もう少しだけ待ってみようぜ」と言う。
そこに現れるスネ夫。「前髪が決まらなくって」と言い訳。

このシーンが、いちばん好きだった。


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【DVD感想】『塔の上のラプンツェル』


2019年1月28日月曜日

【DVD鑑賞】『悪の教典』

『悪の教典』

(2012年)

内容(Amazon Prime Videoより)
「2010年ミステリーベスト10」、「このミステリーがすごい!2011」でともに第1位を獲得した貴志祐介原作『悪の教典』を、鬼才・三池崇史監督が映画化。高校教師・蓮実聖司は、自らの目的のためには、たとえ殺人でも厭わない。そして、いつしか周囲の人間を自由に操り、学校中を支配しつつあった。全てが順調に進んでいた矢先、小さな綻びから自らの失敗が露呈してしまう。それを隠滅するために考えた解決策は、クラスの生徒全員を惨殺することだった…。 『海猿』で人命救助の海上保安官を演じた伊藤英明が、他人への共感能力を全く持ち合わせていないサイコパスの人格を持つ高校教師・蓮実聖司を演じる。生徒役には『ヒミズ』で、ヴェネチア国際映画祭で日本人初となる新人俳優賞をW受賞した二階堂ふみと染谷将太。 

小説がおもしろかったので鑑賞。
やはり上下巻あるボリュームの小説を二時間の映画にするのは相当無理がある。数十人の登場人物がいる話だし。
ぼくは原作を読んでいたのでかろうじてついていけたが、そうでない人には何がなにやらわからないだろうな。
少なくともアメリカのエピソードなんかはカットでよかった。
また「屋上に避難するように」というアナウンスは入れながら、それが罠だという説明をしないのはあまりに不親切だ。表面だけ映像化しているからこういうことになる。


なにより残念なのが、後半の学校での大量殺戮シーン。
三文オペラの軽快な音楽に乗せて蓮見教師が生徒たちを次々に殺していくところはこの映画の最大の見どころだと思うし、じっさいよくできている。殺戮シーンにこういう表現が適当かどうかはわからないが、痛快で楽しかった。生徒たちが誰ひとり立ち向かおうとせずに逃げまどうだけなのはリアリティに欠けるが。

だがこのシーンだけを切り取れば名シーンといえなくもないが、残念ながらこの作品の中ではとんでもなく浮いてしまっている。
なぜなら、蓮見教師が「楽しんで」殺戮をくりかえしているように見えてしまうから。

原作小説を読んだ人ならわかると思うが、蓮見教師は快楽殺人者ではない。ただ単に他人に対する共感能力をまったくもたない人間(サイコパス)であり、彼にとって殺人は単なる手段であって快楽でもなければ苦役でもない。
我々が「客が来るから家を掃除しなきゃ。めんどくさいけど、でもどうせ掃除するなら好きな音楽でもかけながらやろう」と思うぐらいの感覚で、蓮見教師は殺人をする。

そこが彼のおそろしさであり魅力なのだから、ここは何がなんでも丁寧に描かなければならない。
楽しそうに見えてしまったら凡庸な快楽殺人者にしかならない。
他の些事には目をつむるが、この点のみが大いに残念。
主役・伊藤英明の演技は「共感能力からっぽのイケメン好青年」にぴったりですばらしかったけどね。

あっ、あとエンディングのEXILEはひどすぎて笑うしかなかった。いやEXILEが悪いわけじゃなくて、この映画に合わなさすぎて。
だって学校で数十人の生徒が惨殺されるという事件が起こった直後に流れる歌が
「もっとポジティヴになってLive your life♪」だよ? 笑わせようとしてるとしか思えない。

サイコパス・蓮見よりもこの映画の主題歌をEXILEにしようと思ったやつの考えのほうが怖いわ。

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【読書感想文】貴志 祐介 『悪の教典』



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2018年12月25日火曜日

【映画感想】『シュガー・ラッシュ:オンライン』

『シュガー・ラッシュ:オンライン』

内容(Disney Movieより)
 好奇心旺盛でワクワクすることが大好きな天才レーサーのヴァネロペと、ゲームの悪役だけど心優しいラルフ。大親友のふたりは、アーケード・ゲームの世界に暮らすキャラクター。
そんなふたりが、レースゲーム<シュガー・ラッシュ>の危機を救うため、インターネットの世界に飛び込んだ!そこは、何でもありで何でも叶う夢のような世界――。しかし、思いもよらない危険も潜んでいて、ふたりの冒険と友情は最大の危機に!? 
果たして<シュガー・ラッシュ>と彼らを待ち受ける驚くべき運命とは…。

(『シュガー・ラッシュ:オンライン』のネタバレを含みます)

劇場にて、五歳の娘といっしょに鑑賞。

うーん、おもしろかったかと訊かれたらまあおもしろかったんだけど、ぼくは好きじゃないな。
というかディズニーがこんなの作っちゃだめでしょと言いたくなる作品だった。

世俗的すぎるというか。いや、率直に言おう。低俗だ。
ゲームの世界を舞台にした前作『シュガーラッシュ』でも、「ん? これは子ども向けなのか?」と首をかしげてしまうシーンが多かったけど、今作はインターネットの世界が舞台ということでもっとひどい。

ポップアップ広告が出てきてクリックしするとあっという間にべつのWebサイトに連れていかれるとか、検索エンジンに単語(「バレエ」とか)を打ちこむとものすごい勢いで検索候補(「バレエ教室」「バレエシューズ」「バレエダンサー」とか)を出されるとか、「インターネットあるある」がそこかしこにちりばめられているんだけど、ぼくには理解できるけど五歳の娘はさっぱり理解できていなかった(パソコンやスマホをさわらせないようにしているので)。

あげくにラルフが動画投稿サイト「BuzzTube」に動画を投稿して金を稼いだり炎上したりするという展開は、あまりにも時代性が強すぎてたしなみがない。
いやディズニーにそういうの求めてないから。何年たっても変わらないおもしろさを期待してるから。

さらに、予告篇でも話題になったプリンセス大集合のシーン。
白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫、ポカホンタス、ムーラン、ジャスミン、アナ、エルサ、ラプンツェル、モアナ、メリダといったディズニーの歴代プリンセスが一堂に会してくっちゃべっている。
うちの娘はこれを観るために映画館に行ったようなものだ(プリンセスだけでなく、バズ・ライトイヤーやベイマックス、ニック・ワイルドといったキャラクターも出演している)。
ぼくも歴代プリンセス勢ぞろいに、「おおっ、豪華キャスト!」とテンションが上がった。
だが、その内容には失望した。

プリンセスたちが愚痴をこぼしたり、「プリンセスが夢を語るときはスポットライトが当たって歌いはじめるのよ」なんて台詞を当のプリンセスに言わせたり、メリダが話した後に他のキャラクターに「彼女だけべつのスタジオの制作だから」と言わせたり(『メリダとおそろしの森』はピクサースタジオ制作)。
とにかくセルフパロディや内輪ネタがひどい。
一時的なウケを狙いにいくあまり長い時間をかけて築いたブランドを棄損していることに気づいてんのかな(ちなみに劇場でもぜんぜんウケてなかった)。
もう一回言うけど、ディズニーにそういうの求めてないから

無関係の人が「ディズニーランドのキャラクターの中の人が……」と言う分にはおもしろくても、当のキャラクター自身が着ぐるみ脱いで「ほら着ぐるみでしたー!」ってやってもぜんぜんおもしろくない。
こっちはわかってて騙されてんのに、ディズニー自身がその夢を壊したらダメ。

ぼくは「宝くじなんて買えば買うほど損するだけだよ」という意見だけど、宝くじ売り場のおばちゃんがそれを口にしてはいけない。
それを言っちゃあおしめえよ、というやつだ。



何もディズニーに変わるなといっているわけではない。
逆説的だけど、ずっと同じように愛されるためには、ずっと同じでいてはいけない。
だが変わるということは、それまで築いてきたものを破壊することではない。古きを残しつつもその上に新しさを構築することだ。

『アナと雪の女王』があれだけヒットしたのは、「女性はすてきな男性に愛されることが幸せ」という古い価値観から脱却したことが大きな要因だろう。
だがアナやエルサという存在は、オーロラ姫やアリエルのような「王子様に守られるかよわいプリンセス」を否定しているわけではない。新しい価値観を提示しただけだ。
だからこそ、旧来のディズニーファンにも受けいれられたし、新たなファンを獲得することにもつながった。

『シュガーラッシュ・オンライン』も新しい価値観の提示に挑戦していた。
パーカーを着たプリンセスがいてもいい、危険なダウンタウンで命を賭けたカーレースに興じるプリンセスがいてもいい。
その試み自体はすごくよかった、だがヴァネロペというキャラクターの夢と対比させるために、歴代プリンセスを茶化す必要はなかった。
「女性がもっと働きやすい社会にしよう!」というメッセージ自体は大賛成だ。だが、専業主婦という存在まで否定すべきではない。



『シュガーラッシュ・オンライン』はおもしろかった。特にラストのプリンセスたちがそれぞれの強みを生かしてラルフを助けるシーンなんて最高だ。ディズニーファンなら昂奮することまちがいない。

だが、同時にディズニー史に残る失敗作でもある。
ディズニーにとってはこの映画によって得たものより失ったもののほうが大きかったんじゃないだろうか。長期的に考えれば特に。

一言でいうなら「悪ふざけが過ぎる」映画だった。ディズニーがまた迷走期に入らなきゃいいけど。


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2018年12月19日水曜日

【芸能鑑賞】『リメンバー・ミー』


『リメンバー・ミー』
(2018)

内容(Amazonプライムより)
家族に音楽を禁じられながらも、ミュージシャンを夢見るギターの天才少年ミゲル。ある日、彼はガイコツたちが楽しく暮らす、カラフルで美しい死者の国に迷い込んでしまう。日の出までに帰らないと、ミゲルの体は消えて永遠に家族と別れることに…。唯一の頼りは、陽気だけど孤独なガイコツのヘクター。だが、彼にも生きている家族に忘れられると、死者の国から存在が消えるという運命が…。絶体絶命のふたりと家族をつなぐ重要な鍵──それは、ミゲルが大好きな名曲リメンバー・ミーに隠されていた…。

ピクサーの真骨頂といってもいいような映画だった。
個性豊かな登場人物、ストーリーが進むにつれて明かされる真実、手に汗握るアクション、シンプルながら力強いメッセージ。どこを切り取ってもすばらしい。

ピクサーファンのぼくとしてはもっと早く観たかったのだが、五歳の娘に「これ観ようよ」と誘っても「やだ。プリンセスが出てくるやつがいい」と断られて、なかなか観ることができなかった。
そりゃあね。五歳の女の子からしたら『リトル・マーメイド』とか『眠れる森の美女』とかのほうがいいよね。ということで、そのへんの作品も観てもらった上で、「じゃあ次はいよいよ『リメンバー・ミー』ね」ということでようやく観させてもらった。



(ここからネタバレ)


いやあ、泣いたね。
中盤ぐらいで「たぶん最後はミゲルがママココといっしょに『リメンバー・ミー』を歌うんだろうな」と思って、その通りの展開になったんだけど、やっぱり泣いた。まんまとしてやられた、って感じだ。音楽の力って偉大だなあ。

序盤に
「祭壇に写真を飾られていないと死者の国から帰ってくることはできない」
「現世で誰からも忘れられたとき、死者の国で二度目の死を迎える」
というふたつのルールを自然な形で提示する。
そして中盤以降はその二つのルールが物語にいい制約を与え、ラストはこのルールが感動を生む。
ピクサーはほんとに物語作りがうまいよね。

最近「ラストに意外などんでん返し! あなたは伏線を見抜けるか?」みたいな小説や映画がよくあるけど、その手の物語はまあたいていつまらない。
伏線やトリックが読者を驚かせるためのものでしかないんだよね。驚かせたその先に何があるかが大事なのに。

その点『リメンバー・ミー』は、伏線の貼り方が巧みすぎて観終わった後でも伏線だったと気づかないぐらい。なんて上質な仕掛け。
しかも「観客をだますための仕掛け」自体は物語の中心に据えられていない。あくまで、メッセージを届けるための手段でしかない。

ミゲルが歌う『リメンバー・ミー』を聴きながらぼくは、自分が死んで数十年たった日のことに思いを馳せた。
自分が死に、娘が歳をとり、百歳の娘にも死期が迫る。そのとき、娘はぼくのことをおぼえていてくれるだろうか。ぼくと過ごした日のことをいまわの際に思いだしてくれるだろうか。

百年後のことまで想像させてくれる映画は、文句なしにいい映画だ。



ピクサー作品にははずれがない(『カーズ』を除く)。
だからこそこんな映画が作れたんだろう。

この設定を思いついたとしても、ふつうは金をかけてつくれない。
かわいいキャラは出てこないし、主人公もごくごくふつうの少年だし、行動を共にするのはガイコツだし、舞台は死者の国だし、とにかく地味だ。主人公の相棒も汚い野良犬だ。
とても客を呼べる設定ではない(現に、ぼくの娘はなかなか観ようとしなかった)。

それでもぼくが観ようと思ったのは、それがピクサー制作だから。信頼と安心のピクサーブランド。
そして見事に期待に応えてくれた。
名作ぞろいのピクサー作品の中でも、『トイ・ストーリー』シリーズ、『インクレディブル』シリーズの次に好きな映画になった。



ところで、この映画の舞台である死者の国には、
「現世の誰からも忘れられたら消える」
「死んだときの年齢で死者の国にやってくる」
という設定があるが、この世界は現世以上に少子高齢化がすごいだろうな。

医学の発達によって若い人はどんどん死ななくなっていて、死ぬのは年寄りばかり。おまけに子どもは忘れられて死者の国から消えるのも早い(子孫がいないから)。

じっさいにこの設定の死者の国があったら、年寄りであふれかえっていて目も当てられない状況かもしれないな。

戦争があったら一気に死者の国も若返るんだろうけど。


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【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』

【芸能鑑賞】 『インサイド ヘッド』


2018年9月25日火曜日

キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて


コントという表現手法が持つ強みについて。
単純に「短時間に大きな笑いをとる」という点においては、コントはあまり強くない。
状況説明に時間がかかるし、芝居の設定が乗っているから登場人物のとれる行動に制約がある。使える言葉もかぎられる。

「短時間に大きな笑いをとる」という点で考えれば、漫才のほうがずっと向いている。
キングオブコントがテレビ番組としていまいち成功していない理由もそこにある。老若男女いろんな人が観る、途中から観る人もいる、集中して観る人ばかりではない。そういうテレビの特質には、きちんと作りこまれたコントはあまり向いていない。「一分で笑える爆笑ネタ!」みたいなののほうがよほどテレビ向きだ。
(だからキングオブコントはテレビスタジオではなくどこかの劇場で客を入れてやって、それを中継する形のほうがいいと個人的に思う)

ではコントの強みがどこにあるかというと、多様な感情を引き起こすのに向いている点だ。

笑わせるのはもちろん、悲しさ、哀れさ、気まずさ、怖さ、いらだち、とまどい。さまざまな感情を我々はコントの登場人物を通して感じとることができる。
ただ「笑える」だけなら漫才のほうが向いている。
ぼくがコントを観るときは、そこに「感情を揺さぶってくれるもの」があることを期待して鑑賞する。今風の言葉で言うなら「エモさ」があるかどうか、ということになるだろう(おっさんが無理して使ってみたので使い方があってるかどうかはしらない)。



前置きが長くなったが『キングオブコント2018』の感想。
審査についてはいろいろ言いたいこともあるけど、ここではコントの中身だけ。

やさしいズ


会社の待遇に不服をおぼえる男が会社のビルを爆破しようと深夜のオフィスに忍び込むが、清掃のアルバイトが現れ……。

登場人物のコントラストが効いていたり、ストーリーに起伏があるところなど、いいコントだったと思う。アルバイト役が、ちゃんと「工業高校出て清掃バイトしてるやつ」の風貌をしていたのがすごく良かった。
不穏な空気の冒頭から、能天気だけどポジティブなアルバイトとの会話を通して爆破犯が徐々に心を開いていく様は、まさにやさしいコントだった。
ただ残念ながら、爆破犯役の芝居がうまくなかった。一生懸命演じているのが伝わってしまう。彼がもっと緊張感のある演技をできていたら、その後の展開への落差も大きくなって笑いも増えただろうに。
いきなり「あとは起爆スイッチを押せばビル中にしかけた爆弾が爆発して……」の説明くさい独白から入ったら、緊張感もなにもあったもんじゃないよね。
自然な会話から設定を観客に伝えることができていれば、もっと入りこめたんだけどな。


マヂカルラブリー


コンビニで自分の傘を探していたら、傘を盗もうとしていると疑われる……という日常のとるにたらない出来事がひたすらループする、というコント。

タイムループもののパロディ的なコントなのだが、はたしてパロディになっているのか?
タイムループものの作品は多いが、乾くるみ『リピート』も北村薫『ターン』もアニメ『時をかける少女』も映画『サマータイムマシンブルース』も、わりとどうでもいい日常、しょうもない理由でループしてるんだよね。
「こんなとこじゃなくない?」といわれても、「いや、"こんなとこ"をおもしろく見せるのが腕の見せ所なんじゃないの?」と思ってしまう。

ただ途中から「おじさんもループしている」ことが明らかになって話がどんどん転がっていくあたりはおもしろかった。
「信じたくなくて逆に強くあたってしまった」という妙に説得力のあるセリフや、「この世界はおじさんの夢の中」という不気味さがすごく好き。
タイムループに巻きこまれる怖さを上回る、「あぶないおじさん」の怖さ。ここをもっと前面に出してほしかったな。


ハナコ


犬を演じる、という以外に説明のしようのないコント。

このトリオのコントは以前にも何本か観たことがあったが、これはその中でもとびぬけてつまらなかった。キングオブコント史上もっともおもしろみのないコントのといってもいいぐらい。

ぼくも犬を飼っていたので「あー、あるある」とは思ったが、ただそれだけ。
犬の感情を描くといううっすらとしたユーモアがひたすら続く。NHKの「LIFE!」でやっててもおかしくないぐらい平和なコント(悪い意味で)。
三人目が登場したところで新たな展開があるのかと思いきや、何も起きない。最後に意外な事実が明らかになるのかと思いきや、やはり何にも起きない。
とうとう最後まで「うちの犬もこうだったわ。なつかしい」以外の感情を動かされることはなかった。
これだったら昔セコムがやってたおじさんが犬を演じるCMのほうがずっとおもしろかった。


さらば青春の光


予備校の生徒に対して、熱い言葉で勉強の大切さを説く講師風の男。ところが彼は授業をせず、説教だけをすると他の講師にバトンタッチして教室から出ていく。どうやら「鼓舞する人」という名目で雇われているらしく……。

「感情を揺さぶってくれるもの」という点で、今大会もっとも好きなコントだった。悲哀や憐憫、プライドが折れる様などを短時間でしっかりと表現していた。テレビ審査では明るくハッピーなストーリーが好まれるようだが、劇場でやったらこれが一番になっていたんじゃないかな。

とはいえこの底意地の悪い着眼点のコントが決勝に行けなかった理由は会場の空気にあわなかっただけではない。無駄な演出が多かった。
まず冒頭で講師風の男が生徒に説教をかましているシーン。あの現場に本物の講師がいないほうが良かった。二人いることに違和感があったから、あれでぼくは「こっちが本物の講師かな」と思ってしまった。そのせいで「では先生、お願いします」の衝撃が小さくなった。

また説明過剰だった点も後半勢いづかなかった理由だろう。本物の講師が「あの人は鼓舞する人や」という台詞はまったくの無駄だった。あの説明がなくても観客にはだいたいわかる。
講師が「鼓舞する人」を見下してることもはっきり口に出さずに伝えてほしかった。言葉に出さずに感じさせるのが芝居だし、それができる演技力を持っているコンビなのだから。
チョコレートプラネットの一本目やハナコの二本目は、説明をばっさりと省いて成功した。
さらば青春の光も、もっと観客の想像力に委ねる大胆さがあればパーフェクトなコントになっただろうと思うと残念でならない。


だーりんず


居酒屋で会社の後輩と出会った先輩が、こっそり後輩の分の勘定を済ませてやろうとする。ところが店員に意図がうまく伝わらず、思っていたようにスマートに感情をすることができない……。

ネタは良かった。ありそうなシチュエーション、誰もが持っている些細な見栄、慣れない人がかっこつけようとした結果かっこ悪くなってしまうというコミカルさ。
派手な動きはないが、繊細な心の動きが丁寧に描かれていて、もっと見たいと思わせてくれた。
ただ緊張からか、やりとりのぎこちなさが感じられた。ほんの少しなのだが、コントにおいてはそのわずかなぎこちなさが致命的となる。
これを東京03が演じたらめちゃくちゃおもしろいコントになったんだろうなあ。かっこつけたい角田先輩、めんどくさそうにする飯塚店員、空気を読まない豊本後輩とかでカバーしてほしい。


チョコレートプラネット


見知らぬ部屋で目を覚ました男。首には不気味な装置がつながれ、モニター画面では覆面男が「今からゲームをしてもらう……」という説明をはじめる。ところがつながれた男はパニックになってしまい、ゲームの説明をまったく聞こうとしない……。

前半部分は以前にも見たことがあった。しかしあれがおもしろいのは二分ぐらいまでだろうと思っていたら、謎のにおい、謎の装置、仕掛人登場、新たな仕掛人の存在と新たな展開を見せてちゃんと長尺に耐えられるネタに仕上がっていた。
いやあ、おもしろかった。『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム風の冒頭から、ひたすら叫びつづけるばかばかしい展開へ。「においは知らない!」は笑った。
恐怖の象徴のような覆面男がだんだんかわいそうになってくるのがいい。

じっさいにデス・ゲームをしようとしたらこういうことになるかもしれないと思わせてくれるリアリティがあった。フィクションではみんなおとなしくルールを聞いてルールにしたがってゲームを始めるけど、現実にはなかなかゲームが進まないんじゃないかな。

欠点を挙げるとすれば、覆面男の声が聞き取りづらかったこと。
あと覆面男の名字が「鈴木」というのはいただけない。名字がベタすぎておもしろくない。「橋本」とか「川谷」とか「石原」ぐらいの名字にしたほうがいいと思う。そこそこメジャーで、四文字の名字のほうがいいな。「群馬!」のところも「前橋!」とか「大宮!」ぐらいのほうがおもしろかったような。
とはいえ、ストーリーが動きながらも前半から最後までずっと笑いが起きつづける展開で、文句なしの一位。


GAG


同級生が居酒屋でアルバイトをしていることに驚く、進学校の生徒。大人のお姉さんの性的魅力に翻弄される少年たち……。

いつの間にかGAG少年楽団から改名してたんだね。「GAG」と「少年楽団」のうち、ダサい方を残しちゃったなあ。
そういや今大会の出場者、名前ダサすぎじゃない? だーりんずもマヂカルラブリーもわらふぢなるおもやさしいズもさらば青春の光もダサい。わざとダサさを狙ったのかもしれないけど、これだけ並ぶと一周半してやはりダサい。まあ名前のダサさではバイきんぐの右に出るものはいないけど。

ボケらしいボケもなく、ふたりの関係性に対するツッコミの視点のみで笑いを取りにいくという姿勢は評価したい。トリオならではだね。
ただしツッコミ役は芝居の中にいながらメタな視点での台詞を入れることになるため、芝居としてのリアリティは完全に壊れてしまう。
それはそれでありだけど、フレーズのひとつひとつが丁寧すぎて、一生懸命考えたなというのが伝わってしまう。舞台裏が見えてしまうのは芝居としてマイナスにしかならない。ぼくたちの努力の結晶です、笑ってくださいと言われても笑えないよね。

とはいえGAG史上最高に良かった。
男子高校生の青くささがびんびんと伝わってきて、村上龍の名作『69』のような味わいがあった。


わらふぢなるお


新しく入ったコンビニのバイトと店長がレジに立つ。ただしバイトにはわかりきったことをいちいち訊く「カラ質問」が多く、店長は次第にいらついてくる……。

人をいらつかせるキャラクター、よく練られた会話、おもしろかった。おもしろかったけど……。
芝居として見るといろいろとものたりない。動きがないこともあるし、「このシーンに至る前」の作りこみが甘いことも不満だ。
「レジの業務をひととおり教えた後」という設定だが、レジの業務を教えている間はカラ質問をしなかったのだろうか? 説明を終えた途端にカラ質問をするようになったのだろうか? だとしたらなぜ?

人生の一部を切り取ったコントではなく、コントのための人生を送っているキャラクターなんだよね。昨年のネタもそうだったし、二本目に演じたネタはもっとひどかった。このコンビのコントは「芸人のコント」なんだよなあ。ぼくは笑える「芝居」が観たい。


ロビンフット


結婚することになった中年男性とその父親。ところが男性は、妻となる女性の年齢を知らないという。わかっているのは干支だけ。たぶん三十六歳だと男は言うが、よくよく話を聞いてみると……。

「年齢がわからず戌年ということだけわかっている」という設定であればこうなるだろうな、という予想通りに話は展開していくが、そのシンプルさがむしろ心地いい。
とはいえこういうコンテストで観たいのは新しい切り口なので、ベテランがベテランっぽいネタをやってもそりゃあ優勝はできないよね。
どんどん年齢が上がってくるのはおもしろいが、そうなると序盤で語っていた「26の子どもがいる」「50ぐらいに見える」という設定が少し苦しくなってくる。その苦しさを強引に押しきるほどのパワーはなかったな。


ザ・ギース


物に触れるだけでそれを使っていた人物の思念を読みとることのできるサイコメトラーの少年。殺人事件の捜査のために遺留品に触れるが、見えてくるのは製造工程ばかり……。

シュールな発想の一点突破ネタで、さすがに五分はきつい。中だるみ感は否めなかった。
終盤の「身近にいる捜査協力者だと思ってた人が犯人」という展開もわりとよくあるやつで、そこまでの意外性はなかった。
さすがはメイドインジャパン、中国製はイマイチ、といった台詞も今の時代にあってなくて笑いにつながらず。

ところで、マヂカルラブリー、チョコレートプラネットといい、ずいぶんSF・サスペンス的なネタが多い。そこまでド定番なネタではないと思うのだが、SFに明るくない人はすっと設定に入れるのだろうか?


決勝戦


うーん、どれも感想を書きたいネタではなかったので省略。



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キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


2018年9月10日月曜日

【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』

『勝手にふるえてろ』

(2017年)

内容(Amazon Prime Videoより)
24歳のOLヨシカは中学の同級生"イチ"へ10年間片思い中!過去のイチとの思い出を召喚したり、趣味である絶滅した動物について夜通し調べたり、博物館からアンモナイトを払い下げてもらったりと、1人忙しい毎日。そんなヨシカの前へ会社の同期で熱烈に愛してくれる"リアル恋愛"の彼氏"ニ"が突如現れた!!「人生初告られた!」とテンションがあがるも、いまいちニとの関係に乗り切れないヨシカ。"脳内片思い"と"リアル恋愛"の2人の彼氏、理想と現実、どちらも欲しいし、どっちも欲しくない…恋愛に臆病で、片思い経験しかないヨシカが、もがき、苦しみながら本当の自分を解き放つ!!

友人から勧められての鑑賞。
綿矢りさの同名小説の映画化。

おもしろかった。全員ヘンな登場人物、クレイジーな疾走感、ばかばかしいセリフまわし、なにより主役の松岡茉優の演技が光っている(ただちょっとかわいすぎる。このキャラクターならもっとダサい恰好、ダサいメイクをしててほしい)。
偏執的、オタク、人見知り、攻撃的、ナイーブ、メルヘンチック。困った部分を寄せ集めたようなキャラクターをうまく演じている。
突然のミュージカルパートも最高(歌がすごくうまいわけでもないのがまたリアルでいい)。

主人公は、周囲の人間に勝手なあだ名をつけていたり、ずっと片思いをしている男に接近するために興味ない男から言い寄られたときの手口をまんま使ったり、SNSで他人になりすましたり、好きじゃない男から告白されて舞いあがったり、なんつうか「賢い人がバカやってる」感がたまらない。

かと思ったらちょっとしたことで傷つく中学生のような繊細さを持っている。他人のことは平気で攻撃するくせに自分がちょっと傷ついたら大げさに騒ぎたてる。他人に対して成熟したコミュニケーションがとれない、ほんとにめんどくさい女だ。

でもそういうところがすごく魅力的だ。誰の心にもあるガキンチョな部分を具現化したような存在。こんなふうに生きられたらいいだろうな、いややっぱり嫌だな。
ぼくも昔、こういうタイプの女性と仲良くしていたことがあるが、やはり付きあいきれずに離れてしまった。遠目に見ている分には魅力的なんだけどね。でもその身勝手さを受け入れられるだけの度量の大きさはぼくにはなかった。



映像自体にトリックが仕掛けてあって、これまでのあれやこれが実は××だったということが明らかになるのだが(ネタバレのため伏字)、この種明かしをラストに持ってこないところがいい。
「ラストのどんでん返し!」みたいな安易な展開はいらない。そういうのつまらないから。さりげなくやるのがいいんだよね。「驚愕のラストがあなたを待ち受ける!」みたいに書かれたらぜったいに驚愕しない。

テンポの良さもあって序盤から最後までまったく退屈しなかったのだが、ラストで想定内の場所に着地してしまったのは少し残念。ここまでぶっとんだ話をつくるんならもっと思いきったラストでもよかったんじゃないかと思う。まあそれは原作の問題か。

安野モヨコ『ハッピー・マニア』を思いだした。『ハッピー・マニア』のカヨコを内向的にしたらこんな感じだろうな。
どこまでも自分のためにつっぱしる姿って、女性作者とよく合う。男が描いたらもっと周囲を気にしてかっこつけちゃうだろうなあ。

煩悩のままにつっぱしる女性はただただまぶしい。自分ができないからこそ。やりたくないからこそ。


2018年9月3日月曜日

【DVD感想】『アヒルと鴨のコインロッカー』


『アヒルと鴨のコインロッカー』

(2006年)

内容(Amazon Prime Videoより)
大学入学のために単身仙台に引っ越してきた19歳の椎名(濱田岳)はアパートに引っ越してきたその日、奇妙な隣人・河崎(瑛太)に出会う。彼は初対面だというのにいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的はたった一冊の広辞苑。そして彼は2年前に起こった、彼の元カノの琴美(関めぐみ)とブータン人留学生と美人ペットショップ店長・麗子(大塚寧々)にまつわる出来事を語りだす。過去の物語と現在の物語が交錯する中、すべてが明らかになった時、椎名が見たおかしくて切ない真実とは・・・。

注意:この記事は、小説及び映画『アヒルと鴨のコインロッカー』のネタバレを盛大に含みます。



伊坂幸太郎の同名小説の映画化。

原作を読んだ人ならわかると思うが、原作の大きな要素として叙述トリックが占めており、「はたしてこれをどうやって映像化するのか?」という点が気になった。

ネタバレをするが、小説『アヒルと鴨のコインロッカー』には河崎という男が出てくる。
この河崎という男が主人公に語る話の中に、たびたびブータン人が登場する。
ところが後になって、河崎はすでに死んでいることがわかる。河崎と名乗った男こそがブータン人だったのだ。

単純な入れ替えトリックだが「日本に来て数年の外国人が日本人に成りすますのは不可能」という思いこみがあるせいで読者は気づきにくい。
この入れ替えトリックが小説『アヒルと鴨のコインロッカー』の肝である。


じつはAとBが同一人物だった。
文章ならこの一行で済むトリックも、映像で表現するのは至難の業だ。なぜなら顔が一緒であれば見ている側は同一人物であることに一瞬で気づいてしまうのだから。
だからこそ「映像化不可能」と言われていたのであり、はたして監督はこの部分をいかに料理したのか――。



結論から書くと、最低の手法だった。

映画『アヒルと鴨のコインロッカー』には回想シーンがたびたび出てくる。
そこに登場する「今の河崎」と「回想シーンに出てくるブータン人」はまったく別の役者が演じている。本当は同一人物であるにもかかわらず、べつの役者が演じているのだ。

嘘じゃん。

いや、嘘をつくことがだめなわけではない。
登場人物の台詞としてであれば、どれだけ嘘が語られてもかまわない。
だが映像で嘘をついてはいけない。小説でいえば、台詞や独白は嘘でもいいが、地の文(状況描写)が嘘であってはならない。それはフィクションとして最低限の"お作法"だ。ここを破ったらなんでもありになってしまう。
こんなのはトリックでもなんでもない。ただのインチキだ。
ルール内で観客をだますから「だまされた!」と気持ちよく叫ぶことができるのであって、ルール無視でだまされたって楽しくもなんともない。ポーカーはルール内で駆け引きをするのがおもしろいのであって、イカサマトランプを使うやつは出入り禁止にするべきだ。

過去に原作を読んでいたぼくは回想シーンで別人が登場してきた時点で「ひでえ!」と叫んでまともに観るのを放棄したが、知らずに観てた人はかわいそうだ。
たとえば「自称河崎が人形劇仕立てで過去のエピソードを語る」みたいな説明方法にすれば、ルールを破ることなく(嘘の)回想シーンを描くことができただろうに。
あまりにもお粗末。知恵がないなら映像化困難な作品を映像化するなと言いたい。

余計な音楽がなくかなり原作の雰囲気を忠実に再現できていたのに、たったひとつの致命的なルール違反のせいで映画全体が台無しになっていたのがもったいない。

あと琴美ちゃんはかなりおバカさんだよね。
ことごとく殺してくれと言わんばかりの愚行を犯してたら、そりゃ殺されるぜ。あまりにおバカな殺され方をしたせいで悲劇性が薄れてしまったのも残念。
変にかっこよく描こうとしたせいでかえってバカみたいになっちゃった。


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【DVD感想】『カラスの親指』


2018年8月18日土曜日

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』


『インクレディブル・ファミリー』

内容(Disney Movieより)
 悪と戦い、人々を守ってきたヒーローたち。だが、その驚異的なパワーに非難の声が高まり、彼らはその活動を禁じられていた……。
 そんなある日、かつてヒーロー界のスターだったボブとその家族のもとに、復活をかけたミッションが舞い込む。だがミッションを任されたのは――なんと妻のヘレンだった!留守を預かることになった伝説の元ヒーロー、ボブは、慣れない家事・育児に悪戦苦闘。しかも、赤ちゃんジャック・ジャックの驚きのスーパーパワーが覚醒し……。
 一方、ミッション遂行中のヘレンは“ある事件”と遭遇する。そこには、全世界を恐怖に陥れる陰謀が!ヘレンの身にも危険が迫る!果たして、ボブたちヒーロー家族と世界の運命は!?

(『インクレディブル・ファミリー』および『Mr.インクレディブル』のネタバレを含みます)

『インクレディブル・ファミリー』を劇場にて鑑賞。映画館に行くのは数年ぶり。娘が生まれてから遠ざかっていたのだけれど、娘も長めの映画を楽しめるようになってきたので一緒に鑑賞。五歳児も楽しんでいた。

ぼくはピクサーの作品はほとんど観たのだが、その中でも『Mr.インクレディブル』は『トイ・ストーリー』シリーズに次いで好きだ。
なにがいいって、わざとらしく感動を狙いにいってないのがいい。お涙ちょうだいだけが感動じゃないということをピクサーはよくわかっている。

そんな『Mr.インクレディブル』の続編、『インクレディブル・ファミリー』。
たいてい続編って一作目の数年後から物語からはじまるものだが、『インクレディブル・ファミリー』は『Mr.インクレディブル』の一秒後からはじまる。ほんとに続編。連続して見てもほとんど違和感がないだろう。

ただテイストは一作目とはけっこう異なる。エンタテインメントに大きく舵を切ったな、という印象。
『Mr.インクレディブル』は「スーパーヒーローの悲哀」というユニークなテーマを丁寧に描いているしストーリーもよくできているんだけど、ピクサーシリーズの中ではいまひとつ人気がない。かわいいキャラクターも出てこないし、主人公は腹の出た中年男だし(途中で腹をひっこめるけど)、子ども受けする要素が少ない。
子どもにはカーズとかニモのほうがウケがいいんだろうね。

そのへんが課題としてあったのか、『インクレディブル・ファミリー』はアクションシーン多め、暗いシーン少なめ、ギャグ多め、子どもが活躍、赤ちゃんも活躍、派手なキャラクター多め、かっちょいいバイクや車が登場……と、これでもかってぐらい子どもに照準を合わせにいっている。音楽は一作目に続いてかっこいい。
主人公であるボブの心情も描かれているが、『ファミリー』で描かれるそれは「育児が思うようにいかないお父さんの苦悩」と、子どもにも理解しやすい。
『Mr.』で描写されていたような「時代の変化についていけずにかつての栄光を忘れられない中年男の悲哀」のような重苦しく大人の観客の心にのしかかってくるようなものではない。


個人的な好みでいえば『Mr.』のほうが好きなテーマだが、観ていて爽快感があったのは『ファミリー』だった。
『Mr.』では、助けてあげた相手から訴訟を起こされたり、パワーを押さえないといけなかったり、まったく意義の見いだせない仕事で成果を出せなかったり、持って生まれた能力のせいで家族がぎくしゃくしたり、かつて自分を慕ってきた男に苦しめられたりと、なんとも気が滅入る展開が多かった。
その分後半の活劇ではカタルシスが得られるのだが、後半のスッキリ感に比べて前半の鬱屈した展開が長すぎたように思う。

主人公ボブは悪役シンドロームと戦うのだがそれ以上に「世間」と戦っていた。シンドロームには最終的に勝利するのだが、当然ながら世間には勝つことはできない。そのあたりが最後までいまいちスッキリしない理由だったように思う。

『ファミリー』の戦いは誰にも認められない戦いではなく、世の中を味方につける戦いだ。
悪は罪のない人々に危害を及ぼそうとするものであり、主人公一家の戦いは人々や家族を守るための戦いだ。こんなに善なるものがあるだろうか。観客は心から喝采を送ることができる。

続編が作られる作品の場合、一作目は設定を活かしたシンプルなストーリーで二作目はこみいったストーリーという作品が多い。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のように。
ところがインクレディブルシリーズは逆。社会との軋轢や内面の葛藤を描いた一作目から単純明快なアクションドラマに還ることで、一作目の分のモヤモヤまで吹き飛ばすような痛快作品になった。冒頭に「続けて観ても違和感がない」と書いたが、ほんとに『Mr.』と『ファミリー』ふたつでひとつの作品と考えてもいいかもしれない。『Mr.』だけだといまいちスッキリしないんだよね。



『ファミリー』は前作よりもアクションシーン多めの作品だが、ひとりだけアクションシーンが大幅に減っている人物がいる。主人公のMr.インクレディブルだ。

冒頭こそ奮闘するものの結局犯人を取り逃し、その後はほとんどスーパーヒーローとしての活躍の機会は与えられない。
状況打破の機会を与えられてその期待に応えるのは一家のママであるイラスティガールで、敵に囲まれた子どもたちを助けに向かうのは親友フロゾン。Mr.インクレディブルはママを助けに向かうものの何もできぬままあっさり捕まり、子どもたちに助けてもらう始末。最後に敵をぶちのめすのはやはりイラスティガールだ。
パパの役目は「ママが戦う間に家事や育児をする」「ママが戦っている間に市民の安全を守る」というサポート役。

このあたりにも時代性が感じられておもしろい。
Mr.インクレディブルは強いが、他のスーパーヒーローたちとは違いこれといった特殊能力は持っていない。ただ力が強くて打たれ強いという時代遅れのパワー型。
昨今の主人公にはふさわしくない。今どきの少年漫画で「ただ強いだけ」の主人公がどれだけいるだろう。彼らが主人公でいられた時代は『ドラゴンボール』の最終回とともに終わってしまったのだ。

ただ強いだけのヒーローであるがゆえにMr.インクレディブルが作中で世の中から受け入れられず、使いづらいキャラクターとして制作者からも隅に追いやられてしまった。それは「家族の主役でなくなった父親」という姿にぴったり重なる。
男たちは「女は家事、男は外で仕事」といって仕事がたいへんなふりをしてきたけれど、女性が社会進出するにしたがって「効率化すれば仕事はそうたいへんでもない」ということがバレてきた。少なくとも男のほうがうまくできるわけではないということにみんな気づいてしまった。
狩猟生活を送っているうちはでかい顔をできていたのに、社会が機械化されるにしたがって「ただ強いだけの男」は役立たずになった。『ドラゴンボール』の孫悟空が、地球の危機は救うが家庭においては金は稼げないし家事も育児もまるでだめというポンコツっぷりをさらしていたことも象徴的だ。
「勇猛果敢で強いやつ」は平和な世の中には必要ないのだ。

スーパーヒーローとしての華々しい活躍の場が失われただけでなく家庭内での居場所も懸命に模索するMr.インクレディブルの姿は、居場所を失いつつある男性全体を象徴しているようにも見える。
ついでに悪役・スクリーンスレイバーの正体もやはりまた、これまでの男性の社会的ロールを奪うものだ。



時代の変化をなかなか受け入れられないMr.インクレディブルとは対照的に、スーパーヒーロー時代からの旧友であるフロゾンは前作以上の活躍を見せる。彼は「もうヒーローは必要とされていない」という状況をあっさり受け入れているし、その状況の中で自らができることとやってはいけないことを冷静に判断している。
時代の変化と己の立ち位置を把握できる人間はいつだって強い。遺伝生物学の世界では「強い生物とは、力が強い生物でも身体が大きい生物でもなく、変化に適応できたもの」とされているが、スーパーヒーローの条件もまた同じかもしれない。

そんなクールかつクレバーなフロゾンが我が身の危険をかえりみずに友人の子どもたちを助けに行く姿にしびれる。
フロゾン、かっこいいぜ。氷をつくりだす能力、水分がなくなるとエネルギー切れを起こすという制約(前作で見せていた)、冷静さと熱さをあわせもった性格。彼こそが今の時代の主人公向きなんじゃないだろうか。フロゾンを主役に据えたスピンオフ作品も観てみたいなあ。
しかしシニカルな立ち位置といい、恐妻家なところといい、見た目といい、アナゴさんにちょっと似ているよね。



全体的にスカッとする話だったのだが、引っかかったところがひとつだけ。
『Mr.』のラストで街を襲い『ファミリー』の冒頭で銀行強盗に成功して逃げる悪役・アンダーマイナー(モグラみたいなやつ)。
最後にあいつが捕まるんだろうなーと思いながら観ていたら、とうとう最後まで捕まらずじまいだった。ううむ、モヤモヤする。これは伏線の回収忘れなのか、はたまた三作目へとつながる伏線なのか……。


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【芸能鑑賞】 『インサイド ヘッド』



2018年8月9日木曜日

【DVD感想】バカリズムライブ『ぎ』


バカリズムライブ『ぎ』

内容紹介(Amazonより)
脚本やCM、ナレーションなど様々な分野でマルチな才能を発揮するピン芸人・バカリズムが、5月に赤坂・草月ホールで行った単独ライブを映像化。作、主演、演出だけでなく作詞までも自身で手掛け、独自の感性で作り上げた最新ネタを披露する。


・オープニング


『ぎ』というライブタイトルについての語り。
『ぎ』ではなく他の文字でもよかった、ただし『ぬ』はだめだ、あえてマニアックな文字を選ぶセンスのアピールがダサいから、しかし『の』は優しい、と独特の主張をおこなうバカリズム。トークから「バカリズムライブを擬人化する」というメタな構成のひとり芝居につながってゆき……。

『ぬ』や『ぺ』や『あ』はタイトルにふさわしくないという主張、論理的に説明できないけど感覚的にはよくわかる。たしかに『ぬ』だったら狙いが見え透いていてダサいよね。
はじめて「ゆず」というアーティスト名を知ったときに「うわあ、あえてかっこよさを目指してませんよっていうアピールが透けて見えてかえってダサいなあ」と感じたのを思いだした。


・(オープニングアニメーション)


「ぎ」の文字が流れてゆく映像と「ぎ」だけの歌詞の歌が流れるアニメーション。


・『過ぎてゆく時間の中で』


余命を教えてくれ、もう覚悟はできているからと医者に懇願する患者。
意外な余命を告げられ、残された時間の中で何ができるかと慌てだし……。
「大型連休の話じゃないですよね?」
「茹で時間の話じゃないですよね?」

演技力の高さが光るコント。コントというより喜劇といったほうがいいかもしれない。芝居として見入ってしまった。


・(幕間アニメーション)『ギガ』


電器屋に「溶けるスマホ」を探しにきた客と店員のやりとり。


・『難儀と律儀』


レストランにてひたすら長いメニューを注文する客。

これはちょっとイマイチだったなあ。幕間映像でもよかったような。


・(幕間アニメーション)『銀』


地球外生命体にしか見えない友人の告白「じつは他の……」


・『ふしぎ』


某テレビ番組のカメラリハーサル中に、「草野」役のスタッフが「黒柳」役や「まことくん」役のスタッフを叱りはじめる。

コントの仕掛けとしてはシンプルだが「足のくさいホランさん」「金に汚いLiLiCoさん」といったフレーズや、某番組のテーマ曲の使い方が絶妙。


・(幕間アニメーション)『卒業』


なにかになることが夢だと語る青年。
「どこかの誰かが何者かになにかされてどうにかなっちゃうの」


・『の?』


今回のライブでを唯一「ぎ」がつかないコント。
のんが、ぬンターネット、にソコン、ぬレステ4のある「のんが喫茶」が舞台。

うーん、次の展開がほしかったな。これは期待はずれ。


・(幕間アニメーション)『律儀』


区役所への行き方を尋ねる、区役所というあだ名をつけられる方法を尋ねられる……。


・『六本木の女王』


どMの男がデリバリー女王様を呼んだら、なぜか中年の男がやってきて……。

これは好きなコント。いい発想だなあ。「村上春樹」という小道具も絶妙。品のある中年男性にふさわしいチョイスだよね。


・(幕間アニメーション)『疑惑の螺旋』


日曜の朝にテレビ局がしゃあなしでやっているような番組『月刊テレビ批判』。とあるサスペンス番組に寄せられた苦情を紹介する。


・『志望遊戯』


高校の三者面談。靴屋になりたいという生徒に進学を勧めるために「じゃあちょっと靴屋やってみよっか」と提案し……。

漫才コントの定番導入である「じゃあちょっとやってみよっか。おれが〇〇やるからおまえは……」のパロディ。安い芝居をする芸人への皮肉が込められていてにやりとさせられる。たしかにプロなら「ウイーン」はそろそろ終わりにしないといけないよね。
今回いちばん笑いの多かったコント。
お母さんがボケだしたときの担任のうれしさを隠しきれない顔がたまらない。


・(幕間アニメーション)『疑い男疑う』


カフェで彼女と話す疑り深い男。


・『疑、義、儀』


恋人が親に決められた婚約者と結婚することになった男。披露宴に乗りこんで花嫁を略奪しようかと思うがよく考えてみると……。

彼氏、花嫁、花婿それぞれの思惑が錯綜する様子を描いた、パワーポイントあり、歌あり、芝居ありのスケールの大きな(?)コント。
少しカッチリしすぎているコントだが、随所にばかばかしさをとりいれて頭でっかちな印象になりすぎないようにうまく調整されている。
すごくおもしろいわけではないけど、ラストにふさわしい完成度の高いコントだった。


・(エンディング)


「ぎ」と「の」だけの歌詞の歌。



前作『類』に比べると、笑い・奇抜性ともに少しスケールダウンしたかなという印象。
ただ、芝居のうまさは相変わらずなので演劇として見てもレベルが高いし、爆発的な笑いの起こるコントこそなかったもののすごく見劣りするコントもなかった。平均は下がってない。

今回は幕間映像がどれも良かった。アニメもバカリズム自身で作っているというからすごい。コントライブの幕間映像というと、箸休め的なものや「ファンには楽しめるもの」なんかが多いのだが、『ぎ』は幕間映像でもがっつり笑いをとりにきていた。
特に『疑惑の螺旋』は、大喜利として見たらそこそこレベルぐらいなのに「日曜朝の退屈な番組」っぽく見せることでなんだか妙なおもしろさが漂っていて好きだった。もしかしたらあのフォーマットに乗せたらなんでもおもしろくなるのかも。見せ方がうまいねえ。

数多くのコントを作っていたらどうしてもパターン化されてきそうなものなのに、バカリズムコントは趣向がそれぞれちがう。過去の作品とも似ても似つかぬコントを毎回放りこんでくる。
「常に新しいことにチャレンジする」という姿勢だけは不変だ。


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【芸能鑑賞】 バカリズムライブ『類』


2018年7月25日水曜日

【DVD感想】 『インサイド ヘッド』

『インサイド ヘッド』
(2015)

内容(Amazonプライムより)
11才の少女ライリーの頭の中の“5つの感情たち”─ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、そしてカナシミ。遠い街への引っ越しをきっかけに不安定になったライリーの心の中で、ヨロコビとカナシミは迷子になってしまう。ライリーはこのまま感情を失い、心が壊れてしまうのか? 驚きに満ちた“頭の中の世界”で繰り広げられる、ディズニー/ピクサーの感動の冒険ファンタジー。観終わった時、あなたはきっと、自分をもっと好きになっている。

頭の中の感情を擬人化するという、アニメーションでしか表現できないアイデア(あ、でもラーメンズが『心の中の男』でやってたわ)。
「頭の中」「頭の外」「他人の頭の中」が描かれるのでややこしくなりそうなものだが、さすがはピクサー、わかりやすく見せてくれる(一緒に観ていた四歳の娘はよくわかっておらず終盤で「ライリーって誰?」などと言っていたが)。

個人的な好みで言えば、今まで十本以上観たピクサー映画の中ではかなり下位の評価だった。『カーズ』シリーズとワースト一、二を争うぐらい。
ぼくは理屈で納得できないと先に進めないタイプなので、「抽象的なものを擬人化」「目に見えないものを具現化」するタイプの物語が苦手だ。「どうして短期的な感情の変化によって長期記憶を保管する部分がなくなってしまうんだ?」とか考えてしまう。深く考えずに観たらおもしろかったのかもしれないけど、なまじっかディティールがしっかり作りこまれているから理屈で追おうとしてしまうんだよね。

ストーリーとしては「ライリーが引っ越し先でうまくいかない」ということと「脳内司令部から長期記憶保管場所に行ってしまったヨロコビとカナシミが戻ってくる」という二点が錯綜しながら語られるわけだが、どちらも結末が読めてしまってハラハラ感がない。
子どもも楽しめるアニメーション映画なのだから「最後は友だちもできてハッピーになるんでしょ」「ヨロコビもカナシミも無事に戻ってくるんでしょ」ということが誰にでもわかる。
カナシミが序盤で厄介者として描かれている点も「序盤でこういう扱いをされているってことは最後にカナシミの大事さに気づくやつね」と容易に想像がついてしまうし、じっさいその通りに展開する(ネタバレしてもうた)。

「感情を擬人化」というアイデアはすごくおもしろいけど、そのアイデアを前面に活かそうとするあまりストーリーが単調なものになってしまったように思う。たとえば『トイ・ストーリー』でいえば「おもちゃが人間みたいに動いてしゃべってる。おもしれー」と思うのははじめの十分ぐらいで、その後はストーリーが魅力的だったからこそあんなにおもしろかった。『インサイド ヘッド』は「脳内でおこなわれていることをこんなふうに表現しました」を最後までやりつづけてしまった、という感じ。
短篇作品だったらすごくおもしろかったかも。



どうでもいいCMソングがなぜか頭にこびりついて離れなくなるとか、昔覚えた大統領の名前が忘れられてゆくとか、自分にとってパーフェクトで都合のいいイケメンが脳内にいるとか、猫の喜怒哀楽がランダムに決まってるとか、「脳内あるある」がふんだんに散りばめられていて、小ネタのひとつひとつはすごくおもしろい。
「なるほど、脳の中でこんなことが起こっているんだな」と思わされる説得力もある。たぶんきっちり脳科学のことを調べた上で作っているんだろう。


ところで、イライラ(Disgust)とイカリ(Anger)が別の個体として存在しているのがふしぎだ。イライラの激しいやつが怒りなんじゃないかと思うんだけど、アメリカでは別感情として扱われているのか?
それともじっさいの脳内ではべつの部分が担当しているのかな?
イライラの代わりにネタミとかオドロキとかワライとかがいたら、中盤の司令部のやりとりもネガティブ一辺倒ではなくもっと見応えがあったのかもしれないな。


2018年6月28日木曜日

【DVD感想】『塔の上のラプンツェル』


『塔の上のラプンツェル』
(2011年)

内容(Amazonより)
森の奥深く、人目を避けるようにしてたたずむ高い塔。そこには、金色に輝く“魔法"の髪を持つ少女ラプンツェルが暮らしていました。18年間一度も塔の外に出たことがないラプンツェルは、毎年自分の誕生日になると夜空を舞うたくさんの灯りに、特別な想いを抱き、今年こそは塔を出て、灯りの本当の意味を知りたいと願っていました。そんな中、突然塔に現れた大泥棒フリンと共に、ついに新しい世界への一歩を踏み出します。初めての自由、冒険、恋、そして、彼女自身の秘められた真実が解き明かされ…。

Amazonプライムで鑑賞。崖の上のポニョ、じゃなかった、塔の上のラプンツェル。
いきなり話それるけど、ポニョって崖の上にいるシーンほとんどないよね。崖の上の家でラーメン食って寝るだけだよね。あとは平地か海の中。なんで「崖の上の」ってタイトルにしたんだろう。羊頭狗肉じゃないか。劇場版を観にいった人は怒っただろうな。「崖の上のシーンを観るために入場料払ったのにほとんど崖の上のシーンないじゃないか! 金返せ!」って。どんな崖フリークだ。火曜サスペンスでも観とけ。ま、とにかく『崖の上のポニョ』よりも『海の中のポニョ』とか『半人半魚のポニョ』のほうがしっくりくるよね。

その点、ラプンツェルは十八年も塔の上にいるから看板に偽りなしだ。これなら塔フリークも納得だ。



古き良きディズニー映画、という内容。悪い魔女が出てきて、お姫様がさらわれて、イケメンの盗賊がやってきて塔から連れだして、一緒に冒険をして、献身的な愛を捧げて、最後は悪者がやっつけられて幸福な生活と結婚相手を手に入れて大団円。
ベタベタな内容だが、ディズニーはこれでいい、という気もする。
しかしディズニープリンセスも変わってきているよね。『アナと雪の女王』なんかぜんぜん違うパターンだもんね。
昔のディズニーヒロインって美人なだけで、すてきな男性が迎えに来てくれるのを待ってるだけの頭空っぽな存在だったけど、最近のプリンセスはみんな活動的だしちゃんと自我がある。少なくとも物語の中では女のほうが男より強くなっているね。


四歳の娘と一緒に観ていたのだけど、娘は号泣していた。ただ彼女が泣いていたのは「さらわれて本当のお母さんお父さんと引き離された」という点と「最後に本当のお母さんお父さんの元に帰ってくることができた」という点だけで、ああこの子にとってはまだ親子の情がすべてなんだなあ、と思った。四歳だから男女の愛を理解できないのはあたりまえなんだけど。
準主役であるフリン・ライダーのことなんかまったく娘の眼中になかった。終盤でフリン・ライダーが死にそうになっているシーンでも「ラプンツェルは本当のお母さんとお父さんのとこに帰れる?」ってずっと心配してたから。「フリン・ライダーも心配してあげなよ」って言ったら「誰?」って言ってたから。

かと思うと「カメレオンががんばって偽物のお母さんをやっつけた!」なんて叫んでた。準主役のフリン・ライダーはカメレオン以下かよ。
しかしそんぐらい異性に関心のない娘でもいつかは彼氏ができたりするんだろうなあと思うと、父親としては変なところでしんみりしてしまった。



さっきも書いたように最後は万事丸く収まるハッピーエンドなんだが、ピュアさを失ったおっさんからすると「そんな単純に物事が運んじゃっていいわけ?」と思ってしまう。

いやいやだって、じつは悪い魔女だったとはいえ、仮にも十八年自分のお母ちゃんと思っていた人でしょうよ、その人が死んでスパっと割り切れる?
実の親と再会したとき、つい昨日までは見ず知らずだった人に抱きつきにいける?

ゴーテル(魔女)は人の話は聞かないし嘘ついてラプンツェルを塔から出さないようにしてるけど、話を聞かない親も嘘ばかりつく親もいくらでもいる。
ラプンツェルが健やかに育っているところを見ると、ゴーテルだってそれなりにちゃんと親らしいこともしていたんだろう。
もうちょっと、育ててくれた親への未練というか、『八日目の蝉』のラストシーンみたいな別離のシーンみたいなのがあってもいいんじゃないかなあ、と思ってしまう。それをやると話がややこしくなっちゃうけど。

あとお姫様を救ったとはいえ大泥棒のフリン・ライダーがなんの説明もなく赦されてることとか、大泥棒だった男と十八年間塔から一歩も出たことのなかったお姫様の結婚生活がうまくいくわけないだろうなとか、余計なことを考えてしまう。

ぼくも娘のようにシンプルに「お母さんお父さんに会えて良かったー!」と号泣したいぜ。


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氷漬けになったまま終わる物語


2018年6月5日火曜日

【DVD感想】『ピンポン』(映画)


『ピンポン』

(2002)
内容(Amazon primeより)
才能にあふれ、卓球が好きで好きでたまらないペコ。子供の頃から無愛想で笑わないスマイルにとってペコはヒーローだ。だが、ペコはエリート留学生チャイナに完敗。インターハイでも、幼なじみのアクマに敗れてしまう。一方スマイルは、コーチに才能を見い出され、実力をつけていく。現実の壁にぶつかったペコと強さに目覚めたスマイル。それぞれの道を歩き始めた彼らに、またインターハイの季節がやってきた…。
2002年の映画を鑑賞。
同じくらいの時期に原作漫画を読んだが、ずっと読み返していなかったので「あーこんなエピソードもあったようななかったような」と、新鮮な気持ちで楽しめた。

映画のほうが漫画よりわかりやすいね。CGも見事だし話もシンプル。ストーリー自体はそんなにひねりのない熱血スポ根なんだけど、卓球という題材、違和感のないCG、個性的なキャラクターのおかげで既視感を与えない。

ちょっと残念なのは、ペコもスマイルもイケメンだったこと。
原作ではもっとキモかったはず。そしてそのキモいやつらがラケットを握ると輝いて見える……というのが魅力だった。卓球という「いまいちかっこよくないスポーツ」をかっちょよく描いていたのにな。それをイケメンが演じたら「はいはい、イケメンだからかっこいいんでしょ」になっちゃうじゃないか。


青春ど真ん中ストーリーなんだけど、歳をとってから観るとアクマとか卓球部の先輩とかバタフライ・ジョーとか、「主役になれなかった人たち」に感情移入してしまう。
なんちゅうか、ぼくの青春は終わったんだなあとちょっぴり寂しい気もするぜ。


2018年4月9日月曜日

【DVD感想】東京03『自己泥酔』


『自己泥酔』

東京03

内容(Amazon プライムビデオより)
2017年5月~9月に行われた「自己泥酔」全国ツアー(全11ヶ所、全27公演)の最終公演を収録。オール新作コント、映像ネタ、音楽が一体となった、東京03ならではの完成度の高い本編公演。 社長と部下が語り合う「自慢話の話」 / 「エリアリーダー」角田は部下を庇う理想の上司になれるのか? あの事件がコントになりました「トヨモトのアレ」 / 「ステーキハウスにて」声を荒げるクレーマーが思わぬ展開に…。 同僚の結婚報告を聞くために芝居を求められた飯塚は…「小芝居」/ 病室でアキコが婚約者サトシについた「悲しい嘘」 東京で経営者として成功している豊本が後悔していることを「謝ろうとした日」、友人2人は彼を受け入れるのか…。

第19回東京03単独公演「自己泥酔」をAmazonプライムビデオで鑑賞。
特典映像がないとはいえ、2時間近い公演を324円で観られるのはいいね。そうです、Amazonのまわしものです。

単純な笑いの量でいうともっともっと笑いをとる芸人はいるけど、コントとしての完成度でみると芸人・劇団含めて文句なく東京03はトップクラスだね。しかも年々クオリティが上がっていっているのがすごい。
このライブでは音楽も効果的に使われている。脚本・演者・音楽それぞれがハイレベルで、それらが組み合わさって途方もなく上質な空間を作りあげられているんだからただただ感心するばかり。


自慢話の話

IT会社の社長が飲み会の席で、すぐに自慢をはじめる社長ばかりで嫌になる、自分は自慢話は嫌いだ、と社員たちに語る。すると社員のひとりが「それって"自慢話しかしない"自慢ですよね」と言いだし……。
まず「同じITベンチャーの人間が集まるパーティーで……」という一言で自然かつ的確に状況を説明してしまう鮮やかさ。違和感なくすっとコントの世界に入らせてくれる。

「おれは他の社長とちがって自慢をしない」というのも自慢といえばそのとおりなんだが、このへりくつのような主張から「社長、固まってんじゃねーか」で笑いにつなげ、ただの理屈をこねくりまわす展開にせずに「生意気な後輩キャラ」で現実的な方向に着地させる。
大笑いするものではないけどワンアイデアを膨らませて複層的なコントに仕上がっている。


主題歌『自己泥酔で歌いたい』


角田氏による主題歌。
やたらポップな音楽に乗せてどこかで聞いたような歌詞を歌いあげている……と思ったら中盤の「自分に完全泥酔」でバッサリ。

愛と未来 自由と未来 光の先へただ進め
めぐり合い それは奇跡 広い世界で ようは奇跡
会いたくて 愛を叫び 鳴らないスマホに涙流し
I miss you 思い届け 結果どうあれ みんな踊ろう
現実を見ない 希望の啓示
自分に完全泥酔してなきゃ こんなの歌えない

マキタスポーツや岡崎体育がやっている「J-POPを皮肉った歌」と同系統だけど、ここで大きな笑いは狙いにいかずにあくまであっさりと。今や「J-POPあるあるを皮肉をこめて茶化す」すらもはやありがちな手法になってしまったからね。
音楽的にも笑い的にも、あくまで「コントライブのオープニング」に収まるちょうどいいサイズ感の曲。


エリアリーダー

部下が上司に叱責されているのを見たエリアリーダー、間に割って入り「悪いのは彼に仕事を任せた私。責任はすべて私にあります」と部下をかばう。ところが部下はエリアリーダーに感謝している様子がなく……。
こうなるだろうな、という観ている側の予想通りの展開だが、ちゃんと演技力で魅せてくれる。
「本当にぼくが悪いみたいに言ってくるんすよー」
「ちゃんと憧れろー」
など、エゴ丸出しの発言をくりかえすエリアリーダー。コミカルに描かれているけど、これは本心だよね。ぼくも部下の失敗をかばったことはあるけど、やっぱり「自分がよく思われたい」からであって、部下を助けるためではないもん。


(幕間映像)えりありーだー憧れられ四十八手


様々なシチュエーションで「部下に憧れられる方法」を紹介する映像。途中からエリアリーダーが弾丸を日本刀で真っ二つにするなど天才剣士であることが判明……。


トヨモトのアレ

不倫をしていることが社内中に知れわたり、さらに不倫相手に送ったLINEの内容を全社に知られてしまった豊本が落ちこんでいる。同僚の飯塚と角田がからかったり慰めたり叱咤激励したりするが、どうも角田の様子がおかしく……。
2017年3月に週刊誌報道で不倫が発覚した豊本氏。その一件を早速コントにしたのが本作。
「会社の受付嬢と不倫をしていた」という設定になっているが、その他の設定はほとんど事実のまんま。「LINEで『お尻なめたげる』と送った」などのインパクトのある設定も現実通り、なんだそうだ。

身内ウケを狙ったコントか、と思いきやそこで終わらせずに後半は「不倫を叱るふりをしながら手口を学ぼうとする同僚」に対してツッコミを入れることで不倫の一件を知らない人にも伝わるようにしているところがさすが。
そうそう、不倫をした人に対する世間のバッシングって「自分だけいい思いをしやがって許せない」っていう嫉妬心も混ざってるよね。少なくともぼくは「ちょっとうらやましい」って思ってるよ。


(幕間映像)トヨモトの反省


豊本と飯塚の会話を、昔のFLASHアニメのような小気味いいテンポで描くアニメーション。不倫行為を反省しているのかと思いきや「どうすれば世間に許してもらえるか」ばかり考えている豊本。その空想がどんどん飛躍していき……。


ステーキハウスにて

ステーキハウスで食事中の男がワインをこぼしてしまい、あわてて拭きにきた店員もワインの入ったデキャンタをこぼしてしまう。すると客は店長に対してクリーニング代、食事代、お食事券を要求しはじめる。ところが店員があることに気づき……。
「理不尽な因縁をつけるクレーマー」だけでも十分コントとして成立しているのに(「髪の毛全引っこ抜き」は笑った)、そこで終わらせずに「素性を知られてしまったクレーマーの葛藤」を描く後半につなげているのがすばらしい。
他人の目に映る自己の姿を意識して「たちの悪いクレーマー」と思われないように見苦しくあがくあまり、「たちの悪いクレーマーな上に"ええかっこしい"な人」に転落していく姿は滑稽を通りこして悲哀すら感じる。
利己心と虚栄心の間で揺れる心情がコミカルかつ丁寧に表現されていて、東京03のいいところが詰まったコントだった。


(幕間映像)MINIMUM REACTION GIRL『MMR』


ステーキハウスに来ていた客がプロデュースしたガールズユニットの曲。無駄に完成度が高い。


小芝居

こっそり社内恋愛していた角田と女上司の豊本が結婚することに。以前から角田の相談に乗っていた飯塚だが、角田から「知らなかったことにしてほしい」と頼まれて小芝居を打つことにする。ところがその芝居に角田が感動してしまい……。
東京03の魅力は練りこまれた脚本もさることながら(特に飯塚・角田両氏の)演技力の高さにもあると思うのだが、その飯塚氏の芝居のうまさが存分に発揮された傑作。
演技力が高くないと成立しないコント、という高いハードルを設定しておきながら、そのハードルを悠々と飛びこえている。観客の想定をはるかに上回る「意外な事実を聞かされて驚く演技」を披露して観客からの拍手をかっさらっていた。「芝居がうますぎて拍手が起こる」というのはすごい事態だよね。

全体的にハッピーな笑いがくりひろげられるコント……と思いきや背筋が凍るような衝撃のラスト。後味は悪いけど、個人的にはすごく好きなコント。


(幕間映像)劇団小芝居


「リアリティのある芝居」ではなく「わかりやすさのためにリアリティを排した小芝居」をする劇団の稽古を描いたアニメーション作品。
「なんで言えば伝わることを感じとってもらわなきゃいけないんだよ!」は安っぽいコントへの痛切な皮肉だね。
いまだに多いよね。「あー、付きあってる彼女から話があるっていってこんなところに呼びだされたけどいったいなんの話だろうな-」みたいな説明台詞から入るコント。
以前にも書いたけど、コントにおけるリアリティって軽視されがちだよね。自然さがないと笑えるものも笑えなくなるんだけどな。


悲しい嘘

入院中の彼女が「他に好きな人ができたから別れて」と言いだした。彼氏が当惑しながらも問いただしてみると、悪性の腫瘍が見つかったので余命が長くないことがわかる。何があっても支えてやると誓う彼氏だが……。
これも「こうなるだろうな」という予想通りの展開。そしてもうひと展開あるわけでもなくそのまま終わってしまうので拍子抜け。
「ただの本当」「腫瘍と好きな人どっちもできたってこと?」など、一部のフレーズはおもしろかったけどね。


(幕間映像)私、嘘をつきます


『悲しい嘘』の登場人物による歌。そしてライブ物販の宣伝。

謝ろうとした日

豊本の軽率な発言により絶縁状態になっている豊本と角田。豊本は共通の知人である飯塚に頼んで、角田に謝る場を用意してもらう。だが豊本の言動には誠意が感じられず、おまけに角田は来る途中にハプニングにまきこまれてはじめから不機嫌。さらに大事にしていたTシャツやタオルを勝手に使われたことで飯塚まで怒りだし……。
よくできたコント、なんだけど、うーん、予定調和的というか……。
構成作家のオークラ氏の脚本らしいが、いつものオークラコント、って感じなんだよな……。バナナマンのコントライブでも最後のコントはだいたいこんなパターン。いざこざが描かれ、伏線が丁寧に回収され、すべての問題は解決しないけど少しだけ前向きな未来が提示され、軽いメッセージとともに叙情的なラストを迎える、というパターン。パターンというほど形式化されてるわけじゃないんだけど、でも毎回「最後はちょっといい話」だと飽きてしまう。
東京03の魅力って小ずるさ、虚栄心、妬み、僻みといった「誰しもかかえる醜い部分」の心理描写だと思うんだけど、このコントはその部分が弱い。「都会で成功している豊本に対する角田の嫉妬」はあるんだけど、それってすごくわかりやすいものだしね。「自分もそれなりにやってきたという自負」とかをもう少し掘りさげてほしかったな。

ただ、終盤で安易に「許す」と言わずに
「すぐには許せそうにないけど、そうなれるようにがんばってみるよ」
という台詞を言わせるところはすごく感心した。そうだよなあ、何年も恨んでいた相手に頭を下げられて「許すよ」と言ったらそれは嘘だもんなあ。小手先の感動狙いではない、実感のこもった台詞だ。


エンディングテーマ



後半は少し失速気味だったものの、総じて高いレベルの安定感。
腹を抱えて笑うという感じではないが、おっさんたちの無理のない演技が続くので疲れることなく観ていられる。こちらもおっさんなので「異質なもの」をずっと観るのはしんどいのよね。
118分というコントライブとしてはかなりの長さだが、音楽ありアニメーションありで退屈させない。コントの質の高さはもちろんだが、全体的なパフォーマンスとして見ても完璧といっていい出来だね。


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バカリズムライブ『類』


2018年3月22日木曜日

【DVD感想】『SING』(2017)


(2017)

内容(Amazonより)
粋なコアラのバスター・ムーンが所有する劇場は、その活況も今は昔、客足は遠のき借金の返済も滞り、今や差し押さえの危機に瀕していた。
そんな状態でもあくまで楽天的なバスターは、劇場にかつての栄光を取り戻すため世界最高の歌唱コンテストを開催するという最後の賭けに出る。
欲張りで自己チューなネズミ、歌唱力抜群だが超絶シャイな10代のゾウ、25匹の子ブタの世話に追われる母親、ギャングから抜け出して歌手になりたいゴリラ、浮気な彼氏を捨ててソロになるか葛藤するパンク・ロッカーのヤマアラシ、常に超ハイテンションなシンガー兼ダンサーのブタなど、多数の応募者がオーディションに集まってくる。
皆、自らの未来を変える機会となることを信じて……。

四歳の娘といっしょに鑑賞。

ストーリーは「劇場を立て直すために歌唱コンテストを開催したらそれぞれ悩みを抱えた動物たちが集まってきて、最後は歌の力でみんながハッピーに」という単純明快なものだが、視点があちこちに移る群像劇だったので四歳児にはちょっと難しかったらしい。途中からは「ねえおとうちゃん、トランプしよ?」と言ってくるので、トランプをしながら観た。トランプをしながらでも楽しめる、わかりやすい筋。



『怪盗グルー』シリーズ(というより『ミニオンズ』シリーズといったほうがわかりやすいかもしれない)でおなじみのイルミネーション・エンターテインメント制作。

『怪盗グルー』シリーズもそうだけど、この制作会社の作品って些細な悪事を許しちゃうよね。
『SING』でも、ギャングの見張り役を務めていたゴリラやイカサマをしてマフィアから金をまきあげたネズミや劇場を華やかにするために水を盗んだコアラが、ぜんぜん悪びれることなく活躍しているのを見ると、ディズニー映画に慣れた身としては「いや犯罪やろがい。ええんかいな」と思ってしまう。特に罰も受けないしね(ネズミは怖い目に遭わされてたけど)。
しかも「正義のために必要不可欠な代償としての犯罪」ではなく「快楽のための犯罪」をやっとるからね。怪盗グルーもそうだけど。

「善人はたったひとつの過ちも犯さず、悪事を働いたものは必ず報いを受ける」というディズニー映画へのアンチテーゼとしてあえて「善なる存在による軽犯罪」を描いているのかな。
清濁併せ持っているところが人間らしさでもあるんだけど(『SING』に出てくるのは人間じゃないけど)、小説ならまだしもポップな見た目のアニメーション映画で犯罪行為が見過ごされていると「それはそうと他人に迷惑をかけていることについてはおとがめなしかい」ともやもやした気になる。



『SING』のキャラクターの中でぼくがいちばん気に入ったのはブタのおかあさん。
このブタを主役に据えてもいいぐらいの魅力的なストーリーを持っている。
(なぜかDVDのジャケットではオスブタが中央にいるけど、こいつはかなりの脇役。主役は後ろに小さく描かれているコアラ)

二十五頭の子どもと仕事に疲れた夫を抱えているブタのおかあさん。家族は愛しているしこれといった不満があるわけではないけれど家事に追われる日々にときどきふと疑問……。
と書いてしまうと平凡な母親の話だけど(二十五頭の子どもは平凡じゃないけど)、おかあさんの心中が言葉に出して語られないのにありありと伝わってくる描写が見事。こういうもやもやって言葉に出せないからこそのもやもやなわけだもんね。
子どもの前では愚痴もこぼさず不満な顔もせずいつもにこにこしている「良きおかあさん」の、本人すら言葉にできないであろう胸中をふとした表情の変化だけで描いてみせるのはたいしたものだ。

3Dアニメーションって進化したなあ。実写よりもはるかに繊細な表現ができるよね。


2018年3月12日月曜日

【DVD感想】『ズートピア』

『ズートピア』(2016)

内容(Amazonビデオより)
動物が人間のように暮らす楽園、ズートピア。誰もが夢を叶えられる人間も顔負けの超ハイテク文明社会に、史上最大の危機が訪れていた。立ち上がったのは、立派な警察官になることを夢見るウサギのジュディ。夢を忘れたサギ師のニックを相棒に、彼女は奇跡を起こすことができるのか…?「アナと雪の女王」「ベイマックス」のディズニーが夢を信じる勇気にエールを贈る感動のファンタジー・アドベンチャー。

自分の中でなぜか『ズートピア』と『ラ・ラ・ランド』がごっちゃになっていて、「あれ? ミュージカルだって聞いてたのになかなか歌いださないな……」と思っていたらぜんぜん違う作品だった。おっさんにとってはカタカナ五文字はぜんぶ一緒なのよ。
その程度の認識なので当然ながらまったく予備知識もなく観たんだけど、おもしろかった。安定のディズニー。

肉食動物と草食動物が楽しく暮らしているズートピアで、突然肉食動物が凶暴になるという事件が発生。人口の九割を占める草食動物は恐怖から肉食動物を避けるようになる……。というストーリー。

「どんな夢でも叶う」という前向きなメッセージやかわいいキャラクターが前面に出ているので見落とされそうだが、これを人種対立の話として見るとなかなかおもしろい。

日本でもやはり外国人が犯罪をしたらその発生頻度を検証しようともせずに「これだから××人は……」という言葉を口にする人がいる。アメリカだともっと多いんだろう。表立って口にするかどうかはべつにして。


快楽的な差別はダメだと誰でもわかるが、わかりにくいのは差別の根源に被害者意識や恐怖がある場合だ。

ルワンダ虐殺という事件があった。
過激派のフツ族がツチ族を大量虐殺した事件だが、きっかけのひとつはラジオ局の報道だと言われている。ラジオで報道された内容は、ツチ族の力を低く見るものではなく、その逆だった。彼らはこう言った。「ツチ族は我々フツ族を攻撃するだろう」と。つまり「ツチ族は力を持った脅威であり、我々はその被害者なのだ」と煽った。
これにより過激派フツ族は「やられる前にやらねば」という意識を持ち、ツチ族、さらには穏健派のフツ族を殺すことになった。

自分を加害者だと思っているときには「これ以上はかわいそうだな」と加減をしても、自分が被害者だと思っている人には歯止めがかからない。なにしろかわいそうなのはこっちなのだから。
9.11のテロの後、アメリカは攻撃的になった。イラク戦争も多くの国民が支持していた。それは「自分たちがテロリストに狙われるかもしれない」という恐怖感、被害者意識があったからだろう。加害者だったらこうはいかなかった。

昔も今も、洋の東西を問わず、同じことが起こっている。
日本も韓国も白人も黒人も、みんな自分が被害者だと思っている。身の安全や権利が脅かされていると。そして"被害者"がいちばん恐ろしい。


『ズートピア』は、この「誰もが被害者になりたがる」心理をうまく描いている。
肉食動物たちを排除しようとする草食動物たちに差別意識はない。あるのは被害者意識と恐怖心だけ。
差別されている肉食動物もまた自分たちを被害者だと思っている。
被害者と被害者が対立し、互いを排斥する社会。よく見る光景だ。

『ズートピア』では対立を煽った真の黒幕が明らかになってハッピーエンドを迎えるが、現実の世の中であれば黒幕が捕まった後も被害者意識は残りつづけ、何かのきっかけで表面化することだろう。

そのことを知っている者としては、『ズートピア』の動物たちが共に手を取り合って歩んでいくラストシーンに拍手を送りつつも、「こんなふうにできたらいいんだけどなあ……」とため息をつくしかない。

いや、ここでため息をつくからだめなのか。
素直に「どんな夢でも叶う!」と信じてディズニーダンスを踊る人間ばかりになれば「誰もが被害者になりたがる社会」はちょっとは改善されるのかもなあ。


それはそうと、この映画でいちばんぼくが感心したのは「キツネが怒ったときに鼻の頭にしわが入る」シーン。
昔飼ってた犬も怒ったときにこれとそっくりな顔してたなあ……。


2018年2月27日火曜日

【DVD感想】『スーパー・ササダンゴ・マシンによるコミュ障サラリーマンのためのプレゼン講座』



『スーパー・ササダンゴ・マシンによるコミュ障サラリーマンのためのプレゼン講座』

内容(「キネマ旬報社」データベースより)
プレゼンしか能のない覆面プロレスラー、スーパー・ササダンゴ・マシンのプレゼンテクニックを収めたDVD。会社で自分は何ができるのか、サラリーマンが「自分をプレゼンする」時や「企画を通したい」時のテクニックを収録。

「趣味・特技はプレゼン。苦手なものはプロレス活動全般」だという覆面レスラーのスーパー・ササダンゴ・マシンによるプレゼンを収めたDVD。

スーパー・ササダンゴ・マシン氏はプロレスラーでありながら新潟で金型工場を運営する会社の専務取締役も務めているという異色の経歴で、パワーポイントを駆使した巧みなマイクパフォーマンスで有名な覆面レスラーだ。
ぼくはプロレスにまったく興味がないが、YouTubeでササダンゴ氏のプレゼン(「煽りパワポ」というらしい)を観て、たちまちその完成度の高いパワーポイントと上質なユーモアの虜になった。

ふつうスポーツ選手は巧みなトークは求められないけど、プロレスはショーなのでマイクパフォーマンスで観客を惹きつける話術が必要になる。
身体と頭を使わないといけないからたいへんな商売だなあ。



このDVDに収録されている内容は以下の通り。

1.VS プロレス専門誌「発行部数を飛躍的に伸ばす方法」

2.VS 世界的飲食企業「より幸せな企業にするための新メニュー」

3.VS コミュ障な自分「一人で焼き肉をおいしく食べる方法」

内容をよく見ずにDVDを購入したので「スーパー・ササダンゴ・マシンの得意技である『煽りパワポ』が収録されてないのか……これはハズレかもな」と思いながら観たのだが、いやいや、これはこれで十分におもしろい内容だった。
いたってまともなプレゼンなのに、覆面レスラーが言っているという絵だけでもう笑える。

パワーポイントって「笑い」との相性がすごくいいよね。『バカリズム案』などのライブでも多用されてるけど、パワポはビジネスや学会などで使われる「お堅いもの」というイメージがあるからか、ごくごく標準的なMS Pゴシックでボケるだけで、おかしさが五割ぐらい増す気がする。



特に日本KFCホールディングス(ケンタッキーフライドチキンの会社)を訪問して広報部や商品開発部などの偉いさん相手に新商品の提案をおこなうパートは見応えがあった。

毎日新しいメニューを考えている人たちに向かって「まずはケンタッキーフライドチキンの概要について……」なんて釈迦に説法もいいところだが、KFCの社員たちがすごく真剣にプレゼンを聴き、ときにはスーパー・ササダンゴ・マシンの言葉をメモする姿で笑いをこらえられなかった。
「チキンとチキンでチキンを挟んだ新製品」なんてバカみたいな提案に対して、真正面から「実現可能か」「マーケット規模はどの程度か」「味や安全性は担保できるか」といった議論をしているのがめちゃくちゃおもしろかった。いい会社だなあ。

聴衆の反応も良かったし、ほどよく緊張感もあって、これぞ理想的なニッポンのプレゼン、って空気だった。



他の二編にもふれておくと、『週刊プロレス』編集部へのプレゼンは、相手が少人数、しかも顔なじみということでやや緊張感に欠けるものだった。
パワーポイントの中身は良かったので、もう少し大きい会場でやってたらさらにおもしろかったんだろうな。

「一人焼肉のプレゼン」は『孤独のグルメ』みたいにしたかったんだろうけど、焼肉に視点がいってしまう分、プレゼンの印象が弱かった。
そもそもプロレスラーが焼肉を食っている映像自体が退屈だった。プロレスラーと焼肉、という取り合わせにまったく違和感がないからねー。女性ばっかりのスイーツバイキングとかだったらもうちょっと面白味があったかも。



ぼくは人見知りなので親しい人以外と一対一で話すのは苦手なんだけど、大勢の前で話すのは平気だ。学生時代は生徒会長をやっていたし、友人の結婚式二次会の司会を務めたこともある。数十人、数百人の前で話すとひとりひとりの反応が気にならなくなるのでかえって気楽にできる。

今も仕事でたまに客先でプレゼンをすることもあるけれど、即興で話せるような才覚はないから、スピーチをするときは一字一句詳細な原稿をつくって、「ここで軽く笑いをとる」「ここは簡潔に説明してさらっと流す」と入念に構成を考える。

そういう人間にとってササダンゴ氏のプレゼンは大いに参考になった。

まずはじめにこれから話す内容の道筋をきっちり説明する。
本題はまじめに進めながらも細部ではユーモアを交える。
さまざまなマーケティング手法を使いながらも極力専門用語は使わずに平易な言葉を使って説明。
「WEB戦略の強化」みたいな安易な提案に逃げずに常に独自の切り口で提案。
……と、つくづく勉強になる。

これは企業の新人研修の教材にも使えるんじゃないでしょうか。