2020年10月30日金曜日

いちぶんがく その1

ルール

■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




ペア型社会では婚外性交が不倫になるが、乱交型社会では純愛が不倫になる。


(立花 隆『サル学の現在(下巻)』より)




「そうだったのか、おれてっきりかっぱかなにかだと思った」


(今村 夏子『星の子』より)




つまりステーキはサラダなのだ。


(玉村 豊男『料理の四面体』より)




「ちょっとでもおくれたら九十四回もさかだちさせられちゃうんだから。」


(角野 栄子『魔女の宅急便』より)




「たいしたもんだよ、モッサリしているのに」


(森見 登美彦『四畳半タイムマシンブルース』より)




そんな可愛らしいエピソードもあってか、アル中で股間濡らしで当たり屋だけど、意外にも人気者として通っていた。


(こだま『いまだ、おしまいの地』より)




そもそも、「説得する」ことと「騙す」ことの間に、明確な線など引きようもないのであるから。


(香西 秀信『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』より)




これは圧倒的な知的選良の特性です。


(花村 萬月『父の文章教室』より)




気づけばヨーグルトパックは四方八方名前だらけで、まるで耳なし芳一のような有様だ。


( 櫛木 理宇『少女葬』より)




オウム信者たちは、私にないものをすべて手にしているように見えた。


( 雨宮 処凛 『ロスジェネはこう生きてきた』より)




 その他のいちぶんがく



2020年10月29日木曜日

キャッチャーの生きる道

ある高校の野球部。甲子園に何度も出場している名門校だ。部員数も多い。

彼はキャッチャーだった。チームで三番手のキャッチャー。

スタメンのキャッチャーは捕球技術に優れ、肩も強かった。広い視野を持ち、チームメイトからの信頼も厚かった。

二番手のキャッチャーはエラーが多かったが、バッティングの成績はチームでもトップクラスだった。
だから代打で起用されることも多かったし、一番手キャッチャーがけがなどで出場できないときは代わりにマスクをかぶった。

彼は、永遠に自分の出番はまわってこないであろうことを悟った。
キャッチャーとしての技術もバッティング技術もそこそこ。一番手、二番手にはかなわない。


彼は自分の役割について考え、ピッチング練習用のキャッチャーを買って出るようになった。

これが性に合った。
ピッチング練習は、彼にとって練習ではなかった。ピッチング練習こそが彼にとっての本番だった。

ピッチャーの肩の状態を見きわめ、無理なく調子を上げられるよう声をかけ、おだてたりアドバイスをしたりしてピッチャーの精神状態をコントロールした。

「いかにピッチャーを気持ちよくさせるか」だけを念頭に置いた捕球方法を身につけた。


彼のチームは甲子園に出たものの初戦で敗退した。
チームメイトのうちあるものは大学で野球を続け、あるものは野球をやめた。プロに入るものはいなかった。声すらかからなかった。

唯一プロに進んだのは彼だった。
ただし選手としてではない。「ピッチング練習専用のキャッチャー」としてだった。



という夢を見た。

だからなんだ、という話だが、夢にしては妙にリアルだったので書いておく。


2020年10月27日火曜日

姉という厄災

七歳の長女と二歳の次女を見ていておもう。

次女にとって、長女の存在は〝厄災〟かもしれない、と。


ことわっておくと、長女は基本的に妹に対して優しい。

自分のおこづかいで妹のために千円ぐらいのおもちゃを買ってあげたりする。誕生日でもなんでもない日に。優しすぎて涙が出る。ええ子や……。

そういう面もあるが、妹が自分の持ち物にふれると怒る。

まあ当然といえば当然だ。

なんせ二歳児ときたら、たださわるだけではあきたらず、折れるものは折り、曲げられるものは曲げ、書けるものは書き、はずせるものははずし、バラバラにできるものはバラバラにするのだから。キノコや細菌に匹敵するぐらいの分解者だ。

だから妹が自分の持ち物をさわっていたら、問答無用でひったくる。

親なら「ごめんね、これは大事なものだから遊ぶのはやめてね。その代わりこっちで遊んでいいから」といったソフトなアプローチをするが、姉はそんなことしない。
中国共産党のように強大な力のみで解決する。

妹は泣きわめいて、親に泣きついてくる。

わけもわからず遊び道具をひったくられて泣いている二歳児が気の毒ではあるが、だからといって長女に「学校の宿題のプリントぐらいびりびりに破かせてあげなさい!」と説教するわけにもいかず、次女に対しては「そっかー。せっかく楽しく遊んでたのになー。悲しかったんやなー」と共感してやることしかできない。


そんなことをくりかえすうちに、二歳児なりに学習したらしい。

姉が使っているものには決して手を出さない。
はるかに強い力でひったくられるだけだと知っているから。

しかし、姉が席を外すと、すかさず姉の机に近づき、おもちゃや勉強道具で遊びだす。
姉はぜったいにかなわない相手だと知っているので、ちゃんと目を盗んでいたずらをするのだ。

これは、〝厄災〟に対する人類の接し方といっしょだ。

地震だとか噴火だとか台風だとか猛暑だとかの天災に対しては、基本的に「やりすごす」ことしかできない。

地震や噴火を鎮めたり天候を操作することはできない。
だから大規模な厄災に対しては、「なるべく被害の大きい地域から離れる」「じっとしてひたすら身を守る」みたいな対応しかできない。

真正面から立ち向かっても太刀打ちできるはずがない。


妹にとっての姉の存在は〝自然〟のようなものなのだろう。

恩恵をもたらすこともあるが、ときどき猛威を振るう。そういうときにはどうあがいても対抗できず、ただ距離を置くだけが唯一の対策となる。

こうして圧倒的な力の前にはただひれふすことしかできないと学ぶのも必要だ。
世の中には理不尽なこともたくさん起こるのだから。

君よ、強く育て。


2020年10月26日月曜日

【読書感想文】社会がまず救うべきは若者 / 藤田 孝典『貧困世代』

貧困世代

社会の監獄に閉じ込められた若者たち

藤田 孝典

内容(e-honより)
学生はブラックバイトでこき使われて学ぶ時間がない。社会人は非正規雇用や奨学金返還に苦しみ、実家を出られない。栄養失調、脱法ハウス、生活保護…彼らは追いつめられている。

最近、この手の本ばかり読んでいる。

ニュースを見ていても、統計を見ていても、つくづく感じるのは日本は貧しくなっているということ。
物価は上がり(値上げではなく同じ商品の内容量が減っていることが多いので気づきにくいが)、学費は跳ね上がり、消費税は上がり、社会保険料は増え、もらえる年金は減り、公的支援は減っている。
どう考えても貧しくなっている。
ここまで環境が厳しくなっている以上、貧困は個人の問題ではなく社会の問題だ。


全体的に税金が上がっているわけではなく、法人税や配当所得に対する税は据え置きまたは下がっているので、要するに持たざる者から持てる者への所得移管が起こっているのだ。

持たざる者から持てる者へ、若い者から高齢者へ、という方向の富の移管が行われているのがここ最近の日本だ。
市場に任せていたら富の配分が不均衡になるから再配分するのが政府の役割なのに、市場と同じことをやっている。
公的機関に民間の論理を持ちこむやつはバカ」というのはぼくの持論だが(民間のやり方がそぐわないから公的機関があるのに)、どんどん民間の悪いところだけ真似してきている。




まじめに働いている(または働く意欲がある)若者が貧しいのは明らかに社会の問題なのに、まだ個人の問題としてしかとらえられない人がいる。

 しかし、若者たちの支援活動を行っていると、決まって言われることがある。「どうしてまだ若いのに働けないのか?」「なぜそのような状態になってしまうのか?」「怠けているだけではないのか?」「支援を行うことで、本人の甘えを助長してしまうのではないか?」などである。
 要するに、若者への支援は本当に必要なのか?』という疑念である。これは若者たちの置かれている現状の厳しさが、いまだに多くの人々の間で共有されていないことを端的に表している。

「選ばなければいくらでも仕事はあるんじゃないの」というのはその通りだ。
たしかに仕事はある。だがその仕事は「食っていけない仕事」「子どもを食わせていけない仕事」「心身の健康を維持したまま長く続けられない仕事」なのだ。

「選ばなければ食べ物はいくらでもあるよ」と言って、栄養のないものや腐ったものや毒物を勧めているのと同じだ。

 要するに、働いても貧困である以上、就労支援というものは、〝貧困を温存する〟役割しか持たないことを意味している。このことも、貧困世代に対して、いくらでも仕事があるのだから選り好みしていないで「早く働きなさい」という論調が、現代社会において決定的に間違っていることを明示している。
 近代は健康で文化的な最低限度の収入に満たない労働、劣悪な労働環境を排除するために、政府が介入したり、労働組合が是正を求めたりしてきた歴史そのものだ。しかし、このように働いても生活保護基準に満たない貧困から抜け出せない労働の存在自体を認めてしまえばどうなるだろうか。ワーキングプア市場はより蔓延するに違いないし、多くの若者が将来を悲観する労働に従事させられることだろう。
 そして、生活保護基準と変わらない賃金しかもらえない労働が蔓延すれば、当然ながら、生活保護受給者への攻撃や嫉妬などにつながる。最低賃金と生活保護基準が極めて接近していることも日本の特徴であり、働くことへのインセンティヴが見出せない状況が広がっている。就労支援に限らず、最低賃金の上昇や労働市場への介入を求めることが必要だろう。

二十数年前の不景気は「仕事がない」だったので、失業者への就労支援がそれなりに効果を持ったかもしれない。

だが今の若者をとりまく状況は「仕事はあるが、健康で文化的な生活を維持できる仕事が見つからない」だから、就労支援では解決しない。

「労基署の権限と人員を増やして労働基準法違反は実刑含めてどんどん処罰する。労働法を破るより守ったほうが得な社会にする」
だけで、労働環境に関するほとんどの問題は一発で解決するとおもうんだけどな。
今だと労働法に違反した者が得をするんだから。

「法律を守らせる」というシンプルかつあたりまえな話なのに、なんでそれをやらないのかふしぎでしょうがない。




若者の貧困対策として真っ先にやるべきは住宅政策だと著者は主張する。

 広義のホームレス状態とは、この定義にとどまらず、「ネットカフェ、ファーストフード店など、深夜営業店舗やカプセルホテルなどを寝起きの場として過ごす状態」を指す。過去に実家以外の場所で暮らしていたが、家賃滞納などによるホームレス経験を経て、結局は実家に戻ってきているのだ。
 そして、実家ではなく「社宅・その他」に住む若者たちのうち、ホームレス状態の経験者は23・4%に及んでいる。約4人に1人だ。低所得であるということは、住居を失いホームレス化するリスクがあるということだし、実際にそのような現象がすでに発生している。端的に言って、低所得の貧困世代は住居を喪失しやすい、ホームレス化しやすいといってよいだろう。

働いていなくてホームレスになるならともかく、働いていてもホームレスになりうるのが現状。

一年ぐらい前、娘の小学校の校区を変えるためにワンルームマンションを探した。
校区内にマンションを借り、住民票だけそこに移して、希望の公立小学校に入学させることを検討したのだ(結論から言うと今の住所のままで越境入学の申請をしたら通ったので借りなかった)。

不動産屋に事情を説明し「住むわけじゃないんで。住所だけが欲しいんで。たまに郵便物を取りに行くだけなので、どんなに不便でボロくてどんなに狭い部屋でもいいです。とにかく安い部屋で」と言って探してもらったのだが、驚いた。
いちばん安くても三万円を超えるのだ(大阪市内)。
超ボロいアパートなら一万五千円ぐらいであるかとおもっていたよ……。
まああまりに安い部屋は不動産市場に出回らないのかもしれないけど……。

東京都内ならもっと高いはず。しかも家賃だけでなく保証金や更新料もかかってくる。手取り十数万円の人がたやすく出せる金額ではない。

それ以上安い部屋を探そうとおもったら脱法シェアハウスのようなところしかないのだろう。
「高収入」や「頼れる実家」がなければあっという間にホームレスに陥るのだと思い知った。


だが若者に対する国の住宅政策はあまりにもお粗末だ。

 しかし、公営住宅には単身の若者が事実上入居できない。複数人世帯での入居を想定していたり、特別な事情を有する人々への入居を優先していたりするためだ。若者は住居を確保する面においては公営住宅からも弾かれやすい。
 彼らに対して、政府は従来通り、持ち家政策を主導してきたこともあり、働いて家を購入する選択肢を提示するし、それまでは社宅や民間賃貸住宅への居住を勧める。
 だが、そもそも彼らが家を購入できなくなっていること、企業が社宅などの福利厚生を削減してきていること、URなども低所得者向けの住宅供給を止めてきているという実態を、政府はどれほど把握しているだろうか。行き場を失った若者が大量に実家へ滞留していることを知っているだろうか。
 そして、根本的に近年の日本の政治課題に住宅が挙がることなど、仮設住宅建設時以外にあっただろうか。社会福祉領域でも、障害者のバリアフリー住宅や介護保険における高齢者の住宅改修、福祉施設における居住環境くらいしか議論がされていない。
 より一般的なレベルで公営住宅数をどうするのか、高額な家賃をどうするのか、持ち家誘導政策以外の議論がなされるべきだろう。政治的な上がらないというよりも、国民全体として、住宅というものに対する根本的な理解が欠如しているのかもしれない。

家がなければ仕事ができない。仕事ができなければ家が借りられない。
家さえあれば失業してもすぐに生活が立ちかなくなることはない。家賃が不要であれば、生活費ぐらいは「選ばなければ仕事なんていくらでもある」の仕事でも稼げる。

この本では、貧困者向けの住宅政策が充実していない国(たとえば日本)ほど出生率が低いというデータも紹介されている。

住む家は健康で文化的な生活の根幹にあるものだから、本来市場に任せるようなもんではないのかもしれない。
学校教育や水道と同じく、インフラとして「最低限度の住居を提供される権利」があってもいいのかもしれない。




 貧困世代が置かれている社会環境は、近年まれに見るほど、厳しい状況である。ここまで急激な社会構造や雇用環境の変化は、上の世代の人々がほとんど経験していないことだ。親の援助なくして大学進学は困難であり、大学に進学しても学費や活動費を捻出するために、アルバイトに明け暮れなくてはならない。
 そして卒業後も低賃金や長時間労働による厳しい雇用環境が待っている。また、結婚や育児など、過去にはごく普通のライフコースやライフスタイルだった生活を送れない若者たちが増加している。経済が成熟した社会では、一般的に少子高齢化は進展する。成長による果実を得られない人々や、将来の生活に展望が見えにくい状況が生まれやすい。だからこそ、政治や政策の出番であり、何とか是正をして社会を再生産可能な状況にしていくように工夫をしている国は多い。
 すでに指摘した通り、貧困世代は結婚や育児を放棄しているのではない。放棄させられているのである。これらの急激な社会システムや構造の変化は、社会を再生産させないばかりか、若者たちに過度なストレスや負担を与え、様々な精神疾患や自殺の要因となっている。多くは先行きに不安を覚え、将来に絶望しているのだ。

今、国立大の学費は年間約五十三万円だそうだ。
四十五年前、昭和五十年の授業料は年三万六千円。驚きの安さだ。
その間、物価は二倍ぐらいにしか上がっていないのに授業料は十倍以上。おまけに最近はずっと平均給与は下がり続けていることを考えると、とんでもない値上げだ。

もちろん生活が苦しいのは若い人だけの問題ではない。
中年だって高齢者だって苦しい。
だけど、どの年代を最優先で救わなきゃいけないかといったら、若い人と子育て世帯だとぼくはおもう。若い人が貧しかったら、今後数十年にわたってずっと支援を必要とすることになるんだから。

逆にいうと、今若い人を救っておけば将来の貧困高齢者を大幅に減らせることになる。
ちゃんと若い人に税金使ってよ。ぼくみたいな中年は後回しでいいからさ。


【関連記事】

【読書感想文】貧困家庭から金をむしりとる国 / 阿部 彩『子どもの貧困』

【読書感想文】お金がないのは原因じゃない / 久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月23日金曜日

【読書感想文】能力は測れないし測りたくもない / 中村 高康『暴走する能力主義』

暴走する能力主義

教育と現代社会の病理

中村 高康

内容(e-honより)
学習指導要領が改訂された。そこでは新しい時代に身につけるべき「能力」が想定され、教育内容が大きく変えられている。この背景には、教育の大衆化という事態がある。大学教育が普及することで、逆に学歴や学力といった従来型の能力指標の正当性が失われはじめたからだ。その結果、これまで抑制されていた「能力」への疑問が噴出し、“能力不安”が煽られるようになった。だが、矢継ぎ早な教育改革が目標とする抽象的な「能力」にどのような意味があるのか。本書では、気鋭の教育社会学者が、「能力」のあり方が揺らぐ現代社会を分析し、私たちが生きる社会とは何なのか、その構造をくっきりと描く。

とにかく読みにくい文章だった。
「社会学者用語」がふんだんに使われているし、いろんな文献を参考にしすぎて何の話をしているのかわからない。

悪い意味で研究者らしい文章。
主題にとって重要でないこともめちゃくちゃ分量を割いて説明するんだよね。
正確ではあるんだろうけど、論文じゃないんだから。重要でないことは巻末の注釈で説明するぐらいでいいのになあ。

最後まで読んだが、最終的な結論が冒頭で説明した内容とほぼ同じ。
おーい! これまでの長い説明はなんだったんだ!
研究者以外は、序章と最終章だけ読めば十分じゃないでしょうか。




意味をつかむのには骨が折れたが、言わんとしている内容は興味深かった。
 現代社会に見られる多くの能力論議は、これからの時代に必要な「新しい能力」を先取りし、それを今後求めていこうとする言説の集まりである。本書では、これらが時代の転換を先取り、ないし適確に指摘した議論であるというよりも、こうした議論のパターンこそが現代社会の一つの特性なのだ、という立場を展開していこうと思っている。実のところ私は、新しい時代にコミュニケーション能力や協調性、問題解決能力などといった「新しい能力」といわれるものがこれまで以上に必要とされている、とはあまり思っていない。誤解を与えそうなので急いで補足しておくが、現代においてこれらの能力が不必要であるといっているのではない。ただ、それらはこれまでも求められていたし、これからも求められるであろう陳底な能力であって、新しい時代になったからはじめて必要ないし重要になってきた能力などでは決してない、ということなのである。理由は後述するが、ここでは私のスタンスだけあらかじめ明確にしておく。むしろ私の考えはこうだ。

 いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。

たしかにね。
「今の教育ではこれからの時代に通用する人材が育てられない。これからは新しい能力が求められる」
みたいな言説を聞いたことは、一度や二度や十度や百度ではない。
ずっと言ってる。
ぼくが知ってるかぎり二十年前から言われてるし、たぶん百年前から同じことを言われているのだろう。

百年間ずっと「これからは新しい能力が必要だ」と言われているってことは、つまりその「新しい能力」とやらは昔から求められている陳腐な能力であるってことだ。


「教育改革だ! これからは新しい能力が求められるのだ!」
なんて声高く叫ぶ人に「じゃあその新しい能力ってなんですか」と訊いても、
コミュニケーション能力」だの「問題解決力」だの「創意工夫できる能力」だのといった答えしか返ってこない。

逆に聞くけど、「コミュニケーション能力」や「問題解決力」や「創意工夫できる能力」が求められていなかった時代っていつ?




メリトクラシー(能力主義)は耳当たりがいい言葉だが、厳密に能力主義を実施しようとすれば

  • 能力を厳密に定義する
  • 能力を数値化して測定できるようにする
  • 数値化した能力ポイントで厳密に各人の処遇に差をつける

といった作業が必要になる。
あたりまえだが、そんなことは不可能だ。
まともな頭を持った人ならすぐにわかる。

仮に、能力の定義や測定が可能だったとして、果たしてそれを実行したい人がどれだけいるだろうか?

能力が明確になって困るのは「能力がないにもかかわらず高い地位にある人間」だ(そして決定権を持っているのはたいていそういう人間だ)。
自分の(不当に高い)地位を脅かす能力主義を、本気で導入したい権力者がいるはずがない。

ってことで「能力主義を導入しよう」と叫ぶ人は、なんも考えてないバカか、「おまえらはおれの胸三寸で評価するけどおれだけは別枠だぜ」という傲慢なバカかのどっちかだ。



大学入試なんかもバカほどやたらと改革をしたがる。

「おれが変えた」という実績を作りたいのだろう。
「改革すること」が前提にあり、そのために後付けの理由を探すのだが、それが「コミュニケーション能力」だの「協調力」だのなのだからちゃんちゃらおかしい。

近代的な学歴・学校・試験のシステムにとって代わるものが登場しないうちに、それらに依存しないメリトクラシーが完成することはありえない。そして、多くの人たちが「新しい能力」だけでこれからの時代を回していけると本気で思っているとも思えない。パーソナリティだけでAIの開発競争に勝てるとも思えないし、コミュニケーション能力がヒット商品を次々と生み出してくれるような感じもしない。チームワークだけで国際競争に勝てるわけもない。おそらくほとんどの人はそんなことは思っていないはずである。そうであれば、「新しい能力」は次の時代の中核的能力指標なのではない。しかし「新しい能力」に関する多くの議論は、そのあたりの自覚がないことが非常に多い。つまり旧来のシステムの否定に力点があることが多い。このようにみてくれば、一部を除くほとんどの「新しい能力」論が、むしろ、前期近代的な学歴・学校・試験を軸としたメリトクラシーを問い直すこと自体を常態とする、後期近代における再帰性現象そのものなのだと理解できるだろう。むしろ「新しい能力」を唱える人のなかでも現実感覚のある人は、前期近代的メリトクラシーのシステムを否定しないはずである。なぜなら、否定や批判に力点のある再帰的な能力論の本質にも薄々気がついていて、そこにはコアがないということも肌感覚で理解しているからである。

「今の日本の教育は知識の詰め込み偏重になっている。それではだめだ」という言葉を、何度も聞いたことがあるだろう。
こういうことを言うのはたぶんまともに入試問題を解いたことがないのだろう。

そこそこのレベルの学校や大学を受験したことがある人なら知っているとおもうが、難関大学ほど思考力が問われる問題が出される。
ちなみにあまりレベルの高くない大学ではもう何十年も前からAO入試が盛んにおこなわれていて、やはり知識詰め込みなど重要視していない。

個人的な印象でいえば、二流半ぐらいの半端な私大は「〇〇が××したのは何年?」といった重箱の隅をつつくような問題を出すけどね。


ぼくがおもう「知識の有無だけを問う単純な問題」がもっともよく出されるのはテレビのクイズ番組だ。
「出題者の理解力が低くても出せる」「採点がしやすい」という理由によるものだろう。

「今の日本の教育は知識の詰め込み偏重になっている」と語る人は、クイズ番組を観て日本の教育を語っているのではないだろうか。
あながち的外れともおもえない。




能力を公平・正確に測ることはできない。
これはまちがいない。どれだけ科学技術が発達しようと無理だ。
仮にできたとしても、誰も導入しようとはしない(だって導入して損をするのは権力を持っている人だもん)。

とはいえ入試や採用試験などではなんらかの指標を用いて各人に差をつける必要がある。

だから「これがベストではないが、ベストな指標など存在しないのでとりあえずこれを使う」という基準を用いることになる。
この認知が重要だ。

ここをちゃんと認識していれば
「これまで使い続けていて集合知によって微修正されてきた今のやりかたがとりあえずはいちばんいい」
という発想に当然至るはずである。

まちがっても「よっしゃ、改革だ! これからの時代に対応できる能力を重視するよう全面的に変えるぞ!」という発想にはならない、はずなのだが……。


【関連記事】

【読書感想文】 前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

採点バイトをした話



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月22日木曜日

できるようになりたくない

小学一年生数人と公園で遊んでいたときのこと。

子どもたちが“うんてい”をやっている。
猿のようにすいすい渡っていく子もいれば、何度挑戦しても途中で力尽きて落ちてしまう子もいる。

ひとり、まったくやろうとしない子がいた。Kくん。

「Kくんはやらないの?」

 「うん、うんていできひんねん」

「失敗してもいいからやってみたら? 挑戦してみないといつまでたってもできるようにならへんで」

と言っていたら、近くにいたKくんのおかあさんに言われた。

「彼は『できるようになりたい』とおもってないんですよ」


はっとした。

そうか。
ぼくは知らず知らずのうちに、自分の価値観を押しつけていた。
「周囲の子がうんていをできるのに自分だけできない子は、うんていをできるようになりたいとおもっている」
と思いこんでいた。

特に自分の娘が負けず嫌いな性格なので、すべての子どもがそうだと思いこんでいた。

Kくんがうんていに挑戦しないのは、
「失敗するのが怖い」
わけでも
「失敗してみんなに笑われるのが怖い」
わけでもなかった。

Kくんは「うんていをしたくないからうんていをしない」子だったのだ。


もしぼくが、筋トレマニアから

「なんで筋トレしないの? 笑われるのが怖いの? はじめはみんな初心者なんだからぜんぜんベンチプレスできなくても大丈夫だよ。そうやって尻込みしてたらいつまでたってもベンチプレスできるようにならないよ」

と言われたら、

「うるせーえよ。こっちはべつにベンチプレスできるようになりたいとおもってねえんだよ。みんながみんなおまえみたいに筋肉ムキムキにあこがれてるとおもうなよバーカ」

と反発するだろう。


すまない、Kくんよ。
うんていなんてできるようにならなくてもいいんだった。
「できるようになりたい」とおもう必要すらないんだった。


【関連記事】

保育士の薄着至上主義と闘う

塾に行かせない理由

2020年10月21日水曜日

【読書感想文】書かなくてもいいことを書く場がインターネット / 堀井 憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』

やさしさをまとった殲滅の時代

堀井 憲一郎

内容(e-honより)
90年代末、そこにはまだアマゾンもiPodもグーグルもウィキペディアもなかった―00年代、人知れず進んだ大変革の正体!『若者殺しの時代』続編!

2000年代論(2000~2999年じゃなくて2000~2009年。ややこしいね)。
論っていうか、堀井さんが個人的に「00年代にはこんなふうに変わった」とおもうことを書いたエッセイ。

個々の話にはそれなりに共感できるが、最後まで読んでもタイトルである「やさしさをまとった殲滅」が何を指すのかよくわからない。
とりとめなく思い出話をつづっているだけにおもえる。



00年代に大きく変わったのは、なんといっても情報分野だ。

2000年にもインターネットはあったがまだ一部の人のものだった。携帯電話を持っていない大人もたくさんいた。
2009年にはほとんどの人がインターネットにつながるようになった。携帯電話を持っていない人は希少な存在になった。
有史以来、たったの十年でこんなに普及したものは他にない。

 インターネットや、電子メールが画期的だったのは、「お遊び」分野での連絡が飛躍的に簡単に取れるようになった、ということである。情報も同じことである。もちろん「仕事」分野でも同じく飛躍的に便利になったのだけれど、仕事は仕事である。つまらなくても、面倒でも、それなりの手続きを踏んで粛々とこなしていくしかない。それは奈良時代の役人がやっていたことと、べつだん、変わりはないわけである。やらないと、なにかが止まってしまう。みんな、粛々とこなす。
 ところが「遊び」の分野は、かつては、もっとゆるやかにルーズに進んでいた。
 連絡の取れないやつは、どうやったって取れない。集まれるやつだけで、何とかするしかない。それでべつにかまわない。それが、21世紀に入ると、あっという間に変わっていった。みごとな風景の変貌である。

たしかに。
インターネット以前と以後で比べて、仕事の進め方は本質的には変わっていない(ぼくはインターネット以前はまだ学生だったのでよく知らないけど)。
連絡をとるべき人にはとる。
電話やFAXや手紙だったものがメールやチャットになったけど、やるべきことは変わっていない。
もしある日突然インターネットが使えなくなっても、あわてて電話やFAXで連絡をとることでなんとか同じ業務を遂行しようとするだろう(ぼくがやっているインターネット広告業なんかはまったく立ちいかなくなるけど)。

でも遊びの分野はそうじゃない。
メールやLINEができなくなったら「あいつ誘おうかとおもってたけどやっぱいいや」となる可能性が高い。
電話や手紙もくだらない用途で使われていたけど、あくまでメインは「重要なことを伝えるためのもの」だった。
どうでもいい用事で長電話をしていたら「くだらないこと電話を使うな」と言われたものだ。電話は「くだらなくないもの」のための道具だったのだ。

でもインターネットではそこが逆転した。
今でこそビジネスにも使われるが金儲けがメインではなく、ひまつぶしのためのものだ。特に00年代初頭はそうだった。

個人ホームページ、ブログ、mixi、Facebook、Twitter、LINE……。
個人がひまつぶしをする場は変わったが本質は変わっていない。

言わなくてもいいこと、書かなくてもいいことを書く場がインターネットなのだ。
だからこうしてぼくも一円にもならない文章を書いている。




70年代論や80年代論はよく見るが、00年代論はあまり目にしない。
00年代が終わって十年。もう総括できる時期にきているはずなのに。

00年代があまり語られないのは、十把ひとからげにして世代論を語りにくくなったからだとおもう。

「なんだかわからないけれど街で流行っているもの」というものが見えなくなった。もちろんいまでもそういうものはあるが、人の欲望があまりに細分化され、どこにつながればいいのか、わかりにくくなった。
 街がそういう発信をする意欲をなくし、若い男性は意味なく趣味を合わせていくことをやめた。世間が消え、情報誌が休刊となった。
 おそらく「男子も参加したほうがいい大きな世間」が見当たらなくなってしまい、「世間を巻き込む意味のよくわからない流行」というものを必要としなくなったのだ。もちろんそれがなくなるわけではないが、質が違ってきた。可視化されみなで共有できる分野ではなくなった。「その分野のことを知らないとまずいのではないか」という気分が、00年代に入って、きれいになくなっていった。(それとおたくの増加はきれいにリンクしている。おたくには世間はない。)

特に「男子」が参加する大きな世間がなくなったと堀井さんは説く。

そうかもしれない。
同じテレビを観て、同じ音楽を聴いて、同じような価値観を持っていた時代は終わった。

ぼくらが中学生のときは「昨日(『ダウンタウンのごっつええ感じ』)観た?」「(『行け! 稲中卓球部』の)新刊買った?」という会話ができたし、小室ファミリーやハロープロジェクトを嫌いな人でも trf やモーニング娘の代表曲は歌えた。
好き嫌い関係なく、ふつうに生きているだけで叩きこまれるのだ。

今の中高生の生態はぜんぜん知らないが、今でもそういうのあるのだろうか。
うちの七歳の娘の周りでは、少し前は『おしりたんてい』が爆発的に流行っていたし、今は『鬼滅の刃』が共通語のようになっている。
小学校低学年であれば今も「世代の共通語」があるが、もっと選択的に情報を得られるような年代になれば「世代の共通語」はなくなってゆくのだろう。

どんどん趣味嗜好が細分化していってしかもお互いにまったく交わらなくなっているのは、古い人間からするとちょっと寂しい気もするけど、でもまあいいことだ。
ぼくだって trf やモーニング娘を聴きたくて聴いてたわけじゃないし。情報収集のチャンネルは多いほうがいい。
観たいドラマがプロ野球中継延長のせいで中止になっていた時代に比べれば、まちがいなく今のほうがいい。


【関連記事】

現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】

官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できる/堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月20日火曜日

日本中に元気を与えたいです

ちょっと、困っているんですが。

なにがってあなた、こないだ大会出場の意気込みを聞かれて
「こんなときだから、日本中に元気を与えたいです」
って言ってたじゃないですか。

困るんですけど。
うちの子、元気がありあまってるんです。
夜もぜんぜん寝ないし、学校でもじっとしていられなくて走り回っているんです。
私が何度学校から呼びだされたことか。

これ以上元気を与えられたらもう手に負えません。

お願いですからやめてください。
日本中に元気を与えるのはやめてください。

あなたが元気をまきちらすせいで困っている人もいるんです。
日本中に元気を与えるのはところかまわずタバコを吸うようなものだと心得てください。


それからうちの子、将来は暗殺者になるとかイルカになりたいとかわけのわからないことを言って困ってるんです。

もう三年生なんですからそろそろ現実も見てほしいんです。
願えばなんでもかんでも叶うわけじゃないって気づいてほしいんです。

だからあなたがこないだ「日本中のみなさんに夢と希望を届けたいです」って言ってましたけど、それもやめてください。

届けないでください。夢も希望も。
うちには夢と希望がありすぎて困っているんです。これ以上押しつけられても困るんです。


元気にしても夢にしても希望にしても、うちはまにあってますんで自分の家だけでやってください!


【関連記事】

感動をありがとう

わたしの周囲の3人中3人が待ち望んだ金メダル

2020年10月19日月曜日

【読書感想文】永遠にわからぬ少女の恋心 / 山田 詠美『放課後の音符(キイノート)』

放課後の音符(キイノート)

山田 詠美

内容(e-honより)
大人でも子供でもない、どっちつかずのもどかしい時間。まだ、恋の匂いにも揺れる17歳の日々―。背伸びした恋。心の中で発酵してきた甘い感情。片思いのまま終ってしまった憧れ。好きな人のいない放課後なんてつまらない。授業が終った放課後、17歳の感性がさまざまな音符となり、私たちだけにパステル調の旋律を奏でてくれる…。女子高生の心象を繊細に綴る8編の恋愛小説。


二十代前半で山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』を読んだときに
「ああ、これはすごくおもしろい小説だけど十代のときに読みたかったなあ」
とおもったものだ。

それから十数年。
『放課後の音符』を読む。
うん、これは三十代のおっさんが読むもんじゃないわ

三十代のおっさんになって、結婚して子どももいて、もう十年以上も恋愛のドキドキとは無縁の生活を送っている(妻とは八年交際して結婚したので恋愛初期のドキドキは長らく味わってない)身としては、『放課後の音符』で描かれている世界はもはや異次元。

文章の瑞々しさに目がくらんでまともに読めない。

 リエは、純一を見る時、いつも唇をうっすらと開いていた。瞳は濡れているのに、唇はすっかり乾いてしまっているという感じだった。あれじゃあ、きっと喉の奥までからからになって痛むだろうと私は余計な心配をした。彼女は、他の女の子に名前を呼ばれて、我に返るまで、ずっとそうしている。何もかも忘れてしまったかのように、純一だけを見ている。素敵な絵を見た時のように、あるいは美しい音楽を聴いた時のように、感覚の一番敏感な部分をぎゅっとつかまれて、立ちつくしている。純一は彼女にとって、そういう存在なのだ。そう思うと、私は、衝撃を受ける。人間が人間に対して、そんなふうに感じることがあるなんて、私には信じられない。

すごくいい文章だとはおもうけど、これを受け止めるにはぼくの感受性が鈍磨しすぎている。ぼくのツルツルのミットではこの切れ味鋭い変化球をキャッチできない。
読むのが遅すぎた。



もはや恋する少女にまったく共感することのできないおっさんが読んでいておもうのは、ほんと恋愛って人を狂わせるなってこと。

『放課後の音符』には、狂った人たちばかりが出てくる。
人を好きになるあまり、頭のおかしいことばかり言っている。
思春期なら共感して登場人物といっしょになって胸を痛めることができたんだけど、もうぼくにはできない。
昔はぼくも人を好きになってまともじゃない行動ばかりとっていたけどなあ。〇〇をプレゼントしたこととか、□□って言ったこととか。
おもいだしたくもないのでもう忘れかけてるけど。


しかしあれだね。
少女の恋愛感情ってほんと理解不能だわ。
昔からわからなかったけど、いまはもっとわからんわ。

男はわかりやすいじゃない。
「セックスする」という明確なゴールがあって、そこに向かって最短距離(だと自分がおもっている経路)でつっぱしる。単純明快だ。動物そのもの。

でも少女ってそうじゃないでしょ。
つかずはなれずの関係性を楽しむほうが大事で、ゴールがないというか。
BLとか宝塚歌劇に入れ込むのとかまさにそう。
安野モヨコ『ハッピー・マニア』に「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」という台詞が出てくるが、少女の恋愛の本質をよく言い当てている。
少女の恋には「ここに到達したらハッピー」というゴールがない。ともすれば成就しないことを願っているようにも見える。


高校生のとき、仲の良かったMという女の子がいた。
彼女は陸上部の先輩に恋をしていた。
彼女は先輩に告白をし、めでたく二人は付きあうことになった。

少しして、Mと先輩は別れたと聞いた。Mさんから別れを告げたのだという。
「なんで別れたん?」
と訊くと、
なんか手を握ってきたりして気持ち悪かったから
という答えが返ってきた。

ぼくにはまったく理解不能だった。
だって好きな人なんでしょ? 好きな人に手を握られて気持ち悪いってどういうこと? セックスを強要されたならともかく、手を握られて気持ち悪い人となんで付きあうの? しかもMのほうから告白して付きあうことになったのに、手を握られたからフるってひどすぎない?

Mの心理がまったく理解できなかった。今でもわからない。
Mにフられた先輩も理解できなかったにちがいない(ほんとにかわいそうだ)。


でも、どうやらMのように残酷な心変わりをする女性はめずらしくないらしい。
他にも同じような話を聞いたことがある。
すごく好きだったのに、どうでもいい理由で百年の恋が冷めたとか。それも「虫が肩に止まっていたから」のような、まったく本人に責がないような理由で。

いまだにぼくは女心がわからない。
でも「永遠に理解できない」ということは理解している。その点が、女性の気持ちが理解できる日がくるものとおもっていた思春期の頃とはちがう。ソクラテスみたいなこと言うけど。

だから今、思春期に戻ったらもうちょっとうまくやれるとおもうんだよね。
あー! 戻りてー!!


【関連記事】

【読書感想文】歳とってからのバカは痛々しい / 安野 モヨコ『後ハッピーマニア』

【読書感想文】ちゃんとしてることにがっかり / 綿矢 りさ『勝手にふるえてろ』



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月16日金曜日

【読書感想文】カラスはジェネラリスト / 松原 始『カラスの教科書』

カラスの教科書

松原 始

内容(e-honより)
ゴミを漁り、カアカアとうるさがられるカラス。走る車にクルミの殻を割らせ、マヨネーズを好む。賢いと言われながらとかく忌み嫌われがちな真っ黒けの鳥の生態をつぶさに観察すると、驚くことばかり。日々、カラスを追いかける気鋭の動物行動学者がこの愛すべき存在に迫る、目からウロコのカラスの入門書!

カラス研究者によるカラスの本。
おもしろかった。

こういう「自分の生活にはまったく影響ないものに人生を捧げている人の本」にはまずハズレがない。
伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』とか。


都会にも住んでいるし、日本ではハトと並んで人間にいちばん近い鳥だ。
どこにでもいるのかとおもっていたらそうでもないらしい。日本のすぐ近くでも、香港や韓国には街中にカラスがあまりいないのだとか。
日本は世界有数のカラス大国なんだそうだ。だからなんだって感じだけど。

すごく身近な存在なのに、嫌われているカラス。
ま、近いからこそ嫌われているのかもしれないな。
ゴキブリだって山にしか生息していなければあそこまで嫌われることないだろうし……。

ぼくもあまりいい印象は持っていなかったが、この本を読んでカラスのことがちょっと好きになった。
あまりに著者がカラスのことを魅力的に語るんだもの。



読めば読むほど、都市のカラスの生活に人間の存在が深くかかわっていることがわかる。
ある日突然人類が死に絶えたら、都市に棲んでいるカラスもばたばたと死んでしまうかもしれない。

『カラスの教科書』によると、カラスは芋をあまり食べないが肉じゃがやフライドポテトや焼き芋は好きなんだそうだ。また米は好きじゃないけどご飯はよく食べるとか。
もう人間の味覚になっている!

都会はゴミが多いので、野山よりもずっと多くのカラスが棲めるらしい。
「人間が住み着いたので動物が追いやられる」ということが多いが、カラスに関しては逆で、人間がいるからこそ生きやすくなる。
もちろん人間に駆除されたり交通事故に遭ったりもするわけだが、それを差し引いても人間の近くにいることはカラスにとってメリットが大きいのだろう。


人間にとってもメリットがないわけではない。
ゴミを漁るので嫌われるが、カラスは片付けもしてくれているのだそうだ。

「掃除屋」という事でカラスが人知れず活躍している例をご紹介しておこう。週末の早朝、繁華街や駅前に、飲みすぎてリバースしちゃった痕跡を見ることがある。ところが、吐いた跡があるのに吐瀉物がない、という例を見たことはないだろうか?あれは人間が片付けるよりも早く、カラスが食っているのである。カラスにとってはご馳走らしく、何羽も群がっていることもある。カラスが去った後は固形物が全て片付けられ、水をかけて流せばいいばかりになっている。飲みすぎてやっちゃった経験のある方は、カラスに感謝しなくてはいけない。

そもそも、ゴミを漁るなっていうのもずいぶん勝手な話だよなあ。

食べ物をそのへんに放りだしておいて「勝手に持っていくんじゃないぞ」って言ってもなあ。

カラスは文字が読めるとおもっている人からのメッセージ。



カラスをこわがる人も多いが、カラスのほうがずっと人間をこわがっている。
なぜならまともにやりあったらぜったいにカラスが負けるから。

 ハシブトガラスは都市部でよく見かけるカラスだ。東京でカアカア鳴いている、あれがハシブトガラスである。全長(くちばしの先から尻尾の先まで)は56センチほどになり、翼を拡げると1メートルほど。こう書くとものすごく大きい鳥だと感じるだろうが、体重は600~800グラムほどしかない。鳥は見た目より遥かに軽いのである(スズメだと30グラムくらいしかない)。体重600~800グラムといえば、成人男性の1パーセントだ。ハシブトガラスが100羽集まって、やっと一人ぶんの重さということである。

そんなに軽いのか……。
アフリカゾウの体重が約6トン(成人男性の約100倍)だからカラスから見たヒトは、ヒトから見たゾウぐらいの重量だ。めちゃくちゃ怖いだろう。

アニメ版の『ゲゲゲの鬼太郎』で鬼太郎は数十羽のカラスに持ちあげられて空を飛んでいたが、数十羽集まってもせいぜい30kgぐらい。
人間ひとりを持ちあげて空を飛ぶのは相当きつそうだ……。
鬼太郎がめちゃくちゃ軽いという可能性もあるが、原作では鬼太郎が力士になって活躍したりしていたのでその可能性は低そうだし。



『カラスの教科書』によると、カラスが人を襲うことはめったにないらしい。
「巣にヒナがいるときに人間がなわばりに入ってきて、警告音を出しても立ち去らないときにだけ威嚇する」程度なんだそうだ。
まあゾウとヒトぐらいの対格差があったら、一対一で攻撃をしかけようとはおもわんわな。

だが他の鳥を襲うことはあるそうだ。

 さらに、鳥類も食べる。といってもカラスは猛禽と違って大した飛行能力も、一撃で獲物を仕留める爪も持っていないので、狙うのは主に卵と離だ。この辺が鳥好きにも嫌われる理由だが、鳥の巣を見つけるとヒョイと入って卵をくわえて来る。時には力づくで巣箱を破壊して捕食する。雄でも同じだ。巣立ち雛や成鳥を狙うこともあるが、見るからにヨタヨタのスズメの雄にさえ逃げられていたから、カラスの捕食能力は大したことがない。ハトを襲っている場面も何度か見たが、いずれも失敗して逃げられていた。捕食の方法としては、いきなり背中に飛び乗っておさえつけるというものだが、この時に爪を突き刺して息の根を止める猛禽とは違い、ハトが暴れると振り落とされてしまう。ただ、一度だけ目撃した捕食直後のシーンでは、背中に乗ってハトが死ぬまで首筋をガッツンガッツンとつつき、最後は頭をくわえてひきちぎってポイと捨てていた。この辺の「有効な武器を持たないが故の見た目のむごたらしさ」がさらにカラスの評判を落としている気がする。カラスにしてみれば大ご馳走なのだが……(しかしまあ、見た目に凄惨なのも確かではある。私の後率は上から羽がハラハラと落ちてくるので足を止めたところ、次の瞬間にハトの生首が落ちてきて腰を抜かしそうになったと言っていた。ビルの上でカラスがハトを食べていたらしい)。

ひい、たしかにこれはビビるな……。
〝背中に乗ってハトが死ぬまで首筋をガッツンガッツンとつつき、最後は頭をくわえてひきちぎってポイと捨てていた〟だもんな……。
幼少期に目撃したら一生トラウマになりそうな光景だ。

しかしタカが小鳥や小動物を狩ったりする光景にはそこまでの残忍さは感じない。
一撃必殺で仕留めるより、じわじわなぶり殺しにするほうが残虐に見えるのだ。殺されるほうからしたらどっちも同じなんだろうけど。

そういや殺人事件でも〝めった刺し〟というと残虐な印象を受けるが、あれはたいてい「生き返って反撃されるかも」という臆病さによる行動らしい。
ほんとに残忍な殺人犯はもっと手堅く殺す、とどこかで聞いたことがある。

ただ「カラスは弱いから死ぬまで首筋をガッツンガッツンとつつくんだよ」と言われても「じゃあ許せるね」となるかどうかはまた別の話で……。




  カラスの特徴は、特殊化していないことだと思う。絵に描いてみるとわかるが、カラス類のシルエットは、くちばしがやや大きいことを除けば非常に基本的なトリの形をしていて、明快な特徴がない。だから、ものすごく得意という分野はないのだろうが、逆に言えば、何でも一応はできる。シギのような長いくちばしも、猛禽のような鋭い爪も、アホウドリのような長い翼も持ってはいないが、それでもカラスはちゃんと餌を食っているわけだ。包丁で言えば「これ一本でだいたい間に合う」という万能包丁で、刺身や菜切りに特化したつくりではない。
 何でも一応はできるということは、潰しが効くということである。これはどんな場所でも、何を餌とする場合でも、ソコソコの成功を収めることができそうな戦略である。

なるほどー。考えたことがなかったけど、言われてみればたしかにそうだね。

すごく強いとか、めちゃくちゃ速く飛べるとか、樹の中にいる虫をとれるとか、これといった特徴はカラスにはない。

なにかに特化したやつはその状況では強いけど、環境が変われば生きていけない。
だが全部そこそこやれるカラスは、環境の変化にも強い。だからこそ森林が都市化されても適応して生きていくことができた。

真っ黒い色が特徴的なので目がいきがちだが、じつはカラスはごくごく平凡な鳥なのかー。


【関連記事】

クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】

【読書感想文】役に立たないからおもしろい / 郡司 芽久『キリン解剖記』

【読書感想文】ヒトは頂点じゃない / 立花 隆『サル学の現在』



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月15日木曜日

【コント】合唱コンクール

「指揮者は山口で決まりだな。
 じゃあ次、伴奏。伴奏やってくれる人ー!」

  「……」

「誰もいないのか。合唱コンクールの伴奏なんてそんなに上手じゃなくてもいいんだぞ、誰かピアノやってくれる人ー」

  「……」

「なんだ、誰もやりたくないのか。
 しかし誰かがやらなきゃいけないんだから頼むよ。
 まずピアノ弾ける人に出てきてもらって、その中から決めようか。
 ピアノ弾ける人―」

  「……」

「いやいや、三十人もいるんだから誰かひとりぐらいピアノ弾けるやついるだろ。
 正直に言ってみろ、ピアノ習ってたやつは?」

  「……」

「べつに十年やってたとかじゃなくていいんだぞ。
 そんなに難しい曲じゃないんだし。一年以上ピアノ習ってたやつは?」

  「……」

「え……? マジで……。マジでこのクラス、ピアノ弾けるやついないの!?
 ひとりも? ひとりぐらいいるでしょ」

  「……」

「あれだよ。ピアノじゃなくてもいいんだよ。
 エレクトーンでもいいしオルガンでもいいし、なんならアコーディオンでもいいんだよ」

  「……」

「さすがにアコーディオンはいないか。あれは道化師が弾くやつだもんな」

  「あのー」

「おっ、大竹。おまえ弾けるのか。
 いいんだぞ、男子でもぜんぜん」

  「小学校の授業で鍵盤ハーモニカやったんで、『きらきら星』ぐらいなら弾けますが」

「ぜんぜん弾けねえじゃん!
 上手じゃなくてもいいって言ったけど、『きらきら星』はないわー。
 『きらきら星』って披露宴で新婦の友人がハンドベルでやるやつじゃん。あんなの演奏するって言わねえんだよ。お茶にごすって言うんだよ」

  「あのー」

「おっ、川島。なんだよおまえ弾けるのかよ、早く言えよ」

  「ピアノは弾けないんですけど、ハープなら十年やってます」

「ハハハハープ!?
 ハープっておまえあれだろ、人魚が岩の上に座って奏でるやつだろ。
 おまえあれ十年やってんの? すげー」

  「あとテルミンもできます」

「テルミンってなによ」

  「世界初の電子楽器です」

「あーあれか。楽器本体にさわらずに空間に手を置くだけで音が出るやつか。あれできるってすげー。一芸入試狙えんじゃん」

  「それからビューグルも弾けます

「ビューグルってなによ」

  「ビューグルは軍隊が使うラッパです」

「なにおまえ軍隊のラッパ吹けんの。ほんとに民間人?」

  「あとチューブラーベル教室も十年通ってます」

「チューブラーベルってなによ」

  「『のど自慢』の鐘でおなじみのやつです」

「あーあれか。うそ、あれ専門の教室あんの。あれきわめてNHK以外の就職先あんのかよ」

  「あとカホンとタムタムとリソフォンとツィンクとブブゼラと法螺も一応お金とって演奏できるぐらいの腕前はありますけど……」

「なんかわかんないけど超すげーじゃん。じゃあ伴奏やれよ!」

  「ピアノはやったことないのでドの音がどこかも知りません」

「なんでだよ。そんなマイナー楽器きわめてるくせになんでピアノ弾いたことないんだよ。そういうマイナー楽器はピアノとかギターとかで大成するのをあきらめたやつが逃げるとこだろ!」

  「ひどい偏見ですね」

「もういいや、さっきのなんとかベルでいいや。のど自慢の鐘のやつ。あれで音階演奏できるだろ。あれを伴奏にしよう」

  「あーでも私がチューブラーベルで弾けるの、のど自慢の“不合格のときの音”だけなんですよね……」

「チューブラーベル教室に通ってる十年間、何やってたの!?」

2020年10月14日水曜日

【読書感想文】移民受け入れの議論は遅すぎる / 毛受 敏浩『限界国家』

限界国家

人口減少で日本が迫られる最終選択

毛受 敏浩

内容(e-honより)
すでに介護・農漁業・工業分野は人手不足に陥っている。やがて4000万人が減って地方は消滅をむかえ、若者はいい仕事を探して海外移民を目指す時代となるだろう。すでに遅いと言われるが、ドイツ、カナダなどをヒントに丁寧な移民受け入れ政策をとれば、まだなんとか間に合う。

みんな知っているように、日本の人口は減少している。
これから先もどんどん減る。少なくともあと百年は自然人口増加に傾くことはないだろう。

「いやなんとかして増やせ!」といってもそれはムリ。そもそも二十代三十代が減っているんだから、増えるわけがない。

「じゃあ人口減を受け入れていくしかないか」と諦められるかというとそれも厳しい。
なぜなら全体的に縮小していくのではなく、高齢者は増え、働き手が減っているからだ。
このような人口構成の変化を受け入れるということは、医療や介護や治安やインフラや教育や国民の便利な生活などを捨てるということである。
「昔は良かった」と口にする人だって、日本だけが百年前の暮らしをすることを望んでいるわけではまさかあるまい。

生産性を上げれば経済成長するとか、イノベーションを起こせば生産性は向上するとかいう人がいるが、圧倒的多数の老人に支配されている国で生産性が上がったりイノベーションが起こる可能性が高いとおもっているのなら、その人の脳内は相当お花畑だ。


人口は減る、その中で少なくとも今の生活水準を保つにはどうしたらいいのさ?

……という問いに対する著者の回答が「移民の受け入れ」だ。



まったく同感。
移民の増加以外に、日本人が「今の暮らしをそこそこ保つ」方法はない。

だが、移民に対する反発はまだまだ強い。
「治安が悪くなる」「日本人の仕事が奪われる」といった、ぼんやりとした不安を抱えている人は多い。ぼくもそうだった。

 とはいえ、外国人労働者が増えれば、日本人の給与が上がらなくなるのではと心配する人たちもいるだろう。日本では現在、給与水準は何十年も上昇しない状態が続いている。しかし、その理由は産業構造の転換による高付加価値化が達成されていないためであり、外国人の雇用とは無関係である。適性な規模の外国人労働者を受け入れれれば、日本人に影響を与えることはない。
 人手不足が地域経済の足を引っ張る状況がいたるところで生まれている。日本人の職が奪われることを恐れるよりむしろ、人手不足による経済縮小、産業の衰退を心配すべきだろう。

今の日本は人手不足だし、この程度はこの先どんどんひどくなる。仕事を奪われる心配よりも働き口そのものが消失する心配をしたほうがいい。

高度経済成長期は働き手がどんどん増えていったわけだけど、仕事を奪われるどころか仕事はどんどん増えていった。
なぜなら労働者は消費者でもあるからだ。どんどん来てどんどん稼いでどんどん使ってくれれば、日本人にも恩恵があるはず。

無制限に受け入れるならともかく、ちゃんと移民の属性や量をコントロールすれば、好影響のほうが多いはず。



移民増加による治安の悪化を心配する人も多いが、むしろ今の移民受け入れに消極的な姿勢こそが治安の悪化を招いていると著者は指摘する。

 人材獲得競争の狂想曲が日本中で鳴り響き、国を越えた人材斡旋が加速するこうした異常とも思える事態が起こっている。それだけ人手不足は逼迫しているということだろう。「移民政策をとらない」という前提が、人手不足を背景に、さまざまな矛盾や悲喜劇をもたらしている。
 さらにもっと憂慮すべき事態も起こっている。
 2017年1月1日現在の不法残留者数は、6万5270人と1年前に比べて2452人(3.9%)増加した。2014年1月まで減少傾向にあったが、3年連続で増加を続けている。一方、技能実習生の失踪も急増している。2015年の失踪者は5803人と3年で3倍近く増えて過去最多となった。
 失踪する技能実習生が急増しているのは、母国で聞いていたよりも、日本で受け取る収入が少なく、このままでは3年いても借金が返せないといった理由で、闇の労働斡旋業者に駆け込むからといわれている。失踪者が日本社会のアンダーグラウンドに入りこむとすば、それは日本の将来の治安にも大きく影響するだろう。

居場所も行政が管理しやすい。犯罪をしたら強制送還される。
ふつうに考えれば、移民のほうが犯罪をやりにくいんじゃないだろうか。

ところが「治安が悪くなるから」という漠然とした理由で移民受け入れに反対していたら、本当に治安を悪くするような外国人しか来てくれなくなる。

また技能実習生制度に代表されるように来日外国人の待遇が悪いから、まともな仕事を続けることができなくなって犯罪に走るようになる。

移民に対する偏見・差別こそが外国人犯罪を生んでいるのだ。



移民は受け入れたほうがいい。
これはもうぜったい。

だが問題は、日本で働きたい外国人がいるのか、という問題だ。

たとえばぼくが外国人で「海外に出稼ぎに行きたい」とおもってたとして……。まず日本は選ばない。
だってぜんぜん魅力的じゃないもん。排他的だし、日本語はつぶしがきかないし、衰退途上国だし。
三十年前の日本ならいざしらず。


「どうやって来てもらうか、どうやって受け入れていくか」を議論しなければならないのに、まだ「受け入れて大丈夫か」とのんきなことを議論している。

 インドネシア人の大学院生が、経済連携協定(EPA)で来日したインドネシア人の介護士候補生にインタビューしている。その結果、仮に試験に通ったとしても帰国することを検討しているインドネシア人がたくさんいたという。
 理由は、日本では何年たっても給与が上がらないからという。初任給は当然、日本のほうが高いが、インドネシアで就職すれば、国が経済成長しているので、年齢とともに給与が上がっていく。日本で生活していても頭打ちだということに、日本に来て初めて気がついたのだ。
 先進国ではどの国も高齢化が進んでいる。韓国は移民の受け入れに向けて、人口減少が始まる前に方向転換を始めた。中国も一人っ子政策を廃止し、最近では海外人材獲得めに、公安省の国境管理と出入国管理局を統合・拡大し、新たに移民局を創設する計進められていると報じられている。中国がもし移民受け入れを始めれば、そのインパクトはきわめて大きいだろう。
 今後、東南アジアでも高齢化が進み、所得も上がっていく。急速な人口増加が顕著なべトナムは、同国は高齢化のスピードがきわめて早いことで知られている。質の高い移民は世界中で奪い合いになっていく中で、日本としていち早く有能な人材を確保する道筋を作ることが必要となる。後手に回れば、移民反対論者が恐れるような低レベルの人材しか日本に来なくなってしまうだろう。

すでに「移民受け入れの絶好のタイミング」は失われつつある。

かつては日本に働きに来ることの多かった中国人は、自国が経済成長しているのでどんどん来なくなっているらしい。
他の国も後に続く。
そりゃそうだろう。
ただでさえ独自の言語である日本語というハンデがあるのに、政府が受け入れに積極的じゃないんだから。


前にも書いたけど、問題は人口が減ることそのものより、日本の多くのシステムがいまだに「人口が増え続けること」を前提としたものであることなんだよね。
自動車とか住宅とかまちがいなく衰退産業でしょ。人口が減るんだから。だからってただちになくせとはいわないけど、縮小させてゆく心づもりをしなくちゃならない。
いまだにものづくり大国とか言ってんだから笑っちゃう。

竹田 いさみ『物語オーストラリアの歴史』によると、オーストラリアはかつては白豪主義という差別的な方針をとっていたが、今ではどんどん移民を受け入れてうまくやっているそうだ。

日本の最大の弱点は「状況が悪くなっていること」ではなく「状況が悪くなっているという事実を受け入れられない」ところかもしれない。



全体的に「移民受け入れが必要、受け入れるためにやることはたくさんある」著者の主張には賛成なのだが、以下の考え方にはまったく賛同できない。

 人口減少の現場を直視する自治体の職員は、心の中では白旗を上げて、人口減少は止められないと考えているかもしれない。人口減少で集落が一つや二つ消えるのはやむを得ないと、もし彼らが考えているのであれば負け戦は必至である。「なにがなんでも消滅集落をこれ以上増やさない、外国人住民の受け入れも含めて、ありとあらゆる手段をとって地域を守る」という強い決意がない限り、人口減少はずるずると続き、地域社会は取り返しのつかないほど衰退した状況になるだろう。

こういう考え方、すごく嫌い。

手段と目的が入れ替わっている
「不便になる」のが嫌だから「人口減少を止める」話をしてたはずなのに、「人口減少を止める」ことが目的になって、そのためなら「なにがなんでも」やるべきだと言っている。
本末転倒だ。

すべての地域を守るのは不可能だ。
だいたい、今日本人が住んでいる土地の多くはここ百年以内ぐらいに切り開かれた土地だ。
本来なら人が住めるような場所ではなかった場所に、人口が増えたからという理由でむりやり住んでいる。
だから人口が減ったら見捨てるのはいたしかたない。
(ぼくも戦後に切り開かれた住宅地で育ったのでふるさとが消滅する可能性があるが、悲しいけどそれもやむをえない。思い出を守るために不便な生活はしたくない)

間引きをしないとすべての果実が大きくならないのと同じように、消滅集落をどんどんつくるのが共倒れを防ぐ方法だとぼくはおもう。


移民受け入れはいいとおもうんだけど、この本の論調は移民受け入れそのものが目的になっているフシがあるなあ。


【関連記事】

【読書感想】内田 樹 ほか『人口減少社会の未来学』

【読書感想文】めざすはミドルパワー / 竹田 いさみ『物語オーストラリアの歴史』



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月13日火曜日

斎場級に住みやすい 墓地墓地住みやすい

我が家から徒歩五分ぐらいのところに墓地と斎場がある。

で、おもったのだけど、墓地や斎場の近くって実は住みやすい場所なんじゃないかな。

そうおもった理由について。


 地価や家賃が安い

嫌がる人が多いからね。
たぶん安くなる。


 公共施設や商業施設に近い

墓地や斎場の真横に家やマンションが建てづらいからだろう、公共施設が多い(あくまで我が家の近くの場合だが)。

図書館や警察署や大きめの公園があり、大型スーパーがある。
便利だし治安もいい。
公共施設はだいたい夕方には人の出入りがなくなるので夜も静か。


 静か・陽当たり良好

墓地や斎場の近くは静かで陽当たり良好だ。

お通夜でも21時ぐらいには終わるし、基本的に夜中は静か。
(もしかしたら墓場で運動会してる連中がいるかもしれないが、ふつう目に見えないので大丈夫)

だいたい大声で騒ぐような場所じゃないし。
ヤンキーの溜まり場にもならないし。

墓地に高い建物が建つこともないから陽当たりもいい。
墓地の真横でも住みやすいかもしれない。


霊的なものを気にしない人にとっては、斎場や墓地の近くっていいことづくめなんじゃないかな。

昔は斎場から煙が出ていたんだろうが、今はまったくないし。

強いてデメリットを挙げるなら、墓地には草や水があるから虫が棲みつきやすいことぐらいかな。


【関連記事】

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その1

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その2

【エッセイ】墓地散歩のすすめ その3

2020年10月12日月曜日

【読書感想文】事実は小説よりもえげつない / 櫛木 理宇『寄居虫女』

寄居虫女(ヤドカリオンナ)

櫛木 理宇

内容(e-honより)
平凡な家庭の主婦・留美子は、ある日玄関先で、事故で亡くした息子と同じ名前の少年と出会い、家に入れてしまう。後日、少年を追って現れたのは、白いワンピースに白塗りの厚化粧を施した異様な女。少年の母だという女は、山口葉月と名乗り、やがて家に「寄生」を始める。浸食され壊れ始める家族の姿に、高校生の次女・美海はおののきつつも、葉月への抵抗を始め…。


いるよなあ。こういう、人の弱みに付け入るのがものすごくうまい人間。

ぼくは直接的な被害に遭ったことはないのだけど(なぜなら優しい人間じゃないから)、ニュースやルポルタージュを見ると「この加害者もひどいやつだけど、被害者のほうもお人よしすぎやしないか。もっと早めに反撃するなり警察に行くなりすればいいのに」と言いたくなる事件がある。


十年ほど前、豊田 正義『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』という本を読んだ。ある一家に入りこんだ男が家族全員を監禁・虐待によって奴隷状態にし、家族同士の殺し合いまでさせた事件のルポルタージュだ。

犯人よりも、家族の心理に疑問を抱いた。
なぜ言いなりになったのか。
大勢の人間に監禁されていたとかならわかるが、相手はたったひとり。何人かでかかれば力で押さえつけられるはずだ。
ずっと監禁されていたわけではないので、反撃するなり、逃げて警察に駆けこむなりできたはず。孤島の一軒家とかではなく、マンションの一室だったのだから。

でも被害者家族はそれをしなかった。
穏便に収めようとして、ずるずると深みにはまり、気づいたときには抜けだせなくなり、結果的にすべてを失った。

人間の理性って案外かんたんに壊れるものかもしれない。
眠いとか暗いとか怖いとか、そんな些細なことで、かんたんにまともな判断ができなくなってしまうのかも。


あと「家族がそろいもそろって騙された」というより「家族だからこそ騙された」ってのもあるかもしれない。
海外旅行でも、ひとり旅よりもふたり連れの旅行のほうが危ない目に遭いやすいと聞いたことがある。ひとりなら警戒するのに、ふたりだとお互いが相手に判断を任せてしまって、危険な場所にも足を踏み入れてしまうからだとか。

同じように、ひとり暮らしの家に誰かがやってきたら警戒する。ちょっとでもおかしなところがあれば追いだそうとするなり警察に相談するなりする。
ところが家族だと「なんか怪しいけど、ほんとにやばかったら自分以外の誰かがなんとかするだろ」とおもってしまって早めの防衛対策をとれなくなる。

頼れる人がいるときこそ気を付けなくてはならない。



『寄居虫女』では、巧みに家族の中に入りこみ、中からじわじわと家族関係を腐食させてゆく不気味な女の姿を丁寧に描いている。

「なぜなの」
 ビスケットと牛乳の盆を持って部屋を訪れた葉月に、震える声で美海は訊いた。
「なぜ、わたしのうちが狙われたの。――教えて。わたしたち、いったいあなたになにをしたの」
 葉月は首をすくめた。
「べつに、なにも」
 平坦な声だった。冬になったというのに、やはり彼女は長く薄い手袋をはめている。顔だけでなく首やデコルテに至るまで、こってりと白く塗りたくっている。目のかたちをアイラインで描き、唇を真っ赤な口紅で描いた仮面から、地の顔はうかがいようもない。
「ただ、とてもいいおうちだと思ったの。それだけよ。いいおうちには、誰だって住みたくなるものでしょう」
「そんな、――……」
「またね」
 ぱたりとドアが閉まった。

この女の存在は不気味ではあるんだけど、ぼくとしてはぜんぜんこわくなかった。

ひとつは、この女が計算づくで動いてること。
本物のサイコパスって本能的に人を操る方法を心得てるんじゃないかとおもう。計画的に動いているので、得体の知れなさが薄れてしまっている。

もうひとつ、こっちが最大の理由なんだけど、現実に負けていること。
事実に忠実に書いたルポルタージュである『消された一家 北九州・連続監禁殺人事件』のほうがよっぽどこわかった。

『寄居虫女』は北九州連続監禁殺人事件を下敷きにしているらしいのだが(ストーリーはだいぶちがうが)、実際の事件を小説に仕立てるんなら現実を越えなくちゃだめだとおもうんだよね。
実際の殺人犯のやりかたのほうがもっと巧妙で、もっと得体が知れなくて、もっとえげつないことやってたからね。どうしても見劣りしてしまう。

あと、このラストは嫌いだなあ。
とってつけたように「いろいろあったけどちょっとだけ救われました」「犯人のほうにもこんな事情があったんです」ってつけてむりやり希望のあるまとめかたをしているようで。

ほんのわずかな救いを用意したところで「ああ、よかった」とはならないわけで、だったらとことんまでえげつない展開にしたほうがよかった。

『少女葬』のほうは最後まで容赦のない展開だったのでそれぐらいの強烈さを期待したのだが、ちょっと期待外れだったな。


【関連記事】

【読書感想文】最悪かつ見事な小説 / 櫛木 理宇『少女葬』

見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月9日金曜日

【読書感想文】老人の衰え、日本の衰え / 村上 龍『55歳からのハローライフ』

55歳からのハローライフ

村上 龍

内容(e-honより)
晴れて夫と離婚したものの、経済的困難から結婚相談所で男たちに出会う中米志津子。早期退職に応じてキャンピングカーで妻と旅する計画を拒絶される富裕太郎…。みんな溜め息をつきながら生きている。ささやかだけれども、もう一度人生をやり直したい人々の背中に寄り添う「再出発」の物語。感動を巻き起こしたベストセラーの文庫化!

小説のうまい現代作家は誰かと訊かれたら(誰がそんなこと訊くんだ)、ぼくは村上龍氏だと答える。
特に短篇のうまさには舌を巻く。『空港にて』は目をひくような派手な仕掛けはないが、ぼくの好きな短篇集のひとつだ。

『55歳からのハローライフ』もやはりすばらしい出来だった。
アールグレイ、ミネラルウォーター、コーヒー、プーアル茶、日本茶といった飲み物がそれぞれの中篇でいい小道具として機能している。うまいなあ。

登場人物は、夫と離婚して結婚相談所に登録した女性、ホームレスになった旧友と再会する男性、早期退職後に再就職をめざすがうまくいかない男性、夫の代わりであるかのように愛情を注いでいたペットの犬が死んでしまう女性、トラック運転手として働いていたが今は孤独を抱えて暮らす男性。主人公はいずれも五十五歳ぐらい。村上龍氏と同世代であり、団塊の世代でもある。

老後、経済状況、健康、仕事、夫婦関係、家族、介護、生き甲斐。事情は異なるがみんなそれぞれ不安や悩みを抱えている。
そのどれとも無縁で生きられる人はいないだろう。ぼくはまだ三十代で今のところは大した悩みもなく生きているが、あと何十年かしたら確実に同じ問題に直面することになる。いやひょっとしたら一年以内に悩むことになるかもしれない。

『55歳のハローライフ』は、こうした悩みに対してハッピーな解決も明確な答えも出してくれない。
それでいい。答えなんかないし、解決することもまずない問題なのだから。



高齢者の悩みが深刻である最大の理由は、この先よくなる見通しが立たないことだろう。

若ければ貧乏でも仕事がなくても病気になっても恋愛がうまくいかなくても家族とうまくいかなくても、いつかは好転する可能性がある。
だが歳をとると、たいていの物事は悪くなる一方で良くなることはまずない。
高齢者の自殺が多いというのもわかる気がする。クサいことを言いたくないけど、やっぱり〝希望〟がないと人は生きていけないものだ。

『55歳のハローライフ』で描かれる閉塞感は、高齢者の閉塞感であると同時に、今の日本の閉塞感であるように感じる。

55歳の悩みが好転する可能性がほぼないのと同じように、高齢化した今の日本の問題が好転することもまずありえない。
経済、人口構成、財務状況、仕事、国際競争力、都市の老朽化……。今後よりいっそう悪くなることはあっても、長期的に改善することはまずないだろう。
この先、生きづらい国になることはほとんど宿命づけられている。

『55歳のハローライフ』で描かれる問題は、日本全部の問題だ。
すっかり年老いて、これから衰退していく一方であることがわかりきっている国。

『55歳のハローライフ』に出てくる人たちは、まだ幸せなのかもしれない。自分の老いの問題だけを抱えていかなくてはならないのだから。
それより下の世代は、国の老いもいっしょに背負いながら老いていかなくてはならないのだ。



『キャンピングカー』より。

 富裕の計画とは、中型のキャンピングカーで、妻と日本全国を旅することだった。夢といってもよかった。アメリカの映画などを観ると、退職したあと、キャンピングカーを大自然の中を旅する夫婦がよく登場する。単なる観光旅行ではない。思うままに好きなところを訪ね、美しい山や海や湖を眺めながら時を過ごすのだ。計画は、妻には内緒にしていた。びっくりさせようと思ったのだ。(中略)妻はもともと温泉好きだったし、喜ぶに違いなかった。絵が趣味で、何度も美術団体展で入賞し、友人が経営する喫茶店などを借りて個展を開くほどの腕前だった。子どもたちが働きはじめてからは、近所の文化センターで水彩画と油絵を教えている。北海道ニセコや九州阿蘇の雄大な風景を前にして、スケッチしている妻と、その素子を救笑みながら見守りコーヒーを沸かす自分の姿を、富裕は何度となく思い描いた。

この文章を読んで「あーこれはだめなやつだ……」とおもわなかった人は離婚に気を付けたほうがいい。

結婚生活でいちばん大事なことは「ひとりの時間をもつこと」だとぼくはおもう。自分が結婚してよくわかった。
結婚前は四六時中ずっといっしょにいられたが、それは一日二日のことだからだ。毎日いっしょにいるのはきつい。
「ひとりの時間」というのは自分ひとりの時間でもあるし、妻ひとりの時間でもある。

うちの家の土曜日の夜の過ごし方。
子どもが寝た後、ぼくは本を読んだりパソコンでブログを書いたり。妻は別の部屋でアニメを観たり手芸をしたり。まったく干渉しない。「何してるの?」とか「それなんて本?」とかの会話もない。
同じ家にはいるが、極力関わろうとしない。電車のボックス席にたまたま乗り合わせた他人と同じだ。
この「お互い口を聞かない時間」がすごく大事なのだ。

結婚相手に求める条件として「趣味が合う」はよく言われることだが、趣味は合わないほうがいいとおもう。
「嫌いなタイプが一緒」「好きな味付けが一緒」という意味での趣味が合うことは大事だけど、「登山が好き」とか「映画鑑賞が好き」とかの趣味はむしろ合わないほうがいい。

夫婦で旅行なんてぞっとする。
妻は妻で友だちと旅行、夫は夫で友だちと旅行。そんな夫婦のほうがうまくいく気がする。

この小説の「妻とのキャンピングカー旅行を計画。しかも妻には内緒で」なんて最悪だ。
これで喜んでもらえるとおもっているのがどうしようもない(実際この後妻から断られる)。
こんなことするぐらいなら、まだ「女ともだちと旅行」のほうがマシなんじゃないかとおもうぐらい。


ぼくがこの世でもっとも理解不能な職業のひとつが夫婦漫才師だ。
家でもいっしょにいて、ふたりで仕事をする。
よく発狂しないものだとおもう。
ぼくだったらぜったい無理だ。
桑田佳祐と原由子がソロ活動したくなるのもわかる。


【関連記事】

表現活動とかけてぬか漬けととく/【読書感想エッセイ】村上 龍 『五分後の世界』

【読書感想文】今よりマシな絶望的未来 / 村上 龍『希望の国のエクソダス』



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月8日木曜日

【読書感想文】もはやエロが目的ではない / JOJO『世界の女が僕を待っている』

世界の女が僕を待っている

WORLD SEX TRIP

JOJO

内容(e-honより)
マネしたくてもマネできない!エロをテーマに世界100か国超を旅する人気ブロガー・YouTuberが、日本人が足を踏み入れないローカル風俗に突撃!


著者は世界中をまわり、風俗店や出会い系で各国の女(とオカマ)とエロいことをしているブロガーだそうだ。
そんな著者による、世界各国の風俗エピソードがてんこもりの〝クレイジージャーニー〟な旅日記。


ぼくは海外風俗はおろか国内風俗ですら「なんか怖い目に遭いそう」と尻込みしてしまう小心者なので、『世界の女が僕を待っている』に書かれているのはまったく未知の世界の出来事でおもしろかった。
アジア、ヨーロッパ、アフリカ、中東。100か国以上の風俗店をまわっている。
読んだだけでお腹いっぱいという感じで、真似しようとはおもわなかったが。

しかしこの人すごいなあ。尊敬はできないが感嘆する。
世界中あちこちまわって、危険な地域にもエロのためならとずんずん入っていって、エロいことをしている。
風俗にも行くし、非合法な風俗にも手を出すし、外国人の素人もナンパするし。
非合法風俗もそうだけど、イスラム圏で女性を口説いたりしているのも読んでいてハラハラする。へたしたら逮捕されたり命をとられたりするんじゃないの。
ただただ感心するばかりだ。

しかしこの人、行動力はあるし、外国語は堪能だし、マメだし、めちゃくちゃモテるだろうな。エロいし。




沿ドニエストル共和国(国際的には承認されていない国家なので形式的には東欧・モルドバの一部)を訪れたときの話。

バーの店主に、娼婦のところへと連れていってもらったそうだ。

 彼の車に乗り込み、心当たりがあるというスポットへ向かった。出発して2、3分で減速した。旧ソ連スタイルの団地の前の公園あたりでキョロキョロしている。
「いないか」
 ここに女の子が立っていることがあるらしい。また少し車を走らせ停車した。車から降りると、店主は薬局の方に歩いていった。
 そこはロシアホテルという名前のホテルの前。薬局の入り口に女性が数人立っていた。どう見ても一般女性が雑談しているようにしか見えない。店主は彼女たちに話しかけている。まさか、これが立ちんぼ? 知らないと絶対に気づくわけがない。彼はしっかり値段交渉までしてくれて、50ドルで話がついた。
 女の子は3人いたが、彼女たちを取り仕切ってるらしいおばさんがひとりの名前を呼んだ。選ぶ権利はないらしい。30代後半、いや40くらいだろうか。少し年増だったが、この際、年齢なんてどうでもいい。未承認国家で風俗を体験することに意義がある。

この本の端々から感じたことだけど、もはやエロいことするのが目的じゃないんだろうね。

エロが目的であれば、気に入ったところに腰を据えて何度も通うほうがいい。
この人はもう「できるだけいろんな地域の女とヤる」という使命感で動いているように見える。
でなきゃ、わざわざ危険な地域、不衛生な店、レベルの低い女性のいる風俗店に行く必要がない。

いかに「気持ちいい思いをしたか」ではなく「いかに危険な場所、ヤバい場所、めずらしい場所でセックスしたか」が目的になっている。
変態と言わざるをえない。




ぼくが十数年前に中国に留学したときに、現地に長く住んでいる日本人のおじさんから「こっちじゃ床屋で売春やってるんだよ」と教えてもらった。

言われてみればなるほど、ごくふつうの床屋もあるが、薄着の女性が店内のソファで数人寝そべっている床屋もある。後者は風俗店なのだ。

そんな床屋が大学の近くとかレストランの隣とかにあるので、それだけでもうドキドキしてしまった。
日本の風俗店は、いかにもという場所に固まって存在しているので、日常の中にごく自然に溶けこんでいる中国の風俗店はたまらなく刺激的だった。

性欲をもてあましている若い男だったのでもちろん興味はあったが、「中国マフィアが出てきたら」「変な病気に感染したら」「中国警察に捕まって帰国できなくなるんじゃ」などと考えてしまい、店の前からちらりと中をのぞくことぐらいしかできなかった。

今おもうと、ものはためしで行ってみてもよかったなーとおもう。
商店街の中にあるような風俗店なら、よほどのことをしないかぎりは警察に捕まったり身ぐるみはがされたりする危険性は低かっただろうし。

しかしそれで味を占めてすっかり海外風俗にハマってしまい……となっていたかもしれないのでやっぱり行かなくてよかったかな。




ウクライナの「自宅に出張してくれて下着姿で料理をしてくれる風俗」の体験談。

 約束の時間を5分ほど過ぎたところで、「女の子が到着した」と連絡が入った。民泊予約サイトのエアービーエヌビー(Airbnb)で借りていたアパートの下まで降りると、女の子の姿が見えた。
 身長175㎝、体重47㎏。小さな顔、高身長、細身。そのままモデルで通りそうなスタイルの子がスマホ片手に立っていた。特別美人というわけでもなかったが、これだけのスタイルで顔まで綺麗な若い子がエロマッサージで仕事しないだろう。そもそも裸で料理してくれるだけで十分面白い。見た目は問わないと覚悟していた。性格も良さそうで、ずっとニコニコしていて英語力もまずまず。
「綺麗だね」と褒めると「もちろんよ。私ウクライナ人だし」と。インスタグラムやマッチングアプリが普及した今、ウクライナ人女性は自分たちが世界中の男から注目される特別な存在だと理解している。デートした女の子たちには、こういった高飛車なスタンスの子が多かった。実際綺麗なので文句はないのだが。
「私、キッチンになんか立たないのよ。今日が初めてだわ」
 なんと、料理未経験。料理なんてしたくないのにマネージャーに頼まれて断れなかったと。服を脱いだ彼女は、下着姿で料理をはじめた。真っ白な下着がよく似合う。
 なんていい眺めなんだ……。そしてややシュール。ワインを飲みながら下着で料理するスタイル抜群の金髪女子を眺める。最高だ。まじまじと見てるとだんだん面白くなってきてニヤついてしまう。
 15分ほどで完成。皿に盛られたのはボソボソのスクランブルエッグ。YouTubeで勉強してきたと。リクエストしたのはオムレツだが、まぁ問題ない。
「ちょー美味しい! 本当にはじめてなの? 天才!?」
 まったく美味しくなかったが残さず食べきった。

シチュエーションにこだわる風俗って日本に多そうだけど、外国にもあるんだね。


こういう話はたしかに刺激的でおもしろいんだけど、読んでいるとだんだん辟易してくる。
この本はほんとにエロのことしか書いてなくて、せっかく外国に行っているのに近くの観光スポットのこととかはほとんど書いてない。
エロい話はたしかに興味深いんだけど、ずーっとエロいともうイヤになってくるんだよね。

昔のエロ本って、エロい写真や記事だけじゃなくて、ぜんぜんエロくないコラムがあったり妙に社会派の記事があったりしたけど、あれはあれで必要だったのかもしれないなあ。


そもそも、他の男がかわいい女の子とうまいことやった話なんか読んでも楽しくないんだよね。

こっちは失敗談が読みたいわけ。
とんでもないオバサンが出てきたとか、怖いおじさんが出てきて法外な料金を請求されたとか、身ぐるみはがされて這う這うの体で逃げてきたとか。

失敗談もないではないが、基本的には知らない男がうまいことやった話だからなー。




読んでいておもうのは、どんな国でも売春ってあるんだなーってこと。

もちろん非合法の国も多いが、形を変えてこっそりやっていたりする(中国の床屋みたいに)。
厳しい国でも「女の子は隣国の風俗に働きに出る」「男たちは隣国の国境の街まで行って女を買う」みたいな形でそれぞれの欲求を満たしている。

まったく売春が存在しない地域なんか地球上で南極ぐらいかもしれない(ちなみにこの本には砂漠で女を買う話も出てくるからもしかしたら南極にもあるかもしれない)。

世界最古の職業は娼婦だ、なんて話もあるぐらいだから古今東西どんな社会にも売春は存在したのだろう。
恋愛にだって打算や金品の受け渡しがからんだりするから、セックスと金を完全に切りはなすことはきっと不可能なんだろう。

だったら、もういっそ合法化しちゃえばいいのに。
『世界の女が僕を待っている』では、世界最強の風俗はFKKというドイツの風俗だと書いている。

ドイツは売春が合法なので、きちんと売春のルールが決められていて、FKKではルールに則って売春がされている。
利用者にとっては危険な目に遭ったりぼったくられたりする心配がないし、働く女性にとっても安全だ。他の国から働きに来ている女性も多いらしい。
いい制度だとおもう。

もういっそ競馬みたいに国営化したらいいのに。公娼制度を復活させて。

営業場所や時間を定めて、年齢制限もして、税金もとって、衛生面や健康面のチェックもきちんとして、労働者は社会保険にも加入させて……とすれば、国も儲かるし、女性も公務員として安心して働けるし(もちろん男性が働いてもいい)、利用者も安心だし、三方良しだとおもうのだが。


【関連記事】

【読書感想文】売春は悪ではないのでは / 杉坂 圭介『飛田で生きる』

【ふまじめな考察】ナンパをできるやつは喪主もできる



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月7日水曜日

【読書感想文】貧すれば利己的になる / 藤井 聡『なぜ正直者は得をするのか』

なぜ正直者は得をするのか

「損」と「得」のジレンマ

藤井 聡

内容(e-honより)
財布を拾っても交番に届けない人や、チップ式トイレでお金を払わない人が跡を絶たない。本書では、そんな利己主義者が損をして不幸になり、実は正直者が得をして幸せになることを科学的に実証!さらに、利己主義者が正直者のふりをしても簡単に見透かされる心のしくみを解き明かす。どんな性格の人が結果的に得をし、幸せになれるのか。生きる上で重要なヒントを与えてくれる画期的な論考。

藤井聡さんの『超インフラ論 地方が甦る「四大交流圏」構想』や『クルマを捨ててこそ地方は甦る』はおもしろかったのだが、これはイマイチだったな……。
都市工学を語らせたらおもしろい人なんだけどな……。


本の内容としては、
「正直者が馬鹿を見るというけれど、じつは利己的な人は長期的には損をするんですよ。昨今の日本では利己的な人が生きやすいように制度設計されているのでますます利己的な人が増えて社会全体が衰退に向かっているけど、正直者が得をするという前提で制度設計していけば全体としてハッピーになるよ」
ってなことを書いている。

主張自体は納得いくし個人的にはおおむね賛同できるんだけど、どうも結論ありきでそれに合致する実験例などを持ってきている感がする。
希望的観測が含まれすぎているというか。

囚人のジレンマゲームなどを引き合いに出して
「利己的な者ほど損をする選択をする」
って主張してるんだけど、それって因果関係が逆なんじゃないの? とおもう。

利己的な者が損をするんじゃなくて、貧しくなれば利己的な行動をとるようになるんじゃないかとおもうんだよね。

経済的に余裕があれば
「信頼して金を貸してあげるよ」「友だちが困っていたら助けてあげるよ」「人助けのために金を使う」
といった選択ができる。
ギリギリの状況で生きている人は余裕がないから
「自分さえよければいい」「失うものはないんだから今さえよければ後がどうなったっていい」「自分の選択で社会がめちゃくちゃになってもかまわない。むしろ自分を苦しる社会なんか壊れたほうがいい」
って選択になる。
ぼくは毎月、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)にわずかばかりの寄附をしてるけど、これは自分の生活に余裕があるから自己満足を買うためにやっているだけだ。
自分の生活が傾いたら真っ先に切る出費である。金に余裕があるから利他的な行動をとれるのだ。

もちろん世の中には困窮しても襟を正して人道的に生きる人もいるし、困ってないのに助成金など使えるものはなんでも使うぜっていう性根が卑しい人もいる。
けどやっぱり一般的な傾向としては、貧すれば利己的になる。

それをもって「ほら利己的な人ほど貧しいデータがあるんですよ」っていうのは、あまりにも貧乏人に厳しい。




 以上のような背景から、「人間は純粋なる利己主義者である」という前提に立つミクロ経済学の論理を信じる人々は、市場原理主義に陥り、公営企業の民営化や、規制緩和、構造改革を推し進めるべし、という意見を持つに至るのであるが、もし仮にミクロ経済学について全く無知であったとしても、「人間は純粋なる利己主義者である」と強固に信じれば、それだけで民営化論や規制緩和、構造改革の推進に、大いに賛同するようにもなり得る。なぜなら、「人間は純粋なる利己主義者である」と信じる人間は、「公共のために働く人や組織が存在する」ということそのものを信じることが不可能であり、行政不信にならざるを得ないからである。

(中略)

 したがって、公務員が仕事をする基本的な動機は、利己的なものではなく、あくまでも公的なものなのである。  しかし、「人間は純粋なる利己主義者である」と信じている人には、「公務員が、公共的な動機に基づいて、行政上の判断を行っている」というこの事実が、どうしても受け入れられない。それゆえ、彼らは、公務員が様々な行政活動を行っている背後にも、必ず何らかの利己的な動機が潜んでいるだろうと「勘ぐる」ようになる。

藤井聡さんは橋下徹氏とよく喧嘩してるらしいけど、その根底にはこういう考えがあるからなんだろうな。
維新の会って「人間はすべからく利己的である」という思想に基づいて政策決定してるもんね。そりゃぶつかるわ。


いっときほどではないが、今でも「公務員叩き」は存在する(十数年前はほんとひどかった)。
特にぼくの住んでいる大阪は、〝お上嫌い〟の風潮が根強いので、よりその傾向が強い(だから大阪維新の会が人気があるんだろう)。

じっさい公務員の中には不祥事をする人もいる。
けど、総じてみれば公務員は民間企業にいるより優秀な人が多いし(なにしろ公務員試験をくぐりぬけているのだから)、仕事熱心な人も多い。
できる範囲でいい世の中にしようとおもって働いている人がほとんどだ。

それを「公務員はノルマがないから放っておくとすぐにサボる。監視を厳しくしよう」なんてしたら、監視コストはかかるし、公務員のモチベーションは低下するし、いいことなんかない。

「おれはバレなければすぐにサボる」という利己主義者は、他人も自分と同じにちがいないと思いこんでしまう。
あんたがなくしたがっているズルは己の中にあるんだぜ。


よく考えてみたら、公務員が問題を起こしたときだけ「税金返せ!」と声高に叫ぶのはヘンだよね。
お菓子メーカーの社員が不祥事を起こしたからって「おれが払ったお菓子代をそんなことに使いやがって! お菓子代返せ!」とは言わないのに。

どっちも同じことじゃない。
自分は被害を受けていない。
お菓子メーカーの社員が不祥事を起こしていなかったとても百円のポテトチップスが九十円になっていたわけではない。
それと同様に、公務員が問題を起こそうが起こすまいが自分の徴収される税金は変わらない。

なのに「税金返せ!」って言うのは、文句を言いやすいところに言ってるだけだよね。
(まあ政権政党にだけ極甘な検察はマジで国民全体の奉仕者じゃないので給料返上してほしいとおもうけど)

だいぶ話がそれた。
ま、公務員を叩いても誰も得をしないどころか全員が損をするのでやめましょう、ってことです(正確にいえば、公務員叩きで票を獲得する政治家のみが得をする)。あ




規制緩和、構造改革について。 

 これまで論じてきたことに基づけば、利己主義者を規制する社会的規範が存在しているなら、そのジレンマを回避することができるであろうことが、ごく自然に考えられるようになる。(中略)しかし、今日の日本では、構造改革や規制緩和という名称の下、様々な社会的ジレンマ問題における社会的規範が、一つひとつ撤廃されていったのである。
 もちろん、政府は日本社会を破壊しようと考えて、そうしたのではない。そうすることで市場が活性化するだろうと期待していたのであり、それはむしろ「よかれ」と思って実行したことだった。
 しかし、遺憾ながら、その期待は多くの場合、裏切られてしまった。タクシー問題において、そうであったことは述べたが、同様の問題が、都市計画の分野における自由化でも、派遣労働の自由化でも、そして、郵政の自由化においても、生じてしまったのである。ただし、こうした結果がもたらされるのは、社会的ジレンマ研究の見地から考えれば、当たり前のことであった。なぜなら、緩和されたその規制とは、そこに潜む社会的ジレンマを〝飼い慣らす〟ために、社会が長い時間をかけて編み出してきたものだったからである。それゆえその規制が撤廃されるや否や、それまでおとなしくしていた、様々な社会的ジレンマが〝暴走〟し、利己主義者が跋扈する事態を招いてしまったのである。

規制緩和だの岩盤規制改革だの構造改革だのといった言葉は、「なんかやってる感」を演出するのにうってつけで、派手なパフォーマンスを好きな為政者に好まれやすい。

こういう考えを、ぼくもかつては支持していた。
既得権益を吸ってうまいことやってるやつは許せない! と。

で、今世紀初頭ぐらいに流行って、いろんな規制緩和がなされて、その結果どうなったか。弱肉強食がいっそう進み、持てる者はさらに富み、持たざる者は搾取され疲弊していった。

業界内で「まあまあ持ちつ持たれつでやっていきましょう」というなれ合いの関係はたしかに公平ではないが、メリットもあった。横同士の競争にリソースを割かなくて済むことだ。

誰でも参入可能とするのは公平だが、小さいものが知恵や戦略で勝つ余地はほとんどなくなり、大資本を持つもの(そして多くは海外資本)が根こそぎ奪っていく世の中になった。
そして終わりなき価格競争にさらされて誰もが疲弊している。

はたしてその〝自由〟は幸福につながったのかというと、甚だ疑問だ。
世の中には自由じゃないほうがいいことはいっぱいある。


体重別の階級もなく、外国人力士の参入が容易になった大相撲のようだ。
力士の大型化が進み、でかくて力が強い者が勝つようになり、番付上位は外国人力士だらけになった。
それが悪いというわけではないが、軽量力士が技で勝てる時代はもうやってこないだろう。





この本でくりかえし語られる
「利己主義者は必ず敗北する」
という主張は楽観的なようで、まったくそんなことはない。

なぜなら、

非利己的な人々から構成される集団そのものが淘汰=消去されてしまうことを通じて、結局は、利己主義者が完全勝利することはないのである。
 ただし、残念ながら、彼らは、同一集団に居合わせた正直者や利他的な人たちを全員、〝道連れ〟にしてしまう。

だそうだから。

自由競争、規制緩和、構造改革、革新、刷新、維新。
こんな言葉に乗せられないように気を付けなければ。


【関連記事】

お金がないからこそ公共事業を!/藤井 聡『超インフラ論 地方が甦る「四大交流圏」構想』

【読書感想文】クルマなしの快適な生活 / 藤井 聡『クルマを捨ててこそ地方は甦る』



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月6日火曜日

【読書感想文】サンプル数1もバカにできぬ / 雨宮 処凛『ロスジェネはこう生きてきた』

ロスジェネはこう生きてきた

雨宮 処凛

内容(e-honより)
派遣切り、ワーキングプア、いじめ、自傷、自殺…。こんなに若者たちが「生きづらい」時代があっただろうか。ロスジェネ=就職氷河期世代に属する著者が、生い立ちから現在までの軌跡と社会の動きを重ね合わせ、この息苦しさの根源に迫った書き下ろし力作。ロスジェネは何を思い、何を望んでいるのか?若者だけではなく全世代、必読の書。

こういってはなんだけど、意外とおもしろかった。

時代ごとの事件や流行語とともに、著者の半生が語られる。
ただ、語られるのが「親からの、勉強しろ、いい学校にいけ、いい会社に入れというプレッシャー」「クラスメイトからのいじめ」「部活での先輩からのしごき」「バンドにはまって追っかけをした」とかなので、
「あー本人にとっては深刻なことだろうねー。でも世の中には掃いて捨てるほどある話だよねー」
みたいな感じで読んでいた。
だいたいサンプル数1かよ、たった一人の人生をもとに世代を語るなよ、とおもいながら。

ところが、読み進むにつれて、いやいやこれはけっこう時代を濃厚に映しているぞ、サンプル数1でも世代を語れるな、という気になった。


まちがいなく時代の一面はこの人に投影されている。
きっと10年早く生まれても、10年遅く生まれても、まったく違った人生を歩んでいたはず。
少なくともライター・雨宮処凛は存在していなかった。
個人の人生を語っていたはずなのに、いつの間にか時代が語られている。

香山 リカ『貧乏クジ世代』が大ハズレの本だったので( → 感想 )、「この世代について語った本は貧乏クジだらけだな」とおもっていたのだが、ごめんなさい、そんなことなかった。
『ロスジェネはこう生きてきた』のほうは骨のある本だった。




ちなみにぼくは1983年生まれ。
ロスジェネ世代(ロスト・ジェネレーション世代)ではない。
人によってロスジェネの定義はばらばらだが、だいたい団塊ジュニアの1975年生まれぐらいだそうだ。
雨宮処凛さんは1975年生まれなのでドンピシャだ。

たしかにロスジェネは気の毒な世代だ。
団塊ジュニアなので競争は激しく、親世代からのプレッシャーは大きい。
学生時代はバブルを横目で見ていたのに、自分たちが社会に出るときはバブルがはじけて超氷河期。
なかなか就職できず、やっとできてもブラック企業。またはフリーターや派遣社員。
過酷な時代を生きてきた世代だ。

「失われた世代」、それは自分の世代の気分を象徴する言葉だった。私たちの世代の多くはまず「就職」から弾かれ、フリーターなど不安定雇用を続けることで「人並みの生活」も失っていた。そしてそんな生活から脱出できる機会さえも奪われ、このまま行けば団塊世代の親が持つものの何一つも手に入れられないことを漠然と知っていた。たとえば「結始すること」や「家庭を持つこと」「子どもを育てること」、そして「三〇年ローンを組んだ一戸建て」など。一体誰がフリーターに住宅ローンを組ませてくれるだろう。そして一体誰が月収十数万円の生活がこれからも一生涯続くと薄々わかっていながら、「結婚」や「子育て」に前向きになれるだろう。運良く正社員になっても過酷な労働市場の中で身体や心を病めば、再び就業するチャンスはなかなか訪れない。

だが、ロスジェネ以降はだいたい似たようなものだ。
楽だった時代なんてない。
ぼくらが就職するときは何十社も落ちるのがあたりまえだったし、ブラック企業が横行していた。
上の世代を見ていると「ブラック企業で正社員か、非正規で不安定な暮らしか」という二択しかないようにおもえた。下の世代も似たようなもんだろう。

ただぼくら世代がロスジェネ世代とちがうのは、「はなから世の中に期待していない」点じゃないかとおもう。
あくまで傾向の話だが、ロスジェネ世代は期待していたんじゃないだろうか。
努力すれば報われる、がんばっていい学校に行けばいい会社に入れる、いい会社に入ってまじめに働けばいい暮らしができる、いい暮らしとまではいかなくても正社員になって結婚して子どもを産んで……という「平凡な暮らし」は手に入る、と。

ぼくははなから期待していない。ニュースに関心を持つようになった頃(1995年ぐらい)から、阪神大震災だ、地下鉄サリン事件だ、金融機関の破綻だ、倒産だ、リストラだ、911テロだ、というニュースを嫌になるほど見てきた。
「どれだけがんばっても運が悪けりゃ終わり」という諦めに近い虚無感を植えつけられた。阪神大震災で死んだ人も地下鉄サリン事件で殺された人も悪いことをしたわけではなかった。まじめに働いていても会社が倒産したりリストラされたりする。
大きい会社だってつぶれるし、有名な会社だからって楽なわけではない。難しい資格をとったからって一生安泰なわけではない。
「平凡な暮らし」を手に入れられるのは努力だけでなく幸運も必要だと知っている。はなから日本という国に期待していない。


だからロスジェネ世代を気の毒だとおもうのは、彼らが過酷な時代を生きてきたからではなく、彼らが「夢」や「安定した暮らし」をまだ信じていたように見えることだ。




『ロスジェネはこう生きてきた』を読むと、まさにそういう時代の空気が感じられる。
学校では過酷な競争にさらされ、「今がんばればいい生活を手に入れられる」と信じこまされ、だが社会に出ると同時に「採用数減らします、仕事は非正規しかありません、正社員で働くならどんな条件でも文句は言うな、病気になっても自己責任です、代わりはいくらでもいます」と放りだされた空気を。

働きたくても仕事がない、仕方なくフリーターになれば「自由を選んだお気楽なやつ」と言われる、景気が回復すれば「もっと若いやつ採るから君たちはいらない」と言われる、三十代になれば「なんで結婚しないんだ、子ども生まないんだ」と言われる、四十代になった今は八方ふさがり。

そんな時代を生きてきたことがこの本からは伝わってくる。

雨宮処凛さんの人生は決して典型的なものではない。
バンギャとしておっかけに生き、東京に出てフリーターになったあたりまではわりとよくある話だが、リストカットをくりかえしたり、新右翼団体に入ったり、その一方で左翼や在日外国人とも交流を持ったり、戦争前夜のイラクを訪問したり、政治活動に身を投じている。
かなりアウトローな経歴だ。
だが彼女の生き方は「ロスジェネ世代の生き方」という気がする。

自分の過去を美化するでもなく、かといって過剰に貶めるでもなく、冷静に分析している。
その行間からは、この時代を生きるにはこう生きるしかなかった、という気概が伝わってくる。




 私はそんな「オウム騒動」に熱狂していた一人だった。そもそも、地下鉄サリン事件の第一報に触れた瞬間から、「この事件を起こした人は、私の代わりにやってくれた思えない」というほど事件にのめり込んだ。どこからも誰からも必要とされない私は、その頃いつも「みんな死んでしまえ」と思っていた。そして事件後、自分と同じかちょっと上くらいの若者たちが「終末思想」で武装し、ブッ飛んだ目で修行に励むその姿に激しい衝撃を受けた。オウム信者たちは、私にないものをすべて手にしているように見えた。

ぼくはオウム騒動のときにポアだのサティアンだのといっておもしろがっていただけだが、こんなふうにシンパシーを感じていた人もいたのだ。もちろん大きな声では言えなかっただろうけど。

あれだけの信者がいたのだから当然だけど、オウム真理教のハルマゲドン思想や非世俗的な暮らしは、現状に大きな不満を抱える人たちを引きつけるものだったはずだ。

赤木智弘さんの『「丸山眞男」をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争。』もそうだけど、仕事も家族もチャンスもなくなったら、望むのは宝くじか戦争か革命か生まれ変わりぐらいしかなくなるのだろう。それぐらいしか一発逆転の目はないのだから。
(残念ながら、戦争や革命が起こってもトランプの大富豪のように弱い者が強くなることはありえず、持たざるものがまっさきに犠牲になるのだけど)

雨宮処凛さんも、めぐりあわせが悪ければオウム真理教に入信していただろう。
「オウム信者予備軍」は日本中に何万人といたはずだ。たぶん今も。

オウム真理教はカルトとしてこばかにされがちだけど、暴力や破壊活動にさえ向かわなければ、今頃もっともっと大きな団体になっていたのかもしれない。




右翼団体に入っていたときの心境。

 そして団体でよく使われる「日本人の誇り」という言葉は、私を優しく肯定してくれるものでもあった。日本人の誇り。どこにも誇りなんて持てない私は、「日本人である」という一点のみで、誇りを持つことができた。そうして学校も出てしまい、「会社」にも入れず、なんとなくフリーターとして「社会」からも疎外されていると感じ、どこの共同体にも属さず、どこにも帰属していなかった私は、「国」という懐(ふところ)に優しく抱かれた。それまで教え込まれてきた「努力すれば報われる」という価値観がたかが経済によってひっくり返ったことに対する不信感は、「絶対にひっくり返らない価値観の象徴」=天皇を「発見」させた。そして「学校に裏切られた」という思いは、「学校が教えてくれない靖国史観」をすんなりと受け入れさせる下地となった。
 私と同じ頃に団体に入ってきた若者たちとの共通点と言えば、この「学校、あるいは教師に対する不信感」というものがあるだろう。

この「日本人の誇り」、ブレイディみかこさんの『労働者階級の反乱』にも似たような心境が書かれていた。
イギリスの労働者階級が仕事を奪われ、貧しい暮らしを余儀なくされている。彼らが誇れるのは「白人男性であること」だけ。
だから、移民排斥や女性バッシングなど「自分たちの権利を侵害している(と彼らがおもっている)もの」への攻撃に向かう。
「うまいことやっている白人男性」という支配層ではなく、攻撃しやすいところへ。

きっと、いわゆる〝ネトウヨ〟の多くもそうなんだろう。実際に会ったことないから想像だけど……。
世界的にナショナリズムが台頭しているのは、それだけ生きづらい人たちが多いということなんだろうな。せちがらい話だ。

でも、「おれの暮らしぶりが悪いのはおれの能力が低いせいだ」と真剣におもっていたらつらすぎて生きていけないもんね。
「おれの暮らしぶりが悪いのはあいつらがおれの権利を侵害しているからだ」と逆恨みしているほうがまだ健全かもしれない。
他責的になる人がネトウヨ化して、自責的な思考をする人が自殺に向かってしまうんだろうか。どっちにしても救われない話だ。

だとすると、リストカットやオーバードーズ(薬物過剰摂取)をくりかえしていた雨宮処凛さんが新右翼団体に入ったのもうなずける。
メンヘラと右翼は、ぜんぜん異なるようでじつはすごく近いところにいるのかもしれない。


【関連記事】

【読書感想】ブレイディ みかこ『労働者階級の反乱 ~地べたから見た英国EU離脱~』

一世代下から見た団塊ジュニア世代



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月5日月曜日

【読書感想文】世間は敵じゃない / 鴻上 尚史・佐藤 直樹『同調圧力』

同調圧力

日本社会はなぜ息苦しいのか

鴻上 尚史  佐藤 直樹

内容(e-honより)
生きづらいのはあなたのせいじゃない。日本社会のカラクリ=世間のルールを解き明かし、息苦しさから解放されるためのヒント。

鴻上さんの文章を読むと、よく「同調圧力」という言葉が出てくる。
鴻上さんは一貫して世間と戦っている人だ。

この本が2020年に出されたことには意味がある。
なぜなら、今ほど「同調圧力」が高まっている時代はめったにないからだ。

同調圧力が高まっている原因は、言うまでもなく新型コロナウイルス。
未曽有のパンデミックに直面し、
「おれはおれの好きなようにやるよ。だから人のことは放っておいてくれよ」
と言いづらい時代になっている。

この対談では、今の状況は戦時下だと指摘している。

鴻上 戦時下だと考えれば相似形がたくさんあります。第二次大戦中って、ミッドウェー海戦以降負け始めてからは、本当はどれぐらい損害があったかとか、どれぐらい敵を倒したかとか、ちゃんとした計測ができなくなったし、しなくなった。希望的観測だけを語り始めるようになったんです。今回のコロナ禍にしても、実際は何人が感染していて何人亡くなっているのか、PCR検査が少なくて正確には分からない。肺炎の死者とされている人のなかで何人がじつはコロナで死んでいたか、発表もされていない。実数は不明だけれど、すでに希望的観測だけが独り歩きしている状況が相似形です。
佐藤 これをメディアが何の検証もなく垂れ流している。
鴻上 まさに戦争中と同じですね。「新しい生活様式」なんて、戦時スローガンと言ってもおかしくないです。
佐藤 コロナが広がってもいいのか、他人に迷惑をかけてもいいのか、そんな危機感で人びとを脅迫しているわけです。そりゃあ「迷惑かけていいのか」と問われて、「構わない」と返答できる人は少ない。戦争中と同じで異論を言うだけで非国民扱いされるでしょう。こうした空気にメディアの多くも無批判に乗っかる。テレビなんて、どの局も同じことしか言ってないじゃないですか。生活を変えろとか、いまは我慢すべきだとか、説教ばかりをくりかえす。

ぼくは数年前にテレビのニュースやワイドショーを観ることをやめたのでわからないが、漏れ聞こえてくる話ではなかなかのパニック状態だったらしい。

やれトイレットペーパーが買い占められただの、やれどこどこの誰それが感染しただの、感染者はどこで遊んでただの、どこの店はこの状況にかかわらず営業しているだの、かなり暴走していたそうだ。

人権よりも法律よりもコロナ対策のほうが大事。
そりゃあ命より大事なものなんてないけど、「感染したらぜったい死ぬ」ってわけじゃない。
そうかんたんに人権を預けてしまっていいの? その天秤、ちょっと「コロナ対策」側に偏りすぎじゃない?
とおもうことも多々あった。

こんなに同調圧力が強くなったのは戦後初めてのことだろう。

〝世間〟がパンデミックを機に暴走したというか。
いや、元々潜んでいた〝世間〟の凶暴さがパンデミックで明るみに出たといったほうがいいかもしれない。




この対談中で、鴻上さんと佐藤さんは〝世間〟が強いことを問題視している。
うなずけることも多いが、ぼくとしては「世間を敵視しすぎじゃないか」という気もする。

理由のひとつには、ぼくが現在〝世間〟でそこそこうまくやっていけていること。
サラリーマンで、結婚して家族がいて、日本人で、男で、異性愛者で、特に変わった性嗜好もなく(ちょっとはあるけど)、だいたいの面でマジョリティの側にいるので〝世間〟と衝突する機会が少ないこと。

もうひとつは、器質的にそもそも〝世間〟の眼があまり気にならないこと。
ぼくは学生時代、冬でも浴衣でうろうろしたり、ドラえもんのバカでかいバッグをぶらさげて通学したり、制服は学ランなのにひとりだけネクタイをしていたり、枕持参で授業中に居眠りしてわざと怒られたり、要するに「変わったことをして目立ちたい」人間だった。
どっちかっていったら〝世間〟にあえて逆らうことを楽しむタイプなのだ。だからむしろ〝世間〟があったほうが叛逆の楽しさがある。
だってハロウィンパーティーみたいに「コスプレしてもいい場」で変な恰好をしてもぜんぜんおもしろくないじゃん。みんながスーツのときにひとりだけ奇抜な恰好をするのが楽しいんじゃん。

そんなふうに〝世間〟に苦しめられた記憶の少ないぼくとしては、〝世間〟が力を持っていることも悪いことばかりじゃない、むしろいいことのほうが多いんじゃないかとおもうんだよね。


たとえば「他人に迷惑をかけてはいけない」というのが〝世間〟の教えだが、それが治安の良さにつながっている面もある。
「法に触れさえしなければ何をしてもいい」と考える人たちが跋扈する世の中よりも、「たとえ法に触れていなくても世間に顔向けできないようなことをしてはいけない」と考える人たちの世の中のほうが、特に弱者は生きていきやすい。

欧米は神の眼を意識して行動するが日本人は世間の眼を意識して行動する、とよく言われる。
だからなんだ。
神におびえて生きることがそんなにえらいもんなのかよ。神なんてひとりひとりの心の中にいるもんだろ。
自分勝手な神を心に住まわせてるやつは自分勝手に生きてていいのかよ。
それよりは、ときには実際に牙をむくことのある〝世間〟のほうがまだ信用できるんじゃないか?
それとも神は唯一の存在だから自分勝手な神の存在は認められないのか? それこそ同調圧力じゃないの?


〝世間〟が強い国は、多数派でいるかぎりは生きやすい国だ。
〝個人〟が強い国のほうが、マイノリティでも生きやすいかもしれない。その代わり、他の人がちょっとずつ不便を強いられる。

それぞれ一長一短あるし、それぞれにあった処世術がある。〝世間〟が弱くなればいい、と単純に言えるものではないとおもう。




問題は〝世間〟が強いことではない。

佐藤 日本で犯罪はどのように捉えられるかというと、「法のルール」に反した行為であると同時に、もっと大きいのは共同体を毀損する行為だということです。つまり「世間」という共同体を壊す、そうした行為なんです。罪を犯すことによって「世間」あるいは共同体の共同感情を毀損すると。だから犯罪はみんなを不安にさせる、共同感情が犯されるといったことになる。
鴻上 なるほど。みんなを不安にしたじゃないか、といったかたちで非難されるわけですか。
佐藤 もっと分かりやすく言えば、みんなに迷惑をかけたじゃないか、という考え方。迷惑をかけたのだから、加害者の家族は「世間」に対して謝罪をしなければいけない。それが同調圧力になります。
鴻上 「世間」の論理ですね。「社会」を壊したのではなく、「世間」を壊したと。

〝世間〟に関して、問題だとおもうのは大きく二つ。

  • 世間からはみだした人に対して過剰に攻撃的になる人がいる
  • 世間が法律よりも強くなってしまう

教師なんか特にその傾向がある。
学校という〝世間〟を守るために暴走してしまう。
髪を染めてはいけないという校則があるからといって生まれつき髪が茶色い生徒まで染めさせる、とか。
授業の邪魔をした生徒に体罰をふるう、とか。

学校という〝世間〟のルールが法律より強いと勘違いしちゃうんだよね。
だから憲法や法律の枠をはみだしてでも学校秩序を守らせようとしてしまう。


この表現はすごく嫌いなんだけど、コロナ禍における「自粛警察」もそうだよね。自粛に応じない人に嫌がらせをする犯罪者たち。
自粛要請はできることなら守ったほうがいいけど、様々な事情で自粛できない人もいる。思想信条的にあえて守らない人もいる。
(そのふたつの間に他人が境界線を引くことはできないとおもうので以下ひとまとめにする)

まあ言ってみれば〝世間〟からのはみ出し者だよね。
そういう人が減ってくれたほうが〝世間〟としては助かる。
だから「あの人こんな情勢なのにマスクもせずにうろうろしてるわ。やあね」と眉をひそめて距離をとる。それぐらいが平均的な対応だろう。

ところが、はみ出してしまった者に対して石を投げる者がいる。車に傷をつけたり誹謗中傷をしたりする。
明らかに犯罪だ。どれだけ〝世間〟の感情に合致していようが、犯罪は厳正に処罰しなくてはならない。〝世間〟が法より上位にくることがあってはならない。
シンプルな話だ。

だが警察や司法機関が〝世間〟に忖度してしまうことがある。
メディアも法律よりも〝世間〟の肩を持つことがある。
これはいけない。
〝世間〟が、ではない。
警察や司法機関やメディアが、だ。

〝世間〟は大事。でも法はいついかなるときでも〝世間〟よりも上。
それさえ忘れなければいい、ってだけの話だとおもうけどね。

地域や会社や友人やサークルやSNSなどいろんな〝世間〟に属して、どの〝世間〟ともほどほどに距離をとってつきあっていけば生きやすいよ。
通信環境の発達で昔よりもそれがやりやすい世の中になったし。




「できるかぎり世間の眼を気にしながら生きていたほうがよい世の中になる」

「とはいえ世間の風潮に逆らう人がいても(自分に実害がないかぎりは)目をつぶってやる寛容さを持つ」

ってのはぜんぜん両立する話だとおもうけど。

悪いのは世間をかさに着て犯罪行為をはたらくやつであって、〝世間〟そのものではない。
宗教を理由にテロをやるやつが悪くても宗教が悪いわけではないのと同じだよ。


【関連記事】

【読書感想文】一歩だけ踏みだす方法 / 鴻上 尚史『鴻上尚史のほがらか人生相談』

緊急事態宣言下の生活について



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月4日日曜日

ビフォーアフター殺人事件


もう今は流行りじゃないかもしれないけど、ふた昔前の新本格ミステリって妙な形をした館が出てくるじゃない。

「〇〇館」って名前がついてて、住みにくそうな間取りの屋敷。

あれ何かに似てるなーとおもったら、『大改造!!劇的ビフォーアフター』でリフォームした後の住宅だ。
謎の仕掛けがあったり、独特の間取りをしていたり。
まあ元々問題がある家をリフォームしてるんだからしょうがないんだけど。

あの住宅を舞台に本格ミステリが書けるんじゃないかな。
匠による劇的リフォーム後の住宅で次々に起こる殺人事件。

まずは館の主人である依頼者が殺され、次に家の仕掛けを知っているせいでトリックに気づいてしまったリフォームの匠が殺される。劇的すぎるリフォームのせいで陸の孤島と化した館で次々に起こる凶行……。

はたして犯人は誰なのか? 被害者を結ぶ家族の思い出とは? 大胆な犯行に使われた収納トリックとは?

謎が謎を呼ぶ劇的ビフォーアフター殺人事件。近日公開。


2020年10月2日金曜日

【読書感想文】最悪かつ見事な小説 / 櫛木 理宇『少女葬』

少女葬

櫛木 理宇

内容(e-honより)
一人の少女が壮絶なリンチの果てに殺害された。その死体画像を見つめるのは、彼女と共に生活したことのあるかつての家出少女だった。劣悪なシェアハウスでの生活、芽生えたはずの友情、そして別離。なぜ、心優しいあの少女はここまで酷く死ななければならなかったのか?些細なきっかけで醜悪な貧困ビジネスへ巻き込まれ、運命を歪められた少女たちの友情と抗いを描く衝撃作。

おおお……。

「ちょっとイヤな気持ちになる小説」は好きなんだけど、これはキツかった……。
めちゃくちゃイヤだった。
小説は寝る前に読むことが多いんだけど、『少女葬』を途中まで読んでそのまま寝るのはイヤだったので、他の本でいったん口直ししてから寝ていた。
この小説のことを考えたくない! という気持ちになった。

おもしろくないわけじゃないんだよ。
めちゃくちゃ引きこまれるんだよ。引きこまれるというより引きずりこまれるといったほうがいいかもしれない。
だからこそ「この小説の世界から抜けだしたい!」という気持ちになる。

「途中の展開も後味も最悪」ということを覚悟してから読むことをおすすめする。




まず冒頭で、少女が壮絶なリンチの末に殺されることが明かされる。
ある少女が死に、別の少女がその死を弔っているシーン。

時間がさかのぼって、シェアハウスで暮らすふたりの少女が描かれる。
読者には「このふたりのどちらかがやがて殺されるんだな」とわかる。
バッドエンドがわかっているので、ページを読み進めるのがつらい。
ページをめくっていけば確実に凄惨なラストが待っているんだから。


ふたりの少女、綾希と眞実の境遇は似ている。
問題のある親に育てられ、家出をし、安いだけがとりえのシェアハウスに転がりこむ。
シェアハウスの住人はモラルのない人間ばかり。
風俗嬢、もうすぐ死にそうな病人、犯罪に手を染めているらしい人間。持ち物が盗まれたり他の住人に嫌がらせをしたりするのが当たり前の環境だ。

劣悪な環境で身を寄せるようにして心を通わせる綾希と眞実。
だが、彼女たちの運命は徐々に開きはじめる。

綾希は優しい人たちに出会い、将来について考えるようになり、仕事で金を稼ぐ喜びを知り、ささやかな幸せを手にするようになる。

眞実は金をばらまくように使い派手な暮らしをしている連中と交流を持ち、快楽と虚栄を追いかけるようになる。


さあ問題は「どちらが殺されるのか?」である。

ふつうに考えれば、眞実のほうだ。
明らかに良からぬ仕事をしている連中と付き合っている。仲間には一見優しいが自分にとって必要なくなったとおもえばかんたんに牙を剥く連中ばかりだ。

だが、そうかんたんに話は進むのだろうか。
あえて序盤で「どちらかが殺される」ことを示し、眞実のほうはどんどんヤバい世界に入っていく。
あからさまな「死亡フラグ」だらけ。

これはミスリードでは……?
ってことは綾希のほうが?
えっ、暴君の父親とその言いなりになっているだけの母親のもとから抜けだして、読書を愛し、劣悪な環境でも決して水商売の道には進もうとせず、悪い誘いははねのけ、優しい人たちに囲まれ、まじめにこつこつ働いて新たな道を切り開こうとしている綾希が?

それはいやだ。それだけは。
いくらフィクションとはいえ、こっちの子がむごたらしく殺されるなんて、そんなことがあっていいはずがない。
頼む、眞実のほうであってくれ……。

と、祈るようにしてページをめくる。

そして気づく。
眞実だって殺されるようなことはなにひとつしていない。
やはり置かれた境遇が悪かっただけで、ちょっと世間知らずだっただけで、人を傷つけたり他人から奪おうとしたわけじゃない。
居場所が欲しいと願い、いい暮らしがしたいとおもい、助け合える仲間が欲しいと望んだだけ。
誰にでもある欲望を叶えようとしただけ。
ただ近寄ってきた人間が悪かっただけ。めぐりあわせが悪かっただけ。
ちょっとタイミングがちがえば、眞実も綾希のように平凡な幸せをつかめたはず。


ぼくらは痛ましい事件のニュースを見ると、被害者に同情するとともに、被害者の落ち度を探してしまう。
「あんな人についていったのが悪かったんだ」
「夜道をひとりで歩いてたせいで」
「悪いやつらと付き合ってたんだからそういう危険はあるよね」
と。

「だから殺されて当然だ」とまではおもわないが(言う人もいるが)、心のどこかで「被害者にも落ち度はあったのだ。自分はそんなへまはしない」と考えてしまう。
そう考えるほうが「めぐりあわせが悪ければ、殺されたのは自分や家族だったかもしれない」と考えるよりずっと楽だからだ。

でも、残念ながら世の中はそんなに単純じゃない。
善人であっても用心深くても強欲でなくても理不尽に殺されることはある。つまらない理由でひどい目に遭わされることがある。
悪人が最後に笑うこともある。
地震に遭うかどうかは日頃のおこないとまったく関係がないのと同じで。


「頼む、殺されるのは眞実のほうであってくれ! 綾希は幸せになってくれ!」と願いながら読む己の姿に、「被害者の落ち度を探す自分」を発見した。




ちなみに、綾希と眞実のどっちが殺されるかは読んでたしかめてください。

確実にイヤな気持ちになるのでおすすめはしないけどね。


【関連記事】

【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』

【読書感想文】 桐野 夏生 『グロテスク』



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月1日木曜日

【読書感想文】あいたたた / 花村 萬月『父の文章教室』

父の文章教室

花村 萬月

内容(e-honより)
五歳のころ、放浪癖のあった父親と同居することになり、程なく、花村少年の地獄の日々がはじまった。『モルグ街の殺人事件』を皮切りに、古今東西の古典を読まされる毎日。飽きる素振りをみせれば、すぐさま拳が飛んできた―。四年にわたる狂気の英才教育の結果、岩波文庫の意味を解する異能児へと変貌した小学生は、父の死後は糸の切れた凧となり、非行のすえに児童福祉施設へと収容された。以来、まともに学校に通った記憶がない。本書は、芥川賞作家・花村萬月が、これまでの人生で唯一受けた教育の記憶をたどり、己の身体に刻み込まれた「文章作法」の源泉に向きあった、初の本格的自伝である。

花村萬月氏の小説は読んだことがないのだが、こないだ読んだ『作家ってどうよ?』というアンソロジー的エッセイ集で氏の異常ともいえる(というか異常と断言してもいいぐらいの)生い立ちを知り、氏の素性に興味を持った。


小説家や漫画家のエッセイを読むと、なかなか骨のある生い立ちの人が多い。

親がアル中だったとか、親に捨てられたとか、親が異常な引越し魔だったとか、親が捕まったとか、おかあさんがダイナマイト心中で爆死したとか(末井昭さん)……。

ぼくの父はそこそこ名の知れた会社に勤めるサラリーマンで、仕事大好きで、でも休日には子どもとも遊んでくれて、趣味はゴルフと献血と同窓会。
母は専業主婦をしながらときどきパートに出たりボランティアサークルで活動したりしていて、趣味は読書と犬猫と遊ぶこと。
そんないたって善良な小市民である両親から生まれ、一歳上の社交的な姉とともに郊外の住宅地で育ち、地元の公立小中高に通って大学まで行かせてもらったわけだからもちろん両親に対して大きな不満があるはずもないのだが、型破りな親に対するあこがれもちょっとある。

もしぼくも奇抜な生い立ちを背負っていたらそれをもとに一篇の小説でも書けたんじゃないだろうか……なんて空想したこともある。

もちろん生い立ちだけでなれるほど小説家も甘くないのだが、それでもちょっと「どうしてうちの家庭はこんなに平凡なんだろう」と若いころは恨めしくおもったものだ。

中年になると「ふつうがいちばん」と思えるんだけどね。



話がそれたが花村萬月氏の生い立ちは個性的な親が多い小説家の中でも、トップクラスの型破りさだ。

なにしろ小説家志望でろくに仕事もしていなかった父親の〝英才教育〟を受け、ろくに小学校も通っていなかったというのだから。

父親の死後も学校へは行かず、児童福祉施設に入って虐待を受け、成人後はミュージシャンになったりバイクで旅をしたり違法な薬に手をそめたりアル中になったりして小説家に……。

というなんともすごい経歴。
ちなみに昭和三十年生まれ。ぼくの両親と同い年だ。

小学一年生にして、読めるはずのない岩波文庫を読むことを強要されていたという。

 その文庫本はエドガー・アラン・ポーの短篇集でした。世界初の本格的な推理小説である〈モルグ街の殺人事件〉が題名となっていたような気がしますが、なにぶん幼いときのことですから断言するのは控えましょう。新潮か岩波か記憶が曖昧ですが、おそらくは岩波文庫でした。
 父に対すると蛇に睨まれた蛙状態の私は思考放棄、漠然と文庫をひらきました。あらわれたのは見たこともない漢字の群れでした。私は途方に暮れました。私が知らない漢字であるということだけでなく、やたらと画数の多い複雑な形態をした漢字の集合が目にはいってきたからです。
 それは旧字でした。明治生まれの面目躍如といったところでしょうか、父は小学一年生の私に旧字体で印刷された文庫本を与えたのです。ひらがなを習っているときに大人の読む文庫本、しかも学校では習う可能性がゼロの旧字体の書物を平然とした顔でわたして、読めと命じたのです。そして、読み終えたら感想を述べよと迫った。
 はっきりいって、読めるわけがない。周囲の同じ年頃の子供の程度からは多少は抽んでていたという自負はあります。嫌らしい言い方ですが教師や近しい大人たちから天才扱いをされていたようなところもありました。
 しかし大人が読む文庫本を小学一年生、六歳に読ませるのは無謀です。並の親ならばこういった無茶はしないでしょう。しかし、こういった常識はずれの無理を平然と押しつけるのが私の父です。
 そして恐怖に支配されている私がとったのは、読める読めない、意味がわかるわからないといった読者の本質から大きくはずれて、ただひたすらに目で一字一字丹念に字面を追うという悲しい徒労でした。

カナも読めるかどうかというレベルの六歳に岩波文庫。しかもなぜ『モルグ街の殺人』……。

まだ『論語』を与えた、とかならわからないこともない。幼少期から道徳を教えようとしたんだな、と意図は理解できる(共感はしないが)。

でも『モルグ街の殺人』って難解ではあるけど娯楽小説だしな。
翻訳本だから美しい日本語に触れさせようとした、とかでもないだろうし……。

ほんとに意味不明。


花村萬月氏自身は「英才教育」と呼んでいるが、おとうさんは確固たる信念に基づいて教育を施していたわけではなく、ただただ思い付きで動いていただけなんだろうなあ。

暗算の丸暗記を強要するとか、音楽は好きなくせに「人前で歌ってはいけない。学校の音楽の授業でも歌うな」と命じるとか、やってることが首尾一貫してないもの。

英才教育と呼べるようなものではなく、単に子どもを支配したかっただけとしかおもえないんだよな……。



このおとうさんのやっていることは現代の感覚でいえば(もしかしたら当時の常識でも)完全に「虐待」なんだけど、花村萬月氏自身はとりたてて父親を恨んだり傷ついたりしているわけではなく、どっちかというと感謝しているように見える。

いろいろ問題がある父親だったけど、なんのかんのいって今の自分があるのは父親のおかげ、だと。
父親のやりかたはまちがっていたかもしれないけどその根底にはまちがいなく愛があった、と。

そんなふうに書いている。

それはちがうと他人が言えるような事柄ではないし、その自己肯定感はたいへんすばらしいものだ。
でも虐待だよ、やっぱり。


虐待を受けて育った子は暴力をふるわれることを「愛されているから」とおもいこむ、と聞いたことがある。
そうでもおもわないとやっていけないからだ。


黒川 祥子『誕生日を知らない女の子』に、こんなエピソードがあった。

 ずっと実母から虐待を受けていた女の子。ファミリーホーム(里親のような家)に引き取られ、ようやく家庭や学校でうまくやっていけるようになった。
 ところが「うちにおいで」と言われたのを境に、女の子は豹変。ファミリーホームや学校で暴れて居場所をなくし、自らすべてを捨てて母親のもとに戻った。
 だが待っていたのは、母親と再婚相手による奴隷のような生活。彼女はまた親の元から別の里親のもとに引き取られ、病院に通うようになった……。

どんなにひどい親でも、親から愛されていないとおもうことは、暴力を受けることよりつらいのだ。

花村萬月氏が「父の私への根底の態度には愛があった」と書くのは、虐待される子が暴力を愛ゆえのものだと思いこむ姿を見ているようでいたたまれない気持ちになる。




特殊な生い立ちだからか、それとも生い立ちとは関係なくそういう気質なのかはわからないが、花村萬月氏自身もなかなか個性的というか、風変わりというか、いやもっと率直にいえばかなり痛々しい人だ。

 私は自分が熟知している事柄であっても相手が語りはじめれば、口を噤みます。冷たい言い方をすれば薄蓄を傾けだしたならば、黙って、それを初めて耳にするような調子で傾聴します。自分で言うのもなんですが、そのあたりの演技は相当のものです(手の内をあかしてしまうと、これから先、困るかもしれません――というのは杞憂です。なぜなら所詮は中学生レベル、ちょいと煽てれば即座に喋りはじめるからです)。
 なぜ私はこのような嫌みなことをするのでしょうか。べつに相手を莫迦にするためにしているのではありません(もちろん尊敬しているわけでもありませんけれど)。黙って耳を傾けると、自明の理といっていいような事柄さえも私の定義とは大きく隔たっている場合が多々ある。そこで私は、こういう考え方もあるのか――と認識し、新たな思考の筋道をものにする。なかにはとんでもない解釈を提示してくれる強者もあって唖然呆然慄然ですが、それでも私は「へえ!」などと受け答えをする。
 それどころか、じつは唖然とさせられるような考え方や物の見方、解釈を提示されると、心底から嬉しくなってくるのです。なぜかは小説家という職業を考えれば説明の余地もないでしょう。私が恋しいのは真理や正論よりも他者そのもの、なのです。あなたがなにやら得意げに開陳するとき、あなたは私のような観察者にとって恰好の餌食となっているのです。私はあなたのつまらない話を黙って聞いてあげるかわりに、自身の小説に登場する人物に感かさや哀れさを含めた深みを附与することができるというわけです。
 文章など、誰にだって書けるのです。
 それはシャッターを押せば写真が撮れる、といったことと同程度ではありますが。これが私の文章教室の結論です。
 けれど小説家になるためには虚構を紡ぎだす、という高次の能力が必須です。これは圧倒的な知的選良の特性です。そしてこれだけの知的能力と感受性があれば、伝達としての文章以上のものを書くことなど造作もないと言い切ってしまいます。小説を書くということは、秀才などといった程よいレベルの知的選良には不可能な表現行為なのです。
 誰でもちいさい嘘をつきます。誰でも文章を書くことができます。だからこそ途轍もない数の小説家になりたがる者が存在し、新人賞には毎回千以上の応募作品が集まるわけですが、残酷なのはスタートラインとしての新人賞であっても、努力が報われるという受験勉強的幻想がまったく役に立たぬことです。

いやー。すごいよね……。悪い意味で。

中高生ぐらいのときにこういう心境になるのはめずらしくないとおもうんだよね。

自分は他とは違う選ばれた人間だ。
周りの凡人は思慮が足りないが自分はその何十倍も深く考えている。
自分の才は天賦のもので他者がどう転んだって追いつけるものではない。

そんなふうに考えている中学生は何万人もいるだろう。ぼくもそのひとりだった。

中学生でトゲトゲをたくさん持っていても、たいていの場合は周囲との軋轢ですりへったりへし折られたりして丸くなってゆく。

しかし花村萬月氏は
「父親のせいでまともな学校教育を受けていない」
「家が貧しく児童養護施設に入るなど恵まれない環境で育った」
「にもかかわらず小説の世界で成功した」
という体験があるせいで、「それはひとえに自分に比類なき才能があったからだ」という強烈な自信を今でも持ちつづけている。

個人的にはぜったいにお近づきになりたくないタイプ。
でも小説家としてやっていく上ではこの強烈な自信と過剰ともおもえるほどの自意識は武器になっているのだろう。

昔の文豪にも自意識が高すぎて痛々しい人いっぱいいるもんね。啄木とか太宰とか。


いやー。なんていうか……。やっぱり学校教育って大切だね……。


【関連記事】

【読書感想文】作家になるしかなかった人 / 鈴木 光司・花村 萬月・姫野 カオルコ・馳 星周 『作家ってどうよ?』

【読書感想文】おかあさんは爆発だ / 末井 昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』



 その他の読書感想文はこちら