2019年11月29日金曜日

【読書感想文】人はヤギにはなれない / トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』

人間をお休みしてヤギになってみた結果

トーマス・トウェイツ(著)  村井 理子(訳)

内容(e-honより)
仕事はパッとしないし、彼女に怒られるしで、ダメダメな日々を送る僕。いっそヤギにでもなって人間に特有の「悩む」ことから解放されることはできないだろうか…というわけで本気でやってみました。四足歩行の研究のためにヤギを解剖し、草から栄養をとる装置を開発。医者に止められても脳の刺激実験を繰り返し―。イグノーベル賞を受賞した抱腹絶倒のサイエンス・ドキュメント。

トーマス・トウェイツ氏の『ゼロからトースターを作ってみた結果』がめったらやたらとおもしろかったので(感想はこちら)、同じ著者の別プロジェクトであるこちらも購入。

『ゼロからトースターを作ってみた結果』もそうだったけど、このまとめサイトみたいなタイトルはどうにかならんかったのか(原題は『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』)。
いや興味を惹かせるという点では悪くないんだけど、「結果」はないだろう「結果」は。トースター・プロジェクトもそうだけど、結果じゃなくて過程を楽しむプロジェクトなんだからさ。


誰しも「人間以外の動物に生まれ変わったら楽だろうな」なんて考えたことがあるだろう。
ぼくも一時間に一回考えている(すぐ精神科行ったほうがいい)。

セミとかはいやだけど、来世も人間がいいですか、それともちゃんと世話をしてもらえる家の飼い猫にジョブチェンジしてみます? と訊かれたら本気で悩んでしまう。



『人間をお休みしてヤギになってみた結果』は、トーマス氏がヤギとして生きる(四つ足で丘を越えて草を食べる)ためのチャレンジを書いた本だ。

これもおもしろそう! とおもったのだが……。

うーん……。
『ゼロからトースターを』はその行動力に感心したものだが、『ヤギになってみた』はなかなか動きださないんだよね。
シャーマンを訪れて話を聞いたり、ヤギと人間を分けるのは何かと思索をくりかえしたり、ヤギを育てている人に話を聞きに行ったり……。
ぜんぜんヤギにならないんだよね。

ヤギになるのは終盤も終盤。
ヤギに囲まれて義足みたいなのをつけた人間が四つ足で歩いている写真はおもしろいけど、肝心の心境の変化はほとんどつづられていない。
痛いとか疲れたとかばかりで、そりゃそうだろうな、そんなのやってみなくてもだいたい想像つくよ。
結局「ヤギになってみた結果」ではなく「人間が四本足で歩いて草を食べてみた結果」だった。がっかり。



とまあプロジェクト自体はあまり実りのあるものではなかったけど、ヤギとヒトを分けるものについてあれこれ考えていく中にはおもしろいところもあった。
それに加えて、これはすべての種に見られることだが、家畜化は脳の萎縮をまねく。犬の脳は狼の脳より小さく、一般的な家畜のヤギは野生のヤギよりも小さな脳を持つし、豚の脳はイノシシの脳より小さい。そして興味深いことに、過去三万年間において、人間の脳も萎縮しているのだ。実際のところ、ホーレンシュタイン・シュターデル洞窟のライオンマンを彫った人間は、我々と比較して、テニスボール一個分大きい脳を持っていたのだ。彼らはまた、我々よりも体格がよく、大きな歯と、よりしっかりとしたあごを持っていた。
 この進化のパターンは、人間も家畜化のプロセスを辿っており、凶暴さをそぎ落とされる方向に淘汰されつつあるという、興味深い考えに行きつく。ただし、人間を家畜化したのは、人間自身なのだ。この自己家畜化プロセスは、どのように行われたのだろう? ハーバード大学の生物人類学教授のリチャード・ランガム氏によれば、それは以下のようになされた可能性があるという。誰か(怒っている若い男性の場合が多い)が、その暴力的な気質で集団を混乱させ続ける場合、集団の残りのメンバーは団結して、その若い男に対処しようと決める。そして不穏なことが起こる。集団の残りのメンバーたちは結託して彼の頭に岩を打ちつけたり、崖から突き落としたり、槍で突き刺したりするというわけだ。手荒いやり方ではあるが、問題は解決する。

現代人の脳は、ネアンデルタール人よりも小さいのだそうだ。
そういや島 泰三『はだかの起原』にも同じことを書いていた。

ふうむ。多くの人は現代人が地球史上いちばん賢いとおもっているけど、じつはそうではないのかもしれない(賢さの定義をどう決めるかによるだろうけど)。
自分でエサをとらなくてもいい環境がそうさせるのか、賢すぎる個体は社会で生きづらいのか、ただ単に経年劣化しているだけなのか……。

ということは今後どんどん脳は縮小していくんだろうか。有史以来ずっとくりかえされてきた「最近の若いやつは……」は意外と正しかったのかもしれない。



ヤギの生活をするためにはただよつんばいになればいいとおもってたんだけど、そもそも人間はよつんばいで生きていくことはできないのだそうだ。
「その通り。僕らはものごとを快適にして痛みを軽減することはできるけれど、体の各部位にかかる圧力を減らすことはできない。その圧力が君を破壊するってわけだ」
 破壊なんて強い言葉だけれど、でも彼らはゆずらなかった。それじゃあ、義足をつけてマラソンを走った男性は?
「それは素晴らしいことだな」とジェフは言った。「でも、臨床的観点で言うと、狂気の沙汰だ。マラソンが終わった後の足の状態を見てみたい。フニャフニャになるまで叩いたハムみたいになっているはずだ。しかしそうだったとしても、そのランナーは二本足で立っていたわけだ。君の場合は問題が山積みだよ。例えばどうやって頭を上げておく? めちゃくちゃ辛いはずだ。ヤギには人間よりも強い項靱帯というものがある。それは、ピンと張ったロープのようなもので、首の後ろ側にあって、それがあるおかげで頭を上げておくことができるんだ。でも君にはそれがない。それから、たとえ項靱帯のような装具を作ることができても、君はそれを作るべきじゃないと思う。だって快適過ぎてしまうから。君には疲れてもらわなくちゃならない。疲れることで、止まることができるからね。長期間頭を上げ続けて、神経や頭への血流に影響を与えることを避けないと」
ヒトも大昔は四足歩行する動物だったんだろうけど、それは遠い昔。今さら四足歩行には戻れないのだ。

そういや昔から「オオカミに育てられた子」という言い伝えがある。ローマ神話のロームルスとレムスだったり、有名な例だとアマラとカマラだったり、フィクション作品にも数多く出てくる(ぼくがすぐ思いうかべたのは手塚治虫『ブッダ』のダイバダッタ)。
でもどれも信憑性に乏しいらしい。少しだけ行動を共にするぐらいはあっても、人間はオオカミの行動ペースについていけないのだそうだ。


ということで、人間はヤギにもオオカミにもなれない。残念ながら人間として生きていくしかなさそうだ。
とりあえず現世は。

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2019年11月28日木曜日

【読書感想文】たのむぜ名投手 / 藤子・F・不二雄『のび太の魔界大冒険』

のび太の魔界大冒険

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
「もしも……魔法の世界になったら!!」。魔法が使えることを夢見るのび太が、もしもボックスでそう願うと、次の日の朝には、街の空は空飛ぶじゅうたんでいっぱい!!ママは指先から光を出して朝食を作り、小学校では物体をうかす授業をしている。そう、本当の魔法世界になったのだ!!そんななか、のび太とドラえもんは魔界博士の満月先生とその娘の美夜子に出会い、博士の魔界接近説を聞いた。魔界が接近して地球をほろぼすというのだ。にわかに信じがたいのび太たち。だが、次の日、再び満月博士の家を訪ねると、博士の家が跡形もなく消えていた!!すべてが謎のまま夜を迎えると、昼間からのび太たちのそばにいた不思議なネコが、月の光を浴びて、美夜子になった!!彼女は博士が魔物にさらわれたと言い、いっしょに魔界に乗りこんでほしいと哀願する。さあ、どうする!?のび太、ドラえもん!!仰天摩訶不思議の大長編シリーズ第5弾!!
小学生のときに買ってもらって、何度もくりかえし読んだ本。
娘がドラえもんを読むようになったので、娘といっしょに読んだ。二十数年ぶりに。

いやあ、やっぱりおもしろい。
これは大長編ドラえもんの中でも最高傑作だ。

まずなにがいいってドラえもんがふつうに道具を使えること。
大長編ドラえもんって、たいていドラえもんの道具が使えなくなるんだよね。
いろんな事情で使える道具に制約がかかる話が多いんだけど、魔界大冒険はもしもボックス以外は使える(もしもボックスも終盤でドラミちゃんが持ってくるので使えるようになる)。道具を使えるのに倒せない敵、ってのがいい。敵の強大さがはっきりわかる。

やっとの思いで大魔王のところにたどりついたのに、あえなく一蹴されるとことか。
タイムマシンやもしもボックスといった反則級の能力を持つ道具を使ってもどうにもならなくなる絶望的な展開とか。
石ころ帽子をかぶっての緊張感ある潜入シーンとか。
ハッピーエンドかと思わせておいてもう一度ひっくりかえす裏切りとか。
とにかくハード。何度も絶望させられる。だからこそ、最後の最後で大魔王を倒したときのカタルシスはすごい。
「たのむぜ名投手」このセリフもしびれるし、期待に見事応えてみせるジャイアンはほんとにかっこいい。

誰もが空想したであろう「もしも魔法が使えたら」という導入の自然さから、楽して魔法が使えるわけではないというせちがらさを経て、徐々にのび太が魔法を使えるようになってゆく王道冒険ストーリーもいい。
この展開で心躍らない子どもはいないでしょ。

のび太とドラえもんが喧嘩して仲直りするシーン、美夜子さんがのび太を信じて後を託すところなど、些細な心の動きを丁寧に描いているのも名作たるゆえん。

石像、帽子の星、最後のオチなど、伏線の張り方も自然で、SFとしても完成度が高い。
ちょっと絶賛しすぎかなと自分でもおもうが、褒めるところしかないのだ。

あと悪役が魅力的なのもいい。大魔王はちょっと印象に残らないけど、星の数で張り合う魔界の連中は妙に人間くさくていい。

そしてなんといってもメジューサ。
ドラえもん映画史上もっともおっかない敵じゃない?


子どものときはトラウマになるぐらいこわかった。今読んでもやっぱりこわい。
最恐にして最強。
だって
・空を飛べる(しかも速い)
・時空の流れに逆らって飛べるのでタイムマシンで逃げても追いつかれる
・人間を石にする
・石にされた人間は動けなくなるが意識だけは残る
と、とんでもない凶暴性。弱点もない。

なによりおそろしいのは、こいつはドラえもんとのび太を石に変えた後、どこへともなく姿を消して二度と現れないってことだ。大魔王は倒されたことがはっきりと描かれるが、メジューサの行方は最後までわからない。パラレルワールドではまだ生きているにちがいないとぼくはおもっている。

今も時空のはざまでうなり声を上げながら人々を石に変えるために飛びまわってるのかもしれない……。


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【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』



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2019年11月27日水曜日

【映画感想】『アナと雪の女王 2』

『アナと雪の女王 2』

内容(ディズニー公式より)
命がけの妹アナによって、閉ざした心を開き、“触れるものすべてを凍らせてしまう力”をコントロールできるようになったエルサは、雪と氷に覆われたアレンデール王国に温かな陽光を取り戻した。そして再び城門を閉じることはないと約束した。それから3年――。
深い絆で結ばれたアナとエルサの姉妹は、王国を治めながら、失われた少女時代を取り戻すかのように、気の置けない仲間たちと平穏で幸せな日々を送っていた。しかしある日、エルサだけが“不思議な歌声”を聴く。その歌声に導かれ、仲間のクリストフやオラフと共に旅に出たアナとエルサは、エルサの持つ“力”の秘密を解き明かすため、数々の試練に立ち向かう。果たしてなぜ力はエルサだけに与えられたのか。そして姉妹の知られざる過去の“謎”とは? 旅の終わりに、待ち受けるすべての答えとは――。

そうそう、こういうのでいいんだよ。続編って。
ちゃんとエルサはエルサ、アナはアナのままでいてくれてる。

最近ディズニーの続編といえば『シュガー・ラッシュ:オンライン』『トイ・ストーリー 4』と、立て続けに「前作の世界観をぶっ壊す」作品が続いていたので、こういう「ちゃんと前作までのキャラクター造形を尊重する」作品を観てほっとした。

『シュガー・ラッシュ:オンライン』も『トイ・ストーリー 4』も、「この作品さえおもしろけりゃいいだろ」って感じで作ってんだよね(その狙いすら成功してるかどうか怪しいけど)。
でもこっちは「ディズニー作品」を楽しみに来てるわけ。映画一本だけを楽しめればそれでいいわけじゃない。過去の作品もあわせて楽しむために新作映画を観にいってるの。そういう心情を理解してねえんだろうなあ、『シュガー・ラッシュ:オンライン』『トイ・ストーリー 4』の制作陣は。

あ、いかんいかん。また愚痴が長くなる。

愚痴を読みたい奇特な人は以下からどうぞ。
【映画感想】『トイ・ストーリー 4』
【映画感想】『シュガー・ラッシュ:オンライン』



前作『アナと雪の女王』、ぼくは数年前にDVDで観た。
そのときおもったのは
「たしかにおもしろい。よくできている。でも、社会現象になるぐらいヒットするほどかなあ。他のディズニー作品もこれに負けず劣らずだとおもうけど。どうしてこれだけがそこまでヒットしたんだろう」

『2』を観てその謎が解けた。
映像、そして音楽に圧倒されたのだ。
なるほど。前作が大ヒットしたのもこれが理由か。
これは劇場で観なきゃだめだ。

はっきりいって『2』のストーリーは難解だ。
過去と現在が交錯するし、エルサが何のために行動しているのかもわかりづらい。

行動目的がシンプルだった前作とは対照的だ。
「追われたから山へ逃げて一人で生きていくエルサ」「エルサを追いかけるアナ」「アナの具合が悪くなったのでお城に向かうクリストフたち」「捕らえられたので逃げるエルサ」「氷漬けになったアナを助けようとするエルサ」
と、前作の行動はすごくわかりやすい。
人物の善悪もはっきりしている。

『2』でははっきりと悪人として描かれるのは××××××(ネタバレのため伏字)ぐらい。しかし××××××はもう死んでいる。あとの登場人物はわけもわからず右往左往としているだけだ。
観ているこちらも戸惑う。誰に感情移入していいのやら、何を期待すればいいのやらさっぱりわからない。

だが。
CGによる壮大な映像と迫力ある音楽がそんな疑問をふっとばしてくれる。
観終わった後は「なんだかわからんがすごいものを観た!」と感じる。そう、感じるのだ。

『アナと雪の女王2』がDVD化されたときの評価はあまり高くないのではないかとおもう。
なぜならストーリーが前作に比べて不明瞭だから。こういうのが好きな人もいるだろうけど万人受けはしづらいから。
映像や音楽の迫力はDVDで観ても伝わらないだろうから。
音楽ライブをYouTubeで観るようなもので、富士山を写真で観るようなもので、形は伝わるんだけどその匂いや手触りや温度は伝わらない。

だから興味のある人はDVD化を待たずに劇場に行くことをおすすめします。
そして小難しいことを考えずに迫力に浸ってほしい。

いやーすごかった。映像と音楽が。
ぼくはピクサースタジオを好きなんだけど、ピクサーの映像技術はディズニースタジオに完全に抜かれてしまったな。


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氷漬けになったまま終わる物語


2019年11月26日火曜日

ツイートまとめ 2017年5月


路上睡眠

年齢詐称

幽霊城

図書館

業界用語

餅餅食感

関西人

小熊猫

卓球部

大熊猫小麦餅

五輪問題

交友能力

案内人

磯野家

死亡実験


2019年11月25日月曜日

オトガイ選手の頓着


オトガイです。
ええ、フィギュアスケート選手の。
そうです。いえ、家族とかではなく本人です。

実況やってた藤原さんですよね。
こないだの放送、観ました。
それでですね、藤原さんの実況に関していくつか気になった点があったんで言っておこうとおもいまして。
いえクレームってわけではないんですけどね。


えーと、まず何から言おうかな。これにしようか。

ぼくの紹介シーンで、「前回大会の悔しさをバネに練習に励んでまいりました」って言ってましたよね。
ああいうのやめてもらえますか。
ぼくは前回九位でしたけど、まったく悔しいとはおもっていませんでしたから。
だって九位って自己ベストでしたからね。
勝手に悔しいことにしないでもらえますか。
前回大会の後にお祝いの会の席を設けてくれた後援会の人たちにも失礼ですし。

あと細かいことを言いますけど「励んでまいりました」って謙譲語ですよね。それ他人に対して使うのおかしくないですか。
いや同じ日本人だからとか、そんなの理由にならないでしょ。なんであなたがぼくの代わりにへりくだるんですか。
「励んでいらっしゃいました」でしょうが。


それから演技の直前。
「日の丸を背負って挑みます!」って言ってましたよね。
あれもおかしくないですか。ぼくの衣装の背中にはスポンサーさんであるコメカミ食品さんのロゴが入ってますからね。知ってます? コメカミ食品さんのロゴ。黄色と青のシマシマ。日の丸とは似ても似つかぬデザインですよ。
あっ、比喩? ああ、「日本中の期待を背負って」って意味ですか。
でもね。だとしてもおかしくないですか。
どう考えたって日本中が期待してるのはぼくじゃなくてサクラコウジ選手でしょ。イケメンですもん。世界ランクも彼のほうが上だし。
いやいいんですよ、そんなフォローしなくても。不人気なのは自分がいちばんよくわかってますから。
だいたいあなたたちは番組をあげてサクラコウジ選手を応援してるじゃないですか。
ぼく、測ったんですよ。ぼくの紹介VTRは一分二十四秒。それに対してサクラコウジくんのVTRは四分五十五秒でしたからね。
ただぼく、地元の北葛城郡ではけっこう人気なんですよ。ですから言うのであれば「北葛城郡の郡章である河童のマークを背負って」にしてほしかったですね。
それであれば北葛城郡の後援会の人たちも喜んでくれたでしょうから。


それから「いよいよ総決算」「これまでのスケート人生の集大成」って言ってましたよね。
勝手にぼくの決算期を決めないでくださいよ。あと五年ぐらいは現役にしがみつこうとおもってるんですから。
やめるのかとおもってびっくりするじゃないですか。北葛城郡の後援会のみなさんが。

それから転倒したときに
「ちょっと集中力が途切れたか」
って言ってましたけど、あのときはまあまあ集中してましたよ。エロいこと考えてたのは最初だけですからね!


で、いちばん許せないのは最後の一言です。
「オトガイ選手、今後メンタル面を鍛えればさらに強くなるでしょう」
って言いましたよね。
精神科医でもないのに勝手にぼくの精神鑑定をしないでください!
あんなこと言ったら、まるでぼくが細かいことばかり気にするめんどくさい人間みたいじゃないですか!


2019年11月22日金曜日

ツイートまとめ 2019年1月


一流

自動車

いだてん

組体操



敵味方

生命保険

現実

ネタバレ

バイリンガル

霊長類

自尊心

受信料

気配り

おんぶ

マザコン

寒い理由

排水溝

化学反応

あんたがたどこさ

文学

KISS

寄生虫

無重力

酩酊

官能小説

裏側

所属部屋

スマイルプリキュア

短歌

実感

ギフト

運動

2019年11月20日水曜日

【読書感想文】生産性を下げる方法 / 米国戦略諜報局『サボタージュ・マニュアル』

サボタージュ・マニュアル

諜報活動が照らす組織経営の本質 

米国戦略諜報局(OSS) (著)
越智 啓太(監修・訳) 国重 浩一(訳)

内容(Amazonより)
CIAの前身、OSSが作成した「組織をうまくまわらなくさせる」ためのスパイマニュアル。「トイレットペーパーを補充するな」「鍵穴に木片を詰まらせよ」といった些細な悪戯から、「規則を隅々まで適用せよ」「重要な仕事をするときには会議を開け」まで,数々の戦術を指南。マネジメントの本質を逆説的に学べる、心理学の視点からの解説付き。津田大介氏推薦!

サボタージュマニュアルとは、CIAの前身に当たる米国の諜報機関OSSが作成した、諜報員向けのマニュアル。
第二次世界大戦の敵国の軍事活動や生産性を妨害するためのマニュアル。
マニュアルというとふつうは効率を上げたりミスを減らしたりするためにつくるものだが、このマニュアルは逆。どうやったら効率を下げるか、ミスを減らすか、人々のやる気がなくなるか、という発想で作られている。
当時はまじめにつくったのかもしれないが、ブラックユーモアのようでおもしろい。

といっても、サボタージュマニュアルの大部分は「トイレを詰まらせる方法」とか「燃料タンクに何を入れたら車が故障するか」とかで、悪質ではあるが程度の低いイタズラ、というレベルでどうもくだらない。
そもそも燃料タンクを一人で触れる立場にある人間以外には実行不可能だし。

完全イタズラマニュアル、といった感じ。
これ考えるのは小学生に戻ったようで楽しかっただろうなあ。でも実用性は乏しそう。


だがこのマニュアルの白眉は第11章。
▼11 組織や生産に対する一般的な妨害
(a) 組織と会議
1.何事をするにも「決められた手順」を踏んでしなければならないと主張せよ。迅速な決断をするための簡略した手続きを認めるな。
2. 「演説」せよ。できるだけ頻繁に、延々と話せ。長い逸話や個人的な経験を持ち出して、自分の「論点」を説明せよ。適宜「愛国心」に満ちた話を入れることをためらうな。
3. 可能なところでは、「さらなる調査と検討」のためにすべての事柄を委員会に委ねろ。委員会はできるだけ大人数とせよ(けっして5人以下にしてはならない)。
4. できるだけ頻繁に無関係な問題を持ち出せ。
5. 通信、議事録、決議の細かい言い回しをめぐって議論せよ。
6. 以前の会議で決議されたことを再び持ち出し、その妥当性をめぐる議論を再開せよ。
これは一部だが、この“妨害方法”は七十年以上たった現在でも十分通用する……というか多くの企業や官公庁で実行されているよね。

ぼくが前いた会社でも実行されてた。毎日朝礼して誰かが演説したり、なにかというと「それは会議を開いてみんなの意見を聴こう」と言いだすやつがいたり……。
もしかしたらあの人たちはどっかの諜報機関から送りこまれたスパイだったのかなあ……。そうおもいたい……。



おそらく学校教育のせいでもあるんだろうけど、「みんなで話しあえばよい知見が得られる」という思いこみを持っている人は多い。
たしかに集団の水準より下にいるバカからすると「他の人に考えてもらう」は有効な方策かもしれない(だから自分で考えない人間ほど会議をしたがる)。

しかしたいていの会議はレベルの低い人間に議論がひっぱられるので正しい結論が導きだされないことも多い。
このうち、スペースシャトル「チャレンジャー」は、1986年1月8日に打ち上げの途中で爆発しました。この事故に際しては、打ち上げ当日に気温が非常に低くなることが予測されたので、シャトルの部品を製作している下請け会社の技術者が、危険性を指摘していたのに、「会議」によってその発言が封殺されて、事故が発生してしまったのです。
 また、スペースシャトル「コロンビア」は、2003年2月1日、発射の際に主翼前縁の強化カーボンとカーボン断熱材が損傷したことにより、大気圏再突入時に空中分解してしまいました。この事故では、NASAの技術者のロドニー・ローシャが、打ち上げ時に断熱材が破損した可能性を早くから指摘し、再三にわたって、人工衛星からその部分を高解像度で撮影することや乗組員に直接チェックさせることを要求したのに対して「会議」でその意見が封殺されて、事故が発生したことが後の調査でわかりました。
「可能なところでは、『さらなる調査と検討』のためにすべての事柄を委員会に委ねろ。委員会はできるだけ大人数とせよ(けっして5人以下にしてはならない)」(5章▼11(a)3)、「重要な仕事をするときには会議を開け」(5章▼11(b)11)といったルールがサボタージュになり得るのは、じつはこのような現象が頻繁に生じるからなのです。

まったく同じ能力の人間が、完全に対等な立場で、自由闊達な雰囲気で話しあえば議論も有意義なものになるのだろうが、そんな会議はまずない。

声の大きいやつの意見が通るか、誰も反対しないような無意味な結論(「各自効率性を上げるよう努力する」みたいな)に達するか、後になって「だからおれはあの時反対したじゃないか」と自己弁護するための議論になることがほとんどだ。

もちろん複数人がからむプロジェクトにおいてコミュニケーションは必要不可欠だが、課題解決の手段としては会議はふさわしくない。
「意見のある人間が集まって意見を出し、それを踏まえた上で誰かひとりが方針を決める(もちろん意思決定者と責任をとる人物は同じ)」がいちばんいいやりかたなんだろうなあ。



 さて、このような「学習性無力感」を意図的につくり出すためにはどうすればよいでしょうか。サボタージュ・マニュアルの次の項目を見てください。「非効率的な作業員に心地よくし、不相応な昇進をさせよ。効率的な作業員を冷遇し、その仕事に対して不条理な文句をつけろ」(5章▼11(b)10)。これを行うと、効率的に一生懸命仕事をしている作業員は自分がやっていることがばからしくなるか、何をすればよいのかわからなくなってきます。つまり、学習性無力感が職場につくられてしまい。作業員の士気は大きく損なわれるのです。
これもよく見る光景だね。
無能なイエスマンが引き上げられた結果、現場の人間がどんどん辞めていくやつ。

このへんの「生産性を下げる方法」は共感できてすごくおもしろい。

生産性を下げるマニュアルがあるということは、この逆をやればいいだけなんだけど、ほとんどの組織はそれができないんだよなあ……。やっぱり大企業や省庁には諜報員がまぎれこんでてサボタージュ・マニュアルを実行してんのかな。


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2019年11月19日火曜日

おばけなんてじゃないさ


小学生のとき、親に「早く寝ないとおばけが出るよ」「いい子にしてないとサンタさんが来ないよ」と言われるたびに「何をくだらないことを言っているんだ」とおもっていた。
「しつけのために嘘を教えるなんて、指導者の立場にある人間として正しい行いとはおもえない」とおもっていた。
「自分が親になってもおばけだのサンタクロースだの妖怪あずきあらいだのといった茶番に子どもは付きあわせないぞ!」と決意した。

で、自分が親になって数年たった今、おばけもサンタクロースもばんばん使っている。
「夜更かししてるとおばけが出るよ」「じゃあサンタさんに悪い子ですって報告しとくわ」と言っている。

こんな恰好をして脅したこともある



同じく幼い子を持つ友人と話すと、やはりみんなおばけもサンタクロースも大いに活用しているようだ。

べつに積極的におばけだのサンタクロースだのと教えるわけではないが、子どもが保育園でおばけやサンタクロースの存在を仕入れてくるので、
「保育士がせっかく教えたものを、あえて否定することもあるまい」
と乗っかっているうちについつい依存してしまうのだ。

子を持ってわかる、先人の知恵の重要性。

おばけやサンタクロースというのは、いってみれば「賞罰の外注」だ。

ふだんは子どもに対する賞罰の権限は親が握っている。
「悪いことをしたから怒ります」
「言うこと聞かないと遊びに連れていきません」
「がんばったから好きなお菓子を買ってあげます」
と。

しかし、権限者が近くにいると都合が悪いこともある。
子どもが大きくなると、知恵をつけてきていろいろ反論されるようになる。
「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
「自分だって〇〇できてないくせに」
「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」

こう言われると困ってしまう。
親にもいろいろ事情があるのだ。
「忘れてた」とか「めんどくさい」とか「いいの! お父さんがいいって言ったらいいの!」とか、それぞれ正当な理由がある。
だがそれを子どもに言っても理解してもらえそうにない。

そこで、外注ツールを使うのだ。
それが、おばけであり、サンタさんであり、なまはげだ。
賞罰を与える主体が遠くの存在であれば、子どもの反論もなんなくかわせる。

「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
→ 「知らない。決めるのはおばけだもん」

「自分だって〇〇をできてないくせに」
→ 「おばけは子どもをさらうから、大人は関係ないんだよ」

「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」
→ 「大人のところにはサンタさんが来ないからね」


子どもというやつは、
大人はルールに従って生きているとおもっているし、
大人の言動は首尾一貫していなければならないとおもっているし、
大人は嘘をつかないと信じている。

大人の正しさを信じてくれることはありがたいのだが、そうすると現実とのズレが生じる。
そのズレを埋めてくれるパテがおばけでありサンタなのだ。

いやはやおばけさん、サンタクロースさん。
いつもたいへんお世話になっております。その節は存在ごと否定してしまい申し訳ございません。
もうほんと、おばけさんには足を向けて寝られません。どちらの方角にいるのか存じあげませんか。


2019年11月18日月曜日

【読書感想文】革命起きず / 『ゴトビ革命 ~人生とサッカーにおける成功の戦術~』

ゴトビ革命

人生とサッカーにおける成功の戦術

アフシン・ゴトビ(著)  田邊 雅之(取材・文)

内容(e-honより)
少年時代、イランからアメリカに移住。家族との別離や人種差別、苦学をしながらのUCLA卒業を経て、世界が注目するサッカー監督へ。数奇な運命と戦ってきた男だから教えられる逆境の乗り越え方と、組織を躍動させる秘訣。

本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

アフシン・ゴトビの半生とインタビュー集。
といってもサッカーにあまり興味のないぼくは、アフシン・ゴトビという名前すら聞いたことがなかった。
ゴトビといっても決済日のことではございません(関西ジョーク)。

イランで生まれ、13歳からはアメリカで育ち、韓国代表のコーチやイラン代表監督を経て、2011年からは清水エスパルスの監督を務める人物だそうだ。

この本の刊行は2013年だが、この時点では「ゴトビはすごいぞ! ゴトビが日本サッカー界を変える!」といった調子で書かれているが、残念ながらその後もゴトビはエスパルスで結果を出すことはできず、2014年シーズン途中で監督を解任されている。
もちろんチームの結果が悪いのは監督だけの責任ではないが、とはいえ、10位(2011)→9位(2012)→9位(2013)→15位(2014最終順位)という成績を見ると、少なくともJリーグにおいては“ゴトビ革命”は起こせなかったのだろう。

ぼくとしては「成功者の本」よりも、むしろゴトビ監督が退任した後に「なぜうまくいかなかったのか」を分析する本のほうが読みたかったな。
成功者の自慢話から学ぶことはないが、失敗から得られるものは多いから。



とはいえ、中盤の失敗エピソードはおもしろい。
アメリカのでの大学選手時代に実力はあったので監督に気に入られなかったから試合に出してもらえなかったエピソードとか(あくまで自分でそう言ってるだけだけど)、故郷イランの代表監督に就任したものの権力争いに巻きこまれて様々な妨害に遭った話とか。

オシム氏もユーゴスラヴィア代表監督時代に各方面から脅迫されたって言ってたけど、人気スポーツの監督ってとんでもなく気苦労の多い仕事だよなあ。もちろん采配や指導もたいへんだろうけど、それ以上に本業以外の邪魔が多くて。
国家元首よりたいへんな仕事かもしれない。

このへんの話をもっと読みたかったなあ。
後半はゴトビ氏の「私は〇〇だ。だからきっと成功するだろう」みたいな話が並んでいるけど、2019年の読者からすると「でもあなた成果出せずにクビになってんじゃん」としかおもえないからなあ。

現役でやっている人をヨイショしすぎる本は書かないほうがいいね。



韓国代表チームの参謀、そして日本のクラブチームの監督の両方を経験しているゴトビ氏ならでの「韓国と日本の共通点」はおもしろかった。
 ただしこういう例を除けば、やはり日本にいちばん似ているのは韓国だ。その最大のものがヒエラルキー、つまり「タテの人間関係」で社会ができている点だろう。
 タテ社会の意識の強さは、強いサッカーチームを作っていくうえでネックにもなっている。サッカーではいったんホイッスルが鳴ってしまえば、最低でも45分間は試合が続く。この間、監督はほとんど何もできないし、試合に勝つには選手が自分で考え、判断し、リスクを冒してチャレンジすることが不可欠になる。
 だがタテ社会に慣れてしまっていると、ピッチ上でもなかなか自分で判断が下せなかったり、年上の選手の指示を仰いでしまう。そんなことをしていたら何度チャンスをつくってもフイにしてしまうし、守備でもあっという間にゴールを奪われてしまう。
 また、タテ社会の発想に慣れていると、本来の実力を発揮できないという問題も起きてくる。私が日本に来て気がついたことのひとつは、日本人選手は練習の出来と試合のパフォーマンスにかなり開きがあるということだった。実際、エスパルスにも練習では本当に素晴らしいプレーができているのに、試合になると力を発揮できなくなる選手が多い。
韓国を毛嫌いしている日本人は多いけど(そして日本を毛嫌いしている韓国人もきっと多いんだろう)、それは両国の国民性が「似ている」からなんだろうなとぼくもおもう。

なまじっか似ているからこそ些細な違いが許せないんじゃないかな。
何から何まで違う国民性だったら「もうあいつらはほんとしょうがねえな」ぐらいで呆れることはあってもそんなに腹は立たない。
でも微妙に歪んだ鏡だから「なんでこれが通じないんだ!」っておもって嫌いになるんじゃないかな。

こういうこというと、嫌っている人は烈火のごとく怒るだろうけど。

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2019年11月15日金曜日

早く行くのは三文の徳


中学三年生のとき。
部活を引退して、朝練がなくなった。
せっかく早起きする習慣がついたのにそれを捨てるのももったいないとおもい、早朝から学校に行くようにした。
本を読んだり、当時はまっていた漢字能力検定の勉強をしたりしていた。

ぼくが早く来るのを知って、友人Sも早く登校してくるようになった。
まだ誰もいない教室で、くだらない話をしたり、漢字クイズを出しあったりして過ごすようになった。

あるとき、早朝の教室に男性体育教師が怒鳴りこんできた。
「おいおまえらなにしとんねん!」

突然のことにぼくらはびっくりした。
そのときは漢検の問題集を広げていたので戸惑いながらも「えっ、漢字の勉強してるんですけど……」というと、体育教師はきょとんとした顔をした。

「ほんまか……? そっか、まぎらわしいことすんなよ……」
といって、職員室へ帰っていった。
残されたぼくらは顔を見合わせた。なにがまぎらわしいことなんだ?
どうやら体育教師は、ぼくらが早朝の教室で何か悪いことをしているとおもったらしい。
男子中学生というのは非行に走りやすい年頃だ。同級生には隠れて校舎の裏でタバコを吸ったりしている連中がいたので、ぼくらもその手合いだとおもわれたようだ。

その後も体育教師は何度かそっと教室をのぞきにきた。
よほど「誰にも言われないのに早朝から学校にきて勉強する生徒がいる」ということが信じられなかったらしい。



高校に進学してからも早朝に登校する習慣は続いた。
ぼくは野外観察同好会に入った。もちろん朝練はない。けれど朝練をしている野球部やサッカー部よりもずっと早く登校した。早く着きすぎて校門が開いていないこともあった。

早く行ったからといって何をするわけでもない。
まずは机につっぷして少し寝る。
学校に行って寝るのなら家で寝ればいいじゃないかとおもうかもしれないが、誰もいない教室で寝るのが楽しいのだ。おまけに遅刻の心配もないからストレスなく寝られる。
起きたら、本を読んだり、ときどき宿題をしたり、ぼくほどではないが早く登校してくる友人たちとしゃべったり。

そんなふうに朝の時間をのんびり過ごしていただけなのに、ふしぎと教師からは褒められるのだ。
朝、顔を合わせると「今日も早いな。えらいなー」と言われる。早く来て寝ているだけなのに、えらいと言われる。家でやらなかった宿題を学校でやっているだけなのにえらいと言われる。

これが放課後に教室に残っている場合だとこうはいかない。見回りに来た教師から「いつまで残ってんねん。はよ帰れよ」と注意されたりする。
ふしぎなことに、同じことをやっていても、朝だと「感心な生徒」になり、放課後だと「だらしない生徒」の扱いになるのだ。


そのとき学んだことは、社会人になってからも役に立った。
人は、早く来る人のことを「まじめなやつ」と評価するらしい。

三十分残業しても「がんばってるな」とは言われないが(まあぼくがいた会社は長時間が労働があたりまえだったってこともあるけど)、始業時間よりも三十分早く出社すると「まじめだな」と言ってもらえる。
逆に、始業時間一分前に来る社員は「だらしないやつ」というレッテルを貼られたりする。
毎朝一分前に来る人は、いつも同じ時刻に家を出て、少しでも電車が遅れたら走って遅れを取り戻したりして、すごくがんばっているように見える。毎朝ぎりぎりの人のほうがスケジュール管理をきっちりしているのに、だらしないと思われるのだから気の毒だ。

ぼくはだらしないから早めに家を出る。
ぼくからすると「毎朝一分前に来る」よりも「だいたい三十分前に着く」ほうがずっとかんたんだ。何も考えなくていいのだから。

だらしない人は早めに家を出るほうがいいぜ。
時間を気にしながらあわてるぐらいなら、早起きするほうがずっと楽だぜ。


2019年11月14日木曜日

【読書感想文】壊れた蛇口の消滅 / リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』

東京タワー

オカンとボクと、時々、オトン

リリー・フランキー

内容(e-honより)
オカン。ボクの一番大切な人。ボクのために自分の人生を生きた人―。四歳のときにオトンと別居、筑豊の小さな炭鉱町で、ボクとオカンは一緒に暮らした。やがてボクは上京し、東京でボロボロの日々。還暦を過ぎたオカンは、ひとりガンと闘っていた。「東京でまた一緒に住もうか?」。ボクが一番恐れていたことが、ぐるぐる近づいて来る―。大切な人との記憶、喪失の悲しみを綴った傑作。
私小説。
読みながら、けっこう早い段階で「ああこれはオカンの死を描いた小説だな」と気づいた。ぜったい泣かせにくるやつだ、と警戒しながら読む。
はたしてそのとおりの展開になるわけだが(まあ世のオカンはだいたいいつか死ぬ)、わかっていても悲しい。他人のオカンでもオカンの死は悲しい。

考えてみれば、「母親が死ぬ」なんてごくごくあたりまえの話だ。
たいていの人は母親より後に死ぬから、人生において一度は母親の死を経験することになる(二度経験する人はほとんどいない)。
だから「母親が死ぬ」というのは「小学校を卒業する」とか「仕事を辞める」とかと同じように普遍的な出来事だ……なのにどうしてこんなに悲しいんだろう。

いや、ぼくの母親はまだぴんぴんしているから母を亡くした悲しみは味わったことはないんだけど、それでもそのつらさは容易に想像がつく。
「父親が死ぬ」とはまた別格の悲しさだ。
ぼくの父も、父親を亡くしたときは泣いていなかったが母親を亡くしたときは号泣していた。
ぼくからしたら祖母が死んだわけだが、あまり悲しくなかった。まあ順番的にいっておばあちゃんは先に死ぬからな、という気持ちだった。
でも父親に感情移入して「この人はおかあさんを亡くしたのか」と考えていたら泣いてしまった。
「自分の祖母の死」よりも「父親のおかあさんの死」と考えるほうが悲しいのだ。


穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』という本の中で、穂村弘氏がこう書いている。
自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。

(中略)

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。ここから先はすべて、ちゃんとした査定を経なくてはいけないんだという(笑)。
この文章、すごく的確に「母への気持ち」を表しているとおもう。
もちろんすべての母子関係にあてはまるわけはないが、少なくともぼくは、この気持ちに全面的に同意する。

「世界中を敵に回してもぼくは君の味方だよ」という安っぽい言葉があるが、母親の子への愛情に関してはこの安っぽい言葉がぴったりとあてはまる。そして子のほうでもそれを知っている。この人はなにがあっても自分の味方なのだ、と。
リリー・フランキーさんの母親も、まさに「壊れた蛇口」のような人だったのだろう。我が子のためなら自分の人生を犠牲にしてもよい。おそろしいほどの愛情。
しかも信じられないことに、そんなふうに考えている母親がめずらしくないようなのだ(ぼくの母親もそれに近い)。おお怖い。


ぼくには娘がいる。
なにがあっても味方でいたい、とおもっている。娘に命の危険が迫っていたら自分の命を投げだすこともやぶさかではない。たぶん。
でも、娘が殺人犯になったらどうだろうか。それでもぼくは娘の味方でいられるだろうか、と考えると自信がない。糾弾する社会の側につくんじゃないかという気がする。

やはりぼくは母にはなれない。



リリー・フランキー氏のオカンのエピソードを読んでいると、なんとも男前な人だなあと感じる。
 小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。家に帰ってから早速、注意を受けた。
「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
「なんで?」
「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。失礼なんよ、それは」
(中略)
「うちではいいけど。よそではいけん」
「きゅうりのキューちゃんやったんよ」
「なおのこといけん」
ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせないようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカンはあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。
 別府のアパートに来て、オカンは勘づいたらしく、こたつにいるボクの前に座って言った。
「あんた、煙草喫いよるやろ」
「うん.........」。なんでバレたんだろうかと、顔を上げられないでいると、オカンは自分の煙草とライターをボクの目の前に差し出した。
「喫いなさい」
「えっ......?」
「喫うていいけん、喫いなさい」
「オレ、マイルドセブンやないんよ......」
 どぎまぎして席を立ち、机の引き出しに隠したハイライトを出して来て、オカンの前で火をつけて喫った。オカンも煙草を喫いながらボクに話した。
「隠れてコソコソ喫いなさんな。隠れて喫ったら火事を出すばい。火は絶対に出したらいけん。人に迷惑がかかる。男やったら堂々と喫いなさい」
 次の日。オカンは別府の商店街で、会社の重役室に置くようなカットガラスの大きな灰皿を買って来て、こたつの上にどかんと置いた。
このエピソードだけで、ああ、“オカン”は立派な人だったんだなあとおもう。
箸の持ち方が変だったり、高校生が煙草を吸っていたりは気にしない。だけど他人に恥をかかせることや火事を出して他人に迷惑をかけることはぜったいに許さない。
自分を守るためではなく他人を守るためのマナーを徹底して教える。
マナーってそうあるべきだよね。
他人を攻撃するためにマナーをふりかざす人が多いけど、他人を守るためだけにマナーを使うオカン。かっこいいなあ。


オカンもオカンなら、オトンのほうも肝の据わったオヤジだ。
「おう。お母さんから聞いたぞ。就職せんて言いよるらしいやないか」
「うん。せん」
「どうするつもりか?」
「バイトはするけど、とりあえずまだ、なんにもしたくない」
「そうか。それで決めたならええやないか。オマエが決めたようにせえ。そやけどのお。絵を描くにしても、なんにもせんにしても、どんなことも最低五年はかかるんや。いったん始めたら五年はやめたらいかんのや。なんもせんならそれでもええけと、五年はなんもせんようにみい。その間にいろんなことを考えてみい。それも大変なことよ。途中でからやっぱりあん時、就職しとったらよかったねえとか思うようやったら、オマエはプータローの才能さえないっちゅうことやからな」
これ、よその子になら言える男は多いとおもうんだよね。
ぼくだって甥が「仕事したくない」と言いだしたら「そっか。じゃあしばらく遊んで暮らしたらいい」って言える。どっか他人事だから。
しかし自分の子にこれを言えるかというと、ぼくには自信がない。

大した肝っ玉だとはおもうが、このオトンの場合、単に父親としての自覚があんまりなかっただけかもしれんな……。ほとんど息子といっしょに住んでないから……。

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げに恐ろしきは親の愛情



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2019年11月13日水曜日

【読書感想文】凪小説 / 石井 睦美『ひぐまのキッチン』

ひぐまのキッチン

石井 睦美

内容(e-honより)
「ひぐま」こと樋口まりあは、人見知りの性格が災いし、就活をことごとく失敗した二十三歳。ある日、祖母の紹介で「コメヘン」という食品商社の面接を受ける。大学で学んだ応用化学を生かせる、と意気込むまりあだったが、採用はよもやの社長秘書。そして、初出勤の日に目にしたのはなぜか、山盛りのキャベツだった。

六歳の娘と毎週のように図書館に行って本を借り、毎晩のように読みきかせている。
年間三百冊以上の児童書を読んでいることになるが、それだけの絵本を読んでいるぼくの一押しが、石井睦美『すみれちゃん』シリーズだ。


「これはおもしろい! なんてみずみずしく少女の感覚を表現しているんだ!」と感動して『すみれちゃんは一年生』『すみれちゃんのあついなつ』『すみれちゃんのすてきなプレゼント 』と立て続けに読んだ。どれもおもしろかった。図書館で読んだ本だが、これは買っておいておかねばとおもい購入もした。

妹の誕生、妹との喧嘩、母親に対する不満、友だちとの関係。さまざまな出来事を通して、すみれちゃんの五歳から八歳までの成長を描いている。
同じ年頃の娘や姪がいるのだが、まさにこの時期の女の子ってこんなこと言ってこんな歌つくってこんなことで悩んでるよなあと共感することばかり。
自分が五歳の女の子だったときのことを思いだすようだ。五歳の女の子だったことないけど。



ということで期待しながら、同じ作者の大人向け小説を読んでみたのだが……。

あれ。あれあれあれ。ぜんぜんおもしろくない。
何も起こらない。謎もない。失敗もない。誤解も生じない。裏切りもない。悪意もない。差別もない。不幸もない。
ほんとうに何もない小説なのだ。ただ女性が就職してちょっとずつ仕事に慣れながらときどき料理を作るだけ。なんじゃそりゃ。
めちゃくちゃ文章がうまいとかユーモアがあるとかなら、平凡な日常もおもしろおかしく描けるのかもしれないが、それもない。
「それであの立派なオープンキッチン! すごいですね、吉沢さん」
 と、まりあは言った。
(そしてそれをすんなり聞いちゃう社長って。まるで妻の言いなりになる夫のようではないですか。)
 という部分は、こころのなかで思うだけだ。
「すごいだろ? 奥さんだって言わないようなことをサラッと言っちゃうんだから。でも、同時にそれができたら、いいなと思ったんだよ。なあ樋口くん、人間っていうのはなんでできていると思う?」
(えっ。いきなりなんですか?)
「水と、タンパク質?」
 おそるおそるまりあは答えた。答えながら、ここは食品商社なのだから、食べたものでできていると答えればよかったと後悔し始めていた。
「なるほど。そうきたか。僕はね、記憶でできていると思っているんだ。そう、人間っていうのは記憶なんだよ」
 予想外の答えにまりあは目を白黒させた。もちろん、ほんとうに白黒させたわけではなく、それは比喩だ。実際には、あきらかに大きなまばたきを二度して、米田を見た。
どうよこの説明過剰な文章。
「あ、安藤部長!」
「部長はなしだよ。倉庫番の安藤さん」
「いえ、そんな……」
「じゃあ、ただの安藤さん」
「ただの安藤さんていうのも、ちょっと」
 まりあがそう言うと、一瞬、安藤はキョトンとした。
「そうじゃないよ。呼ぶときはただのはつけないよ」
 安藤に言われて、今度はまりあがキョトンとする番だった。やや遅れて、
「あっ」
 まりあが小さな悲鳴のような声をあげた。
どうよこのそよ風のようなユーモア。

このつまんなさ、どこかで読んだことあるなと考えておもいだした。
『和菓子のアン』だ……。
「どんなクソつまらない本でも一度手にとったら流し読みでいいから最後までは読む」を信条にしているぼくが、「これはアカン……」と途中で原子炉に放りなげてしまった『和菓子のアン』だ(あぶないからマネしないでね)。
上すべりしている毒気のないユーモア、食に関する半端な蘊蓄、どうでもいい話が延々と続く退屈な展開。どれをとっても『和菓子のアン』だ。

しかし『和菓子のアン』もそこそこ売れていたから、こういうのを好きな人もいるんだろうね。朝ドラが好きな人とか。

ぼくの心には波風ひとつ立たなかったなあ。凪。

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2019年11月12日火曜日

「桜を見る会」問題は、民主主義国家と軍事独裁国家の分岐点


なるべく直接的な政治の話をするのは避けていたのだが、さすがにこれは黙っておけん。
というかこれは政治の話じゃない。民主主義が崩壊するって話だ。

桜を見る会問題。
「桜を見る会」を口実に、与党議員の選挙支援者を「功労者」として招待し、税金で飲み食いさせていたという問題。

これまでも現政権はいろんな問題でさんざん非難されていたわけだが、結局なんだかんだと見逃されていた。

その理由はたったひとつ。
「そうはいってもそういう政権を有権者が選ぶから」だ。

どれだけブラックに近いグレーでも、どれだけ自制心がないように見えても、どれだけ身内に甘いように見えても、「選挙になれば勝つ」ことが現政権が延命している理由だった。
「国民に支持された」を唯一の後ろ盾にして、この世の春を謳歌してきたわけだ。

いいかわるいかはべつにして、民主主義的ではある。
ぼくは大阪維新の会を好きじゃないが、大阪府民の多数が維新の会を支持している以上、彼らの政策は甘んじて受け入れるしかないとおもっている。それが民主主義国家に生きるものの責務だから。



ところが「選挙に有利になるよう税金で支援者を接待した」はこれまでとは次元の異なる話だ。

サッカーでいうなら、モリカケは足をひっかけたり服をひっぱったりするプレー。悪質ではあるが審判(有権者)が笛を吹かなければ続行だ。

でも支援者を接待するのは審判に金を渡す行為
ルールに定められた反則じゃない。ルールをぶっ壊す反則だ。
退場どころか永久追放にしないといけない。

審判が買収されてたってことになれば
これまでの「そうはいってもそういう政権を有権者が選ぶのだからしゃあない」も全部ひっくりかえる。
「有権者が選んだ」が不正だったのだから。

だから選挙における不正は、政治の不正とは問題の次元がぜんぜんちがうのだ。


議員は「有権者から選ばれた」というただ一点を根拠に権力が与えられている。
選出方法が不正であれば、当然すべての権力を剥奪しなければならない。
選挙が公正でなかったのだから、政権の正統性を担保するものがひとつもない

内閣総辞職以外の選択肢はありえない。



報道を見ていると、論点があちこちに散らばっているように見える。

金額の多寡や招待客数の話をしてる。
そんなことはまったくもってどうでもいい。
「税金の無駄遣い」の問題じゃないぞ。
選挙支援者に1円でも渡したらアウトなんだよ。額なんか問題じゃない。
「次から改めます」で済ませていい問題じゃない。

政党間の争いの話でもない。
民主主義が崩壊するかどうかって話なんだから政党なんか関係ない。不正選挙があったのであれば与党議員だろうが野党議員だろうが全員追放しなきゃいけない。



疑獄だらけの政権だからみんな麻痺してるけど、これだけは「またか」で済ませたらいけない。

これで内閣総辞職しないなら「選挙で政権交代はぜったいに起こらない国」になる。
なにしろ税金を好きなだけ選挙につぎこめるんだもん。買収し放題なんだもん。負けるわけないじゃん。

「選挙で政権交代が起こらない国」はどうなるか。
「政権交代のためにクーデターを起こす国」になる。
選挙が無効化されるんだもん。政治に不満があるなら軍事行動に訴えるしかなくなる。

ぼくはイヤだよ、クーデターやテロが起こる国に住みたくないよ。

支持政党も関係ない。引き続き自公が政権とったっていい。
でも現政権だけは引きずり降ろさないと「クーデター → クーデターを防ぐために軍事独裁」の国になるんだよ。

このままだと「数ある政治スキャンダルのひとつ」としてフェードアウトしていきそうで、ほんとにこわい。
民主主義が終わるかどうかの瀬戸際なんだよ。みんなわかってる?

2019年11月11日月曜日

【読書感想文】収穫がないことが収穫 / 村上 敦伺・四方 健太郎『世界一蹴の旅』

世界一蹴の旅

サッカーワールドカップ出場32カ国周遊記

村上 敦伺  四方 健太郎

内容(Amazonより)
現地観戦やサッカー協会訪問、選手に突撃取材……南アW杯に出場する32カ国を1年かけて廻ったアシシとヨモケンから成るユニット・Libero。その活動を記した人気ブログ「世界一蹴の旅」が、大幅な加筆修正を経てW杯直前に書籍化!1年に渡る感動と笑撃のサッカーバカによるサッカー外交で、W杯を32倍楽しもう!

某氏との本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

ぼくはサッカーワールドカップだけはちょっと観る。ただしほとんどダイジェストで。
……という程度のにわかですらないサッカーファンだ。

しかしワールドカップはおもしろい。サッカーが好きというより「世界各国が集うお祭り」が好きなのだとおもう。
最先端の中継技術を楽しめることや、喜びかたにそれぞれの国民性があらわれることや、チーム事情に各国の背負っている政治背景が感じられることなどピッチ以外の見どころも多い。

2014年のワールドカップの時期にNHKスペシャル『民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯』という番組を放送していた。
ぼくはその番組でボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そしてユーゴスラヴィアの歴史を知った。その後に見たボスニア・ヘルツェゴビナ代表の試合はすごく楽しめた。
べつにサッカーのことじゃなくても、その国の歴史だとか地理とかがわかるだけでぐっとおもしろくなるのだ。


『世界一蹴の旅』は、サッカーファンの二人が、2010年ワールドカップ出場国32国(日本含む)をめぐった旅行記だ。
短い期間に32ヶ国をまわるということでかなりの駆け足になっているので旅行記としてはものたりないが、これを読んでいるとほんとにそれぞれの国の代表チームに興味が湧いてくるからふしぎだ。2019年の今となっては、とっくに終わった大会なのに。

テレビ局は、いまだに「駅前やパブで浮かれているにわかサッカーファンの声」を垂れながすことが自分たちの仕事だとおもっているが、ちょっと視点を変えるだけでこんなにおもしろいレポートができあがるのだ。

とはいえ、これはこの二人が勝手にやっているからこそおもしろいのであって、テレビとかが入ってきちんとしたレポートになるとつまらなくなりそうな気もする。

「オランダの道路はすごくややこしいからそこで生活しているオランダ人プレイヤーは視野の広いプレーができる」
とか
「アルゼンチン人は遊ぶときはしっかり遊ぶからマラドーナやメッシのように攻守で力の入れ具合の極端に異なるプレースタイルになる」
とか、現地を訪れた一ファンの感想として読む分にはおもしろいけど、公式レポートにしちゃうと「根拠のないいいかげんなことを言うな!」って怒られちゃいそうだもんなあ。



中国から北朝鮮に向かう電車の中で、たまたま乗り合わせた「日本語を専攻していた北朝鮮人」との会話。
対する僕も、北朝鮮人の日常生活や仕事、趣味に関する話などを聞いた。一緒にお酒を飲みながら語り合った中で感じ取れた彼らの考え方や価値観は、元々描いていた北朝鮮の閉鎖的なイメージとはかけ離れており、至極真っ当なものだった。この印象を決定付けた会話がこれだ。「なぜあなたは大学の専攻で日本語を選択したのですか?」と問うと、こんな答えが返ってきたのだ。「隣の国の人と会話できるというのは、人生の財産だと思うんですょ」と。
 彼自身、中国に行き来ができるほどの立場なので、北朝鮮人の中でも比較的グローバルな視点を持った人であることは確かだが、それにしても「日本語は人生の財産」という言葉が北朝鮮人の口から聞けるとは思いもしなかった。
 旅の醍醐味のひとつに、現地にて肌で感じ取った体験を通して、事前に張っていたレッテルを自分自身の手ではがしていくことが挙げられるであろう。今回もまた北朝鮮に対する先入観を自らの手で粉砕することができた。これだから旅は面白い。
へえ。北朝鮮でも日本語を専攻できるんだ。知らなかった。
それってもしかして日本に潜入して諜報活動をする工作員を養成しているのでは……と考えてしまったのはぼくの心が汚れているからですね、そうですね。すみません、魂のふれあいに水をさしてしまって。



いちばんおもしろかったのは、皮肉なことにニュージーランドのレポート。
皮肉というのは、ニュージーランドのレポートにはサッカーの話がまったく出てこないのだ。
ニュージーランドといえば、オールブラックスに代表されるラグビーの国。サッカーがまったく根付いていないのだ。
サッカーコートもサッカーボールを蹴っている人もいなくて、挙句に知り合った人から「サッカーワールドカップじゃなくてラグビーワールドカップの出場国をまわりなさい」と言われる始末……。

サッカーファン的には収穫のない話かもしれないけど、こういうのこそ実際に行ってみないとなかなか感じられない話なのでおもしろい。収穫がないことが収穫だね。


あとアメリカで「サッカーをどうマネタイズするか」みたいな話が出てくるのも、さすがはアメリカという感じでおもしろい。
ヨーロッパの国だったら「フットボールはスピリットを楽しむものだ。金儲けの話ばかりするな!」みたいなことを言われそうなものだけど、アメリカにおけるサッカーは「数あるスポーツのうちのひとつ」なのでドライにビジネスとしての現状を分析している。
プロである以上は金を稼がないといけないわけだし、金を稼げればいい選手が多く集まってくるわけだから、強くするためにもアメリカ的な視点が大事なんだろうね。

日本だと「子どもの野球離れが進んでいる」「この競技をどうやって盛りあげるか」と議論しても「どうやって金を稼ぐか」という話にはなりにくいよね。
「どう魅力を発信していくか」「もっとボランティアの活用を」みたいな声が多数を占めそう。そして衰退してゆく。
やっぱりスポーツは金儲けをしなきゃだめだよね。
ゴルフとかテニスなんかは(一部のプロは)すごく儲かるから、子どものときからやらせるわけだもんね。



「サッカー」という切り口であちこちまわるのはおもしろいね。
こういうワンテーマで掘り下げた旅行記があったらもっと読みたいな。

しかしこの本が物足りないのは、2010年ワールドカップ本選の話がまったく出てこないこと。
ワールドカップ直前に刊行された本なのでしょうがないんだけど、「事前情報では〇〇だったけど本選では××だった」みたいな後日談とあわせて読みたかったなあ……と2019年のぼくとしてはおもってしまう。
わがままな要望だけど。


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2019年11月8日金曜日

強盗と痴女


以前、こんな話を聞いた。

道で強盗や不審者に遭遇したとき「強盗だ!」と叫んでも誰も出てきてくれない。身の危険を感じるから。
だから「火事だ!」と叫ぶとよい。火事なら、家にいると危険なのでみんな出てきてくれるから。

と。
それを聞いたときはなるほどいい方法だと感心したのだが、改めて考えるとそれってほんとにいい方法なんだろうか。


「火事だ!」という声を聞いた母親が、あわてて3歳の娘と0歳の息子を連れて外に飛びだしてくる。
だがそこには刃物を持った強盗。あわれ罪のない親子は、動転した強盗の凶刃に倒れ……。

という可能性もある。

その場合、もちろんいちばん悪いのは刺した強盗だが、「火事だ!」と嘘をついて無関係な市民を巻き添えにした人間は「いやぼくも被害者なんで」で済まされるだろうか。

刑法には「緊急避難(第37条)」という条項があり、
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
とある。

この考えでいくと、"避けようとした害"は「強盗に金品を奪われる」であり、"生じた害"は「母子が刺される」なので明らかに後者のほうが程度が大きい。
なので罰の対象にはなるがある程度は軽減される、ということになる(だよね? 法律の専門家じゃないので責任は負いません)。

まあ軽減されるとはいえやっぱり罪にはなるみたいなので、やっぱり嘘はよくないよね。
自分の嘘のせいで罪のない人が殺されたら寝覚めが悪いし。

だから強盗に遭遇したときは
「火事だ!」じゃなくて
「痴女が出た!」と叫んで、下心丸出しで外に飛びでてきた男の人に助けてもらうのがいいんじゃないでしょうかね。
それなら万が一その人が刺されてもそれほど心が痛まないし。

2019年11月7日木曜日

のび太が心配


のび太が心配だ。

最近、娘がドラえもんの漫画やアニメを観るようになったので、ぼくもまた『ドラえもん』を読むようになった。

のび太はテストでたびたび0点をとる。
名前を書き忘れたから0点にされた、とか、学校教育のあり方に対して抗議をするためにあえて白紙で提出した、とかではなく一応問題にまじめに取り組んだ結果として0点をとる。
先日見たアニメでも2点をとっていた。

小学四年生のテストだから「直前に習ったこと」が出題されているはずだ。
そこそこ授業を聞いてそこそこ理解していれば70点ぐらいはとれるはず。
だからのび太が0点とか2点とかをとるのは、計算ミスをするとか、暗記が苦手とかが原因ではなく、そもそも「授業で先生が言っていることや教科書に書かれていることがなにひとつ理解できていない」のだ。

たぶんのび太にとって学校の授業は、まったく知らない外国語を聞かされているのと変わらないぐらいちんぷんかんぷんなのだろうと想像する。


まっさきに疑うのは知的障害や発達障害だが、ふだんの言動を見るかぎりでは重大な障害を抱えていなさそうだ(さして夜更かしをしているようにも見えないのに居眠りしすぎなので睡眠障害の可能性はある)。

ドラえもんや出木杉くんの難解な話にもついていけるし、漫画をよく読んでいるから読解力が極端に低いわけでもなさそう。

ではのび太はなぜ勉強ができないのだろうか。
それは「勉強のしかたを知らない」からだとおもう。

のび太は四年生よりずっと前の段階で授業についていけなくなっている。
たぶん一年生。
基礎がまったくできていない。漢字が読めない、四則計算ができない、かんたんな文章の意味がわからない。
だから四年生のテストで0点をとる。まちがえるとか難しくて解けないとかではなく、「何が問われているのかさっぱりわからない」のだ。

たぶんのび太にとって四年生のテストの問題文は
「sin θ + cos θ =1/2のとき、sin θ cos θの値を求めよ」
と訊かれているのと同じぐらい、意味がわからないはずだ。


問題の原因が数年前にあることにのび太自身が気づけるわけがない。九九の重要性に気づけるのは、九九を理解できる人間だけだ。

だから大人がちゃんと指導してやる必要がある。問題はどこにあるのか、何から手を付ければいいのか。

なのにのび太の周りにはちゃんとした大人がいない。
先生もママも「勉強しなさい」「宿題はやったの?」としか言わない。
未来から来たロボットはえらそうに講釈は垂れるくせに、肝心の勉強の方法は教えてくれない。

のび太は勉強したくても何をやったらいいのかわからないのだ。
ときどきのび太が一念発起して「勉強するぞ!」と机に向かうシーンがある。
でもすぐにあきらめる。そりゃそうだろう、九九ができない人間がいくらやる気になったところで分数の問題が解けるはずがない。やる気の問題じゃない。

70点をとる子は勉強時間を増やせば90点をとれるようになるだろうが、0点をとる子が自分ひとりでどれだけ勉強しても70点をとれるようにはならない。


のび太がかわいそうだ。
勉強できないのはのび太のせいじゃない。たしかにのび太はなまけものだ。だがなまけものでない小学生がどこにいるだろうか。なまけるのはあたりまえだ。
それにのび太は、興味のあることに対してはたいへんな熱意を見せる。正しい勉強の方法、勉強のおもしろさを教えてやればめきめき伸びる可能性が高い。

のび太が勉強できないのは100%指導者の責任だ。ママやパパや先生が悪い。セワシはドラえもんよりもまともな家庭教師を未来から派遣したほうがよかった。

『ドラえもん』には「テストで悪い点をとったのび太にママがお説教をする」というシーンがよく登場する。
ママとのび太が正座して向かいあっているシーンだ。

ぼくから言わせると、あれがもうまちがいだ。
あれはただ感情的に怒っているだけで指導ではない。
ほんとうに指導しようとおもったら、ママとのび太が向かいあうわけがない。隣に並んで机に向かい、答案用紙を広げながら「なぜ間違えたのか」「この問題を解くためには何を身につけなければならないのか」を確認する必要がある。

なのにママはテストの点数しか見ていない。
取り組む姿勢も、どういう問題を間違えたのかも、のび太がどうして間違えたのかも、まるで見ようとしていない。たぶんママもまた勉強のやりかたがわからない子どもだったのだろう。
のび太が「テストの答案を隠そう」という方向に向かうのも当然だ。結果だけを問われるのであれば、答案を隠して結果をなかったことにするのが最善の方法なのだから。

のび太が0点の答案を隠すのはのび太からママに向けたメッセージなのだ。
結果だけを求めないで、ぼくは勉強のしかたがわからないだけなんだよ、というメッセージ。
そのメッセージに早く気づいてあげてほしい。

それかドラえもんがタイムマシンで向かう先を「小学一年生ののび太の机の引き出し」にしてあげてほしい。


2019年11月6日水曜日

三手の読み


娘(六歳)とどうぶつしょうぎ。

娘はとにかく弱い。そりゃ子どもだから弱いのはあたりまえなんだけど、それにしたってひどい。
どんどん駒を献上してくれる。

ぼくはライオン(王将)のみ、娘はライオンとキリン2枚とゾウ2枚とヒヨコ2枚、なんてハンデ戦でやってもぼくが勝つ。

娘の指し方は、「ここに進める! 進もう!」みたいなやりかたなのだ。
「複数ある可能性の中から最善手を選択するゲーム」だと理解していない。
じゃんけんのように「やってみなきゃわからない」タイプのゲームだとおもっている。

ということで、一言だけアドバイスをした。
娘が悪手を指したときに「そうしたら次におとうさんがどうするとおもう?」と訊いてみることにした。

この一言で、娘の指し方は大きく変わった。
「えっと……、あっ、とられる。やめとこ」
と気づいて、べつの手を指す。
これを何度かやっているうちに「次におとうさんがどうするとおもう?」と訊かなくても、じっくり考えてから指すようになった。

キリンゾウ落ち、ぐらいのハンデ戦だと三回に一回ぐらいは娘がぼくに勝つようになってきた。
娘が先を読めるようになったのは、ニコリのパズルをやって論理的思考力がついたおかげもあるとおもう。
ぐんぐん強くなった。

そして、ときどき勝てるようになると目の色が変わった。
勝つと「どうぶつしょうぎおもしろい!」と言って、何度も勝負を挑んでくる。
今までは負けても「まいりましたー」とへらへらしていたのに、「……………………まいりました(小声)」と悔しさをにじませるようになった。
負けるのが悔しくなるぐらい真剣に向き合うようになったんだなあ、と感動してしまった。


将棋の世界に「三手の読み」という言葉がある。
一流のプロ棋士でも、三手の読みが重要だと語る人は多い。
ずぶの素人と中級者を分けるのは「三手の読み」だ。三手読めなければ勝つかどうかは運任せになってしまう。三手先が読めれば自然に五手、七手を読めるようになる。

将棋にかぎらず、三手先が読めるだけでいろんなゲームが強くなる。
ゲームだけではない。対人交渉でも「これを提案して、Aと返されたらA'と答えよう。Bと言われたらB'と返そう」と想定しておくだけで、優位に話を進められるようになる。


どうぶつしょうぎが「三手の読み」を学ばせてくれた。
すごいぞどうぶつしょうぎ。

「よっしゃ、じゃあふつうの将棋もやってみよう!」ということで将棋盤を買ってきたのだが、さすがに「むずかしい……」と言われてしまった。

駒の種類が多いので動かし方をおぼえるのに時間がかかるかな? とおもっていたのだが、そのへんはさすがこどもの吸収力、あっさりおぼえた。
むずかしいのは駒の見分け方らしい。漢字が読めないので、金と銀、桂馬と香車とかの区別がつきにくいのだ。

ま、そこは慣れて形で覚えるしかないよね。
大人でも龍とか馬とか読めないしな。



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2019年11月5日火曜日

【読書感想文】すごい小説を読んだ! / 今村 夏子『こちらあみ子』

こちらあみ子

今村 夏子

内容(e-honより)
あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれ兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。

以前、『たべるのがおそい』という文芸誌で『あひる』という短篇小説を読んだのが、今村夏子さんの作品との出会いだった。
その奇妙な味わいがやけに心に残っていた。飼っているあひるをすりかえる、なんてどうやったら出てくる発想なんだ。

で、今村夏子という名前をぼんやりとおぼえてAmazonのウィッシュリストに入れたりしていたんだけど(買ってはいない)、芥川賞を受賞したというニュースを見て「しまった! 先を越された!」という気になった。
ぼくが先に目をつけてたんだからな! 芥川賞選考委員より先にな! という身勝手かつ勘違いもはなはだしい妄想にとりつかれて、「だったらもういい! 読まん!」という己でもわけのわからぬ意地を張ってウィッシュリストからも削除したのだが、その直後に古本屋でばったり今村夏子作品と出会って「わかったよ……負けたよ……」と、誰に何の勝負で負けたのかわからぬ呟きを残しながら買ったという始末。なんなんだこの話は。



そして『こちらあみ子』。
いやあ、すごい! 久々に「すごい小説を読んだ!」という気になった。
読みおわったあと、しばらく何も手につかなかった。
こんなにも感情を揺さぶられる小説を読んだのはいつ以来だろう。

お花を愛する女性と近所に住む子どものハートフルなふれあい……かとおもいきや、いきなり女性が「中学生のときに好きだった男の子から顔面を殴られたせいで今も歯がない」というショッキングな話を語りだす。
そして語られるのは、さらにショッキングなあれやこれや……。
「好きじゃ」
「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。
「好きじゃ」
「殺す」のり君がもう一度言った。
「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」
「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。
読んでない人にはなんのこっちゃわからないシーンだろうが、ぼくはここを読みながら息ができなかった。通勤電車の中で読んでいたのだが、周囲から人がいなくなったような気がした。
日本文学界に残る屈指の名シーンだ。



あらすじでは「あみ子は、少し風変わりな女の子」とオブラートに包んだ表現をしているが、あみ子は世間一般に言う「知的障害児童」だ。「支援」が必要な子だ。

小学生のときにひとつ上の学年にいた知的障害の女の子(当時は大人も子どもも「知恵おくれ」と呼んでいた)のことをおもいだした。
周囲にあわせた行動ができず、気持ち悪いと言われ、同級生からも上級生からも下級生からも等しくばかにされる女の子。
ひとつ下の学年であったぼくらもやはりその子をばかにして、まるで汚い犬のように扱った。感情を持たない生き物のように。

当時はどんな扱いをしてもいい存在だったあの女の子のことを、子を持つ親になって思いだす。
自分がいかに差別感情を持って接していた(接している)かを。そして自分の子どももそうなるかもしれないことを。
そして気づく。
あたりまえだけどあの子にはあの子なりの感情や論理があって、あの子を大切におもう家族がいて、その家族にもいろんなおもいがあったのだ、と。
あたりまえすぎることなんだけど、でも小学生だったぼくらにはわからなかった。

『こちらあみ子』は、そのわからなかった「あの子」の人生を追体験させてくれる。
「あの子」は自分とはまったく異なる人間ではなかったのだ、自分も「あの子」のすぐ近くにいたのだと気づかされる。

少し前に、小学校時代の同級生と再会した。昔毎日のように遊んでいたやつだ。
彼は精神病をわずらい、今は少しずつ社会になれる暮らしをしているのだという。障害者手帳も持っているそうで、つまり精神障害者だった。
だがぼくには、思い出の中にいる彼と、精神障害者という言葉が結びつかなかった。そういうのって“トクベツ”なやつがなるもんだろ?

だがじっくり考えるうちに、精神病になるのはトクベツでもなんでもないのだと気が付いた。誰でも風邪をひくことがあるのといっしょ。風邪をひきやすい人とそうでない人のちがいはあるが、ぜったいに風邪をひかない人はいない。
精神病のあいつも、“知恵遅れ”のあの子も、トクベツではなかったのだ。



べつの短篇『ピクニック』もよかった。

ばればれの嘘をつく人と、嘘だと気づきながら信じてあげる人たちの優しい世界。
優しい、けれど見方を変えればものすごく残酷な世界。

こういう人、いたなあ。
大学生のとき、サークルにどう見てもモテないYという男がいて「おれには彼女がいる」と言っていた。
でもいつ誘っても顔を出すし、合コンにも積極的に行っているし、彼女の姿はおろか写真すら誰も見たことがなくて、ぼくは「ほんとに彼女がいるのかなあ」とおもっていた。もちろん口には出さなかったが。

でもあるとき口の悪い後輩が「Yさんに彼女がいるっていうの、あれ嘘でしょ。脳内彼女でしょ」と言いだした(さすがにY本人はいない場だった)。
するとなぜか無関係である周囲の人たちがあわてだして、「いやまあいいじゃないそれは……」「まあまあ。本人がいるって言ってるんだからさ……」「問いただして、ほんとだったとしても嘘だったとしても後味の悪さしか残らないからさ。だから本当ってことでいいじゃない……」と歯切れの悪いフォローをはじめた。
それを聞いて、ぼくは「ああ、嘘だとおもっていたのはぼくだけじゃなかったのか」と安心した。みんな、嘘に気づいていて、気づかぬふりをしていたのだ。
知らぬはY当人ばかり。周囲はYを気づかっているようで「彼女がいないのにいると主張している哀れなやつ」と見下していたのだ。
優しいようで、すごく残酷な話だなあ。

いや、Yにほんとに彼女がいたのかもしれないけど。

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2019年11月1日金曜日

採点バイトをした話

大学生のとき、受験産業大手のB社の模試採点のバイトをしたことがある

たしか友人の紹介だった。
筆記試験を受けて、採用された。

ぼくが採点することになったのは国語。
まずはじめに模範解答が配られる。そしてリーダー格のバイト(大学生)が前に出て、説明を加える。
ここはこういうところに気を付けて採点してください。
説明は短かった。一時間もなかったはず。わからなかったらすぐに訊きにきてください、そういってバイトリーダーは説明を終えた。

こんなもんか、と少し驚いた。
もっと厳密な判断基準があるのかとおもっていた。
ずいぶんいいかげんなもんなんだな。まあ模試だしな。

採点をしていると、やはり判断に迷うところが出てくる。
その都度バイトリーダーのもとへ訊きにいく。バイトリーダーが答える。バイトリーダーでもわからなければバイトリーダーが社員のもとへ質問に行く。
場合によっては全員に説明がなされる。
「こんな質問がありました。この場合はこうしてください」と。
新たに基準ができるわけだ。

ぼくはおもう。
えっ。そうなの。
それだったら、もう採点終わっちゃったやつの配点が変わるんだけど。
まあいいか。模試だし。

何度か質問をしているうちに気がついた。
ぼくの質問回数が圧倒的に多い。
採点者は数十人いるが、まったく質問しないバイトもいる。
判断に迷わないのだろうか。そんなわけないだろ。国語の記述問題だぞ。
めんどくさがっているか、何度も質問をしたら申し訳ないとおもってるんだろうな。まあ気持ちはわかるけどそれでいいのか。
質問をしない人は独自の判断基準で採点しているんだろうな。
まあいいか。模試だし。

採点は二重チェックをしていた。誰かが採点した答案を、もう一度べつの人が採点する。
へえ。けっこうちゃんとしてるんだ、とおもった。
べつの人の答案をぼくがチェックすると、あれこれちがうんじゃないのとおもうことがある。
バイトリーダーに見せに行く。ああ、たしかにちがいますね。訂正しておいてください。
ひどいときだと五点、十点と点数が変わることもあった。
これ、チェック時に気づいたからよかったけど、チェックする人間も適当な人間だったらぜんぜんちがう点数のままだったんだろうな。
まあいいか。模試だし。



ということで、模試の採点をした感想は
「けっこういいかげんに採点してるんだな」
だった。
(ただ情報漏洩にはすごく気をつかっていた。答案の内容はぜったい外に漏らすなよと厳しく言われた)

誰が採点するかで点数はけっこう変わる。
模試の結果に一喜一憂してる高校生には申し訳ないが。

……という経験があるので、大学入試の判定に民間試験を使うなんてとんでもない話だとおもうのだが、あれからB社は変わったのかなあ。