2017年7月31日月曜日

くだらないでこそ喧嘩する


ぼくは妻がいて、ということは何年か前に結婚して、結婚前に8年交際して、で、その8年交際した妻という女性こそが、じつは今ではぼくと一緒に暮らしている女性なんです。
(「その女性が、今ではぼくの妻です」というオチの話をしたかった絶望的に話が下手な人)



ということで妻とは結婚前に8年付き合ったんだけど、その間、喧嘩らしい喧嘩を一度もしなかったのね。
どっちかが立腹することはあっても、その場で「あなたのこういうところが気に入らないから直してほしい」と伝えて、相手が謝罪するなり改善案を示すなりして、引きずらないように解決してきた。
だから「これこそが大人の付き合いってもんだよ。感情をぶつけあうなんてガキのやるもんだ。ぼくらは理性的な人間だから喧嘩とは無縁だ」って思ってた。

結婚式の準備をするまでは。


誰かが「結婚式はぜったいに揉める。そこで相手の人間性がわかる。それを見て、結婚を思いとどまるかどうか決める最後のチャンスだ。だからお金が許すかぎり結婚式はやったほうがいい」っていってたけど、いやあ真理だね。誰の言葉だったかは忘れたけど、言葉の内容はちゃんと覚えている。身に染みて痛感したから。


結婚式の準備もはじめは円満に進んだ。
なぜってぼくらの価値観はきわめて近かったからね。8年も付き合って、同じものを見て、同じ言葉で笑って、同じものを避けてきたからね。相手の好きなもの、嫌いなものをよく知っている。
結婚式の準備程度で揉めたりするわけないよね。

でもさ、やったことある人ならわかるけど、結婚式ってめちゃくちゃ決めることあるんだよね。
そりゃあさ、場所とか予算とか衣装とかは大事だから、いろいろ考えて決めるよね。
でもさ、「引き出物にかけるリボンの色はどれにします?」とか「歓談中の音楽はどうします?」とか「司会者の前に飾るお花についてなんですけど……」とかすっげえ細かいことまでいちいち相談されたら、さすがにむかついてくんのね。
うるせえよ、いちいち訊いてくんじゃねえよ、人間なんだからちょっとは自分で考えろよ、とか思うわけ。引き出物のリボンの色が青でも赤でも文句言わねえよ、って。
ぼくもいい大人だから、式場の人に「うるせえよ」とは言いませんよ。その人はいい結婚式にしようと思ってがんばってくれてるんだろうしさ。でも文句を言えない分、腹の中に鬱憤がたまってくる。

どうでもいいから一応1秒だけ考えたふりして「じゃあ……赤で」とか適当に答えてたんだけど、ぼくの妻(まだ結婚してなかったけど)はまじめな人だから、ひとつひとつに真剣に考えてんの。
「テーブルクロスの色はどうします?」って言われて3パターンぐらい見せられて、クロスのサンプルを手に取って眺めて、中空を見てちょっと想像して、また別のサンプルを手に取って、また考えて、さっきのやつもう一回手に取って、そんでこっちに向かって「うーん……。どうする?」って、それだけ考えてまだ決められへんのかーい!
ってなわけでその時点でかなり腹立ってきてね。他人の結婚式行って「いい式だったねー、テーブルクロスの色も2人のイメージによく似合ってたし」「ご祝儀3万円出してあのテーブルクロスの色はないわー」って思ったことあんのかよ、って言いたくなったけど、すんでのところでこらえたのね。

もうこんなことに1秒だって頭を悩ませたくないと思って、一番左のやつを指さして「ぼくはこれがいい」って言って、決めたのね。紫のテーブルクロス。べつに茶色でもグリーンでもなんでもよかったんだけどね。

その後またあれこれ決める時間が続いてね。招待状のデザインはどれにするかとか、司会者の胸につけるコサージュはどうするかとか、心底どうでもいい決断を迫られてね、「一刻も早く終わらせたい」って思いながらいろいろ決めていってた。
そしたら妻が言った。

「さっきのテーブルクロスだけどさ、やっぱりグリーンのほうがいいな」


そんでね、もうキレちゃった。
ふだん声を荒げることとかないんだけどね。付き合って8年、一度も声を荒げたことないんだけどね、自分でもびっくりするぐらいガラの悪い声で「ハァ!?」って言葉が出た。
「ただでさえどうでもいいことにこれだけ時間使ってんのに、一度決めたことを覆す? それやってたら永遠に終わらんやん。一生テーブルクロスとコサージュについて悩みながら過ごす気か!? ふざけんなよ」
みたいなことが口をついて出た。
「一回紫のに決めたんだから、ぜったい変えない!」と宣言した。

ちっちゃい人間だな、って思うよね。
ぼくもそう思う。ていうかそのときも思った。
ちっちゃいことで怒ってんなーって自分を客観的に見ていた。どっちでもいいよって言えよ、って思ってた。たかがテーブルクロスじゃないか。
でも、たかがテーブルクロスで揉めないといけないことに腹が立った。
8年喧嘩せずにやってきたのに、最初の喧嘩がテーブルクロスの色をめぐってかよ、って。

すっごくくだらないことに腹を立てて、くだらないことに腹を立てていることに腹が立った。





で、結婚して数年たった今だからわかるんだけど、人間ってくだらないでこそ喧嘩するんだよね。
住居選びのこととか仕事のこととか子どものこととか、重要なことをめぐっては意見が食いちがうことはあっても意外と感情的な衝突にはならない。
大事なことだから落ち着いて理性的に話そう、相手の意見もちゃんと聞き入れようって気になるんだよね。

でも「牛乳をこぼしたのは誰か」「トイレのスリッパをそろえないのはなぜか」みたいな些末な問題だとそういう意識ははたらかない(どちらも我が家で大喧嘩に発展したテーマだ)。
ちっちゃな問題だからどっちが悪くてもいいからさっさと頭を下げてしまえば済む話なのに、相手に対して「どうでもいいことなんだからさっさと非を認めろよ」と思ってしまい、結果、話し合いはこじれてしまう。


結婚式は、くだらないことの集合だ。
指輪の交換もケーキ入刀も無理やりケーキ食わすやつも余興も新婦の両親への手紙も退場したはずの新郎新婦が出口で待ち構えてて美味しくなさそうなクッキーを押しつけてくるやつも、ぜんぶやらなくてもどうってことない。
しかしそのくだらないことにこそ意味があるのではないだろうか。結婚生活はくだらないことの積み重ねだ、しかしくだらないことにこそ気を付けなければならない、ということを結婚式は教えてくれるのかもしれない。



2017年7月29日土曜日

省略の美を味わえるSF風時代小説/星 新一 『殿さまの日』【読書感想】


星 新一 『殿さまの日』

内容紹介(Amazonより)
ああ、殿さまなんかにはなりたくない。誤解によって義賊になった。泣く子も黙る隠密様のお通りだい。どんなかたきの首でも調達します。お犬さまが吠えればお金が儲かる。医は仁術、毒とハサミは使いよう。時は江戸、そして世界にたぐいなき封建制度。定められた階級の中で生きた殿さまから庶民までの、命を賭けた生活の知恵の数々。――新鮮な眼で綴る、異色時代小説12編を収録。

ずっと昔に読んだ本だが、また読みたくなったので押し入れから引っぱりだして読んでみた。
星新一といえばショートショート。
ぼくは文庫だけでなく全集も持っているぐらいの星新一ファンなので、当然ながらショートショートは何度も読み返した。
星新一といえばショートショート、ショートショートといえば星新一、というぐらいに短篇のイメージが強いが、『城のなかの人』『明治・父・アメリカ』『人民は弱し 官吏は強し』『明治の人物誌』などの歴史・時代ものもおもしろいのだ。
誰も知らない昔の話をするのに妙に感情がこもっていると、「まるで見てきたみたいに書くなあ」と嘘くさく感じてしまう。
その点、星新一の平易にして理知的な文章は歴史を語るのにぴったりとあう。淡々とストーリーを説明するその語り口は、落語の状況説明部分を聞いているようで心地いい。
遠い未来も江戸時代も「誰も見たことがない」という点では一緒で、ディティールを想像力でどう補うか作家の腕が試される。じつは時代小説とSFは近い位置にあるのかもしれないね。


"省略の美"という言葉がある。余計なものをなくして、見る人の感性や想像力にゆだねる美しさのことをいう。『殿さまの日』は"省略の美"を存分に味わえる作品集だ。
へたな小説は描写が多い。書かなくてもわかることまで事細かに書く。
星新一の文章からは、感情をあらわす表現が極力そぎ落とされている。登場人物はまるで何も考えていないかのように、己の心中を語らない。でも、だからこそ読み手は想像力をはたらかすことができる。
演劇では、悲しいことを表すために大げさに涙を流したり、ときには「悲しい」とセリフで説明したりする。けれどそれはいわゆる"安い芝居"だ。涙の一滴も流さずに、声も上げずに、表情も変えずに悲しさを表現するのが一流の演出だ。

表題の短篇『殿さまの日』では、地方藩の領主のある一日が書かれている。起きて、着替えて、武道の稽古をして、家臣からの型通りの報告を受けて、書物を読んで、床に就くまで。
ほんとに何も起こらない。平々凡々たる一日。
この"つまらない一日"を、一切の感情描写を省いた文章で綴っている。そんなのおもしろいのかと思うかもしれないが、ちゃんと殿さまの退屈と諦観と幸福感と悲哀と家臣を思う気持ちが伝わってくる。殿さまが感情をいちいち表に出してたはずないしね。
まさに一流の演出。省略の美学。

時代小説なのに妙に都会的でドライな雰囲気が漂っていて新鮮だ。

 その担当の家臣があらわれ、武具庫の点検をおこない、さだめ通りの数がそろっていたことを報告する。殿さまは言う。ごくろうであった。武具はきわめて重要である。点検は念には念を入れねばならない。見落としを防ぐため、ある日数をおき、もう一回やってみる慣習があるように聞いているが、どうであろうか。
 家臣は、ははあと頭を下げる。これですべてが通じたのだ。そんな慣習など、これまではない。しかし、あからさまにそれをやれと命じると、叱責した印象を与えないまでも、相手は自分の不注意を感じかねない。すべては質問の形で、それとなく言わねばならない。わたしは事情をなにも知らないのだ。だから勉強しなければならぬ。そのための質問だ、という形をとるのがいいのだ。わたしはそれでずっとやってきた。なんでもいいから質問していると、しだいに事情がわかってくるものだ。また、そうなると、いいかげんな報告はできないと家臣たちも思ってくれる。しかし、とことんまで質問ぜめにしてはならない。家臣の説明がしどろもどろになりかける寸前でやめておく。そうすれば相手の立場も保て、つぎの報告の時は形がととのっている。やりこめるのが目的ではないのだ。


部下の顔を立てつつ的確に指示を出す方法。現代のビジネス書に載せてもいいぐらいの内容だね。
星新一は作家になる前は製薬会社の二代目社長だったからね。二代目社長だと、古株の社員のプライドを守りながら指示を出す必要があるわけで、これはその頃に身につけたテクニックかもしれないね。ま、星新一が社長になってすぐに会社はつぶれたけど。


ところで冒頭にこんな一文がある。
 その驚きで、殿さまは目ざめる。朝の六時。夏だったら六時の起床が慣例だが、冬は七時となっている。まだ一時間ほど寝床にいられる。
当然ながら江戸時代に「六時」「一時間」という言い方はない。「六ツ」「半刻」と言っていたはずだ。
わざと現代的な感覚を持ち込んでSFっぽさを出しているのかな? と思ったけど、おかしな文章はそこだけで、以降はふつうの時代小説の文体だった。
まちがえただけなのかな。




ぼくが好きだった短篇は『ああ吉良家の忠臣』

吉良義央(吉良上野介)が斬られたことにより、首をとられるとは武門の恥であるとしてお家断絶・領地の没収を命じられた吉良家。
一方、斬った側の赤穂浪士たちはよくぞ殿の仇を討ったとして町人たちからもてはやされている。世の掟を破った側が人気を博して被害者側がつらい目に遭う。この不遇な状況に憤る吉良家の忠臣の孤軍奮闘を狂歌をまじえてユーモラスにえがいた話。

忠臣蔵は江戸時代から人気だったらしいけど、掟に背いて討ち入りを果たした四十七士がよくやったと称えられ、乱心した浅野内匠頭に斬りつけられた上に後日その部下から殴りこまれるという一方的な被害者である吉良家はお家断絶。
そりゃあ忠臣からしたらやりきれないだろうな。

星新一らしいシニカルな視点だね。南極に置いていかれた犬が自力でアザラシやペンギンを食べて生き延びた"美談"を、食べられる海獣側から見たショートショート『探検隊』を思いだした。


ぼくは「ひねくれ者」と言われることがときどきあるんだけど、自分では「多角的にものを見ることができる人」と前向きに受け取っている。
くだらない話をしているときにみんなが正面から見ているものを裏から見たり下から見たり内側から見たりすると、くだらないことを思いつくことが多い。そういうものの見方は星新一の小説に教わった。仕事ではあんまり役に立たないんだけどね。


この『殿さまの日』、もう絶版になっている。
ぼくの持っている文庫本も古本屋で買ったもので、昭和58年発行だ。
星新一の小説って古びないからずっと読まれてほしいんだけどなあと思っていたら、電子書籍で手に入るようになっていた。

いい小説が細々と読まれつづける。いい時代になったものだ。殿さまも感心することだろう。



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2017年7月28日金曜日

読みかけの本を抱えて死ぬ




ぼくは常に5~6冊「読みかけの本」を抱えている。
今読みかけている本は以下の6冊だ。
  • 星 新一『殿さまの日』(時代小説)
  • 読売新聞 政治部『基礎からわかる選挙制度改革』(ノンフィクション)
  • ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(SF小説)
  • NHKスペシャル取材班『僕は少年ゲリラ兵だった』(ノンフィクション)
  • 伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』(エッセイ)
  • 佐藤 義典『図解 実戦マーケティング戦略』(ビジネス)
ジャンルもテーマも書かれた時代もバラバラだ。
まだ読み終わっていない本があるのに他の本にも手を出すのだ。


寝る前に読む本


寝る前はKindleで電子書籍を読む。
なぜならKindleなら灯りを消したままでも読めるし、Kindleはブルーライトを発しないらしいからその後スムーズに睡眠につなげられる。さらにメモをとりたいときでも、端末にそのまま記録できるからメモ帳や携帯電話を取りだす必要がない。寝る前の読書に適している。
電子書籍リーダーは、紙の本以上に雨に弱いとか、充電が切れたら読めないとか、通信環境がないと書籍の購入ができないとかいくつか弱点があるけど、枕元で読む分にはそういった心配はすべて無縁だ。
Kindleは寝る前の読書でこそ最大のパフォーマンスを発揮すると思う。

ぼくのKindleには、読みかけの本が常に2冊入っている。そのときの気分で読みたいほうを読む。

通勤時に読む本


ぼくは電車通勤で、電車に乗っている時間は片道約20分。これは本を読むには長すぎず短すぎずちょうどいい。
電車では立って吊り革につかまって読むことが多いので、片手で持ちやすい文庫か新書を読む。
電子書籍で買った本が溜まってきたらKindleで読むこともあるが、誰かの足の上に落してしまったら怒られるだろうなとか、電車とホームの隙間に落としてしまったら大損害だなとかいろいろ心配してしまう。
やはり文庫か新書がいい。電車内は他にやれることがなくて集中できるので、難しめの内容でも頭に入ってきやすい。ノンフィクションをよく読む。

自宅ですき間時間に読む本


ぼくは寝る前を除き、まとまった「読書の時間」というものをほとんど持っていない。
家にいる間はたいがい何かをしながら本を読む。着替えながら読んだり、テレビの音だけ聞きながら読んだり、子どもと遊びながら読んだりしている。
リラックスしているし、他のことをやりながら読むので難しい内容は頭に入ってきにくい。だからこういうときは小説やエッセイを読むことが多い。

汚れてもいい本


先述したように、ながら読みをすることが多い。今は娘とお風呂に入ることが多いが、ひとりで入浴するときは湯船で本を読む。ひとりで食事をするときも、行儀が悪いけど本を広げながらめしを食う。
外食時では、なんとなく店の人に悪い気がしてカウンター席や混雑しているときは遠慮するけど、そうでなければ本を読みながら食べることも多い。そのために「本を読みながら食べやすいもの」という基準で料理を注文する。両手を使わないといけないものや汁が飛びやすいものは避ける。
また、休みの日は娘と公園に出かけるので、屋外で本を読むことも多い。

風呂や食卓や公園で読むと、本は汚れたり傷んだりしやすい。
図書館で借りた本はもちろん、ハードカバーの本もなんとなく汚すのは気が引けるので、外出先や風呂で読む本は文庫や新書が多い。

職場で読む本


仕事中、作業に疲れたときにぱらぱらと読む。さすがに仕事と関係のない本は読まない。


なぜ同時に読むのか


なぜこんな読み方になったのか。
べつに意識してやっているわけではない。数多くの本を読んでいるうちに、自然にこうなった。昔は1冊読みおわるまでは別の本にかからなかったけど、2冊になり3冊になり、いつの間にか5~6冊になっていた。
このやりかたがいちばん量をこなせるからだ。

まず、同じ本ばかり読んでいると飽きる。
「ページをめくる手が止まらなくて一気に最後まで読みました!」みたいな感想がよくあるが、そんな本は50冊に1冊あるかどうかだ。

本を読むのが苦手な人は、1冊だけを一生懸命読もうとするから読めなくなる。
いい本でも読むのが嫌になる瞬間はある。今の心境とあわない、というときもある。後半からおもしろくなるけど前半は退屈な小説も多い。
そんなとき、無理をして読むのはよくない。かといって投げだしてしまうのももったいない。いい方法は「寝かせておく」だ。
何冊か同時に読んでいるとそれができる。「本は読みたいけど今はこの本の心境じゃない」というときには、他の本に逃げるのが正解だ。

ぼくのKindleには常時2冊の未読本が入っていると書いたが、重めの小説と軽めのエッセイ、サイエンス系のノンフィクションと本格派でないミステリ小説、など「読むのにパワーがいる本」と「あまりパワーを要しない本」がセットで入っていることが多い。意識しているわけではなく、自然とそうなるのだ。


同時に読むことの効用


複数冊の本を並行的に読んでいると、当然ながら1冊を読み切るまでに要する時間は長くなる。常に頭のなかに本が溜まっているような状態だ。
そうすると、ときどき本と本がつながる瞬間が訪れる。「これは別の本に書いてあったことと似た考えだ」と気づく。
また本以外から得た情報とつながることもある。人から聞いた話が本の内容と関連していることを見つけたりする。
こういう発見は誰でもあると思うが、頭の中を本で埋めているその容積が大きいほど、その機会は増える。

……と書いたが、これは後付けの理由だ。
何冊も読んでいたら本が別の情報と有機的につながりやすいということに気付いただけで、狙ってはじめたわけではない。

読書にとって重要なのは「読んでいる時間」だけではない。「読みかけている時間」から得られるものも多い。ぼくが速読をしないのはそれが理由だ(うそ。やろうとして挫折しただけ)。


同時に読む人はけっこういる


成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』という本がある。
成毛さんというのはHONZという書評サイトを運営している読書家だ。

ぼくはこの本を読んだことがない。たぶんこの先も読むことがない。
なぜなら、たぶん同じような読み方をしているんだろうな、と思うからだ。もう実践してるからぼくには必要ない(もしぜんぜん違ったらごめん)。


同時に読む方法は、ある程度の量をこなすためにはいい方法だと思う。
だけどデメリットもある。

ついつい本を買いすぎてしまうこと。
家の中が本だらけになること。
気づくと何カ月も鞄に本が入っていてぼろぼろになっていること。

万人にはおすすめしないけど、「もっと本を読みたいけど読めない」という人はやってみてもいいんじゃないでしょうか。



2017年7月27日木曜日

まとめサイトはプロパガンダに向いている/辻田 真佐憲 『たのしいプロパガンダ』【読書感想エッセイ】

辻田 真佐憲 『たのしいプロパガンダ』

内容紹介(Amazonより)
本当に恐ろしい大衆扇動は、娯楽(エンタメ)の顔をしてやってくる!

戦中につくられた戦意高揚のための勇ましい軍歌や映画は枚挙に暇ない。しかし、最も効果的なプロパガンダは、官製の押しつけではない、大衆がこぞって消費したくなる「娯楽」にこそあった。本書ではそれらを「楽しいプロパガンダ」と位置づけ、大日本帝国、ナチ・ドイツ、ソ連、中国、北朝鮮、イスラム国などの豊富な事例とともに検証する。さらに現代日本における「右傾エンタメ」「政策芸術」にも言及。画期的なプロパガンダ研究。



プロパガンダ
特定の考えを押しつけるための宣伝。特に、政治的意図をもつ宣伝。
(「大辞林」より)

先日友人と話しているときに「プロパガンダ+(国名)」で画像検索するとおもしろい、という話になった。
特におもしろいのはロシアとアメリカ。東西の双璧だっただけあって、プロパガンダにかけている力もすごい。
いや逆に、プロパガンダに成功したからこそ大国になれたのかもしれない。
この本を読むと、うまくいっている組織というのは広報の持つ力を理解しているのだな、と思う。

プロパガンダというと、政治色の強いポスターを作って攻撃的な音楽を流して拡声器でスローガンを連呼して……というようなイメージがあるが、そんなものでは誰も見向きもしない。成功しているプロパガンダとはたのしいものなのだ、というのが『たのしいプロパガンダ』の主張だ。

プロパガンダというと、政府や軍部が作って一方的に国民に押しつけたと思われがちだが、実際はそんな単純ではなかったのである。現に民間企業は利益に敏感で、満洲事変や日中戦争が勃発するとさっそく「愛国歌」「国策映画」「愛国浪曲」「愛国琵琶」「国策落語」「軍国美談」などと冠した、時局便乗的な商品を続々と売り出していった。今では考えられないが、当時の日本では戦争といえば、領土が増え、国威が上がる輝かしい歴史が想起された。そのため、「勝った、勝った」と煽る商品が出てきてもまったく不自然ではなかった。
 これに対して、政府や軍部はときに後援や推薦をしてお墨付きを与え、ときに発禁処分や呼び出しなどを行って規制し、自分たちの都合のいいように民間企業の商品をコントロールしようとした。

たとえば、今では戦争のイメージとはまったく無縁のタカラヅカ(宝塚歌劇団)も、『太平洋行進曲』など戦争を扱った芝居を上演して、積極的に戦争を応援していた。
しかも、序盤はコメディ調にして観客を飽きさせないようにし、中盤からシリアスな戦闘シーンに教訓めいたセリフを乗せていたというから、かなり巧みなプロパガンダだ。これも軍に強制されてやっていたわけではなく、「こういうものがウケる」から作られたものだ。


アメリカでも同様で、今では平和の象徴のようなディズニー映画でも、戦時中は敵国を批判・揶揄するような物語が作られていた。

以下、ドナルドダック主演の『総統の顔』という作品の内容。

 映画の内容は、ドナルドダックがナチ・ドイツを模した「狂気の国」で暮らしているというもの。ドナルドダックは朝から壁に掲げられた肖像画に向かって、「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒロヒト! ハイル・ムッソリーニ!」と挨拶させられる。そして貧しい朝食もそこそこに、『わが闘争』の読書を強要され、軍需工場の労働へと駆り出されてしまう。
 工場の作業は、チャップリン監督・主演の映画『モダンタイムス』よろしくベルトコンベアーで運ばれてくる弾丸を次々に組み立てるというものだが、たまに弾丸にまじってヒトラーの肖像画が流れてくる。すると、ドナルドダックはその都度、肖像画に「ハイル・ヒトラー!」と叫ばなければならない。この様子は実に滑稽で、今でも見る者の笑いを誘う。
 そして過酷な労働に、ドナルドダックは次第に精神に変調をきたし、兵器が飛び交うサイケデリックな幻覚を見る。ここの映像はディズニーのアニメとは思えないほど、おぞましいものがある。ところが、その途中で目が覚める。なんと、以上の光景は夢だったのだ。ドナルドダックは部屋に飾られた自由の女神の模型にくちづけし、米国の自由を讃えて終幕となる。
 主題歌「総統の顔」は劇中に何度も使われ、その特徴的なメロディは観賞者の耳を離さない。


今この内容を見ると「なんちゅうストーリーだ」と思ってドン引きだけど、当時のアメリカ人はこれを観て笑っていたのだろう。
今の日本人だって「北朝鮮はネタにしていい」って風潮があって国家首席を小ばかにした冗談をあたりまえのように口にしているけど、50年後の日本人が見たら「隣国である北朝鮮をあからさまにばかにするなんて、当時の日本人はなんてはしたない人たちだったんだ」と思うかもしれないよね。



『たのしいプロパガンダ』では、戦時中の日本やナチス時代のドイツから、現代の北朝鮮、ISIL(イスラム国)、オウム真理教などのプロパガンダの手法が紹介されている。
……というと「プロパガンダというのはヤバい国家・団体が使うものだな」という印象を持たれるかもしれないが、そんなことはない。どの国だってやっているし、逆にうまくやっている国ほど巧みすぎてそれが宣伝活動だと気づかれないほどだ。

もし今日本が戦争をするとしたら、まちがいなくAKB48あたりはまっさきにプロパガンダに起用されるだろうね(今でもプロデューサーは国家権力と近い位置にいるし)。
若者のイメージを変えるのがいちばん手っ取り早いし、そのためには人気のアイドルやミュージシャンを使うのが効果的だから。

政治でもプロパガンダは巧みに利用されている。
たとえば大手まとめサイトのいくつかはある政党と結びついていると言われている。事実かはわからない。でもその手のサイトを見ると、たあいのないニュース記事や笑えるネタに混じって、かなりの割合で特定の政党を非難する記事が掲載されている。
『世界のおもしろ動画』や『ネコの決定的瞬間をとらえた写真』みたいな記事の間に『××党の××が「××」とバカ丸出しの発言』なんて政治主張の強い記事が唐突にはさまれるのはぼくから見たらかなり異様なのだけど、違和感なく「そうか、××はバカなのか」と鵜呑みにする人もいるんだろう。
まとめサイトって、都合のいい主張だけを恣意的に並べることで、さも「いろんな意見があるけど××だけは共通認識である」かのように見せることに向いているから、プロパガンダに適しているよね。
それが〇〇党が密かにやっていることなのか、それとも〇〇党の支持者が勝手にやっていることなのかはわからないが、少なくとも誰かが社会情勢を誘導しようとしていることはまちがいない。

プロパガンダ=悪と単純にはいえないけど、「あー今誘導されそうになってるな」って自覚はしといたほうがいいね。
楽しいものほど要注意。



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2017年7月26日水曜日

雨のち晴レルヤ


ゆずの楽曲『雨のち晴レルヤ』。
娘は赤ちゃんのとき、朝ドラの主題歌だったこの曲が大好きだった。
どれだけ泣いていてもこの曲が流れるとぴたっと泣き止んだ(曲が止まるとまた泣く)。
朝ドラのオープニングが流れると、動きを止めて食い入るように見ていた。熱心すぎて怖いぐらいだった。
ゆずのCDを買ってきて、娘がぐずるたびにこの曲だけを何度も何度もリピート再生していた。

そんな娘も4歳に。
テレビからたまたま『雨のち晴レルヤ』が流れてきたけど、見向きもしない。
「この曲知ってる?」と訊いてみたが、「知らない」とつれない返事。
毎日10回以上も聴いていたのに。

もう音楽で泣き止む歳じゃなくなったんだね。
寂しいけど成長したってことなんでしょう。
ありがとう、ゆず。
娘はゆずの歌声を忘れちゃったみたいだけど、お父ちゃんはこの曲を聴くと赤ちゃんだった娘をだっこしたときの軽さを思いだすよ。


2017年7月25日火曜日

太平洋戦争は囲碁のごとし/堀 栄三 『大本営参謀の情報戦記』【読書感想エッセイ】

堀 栄三 『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』

内容(「e-hon」より)
「太平洋各地での玉砕と敗戦の悲劇は、日本軍が事前の情報収集・解析を軽視したところに起因している」―太平洋戦中は大本営情報参謀として米軍の作戦を次々と予測的中させて名を馳せ、戦後は自衛隊統幕情報室長を務めたプロが、その稀有な体験を回顧し、情報に疎い日本の組織の“構造的欠陥”を剔抉する。

戦時中に陸軍大本営の参謀を務め、戦後は自衛隊で西ドイツ大使館防衛駐在官を務めた堀栄三氏による、情報戦に関する本。
文章を書くプロではないので文章が読みづらい。
「堀は~」と書いているので、ん? 自分のお父さんのことを書いているのか? と思ったら、自分のことを「堀」と読んでいるのだ。己のことを「えりかは~」と語る出来のよくない女かよ、おじいちゃん!



文章はさておき、情報戦、戦術に関する記述はおもしろい。
平易な説明がなされているので、軍事に関してど素人のぼくでも感覚的に理解しやすい。

繰り返し語られるのは、「点と線」の説明。

「大本営作戦課はこの九月、絶対国防圏という一つの線を、千島─マリアナ諸島─ニューギニヤ西部に引いて絶対にこれを守ると言いだした。一体これは線なのか点なのか? いま仮りにウェワクに敵が上陸してきたとして、どこの部隊が増援に来られるか? いままでのブーゲンビル、ラエ、フィンシュハーフェン、マキン、タラワ島みんな孤島となってしまって、一兵どころか握り飯一個の救援も出来ていない。アッツ島が玉砕する間、隣のキスカ島は何が出来たか? 要するに制空権がなければ、みんな点(孤島)になってしまって、線ではない。線にするにはそれぞれの点(孤島)が、船や飛行機で繫がって援軍を送れなければいけない。そのために太平洋という戦場では制空権が絶対に必要なのだ。大事な国防圏というのが有機的な線になっていないから、米軍は自分の好きなところへ、三倍も五倍もの兵力でやってくる。日本軍はいたるところ点になっているから玉砕以外に方法がない。あとの島は敵中に孤立した点だから、米軍は放っておく、役に立たない守備隊どころか、補給が出来ないから米軍は攻めてこないが、疫病と飢死という敵が攻めてくる。
 自分はこれを米軍の『点化作戦』と呼んでいる。大きな島でも、増援、補給が途絶えたら、その島に兵隊がいるというだけで、太平洋の広い面積からすると点にさせられてしまう。

 土地を占領することは陸軍の任務であったが、それは米軍では空域を占領する手段でしかなかった。従って主兵は航空であって陸軍は補助兵種に過ぎなかった。陸軍が占領する土地の面積は、そこに陸軍が所在している面積と大砲の射程だけの土地であるから太平洋の広さから見ると点のようなものである。それに比較して空域を占領した場合は、戦闘機の行動半径×行動半径×三・一四であるから、仮りに戦闘機の行動半径が五百キロとすると、この占領空域は実に、七十八万五千平方キロと恐ろしいような数字になる。これが航空を主兵とした米軍と、依然歩兵を主兵と考えていた日本軍の太平洋上の戦力の相違であった。戦略思想の遅れは、こんな大きな数字的懸隔となって現れてしまうのである。

日本軍は太平洋の島々を占領して陸軍に守らせていたが、それは「点」をつくっていただけで、太平洋という広大な戦場の「面」を多く獲得するためには米軍のように「線」を確保することが必要だった、というのが筆者の主張だ。
  • それまで中国やロシアと大陸で戦っていたから高地を抑えて要塞をつくることが勝利につながったが、戦場が大洋であれば高地とはすなわち「制空権」である。
  • 陸戦では、守るほうが攻めるほうより圧倒的に有利である。だが太平洋の島においてはその逆で、島を占領しても包囲されてしまえば何もできない。
  • 点ではなく線をつくるためには補給が何より重要であるが、日本軍は補給をまったく重視していなかった。結果、島を占領している軍は孤立してしまい、米軍が攻め込むまでもなく病気や飢えで自滅した。
といったことがくりかえし語られている。

なるほどねえ。
これって囲碁の考え方そのものだよねえ。囲碁では石の「生き死に」という考えが重要で、どれだけ石があっても死んでいる(=生きている石とつながっていない)のであれば意味がない。
だから点在する石(自軍の戦力)をいかに有機的につなげるかが重要となるわけで、それができなかった日本軍が敗れたのは必然だったのだろう。
しかし囲碁という文化を持っていた日本にその考え方ができず、おそらく囲碁などやったこともない米軍が囲碁的戦術を使っていた、というのは皮肉だね。



諜報活動という観点からみると、真珠湾攻撃は大失敗であったという話。

 戦争中一番穴のあいた情報網は、他ならぬ米国本土であった。日本の陸海軍武官が苦労して、爵禄百金を使って準備した日系人の一部による諜者網が戦争中も有効に作動していたなら、サンフランシスコの船の動きや、米国内の産業の動向、兵員の動員、飛行機生産の状況などがもっと克明にわかったはずだ。いかに秘密が保たれていたとしても、原爆を研究しているとか、実験したとか、原子爆弾の「ゲ」の字ぐらいは、きっと嗅ぎ出していたであろうに、一番大事な米本土に情報網の穴のあいたことが、敗戦の大きな要因であった。いやこれが最大の原因であった。日系人の強制収容は日本にとって実に手痛い打撃であった。
 日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、数隻の戦艦を撃沈する戦術的勝利をあげて狂喜乱舞したが、それを口実に米国は日系人強制収容という真珠湾以上の大戦略的情報勝利を収めてしまった。日本人が歓声を上げたとき、米国はもっと大きな、しかも声を出さない歓声を上げていたことを銘記すべきである。
 これで日本武官が、米本土に築いた情報の砦は瓦解した。戦艦(作戦)が大事だったか、情報(戦略)が大事だったか、盲目の太平洋戦争は、ここから始まった。寺本中将が開戦に不満を表した理由もここにあった。

真珠湾攻撃はたしかに奇襲として成功したわけだけど、不意打ちをしたことで(宣戦布告してたという説もあるけれど)アメリカに対して「米国内にいる日系人を強制収容する」という口実を与えてしまった。真珠湾攻撃がなければ非人道的な行為だとして国内外から反対の声が上がっただろうからね。
強制収容された日系人の中には日本軍のスパイもいただろうし、スパイとまではいかなくても本国に情報提供してくれる人はいたはず。
結果として敵国の情報入手の手段を絶たれてしまった。物量で劣る日本がアメリカと渡り合うためには情報で優位に立つしかなかったのに、その可能性も潰えてしまったわけだ。

まあアメリカの情報をもっと入手できたとしても日本がアメリカに勝つ可能性は万にひとつもなかっただろうけど、それでももう少し優位な条件で講和につなげるとか、少なくとも沖縄上陸や原子爆弾を落とされる前に終戦させられた可能性はあるわけで、こう考えると情報入手の可能性をなくしてしまった真珠湾攻撃の罪は大きいなあ。



この本から学ぶことは多い。
テレビディレクターの藤井健太郎さんが『悪意とこだわりの演出術』の中で、こんなことを書いていた。
 逆に、何かを悪く言ったりしているとき、意図的に事実をねじ曲げていることはまずあり得ません。悪く言われた対象者からは、事実だったとしてもクレームを受けることがあるくらいなのに、そこに明らかな嘘があったら告発されるのは当然です。
 そんな、落ちるのがわかっている危ない橋をわざわざ渡るわけがありません。そんな番組があったらどうかしてると思います。どうかしてる説です。

真珠湾攻撃の件とこの話に共通するのは「敵対する相手にこそ紳士的に、ルールを守って接しなければならない」という教訓。さもないと相手につけいる隙を与えることになるから。
人の悪口を言おうと思っている人はご参考に!



海軍と陸軍の考え方の違いについて。

 海軍は海という一面平坦で隠れることの出来ない水面を戦場として、自分の大砲の口径が何インチであり、相手の大砲は何インチであるから、その飛距離からどちらかの勝ち、と勝敗は敵とかなり離れたところで数字的に決められる。従って米軍の戦力と自軍の戦力とを、戦う前に計算してしまう。よほどの悪天候や、夜戦でもない限りこの数字をひっくり返すことは出来ないと考えるようになる。
 ところが陸軍は、桶狭間の戦いに代表されるように、兵力の多い方が必ず勝つとは限らない。夜暗も、濃霧も、地隙も、森林も、山岳もある。利用すべきものは全部利用して、奇襲で成功した例は、近代戦の中にも沢山ある。勢い必勝の信念こそが第一で、兵力の多寡や兵器の優劣ではないという教育になりやすい。
 この点から陸海軍の伝統的な思想が出来上った。海軍は合理的にものを考え、陸軍は非合理的思考と断じられる。海軍は数字を見て早く諦めるが、陸軍は少々のことでは諦めないで最後までやる。これが陸海軍の伝統が長年にわたって培った戦争哲学であって、先の中川連隊の戦闘は、陸軍式の代表のようなものであった。

なるほどね。
これを読むと、日本は陸軍の国だな、と思う(他の国がどうだか知らないけど)。
スポーツでもビジネスでも、"知恵と勇気と努力" で物量を凌駕できると信じ込んでいる人の多いこと。

工夫次第で、兵力の少ない側が勝つことはある。
源義経の鵯越の逆落としや桶狭間の戦いとか日露戦争みたいに「〇万の大軍をわずか〇の兵力で打ち破った」的な戦いは話としておもしろい。
でもそれってごくごく稀な例だから語り継がれてるわけで、ほとんどの場合は兵力や物資量が上回っているほうが勝つ。当然だけどね。

だから、知恵と勇気と努力で逆転勝利を狙うのは、どう転んでも兵力を用意できない場合(不意に攻め込まれたときとか)だけにとどめておくべきで、物量を用意できないのであれば攻める側にまわるべきではない。
鵯越の逆落としはあくまで奇襲だし、日露戦争だって長期化してたら最終的には日本が破れていただろうしね。



「敗軍の将は兵を語らず」という言葉があって負けた弁解をあれこれ語るべきではないとされているけど、まったくの逆じゃないかと思う。
敗軍の将の弁にこそ、多くの教訓が含まれている。敗軍の将にこそ雄弁に語ってもらいたい。
逆に、勝ったほうは何とでも好きに言えるから、話半分に聞いておいたほうがいい。
ビジネスの成功者の話なんか、自慢話だけで何の役にも立たないからね。

以前に 『自己啓発書を数学的に否定する』 という記事でも書いたように、成功のために必要なのは成功しなかった人の体験談だからね。


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2017年7月24日月曜日

知恵遅れと言葉の変遷


 知恵遅れ、という言葉を最近聞かない。
 ぼくが小学校のときは、子どもも大人もふつうに使っていた。
 あの子は知恵遅れだからしょうがないね、というように。

 今だったら発達障害とかADHDとか自閉症とかダウン症とかいろいろ難しい名前が付けられるんだろうけど、当時は「知恵遅れ」とひとくくりにされていた。

 今、「知恵遅れ」は差別的だとして放送禁止用語になっているという。
「知的障害者」というのが正しいらしい。


 言われた側がどう受け取るかわからないけど、ぼくにとっては「知恵遅れ」のほうが寛容な言い方だという印象を受ける。
「知的障害者」というと、何かが決定的に欠けている人で、彼我の差は何があっても埋められないイメージ。
「知恵遅れ」のほうは、ただ遅れているだけ、そのうちそれなりの域に達するさ、いろんな人がいるからね、という懐の広さを感じる。

 まだ自転車に乗れない子。まだ逆上がりができない子。まだ背が低い子。まだ上手にしゃべれない子。まだ九九を覚えていない子。
「知恵遅れ」もそれと同列のような感じだ。まだ十分な知恵がついていない子。



 でもこれは「知恵遅れ」という言葉が公的に使われなくなったことで、イメージが変わっただけなのかもしれない。

 昔は「便所」というのは丁寧な言い回しだった、と聞いたことがある。
「厠」を丁寧に言い換えたのが「便所」だったのだとか。
 でもその言い方が普及するうちに、「便所」に汚いイメージがついた。便所はきれいな場所ではないから当然だが。今では「便所」と言われると汚いトイレ、というイメージだ。
 そこで「トイレ」が使われるようになった。「便所」より上品な言い方として。だが「トイレ」のイメージもだんだん汚れてきて、さらに上品に言いたい人は「お手洗い」と呼ぶようになった。
 きっと近い将来「お手洗い」も汚い言葉になってしまい、また新しい言葉が代わりに用いられることだろう。

 一方、ほとんど使われなくなったことで「厠」には汚いイメージがなくなった。ときどきトイレの入り口に「厠」と書かれた居酒屋がある。耳になじみの薄い言葉になったことで、逆に粋な言葉に昇格したのだろう。

「知恵遅れ」も同様に、使われなくなったことでマイルドなイメージになっただけなのかもしれない。トイレで例えて申し訳ないけど。

これは「便所」ではない



「ボケ」が「認知症」になり、「デブ」が「メタボリック」になり、「オバサン」が「熟女」になった。
 いずれも差別的なイメージを和らげるために考案された言葉なんだろうけど、人口に膾炙したことで、いずれの言葉も差別的なイメージを持ちつつある。

 こないだ病院に行ったら「AGAの方はご相談ください」というポスターが貼ってあって、AGAって何だろうと思って見てみたら「男性型脱毛症」(AGA:Androgenetic Alopecia)だと書いてあった。「ハゲ」が「AGA」になったのだ。
 きっと10年後の小学生は、ひたいの広い友人を「やーい、AGA!」と言ってからかっていることだろう。


 マイナスイメージのある言葉を次々に言い換えることに意味があるのだろうか、と思う。
 そんなことをしても、くさいものにふた、いやこれは差別的表現なので訂正しよう。臭的障害物質にふたをしてるだけじゃないだろうか。


2017年7月23日日曜日

喫茶店のモーニングを食べるために早起きした


そういや喫茶店のモーニングセットって食べたことないな。

そもそも朝食を外で食べることがほとんどないもんな。早起きなほうだから家で食べる時間あるし。
ぼくにとって喫茶店って時間をつぶしたり誰かと座って話したりするために行く場所であって、決してコーヒーを飲みにいく場所ではない。朝早くから時間をつぶすことも人とこみいった話をすることもないから、朝に喫茶店に行く理由がない。

しかし喫茶店のモーニングセットというのはすごくお得らしい。特に名古屋の喫茶店のモーニングは信じられないぐらいのボリュームがあってびっくりするぐらい安い、と聞いたことがある。

お得。
人類史上、この言葉に抗えた人物はひとりとしていない。誰しもお得には弱い。お得最強説だ。

もちろんぼくもできることならお得を享受したいと考えている。
お得にまみれて生きて、お得の内に死んで、葬儀で遺族から「いろいろあったけどまあお得な人生でしたよね」と言われたい。


しかしモーニングを食べるために機会はなかなか訪れなかった。
ふだんは妻が朝食を作ってくれる。「明日飲み会だから晩ごはんいらない」とは言えても、「明日モーニングだから朝ごはんいらない」と言うのは気が引ける。

まあそのうちモーニングチャンスもくるだろうと思っていたのだが、気づけばぼくも三十代なかば。若いころのように気ままに生きるわけにもいかず、自分の人生を自分で選択しなければならない。
ぼくは人生の選択を迫られていた。このままモーニングとは無縁の人生を送るか、それともモーニングに手を出すのか。

歳をとると、新しいことにチャレンジするのは難しくなってくる。モーニングに失敗したときに向けられる世間の目も、中年になるほど厳しくなるにちがいない。

ちょうど、妻が子どもを連れて実家に泊まりに行くことになった。
家にはぼくひとり。ふだんなら惰眠をむさぼるところだが、今がラストモーニングチャンスかもしれない。
ぼくは決意した。
モーニングを食べよう。決戦は日曜日だ。



数日前から妻に「日曜日、モーニングに行くから」と宣言した。
決意を公言することで自らの退路を絶つ作戦だ。
さらに「パンも納豆も日曜日までに切れるようにしといて」と伝えた。もう後戻りはできない。背水の陣でモーニングにのぞんだ。

モーニングのデビュー戦の舞台は決めてあった。
自宅から歩いて5分のところにあるコメダ珈琲店。
今では全国に600店舗以上を抱える大手チェーンだが、もともとはモーニングの本場・名古屋市発祥だという。
すばらしい。デビュー戦の舞台にとって不足なし。というよりいきなり武道館でデビューコンサートをやるようなものかもしれない。多少気後れしたが、退路を絶っている以上、今さら逃げるわけにはいかない。

事前に店の前をうろうろして、営業時間を調べておいた。全曜日午前7時開店。
日曜日でも7時からやってることに驚いた。そんな早くから喫茶店に来る人がいるのか?

だがぼくにとっては好都合。コメダのモーニングは午前11時まで提供しているらしいが、10時を過ぎると朝食というより「ブランチ」だ。やはりモーニングを食べるのはモーニングにかぎる。



土曜日の夜、ぼくは24時に床についた。ふだんはもっと夜ふかしすることもあるが、万全の体調でモーニングを楽しめるよう、早めに寝た。

6時半にセットしていたアラームが鳴る。
開店と同時に店に入ることも考えたが、あまり気負っているように思われるのも気恥ずかしい。
あえて家でゆっくりして時間をつぶした。時間をつぶすために喫茶店に行くことはあるが、喫茶店に行くために時間をつぶしたのははじめてのことだ。

8時にコメダ珈琲店に到着。
日曜日の8時といえば、まだ寝ている人も多いだろう。こんな時間に喫茶店に来るなんて相当奇特な人だけだろうと思ったが、あにはからんや、店内は9割の入りだった。
あと少し遅かったら店の前で待たなくてはいけなかったかもしれない。少々モーニング人気をあなどっていたようだ。

席について、モーニングメニューを熟読。
コメダ珈琲店のモーニングはA~Cの3種類。トーストにつけるものをゆで卵、たまごペースト、小倉あんの中から選べるというものだ。
なるほど、小倉あんがあるのがいかにも名古屋らしい。せっかくなので小倉あんのCセットにしよう。

コメダ珈琲店ホームページより

「たっぷりカフェオーレ」とCセットを注文。さらに「北海道生乳100%ヨーグルト(はちみつ添え)」も追加した。

待っている間にモーニングの値段をチェックしようとして、首をかしげた。値段が書いていない。
隅々まで見てみると、端のほうに小さな文字でこう書いてあった。

お好きなドリンクをご注文で、さくふわトーストとA~Cのいずれか1つ無料

無料!

まさか無料とは。モーニングがお得と聞いてはいたが、プラス100円でトーストがつきます、ぐらいのものだと思っていた。
しかも「無料」を小さな文字で書いている。ぼくがメニューを作る人なら、「無料!」といちばんでかいフォント&赤文字で書いてしまうだろう。それをせずに小さく書く、このつつましさがいい。

なるほど無料でトーストが食べられるのか。そりゃあみんな日曜の朝早くから足を運ぶわけだ。いやもちろんドリンクを注文しないといけないから無料ではないんだけど。

周囲のテーブルを見まわしてみると、客層はばらばらだった。
一人で本を読んでいるお姉さん、勉強している学生、老夫婦、子ども連れの家族、デート中のカップル。
老若男女がそれぞれモーニングを楽しんでいる。

昼間の喫茶店の客に比べて、みんな表情が弛緩しているように見える。まだ少し眠くて、でも疲れてはいなくて、リラックスしている。白熱した話をしたり、大笑いをしたりしている人もいない。ゆっくりとコーヒーを味わいながら、小さな声でぼそぼそと言葉を交わしている。隣の老夫婦はお墓参りの予定について話し、向かいの家族連れは昨日テレビで観た人工知能の話をしている。
とても穏やかな空間だ。

ぼくは携帯を取り出して、このブログ記事を書いている。家で書くときよりも筆が進む。刺激の少ない空気と、見知らぬ人がそばにいることから生まれるほどよい緊張感。

ふうむ。
この穏やかさを1時間以上満喫できて、カフェオレとトーストと小倉あんとヨーグルトで660円。これはお得だな。

モーニングは三文の徳。


2017年7月22日土曜日

【DVD感想】『ミスター・ノーバディ』

ミスター・ノーバディ(2009)

内容(Amazonプライムより)
2092年、世の中は、化学の力で細胞が永久再生される不死の世界となっていた。永久再生化をほどこしていない唯一の死ぬことのできる人間であるニモは、118歳の誕生日を目前にしていた。メディカル・ステーションのニモの姿は生中継されていて、全世界が人間の死にゆく様子に注目していた。そんなとき、1人の新聞記者がやってきてニモに質問をする。「人間が“不死”となる前の世界は?」ニモは、少しずつ過去をさかのぼっていく――。

ううむ。難解な映画だった。
事前に友人から「ストーリーが分岐している映画なんで、何も知らずに観たら矛盾だらけで混乱するよ」と聞かされていたので大混乱はしなかったが、それでも話の流れから振り落とされないようにするのでせいいっぱいだった。
なにしろ、同一人物のぜんぜんちがう人生が並行に語られる上に、時代も100年ぐらいのスパンの間をいったりきたりして、さらに心象風景もさしこまれるのだから。

「ん? これはどの人生のいつの時代の話だ?」と常に考えていないといけないような感じ。
途中で「この映画は完全に理解するのは無理だ」と気付いて、ストーリーを追うのやめてぼんやりと観ることに切り替えた。

モザイク画のように、部分をじっくり見るのではなく全体の雰囲気を味わう映画なのかも。
映像が美しいから絵画を楽しむように観るのがいいのかもしれないけど、ぼくは左脳型の人間で、絵画鑑賞も苦手なので、観ているのはまあまあつらかった……。


とはいえ、「あのときああしていたら今ごろはどんな人生だっただろう」ということは誰しも考えることだし、SFの永遠のテーマのひとつであるけれど、「あったかもしれない」過去・現在・未来という難しいテーマをうまく映像化したとは思う。




ところでこの作品を観ながら、ぼくは「映画というのは観客を拘束できるメディアだな」と考えていた。

ぼくは『ミスター・ノーバディー』を「退屈な映画だな」と思いながらも最後まで観た(途中で昼寝休憩をはさんだけど)。
それは「映画というのは序盤は退屈でも後半まで観たらおもしろくなることが多い」ということを経験上知っているからだ(もちろん最後までつまんないものもあるけど)。
これがテレビ番組だったら、3分も観ずに離脱していたと思う。
映画だと思うから最後まで観たし、ましてレンタルビデオ屋で借りてきたビデオとか、映画館で観た映画とかだったら、どんなにつまらなくてもお金がもったいないから途中で停止するとか上映中に席を立つとかはしないと思う(寝ちゃうことはあるだろうけど)。


エンタテインメントは、どんどん手軽になってきている。
音楽を例にとれば、昔だったら音楽家の生演奏を聴くしかなかったものが、レコードやCDでいつでも聴けるようになり、カセットテープやMDといった記録メディアで複製もできるようになり、今ではデータで遠く離れた人ともやりとりができる。
が、接触がかんたんになるのと比例して、離脱も容易になっていっている。
コンサートに足を運んだ人が途中まで聴いて席を立つということはほとんど起こらないが、CDを途中停止することにはさほど抵抗がない。

インターネット上にあるコンテンツは、手軽に消費される分、ものすごくかんたんに捨てられる。
本を買って1ページだけ読んで読むのをやめる人はほとんどいないが、WEBサイトを3行だけ読んで「戻る」ボタンを押す人はすごく多い。
テレビも同様で、つまらない時間が1分でも続けばみんなチャンネルを変えてしまう。
だからテレビ番組やWEBサイトでは、逃げられないように「この後驚きの結末が……」みたいな煽りを入れたり、過剰に目を惹くタイトルをつけたり、クライマックスを冒頭に持ってきたりする。
その結果コンテンツがおもしろくなっているかというと、そんなことはない。むしろ逆。

おもしろそうなタイトルに釣られて読んだらがっかり。冒頭がいちばんおもしろい、いわゆる出オチ。タイトルと見出しですべてを表していて本文を読む必要がまったくなかった。
WEBサイトなんてそんなものであふれている。

意味があって序盤にピークを持ってきているのならいいんだけど、耳目を惹くためだけにやっているのであれば、作り手にとっても受け手にとってもマイナスにしかならない。


その点、映画は「基本的に観客は最後まで観る」という前提があるから、いちばんおもしろくなるための構成にすることができる。
序盤はたっぷりと世界観の提示と状況説明に時間を使い、中盤から徐々に観客をひきこんで、ラストにクライマックスを持ってきて「最初はつまんないかと思ったけど終わってみればいい映画だったね」と言われるような作りにすることができる。
これは今の時代においては本当に贅沢なことだと思う。


しかしこれは「映画は最後まで観るもの」という認識を持っているおっさんだからであって、ずっと無料動画や見放題の動画提供サービスに親しんでいる若い人からすると、やはり映画も「つまんなかったらすぐにやめるもの」なのかもしれない。
「10分くらい観たけど退屈だからやめたわー。星1つ!」って考えの人が増えたら、映画もやはり過剰に序盤を盛り上げるストーリーと必要以上に期待を煽る演出ばかりになるのかもしれないな。

そんな時代になったら『ミスター・ノーバディー』のような「最後まで観ないとわけわかんない映画」は誰も観なくなっちゃうんだろうなあ……。



2017年7月20日木曜日

自殺者の遺書のような私小説/ツチヤタカユキ 『笑いのカイブツ』【読書感想】

ツチヤタカユキ 『笑いのカイブツ』

内容(「e-hon」より)
人間の価値は人間からはみ出した回数で決まる。僕が人間であることをはみ出したのは、それが初めてだった。僕が人間をはみ出した瞬間、笑いのカイブツが生まれた時―他を圧倒する質と量、そして“人間関係不得意”で知られる伝説のハガキ職人・ツチヤタカユキ、27歳、童貞、無職。その熱狂的な道行きが、いま紐解かれる。「ケータイ大喜利」でレジェンドの称号を獲得。「オールナイトニッポン」「伊集院光 深夜の馬鹿力」「バカサイ」「ファミ通」「週刊少年ジャンプ」など数々の雑誌やラジオで、圧倒的な採用回数を誇るようになるが―。伝説のハガキ職人による青春私小説。

「笑いに生きた」「笑いに人生を捧げた」なんて言葉があるけど、この本を読んでしまったらもうその表現は使えない。なぜなら、これほどまで笑いに生きた、いや笑いに狂った人間は他にいないだろうから。

「こんなところで止まってたまるか!」と思った。僕はもっと、加速したかった。21歳で死ぬつもりで生きていた。次第にアルバイトという行為は、時間の空費だと感じるようになった。すべての時間を大喜利に費やしたいと思うようになった。
 ある夏の暑い日、給料を受け取るとそのままバイトを辞めた。
 僕は実家にいながら無職になった。
 母の冷たい視線をまるっきり無視し、起きている時間を大喜利に費やせる状況になった僕は、一日に出すボケ数のノルマを1000個から2000個に増やした。
 朝から晩までクーラーのない部屋で、裸で机にかじりついて、自分でお題を考えて自分で答え続けていた。ノート一冊を一日で使い切るくらい大喜利をした。
 とにかく、もっともっと加速したかった。誰よりも速く、濃く、生きたい。光の速さで生きて、一瞬で消えていきたかった。
 だけど、そんな気持ちとは裏腹に、いつもボケが1500個を超えたあたりで、誰かに殴られているみたいに、頭がガンガンして、死にたい気分になった。加速したい気持ちに、脳と身体が全然ついてこれていなかった。
 それでも毎日、ノルマの2000個に到達するまで、僕は絶対に、全力疾走をやめなかった。

イカれてるなあ。
誰に強制されたわけでもないのに、誰に賞賛されるわけでもないのに、ひたすら大喜利のボケを考えつづける。自分にノルマを課し、起きている時間のすべてを大喜利に費やし、寝る時間も削り、食べるものも減らし(「バイトする時間があれば大喜利のボケを〇個考えられるから」というのがその理由)、ひたすら大喜利に没頭する。ラジオ番組で採用されるための傾向を探り、戦略を立てる。大喜利の素材をインプットするために次々と本を読む。
彼にとっては趣味でもなければ努力でもない。「やらなければ死ぬ」呼吸のようなものだ。
どえらい人間だ。ここまで何かに打ち込める人間はまずいないだろう。テレビや舞台で活躍しているどの芸人よりも真摯に笑いに向き合っているはずだ。


で、誰よりもお笑いに打ちこんできたツチヤタカユキ氏がお笑いの世界で成功を収めるのかというと、そうではない。構成作家や漫才作家として何度もチャンスを棒に振り、挫折をくりかえす。
それは、お笑い以外のことがまったくできないから。

「お笑いと関係あらへんサラリーマンみたいなことやっとるだけや」
「おまえもやったらええやん」
「できんからこうなっとんのじゃ。お笑いの世界やのに、売れるのに、お笑いの能力関係ないって時点でな、オレの構成作家としての敗北は決定してん。それ以来な、なんかな、本気でお笑いやっとることが、アホらしくて、しょうがなくなってもうてん。オレ、これ何やってんねやろ?って。なんのためにこんな一生懸命やってんねやろ?って。何一つ報われへんのに。誰一人、見てくれてへんのに。でもな、そう思っててもな、どんどん技術とかセンスが上がって、オモロなっていっとんねん。先輩作家に1分しか使わんといたらな、1分でめっちゃええボケ出せるように、進化していきよんねん。それがホンマにむなしいねん。マジで、死にたなるねん。どうせやったら、もうお笑いに関する能力、全部、なくなってくれた方が幸せやわ、こんなんやったら」

お笑いのためならなんでもできるのに、人付き合いや社交辞令がまったくできない。
笑いを追及するために注いでいる情熱の半分、いや1割でも他のところに向けていれば「変わったやつだけどすごいやつ」としてもうちょっと評価されていたんだろうけど、その1割さえも振り分けることができない。
それでも彼の才能を見抜いてチャンスをくれる人もいる。だが彼は自らそのチャンスから逃げてしまう。そして苦しみ、のたうち回る。
10年間そのくりかえし。

努力の方向性が違うのだ。
めちゃくちゃキレのいいフォークボールを投げられるのに、他の変化球は投げられないしキャッチャーのサインは無視するし、守備はからっきし。それなのにフォークボールの練習ばかりしている。そんな感じ。

でも方向性が違うことは周囲にはさんざん言われているし、自分自身でもよくわかっているんだと思う。この人はうだうだ考えているだけじゃなく、ときどき思い切った行動を起こしている。吉本の劇場に飛び込んだり、漫才の台本を書くために東京まで移住したり。きっと自分自身でも「自分を変えなきゃ」という気持ちを持っているのだろう。

それなのに曲げられない。ちょっと迂回すれば壁の向こう側へ行けるのに、ずっと壁にぶちあたってはもがいている。

なんて不器用なんだ。いや狂っている。笑いに対して。



笑いの世界以外にも、「狂人と紙一重」と呼ばれる人は存在する。
ゴッホ、アインシュタイン、ヴェートーベン……。天才と呼ばれる人は、たいてい異常なエピソードをいくつも持っている。
それでも彼らはその圧倒的な才能で評価されている(その何百倍もの、評価されなかった「天才と紙一重」の人がいたんだろうけど)。
彼らが評価されているのは、ちゃんと才能を見抜いてくれたり、プロモーターとして売り込んでくれたりする人に恵まれたというのが大きいのだろう。

ツチヤタカユキの不幸は、その圧倒的な才能を「笑い」という、人付き合いとは切っても切りはなせない分野に向けてしまったことにある。
彼がその執念を、文学や絵画や音楽や陶芸に向けていたなら、あるいは超一級の天才として認められていたかもしれない。
なぜならそれらの芸術作品は基本的に作者の人間性とは無縁に評価されるものだから。石川啄木も太宰治もモーツァルトも才能がなければただのクズ野郎だけど、作品は作者の振る舞いとは関係なく(むしろマイナスがプラスになって)今でも燦然と輝いている。

でも「笑い」はきわめて属人的な表現手段だ。
同じことを同じ間で同じ調子で言ったとしても、明石家さんまが言うのとまったく無名のお笑い芸人が言うのとでは笑いの量は変わってくる。
親しい友人の冗談はおもしろく聞こえるし、クラスの人気者はたいしたことを言わなくても笑いがとれる。
表舞台に立つ芸人なら言わずもがなだし、台本を考える裏方だって、挨拶すら返さない愛想のない男が考えた台本は採用されにくいだろう。

そういう世界をリングにして、それでも台本の中身だけで勝負してやると闘いを挑みつづけているツチヤタカユキという男の人生は「そのストロングなスタイルはかっこいいけど、さすがにどっかで折り合いをつけないと死んじまうぞ」と言いたくなる。

ぼくみたいなリングに立ちもしない外野の勝手な意見なんてツチヤタカユキ氏は唾棄するだけだろうけど、やっぱり言わずにはいられない。たぶんもう百回以上も言われてきたんだろうけどね。



『笑いのカイブツ』を読んで、自殺者の遺書ってこんな感じなのかなと思った。読んでいて、鼓膜の奥がわんわんと震えるような魂の咆哮が聞こえた。
「これを書き終えたらこいつ死ぬんじゃないか」ってぐらいの迫力。

今さら彼が要領よく世の中を渡ってゆくことはできないだろうけど、きちんとマネジメントしてくれる人に出会ってくれたらいいなあと切に願う。
彼ほどの才能が埋もれたままであるのは、社会にとっても大きな損失だから。


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2017年7月18日火曜日

ミツユビナマケモノの赤ちゃんを預けられて/黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』【読書感想エッセイ】

内容(「e-hon」より)
ファミリーホーム―虐待を受け保護された子どもたちを、里子として家庭に引き取り、生活を生にする場所。子どもたちは、身体や心に残る虐待の後遺症に苦しみながらも、24時間寄り添ってくれる里親や同じ境遇の子どもと暮らし、笑顔を取り戻していく「育ち直し」の時を生きていた。文庫化に際し、三年後の子どもたちの「今」を追加取材し、大幅加筆。第11回開高健ノンフィクション賞受賞作。

ファミリーホームとは、保護を必要とする子どもを自宅で5~6人受け入れて養育する仕組み。
児童養護施設とはちがって家庭で子どもを育てることができ、複数の人で複数児童の面倒を見るという、施設と里親の中間のような制度だ。

ノンフィクションライターである著者がいくつかのファミリーホームを訪れ、虐待されて保護された子の状況を取材したルポルタージュ。
著者の気迫が伝わってくるようなノンフィクションだった。



ぼくはずっと子どもをほしいと思っていたので、もし自分に子どもができなかったら里親になろうかなと考えて、資料を取り寄せたこともある。
実子が誕生したので今のところ里子を引き取るつもりはないが、この本を読むと里親になるのは、ぼくが考えていたほど甘くかんたんなものじゃないとわかる。
「生い立ちで少々苦労した子でもふつうに育てていれば他の子と同じように成長するはずだ」という考えがいかに浅はかだったか、よく思い知らされた。

虐待を受けた子は発達障害のような状態になることが多いのだという。他の子や里親との協調関係を築くことができず、それどころか育ての親に対して怒りの矛先を向ける子も多い。

 なぜ、あたたかく迎えてくれた人を苦しめるのだろうか。前出のあいち小児・診療科の新井康祥医師はこう話す。
「虐待を受けた子どもたちが抑え込んでいた怒りは、保護されて安心や安全を感じるようになることで、次第に表に出てきます。本来、その怒りは虐待をした親に向けられるべきなのでしょうが、子どもにとってそれは危険極まりないことです。親を攻撃すれば、もっと激しく親を怒らせてしまい、仕返しをされるのがわかっているので、怖くてできない。そして、そのやり場のない怒りは、優しく保護してくれる人たちに向かってしまうのです」

子どもが新しい家庭に慣れ、ためこんでいたものを少しずつ吐きだせるようになると、自分でも制御できない怒りを周囲にぶつけ、ののしったり、ときには刃物で傷つけることもある。
育てている側からすると、信頼されればされるほど怒りを向けられるわけで、なんともやりきれない話だ。
それこそが心に負った傷を癒すために必要な過程なのだ、と部外者なら言えるけど、当事者にしてみれば耐えられないだろう。
自分の子ですら「こっちはがんばって育ててあげてるのに!」と腹立たしく思うことがあるのに、まして血のつながりのない子で、しかも問題行動ばかりを起こす子を育てるなんて並大抵の苦労じゃないだろうな。


何年か前に声優が養子を虐待死させたとして逮捕される事件があった。
それだけ聞くとひどい人だという印象を持つけど、わざわざ養子を引き取っているわけだから愛情を持って育てていたのだろうし、そんな篤志家でも追いつめられてしまうからにはよほどの難しさがあったのだと思う。詳しい事情は知らないけど、部外者が「なんでひどい親だ」と軽々しく言えるようなものではない、ということは想像がつく。

「愛情を向ければ向かうほどこちらに牙をむいてくる子を愛情込めて育てなくちゃいけない」という立場に置かれても、辛抱強く付き合いつづけられるだろうか。
ぜったいに虐待はしません! と断言することは、ぼくにはできない。



『誕生日を知らない女の子』では、かつて虐待を受けていた子が、ファミリーホームに来てからもその"後遺症"に苦しめられる様子が書かれている。

 横山家に来てからも美由ちゃんは夜、何度もうなされた。
「うわーっ、うわーっ、ううー」
 身体の奥からふりしぼるような咆哮に、久美さんは飛び起き、美由ちゃんに駆け寄る。
「みゆちゃん、大丈夫? もう、こわくないからね。大丈夫だよ」
 美由ちゃんを一旦起こし、身体を撫でて「大丈夫、大丈夫」と耳元でやさしく言い聞かせる。身体を抱きしめ、背中を撫でて「もう、大丈夫だからね」と繰り返す。そうしなければならないほど、久美さんの腕の中で美由ちゃんは激しい恐怖におののいていた。あまりに夢が怖いので、眠ることもできない日が続いた。
 朝になって、落ち着いた時にどんな夢なのかを聞いてみた。
「みゆちゃん、怖い夢を見たの?」
「声がするの。お母さんのコワイ声がするの。『おまえなんか、連れてってやる。こんなところで幸せになったらだめだ。おまえなんか、不幸にしてやる。おまえみたいなやつはだめだ。おまえなんか、ぶっ殺す』って……」
 それは、実母の声だった。

このくだりを読んでぞっとした。母親の呪縛とはこんなに強いものかと。

「幼いころに親から受けた愛情はその後の人生において大きな支柱となる」という話をよく聞くし、じっさいそのとおりだと思う。ふだん意識はしないけど、「何があっても母親は自分の味方だろう」と思うし、そういう存在がひとりでもいるのといないのでは世の中の生きづらさはずいぶん変わってくるだろう。大人になってからもその経験はずっと支えになっている。

ということは逆に、幼いころに親からひどい目に遭わされた人は、ずっと苦しみつづけることになるのかもしれない。
新しい養育者がどれだけ愛情いっぱいに育てたとしても、その記憶は上書きされることがないのかもしれない。幼少期の虐待は、刺青のように永遠に消えることがないのではないだろうか。
実母から「おまえを不幸にしてやる」と願われる人生なんて、ぼくには想像もつかない。



もうひとつ衝撃的だったのは、虐待する親のもとに帰ろうとする子どものエピソードだった。

実母からの虐待を受けて育った小学五年生の女の子がファミリーホームに引き取られ、いろいろと苦労もあったが少しずつ家庭や学校でうまくやっていけるようになった。その矢先に、実母から「うちにおいで」と言われた。
実母としては考えなしに言った言葉であり、異父兄弟である弟妹の面倒を見たり家事をしたりする子、つまりは「都合のいい働き手がほしい」と考えての言葉だった。だが、その子は大喜びしてしまった。「お母さんといっしょに暮らせる!」と。
ずっと虐待・育児放棄をしてきた母親であり、その再婚相手は自分の子どもしかかわいがろうとしない男。誰がみたって、母親のもとに戻れば不幸になることは目に見えている。
だが今の制度では、実親が引き取ることを希望した場合、里親やファミリーホームがそれを止めることはできない。たとえどんなに虐待の危険性が高かろうと。

母親から「うちにおいで」と言われた女の子がとった行動は、ファミリーホームや学校で「居場所をなくす」ことだったという。
わざと嫌われるようなことを言ったり、小さい子をいじめたりする。
自らすべてを捨てて「母親のもとに行くしかない」という状況をつくった。

「もう、なんでもいいから帰りたかったんだろうね。福祉司も止めたし、医師も反対だった。でも『奴隷でもいいから、帰りたい。おかあしゃんは女神さまのようにやさしくて、どんな願いもかなえてくれる』って最後は現実逃避にまで行ってしまった」

ファミリーホームの運営者の言葉だ。
子どもを虐待する実親と、自分の人生を投げだして子どもの世話をする育ての親。どちらにいたほうが幸せかは客観的には明らかだが、それでも、子どもは実親を選んでしまうのだ。「奴隷でもいいから」と言って。

そして彼女に待ち受けていたのは、奴隷以下の生活だった。学校にも通わせてもらえず、弟妹の面倒を見て、罵声を浴びるだけの生活。
ほどなくして彼女は別の里親のもとに引き取られ、病院に通う生活を送ることになったという。

「子どもの虹情報研修センター(日本虐待・思春期問題情報研修センター)」の増沢高研修部長は、「施設の子、里親の子もほとんどが、実の親のところへ帰りたいと言います。それほど親とのつながりというものは強い」と語る。
 なぜ、それほどまでに親を希うのか。一度は「捨てられた」も同然だったというのに。増沢氏は、キーワードは「喪失」なのだと説明する。
「子どもは、養育者に依存して生きる存在です。”捨てられた”も同然のように施設や里親に措置されても、それを認めたくない。”見捨てられる”ことへの不安と恐怖を強く抱いています。しかし時間と共に、事実として向き合わなければいけなくなった時、それは大きな喪失体験となって子どもを苦しめます。虐待はトラウマという、傷つけられた体験で語られがちですが、一番重要なキーワードは、喪失なのだと思います」

子どもにとっては、身体的な虐待を受けることよりも「親から捨てられたことを認めること」のほうがずっとつらいことなのだろう。

だからこそ子どもは、親から「おまえのために殴っている」と言われたら信じてしまう。そう信じたいから。
そして多くの虐待は表に出ることなく、くりかえされる。世代を超えて。



この本では、かつて虐待を受けて育った女性が子どもを産み、育て方がわからなくて苦悩する姿が紹介されている。

 子育てをしていく中、判断不能になる場面に沙織さんは多々出くわすという。
「たとえば、給食のランチョンマット。これ、毎日替えるのかどうかがわからない。気づかないからそのままにしていたら、学校から『毎日、替えてください』と注意されて、ネグレクトを疑われる。そんなん、私、一回だって洗ってもらったことがないからわからない」

ぼくにも4歳の娘がいるが、子どもと接してしていると自分が親にしてもらったことを思いだす。
風邪をひいたときはリンゴをすりおろしたやつを食べさせてもらったな、とか。ケガをしたことを隠していたらめちゃくちゃ怒られたな、とか。おもしろい話をしたときに「おもしろいねー!」と笑ってくれたけどあれは愛想笑いだったんだろうな、とか。
で、気がつくと自分が親にしてもらったことをそのまま子どもにしている。かつて親から言われたのと同じことを娘に言っている。
それは意図してやっているわけではなく、記憶の奥底に染みついたものを無意識にとりだしているだけだ。

ネグレクトで育った人にはその経験がないから、どうしたらいいかわからないのだろう。
上に書かれているランチョンマットを洗うかどうかは些細なことで、関係のない人からすると「まあ少々洗わなくても大丈夫でしょ」と思うけど、万事がその調子だったらすごくストレスだろう。

何の知識もない状態でミツユビナマケモノの赤ちゃんを預けられて「はい、このミツユビナマケモノをふつうに育ててくださいね」と言われるようなものかもしれない。ふつうに育てろっていわれても、その "ふつう" がわかんねーよ! という状態だろう。

まあ今はインターネットで人に訊けるからまだましなのかもしれない。
Yahoo!知恵袋で「こんなこともわからないのかよ。常識でわかるだろ」といいたくなる質問を見かけることがあるけど、もしかしたら親に育ててもらっていない人の疑問なのかもしれない。



虐待やネグレクトといった痛ましい事例を見ると「親が自分の子を育てる」というシステムは無理があるのではないかと考えてしまう。

今でこそ親が自分の子の面倒を見るのはあたりまえだけど、それってせいぜいここ100年くらいの話だ。人類の歴史からいえば、共同体単位で子どもの面倒を見ていた(というか親が放置していた)時代のほうがずっと長い。
親が子育ての全責任を負うほうがおかしなことなんじゃないだろうか。

以前、『ルポ 消えた子どもたち』 という本の感想として、こんなことを書いた。
ぼくは、子どもの教育に個人情報保護を持ち込むべきではないと思う。
教育というのは公的なものであって、各家庭に属する私的なものではない。
「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるのはその子のためじゃない。社会のためだ。
憲法にも「教育を受けさせる義務」があるように、親には「子どもを教育する義務」はあっても「子どもを好きなように育てていい権利」はない。
私的な行為じゃないから当然ながら個人情報保護の対象とすべき事柄じゃない。

そのへんが勘違いされているのが近代の病だね。
どうにかしてみんなで育てる仕組みを作れないものだろうか。7歳になったら強制的に親から引き離して寮に入れる、みたいな。
教育費はすべて国の負担。ただし一定の能力がないと高校、大学には進学できなくする。
これは平等だ。社会主義国家みたいだな。
でも親の経済状況と関係なく能力のある人に学べる機会を提供する、というのは社会全体で見たらいいことだと思うな。
親の負担はぐっと減るし、虐待やネグレクトもずっと少なくなるだろう。7歳まで育てればお役目終了だから次の子どもも作りやすい。
いろいろな事情があって実親に育ててもらえない子どものつらさも、だいぶ和らぐことだろう。


ぼくは、自分の娘をとてもかわいいと思う。とてもかわいいからこそ、こう思う。「かわいがりすぎちゃ、いかん」と。

少子高齢化の弊害が叫ばれている今、なすべきことは「親を大切に」「子どもには愛情を持って接しましょう」という考えを捨てるべきことなんじゃないだろうか。

今の世の中、「親の介護のために仕事を辞める」「仕事をしながら子どもの世話ができないから子どもを産まない」なんてことがめずらしくないよね。
どう考えたって生物としておかしい。老親を介護したって遺伝子を残すことにはまったく貢献しないからね。
ぼくたち生物は遺伝子の乗り物なんだから、遺伝子様ファーストで生きていかなくちゃならない。

今いろいろと話題になっている2分の1成人式なんかもってのほかだよね。
教育勅語の復権をと主張している大臣もいたが、それも論外。
むしろ「自分の親や子を大事にしてはいけません」と教えなくちゃいけない。
昔の人が親を大切にしてなかったからこそ「親を大切に」「親の言うことは聞きなさい」という儒教や教育勅語の教えが意味を持っていたわけで、今はむしろ逆のことを言わなくちゃいけない。

「親なんか大切にしなくていい」「子どもなんかほっときゃいい」という考えがあたりまえになれば、少子高齢化の問題はだいぶ緩和されるだろうね。

もちろんそのときは他の問題が出てくるんだろうけど。


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2017年7月17日月曜日

【ショートショート】うまれかわり聖人


「おまえは善く生きた。これほど正しく生きた人間を、わたしは他に知らない」

絶対的な存在は告げた。

彼は、ありがとうございますと深く頭を下げながら内心ほくそえんだ。当然だ。すべてはこの瞬間のために生きてきたのだから。



彼が "制度" の存在を知ったのは五歳のときだった。
祖父から「すべての生き物は死んだらまた生まれ変わる。次にどんな生物になるかは、この世でどんなおこないをしたかによって決まる。悪い生き方をした人間は、次の世の中では下等な生物として生きていかねばならない」と聞かされた。
そのときは特に気にも留めなかったのだが、その日の晩に祖父が急死したことで、その言葉が俄然意味を持つようになった。
死後の世界のことを語った祖父がすぐに亡くなった。この奇妙な符牒は、彼に生まれ変わりを信じさせるのに十分だった。

彼は、ダンゴムシや微生物として生きる日々を想像して恐怖を感じた。
常に自分より大きな生き物におびえ、隠れながら暮らしていかなければならない。捕食され、そうと気づかれぬうちに人間に踏まれて死んでしまうかもしれない。
そんな生き方をするのはぜったいにごめんだ、と思った。

その日から、彼は正しく生きることに努めた。
人の見ていないところでも規律を守り、虫を踏まぬよう注意して歩いた。他人の悪口は言わず、弱い者に対しては積極的に施しをした。彼には大いなる目標があったから、あらゆる悪しき誘惑をはねのけることができた。
みなが彼のことを「聖人」と呼んだ。その中には若干の揶揄する響きもあったが、他人の評価なんかよりもずっと大きな評価に備えている彼にとってはまったく気にならなかった。
口の悪い人は「ああいう聖人みたいな人にかぎって心の中では何を考えているかわからないもんだ」などと言ったが、それはまったくの間違いだった。彼は行動だけではなく、内面も善意で満ちていた。彼の生き方を評価する存在はすべてがお見通しなのだ。彼は強い意志で、自身の中から悪い考えを完全に追い出すことに成功していた。

何が楽しくて生きているんだろう、と陰口をたたく人もいた。
彼自身に迷いが生じなかったわけではない。正しいだけの人生をくりかえし送ることが最善の選択なのだろうか、と。
しかし下等な生き物として生きるという想像の恐怖がすぐにそんな考えを追いはらった。恐怖心とはどんな悦楽よりも強いのだ。

そして彼は、その人生を終えた。
生涯貧しい人生だった。だが彼は幸福だった。善い生き方をすることができたという達成感が、彼の心の中を満たしていた。



はたして、絶対的な存在は彼の正しい生き方を適正に評価した。

「おまえのように正しく生きたものは、もっとも優れた生き物として次の世代を生きることがふさわしい」

そして彼は高次の生命体へと生まれ変わった。

恵まれた身体能力、高い知性、強い生命力を持つ生物。同種間で殺し合いをすることもなく平和を愛する種族。長い歳月の間その形状をほとんど変える必要すらなく繁栄してきた種。絶対的な存在が、あまた創造した生き物の中でこれこそが最高傑作だったと自負する生物。すなわち、ゴキブリへと。

だが彼には落胆しているひまはなかった。
前世の記憶はすぐに消える。
すぐに下等な生物から逃げまどう暮らしがはじまった。

2017年7月15日土曜日

マーケティング込みで楽しむ小説/宿野かほる 『ルビンの壺が割れた』【読書感想】


内容紹介(Amazonより)
「突然のメッセージで驚かれたことと思います。失礼をお許しください」――。送信した相手は、かつての恋人。SNSの邂逅から始まる往復書簡が過去の空白を埋める……はずが、ジェットコースターのような驚愕の新展開に!? 覆面作家によるデビュー作にして空前絶後の問題作を、刊行前に期間限定で全文公開。

新潮社が、「発売前に全文公開」という思い切ったキャンペーンをやっていることで話題になりつつある『ルビンの壺が割れた』。
さっそく読んでみた。
短いし平易な文章だからさくっと読めるね。

2017年7月27日まで無料で読めるよ!。
詳細は公式サイトへ(→ リンク )。



しかしいいキャンペーンだね。
全文を無料公開&キャッチコピー募集ってのは話題になる。
そうでもしないと無名の作者の小説は売れないもんね。
無料で公開する損失よりも、その後に売上が増える分のほうがぜったいに大きいだろうな。

とはいえ何度も使える手じゃないね。
めずらしくなくなれば読まれないし、悪評のほうが多ければむしろマイナスになりかねないし。
よほどの自信があるんだろうね。

特設サイトにも「必ず騙される」とか「衝撃体験」とかの言葉が並んでいて、ハードル上げすぎじゃない? と心配になってしまうほど。
しかもタイトルが「ルビンの壺」というキーワードが入っている(「ルビンの壺」とは壺のようにも2人の人物の横顔のようにも見える有名なだまし絵)。

ルビンの壺

これをわざわざタイトルに用いるってことは「見方を変えたら別の真実が浮かびあがってくる話ですよ」って言ってるようなもんじゃない。
そこまでわかりやすいヒント与えてしまって大丈夫?



ということで感想。

うむ。おもしろかった。
無料だったことをさしひいても、読んで損はない小説だね。
ネタバレ禁止ということなのであまり詳しくは書けないけど、顔を合わさないメッセージでのやりとり、交互に入れ替わる語り手……ときたらミステリ小説ファンとしたら「ははあ、××がじつは××ってパターンね。よくある手だよね。まあでもミステリを数多く読まない人はこれで引っかかって『衝撃のラスト!』とか言っちゃうんだよねえ~」とにやにやしながら読んでたんだけど、ぼくの予想はまんまと外れた。

なるほど。こういう展開をたどる小説か。
ひっかけがないということに逆にひっかかってしまったというか、これ以上書くとネタバレになりそうだからやめとくけど、たしかに分類の難しい小説だ。ぼくも何百冊とミステリを読んだけど、類似する小説が思いうかばない。
うまく説明できないけど、特設サイトに書かれていた「奇妙な小説」という言葉もなるほどと納得させられた。

SNSという舞台装置もうまく活かしている。何十年も音信不通になっていた人と顔を合わさずにやりとりをすることなんて、SNS以外ではまず起こりえないもんね。
(しかしこういう人たちが実名が基本のFacebookをやるということには少し違和感。mixiだったらわかるんだけど、でも今mixiは誰でも知るツールじゃないからなあ)


『ルビンの壺が割れた』はSNSのメッセージだけで構成される小説だ。
書簡形式の小説というのはときどき見かけるけど、ぼくはどうも好きになれない。お互い知っているはずのことを「あのときは〇〇でしたよね」とわざわざ書くのが嘘くさいから。
『ルビンの壺が割れた』もそういう記述が散見されて、「なんでいちいち再確認するんだよ」とつっこまずにはいられない。書簡形式だと地の文で補えないからどうしても説明過多になっちゃうんだよねえ。

とはいえ、手紙だけで構成された小説(たとえば 湊かなえ『往復書簡』)に比べれば、SNSだとその嘘くささがだいぶ緩和されているように感じる。
ひとつには数十年の時を経ていること。数十年もの歳月がたっていれば「あのとき貴女は〇〇しましたね。ぼくは〇〇と言いましたね」と書くことの必然性は、ほんの少しは高まる。
もうひとつは、インターネット上では誰もが自分語りをしてしまうこと。聞かれてもいないのに自分の過去の体験を長々と綴ったりしてしまうのはインターネットの持つ魔力のひとつだよね。ぼくもその力に操られているし。

SNSという現代的な小道具をうまく使った小説。
だからSNS拡散を狙った新潮社のキャンペーンとも親和性が高いんだろうね。

ううむ、つくづくよくできた小説、そしてそれ以上によくできたキャンペーンだ。マーケティングの仕事をしている身として素直に感心する。
このキャンペーンが小説の魅力を倍増させているね。



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2017年7月14日金曜日

夢で見た物語のラストシーン


船は行ってしまった。
ぼくたちは途方に暮れた。これでは試験会場に行けない。
がっくりとうなだれたそのとき、プロペラ機が目に入った。

「そうだ、柴ちゃん飛行機の免許持ってるって言ってたよね!」

たしかに柴ちゃんは操縦免許を持っていることを自慢していた。英語で書かれたライセンスを「めちゃくちゃ難しいからな。マサだったら100回受験してもとれないだろうな」と見せてきたことがあった。

「ほら、柴ちゃんの出番だよ!」
「あー、でも最近乗ってないしな……。おれんちのセスナ機ももう歳だし……」

出た。ふだんは大きなことを言ってるくせに、いざというときには尻ごみする柴ちゃんの悪いところ。

「でも免許取ったんだろ」
「一応な……。でもアメリカで少し講習を受けただけだし、英語だから何言ってるかわからなかったし、お金出したら発行してくれただけで……」
「いいからとにかくやってみなよ、飛ばなかったら飛ばなかったときじゃない。やるだけやってみようよ。やらなかったら試験も受けられないんだよ!」

「いやいやいや」柴ちゃんは、飛行機に乗り込むどころか後ずさりをする。
「失敗したらあいつらに笑われるし」と言って、視線だけで後ろを見た。
1つ上の連中がにやにやしながらこちらを見ている。自分たちの試験が終わったものだから気楽なものだ。
「あんなやつら気にしなくていいよ。関係ないんだから」
「いやでも……」
「早く早く」
「ばかにされそうだし……」
「柴ちゃんは誰からもばかにされてるじゃないかー!」
怒鳴ってしまった。1つ上の連中の会話が止まった。自分でも驚いたが言葉が止まらない。
「柴ちゃんはほら吹きだし、みえっぱりでできないことばかりだし、そのくせ自慢ばかりするし。他人のことは見下してるし、つよいやつには卑屈だし。いつも口ばっかりで何かを最後までやったことなんてないじゃないか。これ以上どうやってばかにされるんだよ!」
勝手に言葉があふれてくる。止めようとしても止まらないので、言葉が出るにまかせることにした。「すごく言うじゃん」と、もうひとりの自分がどこかから見て他人事のように言う。
「免許取ったんだろ、ちょっとは勉強したんだろ。やってみろよ! やってから言えよ!」


そこから先のことは、少ししかおぼえていない。
ぼくはさけんだ後で「ごめん」と言いながらわんわん泣いていたこと。
柴ちゃんも泣いていたこと。泣きながら操縦桿を握ったこと。飛んだこと。
「すごいよ!さすがだ柴ちゃん!」と言うぼくに、いつもなら「あたりまえだろ。マサとはちがうんだ」と言う柴ちゃんが「たまたまだよ」と遠慮がちに笑ったこと。


結局試験会場には到着できなかった。
柴ちゃんは飛行機が落ちないように前を見るのがせいいっぱいだったし、地図はないし、地図があったとしてもどっちみち目的地には着けなかっただろう。
墜落せずに飛行機の胴体をこすりながら着陸できたことだけでも奇跡といっていいだろう。

ぼくらは試験に落ちた。
また来年だ、とどちらからともなく笑った。
それまでに操縦の練習もしとかなくちゃな、と柴ちゃんはまじめな顔をしてつぶやいた。

2017年7月13日木曜日

お行儀が悪い

保育園ですれちがった男の子に「おはよう」と声をかけると、彼は何も言わずにぷいっとそっぽを向いた。
まあよくあることだ。うちの娘もあいさつされても無視することが多いし。
ぼくは気にしなかったが、男の子の母親は気をつかってくれて、「こらっ。なんであいさつしないの。お行儀悪いよ!」と叱った。

はて。
あいさつを返さないのは、"お行儀が悪い" なんだろうか。
ぼくは首をひねった。

お行儀が悪いってのは、座る姿勢が悪いとか、ごはんの食べ方が汚いとか、もっと私的なことなんじゃなかろうか。
あいさつを返す返さないは、お行儀というよりマナーとかモラルとか世渡りとかそういう方面に属する話なのでは……?

"お行儀が悪い" は言葉のチョイスがふさわしくないような……。


……と思っていたのだが、いや、そうではないかもしれないと思いなおした。

幼児教育においては "お行儀が悪い" はきわめて効果的なフレーズではないだろうか。





ぼくは理屈っぽい人間なので、子どもに何かを指示するときにも「原因と結果」の話をよくする。

「道路に出るときは右と左をよく見てから行かないと車にひかれちゃうかもしれないよ」

「あとでトイレに行きたくなったら困るから今行っとこうか」

「早く寝ないと明日の朝しんどいからもう寝よっか」

と。

マナーを教えるときもそうだ。

「電車の中で大きな声を出したら他の人がうるさく感じるから静かにしようね」

「ごはんを食べてるときにトイレの話をしたら他の人が嫌な思いをするからやめよう」

とか。

しかし。
ぼくの説明、ビジネスの場ならこれでよくても、幼児にしたらすごくわかりにくいんじゃないだろうか?



「電車の中で大きな声を出したらうるさく感じる」とか「食事中に排泄物の話をしてほしくない」というのは、"他者の視点に立った話" だ。

これは社会経験を重ね、数多くの人の趣味嗜好性格思想行動パターンを把握した者にしかイメージできない。

野球をよく知らない人が「一死三塁で浅めのセンターフライが飛んだらランナーはタッチアップをするからバックホームがされるよね。だからピッチャーはキャッチャーのカバーに行かなくちゃいけないよね」って言われてもちんぷんかんぷんだろう。実践や観戦の経験を積まないと、フライが上がった後に三塁ランナーやセンターがどういう行動をとるかが想像できないからだ。

同様に、幼児には「電車の中で大きな声で話している人をうるさく感じた」経験もないし、「電車の中で大きな声で話されることを嫌う人もいる」ことも知らない。
だからぼくの説明が理解できない。


その点、「お行儀が悪いからだめ!」は明快だ。

だって "お行儀" に理由はいらないのだから。
(他人に迷惑をかけないことが "お行儀" の最大の目的だと思うが、それだけでは説明できない "お行儀" もある。「ご飯にお箸をぶっさす」とか「猫背で座る」とかは他人に迷惑をかけないけどお行儀が悪い)


社会には、法律や条例だけでなく、判例、慣例、マナー、阿吽の呼吸など守らなくてはならないルールがたくさんある。
そのひとつひとつに「なぜ守らなくてはならないのか」を理解してくれるのが理想ではあるけれど、幼児にそこまで期待するのは無茶というものだ。
「あいさつをされたら返さなくてはならないよ。無視したら敵意を持っていると思われて向こうも敵視してくる場合があるからね。そうでなくても感じの悪い人だと思われたらこちらに好意的なおこないをしてくれる機会をつぶすことになりかねないだろ?」というより、「おはようと言われたらおはようと言いなさい。それがお行儀だから」といったほうがずっとわかりやすいにちがいない。

そういう意味で、九九を丸暗記するように「これはお行儀だから」という言葉で叩きこむやりかたは、幼児教育においては要領のいいやりかただな、と思った。
いや、大人でもそっちのほうがいいのかもしれない。
ルールはルールだ、理由もへちまもないから守れいっ、と強引に押しつけてしまう。

戦場においては「爆発が起きたら衝撃や飛散物が爆心地を中心に同心円状に広がるからできるだけ地面に伏せて身を隠したほうが衝撃が少なくて済む」と教えるより、「爆発したらすぐ伏せろ!」とシンプルに伝えたほうがいい。理由なんか考えなくていい。
それと同じだ。
法律で規定しにくいことはすべてお行儀にしてしまう。

「70歳以上が車を運転するのはお行儀が悪い」

「社員に長時間労働をさせる会社はお行儀が悪い」

「飲み会に参加するように圧力をかけるのはお行儀が悪い」

反論は一切受け付けない。だってお行儀ってそういうものだもの。

2017年7月12日水曜日

寝食を忘れて遊べるおもちゃ


娘の4歳の誕生日に、自転車を買った。

それまでもストライダーというペダルのない自転車に乗っていたのだが、さんざん乗り回してタイヤがつるつるになってしまったので、今度はペダルのあるコマつき自転車を買うことにした。

2週間前に自転車屋に行き、娘に自転車を選ばせ、予約だけして「誕生日になったら買いにこようね」と伝えた。
それからずっと「いつ誕生日?」と訊いてきた。まだ正しい時間の概念を持っていないのだ。


そして誕生日。
新しい自転車を手に入れた娘は、狂喜乱舞していた。
ベルをちりんちりんと慣らし、カゴがあることがうれしくて意味なく葉っぱを入れ、乗ったらいつまでも走り回り、降りたら降りたでずっとペダルを回して遊んでいた。

日曜日。いつもは起こしても起きないくせに6時半に起きだして「おとうちゃん、自転車乗りにいこう!」と誘ってくる。
「朝ごはん食べたら行こっか」と言うと、「朝ごはんの前に自転車に乗る!」と言って聞かない。
じゃあちょっとだけね、ということで妻に「朝ごはんできたら電話して」と言うと、「おかあちゃん、朝ごはんつくるの遅くていいからね!」と言い残して娘は自転車にまたがった。


前日も一日中自転車に乗っていたのに、まだ飽きもせずに早朝から自転車で同じところをぐるぐる回っている(あぶないのでまだ公園の中しか走らせていない)。

その姿を見ながら、子どもってすごいなあとぼくは感心していた。

文字通り「寝食を忘れる」という状態だ。
寝る間も惜しんで、空腹も気にせず、ずっと自転車を乗り回している。
こんなふうに何かに熱中することは、ぼくの人生においてまちがいなくこの先ない。
5億円拾って自分の好きなものを買いあさったとしても、半日もすれば飽きてくるだろう。

睡眠時間を削って一日中遊べるものがあるなんて幸せなことだなあ。うらやましいかぎりだ。ぼくみたいなおっさんにはそんなおもちゃはもう手に入らないよ、と大きなあくびをしたのだけれど、ふと思いいたった。

これか。

日曜の朝にたたき起こされて、眠いし腹もへったといいながら子どもが遊ぶのにつきあっている時間。

これこそが、寝る間も惜しんで、空腹も気にせず、何かに打ちこんでいる時間か……。
意外と眠くてつらいものだ。



2017年7月11日火曜日

31歳が大学のサークルに入ってもよいものか



大学のとき、ジョギングサークルに入っていた。

フルマラソンの大会に出て3時間を切るぐらいで走る人もいれば、1年に数回走るだけの人もいたり、中には1年生のときは何度か走っていたけどもう5年以上も走ってません(つまり留年している)という人もいた。
大学の構内に部室があり、こたつがあったり漫画が置いてあったりするので、授業の空き時間に昼寝をしたり、夜遅くまで部室内で酒を酌みかわしたり(今はどうだか知らないけど当時は大学内は24時間出入り自由だった)、走る人も走らない人も仲良く楽しくやっていた。
ずっと入り浸っている人もいるし、いつの間にか来なくなる人もいる。来るものは拒まず、去るものは追わず、という雰囲気のサークルだった。


あるとき、31歳の男性が部室にやってきた。
「すみません、入口に新入会員募集って書いてあるんで来たんですけど……」
「はぁ……」
「ここって年齢制限とかあるんですか」
「いえ、そういうのはないと思います……」
「じゃあ入会させてください」
というようなやりとりがあって、彼はそのまま部室に居ついてしまった。
彼は、社会に出てから大学に入りなおしたのか、聴講生だったのかは忘れたが、とにかく31歳の学生だった。

はじめの数日は彼も走っていたようだったけど、やがて走らなくなり、部室で昼寝をしたり、酒盛りに参加したりするだけの存在になった。

ほどなくして、サークルのメンバーは彼を避けるようになった。

もともと10歳くらい離れているから共通の話題は少ないし、おまけに彼は自分の話を延々と語り、他人の話を否定してばかりいるタイプの人だった。
邪険にするのも悪いから話しかけられたら相手をするけど、すぐに嫌になる。

みんなが集まって楽しく話している → 彼がその場に入ってきて話に参加する → 1人去り2人去り、最後に残された優しい人(あるいは要領の悪い人)だけが話に付き合わされる

ということが日常的な風景だった。
彼が女子学生とばかり話していることも嫌われた原因だったと思う。
そこで自分が嫌われていることに気づける人だったら、はじめから31歳になって大学生のサークルに入ろうとは思わなかっただろう。

大学生のサークルに入ってきた31歳は明らかに異質だったが、彼自信はそういうところにまったく無頓着だった。自分はサークルに溶けこんでいると思っていたようで、それは飲み会の会費を徴収するときに「2年生以上はひとり3,000円ね」と言われたらぴたり3,000円を出すことからもうかがいしれた(さすがに1年生扱いしてもらえるとは思っていなかったらしい)。


サークルの雰囲気は悪くなり、彼がいるときはあからさまに部室の人口が減った。
「こんなことならはじめに『年齢制限あるんです』って言っとけばよかったな」とぼくらはため息をついた。

ある日、先輩会員(2浪していた上に大学院生だったので26歳ぐらいだった)が事情を聞き、彼との間に話し合いの場をもったらしい。
どんなやり取りがあったかは知らないけど、「他の会員が困っているから配慮してもらえないか」というようなことをわりと率直に伝えたのだと思う(遠回しに伝えて汲みとってくれる人ではなかったのでたぶんストレートに言ったのだろう)。
その日から彼は姿を見せなくなり、サークル内は元の平和を取り戻し、ぼくらは勇敢な先輩に感謝をした。



さて、彼の行為の何がまずかったのだろうか。

・ジョギングサークルなのに走らずに部室でくだを巻くだけだったこと。
これは彼にかぎった話ではない。ぼくもそういう会員だった。

・自分の話を延々と語り、他人の話を否定してばかりいるタイプだったこと。
これは決して良いことではないが、そういうタイプの人は彼の他にもいた。世の中にはそんな人は掃いて捨てるほどいる。嫌われる原因にはなるが、コミュニティを出ていってくれと言われるほどのことではない。

・31歳だったこと
これ自体がまずいわけではない。現にさっき登場した先輩は26歳だった。30歳をすぎてもときどき顔を出すOBもいた。その中にはあまり好かれていない先輩もいたが、後輩が「もう来ないでほしい」なんて言うことは当然ながらありえなかった。

つきつめて考えると、身もふたもない答えになるけど、「31歳になって大学のサークルに新規入会したこと」つまりは「空気を読めなかったこと」ということになる。
(「自分の話ばかりする」というのも空気が読めないことに起因していたのだろう)




彼は、何一つ規則をやぶってはいなかった。
「年齢制限はありません」と言われたから入会したわけだし、自分の話ばかりしてはいけないという規則もないし、「ひとり3,000円」と言われたから19歳と同じ3,000円を支払った。
どれも明文化されたルールに違反しているわけではない。

「暗黙の了解」を守らなかっただけ、いや理解していなかっただけだ。



空気が読めないメンバーをコミュニティから追放することは正しいことだったのだろうか。

倫理的に考えるなら、正しくないと思う。小学校だったら「〇〇くんと仲良くしてあげましょう」と先生から怒られるやつだ。
でも、小学1年生の輪の中に6年生が「ぼくも入れてー」と入ってきたらどうだろう。先生は「仲良くしましょう」と言うだろうか。


31歳になって大学生のサークルにずかずかと入り込んできた彼がいなくなったとき、ぼくは心底ほっとした。他の会員も同じ気持ちだっただろう。
彼が自分の話ばかりするタイプではなく、人並みにコミュニケーションをとれる人だったとしても、20歳そこらだったぼくらはやはり「31歳が入ってきた」ということでいくらかの居心地の悪さを感じただろう。

「空気を読め」と他人に強要することは、閉鎖的で傲慢な態度なのかもしれない。
しかし、やはり空気を読めない人とは一緒にやっていきたくないとも思う。


前いた会社で、「女性が多く活躍している職場です」というパートの求人を出したときに、応募の電話をかけてきた40代の男性がいた。
「今のところ女性のみが働いておりますのでやりづらいのではないかと思いますが……」と伝えると「私はそういうのを気にしませんので」と自信満々に言われた。
おまえが気にしなくても周りが気にするんだよ、と伝えるわけにもいかず「では次の選考に進んでいただく場合にのみこちらからまた連絡いたします」と言って電話を切った。
きっと彼はなぜ不採用になったのか気づくことなく、同じような求人に応募しているのだろう。

言外の意味を読み取れない人はたいへんだろうな、と思う。
しなくてもいい苦労をしつづけるんだろう。



しかし言外の意味を読み取ってばかりいても人との距離は近づかない。

ぼくが最後に「友達をつくった」のはもう何年前だろう。
仕事で会う人で、妙に馬があって「この人と遊んだらおもしろいかもしれないな」と思う人もいるけど、わざわざ誘うことはしない。
「うっとうしがられるかも」「余計な気を遣わせてしまうかも」と思うと足踏みしてしまい、まあそこまでして誘うほどでもないか、とあきらめてしまう。

この歳になって親しい友人をつくろうと思ったら、ときには空気を読まない大胆さも必要なのかもしれない。


そんな折、娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

大学生のサークルに入ってきたあの31歳男性だったら自然に「じゃあいつにします?」って言えたんだろうなあと思って少しうらやましくもあり、いややっぱりそうでもないな。


2017年7月7日金曜日

おっさん修行

保育園でときどき顔をあわす男の子(5歳くらい)に、
「おはようございます、おっさん!」
と云われた。

思わず「おっさんちゃうわ!」と言い返そうとしてしまったが、まてよぼくももう30代半ばだ。白髪も増えたし、水虫で通院中だし、どこからどう見てもおっさんだ。
ましてや5歳児から見たら、自分の7倍近くも生きている男など純度100%のおっさんでしかないだろう。
そんなおっさんが「おっさんちゃうわ!」と云うことは嘘偽りでしかなく、子どもの教育によろしくない。


なんと返したらいいんだろう。
ぱっと浮かんだのが「そやで、おっさんやで」という言葉だった。
悪くはないのだが、男の子はなんらかの反発があるものと期待して「おっさん!」という軽めの悪意を含んだ言葉を投げつけているのだから、それをあっさりいなしてしまうのは期待を無視するようで心苦しい。
それに、「おっさんですけど何か?」と居直っている感じがして、喧嘩腰であるかのように受け取られるのも本意ではない。

かといって「おっさんって言わんといてや!」というのも、本気で抵抗しているようで大人げない。

そうだ、軽口には軽口で返して「おはよう、おじいちゃん!」と言い返すのはどうだろう。
これなら、こちらが重く受け止めていないことも伝わるし、相手のユーモアをしっかりと受け止めて大人の余裕も見せた上で、冗談で返すことのできるおもしろいおっさんだと思ってもらえるんじゃないだろうか……。


ということを思案していたのが時間にして数秒。

「おっさん!」という言葉を投げつけられて数秒間硬直しているぼくを見て、深くショックを受けたと思われてしまったのだろう、男の子の隣にいたお母さんから「すみません、すみません」と平身低頭で謝られてしまった。
「あっ、いや……」と口ごもるぼくを後にして、男の子はお母さんに「そんなこと言わんの!」と怒られながら連れていかれてしまった。

後に残ったのは、「おっさんであることを受け入れられずに何も言い返せなかったおっさん」ただひとり。

まだまだおっさんとしての修行が足りん。

うまく返せなかったことを悔やむおっさん


2017年7月6日木曜日

オイスターソース炒めには気を付けろ/土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』【読書感想エッセイ】

土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』

内容紹介(e-honより)
食事はすべてのはじまり。大切なことは、一日一日、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる暮らしのリズムをつくること。その柱となるのが、一汁一菜という食事のスタイル。合理的な米の扱いと炊き方、具だくさんの味噌汁。

 テレビでもおなじみの料理研究家である土井義春さんのエッセイ、というか提言。

 ほとんどタイトルがすべてを言いあわわしている。
 一般に食事は一汁三菜がいいと言われているけど、土井さんは「ふだんからそんなにごちそうを食べる必要はない。具だくさんの一汁を作ればごはんのおかずになるし栄養もとれるし作る人の負担も少ない」と書いている。
 一汁三菜がだめと言ってるわけではなく「しんどい思いをして作ったり、レトルトや出来合いの総菜で無理に一汁三菜にするぐらいだったら一汁一菜でいいと思うよ」ぐらいのかる~い提案だ。

 この本には土井先生のつくった「一汁」の写真が載っているのだが、それがほんとにきれいじゃない。率直にいうと汚い。
 ぐちゃぐちゃの汁物で、トマト、ピーマン、きゅうり、ハム、小魚、でろでろの卵、その他よくわからない具材が混然一体となっている。料理研究家としてこの写真を載せるのは勇気が要っただろうなあ。

 しかしプロとして他人に指導する立場にある土井先生がこういう写真を載せることにこそ意味があるわけで、「プロですら家ではこんな適当なものを食べているんだから我々はまったく気張る必要がないんだ」と勇気を与えてくれる。

勇気をくれる、美しくない料理の写真



 ぼくが一人暮らしをしていたときは、一応自炊はしていたけど一汁一菜どころか、一汁だけまたは一菜だけだった。
 一人分のごはんをつくるのは難しい。いろんな食材を買っても腐らせてしまうし、たくさんつくっても食べきれない。少量のおかずを何種類もつくる、なんてよほどの料理好きじゃないとやってられない。
 それでも腹はふくらませなくちゃいけない。栄養をとらないといけない。
 肉や野菜を切って、全部まとめて調理するだけ。調理といったって「塩こしょうで炒める」「醤油で炒める」「味噌で煮る」「醤油で煮る」「カレーにする」の5種類ぐらいしか選択肢はなかった。
 炒め物のときはどんぶりによそったご飯に乗っける。食器が1つで済むので、洗い物が少なくて楽だった。

 料理とも呼べないようなものだったが、まあこれでも独身男にしてはやってるほうだろうと自分に言い訳をしていた。
 結婚してからも料理をしていたが成長はしなかった。一汁一菜になったぐらいで、味付けは例によって5種類のローテーションでやりくりしていた。
 すると子どもができたタイミングで妻から「あなたの料理はおいしくないわけじゃないけど味付けが適当だからわたしがやる」というせいいっぱい気を遣った戦力外通告をいただき、今ではほとんど料理をする機会がなくなった。

 それじゃあ洗い物ぐらいはとやっていたんだけど、ぼくは皿の裏に残った洗剤を気にしない性質なので「食器用洗剤なんか少々口に入れても大丈夫なものしか使ってないだろうし料理についたらむしろクリーミーさがプラスされるのでは?」なんてうそぶいていたら、やはり妻から「洗い物もしなくていいわ。どうせわたしがやることになるから」と部署移動を命じられ、今では資料整理室という名の追い出し部屋に放り込まれて日がな一日新聞の切り抜きをさせられる日々を送っている。


 話がそれたが、極力手間ひまのかからない料理を心がけているものとして、この土井先生の「一汁一菜でよい」という提案には大いに励みになった。

 さらに土井先生は「家で食べるごはんはそんなにおいしくなくてもいい」とも言う。

 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。

 そうそう。ぼくは味に無頓着なほうなので、よほど辛いとか真っ黒焦げとかでなければなんでもいいよ、と思う。
 高いお金を出して食べるレストランでの食事にはおいしさを求めるけど、家庭の味ってほどほどでいいよね。
 同じものをくりかえし食べるからこそ骨の髄まで染み込むわけで、「おふくろの味」となるんだろうね。



 家で「おいしい!」と言うことについては、ぼくには失敗談がある。

「料理をつくっている人からするとおいしいと言ってもらいたい」という話を聞いたので、妻がつくった料理で「おいしいな」と感じたときは率直に伝えるよう心がけた。
で、あるとき「これおいしいね!」と言い、その数日後にまた「これおいしいやん」と言い、また別の日に「このおかずおいしいね」と言うと、妻からこう言われた。

「あんたがおいしいって言うときってオイスターソースで味付けしたときだけやね。それ料理を褒めてるんじゃなくてオイスターソースを褒めてるだけやん」


 そうだったのだ。ぼくは何も考えずに「おいしい!」と発していたのだが、褒めていたのはすべてオイスターソース炒めだったのだ。

……という失敗を喫したことがあるので、「何も言わないことこそがおいしいということだ」という土井先生の言葉を妻に献上して、今後は余計なことは言わないように努めようと思う。



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2017年7月5日水曜日

なんとなく気になるけどなんとなく読んでみる気が起こらない作家/【読書感想】町田 康 『正直じゃいけん』

町田 康 『正直じゃいけん』

内容(「e-hon」より)
日本経済新聞に連載された「随筆ひとり漫才」、「週刊朝日」に連載された「アナーキー・イン・ザ・3K」を初めとする真理への希求と言葉への愛が炸裂する珠玉のエッセイ集、待望の文庫化。

とある書店で バースデー文庫 という企画をやっていた。1月1日生まれから12月31日生まれまで366人の物書きの本を並べ、「あなたとおなじ誕生日の作家の本を読んでみませんか?」という企画だ。
へえ、ぼくは誰と同じなんだろうと見てみたら、町田康といっしょだった。

町田康か。
ずっと気になっていた作家なんだよなあ。でも読んだことはない。
『告白』とか『パンク侍、斬られて候』とか書店で手に取ったことはあるけど、「うーん、クセが強そうな作家なのにぶあついなあ。もし性にあわなかったときにこれを完読するのはしんどいな……」と思って敬遠していたのだ。
本好きの人にとっては1人や2人はいるだろう、「なんとなく気になるけどなんとなく読んでみる気が起こらない作家」。書架から手にはとってパラパラとやることはあるけど、レジまで持っていくことはない作家。「ほかに読む本がどうしても見つからないときにでも読むことにしよう」と思って、そんな機会は決して訪れることがない作家。ぼくにとって町田康はそういう作家だった。

バースデー文庫で見たときも「んー、町田康かあ……。悪くないね……」なんて言いながらも結局は買わなかった。
でもずっと気になっていたので、後日に「まずはエッセイぐらいから……」と手に取ってみた。

 ぜんたい自分はなにをやっても人に後れをとることが多いが、自動車の運転をしている場合それは顕著で、絶えず割り込みその他にあっているのであるが、そういう車を数多、目撃するうちに、そうして無茶をする車、得手勝手な行動によって交通に問題を起こしている車がある特定の車種に集中していることに自分は気がついた。
(中略)
 というのは、十人十色、などというように、人は各々その性格が異なるはずなのに、なぜこの車に乗った途端、申し合わせたように、かくも凶悪・凶暴な運転をするようになるのであろうか? と自分は考えたのである。
 で、さんざんに首を捻った挙げ句、自分はエアコンじゃないか、という結論に到達した。すなわち、エアコンのフィルターに毒が塗ってあって、スイッチを入れると毒が発散、これを吸い込んだドライバーは、いかな温厚な人といえども、精神に異常をきたし、どらあ、どけえ、殺すぞ、という状態に陥る、といういわば仮説である。
『ビーエムの怪』より)

なるほど、町田康ってこういう文章を書くのか。
パンクロッカーだけあってパンクな文章をつづるね(パンクってどんなのかと聞かれても正確には答えられないけど)。
ブログやSNSを通して誰もが情報を発信できるようになって、こういう勢いにまかせて書いたような文章を書く人はめずらしくなくなった。たぶんそういう人たちのうち、かなりの人が町田康の文章に影響を受けたんだろうな。

町田康自身は野坂昭如や中島らもの影響を大きく受けたと書いていて、ああなるほど改行の少ない疾走感のある文章とか口語交じりの荒っぽい言葉づかいとか、随所に影響を感じることができる。
じつはきっちり計算して書いているんだろうなあ、という気がする。上に引用した文章でも、車種を伏せているのにタイトルでばらしちゃってるとことか。


はまる人にははまるんだろうなあ、という文章で、しかし「はまる人にははまる」≒「自分にははまらなかった」わけで、ぼくは「もうしばらく町田康は手に取らなくていいかな」という感想だった。
文章自体がおもしろすぎると、まとめて読んだときに疲れちゃうんだよねえ。
土屋賢二もそうだしぼくの中では村上春樹もその部類に入るんだけど、文章がおもしろいと内容が頭に入ってきにくい(というか内容はあんまりない気がする)。読んでいる間はおもしろいけど、読後にぜんぜん記憶に残っていない。
ブログ、SNS、週刊誌連載の1記事ぐらいだったらそれでいいんだけど、1冊の本としてまとめて読むとなかなかつらいものがある。初対面の人に出身地はどこですかとかご兄弟はいますかとかのあたりさわりのない話を1分するのは平気でも1時間は話していられないように。

『正直じゃいけん』も週刊誌連載をまとめた本らしいけど、媒体によって向き不向きがあるから、なんでもかんでも本にすればいいってもんじゃないなと思う。ファンにはうれしいだろうけどさ。



町田康氏は細かいことをああだこうだとうだうだ考えていて、共感できるところもなかなかに多い。

 もっとも分かりやすいのは「思ってる/考えてる」という文言でこれを言う人はけっこうやばいので注意が必要である。
 あなたにこうこうこういった内容の仕事を依頼したい「と思っています/と考えています」なんて文書が送られてくる。いくらあなたがあなたのなかで思っていると言ったところで世間は、「ああ、そう」と言って終わりで、一生思っていろ、と言いたくなるがしょうがない検討をしたところ、そういう人に限って具体的日程等の諸条件があわぬ場合が多く、その旨を伝えてお断りを申しあげると今度は、お引受けいただかないと、「困ります」と言って電話をかけてくる。
 困るのはあなたであって私はちっとも困らないので、困る、と言われても困る、あ? やはり俺も困るのか? などと思いつつも諸条件があわぬものは仕方ないので、やはり諸条件不可能である旨を伝えると、再度、連絡があり、ということは諸条件の見直しをおこのうてくれたのか、と思うとそうではなくして、いかに自分がこの仕事を依頼したいと「思って」いるか、について縷々述べるばかりで条件の見直しはいっさい行なわれていない。
『あなたとわたし/なかよくあそびましょ』より)

ぼくもこういう言葉遣いはすごく気になるほうなので、よくわかる。
ぼくが嫌いなのは「お願いしてもよろしいでしょうか」という言い回し。いや願うのはあなたの個人的かつ内面的な行為だからこちらが妨げる類のものではありませんよ、と思う。
思想の自由が保証されているんですからどうぞ好きなだけお願いしてください。その上でちゃんとお断りしますから!



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2017年7月4日火曜日

小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

バク チョルヒー
『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

内容(「e-hon」より)
1988年のリクルート事件以来、日本の政界は「政治改革」という旋風に巻き込まれた。しかし政治改革は、いつのまにか選挙制度改革と同一視され、中選挙区制は小選挙区・比例代表並立制に変わった。当初は、政策を争う二大政党への移行が理想とされた小選挙区制だったが、いったい、この制度は政治市場で、実際にはどのように機能しているのか。代議士たちはどのように公認され、どのような選挙活動を行なっているのか。小選挙区における新人代議士誕生までの過程を、都市部の選挙区で克明に追ってみた。

最近、ふと「国政選挙において小選挙区制って悪いことだらけじゃない?」と思った。
で、いろいろ調べてみればみるほどデメリットが大きすぎる。

小選挙区制(しょうせんきょくせい)とは、1選挙区に付き1名を選出する選挙制度である。(Wikipedia より)

小選挙区のデメリットを考えてみたのだけれど、政治にまったく詳しくないぼくでも以下の問題点を挙げられる。


1票の格差が大きい

国政選挙のたびに問題になってるやつだね。
中選挙区制のほうが格差を調整しやすそうだし(定員5→4にするほうが2つの小選挙区をくっつけて1つにするより抵抗少ないでしょ)、大選挙区制なら格差はなくなる。

死票が多くなる

たとえば小選挙区に4人の立候補者(A,B,C,D)がいるとする。
Aが40%、Bが30%、Cが20%、Dが10%の得票だったとすると、B,C,Dは落選。あわせて60%の票は死票となる。

得票数と議席数の乖離が大きい(=民意が反映されにくくなる)

仮に全選挙区で40%の票をとるA党と全選挙区で30%の票をとるB党があったとすると、B党は小選挙区での獲得議席はゼロになる。国民の30%に支持されていても(小選挙区での)議席ゼロ。
また、得票数が多い政党が議席数では負けるということも起こりやすい(得票数では勝ったクリントン氏がトランプ氏に敗れたアメリカ大統領選のように)。

一党独裁につながりやすい

ひとつ前の理由ともつながるけど……。
すべての小選挙区で50%の票を獲得できる政党があれば、その政党が小選挙区選挙においては100%の議席を占めることになる。
有権者の50%からしか支持されていないにもかかわらず国会内に敵がまったくいない状況になるわけで、政権の暴走につながりやすい。

投票率が下がる

小選挙区制だと、事前の調査で「有権者の20%にしか支持されていない候補者」はまず当選の見込みがなくなる。結果、応援している人でも投票に行ってもしかたがないということになる。
数人が当選する中選挙区制であれば、10%でも勝ち目があるから、投票に行く動機になる。

大政党の後押しのない候補者はまず勝てない

20%の票をとれば余裕で勝てる中選挙区制度と異なり、小選挙区制では少なくとも40%はとらないとまず勝てない。
結局、三バン(地盤、看板、カバン)がない候補者は勝てない。結果、著名人や二世議員ばかりになる。

大政党の政策が似たり寄ったりになる

半数近くの票を集めないといけない小選挙区では、広い層に支持されないと勝てない。結果、どこもほぼ同じ政策を掲げることになる。

選挙がネガティブキャンペーンの張りあいにつながる

小選挙区で2人が競っている場合には、相手候補者の1票を削ることはそのまま自分が1票獲得するのと同じだから(それどころか相手に入れるはずだった票を自分に入れてくれれば実質2票獲得するのと同じことになる)、相手の失策をいかにつつくかという選挙活動につながりやすい。


まあデメリットというのはメリットと表裏一体なので、「民意が正しく反映されない」ということも、少数意見を抹殺したい人間からするとメリットでしかないんだけどさ。
一党独裁だってスピーディーに物事を決められていいから、その党が良識ある行動をとっているかぎりにおいては長所と言えるし。
ネガティブキャンペーンも必ずしも悪いことばかりではなく、正当な批判はどんどんされたらいい。

とはいえ、現政権の暴走なんかを見ていると、メリットをはるかに上回るデメリットがあるように思えてならない。

それを防ぐために比例代表制と並列になっているわけだけど、比例は比例でデメリットがあるし(無所属の人に不利とか、誰からも票を入れてもらえないゴミみたいな候補者でも名簿にさえ載っていれば当選する可能性があるとか、芸能人を使って票を集めようとする政党が現れるとか)、「もっといい選挙制度があるんじゃないの?」というのがぼくの抱えている疑問。



前置きが長くなったけど、小選挙区比例代表並立制に疑問を持ったので『代議士のつくられ方』を読んでみた。

この本は2000年刊行。
小選挙区比例代表並立制が導入されてからはじめての衆議院選挙となった1996年の第41回衆議院議員総選挙を舞台に、当時新人だった平沢勝栄氏(自民党)の選挙活動を細かく描いている。
この選挙戦の様子が物語としても十分おもしろい。戦記を読んでいるかのよう。
各家庭がどの政党を支持しているかを調べるためにゴミまで調べるとか、創価学会(公明党)と幸福の科学(幸福実現党)ばかりが有名だけどそれ以外にも非常に多くの宗教団体が選挙に協力していることとか、「選挙ってここまでやるのか……」と感心する(というか呆れる)ようなことも。

この本の中でも、小選挙区制の問題点がいくつも指摘されている。

 中選挙区制では、同じ選挙区から議員が複数選ばれるので、新人が同じ政党の現職に挑戦することも珍しくはなかった。新人は公認を得るため自民党の派閥の領袖に頼ったり、公認をもらえなくても無所属として立候補して、当選後、自民党に入党する道を選べた。
 しかし新選挙区制度は、いわゆる「自己公認」の余地をなくした。一人しか公認できないから同じ党から出られないし、選挙法の改正で無所属からの立候補も不利になった。その上、無所属として当選しても、自民党入りは困難である。それは、もとからの自民党公認候補を追い出すことになるからだ。

 小選挙区制の導入によるさまざまな変化は、立候補者の決断にも、大きな影響を与えた。政治参入者から見ると、小選挙区制はハードルが高い厳しい制度である。当選の確率が低くなって、立候補の決断がなかなか難しいものになった。その上、選挙区の規模が小さくなったことによって、地元とのコネがない候補者には不利というローカルバイアスを生んだのである。
 以上の変化を背景として、候補者はだいたい三つの出身母体から出てくる。一番多いのは地方議員である。百七人の自民党新人候補者のうち、四十五人が地方議員経験者である。当選した全新人のうち、三六.五%の四十二人が地方議員出身者であった。自民党にしぼると、その割合は四六.九%にのぼる。
 次は二世議員である。百六十一人の二世議員が立候補して、百二十二人が当選した。自民党だけでも、四二.三%の百一人が二世議員だと言われる。それに続くのが、自民党議員の二二%を占める官僚出身者である。

要は、国会議員になるためのハードルが高くなったってことね。
現職議員にしたら喜ばしいことだろうけど、志や能力ではなくコネクションで当選するかどうかが決まってしまうってのは決していいことじゃないよね。


ううむ、知れば知るほど「小選挙区は大政党や現職には有利だけど国家にとってはデメリットばかり」な制度に思えてきたな……。

中でもいちばんの問題はこれ。

 安保も外交政策も、各政党にとって、重要な問題のはずであった。しかし、平沢を含む何人もの候補は「そんなものは票にならないよ」と一蹴した。
 その代わり候補者は、有識者の誰もが受け入れやすい政策を語り、受け入れやすい表現を使った。誰でも同意できる問題に対しては、それがあたかも自分が発案したかのように述べ、意見が分かれるような問題については、ごく皮相な見解だけを表明した。候補者百二十五人を対象にしたある調査で、八十八人の候補者が、政策はキャンペーンの中心ではない、と告白した。その理由として、彼らの半数は、「候補者がみんな安全で論争の余地のないことばかりを言っているから、誰の主張も似通っている。どの候補者も有権者から反発されることを言いたくないからだ」と言った。
 その結果、候補者は、有権者の間に政策論争によって波風を立たせず、いかに信頼感を醸成するか、ということに選挙戦略を移していった。政策についての立場の説明より、その政策を実行する能力があるのかどうか、あるいは、それを訴えるスタイルやイメージの方がより重視されたのである。

過半数近い票を集めないと当選しない小選挙区制で有効な戦略は「反対する人がほとんどいないことだけを主張」になる。
それはつまり「もっと子育てのしやすい国に!」とか「経済を安定させて失業率を下げます!」とか「安心して暮らせる町づくり」とかの、耳ざわりはいいけど「できるならとっくにみんなやっとるわ」という空虚なスローガンを並べるだけになってしまうということ。
「増税すべきか」「改憲は必要か」「米軍基地をどうするか」「原発はなくすべきか」みたいな真に必要な議論は、それが有権者を賛成と反対に二分する性質のものであるがゆえに大政党には避けられる。

その結果、大政党の唱える政策は似たり寄ったりになる。
少し前に自民→民主→自民と二度の政権交代があったけど、それぞれを支持していた人たちに「自民党と民主党の政策って何が違うんですか?」と聞いても、ほとんどは答えられなかったんじゃないかな。

さらに小選挙区制だと大政党に属しているほうが圧倒的に有利だから、いろんな候補者が大政党に集まってくる。その結果、自民党内が極右から中道左派までいろんな思想の持ち主の寄せ集めになって、ますます有権者には政党ごとの政策の違いがわからなくなる。

政策に違いがないから、選挙はイメージだけで戦うことになる。
それを肌で理解してうまく利用したのが小泉純一郎であり、民主党(現・民進党)はイメージだけで政権をとってイメージが悪化して没落した。
選挙では具体的な政策に言及することを避け、無難なことだけ言って自分のイメージを守りつつ、対立候補のイメージをいかに下げるかが重要になる。なんともつまらない選挙だ。

さらに大きな問題は、「改憲します!」とか「共謀罪つくります!」とか「増税します!」とかの本来なら選挙で国民に信を問うべき重要な問題が、選挙が終わってから議題に上がるってこと。
有権者からすると不意打ちで出されるわけだから「そんなこと選挙のときに聞いてませんけど。そうと知っていたら票を入れなかったのに」となり、ますます政治不信が強くなる。

小選挙区制を導入したときはこんなことになるなんてほとんどの人が予想していなかっただろうなあ。

選挙にカネがかかるのを解消するための小選挙区制導入だったわけだけど、結局カネがかかることには変わりはないし、汚職は別の法律で抑止すればいいわけだし、つくづく小選挙区制って害悪だらけに思える。
(派閥政治ってかつては害悪とされていたけど、今の状況を見ると民主主義的でいいやり方だったんだなあと思う)


これだけ情報化が進んでるんだから、もっと大きい選挙区単位で政治をやったほうがいいんじゃないのかなあ。
そもそも国政選挙なのに地元を代表するってのがおかしな話だし。

ま、小選挙区制はいつの時代も与党に有利にはたらくわけだから、改革される可能性は低いだろうけどね。


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2017年7月2日日曜日

男の子の成長を見ること


3歳の娘が通う保育園の参観日。

参観日は楽しい。
自分の子どもを見るよりも、他の子の成長が見ていて楽しい。

朝は娘を保育園まで送り届けているので、同じ時間帯に登園してくる子たちとは頻繁に顔を合わせている。
また、休みの日によく公園で会う子もいる。
でも一部の子はまったく会わない。
運動会とか発表会でしか見ないので、久々に見ると「おお。あの子がこんなに大きくなったのか」と感慨深いものがある。
我が子は毎日見ているので、特に成長を実感することもないのだけれど、よその子を見て「子供の成長って早いなあ」としみじみ思いを馳せることになる。


だから参観日では自分の子より他の子ばかりに目がいってしまう。
で、3~4歳クラスの子を見ていて思ったんだけど、ほんと男の子って手がかかるなあ。

いろんな子がいて、先生の話を聞かない子、急にふらっと教室を出ていこうとする子、参観に来ているお母さんにしがみついて離れない子、呼ばれてもわざと無視する子、さっきまで元気に遊んでいたのに突然スイッチが切れたように周囲の呼びかけに答えなくなる子。それがことごとく男の子なのだ。
女の子にも多少の差はあるけれど、極端に枠からはみだした子というのはいなかった。
たぶんそのクラスの話だけではないと思う。

でも先生の話を聞いていると、そんな男の子たちも、ふだんはそれなりに先生の言うことを聞いて生活しているらしい。
参観日の日はいつもより手のかかる子になっていたようだ。

ここからはぼくの推察なんだけど。
どの子も参観日だから緊張していた。
でもそこからの対応に性差があって、女の子は保護者が見にきているからふだんよりいい子にふるまう、男の子は親の前でいい子にするのがなんとなく恥ずかしくていつもより問題を起こす、ってな感じなんじゃないだろうか。
晴れの舞台ではええかっこするのが女の子、いらんことするのが男の子。


うちの子は女の子で、もちろん駄々をこねたりわがままを言ったりたいへんなときもあるけど、同じクラスの男の子を見ていると「あそこはもっとたいへんだろうなあ」と思う。

一姫二太郎とはよくいったもので、特に一人目の子どもに関しては男の子のほうが女の子よりもはるかに育てるのがたいへんだと思う。



ところで他の子どもを久々に見ると成長を感じられるように、他の子のお父さんお母さんを見るのも、成長を感じられて楽しい。
たとえばある男の子のお母さん。
男の子は活発な子で、制止も聞かずに走り回ったり、他の子に意味もなく「あほー」と言ったりする、まあいわゆる悪ガキだ。
その子のお母さんはまた繊細そうな人で、子どもがいたずらをするたびに逐一「そんなこと言わないの!」とたしなめ、周囲には「すみませんすみません」と謝ってばかりいた。
ぼくは「しょせん幼児のいたずらなんだからそんなに卑屈にならなくていいのに」と思っていた。
話を聞くと、そのお母さんは男兄弟がいないので「男の子の生態」を間近で見たことがなかったらしい。
「うちの子、いつもこうなんですよ。ずっと注意してるんですけどね。ほんとなんでうちの子だけこんなに私や先生の言うこと聞かないんでしょうねえ……」
と深刻そうな顔をしているお母さんに、ぼくは気休めではなく本心から
「まあ男の子ってそんなもんでしょ。ぼくも人の話なんかまったく聞いてませんでしたし。今もそうですけど」
と答えた。


そんなお母さんが、久々に会ったらずいぶんタフになっていた。
男の子が悪さをしても、低い声で「あかん!」と一喝したり、無視して目をそらしたりしていて、ちょっとぐらいのいたずらでは動じないお母さんになっていた。
たいへん喜ばしいことだ。

元男の子のぼくは、自分がそれほど道を踏み外さずに大人になれたのは単に運が良かったからに尽きると思っている。一歩まちがえば死ぬかもしれないこと、ばれたら警察にお世話になるであろうことをいくつもやっていた。たぶんほとんどの男の子がそうであるように。
男の子が死ぬかどうか、警察のお世話になるかどうかは運の問題でしかない。
だから、男の子の母親なんて図太くないとやっていけない。

こういう所にはのぼらずにはいられないのが男の子の習性


近所に、7歳の長男を筆頭に、男の子3人を育てているお母さんがいる。
もう「ザ・肝っ玉かあさん」という感じの人だ。
息子がこけても泣いても血を流しても「はっはっは。ケガしてもうたなあ。よう洗っときやー」と大らかに笑っている。
一方、息子が他の女の子を泣かせたときには鬼の形相で叱りとばしている。
理想的な「男の子の母親」だと思う。
このお母さんの元でなら、きっと3人の息子たちもすくすく育つことだろう。運が良ければ