2018年4月29日日曜日

あえて今ラブレター


知り合いの二十代の女性。美人でとてもモテる子だ。「最近のモテエピソード聞かせてよ」と云うと、知らない人からラブレターをもらったと教えてくれた。

「今どきラブレター? しかも二十代になって?」

 「そう、びっくりしちゃった」


通勤途中によく顔をあわせる同い年ぐらいの男性から、いきなり手紙を渡されたのだという。
読むと、いつも顔をあわせているうちに好きになってしまった、一度もしゃべったことがないのにこんな手紙を渡されて気持ち悪いと思われるかもしれないがどうしても伝えたかったので手紙を書いた、いきなり付き合ってくれとは言わないがもしよかったら会って話す機会でももらえないだろうか、という内容だったそうだ。


すごくまじめな手紙だ。手紙を書いた男性の、礼儀正しさ、誠実さ、女慣れしていないところ、そして勇気が十分に伝わってくる。
男のぼくでさえも「なんてかっこいいんだ」と思う。顔も知らない男性だけど応援したい。

「すごくいい人じゃない」

 「そうなんですよ。顔はぜんぜんタイプじゃなかったけど、その手紙で好感度はめちゃくちゃ上がりましたね」

「じゃあオッケーした?」

 「いやでも彼氏いるから。だから気持ちはすごくうれしいけどつきあってる人いるんでごめんなさい、って返事しました」

「そっかー……。残念だなー……。めちゃくちゃ勇気ふりしぼったと思うのにな……。うーん、彼氏いるならしょうがないか……、でもやっぱり諦められないなあ……。なんとかならない……?」

 「なんで犬犬さんがフラれたみたいにショック受けてるんですか」


ラブレターなんて今どきは中学生でも書かないかもしれないけど、だからこそ効果は絶大だ。気になる相手がいる社会人は、ぜひ使ってほしい。

関係のないおっさんですら胸がときめくんですもの。


ツイートまとめ 2018年3月


健康の秘訣

悪気

裕福

ひげ

デザイン

ファミコン

IQ

電動工具

疑獄

対義語

NEW

大回転

夕陽

ちゃっちゃと

ソツ無し

本当は教えたくない

秋の味覚

公務員

根

本人確認

三重苦

非花粉症

想像力

困惑願望

内閣総理大臣賞


2018年4月27日金曜日

だだーん


ブログに好き勝手なことを書いているようでも、書きたいことをなんでも書いているわけではない。
共感してもらいたい、炎上してほしくない。
そういう思いが遠慮を生む。

「××たちは他人に迷惑をかけずに早く死ね」
「〇〇って知性のかけらもないよね」
心の中で思うことはあっても書くのを控えてしまう。

たとえ名前や顔を出していなくても自重してしまうのはぼくだけではなさそうだ。
匿名掲示板ですら身勝手な主張というのは存外少ない。
一見乱暴に見える主張であっても書いた人なりに支持を求めようとしている。差別的な発言、暴力的な発言も、それなりの論拠を示されている(その論拠に正当性があるかどうかはべつにして)。
「ジジイやババアに金を遣うのは税金の無駄遣いだから病院にかからずに死ね」と書く人はいても「ジジイやババアは嫌いだから死ね」という主張はめったになされない。
もっともらしい大義名分が付けくわえられる。年金がどうだとか医療費負担がどうだとか安楽死の権利がどうだとか。


もっと自由でいいじゃないか、と思う。
ジジイやババアを殺したらいかんけど、死ねと思うのは自由だ。書くことだって禁止されていない。

身勝手で、感情的で、正義をふりかざしていない文章がぼくは読みたい。
そういう文章が読めるのがインターネットの魅力だ。

とは思うのだがいざキーボードに指を乗せてみると、倫理観やら虚栄心やらがじゃまをして、こざかしい理屈をふりかざした文章を書いてしまう(この文章がまさにそうだ)。

だだーんと「あいつ嫌い。嫌いなものは嫌い」みたいな文章を書いてみてえな。



2018年4月26日木曜日

回転寿司屋でお見合い


どうも、はじめまして……じゃないですね。すみません、ふたりっきりになったので緊張してしまって。
はい、じゃあ改めてよろしくお願いします。

何飲みますか? 熱いお茶でいいですかね。
あっ、すみません、やってもらっちゃって。
じゃあぼくムラサキ入れますね。醤油のこと、ムラサキって言うんですよ、寿司業界では。通でしょ。

キョウコさん、趣味は何ですか?
すみません、ありきたりな質問しちゃって。
あっ、どんどん取っちゃってくださいね。一回見逃したらなかなか戻ってきませんから。
いやいや、いいですってば。早く取って。
へえ、はじめに軍艦巻きからいくタイプなんですね。ちょっと意外ですね。タマゴとかアナゴから入るタイプかと思ってました。あっ、やらしい意味じゃないですよ。ははっ。

ぼくですか? ぼくは休みの日はだいたい……。
あっ、あぶりチーズサーモン来た! 取って取って!
すみません、ぼくあぶりチーズサーモン大好きなんです。通でしょ。
キョウコさんもですか? じゃあもう一皿とりましょっか。

何の話でしたっけ。まあいっか。お仕事は何されてるんでしたっけ。
あっ、ちょっと待ってくださいね……。大トロとかいっちゃっていいですか。あーどうしよっかなー、いやでもなー、あー行っちゃった。まいっか、もう一周したときにまだあれば取ろうっと。

ぼくの仕事ですか?
昼間はふつうにシステムエンジニアやってます。夜は……。あっ、エンガワだ。ぼくエンガワ大好きなんです。いっぺんに三皿とってもいいですかね。

え? もう帰るんですか? まだぜんぜん食べてないんじゃないですか?
そうですか、じゃあぼくはもうちょっと食べてから行きます。それじゃ。


……わりとタイプだったな。結婚相談所で紹介された中では今まででいちばん手応えあったな……。

どうしよっかな、また回転寿司デートしましょうって連絡取ろうかな……。
まいっか、紹介がもう一周したときにまだいれば取ろうっと。

2018年4月25日水曜日

労働時間と給料は反比例する


今までに四つの会社で働いたことがあるが、その中で得られた法則は
「労働時間と給料は反比例する」
だ。
休日が少なく残業時間が多い会社ほど、給料も安い。


以前は逆だと思っていた。
つらい仕事はその分給料もいい、と。
アルバイトは、大変さと給料がだいたい比例する。
時給制だから労働時間が長いほど給料の額が増えるのは当然だし、肉体労働のようにきついバイトは時給も高い。
ところが正社員はその反対だ。

儲かる仕組みが作れない会社は人件費を削って利益を出すしかない。だから長時間労働があたりまえになるし、高い給料も出せない。だから人が辞める。残った人の負担は増える。もともと余裕がないのだから人が辞めたって残った人の給料は上がらない。かくしてさらに長時間労働・低賃金になる。

儲かっている会社は人が足りない。だから金を出して人を集めるし、集まった人に辞められないために金を出す。


ぼくはかつて長時間労働・低賃金のどブラックな環境で働いていたが、二回の転職の結果、今では当時の約半分の労働時間で、給料は倍以上になっている。時間あたりの所得でいうと四倍ということになる。といっても額面はワーキングプアだったのが同世代の平均程度になった、という程度だけど。
ぼく自身が年齢や経験を重ねたということもあるが、それを考えてもはじめの職場にいたら給料が四倍になることはぜったいにありえなかったわけで、抜けだしてよかったと心から思う(というかその会社はもう潰れた)。
生産性の低い会社でがんばっても大したスキルは身につかない。ブラック企業の五年よりホワイト企業の一年のほうがよほど成長できる。


あと労働時間が減るとストレスが減って睡眠時間が増えるから、衝動的な外食とか体調を壊しての医療費とかユンケル代とか無駄な出費も減った。
知識の吸収にあてる時間的余裕もできるし、そうなれば仕事も好転する。
きつい仕事をしててもなーんのいいこともない。唯一あるとすれば、少々きついことがあっても「当時に比べればヨユー」と思えることぐらいだ。


石川啄木に「働けど働けど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」という有名な歌がある。
石川啄木自身はクズ野郎なのでこの歌には共感しないが、一抹の真実も含まれている。ただ、正確に言うならば「働けど働けど」ではなく「働くから働くから」だ。
働きすぎるから楽にならないのだ。


ぼくが若い人に言いたいのは、

給料安い会社でがんばったって、いいことないぞ。

ろくな給料払えない会社が利益を出せるようになることなんかないぞ。

もしも奇跡が起こって利益を出せるようになったとしても、安い給料で雇ってきた会社が利益を従業員に回すようになることなんか百パーセントないぞ!


2018年4月24日火曜日

昨日買った本はもう読んだの?


中学生のときのこと。
近所の本屋で文庫本を買った。商店街の中にある、店主のおっちゃんがひとりで店番をしている小さな本屋だ。

その日のうちに本を読み終わった。
翌日また本屋に行って、同じ作家のべつの本をレジに持っていった。
店主のおっちゃんはぼくの顔を見て言った。
「昨日買った本はもう読んだの? 早いね。この作家の本好きなの?」

「はぁ、まぁ」とあいまいに返事をしながら、内心では「やめてくれ」と思っていた。

この中学生が昨日どんな本を買ったか。店主に記憶されているのがたまらなく恥ずかしかった。
エロ本を買ったわけじゃない。ごくごくふつうの小説だ。決して恥じるような行為ではない。
おっちゃんも褒めるつもりで言ったのだろう。本屋として、中学生が毎日本を買いにきてくれることがうれしかったにちがいない。

だけど本を買う、本を読むというのはぼくにとってすごくプライベートな行為だ。
それを他人には把握されたくなかった。
トイレの前で「一時間前にもトイレに行ったのにまた行くの?」と言われるぐらい恥ずかしかった。
それからしばらく、その本屋からは足が遠のいた。

ぼくがAmazonで本を買うのが好きなのは、便利なだけでなく「店員に覚えられなくて済む」ということもあるんだよね。


2018年4月23日月曜日

【読書感想】瀧波 ユカリ『ありがとうって言えたなら』


『ありがとうって言えたなら』

瀧波 ユカリ

内容(文芸春秋BOOKSより)
決して仲のいい母娘じゃなかった。
だからこそ、今、お母さんに伝えたいことがある――。

余命宣告、実家の処分、お墓や遺影のこと、最後の旅行、そして緩和ケア病棟へ。
「母の死」を真正面から描いた、涙なしでは読めないコミックエッセイ。

『臨死!! 江古田ちゃん』で知られる瀧波ユカリさんのコミックエッセイ。「すい臓がんで余命一年」を宣告された母親の闘病と看取りを描いている。

紹介文にある「涙なしでは読めない」は真っ赤な嘘。でも嘘で良かった。べつにお涙ちょうだいのお話を読みたいわけじゃなかったので。

もうさあ、「人の死? じゃあ"感動"で"号泣必至"で"心あたたまる"だな!」みたいな超頭の悪い条件反射キャッチコピーのつけかたはやめましょうよ。涙を誘うことだけが本の価値だと思ってんじゃねえよバカ。この本まともに読んだのかよ、極力感情を抑えた描き方してんじゃねえかよ、そこが魅力なのに真逆の方向性のコピーつけてんじゃねえよ。

……と編集者への悪態はこれぐらいにしておくけど、漫画は良かった。感動的じゃないところが良かった。自分の親の死を感動のタネにしようとするやつなんて信用ならんからね。



この本でいちばん印象に残ったのは、古い服は捨てていいかと訊かれたお母さんが
「でも捨てろ捨てろと言われると悲しくなるわ。
 あんたにはわからないかもしれないけどね…」
とつぶやくシーン。
この気持ち、なんとなくわかる。
もう着ない服。合理的に考えたら捨てない理由はない。でも、生きているうちに自分のものを整理されるのは悲しい。

この発言をしたときのお母さんは、「あなたはもうすぐ死ぬ人なんだから」とまだまだ生きる人から線を引かれたように感じたんじゃないかな。
ぼくも自分の余命があとわずかになったとしても、身辺整理をしてすっと旅立つ、なんてできないと思う。きっと歯ブラシのストックを買いこんだり、寿命のある間に読みきれないほどの本を買ったりして、せいいっぱい現世を散らかしてから死んでゆくような気がしている。



この漫画で描かれているお母さんは、傍から見ているとあまり「いいお母さん」ではない。
攻撃的だし、過剰に自信家だし、素直じゃないし。個人的には付きあいたくないタイプだ。瀧波ユカリさんもたぶん同じように思ってる。母親だからつきあってるけど、そうじゃなかったら距離を置いている。きっと。
幼少期のことはこの漫画にはほとんど描かれていないけど、それでも母親との接し方にずっと困ってきた様子がひしひしと伝わってくる。
このお母さんはひょっとしたら"毒親"に近いかもしれない。それでも瀧波ユカリさんは付きあっている。母親だから。

特に、瀧波ユカリさんのお姉さんへの接し方はひどい(ちなみにこのお姉さんは江古田ちゃんの"おねいちゃん"そのまんまの姿)。いちばん近くにいるから、というのがあるにしても「世話をしてもらっている相手をそこまで悪く言えるのか……」と、げんなりしてしまう。
お姉さんが看護師で、そういう人の相手に慣れているように見えるのが救いだけれど。



ぼくの祖母のことを書く。
祖父が亡くなり、ひとり暮らしになった祖母はまもなく認知症を発症し、身のまわりのことがまったくできなくなった。
長男が引き取って一緒に暮らすことになったのだが、祖母は娘(ぼくの母)に対して息子夫婦の愚痴ばかりこぼしていた。

介護をしてくれている長男夫婦については愚痴ばかりで、遠く離れて暮らしている娘のことは褒めちぎっていた。「あんたは優しいけど息子はちっとも優しくない、私に意地悪ばかりする」孫のぼくにすら言っていた。
認知症の人に言ってもしょうがないと思ったのでぼくも黙っていたけど、すごく不愉快だった。
家に引き取って世話をしている長男や、血のつながりもないのに介護をしてくれている長男の嫁がいちばんがんばっている。
そんなことは誰が見ても明らかだ。それなのに祖母は被害妄想に襲われて長男夫婦の悪態ばかり。

認知症を患うまでは祖母は誰に対しても優しい人だった。
いつもにこにこしていて、絵に描いたような「いいおばあちゃん」だった。そんな人が長男夫婦の悪口ばかり言うようになったので余計に悲しかった。病気が悪いんだとわかっていても不快感は拭えるものではない。

ドラマや漫画だと「最期は仏のようになって死んでゆく」なんて描写があるが、あんなのは嘘だ。嘘じゃないかもしれないけどレアケースだ。
死にゆく人に他人を気づかう余裕なんてないし、攻撃しやすい人を攻撃する。



『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしてなお穏やかにならない、それどころか攻撃性を増している病人の姿が描かれている。
瀧波ユカリさんのお母さんは余命一年だったから周囲は困惑しながらもなんとか耐えられたけど、この状態があと何年も続いていたら、べつの人までダウンしていたかもしれない。仕事しながら、子どもの面倒みながら、感謝してくれるどころか恨みごとしか言わない親の世話をして……なんて不可能だよなあ。ぼくなんか仕事と育児だけでもうまくできてないのに。

医療現場で働いている人にしたらこういうのって日常の光景なんだろうけど、そうじゃない人間にとってはいたたまれない気持ちになる描写だ。
自分の親もこんなふうになるんだろうか。そのときうまく接することができるだろうか。自分も最期は周囲につらく当たって恨まれながら死んでゆくんだろうか。

家族にうっすらと「早く死ねばいいのに」と思われながら死んでいくのってつらいなあ。
今の法律って、自由に生きることはある程度保証してくれてるけど、自由に死ぬ権利はぜんぜん保証されてないよね。高齢先進国として、もっと死にやすい世の中になってほしいな。

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2018年4月22日日曜日

ばかの朝食バイキング


もう三十代半ばになると「焼肉食べ放題」などと聞いても心が動かされないどころか「いいお肉をちょっと食べるほうがいい」と思ってしまうのだが、それでもホテルの「朝食バイキング」だけは心躍る。

ホテルや旅館の夕食は無駄に量が多いのであまり好きじゃないが、ホテルの朝食バイキングは大好きだ。朝食バイキングを食べるためにホテルに泊まるといっても過言ではない。いや少し言いすぎた。

あんなに楽しいイベント、大人になるとそうそうない。
なんたってなんでも取り放題なのだ。

しかも、朝食、というのがいい。
朝ごはんのために各種パンとご飯とベーコンエッグとスクランブルエッグとゆで卵と目玉焼きと納豆と海苔と焼き鮭と味噌汁とカレーとコーンスープとオニオンスープとソーセージとハムとトマトとサラダとチーズとバナナとオレンジとグレープフルーツとヨーグルトとシリアルとミルクとオレンジジュースとコーヒーと紅茶を用意しようと思ったら、三時ぐらいに起きなきゃいけないだろう。それを全部やってくれるのだ。たかだか千円ぐらいで。ホテルによっては無料のところもある。最高。これに心躍らないはずがない。

目を覚まして「そろそろ朝飯でも食いにいくか」と部屋を出た段階では、まだ浮き足立ってない。それどころか少しおっくうだったりする。「めんどくさいけど、朝食付きのコースにしちゃったしな」ぐらいの気持ちだ。

でもずらりと並んでいる料理を見たら、たちまち血圧が上がる。「これ全部食べ放題!?」わかっているのに、いちいち喜ぶ。
もうぜんぶ食べたい。端から端までぜんぶ食べたい。ふだんそんな好きじゃない料理も、今日ばかりは食べたい。ミルクとオレンジジュースとグレープフルーツジュースとコーヒーをぜんぶ飲みたい。

そうはいっても現実的にぜんぶは食べられないので、まずは方向性を決めることになる。
すなわち、和か洋か。
まずご飯を盛るか、パンを手にするかでその後の方向性が決定する。ご飯はコーンスープやオレンジジュースとは合わないし、パンなら納豆や海苔はあきらめることになる。
まあたいていは洋食だ。
なぜなら、
・洋食のメニューのほうが選択肢が多い(和食なら、ほぼ味噌汁・海苔・鮭・納豆あたりに決まってしまう)
・食後のデザート→コーヒーという流れに自然に移行できる
・ご飯は家でもおいしく炊けるが、買ってきたパンは焼きたてパンに遠く及ばない
からだ。

まずはパンをとる。二個とる。スクランブルエッグとサラダをとる。ヨーグルトをとってシリアルをかける。オレンジジュースを入れる。
ふだんならこれで十分だが、そこはバイキングのおそろしさ。ここで引き下がってはもったいない。ソーセージとコーンスープとチーズとジャムとミルクとトマトも皿に盛る。


席について、自分の皿を眺めて思う。とりすぎた。

必ずとりすぎる。ちょっととって足りなかったらまたとりにいけばいいのに、それができない。一巡で済まそうとしてしまう。で、とりすぎる。

多すぎたな、これ全部食べられるかな、と不安になる。
そんな後悔すら楽しい。
後先考えずにとったので、スクランブルエッグと目玉焼きがあったり、ベーコンとソーセージがあったりする。
そんな失敗すら楽しい。
ばかみたいな皿だな、と思う。
己のばかさすら愛おしい。

いろいろとりすぎて、でもバイキングで残したらあかんと思うから無理して食べて、苦しい。
オレンジジュースもミルクもコーヒーも飲んで、おなか痛い。
ばかのバイキングだな、と思う。毎回思う。でも楽しい。毎回楽しい。

2018年4月21日土曜日

子どもをのびのびと遊ばせる先生


小学校四年生のときの担任は、三十代の男の教師。T先生。
ことあるごとに子どもたちを連れてどこかへ出かけたり、雪が積もったら授業をつぶして一日中雪遊びをさせたり(めったに雪が積もらない地域なので)、しょっちゅう冗談を言って生徒を笑わせたり、「子どもをのびのびと遊ばせる」ことに情熱を注いでいる人だった。

いい先生じゃないか、と思うかもしれないがぼくはT先生が苦手だった。
当時はうまく言葉にできずに「なんか好きじゃない」ぐらいにしか思えなかったけど、今ならなんとなくその理由がわかる。

T先生は「理想の子ども像」を強く持っていた。
彼は、勉強が嫌いで、野山で走りまわって遊ぶことが好きで、元気で明るく冗談に大笑いする子どもたちが大好きだったんだと思う。いわゆる「子どもらしい」子どもが好きだった。そして、そうでない子どもたちは好きではなかった。

ぼくは野山で走りまわることは好きだったが、勉強や本を読むことも好きだったし、明るくもなかったし、ひねくれたところがあったのでみんなが笑う冗談を「くだらない」とばかにするようなところもあった。
T先生はぼくのことを好きではなかったと思う。表立って態度に出すことはなかったが、自分が好かれていないことぐらい四年生になれば理解できる。

T先生の授業の進め方も「勉強ができない子向け」だった。問題を出して、答えられないであろうを指名し、間違った答えを引きだす。そこから「なぜ間違えたのか」「どういうところに気を付ければ間違えないか」といった指導をしていた。勉強のできない子にとってはありがたいやりかたかもしれないが、勉強の得意な子からするとつまらない授業だった。ぼくは後者だった。
ぼくが指名されることもあったが「誰にでもわかるかんたんな問題」を問われるのが不満だった。ぼくは「じっくり考えないとわからない難しい問題」を出してほしいのに。そして優越感に浸りたいのに。
つまらないので国語の教科書を先に読み進めたりしていると厳しく怒られた。「クラスがひとまとまりになって和気あいあいと授業をする」という形から外れるのを、T先生は何より嫌った。

休み時間に本を読んでいるとT先生は「天気がいいから外に遊びにいっておいで」と言う。
ノートを切ってつくったお手製のすごろくで遊んでいると「すみっこでこそこそそんな遊びをしてないでドッジボールでもしてこい」と怒られた。


T先生は塾を目の敵にしていた。
ことあるごとに「塾なんか行かなくても学校の勉強だけで十分」と口にしていた。
今はどうだか知らないけど、当時は塾に通うことを嫌う教師は多かった(学校の教師にしたら、自分の存在を否定されるような気持ちになるんだろう)。その中でもT先生は特に塾のメリットを否定していた。

ぼくは塾に通っていなかったが、四年生にもなるとクラスの何人かは塾に通っていた。ぼくの友人は塾に通っていたが、個人面談の場で「塾なんか辞めさせたほうがいいですよ」と言われたらしい。
彼らに対してT先生はことさら冷たく当たっていた。勉強のできない子がかんたんな問題を解けたときは大げさに褒める一方、塾に通う子らが難しい問題を解いても褒めなかった。彼らは居心地が悪かっただろう。


快活で勉強が苦手な子からは、T先生は大人気だった。そしてクラスの空気を支配するのはそういう子どもたちだ。だからT先生のことを悪く言いにくい雰囲気があった。
口うるさくて怒りっぽい先生のことなら「あいつむかつくよな」と言えたのに、「T先生嫌いだな」というと友だちから「なんで? めっちゃ遊ばせてくれるしおもしろいやん」と返ってくるので不満すらこぼしにくかった。

T先生は親からの評判はあまりよくなかったらしい。
まあ、授業時間をつぶして遊ばせてばっかりいたので、教育熱心な親からしたら気に入らない教師だっただろう(ぼくが通っていた小学校にはそういう親が多かった)。

でもT先生からしたら「もっと勉強させてほしいと願う親」の存在は、自分のやりかたを改める理由にはならなかっただろう。いや、それどころか「理解のない親から『子どもらしさ』を守らねば」と、自身の行動を正当化する材料になるだけだっただろう。

でも勉強をさせてほしいのは親だけじゃない。勉強したい子どももいる。
勉強が好きな子どももいるということは、T先生にとってまったく想像の外、想像すらしたくないことだったのだろうな。


2018年4月20日金曜日

味噌のポテンシャル


今さらながら味噌にはまっている。
第一次味噌ブームが起こったのは奈良時代のことだから、1300年ほど遅れてブームに乗っかっていることになる。


きっかけは料理研究家の土井善晴さんのエッセイだった(→ 感想)。
土井さんが「おかずが足りないときは味噌をそのまま食べればいい」と書いていたのでやってみたら、思いのほかうまかった。

"味噌汁"や"味噌煮"でその能力の高さは知っていたつもりになっていたが、味噌の実力はまだまだそんなもんじゃなかった。なんたるポテンシャル。

ご飯に乗せて食べてもうまい。
味噌茶漬けにしてもうまい。
味噌おにぎり、最高。海苔と味噌の相性ばつぐん。

味噌のおにぎりって梅ぼしや鮭や昆布と並ぶぐらいの定番商品になってもいいと思うのに、コンビニで「みそ」のおにぎりを見たことがない。「豚肉の味噌炒め」とか「味噌焼きおにぎり」とかはあるけど、味噌だけで主役を張ったおにぎりがない。
もっともっと評価されてもいいと思うよ、味噌おにぎり。

肉にも魚にも野菜にもご飯にも麺にもあう。
味噌は万能。ベビースターラーメンみそ味以外は全部おいしい。


2018年4月19日木曜日

君がこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないでしょう


孝之へ

君がこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないでしょう。


でももし私がまだ存命中にこの手紙を見てしまった場合、速やかにこの手紙を元のトイレットペーパーのストックを置いとく場所にしまってください。そしてしばらく忘れてください。私が死んだらまた思いだしてください。


もし私が危篤状態にあるときにこの手紙を発見した場合は、医師の判断を仰いでください。
意識を取り戻す可能性がぜったいにない、とお医者さんが断言したときだけこの手紙の続きを読んでください。
くれぐれも勝手な判断で「もう意識がないから読んでも大丈夫だろう」だなんて思わないでください。素人判断ほど危険なものはありませんから。
専門家の知識を甘く見てはいけません。だいたい君は六年前もちょっと調子の悪くなったHDDレコーダーを分解して、壊してしまったでしょう。あれだって早めに電器屋さんに持っていけば直ったかもしれないのに。君にはそういうことがあるから気を付けてください。


もしこの手紙を読んでいるのが孝之じゃない人の場合、ここで読むのをやめて、この手紙を孝之に渡してください。
「これ、トイレットペーパーのストックを置くところにあったよ。大丈夫、まったく読んでないから」
と言って手渡してください。「自分宛ての手紙をほかの人が先に開封した」と知ったらなんとなく嫌な気持ちになっちゃうでしょう。だからまったく読んでないことにして渡してあげてください。


もしこの手紙を読んでいるのが孝之じゃなくて、かつ私がまだ生きている場合は、この手紙を元の場所に戻してください。私が危篤状態にあるときの手順は先に書いたとおりです。


もしこの手紙を読んでいるのが孝之じゃなくて、かつ孝之のことを知らない人の場合、そして私のこともしらない人の場合、お願いがあります。

お手数ですが居間にあるパソコンを起動してください。パスワードは「password」です。
そのパソコンの「マイコンピュータ > ダウンロード > 仕事用 > 参考資料 > 2015年 > 3月」の中にある「画像」というフォルダを決して開封せずに削除してください。それが済んだら直ちにごみ箱を空にしてください。
理由は聞かないでください。こういうことは知り合いにはかえって頼みにくいので、よろしくお願いいたします。



2018年4月18日水曜日

【読書感想】恒川 光太郎 『夜市』


『夜市』

恒川 光太郎 

内容(e-honより)
妖怪たちが様々な品物を売る不思議な市場「夜市」。ここでは望むものが何でも手に入る。小学生の時に夜市に迷い込んだ裕司は、自分の弟と引き換えに「野球の才能」を買った。野球部のヒーローとして成長した裕司だったが、弟を売ったことに罪悪感を抱き続けてきた。そして今夜、弟を買い戻すため、裕司は再び夜市を訪れた―。奇跡的な美しさに満ちた感動のエンディング!魂を揺さぶる、日本ホラー小説大賞受賞作。

『夜市』『風の古道』の二篇を収録。
日本ホラー小説大賞受賞(『夜市』)で、レーベルは角川ホラー文庫。でもホラーではない。
二篇ともこの世のものではない存在がはびこる世界を描いているが、怖がらせるために書いているわけではなく、さらりと「こういう世界もあるんですよ」と提示しているだけ、というような筆致。

今市子『百鬼夜行抄』という漫画を思いだした。
あれも妖怪が出てくるが、ただ「いるだけ」だった。いくつかの条件が重なれば人間に害をなすこともあるが、それは彼らが邪悪だからではなく、それなりの理由があってやっていることだった。

人間と虫の付き合い方にも似ているかもしれない。人間には人間の世界があり、虫には虫の世界がある。基本的にはお互いに干渉しないが、人間がハチの巣に近づけばハチは攻撃してくるし、人間の家にゴキブリが侵入すれば人間はゴキブリを殺そうとする。ただしそれぞれの領域を侵さなければ特に何もしない。意識することすらない。

『夜市』や『百鬼夜行抄』で描かれる人間と物の怪たちの関係もそれと似ている。それぞれべつの世界を生きている存在。こちらが何もしなければ敵ではないし味方でもない。ふとした拍子にたまたますれちがうだけの隣人。



特に『夜市』は、短篇でありながら見事な怪異譚だった。
半醒半睡のような雰囲気、徐々に登場人物の過去が明らかになる構成、意外な展開、そして余韻の残るラストと、短い中に小説のおもしろさがぎゅっと詰まっていた。

 首を売っている店もあった。台の上に、ライオンや象、ムースやバッファロー、そして明らかに人間と思われる男と女の首が並んでいた。その店の主は葉巻カウボーイで、ライフルを分解して暇をつぶしていた。
「ねえ、あの人間の首は、つくりものよね」
 いずみが青ざめて裕司の袖をひいた。裕司はそれには答えなかった。
 鳥を売っている店があったが、鳥かごの中の鳥はどれも、足が三本あったり、鱗に覆われていたりして、図鑑や動物園も含めて、いずみが一度も見たことのない鳥ばかりだった。
 棺桶を売っている店があった。店の前には腐敗した死体が三つ立って、いずみにはわからない言葉を呟いていた。腐敗した死体たちからはひどいにおいがした。並んでいる棺桶の一つからうめき声が漏れたので、いずみは小さな悲鳴をあげた。

いきなりこんなわけのわからない世界に入るので、なるほど奇妙な味わいの幻想的な物語ね、と思っていたらストーリーもしっかりと組み立てられていたので思わずうなった。

ぼくはファンタジーというジャンルがあまり好きでないのだが、それは「ファンタジー世界をいかに精巧に構築するか」に重点が置かれていて、肝心の物語がおもしろくない作品が多々あるからだ。
世界感はすばらしいのに、お話は「少年がある日冒険の旅に出て、個性的な仲間と出会い、いろいろ苦労しながら悪いやつをやっつけてバンザイ」だったり。それだったら『オズの魔法使い』のほうがよっぽどおもしろいわ、と思っちゃうよね(いや『オズの魔法使い』は名作だけどね)。
宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』とかつまらなかったなあ。RPGゲームを文章化しただけみたいだった。「どんな本でも最後までは読んでみる」をモットーにしているぼくが途中で投げだした、数少ない本のひとつだ。いくらジュブナイルとはいえ……(『ブレイブ・ストーリー』の悪口を書きだすと長くなるので省略)。

ゲームのシナリオだったらある程度単純なほうがいいんだろうけど(複雑にしすぎるとゲームそのものの味わいを邪魔する)、小説でそんな単純なストーリーは読みたくない。
ファンタジーで終わらせない仕掛けのある小説が読みたいのだ。
貴志祐介『新世界より』や森見登美彦『四畳半神話体系』は、そのあたりに見事に成功していた。あれはおもしろいファンタジーだったけど、ファンタジーだったからおもしろかったわけではない。ファンタジーで、かつ、おもしろかった。

『夜市』も、まず蠱惑的な世界に目がいくが、物語はその世界観に頼りきりでない。めちゃくちゃな世界のようで、登場人物の行動には整合性がある。伏線の回収もじつにさりげないし、トリックの種明かしを物語のラストに持ってこない構成もいい。主題はそっちじゃないもんね。
すごく疲れているときなんかにやけに明確なストーリーのある夢を見ることがあるが、そんな感じの読書体験だった。まるで白昼夢。


「奇跡的な美しさに満ちた感動のエンディング!」というチープすぎる宣伝コピーをのぞけば、他に類のない、完成された小説だった。


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【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』



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2018年4月17日火曜日

【読書感想】ジョージ・オーウェル『一九八四年』


『一九八四年』

ジョージ・オーウェル

内容(e-honより)
“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

言わずと知れたディストピア(暗黒郷)小説の名作。
古典的名作にありがちなことなんだけど、前半は少し退屈。これは『一九八四年』が悪いわけではなく、『一九八四年』を下敷きにした作品が数多く生まれているために、設定自体が目新しいものではなくなっているから。
「はいはい、強大な権力を持った独裁者によって監視カメラが張りめぐらされた世界ね、それはもうわかっているからそこの説明にページを割かなくていいよ」
と思っちゃう。

組織に反抗的な思想を持つ主人公が、体制から自由闊達な美女と出会う。さらには革命組織が彼らに接触してくる。「なるほど、この二人が手を取り合って組織と闘って、最後に希望ある未来が示されるのね」と思っていたら……。
いい意味で裏切られた。いや、いい意味、なのかな? このとことん救いのない展開、ぼくは好きだけど。
清々しいまでに絶望しか残らなかった。ジョージ・オーウェルの『動物農場』を読んだときは「これは悲惨な社会だ」と思ったけど、『一九八四年』に比べたら動物農場なんて天国みたいなもんだね。


愛情省に舞台を移した後半以降の息詰まる展開は特に読みごたえがあった。

「一〇一号室だ」将校が言った。
 すでに蒼白になっていた男の顔が、ウィンストンにはとても信じられない色に変わった。はっきり、見間違えようもなく、緑色に変わったのだ。
「何をされても構いません!」男は喚いた。「何週間も食べ物を貰えないで、もうわたしは餓死寸前です。終わりにして、死なせてください。射殺してください。絞首刑にしてください。禁固二十五年の刑にも服します。他に秘密の正体を暴露すべき人間がいますか? 誰か言ってくだされば、何でもお望みのことを申し上げます。誰であろうと、その連中に何をなさろうと構いません。わたしには妻と三人の子どもがいます。一番上の子だってまだ六歳になっていません。でも妻と子全員を捕らえ、わたしの目の前で喉をかき切ってくれて結構です。黙って見ています。でも一〇一号室だけはどうか!」
「一〇一号室だ」将校が言った。

この短い文章を読むだけでぞくぞくする。「一〇一号室」の恐ろしさたるや。
ただ、終盤で「一〇一号室」で何をするのか判明するのだが、明らかになってしまうと「なーんだ」という感じだった(怖いけど)。何をされるかわからないほうが恐ろしかったな。

愛情省でのウィンストンの思考の変遷は、人間の意志や信念が暴力の前ではいかにもろいかを教えてくれる。平和な世の中ではどれだけかっこいいことを言っていても、いざ痛みを前にしたらかんたんに転んでしまうんだろうね。少なくともぼくはあっさり転ぶ自信がある。

だからこそ権力者は自身の力に対して抑制的でないといけないんだけど、権力者自身が権力を拡大させたいという欲求に逆らうのはほぼ不可能だろう。
そのために憲法があるんだけど、そのことの意味をよくわかっていない権力者も多いよねえ。



『一九八四年』の登場人物はそう多くないが、オリジナルの概念は多い。イングソック、永久戦争、真理省、二重思考、存在するかどうかわからないゴールドスタインなど、どれもよく考えられている。すべてビッグ・ブラザーが人民を統治するための仕組みだ。たしかにこれだけの武器を備えていたら完璧に支配することもできるかもしれない、と思わされる。

特に感心したのがニュースピークという概念。

「分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭せばめることにあるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙あげ句く、忘れられることになるだろう。すでに第十一版で、そうした局面からほど遠からぬところまで来ている。しかしこの作業は君やぼくが死んでからもずっと長く続くだろうな。年ごとに語数が減っていくから、意識の範囲は絶えず少しずつ縮まっていく。今だってもちろん、〈思考犯罪〉をおかす理由も口実もありはしない。それは単に自じ己こ鍛たん錬れん、〈現実コントロール〉の問題だからね。しかし最終的には、そうしたものも必要なくなるだろう。言語が完璧なものとなったときこそが〈革命〉の完成。ニュースピークは〈イングソック〉であり、〈イングソック〉がニュースピークなのだ」

さらに巻末にわざわざニュースピークの説明文まで設けている。

 上述したことから理解されようが、ニュースピークを使って非正統的な意見を表明することは、それがきわめて低級なものの場合は別として、ほぼ不可能であった。もちろん、正統に反する非常に粗雑な邪説、一種の涜とく神しんのことば、を口にすることが不可能であったわけではない。例えば、「ビッグ・ブラザーは非良い  ungood  」ということはできたであろう。しかしこのように発言したからといって、正統派の耳には自明すぎる愚の骨頂としか響かず、この発言を筋の通った議論で裏づけることなどとても無理だったろう。裏づけるのに必要な語が手に入らなかったからである。イングソックに有害な思想はことばを伴わない曖あい昧まいな形で心に抱くしかなくて、また、それを名指そうとすれば、様々の邪説全部を一ひと括くくりにし、それらを明確に定義づけないまま断罪だけする実に雑ざつ駁ぱくな用語を使うより他ないのだった。

すごく単純に言ってしまうと、ニュースピークでは単語の数を極力減らして(たとえば「cut」という動詞をなくして「knife」を名詞としても用いる)、不規則動詞やあらゆる例外をなくすことで、文法体系をできるかぎりシンプルにする。そうして人々に複雑、抽象的な思考をできなくするのだ。

監視カメラや盗聴器では行動は制御できても思考まではコントロールできない。だが言語を抑制すればおのずと思考も制限される。語彙の少ない人は思考も狭く浅くなってしまう。
だから、できるかぎり文法をシンプルにするというニュースピークは(人民の反逆を抑えるという観点では)きわめて有用な語法だ。
中学生のとき、「過去形なんて全部 -ed でいいだろ。複数形はすべて -s、比較級・最上級はすべて more ~、most ~ でいいだろ」と思っていたけど、多くの英語学習者を苦しめている不規則活用たちも思考に深みを持たせるためには必要なんだろうなあ。


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2018年4月16日月曜日

【読書感想】本多 孝好『正義のミカタ』


『正義のミカタ』

本多 孝好

内容(e-honより)
僕、蓮見亮太18歳。高校時代まで筋金入りのいじめられっ子。一念発起して大学を受験し、やっと通称スカ大に合格。晴れてキャンパスライフを満喫できるはずが、いじめの主犯まで入学していた。ひょんなことから「正義の味方研究部」に入部。僕は、元いじめられっ子のプライドに賭けて、事件に関わっていく。かっこ悪くたっていい、自分らしく生きたい。そう願う、すべての人に贈る傑作青春小説。

いじめられっ子である"ぼく"がある男に助けられ、連れていかれた先は「正義の味方研究部」。そして"ぼく"も正義の味方として活躍することに……。

舞台は大学なのになんと幼稚な展開……。これはハズレを引いたかなと思いながら前半を読み進めていた。
終始青くさいし、ご都合主義だし、正義といいつつ法ではなく暴力で解決しているし、こんなの今どき少年マンガでも支持されないでしょ、と思いながら。

中盤以降は意外なキャラクターが犯罪グループを組織していることがわかったり、正義も一筋縄ではいかないことに主人公が気づいたり、完全無欠に見えた登場人物が屈折を抱えていることがわかったりするんだけど、そもそも「正義の味方研究部」に対してずっと嘘くせえなという思いがぬぐえなかったから後半の落差もあまり効いてこなかった。


「正義」について語るのは難しい。どうしたって偽善っぽさはついてまわる。「悪」は誰にとってもよく似ているのに対し、「正義」は立場ごとに姿を変える。
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読めばわかるように、ハーバード大学の賢い人たちが話し合っても一律に定義できない。定義できないことこそが正義の本質と言えるかもしれない。
『正義のミカタ』でも、貧困にあえいでいる家庭の子が(それほど被害者を生まない)犯罪に手を染めて金を稼ぐのは悪いことなのか、という問題が提示されている。犯罪は犯罪なんだからダメでしょ、とは思うけど、貧困家庭で生まれた子どもはずっと貧困のままで格差が再生産されつづいてゆくのが正しいのかというと、それもまた首をひねらざるをえない。


『正義のミカタ』は「正義」のあり方をテーマにしているんだけど、最後は「君なりの正義を考えてみましょう」みたいな感じで放りだしてしまったのが残念。正義の形が多様であることなんてわかってるんだよ。これだけ長々と書いて結論それかよ。
さんざん青くさいことを書いておいて、最後は「みなさんで考えてみましょう」みたいな国語の教科書的逃げ方ってのはちょっとずるくないか。どうせなら最後まで青くさくあってほしかった。
登場人物にもっと真正面から正義を語らせてほしかったな。ハーバード大学の講義とちがって間違っててもいいのが小説という表現手段の強みなんだから。


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2018年4月15日日曜日

やらないと失うこと


娘が水泳教室に通いはじめた。

水泳教室の間ただ待っているのもひまなので、ぼくも横のレーンで泳ぐことにした。
これまでもときどき泳ぎにきていたが、根気がないので長続きしなかった。娘と一緒ならサボれないのでちょうどいい。

水泳教室の時間は一時間。
初回は、その間に900メートル泳いだ。へとへとに疲れた。
その次の週は1050メートル、その次は1150メートル……と順調に泳ぐ距離を伸ばしていき、9回目となった前回は1600メートル泳ぐことができた。
回を重ねるごとに自己記録が更新されていくのが楽しい。

何をするにしても、ぐんぐん上達していく段階、知識が増えていく段階は楽しい。
しかしぼくは知っている。この楽しさはそろそろ終わるということを。



ジムに通っている知人が「筋肉が落ちることが恐ろしくて、二日以上ジムを休むことができない」と言っていた。
そうなのだ、ある段階を過ぎると「新しく得るのが楽しい」から「今あるものを失うのが怖い」になってしまうのだ。

ぼくは寝る前に柔軟体操をしている。十三歳のときからやっていて、三十代になった今でも脚を百八十度開脚することができる。
もはや習慣になっていて、やらないと気持ち悪くて寝られない。どんなに疲れていても、泥酔していても、柔軟体操だけはやらないと気持ちが悪い。
はじめのうちは自分の身体が日に日に柔らかくなることが楽しかったけど、今は何の楽しみもない。やらないと苦痛だからやっている。ニコチン中毒者が義務的にタバコを吸うのと同じように。



歳をとると、「やると成長すること」が減り「やらないと失うこと」が増えていく。
柔軟体操も、歯みがきも、筋トレも、ニュースを見ることもそうだ。人によっては、ゲームだったり、料理をつくることだったり、子どもを塾に通わせることだったりするだろう。

ぼくにとっての「やらないと失うこと」の最たるものは読書。
もちろん本を読むことは楽しいが、それ以上に義務だ。本を読むのをやめて知識のインプットが止まることが恐ろしくてたまらない。だから、どんなにおもしろい本でも読みかえすことはほとんどない。そんな時間があったら新しい本を読まなくてはならない。

日々のトレーニングは自信になる。
筋トレをしている人は「筋トレをすると自信がつく。ポジティブに生きられるようになる」と言う。
ぼくは筋トレをしないがその言葉には納得する。読書がぼくにとっての筋トレだからだ。

毎日本を読んで、新しい知識をとりいれる。
それが心の平穏を保つことに役立つ。腹の立つヤツに出会っても「でもぼくはこいつよりたくさんの本を読んでるしな」と思える。失敗をしても「いやいやでも多くの本を読んできたから大丈夫だ」と思えば落ち込まない。
得た知識が役に立つかどうかはどうでもいい。重要なのは「本を読んで新たなことを知った」という事実だからだ。

高校球児は「自分たちはどこよりも練習してきた。それが自信になっている」と語る。
自信のためには練習の中身は重要でない。一日千回素振りをするような、見当はずれの努力でもかまわない。自信を植えつけるために必要なのは、効率の良い一日十回の素振りではなく「千回やった」という事実なのだ。



ぼくたちを動かしているものは「やりたいこと」でも「やらなきゃいけないこと」でもなく、「やらないと失うこと」なんだろう。


2018年4月14日土曜日

クスリンピック


友人とオリンピックの話をしていて、「ドーピングは禁止するんじゃなくてむしろ解禁したほうがおもしろくなるんじゃないか」という話になった。


なるほど、それはおもしろいかもしれない。
今でもトップクラスのアスリートたちの闘いは、肉体の闘いであると同時に科学の闘いでもある。
より効率の良いトレーニング方法を研究し、より高い成果を出せる道具を開発し、科学的な分析に基づいて選手たちの肉体はつくられる。だとしたらそこに化学・薬学が加わることに何の問題があるだろう。
痛み止めの薬を打って金メダルを獲得したスケート選手も褒めたたえられているではないか。

世界中の薬学者が研究に研究を重ね、選手たちの肉体を改造する薬品を開発する。
求められているのはより強い肉体。選手たちは金メダルを獲るためのマシーンと化す。非人道的? 選手たちも同意しているのだ。何か問題でも?

選手に知性はいらない。競技のルールだけが理解できればいい。むしろ余計な思考は集中力を乱す原因になる。目の前の敵を倒すことだけ考えればいい。

Dr.イチガキチームのようにスポーツモンスターと生まれ変わった選手たちによる平和の祭典。感動まちがいなし。


2018年4月13日金曜日

おまえの人生はないのかよ


独身時代、Facebookに子どもの写真を載せている友人を心の中でばかにしていた。

子どもがおまえのすべてかよ、おまえの人生はないのかよ、と。


いざ自分が子を持つ親になってみると、ブログに子どもの話題を書いている。
SNSに子どもの写真こそ載せてないが、それはうちの子が親から見ても決して器量良しではないからで(親から見たらかわいいけどね)、子役級にかわいかったらパラパラ漫画を作れるぐらい大量の写真をアップロードしていると思う。

十年前のぼくが今のぼくに言う。
「おまえの人生はないのかよ」

ぼくは答える。
「いや、ないわけじゃないんだけどさ。でも減ったよね。子どもが自分の人生の大半を占めるようになったのは事実だね。おまえから見たら恥ずべきことだろうな。でもこれはこれで悪くないんだぜ」

だって仕方ないじゃないか。
朝、子どもと一緒にご飯を食べ、子どもの着替えを手伝い、子どもを保育園に送っていき、仕事に行く。帰ったら子どもが「遊ぼう!」と行ってくるのでいっしょにパズルやトランプをして遊び、子どもと話しながらご飯を食べ、子どもに歯みがきを手伝い、子どもを風呂に入れ、子どもに絵本を読んでやり、子どもと一緒に落語を聴きながら寝る。
それが平日。
休日は朝から夜までずっと子どもと一緒にいる。そりゃあ子どもが人生の大半を占めてしまうのは仕方ない。


少し前に「日本の親に夢を訊いたら『子どもの幸せ』と言うが、それはあなたの義務であって夢ではない」という言説を聞いた。

はぁ? 義務と夢が一緒だったらあかんの?
納税は義務だが、「納税によって多くの人の暮らしを良くすることが夢」という人のことまで否定しなくていいでしょ。

人間は遺伝子の乗り物だから、次世代の繁栄こそが生きる目的だ(必ずしも自分の直系の子孫でなくてもいい)。
それに比べたら個人の功名や満足感なんてとるにたらないことだとぼくは思う。


過去の自分から「おまえの人生はないのかよ」と言われたら、

「あるけど、より新しい人生に引き継いでいる最中」だと答えたい。

2018年4月12日木曜日

【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』


『四畳半神話大系』

森見 登美彦

内容(e-honより)
私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!さ迷い込んだ4つの並行世界で繰り広げられる、滅法おかしくて、ちょっぴりほろ苦い青春ストーリー。

八年ぶりぐらいに再読。
はじめて読んだときは衝撃だった。いくつかの並行世界が絶妙に絡みあう構成、さりげなく散りばめられていた伏線が最後に一気に回収される展開、そして何よりそれが森見登美彦氏によって書かれていたことに驚いた。
これが伊坂幸太郎さんの作品だったらべつに驚かなかったんだけどね。「伊坂作品だったらこれぐらいのことはやってくるよね」ってな感じで。
でも『太陽の塔』を読んで古めかしい文体と幻想的な世界感のイメージが強かったから、「森見登美彦はこんな緻密な構成の先鋭的な作品も書けるのか」と良い意味で裏切られた。

で、ひさしぶりに読み返してみての感想。
展開は知っているから驚きはないが、「並行世界」という仕掛けを彩るディティールが見事であることに改めて気づく。猫ラーメン、もちぐま、ラブドールの香織さん、コロッセオ、蛾の大群(読んだことない人には何が何やらわからないだろうな)。
本格派SFだったらこういう演出は最小限に抑えて「並行世界」を説明することにもっと時間をかけるだろうが、『四畳半神話大系』はあくまでも大学生の日常に起こるどうでもいいことに重きが置かれ、大きな仕掛けよりも小さなどうでもいい仕掛けが描かれている。
半径数メートルの私的な物語に終始することで、「もしあのときああしていたら……」をいくら試そうが狭い世界の中をうろうろするだけ、というメッセージを伝えようとしているのかもしれない。可能性は無限だが、そのどれもが四畳半のように狭い世界の中の話なのだ。

大学生時代はいちばん選択肢が多い時期に感じられる。できることは高校生までに比べて格段に増え、やろうと思えば何にだってチャレンジできるように思える。
ぼくも大学に入ったときは、『四畳半神話大系』の主人公のように希望に満ちあふれていた。英語の雑誌を購読してみたりした。勉強に遊びに恋にバイトに創作に大忙しだぜ! と思っていた。ああ、懐かしい。同じく京大で学生生活を送っていたので、賀茂大橋、デルタ、糺の森、下鴨神社、御影通りといった地名が出てくるたびにあの頃の感覚を思いだした。映画サークルに入ろうとして結局やめた経験もあった(「みそぎ」ではない)。

でも結局誇れるような学問もしてないし外国語も身についてないし、入学時と卒業時で何が変わったかというと四年歳をとっただけのようにも思う。得たものより失ったもののほうが大きかったかもしれない。
「もし大学入学時に戻ったら……」と考えたことがあるけど、戻っても大差はないんだろう。どうせソリティアとかやって時間を無駄にしてしまうのだ。


「なくなったクーラーのリモコンを取りに行く」ためだけにタイムマシンを使う『サマータイムマシーン・ブルース』という映画がある(奇しくもこれも頽廃的な大学生の物語だ)。『四畳半神話大系』では並行世界の自分の存在を感じとることができ、『サマー・タイムマシーン・ブルース』ではタイムマシンで過去に戻ることができるが、どちらもたいしたことをしない。うまくいかないことは何度やりなおしてもうまくいかないし、付きあう友人は自分の身の丈にあったやつらになる。

かつて『四畳半神話大系』を読んだときは「どうせおまえはおまえだよ」と言われているようで残酷な物語だと感じたが、おじさんになって読むとこれは救いなのかもしれないと思えるようになった。後悔したって過去には戻れない以上、「どうせ同じような道をたどってたさ」と思って現在に居場所を見つけるほうが幸せだよね。


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【読書感想】森見 登美彦 ほか 訳『個人編集 日本文学全集 竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』



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2018年4月11日水曜日

声優初挑戦


そうですね、声優初挑戦ということで緊張もありましたが、楽しんでできました。
アイドルしかやったことなくてこういうお仕事ははじめてだったので新鮮な気持ちを味わえました。


やっぱり、ゲスト声優をやってくれって言われたときはびっくりしましたし、はじめは不安もありました。
ちゃんとギャラ振り込まれるのかなって。
ほら、映画って斜陽産業だっていうじゃないですか。だからそのへんちゃんとしてるのかはすごく不安でしたね。
でもきちんと金額を提示していただいて、しかもプロの声優よりも高いギャラをもらえるということで、今はやっぱりやって良かったなって思います。本業の声優さんはかわいそうですよねー。ははっ。

気を付けたこと、ですか。
遅刻しないことですかね。あたし、よく寝坊しちゃうんですよね。いや、もちろん大事な仕事のときはしないんですけどね。コンサートとかテレビとかのときは気をつけてます。マネージャーにもぜったい起こせよって言いますし。
でもラジオとかだとよく遅刻しちゃうんですよね。気の緩みですかね。昨日の夜もアラームセットせずに寝たんですけど、今朝は早めに目が覚めました。奇跡ですね。

映画? あっ、はい、好きですよ。大好きです。
『となりのトトロ』とか『なんとかの城ラピュタ』とか観たことあります。映画フリークといっていいでしょうね。映画関係の仕事がいっぱい来たらいいな、と思ってます。
今回吹き替えさせていただいた映画も楽しみですね。早く金曜ロードショーで観たいなと思います。

声優のお仕事ははじめてでしたが、やってみてわかったのは、案外ちょろいなってことでしたね。これをステップにして、もっといい仕事にチャレンジしていきたいと思ってます!


2018年4月10日火曜日

【読書感想】毎日新聞取材班『枝野幸男の真価』

『枝野幸男の真価』

毎日新聞取材班

内容(e-honより)
野党の混迷に終止符を打ち、政権交代も視野に入れる代表・枝野幸男のビジョンとは?徹底取材によるドキュメント。

毎日新聞取材班ということで客観的なドキュメントを期待していたのだが、前半は枝野氏に肩入れしすぎ。ファンブックみたいだったのでもうちょっと引いたスタンスで書いてほしかった。
ただ第4章『離合集散の野党史』と第5章『立憲民主党を待つ試練』は読みごたえがあった。新進党や民主党の躍進と没落の原因を分析することで、立憲民主党がなぜ支持を集めたのか、そして今後何をしたら零落するのかが理解できた。歴史はくりかえしているんだねえ。



「権力は憲法によって制約される、これが立憲主義です。立法権、内閣総理大臣の権力は何によって与えられているか。選挙と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかない。選挙で勝った者に権限を預けると憲法で決められていると同時に、無条件で預けるのではない。こういう規制の中でしか権力を使っちゃいけない。この両方を憲法で決めてセットで私たちは委ねられている」
「立憲主義とセットになって初めて民主主義は正当化されます。多数の意見でものを決める考え方は、それだけでは決して正義ではありません。多数の暴力によってこそ、少数者の人権侵害が生じるからです」

昨年秋、この演説を聴いたとき、ぼくも「これだよ! このあたりまえのことを言う人を待ってたんだよ!」と思った。
立ち上がったばかりの立憲民主党はまたたくまに支持を拡大していったところを見ると、同様に感じる人が多かったのだろう。

いやほんと、至極当然のことなんだけどな。政治家、内閣の権力には憲法による制限があるなんて、あたりまえすぎて誰も言ってなかった。そして誰も言わないうちに、いつしかその重要性が忘れられ、権力者が立憲主義を軽視するようになった。

権力は憲法によって制約される、こんなあたりまえのことを言う政治家が大きな支持を集めるのだから、いかに現在民主主義が危機にさらされているか。



ぼくは立憲民主党のすべての政策に賛成なわけではないし、現政権の政策に賛同する部分もある。
けれど、ぼくが投票時にもっとも重視するのは「現行法を守ろうとしているか」だ。重視というかすべての根本だと思っている。
だから憲法を解釈でねじ曲げようとする政権は、その一点をもって打倒すべきだと思っている。たとえ他の政策がどんなにすばらしくても。
スポーツ選手がどれだけすばらしい成績を残してもドーピング使用が発覚したらすべての実績がゼロになるように、法律、特に憲法を守ろうとしない政権は何も信用することができない(憲法改正に反対しているわけではない。憲法に定められた正当な手続きに従って改正することには何の異論もない)。

まあここまで書いたから言わずもがなだとは思うが、ぼくは現政権に早く退陣してほしいと思っている。それは政権全体として法に対する誠実性が感じられないからだ。「結果さえ良ければ法の枠からはみだしてもいい」と考えているようにしか見えない。
「権力に対して抑制的であるかどうか」という問題に比べれば経済政策や外交なんて屁みたいなものだ。


ときどき現首相をアドルフ・ヒトラーのような独裁者と重ね合わせる意見が見られるが、ぼくはその意見には賛成しない。良くも悪くも、歴史に名を残した残虐な独裁者と肩を並べられるほどの資質は現首相にはない。
ただ、現政権は「いつか邪悪な独裁者が現れそうになったときにそれを阻止する制度」を破壊することにためらいがない。
もっと邪悪でもっと能力の高い人物が政権を握って「過去にも『解釈の違い』で乗り切ったことがあったから今回も少々法の枠からはみだしたっていいよね。一定数の民意さえ集めれば法で定められた手続きを少しぐらい省略したっていいよね」という論理をふりかざす日のことをまるで考えていない。



立憲民主党は広報戦略が非常にうまいと言われている。Twitterの使い方が実にうまい。

広報だけでなく、党執行部も「どう見られているか」「何が求められているか」を的確に把握している。

 市民団体の集会に野党の党首が参加する形式で、志位と社民党の吉田忠智党首は壇上で並んで演説した。しかし枝野は、直前までNHKの番組出演で2人と一緒だったにもかかわらず、あえて2人が立ち去った後に会場に到着するように時間を調整した。
「社民党さんも共産党さんもそれぞれ、決めている候補者を下ろすのがいかに大変か、私もよーく分かっています。それぞれの立場を超えて努力された両党の皆さんに、私は敬意と感謝を申し上げたい」と候補取り下げへの謝意を示したものの、自らとのスリーショットの写真は撮らせなかった。
 枝野自身は、希望の党という保守系野党と、共産党の「間」の政策を求める有権者のニーズを意識していた。その受け皿となるために、共産党と同一視されるリスクを徹底的に回避していた。

インターネットを見ていると先鋭化した右派と左派が活発に論争をくりひろげているけど、左右に分けるのであれば世の中の人の大半は「やや右」か「やや左」だと思うんだよね。かつては自民党と社会党がそれぞれの人の受け皿になってきたんだろうけど、55年体制崩壊後はそうかんたんにはいかなくなってしまった。
自民党には幅広い議員がいるけど最近は右派が多数を占めている(ように見える)。政権を握ったときの民主党も似たような状況だった。
そして2017年の衆院選挙時には民主党の中の右派が希望の党と合流し、中道左派、リベラル派の受け皿がなくなってしまった。
親しい人と話していても「安保法案や海外派兵には反対。だけど共産党は嫌」という人はすごく多い。感覚的にはいちばん多い層なんじゃないかとさえ思う。特に女性に多い。
ぼく自身もその考え方に近い。で、選挙のたびに「特にどこも支持したくないけど『たしかな野党』も一定数いたほうがいいから……」という消極的な理由で共産党や社民党に票を投じていた。

そういう層に立憲民主党はぴったりとはまった。そこを理解しているから、共産党や社民党とは選挙協力はするが近づきすぎないようにしている。希望の党や旧民進党と合流すると「結局政権を狙うための烏合の衆か」と思われて支持者が離れていくのを知っているから、距離を保っている。
こうした立ち位置のとりかたがすごくうまい。


ただ、政権交代を狙うと、政策の異なる政党とも協力関係を築かざるをえなくなる。ここの戦略を見誤ると有権者に愛想を尽かされることになる。

「少なくとも(下野後の)この5年間自分が思っていたことが、いかに間違いだったかを痛感する(選挙戦の)日々だった。こんなに政党の合従連衡が嫌われていた、こんなに『政権交代のために一つにまとまる』のが嫌われていたのか、と。1+1がせめて1.5なら(合併も)考えるけど、今は1+1が0.8になる状況だ」

一度政権をとると、ポジションを守ることが自己目的化して、当初の方針は二の次になってしまう。自民党、民主党、公明党、みんな同じ道をたどっている。

いつか立憲民主党が政権をとったとしても、同じことが起こるんじゃないかと思う。党が力を持てば持つほど、政権を狙えるという理由で様々な考え方の人が入ってくるから。そうなったら立憲民主党も終わりだろうね。民主党と同じ道をたどって見放されてしまうだろう。
ぼくは今は立憲民主党を応援しているが、第一党になってほしいとは思わない。少なくとも数年間は。「発言力のある野党」としての立ち位置を期待している。

つくづく二大政党制って良くない制度だと思う。小選挙区制も。これに関してはこのブログでも何度か書いているから詳しく書かないけど、たったふたつの政党に民意が拾えるとは到底思えないんだよね。



最後に、ほんまかいなと言ってしまったエピソード。

枝野氏と前原誠司氏はカラオケ友達なんだそうだ。

 それから半月が過ぎたころ、2人は知人を交えて久しぶりに歌おうと計画した。臨時国会の開会を10日後に控えた9月18日にセッティングされた。しかしその前日の17日、「月内に衆院解散」という情報が永田町を駆け巡る。前原は会合を欠席。枝野は「選挙前の歌い納め」のつもりで短時間参加した。歌ったのは欅坂46の「不協和音」である。

 ここで同調しなきゃ裏切り者か
 仲間からも撃たれると思わなかった

この直後に前原誠司氏は希望の党への合流を決め、枝野幸男氏は新党立ち上げを決意する。そして希望の党は立憲民主党の候補者に対して刺客候補者を擁立する……。

ちょっと話ができすぎじゃない?


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2018年4月9日月曜日

【DVD感想】東京03『自己泥酔』


『自己泥酔』

東京03

内容(Amazon プライムビデオより)
2017年5月~9月に行われた「自己泥酔」全国ツアー(全11ヶ所、全27公演)の最終公演を収録。オール新作コント、映像ネタ、音楽が一体となった、東京03ならではの完成度の高い本編公演。 社長と部下が語り合う「自慢話の話」 / 「エリアリーダー」角田は部下を庇う理想の上司になれるのか? あの事件がコントになりました「トヨモトのアレ」 / 「ステーキハウスにて」声を荒げるクレーマーが思わぬ展開に…。 同僚の結婚報告を聞くために芝居を求められた飯塚は…「小芝居」/ 病室でアキコが婚約者サトシについた「悲しい嘘」 東京で経営者として成功している豊本が後悔していることを「謝ろうとした日」、友人2人は彼を受け入れるのか…。

第19回東京03単独公演「自己泥酔」をAmazonプライムビデオで鑑賞。
特典映像がないとはいえ、2時間近い公演を324円で観られるのはいいね。そうです、Amazonのまわしものです。

単純な笑いの量でいうともっともっと笑いをとる芸人はいるけど、コントとしての完成度でみると芸人・劇団含めて文句なく東京03はトップクラスだね。しかも年々クオリティが上がっていっているのがすごい。
このライブでは音楽も効果的に使われている。脚本・演者・音楽それぞれがハイレベルで、それらが組み合わさって途方もなく上質な空間を作りあげられているんだからただただ感心するばかり。


自慢話の話

IT会社の社長が飲み会の席で、すぐに自慢をはじめる社長ばかりで嫌になる、自分は自慢話は嫌いだ、と社員たちに語る。すると社員のひとりが「それって"自慢話しない"自慢ですよね」と言いだし……。
まず「同じITベンチャーの人間が集まるパーティーで……」という一言で自然かつ的確に状況を説明してしまう鮮やかさ。違和感なくすっとコントの世界に入らせてくれる。

「おれは他の社長とちがって自慢をしない」というのも自慢といえばそのとおりなんだが、このへりくつのような主張から「社長、固まってんじゃねーか」で笑いにつなげ、ただの理屈をこねくりまわす展開にせずに「生意気な後輩キャラ」で現実的な方向に着地させる。
大笑いするものではないけどワンアイデアを膨らませて複層的なコントに仕上がっている。


主題歌『自己泥酔で歌いたい』


角田氏による主題歌。
やたらポップな音楽に乗せてどこかで聞いたような歌詞を歌いあげている……と思ったら中盤の「自分に完全泥酔」でバッサリ。

愛と未来 自由と未来 光の先へただ進め
めぐり合い それは奇跡 広い世界で ようは奇跡
会いたくて 愛を叫び 鳴らないスマホに涙流し
I miss you 思い届け 結果どうあれ みんな踊ろう
現実を見ない 希望の啓示
自分に完全泥酔してなきゃ こんなの歌えない

マキタスポーツや岡崎体育がやっている「J-POPを皮肉った歌」と同系統だけど、ここで大きな笑いは狙いにいかずにあくまであっさりと。今や「J-POPあるあるを皮肉をこめて茶化す」すらもはやありがちな手法になってしまったからね。
音楽的にも笑い的にも、あくまで「コントライブのオープニング」に収まるちょうどいいサイズ感の曲。


エリアリーダー

部下が上司に叱責されているのを見たエリアリーダー、間に割って入り「悪いのは彼に仕事を任せた私。責任はすべて私にあります」と部下をかばう。ところが部下はエリアリーダーに感謝している様子がなく……。
こうなるだろうな、という観ている側の予想通りの展開だが、ちゃんと演技力で魅せてくれる。
「本当にぼくが悪いみたいに言ってくるんすよー」
「ちゃんと憧れろー」
など、エゴ丸出しの発言をくりかえすエリアリーダー。コミカルに描かれているけど、これは本心だよね。ぼくも部下の失敗をかばったことはあるけど、やっぱり「自分がよく思われたい」からであって、部下を助けるためではないもん。


(幕間映像)えりありーだー憧れられ四十八手


様々なシチュエーションで「部下に憧れられる方法」を紹介する映像。途中からエリアリーダーが弾丸を日本刀で真っ二つにするなど天才剣士であることが判明……。


トヨモトのアレ

不倫をしていることが社内中に知れわたり、さらに不倫相手に送ったLINEの内容を全社に知られてしまった豊本が落ちこんでいる。同僚の飯塚と角田がからかったり慰めたり叱咤激励したりするが、どうも角田の様子がおかしく……。
2017年3月に週刊誌報道で不倫が発覚した豊本氏。その一件を早速コントにしたのが本作。
「会社の受付嬢と不倫をしていた」という設定になっているが、その他の設定はほとんど事実のまんま。「LINEで『お尻なめたげる』と送った」などのインパクトのある設定も現実通り、なんだそうだ。

身内ウケを狙ったコントか、と思いきやそこで終わらせずに後半は「不倫を叱るふりをしながら手口を学ぼうとする同僚」に対してツッコミを入れることで不倫の一件を知らない人にも伝わるようにしているところがさすが。
そうそう、不倫をした人に対する世間のバッシングって「自分だけいい思いをしやがって許せない」っていう嫉妬心も混ざってるよね。少なくともぼくは「ちょっとうらやましい」って思ってるよ。


(幕間映像)トヨモトの反省


豊本と飯塚の会話を、昔のFLASHアニメのような小気味いいテンポで描くアニメーション。不倫行為を反省しているのかと思いきや「どうすれば世間に許してもらえるか」ばかり考えている豊本。その空想がどんどん飛躍していき……。


ステーキハウスにて

ステーキハウスで食事中の男がワインをこぼしてしまい、あわてて拭きにきた店員もワインの入ったデキャンタをこぼしてしまう。すると客は店長に対してクリーニング代、食事代、お食事券を要求しはじめる。ところが店員があることに気づき……。
「理不尽な因縁をつけるクレーマー」だけでも十分コントとして成立しているのに(「髪の毛全引っこ抜き」は笑った)、そこで終わらせずに「素性を知られてしまったクレーマーの葛藤」を描く後半につなげているのがすばらしい。
他人の目に映る自己の姿を意識して「たちの悪いクレーマー」と思われないように見苦しくあがくあまり、「たちの悪いクレーマーな上に"ええかっこしい"な人」に転落していく姿は滑稽を通りこして悲哀すら感じる。
利己心と虚栄心の間で揺れる心情がコミカルかつ丁寧に表現されていて、東京03のいいところが詰まったコントだった。


(幕間映像)MINIMUM REACTION GIRL『MMR』


ステーキハウスに来ていた客がプロデュースしたガールズユニットの曲。無駄に完成度が高い。


小芝居

こっそり社内恋愛していた角田と女上司の豊本が結婚することに。以前から角田の相談に乗っていた飯塚だが、角田から「知らなかったことにしてほしい」と頼まれて小芝居を打つことにする。ところがその芝居に角田が感動してしまい……。
東京03の魅力は練りこまれた脚本もさることながら(特に飯塚・角田両氏の)演技力の高さにもあると思うのだが、その飯塚氏の芝居のうまさが存分に発揮された傑作。
演技力が高くないと成立しないコント、という高いハードルを設定しておきながら、そのハードルを悠々と飛びこえている。観客の想定をはるかに上回る「意外な事実を聞かされて驚く演技」を披露して観客からの拍手をかっさらっていた。「芝居がうますぎて拍手が起こる」というのはすごい事態だよね。

全体的にハッピーな笑いがくりひろげられるコント……と思いきや背筋が凍るような衝撃のラスト。後味は悪いけど、個人的にはすごく好きなコント。


(幕間映像)劇団小芝居


「リアリティのある芝居」ではなく「わかりやすさのためにリアリティを排した小芝居」をする劇団の稽古を描いたアニメーション作品。
「なんで言えば伝わることを感じとってもらわなきゃいけないんだよ!」は安っぽいコントへの痛切な皮肉だね。
いまだに多いよね。「あー、付きあってる彼女から話があるっていってこんなところに呼びだされたけどいったいなんの話だろうな-」みたいな説明台詞から入るコント。
以前にも書いたけど、コントにおけるリアリティって軽視されがちだよね。自然さがないと笑えるものも笑えなくなるんだけどな。


悲しい嘘

入院中の彼女が「他に好きな人ができたから別れて」と言いだした。彼氏が当惑しながらも問いただしてみると、悪性の腫瘍が見つかったので余命が長くないことがわかる。何があっても支えてやると誓う彼氏だが……。
これも「こうなるだろうな」という予想通りの展開。そしてもうひと展開あるわけでもなくそのまま終わってしまうので拍子抜け。
「ただの本当」「腫瘍と好きな人どっちもできたってこと?」など、一部のフレーズはおもしろかったけどね。


(幕間映像)私、嘘をつきます


『悲しい嘘』の登場人物による歌。そしてライブ物販の宣伝。

謝ろうとした日

豊本の軽率な発言により絶縁状態になっている豊本と角田。豊本は共通の知人である飯塚に頼んで、角田に謝る場を用意してもらう。だが豊本の言動には誠意が感じられず、おまけに角田は来る途中にハプニングにまきこまれてはじめから不機嫌。さらに大事にしていたTシャツやタオルを勝手に使われたことで飯塚まで怒りだし……。
よくできたコント、なんだけど、うーん、予定調和的というか……。
構成作家のオークラ氏の脚本らしいが、いつものオークラコント、って感じなんだよな……。バナナマンのコントライブでも最後のコントはだいたいこんなパターン。いざこざが描かれ、伏線が丁寧に回収され、すべての問題は解決しないけど少しだけ前向きな未来が提示され、軽いメッセージとともに叙情的なラストを迎える、というパターン。パターンというほど形式化されてるわけじゃないんだけど、でも毎回「最後はちょっといい話」だと飽きてしまう。
東京03の魅力って小ずるさ、虚栄心、妬み、僻みといった「誰しもかかえる醜い部分」の心理描写だと思うんだけど、このコントはその部分が弱い。「都会で成功している豊本に対する角田の嫉妬」はあるんだけど、それってすごくわかりやすいものだしね。「自分もそれなりにやってきたという自負」とかをもう少し掘りさげてほしかったな。

ただ、終盤で安易に「許す」と言わずに
「すぐには許せそうにないけど、そうなれるようにがんばってみるよ」
という台詞を言わせるところはすごく感心した。そうだよなあ、何年も恨んでいた相手に頭を下げられて「許すよ」と言ったらそれは嘘だもんなあ。小手先の感動狙いではない、実感のこもった台詞だ。


エンディングテーマ



後半は少し失速気味だったものの、総じて高いレベルの安定感。
腹を抱えて笑うという感じではないが、おっさんたちの無理のない演技が続くので疲れることなく観ていられる。こちらもおっさんなので「異質なもの」をずっと観るのはしんどいのよね。
118分というコントライブとしてはかなりの長さだが、音楽ありアニメーションありで退屈させない。コントの質の高さはもちろんだが、全体的なパフォーマンスとして見ても完璧といっていい出来だね。


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バカリズムライブ『類』


2018年4月8日日曜日

四歳児としりとりをするときの覚書



四歳の娘としりとりをするときに考えていること。

ボキャブラリーを増やしたい


意図的に「娘が使わなさそうな言葉」で返すようにしている。
ただし物の名前をそのまま表す言葉は、それを見ないと理解しにくいのでなるべく使わない。たとえば「アリジゴク」「すだれ」などは、それを見せて説明するのがいちばん正確なので、しりとりでは教えない。というより、それを見たことない四歳児に説明するのは不可能に近い。

四歳児でも理解できそうな概念的な言葉をよく使うようにしている。物そのものの名前ではなく、物のグループの名前とか。
昨日のしりとりでは「交代」「下着」「昔」「植物」などを言った。案の定、娘が「どういう意味?」と訊いてきたので、「代わりばんこすること」「パンツとかシャツとか、服の下に着る服」などと説明した。


同じ言葉で攻める


しりとりをしていると、「りんご」→「ゴリラ」→「ラッパ」→「パンダ」→「ダチョウ」のように流れが定型化してしまうことがよくある。
なるべく新しい単語を身につけてもらいたいので、意図的に同じ文字で攻める。「また『に』か~」と言わせる。
脊髄反射的に返せなくすることで新しい単語を必死に探すだろうし、そうすることで自分の語彙として定着するのではないかと思うので。


ヒントを与える


ほとんどの親がやっていると思うが、娘が答えに詰まったときにはヒントをあげる。
「砂漠にいる背中にこぶのある動物」など。答えたときは大げさに褒めてあげる。


動詞や形容詞は禁止しない


通常のしりとりでは用言(動詞、形容詞、形容動詞、助詞など)は禁止だが、娘とのしりとりでは禁止はしていない。「名詞だけだよ」と言ってうまく説明できる自信がないので。
禁止しているわけではないけど、ぼくは使わない。そうすると娘も意外と言わないものだ。
動詞や形容詞の語彙も増やしたいけど、語尾の文字がほとんど同じだからしりとり向きじゃないんだよねー。


恐竜の名前は勘弁してくれ


とまあいろいろ考えながらやっているのだが、恐竜がすべてを台無しにしてしまう。

娘は今恐竜にはまっていて、子どもの記憶力ってすごいからあっという間に数十種類の恐竜の名前を覚えてしまった。
しりとりをしていても「アロサウルス」「タルボサウルス」「カスモサウルス」「ケラトサウルス」「ワンナノワウルス」「ニッポノサウルス」「アンキロサウルス」「アルゼンチノサウルス」など、すぐに恐竜の名前で返してくる。
で、今書いたようにほとんどの恐竜の名前は「ス」で終わっている。
「ス」で終わらないのはミンミとかマイアサウラとかごく一部だけだ(ぼくもだいぶ恐竜の名前を覚えた)。

せめてもの抵抗としてぼくも「スイス」「スライス」「スタンス」「スペース」など "す返し" をするのだが、それすらも「ステゴサウルス」「スピノサウルス」「スティラコサウルス」「スコミムス」などではじき返されてしまう。


ほんと、恐竜の名前を次々に言われると「絶滅しろ!」と叫びたくなる。


2018年4月7日土曜日

音の発信源を特定する能力


四歳の娘とかくれんぼをしているときに気づいたんだけど、どうやら四歳児は「音の聞こえてくる方向」がわかっていない。

「もういいよー」と大声で言っているのに、ぼくのいる場所とは反対方向を探しにいく。

大人だったらそんなことはない。正確な位置までわからなくても、右から聞こえてきた音を左からだと間違うことはない(音の反射とかあればまたべつだけど)。

まあ四歳児だからな、と思っていたけど、こないだ六歳の男の子とかくれんぼをしたらやはり音の発信源を特定できておらず、見当違いの方向を探しにいっていた。

「音を聴いてその発信源を探知する」という能力は、どうやら生得的には備わってないらしい。



ぼくが小学校三年生ぐらいのときに友だちとかくれんぼをした際は、
「『もういいよー』と言うとどこにいるのかわかってしまうから、鬼は百秒たったら探しにいくこと」
というルールを採用していたと記憶している。

つまり、九歳頃には音を聴いて発信源を探す能力はある程度身についており、かつそれが当然のこととして共有されていたということになる。

個人差もあるだろうが、だいたい七歳ぐらいで「音発信源探知能力」が身につくようだ。


……遅すぎね?

生物として、生きのびる上でかなり基本的な能力じゃない?

たとえばオオカミのうなり声が聞こえてきたとき、きょろきょろあたりを見回してオオカミの位置を確認しているようじゃ、もう遅い。

現代では野生の生物に襲われる危険性はかなり低いけど、自動車やバイクという凶暴な物体が走りまわっている。
クラクションを聞いたら反対方向に逃げようとするのは本能的なものかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。学習によって後天的に身につけないといけないもののようだ。

人間、初期スペック低すぎない?


2018年4月6日金曜日

巨乳を測るニュートン氏


いわし氏(@strike_iwashi)、花泥棒氏(@hanadorobou)と酒を呑みながら話していて、
「温度の『摂氏』『華氏』って、なんであんな漢字を書くんだ?」
という話になった。


で、Wikipediaを見てみるとどうやら
摂氏は、考案者のセルシウスさんを中国語で「摂爾修斯」と表記するから、
華氏は、考案者のファーレンハイトさんを中国語で「華倫海特」と表記するから、
だそうだ。
つまり「摂氏」とは「セルシウス氏」ということらしい。

この表記はおもしろい。
人名に由来する単位は他にもたくさんある。たとえば力の大きさを表す「ニュートン(N)」。


「『10ニュートン』を『ニュー氏10度』と表記したらおもしろいのにね」

「そんなの『ニュー』を漢字で書いたらぜったいに『乳』でしょ」

「『乳氏10度』って書いたら、巨乳が重力で引っ張られる力を表す単位みたいな感じがしますね」

「あの巨乳にかかる力は乳氏88度、みたいなね」


というばか話をした数日後、中国語で「ニュートン」をどう表記するか調べたところ、「牛頓(niu-dun)」だった。
「乳」ではなかったが乳っぽさは残った。


2018年4月5日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉 美味礼賛』



『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉
美味礼賛』

桂 米朝

内容(e-honより)
第八巻は、「美味礼賛」。落語を聞いて「アッ、うまそう!」と思わず口中に唾がたまった経験はありませんか。食べものがテーマ、もしくは食べるシーンが一つの魅力になっている話を集める。最終巻につき、著者ごあいさつあり。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第八巻。

シリーズ最終巻ということで、「美味礼賛」というテーマこそあるものの、実質はいろんな噺の寄せ集め。
『鴻池の犬』『馬の田楽』なんかは、食べ物が主題じゃないしね。『鍋墨大根』『焼き塩』なんか食べるシーンすら出てこないし。『テレスコ』にいたっては食べ物かどうかすらわからないからね。


『桂米朝コレクション』シリーズ全八巻を読んだけど、これはほんとに価値のある本だね。噺を正確に収録しているのはもちろん、時代を映したマクラや米朝さんがどんな点に注意しながら演じているかというメモも残されていて、百年経っても価値を減じない(それどころか時代が立つほど価値が増す)史料になるのはまちがいない。
時代の変化とともにわかりづらくなった点を補足してくれているのもありがたい。

今は記録メディアが発達したのでDVDやYouTubeで正確に落語を残せるようになった。でも「わかりづらいけど解説をすると野暮になるのであえてそのままやる」とか「こういうやりかたもあったが今はこうしている」といった"演じなかったもの" は記録されない。

『桂米朝コレクション』は、そういう「名人の心遣い」の片鱗が見える、すばらしいシリーズだ。



饅頭こわい


若い衆が集まって、好きなものや怖いものの話をしている。中にひとり「饅頭がこわい」という男がいて、他の連中はそいつを怖がらせてやろうと饅頭を買い集めてくる……。

とても有名な噺なので説明する必要もないだろう。
ぼくが小学校のときにはじめて買ってもらった落語のカセットテープが桂米朝さんの『饅頭こわい』で、この噺と『だくだく』でぼくは落語に魅せられた。
この噺の魅力は「饅頭こわい」のくだりではなく、前半のばか話にあるとぼくは思っている。「どんぶり鉢」「おぼろ月夜」もいいし、特に「狐の恩返し」と「おやっさんが体験した怪談話」は、緊迫感のある展開とくだらない結末の落差が大きくて大好きだ。落語入門には最高の噺だね。


鹿政談


奈良の鹿は神の使いとされ、うっかり殺してしまおうものなら死罪となった時代の噺。
奈良の三条で豆腐屋を営む六兵衛という年寄りが、犬がきらず(=おから)を食べていると思い木片を投げたところ、当たりどころが悪かったのか死んでしまう。さらによく見ると犬ではなく鹿だった。
奉行所に連れていかれた六兵衛。しかしお奉行である根岸肥前守の「これは鹿ではなく犬だ」という寛大な判決によって許される……。

善男善女しか出てこないめずらしい噺。だからだろう、笑いどころは少ない。やっぱり強欲なやつや小ずるいやつが出てきたほうがおもしろい。
心優しいお奉行様の名裁き……ということなんだけど、しかしいくら正直なじいさんを助けるためとはいえ、事実をねじまげて、しかも部下たちに圧力をかけて忖度をさせているわけで、これって裁判官としてあかんのちゃうの? と法治国家に住む人間としては疑問を持ってしまう。悪法もまた法だろ、と。
『帯久』のときも思ったけど、お奉行様やりすぎじゃないですかね。

今でも奈良の鹿は天然記念物に指定されているが、昔はもっと厳しく保護されていたらしく、鹿を殺すと斬首されたり、子どもであっても生き埋めにされたり(三作石子詰め)したと言われている。
しかし鹿って農作物は食い荒らすし、発情期はけっこう荒っぽいし、昔は角も伐ってなかっただろうし、あいつらが我が物顔で歩いていたと思うと住人はたいへんだっただろうな。いや今でも我が物顔で歩いてるんだけどね。奈良公園周辺はすごいよ。「鹿飛び出し注意」の道路標識がいっぱいあるからね。


田楽喰い


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がない。そこで酒瓶を割ってしまったことにして兄貴の家にある酒を呑ませてもらう作戦を立てる。なかなか計画通りにいかないもののなんとか酒を呑ませてもらえることに。兄貴が「"ん"のつく言葉を言ったやつは、"ん"の数だけ田楽を食っていい」というゲームを発案し……。

落語における「企み」というのはだいたい成功しないものだけど、これはめずらしく(多少つまづくものの)思いどおりにいく。あれ、うまくいっちゃうのか、と拍子抜け。兄貴にばれて怒られるけど呑ませてもらえる、という展開のほうが納得がいくな。
後半の『ん』まわしゲームは、古今東西のようなパーティーゲームの元祖という感じだね。


鴻池の犬


ある商家の前に捨てられていた三匹の犬。丁稚がかわいがって育てていると、そのうちの一匹をもらいたいという人がやってくる。聞けば、誰もが知る大金持ちである鴻池善右衛門の息子がかわいがっていた犬が死んでしまったので、そっくりな犬をもらいたいとのこと。
鴻池家にもらわれた犬は身体も大きくなり、あたり一帯の犬社会を牛耳るボスになる。そこに現れた病気でひょろひょろの犬。話を聞いてみると、鴻池の犬の弟だったということがわかる……。

前半は商家の人々のやりとりが丁寧に描かれるのだが、後半はうってかわって犬社会の話になり、犬同士の会話から成る落語になるというナンセンスな展開。
犬が出てくる落語には『犬の目』『元犬』などがあるが、それらは野良犬。ペットとしての犬が出てくるのはめずらしい。江戸時代には、犬を飼うという習慣は(少なくとも庶民には)ほとんどなかったんだろう。
後半は急に漫画的になるのであまり好きじゃないけど、犬をあげたお礼が大層すぎるという理由で番頭さんが小言をいうシーンは商人のプライドが感じられて好き。


鯉舟


磯七という髪結い(出張床屋)が若旦那のお供で鯉釣りに出かける。舟の上で大騒ぎする磯七だが、見事大きな鯉を釣りあげる。しかし鯉を裁こうとどたばたしているうちに鯉が逃げてしまい……。

髪結いが出てくるめずらしい落語。床屋兼幇間(太鼓持ち)みたいな存在だったのかな。逃げた鯉が戻ってきてしゃべる、というばかばかしいサゲはけっこう好き。落語って「え? 今ので終わり?」みたいな唐突な終わり方をすることがよくあるけど、この噺みたいに「はいこれがサゲ!」ってわかりやすいほうが好き。


京の茶漬


京都ではお客が帰るときには「せっかくですからお茶漬けでも……」と声を掛ける習慣がある。辞退するのが礼儀だが、ある物好きな男が一度「京の茶漬け」を食べてみたいと思い、そのためだけにわざわざ京都の知り合いの家を訪ねる。主人は留守で、嫁さんを相手に話しこむ。帰ろうとした男に「ちょっとお茶漬けでも」と声をかける嫁さん、「さよか、えらいすんまへんなあ」と座りなおす男。
ところがご飯がほとんど残っていない。なんとかして残りご飯をかき集めてお茶漬けを出した嫁さんだが、男はなんとかしてお代わりをもらおうとして……。

落語の京都人は嫌味でせこい人物として描かれることが多いが、この噺に出てくる京都人の嫁さんはぜんぜん嫌味なところもなく、たまたまご飯が残っていないところに妙な客人が来て困惑させられてかわいそう。
子どものときに『今日の茶漬け』を聞いてもいまひとつぴんと来なかったが、これは高度な心理戦だから子どもには理解しにくいよなあ。「なんとかして『お代わりでもどうですか』と言わせようとする客」と「その意図に気づいていながらわざと気づかないふりをする嫁さん」という、なんとも繊細なせめぎあい。
大笑いする類の噺ではないが、意地悪い視点ににやにやさせられる。


近眼の煮売屋(ちかめのにうりや)


ある男がごちそうを並べて酒を呑んでいる。やってきた友人がこんなごちそうどうしたんだと尋ねると、煮売屋の近眼の親父を突きとばして盗ってきたんだと冗談で返す。ところが友人はそれを真に受けてしまい、煮売屋に行って親父を突きとばして帰ってくる……。

ずいぶんひどい噺だ。いきなり突きとばされる煮売屋、かわいそう。
総菜屋兼居酒屋のような店だそうだ。『東の旅』の『煮売屋』にも出てくるね。
きずし、このわた、イカの木の芽和え、サワラの照り焼き、焼き豆腐……。ずいぶんうまそうなもの食ってるなあ。


鍋墨大根


振り売り(移動販売)の八百屋、長屋のおかみさんにうまく値切られて安く大根を買われてしまう。悔しいので指定されたのとは別の細い大根を持っていくと「これじゃない。さっき鍋の底の墨を大根につけておいたからわかる」と言われ、その手口に感心する。
八百屋が向いていないので駕籠屋に転身。すると、ちょっと目を離したすきに乗せた客が関取に入れ替わっており、「しもた。さいぜんの客に、鍋墨塗っといたらよかった」……。

小噺のような短い噺。
駕籠の中身が入れ替わっているというくだりは、『住吉駕籠』の後半によく似ている。でも『住吉駕籠』の「こっそり二人で乗っている」というシチュエーションのほうがビジュアル的におもしろいなあ。


焼き塩


商家の女中さんのところに故郷から手紙が届くが、文字が読めないので通りかかった侍に読んでもらう。すると侍が涙を流しはじめたので、「故郷の親の容態が悪いと以前から聞いていたのでこれは悪い便りにちがいない」と女中さんも涙を流す。侍と女中がいっしょに泣いているのを見た塩売りの親父、身分違いの恋がうまくいかなかったのだろうと勘違いしてもらい泣き。しかし侍は文字が読めずに人前で恥をかいたので悔し涙を流していただけだったとわかり……。

これも小噺のような短さ。
枕の「『司』という字を魚屋に訊いたら『同という字を二枚におろして、骨付きのほうや』という答えが返ってきた」とか、字が読めない父親が子どもに字を訊かれてへりくつをこねるところのほうが本編よりおもしろいな。


小咄・たけのこ


隣家の筍が、塀のこちら側に生えてきた。それを見た侍、使いを隣にやって「ご当家のたけのこが手前どもの庭へ入ってきたので召し捕って手討ちにいたす」と伝えさせる。すると隣家の主人は「お手討ちはやむをえませんが遺骸はこちらへお下げ渡しを」と返す……。

短い噺だが大仰な言い回しがおもしろい。落語に登場する侍はいばりくさっていたり、堅物だったりするけど、こういうユーモアを解する侍ってめずらしいな。
「塀を越えて生えてきたタケノコを取って食べてもいいか」ってよく法律の教科書に出てくるよね。たしかタケノコはオッケーで柿はだめだったはず。


馬の田楽


つながれている馬の前で子どもたちが遊んでいる。ひとりの子どもが度胸試しで馬の尾の毛をまとめて引っぱったところ、驚いた馬が走って逃げてしまった。
馬方が現れ、馬がいなくなっていることに気づいてあわてて追いかける。いろんな人に馬がどこに行ったか尋ねるが誰も協力的でなく……。

まだ馬が街中にいた時代の噺。子どもたちが「馬の腹の下をくぐれるか」「馬の尾の毛を抜けるか」と度胸試しをするシーンが出てくる。
そういやぼくも小学生のころ、「走っている車にどれぐらい近づけるか」「走っている車にさわれるか」という度胸試しをしていたのを思いだした。今考えるととんでもない遊びだけど、昔から男子のばかさは変わらないんだねえ。


ためし酒


尾張屋の旦那が、近江屋の旦那に一升入るという大きな杯を見せる。近江屋の旦那が「うちの下男の権助ならその杯で五杯の酒を呑める」と言いだし、尾張屋は「いくらなんでもそんなに呑めるわけがない」と言う。有馬旅行の旅費を賭けて五升の酒が飲めるか試すことに。
連れてこられた権助は「ちょっと考えさせとくなはれ」とどこかに行ってしまうが、しばらくして戻ってきて酒を呑みはじめる。つらそうにしながらも五升を飲み干した権助。尾張屋が「さっきおまえはどこかへ行っていたが酒を呑めるようになる薬でも飲みに行っていたのか」と尋ねると……。

なんと、元はイギリスのジョークらしい。初代快楽亭ブラック(イギリス人。『美味しんぼ』に出てくる落語家のモデル)がイギリスから持ちこんだ小噺を落語に仕立て直したのだとか。輸入品とは思えないほどどこをとっても見事な落語になっている。


寄合酒


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がないのでそれぞれ一品ずつ持ち寄ろうという話になる。酒屋を騙して入れさせた酒、犬から奪いとった鯛、乾物屋が気づかないうちに持ってきた棒鱈と数の子、子どもを脅かして持ってきた鰹節、丁稚から盗んできた味噌と根深(ネギ)など、ろくでもない方法ではあるがごちそうが集まる。
ところが慣れない男たちが料理をするものだから、鯛を犬にやってしまったり、火をつけるのに失敗したり、数の子を焚いてしまったり、酒をひとりで飲み干してしまったり、鰹節でとった出汁を捨ててしまったりと失敗ばかり……。

導入は『田楽喰い』とほぼ一緒だが(『寄合酒』→『田楽喰い』という流れでひとつの噺としてかけられることもあるという)、こちらのほうがわかりやすくておもしろい。
悪知恵をはたらかしていろんな食材を集めるところ、せっかく集めた食べ物をすべて台無しにしてしまうくだりなど、笑いが途絶えることがない。
ここまで笑いどころの多い落語もそう多くないね。


ひとり酒盛


引越してきた男、手伝いにきてくれた友人に「何もしなくていい」と言いながら、あれこれと仕事をさせる。ようやく落ち着いて酒でも飲もうかとなっても、なんだかんだと言いながら自分ひとりで飲んでばかり。ついに堪忍袋の緒が切れた友人が家を飛び出していく……。

この噺は、九割ほどはひとり語りで進んでいく。落語は基本的に会話の芸だが、これはほとんど「ひとり芝居」だ。それでもうまい人がやると他の人物の姿が見える。桂米朝さんの『ひとり酒盛』を聴いたことがあるが、ちゃんと友だちの存在が感じられた。
ここまでやるのならもうぜんぶひとりの台詞にしてしまったほうがおもしろいんじゃないかなと思う(容易にできるだろう)。


禍は下


網打ち(魚捕り)に行くと言って丁稚の定吉を連れて出かけた商家の旦那。向かった先はお妾さんの家。お妾さんの家に泊まることにした旦那は、定吉に「羽織と袴を持って帰って、途中の魚屋で買った魚をお土産として渡すように」と命じる。
ところが定吉が買って帰ったのはめざしとちりめんじゃことかまぼこ。お内儀さんに「こんな魚が捕れるわけがない」と言われるが、なんとかごまかす。ところが袴の畳み方がきれいだったためにお妾さんの家に行っていたことがばれ……。

「禍(わざわい)は下より起こる」ということわざがあるそうだ。わざわいは下々のことの過失から起きる、という意味だそうだ。あんまり納得のできないことわざだな。小さい過ちは現場のミスかもしれないけど、大きなわざわいはトップの方針の過ち、というケースが多いと思うんだけど。

めざしとちりめんじゃことかまぼこを買って「網にかかった魚です」というところはわかりやすくてよくできたギャグだ。
流れも自然でおもしろいし、知っている人に見つからないように提灯の家紋を隠す、魚捕りやお妾さんの家に行くのに羽織袴を着ている、なんて昔の風俗もちりばめられていて、いい噺だ。


テレスコ


肥前(長崎)で変わった魚が捕れた。めずらしい魚なので、誰もその名前を知らない。代官所が「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出すと、仁助という漁師が現れて「これはテレスコという魚です」と言うので十両を渡した。
後日、代官がその魚を天日干しにしたところ、元の姿とは似ても似つかぬ形になった。そこで「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出したところ、また仁助がやってきて「これはステレンキョウです」と言う。
同じ魚なのに違う名前で呼ぶとは代官所をだまして金をとるため、不届き千万ということであろうと仁助は捕まえられ、死罪を宣告される。最期に女房・子供に会いたいという仁助の願いが聞き入れられ、仁助が助かるように火物断ち(火の通った食べ物を断つこと)をして神仏にお祈りしているという女房がやってくる。そこで仁助は「子どもにイカの干したのをスルメと言わすな」と言い、それを聞いた代官が干せば名前が変わることもあると気づいて仁助は無罪放免……。

ずいぶん妙なタイトルだと思ったら、なるほどこういう噺ね。『ちりとてちん』と同じような趣向だね。
元は「イカの干したのをスルメと言わすな」でサゲていたのだが、それではわかりにくいということでこの形に変わったのだそうだ。「スルメと言わすな」のほうがスマートだけど、やっぱりその後の無罪放免となるところまでやったほうが断然いいね。「スルメと言わすな」で終わったら、仁助が打ち首になるかどうかわからなくてもやもやするから。


馬の尾


魚釣りにいこうとする男が、テグスにするために馬の尾の毛を抜く。それを見ていた友人が血相を変えて「馬の尾を抜くなんてなんてことをするんだ!」と騒ぎだした。不安になった男が「馬の尾を抜くとどうなるんだ」と尋ねるが、友人はとんでもないことをしたなと騒ぐばかり。酒や肴をごちそうしてなんとか聞きだそうとするが、友人はなかなか教えてくれず……。

特に何も起こらず、しかも聴いている人には早めに結末がわかってしまう。
個人的には、最後まで真相がわからず後味の悪さを残したほうがおもしろいと思う。落語っぽくはなくなるけど。


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2018年4月4日水曜日

改札に引っかかった間抜けの末路


都会の通勤電車における三つの大罪といえば、「歩きスマホ」「傘の先を後ろに向ける」と並んで、「改札退場時に引っかかる」が挙げられることはご承知の通りだ。

ただ、歩きスマホや傘の持ち方とは違い、どれだけ気を付けていても引っかかってしまうのが詐欺と改札だ。
誰もが他人事ではない。「おれはぜったい大丈夫」とは思えない。ぼくも毎朝ラッシュ時に改札を通るときに「引っかかったらどうしよう」と戦々恐々としている。

誰もが陥りかねない罠なのに、改札に引っかかった人に対して周囲の人々がとる対応はあまりにも冷酷。
目の前の人が改札に踏み込んだ瞬間「ピンポーン!」と鳴る。このとき、その直後を歩いていた人が顔をしかめる確率は百パーセントであることが我々の調査でわかっている。ちなみに、二つ後ろを歩いていた人が顔をしかめる確率は八十四パーセントだ。

「あのマザー・テレサですら、前の人間が改札に引っかかったときに舌打ちをした」という話がまことしやかに伝えられている。この話が事実かどうかはわからないが(ぼくが今つくった話なのでたぶん嘘だろう)、さもありなんと思わせるだけの説得力があるのは、それだけ改札に引っかかった人に対して憎しみを抱くのが自然なことだからだ。もしかすると狩猟時代から備わる人間の本能なのかもしれない。それが何の役に立つのかはわからないが、本能とはそういうものだ。

イエス・キリストは云った。
「自動改札に引っかかったことのない者だけが、改札に引っかかった者に対して顔をしかめ、舌打ちをしなさい」

すると人々はあからさまに迷惑そうな顔をし、舌打ちをしながらイエス・キリストを避けて別の改札に並びなおした。


人種、性別、出自、身体的特徴。
すべての差別がなくなったとしても、「改札に引っかかった人差別」がなくなる日は来ないだろう。

改札に引っかかった人は一瞬にして周囲の注目を集め、冷ややかな視線を浴びることになる。
「後続に迷惑かけてんじゃねえよ」
「まあダサい」
「あら営業一課のハセガワさんだわ。すてきな人だと思ってたのに、幻滅」
「おやあれはハセガワくんか。仕事のできる若手だと思ってたのに、改札に引っかかるようじゃ大事な仕事は任せられんな」
と、たちまち彼の評価は暴落。よくて左遷、悪くて解雇。
状況的には痴漢で捕まったときと同じだ。いや、痴漢の場合は冤罪の可能性があるだけまだましかもしれない。



差別の原因は、「改札に引っかかった人は後退しないといけない」というルールだ。そのせいで著しい通行の妨げになる。

たとえば「料金不足で『ピンポーン』という音が鳴った場合はそのまま改札を出た後に差額を清算しなければならない」だったなら、後続の人たちに迷惑をかけることもなく、犯罪者のような扱いを受けることはないだろうに。

しかしこのシステムを導入すると、料金を清算せずに逃げるやつが現れる。

そこでぼくが提案する唯一のソリューションは、
「改札に引っかかったら床に穴が開いて、引っかかった犯人がそこに転落する」だ。
直後にまた穴がふさがれるようにすれば後続の人たちは滞りなく通過できるし、犯人も周囲から後ろ指をさされることがない。

被害者の便益と加害者の人権の両方を守れるすばらしい制度だと思うので、鉄道会社の人はぜひ導入のご検討を。


2018年4月3日火曜日

いとあざとし


四歳の娘は、ご飯が終わるとぼくの膝に乗ってくる。

ぼくが読んでいる本をのぞきこんで、わからないくせに「なるほど」などとうなずいている様はいとをかし。

しかしご飯がついたべたべたの手で服をさわってくるのは勘弁してもらいたい。


「ごはん終わったら手を洗ってきてね」

「ごちそうさましたら、はみがきしぃやー」

と告げると、娘はこう返す。

「いやや。ここにいる。だっておとうちゃんが好きだから」


ずるい。さすがは女の子。やり口が非常にあざとい。

そんなこと言われたら、ねえ。

もう、ねえ。

ずるいよ、ねえ。

そんなの言われて「早くお膝から降りて手を洗ってきなさい」と言えるお父ちゃんが世の中にいますかっての。

2018年4月2日月曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉
芸道百般』

桂 米朝

内容(e-honより)
ますます円熟する上方落語の第一人者、桂米朝の落語の世界。第七巻は、「芸道百般」。さまざまな芸能、芸事にかかわる落語集。いまや失われてしまった芸の中に、大道華やかなりし日本のいにしえを偲ぶことができる。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第七巻。

歌舞伎、浄瑠璃、講談などを扱った噺が多いが、芝居の台詞があたりまえのように引用されていたりするので昔の人にとっての一般教養だったんだな。今だと『となりのトトロ』や『STAR WARS』の台詞が特に説明なしで用いられてもだいたい通じるようなものかな。ま、ぼくは『STAR WARS』観たことないんだけど。


軒づけ


浄瑠璃の稽古に励む若者たち。自分たちの浄瑠璃を聴いてくれる人がいないので、軒づけをしようと考えた。ところがまともに三味線を弾けるものがおらず、どの家に行っても迷惑がられてばかり……。

「軒づけ」とは、一軒一軒家をまわって軒先で浄瑠璃を披露することだそうだ。今でいうストリートミュージシャンのようなものだね。でも駅前とかでやるストリートミュージシャンとちがって知らない人の家の前まで押しかけて浄瑠璃を聞かせるわけだから、昔の人は積極的だったんだなあ。今だったら警察呼ばれるな。

ありがたいことに「軒づけ」という迷惑千万な風習はもうなくなったけど、で、選挙カーはいつなくなるの?


花筏


大坂相撲の大関である花筏が病気で巡業に行けなくなった。そこで花筏に顔が似ており、身体も大きい提灯職人の徳さんが代役をすることになった。相撲はとらなくていいという条件で高砂巡業に行くことになった徳さん。はじめはばれないかとびくびくしていたが、徐々に気が大きくなり、さんざん飲み食いするわ、はては夜這いまでするわで、実は元気なのではないかと疑念を持たれるようになり、地元の力自慢である千鳥が浜との取り組みを組まされてしまった。
一方千鳥が浜は、花筏が自分を殺そうとしていると父親から聞かされてすっかり怖気づいてしまう。
わざと負けようとする花筏(徳さん)と、花筏に殺されると思いこんでいる千鳥が浜の対戦がいよいよ始まり……。

大正時代に消滅した大坂相撲にまつわる噺。昔の相撲は地方巡業に行くと、その土地の力自慢と対戦していたそうだ。地元の強いやつが大坂の強い力士を破ったりしたら盛り上がるだろうなあ。今もやったらおもしろいだろうけど、力士の大型化が進んでいる今では危険きわまりないだろうな。
徳さんにとって思いもよらぬ方向に転がる展開、徳さんと千鳥が浜それぞれの心中描写、ぐっと引きこまれ盛り上がるクライマックス、そして冒頭の提灯職人を活かしたサゲと、完成度の高い噺。


蔵丁稚


芝居好きの丁稚、仕事をサボって芝居を観にいっていたことが旦那にばれて、蔵に閉じこめられてしまう。腹が減った丁稚は気を紛らわすためにひとりで芝居をすることにし、切腹のシーンを再現する。蔵の中を覗いていた女中が丁稚が本当に切腹しようとしていると勘違いしてあわてて旦那に報告。旦那もあわてて蔵に駆けつける……。

娯楽の少なかった時代、芝居の魅力に憑りつかれる人は今よりずっと多かったのだろう。
なんか見たことあるようなエピソードだな、と思ったらあれだ。『ガラスの仮面』の1巻だ。ラーメンの配達に行った北島マヤが途中でお芝居ごっこにはまってしまい、帰るのが遅くなってめちゃくちゃ叱られるやつだ。あとマヤも少しドラマを観ただけで台詞を完璧に覚えられたしな。一緒だね。千の仮面を持つ丁稚。


七段目


芝居好きの若旦那、商売をほったらかして芝居見物ばかりに興じている。二階に閉じ込められてしまった若旦那は、やはり芝居好きの丁稚をつかまえて一緒に芝居ごっこをはじめる。夢中になるあまり丁稚が階段から転げ落ちてしまう……。

特にこれといったおもしろい展開もなく、ただ芝居ごっこをするだけ。芝居の元ネタを知らないと退屈な噺だ。


蛸芝居


とある商家、旦那はおろか番頭、丁稚、女中などみんなが芝居好きで、なにかというとすぐに芝居の真似事がはじまってしまう。やってきた魚屋も芝居に熱中してしまい、さらには買ってきたタコまでが芝居をはじめて……。

これも『蔵丁稚』や『七段目』と同じく「芝居好きの人物が芝居の真似事をしているうちに熱演してしまう」タイプの噺だが、ユニークなのは「一家そろって全員芝居好き」という点と「タコまでが芝居をはじめる」という後半のナンセンスさ。
どんな会話をしても芝居になってしまうという展開、ラーメンズのコント『映画好きの二人』を思いだした。


動物園


早起きはしなくてよく、重いものも持たず、責任もなく、人としゃべらず、ごろごろ昼寝をしているだけで金がもらえる仕事がしたいという男。持ちかけられたのは、死んだ虎の皮を着て移動動物園の檻の中にいるという仕事。
これは楽だと快適に過ごしていたら「ライオンと虎の対決ショー」が始まると聞いて大あわて……。

わりと有名なストーリーだが、それだけよくできた噺だからだろう。「死んだ虎の毛皮を着て人間が虎のふりをする」という実際にあってもおかしくなさそうな絶妙な設定や、ライオンと対決しなければならない緊張感、その緊張が一気にほぐれる秀逸なサゲまで、どこをとっても無駄がない。

「移動動物園」は今もあって家畜や小動物が中心だが、かつてはカバやゾウを連れて移動していたこともあったらしい。ゾウなんかトラックで運べたのかな。自分で歩かせていたのかもしれない。さすがにトラやライオンはないかな。


あくびの稽古


歌、踊り、浄瑠璃など何を習ってもうまくできず長続きしない男、「あくび」を教えてもらいにいくのでついてきてほしいと友人に頼みこむ。さまざまなシチュエーションでのあくびのしかたを教える先生、なかなかうまくできない男。付き添いで来た友人はすっかり退屈してしまいあくびをする……。

『あくび指南』とも。ロバートのコントってこういう設定が多いよね。変なスクールがあって、うさんくさい講師(秋山)が他のふたりに何の役にも立たないことを教える、っていう構成。


くしゃみ講釈


女と逢引きをしていたら講釈師に邪魔をされた男、仕返しをしてやろうと一計を案じる。胡椒をくすべてくしゃみをさせ、講釈をできないようにしてやろうというものだ。
ところが記憶力が悪いため「八百屋で胡椒を買う」ということが憶えられない。兄貴分は、のぞきからくりの演目『八百屋お七』に引っかけて憶えれば忘れないと説くが、男は八百屋まで行ったもののどうしても思いだすことができないため店先で『八百屋お七』を演じることになる。
胡椒が売り切れていたため、やはりくしゃみが出るという唐辛子を買ってきた男。講釈場に乗りこんでいって唐辛子を火鉢にふりかけると、はたして講釈師はくしゃみが止まらなくなる……。

逢引きを邪魔されるくだり、兄貴分から悪知恵を授かる会話シーン、八百屋に行ってくりひろげられるドタバタ、それぞれに笑いどころが多く、また『八百屋お七』や講釈の『難波戦記』を披露するシーンがあるなど、見どころの多い噺。これを演じるのはたいへんだろうなあ。
いかめしい講釈が続いた後にくしゃみの連発、という緊張と緩和も見事。よくできた噺なのだが、それだけにサゲがいまいち腑に落ちないのが残念。
サゲの直前で講釈師が「何か故障でもおありか?」と尋ねるのだが、これの意味が今ではまずわからない。「何かご不満でも?」という意味なのだそうだが、こんな用法他に聞いたことがない。かといって他の言い回しでは「故障」と「胡椒」を引っかけたサゲにつながらないしなあ……。
他のパターンもあるらしいが、どれもいまいち鮮やかに決まらないんだよね……。


蟇の油(がまのあぶら)


往来にて立て板に水の調子で演説を披露してがまの油を売っていた男、酒を飲んでべろべろになったところでもうひと稼ぎしようとするが、今度はろれつが回らずうまく話すことができない……。

まず見事なお手本を見せておいて、その後に失敗例を見せるという「オウム」パターン。
ただし『子ほめ』や『時うどん』のような「オウム」と違うのは、一回目と二回目を演じるのが同一人物という設定。
うーん、「いつもはうまい人が酔っているせいでうまくできない」だと「うっかり者が生半可な知識でやろうとしたせいでうまくできない」ほど笑いにつながりにくいな。「まあ酔ってるからしょうがないね」と思ってしまう。
かといって、この長くて流暢に並びたてる台詞を「一度聞いただけでやってみる」とするには無理があるしなあ。

本筋よりも、昔の大道芸について語ったマクラのほうがおもしろい。

 お客がぎーっちり立って、ここでおかしなこと言うてたら、折角ついた客が離れる。逃げるというときには、また足止めという手があって、客の足をピタッと釘づけにする方法がある。
「ちょっと言うとくけどな、懐中物気ィつけてや。ふところ、財布。こン中にスリが三人おるで。……うそやない、うそやない。長年ここで商売してんねん、わしのにらんだ眼に狂いはない。誰やちゅうことは言わんけど、スリが三人おる。手ェ組んで仕事してんねん。取られてから言うてきても知らんで、気ィつけや。スリが三人おるで、ええか。こういうて逃げた奴がそれや」
 ……ほな、皆動けんようになってしまう。もうボチボチあっちへ行こかいなあ思てても、今動いたらスリやと思われるさかい、しゃあないさかいほとぼりのさめるまで、阿呆みたいな顔してボーと、こう立ってんならんちゅうことになるんでっさかい。


軽業


伊勢参りの帰りにある村に立ち寄ったふたりの男。さまざまな出し物をやっていたので見物することに。「一間の大鼬(いたち)」や「天竺の孔雀」「目が三つ、歯が二本のタゲ」「取ったり見たり」といった見世物に金を払うが、どれもインチキばかり。
これなら騙されないだろうと軽業興行を見物。しかし軽業師が綱から墜落してしまう……。

軽業のくだりは視覚的に見せる部分なので、活字で読んでもさっぱりわからない。
前半の「ものものしい看板」と「ばかばかしい正体」の落差がおもしろい。詐欺なんだけどだまされたほうが思わず笑ってしまような商売も、昔はほんとにあったのかもしれないと思わせる魅力があるね。


看板の一(ぴん)


サイコロ賭博をしている若い衆が、金を持っているところからまきあげようと隠居の爺さんを連れてくる。爺さんが親をするが、サイコロが筒の外にこぼれ落ちていて一の目が丸見え。みんな一に張るが、爺さんは「これは看板の一だ」といってサイコロをふところにしまう。はたして出た目は五。「これに懲りたらしょうもないことを企むなよ」と言い残して立ち去る爺さん。
それを真似しようと考えた男、みんなを集めて同じ手で引っかけようとする。サイコロをこぼしたふりをして全員に一に賭けさせるところまではうまくいったが、筒をあけたら一が出てしまう……。

これは江戸落語を米朝さんが関西に輸入(?)した噺だそうだ。
前半で「ん? 看板の一を見せたところで当たる確率は六分の一のままでは?」と思ったのだが、やはり思ったとおりの展開に。
ということは爺さんは「看板の一」のほかにもうひとつトリックを使っていたんだろうな。むしろそっちのイカサマのほうがメインで、「看板の一」は本命のトリックから目をそらさせるためのミスリードだろう。
「だまされた!」と思ったら、まさかもうひとつもトリックがあるとは思わないもんな。じつに巧妙なやり口だ。どんな手を使ったかはわからないが。


抜け雀


流行らない宿屋にやってきた汚らしい身なりの客。毎日毎日酒を呑んでばかり。宿屋の主人が酒代の催促に行くと、実は金を持ってないことが判明。私は絵師なので代金の代わりに絵を描いてやろうといい、屏風に雀の絵を描いて立ち去ってしまう。
翌朝、屏風から雀が抜けでて飛んでいるところを見た宿屋の主人はびっくり。たちまち評判になり、この雀を見ようと大勢の客が押しかけるようになった。
しばらくして現れた老人が「このままだと雀はもうすぐ死ぬぞ」と言い、屏風に鳥籠を書きそえてやると雀たちは籠に入って休むようになった。
またしばらくして、雀の絵を描いた絵師が現れ……。

「名人の描いた絵から生き物が出てくる」というのは古今東西よくある怪異譚なんだけど(落語の『ぬの字鼠』もそうだね)、それだけで終わらせずに絵師が残した「ぜったいに売ってはいけない」という言葉やもうひとりの絵師による「この雀は死ぬぞ」という謎めいた言葉など、ミステリアスさを持続するアクセントが効いており、中盤以降は笑いどころがほとんどないのに聞き入ってしまう。

サゲの「親に籠(駕籠)を描かせた(舁かせた)」は『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』から来ているらしいが……、ま、今ではさっぱりわからんね。


一文笛


秀というスリが鮮やかな手口で財布を掏り、スリ仲間に自慢をする。足を洗って堅気になった兄貴に「わしは金を掏られて困るような相手を狙ったことはない。金に余裕のあるやつや悪人からしか掏ったことはない」とうそぶく。
ところが、兄貴から聞かされた話によると、秀が貧しい子どもに恵んでやるためにおもちゃの笛を掏ったことが原因で、その子が泥棒の疑いをかけられ、父親から厳しく責められたことを悲観して自ら井戸に飛びこみ、意識不明の重体だという。
自分のやったことが原因で子どもが危篤状態にあることを知った秀は、匕首で自分の右手の指を切り落とし、二度と盗みはやらないと誓う。
だが子どもを助けるためには高い金を払って入院させないといけないと知り、最後のスリだとして腕は確かだが強欲な医者から金を掏る……。

米朝さんがつくった落語。米朝さんといえば古典落語が多いので創作はめずらしいが、実によくできた噺だ。
意外性のある導入、鮮やかなスリの手口、スリでありながら魅力的な秀というキャラクター、子どもが危篤に陥りスリが自らの指を落とすというスリリングな展開、安易に悪事を讃えない倫理性、人情味のある終盤、そして全体の雰囲気を壊さないサゲ。落語の魅力がぜんぶ詰まったような噺だ。

「長屋の者が気がついてじきに引き上げた。息は吹き返したけど気がつかん、ずうと寝たきりや。おい、子供が可哀そうやと思うたら、たかだか五厘か一銭のおもちゃの笛、何で銭出して買うてやらんねん。それが盗人根性ちゅうのや。お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか。ええ、最前偉そうな事ぬかしたな。この金が無かったら困るような人の懐中はねらわん、それが何でお前にわかるねん。どんな恰好してようと、誰が持ってようと、その金がどんな事情のある金か、回りまわってどこの誰がどない迷惑するか、一ぺんでも考えたことあるのかい。生意気なほげた叩くな」

兄貴が秀にするこの説教、染みるなあ。特に「お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか」が。これ言われたら針のむしろだわ。これは歳を重ねてないとできない説教だ。

前半の「煙草入れを掏ることができなかったから売ってほしいと持ちかけてくるスリ」のくだりはめちゃくちゃ鮮やかだ。と思ったら講談の『仕立屋銀次』などから拝借したものらしい。
こういう、いいものはどんどん取り入れることができるのが落語の強みだよね。著作権の意識のない時代の芸能なので、いいものはどんどんパクる。

著作権がなければ文化の発展速度はめちゃくちゃ上がるだろうね。ある程度は保護したほうがいいけど、著作権は作者の死と同時に消滅するぐらいでいいんじゃないかな。


不動坊


長屋に住む利吉のもとに家主がやってきて、縁談を持ちかける。相手は講釈師・不動坊火焔の妻であるお滝。不動坊火焔が病気で死んでしまったので、葬式代などを立て替える代わりに嫁にもらうということで話がまとまった。
嫁がくるということで浮かれている利吉、銭湯に行って新婚生活の妄想にふけっているうちに、同じ長屋に住む独身男たちの悪口を言ってしまう。それを聞いていた独身男たち、利吉を脅かせてやろうといたずらを企てる。軽田道斎という講釈師をけしかけ、道斎に幽霊の恰好をさせて利吉の家の屋根に昇り、屋根の上からサラシで道斎を吊りおろす。
ところが利吉は幽霊に扮した道斎を見ても怖がらず、逆に道斎が金で買収されてしまう。さらにサラシが切れてしまい道斎が下に落ちて……。

前半は利吉の浮かれ具合が笑いを誘い、後半は独身男三人衆+軽田道斎のドタバタ劇が大笑いを生む。
嫁さんが来ることで舞いあがる利吉、嫉妬から嫌がらせをしようとする男たち、自分をふった女に仕返ししようとするも金に目がくらんでしまう講釈師、それぞれの人間くささが出ていて楽しい。


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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


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ツイートまとめ 2018年2月


どっちもどっち

京都検定

呪う権利


加齢

誰だ!

期待


冗談

誤植

雛壇

軍団

枕


パパ

服育

隠語

ろくでもない



ピョンチャンオリンピック









ロワイヤル

ギャンブル

年寄り

おにぎり

ぜんぜん

1toZ

区別

毛

不具合

ドラえもん

元号表記

睡眠導入剤

裁量労働制

オリジナル曲

落語

沖縄

善意の第三者

評価基準