2020年7月30日木曜日

【読書感想文】そんなことまでわかるのにそんなこともわからないの? / マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』

数字の国のミステリー

マーカス・デュ・ソートイ(著)  冨永星(訳)

内容(e-honより)
素数ゼミが17年に一度しか孵化しない理由、世界一まるいサッカーボールを作る方法、雷とブロッコリーと株式市場に共通するもの、ベッカムのフリーキックが曲がる理由、パーティで仲の悪い二人が二人きりにならないようにする方法…。今なおトップクラスの現役数学者である著者が、数学の現場の豊富なエピソードを交えながら、この不思議で美しいワンダーランドをご案内します!
高校数学は得意だった(センター試験で数学ⅠAと数学ⅡBの両方100点だったのが自慢!)。
でも大学では文系の道に進んだ。

この話をすると数学が得意でなかった人には「そんなに数学が得意なのに文系に行くなんてもったいない!」と言われるが、数学の奥深さを知っている人間ならわかるだろう。
高校数学ができることとその後の数学をやっていくことはまったく別ものだ。

ぼくは大学に進んでから理学部の数学専攻の人間を幾人か見てきたが、ヤバいやつだらけだった。
休み時間や食事中も楽しそうに数学の話をしているやつや、九次元世界をイメージしているやつや、頭の中だけで麻雀をするようなやつがいた(そいつの話では、訓練すると完全ランダムで牌が引けるようになるらしい)。

つくづく「ああ、“高校数学が得意”ぐらいの自信で数学の道を志さなくてよかった」とおもったものだ。
「世界をすべて数学でとらえる」ぐらいの人間じゃないと足を踏み入れてはいけない世界なのだ。



自分は「数学の世界のスタートラインに立ったぐらいでやめてしまった」人間だが、数学者の話を聞くのはおもしろい。

学生時代は矢野健太郎さんの数学エッセイや数理パズルの本をよく読んでいた。

数学史を読むと、人間って数学的才能はぜんぜん進歩してないんだなと感じる。

たとえばスポーツなんかだと、五十年前と今とではまったくレベルが違う。
数十年前は世界トップの体操選手が「C難度!すごい!」ってやってたのに、今はC難度の技なんて準備体操みたいなもんで、F難度G難度とやりあっている。

ところが数学はそんなことない。千年前の人が発見した理論が今見てもめちゃくちゃすごかったり、百年前の人が出した問題が今でも解けなかったりする。

もちろん数学は蓄積だから後年の人間のほうが圧倒的に有利なんだけど(あとコンピュータが使えるってのも大きい)、そういうのを抜きにして個人レベルの能力だけで見るならピタゴラスやフェルマーよりすごい現代の数学者なんてほとんどいないんじゃなかろうか。



数学の話を読んでいると、とんでもない次元にまで連れていかれるのが楽しい。
 数学者の多くは、たとえ宇宙のむこう側の生物学や化学や物理学が地球のそれとはまるで違っていたとしても、数学だけは地球と同じはずだと考えている。地球から二五光年のかなたにあること座α星、ベガのまわりを回る系外惑星で腰を下ろして素数に対する数学の本を読んでいる誰かにとっても、59や61は素数であるはずなのだ。なぜならケンブリッジの高名な数学者G・H・ハーディーがいうように、これらの数は「我々がそう考えるからでもなければ、我々の頭脳が今あるような形にできあがっているからでもなく、数学の現実ゆえに素数でしかあり得ない」のだから。
そういやSF小説『三体』にもそんなエピソードがあったような気がする(記憶違いかもしれないが)。
遠い星の生き物と交信をするときに、まずは数学を使うと。

数学的に意味のある信号を送れば、ある程度発達した文明なら必ず理解できるはずだというのだ。
ふうむ。たしかに環境・姿形・文明など何もかも異なる文明と唯一共有できる話題というのは数学かもしれない。

そんな日が来るのかどうかしらないけど、未知なる文明と数学を使ってコミュニケーションをとりあうのって、なんちゅうかロマンあふれる話だなあ。



バタフライ効果とかカオス理論とかフレーズとしては聞いたことはあっても、いまいちよくわかっていなかった。
 気象学者は今や、海に浮かぶ定点観測船の観測データや衛星から送られてくる画像や情報などの膨大なデータを手に入れることができる。しかもきわめて正確な方程式を使って、大気のなかで空気の塊がぶつかり合って雲ができたり風が起きたり雨が降ったりする様子を説明することができる。気象がなんらかの数式によって決まっているのであれば、その方程式に今日の気象データを入力して、コンピュータで来週の天気がどうなるかを調べるくらいのことは朝飯前だろうに……。
 ところが残念なことに、最新のスーパーコンピュータをもってしても、二週間後の天気を正確に予報することはできない。この先どころか、今日の天気すら正確にはわからないのである。もっとも優秀な測候所でも、その精度には限りがある。それに、空気に含まれる粒子一つ一つの正確な速度やありとあらゆる場所における正確な温度、地表のすべての地点における気圧を知ることなどとうてい不可能だ。ところがこれらの値がほんの少し変わるだけで、天気予報はがらりと変わる。このような状況を「バタフライ効果」という。一匹の蝶々が打っただけで大気にわずかな変化が起きて、その結果地球の裏側で竜巻やハリケーンが生まれて大混乱が起き、人命が奪われて何百万ポンドもの損害が生じる可能性があるというのだ。
科学はどんどん進歩してるのに、天気予報はちっともあたらない。
五十年後の日蝕がいつ起こるかは正確に予測できるんだから三日後の天気ぐらいかんたんでしょ、と素人はおもってしまうのだが、どうもそうではないらしい。

天気を決定するデータは無限にあるのに観測できるデータは有限。おまけにちょっとずれただけでぜんぜんちがう結果が生まれるので、正確な予測はこの先もたぶん不可能なんだそうだ。
ふうん。地震予知とかも永遠に不可能なのかねえ。

「えっ、宇宙が始まった瞬間の0.1秒後の状態のことはわかっているのに三日後の天気もわからないの!?」
っておもっちゃうんだけどなあ。



いちばん信じられないエピソードがこれ。
 フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは、第二次大戦中にドイツ軍に捕まって、下士官兵用捕虜収容所Ⅷ-Aに収容された。そして同じ収容所にクラリネット奏者とチェロ奏者とバイオリン奏者が収容されていることを知ると、三人の演奏家と自分のためにピアノ四重奏曲を作りはじめた。こうしてできたのが、二〇世紀における音楽のすばらしい結実というべき「世の終わりのための四重奏曲」である。この曲はまず捕虜収容所Ⅷ-Aの関係者と収容者に披露されたが、このとき作曲家自身は収容所にあったおんぼろなアップライト・ピアノを弾いたという。
で、その音楽に“素数”が重要な役割を果たしていた……。

嘘つけー!!と言いたくなるぐらいできすぎたエピソード。
こんなすごい話ある?

2020年7月29日水曜日

【読書感想文】R-15は中学生にこそが見るもの / 筒井 哲也『有害都市』

有害都市

筒井 哲也

内容(e-honより)
2020年、東京の街ではオリンピックを目前に控え、“浄化作戦”と称した異常な排斥運動が行われ、猥褻なもの、いかがわしいものを排除するべきだという風潮に傾き始めていた。そんな状況下で、漫画家・日比野幹雄はホラー作品「DARK・WALKER」を発表しようとしていた。表現規制の壁に阻まれながらも連載を獲得するが、作品の行方は──!? “表現の自由”を巡る業界震撼の衝撃作!!

若いころには考えられなかったことだけど、漫画を読むのがしんどくなった。文字を読むほうがずっと楽だ。
昔は漫画なんて息をするのと同じくらい楽に読めたんだけどなあ。

読むこと自体がしんどいというより、「これから何年、十何年も読まなきゃいけないのかもしれない」とおもうから新たな漫画との出会いを遠ざけてしまうのかもしれない。

いっこうに完結しない『ガラスの仮面』と『HUNTER×HUNTER』と『ヒストリエ』のせいだぞ!!(『ONE PIECE』は途中離脱した)

そんなわけで何十巻もある漫画を読もうとおもわなくなった。
ってことで筒井哲也『有害都市』。
全二巻。
ああ、いいねえ。これぐらいの分量がいいよ、漫画は。

以前読んだ同氏の『予告犯』が単行本三冊でこれ以上ないってぐらい過不足なくまとまっていて、その構成力の高さに舌を巻いたこともあって。



舞台は、(発表同時の)近未来である2020年。
(今は亡き)東京オリンピックを前にして漫画の表現規制が強まっている。

一部の有識者によって青少年に悪影響を与えるとされた漫画は、対象年齢を15歳以上に推奨する「不健全図書」や、書店での陳列と18歳未満への販売が禁止される「有害図書」に指定されることになっている。

主人公が描いたホラー漫画がグロテスクな表現を多く含むという理由で有識者会議から目をつけられる。
主人公は葛藤した挙げ句にあえて表現規制を無視した漫画を発表することを決意するが……。


というストーリー。

著者は、過去に自分の作品が長崎県の青少年保護育成条例で有害図書指定を受けたことがあるそうだ。
その経験を活かして『有害都市』を描いたそうで、なんともたくましい。

そんなしっかりしたバックボーンがあるからか、引き込まれる導入にじっくり考えさせられる問題提起。上巻は完璧に近い話運びだった(エピソード0もおもしろかった)。
テーマもいい。漫画でやるからこそ説得力があるテーマだ。

だったのだが……。

なんか急にやる気なくなった? とおもうぐらい後半から失速してしまった。
上巻はまっこうから表現規制に立ち向かいそうな雰囲気だったのに、下巻は個別の話に終始しちゃってた印象。アメリカの話とかもなんだったの?
ほんとに途中で表現規制が入って放りだしてしまったのか? とおもうぐらいのしりすぼみ感だった。
(ちなみに規制が入ったかどうかは知らないが、雑誌発表時に炎上して単行本収録時に一部差し替えたらしいが)

ううむ。有識者委員会に懲罰を与えるほどの権限があるのも謎だしな……。なんで堂々と私刑してるんだ?

規制賛成派の人間描写は最後までうすっぺらかったし、ラストも投げっぱなしの印象。せっかくのいいテーマだったのにな。



表現規制についてだけど、個人的には規制はある程度必要だとおもう。

差別表現とかはね。被害者がいるものはある程度はしかたないのかな、と。

ただ、「差別するのが目的の差別表現」と「差別を糾弾するのが目的であえて差別表現を使う場合」とがある。
「黒人は“ニガー”と呼ばれてさまざまな局面で差別されてきた。この悲劇をくりかえしてはいけない」みたいな使い方はアリだとおもう。
なので一概に「この言葉は使用禁止」とするのはダメだ。
今のテレビとかはそうなっちゃってるよね。
何も考えずにただ放送禁止用語だから使うのやめとこう、みたいな思考放棄。


グロテスク表現に関してはまったく規制すべきじゃないとおもう。
というか、小中学生ぐらいの頃に残虐なものに惹かれるのってきわめて健全なことじゃない。
「残虐な行為は心の底から嫌悪します! 視界に入らないようにしてほしいです!」みたいな中学生がいたらそっちのほうがよっぽど異常で将来が心配になる。

15歳未満禁止だとか18歳未満禁止とかやってるけど、無意味だとおもうけどな。
30歳過ぎて「うおー、グロテスクな描写たまんねー」みたいに言ってたら心配になるけど。



作中で、漫画家のひとりがこんなセリフを発する。
僕が思うにこれからの漫画は
作家の個人的な主張や
創造性を発揮させるようなメディアではなくなっていくと予測している
例えるなら工業製品のように
それぞれの工程に専門のプロが力を寄せ合って
ひとつの製品を磨き上げていくという形が主流になると思う

これ、ぼくも感じていた。というかもうなってるんじゃないかな。
最近の漫画はあんまり読んでないけど。

『約束のネバーランド』を読んだときに、「これは個人の才能の表出じゃなくて会社が生産した工業製品だな」と感じた。
一コマも一セリフも無駄がない。どうやったら読者が驚くか、どうやったら感動するかをマーケティングによってすべて計算してつくっているという感じ。
もちろんそうやってできた作品はおもしろいんだけど。ハリウッド映画に大外れがないのといっしょで。
でもちょっと寂しいよね。

商業雑誌に載るのはチームで作った工業製品漫画、個人芸術作品としての漫画はWebやSNSで発表するもの、という棲み分けができていくのかなあ。


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『約束のネバーランド』に感じた個人芸術としての漫画の終焉



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2020年7月28日火曜日

【読書感想文】おおらかさを他人に求めること / よしもとばなな『ごはんのことばかり100話とちょっと』

ごはんのことばかり100話とちょっと

よしもとばなな

内容(e-honより)
日々の家庭料理がやっぱり美味しい。子どもが小さいころの食事、献立をめぐってのお姉さんとの話、亡き父の吉本隆明さんが作った独創的なお弁当、一家で通った伊豆の夫婦の心づくしの焼きそば…ぎょうざ、バナナケーキ、コロッケのレシピと文庫判書き下ろしエッセイ付き。
食事や料理に関するエッセイ集。

ものすごくゆるーいエッセイで、意外な事実もないしオチもないし笑いどころもない。
もともと発表するために書いていたものではないそうだ。

だからつまらないかというとそんなこともなく、書かれている内容にはあっている。
毎日のやさしい家庭のごはんのような味わいの文章。
おもしろさはないけど、毎日読んでも飽きない文章。

吉本ばなな(2005年からペンネームが「吉本ばなな」になったそうです)の食に対する姿勢は、力が抜けている。
外食も好き、作るのも好き、おいしいのは好きだけどテキトーなのもいい、かたくるしくなくていい、健康には気をつけるけどたまには手を抜いてもいい。そんな感じ。

小さい子どもを育てている人ならではの境地、という気がする。

若いころは「おいしいものをつくらなきゃ!」「おいしいものを食べたい!」という気持ちになりがちだけど、子どもにごはんを食べさせないといけない人はそんなこと言ってられないもんね。
どんなにがんばってつくっても子どもは平気で残すし皿ごとひっくりかえすこともある。
だけどとにかく毎食毎食作って食べさせなきゃいけない。
「子どもが食べてくれる」が最優先。その次が栄養。味とか盛り付けとかは二の次三の次。
そういう心境がエッセイのふしぶしから感じられる。

ぼくの家にも六歳と一歳の娘がいるので、この心境はすごく共感できる。
(といってもうちで料理をするのはもっぱら妻なんだけど)



何年か前に、吉本ばななさんのエッセイが何度かネットで炎上していた。

ほじくりかえすようで恐縮だけど、
「タトゥーを入れていることを理由に公衆浴場への入場を断られたので叱ってやった」
「居酒屋にワインを持ち込んで飲んでいたら持ち込みはやめてくれと言われた。ちょっとぐらいいいじゃないかと言ったのに融通を利かせてくれなかった。店側は商売というものをわかっていない」
みたいなことを書いて、「それはおまえが悪い」と非難されていた。

タトゥーについてはさておき(そもそもタトゥーを入れる人の気持ちがぼくには理解できないので)、ワインの持ち込みについてはどっちの気持ちもわかる。

自分が客の立場だったら「ちょっとぐらいは目をつぶってくれてもいいじゃない。その分他でお金使うし」とおもうだろうし、店員の立場だったら「常連だからって許してたら他の客が真似をしたときに注意できなくなる」とおもう。

(まあ吉本ばななさんが炎上していたのは、持ち込み云々よりも「私のような有名人には融通利かせてくれたっていいじゃない」的なことを書いたことが大きいんだけど)

この『ごはんのことばかり100話とちょっと』を読んでいても、吉本ばななさんが「おおらか」を求めているのが伝わってくる。
細かいこというなよ、マニュアルに一から十まで縛られたくない、臨機応変に対応してほしい、常連客はちょっとだけ特別扱いしてほしい、という考えだ。

そういう考え方も理解はできる。
こっちが主流の国もあるとおもう。
五十年前の日本でもそういう考えが多数派だったんじゃないかな。
「奥さん、いいキャベツ入ってるよ。奥さんいつもきれいだからオマケしとくよ!」
みたいな世界だ。
吉本ばななさんにとってはこのほうが居心地がいいんだろう。

でもぼくなんかは「常連になってもそっけない態度をとってくる店」のほうが居心地がいい。
「あれ、最近来てなかったね。どうしたの?」なんて言われたら、もうその店には二度と行きたくない。
ビジネスライクな付き合いをしてほしい。
八百屋さんと仲良くなったら安く買える社会より、どれだけ不愛想でも同じお金を出せば同じサービスを享受できる社会のほうが居心地がいい。
たぶんこっちのほうが今は主流派だ。

常連客だけを相手にしているスナックとかを除けば、「常連さんを優遇して一見さんには厳しく」で商売をやっていくのはむずかしい。
二十一世紀の日本では、あまり受け入れられない価値観だろう。

たぶん吉本ばななさんの炎上エッセイも、もっとおおらかな国だったら共感を持って受け入れられたんだろうね。


とはいえ。
「おおらかでありたい」とおもうのはいいんだけど、吉本ばななさんの考えはどっちかっていったら「みんなもおおらかであってほしい」なんだよな。

「わたしは一見も常連も同じ対応のチェーンの居酒屋よりも、常連だけ特別扱いしてくれるスナックのほうが好き」
っていうのは自由だけど、
「あのスナックは常連を特別扱いしてくれるんだからこの居酒屋も常連を優遇してよ!」
ってのはさすがに通用しないだろう。

おおらかでない人に対して「おおらかになれ!」というのはおおらかじゃない。



料理における「引き算」について。
 他にもともちゃんは「カルディで売っている『昆布屋の塩』とタマゴだけで作るチャーハン」というのも伝授してくれたが、これもおいしかった。
 塩のつぶつぶが舌に触るときにふっと後をひく味になるのがポイントで、ともちゃんの言うには、欲張ってネギなど入れるといきなりだめになる。あくまで入れるのはそのふたつだけでないとだめだそうだ。
 さすが料理のプロだけあって、ちゃんと実験しているし、なによりも引き算ができるのがすばらしい。料理のプロに会うといつも思うが、みな、とにかく減らし方が上手なのだ。ごてごてと増やしていくのはどの世界でも素人の考えなんだなあ。
ああ、わかるなあ……。
ぼくは、典型的な「足し算で失敗するタイプ」だ。

これだけだとちょっと寂しいかも。
冷蔵庫になんかないかな。
これたしてみよう。おいしいものにおいしいものを入れたらもっとおいしくなるはず。
で、あれもこれもと入れて毎回似たようなごった煮料理になってしまう。

デザインなんかでも「足す」より「抑える」「削る」ほうがむずかしいっていうもんなあ。
「ごてごてと増やしていくのはどの世界でも素人の考え」、これは肝に銘じておこう。



 昔読んだのだが、食生態学者であり探検家でもあった西丸震哉さんはきゅうりが大嫌いで、ほんとうに飢えてせっぱつまればきっと食べるだろうと思っていたら、戦時中死にかけていてもやっぱりきゅうりは食べられなかったそうだ。この話と、その話たちは、対極にある話だなあと思う。でも得られる教訓は似ている。
 そうだ、どんなに経済が苦しくても、命に関わるたいへんなことが起きたときでも、人は心が自由になる瞬間を求めているんだ。そしてどんなにたいへんなときでも、ほんとうに嫌いなものをむりに好きになることはないんだ、心は自由なんだ。
このエピソードから「どんなに経済が苦しくても、命に関わるたいへんなことが起きたときでも、人は心が自由になる瞬間を求めているんだ」という教訓を引きだすのはちょっと無理がある気がするが、なんだかおもしろエピソードだな。

どんなに飢えても嫌いなものは食べたくない、ってのは合理的でないような気もするけど、種の保存という点で見ればもしかしたら理にかなっているのかもしれない。
飢饉のときにみんなが新種のキノコを食べて飢えをしのいだら、もしそのキノコが毒を持っていたときに全滅しちゃうもんね。
そこで「いやおれは腹が減ってもキノコは食べない」って人がいれば、毒にあたらなくて済む上に、ライバルが減って(毒キノコで死んでいるので)食糧にありつける可能性も増える。

って考えると、どれだけ困窮してもきゅうりを食べない人の話は、「人間らしいエピソード」ではなく「遺伝子の乗り物らしいエピソード」ってことになるよね。


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2020年7月27日月曜日

【読書感想文】最上級の敬称 / 俵 万智『言葉の虫めがね』

言葉の虫めがね

俵 万智

内容(e-honより)
たとえば万葉集をひもとけば、千年以上前の言葉が、そこにはある。私が口ずさめ、千年の時空を越えて、鮮度を落とすことなく言葉は蘇る。言葉は、永遠なのだ。けれどたとえば、今日私が恋人に言った「好き」という言葉は、今日の二人のあいだで成立している、たった一度きりのもの。言葉は一瞬のものでもあるのだ―。読むこと、詠むこと、口ずさむこと。言葉を観察し、発見するエッセイ集。

読んでいる途中で気が付いたけど、この本は過去にも読んだことがある。
高校生のときに俵万智氏の著作を読みあさっていたので、たぶんそのときに読んだのだろう。

しかし約二十年ぶりに読みかえしてみると、そのときとは違ったおもしろさがある。

後半は短歌評、前半は「最近の言葉の移り変わり」について書いているが、なにしろ二十年前の「最近」なので今読むと逆に新鮮だ。

列挙ではなく断定を避けるための「とか」や、副詞として使う「超」などが「最近の風潮」として取り上げられているが、そのあたりはすっかり定着した。
2020年の今、「超」を若者言葉とおもっている人はいないだろう(逆におじさんおばさんくさい言葉かもしれない)。

ずっと同じ言葉を使っているようで、二十年前に読んだり書いたりしていた言葉とはずいぶん変わっているんだろうな。



パソコン通信(これも時代を感じるが)について書かれた文章。
 いっぽうで、お互いの意見やメッセージを書き込む掲示板のようなスタイルの場では、やわらかめの書き言葉が多い。そこに文章を書いている人は、文筆を仕事にしているわけではなく(なかには文筆業の人もいるが)ごく一般の人たちだ。そういった人たちが、これほどまでに頻繁に、しかもなかば公に向かって、ものを書くということをした時代が、かってあっただろうか? パソコンという道具を手に入れることによって、「ものを書く」という時間が、人々のあいだで急速に増えているように思う。そういう意味では、書き言葉としての日本語が、一部の人のものから多くの人のものへと開放されたとも言えるだろう。
たしかにパソコン通信、インターネットの誕生って、活版印刷の誕生と同じくらい言文界にとってはエポックメイキングな出来事だよね。

「名もない人」の「特に価値があるわけでもない文章」が「校正校閲を受けずに」広く読まれる時代ってこれまでなかったわけだからね。

ぼくは、インターネットが広まったここ二十年を、「ばかが明るみに出た時代」だとおもっている。
いやこれぜんぜん悪い意味じゃなくて。
むしろすばらしいことだとおもう。

いつの時代でもどんな場所でもばかっていたわけじゃない。っていうか大半はばか。もちろんぼくやあなたもね。
歴史の教科書を見るとローマ帝国には賢人とか思想家だらけだったような気がするけど、じっさいにはその何百倍、何千倍ものばかがいたはず。

でもばかの思考はまず記録されなかった。
「おもしろいばか」とか「強烈すぎるばか」とかは何かしらの形で取りあげられることもあったかもしれないけど「笑えないタイプのばか」とか「平均をやや下回るばか」とか「一見まともなこと言っている風のばか」とか「他人の意見をそれっぽく使いまわすだけのばか」とかは履いて捨てるほどいるうえにおもしろくもないから、そいつらの発言は残らなかった。

会って話せば「ばかがばかなこと言ってら」とわかるけど、誰もそれを記録しないからそれっきり。

だけどインターネットの普及によって誰でも情報発信できるようになった。
まだパソコンを使うにはある程度の情報リテラシーが必要だったけど、スマホの登場によってそれすらも必要なくなった。
誰でも、世界に向けて情報発信できるようになった。
世界に向けて情報発信するような価値のない言葉を。


ぼくが子どものころ、大人はみんなちゃんとしているとおもっていた。
みんな思慮深くて感情をコントロールできて自制心があって少なくとも義務教育レベルのことは確実に理解しているものだと。

でも、今の子どもって昔ほどそんな幻想を抱いていないんじゃないだろうか。
インターネットに接続すれば、あほな大人、身勝手きわまりない大人、子どもより子どもっぽい大人の姿をかんたんに見ることができるのだから。

いいことなんだろうか。悪いことなんだろうか。



自作短歌の舞台裏。
 そういえば教師になりたてのころ、こんな短歌を作ったことがあった。

  万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 自分のような未熟者を、「先生」として見てくれる生徒たちへの、責任感や緊張感を詠んだ歌だ。が、現実はというと、

  先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 である。下校のときなど、自転車の二人乗りをした生徒らが(二人乗りは禁止されている)校門のところで私を追い越しながら、「万智ちゃーん、バイバーイ」なんて言って手をふって遠ざかっていく。別に私をバカにしているわけではなく、それが彼らの親愛の情の表現なのだ。
『サラダ記念日』だったか『チョコレート革命』だったかに収められていた歌だと記憶しているが、なるほど個人的には「先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて」のほうがしっくりくる。

ぼくが通っていた高校では、気に入らない教師は呼び捨て(または不名誉なあだ名)だったが、人望のある教師は「〇〇さん」と呼ばれていた。
「〇〇さん」は生徒たちからの最上級の敬称だった。
形式的には「〇〇先生」のほうがより敬意のある言い方ってことになるんだろうが、じっさいはそうではない。

「〇〇先生」はよそよそしさのある呼び方だ。ほとんど話したことのない教師に対する呼び方。
一方「〇〇さん」は人間として信頼できる教師に対する呼び方だった。あの人は機嫌ひとつで態度を変えたりしない、生徒によって接し方を変えたりしない、言動が一貫している、もしも誤ったときは素直に間違いを認められる人だ。そんな評価が下された教師が「〇〇さん」と呼ばれていた。

教え方がうまいとか、怒るとこわいとか、そんなことは関係がない。
授業が退屈でも、怒るとヤクザのような言葉遣いをしても、生徒に対して誠実な対応をする教師は「〇〇さん」だった。

だから俵万智先生に「万智ちゃーん、バイバーイ」と声をかけた生徒の気持ちがよくわかる。
きっと最上級の敬称だったんだろうな。


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2020年7月22日水曜日

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』

国家はなぜ衰退するのか

権力・繁栄・貧困の起源

ダロン・アセモグル (著)  ジェイムズ・A・ロビンソン (著)
鬼澤 忍 (訳)

内容(e-honより)
繁栄を極めたローマ帝国はなぜ滅びたのか?産業革命がイングランドからはじまった理由とは?共産主義が行き詰まりソ連が崩壊したのはなぜか?韓国と北朝鮮の命運はいつから分かれたのか?近年各国で頻発する民衆デモの背景にあるものとは?なぜ世界には豊かな国と貧しい国が生まれるのか―ノーベル経済学賞にもっとも近いと目される経済学者がこの人類史上最大の謎に挑み、大論争を巻き起こした新しい国家論。

世界には豊かな国と貧しい国がある。

人生は努力によって決まる部分もあるが、それ以上に「どの国に生まれるか」によって決まる。
世界的大企業として名高いGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の創業者である‎ラリー・ペイジやスティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾスは類まれなる能力の持ち主で、たいへんな努力をしてきたのだろう。だが彼らがアメリカ人でなかったとしても、世界に通用する大ヒット商品を生みだせていただろうか。まあ無理だろう。
もしも北朝鮮に生まれていたら。ぜったいに無理だっただろう。
成功するかどうかの99%は「どこに生まれるか」で決まってしまう。北朝鮮で上位10%に入るぐらい知力と行動力のある人でも、政府上層部にコネクションがなければアメリカの下位10%よりも貧しい暮らしをすることになる。


なぜ裕福な国と貧しい国があるのか。
ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』はその原因を、主に地理的な要因にあると論じた本だった。
ユーラシア大陸がいち早く経済成長したのは、動植物の分布や地理が集団生活に有利だったからだ、と。

ところが『国家はなぜ衰退するのか』は『銃・病原菌・鉄』の説に異を唱える。
地理的な要因によって決まるのだとしたら、ほぼ同じ地理的条件を持ちながら経済規模がまったく違う国があるのはなぜなのか、と問う。

たとえば、我々日本人になじみの深いところでいうと、韓国と北朝鮮の違い。
 韓国と北朝鮮の経済的運命がくっきりと分かれたことは、驚くに値しない。金日成の計画経済とチュチェ体制はまもなく大失敗に終わった。控えめに言っても秘密主義の国である北朝鮮から、詳細な統計を入手することはできない。にもかかわらず、入手可能な証拠によって、繰り返される飢饉からうかがい知れる状況が立証されている。つまり、工業生産が軌道に乗りそこねただけでなく、実のところ北朝鮮は農業生産性の急落を経験したのである。私有財産を持てないせいで、生産性増進のため、あるいは維持のためにすら、投資や努力をするインセンティヴを持つ人はほとんどいなかった。息の詰まるような抑圧的な政治制度は、イノヴェーションを起こしたり新しいテクノロジーを取り入れたりするには不向きだった。だが、金日成、金正日、さらに彼らの取り巻きは、体制を改革したり、私有財産、市場、私的契約を導入したり、政治・経済制度を変えたりするつもりはなかった。北朝鮮の経済は停滞しつづけた。
 一方韓国では、経済制度によって投資と通商が促進された。韓国の政治家は教育に投資し、高い識字率と通学率を達成した。韓国企業はすぐに、以下のようなものを利用するようになった。まずは比較的教育水準の高い人材。次に、投資を奨励したり、工業化、輸出、技術移転を促進したりする政策。韓国はあっというまに東アジアの「奇跡の経済」に仲間入りし、世界で最も速く成長する国の一つになった。わずか半世紀ほどを経た一九九〇年代末までに、韓国の成長と北朝鮮の停滞は、かつては一つだった国を二分した両国のあいだに一〇倍の格差を生み出した。
 ――二世紀後にはどれほどの違いになるかを想像してほしい。韓国の経済的成功と対置すると、数百万人を飢餓に陥れた北朝鮮の経済的崩壊は際立っている。文化も、地理も、無知も、北朝鮮と韓国の分岐した進路を説明できない。答えを出すには制度に目を向けねばならないのである。
韓国と北朝鮮の民族は同じ。元々ひとつの国だったので使う言葉も同じ。文化もほぼ同じだった。
朝鮮半島の南北なので気候も近い。どっちかといったら、中国やロシアに近い北朝鮮のほうが通商の面では有利かもしれない。実際、南北に分かれた当初は北のほうが裕福だったという話もある。

だがそれから数十年で国の豊かさは天と地ほども開いた。
韓国は先進国の仲間入りをし、北朝鮮は世界の最貧国に転落した。

これは地理的要因では説明できない。
説明できるのは政治制度だけだというのが『国家はなぜ衰退するのか』の主張だ。


うん、おもしろい。
おもしろいし納得もいく。
……だけど、ものすごく冗長。

冒頭の2割ぐらいで言いたいことをほぼ言いつくしちゃって、後は手を変え品を変え、
「ほら、ここもそうでしょ」
「ほら、こんな例もあるよ」
「ほら、このケースも我々の説を裏付けてるよね」
とくりかえしているだけ。

イギリス、フランス、アメリカ、オーストラリア、北朝鮮、中国、日本、メキシコ、シエラレオネ、ジンバブエ、南アフリカ共和国、ソマリア、ソ連、アルゼンチン、コロンビア、ブラジル……。とにかくいろんな国のケースを挙げて「ほら、ぼくたち正しいでしょ」と言っている。
もうわかったから!

中盤はほんと退屈だったな……。



産業革命がイングランドで起こったのは、それが起こるだけの制度を持った国だったから。
たまたまイングランドで起こったわけではない。当時のイングランドの人が他の国よりとりわけ賢かったわけでもない。
 こうした状況が変化したのは、名誉革命後のことだった。政府が採用した一連の経済政策によって、投資、通商、イノヴェーションへのインセンティヴがもたらされたのだ。政府は意を決して財産権を強化した。その一つである特許権によってアイデアへの財産権が認められ、イノヴェーションが大きく刺激されることになった。政府は法と秩序を保護した。歴史上初めて、イングランドの法律がすべての国民に適用された。恋意的な課税は終わりを告げ、独占企業はほぼ完全に廃止された。イングランド国家は商業活動を積極的に後押しし、国内産業を振興するために手を打った。産業活動の拡大に対する障害を排除しただけでなく、イングランド海軍の総力を挙げて商業的利益を守ったのだ。財産権を合理化することによって、政府はインフラ、とりわけ道路、運河、のちには鉄道の建設を促進した。それらは産業の成長にとってきわめて重要なものとなった。
 これらの基盤によって人々のインセンティヴは決定的に変化し、繁栄のエンジンが駆動した。こうして、産業革命への道が開かれたのである。産業革命は何よりもまず大きな技術的進歩に依存しており、この進歩は過去数世紀にわたってヨーロッパに蓄積された知識基盤を活用していた。産業革命は過去との完全な決別であり、それが可能となったのは、科学研究および多くのすぐれた個人の才能のおかげだった。こうした変革のあらゆる力の源は市場だった。市場は、開発され、応用されるテクノロジーから利益を引き出す機会をもたらしたからだ。人々が自分の才能を適切な職業に向けられるようになったのは、市場の包括的な本性のおかげだった。産業革命は教育と技能にも依存していた。ビジョンを携えた起業家が現れ、新たなテクノロジーを活用して事業を興し、そのテクノロジーを使いこなす技能を持つ労働者を見つけられたのは、少なくとも当時の水準からすれば比較的高度な教育のおかげだったからだ。
イノベーションによって当人に利益がもたらされなければ、イノベーションは起こりにくい。
エジソンがいくつもの発明を生みだしたのは、当時のアメリカが、発明と特許によって大儲けできる国だったから。
発明をしても権力者によって搾取される国であれば、発明をしようという意欲は削がれてしまう。

また、治安が悪く、暴力によってかんたんに財産を略奪されるような国でもイノベーションは起こりにくい。
目立つことで身体に危害が及ぶなら、つつましく生きることが最適な生き方となる。

もっとも、収奪的制度の国だからといってまったく経済成長をしないわけではない。
旧ソ連だってはじめはそこそこうまくいっていた。
だが自由な競争が妨げられる社会では、イノベーションが起こらない。やがて経済成長は止まる。
 収奪的な制度がなんらかの成長を生み出せるとしても、持続的な経済成長を生み出すことは通常ないし、創造的破壊を伴うような成長を生み出すことは決してない。政治制度と経済制度がともに収奪的であるなら、そこには創造的破壊や技術的変化へのインセンティヴは存在しない。資源と人材を配分するよう国家が命令することによって、少しのあいだなら急速な経済成長を生み出せるかもしれないが、こうしたプロセスには本質的に限界がある。その限界に達すれば成長が止まってしまうのは、一九七〇年代にソ連で見られたとおりだ。ソ連が急速な経済成長を成し遂げたときでさえ、経済の大半の領域で技術的変化はほとんどなかった。軍事に大量の資源をつぎ込むことによって軍事技術を発達させ、宇宙と原子力の開発競争において一時は合衆国をリードさえできたというのに、である。しかし、創造的破壊も幅広い技術革新も伴わないこうした成長は、持続的なものではなく、突如として終わりを告げたのだった。
今、中国の経済はどんどん成長している。
自由競争が認められるようになり、今や世界一、二を争う大国だ。

だが中国は収奪的な政治制度を有している国だ。
どれだけ経済的に成功を収めても、共産党の胸三寸ひとつでつぶされてしまう可能性がある。
だからリスクをとってイノベーションに挑戦するメリットは薄い。

『国家はなぜ衰退するのか』の説を信じるなら、中国の成長はやがて止まる可能性が高い(ロシアも)。



この本を読むと、収奪的な政治的・経済的制度を持った国がいかに多いかに驚かされる。
我々にとってなじみの深いのは北朝鮮ぐらいだけど、特にアフリカや南米ではそっちのほうが多いぐらい。
限られた権力者グループだけが富を独占し、社会全体は貧困のまま据えおかれる。

こういう国ではイノベーションはめったに生まれない。

多くの船舶を所有して海運業を牛耳っている人物は、飛行機の開発を望まない。それは自身の権力や財産を脅かすことになるからだ。

新聞社のオーナーはインターネットの普及を苦々しく見ていたにちがいない。
もしも新聞社の社主に絶大な政治的権力があったなら、インターネットの使用は厳しく規制されていたはずだ(それどころかラジオやテレビだって普及しなかっただろう)。

北朝鮮でもメキシコでもシエラレオネでもジンバブエでもアルゼンチンでもコロンビアでも権力者たちは
「国全体を豊かにすることよりも、国が成長しなくても自分の権力を強化できる道」
を選んでいる。
北朝鮮のような独裁国家は決して例外的な存在ではなく、むしろそっちが標準なのだ。

北米や西欧のように権力が分散して自由な競争が保たれている国のほうがむしろ例外。


『国家はなぜ衰退するのか』には、
「自由な競争がおこなわれる社会をめざしたけど、結局一部の権力者だけが富を独占する国家になった」例がいくつも挙げられている。
逆に、「権力者が独占していた富を広く国民に分配するようになった」例は数えるほどしか挙げられていない。

産業革命当時のイギリスが当時としては比較的自由な競争を認められる社会だったのは、ペストや黒死病のおかげで労働人口が減ったからでもある。

かつては植民地だったアメリカやオーストラリアは自由競争社会になったが、これもたまたま略奪するような資源が乏しかったから。
もしも当時のアメリカや土地が資源にあふれる魅力的な土地だったなら、軍事力を持った連中が押し寄せてあっという間に富を独占していたことだろう。
だが幸か不幸か大した資源がなかったから、移住してきた人々は少ない資源を効率的に使うために各々の自由を認める必要があった。

今ある自由な競争は、決して理念によって達成されたわけではない。
人間は本性的に奪いたいのだ。

他者から収奪できないような状況のときにだけ、手を取り合ってお互いに発展することをめざすのだ。



二十一世紀の日本に暮らしていると、まるで自由競争社会があたりまえのようにおもってしまう。
だがこれは歴史的にも世界的にも例外的な状況なのだ。

油断していると、すぐに一握りの権力者が富を独占する国家になってしまう。
いや、もう収奪的制度になりつつあるかもしれない。

権力者に近しい企業や個人は優遇され、税金を優先的に流してもらえる状況だもんな。

日本の経済力がはっきりと衰退しつつあるのがなによりの証拠かもしれない。


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2020年7月21日火曜日

錦を着てても


街を歩くときはたいてい「ホームレスになったらどこで暮らそう」と考えながら歩いているんだけど、現代日本の街ってホームレスが暮らす場所がぜんぜんないよね。
しかも年々少なくなっていっている。

昔は、もっとホームレスが暮らせる場所があった。
公園にはベンチがあり、雨をしのげる東屋があった。河原にはホームレスのテントがあり、橋の下にも住処があった。

今はない。
公園のベンチは数十センチ間隔で手すりをつけて寝ころがれないようになり、東屋は撤去され、橋の下は立ち入れなくなった。

今のところぼくはホームレスじゃないから実害はないんだけど、でもやっぱり嫌な感じだ。

何が嫌って、行政の努力の方向が
「支援を充実させて貧困に苦しむ人を減らそう」
ではなく
「ホームレスの居場所を奪おう」
という方向に向かっていることだ。

お金がなくて困っているなら、収入を増やす方法を考えなくちゃいけないのに、「いかに金をかけずに貧しく見えないよう取り繕うか」に腐心している。
ハリボテの家を建てるとか、びんぼっちゃまスタイルの見えるところだけきれいな服を着るとか、「なんとか金をかけずに金を持っているように見せかける」ために努力している。

貧しい。
性根が貧しい。
「襤褸を着てても心は錦」という言葉があるが、その逆で「錦を着てても心は襤褸」だ。

2020年7月20日月曜日

自分を捨てること


結婚するとき、高校時代の恩師から

「結婚生活をうまくやっていく秘訣はただひとつ。自分を捨てること。夫、父親がなにかを要求するなんておこがましいとおもえ」

とアドバイスをもらった。

自虐ジョークだとおもって「あざーっす」とへらへら聞き流していたのだが、最近になってその言葉が身に染みる。
さすがは恩師の言葉だ。
「親の意見と冷や酒は後で効く」という言葉があるが、恩師の言葉も十年してから効いてくる。



ほんと、父親が家庭内でうまくやっていく秘訣は「自分を捨てる」に尽きる。

趣味は捨てる。余暇も捨てる。仕事の付き合いも極力捨てる。欲も捨てる。プライドも捨てる。
仏教でいう「無我」の境地だ。

子どもに誘われたら遊ぶ。
妻に何かを命じられたら何をしててもすぐ行動する。
子どもが食べたいといったら自分の分を分けあたえる。
早めに謝る。
子どもの生活リズムにあわせて生活する。

これがうまくいく秘訣だ。
かんたんだ。自分を捨てるだけ。

いや慣れるまではかんたんじゃなかったけど。



おもえば、ぼくの両親もそうだった。
母は家事育児に明け暮れていた。
父は仕事人間だったけど休日も「自分のしたいこと」などしていなかったようにおもう。
朝は犬の散歩に行き、町内会の草むしりに参加し、車を運転して家族を買い物に連れていき、庭仕事をやり、家の掃除や洗車をし、子どもと遊び、家族を外食に連れていっていた。
父にも母にも「自分の時間」なんてほとんどなかったんじゃないかな。

当時のぼくはそれがあたりまえだとおもっていなかった。
親もつらいななんて考えてなかった。どの親もそんなもんだろうとおもっていた。

なぜなら、父も母も、それなりに楽しそうにしていたからだ。
もちろん不機嫌になったり疲れた様子を見せることはあったけど、総じてごきげんだった。

なかなかやるじゃないか。
数十年前に戻って両親を褒めてやりたくなる(何様だ)。



自分を捨てること。
それなりにごきげんでいること。

ただそれだけ。
かんたんで、むずかしいことだね。


2020年7月15日水曜日

作者の人生を投影するな


純文学は作家そのもの、みたいな扱いされるじゃない。
作品から「作家の人生を乗せたもの」「魂を込めたもの」を読み取ろうとするでしょ。

「漱石が『こころ』を執筆した背景には私生活で〇〇だったことがある」
「幼少期のこの経験が太宰に『斜陽』を書かせることになった」
とか。

そりゃあ作者に起こったどんな出来事だって「作品にまったく影響を与えてはいない」とは言い切れないけど、考えすぎじゃない?
エッセイや自叙伝、私小説ならまだわかる。
でもフィクション作品は作者とはぜんぜん別の存在だろう。


たとえばさ。
メガネを見て、
「このフレームは小学生のときに都会から田舎に引っ越していじめられた職人にしか出せないしなりぐあいだ」
なんて言う?
言わないよね(もしメガネ業界で言ってたらごめんなさい)。

「このときトヨタは労働組合の力が弱まっている時期だった。この時期に発表されたカローラのボディのラインの自身の無さにはデザイナーの[唯ぼんやりとした不安]が投影されている」
なんて品評もしないよね?

「作品は作者の子どものようなものだ」という人もいるが、子どもだって親とは別人格だ。
子どもを見て親の内面を推しはかろうだなんておこがましい。



他のジャンルはどうだろう。

たとえば絵画。
絵画も人生と重ねられやすい。
このときのゴッホの心境が……なんて言われる。

しかしイラストや漫画だと、基本的に「作品=作者の全人生」にはならない。
たとえば『コボちゃん』なんて40年近くも連載していて植田まさし氏のライフワークと言ってもいいぐらいの作品だけど、コボちゃんから植田まさし先生の心情や人生を読み取ろうとする人はまあいない。
作品は作品、作者は作者だ。

書道や生け花、陶芸のような「芸術」作品は、作者と同一視されそうな気がする。

かといってダンスなんかは、そこで語られるのはあくまでパフォーマンスの良し悪しだ。
その裏に演者の人生そのものまでは見いだされないんじゃないかな。

でも落語だと「古今亭志ん生の生きざまが芸に表れている」なんてことを言われる。
ボーダーがよくわからない。


音楽はどうだろう。
シンガーソングライターの場合はわかりやすい。
尾崎豊や中島みゆきやさだまさしの歌には歌い手の全人生が投影されている、ような気がする。
でもまあこのへんは人によるな。

作詞作曲とボーカルが異なる場合は、まず作者の人生を投影しない。
秋元康が手がけたAKB48の曲を聴いて「この曲のBメロには秋元先生の学生時代にモテなかった記憶が濃厚に表れている」なんてことはふつう言われない。
またアイドルの歌にはアイドルたちの心情がある程度は表出しているのだろうが、それはあくまで「表現」だ。「人生そのもの」とまでは言われない。

芸術品であっても、「作品=作者そのもの」となるかのボーダーは微妙だ。


工芸品であっても人生が投影されるものがある。
たとえば仏像。
仏師の生き様みたいなものが仏様に宿りそうな気がする。
仏像にかぎらず、イエス像でも日本人形でも、手作りの人形は作者の全霊がこもっていそうにおもえる。
もしかしたらイスラム教が偶像崇拝を禁止しているのは、それがアッラー以外の存在(作り手)への崇拝につながるからかもしれない。

しかし人形でも作者の人生が投影されては困るものもある。
ラブドール(ダッチワイフ)とか。
人形に制作者のおじさんの人生が感じられてしまったら台無しだ。

料理もいやだな。
料理人がこれまで歩んできた人生や過去のトラウマなんかが料理に投影されているとおもったら食欲がなくなる。



距離の問題かもしれないな。

ちょっと距離を置いて鑑賞するものは、作者が投影されていてもかまわない。
でも近いものはいやだ。
口に入れるものと身につけるものとかは、作者が投影されてほしくない。

「開発職の人たちがこれまでの人生すべてを注ぎこんだ医薬品」とか、めちゃくちゃ効きそうだけど、効きすぎそうで逆にいやだもんね。

2020年7月14日火曜日

不登校


 娘の保育園からの友だち、Sちゃん。
 小学1年生なんだけど、もう不登校になった。

 うちの娘と仲良しで、3歳から家族ぐるみで親しくしてきたので、不登校になったと聞いて心が痛い。


■ Sちゃんについて

  • 女の子。3歳下の妹がいる。
  • 受験をして難関私立小に入った。
  • 活発、明るい、おしゃべりが上手。同世代の子と比べて確実に頭の回転が速い。走るのが大好き。好きな遊びはけいどろ。
  • 受験のための塾通いは嫌がってた。遊べなくなるから。でも塾で褒められたことは嬉しそうに話していた。
  • 受験も嫌がってた。「みんなと違う学校だから行きたくない」と言っていた。でも「おもちゃ買ってあげる」に釣られて受験したらしい。そのへんはしょせん子ども
  • 入試に合格したときは喜んでいた。努力が評価されたことが純粋に嬉しかったんだと思う。
  • コロナで入学式が延期になり、学校が始まって約1ヶ月。ここ1週間は毎日「行きたくない」と泣いているらしい。友達ができていないわけじゃないけど「勉強したくない」「家にいたい」「宿題したくない」「給食がいや」などと言っているらしい(小1なので行きたくない理由をうまく言語化できてないんだろうけど)。
  • でも公園とかで会うと元気。うちの子と一緒に楽しそうに遊んでいる。

■ Sちゃんの両親について

  • 二人とも明るくていい人。知り合いみんなから好かれているような家族。
  • いわゆるお受験ママタイプとはぜんぜん違う。テレビばっかり見せてるし夜ふかしもさせるしおもちゃもいっぱい買い与える。むしろ甘やかしすぎでは?と思うぐらい。
  • 元々は受験も考えてなかったみたい。Sちゃんが三歳ぐらいのときは「お受験なんて~」と言っていた。たまたま友達に誘われてSちゃんに模試を受けさせたらものすごい好成績で、それから火がついたみたい。はじめは「うちなんかぜんぜん勉強させてないから絶対無理だけど、まあ記念だと思って〜」って言ってたのに、受験が近づくにつれて目の色が変わっていったのがちょっと怖かった。塾の洗脳すげえって傍から見ていて思った。
  • おとうさんのほうは「ぼくは公立でのびのび育てたいんですけどね。でも奥さんがやる気になっちゃって……」と言っていた。でもやっぱり受験が近づいたら目の色が変わった。

■ 推測する原因

 不登校の原因なんて明確にひとつに決まるようなもんじゃないんだろうけど……。
 でもまあ、最大の原因は「本人の意向を無視して私立小に入れた」だろうね。
 保育園のみんなが同じ小学校に行って、自分だけ違うのがつらいんだろう。
 しかも自分で選択したわけではなく、半ば親に強引に入れられたようなものだから(まあ小学校受験なんてみんなそんなもんだろうけど)。

 きちんと納得させずに「おもちゃ買ってあげるから」で釣ったのはよくなかったよなあ、とおもう。
 でもそんなことはSちゃんの親も十分わかってるだろうし、今さら言っても仕方がない。 「じゃあ転校させよう」ってかんたんにはできないだろうし。転校させたって解決するとはかぎらないし。
  この状態が続くのであれば公立校へ転校させるしかないんだろうけど。 

 あと、本来ならオリエンテーションとか遠足とか新入生同士が仲良くなるイベントがあったのに、コロナ騒動で全部流れたのも原因のひとつかも。
 授業時間に余裕がないから、学校になじむ前に授業が進んでいっちゃうんだよね。

■ 言いたくなること

 傍から見ていて、Sちゃんのご両親に言いたくなることはいくつかある。
 よその家庭のことなんで、言えないけど。
 こっちだって子育ての正解を知っているわけじゃないしさ。


  •  学校に行くことありきで話が進んでる
 ぼくもSちゃんのご両親から相談されたんだけど「どうしたら他の子みたいに学校行ってくれますかねえ」と言われた。Sちゃん本人にも「どうやったら行く?」と聞いていた。
 それを聞いてぼくは「そういうとこじゃないの」とおもった。
 そりゃあ学校に行ってくれることがベストな解決方法なんだけど。
 でもSちゃんの両親にとっては学校に行くことが唯一のゴールになっている。
「学校に行かずにしばらく家で過ごしてみる」とか「週に一回ぐらいはサボってもいいことにする」とか「宿題だけはサボってもいいことにする」とか、いろんな選択肢があったほうがSちゃんは楽になるんじゃないのかな、とおもう。

  •  習い事を次々に変えていた
 塾に行かせる前まで、Sちゃんはいろんな習い事をやっていた。
 プール(2教室)、サッカー、バレエ、ダンス(2教室)、そろばん、体操、絵画、英語教室。ぼくが聞いてるだけでもこれだけ。他にもあるのかもしれない。
 Sちゃんがちょっとぐずったらやめさせてハイ次の習い事!みたいな感じだった。
 いろんなことに挑戦させるのはいいけど、もうちょっと腰を据えて続けさせないと資質も何もわからないんじゃない?とおもっていた。
 不登校と関係あるかわからないけど、ひょっとしたら「ぐずればやめられる」という意識を持たせることになっちゃったのかもしれないな、とおもう。

  •  妹の扱いとの差
 Sちゃんのご両親は姉妹どちらも等しくかわいがってるんだけど
「Sの受験で疲れたしお金もかかったから、妹のほうは受験やめとくわー」
と言っていた。
 えっ、それ、Sちゃんからするとすごくつらいんじゃないのかな……。
 自分は行きたくない塾に行かされて友達とも離ればなれになったのに、なんで妹は受験させないのー!ってなるんじゃないだろうか……。
 で、妹は妹で、将来なんで自分だけ受験させてもらえなかったのかと思うんじゃないだろうか……。


……と、傍から見ていて「そういうとこ良くないんじゃないですかね?」と言いたくなるところはいくつもあったんだけど、今さら言ってもしょうがないし、親同士の関係にひびが入るのもイヤなので黙っておく。

■ よそのおっさんとして


「よそのおっさんとして不登校の子のために何かしてやれることはないか?」とおもう。

 正直、不登校を解決するのはよそのおっさんの仕事じゃない。
 よそのおっさんにそんなことできないし、できたとしても親をさしおいてよそのおっさんが出しゃばるわけにはいかない。

 よそのおじさんにできることなんかたかが知れてる。
 でも、よそのおじさんだからこそできることもあるんじゃないかな。

 なんか気の紛れることをしてやりたいなーと思う。

 何をしてあげたらいいんだろうか。
 それとも何もしないほうがいいんだろうか。


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2020年7月13日月曜日

あゝゴーテル


ディズニー映画の『塔の上のラプンツェル』にはゴーテルという魔女が出てくる。

こいつは生まれたばかりのラプンツェルをお城からさらい、ラプンツェルを塔に幽閉して誰にもあわせないようにし、さらにラプンツェルが塔から逃げた後も嘘をついたり、ラプンツェルの恋人を拉致させたりする。

……と聞くとずいぶん悪いやつだとおもうよね。
じっさい、映画の中では純粋な悪役として描かれている。

だけどぼくには、ゴーテルが悪いやつだとはどうしてもおもえないのだ。
もちろん『塔の上のラプンツェル』の世界の法律がどんなものか知らないけれど、現代日本の法感覚でいえば、ゴーテルは悪ではないとおもう。


映画を観たことのない人のために説明すると、ゴーテルがラプンツェルをさらったのにはこんな経緯がある。


どんな病気も治す金色の花の力で、ゴーテルは何百年も若さを保っていた
 ↓
だが妊娠中の王妃の病気を治すために金色の花がお城へと持ち去られてしまう
 ↓
その王妃が産んだのがラプンツェル。ラプンツェルは生まれながらにして金色の花の力を宿していた。
 ↓
ゴーテルはお城にしのびこんで赤ん坊のラプンツェルをさらい、塔に閉じこめて育てる


つまりだね。

まずはじめの数百年、ゴーテルは何も悪いことはしていないわけだ。
ふしぎな力を持った花を見つけ、それを自分のために使っていただけ。
たしかに花の力を他人のために使わずに花の力を独占した。強欲といえるかもしれない。
でも強欲それ自体は罪じゃない。自分の力で手に入れた財産を自分のために使うのは何も悪くない。

そしてゴーテルは大切な花を持ち去られる。
ここでのゴーテルはむしろ被害者だ。大切な財産を盗まれたのだから。
しかもその花の力がないと、ゴーテルは死んでしまうのだ(花の力で本来の寿命以上に生きてきたから)。
言ってみたら、人工透析を受けている患者が透析装置を盗まれるようなものだ。
必死で取り返そうとするに決まっている。
かわいそうなゴーテル。

お城に忍びこんだゴーテル。
だが花はない。代わりに、花の力を宿す赤ちゃん(ラプンツェル)が眠っている。
ゴーテルはラプンツェルを連れ去る。
これはいけない。
不法侵入および誘拐だ。刑法犯罪である。
だが情状酌量の余地はある。なにしろゴーテルにしたら生命の危機なのだ。
刃物を持った不審者に襲われたから他人の家に飛びこんだようなものだ。これを不法侵入で裁くのはあまりに酷だ。

日本の刑法37条1項には
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
とある。
いわゆる緊急避難条項だ。
明らかに「お城に忍びこむ」は「命を落とす」よりも害の程度が小さい。だから今の日本の法律に照らすのであれば、ゴーテルがお城に忍びこんだことは大した罪ではない。
「乳児の誘拐」は「お城に忍びこむ」に比べればずっと重い罪だが……でもやっぱり「命を落とす」に比べれば害が小さい。

しかもゴーテルはラプンツェルをさらった後、十数年も大事に育てているのだ。
なにしろ十八歳のラプンツェルは、健康で元気で明るく優しく勇敢な女性に成長しているのだ。これはゴーテルが大事に大事に育ててきたことの証左といっていいだろう。
たとえ自分の若さと美貌と生命を保つためだったとしても、よその子を十八年も育てるなんてなかなかできることではない。

たしかに『塔の上のラプンツェル』の中で、ゴーテルは“子どもの話をまともに聞かない身勝手な育ての親”として描かれる。
だが子どもの話を適当に聞き流すことが罪なら、世の中の親の大半は犯罪者ということになってしまう。



つまりだね。
ゴーテルのやったこと(不法侵入と誘拐)はたしかに悪いんだけど、十分に同情の余地はあるとおもうんだよね。

この件が我々に投げかけるのは、

A)お城から乳児を誘拐しなければ死んでしまう。それでも誘拐を思いとどまることができるか?

という問いだ。

これに「それでも誘拐はいけない」という人には、こう尋ねよう。

B)お城から乳児が誘拐されそうだ。これを防ぐにはひとりの女性を殺さなくてはならない。それでも殺しますか?

これだと「殺せない」という人が多いだろう。

A)と B)の選択で得られる結果は、じつはどちらも同じだ。
「乳児がさらわれずに女性が死ぬ」か「女性が助かって乳児がさらわれる」

そう、これはトロッコ問題なのだ。

どちらが正解ということはない。



ということで、「ゴーテルを救うか、ラプンツェルの誘拐を防ぐか」というのは倫理学的にはかんたんに答えを出せない問題なのだが、ディズニーはあっさり答えを出している。

「最後はゴーテルが砂になってしまい、ラプンツェルが両親のもとに帰ることができました。めでたしめでたし」
という形で。

観客に納得させるために
「若く美しいラプンツェル」「娘の行方を案じて胸を痛める王と王妃」「強欲で計算高い魔女であるゴーテル」
という描写をすることで。

しかしやっぱりぼくはゴーテルに同情してしまうのだ。
彼女のやったことは褒められたことではなかったけど、誰からも憎まれる悪役として描く必要はあったのだろうか、と。

願わくば『マレフィセント』のように、ゴーテルの苦悩がある程度は報われるアナザーストーリーを用意してあげてほしい、と。

ゴーテルには、姉の子ども達のためにパンを盗んだ罪で19年も服役させられたジャン・ヴァルジャンにも似た悲劇性がある。

あゝ無情。


2020年7月10日金曜日

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2020年7月9日木曜日

【読書感想文】サイゼリヤのような小説 / 道尾 秀介『笑うハーレキン』

笑うハーレキン

道尾 秀介

内容(e-honより)
経営していた会社も家族も失った家具職人の東口。川辺の空き地で仲間と暮らす彼の悩みは、アイツにつきまとわれていることだった。そこへ転がり込んできた謎の女・奈々恵。川底に沈む遺体と、奇妙な家具の修理依頼。迫りくる危険とアイツから、逃れることができるのか?道尾秀介が贈る、たくらみとエールに満ちた傑作長篇。

子どもを亡くし、妻と離婚し、家具製作の会社を倒産させてしまった主人公。ホームレスとなり、川原で生活しながらトラックひとつで家具修理を請け負い細々と暮らしていた。
だが素性の怪しい女が弟子入り志願してきたり、ホームレス仲間が謎の死を遂げたり、かつての取引先社長と元妻が仲良くしているのを目にしたり、明らかに怪しい家具修理の依頼があったりと次から次へと妙なことに巻きこまれ……。


と、次から次にいろんな出来事が起こるので読んでいて退屈しない。
いろいろ伏線があるけどちゃんと回収されて、収まるべきところに収まる。
エンタテインメントとしてすばらしい出来。

疫病神が見えたり、怪しさ満点の人物が現れたりとリアリティには欠けるものの、それもまた気楽に楽しむ上ではプラスかもしれない。あんまり深刻にホームレス生活を描かれても楽しくないもんな。

本筋はもちろん、家具修理の描写やたびたび引用される名言など、飽きさせない工夫が随所に散りばめられていて、作者の旺盛なサービス精神が感じられる。



……といった感想を書いたら、もう書くことがなくなった。

だいたいもっといろいろ書きたくなるんだけど、『笑うハーレキン』に関してはこれ以上特に言いたいことはない。

なぜなら、ちゃんとおもしろかったから。

サイゼリヤの料理みたいな感じかな。
ぼくはサイゼリヤによく行くんだけど、いついっても同じ味。いつもおいしい。
でもクセになる味というわけでもない。誰が食べても八十点をつけるような味。
だから「おいしかった」「この安さなのにおいしい」という以外の感想は出てこない。
もちろん、客としてはサイゼリヤにそれ以上のものは求めてない。安くておいしかったら満点だ。

『笑うハーレキン』もそんな感じだった。
徹底したエンタテインメント。きっと誰が読んでもそこそこ楽しめる。
めちゃくちゃ感動することも、すごくイヤな気持ちになることもない。
そういう本って感想を書くのがむずかしいんだよね。
「おもしろかった」としか言いようがないから。

で、一ヶ月もしたらどんな内容だったか忘れちゃうんだろうな。
でもそれでいい。それがいい。


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2020年7月6日月曜日

むだ泣き


うちの次女(一歳八ヶ月)は“むだ泣き”をしない。

泣くことは泣くが、おなかがすいたとかだっこしてほしいとかまだ寝たくないとかそれなりの理由があって泣く。

「ただなんとなく機嫌が悪くて」のようないわゆる“むだ泣き”はぜんぜんしない。
もっとも「むだ」というのは大人から見ての「むだ」であって当人にとってはむだじゃないんだろうけど。
それにしたって特に要求もないのに泣くのはエネルギーの無駄づかいだ。

むだ泣きをしない次女。
かしこいなあ、とおもう。親なのでなんでもかしこく見えるのだ。

毎朝、ぼくが保育園に送っていくのだが、家を出るときに泣く。
「おかあさんと離れたくない」ということだろう。
でも、おかあさんの姿が見えなくなったらぴたっと泣きやむ。
これ以上泣いてもしかたないと知っているのだろう。

保育園に預けてぼくが別れを告げると大泣きする。
毎日後ろ髪を引かれながら仕事に向かっていたのだが、あるとき忘れものに気づいて引き返したら、もう泣きやんでいた。その間わずか三十秒。
ぜんぜん後ろ髪引かれる必要なかった。

訴えたいことがあるときは泣くが、訴える相手がいなくなったら泣かない。
要領がいい。



その点、長女は要領が悪い。

ちょっとしたことで機嫌を損ねて、ずっとぐずぐずする。
怒りの相手がいなくなってもすねている。

友だちと遊ぶときに、長女はかくれんぼをしたいという。友だちはおにごっこがいいという。
なんとはなしにおにごっこがはじまってしまう。長女はふてくされる。
そこまではわかる。
ところが、その後「じゃあ次はかくれんぼしよっか」となってもまだすねている。
我が子ながら、アホなんじゃないの、とおもう。
今すねてもいいことなんかいっこもないじゃん。

また、言ってもどうにもならないことをずっと引きずっている。
長女が「〇〇食べたかった!」と怒ったときに、
こちらは「ごめん、もうないわ。また買ってあげる」とか「〇〇はないけど××ならあるよ。いる?」とか言ってなだめるのだが、一度おへそを曲げたらなかなか直らない。

ないものはどうしようもないのだから、代案を引きだせただけでよしとしたほうがいい。
そこで「いやだ! 〇〇がいい!」と強情をつらぬくせいで、「じゃあもう食べなくていい!」と言われ、「また今度買ってあげる」も「代わりの××」も手に入らなくなる。


つくづく損なタイプだ。
よく「きょうだいの上の子は要領が悪く、下の子は要領がいい」と言われるが、その典型だとおもう。
まあ下の子はまだ一歳なのでこれから性格も変わっていくのだろうが。



周囲を見ても、やっぱり
「上の子は要領が悪く、下の子は要領がいい」
ケースが多い。

娘の友だちのSちゃんには、二歳下の妹がいる。
この妹、すごく要領がいい。
電車に乗ると、すぐに寝る。
移動時間は退屈だと知っているのだ。
到着したらぱちっと起きて元気いっぱい遊べる。

おねえちゃんと喧嘩をすると怒るが、直接抗議しない。
言ってもむだだと知っているのだ。
代わりに、大人に抗議する。
「ねえねが〇〇したー!」と。
そうすると大人が姉を叱ったり、「代わりに〇〇しよっか」と優しくしてくれたりすることを知っているのだ。

大人に怒られてもむくれない。
逆に、にこっと笑う。
子どもの笑顔を見せられると、大人はそれ以上強く叱れない。

すごい。
齢四歳にしてもう世の中の立ち回り方を心得ている。
計算ではなく、自分より大きい人たちに囲まれて過ごすうちに自然に身についたのだろう。

「怒ってもしかたのないことには怒らない」
「言ってもむだな人には言わない」
「怒られているときこそ笑顔」
これだけで、ずいぶん楽しい人生を送れるとおもう。

ぼくも一歳児と四歳児を見習わなくては。

2020年7月3日金曜日

【読書感想文】本気でぶつかってくる教師は気持ち悪い / 三浦 綾子『積木の箱』

積木の箱

三浦 綾子

内容(e-honより)
旭川の中学に着任する朝、杉浦悠二は中学3年生の一郎と出会う。彼は、姉と慕っていた奈美恵と実業家の父の秘密を目撃し、自棄になっていた。担任となった杉浦は、一郎を気遣うが…。

中学三年生の一郎は、姉と思っていた奈美恵が父に抱かれているところを目撃してしまい、父の愛人であったことを知る。
世間的には資産家でありながら篤志家として評判のいい父親のことを尊敬していた父親とが愛人を家に住まわせていたこと、さらに母や実姉もその事実を知りながら何食わぬ顔で生活していることに大きなショックを受けた一郎。

その一郎が意欲に燃える若い教師と出会って心を開いて……ゆかない。
これがいい。
教師はすごく親身になって一郎のことを心配し、あの手この手で一郎を立ち直らせようとする。だが一郎はかえって教師に対して反発をおぼえる。


そうなんだよね。中学生ってこんなもんだよな。
優しくて正しくてまっとうなことを言う教師にはかえって反発するもんなんだよな。むしろちょっとやさぐれた大人のほうが誠実であるように見えたり。

テレビドラマみたいに単純なもんじゃないよね。
本気で生徒のことを考え、本気で生徒のことを叱り、本気で生徒を守ろうとする教師って、中学生からしたらいちばん気持ち悪い存在だもんな。

後になったら「いい先生だったなあ」とおもうかもしれないけど、ぼくが中学生のときのことを思いだしてみたらそのときは気持ち悪いとおもうだろう。
本気でぶつかってこないでくれ、と。

三浦綾子氏は教師をしていたというだけあって、思春期の男の気持ちをよくわかっている。
自分の性欲を持てあましながら他人には潔癖さを求めてしまうこととか、勝手に大人に期待して勝手に傷つくところとか、すごく男子中学生っぽい。

昔も今も、中学生の生態って変わってないんだなあ。



父親が愛人を囲っていることを知る……。
大人になった今なら、ショックは受けても「まあ親父だって男なんだからそんなこともあるかもな」とある程度は受け入れられるかもしれない。
しょせん親だって自分とはちがうひとりの人間だし、と。

しかし思春期の子どもにはそうかんたんに抱えきれない問題だろう。

高校生のとき、同じクラスの女の子としゃべっていたら、ふいに
「うちの親、もうすぐ離婚すんねん」
と言われた。
どんな流れだったかはおぼえていないが、突然放りこまれた言葉だった。
驚いたぼくは何も言えなかったが、彼女は
「父親がよそに女つくって、出ていくみたいやわ」
と勝手に続けた。
表情にも声の調子にも、感情は表れていなかった。完全な「無」だった。

その「無」に、ぼくは彼女の激しい怒りを見た。
内心では憎しみとか悲しみとか失望とかいろいろあったんだろうけど、たぶんそういう感情では乗り越えられなかったんじゃないかとおもう。
だから感情に固く蓋をして、「父親が浮気をして妻子を捨てて出ていく」という事実を遮断した。
そんな感じの声だった。ぼくが勝手に感じただけだけど。


うちの六歳児を見ていると、まだ親は自分の一部なんだろうなあと感じる。
親が自分のおもうとおりに動いてくれないと怒る。まるで自分の手足がおもうように動かないみたいにいらいらする。
ぼくも子どもを失望させないように気を付けなければ。浮気をするなら子どもが親と完全に分離してから(そうじゃない)。



小説の主題とはあんまり関係ないけど、数十年前の教師の姿の描写がおもしろかった。

生徒の保護者が教師に贈り物を渡したり(それもけっこう高価なもの)、教師のほうも堂々ともらっていたりといった姿が描かれている。
一部の悪徳教師だけでなく、「善良な教師ですら多少はもらう、完全にはねつけている教師は生真面目すぎる変わり者」みたいな描かれ方をしているので、当時はふつうにおこなわれていたことなんだろう。


母の話によると、母の父(つまりぼくのおじいちゃん)は官僚だったので、出入りの業者からお中元やお歳暮をはじめとする贈り物をいっぱいもらっていたらしい。
「庭の草が伸びてきた」といえば週末には取引先企業の社員がやってきて草刈りをしてくれ、「娘が犬をほしがっている」といえば数日で仔犬が贈られてきたという。

今の世の中だったら完全にアウトだけど、当時はふつうだったらしい。
ぼくのおじいちゃんはどっちかといったら規律正しい人だったけど、それでも平然と袖の下を受け取るぐらい、それがあたりまえという感覚だったのだろう。
賄賂という認識すらなかったのかもしれない。

そういやこないだ収賄容疑で取り調べを受けていた議員が「金は受け取ったが買収という認識はなかった」と語っていた。
そんなあほな、とおもうかもしれないけど、案外ほんとのことを言っているんじゃないかな。
政界に縁のない人間からすると「政治家が現金をもらったり渡したりしたら百パーセント贈収賄だろう」とおもうけど、ひっきりなしに金が動く世界にいたら感覚が狂うんじゃないかな。
お世話になっている人から「ま、ま、もらっといてください。もらうだけでいいんで」と言われたらなかなか断れるもんじゃないだろう。
真実はわかんないけどさ。

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【読書感想文】三浦 綾子『氷点』



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2020年7月2日木曜日

ビールと母


母はビールが好きだ。
毎日飲む。量は飲まないが、毎日飲む。
飲まないのはよほど体調が悪いときだけ。1年のうち364.5日ぐらいは飲んでいる。
夏の暑い日は昼間から飲む。

酒に強いので、昔は量も多かったらしい。
けど、ぼくが三歳ぐらいのときに飲みすぎて発疹が出たことがあって、それ以来ふだんは一日に一本だけとしたそうだ(会食のときなんかはもっと飲むけど)。
「あのとき発疹が出ていなかったらわたしはアル中になっていたかもしれない」と母は語っていた。

父は母ほど酒好きではないが、付き合いで毎日飲む。
父のほうはあまり強くないので一本飲んだだけで酔っぱらう。だから量も増えない。経済的だ。

そんな家庭で育ったので、「大人は毎日酒を飲むもの」とおもっていた。
大学生になったときは(当時は世間一般的に十八歳でアルコール解禁とされていた)積極的に酒を飲んだ。
飲み会はもちろん、夜に人と食事をするときは必ずといっていいほど酒を飲んだ。ときどきひとりでも飲んだ。ひとりで居酒屋にも行ってみた。それが大人のたしなみだとおもっていたからだ。
飲みたいから飲むのではなく、「飲まなきゃいけないもの」とおもっていた。
「飲んでいればいつか必ず毎日飲みたくなる。それが大人というものだ」と。

しかし、何年かたってふと気づいた。
あ。お酒好きじゃないや。
飲めないわけじゃないし、嫌いでもないけど、べつに好きじゃないや。
なんなら飲むヨーグルトのほうがおいしい。
酒がなくたって平気だわ。大人数での酒宴は嫌いだし。
「大人だからって飲まないといけないわけじゃないや」と気づいた。

で、飲み会のとき以外は飲むのをやめた。
妻も飲まないので、家で飲むのは、焼肉か餃子を食べるときと、友人とスカイプで話すときだけ。それも飲んだり飲まなかったり。

月に一回飲むかどうか。
そうするとめっきり弱くなった。缶ビールいっぱいで眠たくなる。
弱くなるからなおさら飲まなくなる。

元々好きで飲んでいたわけじゃないから、やめたらいいことしかない。
お金もかからないし、寝つきも良くなるし、翌日も疲れない。

そんなわけですっかり飲まない生活に慣れたのだが、実家に帰ると文化の違いにとまどう。
母には飲まない人の存在が信じられないのだ。
食事のときは当然のように「アサヒでいいよね?」と訊かれる。
断ると「じゃあモルツにする?」と訊かれる。
ビールがいらないのだというと、「えっ、車じゃないでしょ? 体調でも悪いの!?」と驚かれる。
母からすると「この後車を運転する」「体調が悪い」以外の理由でビールを飲まないことが信じられないのだ。
彼女にとって「ビールを飲まない」は「ごはんを食べない」ぐらいの異常事態なのだ。

もしもぼくが母より先に死んだら、きっと棺桶に缶ビールを入れられ、墓に缶ビールをかけられたりするんだろうな。
「いやそんなに好きじゃないんだけどな……」とあの世で苦笑いだ。

2020年7月1日水曜日

ピアノ中年

三十代のおっさんだが、ピアノの練習をはじめた。

いきさつとしては、

娘がピアノ教室に通いだす
 ↓
はじめはがんばって練習していたが、サボるようになる
 ↓
娘に火をつけるため、ぼくがピアノを弾いて
「おとうさんのほうが(娘)よりも上手に弾けた!」
と言う
 ↓
娘、まんまと乗せられて
「(娘)のほうが上手に弾ける!」
と言って練習するようになる

ってのがはじまり。
それ以来、娘のライバルとして毎日のようにピアノの練習をしている。

やはりひとりで弾くより、競争相手がいたほうが練習にも熱が入るらしい。

妻はずっとピアノをやっていたのですらすら弾ける。
おまけに絶対音感の持ち主なので教え方も容赦ない。
「その音とその音はぜんぜん違うでしょ。聞いたらわかるでしょ?」なんて言う。
弾けない人、聞いてもわからない人の気持ちを理解できないのだ。
「わからないのはまじめにやってないから」とおもってしまうらしい。

ということで、六歳のライバルにはピアノ素人のおっさんのほうがふさわしい。

どんどん上達する娘のライバルでいられるよう、ぼくも一生懸命ピアノを練習している。



じつはぼくもかつてピアノを習っていた。

一歳上の姉が習っていたので、いっしょにピアノ教室に放りこまれたのだ。
五歳ぐらいのとき。

ピアノ教室に関して今もおぼえていることはふたつだけ。
ひとつは、発表会で弾きおわった後に舞台袖に引っこまず、舞台から跳びおりたこと。
もうひとつは、ピアノ教室の床で寝ころがって「ピアノやりたくない!」と泣きわめいたこと。

このふたつのエピソードからもわかるように、ぼくはまったくピアノに向いていなかった。
その結果なのか原因なのかわからないが、音感もリズム感もない。ドのつく音痴だ。


あれから三十年。
娘と競うようにピアノの練習をしてみると、意外と楽しい。

ピアノはかんたんに音が出せるのがいい。
どんなに下手な人間が弾いても、ドの鍵盤をたたけばちゃんとドの音が鳴る。
音を出すだけなら、リコーダーやギターや法螺貝よりもずっとかんたんだ。

やればやるほど上達していくのが楽しい。
ちゃんと弾けたらだんだん速く弾いて、次は音楽記号に気を付けながら情感を込めて弾く……。
一曲の中でも自分がステップアップしていくのを感じる。

右手と左手でばらばらの動きをするのはむずかしいが、脳のふだん使わない部分を使うのが心地いい疲労をもたらす。

弾き語りなんて正気の沙汰じゃないとおもっていたが、かんたんな曲なら弾きながら歌えるようになってきた。
自分で弾きながらだと、ド音痴のぼくでも少しだけうまく歌えるような気がする。



「大人になってからピアノなんてやっても上達しない」とおもっていたが、ぜんぜんそんなことない。

もちろん、吸収力は逆立ちしたって子どもにはかないっこない。
だが大人のほうが勝っている部分もある。

まず指が長い。
これだけでだいぶ有利だ。
あと意外と手の指の動きをコントロールできるのはタイピングに慣れているからかもしれない。

壁に当たったときに、大人は「なぜできないか」を因数分解して解決することができる。
上手に弾けなかったとき。
まずは右手だけで弾く。
次は左手だけで弾く。
次は両手でゆっくり弾いてみる。
次は速く弾く。
そして、自分がどこで失敗しやすいのかを把握する。弱点を把握したらそこを集中的に練習する。

これはあれだ。
プログラミングに似ている。
書いたコードがうまく動作しなかったとき、「ここまではうまくいく」「この数行を削除してみたらうまくいく」といった作業をくりかえし、ミスの原因を探しあてる作業だ。

大人になると、いろんな経験を通して、
「うまくいかないときはやみくもに体当たりするよりパーツごとに分解してつまづきを克服していくほうが結果的に近道になる」
ことを知っている。
この経験が強みになる(逆に言うと、ピアノの練習を通して子どもはこういった経験を身につけてゆくのだろう)。

そしてなにより。

大人は感情のコントロールができる。
自分のコンディションを(子どもよりも)的確に把握できる。
「眠いから早めに切りあげよう」とか「今日は調子がいいからちょっと長めに練習しよう」とか「気分を変えるためにコーヒーでも飲もう」とか、自分のコンディションと相談しながら練習効率を高める方法を選択できる。

子どもにはこれができない。
うちの娘なんか、おかあさんと喧嘩して泣きわめきながらピアノを弾いたりしている。
「そんな状態で練習してもぜったいうまくならないから気持ちを落ち着かせてからやりなよ」
と言うのだが、聞き入れない。
わんわん泣きながらピアノを弾いて、うまく弾けないといってますます怒る。

傍から見ていてアホじゃねえかとおもうのだが、そんなこと口にするとますます怒りくるうのでやれやれと肩をすくめるだけだ。



ピアノ、楽しいなあ。
この歳になってやっと気づく。
誰にも強制されずに好きなときに弾いているからかもしれないけど、楽しい。

あのとき床に寝ころがって数十分泣きつづけていたぼくをあきれたように見ていたピアノの先生!
あなたの教えは、今、やっと、届きましたよ!