2018年2月28日水曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉 愛憎模様』

『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉
愛憎模様』

桂 米朝

内容(e-honより)
人間国宝・桂米朝演じる上方落語の世界。第三巻は、「愛憎模様」。渦巻く愛蔵、とまらぬ色気。人間というものの濃さ、面白さが炸裂する。けれどもそこは落語、時代に練られて生き残ってきたかろみを兼ね備えたものを、本人による口上を添えて、堪能していただく。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第三巻。
「愛憎模様」を中心にまとめたもの、ということでおもしろさやばかばかしさが前面に出た噺よりも、じっくり聞かせる落語が多い。

落語で描かれる恋愛って、「芸者や遊女に恋をする」か「商家の若旦那が、やはり商家のお嬢さんに恋をする」みたいな話がほとんどで、庶民同士の恋愛というのはほとんど描かれない。庶民の結婚は「嫁さん紹介してくれるか、ほなもろとか」みたいな感じであっさりしている。
誰でもかれでも恋をする現代とちがって、恋愛は贅沢品だったんだろうなあ。



たちぎれ線香


道楽が過ぎたために百日の間、蔵に閉じ込められていた若旦那。久しぶりに出てみると、お互いに愛しあっていた女性が亡くなっていた……、という切ないお話なんだけど、どうもぴんとこない。
ふられたのならともかく相手と連絡がとれなくなったからといって死ぬかね、しかも恋の病で痩せ細って死ぬなんて……と、現代に生きるおっさんにはちょっとこのへんの感覚がわからない。純愛すぎて、心の汚れたおっさんには理解しがたいぜ。

誤解で人が死んでるのに、それを美談みたいに語られてもなあ……という感じ。日本版『ロミオとジュリエット』だね。共感しにくいところもよく似ている。

米朝さん自身はこの噺を「上方落語中でも屈指の大ネタ」「ドラマ構成の見事さ」「登場人物の多彩さ」「サゲがまた上々」とべた褒めしている。たしかに演じるのは難しそう。
番頭の威厳とか、はじめはちゃらんぽらんだった若旦那の成長とか、内儀さんの悲しみを押しころした語りとか、微妙な心境を表現しないといけないもんね。

米朝さんの演じる『たちぎれ線香』を聴いたことがあるが、ヒロインである小糸は話題にのぼるだけで一度も登場しない。それなのに、くっきりとした輪郭を持った魅力的な女性としてイメージが立ちのぼってきた。これぞ名人芸。



崇徳院


若旦那が恋わずらいになり寝こんでしまった。相手はどこの誰だかわからず、手がかりは彼女が書いた崇徳院(崇徳天皇)の和歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」だけ。和歌を頼りに東奔西走する熊五郎のドタバタを描いた噺。

和歌を頼りに人探しをするとはずいぶん古風な設定だが、「三百円やる」という台詞が出てくるから、明治後半ぐらいの噺だろう。明治ぐらいまではまだ「恥ずかしくて和歌を書いて贈る」という行為がギリギリ不自然ではない時代だったんだろうね。

歌を贈った良家の美男美女のラブストーリーを描くのではなく、その男女を引き合わせるために苦労する男の悲哀やおかしさを描くのがいかにも落語的。
男女が再開するちょっと手前で話が終わっているところも潔い。



三枚起請


「起請(きしょう)」というものを知らないとこの噺は理解できない。
愛情の変わらないことを互いに誓い合って書いた文書のことだが、元々は神仏への誓いを書いた文書で、破ったら神罰が当たるというから絶対に破ってはいけない約束のことだったらしい。
今の社会って「破られない約束はない」という前提でつくられているから、この「特に罰則は定めていないけどぜったいに破ってはいけない約束」というやつを実感として理解するのが難しい。

遊女が三人の男に起請を渡して結婚の約束をする。要は結婚詐欺だね。じっさいに濫造している娼妓はけっこういたらしい。で、騙されていたことに気づいた男たちが仕返しに行くが居直った女に言い負かされる、という噺。

三人揃うて来られたらしょうがないわなあ。……ハァ……書いた。書きましたがな源さん……。わてかて起請何枚も書くのは良えことやないと思てるけどなあ、このごろお客さんのほうがわたいらより一枚上にならはって、起請ぐらい書かなんだら通うてくれはれへんねん。……書いたがどないや言いなはんのん。娼妓(おやま)というのはだますのん商売にしてまんねやで、だまされるあんた方が悪いのやおまへんかいな。

この居直りようは、遊女の凄みが感じられておもしろい。


サゲの「カラス殺して、ゆっくり朝寝がしてみたい」は、高杉晋作の都々逸「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」を下敷きにしている台詞だが……、まあこれだけではよくわからんね。

「起請を破ると神の使いである鴉が三匹死ぬ」とされていたから、「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」は「たとえ他の男との約束を破ることになったとしても今はあなたと一緒にいたい」という意味。

ということで、いろんな知識がないと理解がむずかしい落語だね。
今でもキャバクラ嬢は客に気を持っているふりをするためにあれやこれやと工夫するらしいし、水商売の「だます女」「だまされる男」という構図は今も昔も変わらないから、基本的な流れは今でも理解しやすいんだけどね。



 持参金


借りていた二十円を今日中に返してくれと言われた男。なんのあてもないからどうしようと困っていたところに、不細工で妊娠中の女をもらってくれたら持参金として二十円をつけるという話を持ちかけられ、あわてて飛びつく……という噺(これだけで勘のいい人ならオチがわかるだろう)。

ストーリー自体もよくできているが、江戸時代の町人の結婚観がわかっておもしろい。
人から勧められたから「じゃあ嫁さんもらっとくか」ぐらいの気持ちで結婚してる。これは落語だから多少の誇張はあるにせよ、今よりずっとかんたんに決めていたんだろうな。親から「あんたこの高校行ったら?」と言われて「じゃあそこ受験してみよかな」というぐらいで、そんなにあれこれ考えてなかったんじゃないかな。

以前、堀井憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』という本の感想でこんなことを書いた。
繁殖適齢期になったら本人が好むと好まざるとにかかわらず周りの人たちがかかあを見つけてくる。相手が死んだらすぐに別の相手を見つける。今日食う分を稼ぐ。生きられなくなったら死ぬ。
動物としては江戸時代のやりかたのほうがずっと正しいよね。
「生きるうえでの目標」や「理想の自分像」や「運命の伴侶」についてあれこれ考えることこそが人間らしい営みだといってしまえばそれまでなんだけど、そうはいってもぼくたちは動物なんだから、動物的な生き方を捨ててしまっては滅びてしまう。
そうやって滅びつつあるのが今の日本の状況、かもね。

『持参金』の結婚観を見ていると、少子化の最大の原因は自由恋愛なんだろうなあ、と思う。

ところで、女性差別をする人に対して「女性をモノ扱いするな!」という言葉が投げられたりするが、この噺を聴くと江戸時代の女はモノ扱いすらされていなかったんじゃないかと思うぐらい、つくづく扱いがひどい。
女性を妊娠させた男が「結婚したくない。持参金をつけて誰かに押しつけよう」と考え、もらうほうの男も「持参金がつくならどんな女でもいいからもらおう」と言う。当の女性の意思はまったく尊重されておらず、女性の人権なんてあったもんじゃない。

ずいぶんひどい話だが、

乙「お腹に子供があったら傷ですかえ」
佐「……傷やで、そら……、嫁入り前の娘のおなかが臨月というのは、立派な傷やで」
乙「わてはそうは思わんな」
佐「そうか」
乙「そうでっしゃないか。長年連れ添うた夫婦でも、子供がなかったら、赤の他人を養子にもろうて、身代すっかりゆずる人かてあるんや。それに比べたらこっちは、片親だけでも真実物(ほんまもん)でっしゃないか。第一、向こうからこっちへ来るのに、腹へ入れてきたら風邪もひかさんで」

このあっけらかんとした感じのおかげで陰湿な感じはしない。血よりもイエを大事にしていたからこその台詞なんだろうけど、ある意味すごく進歩的な考え方かもしれんなあ。


肝つぶし


夢で見た女に恋をして、恋わずらいになった男。医者に診てもらったところ、治すには年月がそろった日(辰年、辰月(陰暦三月)、辰の日のように)生まれた女の生き肝を煎じて飲まなければならない、と言われる。その男の父親にたいへんにお世話になった男、自分の妹が年月がそろった日生まれだったことを思いだし、殺そうかと思うがやはり殺せない……という噺。

恩人の息子のために何の罪もない妹を殺そうとする、というなんともひどい話。結局殺さないけど後味がよくないので、あまり好きな噺じゃないな。

この噺、タイトルで盛大にネタバレしている。
昔はタイトルを言わずに落語をやっていたから落語のタイトルは噺家同士で伝わればいいぐらいの適当な付けられ方をした……ってのはよく聞く話だけど、さすがにタイトルでサゲがわかっちゃうのはよくない。今は寄席でもたいていタイトルを先に出すし。
せめて『生き肝』ぐらいに変えたらいいのにな。



植木屋娘


あわて者の植木屋が、お寺の自分の娘をお寺の居候である伝吉と結婚させようと画策する、という噺。
主人公である植木屋幸右衛門がなんとも魅力的。娘の幸せを願っているのだが、あわて者で思い込みが強すぎるあまり突拍子もない行動ばかりとってしまうという人物で、岡田あーみん『お父さんは心配症』を思いだした。行動の目的は正反対(『お父さんは心配症』のお父さんは娘と彼氏の交際に大反対)だけど、人物のキャラクターはよく似ている。

「きょとのあわてもん」とか「ポテレン(妊娠)」とか今では通じにくい言葉も出てくるけど、ストーリーもキャラクターもギャグもきれいにまとまっていて、今でもわかりやすい噺。
落語っていくつかの別の話をむりやりくっつけてひとつの噺にしたようなものが多いけど、『植木屋娘』はテーマが一貫していてすごく聞きやすい。



菊江仏壇


これは嫌な噺だ……。
「病気で寝込んでいる妻を見舞いに行くこともなく、芸者を連れこむ若旦那。大旦那がお見舞いに行っている隙に若旦那はどんちゃん騒ぎ。その間に妻は死んでしまうが、若旦那に対して恨み言のひとつも言わない……」
という救いようのないストーリー。

若旦那だけでなく、まじめなふりをして店の金を使いこむ番頭、酔っぱらって周囲にからむ奉公人、本妻のいない間に若旦那の家に行く芸者など、クズ野郎ばかりが登場するなかなかアウトレイジな噺だ。

番頭の正体が暴かれる意外性があったり、どんちゃん騒ぎをしていたところに旦那が帰ってくる緩急の変化があったり、物語性には富んでいるんだけどね。
ただいかんせん最悪な後味の噺なので、今ではめったに演じる人はいないんだとか。さもありなん。


かわり目


この噺、何度か聴いたことがあるけどあまり好きじゃなかった。
酔っ払いの台詞の多い落語って苦手なんだよね。『らくだ』とか。酔っ払いの台詞が聞きづらいから。かといってはっきりしゃべったら酔っ払いらしさがなくなるし。
でも本で読むと、意外と収まりのいい噺だったんだなと新たな発見。

ストーリーとしては、酔っぱらった男に車夫と女房とうどん屋が翻弄される、というそれだけの噺。

派手さはないが、酔っ払いにからまれて困惑する人力車引き、酔っ払いをうまくいなす女房、酔っ払いから逃げだすうどん屋など、キャラクターに濃淡があって、人物の描きわけがおもしろい。


故郷へ錦


いやあ、ぶっとんだ噺だ。
ある男の具合が悪い。伯父さんが尋ねてみると恋わずらいだとのこと。相手はなんと、実の母親。伯父さんは男の母親(つまり妹)に、息子に抱かれてやれと言い、母親は覚悟を決めて息子と事に及ぶ……。というなんともアブノーマルな内容。

当然ながら高座でかけられることはほとんどないらしいし(こんなのやったら客はどん引きだろう)、笑いどころもほとんどない。
消滅しかけの落語(いや、もう消滅してるかも)なので、こうやって文章で残しておくのは価値があるね。


茶漬間男


マクラで、盆屋の説明が出てくる。「盆屋」というのは昔のラブホテルで、お店の人と顔を合わせずに個室で男女が過ごせる場所だったそうだ。このへんの仕組みは昔から変わらないんだなあ。

不倫中の男女が盆屋に行こうとするが金がないことに気づき、不倫妻の家で大胆に事に及ぼうとする。その間、寝取られている夫は何も知らずに茶漬けを食べている……。という落語。

おもしろみとしては「女房が浮気をしているのに呑気に茶漬けをかきこんでいる亭主」の一点のみ。ほぼ小噺みたいな落語だね。海外にもありそうな話。


いもりの黒焼


別嬪と評判の高い米屋の娘に恋をした男。”惚れ薬”であるいもりの黒焼を使って惚れさせようとするが、誤って米俵にかけてしまい、米俵に追いかけられる……。という噺。
こういうの、昔のギャグ漫画によくあった。『ドラえもん』にもあったね。キューピットの矢。

いもりの黒焼が出てきてからよりも、前半の「一見栄、二男、三金、四芸、五精、六おぼこ、七ゼリフ、八力、九胆、十評判」という言葉(女にモテる男の条件だそうだ)をめぐるふたりの会話のほうがおもしろい。掛け合い漫才のよう。


口合小町


落語における道化役は99%が男なんだけど、これはめずらしく女がその役を担っている。

口合(ダジャレ)を得意とする女が、夫を喜ばそうと口合を披露するが、夫はあっけにとられるばかり……という噺。
ダジャレをひたすら積みかさねるだけなので、正直おもしろくない。しかも古い言葉ばかりなのでよくわからない。米朝さんの解説を読んで、活字で見て、やっと八割ぐらいわかる感じ。高座で聴いたらちんぷんかんぷんだろうな。


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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


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2018年2月27日火曜日

【DVD感想】『スーパー・ササダンゴ・マシンによるコミュ障サラリーマンのためのプレゼン講座』



『スーパー・ササダンゴ・マシンによるコミュ障サラリーマンのためのプレゼン講座』

内容(「キネマ旬報社」データベースより)
プレゼンしか能のない覆面プロレスラー、スーパー・ササダンゴ・マシンのプレゼンテクニックを収めたDVD。会社で自分は何ができるのか、サラリーマンが「自分をプレゼンする」時や「企画を通したい」時のテクニックを収録。

「趣味・特技はプレゼン。苦手なものはプロレス活動全般」だという覆面レスラーのスーパー・ササダンゴ・マシンによるプレゼンを収めたDVD。

スーパー・ササダンゴ・マシン氏はプロレスラーでありながら新潟で金型工場を運営する会社の専務取締役も務めているという異色の経歴で、パワーポイントを駆使した巧みなマイクパフォーマンスで有名な覆面レスラーだ。
ぼくはプロレスにまったく興味がないが、YouTubeでササダンゴ氏のプレゼン(「煽りパワポ」というらしい)を観て、たちまちその完成度の高いパワーポイントと上質なユーモアの虜になった。

ふつうスポーツ選手は巧みなトークは求められないけど、プロレスはショーなのでマイクパフォーマンスで観客を惹きつける話術が必要になる。
身体と頭を使わないといけないからたいへんな商売だなあ。



このDVDに収録されている内容は以下の通り。

1.VS プロレス専門誌「発行部数を飛躍的に伸ばす方法」

2.VS 世界的飲食企業「より幸せな企業にするための新メニュー」

3.VS コミュ障な自分「一人で焼き肉をおいしく食べる方法」

内容をよく見ずにDVDを購入したので「スーパー・ササダンゴ・マシンの得意技である『煽りパワポ』が収録されてないのか……これはハズレかもな」と思いながら観たのだが、いやいや、これはこれで十分におもしろい内容だった。
いたってまともなプレゼンなのに、覆面レスラーが言っているという絵だけでもう笑える。

パワーポイントって「笑い」との相性がすごくいいよね。『バカリズム案』などのライブでも多用されてるけど、パワポはビジネスや学会などで使われる「お堅いもの」というイメージがあるからか、ごくごく標準的なMS Pゴシックでボケるだけで、おかしさが五割ぐらい増す気がする。



特に日本KFCホールディングス(ケンタッキーフライドチキンの会社)を訪問して広報部や商品開発部などの偉いさん相手に新商品の提案をおこなうパートは見応えがあった。

毎日新しいメニューを考えている人たちに向かって「まずはケンタッキーフライドチキンの概要について……」なんて釈迦に説法もいいところだが、KFCの社員たちがすごく真剣にプレゼンを聴き、ときにはスーパー・ササダンゴ・マシンの言葉をメモする姿で笑いをこらえられなかった。
「チキンとチキンでチキンを挟んだ新製品」なんてバカみたいな提案に対して、真正面から「実現可能か」「マーケット規模はどの程度か」「味や安全性は担保できるか」といった議論をしているのがめちゃくちゃおもしろかった。いい会社だなあ。

聴衆の反応も良かったし、ほどよく緊張感もあって、これぞ理想的なニッポンのプレゼン、って空気だった。



他の二編にもふれておくと、『週刊プロレス』編集部へのプレゼンは、相手が少人数、しかも顔なじみということでやや緊張感に欠けるものだった。
パワーポイントの中身は良かったので、もう少し大きい会場でやってたらさらにおもしろかったんだろうな。

「一人焼肉のプレゼン」は『孤独のグルメ』みたいにしたかったんだろうけど、焼肉に視点がいってしまう分、プレゼンの印象が弱かった。
そもそもプロレスラーが焼肉を食っている映像自体が退屈だった。プロレスラーと焼肉、という取り合わせにまったく違和感がないからねー。女性ばっかりのスイーツバイキングとかだったらもうちょっと面白味があったかも。



ぼくは人見知りなので親しい人以外と一対一で話すのは苦手なんだけど、大勢の前で話すのは平気だ。学生時代は生徒会長をやっていたし、友人の結婚式二次会の司会を務めたこともある。数十人、数百人の前で話すとひとりひとりの反応が気にならなくなるのでかえって気楽にできる。

今も仕事でたまに客先でプレゼンをすることもあるけれど、即興で話せるような才覚はないから、スピーチをするときは一字一句詳細な原稿をつくって、「ここで軽く笑いをとる」「ここは簡潔に説明してさらっと流す」と入念に構成を考える。

そういう人間にとってササダンゴ氏のプレゼンは大いに参考になった。

まずはじめにこれから話す内容の道筋をきっちり説明する。
本題はまじめに進めながらも細部ではユーモアを交える。
さまざまなマーケティング手法を使いながらも極力専門用語は使わずに平易な言葉を使って説明。
「WEB戦略の強化」みたいな安易な提案に逃げずに常に独自の切り口で提案。
……と、つくづく勉強になる。

これは企業の新人研修の教材にも使えるんじゃないでしょうか。


2018年2月26日月曜日

記録を残していたことの記録


十五歳から二十歳くらいまでの時期、「記録を残す」ことに憑りつかれていた。


毎日日記をつけていた。

買い物をしたら必ずレシートを持ち帰り、ノートに記録していた(集計はしない。ただ記録するだけ)。

常にインスタントカメラを持ち歩いて、何かあるたびに写真を撮った。

読んだ本のタイトルと感想をすべてノートに記録した。

高校で席替えをするたびに、座席表を記録して自宅の机に置いていた。

ノート、手紙、メモなどの類はすべて捨てずに保管していた。

大学生になって初めてアルバイトをして(高校はアルバイト禁止だった)、最初に給料を貯めて買ったものはビデオカメラだった。
型落ちのモデルで十七万円した。もちろんデジタルじゃない。清水の舞台から飛び降りるような買い物だった。今調べてみたら、一万円以下で買えるデジタルビデオカメラがたくさんあって驚いた。



高校生のときの日記を読むと
「9時に起床。10時半に家を出て、××駅で××と待ち合わせ。JR××線に乗って11時40分に××に到着。××で昼食をとり……」
と、気持ち悪いぐらい克明に記録している。刑事が尾行記録を警察手帳に書くときぐらいの細かさだ。

こういう日記を毎日つけていると、常に日記を書くことを想定して行動するようになる。行動の節目節目に時計を見て時刻を確認し、集団で行動するときは人数を数えて日記を書くときに漏れがないように気を付ける。
一日家にいたときなどは「このままだと日記に書くことがないな。ちょっと散歩でもするか」と行動を起こすこともあった。
日記のために行動するのだ。
インスタグラムに写真を載せるために出かける人たちのことを笑えない。というか誰にも見せない日記のために行動するほうがヤバい気がする。

日記は今もつけているが、次第に短くなっていき、今では「仕事の後、子どもとカルタをして遊ぶ」ぐらいの短いものだ。



なぜあんなに記録を残すことに執着していたのだろう。

きっと「何者でもない自分が、何者でもないまま死んでいく」ことに耐えられなかったのだと思う。

功成り名遂げることができなかったらどうしよう。そういう不安を紛らわすために、必死になって生きた痕跡を残そうとしていた。それが日記であり、写真であり、読書の記録だった。

最近はそこまでじゃない。
日記は短いものだし、買い物記録はやめてしまったし、写真を撮ることは減った。
読書感想はブログに書いているが、これは他人に読まれることを想定してのものだ。自分のためだけには書いていない。

何かを成し遂げたわけではない。今でもあっと驚かせるようなことをして世間に名前を轟かせたいという気持ちがないわけではないが、そうでない生きかたもまた良し、と思えるようになった。
娘が生まれたからでもあるし、人間は遺伝子の乗り物にすぎないと知ったためでもある。歳をとるとみんなそうなっていくのかもしれない。


今はあまり記録を残していないけど、昔の記録を見るのはすごく楽しい。

高校生のときの日記とか写真とか最高におもしろい。つくづく残しておいてよかったと思う。

特に座席表はおすすめ。同窓会とかで見せたらめちゃくちゃ盛り上がる。


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距離のとりかた

自分の人生の主役じゃなくなるということ



2018年2月25日日曜日

西方浄土


関西に住んでいる人はどうも「西に行きたい」願望があるようだ。

周囲の人の話を聞いても、国内旅行というと四国とか九州とか広島とかが多い。
東にはあまり行かない。東京、横浜、ディズニーランド、北海道といったメジャーな場所には行くが、それ以外の東北・関東・東海・北陸にはあまり行かないようだ。

書店で働いていたときも、『るるぶ東北』『るぶ金沢』よりも『鳥取』『松山』などのほうがよく売れていた。
距離だけの問題でもないと思う。大阪ー静岡間と大阪ー広島間の距離はほとんど同じだと思うが、「広島に旅行に行く大阪人」は「静岡に旅行に行く大阪人」の倍くらいいると思う。知らんけど。



ぼくは両親が旅行好きだったこともあって子どもの頃はよく旅行に連れていかれたけど、兵庫県東部に住んでいたぼくの家族が行った場所はといえば、倉敷、岡山、瀬戸内海の島、鳥取、香川、徳島、福岡、熊本、佐賀、別府、長崎、など見事に西方面ばかりだった。
父親が単身赴任をしていたときに横浜に行ったけど、それ以外には東方面へ旅行したことがない。
修学旅行の行き先も、小学校は広島、中学校は長崎だった。


就職活動をしていたとき、ほとんどゆかりがないにも関わらず「四国で一生過ごすのもいいな」という気持ちが突如として湧いてきて、愛媛や高松の企業を受けてまわったことがある(結局四国には就職しなかったが)。

自分自身のことを思い返しても、やはり西方面に引き寄せられる傾向があるようだ。

仕事で東京に行くことが多いからこそ、旅行のときは逆方面に行きたくなるのかもしれない。



菅原道真が大宰府(福岡県)に流されたり、平家が壇ノ浦(山口県)で敗れたり、光源氏が須磨(兵庫県)に流されたり、京都に都があった時代から、みんな西に行ってばかりいる。行かされてるんだけど。
東に行った話といえば、晩年の源義経が追われて平泉(岩手県)に逃げたぐらいしか思いつかない。

上方落語には「東の旅」と呼ばれるいくつかの噺があるが、ここでいう「東」とは伊勢神宮、つまり今の三重県のことだ。

今でも関西の人は三重にはわりと行く(三重県は近畿地方には含まれるが関西には含まれない、というなんとも微妙なポジションだ)。ぼくも二度旅行に行ったことがある。

上方の人にとっての「東」は三重までで、そこから先はごうごうと滝が流れ落ちている暗黒の地なのだ。それは今でも同じかもしれない。


2018年2月24日土曜日

工事現場で遊んでいる男子小学生



小学五年生のとき、毎日のように工事現場で遊んでいた。
近くにあった小さな山が造成され、百軒分ぐらいの住宅地になった。

空き地がずらっと並び、常に建設工事がおこなわれていた。

ぼくと友人たちはそのあたりに捨てられている板や釘を拾ってきて、石で釘を打って遊んでいた。

はじめは小さな木片や曲がった釘を拾っていたのだが、だんだんエスカレートしていった。
拾うものは少し大きめの板になり、錆びたのこぎりになり、やがて金づちや新品同様の釘になった。たぶん捨てられていないものも混ざっていたと思う。盗みだ。

それらを空き地の隅っこに隠しておいて、拾い集めた材料で椅子や箱を作っていた。
大工のおじさんたちもぼくらの存在には気づいていたはずだが、ごみで遊んでいるだけだと思っていたのだろう、何か言われたことは一度もなかった。

車輪も手に入った。
工事の際、道具を運ぶのに使っていたのだろうか。
拾った車輪に板をくっつけて、車をつくった。子どもがひとりだけ入れるぐらいの、半畳ほどの大きさの車。
車が完成したときはうれしかった。さっそく乗りこみ、坂道を滑走した。木片と車輪をくっつけただけの手作りの車で、車道をがんがん走る。もちろんブレーキもハンドルもない。無謀すぎる。

スピードが乗ってきたところで、向こうから自動車がやってくるのが見えた。
やばい。どうしよう。
そのときになってはじめて「車道を走っていたら車に出くわす可能性がある」ということに気がついた。小学五年生の男子ってそれぐらいばかなんです。
急いで車から飛び降り、手作り車をつかむ。間一髪、自動車にぶつかる前に止まった。

工事現場には危険がいっぱいだ。
釘を踏んで足の裏に大けがをしたやつもいたし、石で釘を打ちつけるときに誤って自分の指を叩いてしまうことなんて日常茶飯事だった。ぼくは爪が割れて、しかも消毒もせずに遊びつづけていたから化膿した。

何を考えていたのだろうか。もちろん先のことなんて何も考えていない。
男子小学生だったことのある人ならご存じだと思うが、彼らは十秒先ぐらいのことまでしか考えられないのだ。

発煙筒が落ちていたので焚いてみたら警察官が来てこっぴどく怒られたが、工事現場で怒られたのはそれ一回だけだった(もっとあったけどばかだから忘れているのかもしれない)。


みなさん、工事現場で遊んでいる男子小学生を見かけたら、きちんと叱ってやってほしい。彼らのために。やつら、ばかだから怒られないとわからないんです。怒られてもわかんないけど。


2018年2月23日金曜日

さよならミステリ黄金時代


20世紀という時代はミステリ小説に適している時代だった。

電話はあったけど、携帯電話はなかった時代。
写真はあったけど、いたるところに防犯カメラはなかった時代。
指紋鑑定はあったけど、GPSはなかった時代。

ほどよく科学的証拠があり、ほどよくそれらに一定の制約があった時代。
犯罪者と捜査をする側のパワーバランスがほどよくとれていた時代。

もっと昔、19世紀以前となると捜査側が弱すぎた。
古典的推理小説では「こうすれば犯行に及ぶことができた」という状況証拠の提示をもって解決としていることが多い。
決定的な証拠まではなかなか挙げられない。この前、江戸時代を舞台にしたミステリ『粗忽長屋の殺人』を読んだが(→ 感想)、やはり探偵役が推理を滔々と語って、犯人が「そのとおりでございます」で終わりだった。

『遠山の金さん』では、お奉行様の「この目で見た」「忘れたとは言わせねえぞ」が決め手となって一件落着する。
江戸時代だからしょうがないんだけど、今の時代から見ると乱暴だ。目撃者と刑事と被害者側弁護士と裁判官が同じ人なんだから客観的公正性なんてあったもんじゃない。ひでえじゃないですかお奉行様。


近未来、今でもそうかもしれないけど、科学技術が発達すると犯人側にとって圧倒的に不利だ。
わずかな痕跡も残さない科学捜査、はりめぐらされた監視カメラやドライブレコーダー、いつでも誰とでも連絡がとれる通信機器の発達。

善良な市民からすると安全で安心な世の中になったけど、ミステリ小説にとっては窮屈すぎる世界になったねえ。
犯人捜しばかりがミステリじゃないからジャンル自体はなくならないだろうけど、フーダニット(犯人あて)作品は絶滅寸前かもしれない。

2018年2月22日木曜日

【作家について語るんだぜ】地下沢 中也



地下沢中也が好きだ。

『パパと踊ろう』全19巻
『新パパと踊ろう』全2巻
『創立100年ギンザ小学校』全2巻
『チューリップティーズ』全1巻
『片岡さんちのクリコちゃん』全2巻
『預言者ピッピ』2巻~

全部読んだ。『預言者ピッピ』以外は基本的に全部同じテイストの日常系ギャグ漫画だ。どれもそれぞれおもしろい。
でも『新パパと踊ろう』以降、おもしろさが持続しなくなった。『新パパと踊ろう』も『創立100年ギンザ小学校』も『チューリップティーズ』も、はじめはすごくおもしろい。でも途中から急に失速してきて、2巻ぐらいで終わってしまう。大丈夫か。精神的な病でも抱えてるんじゃないか。心配だ。

『預言者ピッピ』だけは壮大なスケールのSF漫画でギャグはない。
超巨大コンピュータによって生みだされた、あらゆる未来を予測することのできるロボット"ピッピ"をめぐる物語。

これもすごくおもしろいんだけど、ぜんぜん描いてくれない。なにしろ第1話が発表されたのが1999年で、単行本1巻が出たのが2007年。2巻が出たのが2011年。そして続きがまったく出ない。どないなっとんねん。

世の中には『ガラスの仮面』とか『BASTARD!!』とか『ヒストリエ』とかなかなか続きの出ない漫画は多いけど、ここまでペースの遅い漫画は他にちょっとないんじゃないだろうか。
このペースだと完結するまでに300年ぐらいかかるだろうから、ぼくの存命中に続きを読むことはもはや諦めている。



地下沢 中也『パパと踊ろう』の代表作といえば、誰がなんと言おうと『パパと踊ろう』だ。
しげる・よしはる・ふっ子の一家によるハートフルでバイオレンスでエロティックでグロテスクでナンセンスな漫画。父子家庭で父親が無職なのになぜかそこそこ安定した暮らしが送れている天知一家を描いた、一話完結ギャグ(ちなみになぜ父子家庭になったか、なぜ仕事をしていないのに収入があるか、の謎は19巻および『新パパと踊ろう』でようやく明らかになる)。

スケベで馬鹿でなまけものでどうしようもない父・しげるは、ぼくの理想の父親像でもある。
子どものときは父親は万能だと思っていたけど、自分が成長してみると、父親だって知らないことだらけだし人間的に未熟な部分も多いなと気づくようになる。特に反抗期には父のダメなところが目についた。
ぼくの父は「自分に知らないものはない」という態度をとる人間だったので、ぼくはその点を軽蔑していた(トータルではべつに嫌いじゃない)。「お父さんは万能だなんて思ってないのに、完璧であろうとするなよ」と思ってた。

『パパと踊ろう』の父・しげるは己の愚かさ、みっともなさを受け入れて子どもにも見せることができる。
ぼくも父親になったけど、しげるのように「お父さんもわからないことだらけだしまちがえてばっかりなんだよ」という姿を見せられる父親でありたいと思っている。さすがにしげるのようにエロさまでは見せたくないけど。


2018年2月21日水曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉
奇想天外』

桂 米朝

内容(e-honより)
人間国宝・桂米朝演じる上方落語の世界。落語の原型は上方にあり。江戸の洒脱な落語とは違う上方の強烈な雰囲気を堪能していただく。第二巻「奇想天外」は、シュールな落語大全集。突拍子もない発想の、話芸だからこそ描ける世界。

この本の素晴らしいのは、落語の噺の文字起こしを載せているだけでなく、米朝さんの解説がついているところ。
埋もれかけていた噺をどうやって掘り起こしたかとか、時代とともにどんな変化を遂げたかとか、演じるときにどういった点に気を付けなければならないかとか、研究書として読んでもおもしろい。

米朝さんの解説は中国の故事を引いてきたり、浄瑠璃や歌舞伎の話がさらっとでてきたり、つくづく教養のある人だ。


地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)


演じると一時間を超える大作落語。
数十人の登場人物が入れかわり立ちかわりするのをたった一人で演じきるという落語の真骨頂のような噺。荒唐無稽な中に妙なリアリティがあるばかばかしさもいい。

地獄の寄席についての会話。

甲「なるほど、なるほど、立花屋花橘、文団治、米団治、文枝、文三、ああ、円都、染丸、桂米朝……、もし、米朝という名前で死んだ噺家はおませんが、あらまだ生きてんのと違いますか」
〇「あんじょう見てみいな、肩のところに近日来演と書いたある」
甲「……ははあ、あれもうじき死によんねんな。可哀そうにいま時分何にも知らんとしゃべっとるやろなあ。ああ、こらいっぺん見に行かないけまへんなァ。こっちのほうも何か賑やかな商店街みたいなものがありますが、あれは何でんねん」

こんなふうに笑いどころも多い。時事ネタもふんだんに盛りこまれていて、古くて新しい噺。

手塚治虫に『日本発狂』という漫画があるけど、死後の世界をユーモラスに描いている点や、死後に死ぬと生き返る点など、『地獄八景亡者戯』と似たところが多い。手塚治虫は落語好きだったらしいから、ひょっとするとこの噺から着想を得たのかもしれない。


伊勢参宮神乃賑(煮売屋~七度狐)(いせさんぐうかみのにぎわい)


いわゆる「東の旅」に分類される旅ネタ。東の旅は全部で二十話ぐらいあるが、そのうちの『煮売屋』『七度狐』を中心に収録。

陽気な道中の様子から、狐に化かされる怪異譚、そして後半の怪談へと目まぐるしく展開していくので、長いが冗長さがなく、退屈しない噺だ。それぞれのエピソードがちゃんとした骨格を持っている。もっとも『七度狐』は当初の形からだいぶ削られたらしいけど。七回も騙されたらさすがに途中で気づくわな。

煮売屋とは、総菜屋 兼 居酒屋のような店らしい。出てくる"イカの木の芽和え"という料理がずいぶんおいしそう。当時にしたらずいぶんしゃれたもの食べてたんだな。


天狗裁き


女房が亭主が見ていた夢の内容を知りたがって喧嘩になり、その仲裁に入った男も夢の中身を知りたがって喧嘩になり、その仲裁に来た町役も……というくりかえしからなる噺。

緊迫感のある奉行所の場面を出したり、突然天狗が出てくるという意外な展開になったり、単調なくりかえしにならないようよく工夫されている。

最後の一言でひっくりかえる、シュールで鮮やかなサゲ。個人的に大好きな噺。
星新一の『おーい、でてこーい』という名作ショートショートに通ずるものがある。

物語の世界では"夢オチ"というのは禁じ手とされたり一段下に見られたりするけど、これは夢オチが鮮やかに決まるという稀有な例。


 小倉船


正式なタイトルは『龍宮界龍都(りゅうぐうかいたつのみやこ)』。これも旅ネタ。
上方落語の旅ネタには、伊勢参りや金毘羅参りだけでなく、地獄、天空、竜宮城へ行くというSFもある。あちこち行っていて、大長編ドラえもんみたいだ。

海中に落とした財布を拾うために巨大なフラスコに入って海に潜る、というなんとも奇想天外でばかばかしいストーリー(もちろん財布はとれない)。
どうやったらフラスコの中に入るという発想が出てくるんだ。詳細は語られないけどゴム栓するんだろうな。ぜったい沈まないだろう。

落語って本題よりも枝葉末節のほうがおもしろいことが多いけど、これなんかその典型。海に潜ってからは笑いどころも少ないし、特に「酒代(さかて)に高(たこ)つくわ」のサゲは、「猩々という海中に棲む空想上の生物がいて大酒飲み」「船頭に渡すチップのことを酒代(さかて)という」の二つを知らないとさっぱり意味がわからないので、今解説なしでこのサゲを理解できる人はまずいないだろう。
中盤のなぞなぞのくだりはわかりやすく笑えるけどね。



骨つり


滅びていたものを米朝さんが復活させた噺。江戸落語にも移植され『野ざらし』の題で語られる。

しゃれこうべを釣りあげてしまった男が供養してやったところ美しい女が恩返しにくる。それを知った隣の男が骨を探しにいき、やっと見つけたしゃれこうべを供養するが石川五右衛門が現れて……というストーリー。
『花咲かじいさん』『こぶとりじいさん』『金の斧』など昔話によく見られる、「いい目にあった人の真似をした欲張りがひどい目に遭う」という類型の物語。

笑いどころの多い前半、怪談めいた中盤、目論見がはずれる終盤と、起承転結が整っている。

「ああ、それで釜割りに来たか」という、石川五右衛門の「釜茹で」と男色の「釜割り」をかけたとサゲは、今ならポリティカルコレクト的に危なそう。でもこういうのはちゃんと残しといてほしいな。



こぶ弁慶


これも「東の旅」シリーズのひとつ。
陽気な旅の道中が語られ、酒の席でのばか話になり(このくだりは『饅頭こわい』の前半とほぼ一緒)、土を喰うのが好きな男が現れ、土を食った男の肩にこぶが現れて弁慶の頭となり、騒動に巻き込まれるというあわただしい展開。

中盤までの主役がいつの間にかいなくなり、後半はまったくべつのお話として展開する。落語にはよくあるけど、慣れていないと混乱するよね。

手塚治虫の『ブラックジャック』に『人面瘡』という話がある。顔に別人の顔が出てきて勝手にしゃべりだす、手術でとってもまたすぐ出てくる、憑りつかれた男はついに発狂して死んでしまうという内容だ。小学生のとき読んだけど、めちゃくちゃ怖かった。しばらくこの話が収録されている単行本5巻だけは手にとれなかったぐらい。

人面瘡は昔からよくおどろおどろしい怪談として語られるモチーフなんだけど、そんな人面瘡ですら軽く笑いとばしてしまうのが落語のすごさだ。



質屋蔵


質屋の蔵に幽霊が出るという噂が立ったため、怖がりな番頭さんと熊さんがおびえながら寝ずの番をすることになる――という噺。

前半、延々と一人語りが続くシーンがある。落語自体が一人語りの芸なんだけど、その中で登場人物が声色を使い分けて延々と一人語りをする。いってみれば「落語の登場人物が落語をする」みたいな感じ。
米朝さんの『質屋蔵』を聴いたときは違和感をおぼえなかったけど、これを自然に演じるのは難しいだろうなあ。

終盤までリアリティのある話運びだったので、終盤でいきなり着物が相撲をとりだすという急転直下の展開。

菅原道真の掛け軸が「どうやらまた、流されそうなわい」というサゲだが、これまた「菅原道真が大宰府に流された」ということと「質に預けたものが返されないことを質流れという」ことを知らないとぴんとこないから、そのうち別のサゲになりそう。



皿屋敷


落語、とりわけ上方落語には「なんでもかんでもおもしろがる」という傾向がある。
眉をひそめるような事柄でも笑いとばしてしまう、というのは落語の最大の魅力かもしれない。

『皿屋敷』はその最たるもので、怪談話の代表格であるお菊さんをコミカルに描いている。
播州に住む男たちが皿屋敷に行き、「一枚、二枚……」を途中まで聞いて途中で帰ってくるという肝試しをするという噺。今でも大学生はよく幽霊の出るトンネルとかに行くし、昔からやってることは変わらんねえ。

姫路城に行ったときに城の敷地内に「お菊の井戸」なるものがあって「いくら播州とはいえ城内にあんのはおかしいだろ」と思ったが、やはりあれは後から作った井戸らしい。


犬の目


マッドサイエンティストもののSF噺。犬の目を人間に移植したら夜目が利くようになった――というなかなかブラックなお話。
手塚治虫『ブラックジャック』にも馬の脳を移植する話が……って手塚治虫の話ばっかりしてるな。

こないだ寄席で「戌年にちなんで犬が出てくる噺ばかりやります」というイベントがあったので行ったんだけど、そこで高座にかけられていた噺のひとつがこの『犬の目』だった。戌年にちなんで犬の目をくりぬく話かよ。ひでえ。

「眼球をくりぬいて洗う」「眼球が水につけすぎたせいでふやけてしまう」「ふやけた眼球は陰干しにして乾かす」「乾かしすぎたら塩水につけて戻す」という荒唐無稽なんだけど妙に説得力のある発想がおもしろい。
ぼくは花粉症だから今の季節は眼球をくりぬいて洗いたいぜ。


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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉 愛憎模様』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』

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2018年2月20日火曜日

【読書感想】『個人編集 日本文学全集 竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』


『個人編集 日本文学全集
竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』

池澤夏樹 (編集)
森見登美彦 ,‎ 川上弘美 ,‎ 中島京子 ,‎ 堀江敏幸 , 江國香織 (現代語訳)

内容(河出書房新社HPより)
絢爛豪華に花開いた平安王朝の珠玉の名作を、人気作家による新訳・全訳で収録。最古の物語「竹取物語」から、一人の女性の成長日記「更級日記」まで。千年の時をへて蘇る、恋と冒険と人生。
「もの」を「かたる」のが文学である。奇譚と冒険と心情、そこに詩的感興が加わって、物語と日記はこの国の文学の基本形となった。――池澤夏樹
竹取の翁が竹の中から見つけた〝かぐや姫〟をめぐって貴公子五人と帝が求婚する、仮名による日本最古の物語、「竹取物語」。在原業平と思われる男を主人公に、恋と友情、別離、人生が和歌を中心に描かれる「伊勢物語」。「虫めづる姫君」などユーモアと機知に富む十篇と一つの断章から成る最古の短篇小説集「堤中納言物語」。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとしてするなり」、土佐国司の任を終えて京に戻るまでを描く日記体の紀行文、紀貫之「土左日記」。十三歳から四十余年に及ぶ半生を綴った菅原孝標女「更級日記」。燦然と輝く王朝文学の傑作を、新訳・全訳で収録。
池澤夏樹氏の個人編集という形で刊行されている『個人編集 日本文学全集』の第三巻。全三十巻の予定だそうです(まだ刊行中)。
有名文学作品を、人気作家たちが訳すというなんとも贅沢なシリーズ。これは高校の図書館にはそろえとかないといけないシリーズだね。ほとんどの高校生は手に取らないだろうけど。話はそれるけど学校の図書館にある本ってなんであんなにつまらなさそうに見えるんだろう。


『竹取物語』『土佐日記』の冒頭と、『伊勢物語』の一部はたしか高校の授業で読んだはず……。中学校だったかな。
でも古文の授業って文章をやたらと分解して、これは絶対敬語だ、あれは已然形だ、と分類していく作業ばかりなので内容はまるで頭に入ってこなかった。

あの分類作業は、学術的な基礎スキルを身につけるという意味では役に立たないものではないけれど、やっぱりおもしろみには欠けるよなあ。あれで古典文学を好きになる学生はまずいないだろう。まあ学問だから全員に好きになってもらう必要もないんだけどさ。

もうちょっと歴史や文化史とからめて教えたらだいぶおもしろくなると思うのだが……。


森見登美彦 訳『竹取物語』


森見登美彦さんだからどんな変態的な訳をしているのかと思ったら、拍子抜けするほど素直な訳。
『竹取物語』は内容がなかなかぶっ飛んでいるから、変に文章でひねらないほうがいいのかもしれない。とはいえさりげなく「そこらを這いまわってうごうごするのだ」なんて森見節が光ったりしている。竹取物語だけに。

 それを見るや中納言は、「ああ、貝がないよ!」
 と、叫んだ。
 この出来事から、思い通りにいかないことを「貝がない」、すなわち「甲斐がない」と言うようになったのである。

ときどきこういう駄洒落が出てきて、「森見登美彦もくだらないこと書いてるなあ」と思ってたんだけど、調べたら原文にある駄洒落だった。こんなのあったっけ。覚えてないなあ。今読んだらぜんぜんおもしろくないけど、昔の人は笑ってたんだろうな。

解説で森見氏自身も書いてるけど、五人の求婚者のエピソードはのびのびと書かれていてておもしろい。ちゃんとキャラが立っているし、それぞれのエピソードに起承転結がある。たいしたものだ。

しかし森見登美彦さんは竹が好きだね。
大学の卒論も竹について書いたらしいし『美女と竹林』という本も出していた。



川上弘美 訳『伊勢物語』


歌物語。高校の授業で読んだはずだけどどんなんだったっけ……と思いながらも読んだら思いだした。ああ、こんなのあったなあ。「昔、男ありけり」ね。
古典の教師が「平安時代のプレイボーイ・在原業平の女遍歴を書いた話」って言ってたなあ。

以前、俵万智『恋する伊勢物語』というエッセイを読んだことがあったはずだけど、ぜんぜん覚えていないなあ。

改めて読むと、伊勢物語ってつまんないなあ。川上弘美が悪いわけじゃなくて、歌物語だから短歌がメインで、物語性はぜんぜんない。「男がいた。女に対して冷たくなった。女がこんな歌を詠んだ。それを見て、男がこんな歌を返した」みたいな断片的なストーリがだらだらと並んでいるだけ。

思春期のときに読んだらもうちょっと自分と重ねあわせて楽しめたかもしれないけど、三十すぎたおっさんからすると「どこにでも転がってる話じゃん」としか思えない。
恋愛って千年たっても基本的な構造は変わらなくて、突き詰めれば「セックスさせるかさせないか」だけの話だから、よほど凝った舞台装置を用意しないかぎりはおもしろみがないんだよね。人類誕生以来、ずっと同じようなことをくりかえしてるもんね。
安いJ-POPの歌詞みたいで、わざわざ物語として読むようなもんじゃないな。個人的に恋愛小説が好きじゃないってのもあるんだけど。

歌物語だから歌がメインなんだけど、和歌を楽しもうと思ったら原文で読まないといけないしね。ということで、これを現代語訳するという企画自体に無理があったのかも……。


中島京子 訳『堤中納言日記』


日本初の短篇集ともいわれる『堤中納言日記』。
これはけっこうおもしろかった。
『蟲愛づる姫君』とか『はいずみ』とか、今見てもユーモラスな話だ。

「嫌よねえ、姫って、眉もまるで毛虫じゃない」
「それでもって、歯ぐきは、毛皮を剝いた芋虫ってとこ」
 他の女房たちも言いたい放題。そこへ左近という女房がやってきた。

  冬くれば衣たのもし寒くとも烏毛虫多く見ゆるあたりは
  ──冬になりゃ暖かいわよ毛がいっぱい 見てよこの部屋毛虫がいっぱい

こんな感じ(ちなみに『風の谷のナウシカ』は『蟲愛づる姫君』にヒントを得たのだとか)。

感心したのが、和歌を五七五七七で訳していること。
俵万智さんも『伊勢物語』や『源氏物語』の和歌を現代語の和歌にしていたけれど、これはたいへんな苦労だろうな。まして中島京子さんは歌人じゃないし。

原文も訳も自由闊達に書かれていて、これがいちばん読んでいて楽しかったな。


堀江敏幸 訳『土左日記』


「土日記」だと思っていたんだけど、元々は「土日記」なんだね。知らなかった。
原文を読んでないので、原作者のせいなのか筆写した藤原定家のせいなのか訳者のせいなのかわからないけど、文章がすごく理屈っぽい。
物語じゃなくて論文を読んでるような気分。なんのためにわざわざ女のふりしてかな遣いで書いてるんだよ。
日記だからしかたないといったらそれまでなんだけど、テンポは悪いし、かな文字だけでややこしいことを考えているから頭に入ってこないしで読むのがつらかった。

ということで後半は読み飛ばした。


江國香織 訳『更級日記』


読書が好きな女の子が都会に憧れて出てきたけれどいざ現実を見てみると思ってたのとちがうことも多くてがっかりしちゃうわ、みたいな内容。たいしたことは書いてないんだけど、千年前の人と同じ気持ちを共有できるのがおもしろい。

 そんなふうにふさぎ込んでいる私を母が心配して、すこしでも慰めようと、物語を手に入れて読ませてくれた。すると、私は自然と慰められていった。『源氏物語』の若紫の巻を読み、続きを読みたくてたまらなくなったが、人づてに入手を頼もうにも誰に頼んでいいかわからず、馴れない都では見つけられるとも思えなくて、ほんとうにもどかしく、いても立ってもいられず、〝この源氏物語を、最初の巻から全部すっかり読ませてください〟と、心のなかで祈った。両親が太秦のお寺に参籠するときにも一緒について行って籠り、他のことは祈らずにそのことばかりをお願いした。すぐにも全巻読み通す意気込みだったのに、そう上手くはいかず、なかなか手に入らなかったので、まったく残念でいやになってしまった。そうこうするうち、私のおばさんだという人が田舎から上京してきたので挨拶に行くと、そのおばさんが、「ほんとうにかわいらしく、大きくなったのね」となつかしがったり驚いたりし、帰りがけに、「何をさしあげましょうね。実用的なものではつまらないでしょう。欲しがっているとうかがったものをさしあげましょう」と言って、『源氏物語』を五十数巻全部、大きな箱に入った状態のままくださり、さらに、『伊勢物語』『とほぎみ』『せりかは』『しらら』『あさうづ』といった物語も、袋に入れて持たせてくれた。それをもらって帰るときの、天にものぼるうれしさといったら!

このオタクっぽい文章よ。江國香織さんの引きこもりっぽさともよくマッチしていてなかなかおもしろく読めた。
とはいえほんとにただの日記で、特に印象に残るような事件が起きるわけでもなく、少しずつスピリチュアルな内容に傾倒していくので途中から飽きてしまった。歴史研究家の資料としては価値があるんだろうけど、他人が読んでおもしろいものではないな。
他人に読ませるために書いたものじゃないのかもしれない。



千年前と今とを比べてみると、娯楽としての文学はすごく進化しているけど、それを語る人間のほうがたいして進化していないんだな、と感じる。
たぶん千年後の人たちも、いい女をつかまえるために嘘をついたり、他人の失敗話をおもしろおかしく話したり、ほしい物語を求めて一喜一憂したりしてるんでしょうなあ。


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2018年2月19日月曜日

英語能力のフロッピーディスク化


小学校で英語教育を受けさせられる娘が不憫でならない。

まったくの無駄だとは思わない。ぼくも中学校・高校・大学で英語を学習したことで文章の構造や論理的な思考を学んだ。

でも「外国語でコミュニケーションがとれる能力」の価値は今後どんどん低下していく。


機械翻訳の精度は、今後飛躍的に上がる。疑いようもなく。
テキスト翻訳はもちろん音声翻訳も、十年以内に実用に十分耐えうるレベルになるだろう、とぼくは思っている。
「十年以内」でもずいぶん控えめに見積もったつもりだ。将棋でコンピュータが人間と対戦するようになってからプロ棋士をこてんぱんに打ち負かすようになるまでにかかった時間を見ていると、自動翻訳が実用化するのに十年もかからないと思う。

とくに英語なんて利用者が多いからまっさきに翻訳精度が上がる言語だ。
大多数の日本人にとって英語能力は今以上に不要のものになる。

詩的表現や若者言葉や業界用語にまで対応するのは難しいかもしれないが、旅行・買い物・初対面でのコミュニケーション、その程度のことは自動音声翻訳で事足りるだろう。もっとこみいった話はテキストでやりとりすればいい。どうしても必要なら通訳や翻訳者を使えばいい。ニーズが減って供給過剰になるから、通訳・翻訳の費用も下がるだろう。

少なくともビジネスシーンにおいては外国語能力はたいした価値を持たなくなる。ないよりはあったほうがいい、ぐらいのスキル。いってみれば、電卓やコンピュータが普及した時代における暗算スキルぐらいの重み。




義務教育での英語学習時間は増えていってるけど、むしろ今後減らしていったほうがいい。

2020年から小学校でプログラミングが必修化するらしいけど、英語学習で見につく論理的思考などの能力のうち大部分はプログラミング学習でも身につけられる。だからプログラミングをやるのであればその分英語学習時間を削ったほうがいい。

小学校の算数の一単元でそろばんを教えるけど、将来的にはあれぐらいの扱いにしてもいいと思う。そこまでいかなくても、せいぜい古文や漢文ぐらい。
英語は高等教育で学べば十分だ。小学校で算数や国語の授業時間を削ってまで教える必要はない。



ぼくが中学校のとき、技術の授業で「コンピュータ」という単元があった。
そこで教わったのは「フロッピーディスクのフォーマット方法」だった。

知ってますか、フロッピーディスクのフォーマット。
昔のフロッピーディスクって買ってもすぐに使えなかったんです。一回初期化しなきゃいけなかったんです。なんでって訊かれても困りますけどね。フロッピーディスクって何ですかって訊かれたらもっと困りますけどね。

ぼくがフロッピーディスクのフォーマット方法を習ったのは1995年。それが役に立ったことは一度もない。大学時代はフロッピーディスクを使っていたけど、フォーマット済みのフロッピーディスクが売ってたしね。もちろん高校入試にも出なかった。会社の採用試験にも出なかった。

あの時間はなんだったんだ。まあフロッピーディスクのフォーマットについて習ったのは一時間か二時間だけのことだったので、まあいっかと思う。こうして話のネタになるしね。

でも小学生のときから何千時間も英語学習に費やして、いざ自分が大人になったときに英語能力が「フロッピーディスクのフォーマット方法」レベルの有用性になり下がっていたら、「勉強した時間返せよ」って思う。

さっさと自動翻訳が普及して、教育関係のえらい人たちが「英語、そんなに役に立たなくね?」と早く気づいてくれることを祈る。

ていうか機械翻訳がどうこういう以前に、早期学習が英語能力の習得に貢献するという確かな根拠ってあるのかね?


【関連記事】

バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』


2018年2月18日日曜日

中敷きくせえ


靴を買いに行ったとき、ぼくの靴を試し履きさせてくれた店員のお兄さんに

「この中敷き、いいですよ。靴のにおいってほとんどが中敷きのにおいなんですよ! ぼくも足くさいって言われてたんですけど、この中敷きするようになってからくさいって言われなくなりました!」

って力説されて「ぼくの足、そんなにくさいのか……」と若干落ち込みながら言われるがままに店員おすすめ中敷きを購入した。



それから数か月。

ふむ。たしかにいい。

帰宅して靴を脱いだら、中敷きを取りだす。

くせえ。超くせえ。

そのまま中敷きを干しておくと、翌朝になるとにおいがだいぶ軽減している。

なるほど、中敷きが吸っていたにおいが一晩でなくなっている。

そのにおいは部屋中に飛散されているんだろうけど、その件については深く考えないことにする。

くさくなくなった中敷きを入れて出かける。帰ると、またくせえ。超くせえ。



はじめて知った。

靴のくささって積もりに積もった分泌物のにおいだと思っていたのだが、たった一日で歩いただけでこんなにくさくなるのか(しかも冬なのに)。

今までは中敷きを取りだしていなかったから、このくささを何年も溜めこんでいたわけだ。さぞかし凝縮した濃厚な香りだったことだろう。

店員さん、婉曲かつ直截的に「足くさいっすよ」と教えてくれてありがとう。

2018年2月17日土曜日

ブログ、よろしおすねや


個人ブログって好き。書くのも好きだし、読むのも好き。

でも悲しいことにブログを書いてる人は少なくなってる。

ブログがいちばん流行ったのって2005年頃ですかね。日常的にインターネットやってる人の半分くらいの人はブログ持ってたんじゃないかって印象。高すぎるかな。でもそれぐらいの印象。じっさい、二割以上はやってたんじゃないでしょうかね。

その後mixiとかTwitterとかFacebookとかが流行って、もっと手軽にものを発信できるSNSにみんな移行していった。

ぼくが昔読んでいたブログはほとんど残っていない。でももっと読みたい。「これは!」と思うブログをRSSリーダーに入れて(こういうのやってる人も今はあんまりいないんだろうなあ)読んでいるのに、いつしか更新されなくなってしまう。悲しい。


もっとみんな書いてよ。

好きなブログがいくつかあるけど、その大半はほとんど更新していない。

一時は毎日のように書いていた人も、今ではほとんど書いてない。

だから書いてくれ。書くのが嫌いな人にまで書けとは言わないけど、書くのが好きな人は書いてくれ。

なんで書くのをやめちゃったの?




おもしろい文章が書けない


って言わはりますけど。そんなんよろしおすねや。

おもしろくなくていいんですよ。こっちは個人ブログにそんなにおもしろいものを求めてないから。

おもしろいものは金出して本買って読むから。

そんなにおもしろくない体験をしていない人のそんなにおもしろくない文章。それが読みたいんだよ。

片思い中の相手がブログ書いてたらぜったい読むでしょ。どんなにクソくだらないこと書いてても、熱心に読むでしょ。三回読み返すでしょ。

ぼくがブログを読みにいくのは、それを書いてる人が好きだから。おもしろくなくても美しい文章じゃなくても、好きな人が書いた文章は読みたい。

今日カレー食ったうまかったみたいな話でいいから、書いてくれ。




読んでくれる人が少ない


年賀状っておもしろくないじゃない。でもみんな読むでしょ。

年賀状嫌いな人は多いけど、それって書くのがめんどくさいだけで、読むのはみんな好きでしょ。

知人から自分宛てに届いた年賀状、読まずに捨てる人います?
いたら怖えから二度と近づかないでくれ。自分宛てに届いた年賀状読まないくせにこんなブログ読みに来てる人がいたら狂ってるとしか思えない。

そんなに親しくない人から来た年賀状、どうせ大したこと書いてないってわかってても一応読むよね。

自分宛てに書かれているから。


だから読者数は多くなくていい。むしろぼくは読者が少なそうなブログを読みたい。

「ぼくが読まなきゃ」って気持ちになるから。自分宛てに書かれているような気がするから。

一年書いて読者数ゼロだったらさすがにやめたほうがいいけど、ひとりでもいるんだったら書いてくれ。

読者数の少ないブログを読みたい人間もいるんだよ。



書いてて手ごたえがない


それはごめん。

ぼくも欠かさず読んでいるブログがいくつかあるけど、いちいちコメントしたりトラックバックしたりしない。ほんとごめんって。

反響ないとモチベーション下がるよね。でも読んでるから。アクセス数1が大反響だと思ってくれ。「あーおもしろかった」って思ってるから。コメントつけたり拡散したりしてないけど。でもまた新しい記事書いたら読みに行くから。


反響なんてあっても疲れない?

ぼくがブログを好きなのは、反響があんまりないからってのもある。

SNSって気軽に「いいね!」がつけられるじゃない。あれ、たしかにうれしいけどそれに振り回されるんだよね。「いいね!」の数に一喜一憂しちゃう。

よく考えたらぼくは書きたいことを書いてるだけで、それに点数をつけてほしいわけじゃない。

「いいね!」はいらないからまた次の記事を読みに来てほしい。

読者数がひとり以上いることがなによりの反響だと思えば、やめる理由にはならない。




このブログなんて、目を見張るようなことも書いてないし読者数も少ないし反響もほとんどないけど、それでも三年間毎日のように書いている。

なにをモチベーションにやってるかって言ったら、自分という熱狂的ファンがいるから。ときどき自分の過去記事を読み返して「やっぱりぼくの書く文章っておもしろいなあ」と思えるから。

書くことのおもしろさは知っているよね。自分の書いたものを読んでもらううれしさは知っているよね。

だったらすぐ書かんかい。放置しているブログを今日から再開せんかい。はよ。


2018年2月16日金曜日

捏造記憶


ぼくのいちばん古い記憶は、「二歳の誕生日を家族に祝ってもらっている」というものだ。

「バースデーケーキを前にして、両親や姉がぼくの誕生日を祝っている」という映像が自分史上最古のものだが、この映像の中にぼくの姿もある。

おかしい。自分の記憶なのに、自分の姿がある。幽体離脱をして外から自分の姿を見ていたのだろうか。

これは、もっと大きくなって見せられた写真をもとに、捏造した記憶だろう。



「二歳のときに入院していた」という記憶もある。

これは事実だ。姉と自転車の二人乗りをしていて、転んで左ひじの骨を折ったのだ。

入院中のあるとき、赤い飴玉を渡された。飴玉をなめていると、それが睡眠薬だったらしく、眠りに落ちてしまった。目が覚めたら手術が終わっていた。


……とずっと思っていたのだが、あるとき母にその話をしたら「そんなわけないじゃない」と言われた。

たしかに二歳の子どもに睡眠薬を飲ませるなんてあぶない。ふつうは全身麻酔をするだろう。また飴玉を睡眠薬にしたら、寝たときにのどに詰まる危険性がある。

よく考えたらいろいろとおかしい。

しかしこれは写真もないし、どこから「赤い飴玉の睡眠薬」という発想が出てきたのか、謎だ。

しかし最近、『ひとまねこざるびょういんへいく』という絵本を見ていると、おさるのジョージが病院で赤い薬をなめて寝てしまうというシーンがあった。

この本、うちにもあった。母に訊くと「あんたが入院していたときに買ったのよ」とのことだった。

なるほど、これだったのか。どうやらおさるの記憶と自分の記憶がごっちゃになっていたらしい。



自分の記憶って、けっこうあてにならないもんだな。

二歳のときだから、ってのもあるけど、もしかしたら二十歳ぐらいの記憶も半分くらい後から捏造しているかもしれない。


2018年2月15日木曜日

ママは猟奇的


ときどき母と本の交換をする。「これ、おもしろかったよ」と自分が読んだ本を交換するのだ。

母はミステリやサスペンスが好きなので、こないだ清水潔『殺人犯はそこにいる』を贈った。
「ノンフィクションだけど、そこらのミステリ小説よりずっと手に汗握る展開だった」と。



一ヶ月後、母に尋ねた。
「『殺人犯はそこにいる』、読んだ? すごい本やったやろ?」

すると母は「途中で読むのやめちゃった」と言う。

「えー!? なんで? あの本を途中でやめられる? ぼくは中盤から一気に読んだけどな」

「いや、ノンフィクションとしてはすごくいい本だと思う。
 でも、孫ができてから、ちっちゃい子がひどい目に遭う話は読めなくなったのよね。
 うちの孫がこんな目に遭ったらと思うとつらすぎて……」

と。

母の変わりように驚いてしまった。

あんなにサスペンスやホラーが好きだった母が。学生時代から『雨月物語』を愛読し、猟奇的な殺人事件もののミステリばかり読んでいた母が。

人間、歳をとると変わるんだねえ。


しかしなによりショックだったのは、「孫ができてからちっちゃい子がひどい目に遭う話はつらすぎて読めない」と言う母が、ぼくが子どものときはそんなことを一言も言っておらず、残虐な物語もよく読んでいたこと。

我が子はええんかい。



2018年2月14日水曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈一〉 四季折々』

『上方落語 桂米朝コレクション〈一〉
四季折々』

桂 米朝

内容(e-honより)
斯界の第一人者で、人間国宝でもある桂米朝演じる上方落語の世界。本人による解説を付し、江戸落語とはひと味もふた味も違う噺を堪能していただく。第一巻「四季折々」は、今はもう失われてしまった季節感、のどやかさの感じられる落語を集める。

ぼくは落語を聴くのが好きでよく落語を聴きながら寝るのだけど(すぐに眠れるのでおすすめ)、落語を読むのも好きだ。中学校の図書館で落語全集借りて読んでたなあ。

落語って聴くだけではわかりにくいことも多い。読んでから聴くことで理解しやすくなる。邪道といわれるかもしれないけど、読むこともおすすめしたい。


桂米朝さんって噺家としてももちろんだけど、なにより研究者として超一流。
落語の噺って昔は口伝で受け継いでいたから、噺家たちがやらなくなるとすぐに途絶えちゃう。
米朝さんは古い落語を探しまわり、音源があればそれを蒐集し、音源がなければいろんな人から聞いてまわって噺を再現し、それを自分でも高座にかけて後世に残した。さらにこうやってテキストとしても残したわけで、米朝さんが上方落語界に残した功績はとんでもなく大きい。米朝さんがいなければまちがいなく今の上方落語はなかった。
そりゃあ人間国宝にもなるね。

ぼくが米朝さんの噺をはじめて聴いたのは小学生のとき。母が「近くで桂米朝一門会やるから行こう。平日だから学校休んでいいよ」って行って、連れていかれた。
そこで落語のおもしろさを知って、『米朝落語全集』のカセットテープを買ってもらい、夜な夜な聴いていた。

大人になってからは寄席にも行ったりしていろんな噺家の落語を聴いたけど、最高峰から入ってしまったので他の噺家の落語を聴いてもいまいち楽しめず、やはり米朝落語ばかり聴いてしまう。
聴きやすい、品がある、幅が広い、ということでどれだけ聴いても飽きない。

米朝さんは亡くなってしまったのでもう生の噺は聴けないけれど、『桂米朝コレクション』を読んでいると米朝さんの語り口が聞こえてくる気がする。


けんげしゃ茶屋


"けんげしゃ"とは"縁起を気にする人"の意味らしい。
これは読むほうが理解できるな。解説なしでこの噺を聴いたらわからない点だらけだろう。

縁起を気にする人に行って、わざと縁起の悪いことばかり言っていやがらせをする、という内容で、ちょっと悪ふざけが過ぎるなという印象。
それでもこれが笑いになるわけだから、人間って昔から俗悪なものが好きなんだなあ。「テレビのバラエティ番組はいじめの構造と一緒」みたいな批判がされるけど、落語にもこういう噺はあるわけで、今も昔もみんな人の嫌がることが好きなんだよ。


 正月丁稚


正月の挨拶まわりに出かけた丁稚が縁起の悪いこと、余計なことばかり言うという噺。
『けんげしゃ茶屋』と似ているけど、嫌なことを言うのが金持ちの旦那ではなく丁稚の子どもなのでこっちのほうが罪がない。
正月の商家の様子や正月行事(門松、おせち、正月用の箸など)の由来などがよくわかる噺なので、これは学問的にも後世に残したほうがいい噺だね。


 池田の猪買い


上方落語には「東の旅」「西の旅」「南の旅」「北の旅」という旅ネタシリーズがあり、この噺は稀少な「北の旅」に分類される。
江戸の旅といえば東の旅(お伊勢参り)が主流で、わざわざ北に行くことなんてほとんどなかったんだろうね。北といっても池田ってそんなに北じゃないんだけど(現在の行政区分では大阪市のふたつ隣が池田市)。
それぐらいの距離だから、交通機関のなかった昔ですら一泊で行ける距離(がんばれば日帰りでも行けない距離じゃないと思う)。それぐらい北には行かなかったんだろうね。
ま、これは現代でも同じだけどね。大阪の中心地に住んでる人はあんまり北に行かない。

この噺、いきなり「猪が淋病に効くらしいから買いに行く」というド下ネタな導入で、今ではこのくだりは改変されて語られることが多いらしい。そりゃそうだ。
でもだからこそこうやってテキストに残しておく価値があるよね。

左へ曲ってちょっと行くと、淀屋橋という橋があるやろ、淀屋橋を渡って大江橋を渡る、と、お初天神という天神さんがあるな。あそこの北門のところに、紅卯というすし屋の看板が見えたあるそれが目印や、そこから一本道まっすぐその道を上がって行きゃええのや、北へ北へと上がって行く、十三の渡し、三国の渡しと、渡しを二つ越える。服部の天神さんというお宮があるな、それを尻目にころして行くと岡町、岡町を抜けたら池田、池田の、街中で聞いてもわからんな、山の手へかかって山漁師の六太夫さんちゅうて聞いたら大阪まで聞こえたある猪撃ちの名人や

と、池田への行きかたを説明するくだりがあるんだけど、ここに出てくる地名、今も全部そのまま残っている。あれは昔からあるのかーと大阪の住人としてはそれだけで楽しめる。お初天神も服部天神もあるしね。さすがに寿司屋と渡しはなくなったけど。

落語って町人のものだから基本的に町中しか出てこないんだけど、これはめずらしくお百姓さんや猟師も出てくる噺でもあって新鮮。個人的に好きな噺。


 貧乏花見


江戸落語では『長屋の花見』という題で語られるが、元々は上方の噺。とにかくばかばかしくて何も考えずに笑えるご陽気なネタ。
上方落語は「ハメモノ」と呼ばれる三味線や鳴り物を使うので、陽気な噺は上方式のほうが聴いてて楽しい。

貧乏長屋の連中がおかずを持ち寄って(ひどいものばかりだが)花見にくりだし、「おさけ」の代わりに「お茶け」を飲み、大暴れするという内容。
笑いどころの多い前半に比べて後半はトーンダウンする上に他人に迷惑をかけるという内容なので、今は途中で終わらせることが多いんだそうな。


 百年目


米朝さんがしきりに「むつかしい(「難しい」の関西弁)噺」と書いているけど、複雑な心中描写が主題となっているのでたしかに演じるのは難しそうだ。

丁稚に小言ばかり言っている厳格な番頭さんがじつは遊び好きで、派手に芸者を引き連れて花見をしているとばったり店の旦那と出くわしてしまう。クビを言い渡されるのではないかとひやひやしていたが旦那から優しい対応をしてもらう――という噺。

これは人間の多面性がよく描かれていて、人情味もあってすごくいい噺。くりかえし聴くほどにその良さがわかる。これは若い噺家にはなかなか語れないだろうね。
現代の会社にそのまま置き換えても通ずる噺だ。


 愛宕山


大阪でしくじって京都に行かざるをえなくなった幇間(太鼓持ち)が、旦那さんについて愛宕山に登る、という噺。
「大阪出身の幇間が京都人の旦那についている」という設定がいい。

関西の人ならわかると思うけど、今でも京都と大阪の人って互いに相手を下に見ているところがある。大阪は「こっちは商売の中心や」というプライドがあるし、京都は京都で「大阪もんは雅なものを理解できしまへん」と思っている。このへんの感覚は21世紀でもあまり変わっていない。
愛宕山の前半には大阪VS京都の微妙な意地の張り合いがあらわれていて、関西人としてはとてもおもしろい。

ただし前半は当時の金持ち衆の遠出の様子が丁寧に描かれているのに対し、後半は「番傘を開いて谷底へと飛び降りる」「長襦袢を引き裂いてつくった紐を伝って戻ってくる」というめちゃくちゃなストーリー。特に「旦那が小判を谷底へばらまく」というのは、下品で京都人らしくない。
後半はあんまり好きじゃないな。


 千両みかん


商家の若旦那が「夏にみかんを食べたい」と思うあまり寝込んでしまい、番頭がみかんを求めて奔走するという噺。ちょっと設定に無理がある。特に年中みかんを食べられるようになった現代においては、自然に設定に入りこめない。

「みかんを持って番頭さんがばっくれる」というサゲはおもしろいのだが、「あんなに若旦那のために苦労していた番頭さんがそんなことするかね」という気がするし、それだったら千両持って逃げるだろうとも思う。いろいろと粗が目立つ噺だ。


 蛇含草


『天狗裁き』とならんで、ぼくがいちばん好きな落語。
星新一のショートショートが好きだからこういう秀逸なサゲの噺が大好きだ。

餅を腹いっぱい食べて苦しくなった男が「うわがみが人間を呑んだ後におなかをすっきりさせるために食べる」という蛇含草を食べたところ――という噺(これだけでも勘のいいひとならオチがわかるだろう)。

切れ味のいいサゲが注目されがちだけど、餅を食べるシーンでの意地の張り合い、腹いっぱいになって苦しんでいてもまだ餅を食べようとする男の卑しさなど、落語らしい人間の浅ましさが描かれているのもいい。


まめだ


これは小学生のときに買ってもらったカセットテープに収録されていたので、何度もくりかえし聴いた。
古くからある噺だと思っていたけど、新作落語なんだね(といっても1966年作だけど)。

膏薬を売って生計を立てている売れない歌舞伎役者。ある日いたずらをする狸を地面に叩きつけてから、膏薬が一日にひとつずつなくなっていくことに気づく……というストーリー。
笑いどころは少ない上に、あまり罪のない狸を殺してしまうかわいそうな噺なので、演者の腕がないとただただ残酷な噺になってしまいそうだ。
サゲの「狸の仲間から、ぎょうさん香典が届いたがな」も、笑えるというよりしんみりしてしまう。


 かけとり


大晦日にツケの請求がやってくるので、相手の好きなものを並べ立ててうまく追いかえす――という噺。

よくできているんだけど、時事ネタなどわかりづらいくだりが多すぎる。力士の名前とか、芝居風の言い回しとか。サゲも、聴くだけだったら意味不明だろう。

ツケで買って月末、年末にまとめて払うという「かけとり」の風習もなくなったし、近いうちに消えゆく落語かもしれないな。


 風の神送り


「風の神送り」とは、インフルエンザなどが流行ったときに「風(風邪)の神様に見立てた人形を川に流す」という風習のこと。明治に入って廃れたそうだ。
こういう何から何まで今とは違う風習を扱った落語は、かえってわかりやすい。まったくべつの世界の話として聴けるから。

話の主軸は、風の神送りをするためにカンパを募る、というくだり。吝嗇な金持ちに悪態をついたり、流行り病のおかげで稼げているやぶ医者が出ししぶったり、さまざまな人間模様が描かれていて興味深い。
特に金持ちのお妾さんと一緒に風呂に入る描写(当時の風呂は混浴だった)は新鮮でおもしろかった。そういえば上方落語には風呂が出てくる噺が少ないな。江戸落語にはけっこうあるみたいなんだけど。

サゲにも使われている「弱身につけこむ風邪の神」ということわざは、まともな医学がなかった当時にしては的確。
ぼくもブラック企業に勤めていて慢性的な睡眠不足だったときはしょっちゅう風邪ひいてたなあ。結局、風邪の予防には十分な睡眠がいちばん効果だよね。「どうしても休めないあなたに」なんて云って風邪薬の宣伝してる現代より、昔の人のほうが正しく理解していたのかもね。


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2018年2月13日火曜日

卵どろぼう


オヴィラプトルという恐竜がいる。名前は「卵どろぼう」という意味だ。


最初に化石が発見されたときにそばに卵の化石もあったため、卵を盗んで食べる恐竜にちがいないと思われてこんな名前になった。

ところが後の調査で、オヴィラプトルの近くにあった卵の中にはオヴィラプトルの子どもがいたことがわかった。つまり彼らは卵を盗んでいたのではなく、自分の卵を温めていたのだ。

しかし「卵どろぼう」の名で定着してしまった彼らは、今もそのまま「オヴィラプトル」という卵どろぼう呼ばわりされている。

ひどい冤罪だ。冤罪が明らかになった今をもってなお、彼らの汚名は雪がれていない。


オヴィラプトル濡れ衣問題は、法治国家の限界を表しているようにも見える。

「疑わしきは罰せず」の原則が無視され、"容疑者"になっただけで犯人扱いされてしまう現実。

法に定まった罰以上に社会的な制裁を課されてしまう実情。

一度汚名を着せられたら、それが濡れ衣であっても永遠に拭えない社会。

こうした社会の危険性に対し、数千万年の時を超えて「卵どろぼう」が警鐘を鳴らしている。


2018年2月12日月曜日

ツイートまとめ 2017年11月



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なぞなぞ

宗派

締め

モータライゼーション

クッパ

原始

絶対値


どんぐり

新技術

でおうた

逃走中

コメント

下劣

死にたい

知恵

労働者


のろけ

ぬくもり

4横綱

非インスタ映え

捏造記憶

結束力

漢字能力

紙の本



悪趣味

プラシーボ

あひる風呂


ライナスの毛布


スヌーピーでおなじみ『THE PEANUTS』にライナスという男の子が出てくる。

いつも青い毛布を持っている男の子。あの毛布は「ライナスの毛布」という名でも心理学用語になっている。



ぼくも「ライナスの毛布」を持っていた。というか今でも持っている。

三歳ぐらいのとき、さびしがりやで、ひとりでは泣いて寝られなかった。そこで母がパジャマを与えると、それを握りしめて寝ていたらしい。

母は古くなったパジャマを切ってぼくに与え、それ以来ぼくはパジャマのを持って寝るようになった。


ただぼくがライナスとちょっとちがうのは、布切れそのものではなく、それについているボタンに執着するようになったことだ。

パジャマの切れ端が汚くなったので母がとりあげると幼いぼくは大泣きした。代わりにべつの布切れを与えてもやはり泣いたが、その端にボタンを縫いつけてやるとうそのように泣きやんだそうだ。

ボタンをさわることで、安心した。

五歳くらいになると「ボタンのついた布を持っていないと寝られない」というのがなんとなく恥ずかしいことだと思うようになったので家族以外には隠していた。引き出しに布をしまい、夜になると引っぱり出してきてボタンをさわりながら眠った。

母には何度も「そんなの恥ずかしいからやめなさい」と言われた。自分自身、いつまでもボタンに頼っていてはいけないと思い、「もうやめる!」と宣言したこともあった。

けれどボタンをさわらずに寝るのはどうしようもなく寂しく、結局一日たつとまたボタン付きの布を引き出しから引っぱり出してしまうのだ。



小学生になっても、ボタンのついた布切れを持って寝ていた。

五年生のとき、林間学校という五泊六日の野外活動がおこなわれた。

布切れを持っていくかどうか迷ったが、ばれたら恥ずかしいことと、旅先でなくしてしまったらたいへんだという思いがあり、置いていった。

これが失敗だった。

帰ると、お気に入りの布切れがない。

母に訊いても「知らない」と云う。だが、それは嘘だった。留守中に、母が捨てたのだ。なぜなら、布切れが入っていた箱もいっしょになくなったのだが、後日母が「箱が見つかったよ」と持ってきたからだ。箱の中身だけが自然になくなるはずがない。

ぼくは泣いて母に抗議した。「泥棒!」と何度もののしった。母とは三日ぐらい口を聞かなかった。

母のことは嫌いではないが、このときのことはいまだに許していない。母が認知症になって「わたしの財布がない。盗んだんでしょ」とか言いだしたら、「ぼくが大事にしていたあの布切れを盗んだ人がよくそんなこと言えるね」とねちねちと責めたててやろうと思っている。



母の誤算は、小学校五年生は家庭科の授業でボタン付けを習っているということだった。

ぼくは母の裁縫道具箱からちょうどいい大きさのボタンを手に入れ、ハンカチの端にボタンを縫いつけた。

そして前と同じようにボタンをさわりながら寝た。

勝手に布切れを捨てた母に抗議するかのように、ボタンをさわる回数を増やした。

寝るときだけでなく、自室で本を読んでいるときにもボタンをさわるようになった。

部屋を開けるときは、再び母に捨てられないよう、机の引き出しのさらにその奥に布切れを隠した。

大学生になってひとり暮らしをするようになったときは、ボタン付きの布も持って行った。

いつしかボタンをさわらなくても寝られるようになっていたが、やはりボタンをさわっていると心の底から落ち着いた。



ボタン付きの布切れは、今でも持っている。

結婚して妻といっしょに住むときに持ってきた。引き出しの奥底に隠している。

今ではほとんどさわることがない。一年に一回ぐらいだろうか。ちょっとさわるだけで、さわりながら寝ることもない。

けれどさわるとやっぱり安心する。温泉に入ったときのようにリラックスした脳波が流れる。


幼いころからボタン付きの布切れとずっとつきあってきたから、ライナスの毛布を奪って逃げるいたずらをするスヌーピーのことはどうも好きになれない。


2018年2月10日土曜日

肉吸い


コンビニでおにぎりと肉吸いを買う。いつもはおにぎりと味噌汁だが、今日は肉吸いを買ってみた。

肉吸いは大阪の食べ物だ。全国的にはほとんど知名度がないし、大阪でもそんなにメジャーな食べ物ではない。Wikipediaにはこうある。
簡単に言えば、肉うどんからうどんを抜いたもの。
「カツ丼、カツ抜きで」というくだらない冗談みたいな食べ物、それが肉吸いだ。これぞC級グルメ。

行儀悪いけど肉吸いにおにぎりを浸して食べようと、あえて具なしおにぎりを買った。


昼休み。さあ食べようと思って、しくじったことに気がついた。

この肉吸い、お湯を入れて作るタイプではなく電子レンジで温めて作るやつだ。うちの職場にはポットはあるがレンジはない。

さあどうしよう。隣の会社に押しかけていって「すみません、肉吸い買ったんですけどレンジがなくて。電子レンジお借りできないですか」って言ってみようかな。

 「肉吸いってなんですか」

「知りませんか。大阪ローカルの食べ物で、肉うどんからうどんを抜いたものです」

 「知らないですね」

「そういえば"肉吸い"っていう妖怪もいるみたいですよ。人間に食らいついて肉を吸う化け物。タガメみたいな妖怪ですよね。タガメって知ってます? 田んぼにいる昆虫。タガメって魚やオタマジャクシをつかまえて、体内に消化液を送りこんでどろどろに溶かした肉を吸うらしいですよ。えへへ」

 「うち、電子レンジないんですよ」


しょうがないからゼリー状になった肉吸いに、お湯を注いでみる。

うん、ぬるい。

やはり電子レンジじゃないとダメだな、と思いながらタガメのようにずるずると肉吸いをすすった。


2018年2月9日金曜日

盗んだカートを放置する


ぼくが住んでいるところって大阪の下町を再開発して新しいマンションがいっぱい建っているところで、だから古くから住んでいる人もいれば、きれいな高層マンションに住む上品なファミリーもいれば、昼間から公園で酎ハイ飲んでいるおっちゃんもいれば、銭湯に行けば背中に本意気の刺青(タトゥーじゃなくて刺青ね)が入ったお方もいるという、まあいろんな人が住んでいる地域だ。

ここに引っ越してきて衝撃的だったのは、スーパーマーケットのショッピングカートを持って帰るやつがいっぱいいる、ということ。

すぐ近くにスーパーマーケットがあるんだけど、そこのショッピングカートを家まで持って帰るんだよ。かごを乗せるキャスター付きのカート。


あれ、持って帰ってる人、見たことある?
ぼくはここに越してくるまで見たことなかった。せいぜい駐車場まで持っていって放置する人がいたぐらい。

それでもマナー悪いな、って思うけどうちの周りはそんなもんじゃない。
スーパーは地下にあるんだけど、カートを押したままエレベーターに乗って地上に上がり、カートを押したまま歩道を歩き、そのままマンションに入ってエレベーターに乗り、そして自分の部屋の前にカートを放置する。

しかもこういうのがたくさんいる。うちのマンションの同フロアだけでもそういう家が二軒ある。家の前にスーパーのカート放置してるババアの家が。

しかもババアのやつ、カート返さないの。次にスーパーに行くときに持っていかない。
だから家の前に三台カートが溜まっていることもある。

ふつうに犯罪でしょ。でも家の前に堂々と盗んだカートを三台も溜めてるの。尾崎豊もびっくりだ。

しかもぜんぜん悪いと思ってないの。通路ですれちがったら、盗んだショッピングカートを押しながらにこにこして「こんにちはー」ってあいさつしてくんの。こんなにほがらかな泥棒、ほかにはルパン三世しか見たことない。


うちのマンションだけじゃなくて、他にもそういうババアがいっぱいいる。
マンションの自室の前まで持って帰るババアもいれば、マンションの入り口に放置するババアもいる。
こないだなんか近所の公園にカート停めてあったしね。スーパーから五十メートルくらいの距離にある駐輪場の前にもよく放置されてる。よぼよぼのババアならともかく、自転車で来るぐらい元気のあるババアなのにスーパーの外にカートを持っていってる。

ババアたちが盗んだカートをところかまわず放置しているから、スーパーにカートがぜんぜんないことがある。五台くらいしか残ってない、みたいなことが。

だからときどきスーパーの店員が近所をうろうろしてカートやカゴを回収している。

たいへんだな。この店員さんもスーパーでパートするときにまさか近所のマンションを回ってカートを回収してまわることになるとは思ってなかっただろうな。


もう一人二人の頭おかしいババアの話じゃないんだよ。この町ではカートを持ちだしてもいい、みたいな風潮になっちゃってんの。

カートを持ち出して放置する習慣が文化として地域に根付いちゃってるの。

「地域文化で日本を元気にしよう!」みたいなことを云う人がいるけど、うちの地域の文化はスーパーのカートの持ち出しだからね。どうやって日本を元気にするんだ。


2018年2月8日木曜日

借りたもの返さないやつが落ちる地獄


『BIG ISSUE 日本版』327号に、『あなたもつくれる! 小さな図書館』という特集記事が載っていた。

小さな私設図書館が増えているのだという。


ああ、いいなあと思う。

ぼくも本が好きだから家にはたくさん本があるが、その大半は二度と読み返すことのない本だ。

将来自分の子どもや孫が手に取ってくれたらうれしいけど、あまり期待できそうにない。ぼくの母親も本好きだったから家には母の本がたくさんあったけど、そのうちぼくが手にしたのは1パーセントくらいだ(その1パーセントが拓いてくれたジャンルというのはすごく大きかったけど)。
子どもがぼくの蔵書の1パーセントでも読んでくれたら上出来といったとこだろう。



「私設図書館、やってみようかな」と思う。だが待てよ。

ぼくがこの世でもっとも憎む存在のひとつが「借りたものを返さない輩」だ。

ほんとに許せない。

姉がそういう人だった。ぼくの本やCDを「それ貸して」と言って持っていく。そして返さない。
姉が性悪なわけではない。「そういうことを気にしない」人なのだ。だから自分が貸したものが返ってこなくても気にしない。
でも「そういうことを気にする」ぼくからすると、悪意がないのがまた憎らしい。

ぼくの感覚では、借りたものは最優先で読む。CDならさっさとテープやMDに取り込む。そしてすぐに返す。

毎日顔を合わせる家族であれば、「本なら一週間以内、CDなら二日以内に返す」というのがぼくの"常識の範囲"だ。

それを過ぎると「あれもう読んだ?」「CD、録音した?」と訊く。ことあるごとに訊いていると、迷惑そうな顔をされる。こちらも嫌がる相手に理不尽なことを言っているようで、申し訳ない気持ちになってくる。

でもよくよく考えれば借りたものを返せというのは理不尽でもなんでもない。CDなんてその気になればすぐに録音できるし、本なんて読むのが遅い人でも一週間もあればたいていの本は読める(漫画なら一冊一時間あればいい)。それをする時間がないのなら、そんなときに借りなきゃいい。

そんなわけで姉とは何度か喧嘩になって、「なんでこっちが善意で貸してやってるのに嫌な気持ちにならなきゃいけないんだ」と思い、あるときを境に一切ものを貸すのをやめた。「貸して」と言われても断るようにした。



レンタルビデオ屋でアルバイトをしていたことがある。

「借りたものを返さない輩」を許せない人間がレンタルビデオ屋で働くなんて自殺行為と思うかもしれないが、そのとおり、すごくストレスフルな日々だった。

世の中にはこんなにも借りたものを返さない人間が多いとは知らなかった。

いや、べつに遅れるのはいい。延滞料金もらってるわけだから。店としてはじゃんじゃん遅れて延滞料金を払ってもらえるのは助かる。

でも「なんで延滞料金払わなくちゃいけないの」とか「ちょっとくらいいいじゃない」とか言ってくる客の神経が理解できない。

「一日遅れただけで三百円って高すぎない?」だったら、わかる。ぼくも同感だ。一週間レンタル三百円のDVDでも、一日遅れたら三百円になる。たしかに高い。

でも「なんで払わなくちゃいけないの?」と言う人間の気持ちはとうてい理解できない。逆に訊きたい。「なぜ約束の期日を守らなかったのに何のペナルティも受けずに済むと思えるの?」

そういう客は、当然ながら「人から借りたものはなるべく借りたときと同じ状態で返す」という考えもないから、DVDを傷だらけにして返してきた。

そういやぼくの姉も、CDの歌詞カードを反対向きにしたり、二枚組CDのDISC1とDISC2を逆にして返してきたりしてた。些細なことだけど、こういうのを気にしない人は、借りたものを返さなくても平気なんだろうなあ。



そんな性分だから、もしぼくが私設図書館なんかはじめたら、借りた本を返さないやつはぜったいに許さない。

上下巻の上巻だけ借りて返さないやつがいたら、首を絞めてやる。

借りた本を返さないまま死んだやつがいたら、お通夜に乗りこんでいって「故人が借りてた本、返却期限とっくに過ぎてるんですけど。香典ということにしときましょうか? それとも棺に入れていっしょに焼きます?」と遺族に対して言わなくてもいいいやみを言う。

踏み倒すやつが許せないから、ぼくの私設図書館で本を借りる人には、免許証のコピーと身元保証人の実印を提出してもらう。あと保証金も預からせてもらう。そして滞納するやつは地獄の果てまで取り立てにいく。

誰が本を借りるんだ、そんな私設図書館。

つくづく図書館員に向いていない性分だ。



貸したものが返ってこないことが許せないんじゃない。「借りたけど返さなくてもいいや」と思える(というか返さないやつはそれすら思わないんだろう)神経が許せないんだ。

ぜったいに遅れるなとは言わない。ただ、返すのが遅れたら済まなさそうにしろ。催促される前に自分から「すみません、遅れます」と言え。貸したほうに気を遣わせるな。

それができないやつは、さっさと鬼に追いたてられながら鉄の棘の上を永遠に走らされる畏熟処地獄に落ちてくれ。その鬼は、本を貸してあげたのに催促して嫌な顔をされた側の怨念だぞ。


2018年2月7日水曜日

【読書感想】ウォルフガング・ロッツ『スパイのためのハンドブック』


『スパイのためのハンドブック』

ウォルフガング・ロッツ (著), 朝河 伸英 (訳)

内容(Hayakawa Onlineより)
あなたはスパイに適しているか? スパイ養成の方法は? 金銭問題や異性問題にはどう対処するか? 引退後の生活は?――著者のロッツは元スパイ。イスラエルの情報部員としての波瀾にとんだ経験をもとに、豊富なエピソードを盛込み自己採点テストを加えて、世界で初めてのスパイ養成本

使命感も持たずにいきあたりばったりに生きているぼくにとって、スパイほど向いていない職業はない(おまけに口も軽い)。

柳 広司のスパイ小説『ジョーカー・ゲーム』『ダブル・ジョーカー』を読んで、ますますその思いを強くした。
ああ、無理だ。
常に孤独、任務に失敗したら組織から捨てられる、成功しても賞賛を浴びることはない。高給をもらえたとしても、自由と身の安全と良心と引き換えでは割に合わない。
ようやるわ、としか思えない。


そんな「ようやるわ」なスパイだった著者による、スパイにまつわるエトセトラ。
著者はドイツに生まれ、幼少期にナチスに追われてパレスチナに移住し、イギリス軍、イスラエル軍を経てイスラエルの秘密諜報部(モサド)に所属してトップとして活躍し、第三次中東戦争でのイスラエルの勝利に貢献したという経歴。エジプトでは秘密警察に捕まったこともある。
すげえ。絵に描いたようなスパイだ。すげぇスパイ、略してスペェ。

そういえばイスラエルの諜報機関は世界トップクラスの諜報レベルだと聞いたことがある。
アメリカのような超大国であれば少々他国の動静を読み誤ったところで軍事力と経済力で圧倒することができるけど、イスラエルのような小国だと情報の読み違いが即、国家の滅亡につながってしまう。必然的に諜報機関が強くなるのだそうだ。

イスラエルって周囲すべてが敵国だからね。民族も宗教も異なる国に囲まれて、しかもイェルサレムをめぐる大きな遺恨もある。
島国である日本やイギリスはそうかんたんに攻められないけど、イスラエルは他の国と地続きだし。
油断してたら数日で国がなくなる、なんてことにもなりかねない。いつ攻めこまれてもおかしくないから(じっさい何度も攻められてる)、常に周辺国の動向に最新の注意を払っとかないといけない。

世界一ハードな環境にいたスパイだね。



フィクションの世界では「敵に捕まってどれだけ拷問されても口を割らないスパイ」が出てくるが、そんなものは現実にはありえないそうだ。

 これに関して誤解のないようにしよう。囚われの身になったスパイが沈黙を守り通し、尋問者に(嘘八百以外は)何も話さなかったという話は、尋問の係官がいい加減な仕事をしないかぎり、まったく虚構の世界に属する出来事である。給料分の働きをしている尋問者なら、あなたに知っていることのすべてをいわせるだろう。これは、はしかや所得税のように避けては通れない現実であり、秘密情報部が部員に、逮捕されたら沈黙を守れと勧告するのをあきらめてからすでに久しい。そんなことをいっても、まったく効き目がないのである。
 そういう次第であるから、情報部は、部員に荒療治が施されてしゃべらされる瞬間に、彼らがあらいざらい暴露するのを防止する手段を考案しなければならなかった。

なるほどね。
いくら訓練されたとしても「自分の命よりも大事な情報」なんてのはほとんどないから、最終的にはほとんどのスパイは口を割る。
仮に口を割らなかったとしても属する組織から「こいつは捕まったから情報を漏らしたかもしれない。二重スパイになったかもしれない」と疑惑をもたれた時点でもうスパイとして使い物にならないだろうしね。

だったら「命に代えても秘密を守れ」なんて非現実的な命令をするよりも「秘密が漏れたときに被害が最小限に抑えられるような制度設計をしよう」とするほうがずっと効果的だ。
工作員同士の素性も名前も知らされず、ほかの部員がどこで何をやっているのかもわからない、というように。
また情報が漏れることを前提にシステムをつくっているから、情報が漏れたことを隠す必要がない。

うーん、合理的。日本ではなかなかこういう組織をつくれないだろうねえ。

 「死んでも口を割るな!」という、守れるわけないルールをつくる
  ↓
 スパイが拷問されて口を割る
  ↓
 しかしそれを知られたら罰せられるから口を割った事実を隠蔽する
  ↓
 情報が漏れつづける

ってなるだろね。
スパイだけじゃなくビジネスでも政治でも同じようなことが起こってるよね。「ミスが起きたらどうするか」ではなく「ミスをするな」だと、ミスを隠して被害がどんどん大きくなる。



『スパイのためのハンドブック』ではそのタイトルのとおり、別人をかたる方法、賄賂の贈りかた、拷問を受けたときに嘘をまじえながら自白をする方法など、スパイならではのテクニックが紹介されている。
読んでいるかぎりはおもしろいんだけど一般人にとっては役に立たない、というかあんまり役に立てたくない。特に拷問は。


著者が旧ドイツ軍将校を装ったときの話。

 私のニセ経歴の弱点は何とかしてつくろわねばならなかった。戦時中のことは、少なくとも調べにくいので、それほど心配なかった。とはいえ、私はドイツ軍全般、とりわけアフリカ軍団について知りうる限りのことをじっくり頭にたたきこんだ。調べ出せる本は全部読み、北アフリカ戦域の地図と戦闘図に綿密に目を通し、レコードを聴いて軍歌を暗記した。私はそういったものをいろいろ手に入れてもらうために事務所をずいぶん忙しい目にあわせた。後に私は何度か、アフリカ軍団の旧将校たちと一緒にビールやジンを飲みながら、ロンメルの下で戦った戦役の古い記憶をよみがえらせたことがあったが、そういう折に私の努力はたっぷり報いられた。彼らに当時の戦友であり、若年兵の一人だったと思ってもらうことは造作もなく、二十年かそこいらすれば人の容貌も少しは変わるものだということで、なかには私の顔を”思い出した”という者もいた。私にとって幸運だったことに、人の記憶もまた風化するものなのである。

人間の記憶ってあてにならんなあ。

今は偽装がもっとたいへんだろうな。世界中どことでもすぐに連絡がとれるし、やりとりされている情報も多いし、記録がいつまでも残るようになったから。
スパイには生きにくい世の中だ。

スパイになりたい人は一度読んでおくといいんじゃないかな。ちなみに、あんまり給料も良くないみたいよ(派手なお金の使い方したら目立っちゃうからね)。


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2018年2月6日火曜日

嫌いな歌がなくなった世界


『あたし、おかあさんだから』という歌が話題になっている。というか炎上している。

キャリコネニュース:「あたし、おかあさんだから」の歌詞、母親の自己犠牲を美化し過ぎと炎上 作詞者は「ママおつかれさまの応援歌」と釈明

知らない人のためにかんたんに説明すると
「母親目線の歌をつくった人に対して、いろんな人が気に入らねえなと怒ってる」
という状況です。


歌は聞いてないけど歌詞を見て、これは反発買うだろうな、と思った。
でもこれに感動する人もいるだろうな、とも思う。

だからべつにいいじゃない。嫌いな人は嫌ったらいいし、歌いたい人は歌ったらいい。
だって歌だし。教科書じゃないし。こうありなさいと強要してきてるわけじゃないし。

この歌を爆音で流した街宣車が毎朝六時半に走りまわって「みなさんもこういうふうに生きましょう」って言いまわっていたら「うるせーやめろよ!」って叫ぶけど(どんな歌でもイヤだわ)、どうやらそういう事例は報告されていないらしい。だったらべつにかまわない。

こういうのを許せない人って生まれてこのかた一冊も文芸書を読んだことないのかな。
小説やエッセイを数冊読んだら発狂するだろうな。あまりに理不尽な価値観だらけだから。読んでいて嫌な気持ちになる本なんかいっぱいあるから。だからおもしろいのに。



作者に対して「こんな歌つくるな」とか「だいすけおにいさんに歌わせるな」とか言ってる人がいる。
作詞者のTwitterアカウントに「こんな歌つくらないでください」と言いにいったり。

すげー怖い。

なんなの。気に入らないもの皆殺しにしないと気が済まない人たちなの。ゴキブリが嫌いだからって人里離れた山の中に住んでるゴキブリまで全滅させなくちゃ気が済まない人たちなの。こえーよ。


「私この歌嫌い」と「作るな、歌うな、流すな」が地続きになってる人ってけっこういるらしい。
「母親に対する呪いの歌だから歌うな」こんな幼稚な言説が大手を振ってまかりとおっていることにむずむずする。

いいじゃない、呪いだとしても。モテない男がヤリチンを呪ったっていいじゃない。仕事できない人が仕事で成功してる人を呪ったっていいじゃない。呪う権利まで奪わないでくれ。みんなで呪い呪われ生きていけばいいじゃない。


「不愉快な歌つくるな」って、「おめーの声、気持ち悪いから学校来んなよ!」と同じレベルだ。

思うのは勝手だけど、よくそんなことを堂々と言えるな。

こういう人が「いじめられる方にも原因がある」って発想に至るのかな。



ぼくはすごい音痴だ。一度自分の歌声を録音して聞いたことがあるが、それはもうひどいものだった。


だから人前では歌わない。恥ずかしいし、他人を不快にさせるだけだから。

でもひとりで家にいるときは歌を歌うこともある。

それを「おまえは音痴だから風呂場でも歌うの禁止な」と言われたら、うるせーボケナス大魔神おととい来やがれこのカメムシが、と言いかえす。いや、言いかえす度胸はないからこっそり言ってきたやつを呪う。呪い、万能。



「気持ち悪い歌を作るな!」とか「タバコの煙イヤだからタバコは自宅でも禁止にしろ!」とか「パクチー嫌いだから全世界でパクチー入った料理作るな!」とか言いつづけた先に明るい未来は待っているのだろうか。はたして自分の大好きなものだけの美しい世界になっているんだろうか。

ぼくはそうは思わないけど。


2018年2月5日月曜日

毎日飲まない大人のほうが多いらしい


うちの両親はビールが大好きで、毎晩ビールを飲んでいる。
母にいたっては、夏の暑い日などは夕方から台所でビール片手に料理をしていた。完全なるキッチンドランカー。


子どもは自分の育った家庭しか知らないから、ぼくは「大人は毎日ビールを飲むものだ」と思っていた。でも、大人になってみてわかったのは、どうやら毎日飲まない大人のほうが多いらしいってこと。

そうか、うちが異常だったのか。
ぼくはお酒が大好きというほどではないので(嫌いではないけど飲むヨーグルトのほうがおいしい)、ふだんは飲まない。実家に行くと必ずビールを勧められるが、断ることもある。すると母に信じられないという顔をされる。
「あんた電車で来てるんでしょ? 風邪ひいてんの?」

三百六十五日毎日飲んでいる母にとって、「車で来ているから」「体調悪いから」以外に、勧められたビールを飲まない理由はないらしい。


毎晩酒を飲んでいるってあんまり褒められたことじゃないけれど、誰かに迷惑かけてるわけじゃないし、節制して長生きするより好きなもの飲んで早死にするほうが幸せだよなあ。

いや、いまだ両親ともにぴんぴんしてるけど。好きなもの飲んで長生きしてるけど。最高じゃねえか。


2018年2月4日日曜日

スーさんの教え


スーさんという幼なじみがいた。ぼくとは同じ幼稚園、同じ中学校、同じ高校に通っていた。小学校は別だったが、ぼくも彼もサッカーをやっていたのでよく顔をあわせていた。

スーさんは出来杉くんみたいな男で、顔が良くて、スポーツ万能で、サッカー部のキャプテンをしていて、勉強もできて、明るくて、ユーモアのセンスもあって、誰に対しても優しくて、当然ながら女子からモテていて、男子からも好かれていた。

そんなスーさんは二十代で死んだ。くも膜下出血で倒れたのだそうだ。
死んだ後、誰もが「あんないいやつが……」と言っていた。死んだからよく言うのではなく、たぶん誰もが本気で思っていた。
根拠のない言い伝えが好きではないぼくでも、「いい人ほど早く死ぬってのはほんとなんだな……」と思った。

スーさんは、小学生のときにお父さんを病気で亡くしていた。早死にの家系だったのかもしれない。



中学生のときだったか、公園でスーさんと野球をした。スーさんは小学校のときからずっとサッカー部のキャプテンをしているのに、野球もうまかった。
野球はテクニックの占める割合が大きいスポーツなので、ただ運動神経がいいだけではうまくなれない。利き腕じゃないほうの手にグローブをはめてボールをつかむのには練習が必要だ。
「ふつうサッカーやってるやつって野球はへたなのに、両方うまいなんてめずらしいな」
と言うと、スーさんは
「昔、親父に教えられてん。サッカーがうまくなるためにはボールの軌道を予想できるようにならないといけない。そのためにはキャッチボールが最適だって言われて」
と答えた。

へえ、と感心した。「サッカーを上達させるためにまず野球のキャッチボールをさせる」という一風変わった練習方法が強く印象に残った。
『ドカベン』で山田太郎が柔道の経験を野球に活かしたり、『武士道シックスティーン』で主人公が日本舞踊の経験を剣道に活かしたりしていたのに近い。

それを伝えたスーさんのお父さんはもう亡くなってしまったし、その教えを守って実際にサッカーがうまくなったスーさんも今はもういない。

だからぼくは、ことあるごとに「キャッチボールをさせるとボールの軌道が読めるようになってサッカーも上達するんだって」と人に伝えている。
それが科学的に正しいかどうかは知らない。でも亡くなった人たちの教えを伝えていかなくちゃいけない、という使命のようなものを感じるから。



2018年2月3日土曜日

大相撲にはストーリーがない


相撲は神事だってことにされてるけど、そうはいってもあれスポーツだよねえ。

相撲をスポーツだと思う原因は、競技の内容そのものよりも、それに付随している「数字」だ。

今場所はここまで七勝負けなし、対戦相手である前頭三枚目の〇〇とは過去十四回対戦して十勝四敗、今日勝てば三年前の春場所以来となる全勝での中日勝ち越し。

相撲にはやたらと記録がつきまとう。記録で語る競技は、やっぱり神事ではなくスポーツだ。



プロレスのほうがよほど神事っぽい。

プロレスのことはよく知らないけれど、プロレスを語る人は「記録」ではなく「ストーリー」で語っている。

「このレスラーは通算〇勝〇敗で勝率〇割〇分〇厘だ」みたいな語られかたは聞いたことがない。

そうやってプロレスを観る人もいるだろうけど、多くのプロレスファンは「あの後楽園ホールで××に敗れた□□が雪辱を果たすために因縁のタイトルマッチ」みたいなストーリーに基づいてプロレスを観ている。

リングの上での戦いだけじゃなくて、団体を立ち上げたとか、あいつが陰でこんなことを言ったとか、そういう大小含めてさまざまなエピソードがプロレスの歴史を作っている。

これってもうほとんど神話の世界だ。
ギリシャ神話とか旧約聖書とか日本書紀とか、そういうのに比肩するって言ったら言いすぎですかね。言いすぎですね。

でもまあともかく、プロレスって祭事っぽい。

だから場面だけを切り出してもよく理解できない。一試合だけ観ても楽しめるだろうけど、それはレスリングであってプロレスではない。

各地方にあるお祭りをはじめて見た人には「なんだこれ。なんの意味があるんだ」とわけのわからないことだらけだと感じるけど、そこにはちゃんとストーリーがある。古すぎて誰も知らなかったりするけれど、しかしいろんな歴史に続くものとして、祭事は存在する。

大相撲は、初見でもわかる。

大相撲観戦には因縁とか境遇とか怨恨とかいったたぐいの「ストーリー」は必要ないものとされている。

もちろん個々の力士の内側には「あいつにだけは負けたくない」的な思いもあるんだろうけど、それが大っぴらに語られることはない。



大相撲を神事として扱いたいのなら、品格だとかいって格調高くするのではなく、プロレスみたいにおもいっきり俗っぽくしたらどうだろう。

マイクパフォーマンスを導入して、嫉妬とか私怨とか憐憫とか憎悪とか、そういう感情を存分に表に出してみる。朝青龍みたいに。

中学校では手の付けられないワルだった〇〇が、兄弟子を引退に追いこんだ××とのリベンジマッチ! 先場所卑劣な手で流血させられ「あの胸毛ゴリラ野郎」と息巻いていたが、その雪辱を果たせるか!?

みたいなストーリーで語られるようになったら、そしてそれを長年続けていたら、何十年後かには大相撲神話になるんじゃないだろうか。

ギリシャ神話だってずいぶん俗っぽいし。


2018年2月2日金曜日

適当にプリキュア



娘の保育園の参観日に行ったとき、先生が園児たちに「みんなは何になりたいかな~」と訊いた。

男の子は仮面ライダー、女の子はプリキュアが多かった。

うちの子は何と答えるんだろう。大好きなバズ・ライトイヤーだろうな。でも最近は恐竜も好きだからティラノサウルスかな? とわくわくしながら見守っていた。

娘の番になると、娘は元気いっぱいに答えた。「プリキュア!」

愕然とした。
「いやおまえプリキュア観たことないやん!」

うちの家でプリキュアを観たことはない。べつに主義主張があって観せないようにしてるわけではなく、ただ単に親が興味ないから観ないだけ。娘が「プリキュア観たい」と言ってきたら観せるかもしれないけど、言ってこないから観せたことがない。


娘は、他の女の子がみんな「プリキュアになりたい」と言っているから、周囲に合わせて「プリキュア!」と答えたのだろう。

そういえばぼくも小学生時分、同じようなことをしていた。

うちにはファミコンがなかった。クラスの男子でファミコンを持っていないのは、ぼくを入れて二、三人だけ。クラスの友人たちが「ドラクエごっこ」をはじめると、ぼくもよくわからないまま適当にあわせていた。「くらえ! ホイミ!」とか知っている呪文の名前を適当に唱えて「おまえそれ回復するやつやん」と言われていた。

そんな悲しい少年時代を思いだして(いやそんなに悲しくなかったけど)、よくわからないのに適当にプリキュアごっこをしているであろう娘のことがいじらしくなった。


周囲と話を合わせられるように一度プリキュアを観せてやったほうがいいのかな、でもハマってグッズを買ってくれとか言いだしたら嫌だしなあ。

なんて思っていたんだけど、その後四歳児同士の会話を聞いてたらどっちも自分の言いたいことだけ言いあって相手の話なんてまるで聞いてなかったので、適当にプリキュアの話をあわせてもぜんぜんバレないだろうな、と思ってどうでもいいやという気持ちになったのでした。おしまい。


2018年2月1日木曜日

【読書感想】杉浦 日向子『東京イワシ頭』


『東京イワシ頭』

杉浦 日向子

内容(e-honより)
こみ上げる笑いをこらえ鑑賞する演歌ディナーショー。鳥肌を立てつつ挑む高級エステ。バブル東京に花咲く即席シアワセ=「イワシ物件」を匿名体当たり取材!

イワシの頭も信心から、ということで「手軽に幸せになるご利益のありそうなもの」をあれこれ体験してみるというルポルタージュ的エッセイ。

しかしはじめのうちは受験の絵馬とか七福神巡りとか前世占いとか、一応「信心っぽい」ことをやっていたのに、中盤からネタ切れになってきたのか「五木ひろしのディナーショー」「新車の試乗」「女子プロレス」「ストリップ」など、テーマほぼ関係なしのなんでもあり体験エッセイだ。

単行本の刊行は1996年。バブル期の余韻を引きずった東京が舞台ということで、浮かれた気分がそこはかとなく漂っている。

ぼくはその頃田舎で中学生をやっていたので東京の空気はわからないけど、でも今思い返してみると当時の世の中っていろいろと得体の知れないものが流行っていた気がするなあ。

バブルの余韻と不況&世紀末の閉塞感が混ざったような、どこか捨て鉢な気分が漂う感じ。ノストラダムスなどなオカルト的なものが広く語られていたし、オウム真理教が流行ったのもああいう時代だったからなのかもしれない。スプリチュアルなことを人前で話題にするのがはばかられるようになったのってオウム以後かもしれないなあ。

二十年前の日本人ってもっと無責任だったような気がするな。論拠も不確かなものを堂々と語っていた。記録メディアの発達やインターネットのおかげで発言がずっと残るようになったからね。
不正確な言説がは減るのはいいことなんだけど、いいかげんな言説がまかりとおっていた時代も、あれはあれでおもしろかったなと思う。オウムみたいなことにつながるからあんまりおもしろがったらあかんけど。




瞑想ダイエットの章。

「ウチの大先生は、五千年前の始祖から十四代目の当主で。ウチの流れはみんな長生きだから。大先生も、自由奔放、天衣無縫、大酒飲みで、酒風呂入って、生みたて卵食べて、元気元気」
 出た金さんの桜吹雪、中国の五千年。代々を単純に十四分割すれば、一人三百五十歳以上だ。書棚に「仙人列伝」がだ~っと並ぶ。そっか、仙術か。殷の彭祖は屈伸体操と深呼吸で、八百歳まで生きたというぞ、あの手合いか。さて、お姉ちゃんと思いしがセンセイで、いよいよ弁舌爽やか、立て板に水、としまえんのハイドロポリス。

江戸っ子の啖呵のような文章が楽しいね。読むより聞いたほうがいいかもしれない。ほとんど内容ねえし。


こういうライトな体験エッセイってインターネットでいくらでも無料で読めるようになっちゃったから、今お金出して読む人が減ってきてるんじゃないかと勝手に心配。まあぼくが心配するようなことじゃないし、だいたい杉浦日向子さんもう死んじゃったけど。


めちゃくちゃおもしろいわけでもない、情報に価値があるわけでもない、そういうエッセイって今は瀕死の危機かもしれない。減ってはいないんだけど、インターネットには「役に立つコンテンツ」「人を集められるコンテンツ」「金になるコンテンツ」があふれすぎていて、くだらない文章を目にする機会が少なくなっている。

おもしろい文章は金を出して買えばいい。ぼくはインターネットではつまんない人の大した情報のない文章を読みたいんだけどなあ。

と思いながら、こうしてなんの価値も情報性もない文章をつづっている。

つまんない人のつまんない文章を読めるのはインターネットだけ!



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