2017年8月31日木曜日

ビールでタコを煮た無人島


無人島の七人

学生時代、無人島でキャンプをした。

瀬戸内海の1周3kmほどの小さな島。男7人、2泊3日のキャンプ。
海沿いの小さな駅で降り、こじんまりとしたスーパーマーケットで買い占めちゃうんじゃないかってぐらい肉や酒を買いこみ、漁港の市場でタコや貝を買って、タクシーフェリーに乗せてもらって無人島に渡った。

男が7人もいたらアウトドアの達人が1人ぐらいはいそうなものだけど、ぼくらの中に「できるやつ」はひとりとしておらず、苦労しながらテントを斜めに立て、食材はそのへんに投げだして、がさつなだけのカレーをつくって食べた。涙が出るほどうまかった。


ビールは山ほど買っていったのに水をあまり買っていかなかったせいで2日目にして深刻な水不足におちいった。
水を節約するために海水で米を研ぎ、ビールでタコを煮た。酒より水のほうが貴重というソ連みたいな状況だった。「タコのビール煮ってなんかおしゃれじゃない?」とうそぶきながら食べた。じっさいはまずくて、でもうまかった。


せっかくの無人島なんだから大きな声を出さなきゃ損とばかりに無意味に島中に響きわたるほどの声を張りあげた。最終日は7人とも声ががらがらだった。


3月の海に入ったら冷たすぎて痛かった。みんなで鼻パックをつけたまま一日すごした。島にあったマリア像が怖かった。豚肉を日なたに半日放置していたけど気にせず食べた。小さい島なのに遭難しそうになった。明け方は寒くて眠れなかった。早朝の浜辺で食う焼き芋はしみじみとうまかった。


10年以上たって振り返ると、2泊3日の無人島生活が1年もいたように感じるし、あっという間の夢だったようにも思える。
細かいことは忘れてしまったが、ただあの日々を味わうことはもう二度とないという実感だけが確かなものとして今は存在する。



無人島の七人


2017年8月30日水曜日

剣道に憧れてすぐに打ちのめされる小説/誉田 哲也 『武士道シックスティーン』


誉田 哲也 『武士道シックスティーン』

内容(e-honより)武蔵を心の師とする剣道エリートの香織は、中学最後の大会で、無名選手の早苗に負けてしまう。敗北の悔しさを片時も忘れられない香織と、勝利にこだわらず「お気楽不動心」の早苗。相反する二人が、同じ高校に進学し、剣道部で再会を果たすが…。青春を剣道にかける女子二人の傑作エンターテインメント。

剣道を題材にした青春小説。
ぼくは剣道をやったことも観戦したこともない。中学校の体育での武道は柔道だったし、高校には剣道部があったけど閉じられた道場で活動していたので部外の人間からはまったく見えなかった。ただ「道場はくさい」というイメージがあっただけだ。
柔道は国際スポーツじゃないし、テレビでもほとんどやっていない。日曜日のお昼とかにEテレあたりで国体の剣道とかを放送しているような気がするけど、「なんだ剣道か」と3秒以内にチャンネルを変える。


というわけで剣道に関する知識はきわめて乏しいのだけれど、「剣道八段をとるのはとんでもなく難しい」と聞いたことがある。
そもそも46歳以上じゃないと試験を受けられなくて、合格率は約1%で、人格者であることまで問われるのだそうだ。
さらに「範士」という称号は、八段をとった後にさらに修行を重ねて、後進の育成に携わってきた経験があり、周囲から推薦されないとなれないのだとか。
ただ強いだけではだめなのだ。

また『武士道シックスティーン』を読むまでは知らなかったのだけど、いくら相手に竹刀を打ちこんでもその後に”残身”(反撃に対する身構え)ができていなければ「一本」にはならないのだそうだ。

同じ「道」を名乗りながらも柔道と剣道ではまったく違うんだね。
なんせ柔道はスポーツとして発展する道を選んだので、時間切れを狙ったり帯をわざとゆるめたり小ずるく点数稼ぎに走ったりと、けっこうあさましい戦いも多い。
それはそれで駆け引きのおもしろさがあるのだが、観ていてかっこいいものではない。最近ではオリンピックのメダル数を稼ぐために使われていることもあって(→『国民メダル倍増計画』)どうも政治的なスポーツになっている。ますます「道」からは遠ざかっているように思えてならない。

柔道のスポーツ化に逆らうように、剣道は断固として「道」であることを追及している。
まさに「武士道」だ。




剣道にはまったく興味がなかったけど、『武士道シックスティーン』を読むと、「剣道やってたらよかったなあ」と思えてくる。
剣士ってかっこええなあとうらやましくなる。
というわけでYouTubeで剣道の試合を観てみたんだけど、すぐに「こりゃ無理だ」と思いいたった。

野球やサッカーの一流選手のプレーを観ると「おお、すげえなあ。自分には逆立ちしてもできないな」と思う。
でも剣道は、それすらわからない。剣士たちが接近して、ばしばしばしっと竹刀が動いて、たちまち旗が上がる。ぼくには何が起こったのか、さっぱりわからない。
「どっちが一本とったの?」
目で追うことすらできないのだ。
『武士道シックスティーン』は小説だから、相手の動き、自分の思考の流れ、肚の読みあいがじっくりと書いてあるけど、観ているととてもそんなことを考えられるようには思えない。竹刀が激しく動いた、ということしか把握できない。
この剣の動きさばいているのが信じられない。サッカーでいうなら、同時に10本のパスをさばくようなもんじゃないか?




というわけで剣の道で生きていくという夢は一瞬にして諦め(もともといいかげんな気持ちだけど)、剣道は小説で楽しむことにした。

『武士道シックスティーン』は、わかりやすい青春小説だ。
「勝つこと」だけにひたすらこだわり、一心に剣の道を突き進む香織と、日本舞踊の延長で剣道を始め勝ち負けではなく己の成長ができればいいやぐらいの気持ちの早苗。
香織が早苗に敗れたことを機に二人の交流がはじまり、まったく考え方の違う相手に影響されて、香織は勝ち負けでない剣道を、早苗は勝ちにこだわる剣道について考えるようになる……。
「対照的なライバルの存在」「主人公の苦悩と成長」「家族とのかかわり」といったわかりやすい要素がちりばめられた王道青春ストーリーだ。少年漫画に連載されてもいいぐらい。『ブシドー!』みたいなタイトルで。ありそう。


剣道の魅力は十分に伝えてくれる小説なんだけど、正直にいって、あまり引きこまれなかった。
青春時代をとうに過ぎた素直じゃないおっさんには読むのが遅すぎたのかもしれない。中学生ぐらいで読んでたら「剣道やるぞ!」ってなってたかもしれない。
決しておもしろくないわけじゃないんだけどね。引っかかりがなさすぎるというか。エグみがないというか。さわやかすぎて、読んでて気恥ずかしさを感じるぐらいだった。ラストで二人が再会を交わすところなんてまぶしすぎてつらかった。おっさんにはサイダーじゃなくてにごり酒みたいな小説がお似合いなのだ。


あっ、一個あったわ、引っかかり。ずっと気持ち悪かったところ。

昼休みも黙々と握り飯を食い、ダンベルを片手に宮本武蔵の『五輪の書』を読む、武士のような女・香織。
この女の一人称が「あたし」なのだ。
これ、ほんとに理解できない。どう考えても「あたし」のキャラクターじゃないだろ!



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2017年8月29日火曜日

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】


読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』

内容(「e-hon」より)
読売新聞・現役政治部記者による書き下ろし。日本の選挙制度の歩み・諸外国の選挙制度のしくみを、ふんだんなデータと共に解説。政治改革関連法成立20年をむかえ、当初の理想とのずれが生じてきている今、選挙制度改革は待ったなしの状況である。小選挙区比例代表並立制の功罪と「1票の格差」判決のゆくえなど、日本人なら知っておきたい重要テーマを基礎からわかりやすく学べる。

以前に、小選挙区制って悪いことだらけじゃない? って記事を書いた。

その考えは今でも変わっていない。
だが現実に今の日本では国政選挙において小選挙区比例代表並立制が採用されている。諸外国でも、小選挙区制を導入している国は多い。

やはり小選挙区にもメリットはあるのだろう。そうでなければ使われるわけがない。
ということで、もう少し調べてみようと思い『基礎からわかる選挙制度改革』を読んでみた。

 日本では1947年から1993年の衆院選まで、一つの選挙区から2~6人が当選する中選挙区制を採用していた。各党が一つの選挙区に複数の候補者を擁立することも可能で、有権者は各党の政策に加え、候補者個人の実績や能力などを基準に投票できた。
 ただ、同じ党の候補者同士は選挙戦で政策の違いを打ち出せず、有権者に対するサービス合戦に陥りがちだった。自民党内では、派閥の所属議員数をいかに増やすかが党総裁のイスを獲得する近道とされ、派閥領袖は選挙資金を提供したり、地元の要望を中央官庁に口利きしたりするなどして、配下の議員の選挙を支援した。これが政官業のつながりを深め、やがては癒着となり、「政治とカネ」の問題が噴き出す。リクルート事件はその象徴だった。

「中選挙区制 デメリット」で検索すると真っ先に上がるのが、この政治とカネの問題。
選挙改革が決行された最大の理由でもあったらしい。
うーん。
そりゃ癒着や贈賄はいかんけど、でも選挙区制の問題とは切り離して考えるべきでは?
「電車では痴漢が発生しやすい → だったら電車をなくせ!」って理論のように聞こえるなあ。

同じ政党だからってすべての政策において考えが一致するなんてありえないわけだし、むしろ政党内で対立があるほうが健全な気がするなあ。



『基礎からわかる選挙制度改革』では諸外国の選挙制度が紹介されているが、どの国もそれぞれ問題を抱えていることがわかる。大選挙区制、小選挙区制、比例代表制、絶対多数制度などいろいろあるけど、どれも一長一短。
  • 民意が反映されやすい
  • 1票の格差が生じにくい
  • 政権が安定しやすい
  • 制度がわかりやすい
これらすべてを叶える選挙制度はありえない。
昔、地理の授業で「メルカトル図法」「モルワイデ図法」「正距方位図法」などいろんな地図の書き方を教わった。これらはどれも一長一短で、方位を正確に表したら面積が狂ったり、面積を合わせたら距離がおかしくなったりする。そもそも三次元のものを二次元で表すことに無理があるわけで、必ずどこかで妥協するしかない。
選挙制度もそんなもので、1億人の意思を数百人に代表させること自体が土台無理な試みなのだろう。

とはいえ妥協するところには優先順位があるわけで、たとえば「制度がわかりやすい」ことなんて真っ先に捨て去っていいことだと思う。
コンピュータで正確に算定できるわけだし、今だって「ドント方式とは何か」を正確に理解して投票している人は少数派だろう。一般の有権者が選挙制度を理解している必要はない。

優先順位がいちばん高いのはやはり「1票の格差が生じにくい」だろう。1人1票という原則が崩れてしまえば、民意の反映もへったくれもなくなる。
というわけで選挙のたびに「1票の格差をめぐる違憲裁判」がおこなわれてるけど、さっさと直せよとずっと思う。選挙区の人口比を2倍以下にするのなんて、そんなに難しい話じゃない。

結局、いつまでたっても改善されないいちばんの理由は「選挙区を国会議員が決める」ことなんでしょう。自分の党が有利になるように枠組みを決めるに決まっているから(そういうのを「ゲリマンダー」というらしい)。

選挙区や選挙制度は、裁判所のような完全に独立した機関をつくってそこに決めさせたらいいのに。


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2017年8月28日月曜日

"大企業"の腐敗と終焉/池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』【読書感想】


池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』

内容(e-honより)
走行中のトレーラーのタイヤが外れて歩行者の母子を直撃した。ホープ自動車が出した「運送会社の整備不良」の結論に納得できない運送会社社長の赤松徳郎。真相を追及する赤松の前を塞ぐ大企業の論理。家族も周囲から孤立し、会社の経営も危機的状況下、絶望しかけた赤松に記者・榎本が驚愕の事実をもたらす。

一応フィクション ではあるが、現実にあった 横浜母子3人死傷事故 を下敷きにした小説。
ホープ自動車、ホープ銀行、ホープ重工、ホープ商事という企業名が出てくるが、「財閥系のグループ企業」「楕円を3つ組み合わせたマークの社章」といったわかりやすすぎるヒントが存分にちりばめられており、誰が見ても三菱グループの話であることが明らか(ちなみに池井戸潤さんは三菱銀行出身)。

ホープ自動車、ホープ銀行は徹底的に腐敗した組織として描かれている。
「一応別名にしているとはいえこんなわかりやすい形で実在の企業を悪く書いていいのかよ。訴えられるんじゃないのか……?」と思ったのだけれど、横浜母子3人死傷事故の概要を見てみると、「実際の出来事をそのまんま書いてるだけやないかか!」と感じる。
事実は小説よりも奇なりというか、現実のほうがもっと醜悪。小説では一応のハッピーエンドを迎えるが、現実には三菱自動車から責任をなすりつけられた運送会社は倒産したそうだ。



正直にいって、ぼくは「サラリーマン小説」を他の小説に比べてワンランク下に見ている。
時事ネタとかうんちくとか盛りこんで新しそうに見えるけど、結局はステレオタイプな人物造形とご都合主義的な『島耕作』的な話よね、と思っている。あんまり読んだことないから偏見ですけど。
『半沢直樹』が流行ったときも「まあわかりやすく胸がすく話だからテレビドラマには向いてるよね、と冷ややかにみていた。ドラマ観てないけど。

『空飛ぶタイヤ』も、ストーリー展開としては予定調和的だ。序盤で展開が読めるし、ある程度の数の小説を読んでいる人なら「このへんでもうひと苦難あるだろうな」「中盤でこういうことを言いだしたということはまちがいなくひっくり返されるな」といった予想をできるし、それらがことごとく的中する。ラストも「こういう感じで決着するんだろうな」と思った通りの結末を迎える。
また人物描写にしても、悪いやつは骨の髄まで悪だし、小者は首尾一貫して小者だ。個人が抱える多面性とか矛盾とかはほぼ皆無。

とはいえ、じっさいの読みごたえはというとずっしりと重たかった。実に骨太な物語だ。
息苦しくなるほどの焦燥感やめまぐるしくもスピーディーな展開で、恥ずかしながらあっというまに物語に引きこまれた。いやべつに恥じる必要ないんだけど。
悔しいけど認めざるをえない。おもしろかった、と。

むしろあえて平板なストーリー・人物描写にしたのかもしれない。登場人物も多いしそれぞれの苦悩・葛藤が同時進行で描かれるので、これで登場人物に複雑なバックボーンを与えていたらややこしくてついていけなくなる。
小説というよりシナリオ的な群像劇で、なるほど、池井戸作品が次々に映像化されるはずだ。



大企業で 働いたことがないが、こういう本を読んでいると「大企業で働くのってめんどくさいだろうなあ」と思う。「あのぶどうはすっぱいにちがいない」レベルの負け惜しみだけど。

誰もが知る大企業で働いている学生時代の友人が何人かいるが、話を聞いてると「うらやましい」と思うこともあるけど「ぼくだったら辞めちゃうな」と思うことのほうが多い。
社内の調整に多大な労力を使わないといけないとか、関係各部署の顔を立てるためだけに何も決定しない会議ばかりやっているとか、何かをはじめようと思ったらちょっとしたことでも稟議書を上げて上司やそのまた上司のハンコをもらわないといけないとか、「そんなことやってたら生産的なことやる時間ないんじゃないの?」と思うことしきり。

まあそれでも大会社は大会社として存続しているわけですから意味があることなんでしょうが、中にいたら閉塞感で息が詰まるだろうなあ。そこしか知らない人にとってはそうでもないのかな。

組織が大きくなることのメリットとして「設備投資がしやすい」「情報・ノウハウが蓄積される」「会計などの事務仕事が効率化される」などがあるが、情報化・自動化が進むにつれて「情報の蓄積」「事務仕事の効率化」に関してはスケールメリットがなくなってくると思う。

反面、"大企業病" という言葉もあるように、組織が大きくなるにつれて「組織を維持するための業務」は増えていく。人事査定とか報告会とかの何も生みださない仕事だ。

製造業などの設備投資が必要な仕事はべつにして、これから大企業はどんどん身動きがとれなくなり、組織の縮小が進んでいくのではないかとぼくは思っている。



「その後」の話を最後に。

『空飛ぶタイヤ』では、ラストにホープ自動車が立ち直ろうとする様子がほんの少しだけ描かれ、「はたして体質は改善されるのか?」という疑問を投げかける形で物語が終わる。

さて、現実の三菱自動車はというと。
2000年、2004二度のリコール隠し発覚の後、ユーザーの信頼を失い業績が低迷。グループ会社からの支援を受けて廃業の危機を脱するも、2016年にも燃費試験でみたび不正をはたらいたことが発覚。ライバルであったルノー・日産アライアンスの軍門に下ることとなり、三菱自動車という名前こそ残っているものの、事実上ブランドはほぼ消滅したといっていいだろう。

とうとう最後まで三菱自動車の体質は改善されることがなかったらしい。


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2017年8月27日日曜日

人類を進歩させてくれるメディア


テレビが世に出たとき、世の人々はどんなふうに新しいメディアは歓迎したのだろうか。
もしかすると「テレビが我々を聡明にしてくれる」と期待したのではないだろうか。
遠くの映像を一瞬にして家庭へ届けてくれる機械。それは人々の知識欲を充たしてくれるツールだったはずだ。

だがテレビ登場から数十年たった今、テレビが聡明な人間をつくることを期待する人はほとんどいない。
ためになる番組はあるし、新たな知見も得られる。その中には、読書では決して得られないような知識もある。
とはいえ低俗、不道徳、不誠実な番組はその何倍も存在する。そしていちばん厄介なのは、ぼくたちはそういう番組ばかり好んで見てしまうということだ。
さらに悪いことに、テレビ番組の作り手たちは、ぼくら俗悪な人間の大好きな俗悪な番組ばかり作りよる。
低俗な人間のために低俗な番組ばかり流しているのだから、テレビが高尚な人間を養成してくれるはずがない。
「テレビばかり見ているとバカになる」は、親から言われるまでもなく、誰しもが経験的に知っていることだ。


今から15年ほど前、インターネットにはじめて触れたとき、ぼくは「これはとんでもなく知見を広めてくれるツールだ」と感じた。
それまでは辞書をひいたり図書館に行ったりしても容易に見つけられなかった文献が、いともたやすく手に入るのだ。
すごい。もはや脳は知識の蓄積のために使わなくてもよい。必要な情報は都度インターネットにアクセスして取りだし、人間は洞察と空想のために持てる力を発揮する。人類は飛躍的に成長し、ずっと賢くなるはずだ。


それから15年、みなさんご存じの通り人類は成長していない。その思考力はどちらかというと後退しているかもしれない。

インターネット上には有意義な情報も多い。しかしその1万倍、ごみのような情報が氾濫している。テレビの比ではない。
そして困ったことに、ぼくたちはそのごみに引き寄せられてしまう。インターネットを使って賢くなりたいと思っているのに、腐臭に群がらずにはいられないハエと同じように、読んだところで1ミリアインシュタイン(賢さの単位)も賢くならないとわかっているSNSやニュースサイトやまとめサイトに今日も足を踏み入れてしまう。

そんなはずはないと足掻いて足掻いて15年かかったが、やはり認めざるを得ない。
「インターネットで賢くなる」というのは幻想だ。不可能だ。
1万人に1人ぐらいは賢くなれるかもしれないが、そういう人はインターネットがなくたってぐんぐん学べる。


インターネットがテレビに代わる『娯楽の王様』になる(またはもうなっている)ことはまちがいない。
しかし、ぼくらが俗物であるかぎり、人類を進歩させるという役割についてはまったく期待できない。


2017年8月26日土曜日

室内ゲリラ豪雨の夜


「人生における愚かな夜」のベスト3を決めるとするならば、家の中で水鉄砲を撃ちあった晩は確実にランクインするだろう。


20歳のときだった。
大学の夏休みで、実家に帰っていた。
その日は父母が墓参りでおらず、ぼくは大喜びで高校時代の友人たちを招待した。
「おれんち誰もいないから来いよ」

リビングで酒を飲んでばか話をしていると、ふと傍らにあった水鉄砲が目に留まった。
昼間川で遊んだときに使ったものだ。水鉄砲は3丁あった。猟銃タイプの、水量も水圧もあるやつ。
ぼくはこっそり水鉄砲を手に取り、洗面所に向かった。水を入れ、そっとリビングに戻ると友人の背中に向けて少量の水を放射した。
友人は「ひゃっ!」と大声を上げて驚き、それを見たぼくらはげらげらと笑った。
些細ないたずらだった。

そこから水鉄砲3丁を使っての撃ちあいになるまではあっという間だった。
はじめは遠慮しながらちょろちょろと水をかける程度だったが、酔っぱらっていることもあり、頭から服からずぶ濡れになるにつれてためらいはなくなった。室内ということも忘れて全員おもいっきり引き金を引いていた。

ぼくはビデオカメラを持ってきてこの狂った饗宴を撮影した。1人は実況役にまわり、残る3人はそれぞれ水鉄砲を持って互いに撃ちあった。
ぼくもビデオカメラを片手に家中を走りまわりながら「いいぞ、もっとやれ!」「トイレに逃げこんだぞ、追え!」と叫んで大笑いした。

たぶん、第一次世界大戦のときも こんなふうに一瞬で戦場が拡大したのだと想像する。

セルフイメージはこんなんだった

家の中で水鉄砲の撃ちあいをやったことのある人ならわかると思うが、水鉄砲戦争は野外でやるより室内のほうが7.5倍おもしろい。

まず隠れる場所が豊富にあるので戦術が立てやすい。
トイレに隠れて扉のすき間から狙い撃つ、洗面所で待機しておいて弾切れで給水にやってきた反撃不可能なやつに一方的に射撃を浴びせるなど、さまざまな作戦が可能になる。

また、家の中がびしょびしょになるのも楽しい。
相手を追いつめることに熱中するあまり、濡れたフローリングにすべってずっこける、という事態が何度も生じた。
そのたびに他の面々は大笑いしながら、死者にとどめを刺すように集中豪雨を浴びせた。

なにより背徳感が楽しい。
家の中を水びたしにするのは悪いことだ。だから楽しい。そこに理屈はない。
ビデオカメラで撮影していたおかげでそのときの映像はいまだに残っているが、誰もがほんとにいい笑顔をしている。


1時間以上は撃ちあっただろうか。
アルコールが入っている状態で走り回り大声を上げていたので、さすがに誰しも疲れきった顔をしていた。
「そろそろやめよっか」
誰からともなく言い、改めて部屋の様子を眺めた。

見事なぐらいびしょ濡れだった。
床や壁はもちろん、天井やソファにまで水がかかっていた。テレビも濡れていて、電源を入れたら一瞬ファミコンがバグったときみたいな破滅的な色彩になって「やばい、壊れた!」と焦ったが、よく拭いたら直った。
家中いたるところに銃撃戦の痕跡が残っていたが、和室だけは無事だった。日本人としての良心 がかすかに残っていたのだろう。

2017年8月25日金曜日

「道」こそが「非道」を生む


「報道」という言葉について。

報道、という言葉はどうも鼻持ちならない。
自分で「報道やってます」という人間はどうも信用ならない。「ニュース番組作ってます」とか「新聞記事書いてます」は事実だから何とも思わないんだけど。

思うに「道」という言葉がついているのが、自称"報道関係者"の態度を尊大にさせるのではないだろうか。

ニュースを伝えることなんて、いってみりゃただの商売だ。「報道」なんておこがましい。「報業」で十分だ。
「広告道」とか「製造道」とか「サービス道」とか言わないじゃないか。「農道」は農地脇の道だし。

商売には正しさは必要だ。広告だって製造だってサービスだって同じだ。
法を破ってはいけない、人を傷つけてはいけない。そんなことはあたりまえだからわざわざ「道」をつけたりしない。
「報道」という言葉には「おれたちは他の商売とはちがうんだぜ」という意識が透けて見える。


「道」をつけると、どうしても「正しき道を追い求める者」ということになる。
宮本武蔵のような求道者のイメージだ。
しかし正しい道を求めることは危険極まりない行為だ。

人が度の過ぎた悪に手を染めるのは、正義のために行動するときだ。
「抑圧されている人々を救うため」「正しい世界をつくるため」といった大義名分をふりかざしはじめたとたん歯止めは利かなくなり、あとは自らが破滅するか他者を破滅させるかしかないことは多くの戦争が教えてくれている。
太平洋戦争だって、指導者たちが「金儲けのため」と思っていたらほどほどのところで手を引いていただろう。
金儲けのためなら「これ以上やったら赤字」という損益分岐点があるが、正義には引き際がない。


「報道」はときに正義のために暴走する。災害救助の邪魔になるような取材をしたり、罪のない被害者やその遺族を苦しめたりする。
商売のためにニュースをつくっているという意識があれば「さすがにこれはやりすぎだな」とブレーキがかかるのに、「報じることが正しい道」と思えばどこまででも突き進んでしまう。

正義の色眼鏡をかけて突き進むことでこそ得られる真実もあるのだろうが、これだけ多くの情報にかんたんにアクセスできるようになった時代、報道に求められるのは「道」を捨てることじゃないかな。

2017年8月24日木曜日

2種類の恐怖を味わえる上質ホラー/貴志 祐介 『黒い家』【読書感想】

内容(「e-hon」より)
若槻慎二は、生命保険会社の京都支社で保険金の支払い査定に忙殺されていた。ある日、顧客の家に呼び出され、期せずして子供の首吊り死体の第一発見者になってしまう。ほどなく死亡保険金が請求されるが、顧客の不審な態度から他殺を確信していた若槻は、独自調査に乗り出す。信じられない悪夢が待ち受けていることも知らずに…。恐怖の連続、桁外れのサスペンス。読者を未だ曾てない戦慄の境地へと導く衝撃のノンストップ長編。第4回日本ホラー小説大賞大賞受賞作。

子どもの自殺を、生命保険会社の社員が殺人ではないかと疑う……という導入。
序盤は生命保険会社の内情説明が多く、貴志祐介氏は生命保険会社勤務だったらしいので「ああ、よくある職業ものミステリね」と思っていた。
いっとき流行ってたんだよね。医者とか弁護士とかが書く、業界内の話とからめたミステリが。業界の暴露話ってそれだけでけっこうおもしろいから、ミステリとしての完成度はいまいちでもエンタテインメントとしてはそこそこのものになるんだよねー。
……と思いながら読んでいたら、中盤から「ごめんなさい、これは職業関係なくサスペンスとしてめちゃくちゃおもしろいわ」と反省した。

いやもう、得体の知れないものにいつのまにか包囲されて逃げ場がなくなっていく様子が肌で感じられて、背中にじっとりと嫌な汗をかいた。
寝床で読んでいたのだけれど、「これ中断したら怖くて眠れなくなるやつだ」と思って夜更かしして最後まで読んでしまった。とにかく気持ち悪い小説。あっ、褒め言葉ね。


最後までずっと怖かったんだけど、途中から恐怖の質が変わる。
後半はアメリカホラー映画の怖さだね。これはこれで怖いんだけど、アクション映画のスリリングさ。刃物を持った殺人鬼に追いかけられたらそりゃ怖い。あたりまえだ。だけど後に引くような怖さではない。どうなったら助かるかがわかるからね。
本当におそろしいのは中盤。後半までは犯人もわからないし犯行の目的もわからないという「出口の見えない恐怖」。怪談話みたいにじんわりくる不気味さがあるね。

そういえば貴志祐介氏には『悪の経典』という作品もあって、サイコパスというテーマを扱っていることなど『黒い家』と共通する点も多い(発表は『悪の経典』のほうがずっと後)。『悪の経典』も、前半はホラーで後半はサスペンスアクションだったなあ。


ラストにとってつけたような問題提起があったのがちょっと蛇足に感じたけど、中後半はほんと申し分なしのホラーでした。後味の悪い話が好きなぼくですら、読むのがつらく感じたぐらい。

なにが怖いって、『黒い家』に出てくるヤバい人みたいなのが現実にもいるってことがいちばん怖いんだよなあ……。



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2017年8月23日水曜日

第99回全国高校野球選手権大会をふりかえって



いやあ、おもしろい大会だった。
ぼくは20年ぐらい高校野球を観ているし、毎年甲子園にも足を運んでいるが、これほどわくわくした試合の多かった大会は1998年の80回大会以来だ(いわゆる松坂世代の年)。



第99回全国高校野球選手権大会をふりかえって


予選から話題の多い大会だった。

センバツの決勝で対戦した大阪桐蔭と履正社が地方予選の準決勝で対戦したり、宮城大会の決勝が引き分け再試合になったり、プロ注目の清宮幸太郎選手のいる早稲田実業が決勝で敗れたりと、なにかとにぎやかだった。

ちなみにぼくは早実が負けることを願っていた。清宮くんを嫌いなわけではないが、彼が甲子園に出たら他のチームの報道がその分減らされることが目に見えていたから。
同様に思っていた高校野球ファンは多いと思う。2001年の寺原隼人のときも偏向報道がひどかったから、同じ事態にならなくてよかった。
甲子園で活躍した選手にスポットライトを浴びせるのはいいが、前評判で大騒ぎするのはやめてほしい。


そんなわけで、熱心な高校野球ファン以外にとっては「清宮くんの出ない大会」というちょっとマイナスな感じではじまった第99回全国高校野球選手権大会だったが、いざ開幕してみるとそんなしょうもない修飾詞はたちまち吹き飛んだ。


開幕戦の彦根東ー波佐見で彦根東が9回逆転サヨナラ勝利を収めたのが、派手な試合が多い今大会にふさわしい幕開けだった。
そこからも派手な打ち合いが続き、ドラマチックな試合展開が多かった。

  • 津田学園7-6藤枝明誠(延長11回サヨナラ)
  • 明徳義塾6-3日大山形(延長12回)
  • 日本航空石川6-5木更津総合(9回に4点とっての逆転)
  • 智辯和歌山9-6興南(6点差からの逆転劇)
  • 天理2ー1神戸国際(延長11回)
  • 明豊9-8神村学園(延長12回表に3点、その裏に4点という大逆転劇)
  • 盛岡大付12ー7済美(両チームに満塁本塁打が飛び出す空中戦。延長10回)
  • 仙台育英2ー1大阪桐蔭(9回2死走者無しからの逆転サヨナラ)
  • 天理13-9明豊(明豊が9回に6点返す猛追)
  • 花咲徳栄9-6東海大菅生(延長11回)

高校野球では大差からの逆転劇が多いとはいえ、1大会に1,2試合ある程度だ。しかし今大会は点の取り合いが多く、大逆転や終盤での猛追が多かった。
息詰まる投手戦もいいものだが、やはり動きのある試合展開のほうが観ていて楽しい。

ちなみに、中京大中京が広陵に対して9回7点差から追い上げを見せた試合も見応えがあった。2009年決勝で9回6点差から1点差まで猛追された中京大中京が、今度は追い上げる側だったことにぐっときた。あの試合を思いだした高校野球ファンも多かったことだろう。

個人的には強い智辯和歌山の復活がうれしかった。2回戦で敗れはしたものの、1回戦で強豪・興南を相手に6点差をひっくり返した試合は、2000年代初頭の手が付けられないほど打ちまくっていた智辯和歌山がよみがえったようだった。『ジョックロック』が鳴り響くのに合わせて次々に鋭い打球が野手の間を抜けていくのにはしびれた。



酷暑と打高投低


ドラマチックな試合が多かった最大の要因は、打力が向上したことだろう。
32年ぶりに本塁打記録を更新した広陵の中村奨成くんを筆頭に、両チームあわせて5本塁打の空中戦あり、史上初の代打満塁本塁打あり、1試合2ホーマーの選手が7人(中村奨成くんは2回達成)もいたりと、とにかくホームランが多かった。
少し前なら1試合2本塁打も打てば怪物と呼ばれていたのに、今大会はそれが7人も。しかも神戸国際の谷口くんや青森山田の中沢くんは2年生。もはや高校野球は新しい時代に入ったと言っていいだろうね。
しかし広陵・中村くんはすごかった。記録だけでなくフォームも美しい。足も速い。走攻守そろったキャッチャーなんてものすごく貴重な人材だからどのプロ球団も欲しいだろうなあ。
しかしケガの影響とはいえ地方大会で打率1割台だった選手が甲子園であんなに打つなんて、つくづく甲子園とはおもしろい場所だ。


打力が向上した原因は「ウェイトトレーニングが強化されてフルスイングする打者が増えたから」なんてしたり顔で解説する人もいるが、どうも信じられない。だって98回大会の本塁打数が37本で、今年は68本。トレーニング方法や戦術がたった1年でそんなに変わるものだろうか?
ボールの反発係数でも上がったんじゃないかとぼくは睨んでいる。プロ野球のほうではこっそり変えていた前科があるからなあ。

以前から、春のセンバツは投手力が重要、夏の選手権大会は打力が勝敗のカギを握ると言われていた。
気候のいい春は好投手が1人で投げぬいて勝ち進むことができるが、夏は予選・本選ともに日程に余裕がないため全試合を1人の投手が投げることはほぼ不可能。また確実にばてるのでどんな好投手でも必ず打たれる。だから控えの投手が充実していて打力のあるチームが有利だと言われている。

昔と比べ物にならないほど夏の暑さが増していることも、打高投低に拍車をかけているように思う。
以前は複数投手をそろえているチームをわざわざ「2枚看板」「3枚看板」なんて呼んでいたが、今ではそっちがあたりまえ。今年出場した前橋育英なんて140km投手が4人もそろっていた。
今大会、香川代表の三本松高校がエース佐藤くんを擁してベスト8まで進んだが、このような絶対的エースに依存するチームはほとんどなくなった。全国レベルの投手が複数いないと勝てない時代になったのだ。
公立高校はますます不利になるだろうがそれもいたしかたない。不利だからこそ公立校が勝つと盛り上がるのだ(三本松も公立校)。


しかしずっと言われていることだが、暑さ対策はなんとかしたほうがいい。
ぼくは毎年甲子園に行って外野席で観戦しているが、ここ数年は全試合観ずに帰っている。あまりに暑いからだ。
観客が昔と比べ物にならないぐらい増えたこと、老化により体力がなくなっていることもあるが、それを差し引いても昨今の暑さは耐え難い。ぼくは日灼け止めを塗りたくり、長袖長ズボン、つばの広い帽子にサングラスという徹底した紫外線対策をして観戦に臨んでいるが、それでも灼ける。半袖で行ったときは日灼けしすぎてほぼ火傷だった。
観客席でビールを飲みながら観ているだけでもつらいのに、ずっと駆けまわっている選手の負担はいかほどだろうか。
高野連は死人が出るまで変えないつもりだろうか。それならそれで「人死にが出るまでは変えません!」と立場を明確にしたらいいと思う。

日程的な事情があって開催時季をずらすのは難しいのかもしれないが、せめて決勝戦を14時開始にするのはやめないか。後のスケジュールを気にしなくていい決勝戦なのに、なぜよりによっていちばん暑い時間帯にやるんだ。
決勝戦は17時開始でナイターにしたらいいのに。選手にしたら涼しいし、準決勝の後に少しは休息をとれるし、何より日中仕事がある人も観戦できるし!(これがいちばんの理由)




日なた側のベンチは不利じゃないだろうか?


甲子園球場では三塁側だけ午前中日陰になり、午後は逆になる。日なた側はベンチ内にいてもずっと陽が当たるのであまり休めないように思う。

ということで調べてみた。

準決勝・決勝を除くと1日のゲーム数は3試合もしくは4試合。
第2試合は正午に近い時刻に始まるので無視。
準決勝・決勝を除く「第1試合の勝敗」「第3・第4試合の勝敗」をそれぞれ調べてみた。

午前中におこなわれる第1試合

 一塁側(日なた側)の4勝10敗

午後におこなわれる第3・第4試合

 一塁側(日陰側)の11勝10敗

というわけで、午後については明確な差はなかったが、午前中におこなわれる第1試合に関しては三塁側(日陰側)がかなり有利っぽい。

さらに "8時開始" のゲームにかぎっていえば、一塁側は2勝8敗と圧倒的に分が悪い。しかもその2勝は準優勝した広陵とベスト8の盛岡大付属が挙げたもので、かなりの力の差がないと「午前中の日なたの不利」をひっくり返すのは難しいと言えるかもしれない。

サンプルが少ないのであと何年かさかのぼって調べたらもっと有意なデータがとれるかもしれないが、そこまでやる気力はないので誰か調べてください。



2017年8月22日火曜日

走者一斉救助のツーベースヒット


友人と話していたとき、野球の「ファール」はおかしくないか? という話になった。

[foul]を辞書で引くと、[悪い] [汚い] などの意味がある。
サッカーやバスケットボールの「ファール」は理解できる。敵チームの選手をケガさせかねない危険なプレーに対して与えられるものだから、[悪い][汚い]行為とのそしりはまぬがれない。
だが野球のファールは、べつに卑怯なプレーでもなんでもない。ただの打ち損じだ。失敗は誰にでもある。汚いなんて言われる筋合いはまったくない。

さらにファールフライは漢字で「邪飛」と表される。ラインの外にボールを打ち上げただけで、なぜ邪(よこしま)なんて汚名を与えられなくてはならないのだろう。
テニスやバレーボールでは、サーブを失敗することを「フォルト」と呼んでいる。野球の打ち損じも「フォルト」でいいのではないだろうか。



よく言われていることだが、野球用語には物騒な言葉が多い。
死んだり殺したりしてばかりいる。
一死、二死、牽制死、盗塁死、刺殺、捕殺、併殺、挟殺、三重殺……。こんなに人が死ぬスポーツは他にない。「犠牲バント」も死だ。得点することをわざわざ「生還」というぐらいだから、基本的に死ぬのがあたりまえの世界なのだ。

しかし解せないのが「死球」だ。さっきあげた野球用語の「死」や「殺」はアウトの意味だ。だが、デッドボールを直訳したのだろうが、死球の「死」はアウトではない。むしろチャンス拡大だ。
すなわち、野球には2つの意味の「死」がある。死球で出たランナーが牽制死すると二度死ぬことになる。007か。


死だけではない。不穏な用語は他にもある。
たとえば「盗塁」。これもスチールの訳だろうが、なぜ盗むのかよくわからない。
バスケットボールにも「スチール」という用語があるが、これは敵が持っていたボールを奪うことだから納得できる。
だが野球のスチールは何も奪っていない。ルールに基づいて懸命に走ってチャンスを拡大したのに盗っ人扱いだ。「到塁」とかでよかったんじゃないか。


「走者一掃のツーベースヒット」という言い方も穏やかでない。
走者一掃、なんてまるで邪魔者を排除するような言い方ではないか。ランナーにしたら懸命に走ってチームに得点をもたらしたのに、なぜ「一掃する」とゴミのような扱いを受けなければならないのか。
ヒットによってランナーを「死」から救ったのだから「走者一斉救助のツーベースヒット」とかでいいんじゃないだろうか。


「自責点」も嫌な言葉だ。
チームスポーツでは「誰のせいで負けたか」という戦犯探しは暗黙の了解としてしてはならないことになっている。明らかに誰かのミスが原因で敗れたしても、少なくとも建前としては「しょうがないよ、みんなの力が足りなかったんだ」ということにするのが潔いということになっている。
しかし野球ではそこのとこをわざわざ明白にする。自責点なる概念をつくり、誰の責任でどれだけ点をとられたかということを厳密に算定する。
さらに不公平なことに、自責点はピッチャーにしかつかない。野手がどれだけエラーをしようが、点をとられた責任はすべてピッチャーにおしつけ、あまつさえ「負け投手」なんて呼び名をつける。チームスポーツなのに、まるで負けた原因がすべてピッチャーにあると言わんばかりだ。
許せないのは、それを監督が甘んじて受け入れていることだ。部下にすべての責任を押しつけるなんて責任者失格だ。
潔く「責任はすべて私にある。自責点は私につけてくれ!」と言える監督がいてもいいんじゃないだろうか。
そして、その行動に対して「そなたの部下を思う気持ち、誠にあっぱれ! 自責点はゼロとしよう!」と名裁きを見せる大岡越前のような審判がいてもいいのに。



2017年8月21日月曜日

バカが鉄の鎖もつけられずに闊歩している世の中/中川 淳一郎 『バカざんまい』 【読書感想】

中川 淳一郎 『バカざんまい』 

内容(「e-hon」より)
バカ馬鹿ばか。結局、この世はバカで溢れている。「日本代表勝てる」と煽るメディア、「お騒がせ」を謝罪する芸能人、上から目線で地方を語る東京人、バーベキューを礼賛したがる若者―。ウェブを介して増殖し続ける奴らを、ネットニュース編集者が次々捕獲、鋭いツッコミで成敗していく。読後爽快感220%、ネットに脳が侵されていない賢明な読者に贈る、現代日本バカ見本帳。

歯に衣着せぬ物言いのライター・中川淳一郎氏のエッセイ集。
「こいつもバカ」「あいつもバカ」とずばずばと時事問題をたたっ斬っていくので、読んでいるとまるで自分が賢い側にまわったかのように錯覚してなかなか痛快だ。そういう人間こそがいちばんのバカなんだろうけど。

しかし解せないのが、これが新書で出ていること。新書って多少なりとも論文やルポルタージュの形式をとっているものだと思っていたんだけど。この本は完全なエッセイ集(というかボヤキ漫談)なんで、ちったあ知見ってやつを広げてみようかと思って手に取った身からすると騙されたような気分。文庫で良かったんじゃないかなあ、新潮社さん。

互いを「バカ」と思い合い、いちいち一つ一つの行動に合理性を感じられなくなってしまうのだ。もうこの人達は一切の接触を断つべきである。
 しかしながら彼らが接触不可避となってしまうのがインターネットだ。特にツイッターに顕著なのだが、昨今考えが違い過ぎ「バカ」としか思えない人々同士の衝突が相次いでいる。好き好んで衝突しているとしか思えない場合が多いのだが、まったく意見の妥結点が見いだせぬまま「ブロックしてやったぞ!」「逃げた!」「論破した!」とお互いに勝利宣言してその不毛なやり取りが終わるのである。

ぼくも中川淳一郎さんと同じく「世の中バカばっかり」と思ってる人間だけど、なるほど、バカが多いのはこういうからくりか。
「成人式でヤンキーが暴れるのは、成人式が彼らにとって自分たちと違う階層の人たちにアピールできる最後のチャンスだから」という説を聞いたことがある。
小中学校ぐらいまではいろんな家庭環境・趣味嗜好の人が同じコミュニティにいるけど、高校、大学、社会人となるにつれ階層は分かれてゆき、彼らの人生が交わることはまずない。何かの拍子に接近したとしても、思想も会話の内容も趣味嗜好も違うから、共通の話題がなくて親しくなることはあまりない。

少し前に、小学校の同級生だった「中学生から不登校になって高校には行かずやんちゃしてて今は大工をしている子」と飲む機会があった。
思い出話でそれなりに盛り上がったのだけれど、タバコを平気で路上に捨てるとことか、あたりまえのように飲酒運転をして「捕まるやつは運が悪い」と放言しちゃうようなところとか、随所に「価値観が違いすぎるな」と感じるところがあった。
たぶん向こうは向こうでぼくに対して「なんだこいつ」と思うところがあっただろう。


価値観がぜんぜん違う人がいても彼らと会うことはほとんどないのでぼくの人生においてプラスもマイナスもないのだけれど、インターネットができてからこっち、そういうわけにもいかなくなった。
特にTwitterみたいな不特定多数と接する媒体を見ていると、「こんなヤバい思想の持ち主がよく社会生活を送ってられるな」と思うことがよくある。学校にも職場にもいなかった人種、未知との遭遇だ。
こんなバカが鉄の鎖もつけられずに闊歩している世の中は大丈夫か、と不安になる。

本来ならまず出会うことのなかったバカ(価値観がまったく違う人物)と出会えるツール、それがインターネットなのだ。
この本でもインターネットの話題が多くとりあげられている。



共感したのは、この一節。

 誰か次の国会で、議員の謝罪理由に「誤解を招くような」とか「世間をお騒がせし」とかいった字句の使用を禁止する法案、ぜひとも提出してくれませんか。
 この「やらかしちまったことを真正面から謝ったら負け」的な空気は、一体いつからのものでしょう。

とはいえ、「世間をお騒がせ……」のほうは、しかたないとぼくは思う。
不倫や覚醒剤使用した芸能人とかが謝罪会見とかやらされてるけど、世間に謝れと言われても「世間をお騒がせして申し訳ない」としか言いようがないだろう。だってテレビを観ている人には何の迷惑もかけてないんだもん。むしろ暇人のために話題を提供してあげたのだから感謝されてもいいぐらいだ。
ほんとに迷惑をかけてる家族や所属事務所の人には直接謝罪してるだろうし。

しかし「誤解を招いたのであればお詫びします」はほんとに見苦しい。そこまで嫌々頭を下げるのなら謝らなきゃいいのに、とさえ思う。
つい最近も大臣が大失言をした後に「誤解を招きかねない発言を撤回し、お詫びを申し上げる」と、謝罪になってない謝罪をしてたね。

こういう発言をした人がいたら、報道機関はちゃんと「自らの落ち度を完全否認」「謝意なし」と報道しなきゃだめだと思うよ。
で、当の議員から抗議されたら、ちゃんと「侮辱しているかのような誤解を招いたのであれば申し訳ない」と言ってやればいいね。


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2017年8月19日土曜日

競争力の高いバターになっとけ


「競争」って重きを置かれすぎじゃない?
ビジネスでも学業でもそうなんだけど。
競争なんか、しなくて済むならそれに越したことはない。


忍者が麻を使って修行する話、知ってる?
忍者が麻の種を植えて毎日その上を飛び越えてたら、麻はすごい勢いで成長するから、それにあわせて跳んでるうちにいつのまにか忍者も3メートルぐらいジャンプできるようになってるって話。
そんなわけないよね。嘘にもほどがある。ぼくは小学生のとき信じてたけど。
麻に対抗心燃やしたからって人間が3メートルもジャンプできるようにはならない。

その忍者の話を信じてるのか知らないけど、競争させたら成長すると信じてる人が多い。
いや、二流はそうかもしれない。他人よりいい点とるために勉強する。そういう人がいるのはまちがいない。
義務教育はそれでいい。全体のレベルを引き上げるのが目的だから。

でも一流の人は競争するから成長するわけじゃない。
学ぶことが楽しいから勉強する。絵を描くのが好きだから絵を描く。で、そういう人が業界を牽引する。彼らにとって競争なんて成長を阻害する要因でしかない。

スポーツは競争を楽しむためのものだから競争こそが選手を成長させるかもしれない。
だけど学問や芸術はそうではない。真理に近づくことやより善なるものや美を追求することが成長を促す。個ではなく全体の成長を。


前職を 辞めたのは、競争に対する考え方も原因のひとつだった。
ぼくは一応管理職という立場にあったんだけど、会社は社員たちをむやみに競争させようとしていて、ぼくはそれに反発していた。
みんなそれぞれ別の業務をやってるから競争させることに意味がない、競争させてそれを計測するのにもコストがかかる、競争させて足の引っ張り合いになったらトータルでマイナスになる、そもそも競争させないと仕事をしないようなやつはいらない、とかいろんな理由があって。
全員がゴールを狙うサッカーチームが勝てるわけない、と言って結局は会社を辞めた。

なんでもかんでも競争の原理を持ちこむのは、二流半を二流に引き上げるために一流の足を引っ張る行為だ。
大学が「競争力を高めるため」って理由で独立法人化させたのなんかまさにそれ。結果が出るかわからない研究、短期的に結果が出ない研究をする余裕をどんどんなくしていって、「競争力」だけの二流の大学ばかりになっていく。


そもそも「競争力」という言葉がばか丸出しだと思う。国際競争力をつけよう、とか。
競争は手段あるいは結果にすぎないのにそれを目的化しているのがほんとに愚かだ。

囲碁とかオセロとかビーチフラッグみたいなゼロサムゲームであればともかく、マクロ経済とか教育とか政治とかの世界で「競争力」という言葉を使うやつは、そいつら同士で追いかけっこをしすぎてバターになればいいのに。世界のバター市場で勝負できる競争力の高いバターに。



2017年8月18日金曜日

ビール飲みながら「おれが監督ならなー」と言ってるおっさんの話/小関 順二『間違いだらけのセ・リーグ野球』【読書感想】

小関 順二『間違いだらけのセ・リーグ野球』

内容(e-honより)
2015年のセ・パ交流戦の最中、パ球団がセ球団を叩いた結果、全セ・リーグ救団が「勝率5割以下」という前代未聞の事態が起こった。見渡せば、柳田、中村、中田らの魅力あるフルスインガー、大谷、金子らの豪快な投手はパに集中し、セの野球はどこか貧弱。このような事態を招いた原因はどこにあるのか?人気球団で補強に力を注ぐ巨人や阪神は、なぜさほど強くならなかったのか?ドラフト、FA、育成…あらゆる角度からセ・リーグの問題点をあぶりだす。

今はプロ野球を観ないけど、1993~2000年ぐらいはよく観ていた(当時は小学生~高校生)。
兵庫県に住んでいたこともあって、父に連れられて球場にも何度か足を運んだ。兵庫県にある2つのプロ野球の球場、阪神甲子園球場と、オリックスの本拠地だったグリーンスタジアム神戸だ。

当時の阪神といえばまさに暗黒時代で、なにしろその8年間の最高順位は4位、最下位は5回とほんとにどうしようもないチームだった。プロ野球ファン以外に名が知れるようなスター選手もいなかった(新庄剛志はいたが、彼がスターになるのはメジャー挑戦~日本ハムでの活躍があった後の話だ)。
一方、オリックスはといえば仰木彬が監督を務めてイチローが在籍していた時代で、93~99年はずっとAクラス。リーグ優勝2回、日本一1回。阪急からオリックスという名前にかわって以降、もっとも輝いていた時代だった。

しかし、球場の客の入りは成績とは正反対だった。
甲子園球場の阪神の試合は常に満員。グリーンスタジアムでのオリックスの試合は多くても7割ぐらいの入り。
グリーンスタジアムではD.J.(オリックスにD.J.という登録名の選手がいたのでややこしいけどここではディスクジョッキーのこと)によるハイテンションなアナウンスとにぎやかな音楽がゲームを盛り上げ、夏場は試合中に花火を打ち上げ、入場時に無料でグッズを配ったりと、さまざまなイベントを催していた。
甲子園球場にはそういったイベントは一切なし(花火は立地的にできないと思うが)。とにかくおまえらは野球だけ見てればいいんだよ、という感じ。ジェット風船はあったが、あれは観客が金を出して風船買って飛ばすだけなのでファンサービスではない。むしろファンから球場へのサービスだ。
手をかえ品をかえ観客を楽しませようとしてくれるグリーンスタジアムのほうが、ぼくは好きだった。

それでもグリーンスタジアムは、どれだけイチローがヒットを打とうが、いくら優勝争いをしようが、常に空席が目立つ状態。
グリーンスタジアムは立地が悪くて都市部からのアクセスが良くなかったのだが、それにしてもこの差はあんまりじゃないかと子どもながらに思っていた。

十数年前、かようにセ・リーグとパ・リーグの人気の差は大きかった。
セ・リーグの試合はかなりの割合でテレビで観ることができたが、今のようにインターネットもない時代、パ・リーグの選手が動く姿を観られるのはオープン戦とオールスターゲームと日本シリーズだけだった。



そして20年近い時が流れ、セ・パの人気の差は当時とは比べものにならないほど縮まっている(理由はパ・リーグの人気が高まったことよりもセ・リーグの人気が落ちたことのほうが大きいが)。
球場に足を運ぶファンだけに限定していうなら、パ・リーグのほうが人気があるといえるかもしれない。

そして、実力では今や完全にパ・リーグのほうがセ・リーグより上である。断言してしまっていいだろう。
昔から「人気のセ・実力のパ」と言われていたが、都市伝説に近いレベルの話だった。オールスターゲームはファンサービスのお遊びだし、日本シリーズは短期決戦だから本当の実力は測れないよ、と思われていた。
だが2005年からセ・パ交流戦がはじまったことで、その実力差は歴然となってしまった。

 交流戦の原型は97年にメジャーリーグがスタートさせたインターリーグで、日本球界が導入したのは05年。それ以来、09年以外の10回はすべてパ・リーグが勝ち越し、通算成績は865勝774敗、勝率・528。09年までは僅少差のシーズンが多かったが、10年以降はパが大きく勝ち越すことが多く、ここ6年間の通算成績は438勝356敗(勝率・552)と、圧倒的な〝パ高セ低〟現象が続いている。

ちなみに『間違いだらけのセ・リーグ野球』が書かれたのは2015年だが、16年も17年もパ・リーグが勝ち越している。
13年やってセ・リーグが勝ち越したのは1回だけ。これはもう1軍と2軍ぐらいの力の差があるといっていいかもしれない。
ちなみに、日本シリーズでもセ・リーグは大きく負け越しており、2005~2016年の12年間でセ・リーグの球団が日本一になったのは3回だけだ。


セ・パの力の差が開いた原因のひとつとして小関順二氏が挙げているのが、若手育成に対する取り組みだ。

 実際に逆指名ドラフトが導入された93年以降、日本シリーズでパは勝てなくなった。そんな逆風を受けているとき高校卒の松坂が1年目から16勝5敗、防御率2・60という好成績を挙げ、最多勝、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、新人賞を獲得した。パ・リーグのスカウトをはじめとするフロントは何者かに強く背中を叩かれた思いがしたのではないか。「資金力があり人気があるセはこれからも有力な大学生や社会人を根こそぎ持っていく。当然、高校生への関心は遠のく。ならばそこに懸けるしかないだろう。高校生を獲ってファームの育成能力を挙げ、一軍の監督は若手を積極的に抜擢する。パ・リーグが生き延びる方法はそれしかない」

セ・リーグはFAと逆指名制度に守られたことで人気選手が集まったが、実績のある選手ばかりになったことで若手が台頭できるチャンスが減った。
一方、有力選手をセ・リーグに奪われたパ・リーグは、ドラフトで高校生を中心にした若手獲得に動き、結果として若手を育成する体制が整った。
……という説。

なるほど。今はそこまででもないのかもしれないけど、いっときのジャイアンツってほんとにえげつないぐらい他球団のエースや4番をかき集めてたからなあ。
落合、清原、広沢、石井、江藤、ローズ、小久保、ハウエル、ペタジーニ、マルティネス、ラミレス、小笠原、工藤、川口、野口、杉内……。
こうやって挙げてみたらほんとひどいな。
プロ野球人気が低迷した時期とちょうど重なってるから、ジャイアンツの補強戦略が球界全体に与えた負の影響は相当大きいのかもしれないね。そりゃこんなことやってたら人気はなくなりますよ。レベルの高い争いを期待できなくなるから、一流選手は海外に行くしね。

ニューヨークヤンキースとかレアルマドリードとかも同じことをやってるけど、スター選手を集めれば(その球団だけにとっては)目先の利益は増えても、長期的に見たらまちがいなくマイナスだよね。



「なぜセ・リーグはだめになったのか」という視点はおもしろかったのだが、残念だったのは、データに基づいた話になっていないこと。ほとんど筆者の主観によってのみ書かれている。

データは載っている。たとえば「ほら、パ・リーグのほうがこんなに盗塁が多いんですよ」というデータは示してある。
なるほど、と思う。
でもその後に「だからパ・リーグはセ・リーグよりも対戦成績で上回ったのだ」と書かれると、おいちょっと待てよと言いたくなる。
盗塁と勝利の関連性を示すデータがまったくないし、仮に相関関係があったとしても因果関係があるとはかぎらない。

「高卒選手のほうが日本代表に選ばれることが多い。だから高卒のほうが大成しやすい」なんて主張も書かれている。
これは因果関係が逆だ。日本代表に選ばれるぐらいの素質を持った選手だから高校時代からスカウトの目にとまっただけだろう。高卒でプロ入りしたらいい選手になるのではなく、いい選手だから高卒でプロ入りできたのだ。

早打ちのほうが成績がいい、というデータも載せている。
初球を見逃さずにワンストライク目から打っていったほうが打率が高いのだそうだ。
著者の小関さんは「だから早打ちしたほうがいい!」と書いてるけど、これも相関関係と因果関係の読み違いだ。
「失投があったから早めに打った」+「失投だったからヒットになった」だけではないだろうか。ここから「早めに打てばヒットになる」という結論を導くのは大間違いだ。
また、チームプレイとして考えた場合、非力なバッターは初球はバントの構えで様子を見ろとか、じっくり見て相手に球数を投げさせろとかの指示を受けるから、遅打ちになる。「強打者だから早めに打たせてもらえる」+「強打者だからヒットやホームランが多い」だけかもしれない。

上に挙げたのは一例で、いろんなデータを出してはいるが、統計学的に意味のあるデータはほぼ皆無。
はじめに結論ありきで都合のいいデータをがんばって集めました、という感じ。
根拠を一切検証することなく「ほらね。だからパ・リーグのほうが強いんだよ」と言われても、結果を見てから「おれが監督ならあそこでピッチャー交代してたのになー」とビール飲みながらほざいてるおっさんと同じで、何の説得力もない。
だいたい「初球を見逃さずに早めに打てば成績が良くなる」ぐらいの単純な話なら、とっくに改善されてるだろうよ。


『マネー・ボール』のような科学的な分析が読めるかと思ってたのに、期待はずれだった。
野球って膨大なデータがあるから、データサイエンティストが本気で解析したらおもしろくなりそうな題材なのになー。


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2017年8月17日木曜日

パパ友の口説き方


「ママ友」の検索結果 約1300万件

「パパ友」の検索結果 約38万件


ということで どうも世のお父さん同士はあまり友だちにならないらしい。
(しかし「ママ友」も「パパ友」もネガティブな検索結果が並んでるな……)

ぼくには4歳の娘がいるが、パパ友はいない。
学生時代の友人に子どもが生まれたので子どもと一緒に遊びにいく、ということはあるが、子どもを介して友人になった人はいない。

毎朝娘を保育園に送っているので、他の保護者とも顔を合わせる。
保育園に通わせている人は基本的に共働きだから父親が送りにくる家庭もめずらしくない。
必然的によく顔を合わせるお父さんも決まってくる。
ぼくは常々まっとうな人間として生きていきたいと願っているからあいさつをする。「もうすぐ発表会ですね」とか「今日も〇〇ちゃんは元気ですね」といった言葉も交わす。
でもそれ以上の踏み込んだ話をすることはない。


休みの日には たいてい子どもと遊びにいく。しかし「この人(娘のこと)はお父さんとばかり遊んでいいのだろうか」と心配になる。
一人っ子だし、もっと同年代の子と遊ぶ機会をつくってあげたほうがいいんじゃないか。

あるとき、娘と公園に行ったら保育園の同じクラスの子とばったり会った。
子どもたちはおいかけっこをはじめて、そのとき娘はぼくが見たこともないぐらい速く走っていた。
犬を飼ったことのある人は知っていると思うが、犬は散歩のときリードを持つ人の速さにあわせて歩く。老人と散歩するときはゆっくり歩くし、若くて元気な人が散歩をさせると犬は「この人のときは走ってもいい」と思って速く走る。
同い年の子どもと全速力で走って遊ぶ娘を見て、「ああ、4歳の娘もぼくと遊ぶときは、老人と散歩する犬のように遠慮していたのだな」と気づいた。ショックだった(犬から見た老人の扱いをされていたことも含めて)。

もっと同じ年代の子と遊ばせてあげたい。しかし近所にはパパ友がいない。
ちくしょう! 娘よすまない、ぼくが社交的でないばっかりに……!


忸怩たる 思いいを抱えていたぼくだが、少し前にこんなことを書いた。

娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

コミュニケーション能力が低いばかりに千載一遇のチャンスを棒に振ってしまったのだが、あきらめきれなかったぼくは「あのお父さん(Nちゃんのお父さんとする)とプールに行く」という目標を立てた。

そこで、まずは娘に
「Nちゃんとプール行こっか。Nちゃんに、一緒にプール行こうって言ってみたら?」
と吹きこんでみた。

娘とNちゃんの間で「プールに行こう」という約束ができる
 ↓
Nちゃんが家でお父さんに「〇〇ちゃんとプール行きたい!」と言う
 ↓
Nちゃんのお父さんが、今度会ったときにぼくに「娘が行きたがってるんでプール行きましょう」と言う

という展開を期待したものだ。
自分では声をかける勇気がないので子どもたちを経由して、しかも向こうから誘ってもらおうという巧妙かつ意気地なしの作戦だ。好きな女の子から告白されるのを待って自分からは何のアクションも起こさなかった学生時代からまったく成長していない。


その後も 何度かNちゃんのお父さんと会う機会があったのだが、いっこうにプールの話が出ない。
うちの娘のところで止まっているのか、それともNちゃんで止まっているのか。なにしろ4歳児なのであてにならない。大人でも報連相はむずかしい。
もしかしたらNちゃんのお父さんのところまで話は届いているのに「あいつと出かけるのイヤだな」と思われているのかもしれない……。

くよくよ考えていても結論は出ない。
ここは直接的に誘うにかぎる。

ある日、保育園に娘を送った後、少し前をNちゃんのお父さんが歩いているのを見つけた。
小走りでNパパに近づく。すっと横に並び、たまたま出くわしたかのように「あ、おはようございます」と声をかけた。

そして、前から準備していた台詞を、まるで今思いついたかのように言う。
「ああそういえばですね、こないだプールの話したじゃないですか。あれ以来、娘がNちゃんとプールに行きたいって毎日のように言ってるんですよ。どうでしょう、今週末にでも一緒に行きませんか?」
娘が毎日のようにプールに行きたいと言っている、というのはもちろん嘘だ。また娘を利用させてもらった。

で、
「いいですよ。行きましょう」
「じゃあLINE交換してもらっていいですか」
と、事前に脳内シミュレーションしていたやり取りを経て、見事一緒にプールに行く約束をとりつけることに成功した。


学生時代に 好きな女の子を誘ったときぐらい周到に準備したのが功を奏した。
休みの日は家族でゆっくりしたいのに誘ったら迷惑じゃないだろうかとか断られたらその後保育園で顔を合わせたときに気まずいなとか思い悩んでいたが、杞憂に終わった。
プールに行くときも「ダサいと思われたくないから新しい服を着ていこう」と前日から準備をして、何があるかわからないから一応銀行でお金おろし、気持ちは完全に初デート前日の高校生だった。


プールでは娘たちも楽しんでいたし、「また一緒に遊びに行きましょうね!」と言って別れたのだが、その日からまたべつの悩みが生まれた。

次はどう誘ったらいいのだろうか。

前回はこっちから誘ったから、次は向こうが誘ってくるのを待ったほうがいいのだろうか。
いやでも待つだけの姿勢では自然と疎遠になってしまうかもしれない。
かといってすぐにまた誘うのも「しつこい人だな」と思われるんじゃないだろうか。
どれぐらいの間隔を開けるのがベストなんだろう。1ヶ月ぐらいだろうか。
前回は「プール」という夏らしいイベントがあったけど、次は何を誘ったらいいのだろう。公園遊びとかは平凡すぎるだろうか。

パパ友をつくるってこんなにたいへんなプロジェクトだったのか。
そりゃなかなか作れんわ。


2017年8月16日水曜日

官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できる/堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』【読書感想】


堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』

内容(「e-hon」より)
この国は、その成立から、ずっとねじれている。今さら世界に合わせる必要はない。ねじれたままの日本でいい―。建国の謎、天皇のふしぎ、辺境という国土、神道のルーツなど、この国を“日本”たらしめている“根拠”をよくよく調べてみると、そこには内と外を隔てる決定的な“ねじれ”がある。その奇妙で優れたシステムを読み解き、「日本とは何か」を問い直す。私たちのあるべき姿を考える、真っ向勝負の日本論。

建国記念日、天皇制、中国との関係、戦争のとらえかた、神道といった日本人なら誰もが知ってるのに外ではあまり話題にしにくい ”デリケートな話題” を通して日本の抱える「ねじれ」について語った本。
堀井 憲一郎さんに対して「どうでもいいことを大まじめに考える人」というイメージがあったんだけど(悪口じゃないよ)、まじめな話題をまじめに語る本も出してるのか、と意外だった。



太平洋戦争について。
 ただ二度目のとき、つまり明治維新から近代国家と呼ばれる、いかにもわれわれの身にそぐわなそうな衣装を装備したときには、度合いがわからず、かなりの無茶をやった。日本のラインを守ろうとして、でもその守るラインをどこに置けば適当なのかがわからず、やみくもに外側に防衛ラインを置き、だから結果として、少なくとも周辺の国からは、日本は天皇を戴いてそのまま世界へ押し出していった、というスタイルに見えた。もちろん押し出していってるわけだけど、ただわれわれの理屈は、ずっと身内だから、アジアだから、大東亜共栄圏だから、という内向きの方向でしか述べられていない。そんな理屈だけで外地でやったさまざまな非人道的が許されるわけではないが、心持としてはずっと内向きである。そんな気持ちのまま、海外に進出していったから問題が大きくなったわけでもあるのだけれど。要は、日本の中に抱えてる何かを守ろうとして、防衛ラインを大きく構えすぎた、ということである。
日本が戦争に至った経緯をいくつかの本で読んだけど、感じるのは「このままじゃまずい」という焦りなんだよね。その時代に生きていなかったから想像するしかないんだけど、「外国に攻めていって大儲けしてやろう」という雰囲気ではなく、「何もしなければやられる」という逼迫した空気が戦争に駆り立てたんだろうと思う。
アジアの国が次々に欧米の植民地になっていくのを見ていたら「日本だけは大丈夫でしょ」とは到底思えなかっただろう。
やったことはまちがいなく侵略戦争なんだけど、少なくとも国内のマインドとしては防衛のための戦争だったんだろうなあ、と想像する。

次に戦争をするときも同じだろうな。他国からどう見えるかはべつにして、国内の意識としては自衛のための戦争。今でも「日本が何もしなければ××国に蹂躙される」って鼻息荒く主張してる人がいるけど、そういう人は仮に日本が先制攻撃したとしても「やらなければやられていたからこれは自衛戦争だった」と言うのだろう。
まあこれは日本だけじゃなく世界共通の考え方だけど。
子ども同士の喧嘩で、双方ともに「相手が先に叩いてきた」って主張するのと同じだね。



 近代国家システムを作るときに、もっとも大事だったのは何かというと、廃藩置県だ。それぞれの小国がそれぞれ、小国として独立していた全エリアを、強引に”日本”という一つのものにまとめたところ、でしょう。
 だからいまの日本で「地方分権」を唱える政治家を私は、まず信用しない。
 いまのわが国の政体は、地方分権国家だった江戸のシステムでは近代社会では徹底的に搾取される側にまわってしまうので、急ぎ必死で、命がけでそれこそいろんなものを捨てて殺して、実際に戦争までやって、「地方分権を続けてるとおれたちは国丸ごと滅んでしまう」という血塗られた叫びによって作られた国家であり政体なのだ。
(中略)
 地方分権を唱えてる連中は、まず「金と経済の話」しかしていない。金も経済も同じことだから、つまり、金の話しかしていないわけだ。
 おそらく経済がすべてに優先して大事だということなのだろうか。それは一般人の感覚であって、政治家が理念として掲げるようなものではない。
これも同感。
地方分権を主張する政治家の話って、結局、「おれの好きなようにやらせろ」しか言ってないんだよね。
ほんとにいい政策なら全国的にやったほうがいいし。

いや、わかるんだけど。みんなで足並みそろえてやってたら決定が遅くなるし動きづらくなるんだけど。でもそれをなんとか調整するのが政治家の仕事でしょ、って思うんだよね。おれはおれの好きなようにやるよ、ってのはビジネスの世界では通用しても政治でそれやっちゃだめでしょ。みんなが「うちの町内だけで通用する法律作ってやっていくことにしました」っていったらめちゃくちゃになるのは目に見えてる。

だって各自治体が好き勝手やっていいんなら、日本全体の便益を増やすよりも、隣の自治体から奪ってくるほうがはるかに手っ取り早いもん。みんなそうするよ。で、99%の自治体が損をする。ふるさと納税制度の失敗を見たら明らかじゃない。

最近EUは失敗だったとか言われてるけど、個別の国で見たら失敗なのかもしれないけど、トータルで見たらやっぱり成功だと思うんだよね。実際、中国みたいな「これからの国」はほとんどないにもかかわらずEU全体として経済成長してるわけだし。
EU圏内の他国に対する防衛費を抑えられるってだけでとんでもないメリットだろうと、防衛費が年々上がっていく国に住んでいる者としてはつくづく思う。



ついこの前、「官僚は選挙によって選ばれたわけではないから官僚主導で物事が決まるのはおかしい。政治家が手綱を握って官僚をコントロールしなければならない」と主張している人(それなりの学者)がいて、その主張を読んでぼくはもやもやしたものを感じていた。
たしかに官僚は選挙に選ばれてるわけじゃないよなあ……。だからといって政治家が手綱を握るってのはどうも納得いかないような……。
で、ちょうどこの本にそのもやもやへのアンサーが書いてあった。
 国際政治方面は、日ごろの日本の思考法ではどうにもならないので、それ専門に通用するプロを鍛え上げて、そちらに任せるしかない。政治家はあまり外交部門にかかわらないほうがいい。政治家というのは、何も国民の中の優秀な人がなるのではなく、そのへんのおっさんのうち、押しが強くて、金を持っていて、調整が好きな人、がなるものなので、頭脳はべつに明晰でなくていいし、知識も豊富でなくてもつとまるのである。だって、そういうシステムを採用しているから。だから、政治家主導、なんて考えなくていいですからね。あれはほんとに、馬鹿って言われたから、おれ馬鹿じゃないもん、と必死で弁解してる馬鹿の姿そのもので、政治家は馬鹿だと言われることくらい我慢しなさい。与太郎だって我慢してるのに。そもそも政治家とは、考える人ではなくて、調整して、賢者の意見を聞いて、どれを採るか決断するのが仕事です。東アジアのボスは古来そういう姿しか認められていない。
 官僚は優秀な人たちを採用しつづけたほうがいい。
ああそうか、官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できるんだ。
選挙で選んだら、声がでかくて自分をよく見せるのがうまいやつだらけになるだろう。そういうやつが実務能力に長けているかどうかは、みなさんご存じのとおりだ。

政治家は優秀な実務家じゃない。
内閣と官僚を対立軸で語ること自体がおかしいんだけど、あえて比較するとして、選挙で選ばれた人気者と、優秀な大学を出て厳しい試験を突破してその道一筋で厳しい環境でやってきたプロフェッショナルである官僚。
どっちが政策運用において信用できますかっていったら、どう考えたって官僚だ。
選挙が人気投票になっても国家がちゃんと運営されるのは官僚が優秀だからだ(あとたぶん政治家の秘書も優秀だと思う)。

ぼくは選挙に行くけど、票を入れる人の実務能力なんてまったく知らない。政策に共感した人に入れるだけだ。みんなそうだろう。



『ねじれの国、日本』。個別の内容については同感できないこともあったけど、目をつぶって意識していないことについて考える機会を与えられるってのはなかなか心地いいね。
ふだん使わない筋肉を使った後のほどよい疲れみたいな感覚を味わった。


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2017年8月15日火曜日

ばか、なぜ寄ってくるんだ!



街中でビラを配っている人がいる。
ぼくはやったことがないが、つらい仕事だろうな、と思う。
夏は暑いし冬は寒いし立ちっぱなしだし、そしてなにより「人々から無視され、拒絶される」ということが心を削りそうだ。


ビラ配りに遭遇すると心が痛む。
少し先で、若い女性がコンタクトレンズのビラを配っているのが見える。
しかしぼくには不要なものだ。ぼくは以前レーシック手術をしたので両眼ともよく見えている。その証拠にほら、あんなに先にあるのにコンタクトレンズのビラだということがわかってるじゃないか。

拒絶するのは気が引ける。
向こうが「どうぞ」と言って差しだしたものを無下に断れば、彼女はきっと傷つくだろう。
人が人生に絶望するのは、大きな壁にぶつかったときだけではない。小さなストレスが積もりに積もり、最終的にほんの些細な出来事を引き金にして、自分自身や他人を傷つける行動にでるのだ。
ぼくの拒絶が、その引き金にならないともかぎらない。

といって「ありがとう。でもぼくは視力がいいからこれはぼくには不要なものだ。せっかくだから他の人に渡してくれるかい?」なんて丁重に説明して断られても薄気味悪いだけだろう。
「ヤベーやつに出会った」と思うこともきっとストレスだろう。

だったらもらっておいて後で捨てればいいじゃないか、と思うかもしれない。
しかし捨てると知りつつもらうことは彼女の前でいいかっこしたいばかりに自分に嘘をつくことになる行為だ。
ぼくがその余計な1枚を受け取ったことで、本来もらえていたはずの「コンタクトレンズ屋を探していた人」がビラをもらえなくなるかもしれない。


と考えると、「そもそもビラを差しだされないようにする」が最善手だ。
差しだされなければ傷つけれれることもないし、傷つけてしまった自分を苛むこともない。
「私たち、出逢わなければよかったのね。やりなおしましょう」

だからぼくは前方にビラ配りの存在を確認したら、針路を変えることにしている。道の右側にビラ配りがいたら、おもいっきり左に寄る。さらに視線もビラ配りから背ける。「私はビラをもらうつもりがありません」ということを全身で意思表示するのだ。


これでたいていの場合は八方丸く収まるのだが、中にはぼくの全身の訴えが届かないのか、道の反対側にまで駆け寄ってきてビラを差しだす強靭なハートの持ち主がいる。
やめてくれ。
数メートル前からあからさまに避けてるじゃないか。なぜ寄ってくるんだ。

『アドルフに告ぐ』に、ヒトラー・ユーゲントのアドルフ・カウフマンがドイツ在住のユダヤ人であるエリザの家族を逃がそうとするのだが、エリザの家族は財産を取りに家まで戻ってきてユダヤ人狩りに捕まるというシーンがある。まあ読んでない人にはさっぱりわからんと思うが、そのときカウフマンが「ばか、なぜ戻ってきたんだ! もう終わりだ!」と叫ぶ。
ビラ配りがすり寄ってきたときのぼくの心境も同じだ。
「ばか、なぜ寄ってくるんだ!」

そしてぼくは心を鬼にして、冷たい一瞥をくれてビラの受け取りを拒否する。

わざわざ寄ってきたおまえが悪いんだぞ!
そう思えば良心は傷まない。ビラ配りに胸を痛めている人にはおすすめの手法だ。というわけでぜひ、手塚治虫『アドルフに告ぐ』を読んでみてほしい。どんな結論だ。



2017年8月12日土曜日

自分はどうも信用ならん


自分のことが信用ならない。

ぼくは高いところが苦手で、橋の欄干近くを歩くときはすごくドキドキする。
そのとき頭をよぎるのは「急に橋がくずれたらどうしよう」とか「突風で飛ばされたらどうしよう」ではなく「急に飛び降りたくなったらどうしよう」という心配だ。
「よっしゃ飛び降りたれ!」という衝動に駆られたらと思うと、自分を制御できる自信がない。


駅のホームに立っていて、電車が近づいてくると「線路に飛び込んじゃだめだ。飛び込んじゃだめだ」と自分に言い聞かせる。
自殺なんて考えたことないのに。

貴志 祐介の『天使の囀り』という小説に、「スリルを味わいたくなる病気」なるものが出てくるが、その気持ちがちょっとわかる。

車を運転しているときにも「ここでおもいっきりアクセルを踏んだらとんでもないことになるな。でもだめだぞ」と思いながら運転している。
そんな人間が運転していると思うと、他の車や歩行者も怖くてしかたがないだろう。だからなるべくハンドルを握らないようにしている。



ぼくは今までにタバコを1本たりとも吸ったことがない。
二十歳くらいのときに友人から「吸ってみるか?」と勧められたことはあるが、好奇心よりも「1本吸ったらもう死ぬまでやめられなくなるんじゃないか」という恐怖心のほうが勝って、吸わなかった。タバコの煙に囲まれて死んでゆく未来の自分が見えた。
タバコやパチンコや覚醒剤を始める人間は「こんなものいつでも辞められる」と思って徐々にハマってしまうのだと聞く。よくそんなに自分のことを信用できるものだ、と感心する。ぼくは今までに何百回も自分に裏切られている(明日からはジョギングしよう、と思ったのにやらないとか)から、自分のことなどまったく信用していない。
自分のことを信用していないから、他人のことなんかもっと信用していない。


「信用」「信頼」という言葉はポジティブな意味で使われることが多いが、はたしていいことなんだろうか。

ぼくは自分を信用していないから危うきに近寄らないようにしているし、身体や社会に害のあるものに「1回だけ」と手を出すこともない。
また他人のことも信用していないから、人がミスをしたり悪さをしても腹も立たない。

困難なチャレンジをする際(たとえばダイエット)、自分を信じてポジティブにとらえる人(「きっと成功して半年後には痩せてるわ!」)よりも自分を信じていない人(「どうせ挫折して甘いものを食べてしまうよ……」)のほうが結果的に成功しやすいと聞いたこともある。

信用や信頼は捨ててしまったほうが世の中うまく回るんじゃないだろうか。


2017年8月11日金曜日

ぼくの好きなトーナメント表


トーナメント表が好きだ。

高校生のときから、高校野球のシーズンになると模造紙にトーナメント表を書いて部屋の壁に貼っていた。ちゃんと長さを計算して、寸分の狂いもないようにトーナメント表を書いていた。
それを眺めてはにやにやして、大会中はもちろん毎日勝敗や点数を書きこんで、大会後も次の大会が始まるまではずっと壁に貼ったままにしていた。

「勝ち上がってきた勝者同士が頂上でぶつかる」のが視覚的にわかるのがいい。
「勝者の後ろには多くの散っていった者が存在する」ことを感じられるのもいい。
負けたら終わりなので緊張感があること、一発勝負なので番狂わせが起こりやすいこと、消化試合がないこと。トーナメント戦には魅力がたっぷり詰まっている。

まだ1回戦がはじまってない状態でトーナメントを眺めて「あそことあそこが勝ったら準々決勝でぶつかるな……」とかいろいろ空想するのも楽しい。
大会が進むにつれて妄想する余地が減っていくので、「あっ、ちょっと待って。まだ始まらないでよ!」と思うこともある。
大会が終わってからもトーナメント表を見ると「3回戦の横浜ー星稜戦もいい試合だったな」と細かく思いだせる。

ぼくは高校野球が好きだが、もしトーナメント形式ではなく「総当たりで勝率1位のチームが優勝」というシステムだったとしたら、きっと今ほど好きじゃなかったと思う。
トーナメントだから好きなのだ。

プロ野球でも12球団によるトーナメント戦をやったらものすごく盛り上がると思うのにな。なんならサッカーの天皇杯みたいに学生チームや社会人チームも入れたトーナメント戦をやってほしい。


ぼくの好きなトーナメント表は、いびつな形をしたやつだ。
16とか32とか64より半端な数のほうがいい。シードが生まれるからだ。
運の入る余地があったほうがおもしろい。
高校野球でいうと、春の選抜は32校が出場し、夏の選手権大会は49校が出場する(記念大会除く)。春はシードがないので、ぼくは夏のほうが好きだ。

『幽遊白書』の暗黒武術会トーナメントもすごくいびつでよかった。あのトーナメント表を見たときは、当時の読者はみんなゾクゾクしたはずだ。


でも、プロスポーツでは意外とトーナメントをやらない。
ときどきやる(サッカー天皇杯とか大相撲トーナメントとか)ことはあっても、興行のメインではない。大相撲トーナメントなんかテレビ中継すらしないし。
野球のクライマックスシリーズではトーナメント表はあるが、あれは「負けたら終わり」ではないのでぼくはトーナメント戦として認めていない。
ゴルフのツアーのことを「トーナメント」と呼ぶが、これももちろんいわゆるトーナメント戦ではない。
ほとんどのスポーツはリーグ戦がメインで、トーナメントが興行のメインとなっているプロスポーツは、ぼくが知っているかぎりテニスぐらいのものだ。あとスポーツじゃないけど将棋。

トーナメント戦は試合数が必要最小限(出場チーム数-1)になってしまうので、プロスポーツとしては収入面で割にあわないのだろうな。負けたチームはひまを持てあますし。

プロスポーツは難しいかもしれないが、会社の採用試験とか、お見合いパーティーとか、市長選挙とか、もっといろんなところでトーナメント形式をとりいれてもらいたい。



2017年8月10日木曜日

笠地蔵の失礼すぎる恩返し



『かさじぞう』という昔話がある。
 たいていの人は知っていると思うが一応あらすじを書いておくと、

年の瀬におじいさんが笠を売りに出かけるが、笠はひとつも売れなかった。
帰る途中、おじいさんは地蔵を見かけ、雪が積もってはかわいそうだと思い売れ残りの笠を地蔵にかぶせてあげる。足りない分は自分の笠をかぶせる。
その夜、地蔵が恩返しのために餅や米俵や財宝を持ってきてくれた。

という話だ。

 この話、どうも納得できない。

 構造としてはいたってシンプルだ。「人(地蔵だけど)に親切にしてあげるといいことがありますよ」という話だ。それはわかる。
 しかし、おじいさんが地蔵に対して親切にして、その直後当の地蔵から恩返しをされる、という点が納得できない。



 どうやって恩返しをしたのか?


 まず、地蔵はどこから餅や米俵や小判を持ってきたのか? という疑問が浮かぶ。
 石づくりの地蔵が餅や米を常備しているとは思えないから、おじいさんに渡すためにどこかから調達したのだろう。山菜やキノコだったら「地蔵が山に行って取ってきた」ということも考えられるが、餅や米俵は自然界にはないから、地蔵が持ってくる以前は誰かのものであったはずだ。

「悪いやつ」がいれば、そいつから餅や米俵を奪って持ってくるという『義賊システム』も考えられる。
 だが『かさじぞう』に悪人は出てこない。
 仮に物語には出てこない悪党がいたとしても、地蔵が餅や米俵や小判を奪うというのは話として無理がある。



 地蔵には神通力があったのか?


「いやいや、どうやって入手したのか考えるなんて野暮だよ。地蔵は仏様の使いだからね。神通力があるんだよ。その神通力で餅や米や財宝を生みだしたんだ」
と言う人もいるだろう。
 では地蔵に神通力があったとしよう。好きなものを出現させられる幽波紋(スタンド)だ。

 だったらなぜはじめから笠を出さなかったのか?

 雪に凍えてつらかったのなら笠を出せばいい。八十八の手間をかけてつくると言われているお米を出現させるよりも、ばあさんが内職で作れる笠のほうがかんたんだろう。
 いや、神通力があるのだから笠といわずにダウンコートとかヒートテックとか屋根とか石油ストーブとかを出現させればいい。

 なぜやらなかったのか? 答えはひとつ、「必要なかったから」だ。
 あたりまえだ。神通力を備えている地蔵、しかも石づくり。吹雪なんか屁でもない。
 つまり、おじいさんがした笠をかぶせるという行為はまったくのおせっかいだったのだ。



気持ちの問題か?


「いやいや、おせっかいというのはドライすぎるでしょ。地蔵は、おじいさんの気持ちこそがうれしかったんだよ。だから恩返しをしたんだ」
という意見もあろう。
 なるほど、実益を伴わなくても行動してくれたことがうれしいということはある。
 ぼくも、四歳の娘が「はい、お父ちゃんにあげる」と言ってダンゴムシを差し出してきたときは、行為は迷惑千万だったが好意だけはうれしく感じたものだ。

 だが、売れ残りの笠をかぶせてくれたこと(しかもおせっかい)に対するお返しが「餅と米俵と小判」というのはどう考えてもやりすぎだ。逆に失礼じゃないか?

 考えてみてほしい。食べきれないほどのイチゴをもらったので、お隣さんにおすそ分けをする。その直後にお隣さんが「イチゴのお礼です」と言って百万円を持ってきたら、あなたは受け取るだろうか? もしくは地蔵のように夜中にこっそりやってきて郵便受けに百万円を入れていたら?

 まず受け取らないだろう。気持ち悪いから。
 どう考えても不釣り合いすぎる。ばかにされているように感じるかもしれない。



お返しの作法


 人から親切にしてもらったらお返しをするのは礼儀だが、お返しにはいくつかのお作法がある。

 1. 別の形でお返しする
 2. 時間をおいてお返しする
 3. 少なくお返しする

 これがお作法だ。

1. 別の形でお返しする』はわかりやすい。
 イチゴをもらったら、お返しにイチゴを持っていってはいけない。イチゴに対してイチゴでお返ししたら、「あなたがくれたイチゴはいりませんでした」という意味だと受け取られかねない。
 ピーマンをもらったからパプリカでお返し、というのもよろしくない。ぜんぜん違うもののほうが望ましい。
 また、現金を渡すのもなるべく避けたほうがいい。価値が一目瞭然だからだ。
「イチゴをもらった翌月、掃除のついでにお隣さんの家の前も掃いてあげる」だと、どっちがプラスなのかがわからない。この「損得をあいまいにする」ことこそが友好関係を維持するコツだ。


2. 時間をおいてお返しする』は、少しわかりづらい。
 お返しをするなら早いほうがいいと思うかもしれないが、好意を受けてその場でお返しをしたら、それは「取引」になってしまう。ただの物々交換だ。
 必要なのは、時間をおいて「好意をお預かりする」ことだ。
 親しい人の間では貸し借りがあるのがふつうだ。引っ越しを手伝ってあげたり、車で家まで送ってもらったり、どちらかが「借り」をつくっている。
「誕生日プレゼントを贈る」というのも貸し借りを生む行為だ。貸し借りをつくるためにやるといってもいい。なぜなら貸し借りのある関係こそが友好的な関係だからだ。

 人間関係における貸し借りは清算してはならない。
 今までにしてあげたこととしてもらったことを数えあげて収支を合わせようとするのは、金輪際おまえとは付きあわないぞ、という意味になってしまう。
「恋人と別れたときに彼から借りていたものを全部宅配便で送りかえしてやった」なんて話を聞いたことがあるだろう。あれはまさに「貸し借りを清算してあなたとの関係を絶つ」という明確な意思表示だ。


3. 少なくお返しする』のも同じ理由からだ。相手が好意を向けてくれた場合、借りをつくらなければならない。
 結婚式のご祝儀に対しては引き出物を贈るし、葬儀の香典には香典返しをするが、もらった額より少なく返すのが礼儀だ。同じ額、または上回る額でお返しするのはたいへん失礼だ。

と考えると、"その日のうちに" "もらった分よりはるかに多く" 返した地蔵の行動が、いかに礼を失したことだったかわかるだろう。




 地蔵はどうすべきだったのか


 先ほどお返しのお作法を3つ紹介したが、実はもうひとつお作法がある。

 4. 直接お返ししない

というものだ。
 特に目上の人から親切にしてもらった場合、本人にお返しをすること自体が失礼になることもある。

 新入社員が上司にごちそうしてもらったときは、その上司に対してお礼の品を贈る必要はない。上司もそんなことは望んでいない。新入社員が上司になったときに部下にごちそうしてやればいい。

「他者に返す」というのもお返しの作法のひとつだ。

 他者に返すのは、目上の人から親切にしてもらったときだけではない。
「困ったときはお互い様」という精神もある。
 自然災害に遭って義援金をもらったら、義援金をくれた人ではなく、別の災害の被害者に対して寄付をすればいい。


 だから吹雪の中でおじいさんから笠をもらった地蔵は、その恩をべつの困った人に対して向けるべきだったのだ。
 地蔵が誰かを助け、助けられた人がべつの人に親切にし、善意の連鎖がまわりまわっておじいさんのところに戻ってくる。

 こういうお話にしておけば、「他人におこなった親切はいつか戻ってくる」と同時に「善意に対して直接的な見返りを期待してはいけない」という教訓も得られるしね。


2017年8月9日水曜日

クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】

伊沢 正名 『くう・ねる・のぐそ』

内容(「e-hon」より)
他の多くの命をいただいている私たちが、自然に返せるものはウンコしかない。著者は、野糞をし続けて40年。日本全国津々浦々、果ては南米、ニュージーランドまで、命の危険も顧みず、自らのウンコを1万2000回以上、大地に埋め込んできた。迫り来る抱腹絶倒の試練。世界でもっとも本気にウンコとつきあう男のライフヒストリーを通して、ポスト・エコロジー時代への強烈な問題提起となる記念碑的奇書。

40年間にわたってできるかぎり屋外でのウンコにチャレンジしつづけ、12,000回以上の野糞をしてきたによる伊沢正名さんによる半生記。
4793日連続でトイレで用を足さなかったという大記録を持ち、野糞のしやすさで仕事も住むところも決める。野糞の世界で(どんな世界だ)右に出る者はいない野糞界のレジェンド。

これめちゃくちゃおもしろい本だね。
伊沢さんの本業は菌類などの写真を専門にするカメラマンなのでキノコや菌の話もあるけど、ほとんどずっとウンコについて書いている。写真も豊富。なんと自分のウンコ(菌によって分解された後)の写真まで公開している。ぼくは電子書籍で読んだのだが、文庫版では問題の写真は「袋とじ」になっていたらしい。細かいところまでよく作りこまれている。


伊沢さんが野糞をはじめたきっかけは、屎尿処理場建設反対の住民運動を知ったことだったという。
屎尿処理場の恩恵にあずかりながら、自分の生活圏の近くには設置してほしくないという住民のエゴに疑問を持ち、そもそも排泄物を処理するのにエネルギーを使い有機物(ウンコ)を生態系サイクルの外に出してしまうことは自然環境にとってマイナスでしかないのでは、という疑問を持ち、ウンコを「自然にお返しする」ために野糞を始めたのだという。

さらに、紙も使わず葉っぱで拭いて仕上げに手に水をつけて拭く「インド式」を導入している。立派な美学を持っているのだ。

 しかし、私が心底衝撃を受けたのはそのことではない。それは、ちり紙がこれほど分解されないという事実を目の当たりにしたことだった。ちり紙は木材が原料のパルプでできているのだから、土に埋めれば適度な湿気があり、菌類などの働きで短期間のうちに分解され、土に還ると思っていた。ところが実際には、分解の進む暑い夏を越え、すでにウンコも葉っぱも姿を消しているにもかかわらず、紙だけはほとんどピカピカの状態で出てきたのだ。快適な使い心地を追求してさまざまに加工されたちり紙は、もはや単なる植物繊維ではなかった。大木をも分解する強力な菌類すら寄せつけないちり紙とは、一体どのような物質を含んでいるのだろう。自然の循環に自らを組み込む目的ではじめた野糞によって、いくら使用量を減らしたとはいえ、こんな代物をあちこちの林に埋め続けていたとは!
 野糞率アップなどといい気になっていたが、結果的に私の野糞は、ただのゴミのばら撒きだったのではあるまいか。そう思うと強い自責の念に苛まれた。

この文章を読めばわかるように、なんとも真面目な人なのだ。
真面目すぎるからみんなが看過している矛盾が許せないのだ。

伊沢さんの真面目さは、その記録や記憶にも現れている。
この本には伊沢さんが年別に何回野糞をして、野糞率(年間に野糞をした回数/全排便回数)も付記したデータが掲載されているが(こんなに役に立たないデータがかつてあっただろうか!)、それも彼が40年間排便のたびに手帳に記録をとりつづけていたおかげだ。

そして彼は、野糞のことをよく覚えてる。

 ところで、海岸での取材時には、野糞も当然海岸ですることになる。とはいえ波打ち際に近い砂浜では、あまりに見晴らしがよすぎて心もとない。排便という無防備な行為は、たとえ羞恥心のない野生動物でさえ、安心感のあるものでするものだ。私はすこし奥へ進み、腰くらいまで草が茂り、小さな松がまばらに生えたところでウンコをすることにした。地表は砂に覆われているが、すこし掘ると土が現れ、さらに植物の根っこも出てきた。穏やかな心持ちでウンコをしながら、ふと考えた。
 動物である私は、安心をもとめてここでウンコをしているが、植物の側から考えればどうなのだろう。海岸の痩せた砂地では、ウンコは貴重な栄養源だ。植物は身を隠す場を提供しつつ、そこで動物にウンコをさせて、必要な栄養を手に入れているのではなかろうか。動物は植物を利用しているつもりが、じつは植物の方でも動物の行動を、まんまと操っていたのかもしれない。共生の糸が張りめぐらされた自然の妙に、とんだところで気づかされた浜野糞だった。

ぼくも毎日のように用を足しているが、こんなふうに「いつ、どこで、どんなふうに、どんなことを考えながら」したかなんてまったく覚えていない。
間に合わずに漏らしたときか、よほど汚いトイレを使ったときしか記憶に残っていない。

だが伊沢さんは何十年も前の野糞を、じつに細かく描写している。状況が毎回変わる野糞をくりかえしていると、一回一回が「記憶に残るウンコ」となるのだ。
トイレで排便している人よりもはるかに充実した排便ライフを送っているわけで、ちょっとうらやましい。


さらに『くう・ねる・のぐそ』では、100回分以上の野糞を後日掘り返して、切断して断面を見たりにおいを嗅いだりして、ウンコの状態や経過日数によってどのように分解が進んでゆくかの記録が書かれている。

これは人類史上はじめての試みだろう。というか40億年前に地球上に生物が誕生してから、100回以上も自分のウンコを掘り返した生物なんて他にいないだろうから、生物史上はじめての偉業だ。
(しかも伊沢さんは季節による変化を調べるため、夏にも冬にもやっている)

そして得られたこの結論。

 私はこれまで、どちらかと言えばウンコを始末してもらうという意識で野糞をしてきた。ヒトは動物として、栄養を他の生きものに依存して生きるしかない。いわば寄生虫的な生物だと卑下していた。だからせめてもの罪滅ぼしに、食べた命の残りであるウンコを、全部自然に返そうと野糞に励んできたのだ。
 ところが、この野糞跡の掘り返し調査では、多くの動植物や菌類が私のウンコに群がり、たいへんな饗宴を繰り広げている現場を目撃した。ウンコは分解してもらうお荷物などではなく、とんでもないご馳走だった。ウンコをきちんと土に還しさえすれば、もうそれだけで生きている責任を果たせそうな気がしてきた。三十数年間背負っていた重荷が、スッと消えてなくなった。

この本を読むと、野糞をしたくなる。というよりトイレで用を足すことに罪悪感を持ってしまう。

「野糞をするうえで気をつけることは?」
「野糞をする人が増えたら分解できなくなるのではないか?」
「都会で野糞をしたら生態系にダメージを与えることにならないか?」
といった疑問にも、百戦錬磨の著者がずばりと回答してくれる。

都市部のマンション住まいのぼくには伊沢さんのようにいきなり「トイレでウンコをしない」というのはハードルが高いが、今度山登りに行ったときにはチャレンジしてみようかな。


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2017年8月8日火曜日

断られやすい誘い方をしろよ

断られやすい誘い方 をしろよ、と思う。

どういうことかというと、たとえばぼくが以前にいた会社では不定期でフットサルやバーベキューを開催していた。
そこで許せなかったのは、主催者の誘い方だ。

「再来月あたりにバーベキューやろうと思ってるんですけど、いつがいいでしょう?」
「土日のどこかでフットサルをやろうと思います。(8ヶぐらい候補日が書かれた紙を見せてきて)参加できる日に〇をつけてください」

という誘い方が多かった。
この誘いを受けるたびに、なんて相手のことを考えられない人なんだろう、と心底腹が立った。

こんな誘い方をされると、断ることがすごくむずかしい。


いい大人なんだから、相手に断りやすい逃げ道を用意してあげてから誘えよ、と思う。
「〇月□日か△日にバーベキューをやるんですけど」とピンポイントで指定すれば、一応手帳を見るふりをして「ああすみません、どっちも予定がありまして……。行きたかったんですけど」とさしさわりのない嘘をついて断ることができる。

あと、用件を言わずに予定が空いているかを訊くやつも、バーベキューに火種を忘れていって生野菜だけ食うことになればいいのにと思うぐらい嫌いだ。
「〇日ひま?」って訊かれても、バーベキューのお誘いなら「その日は予定が」と答えるし、「もう使わなくなった100万円の札束あげるから家まで取りにきてくれない?」だったら「何の予定もないよ!」と即答するから、先に用件を言えよ。



まあ、ぼくは会社の人からどう思われようとわりと平気な人間なので、
「再来月の週末はすべて結婚式に出席する予定があるので参加できません」
「靴は革靴しか持ってないのでフットサルはできません」
と、丸わかりの嘘をついて断っていたんだけど。


2017年8月7日月曜日

本格SF小説は中学生には早すぎる/ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』【読書感想】


ジェイムズ・P・ホーガン (著), 池 央耿(訳)
 『星を継ぐもの』

内容(Amazonより)
月面調査隊が真紅の宇宙服をまとった死体を発見した。すぐさま地球の研究室で綿密な調査が行なわれた結果、驚くべき事実が明らかになった。死体はどの月面基地の所属でもなく、世界のいかなる人間でもない。ほとんど現代人と同じ生物であるにもかかわらず、5万年以上も前に死んでいたのだ。謎は謎を呼び、一つの疑問が解決すると、何倍もの疑問が生まれてくる。やがて木星の衛星ガニメデで地球のものではない宇宙船の残骸が発見されたが……。

多くの読書好き中学生と同じように、ぼくも中学生のときはSF作品を多く読んだ。
星新一は小学生のときから好きだったから、そこから派生して、筒井康隆、小松左京、豊田有恒、かんべむさし、新井素子などあれこれ手を伸ばしていった。

でも、評価の高い筒井康隆の七瀬3部作なんかを読んでもいまいちぴんとこなかった。「筒井康隆もドタバタ短篇はおもしろいんだけど本格SFはあんまり楽しめないな……」
その頃読んだSF作品は数多くあるのだが、20年近くたった今でも記憶に残っているのは、星新一作品をのぞけば、新井素子『グリーン・レクイエム』ぐらいだ。『グリーン・レクイエム』は講談社文庫版 表紙の高野文子のイラストも含めて感動するほど美しい作品だった。借りて読んだのだが、あまりに良かったのですぐに買って本棚の特等席に並べた。
こういう本が絶版にならずに電子書籍で手に入る時代になったのはほんとにいいことだなあ。


話はそれたが、しばらくSFからは遠ざかっていたのだが、少し前にハインラインの『夏への扉』を読んで「SFってやっぱりおもしろいなあ」と思いを新たにした。

で、SF史上名作中の名作中の名作との呼び声高い『星を継ぐもの』(1977年刊行)を手にとった。

月面で人間の遺体が発見された。調べたが、地球上のどの国の人物でもない。遺体の年代を測定すると、彼は5万年前に死んでいたことがわかった。チャーリーと名付けられた遺体は、地球人なのかそれとも宇宙人なのか。彼はどうやって月面に降りたち、そしてなぜ死んだのか――。

という、なんともわくわくする導入。
そして期待を裏切らない展開。謎が謎を呼び、ひとつの謎が解決されるたびに新たな謎が浮上してくる。

「ここまでは、いいですね」ハントは先を続けた。
「その惑星が自転して、一日が自然の時間の単位であるという前提でこの表を眺めた時、これが、惑星が太陽を回る軌道を一周する期間を示しているとすれば、数字一つが一日として、その惑星の一年は千七百日ある計算です」「恐ろしく長いですね」誰かが混ぜ返した。「われわれから見れば、そのとおり。少なくとも、年/日の比率は非常に大きな値になります。これは、軌道が極めて大きな円を描いているか、あるいは自転周期が非常に短いことを意味します。その両方であるかもしれません。そこで、この大きな数のグループを見て下さい……アルファベットの大文字で括ってある分です。全部でそれが四十七。大半が三十六の数字から成っていますが、中の九つのグループは三十七です。第一、第六、第十二、第十八、第二十四、第三十、第三十六、第四十二、それに第四十七のグループです。ちょっと見るとこれはおかしいように思えますが、しかし、地球のカレンダーだってシステムを知らずに見たら変なものでしょう。つまり、どうやらこれはカレンダーとして機能するように調整が加えられているらしい、ということが想像されるのです」
「なるほど……大の月、小の月ですか」
「そういうことです。地球で大小の月に一年をうまくふり当てているのとまったく同じです。惑星の公転周期と衛星のそれとの間には、単純な相関関係が成り立たないためにそのような調整が必要になって来る。そもそも、そこには相関関係などあるはずもないのですから。つまり、わたしが言いたいのは、もしこれがどこかの惑星のカレンダーであるとするならば、三十六の数字のグループと三十七のグループが不規則に混じっていることを説明する理由は、地球のカレンダーの不規則性を説明する理由とまったく同じであるということ、すなわちその惑星には月があった、ということです」

ずっとこんな調子で、物理学、天文学、進化生物学、解剖学、考古学、言語学、化学、数学などありとあらゆる知識を総動員して、ひとつひとつの謎が丁寧に解き明かされてゆく。まるで推理小説のよう。
以前、『眼の誕生』という本を読んだとき、「どうやって生物は眼を持ったのか」という謎に対してさまざまな検証がおこなわれ、それが真実に向かって収束されていく展開に興奮をおぼえた。
『星を継ぐもの』を読んでいる間も、そのときに似た知識欲の昂ぶりを感じた。フィクションだとわかってはいるのに、まるで学術研究書を読んでいるかのような圧倒的なリアリティがあった。
小松左京も「知の巨人」と呼ばれていたけど、本格SF小説を書くには広く深い知識が必要なんだ、とつくづく思わされた。
SF小説の翻訳って難しいと思うけどこれは訳も良くてすんなり読めた。邦訳含めて名作だ。

『星を継ぐもの』は非常におもしろかったんだけど、ぼくが中学生のときにこの本を読んでいたら「おもしろくねえな」と思っていただろうと思う。
『星を継ぐもの』は、「5万年前に何があったのか?」の謎を解き明かす話なので、現在のストーリーだけで見ると退屈だ。科学者たちが集まってああでもないこうでもないと話しているだけだ。この物語のおもしろさは大胆すぎる想像を精緻な論理で形作っていくことにあるので、論理の流れが理解できなければ本の魅力は半分も感じられない。
天文学や進化生物学に関して少なくとも大学の一般教養程度の知識は持っていないと、謎解きについていけないと思う。


ぼくが中学生のときにSF小説をいまいち楽しめなかったのは、ぼくの知識が足りなかったからというものあるんだろうな。
当時はおもしろくないと思っていた作品の中にも、今読み返したら楽しめるものもたくさんあったんだろうな。



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2017年8月4日金曜日

校長先生の特権


ふつうに生活していて、数十人の前で話をすることなんてどれぐらいあるだろうか。
学生時代はそれなりに機会もあったが、ぼくが高校卒業後に数十人の前で話したことといえば、
  • 職場の全社会議で、全社員約300人の前で所信表明を述べたとき。
  • 自分の結婚式で招待客約50名の前であいさつをしたとき。
  • 友人の結婚式2次会の司会をしたとき。
これぐらい。
教師、講師、アナウンサー、遊園地のアトラクションの司会者、ハイジャック犯といった仕事についてないかぎりは、数十人の前でしゃべる機会はないのがふつうだと思う。
せいぜい結婚式のあいさつや喪主のあいさつぐらい。

また、大勢の前で話すときはたいてい、自分の好きなことを話せるわけではない。
講師にしても司会者にしても喪主にしても、だいたいの話す内容は決まっている。多少冗談を挟むことぐらいはあっても(喪主は挟まないだろうが)、自身の主義主張やとりとめのないことを語ることは許されていない。それが許されているのは、講演会を依頼された著名人、政見放送・街頭演説をする政治家、朝礼の校長先生ぐらいのものだ。




ぼくがここにブログを書くと、1記事につき数十人が見てくれているらしい。

人気ブログとは比べ物にならないアクセス数だが、数十人の前で話ができる、しかも制約なしに自分の好きなことを語れると考えれば、これはすごいことだ。

長年教師を務めて試験を受けて校長になるか、数百万円の供託金を支払って選挙に出馬するかしないと手に入れることのできなかった「人前で好きなことを語る権利」が、ずっとかんたんに手に入る世の中になったのだ。

今後は、校長先生をめざす人や泡沫候補として出馬する人は減っていくかもしれないね。



2017年8月3日木曜日

若い人ほど損をする国/NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』

NHKスペシャル取材班
『僕は少年ゲリラ兵だった』

内容(「e-hon」より)
沖縄戦に埋もれていた衝撃の史実、日本“一億総特攻”計画の全貌。なぜ、本来守るべき子どもたちを、国は戦争に利用していったのか。そして、戦場で少年たちは何を見たのか。どのように傷つき、斃れたのか。生き残った者たちは、なぜ沈黙し続けなければならなかったのか。そしてその先にあったのは、子どもも含めた「国民総ゲリラ兵化」計画だった―。

戦中日本に護郷隊という組織があったことをご存じだろうか。
沖縄に存在したゲリラ戦部隊で、10代を中心とする兵士が戦場で戦っていた。

太平洋戦争開戦時、日本では満17歳以上でないと召集されないとされていた。青年のもとに赤紙が届いて「まだこんなに若いのに……」と母親が悔やむ、なんてシーンをドラマや映画で観たことのある人も多いだろう。
だが戦況が悪化するにつれ、召集年齢は引き下げられ、1944年12月からは14歳以上であれば志願したものにかぎり召集できるようになった。

志願者にかぎるとはいえ――。

「護郷隊の幹部が村役場を訪れ、役場の人が自分を呼びに来た。召集の紙なんかはなかった。強制的だった。役場で幹部と合流し、国民学校へと向かった。校庭には東村のほか、大宜見村、国頭村、読谷村から集められた少年たちがいた。翌日、岩波隊長が訓示した。『あんたたち、帰ってもいいが、ハガキ一本でこれだ(手刀で首を切るしぐさ))』と言った。今考えたら脅しみたいなものだ」

じっさいはこんな召集の仕方だった。
戦時中、刀を持った軍、狭い村。「おまえも志願するよなあ?」と言われて断ることは不可能だっただろう。

ナチスドイツのヒトラーユーゲントやISIL(イスラム国)の少年兵が有名だが、幾多の戦争で少年は兵士として使われている。
洗脳しやすい、攻撃的である、敵を油断させやすいなど、"コマ"として使いやすい条件がそろっているためだろう。

『僕は少年ゲリラ兵だった』では、田舎の少年たちがゲリラ兵へと変貌してゆく姿が書かれている。
「敵を殺せ、10人殺したら死んでもよい」という短くてインパクトのある言葉を叩き込まれ、過酷な訓練漬けにされ、彼らは兵士となっていく(「10人殺したら死んでもよい」ということは「10人殺すまでは絶対に逃げるな」ってことだよな)。

元少年兵の証言として、
「射撃をすることがおとぎ話の英雄になったみたいだった。大人と対等に戦えるのが痛快だった」
「生まれなかったと思ったらそれでいい」
「(仲間が死んでも)何も思わなくなっていた」
なんてインパクトのある言葉が並ぶ。
しかしこういったことも戦争から70年たったからこそ言えたことで、これでもだいぶ薄まった言葉なんだろうね。



衝撃的だったのはこの文章。

 44年末、沖縄の9の離島に、それぞれ1人か2人ずつ学校教員の辞令を受け、本土から突然やって来て着任した謎めいた男たちがいた。戦時下の沖縄ではほとんど授業が行なわれることはなく、そのかわりに彼らは、子どもたちや住民に軍事教練をしたり、島の警察や行政に巧みに入り込み、米軍が上陸した際の準備などを指導したりしていたというのだ。
 彼らは全員が偽名で、教員としての姿も偽りのものだった。その正体は、「残置諜者(残置工作員)」と呼ばれる陸軍の特殊任務の命を受けた者たち――陸軍中野学校で諜報・謀略、そして特に遊撃戦の特殊訓練を受けていた軍人だったのだ。

まるで映画の導入みたいなシーンだが、こういうことが日本でもおこなわれていたことに驚く。
彼らは教師という信頼されやすい立場を利用して住民の中に入りこみ、いざというときに住民に対して玉砕を指導するつもりだったらしい。

これは沖縄の話だが、本土でも同じような計画がされていたらしい。もし8月15日で終戦していなければ、住民のふりをした軍人たちの巧みな指示のもとで女も老人も子どもも関係のない捨て身の攻撃がなされていたんだろうね。



今の日本は、若い人ほど損をする国だなあとつくづく思う(昔はそうじゃなかったとか外国はそうじゃなかったとは言わないけど。よく知らないから)。

医療費とか年金とか労働環境とか、どう考えても若い人のほうが損をしている。
今の年寄りより現役世代のほうが損をしているし、現役世代よりも学生や子どもが大人になったときのほうがもっと損をするだろう。


たとえば国立大学の学費。
1975年の授業料は、年間36,000円。
その10年後の1985年は7倍の252,000円。
2003年以降は50万円超えとなっている。(文部科学省 国立大学と私立大学の授業料等の推移

一方、物価はというと、2005年の物価を100とすると、1975年の物価は52~56。(総務省 消費者物価指数(CPI)時系列データ

つまり、30年で物価の上昇は2倍未満なのに、大学の学費は約15倍となっているのだ。実質負担は7~8倍になっているわけで、とんでもない値上がり率だ。おお、こわ。どうやら国は若者に学んでほしくないらしい。

また、国民年金保険料を見ると、1975年は1,100円。現在は16,490円。(日本年金機構 国民年金保険料の変遷
こちらも約15倍。
さらに給付される年齢は徐々に引き上げられ、給付額もどんどん減少していく。
40年前の7~8倍もの保険料を支払っているのに、もらえる額はずっと少ない


要するに、若い人からとるお金は増えていき、若い人に使うお金はどんどん減っていっている、というのが今の社会だ。たぶんこの先もずっとそうだろう。
30代のぼくとしては、「ぼくたちってなんてかわいそうな世代なんだ」と思うと同時に、「これから大人になる人たちはなんてかわいそうな世代なんだ」とも思う。

今の年寄りが悪いというつもりはない。
悪いのはこういう社会システムがおかしいと知りながら変えようとしない人たちで、その中にはもちろんぼくも含まれるから、自業自得だ。
まあ自分が国民年金で大損こくのは自業自得だからしょうがないんだけど、でも今の子どもやこれから生まれてくる人に対しては「今後きみたちからたんまり搾取することになってしまうんや。かんにんな」と申し訳なく思う。といってもぼくがそのためにやることといったらせいぜい延命治療を拒否することぐらいなんだけど。


で、今後日本が戦争をする可能性は十分にあるよね。いくら憲法で戦力放棄をうたっていたって、そっちのほうがお得となったら「緊急事態だから」といっていろいろと理屈をつけて戦争をするために憲法を ねじ曲げる 解釈する人はいくらでもいるし。
そうなったときに誰がいちばん被害を受けるかっていったら、まちがいなく若い人たちだ。
なんとかして若い人に損をさせようとする国が、「戦争の最前線に立つ」といういちばん損をする役目を若い人にさせないわけがない。まかせたぜ若人よ。クールで美しい国のために、プレミアムな役割を君たちに与えよう。


堤美果さんの貧困大国アメリカ三部作(『ルポ 貧困大国アメリカ』 『ルポ 貧困大国アメリカ II』 『(株)貧困大国アメリカ』)には、アメリカ軍がどうやって若者を軍にリクルートしているかが丁寧に描かれている。
手法としては、軍に入隊することを約束した者に奨学金を出すことで、貧しい若者に「軍に入隊する」か「低学歴で一生貧困生活を送る」かを選ばせる、というものだ。
競争相手となる移民も多く、自己責任論の強いアメリカでは、一度貧困状態に陥るとそこから脱出することはきわめて困難だ。
だから高額な授業料を出せない家庭の子たちは軍からの誘いを断ることができない。
こうして入隊した若くて学歴もコネもない軍人たちは、当然ながらもっとも危険な最前線へと派兵されることになる。

日本ではそこまで露骨なリクルートは今のところ聞かないが、「教習所に通う金がないから免許を取るために自衛隊に入る」なんて話も聞くから、お金がないために自衛隊に入る人はある程度いるのだろう。
前述したように大学の授業料はどんどん高くなり、一方で給付型奨学金や無利息の奨学金は少なくなっている。親世帯の非正規率は上がっているから、奨学金を返せなくなる若者が増えているという。
ひとたび自衛隊員が不足したなら、リクルーターがこの層を狙わないはずがない。
「憲法九条を改正したら徴兵制が復活しますよ」なんて言って憲法に反対する人がいるが、それは誤りだ。赤紙なんか出さなくても金さえ出せば兵隊は集められるのだから。金を積めば"自主志願"する人はたくさんいる。

15歳で軍に入隊することになる時代は近いのかもしれない。



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2017年8月2日水曜日

五千円札と五円玉の謎




本屋で働いていたとき、業務のひとつに「銀行に行ってお釣りを用意する」というものがあった。

で、ふしぎなんだけど、お金の種類によって「必ず減っていくもの」と「必ず増えていくもの」があった。
いくつかの店舗で勤務したことがあるけど、どこも同じだった。

五千円札はぜったいに減っていく。
20枚くらい用意していても1日でなくなる。
つまり「会計時に五千円札を出す人」よりも「一万円札を出してお釣りとして五千円札をもらう人」のほうがずっと多いのだ。

きっと誰しも経験があるだろう。一万円札を出したら「すみません、細かくなってしまうんですけど……」と千円札9枚を返されたことが。
あの状況がしょっちゅう起こっていた。毎日銀行に行って五千円札を用意していたにもかかわらず。





ふつうに考えれば、硬貨と千円札(と二千円札)だけで支払いができない場合、五千円札があれば五千円札を出す。なければ一万円札を出す。したがって財布内の五千円札の数は0枚または1枚で、2枚以上になることはない。

全員がこの方法で支払っていれば、店舗のレジ内にある五千円札の量は短期的には増減するが、長期的にはほぼ一定のはずだ。
だが、ぼくが働いていた書店では五千円札は減る一方だった。

月末はまだわかる。給料日の直後なので、銀行で一万円札をおろしてそれを使う人が多い。だから五千円札がなくなる。
でも、お釣りとして渡した翌月の給料日前になるとかえってくるかというと、そんなことはない。五千円札はいつでも出ていくほうが多い。
5年ほど働いていたが「前日よりも五千円札が増えた」ということは一度もなかった。

「五千円札があるのに使わない客」がいるのか? なんのために? 五百円玉貯金は聞いたことがあるが五千円札貯金は聞いたことがないぞ? 一万円札の札束はあっても五千円札の札束をつくる人がいるとは思えないぞ?
ふしぎだ。


そこで、こんな仮説を考えた。
客単価が5,000~10,000円ぐらいの店を想定する。ちょっといいレストランとか安めの居酒屋だったら客単価はそれぐらいだろう。
ここでは、「お釣りで五千円をもらう客」<「五千円札を出す客」であると推定される。
たとえば会計が7,000円だった場合、「五千円札と千円札2枚」または「一万円札」を出す人が多いからだ。
ひとつは、「一万円札と千円札2枚」を出して五千円札をお釣りとしてもらうのは、少し計算がややこしいから。
もうひとつは、細かいお釣りがほしいから。飲食店なら割り勘にすることもよくある。この場合、「五千円札1枚をお釣りとしてもらう」よりも「お釣りでもらった千円札3枚+財布内にあった千円札2枚」のほうがありがたい。分けやすいから。

この仮説はまちがってないと思う。
つまり、この店では五千円札が増える一方で、減ることはめったにない。

その分のしわよせが書店にまわる。
書店で5,000円を超える買い物をする客はめったにいない。99%が5,000円未満だ。
客は飲食店で五千円札を使っていることが多いので、財布に五千円札がある可能性は50%よりずっと低い。
そこで、一万円札か千円札で支払いをし、書店のレジからは五千円札がなくなっていく。

うん、これはありそうだ。





もうひとつの謎。

書店のレジにある硬貨は、五千円札ほど顕著ではなかったが、徐々に減っていっていた。
この理由はなんとなくわかる。

自動販売機やバスの運賃など、「硬貨は使えるけど紙幣は使えない/使いにくい」状況というものがある。
こうしたところで硬貨を使う分、店頭では紙幣を使うことが多くなる。
また、世の中には小銭は募金箱に入れたり、自宅で小銭貯金をしたりしている人もいる。結果、店舗で流通する硬貨は少しずつ減っていくことになる。

ここまではいい。
だがふしぎなのは、なぜか「五円玉だけはぜったいに増えた」ということだ。
五千円札が前日より必ず減っていたのとは逆に、五円玉は前日より必ず増えていた。
書店においては、五円玉を出す客のほうがお釣りで五円玉をもらう客より多かったのだ。

これは五円玉だけで、一円玉や五十円玉は少しずつ減っていっていた。

謎だ。
書店の五円玉が少しずつ増えていくということは、どこかに五円玉が少しずつ減っていく店もあると思うのだが、それがどういう店なのかも検討がつかない。

この謎はいまだ解けない。
「こういう理由じゃないか」という推理を思いつく人は、ぜひ教えてほしい。



2017年8月1日火曜日

性格分類

【坊や】

おこりんぼ
わすれんぼ
あまえんぼ
あばれんぼう
あわてんぼ
くいしんぼう
けちんぼ
きかんぼう

【店舗】

うっかり屋
しりたがり屋
さびしがり屋
がんばり屋
のんびり屋
しっかり屋
めんどくさがり屋
めだちたがり屋
はずかしがり屋
てれ屋
わからず屋

【動物】

泣き虫
弱虫
一匹狼
天邪鬼
なまけもの