2018年9月28日金曜日

【読書感想文】矢作 俊彦『あ・じゃ・ぱん!』


『あ・じゃ・ぱん!』

矢作 俊彦

内容(e-honより)
昭和天皇崩御の式典が行われている京都の街中で、偶然、テレビカメラに映し出された一人の伝説の老人。「この男からインタヴューを取ってもらいたい」と上司から指示された人物は、新潟の山奥で四十年もゲリラ活動を展開してきた独立農民党党首・田中角栄その人だった。しかし、私の眼は、老人の側に寄り添う美しい女にくぎ付けになっていた。その女こそ…。来日したCNN特派記者が体験する壮烈奇怪な「昭和」の残照。

戦後日本がドイツや朝鮮のようにソ連とアメリカによって東西に分割されていたら……という設定の小説。
西側は「大日本国」として超経済大国になり、東側は「日本人民民主主義共和国」という名の社会主義国家になっているという設定(ちなみに東側の軍隊の名前が「社会主義自衛隊」で、西側からは「日本赤軍」と呼ばれているというのが秀逸)。
じっさい、ポツダム宣言の受諾がもう少し遅れていたらソ連が本土上陸して東西に分けられていた可能性は十分にあった。

村上龍『五分後の世界』も同様の設定の小説だ。
ただし『五分後の世界』はまだ戦争が終わっておらず、日本人同士が殺しあっているシリアスな物語だが、『あ・じゃ・ぱん!』のほうでは争いはほぼ終結しており、東西を隔てる壁(名前は「千里の長城」)によって分割されているものの人々の行き来もそこそこある。
パロディや諷刺などがちりばめられ、物語の展開はおおむね平和的。
読んだ印象としては、東北の寒村が突然日本から独立宣言をするという井上ひさし『吉里吉里人』に近かった。『吉里吉里人』を読んだのはもう二十年以上も前なので細かくはおぼえてないけど。

ひたすら長い小説、という点でも『あ・じゃ・ぱん!』と『吉里吉里人』は似ている。長い割にストーリーがたいして進まないところも。



設定はすごく好きだったんだけど小説としてはひたすら苦痛だった。つまんないとかいう以前に頭に入ってこない……。
行動の目的もないし、次から次へと人物が出てきてはたいした印象を残さないまま消えてゆくし、まるでとりとめのない日記を読んでいるかのよう。

ぼくは本をよく読んでいるほうだと思うが、それでもこの小説はちっとも頭に入ってこなくて読むのがつらかった。よほどのことがないかぎりは最後まで読むことを自分に課しているから、早く終われ、と念じながら読んでいた。

ところどころはおもしろいんだけどさ。
大阪府警が商売に精を出していたり、奈良ディズニーランドがあったり田中角栄率いる新潟だけは東西どちらとも距離を置いていたり。

でも通して読むとやっぱり話についていけない。
すごく時代性の強い小説だからかもしれない。
この本の発表は1997年。天皇崩御の少し後の時代(1990年ぐらい)が舞台だ。

1980年代後半生まれのぼくは、田中角栄も天皇崩御もベルリンの壁もリアルタイムではほとんど知らない。本で読んだので何が起こったのかは知っている。けれどその当時の空気まではわからない。

パロディというのは、知識として持っているだけではおもしろさが伝わらない。
身体感覚として共有するぐらいでないとその味を感じられない。
『ドラゴンボール』を大人になってから一度読んだだけの人と、小学生のときにかめはめ波の修行をするぐらいどっぷり漬かっていた人とでは、ドラゴンボールパロディにふれたときの心の震えも異なるように。

たぶん発表当時はすごくおもしろかった小説だったんだろうとは思うが、発表から20年以上たった今あえて読むほどの小説ではなかったな。


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2018年9月27日木曜日

自分のちょっと下には厳しい


あくまで観測範囲の話でしかないけど……。

生活保護叩きなど貧困層に厳しい人は、貧困層のちょっと上~中流ぐらいの人に多くて、
大金持ちはむしろ最低賃金のアップやベーシックインカム導入など「貧困層に手厚い支援」を提唱している人が多い。

貧しい人が増えれば消費は鈍るし治安も悪化するし良いことなんてないのに、それでも貧困叩きをする人がいなくならないのは
「自分より下の階層がいてほしい」
という願望によるものだ。



ぼくが本屋で働いているとき、1日12時間労働、年間休日80日、年収200万円台というワーキングプアだった。
そんなとき、某芸人の家族が生活保護を不正受給しているというニュースを見て「なんてひどいやつだ! 許せん!」と思っていた。

でも、転職してもうちょっとだけマシな生活をできるようになった今、生活保護をもらっている人に対して寛容になった。
「まあそこそこの生活をできるようになるのはいいことじゃないかな」と思う。
不正受給は良くないけど、そっちを防ぐことよりも支援すべき人に支援の手を届けることのほうが優先事項だろう。多少の不正受給が紛れこむのはまあ仕方ないだろう、と。

月収16万円の人は、生活保護受給者が月15万円をもらっていたら許せないだろう。
でも月収50万円の人はいちいち目くじらを立てない。「まあ15万円ぐらいなら」と思うだろう。

月収1000万円の人なら「みんなに一律15万円配ってもいいんじゃない?」と思うかもしれない(稼いだことないから想像だけど)。
でも「月収800万円以下の人に200万円あげます」だったらやっぱり憤るだろう。
みんな、自分のちょっと下には厳しいのだ。



ぼくは勉強ができた。
中程度の公立高校で、校内トップクラスの成績だった。
これはすごく自信になった。
もし進学校に通っていたら学校内では下位だったかもしれない。そしたら勉強を嫌いになっていたかもしれない。

「鯛の尻尾より鰯の頭」とか「鶏口となるも牛後となるなかれ」なんてことわざがあるが、集団の中で上位にいることはすごく満足感を与えてくれる。


ぼくの旧友に経営者をやっていてそこそこ稼いでいる男がいるが、傍から見ていると「余裕がないなあ」と感じる。
休みなく働いていて、ひっきりなしに電話をかけていて、もっといいビジネスはないかと常にギラギラしている。
人よりずっと稼いでいるのに、まだまだ足りないという顔。
より稼いでいる経営者との付き合いが多いからじゃないかな。



幸せに暮らすコツは、近くを見ないことじゃないかな。

プロサッカー選手が〇〇億円の年俸をもらっているとか大企業の創業者が〇〇億円の資産を持っているとか聞いても、「ふーん、すごいね」と思うだけでべつに悔しくない。自分とあまりにかけ離れた世界の話だからだ。
でも会社の同僚が自分より多くの給料をもらっていたら悔しい。「なんであいつだけ」と思う。「なんでイニエスタだけ」とは思わないのに。

サウジアラビアの王族が贅の限りをつくしたとか中国の昔の皇帝がハーレムを築いていたとか聞いても「すごいなあ」と思うだけで悔しくはない。
でも隣の男が自分よりちょっとモテていたら悔しい。

すぐそばを見ない。遠くだけを見る。
灯台下暗いほうが幸せでいられそうだ。


2018年9月26日水曜日

【読書感想文】人の言葉を信じるな、行動を信じろ/セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』


『誰もが嘘をついている
~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性~』

セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ (著)
酒井 泰介 (訳)

内容(e-honより)
グーグルの元データサイエンティストが、膨大な検索データを分析して米国の隠れた人種差別を暴くのを皮切りに、世界の男女の性的な悩みや願望から、名門校入学の効果、景気と児童虐待の関係まで、豊富な事例で人間と社会の真の姿を明かしていく。ビッグデータとは何なのか、どこにあるのか、それで何ができるのかをわかりやすく解説する一方、データ分析にまつわる罠、乱用の危険や倫理的問題にも触れる。ビッグデータ分析による社会学を「本当の科学」にする一冊!

Googleのデータサイエンティストが、検索データやその他さまざまなビッグデータから人の行動を解き明かしていく。
社会学や心理学といえば、これまではフロイトのように「ほんまかいな。わからんと思ってテキトーに言ってるやろ」的な言説が幅を利かせていた分野だが、数多くのデータが手に入るようになったことで統計的な裏付けのある事実が次々に明らかになるようになった。
この本の中でも書かれているように、ビッグデータを扱えるようになったことで社会学は検証可能な「本当の科学」になるのだ。
意外な事実が数多く紹介されていて、すごくおもしろい。

ただサブタイトルがどうも安っぽいのだけがマイナス点。
『ヤバい経済学』もそうだけど、この手の翻訳書ってどうしてこういうダサいタイトルをつけちゃうのかなあ。



2016年の大統領選挙で、大方の評論家の予想を裏切ってドナルド・トランプがアメリカ大統領選挙に勝利した。
多くの人の予想がはずれたわけだが、Googleの検索結果にはトランプ勝利の兆候は表れていたという。
 2012年、私はこのグーグル検索を通じて得た人種差別地図を使って、オバマが黒人であったことの真の影響を検証した。データは明白に示していた。人種差別的検索の多い地域でのオバマの得票率は、彼の前の民主党大統領選候補者として立ったジョン・ケリーの得票率よりもはるかに低かった。当該地域におけるこの関係は、学歴、年齢、教会活動への参加、銃所有率など他のどんな要因でも説明できなかった。そして高い人種差別的検索率は、他のどの民主党大統領選候補の劣勢ぶりの説明にもならなかった。オバマだけに当てはまることだったのだ。
この傾向は2012年だけの話ではない。

「あなたは有色人種に対して差別意識を持っていますか?」という質問をすれば、ほとんどの人はノーという。
ところが、「人種差別意識を持っていない」と答えた人が、ひとりでパソコンモニターやスマートフォンを前にするときは「Nigger」といった人種差別的な言葉を打ちこむのだ。
トランプ氏が下馬評を覆して勝利したのは、表にはあらわれないが根深く残る人種差別意識も一員だったとGoogleの検索データは教えてくれる。



人はかんたんに嘘をつく。他人に対して見栄を張るのはもちろん、匿名アンケートや無記名投票でも嘘をつく。
 さらに人は時に自分自身に対しても噓をつくという奇妙な習性がある。「たとえば学生として、自分は落ちこぼれであるだなんて認めたくはないものです」
 これが多くの人が自分は平均以上であると考える理由なのかもしれない。その程度たるや甚だしい。ある会社では、技術者の40%が自分はトップ5%以内だと回答し、大学教授の90%が自分は平均以上の仕事をしていると考えている。高校3年生の4分の1は協調性でトップ1%に入ると考えている。自分さえ欺く人々が、どうして世論調査に正直になれるだろうか?
ぼくはマーケティングの仕事をしているが、「マーケティングリサーチなんて嘘っぱち」ということはよく知られている。
「〇〇という商品があったら買いますか?」とアンケートをとったら多くの人が「買う」と答えるが、いざ発売してみたらぜんぜん売れない。こういうことがよくある。
アンケートに答えた人だって嘘をついたつもりはない。「あーいいねー」と思って「買う」と答えるわけだ。
でもじっさいに自分の財布からお金を出す場面になると「やっぱりいいか」となる。

自動車会社の創業者であるヘンリー・フォードの言葉(とされる言葉)に
「もし顧客に彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう」
というものがある。
消費者は、自分がほしいものをよくわかっていないのだ。

リサーチと実際の商売がぜんぜん異なる結果になることなんてごくあたりまえのことだ。

過去の社会学では、アンケートが大きなウェイトが占めていた。
「人々は〇〇と答えた。だから〇〇だ」
そんな血液型占いレベルの信憑性しかなかった調査に、ビッグデータが風穴を開けてくれる。
 ネットフリックスも似た教訓を早期に学んだ。人の言葉を信じるな、行動を信じろ、だ。
 かつて同社のサイトでは、ユーザーが今は時間がないがいずれ見たい映画のリストを登録できた。こうすれば、時間ができたときにリマインド通知してやれるからだ。
 だがデータは意外だった。ユーザーは山ほどこのリストを登録したのに、後日それをリマインドしてもクリック率がほとんど上がらなかったのだ。
 ユーザーに数日後に見たい映画を登録させると、第二次世界大戦時の白黒の記録映画や堅い内容の外国映画など高尚で向学心あふれる映画がリスト入りする。だが数日後に彼らが実際に見たがるのは、ふだん通り、卑近なコメディや恋愛映画などである。人は常に自分に噓をついているのだ。
 この乖離に気づいたネットフリックスは見たい映画登録をやめ、似たような好みのユーザーが実際に見た映画に基づいた推奨モデルを作り出した。ユーザーに、彼らが好きと称する映画ではなく、データから彼らが見たがりそうな映画を提案するようにしたのだ。その結果、サイトへのアクセス数も視聴映画数も伸びた。ネットフリックスのデータサイエンティストだったサビエ・アマトリエインは、「アルゴリズムは本人よりもよくその人をわかっているんだ」と語った。
そうそう、わかる。
ぼくのAmazonお気に入りリストにも、小難しい本が並んでいる。「これは今読む気がしないけどいつか読んどいたほうがいい」とウィッシュリストに放りこむ。
でもいざ本を買うときになると「もうちょっと手軽に読めるやつのほうがいいな」「これは時間があってゆっくり読めるときに」と、べつの本を買うことになる。
かくしてぼくのウィッシュリストにある『キリスト教史』『サピエンス全史』 『進化の運命 -孤独な宇宙の必然としての人間-』はずっと買われぬままリストの下のほうに居座りつづける。

「人の言葉を信じるな、行動を信じろ」ってのはいい言葉だね。



ぼくもマーケターの端くれとして、さまざまなデータを活用している。

広告運用をしているのだが、よくクライアントから「こんな広告文がええんちゃうか?」といった提案を受ける。
キャッチコピーは誰でもすぐに作ることができるので(作るだけならね)、素人でも口をはさみやすいのだ。
ぼくは云う。「そうですか、では試してみましょう」
Webのいいところは、かんたんに複数パターンをテストできるところだ。
「見た目の美しさ、信頼性、そして機能性をあわせもつ高級腕時計」と「超クールでイカした高級腕時計。99,800円」のどちらがいいか、頭をひねって考える必要はない。アンケートをとる必要もない。
両方均等に配信すれば、どちらがクリックされたか、どちらが購入につながったのかがすぐにわかるのだ。
素人が五秒で思いついたコピーがいちばん良い成果を出すこともめずらしくない。

少し前なら広告代理店のコピーライターという人種にコピーを作ってもらう必要があった。作ってもらったコピーをありがたく拝受して、それがどれだけ売上につながっているのかもわからぬまま漫然と垂れ流すしかなかった。
そんな不確かなものに高いお金を払っていたのだから、今の時代から見るとなんてばかばかしいお金の使い方をしていたんだろうと呆れるばかりだ。



題材はGoogleの検索データだけではない。
ポルノサイトの意外な検索データ、「大成する競走馬を見つけるにはどうしたらいいか」や「好きなプロ野球チームは生まれた年によって決まる」など、話題は多岐にわたっている。どれもおもしろい。

データ解析の強みだけでなく、「ビッグデータではまだまだ予測できないこと」も書いているのが誠実でいい。

個人的に強い将来性を感じたのは医療の分野。
 結果は驚くべきものだった。当初「腰痛」を調べ、後に「肌の黄ばみ」と検索することはすい臓がんの予兆となるが、単に「腰痛」だけを調べた人の場合はさにあらず。同様に「消化不良」と調べてから「腹痛」を検索した人はすい臓がんになるが、「消化不良」と調べたものの後に「腹痛」と調べていない人はすい臓がんと診断されてはいないようだった。研究者たちは、すい臓がんらしいパターンで検索する人の5%から15%は、ほぼ確実にがんであるようだと突き止めた。あまり高い率ではないと思うかもしれない。だが本当にすい臓がんにかかっていれば、その程度でも、生存率を倍にできると思えば福音には違いない。
たとえば子供の身長と体重をデータベース化して、そこに彼らの持病を加味するだけで小児科分野での一大飛躍だというのだ。こうすれば子供の成長過程を、他の子の成長過程と比較できるようになる。コンピュータ分析によって、似たような成長軌道を示す子供同士を見つけ出し、自動的に警戒信号を発することもできる。身長の伸びが早期に止まってしまうこと――甲状腺機能低下症や脳腫瘍が疑われる――も発見できる。いずれも早期に診断ができれば恩恵は大きい。「子供はおおむね健康なものなので、これらは非常に珍しい症例で、1万人に1人というレベルです。データベース化されていれば、診断を少なくとも1年は早められると思います。請け合いですよ」とコハネは言う。

これはすごい。

1万人に1人というようなめずらしい病気であれば、ベテランの医師でも過去に1人診察したかどうか。人間の目だとどうしたって見落としが起こる。
しかし1万人に1人でも、世界中の子どもの成長履歴をデータベース化すればまとまった量になる。予測精度は人間よりもずっと高くなるだろう。

こういう研究が進めば、医師の仕事はずっと少なくなるだろう。少なくとも診察は機械任せにできそうだ。
発見の制度は上がる、医師の負担は軽減される、やればやるほどデータは溜まって正確になる。いいことだらけだ。

AIが人々の仕事を奪うと言われているが、医師の仕事がなくなって看護師の仕事だけが残る、みたいなことになるかもしれないね。



ビッグデータからさまざまなことがわかるようになって、これから仕事や学習の方法はどんどん変わるだろう。
今までは「なんとなくよさそうだから」「ずっとこうやってきたから」「経験者がおすすめするから」「専門家がこういうから」という理由でやってきたことが、「それじつは意味ないよ」「もっといい方法があるよ」となってしまうのだ。それも、統計的にきちんと裏付けられた形で。

それってすごくいいことだよね。従来のやりかたでやってきた年寄りは困るだろうけど。

ただ気がかりなのは、こうしたデータを誰が持つのかってこと。
人類に広く共有されるのか、それとも数少ない大企業が独占して利益のために使うのか……。

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2018年9月25日火曜日

キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて


コントという表現手法が持つ強みについて。
単純に「短時間に大きな笑いをとる」という点においては、コントというのはあまり強くない。
状況説明に時間がかかるし、芝居の設定が乗っているから登場人物のできることにも制約がある。使える言葉もかぎられる。

「短時間に大きな笑いをとる」という点で考えれば、漫才のほうがずっと向いている。
キングオブコントがテレビ番組としていまいち成功していない理由もそこにあると思う。老若男女いろんな人が観る、途中から観る人もいる、集中して観る人ばかりではない。そういうテレビの特質には、きちんと作りこまれたコントはあまり向いていない。「一分で笑える爆笑ネタ!」みたいなののほうがよほどテレビ向きだ。
(だからキングオブコントはテレビスタジオではなくどこかの劇場で客を入れてやって、それを中継する形のほうがいいと個人的に思う)

ではコントの強みがどこにあるかというと、多様な感情を引き起こすのに向いている点だ。

笑わせるのはもちろん、悲しさ、哀れさ、気まずさ、怖さ、いらだち、とまどい。さまざまな感情を我々はコントの登場人物を通して感じとることができる。
ただ「笑える」だけなら漫才のほうが向いている。
ぼくがコントを観るときは、そこに「感情を揺さぶってくれるもの」があることを期待して鑑賞する。今風の言葉で言うなら「エモさ」があるかどうか、ということになるだろう(おっさんが無理して使ってみたので使い方があってるかどうかはしらない)。




前置きが長くなったが『キングオブコント2018』の感想。
審査についてはいろいろ言いたいこともあるけど、ここではコントの中身だけ。

やさしいズ


会社の待遇に不服をおぼえる男が会社のビルを爆破しようと深夜のオフィスに忍び込むが、清掃のアルバイトが現れ……。

登場人物のコントラストが効いていたり、ストーリーに起伏があるところなど、いいコントだったと思う。アルバイト役が、ちゃんと「工業高校出て清掃バイトしてるやつ」の風貌をしていたのがすごく良かった。
不穏な空気の冒頭から、能天気だけどポジティブなアルバイトとの会話を通して爆破犯が徐々に心を開いていく様は、まさにやさしいコントだった。
ただ残念ながら、爆破犯役の芝居があまりうまくなかった。一生懸命演じている、という感じ。彼がもっと緊張感のある演技をできていたら、その後の展開への落差も大きくなって笑いも増えただろうに。
いきなり「あとは起爆スイッチを押せばビル中にしかけた爆弾が爆発して……」の説明くさい独白から入ったら、緊張感もなにもあったもんじゃないよね。
自然な会話から設定を観客に伝えることができるようになれば、もっと入りこめたんだけどな。


マヂカルラブリー


コンビニで自分の傘を探していたら、傘を盗もうとしていると疑われる……という日常のとるにたらない出来事がひたすらループする、というコント。

タイムループもののパロディ的なコントなのだが、はたしてパロディになっているのか?
タイムループものの作品は多いが、乾くるみ『リピート』も北村薫『ターン』もアニメ『時をかける少女』も映画『サマータイムマシンブルース』も、わりとどうでもいい日常、しょうもない理由でループしてるんだよね。
「こんなとこじゃなくない?」といわれても、「いや、"こんなとこ"をおもしろく見せるのが腕の見せ所なんじゃないの?」と思ってしまう。

ただし途中から「おじさんもループしている」ことが明らかになって話がどんどん転がっていくあたりはおもしろかった。
「信じたくなくて逆に強くあたってしまった」という妙に説得力のあるセリフや、「この世界はおじさんの夢の中」という不気味さがすごく好き。
タイムループに巻きこまれる怖さを上回る、「あぶないおじさん」の怖さ。ここをもっと前面に出してほしかったな。


ハナコ


犬を演じる、という以外に説明のしようのないコント。

このトリオのコントは以前にも何本か観たことがあったが、これはその中でもとびぬけてつまらなかった。キングオブコント史上もっともおもしろみのないコントのといってもいいぐらい。

ぼくも犬を飼っていたので「あー、あるある」とは思ったが、ただそれだけ。
犬の感情を描くといううっすらとしたユーモアがひたすら続く。NHKの「LIFE!」でやっててもおかしくないぐらい平和なコント(悪い意味で)。
三人目が登場したところで新たな展開があるのかと思いきや、何も起きない。最後に意外な事実が明らかになるのかと思いきや、やはり何にも起きない。
とうとう最後まで「うちの犬もこうだったわ。なつかしい」以外の感情を動かされることはなかった。
これだったら昔セコムがやってたおじさんが犬を演じるCMのほうがずっとおもしろかった。


さらば青春の光


予備校の生徒に対して、熱い言葉で勉強の大切さを説く講師風の男。ところが彼は授業をせず、説教だけをすると他の講師にバトンタッチして教室から出ていく。どうやら「鼓舞する人」という名目で雇われているらしく……。

「感情を揺さぶってくれるもの」という点で、今大会もっとも好きなコントだった。悲哀や憐憫、プライドが折れる様などを短時間でしっかりと表現していた。テレビ審査では明るくハッピーなストーリーが好まれるようだが、劇場でやったらこれが一番になっていたんじゃないかな。

とはいえこの底意地の悪い着眼点のコントが決勝に行けなかった理由は会場の空気にあわなかっただけではない。無駄な演出が多かった。
まず冒頭で講師風の男が生徒に説教をかましているシーン。あの現場に本物の講師がいないほうが良かった。二人いることに違和感があったから、あれでぼくは「こっちが本物の講師かな」と思ってしまった。そのせいで「では先生、お願いします」の衝撃が小さくなってしまった。

また説明過剰だった点も後半勢いづかなかった理由だろう。本物の講師が「あの人は鼓舞する人や」という台詞はまったくの無駄だった。あの説明がなくても観客にはだいたいわかる。
講師が「鼓舞する人」を見下してることもはっきり口に出さずに伝えてほしかった。言葉に出さずに感じさせるのが芝居だし、それができる演技力を持っているコンビなのだから。
チョコレートプラネットの一本目やハナコの二本目は、説明をばっさりと省いて成功した。
さらば青春の光も、もっと観客の想像力に委ねる大胆さがあればパーフェクトなコントになっただろうと思うと残念でならない。


だーりんず


居酒屋で会社の後輩と出会った先輩が、こっそり後輩の分の勘定を済ませてやろうとする。ところが店員に意図がうまく伝わらず、思っていたようにスマートに感情をすることができない……。

ネタは良かった。ありそうなシチュエーション、誰もが持っている些細な見栄、慣れない人がかっこつけようとした結果かっこ悪くなってしまうというコミカルさ。
派手な動きはないが、繊細な心の動きが丁寧に描かれていて、もっと見たいと思わせてくれた。
ただ緊張からか、やりとりのぎこちなさが感じられた。ほんの少しなのだが、コントにおいてはそのわずかなぎこちなさが致命的となる。
これを東京03あたりが演じたらめちゃくちゃおもしろいコントになったんだろうなあ。かっこつけたい角田先輩、めんどくさそうにする飯塚店員、空気を読まない豊本後輩とかでカバーしてほしい。


チョコレートプラネット


見知らぬ部屋で目を覚ました男。首には不気味な装置がつながれ、モニター画面では覆面男が「今からゲームをしてもらう……」という説明をはじめる。ところがつながれた男はパニックになってしまい、ゲームの説明をまったく聞こうとしない……。

前半部分は以前にも見たことがあった。しかしあれがおもしろいのは二分ぐらいまでだろうと思っていたら、謎のにおい、謎の装置、仕掛人登場、新たな仕掛人の存在と新たな展開を見せてちゃんと長尺に耐えられるネタに仕上がっていた。
いやあ、おもしろかった。『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム風の冒頭から、ひたすら叫びつづけるばかばかしい展開へ。「においは知らない!」は笑った。
恐怖の象徴のような覆面男がだんだんかわいそうになってくるのがいい。

じっさいにデス・ゲームをしようとしたらこういうことになるかもしれないと思わせてくれるリアリティがあった。フィクションではみんなおとなしくルールを聞いて、ルールにしたがってゲームを始めるけど、現実にはなかなかゲームが進まないんじゃないかな。

欠点を挙げるとすれば、覆面男の声が聞き取りづらかったこと。
あと覆面男の名字が「鈴木」というのはいただけない。名字がベタすぎておもしろくない。「橋本」とか「川谷」とか「石原」ぐらいの名字にしたほうがいいと思う。そこそこメジャーで、四文字の名字のほうがいいな。「群馬!」のところも「前橋!」とか「大宮!」ぐらいのほうがおもしろかったような。
とはいえ、ストーリーが動きながらも前半から最後までずっと笑いが起きつづける展開で、文句なしの一位。


GAG


同級生が居酒屋でアルバイトをしていることに驚く、進学校の生徒。大人のお姉さんの性的魅力に翻弄される少年たち……。

いつの間にかGAG少年楽団から改名してたんだね。「GAG」と「少年楽団」のうち、ダサい方を残しちゃったなあ。
そういや今大会の出場者、名前ダサすぎじゃない? だーりんずもマヂカルラブリーもわらふぢなるおもやさしいズもさらば青春の光もダサい。わざとダサさを狙ったのかもしれないけど、これだけ並ぶと一周半してやはりダサい。まあ名前のダサさではバイきんぐの右に出るものはいないけど。

ボケらしいボケもなく、ふたりの関係性に対するツッコミの視点のみで笑いを取りにいくという姿勢は評価したい。トリオならではだね。
ただしツッコミ役は芝居の中にいながらメタな視点での台詞を入れることになるため、芝居としてのリアリティは完全に壊れてしまう。
まあそれはそれでありだけど、フレーズのひとつひとつが丁寧すぎて、一生懸命考えたなというのが伝わってしまう。舞台裏が見えてしまうのは芝居としてマイナスにしかならない。ぼくたちの努力の結晶です、笑ってくださいと言われても笑えないよね。

とはいえGAG史上最高に良かった。
男子高校生の青くささがびんびんと伝わってきて、村上龍の名作『69』のような味わいがあった。


わらふぢなるお


新しく入ったコンビニのバイトと店長がレジに立つ。ただしバイトにはわかりきったことをいちいち訊く「カラ質問」が多く、店長は次第にいらついてくる……。

人をいらつかせるキャラクター、よく練られた会話、おもしろかった。おもしろかったけど……。
芝居として見るといろいろとものたりない。動きがないこともあるし、「このシーンに至る前」の作りこみが甘いことにも不満がある。
「レジの業務をひととおり教えた後」という設定だが、レジの業務を教えている間はカラ質問をしなかったのだろうか? 説明を終えた途端にカラ質問をするようになったのだろうか? だとしたらなぜ?

人生の一部を切り取ったコントではなく、コントのための人生を送っているキャラクターなんだよね。昨年のネタもそうだったし、二本目に演じたネタはもっとひどかった。このコンビのコントは「芸人のコント」なんだよなあ。ぼくは笑える「芝居」が観たい。


ロビンフット


結婚することになった中年男性とその父親。ところが男性は、妻となる女性の年齢を知らないという。わかっているのは干支だけ。たぶん三十六歳だと男は言うが、よくよく話を聞いてみると……。

「年齢がわからず戌年ということだけわかっている」という設定であればこうなるだろうな、という予想通りに話は展開していくが、そのシンプルさがむしろ心地いい。
とはいえこういうコンテストで観たいのは新しい切り口なので、ベテランがベテランっぽいネタをやってもそりゃあ優勝はできないよね。
どんどん年齢が上がってくるのはおもしろいが、そうなると序盤で語っていた「26の子どもがいる」「50ぐらいに見える」という設定が少し苦しくなってくる。その苦しさを強引に押しきるほどのパワーはなかったな。


ザ・ギース


物に触れるだけでそれを使っていた人物の思念を読みとることのできるサイコメトラーの少年。殺人事件の捜査のために遺留品に触れるが、見えてくるのは製造工程ばかり……。

シュールな発想の一点突破ネタで、さすがに五分はきつい。中だるみ感は否めなかった。
終盤の「身近にいる捜査協力者だと思ってた人が犯人」という展開もわりとよくあるやつで、そこまでの意外性はなかった。
さすがはメイドインジャパン、中国製はイマイチ、といった台詞も今の時代にあってなくて笑いにつながらず。

ところで、マヂカルラブリー、チョコレートプラネットといい、ずいぶんSF・サスペンス的なネタが多い。そこまでド定番なネタではないと思うのだが、SFに明るくない人はすっと設定に入れるのだろうか?


決勝戦


うーん、どれも感想を書きたいネタではなかったので省略。



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キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


2018年9月23日日曜日

横で人が怒られてるときの居心地の悪さ


歯医者がすごく感じの悪い人だった。

患者であるぼくに対してはにこやかに接するんだけど、歯科助手に対する当たりがとにかくきつい。

「〇〇出しとけって言っただろうが」
「はぁ? なんで□□だと思うんだよ。チッ」
みたいな感じ。
歯科助手に対してずっとイライラしている。
歯科助手がふたりいてどっちにも当たりがきついから、歯科助手がとりたてて愚鈍というわけではなく、歯科医師側に問題があるのだと思う。


歯科助手へのあたりはきついのに患者であるぼくには「大丈夫ですか~。痛くないですか~」みたいな柔和なしゃべりかたをしてくる。うわこわいこわい。余計にこわい。

全方位的に不愛想なのもイヤだけど、まだマシだ。
自分だけ優しくされたら
「患者に無理して優しくした分のストレスのはけ口が歯科助手に向かってるのだろうか」
と、こっちまで罪悪感をおぼえる。
すまない歯科助手よ、ぼくが来てしまったせいで。だってかんたんに予約とれたんだもん。そりゃ患者寄りつかんわ。



横で人が怒られてるときの居心地の悪さについて。

『孤独のグルメ』という漫画に
「主人公が入った飲食店で、店主が年寄りの従業員を激しくののしっているのを見てげんなりする」
というエピソードがあった。
あの気持ち、よくわかる。

自分が怒られるのも嫌だが、自分と無関係の人が無関係のことで怒られているのはもっと嫌だ。
ぼくは子どもの頃から親や教師に怒られつづける人生を送ってきたので自分が怒られても蛙の面に小便だが(一応反省しているフリだけはする)、それでも他人が説教されているのはつらい。

ヤンキー風の親が自分の子に「うるせえから泣くなっつってんだろ、ボケ!」なんて言ってるのを聞いたときは、自分が怒られたとき以上に胸がいっぱいになる。



わざわざ部外者の前で叱りたおす人は、どういう気持ちでやっているのだろうか。
仮説を立ててみた。

1.相手のプライドをへし折るため

こっそり注意されるよりも人前で口汚く罵られたほうが当然ダメージは大きい。
だから相手を育成するためにプライドをへし折ってやろうと思い、わざと衆人環視のもとで罵倒しようと考えているのかもしれない。
修復できないぐらい信頼関係が傷つくから、育成には逆効果だろうけど。

2.周囲へのアピール

信じがたいことだが、
店だったら「うちはちゃんと従業員教育に力を入れているんですよ」
親だったら「わたしはちゃんと公共の場で子どもを厳しくしつける親ですよ」
というアピールのため、つまりはサービス精神の発露なのかもしれない。
当然ながら逆効果にしかならないわけだが(サービス業なら「感じの悪い店」、親なら「児童相談所案件予備軍」と思われるだけ)本人は「うちはちゃんとやってますよ!」というアピールのつもりなのかもしれない。

3.何も考えてない

これがいちばんありそうだね。
二歳児のように感情をうまくコントロールできないだけ。


2018年9月22日土曜日

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか


五歳の娘は「死ぬ」のことを「死む」と言う。
知人の子ども(六歳)も、やはり「死む」と言っていた。

おや、同じ間違いだ。
と思って調べてみたら、これは幼児によくある間違いらしい。

間違いやすい原因のひとつは、
「死ぬ」が変則的な活用をすることだ。

「死ぬ」はナ行五段活用をする動詞だ。
ナ行五段活用をする動詞は「死ぬ」と「往ぬ」しかない。「往ぬ」は絶滅寸前なので(関西のおじいちゃんとかは使ったりするけど)、「死ぬ」はほぼ唯一無二のナ行五段活用動詞なのだ。

一方、マ行五段活用の動詞は多い。
「噛む」「飲む」「頼む」「せがむ」「しゃがむ」など。
また、「染む」「惜しむ」「軋(きし)む」「楽しむ」「怪しむ」「訝(いぶか)しむ」など、「-しむ」を含む動詞も多い。

そこで圧倒的多数であるマ行五段活用チームに釣られて、「死んだ」の終止形を「死む」だと思ってしまうわけだ。
「"噛んだ"は"噛む"、"飲んだ"は"飲む"、じゃあ"死んだ"は"死む"だろう」と推測するんだね。



また、多くの親は幼児に対して「死ぬ」にまつわる話題を積極的には口にしない。

幼児に対して
「さあ死のう」(未然形)とか
「死ぬときは一緒だよ」(連体形)とか
「死ねばいいのに」(仮定形)とか
「死ね」(命令形)とか
の活用形は、(ふつうの家庭)ではあまり使わない。

「そんなの食べたら死んじゃうよ」とか「この虫死んでるね」のような使い方が多い。
「死んじゃう」「死んで」は連用形で撥音便化している(「死にて」→「死んで」になる)ため、元の形が分かりにくい。

このことも「死む」を発生させる要因になっているのかもしれない。



ちなみにうちの娘は、「居る(いる)」の否定形を「いらない」という。
これもよく考えたら納得のいく間違いだ。

同じ「いる」という音でも「要る」は五段活用、「居る」は上一段活用なのでごっちゃになってしまうのだろう。
(ちなみに「入る」「煎る」は五段活用、鋳る「射る」「鋳る」は上一段活用だ。ぼくらは無意識に使い分けてるけど、改めて考えるとややこしい)

だからこないだ電話で祖母から「おとうさんはいますか?」と訊かれた娘が「いりません!」と答えてしまったのだ。
決しておとうさんが嫌われているからではないのだ。


2018年9月21日金曜日

娘語


五歳の娘語。

「えんとつ」は屋根のこと

「はっぱ」は野菜のこと、または植物全般のこと

「ちいさいおふとん」は枕のこと

カラスやウグイスも「はと」

りんごの芯も魚のしっぽも「かわ」

口にあわないものはすべて「からい」

飲食店のメニューは「りょうりのかみ」

力士が履くまわしは「パンツ」
まわしについてるヒモ(さがり)は「パンツのりぼん」

最上級の悪口は「ばばあ」(相手が父親であっても)

言わんとすることはわかる。

2018年9月20日木曜日

片付けの非合理性


一番きらいなのが「片付け」。家事の中で。

畳んだ服をたんすに入れる、使ったボールペンをペン立てに刺す、乾いた食器を食器棚にしまう。
イヤだ。すごく苦手だ。できることなら一生やりたくない。ごみ屋敷の住人の気持ちがよくわかる。

何がイヤって「また使うのに」片付けないといけないのがイヤだ。
服をたんすに入れたって数日したら出してきて着る。食器棚にしまった皿もすぐまた出してきて使う。
だったら出したままにしとけばいいじゃない。

めったに使わないものなら苦にならない。
喪服を着終わったらちゃんと衣装ケースに入れて吊るしておく。客用ティーカップも使ったら食器棚にしまう。めったに使わないから。

でも一日か二日したらまた使うものは片付けたくない。なんて非合理的なんだろう。

じっさい、ひとり暮らしのときは片付けなかった。
包丁もどんぶりもコップもタオルも出しっぱなしだった。洗いはするが、すぐ使えるところに置いておく。だってまたすぐ使うもの。

でも家族と暮らしているとそうもいかない。つづきを読む本や今晩使うコップや気が向いたときに回したいハンドスピナーであっても、片付けることを求められる。
合理的に生きたいというぼくの崇高な願いは、きれいな部屋で暮らしたいという妻の俗世間的な願いの前に一掃されてしまう。

いいじゃない、片付けなくたって。どうせまた使うんだし。どうせいつか朽ちるんだし。どうせみんな死ぬんだし。

2018年9月19日水曜日

【読書感想文】ここに描かれていることが現実になる/青木 俊『潔白』


『潔白』

青木 俊

内容(e-honより)
札幌地検に激震が走った。30年前に小樽で発生した母娘惨殺事件に前代未聞の再審請求が起こされたのである。すでに執行済みの死刑が、もし誤判だったら、国家は無実の人間を殺めたことになってしまう。「何としても握り潰せ!」担当に指名されたのは、曰く付きの検事。司法の威信を賭けた攻防の行方は…。

再審請求がされたのは死刑判決が出た事件、しかもよりによって刑は執行済み。はたして新たな証拠とは、そして裁判所は誤りを認めるのか……。
というショッキングなストーリーの小説。ショッキングだが決して荒唐無稽な物語ではない。

現実に検察や裁判制度は完璧なものではない。にもかかわらず死刑という「とりかえしのつかない」制度を導入している時点で、近い将来こういうことは起こる。
もしかしたらもう起こっているのかもしれない。これまでに死刑執行された中には、冤罪を主張していた人もいた。後から見れば不確かな証拠で有罪にされた人もいた。
彼らが無罪だった可能性は否定できない。

たいていの人は、「死刑判決なんてよほど確かな証拠がないかぎりは下されない」と思っている。ぼくもそう思っていた。極悪非道で反省しないやつは死刑にするしかないよね、と。
でも清水潔氏の『殺人犯はそこにいる』や瀬木比呂志氏・清水潔氏の『裁判所の正体』を読んで、明確な証拠がなくても起訴されることもあるし、怪しい証拠と強要された自白だけで死刑判決が下されることもありうるのだと知った。自分が冤罪に巻きこまれる可能性もないとはいえないのだと。

無実の罪を着せられて死刑にされるかもしれない、真実を述べているのに誰にも信用してもらえない、その恐怖と絶望を『潔白』は描いている。
今の制度のままだと、近い将来ここに描かれていることが現実に起こるだろう。そのとき死刑を言い渡されるのは無実のあなたかもしれない。

そして無実の人を死刑にしたと判明したとき、検察や裁判所が過ちを認めるかというと……。残念ながら意地でも認めようとしないだろう。
「99%こいつが犯人だから死刑!」という判決を下した裁判所は、「99%その判決は誤りだった」ということが明らかになったとしても頑として過去の誤審を認めようとしないにちがいない。
真実よりも人の命よりも組織を守ることを優先するだろう。




司法制度の穴を指摘したという点ではたいへん意義のある小説だが、残念ながら小説としてはあまりうまくない。
文章はヘンだし(「~です」と「~だ」が混在するのは校正が指摘しなかったのか?)、ストーリーは都合が良すぎる。みんな初対面の人間にデリケートな話をべらべらしゃべりすぎだ。真犯人が明らかになるあたりは安いドラマを観ているようだった。せっかくリアリティを持たせて作りあげてきた物語があれでいっぺんに嘘っぽくなってしまった。
中盤で判決の行方が二転三転するあたりは非常におもしろかったけどね。

残念ながら、参考文献として挙げている『殺人犯はそこにいる』のほうが、ノンフィクションとしても、物語としてもずっと上だった。まああの本に勝てる小説はめったにないだろうけど。

題材がすごくよかったんだから、変にどんでん返しを入れてミステリとしての味付けをしなくても十分読みごたえのある話になったと思うんだけどなあ。


【関連記事】

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】



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2018年9月18日火曜日

黒門市場


黒門市場に行ってきた。

先日の台風で関西国際空港が使えなくなった影響などにより、外国人観光客が激減しているという。
それは困っているだろうから助けてやらねばという義侠心半分、今なら混雑していないから狙い目という気持ち半分で黒門市場を訪れた。
自宅からは電車で十五分ほどだが一度も来たことはなかった。


日本橋(大阪のは「にっぽんばし」と読む)の駅を降りると保育園の広告が目に留まった。


なんだろう、この漫画喫茶感……。
色使い、フォント、まず第一に「駅からの距離」をもってくるところなど、すべてが漫画喫茶っぽい。
「五歳児ですね。ナイトパックでよろしいでしょうか。託児スペースはフラットタイプとリクライニングタイプをお選びいただけます」
なんて訊かれそうだ。



ここは外国人向け観光地だということがよくわかる。
三つの言語で「いらっしゃいませ」と書いているが、日本語では書いてくれていない。


マツモトキヨシも漢字。
漢字で書くと八百屋っぽい感じになって、商店街の雰囲気によく合う。
人が少ないなあと思ったけど、ここはメインの通りではなかった。


こっちがメイン。
なんだよ、にぎわってるじゃないか。外国人観光客も多い。
大阪だけど神戸牛の店がある。

こういう「ザ★観光客向け」の店と、地元の人向けの店が混在しているのがおもしろい。


こういう鮮魚とかは観光客にはあまり売れないだろうね。
漁港の近くじゃないからそこまで新鮮なわけでもないだろうし。


トロづくしの寿司。これはテレビで観たことある。
これだけのお金をとるんならもうちょっと容器を選んでほしいなあ。スーパーの五百円寿司のパッケージだもんなあ。


大阪人のほとんどが知らない謎の大阪名物、大坂巻。
そういや、大阪出身の友人が長野県のお祭りに行ったら「大阪焼き」という得体の知れない食べ物を売っていたといって怒っていた。「地元離れたらむちゃくちゃしよるな」と。
「大阪焼き」は一銭洋食のようなものだったらしい(「一銭洋食」が関西以外の人には伝わりにくいか)。


またまた謎の食べ物、「帝王蟹」。
「帝王蟹」で検索したら中国語のサイトばかりが出てくる。
日本でもここぐらいしかない食べ物なんだから、そりゃ日本一だろう。


神戸牛。高え。
超高級肉を扱う店には不似合いなビールのポスターや電子レンジ。


とんでもない値段のカニ。
小樽や金沢の市場にも行ったことがあるが、この半値以下だったような……。やはり帝王蟹は違う!(これが帝王蟹かどうかは知らん)



じつは黒門市場に行く前に、知人から黒門市場の悪評を聞いていた。

すべてが外国人向けのぼったくり価格になっているので日本人が行っても楽しめない、外国人観光客が来なくなって経営の危機に陥っているのはあこぎな商売をしてきたせいで自業自得だ、と……。

まあだいたい当たっていた。
ひどい値段の商品も多かった。外国人が何もわからないと思ってむちゃくちゃしよるな、という印象も持った。

でも楽しかった。
ぼくは海外の土産物屋を冷やかすのが好きだ。ときにはぼったくられることもあったが、ぼったくられるのも楽しい。「こんなくだらねえものに二十元も出しちゃったよー」なんていうのが旅先での買い物の醍醐味だ。

黒門市場も同じようなものだった。
写真は撮っていないが、一口サイズのパイナップルに割り箸を刺したものが五百円で売られていた。ぜったいに買わないけど、でも外国だったら買ってしまうかもと思わされれる非日常感があった。
バカなものにバカな金を払うのも旅の楽しみのひとつだ。

ま、ぼくが買ったのは柿とぶどうだけだったけど(近所のスーパーより安かった)。
市場では何も食べず、駅前のセルフうどん屋で昼食を済ませたけど。



黒門市場を歩いていて、なんだか居心地の悪さを感じた。
といっても、観光客向けに高すぎる価格で売っているからではない。金儲けに走ることはぜんぜん悪いとは思わない。むしろ楽しい。
むしろ、そうではない店があるからこその心地悪さだった。

市場全体が「よっしゃ、観光客から少しでも高い金をとったるでー!」的な雰囲気に包まれているかというと、そうではない。
さっきも書いたようにスーパーよりも安い値段で果物や魚介類を売っている良心的な店もある。きっと外国人観光客が増える前からここで商売をしている店なんだろう。

「何も知らない客に高い値段で売りつけるなんてまともな商売人のやることやないわ」という店主の声が聞こえてくるようだ。
その美学、かっこいい。

しかし帝王蟹や神戸牛を高額で売る店と、昔ながらのお客さんを大事にしている店はまちがいなくソリがあわないだろう。
どちらが正しいわけでもない。だからこそそのひずみは決して埋まることはない。

「汚い商売しよってからに。おかげで古くからのお客さんが遠ざかってしもたやないか。そんなやりかたがうまくいくのは今だけやで。商売人はお客さんを儲けさせてなんぼや」
という声と
「せっかく儲けるチャンスやのに昔のビジネスモデルをまだ引きずっとる。見てみい、ぜんぜん客が入ってへんやないか。商売がへたなやつやで」
という声の両方が聞こえてくるようだ。
ギクシャクギクシャク、という音まではっきりと聞こえてくる。
この場にいることがいたたまれない。

ぼくは心の中で喧嘩の仲裁に入る。
「まあまあまあ。値段は高くても、市場が活気づくのはいいことじゃありませんか。それにこうして良心的な価格でやってこられているお店があるからこそ地元の人もやってくるわけですし。高い店と安い店、両方のお店があるから黒門市場はおもしろいんですよ」

すると店主たちは言う。
「うっさい、何が地元の人もやってくるじゃ。おまえなんか大阪に住んどるくせに今までいっぺんも来たことなかったやないか」
「来たと思ったら柿とぶどうで五百円しか使ってへんやないか、そんなもん買うために電車賃使ってくな!」

ご、ごめんなさい……。


2018年9月17日月曜日

子は百薬の長


子どものとき、父や母はほとんど風邪をひかなかった。
父が病気で会社を休むことなど、数年に一回ぐらいのめずらしいことだった。

大人って風邪ひかないのかーと思っていたけど、自分が大人になってみるとすごく風邪をひく。毎年ひく。

だがここ数年、風邪をひく頻度が減った。ひかない年もある。ひいても長引かない。

子どもができたことも風邪をひかなくなった原因のひとつかもしれないと思いいたった。

子どもが朝ぐずぐずしたとしても遅刻しないように余裕を持って早起きするし、子どもを寝かしつけるついでに自分も早く寝るし、子どもが遊びたがるから外に出て運動をするし、子どもに栄養をとらせるために三食ちゃんとしたものを食べさせるようにするし、「外から帰ったら手を洗ってうがいしなさい」と言うために自分も一緒にやるし、自然と「規則正しい健康的な生活」をするようになった。

自分の体調が悪くても少々無理して仕事に行くことはできるが、子どもが熱を出したらそうはいかない。なぜなら熱があったら保育園では預かってくれないから。
子どもに風邪をひかれたらすべての予定が狂う。だから子どもの体調管理には自分の十倍気をつかう。結果、自分も健康になる。
自己管理できない生き物の健康を管理することが自己管理にもつながるのだ。

子は百薬の長。


2018年9月16日日曜日

後先考えずにC難度


テレビで体操競技を眺めていたら「I難度の技を披露!」と言っていた。

ああ、もう。ほらあ、後先考えずに決めるから。

初期の頃に「これはかんたんだからA難度ね、これはめちゃくちゃ難しいからC難度と呼ぶことにしよう」みたいな決め方をしたんだろう。
その後体操競技のレベルがどんどん上がって、今ではH難度とかI難度の技が生まれてしまった。
もうよくわかんない。ABCぐらいだったら直感的にわかるけど、G難度とかI難度とか言われても、とっさにどっちのほうが上なのかわかんない。おっぱいだったらGもIも爆乳だな、としか思わない。
もはやA難度やB難度なんか体操選手からしたら準備運動にもならないレベルだろう。それで「難度」を名乗るのはおこがましい。


後のことを考えない命名は世にあふれている。

でかいペンギンがいたから「オウサマペンギン」と名付けたら後にもっとでかいやつが見つかったから「コウテイペンギン」にしたとか(ちなみに絶滅種にはコウテイペンギンより大きい「ジャイアントペンギン」というのがいる)。

恐竜の名前も、スーパーサウルス(「でかいトカゲ」の意)とかメガロサウルス(「巨大なトカゲ」の意)とかギガノトサウルス(「巨大な南のトカゲ」)とか、そのときの印象で名付けすぎだ。あとウルトラサウロス(「すげえトカゲ」)ってのもいたけど後の調査でスーパーサウルスと同じ種類だったことがわかったとか。で、結局どれがいちばんでかいのよ。
恐竜なんかほぼ全部でかいんだから「巨大な」とか形容しなくていいんだよ。

「新幹線」やその駅である「新横浜」「新大阪」も後のことを考えていない。
「新」なんてつけちゃうから、リニアモーターカーをつくるときに困ってしまう。
次はどうするんだ? 新新大阪か? 最新大阪か?

気を付けろよ、記録はいつか塗り替えられるし新しいものは古くなるんだぞ!

先のことを考えない人のパソコンには
「2018年提案資料ver3.2(最新) _確定版- コピー (2)」
みたいなファイルが転がっている。
新幹線の新大阪駅もこの感じでいくと、26世紀ぐらいには「ニュー次世代ネオ新新幹線最新北新新大阪駅Ⅱ」なんてことになってるぞ!

2018年9月15日土曜日

子どもの喧嘩から学ぶこと


五歳の娘の友だち、Nちゃん。
保育園の組が同じで近所に住んでいる。しょっちゅう一緒に遊んでいる。
仲の良い友だちがいるのはええこっちゃ、と親としては思う。

だが娘とNちゃんは会うたびに喧嘩をしている。
おもちゃの取りあいだったり「かくれんぼにするかおにごっこにするか」だったり、とにかく頻繁に意見が衝突している。
女の子同士なので手を出すことこそないがどちらかが泣きわめくことはしょっちゅうだ。
「イヤだ!」「〇〇が先に使ってた!」「それやりたくない!」「ごめんって言って!」

そんなに喧嘩するんだったらもう遊ばなきゃいいのにと思うけれど、激しく喧嘩をした日の午後にはもう「Nちゃんと遊びたい」と言っている。


子どもは喧嘩上手だ。
大人はめったに喧嘩をしないけど、喧嘩をしたときは長く引きずる。激しく意見を衝突させた相手に、その日のうちに「遊びにいこうぜ!」なんて言えない。
一生絶縁するかも、ぐらいの覚悟がないと喧嘩ができない。

その点子どもは喧嘩をしても、謝るわけでもなく菓子折りを持っていくわけでもないのに気づいたら仲直りしている。
余計なプライドがないのだろう。たいしたものだ。


もうひとつ、娘たちの喧嘩を見ていて気づいたことがある。
意見の衝突はあるが、人格を否定したり、別件を持ちだしたりしない、ということだ。
「そっちに行きたくない!」ということはあっても、「〇〇ちゃんのバカ!」とか「そんなの選ぶなんて〇〇ちゃんはおかしい」なんてことは口にしない。
また「こないだ公園でもめたときもわがまま言ってたじゃない!」みたいな過去のことを持ちだしてきたりもしない。いつも今のことで喧嘩している。

夫婦喧嘩でもそうだが「だいたいあなたはいつも……」「三年前の旅行のときだってあなたは……」「あなたのような××な人にはわからないだろうけど……」みたいな論調になると話はこじれる一方だ。
今のこととこれからのことだけ話していれば、たいがいの問題は収束してゆく。

・後々まで引きずらない
・人格を否定しない
・別件や過去の出来事を持ちださない

子どもたちの喧嘩には、見ならわなくてはならないことがたくさんある。


2018年9月14日金曜日

【読書感想文】「絶対に負けられない戦い」が大失敗を招く/『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』


『失敗の本質
日本軍の組織論的研究』

戸部 良一 / 寺本 義也 / 鎌田 伸一
/ 杉之尾 孝生 / 村井 友秀 / 野中 郁次郎

内容(e-honより)
大東亜戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、 これを現代の組織一般にとっての教訓あるいは反面教師として活用することを ねらいとした本書は、学際的な協同作業による、戦史の初の社会学的分析である。

太平洋戦争(本書の中では「大東亜戦争」と表現されている)で日本が惨敗に至った理由を探るため、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦という六つの作戦の背後にどのような失敗があったのかを分析し、そこから日本軍、ひいては日本社会が抱える「失敗の本質」を見いだそうとする本。

著者たちも「こうすれば日本はアメリカに勝てた」と考えているわけではない。
ただ、もっとうまく負けることはできた、もっと犠牲を少なくできた、もうちょっとマシな講和条約を引きだせた可能性は十分にあったと指摘している。

じっさい、日本がアメリカに勝てた可能性は一パーセントもなかっただろう。
どんな作戦をとっていたとしても、部分的に勝利することはあっても最後には敗北を喫していただろう。
だが「もっといい戦い方があったのでは」と研究することはたいへん意味のあることだ。
敗戦分析は、軍事にかぎらず、ビジネスや教育や政治などあらゆる局面で「何が失敗を引き起こすのか」を教えてくれる。

しかし我々は敗戦分析が好きじゃない。日本人の特質なのか、人間共通の性質なのかはわからないが、失敗からは目を背けたがる。

サッカーワールドカップなんかでも、試合前はああだこうだと様々な分析がおこなわれるのに、敗退が決まったら潮が引くように報じられなくなる。勝ったら「〇〇が活躍した」「この采配が当たった!」と喧伝するのに、負けたときは何も言わない。
「負けたのは誰のせいでもない」と責任の所在を明らかにしない。
「私が悪かった」という人間はいても「じゃあどこをどうしていたら良かったのか」と追及する人間はいない。
負けた人たちを誰も責めない。
それどころか「負けたけどよくがんばった。胸を張って帰ってこい!」と、逆に褒めたりする。
敗戦から学ぼうとする人の姿はどこにもない。

「絶対に負けられない戦いがある」ということは、裏を返せば「負けたらその戦いはもうなかったことになる」である。



日本が惨敗した原因はいろいろあるが、あえてひとつ挙げるなら「負けから何も学ばなかった」ことに尽きる。

ノモンハン事件は日本にとってはじめての近代戦、ミッドウェー作戦は不運にも見舞われた戦いだった。ここで負けたのはある程度しかたがない。
しかし日本軍はそこから何も学ばなかった。

生き残った者を卑怯者とみなしたため、敗戦の経験を持つ指揮官は左遷されたり、自殺したりした。
敗者の貴重な体験がその後に活かされなかった。

どんな強い軍隊でも全戦全勝というわけにはいかない。世界最強のアメリカ軍がベトナムゲリラに敗れたりする。だからこそ「負ける可能性を低くする」ことは重要だ。それは「絶対に負けない」とはまったく違う。

日本軍は「必勝の信念」を持って戦略を決めていた。作戦不成功のことを考えるのは士気に悪影響を及ぼすと考え、失敗のことは考えないようにしていた。これでは勝てるわけがない。
失敗することを考えない組織は大失敗する。



日本軍の不運は、はじめはうまくいったことにあるのかもしれない。
日清、日露戦争で大国を破った。パールハーバーの奇襲作戦も成功した。開戦直後は連戦連勝だった。
これが「負けから学ぶ」機会を奪ったのかもしれない。
 いずれにせよ、帝国陸海軍は戦略、資源、組織特性、成果の一貫性を通じて、それぞれの戦略原型を強化したという点では、徹底した組織学習を行なったといえるだろう。しかしながら、組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面があることを忘れてはならない。その場合の基本は、組織として既存の知識を捨てる学習棄却(unlearning)、つまり自己否定的学習ができるかどうかということなのである。
 そういう点では、帝国陸海軍は既存の知識を強化しすぎて、学習棄却に失敗したといえるだろう。帝国陸軍は、ガダルカナル戦以降火力重視の必要性を認めながらも、最終的には銃剣突撃主義による白兵戦術から脱却できなかったし、帝国海軍もミッドウェーの敗戦以降空母の増強を図ったが、大艦巨砲主義を具現した「大和」、「武蔵」の四六センチ砲の威力が必ず発揮されるときが来ると、最後まで信じていたのである。
成功体験が大きいほど、負けを認めるのは難しい。

「負けられない」は「負けを認められない」である。
誰もがもうだめだとうすうす気づいている作戦から、いつまでも撤退できなくなる。

戦後もその意識は変わっていない。ほとんどの組織は負け戦がへただ。

国民年金はいい制度だったが、もう破綻することが避けられない。
日本はものづくりで戦後の復興を果たしたが、いいものを作れば売れる時代は終わった。
自動車産業も電機メーカーも大手銀行も繁栄したが、ビジネス形態自体が時代遅れになりつつある。
書店は文化や教育の水準を向上させることに貢献したがもう売れない。
家を買えば将来の安心につながったが今や不安材料のほうが大きい。

みんな気づいている。だけど認められない。
「ここまでやってきたことは失敗でしたね」とは誰も言えない。誰かに言ってほしいと思っているが、自分は言いたくない。
誰かに止めてほしいけど自分で終わりにしたくはない。
「オリンピックなんてもうやめたら」と言う人間はいても、「おれがやめさせる」と言える人間はいない。かくして、これはまずいと思いながら引き返せずにどんどん深みにはまってゆく。抜けだすのはますますむずかしくなる。


この本が上梓されたのは1984年だが、こういう報告が戦後四十年近く経つまで成されなかったということこそが我々が「負け戦がへた」だということを表しているように思う。


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2018年9月13日木曜日

敬遠の語


小学生のときは友だちの親にも学校の先生にも敬語を使っていなくて(せいぜい丁寧語ぐらい)中学校に入ったら先輩に対して敬語。
だいたいの人はそんな感じで敬語を身につけていく。

だからだろうか、敬語を使う間柄=上下関係だと思っている人がいる。学校で教わる「敬語とは相手を敬う言葉です」を鵜呑みにしている。
だから、敬語を使われたら自分は敬われている、偉そうにしないといけないと誤解してしまうのかもしれない。

だが敬語は「敬意の語」だけでなく「敬遠の語」でもある。特に丁寧語に関しては後者の意味が強い。

ぼくはあまり人付き合いが好きではないので「敬遠の語」としての敬語を使っているときは居心地がいい。
仕事の付き合いの人、近所の人、娘の保育園の先生、保護者同士の付き合い。こちらも敬語、向こうも敬語。
あんたに対して敵意はないが心を許したわけでもないぜ、この線からこっちに入ってくんじゃねえぞ。
武士と武士がすれちがうときに相手の間合いに入らないようにするような緊張感。これが安全な距離だ。

ところがこのメッセージを正しく汲みとることができない輩が急にため口で話しかけてくる。
これいわば侍の刀に触れてくるようなもの。刀をチャキっと鳴らすように「あぁ」と露骨に不機嫌な声を出せば相手も斬られまいと離れてゆく。それでも間合いの中から出ようとしない不届き者に対してはいたしかたあるまい、刀を振り上げてばっさり。
斬られた無礼者は傷口を押さえながら「な、なんで……」とよろよろ。
「なんでですか、ですよ」
ぼくはそう言い残して、後ろを振り返らずに歩きさる。


2018年9月12日水曜日

【読書感想文】これまで言語化してこなかった感情/岸本 佐知子『なんらかの事情』

なんらかの事情

岸本 佐知子

内容(e-honより)
これはエッセイ?ショート・ショート?それとも妄想という名の暴走?翻訳家岸本佐知子の頭の中を覗いているかのような「エッセイ」と呼ぶにはあまりに奇妙で可笑しな物語たちは、毎日の変わらない日常を一瞬で、見たことのない不思議な場所に変えてしまいます。人気連載、待望の文庫化第二弾。今回も単行本未収録回を微妙に増量しました。イラストはクラフト・エヴィング商會。

おもしろい本ない? と訊かれたら、ぼくはまっさきに岸本佐知子氏の名前を挙げる。
本業は翻訳家だが、エッセイが最高。
いやエッセイにくくってしまっていいのだろうか。だって書いてあることの一割~九割ぐらいが嘘なんだもの。一割~九割とずいぶん幅があるのは、どこまでほんとでどこから嘘かわからないからだ。気づいたら空想の世界に連れていかれている。

ダース・ベイダーが寝るときに考えること、耳の中に住んだらどんな気持ちか、江戸時代のカーナビは今何を語るのか、地球で捕獲された宇宙人は何を思うのか。

着想もすごいが、そこからの飛躍もすごい。
たったひとつのもの、たった一言をきっかけに岸本氏の想像は異世界へと羽ばたく。
 エリツィンが死んだ、という記事を新聞で見る。プーチンが追悼演説をすると書いてある。
 いったいどんな演説をするのだろう。と思うそばから、もうプーチンの代わりに草稿を考えてあげている自分がいる。
「同志ボリス・エリツィンに私は非常な親愛の情を感じておりました。何となれば、エリツィンの”ツィン”に、プーチンの”チン”。”ツィン”と”チン”。二つの間にはなんと響きあうものがあることでしょう!」
 頭の中で、プーチンが私の差し出した草稿をびりびりに破いて捨てる。
この短い文章にドラマが詰まっている。プーチンと秘書の姿がはっきりと立ちあがってくる。びりびりに破いているときのプーチンの冷徹な眼まではっきり浮かぶ。秘書であるキシモト同志が粛清されるのではないかと心配になる。そんな秘書いないのに。

プーチンがエリツィンの追悼演説をするという短いニュースから、たったの数行でこんなに遠くまで連れていってくれるのだ。
この距離、この速さ、この具体性。想像力というものの持つ力を知らしめてくれる。

小説家でも、これだけ想像力豊かな人いないでしょ。




また「これまで言語化してこなかった感情」を目覚めさせてくれる能力もすごい。
「ない場合は」も、聞くと変な気持ちになる言葉だ。
 料理番組で、おいしそうなものを作っている。唾をわかせながら見ていると、材料に「花椒」とか「XO醤」とか、普通の家庭になさそうなものが出てくる。がっかりしかけると、「もしない場合は入れなくても結構です」などと言ったりする。それを聞いた時に胸にわきあがる気持ちは、一言でうまく説明できない。まず、え、入れなくてもいいの、という拍子抜けの気持ち。それから、本来なら入れるべき材料を「なくてもいい」とする英断へのそこはかとない尊敬。それと、「どうせ入れても入れなくてもお前ら素人には変わるまい」と甘く見られたような、子供向けにやさしくアレンジされたシェイクスピア劇を見せられたような、淡い屈辱感。そういうものがないまぜになって、なんだかひどくモヤモヤする。
ああ、わかる。
この文章を読むと「ぼくもそう思ってたんだ!」と言いたくなってしまう。そんなこと一度も考えたことないのに
でも、この気持ちの一パーセントぐらいはぼくの心にもあった。ぼくはそれを見逃していた。だが岸本氏はそのひとしずくのひっかかりを丁寧にすくいあげて、こうやって文章にしてくれる。おかげでぼくは気づく。そうか、ぼくはこう思ってたのか。屈辱感を味わっていたのか。

これを知ってしまったらもう知らなかった頃には戻れない。今後「ない場合は」と聞くたびに、甘く見られたような気持ちになる。
自分でも気づいてなかった感情を強制的に引き出させる文章。
ああ、こんな文章書きてえなあ。


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2018年9月10日月曜日

【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』

『勝手にふるえてろ』

(2017年)

内容(Amazon Prime Videoより)
24歳のOLヨシカは中学の同級生"イチ"へ10年間片思い中!過去のイチとの思い出を召喚したり、趣味である絶滅した動物について夜通し調べたり、博物館からアンモナイトを払い下げてもらったりと、1人忙しい毎日。そんなヨシカの前へ会社の同期で熱烈に愛してくれる"リアル恋愛"の彼氏"ニ"が突如現れた!!「人生初告られた!」とテンションがあがるも、いまいちニとの関係に乗り切れないヨシカ。"脳内片思い"と"リアル恋愛"の2人の彼氏、理想と現実、どちらも欲しいし、どっちも欲しくない…恋愛に臆病で、片思い経験しかないヨシカが、もがき、苦しみながら本当の自分を解き放つ!!

友人から勧められての鑑賞。
綿矢りさの同名小説の映画化。

おもしろかった。全員ヘンな登場人物、クレイジーな疾走感、ばかばかしいセリフまわし、なにより主役の松岡茉優の演技が光っている(ただちょっとかわいすぎる。このキャラクターならもっとダサい恰好、ダサいメイクをしててほしい)。
偏執的、オタク、人見知り、攻撃的、ナイーブ、メルヘンチック。困った部分を寄せ集めたようなキャラクターをうまく演じている。
突然のミュージカルパートも最高(歌がすごくうまいわけでもないのがまたリアルでいい)。

主人公は、周囲の人間に勝手なあだ名をつけていたり、ずっと片思いをしている男に接近するために興味ない男から言い寄られたときの手口をまんま使ったり、SNSで他人になりすましたり、好きじゃない男から告白されて舞いあがったり、なんつうか「賢い人がバカやってる」感がたまらない。

かと思ったらちょっとしたことで傷つく中学生のような繊細さを持っている。他人のことは平気で攻撃するくせに自分がちょっと傷ついたら大げさに騒ぎたてる。他人に対して成熟したコミュニケーションがとれない、ほんとにめんどくさい女だ。

でもそういうところがすごく魅力的だ。誰の心にもあるガキンチョな部分を具現化したような存在。こんなふうに生きられたらいいだろうな、いややっぱり嫌だな。
ぼくも昔、こういうタイプの女性と仲良くしていたことがあるが、やはり付きあいきれずに離れてしまった。遠目に見ている分には魅力的なんだけどね。でもその身勝手さを受け入れられるだけの度量の大きさはぼくにはなかった。



映像自体にトリックが仕掛けてあって、これまでのあれやこれが実は××だったということが明らかになるのだが(ネタバレのため伏字)、この種明かしをラストに持ってこないところがいい。
「ラストのどんでん返し!」みたいな安易な展開はいらない。そういうのつまらないから。さりげなくやるのがいいんだよね。「驚愕のラストがあなたを待ち受ける!」みたいに書かれたらぜったいに驚愕しない。

テンポの良さもあって序盤から最後までまったく退屈しなかったのだが、ラストで想定内の場所に着地してしまったのは少し残念。ここまでぶっとんだ話をつくるんならもっと思いきったラストでもよかったんじゃないかと思う。まあそれは原作の問題か。

安野モヨコ『ハッピー・マニア』を思いだした。『ハッピー・マニア』のカヨコを内向的にしたらこんな感じだろうな。
どこまでも自分のためにつっぱしる姿って、女性作者とよく合う。男が描いたらもっと周囲を気にしてかっこつけちゃうだろうなあ。

煩悩のままにつっぱしる女性はただただまぶしい。自分ができないからこそ。やりたくないからこそ。


2018年9月9日日曜日

「自分はよくわかっている」時代


「自分はよくわかっている」時代になった。

昔は情報に触れるにはそれなりのコストを要した。
選択的にある分野の知識を入手しようと思うと、ほとんど本を買うか新聞を購読するかしかなかった。テレビやラジオでは、与えられる情報を受け取ることしかできなかった。
「本も新聞も読まない」ということは「身のまわりのこととテレビやラジオから得られる情報しか身につけていない」のとほぼ同じだった。

ひるがえって現代、インターネットのおかげで、どんな分野の知識でも浅い範囲であれば(場合によっては深い範囲まで)ほとんどゼロに近いコストで入手できるようになった。
すばらしいことだ。

だが、それによってぼくらは「よくわかった気になる」ことがすごく上手になった。
三権分立の仕組みすら知らないような人でも政治の情報にかんたんにアクセスできる。誰かの書いたことをそのまま口にすれば、ひとかどの人物っぽく見える。

素人に毛が生えたぐらいの人が(毛も生えてない人も多い)、「世界の真実の情報」を誰にでもわかる言葉で提示してくれている。
昔だってトンデモ本の類はあったが、「わざわざ金を出して本を買って活字の本を読む」ことをできる程度の教養と知的好奇心のある人しか読まなかったから、デマに引っかかる人はそう多くなかった。
でも、タダでかんたんに拡散できるようになった今、デマは「デマに引っかかりやすい人」のところにかんたんに届くようになった。



「将棋のプロ棋士ふたりと対戦して、少なくとも一勝する方法」がある。
Aとは先手指し、Bとは後手指しで対局する。Bが差した手を、そのままAに指す。次にAが打った手を今度はBに指す……ということをくりかえしていけば、一勝一敗になるはずだ(もしくは両方引き分けになるか)。
AとBが対局しているのと同じだからだ。

インターネットでは、これと同じようなことをやっている人がいる。A氏に対してB氏の意見をぶつける。C氏がしていた批判をD氏にする。
とてもお手軽に、賢くなった気になれる。
これをずっとやっていれば、たぶん「他人の意見をそのまま言っている」意識すらなくなるだろう。自分が考えた意見だと信じこむようになる。

まともに議論をすればすぐにボロは出るが、インターネット上の議論には「自分の言いたいことだけ言いやすい」「どんなめちゃくちゃな意見でも支持してくれる人が世の中には一定数いる」「形勢不利になったら逃げやすい」という特徴があるので、ボロが出にくい。というかボロが出ていることに自分では気づきにくい。



ぼくは大学生のとき、ゼミがすごく嫌だった。
ぼくは田舎の市内でいちばんの進学校に通っていて、そこでずっとトップの成績だった。相当天狗になっていて「自分は頭がいい」と思っていた。
大学に入ってゼミに出て、自分よりずっと頭が良くて、ずっとたくさんのことを知っていて、ずっと理路整然に議論を戦わす人たちを見て、すっかり自信を失った。ここに参加していくのが怖い、と思った。否定される、ばかにされる、笑われる、訂正される、論理の粗を突かれる。怖くてたまらなかった。

じっさい学部レベルのゼミなんて大した議論はしていないし、少々稚拙な意見を述べたところで厳しく突っ込んでくる人もそんなにいなかったのだが、それでも教授や院生とも対等に議論をしないといけないのが怖かった。自分の無知、不勉強、浅薄さを理解できる
程度にはぼくは頭がいいつもりだったから。

やがてゼミの空気にも慣れてところどころ議論に参加できるようになったが、それでも「いつか衆人環視の中で叩きのめされるんじゃないか」という緊張感はずっとあった。



その経験に比べれば、インターネット上での議論なんて楽すぎる(あんまり参加しないようにしてるけど)。
何の準備もいらない。わからなければ黙っていればいい。突然意見を求められることもない。いいことを言った人の意見に乗っかっていればいい。形勢不利だと思ったらブラウザのタブを閉じればいい。
議論に勝った気になることはあっても負けることはない。負ける前に逃げだせるから。

ふと気づくと、「ぼくはものを知らないなあ」と思うことが少なくなった。
ぼくが歳をとったせいもあるだろうし、じっさいに昔より知識が増えたこともちょっとはあるんだろうけど、それ以上に「知識で叩きのめされる」ことがほとんどなくなったせいもあるのだろう。

自分がバカだと自覚しにく世の中になっちまったな。


2018年9月7日金曜日

【読書感想文】原発維持という往生際の悪さ/山本 義隆『近代日本一五〇年』


『近代日本一五〇年
―科学技術総力戦体制の破綻』

山本 義隆

内容(e-honより)
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる近代日本は、国主導の科学技術振興による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と国民一丸となった総力戦体制として一五〇年続いた。近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ初の新書。日本近代化の歩みに再考を迫る。
近代化以後、日本の科学がどのように発展してきたかを追う書籍。
科学の中身のほうではなく、どちらかというと科学が政治や経済や軍事とどのように関わってきたかという点が主題。

これを読むと、日本の科学ってつくづく戦争とともに歩んできたんだなと思う。
 軍は幕府や西南雄藩が設立した兵器工場や造船所を接収し、官営の軍事工場としての大阪砲兵工、東京砲兵工、海軍造兵、横須賀海軍工に改変した。軍工の最大の目的は、もちろん兵器の自給化にある。日本の近代化の軸は、産業の近代化・工業化であると同時に軍の近代化・西欧化であった。通常、産業の近代化がすなわち日本の資本主義化と見られているが、軍の近代化が日本の資本主義化にはたした役割は、きわめて大きい。「当時の日本の技術全体の前進にあたって、政府の軍事工場は、部分的に指導的な役割をはたす立場にあった」(星野、一九五六)。実際、軍による兵器自給化の欲求、およびもともとは軍事から始まった造船業こそが、明治期日本の重工業・機械工業・化学工業への大きな推進力であった。軍と産業の近代化が同時並行で上から進められたことが、日本の資本主義化を特徴づけている。そして軍によるこの兵器自給の欲求が、やがて、そのための資源を求めてアジア侵略へと日本を駆り立ててゆく。
初期からしてこうだった。
学者や職人の間から勃興した科学を戦争に活用した西欧と違い、日本の場合ははじめから「他国に勝つ」という目的のために科学研究を国策として推進してきた。

兵器を作るために近代化し、兵器を作るための資源を求めてアジアへ侵出する。
「兵器を作るために戦争をする」なんて目的と手段が逆転しててばかみたいな話だけど、でも当時の日本人はそうでもしないと列強に食い物にされるという危機感を抱いていたのだろう。



戦争に巻きこまれたことで日本の科学は大きく発展した。
第一次世界大戦以降、戦争は総力戦となり、科学者も無関係ではいられなくなった。
戦場では化学兵器が用いられ、兵や軍備の輸送のために車や飛行機や船が使われ、それらは人力や馬力ではないエネルギーを必要とした。兵士の救護には医療知識が必要で、船や潜水艦を航海させるためには海洋知識が必要。戦闘機を飛ばすには航空物理学や気象学を知らなくてはいけない。
数学、化学、機械工学、地学、物理学、地学、気象学などありとあらゆる学問が戦争に駆りだされた。

そして日本が本格的に科学を学びはじめたのが、ちょうどその時代だった。
まだ黎明期だった科学界に国から多くの研究資金が支給されたのは、研究結果が戦争に役立ったからだ。学者たちは喜んで軍に協力した。

軍への貢献がすなわち悪だとは思わない。
結果的に日本の科学は大きく発展して、それが戦後の復興につながった部分も大きい。
ただし戦後の復興もまた戦争とともにあった。朝鮮戦争やベトナム戦争が勃発したおかげで、アメリカの日本統治はずいぶんゆるくなり、一度は禁止された科学研究も許された。戦争のおかげで大量の金が入りこんできて、工業製品を作るのに役立った。「ものづくり大国ニッポン」は、「戦争に使えるものづくり大国」だった。
高度経済成長という平和な発展の裏には、他国の戦争という犠牲があったということを知っておかなくてはならない。決して平和に発展してきたわけではないのだ。



こうした歴史的経緯が、基礎研究や文系の学問に対する軽視につながっているのかもしれない。
日本はもう七十年も直接的な戦争をしていないが、「戦争に勝つために研究しろ」が「経済競争に勝つために研究しろ」になっただけで、やっていることはたいして変わっていないように見える。
戦時は戦争に役立たない学問がないがしろにされていたように、戦後は経済競争に役立たない学問もまたないがしろにされつづけている。

「科学、学問は国家が統制して発展させていくもの」という考えは今も日本に深く根を張っている。
それがときには、公害病のような「経済成長のために科学を暴走させる」事態も引き起こす。科学が政治や経済に対して中立であったならば、公害の原因はずっと早く明らかになっていただろう。
こうした姿勢は今も変わっていない。原発は日本経済のためになるんだからイチャモンつけんじゃねえよ、の理屈がいまだ幅を利かせている。

こうなってしまったのは、科学者を必要以上に研究にストイックな存在として持ちあげてきたことがあるのかもしれない。
科学者も人間である以上、世俗にまみれた存在だから金や地位や名声を欲しがるし、そのために嘘をついてしまうことや権力者に都合の良い解釈をしてしまうこともあるだろう。
……という認識を持っておけば、大学教授という肩書に騙されることも減るだろう。

科学は善でも悪でもない。
工事の道具として発明されたダイナマイトが武器として多用されたように、使い方によって科学は善にも悪にもなる。
原子力は原爆にもなるしエネルギーにもなる。そしてそのエネルギーには周辺一帯を人の住めない土地に変えてしまうほどの力がある。



この本では、最後の一章を割いて原子力について書いている。
この章だけでも多くの人に読んでほしい。
そもそも原発は、軽水炉にかぎらず、燃料としてのウラン採掘の過程から定期点検にいたるまで労働者の被曝が避けられないという問題、運転過程での熱汚染と放射線汚染という地球環境への重大な影響、そして使用後にはリサイクルはおろか人の立ち入りをも拒む巨大な廃炉が残され、さらには数十万年にわたって危険な放射線を出し続ける使用済み核燃料の処分方法が未解決であるという、およそ民生用の商品としては致命的ともみられる重要な欠陥をいくつも有している。通常の商品では、このどれひとつがあっても、市場には出しえない。
軍事研究と原子力研究に共通するのは「市場を通さずに国から金が下りてくる」という点だ。
税金で賄うから市場競争がはたらかず、どんなに高くても言い値で買ってくれる。電機メーカーからすると兵器と原子力は金のなる木なのだ。

メーカーからするとそんなおいしいものを手放すわけがないし、この利権を守るためならどれだけでも金をばらまく。どれだけ高くついたってかまわない。その分を兵器と原発関連の代金に上乗せすれば国が払ってくれるのだから。また電力会社は総括原価方式によって決してマイナスにならないように電気料金を設定できるから経費なんか気にしなくていい。
かくして巨大な利権が生まれ、あり余る金で政治家も報道機関も研究室も抱きこめる。

SNSなんかを見ていても、ちょっと原発に批判的なコメントをすると、とたんに「原子力堅持主義者」「武力強化主義者」が湧いてくる。
ことあるごとに「地震で停電になった! 原発があればよかったのに!」「北朝鮮がミサイルを撃ってくるぞ! 防衛費を上げろ!」と危機感をあおる。はたまた「福島の人を傷つける気か!」という感情論に持ちこもうとする。

金のなる木があればそれを守りたくなる気持ちはわからんでもないが、大学の研究者や報道機関までがそれに加担しているのを見ると悲しくなる。
研究資金ほしさに軍に協力していた時代、国や大企業を守るために公害病のでたらめな原因を上げていた時代から何も変わっていない。

過去に国のお抱え研究者がどんな嘘をついてきたかを知ればとても「原発は絶対に安全だ」なんて話を信じられる気になれないと思うが、それでも人は悲惨な現実からは目をそむけたくなってしまう。

専門知識がなくたって絶対安全なものなんてないことぐらいはわかるし、だったら「もしも事故が起こったら広範囲に数十年以上も回復不能なダメージを与えるもの」なんてやめようとなるのがふつうの感覚だろう。
「このボタンを押せば100万円あげます。でも1%の確率であなたは死にます。押しますか?」って訊かれたら、よっぽどお金に困っている人以外は押さない。
しかし原発に関しては目先の金欲しさにハイリスクな道を選びつづけている。日本という国はそこまでお金に困ってるのだろうか。

こんなリスキーダイス、いつまで振りつづけるつもりなんだろう。



また著者は、日本が頑なに原発を放棄しようとしないのは、軍事転用するためではないかと指摘している。
 一九九二年一月二九日の『朝日新聞』には「日本の外交力の裏付けとして、核武装選択の可能性を捨ててしまわないほうがいい。[核兵器の]保有能力は持つが、当面、政策として持たないという形でいく。そのためにもプルトニウムの蓄積と、ミサイルに転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」という外務省幹部のまことに正直というか、あからさまな談話が記されている。核燃料サイクルにたいする日本の「異常なまでの執着心」の根っ子に潜在的核武装路線があるという想定は、けっして無理なこじつけではない。すくなくとも、外国からそのように受け取られても不思議はない。自覚していないのは、日本人だけである。
じっさいに転用可能な資源も技術も十分にあるし、核兵器禁止条約に署名しないのも将来的に核兵器を持つ可能性を考えてのことではないかと。
言われてみればそうかもしれない。
国民が「日本には非核三原則があるから」なんてのんきに構えているうちに、とっくに核武装の準備を整えているのだ。これが杞憂ならいいんだけどね。


原発をめぐる状況は第二次世界大戦末期とよく似ている。

こっぴどい敗戦を喫した理由としては、物資不足だとか科学力が劣っていたとか精神論重視だったとかいろいろあるけど、ぼくは「負けを認められなかった」ことに尽きると思う。
負けを認めないから正しい情報が共有されず、負けを認めないから過去の失敗から学ばず、負けを認めないから国土を焼き尽くされた。

原発も同じだ。とっくに「負け」フェーズに入っている。
安全神話が嘘だったことは福島第一原発事故ではっきりと露呈したし、いまだ廃炉の道は見えない。すでにヨーロッパ諸国は原発を放棄しつつあるが、負けを認められない日本はボロボロになった神話に必死にしがみついている。

電力消費量は減少しつつあり、代替エネルギーも増えている。もはや原発にこだわる理由はなくなっているのだが、それでも日本が原発を捨てられない理由は「ここで負けを認めたら今までやってきたことが無駄になる」という一点のみだ。
一言でいうなら往生際の悪さということになる。かくして戦況はどんどん悪化してゆく。

今のぼくらが大日本帝国軍の軍部を愚かだったとあざ笑うように、百年先の日本人も今のぼくらをあざ笑うだろうか。それともその頃の日本は人が住めない土地になっているだろうか。



科学技術は資本主義とともに成長してきた。
だが、人口減少社会に突入した今、資本主義は破綻をきたそうとしている。
「いいものをたくさん作ってたくさん売れば人々の暮らしも良くなって経済も成長する」というハッピーな時代はとっくに終わった。
経済成長をするためには、今の政権が力をやろうとしているように武器やカジノで「いかに他人から奪うか」または原発のように「いかに未来から奪うか」というやり方しかなさそうだ。

この先、科学の発展は人々の幸福に寄与してくれるのだろうか。
それとも一部の人がその他多数から富を搾取するために科学は使われるのだろうか。

残念ながら後者である可能性が高いような気がする。

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未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』



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2018年9月6日木曜日

【読書感想文】自分の中にあるダメな部分を突きつけられる/サレンダー橋本『明日クビになりそう』


明日クビになりそう

サレンダー橋本

内容(Amazonより)
「会社のコピー機で私物を刷る」「出張でクオカードをパクる」――。
稀代の意識低い系漫画家・サレンダー橋本が贈る、︎クズ社員あるあるGAG‼︎
「仕事をサボって個室ビデオへ」「忘年会のお店の予約を忘れる」などウォーターサーバー会社の生意気なサラリーマン、宮本の小狡く愚鈍な言動の数々を現役サラリーマン漫画家である作者がコミカルに描く!
現代社会を生き抜くリーマンたち、そしてこれから働こうとする人々へ向けた――
クズ会社員のおバカ処世術、ここに爆誕‼︎

どうしようもないクズが現実から逃げまわるだけの漫画……。ということで石原まこちん『The3名様』を思いだした。どちらもギャグなのに哀愁がある。

自分の中にある、見ないようにしているダメな部分を突きつけられるような気がする。
「確認」と「検討」
 何て便利な魔法の言葉…!
 ただ全てを先送りにしているだけなのに
 ビジネスの場が成立している雰囲気になるぜ
「オレはいつも目の前の仕事をやらない理由を血眼で探し
 少し未来の自分に全てを押しつけて生きているんだ」
小学生のとき、出さなければいけない書道の課題を提出しなかった。
先生に咎められたとき「出したはずですけど」と嘘をついた。先生は「ほんとか? じゃあもう一回調べてみるわ」と言った。
どうしよう、すぐばれる。怒られる。やってなかったことも、嘘をついたことも。息ができない。胸がキリキリと痛む。

あのときの気持ちを思いだした。
ぼくもそれなりに成長したので「めんどくさいことは先延ばしにするとよりめんどくさいことになる」ということを知っている。だからめんどくさいことは早めに処理するようにしている。

だけど「めんどうなことは先延ばしにしたい」という誘惑は、今もぼくの中に巣食っている。隙あらば首をもたげるのを、大人としての理性が必死に抑えこんでいる状態だ。

仕事に関してはそこそこちゃんとやるようにしているが、家事となるとそうではない。部屋の片づけとか不用品の整理とか換気扇の掃除とか、めんどうなことからは目をつぶりつづけている。
「今忙しいから」「疲れてるから」「子どもと遊べるのは今だけだから」そんな理由をつけて、家事から手を抜こうとがんばっている。

だからぼくは知っている。自分にとって、仕事の手を抜くことだってまったくやぶさかではないということを。
仕事のやりがいや、周囲の目や、叱咤する上司や、そういったものから解放されたならばぼくは平気で手を抜くだろう。

ああ、この漫画に描かれているのはぼくのことだ。
『明日クビになりそう』を読みながら自分自身のダメさをひとしきり笑い、そして心が痛くなる。


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2018年9月5日水曜日

【読書感想文】類まれなる想像力/テッド・チャン『あなたの人生の物語』


あなたの人生の物語

テッド・チャン

内容(e-honより)
地球を訪れたエイリアンとのコンタクトを担当した言語学者ルイーズは、まったく異なる言語を理解するにつれ、驚くべき運命にまきこまれていく…ネビュラ賞を受賞した感動の表題作はじめ、天使の降臨とともにもたらされる災厄と奇跡を描くヒューゴー賞受賞作「地獄とは神の不在なり」、天まで届く塔を建設する驚天動地の物語―ネビュラ賞を受賞したデビュー作「バビロンの塔」ほか、本邦初訳を含む八篇を収録する傑作集。

映画『メッセージ』の原作となった『あなたの人生の物語』を含め、八篇の作品を収めたSF短篇集。

とにかく想像力がすごい。
この歳になって小説に驚かされるとは。

「すごく高い塔を建てたら」「知能がものすごく高くなったら」なんて想像をしたことは誰しもあるだろうが、ここまでつきつめて考えた人はそういないだろう。
なぜなら現実や知識がじゃまをするから。テッド・チャン氏はその制約を軽々と飛びこえ、壁を一枚隔てたところにあるまったく新しい世界へと連れていってくれる。この飛躍がじつに気持ちいい。



ぼくはかつて大喜利を趣味にしていた。ネット上でたくさんの人たちが大喜利をする世界があったのだ。
そこではとにかく現実離れした想像力が求められた。
たとえば「大相撲力士が副業で殺し屋をはじめた。どんな殺し方をする?」みたいなお題が出される。
現実的にはありえないシチュエーションだ(現実に殺し屋をやってる力士がいる可能性は否定できないが)。

現実の地続きで考えるなら「張り手で殺す」「上に乗って押しつぶす」「日馬富士にビール瓶で殴ってもらう」みたいな回答になるが、これではまったくおもしろくない。
大喜利として成立させるためには、現実の延長ではないまったく別の世界を構築しなければいけない。たとえば「番付表の下のせまいところに追いこんで四股名と四股名で挟み殺す」のような(この回答がおもしろいかどうかはおいといて、少なくとも大喜利としては成立する)。

今ぼくらが持っているのとはべつの常識を築かないといけないのだ。

『あなたの人生の物語』で描かれるのは、まさにこの大喜利的な発想だ。
奇抜なアイデア、ずば抜けた想像力、そしてそれを支える重厚な知識。どれをとっても一級品の作品集だった。ほれぼれする。



たとえば『バビロンの塔』。
文字通り天まで届く塔を建てる人々を描いた作品だが、情景描写がなんともすばらしい。
 何週間かが過ぎるうちに、毎日空を渡る太陽と月の旅の頂点が、しだいしだいに低くなってきた。月は塔の南面を銀色の光で染め、こちらをながめるヤハウェの目のように輝いた。まもなく鉱夫たちは通過する月ときっかりおなじ高さに達した。最初の天体の高さにたどりついたのだ。鉱夫たちはあばたになった月の表面をながめ、どんな支えをもはねつけたその堂々たる動きに驚嘆した。
 やがて、彼らは太陽に近づいていった。いまはバビロンからだと太陽がほぼ真上に見える夏の季節なので、太陽はこの高さで塔の間近を通るわけだ。塔のこの部分には家族がまったく住んでおらず、またバルコニーもない。なにしろ大麦でさえ炒られてしまうほどの暑さだ。塔の煉瓦のすきまを埋めるモルタルは、瀝青だと融けて流れるので、粘土が使われている。これだと熱で文字どおりに焼き固められるからだ。日中の気温からみんなを守るため、柱の幅がひろがり、ほとんど斜路をおおい隠すほどの連続したトンネルになった。ところどころにあいた細いすきまが、ひゅうひゅう唸る風と、刃のようにぎらつく金色の日ざしを塔の中に通していた。
小説を書く才能とは、いかにうまくほらを吹くかだ。この文章はなんと見事なほらだろう。
「ものすごく高い塔を建てたら?」というお題に「高すぎて折れる」とか「地面が沈む」とか「上のほうは酸素が薄くなる」なんて回答ではおもしろくない。

「月や太陽の高さを超える」「あまりに高すぎて塔の下のほうから少しずつ夜になる」という大胆な発想。そして、まるでその世界に行ってきたかのような丁寧な描写。
月や太陽より高い塔など建てられないことを知っているのに、この文章を読むと月よりも高い塔の姿が浮かんでくるようだ。感服。



『理解』も、作者の類まれなる想像力が存分に発揮された小説だった。

天才が登場する物語は少なくないが、我々の想像力を上回る天才というのはめったにいない。
ただ単に物事をよく知っている人だったり、計算が速かったり、あるいは神のようになんでも言い当てる人だったりで、それって「博識」「頭の回転が速い」「予言者」なだけで天才とは違うよね、と言いたくなる。
作者の想像力が足りないから天才を描けないのだ。
小学一年生に「どんな人が天才だと思う?」と訊いたら「計算が速くてまちがわない人」というような答えが返ってくるだろうが、ぼくらの思いえがく天才もそれと大差ない。

『理解』はあるきっかけで天才的な頭脳を手に入れた男を描いた物語だが、ここではちゃんと天才が描かれている。

子どもと大人は頭の使い方が違う。成長するにつれてより抽象的、深遠な思考が可能になる。大人が抽象的な思想の話をしても、五歳児にはまるで理解できないだろう(できない大人も多いけど)。
それと同じように、ぼくらよりはるかに頭のいい人が難解な話をしていたら凡人にはまったく理解できないだろう。どれだけ時間をかけたって。
だからほんとの天才はぼくらには理解できない。「天才だ」と思わせるように描いてしまったら、それはもう天才じゃないのだ。

この物語の主人公はぼくらの生きる世界の数段上の次元で物事を考えている。もちろん読んでいるぼくにはまったく理解できない。だが「すごすぎて理解できない」ということは理解できる。それだけの説得力がこの文章にはある。
独自の言語を作る、音楽によって他人の精神に任意の影響を及ぼすことができる、短い言葉で相手の精神に攻撃を加えることができるなど、「自分の延長の天才」とはまったく違う天才の姿を見ることができる。



表題作『あなたの人生の物語』もすごい話だった。
地球にやってきた宇宙人とコミュニケーションをとろうとする話。これ自体はSFではおなじみの設定だが、言語学者のアプローチを通して描いているのがおもしろい。

宇宙人の言語が地球のものとはまったく異なる。
  • 発話用の言葉と文字がまったく別の文法から成っている。
  • 文字は複雑な線の組み合わせから成っている。長い文章がひとつの文字で表せてしまうぐらい。
  • 宇宙人は因果律によって物事を考えていない。過去と現在と未来を同時に把握している。
……と説明してもなにがなんだかわからないが、とにかく地球人の感覚ではまったく理解できない言語を持っているのだ。
言語が異なるということは、彼らはまったく異なる感覚を持っていることになる。ということは……。
この先はぜひ読んでいただきたいが、異星人ものだと思っていたら時間もののSFになっていくのがすごい。

いやあ、「よくこんな設定思いついたな」とただただ感心するばかり。
「原因があって結果がある」ことなんてあたりまえだと思うじゃない。それを疑わないじゃない。ふつうは。



『顔の美醜について』はわりとポップなSF作品。
「カリー」と呼ばれる美醜失認処置をめぐる話。カリーを受けた人は、人の顔の美醜の判断がつかなくなる。人の見分けはつくが、相手が美人なのがブサイクなのかがわからなくなるのだ。
カリーによって容姿にとらわれずに人と接することができると主張する人々、それに対して人を道徳的にさせるのは医療措置ではなく教育であるべきだと反論する人や、誰もがカリーを受けたら商売が成り立たなくなる広告業界や化粧品業界の妨害が加わってさまざまな議論が展開される……。

美容整形のような「自分の容姿が良くなる」ではなく「他人の容姿の良さがわからなくなる」処置ってところがミソだね。
他人には道徳的になってほしいけど、自分が道徳的になることには二の足を踏んでしまうからね。「人を見た目で判断するな」と言っている人でも、じゃあ世界一醜い外見の人を恋人にできるかっていわれたら躊躇してしまうだろう。
人を見た目で判断しなくなるのは善なのか、それとも美的感覚という優れた能力を放棄することなのか。
ぼくだったら……。うーん、仕事のときはカリーをして、プライベートでははずすかなー。



ここで紹介した作品だけでなく、総じて高いレベルのSF短篇集。

驚くべきは、これが選りすぐりの傑作選ではなくデビューしてから発表された短篇を順番に集めた作品集だということ。
すべての作品が高い水準を保っているというのがすごい。

他の本も読んでみたいと思ってすぐ調べたが、寡作にしてテッド・チャン氏の単著はこれだけなのだとか。
ううむ、もっとテッド・チャン氏の想像力に触れたいぜ。

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本格SF小説は中学生には早すぎる/ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』【読書感想】



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2018年9月3日月曜日

【DVD感想】『アヒルと鴨のコインロッカー』


『アヒルと鴨のコインロッカー』

(2006年)

内容(Amazon Prime Videoより)
大学入学のために単身仙台に引っ越してきた19歳の椎名(濱田岳)はアパートに引っ越してきたその日、奇妙な隣人・河崎(瑛太)に出会う。彼は初対面だというのにいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的はたった一冊の広辞苑。そして彼は2年前に起こった、彼の元カノの琴美(関めぐみ)とブータン人留学生と美人ペットショップ店長・麗子(大塚寧々)にまつわる出来事を語りだす。過去の物語と現在の物語が交錯する中、すべてが明らかになった時、椎名が見たおかしくて切ない真実とは・・・。

注意:この記事は、小説及び映画『アヒルと鴨のコインロッカー』のネタバレを盛大に含みます。



伊坂幸太郎の同名小説の映画化。

原作を読んだ人ならわかると思うが、原作の大きな要素として叙述トリックが占めており、「はたしてこれをどうやって映像化するのか?」という点が気になった。

ネタバレをするが、小説『アヒルと鴨のコインロッカー』には河崎という男が出てくる。
この河崎という男が主人公に語る話の中に、たびたびブータン人が登場する。
ところが後になって、河崎はすでに死んでいることがわかる。河崎と名乗った男こそがブータン人だったのだ。

単純な入れ替えトリックだが「日本に来て数年の外国人が日本人に成りすますのは不可能」という思いこみがあるせいで読者は気づきにくい。
この入れ替えトリックが小説『アヒルと鴨のコインロッカー』の肝である。


じつはAとBが同一人物だった。
文章ならこの一行で済むトリックも、映像で表現するのは至難の業だ。なぜなら顔が一緒であれば見ている側は同一人物であることに一瞬で気づいてしまうのだから。
だからこそ「映像化不可能」と言われていたのであり、はたして監督はこの部分をいかに料理したのか――。



結論から書くと、最低の手法だった。

映画『アヒルと鴨のコインロッカー』には回想シーンがたびたび出てくる。
そこに登場する「今の河崎」と「回想シーンに出てくるブータン人」はまったく別の役者が演じている。本当は同一人物であるにもかかわらず、べつの役者が演じているのだ。

嘘じゃん。

いや、嘘をつくことがだめなわけではない。
登場人物の台詞としてであれば、どれだけ嘘が語られてもかまわない。
だが映像で嘘をついてはいけない。小説でいえば、台詞や独白は嘘でもいいが、地の文(状況描写)が嘘であってはならない。それはフィクションとして最低限の"お作法"だ。ここを破ったらなんでもありになってしまう。
こんなのはトリックでもなんでもない。ただのインチキだ。
ルール内で観客をだますから「だまされた!」と気持ちよく叫ぶことができるのであって、ルール無視でだまされたって楽しくもなんともない。ポーカーはルール内で駆け引きをするのがおもしろいのであって、イカサマトランプを使うやつは出入り禁止にするべきだ。

過去に原作を読んでいたぼくは回想シーンで別人が登場してきた時点で「ひでえ!」と叫んでまともに観るのを放棄したが、知らずに観てた人はかわいそうだ。
たとえば「自称河崎が人形劇仕立てで過去のエピソードを語る」みたいな説明方法にすれば、ルールを破ることなく(嘘の)回想シーンを描くことができただろうに。
あまりにもお粗末。知恵がないなら映像化困難な作品を映像化するなと言いたい。

余計な音楽がなくかなり原作の雰囲気を忠実に再現できていたのに、たったひとつの致命的なルール違反のせいで映画全体が台無しになっていたのがもったいない。

あと琴美ちゃんはかなりおバカさんだよね。
ことごとく殺してくれと言わんばかりの愚行を犯してたら、そりゃ殺されるぜ。あまりにおバカな殺され方をしたせいで悲劇性が薄れてしまったのも残念。
変にかっこよく描こうとしたせいでかえってバカみたいになっちゃった。


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2018年9月2日日曜日

手が鉤爪になってる人あるある

手が鉤爪になってる人あるある



暑い日は鉤爪がさわれないぐらい熱くなる


暑い日は鉤爪を冷やすと全身冷える


寒い日は鉤爪を友だちの首筋にあてて嫌がられる


大根がよく煮えたか確かめるために鉤爪を刺しちゃう


電車の吊り革を持たずに、上の棒に鉤爪をひっかける


鉤爪とったら内側がめっちゃくさい。でもついにおいを嗅いじゃう


ギター弾くときピックいらず


ちくわは一回鉤爪に刺してから食べる


学生時代のあだ名は「船長」


金属探知機に引っかかるが、機内持ち込み禁止物リストに鉤爪は載ってないので許される


初対面の人に「じゃんけんできないですね」って言われるけどいや反対の手あるから


よくズボンのポケットに穴が開く


鉤爪のカーブにぴったりはまるグラスがあるとちょっと嬉しい


みんなでごはん食べるときは鉤爪側に人が来ないように端っこに座る


花粉症シーズンは鉤爪にティッシュを何枚か刺しといてすぐに取りだせるようにしとく



2018年9月1日土曜日

「ひとのことはいいから」


五歳の娘に対してよく口にする台詞は
「ひとのことはいいから」
だ。

いっちょまえに周囲を観察できるようになり正義感だか公平感だかも身についてきたことで、不満があると「〇〇ちゃんもやってた」だの「□□くんには言わなかったのに」だのと不平をこぼすようになった。

よその子を本気で叱るわけにはいかないだろとかあっちの子はまだ三歳だからしょうがないじゃないかとかあの子の親はちょっとアレな人っぽいからとかいろいろ説明するのも難しく、そんなこんなでこっちの口をついて出るのが「ひとのことはいいから」だ。



まあ気持ちはわからんでもない。
「あっちは許されてるのになんで自分だけが」という感覚は人間の感情のかなり深いところにある。ひとことでいうと「ずるい」という感覚だ。
人間だけじゃなくて他の動物にもある。犬だって兄弟二匹中一匹を優遇していたら、もう一匹は怒る。

いい年齢になった人でも「在日外国人が特権を享受している」だの「生活保護受給者がパチンコをやるな」だの五歳児のメンタリティのまま他人を攻撃することに精を出している。

おまえの不遇は他人が不当な利益を享受していることに起因してるんじゃねえよと言いたくなるし、たぶんそんなことは当人だってわかってるんだろうけど、それでも「あいつだけずるい」という感覚を抑えられないのが人間だ。



ちょっと変わった生き方をしている友人がいる。勤め人ではなく、自営業者でもなく、傍から見るとまるでずっと遊んでいるような生き方をしている。非合法なことではなく。

あるときインターネット上で彼のことが話題になっていた。そこにぶらさがっているコメントが非難であふれていた。
「家族がかわいそう」「自分の親や夫がこんな人だったらイヤだ」といった言葉が並んでいた。
彼の生き方をうらやましいと思っていたぼくからすると、ちょっとした驚きだった。

遊んで暮らせるなんて最高じゃないかと思うのだが、どうも世の多くの人はそうではないらしい。何の迷惑もかけられていなくても「あいつだけずるい」と思ってしまうようだ。
被害者がいれば「被害者の気持ちを考えろ」と堂々と非難できるのだが(勝手に怒りを代弁するのも勝手な話だが)、それができないので「家族がかわいそう」とむりやり被害者をつくりあげて怒りを代弁することにしたらしい。



ぼくたち人間は、どうやら幸せな人が嫌いらしい。
才能と美貌と知性と家柄に恵まれて働かずに一生笑って暮らす人が許せないらしい。

おとぎ話で王子様と幸せな結婚をしたお姫様も、その後は「あいつだけずるい」と思われて、何をしてもインターネット上で叩かれながら生きていくことになるんだろうなあ。

「ちっちゃいガラスの靴が履けただけの成り上がり女が、晩餐で出された料理を大量に残した!」
「マスコミが報じない真実! 税金が注ぎこまれる不当な毒りんご特権」
なんて言われて。