2021年10月22日金曜日

【読書感想文】永 六輔『一般人名語録』

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一般人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
またまた日本全国一億二千万人が創った名言・箴言。格言・警句。すごいものです。一般人が生みだす言葉の力強さと皮肉とスゴ味は。たとえば「今日も無事、小便できる幸福よ」―。本当にじっくり読んでみて下さい。何か痛快な気持ちになって、日本と自分の置かれた状況が見えてきませんか。どうぞ御愛読を。

『無名人名語録』『普通人名語録』に続く「市井の人々がふと漏らした発言集」第三弾。

 内容は変わらずおもしろいけど、一部前作と同じ内容があるぞ。チェックしてないのか。

 まあこの時代(約三十年前)はふつうの人はパソコン使わずに仕事してた時代だもんな。チェックも容易ではなかったんだろう。




「市民運動でマスコミに対応している人が
 スターになってくると、
 潮が引くように運動が無力になっていくことがあるの。
 運動って無名でないと、
 まとまらないのね」

 はるか昔、星新一氏が対談で、「市民運動が注目されるようになると中心人物の売名や利益と結びついてしまって権力にとりこまれる」と言っていた。

【読書感想エッセイ】 小松左京・筒井康隆・星新一 『おもろ放談―SFバカばなし』

 多くの市民運動を見ていてもそうおもう。

  高潔な思想を持った市民運動がはじまる
→ 中心人物が注目を集める
→ その人物の過去の言動が検索され、炎上
→ 運動自体の評価が下がり、下火になる

というケースを何度も見てきた。
 特に今の時代はかんたんに過去の発言を検索できるので、まずいことがかんたんに見つかる。誰だってうしろ暗いことのひとつやふたつやみっつやよっつはあるだろう。ぼくなんか悪口ばっかり書いてるからひとたまりもない。

 論理的に考えれば「市民運動の中心人物がいいやつじゃなかった」からといって市民運動までも否定される筋合いはないのだが、残念ながら人々はそんなに論理的じゃない。
「悪いやつがやってるんだから悪いこと」になってしまう。




 言われてみればたしかにそう! という発言。

「内科っていうのは外から診察して、
 外科っていうのは、
 内側をあけて治療するわけですからね。
 内科が外科で、
 外科が内科なんですよね」

  ほんとだ。

 なんで外を診るのを内科、中を開くのを外科っていうんだろう。


「昭和天皇って相撲が好きだったっていうのは、
 あの行司が好きだったんじゃないかな。
 土俵の上で一番偉そうに見えて、
 決定権のないところがさ、誰かに似てない?」

 言われてみれば。

 相撲の行司ってぜんぜん権力ないからね。

 スポーツの審判はフィールド上の最高権力者なのに、行司はちっとも権力がない。行司が裁いても土俵下にいる審判団にかんたんにくつがえされるし、ミスジャッジをしたら小刀で切腹しないといけない(じっさいはしないけど)。

 権力はないのに責任だけはある。天皇と同じだ。




「戦争体験を伝えろって、
 若い奴が話を聞きに来るんだけどさ、
 オレが中国戦争でやってきたことなんか言えないよ。
 強姦ばっかりだもの」

 戦争体験談っていうと悲惨な話ばかりになるけど、全員が悲惨な思いをするんなら戦争なんかそもそも始まらない。

 一部には、戦争によっていい思いをするやつもいるはずなんだよな。強姦したとか、戦争によって大儲けしたとか、票を集めたとか、そういうやつがさ。

 でもそういうやつは語らない。自分もつらい目に遭ったかのような顔をする。

 ほんとは、そういうのこそ書き残さなくちゃいけないんだよな。匿名でいいからさ。

「戦争すれば庶民が悲惨な目に遭うぞ!」よりも「戦争すればあいつがうるおうぞ!」のほうが抑止力になるんじゃないかな。




「プロ野球が立派でないと青少年に悪い影響を与える……。
 冗談じゃねェや、のぼせるんじゃないよ、
 たかがプロ野球が!」
「障害児が、
 精一杯生きているっていう言い方をするけど、
 本当は、障害児に対して
 精一杯生きなきゃいけないのよ」

 24時間テレビが「感動ポルノ」と言われて久しい。ぼくは観たことないので何とも言えないけど。

 ただ、テレビで伝えるべきは「障害者が何かにチャレンジする姿」よりも「障害者が何かにチャレンジするのを助ける人の姿」ではないだろうか。

 十年ぐらい前に、ある日本人の登山家が八十歳でエベレストに登頂して「世界最高齢! えらい!」とニュースで騒いでいた。

 でも、その人はべつにえらくない。好きで登っているんだもん。好きでラジオ体操するのも好きでエベレストに登るのもいっしょだ。趣味でやっているだけなんだから、べつにえらくもない。

 えらいのは、彼を助けた人たちだ。エベレストに登るだけでもたいへんなのに、じいさんをサポートしながら登らなきゃいけないのだ。仕事でやっているとはいえ、じいさんの道楽に付きあって命を救っているのだ。これはえらい。

 パラリンピックの選手だってぜんぜんえらかない。好きなスポーツをやっているだけだ。あれがえらいなら、公園でスケボーの練習をしている連中もえらいことになる。

 褒めたたえるとするなら、パラリンピックの選手をサポートしてる人たちだよな。
 彼らを取りあげて「ほら、すごいでしょ!」とやれば、観ているほうも「自分も何か手助けできるかも」とおもえるようになるかもしれない。


 スポーツ選手に対して、ファンが「感動をありがとう!」とか言うのは好きにしたらいいけど、問題なのは一部のスポーツ選手がそれを真に受けて「自分は日本中に勇気を与えられるすごい存在だ」と勘違いしちゃってること。

 勘違いするなよ。おまえは好きで跳んだり跳ねたりたたいたり投げたりしてるだけなんだよ。その姿がおもしれえから注目を集めてるだけ。パンダと同じ、何も生みださないごくつぶし。

 いやいいんだよ。ごくつぶしを飼える社会はすごく成熟してるってことだから、そうやってプロスポーツ選手が存在することはぼくも賛成だ。

 でもこないだのオリンピック開催の議論のときに明らかになったけど、一部のスポーツ選手は「社会の見世物をさせていただいている」立場だということを忘れて「社会がスポーツ選手のためにまわるべき」と思いこんじゃってるんだよね。愚かにも。

 ファンがちやほやするからだぞ!


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