2022年6月30日木曜日

【読書感想文】奥田 英朗『ガール』 / 2003年ってこんなに古くさかったっけ

ガール

奥田 英朗

内容(e-honより)
わたし、まだオッケーかな。ガールでいることを、そろそろやめたほうがいいのかな。滝川由紀子、32歳。仕事も順調、おしゃれも楽しい。でも、ふとした時に、ブルーになっちゃう(表題作)。ほか、働く女子の気持ちをありえないほど描き込み、話題騒然となった短編集。あなたと彼女のことが、よくわかります。


 2003~2005年に雑誌に発表された、働く女性を主人公にした短篇五篇を収録。

 えっ……。2003年ってこんなにも古かったの……。あたりまえのようにおこなわれるセクハラやパワハラ、上司へのごますり、派閥争い、出世競争、連日の残業、アフターファイブの飲み会、カラオケ、ディスコ……。

 これはどうなんだろう。奥田英朗氏の感覚が古くて、〝昔のニッポンの会社〟を二十一世紀に書いてしまったのか。それともこの頃の会社ってこんなんだったのか。

 ううむ、まるで百年前の話のようにおもえてしまう。


 裕子とは話が弾んだ。別のプロジェクトについてもアイデアが開陳され、裕子の積極性に驚かされた。将来の夢まで語った。得意の英語を生かして海外事業部に行きたいらしい。
「なんなら外資系に移籍しちゃえばいいのに。給料も高いし」聖子は、転職を勧めるようなことを冗談半分で言った。
「あ、それ、女性上司の発想」裕子がおかしそうに言う。「前の部署でその話をしたら、我慢してたらそのうち回ってくるからって諭されたんです」
 なるほど、男は職種ではなく会社が第一なのだろう。部下に転職を勧める上司なんて聞いたことがない。

 いやわりといるけど……。同僚や上司や部下と「転職しないんですか?」とか「いずれ転職するだろうけど……」といった話をしたことは何度もある。今となっては「女性上司の発想」ではなく「数十年前の発想」だ。


 ぼくは2005年に大学を卒業しているから、この時代の会社のこともまったく知らないわけではない。就活をしたり、先輩の話を聞いたりもしていた。

 そういえば、2000年代初頭ってまだまだこんな時代だったかもしれない。一言でいうなら「昭和」。

 そりゃあ今でも派閥争いをしたり、出世競争をしたり、連日のように飲み会や接待をしたり、セクハラやパワハラが横行している会社もあるだろう。完全になくなったわけではない。でも、少なくとも多くの人にとっては〝古くてダサいもの〟という認識を持たられている。

「いやあ、毎日接待で飲み会でね」という話を聞いて「サラリーマンはそうでなくっちゃ」とおもう人は、三十代以下では少数派だろう。多くの人の感覚は「大変だね」「気の毒に」「そんな会社やめたら?」「まさかそれが自慢になるとおもってんの?」「生産性の低いことやって給料もらえてよろしおすなあ」だ。


『ガール』に出てくる会社や人は、ことごとく古い。二十年もたっていないのに、まるで五十年前の価値観を持っているように見える。

「女性社員は職場の花だから若いほどいい」「妻が夫より稼ぐなんて」「女が会社で生きるには、男に負けないぐらい気が強いか、かわいくて男に甘えて生きるか」みたいな感覚を持っている。男も女も。

 上司の男が部下の女性に「おっ、この後デートか?」みたいなことを言って、言われたほうが「もう! 課長それセクハラですよ」なんて言ってる。「それセクハラですよ」は「不問にしますよ」と同義だ。言われた女は「恥ずかしそうにする」か「冗談めかして怒ったふりをする」かの選択肢しかなかったのだ。「無視する」とか「冷ややかな目を向ける」とか「もっと上に通報する」とかはそもそもありえなかった時代。

 こういうのを読むと、世の中って変わっていないようで変わっているんだなあと感じる。




 どの短篇も、会社や社会に巣くう女性に対する抑圧に立ち向かう主人公、という構図になっているのだが、この図式自体が古く感じてしまう。

 2022年も、一般的に女は男よりも働きにくい。そのことに変わりはないけど、でもいくぶん緩和されてはいる。「女性社員は職場の花だから若いほどいい」「男は家事や育児を置いてでも仕事に打ちこめ」という考えの人だってまだまだいるけど少数派だし、まして大っぴらに公言する人はもっと少ない。

 今だったら、あからさまな女性差別をする会社があったら「闘って変えていかないと!」よりも「そんな会社は見切りつけて転職したほうがいいよ」になる。もっとまともな会社はいっぱいあるし、そもそも「生涯一社」のほうがめずらしいし。

 でもこうやって「そんなセクハラ・パワハラが横行してる会社なんてごく一部だから、さっさと辞めちゃえばいいじゃん」と言えるのは、今の時代だからだ。自分が社会人になった2005年頃の雰囲気を思い返してみると、とてもそんなことは言えなかった。まだまだ「同じ会社に長く勤めて一人前」という風潮が強かったし、転職者に対する風当たりも強かった。「新卒入社した会社に定年まで勤めあげる」という神話がまだ生きていたし、不況だったこともあってブラック企業でもやめづらかった。必然的に、パワハラにもセクハラにも薄給にも長時間労働にも耐えなければならなかった。


 くりかえしになるけど、世の中はちゃんと変わっている。

『ガール』に出てくるような、自分のできる範囲で闘っていた人たちがいたからこそ変わってきたのだろう(あと古い価値案を持った年寄りが会社から退場していったから)。

 日本は貧しくなったし労働者のおかれている状況は厳しくなったけど、それでもぼくは「三十年前の会社で働きたいか」と言われたらノーと答える。

 給料少なくても、残業なくて飲み会断れて休みの日まで拘束されない会社のほうがいいや。


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2022年6月29日水曜日

若い人に薦めたい名著百冊


そんなものはない!


 いや、ほんとはあるけど、「若いうちにこれだけは読んどいたほうがいいよ」と言ってもうっとうしがられるだけだから言わない!

 読書にかぎらず音楽でもアニメでも映画でも、年寄りの「若いうちにこれだけは抑えとけ」は聞く価値なし。

 だいたい、そういうやつが挙げるものって古いんだよね。

 自分が若い頃に読んで感銘を受けたものだから、今の基準からすると古い。当時はセンセーショナルだったかもしれないけど、今は似たジャンルでもっとレベルの高いものが登場している。年寄りがそれを知らないだけ。


 若い人が知らないってことは、かつては最高峰にいたけど今の基準ではそんなにすごくないってことだ。

 カール・ルイス。ぼくが子どもの頃にその名を知らない人はいなかった。陸上100メートル走世界記録保持者だった人だ。

 でも今の小学生はまず知らない。とっくに世界一じゃなくなってるから。

 それでいい。今の小学生に「カール・ルイスという人がいて、そりゃあ速かったんだよ。短距離走をやるんなら彼ぐらいは知っておいたほうがいい。彼の走りをよく見て勉強してごらん」と説くのは無意味だ。今トップの人の走りを見て真似したらいい。


 そもそも「若い人に薦めたい」とか「十代のうちに読んでおきたい」とかいうあたりが、時代についていけてない人の発言丸出しだ。

 ほんとにいいものなら年齢関係なく勧めたらいい。それができないのは、自分が新しいものを取り入れられていないから。

 えらそうにしたい。でも自分よりも詳しい人がいっぱいいるから、恥ずかしくて知識をひけらかせない。

 そうだ! 若いやつを狙おう! 同じ時間を生きたすごいやつにはかなわないけど、生きている時間が短いやつにはえらそうにできる! だってあいつらが生まれる前の古い作品をこっちは知ってるんだもの! 仮に向こうが知っていたとしても「でも当時はすごかったんだよ。今の子にはわからないだろうけど、時代の空気にうまく乗ったというか……」みたいに言えばこっちの浅薄さをごまかせるし!


 思い返してほしい。自分が若い頃、「若いうちにこれだけは読んどいたほうがいい」と言われて素直に読んだだろうか。読んだとして、勧めてきた人と同じくらいの衝撃を受けただろうか? せいぜい「ふーん、昔はこんなものがありがたがられていたのか」ぐらいじゃなかったか?


2022年6月28日火曜日

未来から来た子ども

 三歳の次女。

 時間の概念がよくわかっていない。まあこの年頃の子はそんなもんだ。

 未来のことはどんなに先でも「明日」だし、過去のことは半年前であっても「昨日」だ。またお昼寝の前のことも「昨日」になる。〝寝た後〟の出来事がすべて「明日」で、〝起きる前〟が昨日になるようだ。

 ただし数はかぞえられるので、「あと五日たったらプールに行くよ」は伝わらないが、「あと五回保育園に行ったらプールに行くよ」は理解できる。


 そんな次女だが、最近未来の話をするようになった。

 ただそれがちょっと変わっていて、「大きくなったら〇〇になる」ではなく、「大きかったときは〇〇をしてた」と過去形で未来を語るのだ。

 さらにそれに空想が入り混じる。まったく知らない子の名前を急に挙げて「ラルラちゃんは(自分の名)ちゃんの六歳のときの友達」とか、テレビに映った家を見て「(自分の名)ちゃんがお仕事をしてたときはここに住んでたんやで!」と言ったりする。

 まるで未来から来た人みたいな話し方をするのでなかなかおもしろい。


 こういうことは子どものある時期だけのことで、ちゃんと書きとめておかないとすぐに忘れてしまう。

 ぼくが老人になったときにも、このことを覚えてたんやで!



2022年6月27日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組の大運動会』『ズッコケ三人組のミステリーツアー』『ズッコケ三人組と学校の怪談』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十弾。

 今回は27・29・30作目の感想。

 ちなみにぼくが小学生のときに読んだのは26作目の『ズッコケ三人組対怪盗X』までで、今作以降はすべて大人になってはじめて読む作品だ。


『ズッコケ三人組の大運動会』(1993年)

 運動だけは得意なハチベエ。これまで運動会の徒競走では毎回一等だったが、足の速い転校生というおもわぬライバル出現。ライバルに勝つためひそかに特訓をはじめる。そんなとき、組体操の練習中に転校生がケガをするというアクシデントが発生し、ハカセがわざとケガをさせたのではないかと疑われる……。


 運動会かあ、このテーマでは派手な展開にはならないだろうなあとあまり期待せずに読んだのだが、いやいやどうしてこれはこれで悪くない。

 はっきりいって運動会は地味な題材だ。小学生からしたら大イベントだが、それはそのときだけの話で、大人になってみるとほとんど記憶に残っていない。なぜなら、運動会はやることがすべて決められているから。先生が決めたタイムスケジュール通りに先生が決めた通りの動きをするだけ。創意工夫などまったく発揮する余地はない。これでは思い出に残るはずがない。

 そりゃあ競争だから勝てばうれしいし負ければくやしいが、そこまで引きずるようなものではない。その日の晩になればもう忘れている。小学校の運動会なんて、ほとんど生まれもった素質で決まるのだから。速いやつは速いし、遅いやつは遅い。ただそれだけ。素質とその日の運で勝敗が決まるのだから、ドラマ性は低い。

 しかしながら『ズッコケ三人組の大運動会』では、「足は速いが人づきあいがうまくない転校生」「その子のあこがれのお兄ちゃん」といった配役を用意し、さらに運動会での活躍ははなから諦めていたハカセやモーちゃんが努力して結果を残すという意外な展開を見せることで、なかなかドラマチックなストーリーに仕立てている。

 ズッコケシリーズは、無人島に漂着したり、山賊に拉致されたりといった派手な事件が起こる話もいいが、学校新聞を作ったり、児童会長選挙の活動をしたり、文化祭で劇をしたり、放送委員でテレビ番組を作ったりといった「どこの小学校でもやっていること」を描いているときこそ光り輝くようにおもう。心理描写がうまいんだよね。描きすぎてなくて、想像の余地が大きい。

『ズッコケ三人組の大運動会』では、運動が苦手なハカセやモーちゃんが良いコーチに出会って努力することで(当人たちにとっては)すばらしい結果を残すのだが、だからといって努力は大事だよ努力をしよう、みたいな安易な結論に着地しないのがいい。

 運動会が終わっても早朝トレーニングを続けようと誘われたモーちゃんが「トレーニングで足が速くなるのもいいけど朝布団で寝る時間も捨てがたい」とおもいなやむラストシーンはなんともリアルだ。そうそう、ズッコケはこうでなくっちゃ。



『ズッコケ三人組のミステリーツアー』(1994年)

 旅行会社に招待されてミステリーツアーに参加することになった三人組。ツアーの参加者は、ハカセとモーちゃん以外は十年前の旅行にも参加したメンバーばかり。さらに十年前の旅行中に参加者が死亡していたことが明らかに。そして今回の旅行でも殺人事件が発生。はたして犯人は……。

 これはかなりのハズレ回。この時期の作品は迷走感が漂っている。『ズッコケ三人組のミステリーツアー』の刊行が1994年。『金田一少年の事件簿』の連載開始が1992年、『名探偵コナン』の連載開始が1994年ということで、子ども向けミステリが流行っていた時期。まんまと流行りに乗っかった形だ。ポプラ社の悪いところが出ているなあ。

 この作品、あからさまに『金田一少年の事件簿』によく似ている。旅行に参加した先で殺人事件に巻きこまれるところや、過去の事件との因縁が明らかになるところなど。さすがに連続殺人ではないけれど。

 真似だけならいいけど、問題は真似たところがことごとく失敗しているところだ。

 まず登場人物が多いのにキャラクターが立っていない。児童文学の分量では、十数人のキャラクターをしっかり説明しきれない。そして設定に無理がある。「道中で人が死んだツアー」に参加した人を十年後に招待して、再び来てくれる人がどれだけいるだろう? ターゲットが来なかったらどうする気だったんだろう? 初日に参加者が睡眠薬を飲まされているけど、その日は何も起きていない。あの睡眠薬が何のためだったのかまったく説明されない。

 そして最大の難点は、三人組の活躍がほとんど見られないことだ。ハチベエは一応目撃者の役目を果たすからいいとして、ハカセは一応推理するけどその推理は警察の捜査にはまったく生かされない。警察が捜査して警察が犯人を突き止めているのでハカセはいてもいなくても同じだ。そしてモーちゃんにいたってはただ旅館でいっぱいご飯を食べただけ。

 児童向けミステリとしては悪くない出来かもしれないが、これをズッコケシリーズで書く必然性がまったくない。

 どうも、困ったらミステリとホラーに逃げる(そしてその回はおもしろくない)傾向があるな。


『ズッコケ三人組と学校の怪談』(1994年)

 隣の小学校には「学校の七不思議」があるのに花山第二小学校には存在しないことに不満を感じた六年一組の面々が、「学校の八不思議」をでっちあげてうわさを広める。しかし、自分たちのつくった怪談通りの出来事が本当に起こりはじめ……。


 ほらきた、困ったときのミステリとホラー。ちょうどこの頃『学校の怪談』って小説が小学生の間で流行ってたんだよね。

 流行りに安易に乗っかっちゃってるだけあって、導入がめちゃくちゃ雑。あっという間に男子も女子も集まって「おれたちで学校の怪談をつくろうぜ!」と意気投合しちゃう。で、あっという間に「学校の八不思議」が完成する。とにかく早く「話をつくったとおりに怪異現象が起こる」という展開に持ちこみたくてたまらないという意図が見え見えだ。『児童会長』『株式会社』『文化祭事件』あたりでは丁寧に話を運んでいたのになあ。どうしちゃったの、那須先生。

 ストーリーとしても、徐々にふしぎな事件が起こって、派手な怪奇現象が起こり、なんとか解決したとおもったら最後に不安にさせることが……という怪談のよくあるパターン。ううむ、怖い話が好きな子どもだと楽しめるかもしれないけど、大人が読むとこれといって特筆すべきことはないかなあ。

 ズッコケシリーズ初期のホラーだと『心理学入門』や『恐怖体験』あたりは、ポルターガイスト現象について長々と説明したり、江戸時代のそれらしい話を作りあげたり、(それがおもしろいかどうかはおいといて)作者もおもしろがって書いていた感じがあるけど、今作はどうも「こういうの書いときゃ子どもはこわがるんでしょ」って意識が透けて見えてしまう。はっきりいうとなめてかかっているというか。

 ズッコケシリーズ初期作品の魅力って、大人が真剣に書いていたことなんだよね。伝わらなくてもいいから書きたいものを書くぜ、って姿勢が伝わってきたもん。北京原人の骨の話とか、株式会社の制度とか、大統領選挙のうんちくとか、天皇家とは別の一族をまつりあげて国家転覆を目指す一族の話とか、子どもの理解なんか度外視して書いているフシがある。もちろん子どもにとってはそんなとこおもしろくないから読み飛ばすんだけど、「今の自分にはわからないけど知識のある人にとっては大事だしおもしろいことなんだろうな」ってのは伝わるんだよね。

 そういうのが中期以降はどんどん少なくなってきたようにおもう。変装の名人の大怪盗に、忍者軍団に、殺人ツアーに、学校の怪談……。この頃の作品は〝こどもだまし〟がすぎるなあ。那須正幹先生自身の子どもが大きくなってきて、小学生のリアルな感覚がつかめなくなってきてたのかな。


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2022年6月24日金曜日

【読書感想文】小野寺 史宜『ひと』 / はなさかじいさん系おとぎ話

ひと

小野寺 史宜

内容(e-honより)
女手ひとつで僕を東京の私大に進ませてくれた母が急死した。僕、柏木聖輔は二十歳の秋、たった独りになった。大学は中退を選び、就職先のあてもない。そんなある日、空腹に負けて吸い寄せられた砂町銀座商店街の惣菜屋で、最後に残った五十円のコロッケを見知らぬお婆さんに譲ったことから、不思議な縁が生まれていく。本屋大賞から生まれたベストセラー、待望の文庫化。

 高校生のときに父親が事故死し、つい最近実家の母親が孤独死してしまった主人公。若干二十歳で天涯孤独となり、大学は中退。そんな折、ふとした縁を機に商店街のお総菜屋で働くことになる。亡き父や母に思いを馳せながら、次第に己の進む方向を見極めようとする……。


 『ひと』というタイトルが表すように、人について丁寧に書いている。主人公はもちろん、亡き父母、周囲の人々、ちょっとした脇役までとにかく丁寧に人となりを書いている(解説文を読むまで気づかなかったが、すべての登場人物にフルネームが与えられているそうだ)。

 そう、丁寧。丁寧な小説。それはいいことでもあり、悪いことでもある。

 たとえば、主人公と女ともだちがお酒を飲みながら交わす会話。

「いや、感動するようなことは言ってないよ。ダメダメな人が言いそうなことじゃん」
「でもたまのダメダメはいいよね」
「うん」
「じゃ、わたし、ダメダメの代表格、チキン南蛮を頼んじゃっていい?」
「いいね。頼もう。チキン南蛮。あと、この炙り焼っていうのもいっちゃおう」
「それ、わたしも気になってた。肉肉肉肉。鶏鶏鶏鶏。牛と豚にくらべたら罪悪感を薄めてくれちゃうから、鶏はほんと女子泣かせだよ」

 どうよこのクソつまらない会話。こういうのがだらだら書かれている。会話文がほとんどはしょられていない。だから内容のない会話をひたすら読まされる。

 いや、たしかにリアルなんだよね。酒の席の会話ってぜんぜん頭を使ってないからこの程度のうすっぺらさだけど、それを文章で読まされるのはなかなかつらい。実直ではあるが、ケレン味がない。

 ほら、まじめないい人の話ってつまらないじゃない。会話をしていてもずっと凪。悪口もゴシップも嘘も自慢も冗談もない会話。そんな、まじめでつまらないいい人を小説にしたような作品。

 リアルだったらいいってもんでもないな、丁寧だったらいいってもんでもないな。




 いい小説だとおもうんだよ。小説にハッピーなものだけを求めている人にとっては。

 ただ、ぼくみたいなへそまがりな人間向きではないってだけで。


 なーんかね。おとぎ話みたいだったんだよな。

 優しくて、謙虚で、まじめで、性的なこととかまったく考えない若者が主人公で、つらい目にあったりもするんだけどそれでもやさぐれることなく一生懸命生きていたら、その努力をちゃんと見てくれている人がいて、きっちり報われるというお話。『かさじぞう』とか『はなさかじいさん』みたいなお話。


 最近知った言葉に〝公正世界仮説〟というものがある。正しいことをしている人は必ず報われる、悪いことをしている人はいつか必ずしっぺ返しを食らう、と人は考えてしまいがちだというもの。

 そりゃあ世の中は公正だとおもっていたほうが楽だ。というか、そう信じていないと「やってらんねえよ」と言いたくなる。この世の中は。でも、そんな世の中でもぼくらはそこそこまじめにやっていかなくちゃいけない。悪いやつがふんぞりかえっていたり、優しくて謙虚でまじめな者が不幸な目に遭ったりするけど、だからといって『はなさかじいさん』の世界に引っ越すことはできない。

 だからせめてフィクションの中ぐらいは勧善懲悪の単純な世界であってほしい。その気持ちもわかる。正しい主人公が報われて「正義は勝つ!」ってなる物語は読んでいて気持ちいいよ。こんなに優しい(と自分ではおもっている)のに現実世界では報われないボクが転生して別世界で大活躍できたら、そりゃあ楽しいだろうよ。

 でもなあ。それで満足してしまっていいのか、ともおもうんだよね。ポルノをポルノとおもって消化する分にはぜんぜんいいんだけど、この小説を読んで「心があたたかくなりました」とか「勇気が出ました」とかいう人には大丈夫か? と言いたくなる。大きなお世話なんですけど。


「正義は勝つ」は、容易に「勝たなかったあいつは正義じゃなかったんだ」「おれは勝ったから正義なんだ」になっちゃうから、すごく危険な思想なんだよね。

 この小説は「正義は勝つ」感が強くてちょっと気持ち悪いな、と感じちゃった。ごめんね、ほんとに丁寧でいい小説なんだけどね。けっこうおもしろく読めたし。メッセージが個人的に嫌いだっただけで。


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2022年6月23日木曜日

【読書感想文】半藤 一利『B面昭和史 1926-1945』 / 昭和もB面も遠くなりにけり

B面昭和史

1926-1945

半藤 一利

内容(e-honより)
「六十年近く一歩一歩、考えを進めながら、調べてきたことを基礎として書いた本書の主題は、戦場だけではなく日本本土における戦争の事実をもごまかすことなしにはっきりと認めることでありました。民草の心の変化を丹念に追うということです。昔の思い出話でなく、現在の問題そのものを書いている、いや、未来に重要なことを示唆する事実を書いていると、うぬぼれでなくそう思って全力を傾けました」ロングセラー『昭和史1926‐1945』の姉妹編!

「昭和史」を名乗ってはいるが、書かれているのは昭和20年まで。サブタイトルに「1926-1945」とつけてはいるが、63年のうち20年だけを書いて「昭和史」と掲げるのは景品表示法違反じゃないか。

 ま、それはいいとして。

 昭和元年から20年までの、一般庶民の風俗についてのトピックを拾い集めた本。A面(政治・経済)に対するB面ということだが、そうはいっても政治や経済について語ることなくこの時代を語ることは不可能なので、じっさい半分近くはA面の話題。まあこれはしかたない。




 大正12年、つまり昭和元年の3年前に起こった関東大震災について。

 相当のちの話となるが、東京横浜電鉄の社長として、腕をふるい昭和十七年にはこの小田急までも合併して東京急行電鉄(現東急)という大鉄道会社を設立した五島慶太が、徳川夢声と『夢声対談』で少なからず得意そうに語っている。
「まったく関東大震災さまさまでした。震災後、日本橋や京橋におることができないから、みんな郊外に出た。ちゃんとこっちが郊外に住宅地を造成しておいたから、そこへみんな入ってくれたんです。その前は、あんなところに住むものは、退役軍人以外になかった」
 これはもうなるほどネと合点するばかり。大震災が東京の住宅地を東西南北とくに西の郊外へとぐんぐんひろげていったのである。さきの五島慶太の履歴をみるとそのことがよくわかる。そもそもが目黒蒲田電鉄にはじまって、彼がつぎつぎに買収ないし合併していった鉄道会社の名はざっとつぎのとおり。池上電鉄、玉川電気鉄道、京浜電気鉄道、東京横浜電鉄、京王電気軌道、相模鉄道……。すべて鉄道建設と沿線の住宅地分譲をいっしょに行う積極的な企業家活動が成功したのである。
(中略)
 こうして東京はぐんぐん変貌していく。震災のため下町から焼けだされた人びとが、山の手からさらにその先の、とくに西や南の郊外へと移っていった。必然的にその郊外への起点である渋谷や新宿が存在を重くしていく。単なる盛り場にあらず、いまの言葉を借りれば副都心的な繁華街へとのし上がっていったのである。
 と同時に、地方からの人びとの流入、その結果としての東京の人口の爆発的な増加ということも、忘れずにつけ加えておかなければならないであろう。

「まったく関東大震災さまさまでした」なんて今だったら大炎上してる発言だけど、まあ鉄道会社社長からしたら本音だろう。

 結果的に関東大震災があったからこそ東京は鉄道網や住宅地の整備が進み、都市化が進んだ。地震が起こる前の東京都の人口は400万人ぐらいだったが、昭和15年には700万人を超えている。空襲で激減したものの、その後に起こった再度の人口増加はご存じの通り。地震と空襲という二度の災害が、東京を大都市にしたんだね。

 そういや大地震にも空襲にも襲われていない京都市の中心部では、地上を鉄道が走っていない(昔は路面電車が走っていたが)。阪急も京阪も地下。JR京都駅は中心部からずいぶん離れている。道は狭く、バスやタクシーは渋滞で動けない。

 大きな災害がないのはいいことだが、都市開発という点では必ずしもいいこととはいえなさそうだ。




 昭和6(1931)年の話。満州事変後の報道について。

 さらには忘れてはならないことがある。新聞各紙が雪崩をうつようにして陸軍の野望の応援団と化したことである。背後から味方に鉄砲を撃つようなことは出来ぬと格好のいいことをいい、あれよという間にメディアは陸軍と同志的関係になっていく。
 その理由の一つにラジオの普及があったことは、すでに拙著『昭和史』(平凡社)でかいている。九月十九日午前六時半、ラジオ体操が中断されて「臨時ニュースを申しあげます」と元気よく江木アナウンサーが事変の勃発を伝えた。これがラジオの臨時ニュースの第一号。新開はこのラジオのスピードにかなわなかった。負けてなるかと号外につぐ号外で対抗しようとするが、号外の紙面を埋めるために情報をすべて陸軍の報道班に頼みこむほかはない。勢い陸軍の豪語のままに威勢のいい記事をかくことになる。軍縮大いに賛成、対中国強硬論反対、さらには満蒙放棄論までぶって陸軍批判をつづけてきたこれまでの新聞の権威も主張もどこへやら、陸軍のいうままに報じる存在となる。ああ、こぞの雪いまいずこ。どの新聞も軍部支持で社論を統一し、多様性を失い、一つの論にまとまり、「新聞の力」を自分から放棄した。

 このへんはひとつの分岐点だったのかもしれない。陸軍の暴走があったことはまちがいないが、ここで報道機関や国民が冷静になっていれば……ひょっとして無謀な戦争への突入は避けられたのかもしれない。

 翌昭和7年の話。

 そう思うと満洲事変いらい、日本は戦時下となったといえるのかもしれない。召集令状の赤紙がしきりに舞いこんでくる。戦死者の無言の遺骨が帰国してくる。そのなかで思いもかけぬ事件が起こった。大阪の井上清一中尉に赤紙が届けられたとき、夫に心残りをさせないためにと、彼の妻がみずから命を絶った。この行為が軍国主婦の鑑ともてはやされたのである。井上中尉と親類筋にあった大阪港区の安田せい(金属部品工場主の妻)が、この事実に感激し、友人や近所の婦人たちに呼びかけ、お国の役に立つための女だけの会の結成をよびかけた。これが国防婦人会の発足なのである。それがこの年の三月十八日のこと。
 着物で白いかっぼう着にたすきがけの女性四十名近くが、新聞記者を前にさかんに気勢をあげる。
「銃後の守りは私たちの手で」
 それが会の目的である。そのために出征兵士の見送りや慰問をすすんでやることになる。喜んだのは軍部である。女性のほうから積極的に戦争協力に挺身し、さらに五・一五事件の減刑運動をするというのであるから。
 会はどんどん大きくなる。関西ばかりでなく東京にも進出、十月二十七日に関東本部発会式。十二月十三日には大日本国防婦人会へと発展する。やがて会員も七百万人を超えるようになる。恐るべし、女性の力。

 NHKの朝ドラなんかだと「勝手な戦争をしかけたえらいさんのせいで、我々庶民がひどい目に遭う」みたいな描き方をされがちだけど、そんなことはない。庶民こそが旗を振って戦争突入を後押ししたのである。

 斎藤 美奈子『モダンガール論』にも同じような記述があった。それまで女は家の外のことに口出しするな、だったのが、勤労奉仕、銃後の守りを理由にどんどん家の外に出て活躍できるようになった。多くの女性にとって戦争協力は喜びに満ちたものだったにちがいない。




 昭和11年。国際連盟を脱退した3年後。日中戦争開戦の前年である。

 それと都市を中心に結婚ブームが起こったという。八年ごろからの軍需景気がつづいて失業者は減り、蒼白きインテリなどといわれた大学卒業者はみな大手をふっていい職業につくようになる。それと軍人たちが救世主のように思われ、娘たちの憧れの的となっている。加えて、新婚生活のすばらしさを歌った歌謡曲がやたらに売りだされ、それがまた大いに売れた。(中略)
 こんな風に、時代が大きく転回しようとしているとき、民草はそんなこととは露思わずに前途隆々たる国運のつづくように思い、生活にかなりの余裕を感じはじめていたのである。東北地方の貧農の娘の身売り話などまったくといっていいほどなくなっていた。

 このへんが最後の平穏という感じだろうか。昭和9~10年頃は景気もよく、喫茶店やミルクホールが流行るなど都市の市民は平和を謳歌していたらしい。 岩瀬彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』にも、昭和10年頃のサラリーマンが銀座で飲み歩いたりしていた様子が描かれている。まさか数年後に、南国に出兵して命を落としたり、空襲で家を焼かれたりしているなんて想像もしていなかったことだろう。たった数年で「大卒サラリーマンの結婚ブーム」から「戦争で焼け野原」になるなんて。

 もっとも平和を謳歌していたのは都市部の話で、昭和9年の東北は大飢饉で娘を身売りする家が相次いでいたそうだ。都市と地方の生活格差は今の比ではなかったのだ。




 昭和15年。太平洋戦争開戦前夜。

 雑誌「文藝春秋」の十五年新年号に、時代の風潮を知るうえに面白い世論調査が載っている。東京・神奈川・埼玉・千葉の読者六百九十六人に質問十項をだしてその回答を得たものである。
「・現状に鑑みて統制を一層強化すべきか
  強化すべし四六一 反対二二八 不明七
 ・対米外交は強硬に出るべきか
  強硬に出る四三二 強硬はよくない二五五 不明九
 ・最近の懐具合は良いか
  良い一〇八 悪い五七三 不明一五」
などなどであるが、これでみると、〝最後の平和〟を愉しんでいる人びとのいるいっぽうで、そうした悠長な国民的気分にかなり苛々として、もっと指導者による強い国家指導を望む声の高くなっているのがわかる。それに「懐具合」がかなり悪くなっているのも、はなはだよろしからざる気分を助長していたのであろう。それでなくとも統制が強化され、新聞も紙の事情からすべて朝刊八ページ、夕刊四ページ建てを余儀なくされ、情報量は減ってきている。そのことが人びとによりいっそうの思考停止をもたらしているのかもしれない。

 この感じは今の状況にも近いかもしれないね。

 景気は悪い、経済が上向く見通しも立たない。こうなると人々は「強いリーダー」「現状を打破してくれるおもいきった方針」を支持するようになる。

 漸進的に変えていきましょう、という地に足のついた意見は人気を集めず、改革だ、維新だ、刷新だ、という聞こえのいいだけの言葉に飛びつくようになる。貧乏人ほど一発逆転を狙って宝くじやギャンブルに走るようなものだね。もちろん『カイジ』じゃないんだから崖っぷちのギャンブルで勝てるわけないんだけど。




 昭和19年の「竹槍事件」について。長くなるので要約。

 毎日新聞が「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ 海洋航空機だ」と見出しをつけ「敵が飛行機で攻めてくるのに竹槍では戦えない」と書いた。
 これを読んだ首相の東条英機が激怒。「国民一丸となって戦え」と演説をしたことにケチをつけられたと感じたこと、海軍が戦力増強を求めても陸軍がこれに応じなかったことなどが背景にあった。面子をつぶされたと感じた東条は、毎日新聞の記事は反戦思想だとして毎日新聞社に記者の処分を求めたが、毎日新聞社はこれを拒否。すると軍は書いた記者に召集令状を出す。

 これに海軍が「大正時代に徴兵検査を受けた記者を徴用するとは何事か」と抗議。すると、陸軍はなんと大正時代に徴兵検査を受けた他の兵役免除者250人にも召集令状を出したのだ。

 もう、むちゃくちゃ。「竹槍では戦えないから飛行機を増やしたほうがいい」は誰が見たって正論だ。しかし正論なのがよくなかったのだろう。無茶を言っている人は正論を言われると逆ギレする。さらに見せしめのような徴兵、さらには東条英機のプライドを守るためだけにルールまでねじ曲げる。ひでえ。

 ひどい時代だったんだなあ。まるで、賭け麻雀をやった黒川弘務検事長たったひとりを守るために、強引に法律をねじまげて不起訴にした検察組織みたいなむちゃくちゃだ。あっ、今もひどい時代だった……。




 読んでいておもうのは、ほんとに国全体が戦争に向かって突き進んだんだなってこと。もちろん中には戦争反対を貫く人もいたけれども、総体としてみれば戦争に傾いていた。そりゃあ軍部や政治家は特に悪いけど、そこだけの責任ではない。国民も報道機関も、みんなで突き進んだから、もう誰にも止められなくなっていた。総理大臣でも、天皇でも。

 そして、人々の気質は今もそんなに変わってないなってことも感じる。みんな、なんとかなるさとおもっている。自分がなんとかしなきゃとはおもっていない。国会議員も、総理大臣も。もちろんぼくも。

 だからまあ、戦争かどうかはわからないけど、似たような大失敗をまたやらかすんだろうな。反省もなく。

 国民が〝強いリーダー〟を求めているんだから。自分が強くなることよりも。

 そんなわけでもうすぐ参院選です。選挙に行きたい人は行きましょう。行きたくない人は行かなくてよろしい。


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2022年6月22日水曜日

人は変えられない


 上野 千鶴子『女の子はどう生きるか』にこんな文章があった。

 朝日新聞の世論調査(二〇一八年)では、夫婦別姓選択制を支持するひとは六九%にのぼっています。ですから、最高裁の判事の意見は、世論の動向ともかけはなれています。それに夫婦別姓選択制は、「選択できる」という制度のことで、別姓にしなさいという強制ではありません。同姓にしたいひとはどうぞ、そうでないひとは別姓を選ぼうと思えば選べる、というものですから、誰も不幸にしません。現行の「夫婦同氏」の制度は、同姓にしなさいという強制です。強制をやめて選択にしようという法律の改正に反対するひとの理由が、わたしにはわかりません。国会議員のなかには強力な反対派がいます。反対派の言い分は、家族のなかで姓がばらばらだと家族の一体感がこわれるから、だといいますが、同じ姓でもばらばらの家族はあるし、姓がちがっても仲のよい家族もあるのにねえ。自分が認めないことは他のひとにもやらせない、って押しつけだと思うんですけど。
 ちなみに国連は日本政府に、男女平等を推進するなら夫婦別姓を可能にしなさい、とずいぶん前から勧告しています。この勧告を聞き入れようとしないのが今の政府です。あなたが結婚する頃までに、夫婦別姓選択制が実現しているといいですね。

 もっともだ。多数派である夫婦別姓選択制賛成派はだいたい同じ意見だとおもう。

 別姓を強制するわけじゃないんだよ?
 やりたい人がやるだけで、同姓がいい人はこれまでと同じようにすればいいんだよ?
 反対する理由ある?

と、おもうだろう。ぼくもそうおもう。

 でも、最近わかってきた。反対派にとっては、そんなことはどうでもいいのだと。




 ぼくが結婚するとき、姓をどうするか妻と話しあった。

 ぼくはどっちでもよかった。自分の苗字はあまり好きではない。嫌いというほどでもないが、ありふれていてつまらない。

 じっくり考えてみると、

・ぼくの苗字は、同じ読み方で複数の漢字のパターンがある(安部と阿部みたいな)ので他人に説明するときめんどくさい。妻の苗字はそこそこありふれている上に漢字のパターンはほぼ一種類なのでわかりやすい(佐々木とか石田みたいな)。

・結婚するタイミングでぼくは転職することが決まっていた。仕事も変わるタイミングで苗字を変えれば手続きが少なくて済む。

・妻のお父さんは長男だがは女きょうだいしかいないので、ぼくが改姓すれば苗字が途絶えなくて済む。一方ぼくの父は次男。長男(伯父)のところには息子がふたりいる。

など、ぼくが苗字を変えたほうがいい理由のほうが多かった。


 ということで、両親に「結婚したら向こうの姓にしようとおもう」と言ったら、母親には賛成されたが父親に反対された。

 そのときの父親の態度はなんとも煮え切らないというか、ぼくから見るとよくわからないものだった。

「うーん、絶対にダメってわけではないんだけど、でもふつうは男の苗字になるものだし、養子に入るわけでもないんだったら変えなきゃいけないわけじゃないんだし、変えなくてもいいんだったらふつうのやりかたにあわせといたほうがいいんじゃないか……」

みたいな曖昧模糊とした言い方で、けれども退く気はないといった様子で反対された。父はわりと合理的な考え方をする人だったので、これは意外だった。

 妻に「うちの父親が嫌がってるんだよね。なにがなんでも反対ってわけじゃないから強引に改姓することもできるとおもうけど」と伝えると、「これからの付き合いのこともあるからここで遺恨を残すのもよくないし、だったら私が姓を変えるよ」とのことで、結局ぼくの姓を名乗ることになった。




 そんな経験があるので、夫婦別姓反対派の態度もなんとなく想像がつく。

 結局、理屈じゃないのだ。「イヤだからイヤ!」なのだ。


 人間の「今の状況を変えたくない」という本能はすごく強い。

 たとえば「今と同じ仕事、同じ労働条件で今より給料が千円高い仕事がありますよ。転職しませんか?」と言われたとする。今の職場に強い不満がある人以外は断るだろう。
 合理的に考えれば千円でも給料が高いほうに転職するほうが得だ。人間関係などが今より悪くなる可能性もあるが、今より良くなる可能性も同じだけある。それでも、千円の得よりも「変えたくない」のほうが上回る。


 夫婦別姓や同性婚に反対している人は、家族共同体だとか伝統だとかなんのかんのと理屈をつけるが、あんなのは全部ウソだ。いやウソとは言わないが後からつくった理屈だ。ほんとのほんとのところは「イヤだからイヤ!」なのだ。

 キュウリが嫌いな人は「青臭い。あんなのは虫の食べるものだ」とか「ほとんど栄養ないから食べなくてもいい」とか「小学校の給食でむりやり食べさせられて余計嫌いになった」とかいろいろ理屈をつけるが、ほんとは「イヤだからイヤ!」だ。


「夫婦別姓になると家族の絆が弱くなる」も「伝統だから」も「親と子の苗字がちがうと子どもがいじめられる」もぜーんぶ後づけの理屈だ。正直に「イヤだからイヤなの!」と言うのが恥ずかしいからもっともらしい言い訳を並べたてているにすぎない。

 なのに、賛成派はいちいちそれを真に受けすぎだ。

 上の例だと、上野千鶴子さんは「誰も不幸にしません」とか「同じ姓でもばらばらの家族はあるし、姓がちがっても仲のよい家族もある」「自分が認めないことは他のひとにもやらせない、って押しつけだと思うんですけど」とか書いてるけど、そんなことは何の意味もない。正論だけど意味がない。だって反対派の本当の理由はそんなことじゃないんだもの。

 キュウリが嫌いな人に「キュウリは低カロリーだし、カリウムやビタミンもけっこう含まれてるし、食物繊維もとれるから便秘にもいいし……」なんていくらいっても意味がない。だって「イヤだからイヤ!」なのだから。

 上野さんは「強制をやめて選択にしようという法律の改正に反対するひとの理由が、わたしにはわかりません」と書いているが、わからないのもあたりまえだ。理由なんてないんだもの。




 夫が妻の苗字を名乗るのに反対したぼくの父親の考えは古いとおもう。非合理的だとおもう。

 でもぼくは父を説得しようとはおもわない。無駄だとわかっているから。

「イヤだからイヤ!」な相手に、何を言っても変わるわけないのだ。


 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』に、こんなことが書いてあった。

 地動説が出てきたあとも、ずっと世の中は天動説でした。
 古い世代の学者たちは、どれだけ確かな新事実を突きつけられても、自説を曲げるようなことはけっしてなかったんですね。
 でも、新しく学者になった若い人たちは違います。古い常識に染まってないから、天動説と地動説とを冷静に比較して、どうやら地動説のほうが正しそうだってことで、最初は圧倒的な少数派ですが、地動説の人として生きていったんです。
 で、それが50年とか続くと、天動説の人は平均年齢が上がっていって、やがて全員死んじゃいますよね。地動説を信じていたのは若くて少数派でしたが、旧世代がみんな死んじゃったことで、人口動態的に、地動説の人が圧倒的な多数派に切り替わるときが訪れちゃったわけですよ。結果的に。
 こうして、世の中は地動説に転換しました。
 残念なことに、これがパラダイムシフトの正体です。
 身も蓋もないんです。
 新しくて正しい理論は、いかにそれが正しくても、古くて間違った理論を一瞬で駆逐するようなことはなくてですね、50年とか100年とか、すごい長い時間をかけて、結果論としてしかパラダイムはシフトしないんですよ。

 客観的に観測可能な科学的事実でさえ、人の考えを変えられないのだ。思想信条がそうやすやすと変わるわけがない。


 たぶん夫婦別姓も同性婚も同じだ。今反対している人は、死ぬまで考えを変えないだろう。どれだけ正論で説得されても変わらない。説得によってキュウリを好きになることがないように。

 だから変えようとおもったら、投票行動によって反対派を政界から退場させるか、現世から退場なさるのを待つしかない。

 残念ながら、議論では変わらない。


2022年6月21日火曜日

自宅バーベキューがいやな7個の理由。

 娘の通う保育園の保護者から自宅バーベキューに誘われてしまった。

 断りたかったのだが、浮世のしがらみというやつで断り切れずに参加した。

 案の定、やめときゃよかったと心からおもった。


 ことわっておくが、べつに親睦を深めることに反対しているわけではない。

 特に次女は一昨年保育園に入園したので、ずっとコロナ禍である。園の行事はことごとく中止・縮小され、遊びに誘うこともしにくくなり、保護者同士が話す機会はぐっと減った。

 ぼくは大人と話すのは苦手だがよその子と遊ぶのは好きなので、子どもたちが集まる場があるのは素直にうれしい。

 ただ、その手段として自宅バーベキューはないだろうとおもっているのである。その理由を挙げていく。


1. 家の人に気を遣う

 微妙な距離感の人の自宅でのバーベキューはものすごく気を遣う。トイレを借りるだけでも遠慮する。しかも幼児連れ。やつらは遠慮なんてないので、目を離すとすぐになんでもかんでもさわる。遠慮ばかりしてしまって楽しめない。

 ほんとは「こぢんまりした家ですね」とおもっているのに「うわー、立派な家ですねー」と言わなきゃいけないのも煩わしい。


2. 近所の人にも気を遣う

 自宅の庭でのバーベキュー。はっきりいって近所迷惑だとおもう。ぼくが隣人だったらうれしくない。煙はくるわ、子どもはさわぐわ、子どもが闖入してくるわ。


3. 洗い物めんどくせえ

 バーベキューの後片付けってすごく面倒じゃない。網の掃除とか。

 できることならほったらかして帰りたいけど、そういうわけにもいかない。他の人が持ってきた網だから、自分の家でやるときよりぴかぴかに洗わなきゃいけない。

 だったらちょっとぐらい高くついてもお店でご飯食べて洗い物放置して帰りたいよ。


4. うまくない

 はっきりいってバーベキューの料理なんてべつにうまくない。焦げるし、自分の好きなタイミングで食べられない。ちゃんとキッチンで料理したもののほうがおいしい。

 バーベキューは雰囲気を楽しむもので、料理を楽しむものではない。そして雰囲気を楽しめるのはよほど気心の知れた間柄だけで、〝保育園の保護者同士〟の関係では楽しめない。


5. 落ち着かない

 ただでさえ小さい子どもとの食事は落ち着かない。さわぐし走り回るしものを落とすし。

 バーベキューだとなおさらだ。火の加減は見なくちゃいかんし、肉や野菜が焦げないか見なきゃいかんし、子どもが火に近づかないように見張らなきゃならんし。ただただ疲れる。


6. 余る

 バーベキューをやったことのある人に訊きたい。ちょうどいい量を食べられたことありますか? と。

 バーベキューの食材はたいてい余る。そして後半は食べたくもないのに無理して食べるはめになる。九割方余る。残りの一割はもちろん「足りない」だ。


7. 子どもは食べない

 小さい子どもとバーベキューをやったことのある人ならわかるだろう。子どもは食べない。

 おにぎりとトウモロコシとソーセージを食べてそこそこ腹がふくれたら、もうじっとしていられない。席を立って歩きまわる。一人でも歩きはじめたらもう終わりだ。残りの子もじっとしていられない。メインの肉なんて見向きもしない。あとはせいぜいデザートのフルーツかお菓子をちょっとつまむぐらい。

 おにぎりとトウモロコシとソーセージしか食べないんだったらバーベキューでなくていい。自宅のフライパンで焼いて持ってくればいい。洗い物もずっと少なくて済む。
「バーベキューで子どもは食べない」これはまちがいない。

 中学生ぐらいになったらたくさん食ってくれるだろうが、言うまでもなく中学生は親とのバーベキューなんて来てくれない。


 というわけで、自宅バーベキューなんかなんのいいこともない。迷惑でしかないから招待しないでほしい。

 やっていいのは、自宅の敷地面積が1000㎡以上あって、専属シェフが準備から焼くのから後片付けまで全部やってくれる家だけ!


2022年6月20日月曜日

【読書感想文】中谷内 一也『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』 / なぜコロナパニックになったのか

リスク心理学

危機対応から心の本質を理解する

中谷内 一也

内容(e-honより)
人間には危機に対応する心のしくみが備わっている。しかし、そのしくみにはどうやら一癖あるらしい。感情と合理性の衝突、リスク評価の基準など、さまざまな事例を元に最新の研究成果を紹介。


 世の中にはリスクがあふれている。我々はリスクに備え、様々な手を講じてリスクを回避・軽減しようとする。

 でも我々はリスクの計算が苦手だ。大した危険のないものにおびえ、ほんとに危険なものは軽視してしまう。

 よく言われるのが「多くの人間の命を奪った生き物だ」だ。ヒトを除けば、最も人間の命を奪った生物は蚊である。蚊が媒介した伝染病により、今でも多くの人が命を落としている。
 一方、サメで命を落とす人は年間数人程度。日本にかぎっていえば、ほぼゼロ(数年に一度負傷者が出るレベル)。でも我々は蚊よりもサメのほうが怖い。これはリスクを正しく判断できていない例だ。


 だからこそ保険が商売として成り立つ。スマホや家電を買うと、有償の保険に勧められる。壊れた場合に無償で修理できますよ、というものだ。数万円のスマホに対して数千円の掛け金。故障の確率を考えると、どう考えたって加入すると損だ(頻繁に壊す人は別)。それでも加入する(そして故障しない)人が多いから商売として成り立つんだろう。ぼくは加入しないけど、それでもちらっと「どうしよっかな」と迷ってしまう。




『リスク心理学』では、なぜ我々はリスクを誤って査定してしまうのかについて説明してくれる。

 スターの分析結果のうち、後の研究により影響を与えたのはもうひとつの方の知見でした。それはスキーや喫煙のような能動的に行う行為は、電力や自然災害のように、通常の日常生活を送るだけでかかわることになる受動的なハザードに比べて一○○○倍もの大きなリスクが許容されている、ということでした。
 例えば、自家用飛行機の事故率は一般の商用飛行機よりも格段に高いのですが、自家用機は自分の意思で利用するのでリスクが大きくても利用者は受け入れます。一方、一般の商用飛行機は人々は移動にそれを利用せざるを得ないのでより低いリスクでないと受け入れない、というわけです。
 つまり、社会は、一定のリスク/ベネフィット関係でいろいろなハザードを受容しているのではなく、自発的に接するハザードと非自発的なハザードとでは、別のリスク/ベネフィット関係があって、自発的ハザードは高リスクでも受け入れるダブルスタンダード(二重規範)になっていたのです。スターは徹底してリスクとベネフィットを数量的に扱い、両者の関係を定量的に求めてきました。その結果として自発性という定性的な要因の影響が顕わになってきたという点が面白いですね。

 つまり、自分が好きでやっていることはリスクを低く見積もってしまうのだ。

 新型コロナウイルスでいえば、満員電車はみんなマスクをして口を閉じていても怖い。でもマスクを外して会食する飲み会は大丈夫だとおもってしまう。

 かつてぼくが視力回復手術をしようとしたところ、父親から「やらなくていいことでリスクがあることはやめとけ」と反対された。でもそんな父親はゴルフが趣味だ。ゴルフなんて「やらなくていいことでリスクがあること」の筆頭みたいなものなのに(父親の反対は無視した)。


「自分の意思でコントロールできないもの」「大惨事になる可能性があるもの」「すぐに死につながるもの」「目に見えないもの」「リスクにさらされていることに気づきにくいもの」「新しいもの」「よくわからないもの」は、じっさいよりもリスクを高く算定するそうだ。

 新型コロナウイルスなんかまさにその代表例で、コントロールできない、目に見えない、感染してもすぐに発症するわけではない、新しくてよくわからない、といった条件が重なり、人々はパニックに陥った。特に2020年の右往左往っぷりは(ぼくも含めて)滑稽なほどだった。

 個人だけではない。子どもの死者がひとりも確認されていない時点で国があわてて全国的に休校をしたり、一日の感染者数が日本中で数十人しかいないのに実質ロックダウン状態にしたり。国の対応も、2022年の今からおもえば「もうちょっと落ち着け」と言いたくなるようなものばかりだった。まあ今だから言えるわけだけど。

 そのくせ、2021年に東京オリンピックが近づくとあれやこれやと「オリンピックを開催できる理由」をアピールしはじめた。これなんかまさに「自発的ハザードは高リスクでも受け入れる」の典型例だ。つまり政府といったって結局は人間の集まりなので、ぼくら個人と同じくらいバカでよくまちがえるということだ。


 新型コロナウイルスとは逆に、リスクを低く見積もってしまうものもある。筆者が挙げるのは自転車だ。

 自転車は意外とリスクの高い乗り物です。自転車運転中の死亡者は減少してきているのですが、それでも毎年数百人(平成初期は一○○○人超、近年でも四○○人程度)が亡くなっています。バイクや原付は交通事故で死亡するリスクが高く思われますが、実は、死亡者は自転車の方がずっと多いのです。毎年安定して何百人もの犠牲者を出しているのですが、それでも反自転車団体が自転車廃止運動を展開し、多くの市民がそれに同調する、という話は聞いたことがありません。なぜか?
(中略)
 恐ろしさ因子からみていきましょう。自転車運転中の事故に関して、災害発生前の「制御可能性」はかなり高いですね。ブレーキという制動装置がありますし、周囲に注意を払い安全運転を心がけることで、事故に遭う確率を低くできます。そもそも自転車に乗るのは自分の意思による選択なので、乗らなければ被害に遭うこともありません。
 これは自発性ともからんできます。例えば、放射線だと、事故現場近くに居住しているだけで否応なしに被ばくしますので制御可能性はないといえます。
 自転車と耳にしただけで「恐怖を喚起する」ということはありませんし、自転車事故が世界中で同時多発的に起こって「大惨事となる潜在性」があるとは思えません。「致死的な帰結」については、実際には先述のようにかなり高いのですが、自転車事故=死、という印象はないでしょう。(中略)
 次に未知性因子をみていきましょう。自転車はそこにあれば誰にでも見えますので「対象を観察できない」ということはなく、自転車に乗っている人は自分でそのことがわかっていますから「リスクに曝されている本人がそのことを知り得ない」ということもありません。事故があればその場で怪我をしますので、脳震盪などを除いて「悪影響がその場でば顕れず、後になってから生じる」とも考えにくく、自転車は「新しい」ものでもありません。「科学的によくわからない」という要素もあまりなさそうです。

 なるほどねえ。

 飛行機が怖い人は多いけど(ぼくもそのひとりだ)、確率でいえば飛行機よりも自動車や自転車のほうがよっぽど危険な乗り物だ。それでもぼくらは自動車や自転車のリスクを軽視してしまう。

 リスクの算定を誤ることは避けられないけど、「こういうときにリスクを高く/低く見積もりがち」という己の傾向を知っていれば、その誤差は小さく抑えることができる。

 大事なのは「自分はバカでよくまちがえる」と知ることだ。




 バカな我々がまちがえる理由のひとつが「公正世界誤謬」だ。

 新型コロナ禍の中、厳しい労働条件におかれ、大きな負担を強いられている医療従事者が地域社会から排除されるというのはいかにも理不尽なことです。感染者や感染者家族が回復し、十分に感染リスクが下がっても不当な扱いを受け続けることも同様です。しかし、しばしば「ひどい目にあっている人は、そうなるだけの理由があるのだ」と考えられがちです。
 これを説明する心理学モデルがメルビン・ラーナーによって提唱された公正世界信念と呼ばれるものです。それによると、われわれは「世の中は公正にできていて、悪い人・悪行には悪い結果が返ってくるものだし、良い人・善行には良い結果が返ってくるものだ」という因果応報的な信念を持ちやすいのです。この信念を持つことには肯定的な側面もあり、例えば、目標を立てそれに向けて努力することや主観的な幸福感の高さに関連しています。けれども一方、この信念は正しい行いをしているのに理不尽にひどい目にあわされている人の存在を容認しにくくします。それを認めてしまうと自分の信念が脅かされるからです。

 世界は公正であることをうたう言葉は多い。「正義は勝つ」「お天道様は見ている」「悪銭身に付かず」「努力は必ず報われる」など。

 それ自体は悪いことではないが、こういう信念が強すぎると容易に「あの人が負けたのは正義ではなかったからだ」「おれが金持ちなのは正しいことをしているからだ」「あいつが報われないのは努力が足りないからだ」と信じこんでしまう。

 言うまでもなくこれは誤っている。どれだけがんばっても報われない人はいるし、畳の上で家族に見守られながら穏やかに死ねる悪党もいる。天災で死んだのはおこないが悪かったからではない。


 「正義が負けて悪が勝つこともよくある」と認めるのはしんどいんだよね。ぼくがテレビや新聞のニュースを見るのをやめたのも、それが理由のひとつだ。
「政権に媚を売っていれば検事長が違法な賭けマージャンをやっていても起訴されない」「権力を持っていれば有権者を接待しても検察が見てみぬふりをしてくれる」とか認めるのはすごくストレスだもの。検察が正しい仕事をしてくれるはず、検察が動かないということはそれ相応の理由があるからだ、それが何かはわからないけど、と無根拠に信じていればそれ以上頭を使わなくて済む。

 三歳児みたいに「正義は勝つし、常に正しい判断を下せる人がいるはず」と信じられれば楽なんだけどね。気持ちは。


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2022年6月17日金曜日

【漫才】将棋のルール


「将棋をやってみたいとおもうんだけどさ」

「いいじゃん」

「でもルールがなにひとつわかんないんだよね」

「あー。まあ最初はちょっとむずかしいかもな。でもすぐおぼえるよ」

「将棋のルールわかるの?」

「わかるよ」

「全部?」

「全部? ん、まあ、全部……わかるよ」

「じゃあ聞くけど、ごはんっていつ注文すんの?」

「ごはん?」

「ほら、棋士が対局するときってお昼ごはん食べたりするんでしょ。あれってどのタイミングで注文するの? 誰かが訊きに来るの? それともこっちから『そろそろ注文いいですか』って言うの?」

「えっ、えっ、ちょっと待って。プロ棋士の対局の話?」

「そうだよ」

「いや、将棋のルールっていうから、駒の動かし方とかそういうのかとおもったんだけど」

「そんなのは本読めばすぐわかるじゃん。今知りたいのはごはんの注文に関するルール」

「それはルールじゃないでしょ」

「じゃあルール無用で注文していいわけ? 板前呼んで十万円ぐらいする寿司のコースを握らせてもいいわけ? 対局やってる横でマグロの解体させてもいいわけ?」

「いやさすがにそれはだめでしょ」

「ほら、だったらルールがあるんだよ。将棋のルールは全部知ってるんでしょ。いつ注文するのか教えてよ」

「いやおれがおもってたのは盤上のルールだったんだけど……。まあ、十一時ぐらいに主催者が訊きに来るんじゃない? おひる何にしますかって」

「何頼んでもいいの?」

「いや……さすがにマグロの解体ショーやられたらまずいから……。あ、そうだ、メニューがあるんだよきっと。和食、洋食、中華それぞれのお店の。その中から選ぶんだ。だからいちばん高くてもうな重(上)の五千円とかだろうね

「棋士はいつお金払うの? 注文するとき? それともごはんが届いてから?」

「えっと……どっちでもないとおもう。対局中に財布出してるの見たことないもん。トーナメントのときは主催者持ちかな。将棋以外のことに頭使わせたら悪いし」

「ふだんの対局のときは?」

「どうしてるんだろ。あれかな、将棋協会とかが立て替えておいて、給料払うときにその分差し引いて振りこんでるとかかな」

「でも労働基準法第二十四条に賃金の全額払いの原則があるから貸付金との相殺は禁じられてるんじゃなかったっけ」

「なんだよ妙にくわしいな。将棋のルールは知らないくせに」

「法学部だから」

「めんどくせえなあ。じゃあ対局が終わってから請求してるんじゃないの」

「あのさ、テレビで観たことあるんだけど、棋士って対局中におやつも食べるでしょ」

「ああ、食べてるね。ものすごく頭使うから、甘いものがほしくなるらしいよ」

「おやつを持ち込んで食べるんだってね」

「そうそう。誰が何食べたかとかもけっこう注目されてるよね」

「あれは何持ち込んでもいいの」

「まあだいたいいいんじゃない。そりゃパティシエを持ち込んで作らせるとかはだめだろうけど」

「たとえばお汁粉とか」

「ぜんぜんいいでしょ。甘いし、冬なんかはあったまるだろうし」

「お汁粉の湯気で対局相手のメガネが曇らせる作戦」

「そううまくいくかね。そんなの一瞬でしょ」

「いつまでもメガネが曇るように、煮えたぎったお汁粉を……」

「そんな熱いの自分も食えないじゃん」

「食うときははフーフーして冷ますから大丈夫。あ、待てよ。フーフーしたら二歩で反則負けか」

「くだらねえな。将棋のルールなにひとつ知らないって言ってたくせに、二歩は知ってんのかよ」

「おまえこそ将棋のルールぜんぶ知ってるっていってたくせにぜんぜん知らないじゃないか」

「おれが言ってるのは将棋のルール。さっきからおまえが訊いてきてるのは棋士のルールじゃないか」

「じゃあ将棋のルールについて質問するよ。新しい駒を考えたときはどこに申請したらいいの?」

「……は?」

「だからさ、おれが新しい駒を考えたとするでしょ」

「なに言ってんの?」

「たとえばね、土竜(もぐら)って駒を考案したとするよ。相手の駒や自分の駒の下をくぐって前に進めるやつ」

「だからさっきからなに言ってんの

「これを正式に採用してもらいたいとおもったら、どういう手続きで日本将棋連盟に申請したらいいの? 決まった書式とかあるの? どこで申請書のPDFファイルをダウンロードしたらいいの? 採用された場合の権利関係はどうなるの? 発案者にはいくら入ってくるの?」

「ちょっ、ちょっと待って。ないから。新しい駒が採用されることなんかないから」

「ないの?」

「ないよ」

「えええ……。じゃあおれはなんのために三年もかけたんだ……」

「新しい駒考えてたのかよ」

「数百種類も考えたのに……」

「それもはや将棋じゃなくてポケモンバトルだろ」

「じゃあさ、また別の質問」

「もうやだよ。ぜんぜん将棋のルールの質問じゃないじゃない」

「次で最後だから。次こそちゃんとした質問」

「……わかったよ。最後な」

「ありがとう。じゃあ最後の質問。もしも将棋の駒が寿司ネタだとしたら、それぞれの駒はどの寿司ネタに該当するとおもいますか? また、どの順番で食べるのが正解だとおもいますか?」

「どこが将棋のルールなんだよ!!」




2022年6月15日水曜日

【読書感想文】乙一『平面いぬ。』 / 無駄だらけのようで無駄がない

平面いぬ。

乙一

内容(e-honより)
「わたしは腕に犬を飼っている―」ちょっとした気まぐれから、謎の中国人彫師に彫ってもらった犬の刺青。「ポッキー」と名づけたその刺青がある日突然、動き出し…。肌に棲む犬と少女の不思議な共同生活を描く表題作ほか、その目を見た者を、石に変えてしまうという魔物の伝承を巡る怪異譚「石ノ目」など、天才・乙一のファンタジー・ホラー四編を収録する傑作短編集。

『石ノ目』『はじめ』『BLUE』『平面いぬ。』のファンタジー四篇を収録。

 どれも奇妙な味わいの話だ。


『石ノ目』は、目を見ると石化してしまう女にまつわる話。メデューサみたいなやつね。遭難してある家に迷いこんだ主人公たち。そこには精巧な石人形たちと、決して顔を見せようとしない女がいた。主人公は、石人形の中からかつて行方不明になった母親をさがすが……。

 終始不気味な雰囲気が漂う話だが終盤はおもわぬ展開を見せる。話の持っていきかたに無駄がなくて、小説巧者という感じだ。


『はじめ』の主人公は男子小学生。先生に怒られないための言い訳として〝はじめ〟という架空の女の子を考えだしたところ、主人公とその友だちにだけははじめの声が聞こえるようになる。
 幻なのに主人公たちを助けたり成長したりする〝はじめ〟。幻の友だちとの友情、そして別れを丁寧に描いていて、幻なのにほろ苦い青春小説になっているのが妙な感覚だ。「幻の友だち」だけでなく「謎の地下通路」というもう一エッセンス加わっているのがいい。
 ところで、「~だったんだ」をくりかえす変わった文体なのでこれがなにかを表しているのかとおもったら、特に意味がなかった。


『BLUE』はぬいぐるみたちの心中や行動を描いた短篇。『トイ・ストーリー』のようだが、もっとビターな味わい。出てくるぬいぐるみも人間もあまり性格のいい連中じゃない。
 ダークな世界を描いていて個人的にはいちばん好きだったが、着地はちょっと安易なお涙ちょうだいだった。


『平面いぬ。』は、腕に入れた刺青の犬が意識を持って行動するようになった少女の話。身体の一部が自我を持つというアイデアは昔からよくあって、落語『こぶ弁慶』、『ブラック・ジャック』の『人面瘡』、星新一『かわいいポーリー』など、そこまで目新しいテーマではない。ただしそこに「家族が次々に余命宣告される」という要素を加えることで緊張感のある展開になっている。ちょっとしたオチもあり、これまたうまい小説。無駄だらけのようで無駄がない。




 どれも派手さはないけれど、しみじみと味わいのある小説で、しかも構成がうまい。これを二十歳ぐらいで書いているってのがすごいなあ。


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2022年6月14日火曜日

いちぶんがく その13

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




まずはエロ。

(半藤 一利『B面昭和史 1926-1945』より)





「あんたらに復讐する権利がある」

(深谷 忠記『審判』より)




「50カ国全てから、<国民主権>や<公共>という非効率な概念が、やっと取り払われるんです」

(堤 未果『政府はもう嘘をつけない』より)





そのため、従来型の生物たちはばたばたと滅んでいったのです。

(藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか 壮大なスケールの地球進化史』より)




彼にとって、世界とは、ゴキブリの活字で埋まった新聞紙にすぎなかった。

(三島 由紀夫『命売ります』より)





自然科学の世界でも、自分の意見に固執しすぎると、悪魔に首を取られるかもしれない。

(花井 哲郎『カイミジンコに聞いたこと』より)




卒業式がどこかへ飛んでいく。

(朝井 リョウ『少女は卒業しない』より)





私は亡くなった友人と出会い直したのだ。

(中島 岳志『自分ごとの政治学』より)




ジョージは生まれてはじめて阿呆になったような気がした。

(アーサー・C・クラーク(著) 福島 正実(訳)『幼年期の終り』より)





チーズの表面はダニの糞や脱皮殻の層でおおわれ、それをとりのぞいてみると、無数のダニがうごめいているのが見えます。

(青木 淳一『ダニにまつわる話』より)




 その他のいちぶんがく


2022年6月13日月曜日

【読書感想文】『夢のズッコケ修学旅行』『ズッコケ三人組の未来報告』『ズッコケ三人組対怪盗X』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第九弾。

 今回は24・25・26作目の感想。


『夢のズッコケ修学旅行』(1991年)

 三人組を含む花山第二小学校の六年生は一泊二日の修学旅行に出かける……。

 あらすじを書くと、ほんとにこれだけで終わってしまう。ほんとに修学旅行の思い出なんだよな。もちろんちょっとした事件が起きるのだが、どれもささやか。他校の子といざこざを起こしたり、銀山で銀鉱石を拾ったり、女子の下着を見てしまったり、旅先で不良にからまれたり、女子の部屋に行ってみたり、就寝後に異性の話で盛り上がったり……。

 小学生からしたら印象に残るイベントかもしれないが、全部「まあそんなこともあるだろうね」レベルなのだ。ズッコケシリーズ屈指の何も起こらなさだ。

 でもまあそこが修学旅行らしいといえば修学旅行らしい。修学旅行ってそんなものだもんね。

 旅行の醍醐味って、予定通りにいかないことじゃない。予定していた電車に乗れなかったり、道に迷ったり、お金をだましとられたり、危険な目に遭ったり。そのときはたいへんでも、終わってみればそうしたトラブルがいい思い出になったりする(もちろん無事に帰れたら、だけど)。
 でも修学旅行って先生たちが入念に計画して万難を排しているから、まずイレギュラーなことは起こらない。そりゃあこっそり抜け出すやつとか無茶してけがするやつとかはいるけど、それすらも想定内だ。どの学校でもだいたい毎年起こっていることだ。だから小説にしてもつまらない。

 まだ旅行記としておもしろければいいのだが、それも失敗している。せっかく山陰地方の名所旧跡について文字数を割いて説明しているのに、なぜか岩屋銀山だの南雲大社だのと架空の名前にしているのですべてが台無し。石見銀山、出雲大社、宍道湖……と書けばいいのに。有名な観光名所なんだからまったく伏せる必要ないとおもうのだが。

 架空の場所を周っている、架空の小学校の、とりたてて変わったことも起こらない修学旅行。そりゃおもしろくないわ。


 今作がシリーズの他の作品と毛色が異なるのは、性的な描写がかなり多いこと。といっても女子のパンツを見たり、引率の先生のブラジャーがちらりと見えたり、女子に抱きつかれたりぐらいでごくごくささやかなものなのだが、今までのズッコケシリーズにそうした描写が皆無だったことをおもえば「急にどうしちゃったの?」という気になる。男子のリアルな生態を書くのはいいけど、前作までと急にキャラが変わるので違和感が強い。性に関心のあった小学生当時ですら「いやズッコケシリーズにそういうの求めてないから」とおもった記憶がある。

〝児童文学では性の話をしない〟というタブーに挑戦したかったのかもしれないが、だとしても唐突なんだよね。そもそもハチベエが「誰でもいいからガールフレンドがほしい」とおもうところからして無理がある。ませてる小学生でもせいぜい「好きなあの子を彼女にしたい」だろう。大学生ならいざしらず、「誰でもいいから」と手当たり次第に女の子に声をかけるのはもはやリアリティのかけらもない。



『ズッコケ三人組の未来報告』(1992年)

 二十年後の未来に開けるため、タイムカプセルを埋めた六年一組の生徒たち。
 それから二十年後。タイムカプセルを開けるために集まった面々。だが六年一組のタイムカプセルだけがなくなっていることに気づき……。


 これをはじめて読んだときの感想はおぼえている。「あれ? 期待してたのに……」

 たしかに気になる。三人組がどんな大人になるのか。どんな仕事をするのか。誰と結婚するのか。
 でも、答えを知ってしまったらつまらない。あれこれ想像をはたらかせていたときのほうがずっとおもしろかった。

 そりゃそうだ。未来なんて知ってしまったらつまらない。だってたいていの場合想像を下回ってるんだもの。クラス一おもしろかったあいつも、めちゃくちゃサッカーがうまかったあいつも、ナンバーワン美少女だったあいつも、いつも悪ぶっていたあいつも、大人になってみれば意外と平凡な人生を送っているものだ。あるいは消息不明になっているか。
 そりゃあ中には会社をおこして社長になったり、芸能関係の道に進んだやつもいるやつもいるけど、それだって「まああいつはあいつでたいへんそうだよな。華やかなことばっかりじゃないだろうし」みたいな感じで、知ってしまえば存外つまらない。

 こういうのって読者が勝手に想像するから楽しいんだよな。作者が「未来はこうです」と提示してしまっちゃあつまらない。一応ラストに〝夢オチ〟というどうしようもない逃げ道を作って「未来はわかりませんよ」というエクスキューズを用意してはいるが、これだけ長々と書いておいて「これは本当の未来とは別ですよ」はさすがに通らないだろう。実際、後の『ズッコケ中年三人組』でほぼ実現しているわけだし。

 この作品はないほうがよかったな。今後の作品にも悪影響を与えてしまう。荒井陽子や安藤惠子が出てくるたびに「こいつらはハカセやハチベエといい仲になるんだよな」という気持ちで見てしまう。


 ストーリーはよく練られている。単に未来の三人組を描くだけでなく、「タイムカプセルが消えた」「なぜかミドリ市で公演をするアメリカの謎のロック・スター」「死んだ同級生・長嶋」といったフックをいくつも用意して謎解きものに仕上げている。

 とはいえ、長嶋くんというキャラクターの少年時代がまったく描かれていないので、「長嶋はいったいどうなったのか?」という謎を提示されてもまったく関心が持てない。田代信彦とか中森晋助ぐらいに活躍したことのあるキャラクターならまだ興味が持てるんだけど。知らんやつが死のうが生きてようがどうでもいいからなあ。

 つまらない、というほどではないのだけれど、シリーズの中の一作として見たら完全に失敗作だったとおもう。シリーズ全体の設定をぶち壊しにしてしまったという意味で。『トイ・ストーリー4』みたいなもんだね。



『ズッコケ三人組対怪盗X』(1992年)

 世間を騒がす大泥棒・怪盗Xから三人組の後輩の家に犯行予告状が届いた。見事にXの企みに気づいて犯行を阻止した三人だったが、Xは逃走。三人組は再びX逮捕に向けて行動するが逆に捕えられてしまい……。


 王道探偵小説。

 これまでにも『ぼくらはズッコケ探偵団』『こちらズッコケ探偵事務所』『ズッコケ三人組の推理教室』と推理ものはあったけど、書かれている事件が「殺人事件(探偵団)」→「誘拐事件(探偵事務所)」→「猫の誘拐(推理教室)」→「大怪盗による犯行予告」と回を追うごとに幼稚化していっているぞ。

 怪盗ものは、ルパンや怪人二十面相やパーマンの怪人千面相でさんざんやりつくされていてイメージもできあがっているので、怪盗ものと聞くと「那須正幹先生もずいぶん守りに入ったな」とおもってしまう。

 じっさい、変装の名人だったり、世間を騒がす大胆な犯行だったり、ポンコツすぎる警察の裏をかく逃走劇だったり、怪盗Xもこれまでの怪盗とさしてやっていることは変わらない。

 もちろん読者である子どもは入れ替わっているので、必ずしも新しいことをやらなくてもいいとはおもうが、ズッコケ三人組らしさがあまり出ていない。特にハカセが怪人二十面相シリーズにおける小林少年のような「ただ賢いだけの少年」になってしまっていて、ミスやドジを踏まない。

 これは怪盗ものの宿命だよね。どうしても「怪盗があっという方法で盗みをはたらく」→「主人公が見破って追いつめる」→「警察がドジって取り逃がす」という流れになるので、主人公側から積極的に動くことができず、怪盗の動きを受けて後を追う形になる。おまけに主人公側はミスもできない。必然「与えられた問題に対して正解を出す」のくりかえしになってしまう。これでは主人公が輝かない。テストで百点をとるだけの主人公の何がおもしろいのか。

 そう、この巻の主人公は怪盗Xである。ハカセは単なる脇役にすぎず、モーちゃんやハチベエはその助手に近い。モーちゃんはまだ単独行動をとるシーンがあるが、ハチベエにいたっては「父親がXの変装を見破ったことをハカセ伝える」役割に甘んじている。

 ということで、ズッコケ三人組シリーズの一作として読むとものたりない本作だが、作品自体の出来は決して悪くない。二転三転するXとの攻防だけでなく、Xを荒唐無稽な超人にせず「Xとその部下が過去に勤めていた会社が倒産したらしい」「Xには妻子がいるらしい」といった生身の人間としての情報を出しているところ、それでいてすべての情報は明かさずに謎をもたせていること、そしてX逮捕で大団円……かとおもいきや脱走をにおわせるラストなど、単なる怪盗ものとして終わらせず、深みのある物語に仕立てている。

 まだ読んでいないけれど、この後に『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』『ズッコケ怪盗X最後の戦い』と続くらしいので、三部作の一作目としては決して悪くない、いやむしろおもしろい部類に入る作品だとおもう。


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2022年6月10日金曜日

【読書感想文】エマニュエル=サエズ ガブリエル=ズックマン『つくられた格差 不公平税制が生んだ所得の不平等』 / なぜ民主主義は金持ちだけを優遇するのか

つくられた格差

不公平税制が生んだ所得の不平等

エマニュエル・サエズ(著) ガブリエル・ズックマン(著)
山田 美明(訳)

内容(e-honより)
富裕層はますます富み、中間層や貧困層はより貧しくなる真の理由とは?ピケティの共同研究者による衝撃の研究結果。史上最高レベルの不平等はどのように生まれたのか?最高税率が高ければ格差は縮小し、経済も成長する。富裕層の租税回避を防ぐ方法。

 近年の税制がいかに富裕層を優遇しており、その結果格差がどれだけ拡大しているか、そしてどう是正すべきかを書いた本。

 扱っているのは基本的にアメリカの話だが、日本も似た状況になっているのでことごとくうなずかされる。




 アメリカでは、上位1パーセントの所得が国民所得の20%以上を占めている。貧富の差は拡大するばかり。

 本来なら富の再分配をするのが税の役目なのに、高額所得者の所得税は下がる一方。おまけに租税回避が横行しており、税による再分配はちっとも機能していない。

現在ではほとんどの社会階層が、所得の二五~三〇パーセントを税金として国庫に納めている。ただし超富裕層だけは例外的に、二〇パーセントほどしか納めていない。アメリカの税制はほぼ均等税と言えるが、最富裕層だけ逆進的なのである。アメリカはヨーロッパ諸国ほど多額の税金を徴収していないかもしれないが少なくとも累進的ではあるという主張があるが、これは間違っている。

 なんと、高額所得者の税率が高くないどころか、逆に低くなっているのだ。金持ちほど税率が低い。

 どう考えたっておかしい。貧乏人から年収の三十パーセントを持っていくのと、億万長者から収入の三十パーセントを持っていくのでは、前者の痛みのほうがはるかに大きい。なのに同じ割合にするどころか、逆に貧しい人からのとる率を高くするのは理不尽だ。


 この本には、アメリカにおける税引前所得の年間成長率の表がある。

 1946年~1980年の間。どの階層も年平均2.0%ぐらいの率で成長していた。

 ところが1980年~2018年の間では様相は一変する。成長率が年平均1.4%に下がり、さらに9割の国民の成長率は1.4%を下回った。平均を上回っているのは富裕層だけで、特に上位1パーセントの富裕層は大きく成長した。さらに上位0.1%の富裕層の年平均成長率は320%、上位0.01%は430%、そして最上位0.001%(2300人)は600%となった。

 富める者はますます富み、その一方で労働者階級の所得はほとんど増えていない。つまり「金持ちが潤えば、自然に富がこぼれ落ちて経済全体が成長する」という『トリクルダウン理論』は真っ赤な嘘だったのだ。




 上位1%の金持ちはますます潤い、残りの99%との差は開く一方。日本もアメリカほどではないにせよ、同じような状況だ。どうしてこんなことが起こるのだろう。

 いや、ニホンザルの社会ならわかる。力の強いものがすべてをぶんどる社会であれば、そういうことも起こるだろう。

 だがアメリカも日本も民主主義国家だ。金持ちも貧乏人も同じ一票を持っている。それなのになぜ、「1%の金持ちに優しい法律を作ってあげる政治家」を選んでしまうのだろう。

 じつにふしぎだ。民主主義が機能していれば、格差はゼロにはならないにせよ、少なくとも半数以上は得をするような制度を選ぶんじゃないだろうか。


 だが、アメリカや日本だけでなく、世界中で「高所得者に対する税金はどんどん下がっていく」傾向が見られる。

 その原因は、高所得者による〝租税逃れ〟にある。

 一九八六年税制改革法は、累進課税が廃れていく過程を如実に示している。累進課税は、有権者の意思により否定され、民主的な手続きを経て廃れていくわけではない。累進課税が大幅に後退する事例をいくつも検討してみると、そこに一つのパターンがあることがわかる。まずは租税回避が爆発的に増え、次いで政府が富裕層への課税は無理だとあきらめ、その税率を引き下げるのである。この負のスパイラルを理解することが、税制の歴史を理解し、将来的に公平な税制を構築していくための鍵となる。


 所得の大半が個人所得の対象になっていない、様々な租税回避策によって法人税の支払いを免れている(法人税の低い国外にペーパーカンパニーを設立して株式や債券をそこに移す)、所得税の税率が低い(資本所得に対する税率は低い)などにより、高所得者ほど租税を回避しようとしている。GAFAのような国際的大企業が(その利益に比べれば)まったくと言っていいほど税金を納めていないことは有名な話だ。

 そもそも、労働に対する税よりもキャピタルゲイン(投資による利益)にかかる税のほうが安いってのが意味わからん。誰がどう考えたって、労働によって得た金よりも不労所得のほうに高い税率かけるべきだろう。


 『つくられた格差』では、高所得者や大企業が税金から逃れるためにあの手この手を使っている手口が紹介されている。もちろん租税回避策にも金はかかる。だから貧しい者には同じ手が使えない。でも金持ちや大企業からしたら、多くの弁護士や税理士を雇っても十分おつりがくる。結果的に金持ちほど納める税率が低くなるという〝税の逆進性〟が起こる。




 本書では、対抗措置の案も提言されている。詳しくはこの本を読んでほしいけど、各国政府が本気を出せば租税回避の大部分は防ぐことができる。

 筆者は〝国民所得税〟なるシンプルな税制を提案する。

 〝国民所得税〟はあらゆる所得にかかる税だ。労働所得と企業所得と利子所得すべて。もちろんキャピタルゲインにも。当然ながら累進税(高所得者ほど税率が高くなる)である。

 国民所得税を導入すると、こんな世界が可能になる。アメリカでその税収を使えば、国民全員に医療や育児を提供できる。公立大学への助成金の増加などにより、高等教育を受ける機会も均等化できる。アメリカでは現在、高等教育を受ける機会に大きな格差がある。(中略)アメリカ以外の国でも、国民所得税を導入すれば、給与税や付加価値税を減らし、税制の逆進性を和らげることができる。
 たとえば、アメリカで税率六パーセントの国民所得税を導入し、さらに富裕層への課税を強化すれば、国民所得のおよそ一〇パーセント分に相当する税収が得られる。そのうちの六パーセント分を医療に、一パーセント分を育児に、〇・五パーセント分を高等教育にまわせば、二一世紀にふさわしい社会制度を確立できる。残りの税収は、現在労働者階級を苦しめている売上税(およびトランブ関税)の廃止に使えばいい。

 ちょっと絵に描いた餅のような気もするしここまでうまくはいかないとおもうが、それでも今よりずっと格差は縮むことだろう。

 ぜひとも租税回避している金持ちからきっちり金をとってほしい。税金が増えれば教育や医療や福祉が充実するんだもの、ぼくのとられる税が増えたって文句言わないぜ。

 まあ経団連みたいなところに手なずけられている政治家はやろうともおもわないだろうけど。




 租税逃れをしている金持ちや企業からしっかり金をとることは「胸がすっとする」以外にもメリットがある(もちろんすっとするのが最大のメリットだが)。

 資産家や大企業の経営者は「成功者から高い税をとれば成功への意欲が失われる」なんてことを言うが、それを裏付けるデータはまったくない(もちろん共産主義国のように100%とられるならば意欲はなくなるだろうが)。トリクルダウンも嘘だった。

 このように、無数の評論家が大衆に信じ込ませようとしている内容とは裏腹に、法人税の負担が労働者に転嫁されることは経済学的に「証明」されていない。もし本当に、法人税の負担が労働者にのしかかるのなら、世界中の労働組合が法人税の削減を政府に懇願していることだろう。実際のところ、高い法人税のために一般労働者が苦しんでいるという見解を誰よりも積極的に支持しているのは、裕福な株主たちなのだ。たとえば、二〇一八年のアメリカ中間選挙の際には、コーク兄弟(それぞれ五〇〇億ドルもの資産を所有している)の支援するロビー団体が二〇〇〇万ドルもの資金を費やし、トランプ大統領の法人税引き下げにより賃金が上がると有権者に訴える運動を展開している。同様に、労働税の負担が資本に転嫁されることも、経済学的に証明されていない。長期的に見れば、資本税の負担は資本所有者が、労働税の負担は労働者が背負うことになる。貧困層に課される税により富裕層が苦しむことはないように、富裕層に課される税により貧困層が苦しむこともない。

 話はむしろ逆で、富の集中はイノベーションを妨げる。

 富は力になる。極端な富の集中は極端な力の集中を生む。政府の政策に影響を与える力、競争を阻害する力、イデオロギーを形成する力、それらが一つになって、自分に有利になるよう所得の分配を操作する力になる。その力は、市場でも政府でもメディアでも発揮される。これこそが、一部の人間が英大な富を所有するとほかの人の手に渡る富が減る中心的な理由である。現在の超富裕層の所得は、社会のほかの階層を犠牲にして成り立っている。ジョン・アスターやアンドリュー・カーネギー、ジョン・ロックフェラーなど、金びか時代の実業家が「悪徳資本家」と呼ばれているのは、そのためだ。
 現在、アップルや、アマゾンの創業者ジェフ・ベゾス、ウォルマートを経営するウォルトン一族は何をしているだろう? 自分たちの財産や地位を守ることばかりしている。たとえば、新規参入企業を、脅威的な存在になる前に買収している。競合企業や規制当局、内国歳入庁と争っている。新聞社を買収している。英大な富を蓄積した人々がいつでもどこでもしていることだ。アップルやアマゾン、ウォルマートの創業者はみな、多大なイノベーションを成し遂げ、新たな製品やサービスを生み出してきた。なかには、いまだイノベーションを追求している創業者もいる。だがその後継者たちは、会社の現在の地位を守ることに汲々とするばかりであり、今後そこから偉大なイノベーションが生まれるとは思えない。

 富が集中すれば、その金で新たなイノベーションに挑戦するよりも、競合のイノベーションを妨害しようとする。当然のことだ。

 家康が天下統一を成し遂げて鎖国政策を敷いた江戸時代。徳川家からどんなイノベーションが生まれただろうか? 諸国大名が力を持つのを妨げる政策ばかりとっていたではないか。




 ぼくが金持ちじゃないからってのもあるけど、富める者がますます富める社会はよろしくない。どんな分野でも同じ、山の成長に欠かせないのは広い裾野だ。野球のうまい小学生九人を集めて、その子らだけに最高の環境を与えて練習させれば最高のチームができるかというと、そんなことはない。

歴史の教訓に従えば、万人の成功に投資する国が豊かになるという事実は今後も変わらないだろう。

 スティーブ・ジョブズはビジネスの世界に革新をもたらしたが、もしも彼が今の時代に会社をつくったとしたら、GAFAのような(アップルはないからGFAか)巨大企業につぶされずにアップル社は大成功していただろうか。どう考えたって無理だろう。


 金持ちから税金をたっぷりふんだくるのは大企業の飼い犬でない政治家にぜひがんばってもらうとして、国民の意識も変わるべきだとぼくはおもう。

 脱税は当然だし、ペーパーカンパニーを作ったりタックスヘイブンを利用しての租税回避はもっと厳しく糾弾すべきだとおもうんだよね。

 テレビでもネットニュースでも不倫した有名人を叩いたりしてるけど、家族以外は何の被害も受けていない不倫と異なり、税金逃れは全国民が被害者なわけだ。

 違法でなくても道義的に許されることではない。税金を減らすためにペーパーカンパニーを作るやつは、救急車を一年間に百回呼ぶやつと同じぐらい市民の敵だ。

 税金ドロボーってのは公務員や政治家のことじゃなくて、租税回避をするやつやそれを手伝う税理士や会計士のことだ。租税回避をするやつは義務から逃れているわけだから、それに応じて権利も減らしてあげないといけない。病院も警察も消防も後回しの対応でいい。どんどんぶんなぐっていこう。

 まずはふるさと納税の返礼品制度をつくったやつを樹から逆さ吊りにするところからだな!


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2022年6月9日木曜日

【読書感想文】ピーター・フランクル『ピーター流生き方のすすめ』 / 一生ものの靴は最悪

ピーター流生き方のすすめ

ピーター・フランクル

内容(e-honより)
テレビやケータイに縛られるのはダメだって、わかってるけどやめられない…。大道芸人兼数学者、世界中を渡り歩いてきたピーターも、誘惑に弱いし失敗も後悔もたくさん。でも、楽しく生きる秘訣は「自分の人生の主人公になること」だとピーターは思う。ふつうのオトナのお説教とは一味違う、実践的で具体的なアドバイスが満載。

 ぼくの子どもの頃のあこがれの人が、ピーター・フランクルだった。

 たしかはじめて知ったのはテレビ番組『平成教育委員会』だったとおもう。数学者であり、大道芸人でもあり、十二ヶ国語を操る。その知性のわりにとっつきにくさはまったくなく、飾らない人柄で日本語でジョークまで飛ばしていた。

 なんてかっこいい人なんだ。まるで七つの力を持つ鉄腕アトムみたいな人だ。こんな超人にぼくもなりたい……。とそうおもった。

 残念ながらぼくは数学者にはなれなかったしお手玉はできないし海外にも数えるほどしか行ったことがないけど、ピーター・フランクル氏は今もぼくのあこがれの存在だ。

 そんなピーター・フランクル氏が若い人に向けて書いた、〝生き方〟の本。




 気さくな人柄が本にも出ている。若い人向けのアドバイスというとどうしてもえらそうになってしまうものだが、己の失敗談やユーモアもまじえて楽しそうに語っている。

 くりかえし語っているのが、自分のために時間を使おうということ。

 ついついネットサーフィンで時間を浪費してしまうぼくにとっても耳の痛い話だ。


「テレビはリアルタイムで観なくていい」という主張はたいへんうなずける。

 ぼくも最近ではほとんどリアルタイムでテレビを観ることはなくなった(生で観るのは朝の子ども番組だけだ)。 録画で観ると、観たい番組を選ぶことになるし、終わった後に「ついつい次の番組まで観てしまった」なんてこともない。高校野球やサッカーのワールドカップもダイジェストでしか観ない。好きな人からしたら邪道とおもうかもしれないが、どうせ生でテレビ観戦したって、スタジアムに足を運んだって、全部の選手の全部のプレーを全部の角度から観ることなどできやしないのだ。だったらダイジェストでもたいして変わらない。


 特に拍手を贈りたいのがこの意見。

  でもいちばん簡単なのは、部活の時間を減らすことです。とくに運動部には、多くの時間が割かれてしまうので、一度考え直してみる必要があります。もちろん、スポーツをすることはよいことですが、プロを目指しているわけでもないのに、あまりに自分の時間や精力を奪われすぎてしまうのは、よくないことだと僕は思います。

 これねえ。なんで教師って部活をさせたがるんだろうね。今はどうだか知らないけど、ぼくが学生のときは「よほどの事情がないかぎりは全員何かしらの部活に入るように」と命じられていた。そんなに部活をさせたがるわりに、掛け持ちはいい顔をされなかったのも謎だ。

 放課後校外でよからぬことをされるより、部活をやらせて教師の目の届くところにいさせたい、って魂胆があったのかな。むしろ部活こそが暴力やいじめの温床になっていることも多いけどな。

 ぼくが高校では部活に属していなかった。いや正確には野外観察同好会なる組織に属してはいたが(しかも会員ふたりしかいないのでぼくが会長だった)、三年間で五回ぐらいしか活動していない。部活をやらなくてよかった、とつくづくおもう。

 放課後、友人の家に集まって音楽を聴きながらくだらないおしゃべりをしたり、公園で野球やサッカーをしたり、川に行ってパンツ一丁で泳いだり、気が向いたら勝手に陸上部や弓道部の練習に参加したり、毎日楽しく過ごしていた。遊んでいただけでなく、勉強したり本を読んだりもした。

 そのときいっしょに過ごしていた友人とは今でもよく遊ぶ。

 部活に打ちこんでいたいた人は「部活をやっていてよかった」と言うかもしれないが、彼らは部活をやらない楽しさを知らないのだ。話半分に受け取った方がいい(もちろんぼくも部活にすべてをささげる楽しさは知らない)。


 もちろん、部活をしたい人はしたらいい。プロ野球選手になりたいとか、遊びも勉強も犠牲にしてでも吹奏楽だけをやりたいとか、そういう人を止める気はまったくない。

 でも「何か部活をやらなくちゃ」ぐらいの気持ちだったら、やらないという選択肢もあってもいい。というよりやらないのがふつうだとおもうのだが。

 特に今はかんたんに趣味を通じて世界中の人とつながれる時代だからね。




 ピーター・フランクル氏が尊敬する父親について。

 彼がそうやってなにか調べたりしているときの表情を見ていると、毎日朝から晩まで病院で働いて、家でも論文を書かなければいけないのに、その上なんでこんなことまでやらなければならないんだ、というような不満の影はすこしもないのです。それどころか、新しい知識を得ることができる喜びや楽しさが、彼の顔を明るく照らしていました。
 それを見ていた僕は、やっぱり学ぶというのはすごく楽しいことなんだ、もしかして、人生でいちばんの喜びなのかもしれないぞと思ったのです。なにも教えてくれないくせに「勉強しなさい」とくどくど言ったりするのではなく、自分の行動や生き方を通して学ぶ楽しさを伝えてくれた父に、僕はとても感謝しています。

 ぼくも人の親なので教育関係の本や記事を読むんだけど、こういうこと言う人って少ないんだよね。

 子どもを勉強させるにはどんなご褒美を用意したらいいか、どんな部屋にしたらいいか、どんな塾に入れたらいいか。

 いやいやいや。まず第一は「勉強を好きにさせる」だろ。これが最初にして最大の方法だ。

 サッカーを嫌いな子をサッカー選手にすることはぜったいにできない。どんなに優秀なコーチやトレーニング設備をそろえても無理だ。それと同じだ。

 じゃあどうやったら好きになるか。そりゃあ勉強の楽しさを教えることだろう。

 勉強は楽しい。わからなかったことがわかるようになる、こんなに楽しいことはない。


「勉強したら〇〇してあげる」「勉強しないなら××しない」と物で釣る、これはまったくの逆効果だ。なぜならこういうことを言う人は「勉強は苦痛」とおもっているからだ。その姿勢は子どもにも伝わる。

「一時間バトントワリングできたらお菓子あげるよ」「がんばってバトントワリングしないと将来苦労するよ」と言われて、「なんだかわかんないけどバトントワリングって楽しそう!」とおもえる人がいるだろうか(ちなみにここで適当に名前を使わせてもらったが、バトントワリングとは新体操みたいな競技だ)。




 ものに対する考え方も共感できる。

 ピーター・フランクル氏がブランド物のズボンを買った後、自転車で汚してしまった話。

 その翌日、あるブランド好きの友人の家に夕食に行きました。そこで食事をしながら、きのうこんなことがあったと悔しそうに話したら、おまえはばかだと言われました。そんな立派なズボンを買ったなら、おまえは表参道までタクシーで行くべきだった、たったワンメーターの距離だろうに、と言うのです。そのときは、それなりに正しい意見にも思えました。しかし、僕は帰り道、あのときの悔しさを思い出しながら考えた結果、彼とはちがう結論に達しました。それは、おれはもうブランド品は買わないぞ、という結論でした。
 彼の話をよく考えてみると、僕はまるでズボンのために生きなければならないように思えました。まず先にズボンがあって、僕はこのズボンを活かし、守るために、ああしたりこうしたりしなければならないのだと。でも、ズボンはあくまで僕のためにあるのだと僕は思いました。ズボンのために僕があるのではない。ズボンのために自分の生き方を変えなければならないくらいなら、そんなズボンはいらないじゃないかと思ったのです。

 そう! まったくもってそう!


 ぼく自身、服や車や時計を買うときは「価格」と「機能」以外のものを気にしたことがない。そりゃあダサいよりはかっこいいもののほうがいいけど、市販されているものはどれもそんなにダサくない。

 靴や時計で高いものを勧めてくる人はこんなことを言う。「きちんと手入れをすれば一生ものだよ。一生使えるとおもえば決して高くないよ」と。

 げええ。なんで一生靴の奴隷にならなきゃいけないんだ。一生お靴様にかしづいて磨いてやらなきゃいけない人生なんて最悪じゃないか。一生同じ靴や時計に縛られる人生なんてごめんこうむる。

 足を守るために靴を履いてるのに、なんでこっちの手を汚して靴の手入れしてやらなきゃいけないんだよ。「一生ものの靴」なんて最もいらないものだ(それにたいてい「一生使えるとおもえば高くない」というやつに限ってすぐ買い替えるんだ)。


 高いものをぞんざいに扱っている人はかっこいい。金持ちなんだな、とおもう。

 でも高いものを大切に大切に扱っている人は「貧しいな」としかおもえない。

 とはいえぼくも、こないだ新しい靴を買った翌日に雨の中公園で遊んでどろどろにしてしまったときは「新しい靴履いていくんじゃなかった……」と落ちこんだな。気にせず笑えるような人になりたい。

 

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2022年6月8日水曜日

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2022年6月7日火曜日

【読書感想文】東野 圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』 / 人は自己を犠牲にしない

パラレルワールド・ラブストーリー

東野 圭吾

内容(e-honより)
親友の恋人を手に入れるために、俺はいったい何をしたのだろうか。「本当の過去」を取り戻すため、「記憶」と「真実」のはざまを辿る敦賀崇史。錯綜する世界の向こうに潜む闇、一つの疑問が、さらなる謎を生む。精緻な伏線、意表をつく展開、ついに解き明かされる驚愕の真実とは!?傑作長編ミステリー。


【ネタバレあり】


 主人公・敦賀崇史のふたつの世界が交互に語られる。

 ひとつは、親友・智彦が麻由子という女性と付き合っており、崇史が麻由子にひそかな恋心を描いている世界。

 もうひとつは、崇史が麻由子と交際しており、智彦はアメリカにいる世界。この世界では智彦と麻由子が交際していたという事実はない。

 まるでパラレルワールドのように、似た世界でありながら細部が異なるふたつの世界。はたしてどちらが真実の世界なのか。そしてなぜ〝パラレルワールド〟は生まれたのかー。




 感想。

 せっかく「パラレルワールド」というタイトルをつけてミスリードを誘ってはいるが、あまり成功してはいない。

  • 主人公たちが記憶に関する研究をしている
  • 主人公の記憶と事実との間に食い違いがある
  • 過去と現在が交互に語られるが、食い違いが生じているのは現在のみ
  • 過去編と現在編で人称が変わる(過去編は『俺』で、現在編では『崇史』で語られる)

 ので、「何らかの理由で主人公の記憶が改変され、同一人格でなくなったのだな」と容易にわかる。パラレルワールド感が出ていない。

 で、読み進めていくとはたしてその予想は当たっている。パラレルワールドではなく、現在編は「記憶を改変された主人公が認識している世界」だ。


 で、なんやかんやあってあれやこれやの謎が解けて(内容ゼロのあらすじ)過去編と現在編がつながるわけだが、どうもしっくりこなかった。

 ストーリー組み立てのうまさとか、SFをとりいれつつもちゃんとミステリにしあげるところか、さすがの東野圭吾作品だとはおもう。

 ただなあ。

 話のキーになるのが「主人公の親友の自己犠牲」なんだよね。これが嘘くさくて、終盤で冷めてしまった。

 中盤までは理解不能な記述が続くので「いやでもこれを乗り越えた先におもしろいラストがあるはず!」と信じて我慢しながら読み進めていたのに、待っていたのが主人公の親友による「愛する人の幸せのためにぼくは身を引くよ」「ぼくを裏切ったあいつとずっと親友でいたいから、ぼくは生命の危険があるけど己の記憶を改竄するよ」という自己犠牲的な行動。

 いやあ、そりゃないぜ。人間、そんなに自分を犠牲にできないぜ。

 フィクション以外で聞いたことある? 愛する女性に幸せになってもらいたいから、自ら身を引いた人の話を。親友が大事だから、自らの命を投げだした人を。

 ねえよ。戦時下みたいな特殊な状況で「殺らないと殺られる!」みたいにおもいこまされたのならともかく、平常時に洗脳されたわけでもない人が自己犠牲精神を発揮するかというと……、ううむ、納得できない。


 主人公の行動はひたすらエゴイスティックで共感できただけに、親友のうすっぺらい行動にはがっかり。

 最後にもう一段階「これもまた主人公の願望によって改竄された記憶でした!」っていうオチがあるのかとおもったら、それもなく。都合のよい願望かとおもったら、都合のよい現実でした。


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2022年6月3日金曜日

漫画読むのだりー

 漫画読むのだりー

とおもう日が来るとはおもわなかった。


 ぼくは漫画が大好きだった。小説やノンフィクションも好きだが、漫画のほうが好きだった。小説も好きだったが、どっちかっていったら「お金がなくて漫画が買えない」「図書室には漫画がない」「漫画を人前で読むのは恥ずかしいからかっこつけて小説を読む」みたいな消極的な理由で、できることなら漫画ばかり読みたかった。

 母親がぼくに語ってくれたエピソードがある。ぼくが小学生のとき、いっしょに買い物に出かけ、買い物をする間ぼくを本屋で待たせておいた。母親が戻ってくると、息子がむずかしそうな小説を読んでいる。感心感心とおもって「一冊買ってあげるよ」と声をかけると、息子はうれしそうに小説を棚に戻し、漫画コーナーへと走っていったという。つまり「ほんとは漫画を読みたいけど漫画はシュリンクされていて立ち読みできないので小説を読んでいただけ」だったのだ。

 小学生のときはこづかいが少ないから漫画は月一冊しか買えなかったし、中高生のときも遊ぶ金がほしくて漫画はそうそう買えなかった。ほんとにほしい漫画(『行け!稲中卓球部』とか『王様はロバ』とか)を月に一冊ぐらい買うだけだった。
 その点、文庫本は安かった。古本屋だと百円で買えたし、近くの公民館でやってたバザーではなんと一冊十円で買えた。おまけに活字の本は一冊読むのに時間がかかる。漫画だったらあっという間に読んでしまうが、活字の本は数日はもつ。ぼくが活字の本をたくさん読んでいたのは「漫画が買えなかったから」だ。


 大学生になると、バイトなどである程度お金に余裕もできて、思う存分漫画を買えるようになった。おもえばこの頃がいちばん漫画を読んでいた。

 今のようにネット上で試し読みもできないし、ネットでレビューも見られなかった時代。どうやっておもしろい漫画を買っていたとおもう? 若い人には想像もできないかもしれない。

 答えは「表紙だけで買ってみる」である。

 表紙と裏表紙の絵、作品タイトル、帯に書かれたわずかなコメント。そういったものを頼りに「おもしろそう」なものを買ってみるのだ。ときには作者のペンネームで選ぶこともある(黒田硫黄なんてはじめはペンネームのセンスだけで選んだようなものだ)。

 あとはブックオフにもお世話になった。ブックオフは立ち読みできたからね。


 大学を卒業してからも漫画はたくさん読んでいた。無職時代は時間だけはあったので漫画喫茶に行ったり、古本屋でまとめ買いをしたりして、『ジョジョの奇妙な冒険』『SLAM DUNK』『H2』などの数十巻ある作品を数日で一気読みしたりしていた。

 その後、書店で働きはじめると「まだ流行っていない作品」の情報が入るようになった。知らない人も多いが、書店に届いた時点ではコミックはまだシュリンクがかけられていないのだ。品出しをする書店員は読み放題なのである(もちろん仕事があるからじっくりは読めないけど)。

『聖☆おにいさん』も『テルマエ・ロマエ』も『俺物語』も『ママはテンパリスト』も『ダンジョン飯』も、「この漫画がすごい!」に選ばれるよりずっと先におもしろさを知った。


 だが、書店員を辞めてから急速に漫画を読まなくなった。読むのは、以前から買っていたシリーズのみ。新たに開拓をすることはほとんどなくなった。今では継続的に買っているのは『HUNTER×HUNTER』と『ヒストリエ』だけ。どっちもなかなか新刊が出ないので(いつ出るんだ!)ぜんぜん買っていない。

 今では漫画を買うのは年に二、三冊だ。それも短篇集とか一巻だけを単発的に買うだけで、何十巻も続くシリーズを継続的に買うということはない。経済的には今がいちばん余裕があるのに、電子書籍のおかげで保管場所の心配もしなくて済むようになったのに、今がいちばん漫画を買っていない。


 自分でも驚くことに、漫画を読むのがめんどくさくなったのだ。学生時代には想像すらしなかった。漫画一日中でも読めた。さほどおもしろくなくても、漫画があればとりあえず読んだ。

 ところが今じゃ漫画を読むのがめんどくさい。気になる漫画がないではないが、「連載作品を買って長く付き合っていくのがめんどくさいなあ」とおもうようになった。「三巻まで無料!」なんて広告を見ても心を動かされなくなった。「読んでみておもしろくなかったらイヤだし、おもしろかったら四巻以降も買わなきゃいけないからそれはそれでイヤだ」とおもうようになった。


 もちろん、今の漫画がつまらないなんて言う気はない。今の漫画は歴史上最高におもしろいのだろう。ただ、ぼくが歳をとってしまっただけだ。

 そういや母もそうだった。
 ぼくの母はかつて漫画好き少女だったらしく、家には手塚治虫の古い漫画がたくさん置いてあった。我が子にも手塚治虫漫画を買ってくれた。

 だがぼくの知っている母は漫画をほとんど買わなかった。たまに気まぐれで『ガラスの仮面』や『動物のお医者さん』を買ってきてくれたが、あまり読んでいる様子はなかった。小説はよく読んでいたが。

「漫画好きなのになんで漫画読まないんだろう」とおもっていたが、あのときの母とほぼ同じ歳になってわかった。漫画を読むのはけっこうめんどくさいのだ。人によっては、活字の本よりも。


 ということで、若い人に言いたいのは、今のうちに漫画をたくさん読んでおいてもいいし、読まなくてもいいし、おまえがどうしようがこっちは知ったこっちゃねえしよく考えたら若い人に言いたいことなんてべつになかったわ。


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