2025年6月26日木曜日

【読書感想文】鈴木 宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』 / 言語は記憶の邪魔をする

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認知バイアス

心に潜むふしぎな働き

鈴木 宏昭

内容(e-honより)
見ているはずのものが見えていない。確かだと思っている記憶が違っている。後から考えると不思議な判断間違い。―誰もがよく感じる、このような認識のずれは、なぜ起こるのか、そのメカニズムを詳しく解説!

 認知バイアスとは、思いこみ、偏見、先入観などによって適切な判断をしてしまうことを指す。これはほとんど誰にでも起こることである。

 思いこみや偏見というとネガティブなイメージがつきまとうが、必ずしも悪いことではなく、むしろ判断をスピーディーにしたり、脳のエネルギー負担を抑えたり、プラスにはたらくことが多い。だからこそ人間の脳は思いこみ、偏見を持つように進化したわけだ。

 食物は腐ると刺激的なにおいを放つことが多い。だから刺激的なにおいがするものは食べないほうがいい。これは“偏見”だ。レモンのように刺激的なにおいだけど食べてもよいものも存在する。

 だが、採集生活をしている人がいちいち食べてみて「これは大丈夫」「これは危険」と判断していたら命がいくつあっても足りない。だから「刺激臭のするものは食べるな」「色鮮やかなキノコは食べるな」といった“偏見”にもとづいて行動するわけだ。すごいぞ偏見。

 認知バイアスを持っていなければとっくに人類は絶滅していたかもしれない。




 しかし認知バイアスがあるせいで、判断を誤ることも多々ある。

 こういう次第だから、目撃者証言などもかなり問題を含むことが了解できると思う。ずいぶんと古い実験だが、有名なものを紹介したい。これは実際のテレビ番組を用いた、2000名以上の参加者からなる、かなりコストのかかる実験である。番組の中では、廊下を歩いている女性が突然現れた男性に突き飛ばされ、バッグから財布を盗まれる場面が13秒間放送される。その中の3.5秒間には犯人の顔がしっかりと映されている。この放送の後、視聴者にはあなたたちが目撃者である、と告げられ、2分後に6人の被疑者が1から6の番号札を持って並んでいる写真が見せられる。そして一人ずつはっきりと映された後に、報告用の電話番号が伝えられ、自分が犯人だと思う人の番号を電話で伝えるように指示される。ちなみに6人の中に犯人はいないという選択肢もあり、これは0の数字で答えるようになっていた。
 これは7択の問題なので、ランダムに答えても14.3パーセントが正解する。さてどのくらいの人が正しく答えられたと思うだろうか。なんと正解したのは14.7パーセントに過ぎない。つまりでたらめに答えたのと変わりがないのである。また犯人は6人の中に存在したが、この中にはいないと答えた人(つまり0と報告した人)が1/4程度も存在した。

 人間は、見たものを見たまま記憶することが苦手なのだ。


 ぼくは以前、裁判員に選ばれたことがある。裁判で検察官の主張、被告人側弁護士の主張を聞き、その後評議室で裁判官と裁判員で議論をおこなう。

 そのとき、「たしか検察の主張ってこうでしたよね」「あれ、そうでしたっけ? 私の記憶だとこうだったような……」「じゃあもう一回裁判の記録を見返してみましょう」となることが何度かあった。それで記録を見返すと、どちらの記憶もまちがっていた、なんてこともあった。

 かなり集中して裁判を聴いているのに、採番から評議まで数日しか経っていないのに、細部はけっこう忘れている。裁判員だけでなく、プロの裁判官も記憶がおぼろげなことがあった(一応書いておくと、ちゃんと記録を見返すので誤認のまま評議が進むことはほとんどないはず)。


 以前別の本で読んだのだが、鳥はヒトに比べてものの形を正確に覚えられるらしい。

 だが、正確に記憶するせいで、ちょっと形が変わっただけで別のものと認識してしまうのだそうだ。これは不便だ。人の顔をおぼえても、ちょっと髪型が変わっただけで別人と判断してしまっては困る。

 つまり記憶はあいまいであるほうがよい面もあるのだ(むしろそっちのほうが多いのだろう)。

 この本によると、幼児期には写真のように見たものを記憶できるが、言語の発達とともにその能力は衰えていくのだそうだ。写真のように正確におぼえるよりも「眉が太くて柔和な顔つきのひげの濃い男性」のように特徴を取り出しておぼえるほうが効率がいいからだろう。

 それでは言語のもたらす影の部分に進んでみたい。直前に述べた記憶から始めることにしよう。これについてジョナサン・スクーラーたちが行った実験がある。この実験では、ある犯罪が行われた時のビデオを参加者たちに視聴させる。なお犯人の顔ははっきりと映っている。その後に、一方のグループの参加者には、ビデオに登場する人の顔を詳細に5分間言語的に記述するように求めた。もう一方のグループにはそうしたことをさせずにまった別のことをさせた。その後に犯人の顔写真を含んだ何人もの顔写真を見せ、その中のどれがビデオに登場した人物かを尋ねた。さてどう考えても一所懸命犯人の姿を思い出しながら文章で記述していたグループの成績の方がよいと思うだろう。片方のグループは、5分間その男の特徴を一所懸命思い出し、文章化までしているのに対して、もう一方のグループは何もしていないわけだから、その差は歴然と考えるだろう。しかし結果は逆になる。言語的に記述したグループの成績はもう一方のグループの成績よりも悪くなったのである。こうした現象は言語隠蔽効果と呼ばれている。

 言語能力が高いのも良し悪しである。




 対応バイアス、について。

 一般に、私たちは自分の行動の原因をその時の状況に求めるが、他人の行動の原因はその人の性格意思、態度などに求めることが多い。これは対応バイアスと呼ばれている。たとえば自分が遅刻をした時には「電車が遅れた」「たまたま朝寝坊した」「出がけに面倒な用事を押し付けられた」などとする。しかし他人が同じことをすると、「あの人はズボラだから」「ルーズな性格だから」と考えがちである。
 この原因の追究に社会的なカテゴリー、つまり所属集団が関わることもある。ある変わった行動をとる人がいたとしよう。たとえば、合コンの時に1時間以上にわたってコンクリートの話をし続ける男子学生がいたとする(伝聞だが、これは実話だ)。
 この非常に特異な行動の原因を人は考えてしまう。原因はいろいろと考えられる。理由は状況かもしれないが(合コンがあまりにつまらないので早く終わらせたかった)、前にも述べたように私たちは他者の行動の原因をその人の内面に求めがちである。「変わった性格」「空気が読めない」などで止まることもあるだろうが、その大学生の所属集団に求める場合もあるだろう。むろん人はいろいろな集団に属している。たとえばその男子学生は「静岡県出身、AKB48のファン、一人暮らし、東京大学」だとする。さて、この「コンクリートの話を合コンで長々とする」という行動の原因として適当なものはなんだろうか。おそらく東京大学に求める人が多いのではないだろうか。
 どうしてこのような帰属が起こるのだろうか。合コンでコンクリートの話をするというのは、相当に変わった出来事である。この出来事の原因の候補の中で、静岡出身、AKBのファン、一人暮らしなどはいずれもよくある珍しくないことである。一方、東大生というのは十分に珍しい。そうした次第で「東大だからあんな変わったことをする」という話が成立してしまう。そしてさらにおかしな東大生ステレオタイプが強化されることになる。つまり、変わったことの原因は、変わったこととされるのである。

 他人の行動の原因をその人の人間性に求めてしまうのが対応バイアスだ。

「罪を憎んで人を憎まず」の逆の思考だね。

 近所に騒音を出す人がいる。その人は外国人だった。「外国人だからマナーが悪いのだ」と考える。じゃあうるさいのが日本人だったら「日本人はマナーが悪い」と考えるのかというと、そうは考えない。「大学生はマナーが悪い」「派手な服を着てるからマナーが悪い」など、べつの“それっぽい属性”に理由を求める(もちろん自分自身がその属性に含まれていないことが前提である)。


 対応バイアスは、差別を生みだす大きな原因なのだろう。戦争を持続させるきっかけだって同じかもしれない。

「A国人はおれたちの国の人間を殺した。A国人は残虐だ。おれたちの国にもA国人を殺したやつがいるが、それはそいつが特別に悪いやつだっただけだ。よってA国人は滅ぼすべし!」みたいな発想になるのだろう(そしてそういう思考に導く政治家がいる)。


 バイアスを持つことは避けられないし、必ずしも悪いことではない。バイアスは我々が利用する道具だ。言語や自動車やナイフのように、いい使われ方もするし悪い使われ方もする。

 バイアスを抱くのは避けられないが、ただバイアスを持っているという意識は忘れないようにしたい。


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