2020年5月28日木曜日

ツイートまとめ 2019年10月


覆水盆に返らず

CM

遊び

どうぶつしょうぎ棋士

手料理

ウミガメ

試験紙

挿絵

東京

冬服

木の実

貧乏

馬1万頭分

要求

被告人

出木杉

トマソン

サイヤ人

鍵盤ハーモニカ

廃刊

惜しんで

留守電

2020年5月27日水曜日

今どきの進研ゼミ


昔、進研ゼミにお世話になっていた。
ぼくは人の話を聞くのが苦手なので、塾や予備校はどうも性にあわない。
進研ゼミのように自分の部屋で自分のペースで学習できる教材がいい。
ぼくが第一志望の大学に合格できたのは、進研ゼミ高校講座のおかげだ。

中一~高三まで進研ゼミをやっていた。
だが、それより前、小学三年生ぐらいのときにもやっていた。一年か二年。
で、やめてしまった。
ものすごくよくある話で恐縮なんだけど、

 ポストに進研ゼミのダイレクトメールが届く。
  ↓
 載っている漫画を読み、興味を持つ。ポイントシールを貯めてもらえるプレゼントも魅力的。
 ↓
 親におねだり。絶対にちゃんとやるからと言って始めさせてもらう(子どもに「勉強したい!」と言われて断れる親はなかなかいないよね)。
 ↓
 はじめはちゃんとやるがそのうち読み物だけ読んで問題には手をつけなくなる。ポイントシール欲しさに添削問題だけ出す。
 ↓
 なかなかポイントが貯まらないことに嫌気がさして添削問題すら出さなくなる。
 ↓
 親に怒られる。ゼミ解約。

毎年何万人もの小学生が同じことをやっていたとおもう。ぼくもその一人だった。

中学講座から再開したが、中学生以降はちゃんとやれるようになった。
学校の定期テストというわかりやすい目標があり、自宅学習の習慣もそれなりについてきたからだ。
小学生には早すぎたのだ。



娘が小学校に入った。
「低学年の間は勉強は学校だけで十分!」とおもっていたのだが、そうも言っていられなくなった。
そう、コロナ騒動のせいで授業がなくなったのだ。
「学校だけで十分」と言っていたが、その学校がないのだ。
一応宿題は出されるが一日三十分で終わってしまう。
緊急事態宣言下なので遊びに行かすこともできない。
放っておくとずっとテレビを観ている。

あわてて通信教育の資料請求をした。
進研ゼミ、Z社、S社の資料を取りよせた。
資料を見比べて感じたのは、S社はかんたんそうなので授業についていけない子の補習に使うにはいいがたっぷり時間のある今やるにはものたりなさそう、Z社は問題がよく練られている感じがしたが娯楽要素が少なすぎて低学年には魅力が乏しいのではないか、という印象。
基礎~発展まで幅広く対応していて、ごほうびや読み物も充実していた進研ゼミを申し込むことにした。
なにより、かつてぼくがお世話になったということが大きい(ちなみに妻はZ社を受講していたのでZ社を推していたが「今は勉強嫌いにさせないことが大事だからおもしろいほうがいい!」と言って説きふせた)。

ただ申し込もうとしたら、受講の申し込みが殺到しているので教材の到着が遅れるとの連絡があった。
そりゃあなあ。学校授業がないんだもの。塾にも行けないし。そりゃあ通信教育に群がるわ。
どの家庭も考えることは同じだ。
進研ゼミ小学講座にはタブレットコースと紙のテキストコースがある。
おもしろいほうがいいだろうとタブレットコースにしたのだが、4月上旬に申し込んだのにタブレットの発送は5月下旬になるとのこと。いたしかたなし。

タブレット到着が遅れているので、到着までのつなぎとして紙のテキストを送ってくれた(その分の料金はサービス。ありがたい)。
娘にやってもらう。
はじめは順調だった。
一年生なので「ひらがなをかいてみよう」とか「いくつあるかかぞえてみよう」みたいな問題ばかり。
娘も「かんたん、かんたん、また百点」と言いながらやっていた。

だが少し発展的な問題になると足踏みするようになった。
答えがわからないのではない。問題がわからないのだ。
「①に『かなしかった』とありますが、だれがかなしかったのでしょう。あてはまることばをぬきだしましょう」
みたいな問題が出る。
だがテスト問題を解いたことのない小学一年生には
「本文の中から①を探す」
「その前後の文章を読んで主体をさがす」
「見つけたらそのまま“ぬきだす”」
といった作業ができないのだ。
そういうのはある種のテクニックが必要で、いくつか数をこなしていかないと身につかない。慣れてくると「“ぬきだしましょう”ときたら改変せずに一字一句そのまま書く」とかわかってくるけど、一年生にはわからない。
問題について考える以前に「何を問われているか」がわからないのだ。

横について教えていたのだが、娘もだんだんうんざりしてきた。
「そもそも何を問われているかわからない。その都度人に教えてもらわないといけない」
というのはなかなかのストレスなのだ(ぼくだってそんな仕事イヤだ)。
またぼくも妻も家にはいるがリモートワークをしなければいけないのでつきっきりで教えてあげられるわけではない。


やはり小学一年生に自宅学習は無理があるなと感じはじめていた矢先、ようやく学習用タブレットが届いた。

これがすごい。
食いつきがちがう。
まずアニメで例題の解き方を教えてくれるので「何をどう答えていいかわからない」とならない。
正解/不正解のフィードバックがすぐにあるのものいい。
まちがえた問題はすぐにもう一度出題されるのでまちがえたままにならない。

さすがプロが集まって考えている教材だ。飽きさせない工夫、何度も挑戦したくなる工夫が随所に見られる。
紙の教材だと親がつきっきりで教えてあげないといけない(教えてもうまくいかない)のに、その代わりをタブレットがやってくれるのだ。

分量も多い。
基礎編が終わったら、演習編、発展編の問題も用意されている。
学校の勉強についていけない子は基礎編、もっとやりたい子は演習編や発展編で骨のある問題にチャレンジできる。

またタブレットは勉強をできるだけじゃない。
動画が視聴できたり(猫の動画とか交通安全動画とか子ども向けニュースとか無害なものばかり)、電子書籍が1,000冊読めたり、勉強になるパズルゲームができたり、いろんなコンテンツがある。
とにかく毎日タブレットを起動してもらうことが大事なのだろう。スマホゲームがログインボーナスを与えているのと同じだ。

機能もすごいが、それ以前に小学生からしたら自分専用の端末を持てるというだけでうれしいだろう。
うちの娘は、ぼくが「ちょっとがんばりすぎだから今日はそれぐらいにしときや」と言ってしまうぐらい毎日タブレットの課題に取り組んでいる。


で、ぼくはおもう。
くそう。
どうしてこんないい教材がぼくが小学生のときはなかったんだよ!
いいなあ。
これがあったらぼくだってもうちょっとゼミを続けたのになあ。
ゲーム感覚で勉強できたのになあ。
うらやましいなあ。

だからぼくは娘に「ゼミの勉強もいいけど、本を読んだりピアノを弾いたり、ちがうこともしようね」と言う。
だって横でこんないいものをずっとやってるの、くやしいんだもん。


2020年5月26日火曜日

ツイートまとめ2009年9月



命あってのものだね

1パック

ステータス

しまっていこう

うこそいら

不要急

この手で

庶民

深い

むちむち

冥途の土産

バグ

不審者

言い伝え

広報


例外ホームラン

ブックオフ

ピラミッド

初手

2020年5月25日月曜日

【読書感想文】現生人類は劣っている / 更科 功『絶滅の人類史』

絶滅の人類史

なぜ「私たち」が生き延びたのか

更科 功

内容(e-honより)
700万年に及ぶ人類史は、ホモ・サピエンス以外のすべての人類にとって絶滅の歴史に他ならない。彼らは決して「優れていなかった」わけではない。むしろ「弱者」たる私たちが、彼らのいいとこ取りをしながら生き延びたのだ。常識を覆す人類史研究の最前線を、エキサイティングに描き出した一冊。
人類700万年(サヘラントロプス・チャデンシス~ホモ・サピエンス)の歴史を駆け足で走り抜ける一冊。
ものすごくわかりやすくまとめられていて、かつ随所に挟まるトピックスもおもしろい。
人類史の入門書としてこれ以上ない(といっても他の本をほとんど知らないけど)本だ。


ぼくも学生時代に歴史の授業の最初のほうで人類の歴史を習ったはずだが、ぜんぜんわかっていなかった。
アウストラロピテクスとかジャワ原人とかクロマニオン人とかネアンデルタール人とかの名前をおぼえていただけ。
恥ずかしい話、ぼくはネアンデルタール人がヒトになったんだとおもっていた。我々の直系の祖先なのだと。
でもそうではなかった。ネアンデルタール人とヒト(ホモ・サピエンス)は別の種だったのだ。同時代に生きていたが、ヒトはその後繁栄し、ネアンデルタール人は滅びた。いってみればライバルのような存在だったのだ。
人類史をやっている人からしたら常識なんだろうけど、そんなことすらわかっていなかった。



「万物の霊長」という言葉が表すように、ぼくらは今のヒトがあらゆる生物の中でいちばん優れている、いちばん賢い存在だと考えてしまう。
賢かったからこうして地球上で繁栄しているのだと。優れているから今こうして快適な暮らしを送っているのだと。

ところが人類の歴史を見てみると、その考えが誤りだということがわかる。
 現在の日本でも、クマが山から人里へ下りてくることがある。でもそれは、クマが希望にあふれて、人里で美味しいものをたくさん食べようと思って、下りてきたわけではない。きっと山の食料が少なくなり、空腹でたまらなくなったのだ。それで仕方なく人里まで下りてきたのだ。ふつう動物は、食べるものがたくさんあって住みやすい場所があれば、その場所を捨てたりしない。いつまでも、そこにいようとするはずだ。今までいた場所を捨てて、他の場所へ移動するときは、そこにいられなくなった理由があるのだ。
 初期の人類が直立二足歩行を始めたときも、同じような状況だったかもしれない。そのころのアフリカは、乾燥化が進んで森林が減少していた時代だった。類人猿の中にも、木登りが上手い個体と下手な個体がいただろう。エサがたくさんあれば、少しぐらい木登りが下手でも困らない。しかし、森林が減ってくると、そうはいかない。木登りが上手い個体がエサを食べてしまうので、木登りが下手な個体は腹が空いて仕方がない。そうなると、木登りが下手な個体は、森林から出ていくしかない。そして、疎林や草原に追い出された個体のほとんどは、死んでしまったことだろう。でも、その中で、なんとか生き残ったものがいた。それが人類だ。
 草原で肉食獣に襲われたら逃げ場がない。でも疎林なら、なんとか木のあるところまで逃げられれば、木に登って助かるかもしれない。森林を追い出された人類は、生き延びるために疎林を中心とした生活を始めたと考えられる。
初期の人類は猿の中で劣った存在だったのだ。
劣っていたから競争に負けて森林から出ていかざるをえなかった。
ところが走るのも遅く、強い武器も持っていなかった人類は、森林を追いだされたらとても生きていけない。

だから群れて暮らす必要があった。
群れれば敵に気づきやすくなるし、襲われたときも食べられる可能性が減る。
そうやって群れて暮らすうちにコミュニケーション能力が発達した。

また外敵や厳しい環境から身を守るために道具をつくる必要も生まれた。
もしも人類が強かったら、今頃まだ森の中で暮らしていたことだろう。



ヒトは人類以外の動物より劣っていただけでなく、他の人類よりも劣っていた。
 ネアンデルタール人は私たちよりも骨格が頑丈で、がっしりした体格だった。その大きな体を維持するには、たくさんのエネルギーが必要だったはずである。ある研究では、ネアンデルタール人の基礎代謝量は、ホモ・サピエンスの1.2倍と見積もられている。基礎代謝量というのは、生きていくために最低限必要なエネルギー量のことで、だいたい寝ているときのエネルギーと考えればよい。つまりネアンデルタール人は、何もしないでゴロゴロしているだけで、ホモ・サピエンスの1.2倍の食料が必要なのだ。もしも狩猟の効率が両者で同じだとしたら、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより、1.2倍も長く狩りをしなくてはならない。

(中略)

 昔は、よかったのかもしれない。狩猟技術が未熟なころは、力の強いネアンデルタール人の方が、獲物を仕留めることが多かったのかもしれない。行動範囲の狭さを、力の強さで補って、ホモ・サピエンスと互角の成績をあげていたかもしれないのだ。
 しかし、槍などの武器が発達して、力の強弱があまり狩猟の成績に影響しなくなってくると、状況は変わった。力は弱くても、長く歩けるホモ・サピエンスの方が、有利になったのだ。その上、もしも狩猟技術自体もホモ・サピエンスの方が優れていたとしたら、両者の差は広がるばかりだ。力は強くても、長く歩けず、狩猟技術の劣るネアンデルタール人は、いつもお腹を空かせていたのではないだろうか。
ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより体格が良かったらしい。しかも脳の大きさもネアンデルタール人のほうが大きかった(ただし脳が大きいから賢いとは言い切れないが)。

ホモ・サピエンスはネアンデルタール人より劣っていたからこそ、よりよい道具を作ることが求められた。
そうして道具を生みだし、またホモ・サピエンス間のコミュニケーションによって道具の作り方を伝えていった人類は、総合力の差でネアンデルタール人を追いぬいた。

またネアンデルタール人は体格が良かったからこそ、その大きな身体を維持するのにより多くのエネルギーを必要とした。
食糧が豊富にあるときはいいが、飢餓期には身体が小さいほうが有利だった。

 それにしても、昔の人類の脳は大きかった。いや、大き過ぎたのかもしれない。ネアンデルタール人の脳は約1550ccで、1万年ぐらい前までのホモ・サピエンスの脳は約1450ccだ。ちなみに現在のホモ・サピエンスは約1350ccである。時代とともに食料事情はよくなっているだろうから、私たちホモ・サピエンスの脳が小さくなった理由は、脳に与えられるエネルギーが少なくなったからではない。おそらく、こんなに大きな脳は、いらなくなったのだろう。
 文字が発明されたおかげで、脳の外に情報を出すことができるようになり、脳の中に記憶しなければならない量が減ったのだろうか。数学のような論理が発展して、少ないステップで答えに辿り着けるようになり、脳の中の思考が節約できたのだろうか。それとも、昔の人類がしていた別のタイプの思考を、私たちは失ってしまい、そのぶん脳が小さくなったのだろうか。
 ただ想像することしかできないが、今の私たちが考えていないことを、昔の人類は考えていたのかもしれない。たまたまそれが、生きることや子孫を増やすことに関係なかったので、進化の過程で、そういう思考は失われてしまったのかもしれない。それが何なのかはわからない。ネアンデルタール人は何を考えていたのだろう。その瞳に輝いていた知性は、きっと私たちとは違うタイブの知性だったのだろう。もしかしたら、話せば理解し合えたのかもしれない。でも、ネアンデルタール人と話す機会は、もう永遠に失われてしまったのである。
われわれの脳はネアンデルタール人より小さいばかりでなく、昔のホモ・サピエンスと比べても小さくなっているのだそうだ。

ここに紹介されているのはあくまでひとつの説だが、文字という記録装置が生みだされたことで大きな脳を必要としなくなったという説はおもしろい。
だとしたら、この先どんどん脳は小さくなっていくのではないだろうか。
ここ百年間で計算機やコンピュータなど外部のOSやメモリが次々に生まれたのだから。


我々は有史以来もっとも優れた生物だとおもっているが、とんでもない。
もしかしたら史上まれにみるほど、生物として劣った存在なのかもしれない(なにしろ餌をとらなくても敵から逃げなくても生きていける生物なんて他にいないのだから)。

今の人間はたしかに地球上で支配的なポジションにいる。
でもそれは我々が優れているからではなく、たまたま環境に適応できた、運がよかっただけなのだ。

もしも地球上がもっと過ごしやすい環境だったら、覇権を握っていたのはホモ・サピエンスではなくネアンデルタール人だったかもしれない。
いやそれどころか恐竜が跋扈していて哺乳類自体が生態系ピラミッドの下のほうでひっそりと生きていた(あるいは絶滅していた)かもしれないね。


【関連記事】

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【読書感想文】悪口を存分に味わえる本 / 島 泰三『はだかの起原』



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2020年5月22日金曜日

【小説】肥満禁止社会


いつものように改札に定期を入れるとブザーが鳴った。
そうだった、今日からだった。すっかり忘れていた。カードケースを取りだし、ICカードを押しあてる。
今日から二倍の料金か。ため息をつく。だが仕方がない。

改札を抜け、階段をおりる。膝が痛むので手すりにつかまりながらゆっくりと。他の乗客たちはエスカレーターでホームへとおりてゆく。必死に階段をおりるおれのことを笑っているように見える。ちくしょう、ほんとはおれのようなやつこそエスカレーターを必要としているのに。

地下鉄に乗りこむとちょうど座席が空いていた。一瞬躊躇するが、二倍の運賃を払ったことをおもいだして腰をおろした。二倍の運賃を払っているのだから当然座る権利があるはずだ。
ほっと一息ついて鞄から文庫本を取りだしたのもつかぬま、老婆から声をかけられた。
「ちょっと、座るんだから立ちなさいよ」
さっき扉が閉まる直前に駆けこんできたババアだ。

昨日までならおとなしく立ちあがっていたところだが、今日はちがう。なにしろ運賃二倍なのだ。
「わたしは二倍の運賃を払っているんですよ。当然座る権利もあるはずです」
「はあ? 何言ってるのよ。そんなの関係ないでしょ。デブに座る権利があるわけないじゃない」
周りの乗客がこちらを見る。一人の中年男がこちらに近づいてきた。まるでこうなるのを待っていたと言うような薄笑いを浮かべて。
「まあまあ。こちらの女性に席を譲ってあげましょうよ。こちらは細身の方なんですから」
ババアはほれみなさいよという顔でこちらを睨みつける。だがおれも黙ってはいられない。
「しかしですね。今日から体重100kg以上は運賃が二倍になるんですよ。二倍払っているんだから当然座席を二人分使う権利もあるでしょう」
「運賃が二倍なのは重量が二倍だからです。それで得られるのは乗る権利であって座席を二人分占める権利ではありませんよ。ほら」
男は反論を予想していたかのようにタブレットの画面を見せてきた。新聞社のサイトが表示されており『今日から施行! 肥満乗客対策法に関するQ&A』という記事があった。記事の内容はちらりと見ただけだが、どうやらおれのほうが分が悪いようだ。あきらめて立ちあがる。
ババアはわざとらしく座席に脱臭スプレーを吹きかけてから腰をおろした。その隣にスペースはあるがもちろんおれは座れない。仮に座れたとしてもあのババアの隣に座るのはごめんだが。

事の成り行きを見ていた乗客数人がスマホを取りだして何やら入力しはじめた。きっとSNSで「デブが迷惑行為!」的なことを発信するのだろう。
おまえらも全員デブになれ。心のなかで呪いをかける。

おれはスマホを取りだして、検索窓に「肥満乗客対策法」と打ちこんだ。
すぐにさっきのサイトが見つかった。じっくり読んだが、やはり肥満に座る権利はないらしい。「立つことでカロリー消費を増やし、肥満から解放されることが狙い」なんて書いている。まるでおれたちのために立たせてやっている、とでもいうように。
嘘つけ。「デブはじゃま」が本音のくせに。

ここ数年の肥満バッシングはすさまじい。
ポリティカルコレクトネスだのなんだの言ってるくせに、デブだけは差別してもよいという風潮だ。昨年の流行語大賞には「デブハラ」がトップ10入りした。デブは存在自体がいやがらせなのだそうだ。
おかげですっかり肩身が狭くなってしまった。狭くないけど。

肥満乗客対策法についてもおれは納得していない。
「重量が二倍であれば運賃も二倍にするのは正当な料金体系だ。郵便物だって重さに応じて値段が変わるじゃないか」というのが賛成派の主張だ。
だったら体重六十キロの人間は四十キロの人間の五割増しにしろよ。幼児だって体重に応じて料金負担しろよ。おれはそうおもうが、肥満者の意見は通らない。
結局みんな太ったやつを差別したいだけなのだ。喫煙者と太った人間はどれだけ差別してもいい。それが世の風潮なのだ。

きっかけは数年前だった。
SNSで作家が書いた「デブのせいで六人掛けの座席に五人しか座れない」という投稿が爆発的に拡散された。
それをきっかけに「楽しみにしていたライブなのに隣がデブだったせいで窮屈だった」「デブがいるとエスカレーターがスムーズに流れない」だのといった声が広がりはじめた。あげくには「高速道路が渋滞するのはデブのせいだ」なんて言いがかりとしか思えない投稿もあったが、反論よりも支持のほうがずっと多かった。
ちょうど同じ頃に厚生労働省が「医療費が増えているのは肥満のせい」「介護職の離職率が高いのは肥満老人の介護負担が大きいから」なんてデータを発表して、一気に肥満バッシングムードが高まった。国民からの批判をかわすためにおれたちをスケープゴートにしているだけなのに、人々はかんたんに乗せられた。
今じゃどの鉄道会社も「肥満の方は標準体型の方に席をお譲りください」とアナウンスをしている。肥満禁止車両までつくられた。まるで痴漢のような扱いだ。

医療費も上がった。100kg以上は保険証を持っていても6割負担。それでも「医療費増大は肥満のせい」という声は収まることがない。
肥満のほうが早死にするから生涯医療費は少なくて済む、なんてデータを上げて擁護する声もあったが(もちろん擁護者も肥満なのだろう)、焼け石に水。世間が求めているのはデータではなくサンドバッグなのだ。

言いたいことはたくさんある。
好きで太っているんじゃない。遺伝子のせいなんだ。人よりよく食べるということはたくさんお金を使っているということだ。消費税もいっぱい払ってるんだ。8%の商品ばっかりだけど。経済を回して税金負担しているんだ。蔑むな、むしろ称えよ。
でも言わない。
世間が求めているのはもの言うデブではなくもの食うデブなのだ。


2020年5月21日木曜日

【読書感想文】復興予算を使いこむクズ / 福場 ひとみ『国家のシロアリ』


国家のシロアリ

復興予算流用の真相

福場 ひとみ

内容(e-honより)
なぜ復興予算が霞が関の庁舎や沖縄の道路に使われたのか―流用問題をスクープした記者が国家的犯罪の真相に迫る!小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞作。

伊兼 源太郎『巨悪』という小説に復興予算流用の話が出てきて、興味を持ったので買ってみた。

2011年の東日本大震災の復興予算として5年で19兆円の国家予算が組まれ、そのうち10.5兆円が増税によってまかなわれることになった。
昨年の消費税増税は大きな話題になったが、そのときの増税はさほど大きな話題にならなかったはずだ。ぼくもニュースで見たが「まああれだけの震災、復興には途方もない金がかかるだろうから仕方ないな」とおもった記憶がある。

ところが。
復興予算はじっさいにどう使われたのか。
――目を疑った。復興に関する事業だけでまとめた予算書のはずなのに、復興と関係のない事業のオンパレードではないか。これが本当に復興予算なのだろうか。

内閣府
「金融庁職員の基本給」5205万円
「子供のための金銭の給付」(子ども手当)240万円
「共済組合負担金」1006万円うち「長期負担金」(年金)に691万円

文部科学省
「国立大学運営費交付金」(北海道大~琉球大まで)56億5484万円

法務省
「検察運営費」2527万円

外務省
「アジア大洋州地域外交」4382万円

財務省
「荒川税務署他2件の庁舎整備」5億3384万円

厚生労働省
「日本社会事業大学」(東京都清瀬市)の改修費用3億2293万

国土交通省
「小笠原諸島の振興開発事業費」6億8000万円
「北海道開発事業費」118億8150万円

防衛省
「航空機購入費」25億484万円

 ぱらぱらと一覧するだけでも、北海道や沖縄、小笠原諸島と、事業名に記載された地名は、およそ被災地からかけ離れた、無関係な地名ばかりだった。そのほかも、被災地や復興とは、見るからに関係のなさそうな事業ばかりが羅列されている。
ひどい。
めちゃくちゃだ。復興予算がわけのわからないところに使われている。
国民が「被災した人を救うためなら仕方ない」と自らも苦しいのをこらえて受けいれた増税分が、防衛省の航空機の購入費に使われているのだ。大犯罪じゃないか……というのがふつうの感覚だろう。

ところがこれが犯罪じゃないのだ。
「耐震工事」だとか「復興を世界にアピールする」などの名目さえ挙げれば、まったく検証されることもなく復興予算を使えたというのだ。信じられない。
理屈と膏薬はどこにでもつく。そんな理屈は何の意味もない。

百歩譲って、被災地の復興に使って余ったから他の用途に使わせてもらったというならまだ理解はできる。
それでも許せんけど。
だが事実はもっとひどい。
 前述の通り、復興交付金は、もともと被災した地方自治体が「従来の補助金のような細かい制限や縛りのない、自由に使える財源が欲しい」と要望して実現した予算で、初年度は3次補正で1兆5600億円が計上された。
 この復興交付金の1次配分額が公開された2012年3月2日、交付対象となる被災地ではどよめきが走った。市町村が申請した額のわずか6割程度しか、交付が認められなかったからだ。
 石巻市はこの復興交付金に防災無線整備事業を要望したが、「緊急性が乏しい」と配分から外れていた。宮城県の栗原市、大郷町、加美町などは、配分額はゼロだった。
「復興庁ではなく『査定庁』になっているのではないか」
 宮城県庁で開かれた記者会見で、村井嘉浩知事は怒りを露わにした。
 それも無理はない。宮城県では、津波浸水域の県道整備などは交付金が一切認められず、ゼロ回答だったからだ。知事は、「前に進もうとしているのに、国が後ろから袖を引っ張っている」と強い不満を表明した。
被災した自治体にはなんのかんのと理由をつけて金を渡さず、一方で国家事業であればクールジャパンだのスカイツリーだのわけのわからぬ事業にじゃぶじゃぶ復興予算を使う。

東北では仮設住宅に住んでいたり、元の生活がまったく戻らない人も大勢いる中で、復興予算が「国会議事堂の電灯をLEDに変える」なんてことに使われていたのだ。

許せない。
人でなし、という言葉が頭に浮かんだ。

この予算案を認めた人間は、法律的に問題がなければセーフ、という考えで動いたんだろうか。
でも地震で深刻な被害にあった地域の復興を後回しにして復興予算で国会議事堂の電灯をLEDに変える、なんてまともな人間なら誰だってやっちゃいけないことだとわかる。
法律に違反しているかいないかの問題じゃない。人間としてぜったいにやっちゃいけないことだ。
風上にも置けない。

でもそれが堂々とおこなわれていた。
一件二件ではない。いろんな省庁でいろんな名目で使われていた。

利権の奪いあい、省庁間の綱引き、天下り先の法人への便宜。そんなくだらない理由で、復興予算が使われた。



 被災地より国の施設が優先されたのには、霞が関の事情があった。老朽化したり、建て替え計画のあった国の行政施設は、財政難のあおりで歳出削減される傾向にあったため、改修計画があっても後回しにされていた。
 そこに現われたのが、復興特別会計だった。歳出に上限のある一般会計とは異なり、「防災」というキーワードに当てはまれば、打ち出の小槌のように予算が出るという願ってもない新しい財布が登場した。復興予算が被災地外でも使えることに喜んだ各官庁がここぞとばかりに、国の施設を最優先して復興予算に群がったのである。
 もちろん、耐震性の低い施設の改修をすることは、必要なことだ。しかし、被災地にいち早く復興予算が行き渡っているとは言えない状況で、被災地を置き去りにしたままで、被災地とは関係のない場所に多くの復興予算が投じられているのは、優先順位を間違えているとしか言えないだろう。
こんなの、詐欺の中でも相当悪質なものだ。
「投資話を持ちかけて100万円をだましとる」と「孤児のための募金として集めた100万円をふところに入れる」だったら、ほとんどの人は後者のほうがより悪質だと感じるだろう。被害額は同じでも。
人の善意につけこんで金をだましとるなんてクズ中のクズのすることだ。
復興予算の流用はそれと同じだ。いや、税金という形で強制的にとっている分、より悪質かもしれない。

そんなクズ中のクズ行為が各省庁でまかりとおっていて、しかも誰も罪をつぐなっていない。罪を罪ともおもっていない。



復興予算が他の用途に使われていることが明らかになり、大きな問題になった。

(だがはじめはメディアも見て見ぬふりをしていた。復興予算から新聞やテレビへの広告費も出ていたので、彼らも流用の利益を享受していたのだ。だから大きな声では非難できなかったのだろう)

当時下野していた自民党は、政権与党だった民主党の責任だとして強く責め立てた。あたりまえだ。
ところが。
 自民党政権が誕生して以降は、アベノミクスや国土強靭化による景気回復への期待感が注目された。一方で復興予算の流用は、民主党政権時代の負の遺産として過去のものとされ、ほとんど話題に上らなくなった。こうして、新聞・テレビ等メディアからの批判も次第にトーンダウンしていく。
 そして、奇妙なことが起きる。
 凍結されたはずの4号館の改修について、2013年度予算の一般会計「耐震対策など施設整備費」名目として、17.5億円の予算が復活したのだ。同年9月には入札も無事終わり、工事が始まった。何の議論もないままに、である。
 つまり、自民党が「国土強靭化」と題する公共事業復活を宣言するなかで、「復興予算流用」として批判された4号館の改修は、しれっと復活したわけだ。
 4号館だけではない。復興予算からの流用と批判された復興や防災を名目にした公共事業は、政権交代によって大手を振って認められるようになった。
野党のときは民主党を攻撃する材料に使った自民党は、自分たちが政権をとった途端に復興予算を流用させた。

そもそも復興予算を他の用途に使えるようにしていたのは自民・公明のはたらきかけによるものだったのだ。
 実は、政府・民主党が初めに提案していた政府案は、復興の範囲を被災地に限定していた。
 同法案は、おもに民主党政調を中心に作られていたもので、当時の民主党政調は、玄葉光一郎議員など被災地議員が中心にいたこともあってか、この時点では、あくまで被災地を前提として考えていたことが窺える。
 ところが、当時野党であった自民党がこの案の破棄を要求する。自民党が対案として提出していた法案の趣旨は、政府案の復興対策本部の設置では十分に機能しないとして、もっと迅速に強力な権限を持つ「復興再生院」の設立を求めていた。
 この法案破棄の要望を、政府はあっさりと呑んでしまう。こうして、修正案は3党合意(民主党、自民党、公明党)を経て6月20日に成立した。
 しかし、最終的にまとまった修正案を見てみると、自民党が提案していた復興再生院構想が受け入れられたわけではなかった。その代わりに自民党の要望として何が受け入れられたのかというと、それは被災地外への流用であった。
自分たちが「復興予算は他の用途にも使えるようにしろ!」と言っておきながら、他の用途に使われていることが明るみに出て世論の反発を招くと、世間と一緒になって政府・民主党を攻撃する。
そして自分たちが政権を奪還すると、しれっとまた他の用途に流用する。とんでもない悪党だ。

民主党は無能だし自民公明は邪悪。予算の中身を見ずに法案を通した他の国会議員も怠惰。

関わった人間はみんなクズだが、この件でいちばんのクズは予算を他の用途に使えるような文言をねじこんだ官僚だ。
国会議員が無能だったからうまく利用されたのだろう。



胸糞悪くなる記述ばかり。

だが、ちょっとクールダウン。
「復興予算を他の用途に使った政治家、官僚はクズだ」と高みから非難するのはかんたんだ。

けれど、自分が中央省庁にいて同じ立場にあったらどうしただろう。
「これができたら仕事がうまく進むのにな。でも予算がおりないんだよな」と常々おもっていることがある。
「復興予算ならほとんど審査なく予算がおりるよ」という話を耳にする。
さすがにそれはまずいんじゃないの、と一応はおもう。
「他の省庁でもみんなやってることだよ」と言われる。
「『クールジャパンによる日本ブランド復興経費』や『東京スカイツリー開業前プレイベント』や『途上国への援助』にも復興予算は使われたんだよ。あんたんところが申請しなかったらもっとどうでもいい事業に使われるだけだよ」と言われる。

それでも「いや、ダメなものはダメです! 人の道に外れてることですよ!」と上司に対して言えるだろうか。

……たぶん無理だ。
積極的に「申請しよう!」とまでは言わなくても、隣の人が申請しようとするのを止めることまではしない。

結局、ぼくも同類なのだ。
立場が同じなら同じようなクズ行為をはたらいた。


結局、これこそがこの問題の本質なのだ。

誰かひとり巨悪がいて「復興を口実に税金を好き勝手使ってやろうぜ!」と企んだわけではない。
「どうせ被災地にはすぐ渡らないんだし。だったらこっちの必要な事業で使おう」
「あっちの事業で使うんならこっちで使ったっていいよね」
「べつに私腹を肥やすために使うんじゃないんだし。国の事業なんだし。それで国が豊かになれば被災者にとっても利益になるし」

というちっちゃなズルの積み重ねで、何兆円もの税金が消えたのだ。

なんとも日本的な悪事ではないだろうか
官僚主導で罪の意識もないまま堂々と悪事をはたらき、ばれても誰も責任をとらない。方針を改めもしない。そのうちみんな忘れてしまう。
被災地は復興しないまま、復興予算だけがどんどん減っていく。

この件、今なお誰も責任をとっていない。
当時の与党だった民主党は下野したが、裏で糸を引いていた自民公明と官僚は今も国の中心でのさばっている。

さて今。
コロナウイルス騒動でたいへんな状況になっている。
金銭的な被害の大きさで言えば東日本大震災以上だろう。

もうちょっとしたら
「コロナで被害を受けた人たちを救うために財源が足りません!
 増税してみんなで苦しみを分かちあいましょう! 反対するやつは被害を受けた人が苦しんでもいいっていうのか! 絆!」
なんてことを言いだすやつが出てくるんじゃないだろうか。
で、そのお金がクールジャパンやら戦闘機購入やら公務員宿舎やらに使われるんじゃないだろうか。
今度こそ、ちゃんと監視しておかないといけない。

2020年5月20日水曜日

【読書感想文】今こそベーシック・インカム / 原田 泰『ベーシック・インカム』

ベーシック・インカム

国家は貧困問題を解決できるか

原田 泰

内容(e-honより)
格差拡大と貧困の深刻化が大きな問題となっている日本。だが、巨額の財政赤字に加え、増税にも年金・医療・介護費の削減にも反対論は根強く、社会保障の拡充は難しい。そもそもお金がない人を助けるには、お金を配ればよいのではないか―この単純明快な発想から生まれたのが、すべての人に基礎的な所得を給付するベーシック・インカムである。国民の生活の安心を守るために何ができるのか、国家の役割を問い直す。
日本国憲法第二十五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と記されている。いわゆる生存権だ。

生存権を保障するためにいろんな制度がある。
その代表的なものが生活保護制度だ。生存権を守るための最後の砦といってもいい重要な制度だ。

ところが生活保護はあまり評判がよろしくない。
不正受給は論外にしても、きちんと受給条件を満たしてもらっている人に対しても風当たりは強い。
やれもらいすぎだ、やれ無駄遣いするな、やれ贅沢するな。
まがりなりにも働いて納税をしているぼくとしても、理性では「生活保護も当然の権利」とわかっちゃいるけど、本音を言うと「働かずに我々の払った税金で暮らしてるんだからつつましく生きろよ」という気持ちもある。

だいたいの人の生活保護受給者に対する気持ちは、あわれみとやっかみと恨みと蔑みの入り混じった複雑なものなんじゃないかな。
初対面の人に「お仕事は何されてるんですか」と訊いて「会社員です」と言われたときと「生活保護で暮らしています」と返ってきたときで同じ表情をすることはできない。

「生活保護を完全になくせ。病気やけがで働けなくなっても地震で財産をすべて失っても自己責任だ! 金がなくなったらのたれ死ね!」
という極端な考えの人はほとんどいないだろう。
そこそこ生きてきた人なら、誰しも努力だけではどうにもならない不幸に陥る可能性があることを知っている。

だけど生活保護受給者に向けられる目は厳しい。
それは「働いていないくせに自分とほとんど変わらない(または自分以上の)暮らしをしているのが気に入らない」に尽きるとおもう。

たとえば生活保護受給者がぼろぼろのアパートで一日一食、家財道具は布団一枚きりという暮らしをしていたら誰も目くじらを立てない。
テレビとスマホを持って寿司を食ったりパチンコをしたりしているから白い目で見られるのだ。
 要するに、日本の一人当たり公的扶助給付額は主要先進国のなかで際立って高いが、公的扶助を実際に与えられている人は少ないということになる。これは極めて奇妙な制度である。日本に貧しい人が少ないわけではない。同志社大学の橘木俊詔教授は、生活保護水準以下の所得で暮らしている人は人口の一三%と推計している(『格差社会』一八頁、岩波新書、二〇〇六年)。ところが、実際に生活保護を受けている人は二〇〇六年でわずか一・二%である(国立社会保障・人口問題研究所ウェブサイト「社会保障統計年報データベース」第9節「生活保護」の第二七一表「被保護実世帯・被保護実人員・保護率」。埋橋前掲論文との値の違いは調査年の違いによる)。
 私は、日本も、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカのように給付水準を引き下げて、生活保護を受ける人の比率を高くすべきであると考える。これまで日本で奇妙な制度が続いてきたのは、おそらく、高い給付水準のままで実際の支給要件を厳しくし、保護を受ける人の比率を下げていたほうが、給付総額が減るという財政的要請があるからだ。しかし、今後、六十五歳以上の無年金者が続出するなかで、現在の制度は維持できないだろう。六十五歳以上の人は、支給要件の一つである「働けないこと」を容易に証明できるからだ。日本独自の制度をやめて、グローバルスタンダードに合わせるしかないだろう。
日本の生活保護受給額は諸外国と比べて高いのだそうだ。だけどもらっている人は少ない。
それは制度のことをよく知らなかったり、役所の水際作戦で本来もらえるべき人がもらえなかったり、生活保護をもらうのは恥ずかしいという意識があったりするから。

結果、「一生懸命働いている人よりも生活保護をもらっている人のほうが収入が多い」「同じような条件なのに片方は生活保護で月二十万円もらえて片方は〇円」というアンバランスな状況になっている。
これはどう考えたっておかしい。

この不公平をなくすための制度が、ベーシックインカムだ。



ベーシックインカム(以下BI)とは、所得にかかわらず国民全員に一律で同じ額を国家から支給する制度のことだ。

たとえばBIを月七万円としたら、まったく働かなくても月に七万円もらえる。月に十万円稼げば、給与十万円+BI七万円が所得となる(給与からは税金が引かれるが)。
 基本的にすべての人の年間所得は、「自分の所得×〇・七+BI八四万」となる。所得のない人も八四万円の基礎所得を保障されるが、自分の得た所得の三割を課税される。自分の所得が二八〇万円になると、その三割の税=八四万円を取られて、基礎所得と税が一致する。
 以下に示すBIは、結婚や扶養などの有無によらずすべての成人に年八四万円のBIを、各自の銀行口座に振り込むという制度である。配偶者や子どもの扶養控除、基礎控除などほとんどの控除を廃止する。子どもにも三万円のBIをその母親の口座に振り込む。基礎年金は廃止し、BIで代替する。厚生年金は、完全に独立採算制の年金に置き換える。
で、著者はいろんな数字を挙げながらBIの実現可能性について検証している。
あくまで机上の計算だが、結論としては「BIは実現可能」だそうだ。
額にもよるが、月七万円程度であればすぐにでも実現できるようだ。
月に七万円あれば、地方に行けば十分生活していける。ちょっとアルバイトして数万円稼げばほどほどの娯楽も楽しむ余裕も生まれるだろう。

もちろん国民全員に月七万円配るわけだから、国家の支出は増える。
ところがBIを導入すれば削減できる支出も多い。
たとえば生活保護費用は必要なくなる。子ども手当や老齢基礎年金や雇用保険も「生きていくために払っているお金」なので、BIに置き換えることができる。
「仕事を生みだすためだけ」におこなっている公共事業もなくすことができる。環境にもいい。
農業、林業、中小企業などのうち採算を上げられない事業を保護するための補助金も、「その仕事に従事する人を食わせるため」のものなのだから、BIがあれば必要なくなる。
このへんをカットすれば、中間層の税率は今と同程度にしたままでBIを導入できるのだそうだ。


すばらしい。
BIの導入には様々なメリットがある。
ぼくが思いつくだけでも、

  • 貧困が減る。特に本人の責によらない貧困(たとえば子どもの貧困)が減る
  • (今よりは)公平になる(働いている人は全員、働いていない人以上の所得を得られる)
  • 犯罪が減る(食うに困っての犯罪がなくなる。食うために犯罪組織に入る人もいなくなる)
  • ブラック企業が消える(「いざとなったらいつでも辞められる」となれば劣悪な環境で働く人はほぼいなくなる)
  • 医療費も減る(体調や精神が不調になったときに早めに休める)
  • 貧困世帯の労働意欲が増す(今の生活保護受給世帯だと働いて収入を得たら生活保護受給額が減らされるので働いても働かなくても総収入はほぼ変わらなかったりする。BIだと働けば働かないより確実に収入が増える)
  • 少子化対策(収入がネックで結婚、出産を思いとどまっている人が産めるようになる)
  • 経済成長につながる(低所得者にお金がまわればその大半は消費にまわる。また中間層も収入が永遠に保障されているなら貯蓄ではなく消費にお金をまわすようになる)
  • 技術的イノベーションが起きる(生活が保障されればリスクをとって革新的なことに挑戦しやすくなる)
  • 都市への一極集中が緩和される(労働に縛られなくなれば家賃や生活費の安い地方への移住が進む)
  • 行政コストの削減(さまざまな補助金や支援制度をBIに一本化できる)
  • 富の再分配になる(高所得者から低所得者への移転になる)
  • 本当に困窮している人が支援を受ける際に負い目を感じにくい(だって全国民がもらってるんだもん)

いいことだらけじゃないか。
「バラマキ政策」というと非難されがちだけど、それは変な条件をつけたり特定の業界の人にばらまいたりするから不公平で良くないのだ。全員にばらまくのはいたって公平だ。

デメリットについても考えてみる。
よく挙げられがちな反対意見(「財源が足りない」「人々が働かなくなる」など)はこの本の中で反証されているので省略するとして、それ以外でぼくがおもいついたデメリット。

  • 仕事によってはなり手がいなくなるんじゃないだろうか
きついから誰もやりたがらないけど、誰かがやらなきゃいけない仕事ってあるじゃない。たとえば原発事故の除染作業員とか。そういうのって今は「食うに困ってる人」で成り立ってるとおもうんだよね。いいか悪いかはべつにして。
BIによって「食うに困ってる人」がいなくなれば、そういう仕事に従事する人がいなくなるんじゃないだろうか。
賃金を上げればいいのかもしれないけど、それは国家財政の負担が増えるということになるので、今度は財源の問題になる。そこまではこの本では考慮されてなかった。
外国人移民にやらせるというのも人道的にどうなんだという気がするし。

  • 非生産的な仕事の成り手が増える
さっきの話と一緒のことなんだけど、人気の仕事ってあるじゃない。プロスポーツ選手とか歌手とか俳優とかYouTuberとか。
多くの人が目指すけど、食っていけないから大半はあきらめてべつの仕事に就く。
ところがBIがあればいつまででも食っていけるから五十歳になっても夢を追いかけて売れない役者生活を続けることができる。
それが本人にとって幸福かどうかはわからないけど、少なくとも社会にとっては労働力の損失だよね。才能がなくても続けられるってのは。
将棋の奨励会みたいに年齢制限を設けてある業界ならいいんだけどさ。
「BIがあるからまったく働かない」という人はそんなにいないかもしれないけど、「BIがあるから好きなことだけやっていく」人はすごく増えるとおもうんだよね。
やっぱり納税額は減るんじゃないかなあ。

  • 在日外国人への支給
BIの給付対象をどうするか。まあふつうに考えれば自国民全員だよね。
でも日本人なら働かなくても毎月七万円もらえて、日本で働いている外国人からは徴税だけして支給しないってのは不公平な気がする。でもまあそれは現行制度でも同じか。
それより問題は偽装結婚が増えそうなこと。
日本国籍さえ手に入れれば毎月七万円もらえるんだよ。日本人になりたがる外国人がすごく増えるよね。
そしたら、この先結婚する見込みのない日本人が「自分と書類上で結婚できる権利」を百万円で売りはじめたりするとおもう。
BI目当てで集まる人、集める人が増えるとおもうんだよね。日本でだけやればぜったいに。


  • 政府の権力が強くなりすぎる?

これは人によっていいとおもうか悪いとおもうか分かれそうだけど、個人的にはちょっとこわい。
BI導入によって政府は「全国民にお金を与える存在」になる。
もちろんその財源は税金なんだからもらう側が卑屈になる必要はないんだけど、そうはいっても実際問題として「お金を与える側」と「お金をもらう側」だったらどうしても前者の立場が強くなる。
やっぱり財布を握られてるってこわい。政府が誤ったら国民が正さなきゃいけないのに、批判の声が弱まってしまいそうな気がする。


  • 既得権益が失われる

これも人によってメリット/デメリットの評価は分かれることだけど。
いろんな「〇〇控除」「〇〇手当」「〇〇補助金」が廃止されることになれば、当然ながらそこにかかわっていた人の権力が失われる。
「おれの言うことに従ってたら補助金やるよ」と言ってた人が言えなくなっちゃうわけだからね。
完全な公平って権力の入る余地がなくなるんだよね。それってすばらしいことなんだけど、でも今不公平であることで甘い汁をすすってる人は黙ってないだろうね。
消費税に軽減税率を設けることで「政府の言うことを聞く業界は軽減税率の対象にしてやるよ」ってやった(そして新聞業界はまんまと転んだ)ように、権力者は「公平」を嫌うからね。
BI導入にあたっての最大の障壁となるのはここだろうね(そして今の権力が失われるからたぶん実現しない)。


でもBI自体はすごくおもしろい試みだとおもうんだよね。
どっかの自治体とかで社会実験的にやってほしいなあ。海外はやってるとこあるみたいだけど。


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自分のちょっと下には厳しい



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2020年5月19日火曜日

座王


『千原ジュニアの座王』という深夜番組がある。
これがおもしろい。毎週欠かさず観ている。
おおさかチャンネルというのにも入って(無料会員だが)過去の放送分も全部見た。

関西ローカルだとおもうけど、おおさかチャンネルだとどこにいても観られるはずなのでぜひ多くの人に観てほしい。

観たことのない人に説明すると、芸人たちが椅子とりゲームをする。
最初は十人、椅子は九つ。ひとつずつ椅子を減らしていき、最後まで座っていた人が優勝。
もちろんテレビでやるわけだからただの椅子とりゲームではない。

誰かひとりが座れないところまではふつうの椅子とりゲームといっしょだが、座れなかった芸人は座っている芸人の中から誰かひとりを指名して対戦する。
何で対戦するかは、椅子に書かれているお題で決まる。
「大喜利」「写真(写真で一言)」「モノマネ」「モノボケ」「ギャグ」「1分トーク」「歌(メロディにあわせて歌う)」などのお題にくわえ、「寝言」「叫び」「中継」「プロポーズ」「キス」などちょっと変わったお題もある。
椅子に座れなかったほうが先攻、指名されたほうが後攻で対戦。
で、大喜利なら大喜利で対戦し、審査員が勝敗を判定。負ければそこで退場。勝てばそのまま椅子とりゲームを続ける。
最後はふたりが対戦し、勝った方が「座王」となる。



このルール、よくできている。
まず、芸人のいろんな一面を引き出せる。ふだんはギャグをしない人がギャグの椅子に座ってしまったために指名されたり、ものすごく音痴な人が「歌」で対戦するはめになったり。

苦手だからといって弱いとはかぎらないのがまたおもしろい。「モノマネなんかやったことない……」と言いながらめちゃくちゃおもしろいモノマネを披露する人がいたり。
「モノマネならまず負けない」という人が大喜利であっさり負けたりするのも勝負の妙だ。

また、通常ネタを披露して審査される場合、後からやったほうが有利になりやすい。
直近で観たネタのほうが印象に残りやすいからだ。

だが『座王』においては、先攻の勝率のほうが高い。
なぜなら自分でお題や対戦相手を選べるから。
先攻のほうが有利、だが先攻になるということは椅子に座れず対戦しなくてはだならないということ。対戦数が多いほど決勝戦まで残れる確率は低くなる。
じゃあ座りつづけたほうがいいかというと、不得意なジャンルの椅子に座ってしまった場合、不得意なお題で勝負しなくてはならない。

だから座るほうがいいのか、座らないほうがいいのかというのは一概にはいえない。
これも駆け引きが生まれる要素になる(じっさいあえて座らない人もいる)。

ほんとによくできたルールだ。
(ところで、これ十年ぐらい前の大晦日か正月にテレビ東京でやってたよね? かすかに記憶にあるのだが。
 それがなぜ最近関西テレビの番組になったのかの経緯は謎だ。
 テレビ東京の番組には千原ジュニアも出演していたのでパクったのではなくフォーマットを持ってきたのだとおもうが)



この番組では笑い飯の西田さんが圧倒的な強さを誇っているが、ロングコートダディ堂前さん、ミサイルマン岩部さん、R藤本さんなど、他の番組ではあまり観ることのない芸人が『座王』では大活躍しているのもおもしろいところだ。
実力があればどんどん起用される。
R藤本さん(常にベジータのモノマネしてる人)なんか、はじめはたぶん「ためしに出してみた」みたいな感じだったとおもうのだが、初登場からいきなり二連覇して意外になんでも器用にこなせるところを見せつけ、今ではほぼレギュラーみたいな扱いになっている。
まさに実力で勝ち取った椅子、という感じだ。

ミサイルマン岩部さんは序盤はあまり強くなかったのだが、対戦以外のところでも武将キャラを押しだしているうちにそのキャラが認知され、座王になくてはならない存在になった(そして対戦でも勝つようになった)。
対戦だけでなく、椅子取り部分や敗退後のコメントで活躍する芸人もいて、見どころが多い。



『座王』、六歳の娘も大好きだ。
はじめはぼくに付き合って観ていたのだが、最近は娘のほうから「座王観よう!」と誘ってくる。

以前、『座王』の中で「この番組は意外にも子どもにも人気だ。たぶん子どもは椅子取りゲームパートだけを楽しんでいるんだろう」と語られていたが、そんなことはない。
うちの娘はちゃんと対戦やコメントを楽しんでいる。
(とはいえ大喜利やモノマネなんかは理解していないことのほうが多いが)

何度も観ているうちに各芸人のキャラをおぼえて
「えー、さいしょから西田さんに挑戦するなんて!」
「ベジータは1分トーク嫌いやから座らんかったわ」
「この人はギャガ―やから先攻が勝つんちゃうかな」
などと言いながら観ている。

ちゃんと駆け引きを楽しんでいるのだ。たぶんテラスハウスとかを観るのと同じ楽しみ方をしている。
テラスハウス観たことないから知らんけど。

2020年5月18日月曜日

【読書感想文】火の鳥と関係なさすぎる火の鳥 / 和田ラヂヲ『和田ラヂヲの火の鳥』

和田ラヂヲの火の鳥

和田 ラヂヲ

内容(e-honより)
手塚治虫の『火の鳥』をテーマにしたギャグ漫画爆誕!和田ラヂヲの世界に火の鳥が舞い降りる!?
驚いた。
これが手塚プロダクション公式のトリビュート作品だというのだ。
いったいどんな汚い手を使ったんだ。
なにしろ手塚治虫の不朽的名作『火の鳥』とはぜんぜん関係もないのだ。

手塚治虫版『火の鳥』といえば、人類誕生から人類滅亡そして新たな文明の誕生までを扱った壮大なスケールのドラマ。原始宗教、仏教、戦争、略奪、宇宙進出、ロボットと人間の境界、クローン技術といったテーマを横軸、そして火の鳥に象徴される永遠の生命を縦軸に織りなされる人間模様を描いた漫画界の金字塔だ。
人はなぜ生きるのか、なぜ苦しまなくてはいけないのか、人間とは何なのか、なぜ争うのか、我々はどう生きるのか。そういった問いを自分自身に投げかけずにはいられない。

ところが『和田ラヂオの火の鳥』のスケールはミクロもミクロ、一冊あわせても手塚治虫『火の鳥』の1コマ分ぐらいの情報量しかない。

たとえば第1話『訪問編』。
サラリーマンが休日に新婚ほやほやの同期社員の新居を訪れるという話だ。そのときに持っている手土産の紙袋に書かれている絵が、火の鳥。
「火の鳥」要素はそれだけだ。

笑った。ぜんぜん関係ねえ。

もう一度書くが、よくこれで手塚プロダクションの許可をとれたものだ。
ぜんぜん関係ないのが逆によかったのか。
それにしても大丈夫か手塚プロダクション。ブランドマネジメントはちゃんとできてるのか。



しかしおもしろかった。
全18編が収録されているが、ほとんどすべておもしろかった。

和田ラヂヲ作品は久々に読んだが、ちっとも衰えていない。
ギャグ漫画って作者が歳を重ねるごとにパターン化したり説明過剰になったりしがちなんだけど、和田ラヂヲ氏に関してはむしろおもしろくなっている気がする。シュールすぎたのが、いい具合に現実よりになってきたのかもしれない。

中でもぼくが好きだったのは
鮨を解体する鮨屋の奮闘を描いた『修行編』
ピラミッド建設の傍ら小説執筆に励む労働者の苦悩を描いた『文明編』
再就職初日に寝坊してしまった男をスリリングなタッチで描く『再就職編』
そして一夜にして弥生時代から縄文時代に変わる時代の変遷を描いた『時代編』だ。

特に『時代編』は良かった。
縄文時代の人間がメガネをかけている、家に表札がある、公民館に集まっている、やけに民主的、次の時代の流行を知っている、とってつけたように火の鳥を出してくるなどツッコミどころしかない。


もしかすると、この情報化社会で密室で不透明な決まり方をした「令和」という元号に対する痛烈な風刺がこの漫画にこめられていたり……はしないね。

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【読書感想文】 つのがい 『#こんなブラック・ジャックはイヤだ』

1970年頃の人々の不安/手塚 治虫『空気の底』【読書感想】



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2020年5月15日金曜日

おしりたんてい にがしませんよゲーム

『おしりたんてい にがしませんよゲーム』(タカラトミー)を買い、六歳の娘と遊んでいる。


幼児向けのゲームにしてはかなり奥が深く、大人も夢中になってしまう。
レビューを書こうとおもう。
(やったことのない人向けというよりちょっとだけやった人向け)

おしりたんていゲーム第1作『おしりたんてい しつれいこかせていただきますゲーム』もよくできていたが、『にがしませんよゲーム』のほうがルールがシンプルなのに考える要素が多くておもしろい。

ちなみに『にがしませんよゲーム』の1セットで
『にがしませんよゲーム』
『かこみますよゲーム』
『おしりをさがせ』
の3種類のゲームができる。

『かこみますよゲーム』『おしりをさがせ』は駆け引きが発生する要素がほとんどないのでぼくも娘もすぐに飽きてしまった。
ここでは『にがしませんよゲーム』について書く。



詳しい遊び方は以下の公式動画を見てもらえればだいたいわかるとおもう。


だが、公式ルール通りの遊び方だとあまりおもしろくない。
何度かやってみたがほぼ必ず「たんてい」側が勝つ。「かいとう」側は三叉路、四つ角の「いいカード」が連続して出ないと勝てないので、ほぼ運任せのゲームになってしまう。

小さい子ならそれでも楽しめるのだろうが、六歳が遊ぶにはものたりない。中年のおじさんにはもっとものたりない。

そこで、勝手にルールをアレンジすることにした。

プレイヤーは交互に山から1枚ずつカードを引いて出す

となっている部分を

プレイヤーは3枚ずつカードを保有し、その中から1枚ずつ出す。使用したら1枚ずつ山から補充する。

とした。
これだけで、駆け引きの要素が深まってぐっとおもしろくなった。
3枚あることで、先の展開をある程度計算できるようになる。同時に相手もパターンが増えるので、戦略的な思考が必要になる。

たとえば
「弱いカードを序盤に北側に捨てて、強いカードが溜まったら一気に南側に勝負をかける」
とか、
「たんていが妨害するために置いたカードを利用して逃走経路にする」
といった作戦が立てられるようになる。

まちカードには大きく分けて「袋小路」「一本道」「三叉路」「四つ角」の4種類がある。
「たんてい」にとって「四つ角」、「かいとう」にとって「袋小路」はマイナスにしかならないカードだ。
公式ルールの「1枚ずつ引いて出す」だと、このカードが出たらそれだけで致命的(特に「かいとう」が中盤でこのカードを引いたらほぼ負け確定)だが、3枚保有ルールならなんとかなる。
序盤なら重要でないところに捨てればいいし、終盤なら使わずに持っておけばいい。



また3枚保有ルールがいいのは、ハンディキャップをつけやすいところだ。

このゲーム、「かいとう」側で勝つ方がむずかしい。
「たんてい」は相手が作った道を順番にふさいでいくだけで勝てるが、「かいとう」はそれでは勝てない。先の展開を読みながらカードを置いていく必要がある。
初心者は盤面中央から順番に道をつなげていくが、これだとまず勝てない。
「はくぶつかんカード」の隣には「たんてい」側がカードを置けないことを利用して、あえて中央にはカードを置かず、先に端のほうの道をつくっていく必要がある(とはいえ他のカードの隣にしか置けないというルールがあるのでそれも容易ではない)。

だから娘が「かいとう」でぼくが「たんてい」のとき、3枚ずつだとまずぼくが勝つ(手加減はしない)。
しかし娘は3枚、ぼくが2枚というハンデをつけるといい勝負になる。もっと力量の差があるなら4枚対2枚にしてもいい。

ぼくは、子ども相手だからってできるだけ手は抜きたくない。このゲームにかぎらず。
将棋でも、わざと無意味な手を差すとか自分の駒をただでくれてやるとかはしたくない。
かといって全力を尽くすと連勝してしまうので、それはそれでつまらない。
だからハンデをつけられるゲームがいい。



『にがしませんよゲーム』、シンプルなルールながら奥の深いゲームなのだが、ひとつ不満がある。

「まちカード」が36枚しかないことだ。
盤面は7×7、中央の1マスは「はくぶつかんカード」を置くことに決まっているので、「まちカード」を置けるのは48マス。
つまり「まちカード」のほうが少ないのだ。

勝負が白熱してくると、終盤にカード切れを起こす。
「かいとう」は逃げられないし、「たんてい」は捕まえられない。
しょうがないのでこうなったら引き分けということにしているのだが、どうももやもやする。

かいとうはまだ街の中にいるのに捕まえられないのだ。
あと一歩のところまで犯人を追いつめたのに、突然上から「これ以上の捜査はやめろ」と命じられたようなものだ。
もしかして署長の身内が犯人、それとも有力政治家に非常に近い人物が関わっているので圧力が……なんて不穏な想像をしてしまう。
いっそかいとうに逃げられたほうがまだあきらめもつくぜ。

2020年5月14日木曜日

【読書感想文】貧困者との接し方の正解 / 石井 光太『絶対貧困』

絶対貧困

世界リアル貧困学講義

石井 光太

内容(e-honより)
絶対貧困―世界人口約67億人のうち、1日をわずか1ドル以下で暮らす人々が12億人もいるという。だが、「貧しさ」はあまりにも画一的に語られてはいないか。スラムにも、悲惨な生活がある一方で、逞しく稼ぎ、恋愛をし、子供を産み育てる営みがある。アジア、中東からアフリカまで、彼らは如何なる社会に生きて、衣・食・住を得ているのか。貧困への眼差しを一転させる渾身の全14講。
アジア、中東、アフリカなどの貧困地域を歩いてきたノンフィクションライターによる、「貧困層の人々がどうやって生きているか」の講義。

貧困層の人々とすぐ近くで生活した体験をもとに、衣食住、仕事、恋愛、子育て、病気、出産、死、ギャンブル、麻薬、売春などについてミクロな視点から語っている。

当然ながら、日本でそこそこ恵まれた暮らしをしている人間からすると眼をそむけたくなるようなことも書かれているのだが、淡々と描かれているのでそこまで陰惨な感じはしない。
ヒューマニズムたっぷりに「どうですか、かわいそうでしょう、こんなことが許されていいのですか!」みたいな感じは個人的に好きじゃないので、こういうのがいい。
事実を淡々と書く方が読み手の思考が深まるとおもう。



ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランドの著書『FACTFULNESS』によれば、世界の(食うに困るほどの)貧困層の数はどんどん減っていっているのだという。
『絶対貧困』 の単行本刊行は2009年なのでそのときよりも貧しい人は減っているのだろう、たぶん。
とはいえ、戦争、災害、疫病などがなくならない以上、貧しい人もまたいなくならない。
また「犯罪に手を染めて生活している人」や「売春をすれば食っていける人」は、収入の数字だけ見れば深刻な貧困ではないんだろうけど、それを「食うに困らないぐらい豊かな人」に含めるのはやっぱり無理がある。

たとえばこんな話とか。
 そこでアメリカをはじめとした各国の軍隊は、途上国の貧しい人たちをリクルートするのです。先進国の人が月給二十万円で戦場に行くことは少ないでしょうが、途上国の貧しい人なら危険があっても一獲千金の機会だと思って喜んで行きます。ただ、一国の政府がこうしたリクルートを露骨にやると問題になる可能性があります。そこで、政府は専門の人材派遣会社を何社も通して途上国から労働者を集めるのです。
(中略)
 証言によれば、彼はネパールの人材会社(ブローカー)に二十万円から八十万円ぐらいの大金を支払ってイラク行きの契約をしたそうです。そして一度インドの首都ニューデリーに集まり、何ヵ月か人員の空きがでるのを待って、今度はインド人のブローカーとともにヨルダンへ飛びます。そこでまた空きを待ち、順番が来てようやくイラク人ブローカーとイラク国内へ入り、米軍基地内などで仕事を得るのです。労働者たちは数週間待つだけで仕事にありつける場合もあれば、半年待っても欠員が出ずに仕事を得られないこともあるようです。ただ、このようにいくつもの会社を通すことで「先進国が貧しい人々を戦場でリクルートしている」という事実がうやむやにされているのです。
途上国で生きている人からしたら月給二十万円は高給の仕事だろう。
だけど二十万円のために望まない危険な仕事に従事する人を「豊かな生活を送る人」と呼ぶことはできない。

健康とか安全とか尊厳とか道徳とかを切り売りしなければいけない人はたくさんいる。
途上国だけでなく、先進国にも。
堤未果さんの『貧困大国アメリカ』にも奨学金を返せない学生を軍にリクルートする、という話が出てきた。
日本も国家支出から教育費がどんどん削られている。教育費の公費負担額の対GDP比は、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位だそうで、世界有数の「教育に金をかけない国家」なのだ。
学費のために自衛隊や風俗産業や非合法な職場で働く若者は増えてゆくだろう。途上国の貧困問題も他人事ではない。



いちばん胸が痛んだのはこのへんの話。
 まず犯罪組織は病院の新生児や、路上生活者の赤子を誘拐して、一箇所に集めます。生まれたての赤子から三歳児ぐらいまでが一番利用価値があるとされています。
 犯罪組織はその子供たちを町にいる物乞いたちに一日いくらという形で貸し出します。借り手は赤子のいない年老いた物乞いが多いですね。
(中略)
 私はこの商売の存在をインドのムンバイとチェンナイの二都市で確認しましたが、二〇〇二年当時の貸し賃は一日に百~二百円ぐらいでした。物乞いたちによれば、赤子を抱いていれば二百~四百円ぐらい多く喜捨をもらえるのだそうです。そうなると、赤子を借りれば五十円から百円ぐらい多く儲かるのです。
 また、赤子が障害児ですと、通行人が寄せる同情はより大きくなり、多額の喜捨得られるという現実もあります。
たしかに赤ちゃんがいたら同情しちゃうもんなあ。
でも同情してお金を渡せばこういうビジネスや誘拐を助長することになる、だけどお金を渡せばとりあえずそのうちのいくらかは目の前の赤ちゃんに渡すことができる……。

どっちを選んでも正解ではない。
著者の石井さんは「そういうときはむずかしく考えずに自分にできる範囲で目の前の人を救えばいい」と書いている。
個人にできることはそれぐらいだから、それでいいのかもしれない。
 彼らは身体の障害や怪我を見せることによって稼いでいますから、その部分を特に強調しようとします。〔9-13〕と〔9-14〕をご覧下さい。いずれの物乞いも患部を人目につくように見せて、「私は不自由なのだ」ということを強調することで、ことさら多くの同情を集めようとしています。逆に言えば、通行人はパッと見て「うわ、悲惨だ」と思った時にお金を落とすのです。そのような一瞬の駆け引きが、物乞いたちの収入を大きく左右するのです。
(中略)
 ただ、こうしたことが逆に「強制的」に行われることもあるのです。物乞いたちがケンカで負けた仲間を強引にさらしものにしたり、マフィアやチンピラのような人たちがストリートチルドレンに怪我を負わせたりして物乞いをさせるということです。この写真は、殴り飛ばされた後に無理やり物乞いをさせられているものです。
 みなさんはこれをお読みになって「残酷だな」とお思いになるでしょう。ただ、当の本人からすれば、「これで稼げているので結果オーライ」みたいな意識もあるのです。私の知っている物乞いは車に撥ね飛ばされた時、「儲けもん!」みたいな感じで血だらけのまま道路に大の字になって大金を稼いでいました。何をどう捉えるかは、本当に人それぞれなのです。
ぼくは大学生のとき中国を訪れ、北京の繁華街で脚のない物乞いを見て強いショックを受けた。
脚のない下半身を引きずり、台車に乗って移動している男性の姿に。
まるで見えないかのように楽しく談笑しながらその横を歩いている人々の姿に。
ぼくからすると「悲惨」としか言いようのない境遇なのに、笑顔を浮かべながらべつの人と話している物乞いの姿に。

日本でもホームレスを見たことはあったが、身体障碍者のホームレスは見たことがなかった(ぱっと見ただけではわからない障碍を持っていたのかもしれないが)。
もちろん日本のホームレスにもみんなそれぞれ事情はあるのだろうが、多少は自分の責任もあるだろうとおもっていた。
「働けないにしても役所に行けば住居と食べ物ぐらいは提供されるだろうに、それすらしないんだからしょうがないだろう」と。

だけど北京にいた脚のないホームレスの姿は、そんな「自己責任」の考えを打ち砕くものだった。
身体障碍者だったらまともに生きていけない世界なんて狂っている、とおもった。何が共産主義だよ、とおもった。

同時に、彼のことを「まともに生きていない」とおもってしまう自分にもすごく嫌悪感を抱いた。親の金で大学に行って高い金を出して海外旅行にきたぼくに、彼のことを憐れむ資格があるのだろうか。無意識のうちに高みから見下ろしていて「哀れな人」とおもってしまったけど、ぼくなんかよりこの男性のほうがずっと立派に生きている人じゃないか。

なんかもう何もかもが嫌になって、涙が出そうになるのをこらえながらその男性に紙幣を渡して逃げるようにその場を立ち去ったのだが、日本に帰ってからもずっとその光景が頭が離れなかったた。
安っぽい同情で紙幣を渡したのはよかったのだろうか、物乞いの彼は苦労もせずにのうのうと生きている外国人の若者からお金をもらってどう感じたのだろうか、よけいにみじめになったんじゃないだろうか、とずっと考えていた。
十年以上たった今でもときどき思いだすぐらいに。

でもこの文章を読んで、ちょっとほっとした。
ああ、べつに気にしなくてよかったんだろうな。
ぼくが気にしていた百分の一も、向こうは気にしていなかったんだろうな。
かわいそうな人だと憐れむ必要もないし立派な人だと持ちあげる必要もなかったんだろうな。そうおもえた。

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2020年5月13日水曜日

女スパイの成長

五年前のこと。
まだ一歳だった長女を連れて近所の公園に行くと、女の子が木の上から話しかけてきた。
「あかちゃん、かわいいね」
と。

「ありがとう。きみは何歳?」
 「六歳」
「一年生?」
 「そう」
「名前は?」
 「のんちゃん」
「ふうん。のんちゃん、木登り上手だね」
 「スパイだから」
「スパイ?」
 「そう。スパイなの、あたし」

その子はひとりで木に登ってスパイごっこをしていたのだった(なぜスパイが木に登るのかはわからない。目立つことこのうえないとおもうのだが)。
話をしてみると、同じマンションに住む女の子だった。

その後もときどきのんちゃんとは顔を合わせた。
マンションのエレベーターで。公園で。娘を保育園に連れていく途中で。

「おはよう」と話しかけると、ちゃんとあいさつを返してくれる。
「こども大きくなったね」とか「今日からプールやねん」とか「クラブはじまったからたいへんやわ」とか、近況も教えてくれる。

ところがこないだ。
ひさしぶりにのんちゃんに会ったので「おはよう」と言うと「あ、おはようございます」と言われた。

ございます?

「のんちゃんは何年生になった?」
 「あっ、六年生になりました」
「そっか。大きくなったね」
 「そうですね。最高学年なんでいろいろたいへんです」

これは……。
のんちゃんの受け応えにそつがなくなっている……。

丁寧語を使っている。言葉を選んでいる。近所のおじさんに話すのにふさわしい話題と言葉遣いを選んでいる。

成長しているのだからあたりまえなんだけど。いいことなんだけど。

だけどぼくはちょっぴり寂しかった。あの女スパイののんちゃんが丁寧語を使うなんて。もうむじゃきな女スパイじゃないんだなあ。あたりまえだけど。
成長することは、何かを得ることであると同時に、何かを失うことなんだなあ。
ぼくの友だちの女スパイはもういない。


2020年5月12日火曜日

将軍様はおれたちの気持ちなんかわかりゃしない


嫌いな言い回しがある。
政治家を批判するときに使う
「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」的な言い回しだ。

べつに政治家をかばいたいわけではない。
国民主権を理解していないやつが政治を語るなよ、とおもうからだ。



「私たち」は英語で「we」だが、中国語では二種類ある。
「我們」と「咱們」だ。

「我們」は聞き手を含めた「私たち」。
「おれたち親友だよな」のときは「我們」を使う。

「咱們」は聞き手を含めない「私たち」。
「おれたちは銀行強盗だ! 金を出せ!」のときは「咱們」だ。

中国語では、このふたつを明確に区別する。
これは理にかなっているとおもう。だってぜんぜん別のものを指すもん。


で、さっきの話に戻るけど
「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」
の「我々」を中国語で表すなら「咱們」だ。
政治家と庶民の間に線を引いて、彼我を別のものとしている。

江戸時代の町人が「将軍様はおれたち町人の気持ちなんかわかりゃしない」と言うのならそれでいい。
将軍と町人は生まれながらにして別世界の住人で、それぞれ行き来することはないのだから。

でも中学校で公民を学んだ人なら知っているとおり、現代日本の政治家は「向こう側にいる人」ではない。
「我々の代表者」だ。
「選挙で落ちればただの人」という言葉が表すとおり、政治家はただの人だし、ただの人が政治家になることもできる。

って考えを持っていれば
「我々庶民の感覚はわからないんでしょうね」
なんて言葉が出てくるはずがない。政治家もまた一市民なのだから。

だから「政治家の先生たちには我々庶民の苦しさなんてわからないんでしょうね」っていう人間こそ、自分が主権者だということをわかっていないのだ。
おまえのそういうマインドこそが政治家の勘違いを助長させるんだよ!


2020年5月11日月曜日

【読書感想文】「自分」のことで悩めるのは若者の特権 / 朝井リョウ『何様』


何様

朝井 リョウ

内容(e-honより)
生きるとは、何者かになったつもりの自分に裏切られ続けることだ。直木賞受賞作『何者』に潜む謎がいま明かされる―。光太郎の初恋の相手とは誰なのか。理香と隆良の出会いは。社会人になったサワ先輩。烏丸ギンジの現在。瑞月の父親に起こった出来事。拓人とともにネット通販会社の面接を受けた学生のその後。就活の先にある人生の発見と考察を描く6編!

直木賞受賞作である『何者』のスピンオフというかアナザーストーリーというか。

『水曜日の南階段はきれい』は光太郎の高校生時代の話、『それでは二人組を作ってください』は理香と隆良のなれそめ、『逆算』はサワ先輩の就職後、『きみだけの絶対』は烏丸ギンジの甥っ子の話、『むしゃくしてやった、と言ってみたかった』は瑞月の父親が出てくる話……とどんどん『何者』から遠ざかってゆく。そして最後の『何様』は『何者』の端役の一年後。ほとんど関係がない。
『何者』がおもしろかったので続編的なものかとおもって読みはじめたので、その点はちょっと期待はずれだった。
だからといっておもしろくないわけじゃないけど。



『何者』は昔の傷口を容赦なくえぐってくるような小説だった。
いちばん触れられたくないところをぐりぐりとさわってくるような小説だった。特に就活の時期のことをおもいだしたくもないとおもっているぼくのような人間には深く刺さった。ひりひりしたなあ。

『何様』のほうはそこまででもない。
十代後半から二十代中旬までの、青春時代が終わろうとして大人として生きていかなければならない人たちのちょっとした苦悩。
ありきたりなんだけど、でも当人にとってはやはり深刻な悩みにぶつかって、スパッと解決するでもなく打ちひしがれるでもなく、なんとなく折り合いをつけてどうにかやっていく人たちの物語。

こういう小説を読んでわがことのように深く共感するには、ぼくは少し歳をとりすぎたのかもしれない。
結婚して九年、父親になって七年、転職しながらも仕事もそこそこ順調。自分のことよりも娘のことを心配することのほうが増えた中年。
そんな境遇のぼくにとっては、もうさほど「自分」というものは重要じゃなくなったんだよね。「自分」よりも「家族」だとか「社会」だとかの重要性が増したかもしれない。
この小説に書かれている悩みは「自分」の悩みだからね。それってもちろん若い読者にはリアルに感じられるものだろうし、若い著者だからこそ書けた小説なんだとおもう。ただぼくが読むには歳をとりすぎたというだけで。



いちばん好きだった短篇は『それでは二人組を作ってください』。
どうもぼくは後味の悪い小説が好きみたいだ。

周囲を見下し、相手に自分をあわせることもできず、知らないわからないと言えず、自分は特別だとおもっている。つまりプライドの高い女性が主人公。
『何者』でもやはりお高く留まっていて感じの悪い女性として主人公からは嘲笑気味に見られていた。いわゆる「意識高い系」だ。
こういう人が近くにいたら、やはりぼくもひそかに嗤うとおもう。

……が、ぼくが嗤っている対象とぼくはそっくりなのではないだろうか。
ぼくもプライドの高い人間だ。今でこそそれなりに角がとれてきた(と自分ではおもっている)が、二十歳ぐらいなんてそりゃあもうひどいもんだった。周囲の人間を全方位的に見下していた。根拠のない選民意識を持っていた。能力に恵まれた自分は当然成功するものとおもっていた。

自分でもうすうす気づいている。周囲にとけこめない。ほんとはとけこみたい。でもとけこみたくないともおもっている。だってとけこんだら、いつも見下している「あんなやつら」と一緒になってしまうんだもん。自分はもっと高いステージにいるべき人間なのに。
そんな考えをきっと周囲から見透かされているんだろう。だから距離を置かれる。よけい意固地になって「あんなやつら」と見下す。かくしてプライドだけどんどん高くなってゆく。

二十歳ぐらいのときはほんとに苦しかった。自分が悪いんだけどさ。
でも今ではちょっと楽になった。
プライドが削りとられていったというより、自分そのものに対する興味が薄れてきたのだ。
おもうに、昔のぼくは自分が好きすぎたんだろうな。

2020年5月8日金曜日

【読書感想文】警察は日本有数の悪の組織 / 稲葉 圭昭『恥さらし』

恥さらし

北海道警 悪徳刑事の告白

稲葉 圭昭

内容(e-honより)
二〇〇〇年春、函館新港に運ばれてきた覚醒剤。その量百三十キロ、末端価格にして約四十億円。“密輸”を手引きしたのは北海道警察銃器対策課と函館税関であり、「銃対のエース」ともてはやされた刑事だった。腐敗した組織にあって、覚醒剤に溺れ、破滅を迎えた男が、九年の服役を経てすべてを告白する―。

いやあ、すごい。
元北海道警刑事の告白。

ヤクザと交際し、ヤクザから拳銃を入手し、拳銃や覚醒剤の密輸までおこなう。

なにより驚くのは、私利私益のためにやっていたのではなく、北海道警という組織のためにやっていたということだ。
 発砲事件が起きると、まずは暴力団関係者や現役のヤクザから情報を収集します。どの組織がどういう原因で発砲事件に及んだのか、実行したのは誰なのか、事件の全体像を把握して落としどころを探ります。それは大抵、発砲事件を起こした暴力団から使用した拳銃を押収し、被疑者一名を出頭させるというものでした。発砲した側の暴力団幹部に電話で連絡をします。
「来週、ちゃんと道具(拳銃)を用意しておいてくれ」
 こう言うと、指定した日に、逮捕される組員が一人、拳銃を携えて待っていました。ときにはヤクザのほうから私に電話してくることもありました。
「(抗争で使った拳銃は)どうしたらいいですか?」
「今回は事務所に置いとけ。今度の火曜日に行くから」
 その日に事務所に行けば、約束どおり、拳銃と逮捕される暴力団組員が事務所にいる。現行犯逮捕するだけですから、こんなに手のかからない捜査はありません。
 なぜ、ヤクザが素直に拳銃と被疑者を警察に引き渡すのか。そのカラクリはこうです。
 発砲事件が起こったにもかかわらず、使用された拳銃を押収することができなければ、警察は本腰を入れて拳銃捜査を行わざるを得ません。使用された銃を押収するため、ヤクザの関係先を片っ端から捜索していくことになる。警察を本気にさせるのは、ヤクザにとってもいいわけがありませんし、警察にとっても大変手間のかかる捜査になります。お互いが疲弊するのを避けるために、事前に落としどころを探るというわけです。拳銃を押収し、被疑者を逮捕することができれば、警察の面目は保たれますし、ヤクザにとっても組織を守ることができます。一般の人からは、警察と暴力団との癒着との批判を受けざるを得ないのが、当時の実態でした。暴力団抗争での拳銃摘発では警察、暴力団とも、互いに合理的に事を進めていたのです。
 暴力団抗争が頻発した昭和六十年(一九八五年)前後は、バブルの絶頂に向かって日本が狂乱していく時代でもありました。実業家のなかには警察庁のキャリアOBを身内に抱え、その威光とカネを使って、現役の警察官に睨みを利かせる人物も出てきました。私も、そんなバブル紳士の要請を受けて、ボディーガードとしてヤクザを紹介したことがありました。
 現役時代に暴力団対策に従事していた元警視監が、ある実業家に伴われて札幌に来ました。その実業家はすすきのに料亭やクラブを出店することを目論んでいたのですが、事業の展開に際して、ボディーガードとなる地元のヤクザを探していたのです。私は中央署の上司と一緒に、まずその元警視監に会い、その実業家を紹介されました。見るからにカネを持っていそうなその男は、私にこう言いました。
「誰か、札幌で私の身辺警護をしてくれるようなヤクザはいないか?」
「私の知り合いのヤクザを紹介します」
「よし、じゃあ、これを渡しておけ」
 バブル紳士が私に手渡した現金は一〇〇〇万円。私はヤクザにそのカネを渡して、その男のボディーガードにつけました。それだけではなく、男の経営する企業からは毎月五〇〇万円程度の用心棒代がそのヤクザに支払われました。
 ヤクザのシノギを警察官が斡旋する――。こうした行為は警察官にとってあるまじき行為です。今でも大問題になるでしょう。しかし、当時はこのようなことが、警察庁のキャリアOBが関与して行われていたのです。そればかりか、私の上司もこの実業家から一〇〇〇万円もの現金を当たり前のように受け取っていました。私はヤクザと付き合うことが仕事だと思っていましたし、ヤクザから情報を得るためには、シノギを紹介して信頼してもらうことも有効だと考えていました。カネを媒介にして、実業家と警察とヤクザが結びつく。カネが湯水のごとく溢れていたバブル経済の印象深いひとコマです。
「警察と暴力団は持ちつ持たれつ」という話はこれまでにも聞いたことがあったが、これは癒着なんてもんじゃない。もはや共犯者だ。



まだ、「真犯人を捕まえるために暴力団と一時的に手を組む」とか「十人を逮捕するために一人を見逃す」とかなら理解できる。
厳密にいえばだめだけど、きれいごとだけじゃ世の中うまくいかないからまあしょうがないよね、とおもえる。

だがこの本の中で書かれている警察と暴力団のつながりは、そんなものじゃない。
(「エス」とは暴力団の中にいて警察に通じているスパイの隠語)
 岩下は平成八年の「警察庁登録五〇号事件」の捜査に協力したエスです。このとき私は、岩下とともに暴力団員に扮して関東のヤクザから拳銃を数丁購入しました。この経験から岩下は、警察の捜査という形をとれば拳銃でも覚醒剤でも安全に手に入れられるのではないかと考えたのです。のどから手が出るほど欲しがっている拳銃を餌にすれば、道警の銃対課は話に乗ってくる。岩下はそういう絵を描いたのでしょう。平成十一年初夏、私にこう言って話を持ちかけてきました。
「拳銃を大量に密輸させるから、親父たちがパクるというのはどうだろう? その代わりといってはなんだが、シャブを入れたい。協力してくれないか?」
 岩下はこう言うと、関東のあるヤクザを私に紹介しました。そのヤクザは香港に覚醒剤密輸ルートを確立していて、いつでも覚醒剤を調達できる男でした。私はそのヤクザに会った上で、岩下の提案を聞きました。彼の話は、銃対課にとっては魅力的なものでした。
「まず香港から薬物を三回、北海道に密輸する。道警は税関に根回しして、これを見逃してほしい。四回目に拳銃を二〇〇丁密輸して、俺の知っている中国人に荷受けさせる。そこを親父たち銃対課が、ガサをかけてパクるんだ」
 二〇〇丁もの拳銃を挙げた上に、さらに中国人の身柄も付いてくる。これが実現すれば道警銃対課は、大きな実績が認められ、巨額の予算を手にすることができるでしょう。私はこの話を聞いたとき、本当にこのように大掛かりな捜査が実現できるのか、半信半疑でした。拳銃を押収するためとはいえ、大量の薬物密輸を手引きするのですから、たんなる違法行為といってもいいでしょう。私は疑念を抱きながらも、前原忠之指導官と大塚課長補佐に報告しました。そして当時の銃対課長、山崎孝次が決断したのです。
「よし、やろう」
ヤクザの側から拳銃と覚醒剤の密輸に協力してくれと警察に持ちかけ、警察は拳銃押収のノルマを達成するために話に乗る。
めちゃくちゃだ。
もはや、消防士が実績をつくるために放火するようなものだ。

この本を読むかぎり、こういう行為はわりと頻繁におこなわれていたらしい。著者は北海道警の刑事だったので北海道警のことしか書かれていないが、ノルマは全国の警察に課されているはずなのでどこも似たり寄ったりなのだろう。
警察組織というのはとんでもない犯罪組織なのだ。

もちろんこの本はひとりの刑事が書いたものなので、すべてが真実かどうかはわからない。
だが著者は自分にとって都合の悪いことも洗いざらい書いているし、また実刑を受けて刑期を終えているのでいまさら自分をよく見せるメリットも薄い。おそらくほとんどが事実なんだろう。


なにがおそろしいって、著者はすべてを暴露しているにもかかわらず北海道警は組織的な犯行だったことをまったく認めていないこと。
当然ながら誰も責任をとっていない。著者といっしょに犯罪に手を染めながらその後も北海道警で順調に出世した人もいるそうだ。

まったく認めていない、誰も責任をとっていないということは、組織の体質はたぶん変わっていないんだろう。
暴力団対策法ができたから昔ほどではなくなったんだろうけど、「犯罪を摘発するために犯罪をさせる」というやり方は今もまかりとおっているんだろう。
 警察組織のなかでは、真面目に捜査すればするほど、違法捜査に手を染めていくこともあります。そして、警察にいる限りは、まともな人間に戻ることはできません。違法捜査を犯しても、それが実績となるのなら黙認されてしまう。良心の呵責に苛まれ、上司に相談しても、誰も取り合ってはくれないでしょう。そして組織は問題が発覚してから、全力で事態を隠蔽しようと図ります。警察組織はそんなどうしようもない仕組みになっているのです。まともな人間に戻るには警察を辞めるしかない。これが私の実感です。
警察って日本有数の悪の組織なんだなあ……。
こんな極悪集団が今も闊歩しているとおもうとおそろしくなった。


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2020年5月7日木曜日

【読書感想文】超弩級のSF小説 / 劉 慈欣『三体』

三体

劉 慈欣(著) 立原 透耶(監修)
大森 望 , 光吉 さくら , ワン チャイ(訳)

内容(e-honより)
物理学者の父を文化大革命で惨殺され、人類に絶望した中国人エリート科学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)。失意の日々を過ごす彼女は、ある日、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされる。そこでは、人類の運命を左右するかもしれないプロジェクトが、極秘裏に進行していた。数十年後。ナノテク素材の研究者・汪森(ワン・ミャオ)は、ある会議に招集され、世界的な科学者が次々に自殺している事実を告げられる。その陰に見え隠れする学術団体“科学フロンティア”への潜入を引き受けた彼を、科学的にありえない怪現象“ゴースト・カウントダウン”が襲う。そして汪森が入り込む、三つの太陽を持つ異星を舞台にしたVRゲーム『三体』の驚くべき真実とは?本書に始まる“三体”三部作は、本国版が合計2100万部、英訳版が100万部以上の売上を記録。翻訳書として、またアジア圏の作品として初のヒューゴー賞長篇部門に輝いた、現代中国最大のヒット作。

いやあ、すごいすごいという評判は聞いていたが、噂に違わぬスケールの大きさだった。

正直、中盤は退屈だったんだけどね。
突然、主人公が『三体』というゲームをはじめてそのゲーム世界が描写される。なんなんだこれは、いったい何を読まされているんだ、という感じ。
しかし『三体』の背景、そしてゲーム開発の目的がわかってくるとめちゃくちゃおもしろくなってきた。

ネタバレなしに感想を書くのはむずかしいのでここからネタバレ書きます。






『三体』とは、物理学の「三体問題」に由来している。
作中の注釈ではこうある。
質量が同じ、もしくはほぼ同程度の三つの物体が、たがいの引力を受けながらどのように運動するかという、古典物理学の代表的な間題。天体運動を研究する過程で自然とクローズアップされ、十六世紀以降、おおぜいの科学者たちがこの問題に注目してきた。オイラー、ラグランジュ、およびもっと近年の(コンピュータの助けを借りて研究してきた)科学者は、それぞれ、三体問題のある特定のケースについて、特殊解を見出してきた。後年、フィンランドのカール・ド・スンドマンが、収束する無限級数のかたちで三体問題の一般解が存在することを証明したが、この無限級数は収束がきわめて遅いため、実用上は役に立たない。
要するに「宇宙空間で、同じぐらいの質量の物体が近くに三つあったら、どういう動きをするかは基本的に誰にも予想できない」ってことね(例外的に予想できる場合もあるけど)。

で、この小説に出てくるゲーム『三体』の舞台は、まさに三つの太陽を持った星。
太陽が不規則に動くので地球のように規則正しく朝晩や四季が訪れることはなく、長期間にわたって極寒の冬や夜が続いたり、灼熱によって焼かれたりする。
太陽の動きが比較的安定しているときは(恒期)文明が発展するが、自然環境が厳しくなれば(乱期)あっという間に文明は滅ぶ(ただしこの星の住民は活動停止状態になることで乱気を生き延びることができる)。

……ってことが読み進めるうちに徐々にわかってくる。
ここがミステリのようでわくわくする。
ネタバレしておいてなんだけど、これは知らずに読むほうがぜったいにおもしろいとおもう。

さらにこれは単なるゲームの世界ではなく、現実にこういう星があり、ゲームはそれをシミュレーションしたものだということがわかる。
誰がこのゲームを作ったのか、なんのために作ったのか……ということも終盤になって明らかになる。

中盤までに散りばめられていた謎めいた設定が、終盤で一気に収束するところはほんとうに圧巻。
読んでいて「おお! そういうことか」と声が出た。



『三体』世界のスケールが途方もなく大きいので圧倒されるが、設定だけでなく物語としてもおもしろい。

文化大革命に翻弄される女性研究者・葉文潔の人生も魅力的だし、不良警察官の史強もかっこいい。
巨大な船から乗員を一瞬で殺してデータを奪う作戦のところなんか、これだけで二時間映画になりそうなダイナミックさ。

ほんと、ひとつひとつのエピソードが重厚なんだよな。

たとえば、『三体』世界で機械ではなく人間を使ってコンピュータをつくるシーン。
(ここに出てくるフォン・ノイマンとは実在のフォン・ノイマンではなく三体というゲームのキャラクター)
 フォン・ノイマンは三角陣を組んでいる三名の兵士に向き直る。「では、次の回路をつくろう。きみ、出力くん。〈入力1〉と〈入力2〉のうち、片方でも黒旗を上げていたら、きみは黒旗を上げてくれ。この組み合わせは、黒黒、白黒、黒白の三通りだ。残りのひとつ、つまり白白の場合、きみは白旗を上げろ。わかったか? よし、きみはとても賢いね。ゲート回路の正確な実行の要だ。うまくやってくれよ。皇帝陛下も褒美をくださるだろう! よしやるぞ。上げろ! よし、もう一度上げろ! もう一度! うん、正しく実行されている。陛下、この回路を論理和門(ORゲート)といいます」
 次にフォン・ノイマンはまた三名の兵士を使って否定論理積門(NANDゲート)、否定論理和門(NORゲート)、排他的論理和門(XORゲート)、否定排他的論理和門(XNORゲート)、三状態論理門(トライステート・ゲート)をつくった。そして最後に、二名だけを使って、もっとも単純な論理否定門(NOTゲート)をつくった。この場合、<出力〉は、<入力>が上げた旗と反対の旗を上げる。
 フォン・ノイマンは皇帝に深々と頭を下げた。「陛下、いますべてのゲート回路の実演が終わりました。簡単なことだと思われませんか? どのような兵士でも、三名で一時間ほどの訓練を行えば覚えられます」
「覚えることは、ほかにはなにもないんだな?」
「ありません。このようなゲート回路を一千万組つくり、さらにこれらの回路を組み合わせることによって、ひとつのシステムを構築します。システムは必要な演算を行って、太陽運行を予測する微分方程式を計算するのです。このシステムをわれわれは、ええっと、なんだっけ……」
「コンピュータ」汪然が言った。
「そうそう」フォン・ノイマンは注森に親指を立てて見せた。「コンピュータと呼んでいます。うん、この名前はいい響きだ。すべてのシステムが実際には膨大なひとつのコンピュータで、それは有史以来もっとも複雑な機械なのです!」
これを組み合わせて兵士たちで複雑な演算が可能なコンピュータを作ってしまうのだ。
たしかに理論上は可能だけど……。
いやあ、なんて壮大なほら話だ。これぞSF小説。

こんな途方もないエピソードが次々に出てくるのだ。
十冊の本を読み終わったぐらいの充実感があった。



もちろん作品自体もすごいのだが、作品の背景にも驚かされる。

まず中国人、それも中国に住んでいる人が書いた作品だということ。
文化大革命を批判的に書いたりしていて、こういうことが許されるのか! とびっくりした。
中国から外国に渡った人が書くのならわかるんだけど。
中国という国は、ぼくがおもっているよりもずっと民主的な国になっているのかもしれない。これは認識をアップデートしなければ。

また、中国国内で発表されたのが2006年、単行本の出版は2008年なのに、SF小説界の最高峰ともいわれるヒューゴー賞を受賞したのが2015年だということ。
中国の作品だから世界的な評価が遅れたのだろうが、それにしたって21世紀になってもこんなに評価が遅れてやってくる作品はめずらしい。



ハードカバーで448ページという重量級の小説だけど、中盤からは一気に読めた。
SF小説と歴史小説と天文学ノンフィクションとハードボイルド小説とミステリ小説をいっぺんに読んだような気分。
ずっと頭を使いながら読まなきゃいけないので疲れたけどおもしろかったなあ。

だが、これは三部作の第一部。第二部『黒暗森林』はこの1.5倍、第三部『死神永生』は2倍ぐらいの分量があるという驚愕の事実を訳者あとがきで知ってびびっている。
うーん、続編もまちがいなくおもしろいんだろうけど、気力がもつだろうか……。

第二部の日本語訳は2020年6月発売だそうです。


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2020年5月1日金曜日

ゆきずりの野球友だち

娘(六歳)とその友だちと公園で遊んだときのこと。

娘の友だちのお兄ちゃん・Kくん(九歳)も公園で遊んでいた。友だちと野球をやっている。

しばらくして、Kくんとその友だちがやってきた。
 「いっしょにドッチボールしよう」
「いいよ。ええっと、そっちの子はなんて名前?」
 「名前? 知らない」
「え!?」

友だちの名前を知らない? ずっといっしょに野球やってたのに???

「えっ、なんで知らないの」
 「だってさっき会ったばっかだもん」
「同じ小学校じゃないの?」
 「ううん。はじめて会った。あいつがどこの小学校かも知らないよ」
「それでいっしょに野球やってたの?」
 「そう」
「それにしても、名前とか小学校とか聞こうとおもわない?」
 「べつに」

えええ。
すげえ。
見ず知らずの人と出会ってすぐに野球をやれるのが。
それで名前も所属も気にしないのが。
そのくせ「あいつ」呼ばわりできるのが。

男子小学生ってこんなだったっけ。
ゆきずりの女と一夜を共にできるプレイボーイぐらいすげえ。