2020年1月31日金曜日

リュックあいてる


電車で前に立っている女性が背負っているリュック。
リュックの口がちょっとあいてる。
腕一本が余裕で入るぐらい。


不用心だな、とおもう。
でもそれだけ。何もしない。
勝手にファスナーを閉めたらスリや痴漢とまちがわれるかもしれない。
かといって声をかけて教えてやるほどでもない。全開になってて中のものが落ちそうになったらさすがに教えるけど、そこまででもない。ちょっとあいてるだけだもの。

ここは見て見ぬふり。
それが大人の処世術。

しかし意識はずっとそこにある。
いやもうとっくにリュックの中に腕をつっこんでいる。まさぐっている。
腕をつっこんで、これは手帳、これは携帯電話、これは化粧ポーチ、これは財布、中には札が四枚。たいしたことないな。
しかし狭いな。ちょっと物を乱雑に詰めこみすぎなんじゃないか。

いつのまにかぼく自身がリュックの中に入っている。
暗いけど中が見えないほどではない。なぜならぼくの頭上、リュックの口があいているから。
スマホの上に立ってあたりをみわたす。壁がきたない。このリュック、けっこう使いこまれている。このペットボトルはいつのだ。なんかにおうぞ。
たいしたものは入ってないな。お嬢さん、今度からは気をつけなよ。悪い人だったら財布を盗んだり個人情報を手に入れたりしてたぞ。ぼくだからリュックの中に入りこむだけで済んだけど。


ふいに、背後から肩を叩かれる。

ひっ。ぼくはあわてて意識をリュックから出し、肉体に戻ってくる。
まずい、勝手に他人のリュックに入ってたことがばれたのか。
おそるおそる振り向くと、後ろの男性が言う。

「リュックあいてますよ」

2020年1月30日木曜日

ロンパース紳士

君はロンパースを知っているか。

ロンパース。あかちゃんの正装。
シャツとパンツが一体になった肌着。

シャツとパンツがくっついていたらいったいどこから着るのか。
心配ご無用。股のところがあいているので頭からかぶせ、最後に股の下についたホックをポチンポチンと止めれば完成。

これを着せると、ザ・あかちゃんになる。どこからどう見てもあかちゃん。これでもううっかりあかちゃんを大人とまちがえて「つかぬことをお尋ねしますが……」と話しかけてしまうことはない。
ザ・あかちゃん

うちの子がずっと寝ているだけの新生児だったとき。
ロンパースは便利だった。
ははあなるほど。
おむつを替えるたびにいちいちズボンを脱がせたり履かせたり必要がないので便利だな。すきまがないから腹も冷えないしな。
すなおに感心した。

だが一歳二ヶ月の今。
彼女は立ってすたすた歩いている。後ろ向きに歩くこともある。ジャンプらしき動きもする(本人の中ではジャンプなのだろうが傍からはスクワットにしか見えない)。
さすがに肌着でうろうろするのもまずかろうと、ロンパースの上からセーターやズボンを着せて歩かせている。

しかしどれだけ歩こうが走ろうが四回転半ジャンプを決めようが、しょせんは赤子。
自分のケツも自分で拭けない。文字通りの意味で。
おむつを替えてやるのだが、そのたびに不便を感じる。
おむつを替えるためには

1.まずズボンを脱がせ
2.ロンパースのホックをはずし
3.ロンパースのすそにウンコがつかぬようすそをまくりあげてうなじのところに挟み
4.ウンコおむつを脱がせ
5.ケツを拭き
6.新しいおむつを履かせ
7.ロンパースのホックを留め
8.ズボンを履かせる

じつに八つのステップを必要とする(5の後に「自分の手に付いたウンコを拭く」というステップが加わることもある)。
だがロンパースがなければ、2と3と7の手順は省略できる。

面倒だ。
ロンパースなしじゃだめなのか。ふつうの肌着じゃだめなのだろうか。

妻に言ってみた。
「もうロンパースいらんのちゃうん?」と。
我ながら建設的ないい提案だ。

すると妻は言う。
「ふだんはいいんだけどね。でもウンチやおしっこをするとおむつが重くなって、おむつの重みでズボンが脱げちゃうのよ。おなかがぽっこりしてるからベルトをさせるわけにもいかないし。だからロンパースがいるのよ」

くっ……。
まただ。いつも妻は、理路整然と正論を語ってぼくの出鼻をくじく。理にかないすぎてぐうの音も出ない。


ロンパースに「おむつずり落ち抑止機能」があることはわかった。
だが。
うちの一歳児は食べることが大好き。歯が四本しかないくせに大人顔負けの量を食べる。口にバナナをほおばり、右手にバナナを持ち、左手でバナナをつかむ。
当然ながら身体はでかい。常に成長曲線の上限いっぱいをキープし、同世代に圧倒的な差をつけている。
おなかがぱんぱんなので、ロンパースのホックはしょっちゅうはずれる。はずれるというよりはじけるといったほうがいいかもしれない。
だっこをすればパチン。座ればパチン。しゃがめばパチン。
千代の富士の肩関節と同じくらいよくはずれる。

で、ロンパースのすそがズボンの外に出て燕尾服みたいになっている。びろーん。

もちろんおむつずり落ち防止機能は正常に動作していない。おむつずりーん。
うむ、ロンパースいらんな。
おむつずり落ち防止機能どころか「大人とまちがえられるの防止機能」も機能してないもんな。燕尾服の紳士とまちがえて「つかぬことをおたずねしますが、ここいらでおなかぱんぱんのあかちゃんを見かけませんでしたか」と話しかけてしまうもんな、これじゃ。


2020年1月29日水曜日

【読書感想文】そこに目的も意味もない! / リチャード・ドーキンス『進化とは何か』

進化とは何か

ドーキンス博士の特別講義

リチャード・ドーキンス (著)  吉成 真由美 (訳)

内容(Amazonより)
広い宇宙に生命が存在する理由とは何か?この問いに『利己的な遺伝子』で世界的に知られる生物学者が切り込む。花やアリの生態からわかるDNAの機能、鳥類の翼やイヌの毛並みのデザイン過程、ヒトの脳が世界を把握する仕組み…さまざまな科学の考え方で身近な例に光を当て「進化」のメカニズムを説き明かす初学者向けの講義を特別編集。著者が自らの軌跡を語る本書でしか読めないインタビューを収録。

リチャード・ドーキンス氏の『利己的な遺伝子』『盲目の時計職人』やアンドリュー・パーカー氏の『眼の誕生』などを読んで進化生物学の大まかな考え方については理解できた(つもり)。
なので、ドーキンス氏が2001年に子どもたちに向けておこなった講義をまとめた『進化とは何か』は、題材のひとつひとつはおもしろいんだけど、新しい知見は特に得られなかった。
高校生ぐらいのときに読んでいたらすごくおもしろかっただろうなあ。多少なりとも生物学に興味のあるすべての高校生におすすめしたい。

人間を含むすべての生物は遺伝子の乗り物、眼は突然誕生したわけではない、生物は進化の山を登っている、進化は結果であって目的ではない、などドーキンス氏の著作を読んできたものとしてはおなじみのフレーズが並ぶ。

しかし『盲目の時計職人』を読んだときにもおもったけど、ドーキンス氏はやたらと創造説論者に対する反論を述べているんだけど、日本人からすると「いったい何と闘ってるんだ」とおもってしまう。
日本には「この世のすべての生物は創造主がおつくりになったのだ」って考えてる人ってまずいないじゃない。たぶん敬虔なクリスチャンであっても、それはそれ、これはこれ、とおもってる。
「微生物が魚になってそのうち陸に上がったやつが哺乳類になって徐々に高等な生物になって猿人から旧人と進化して今のヒトになった」
という認識はみんな持っている(だよね?)。

だからドーキンスさんが「今いる生物は創造主が作ったのではなく進化の結果として(同時に過程でもある)ここにいるのだ!」と手を変え品を変え主張しているのを読むと「そんな小学生でも知っているあたりまえのことにページを割かないでくれよ」とおもってしまう。

でもアメリカには「創造主がおつくりになった。人間は人間として誕生した。他の生物を統治するために作られた特別な存在なのだ」と本気で信じている人が少なからずいるんだろうね。だからくりかえし反論しなきゃいけない。

一流の科学者がそういう人たちの相手をしなきゃいけないなんて、たいへんだなあ。つくづく同情する。



ダーウィンが『種の起源』を刊行したのが1859年。(構想は何十年も前からダーウィンの中にあったとはいえ)あまりにも遅い。
現代に生きる我々からすると「原始的な生物からサルを経て人類に進化した」という考え方はぜんぜんむずかしいものではない。幼稚園児でも理解できる。そんなかんたんなことに、どうして19世紀になるまで誰も気づけなかったのだろう?

ドーキンス氏はその理由についてこう書いている。
 いろいろ理由があると思いますが、今ここで指摘したいのは、テクノロジーによる攪乱のせいではないかということです。自分たちが作ったものや、エンジニアが作ったもの、望遠鏡や顕微鏡や普段使う大工道具など、すべては、必ず目的を持って作られていると私たちは認識しているし、子供たちもそう思いながら育ってきている。しかし目的というのは脳が生み出したものであり、脳は進化によってできたものです。
 目的そのものも、ほかのあらゆるものと同じように進化してきた。この惑星で三〇億年もかけて生命は、「デザイノイド」として成長してきました。一見デザインされたようにみえるけれど、まったく(目的を持つという)デザインのコンセプトを持たずに。そしてついに、唯一私たちの種だけが、意図的に物をデザインすることができるようになり、目的というものを持つことができるようになった。
 目的そのものは、ごく最近この宇宙で生まれ育ったものです。しかし目的そのものも、いったん人間の脳内に誕生すると、今度はそれ自体が、「自促型」スパイラル進化をする、新たなソフトウェアとなる可能性が高いのです。とくに人間の集団が同じ目的のために働くとき、そうなる可能性が高くなる。
つまり、人間はものを見て「目的」を見出しやすい。そういうふうに脳が進化してきた。

腕時計が落ちているのを見れば、腕時計を見たことのない人であっても「これは自然に生じたものだ」とはおもわない。「何に使うのかはわからないけど誰かが意図を持ってデザインしたものだ」と考える。明らかに機能的に出てきているから。

それと同じように、たとえば眼球を見て、硝子体と水晶体で光を取り込んでそれを保護するために角膜があって視神経がつながっていて映ったものを脳でとらえていることに気づいたらら、こんな精巧な臓器が自然発生的にできたわけがない、誰かが意図を持ってデザインしたものだ、と考えてしまう。
実際は自然発生的にできたのだ(もちろんある日突然生まれたのではなく徐々に進化して今の形になった)のだが。

その「すべてに意味を見いだそうとしてしまう」性質のせいで人類はいろんな技術を発達させることができたわけだが、同時にその性質のせいで「我々が今こうしてここにいるのには意味があるにちがいない」「ヒトが他の動物より賢いのは大いなる存在の意志がはたらいているからだ」と考えてしまい、ダーウィンが発表するまで誰も「我々がいまここにいるのはたまたま。それ以上でもそれ以下でもない」とは気づけなかった、というのがドーキンス先生の解釈。

ふうむ。
たしかに人間って意味のないことにまで意味を見いだそうとしてしまうよね。
地震で多くの人が命を落としたら「なぜあいつは死んで自分は生き残ったのか」と考えてしまう、とか。
ふだんと違う行動をとったときにいいことがあったら「あれが幸運を呼び寄せたのだ」とおもっちゃうとか。

偶然でしかないのに、ついつい意味を見いだしてしまう。
「因果関係を見つける」のが知恵だとおもっていたけど、逆に「因果関係を見いださない」ほうが知恵のいることかもしれないな。


【関連記事】

自分の人生の主役じゃなくなるということ

【読書感想文】ぼくらは連鎖不均衡 / リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』



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2020年1月28日火曜日

考えないための傘


いつからだろう、天気について考えるのをやめたのは。

はじめは「雨が降るかもしれないから」だった。
降水確率が五十パーセントぐらいのときに、念のためにとおもって鞄に折り畳み傘を入れた。

そんな日が続き、ぼくは天気のことを考えるのをやめた。
いまやぼくの鞄には毎日折り畳み傘が入っている。入れているのではない。入っている。

雲ひとつない絶好の快晴であっても鞄には折り畳み傘があるし、朝から雨が降っていて傘を持って出かけるときにも折り畳み傘が入っている。

折り畳み傘は重い。重い鞄を持つと肩がこる。
でも傘について考えるほうがめんどくさい。天気予報を見て「今日は傘いるかな」と頭をはたらかせたくない。だから折り畳み傘がずっと入っている。
濡れないための傘というより、考えないための傘。


天候全般に対して関心がなくなった。梅雨も夕立も気にしない。今降っていれば折り畳み傘をさすし、降っていなければささない。それだけ。
十分先の天気も気にしない。空を見上げることがなくなった。

狩猟採集民族でなくてよかった。

ぼくが狩猟採集民族だったら、天気を読み誤ったせいでずぶぬれになっている。遭難して体温が冷えて死んでいた。
ワナをしかけてからしばらく悪天候で出かけられず、久しぶりに見にいったら獲物がかかった形跡はあるのにとっくに逃げていた。飢えて死んでいた。
収穫した果実がカビだらけになっていたこともある。もっと早く収穫しておけばよかった。しかたなくカビだらけの果実を食べたらおなかをこわして死んだ。
もう三回も死んだ。
折り畳み傘にどんどん命が削られてゆく。


2020年1月27日月曜日

ツイートまとめ 2019年4月



エイプリルフール

令和元年

おち〇〇ん

阿鼻叫喚

今の嫁

日の丸

血統

ワル

百科事典

ひみつ道具

ひらがな

葬式

尿意

文庫サイズ

関西

架空

異常者

かわいい用

学力テスト

左向き

メリット

雑な仕事

1104

ねっとり

主張

追い打ち

あ・へれふ

あわれみ

Yahoo!知恵袋

正直者

座席表

未来予想図

サメ映画

寝言

無駄死に

リトマス試験紙

古本屋

2020年1月25日土曜日

運命のティッシュ配り

運命の出会いというのはその瞬間には気づかなぬものだ。

仕事帰り。オフィス街を歩いているとき、ティッシュを受け取った。
いや受け取ったという言い方は適切ではない。
気づいたら手の中にあった、それぐらい自然だった。

ティッシュを渡され、数歩歩いて、そしてようやくティッシュを手渡されたことに気が付いた。

あわてて後ろを振り返る。だがぼくにティッシュを握らせた彼は、もうぼくのことなど気にも留めず一心に次の通行人の手にティッシュを握らせようとしていた。



思えば、街頭ティッシュ配りにはイライラさせられっぱなしの人生だった。

まずはじめにことわっておくが、ぼくはティッシュを欲しい。タダでもらえるのならばいくらでもほしい。
花粉症なので春先には途方もない量のティッシュを消費するし、幼い子どもふたりも鼻水をたらしたり口のまわりをアイスクリームでべたべたにしたりするので、ポケットティッシュはどれだけあってもいい。
とにかく欲しい。箱でくれたってかまわない。

だが、それと同時にぼくには「人からあさましいとおもわれたくない」という厚かましい願望もある。
本心では
「あっ、ティッシュ配ってんの!? ちょーだいちょーだい! えー、一個だけー? あっちのおじさんふたつももらってんじゃん。いいじゃんそんなにいっぱいあるんだからさ。もっとちょうだいよー!」
と言いたいところだが、それは三十代のいい大人としてさすがにみっともない。あと十歳若ければできたのだが。

だからできることなら
「ティッシュなんていくらでも買えるからいらないんだけどな。でもまあティッシュ配りのバイトも大変だろうから人助けだとおもってもらってやるか」
というスタンスでもらいたい。

この「タダでもらえるならどれだけでももらいたい」と「しかしタダに群がるあさましい人間だとおもわれたくない」というジレンマを抱えて人は生きている。
このことを理解していないティッシュ配りが多い。


まず押しつけがましいやつ。
道の真ん中にまで出てきて、こっちが避けようとしてもついてきて、強引にさしだしてくるやつ。
そこまでされたら受け取りたくない。あくまで歩道は通行人のためのもの。おまえらはそこで商売させてもらってんだから通行の邪魔すんじゃねえよという気持ちが先に来てしまう。
しかもそういうやつにかぎって差しだしてくるのがティッシュじゃなくてコンタクトレンズのチラシだったりする。いらねえ。
しかしなんでコンタクトレンズ屋にかぎってあんなにチラシ撒くんだろう。謎だ。世の中にはいろんな商売があるのに、道でチラシを撒いているのは決まってコンタクトレンズ屋だ(そして看板を持って立っているのはネットカフェだ)。
しかも、一見して相手がコンタクトレンズを必要としているかどうかわからないのに。チラシを渡す相手の視力が2.0かもしれないのに。

話がそれた。ティッシュ配りの話だ。
図々しいのはイヤだが、かといって遠慮がちなのもだめだ。
道のはじっこでおずおずと様子をうかがっているやつ。通行の邪魔にはならないけど、邪魔にならなさすぎる。あれだとこっちからわざわざ進路を変えてティッシュをもらいにいかなくてはならない。そんな意地汚いことできない。こっちは意地汚いことを隠して生きたいんだから。

突然差しだしてくるのもだめだ。
唐突に人からものを差しだされても、とっさには受け取れない。数秒前から「よしっ、受け取ろう」という心づもりをしておかないと手を伸ばせない。こっちは合気道の達人じゃないんだから油断してるときに斬りかかられても対処できない。

だからといって十メートルも前から「ティッシュどうぞー!」と声を張り上げられるのも困る。
「あっ、ティッシュ配ってる。ほしいな」と気づくけど、直後に自尊心が首をもたげる。どんな顔をして近づいていいのかわからない。
あれと同じだ。職場で、旅行に行った誰かがお土産を買ってくる。で、ひとりずつに配る。「お土産です」「どこ行ってたの?」「奈良です」「へーいいなー」なんて会話がふたつ隣の席から聞こえる。次の次だな、とおもう。もうすぐぼくの番だ。でもどんな顔をして待てばいいのかわからない。犬みたいにへっへっと舌を出して待つのは恥ずかしい。
だから気づかぬふりをする。目の前のパソコンをまっすぐに見つめて「仕事に集中しすぎて周りの声が耳に入っていません」という猿芝居をする。
心の中では「あとふたり、あとひとり」とカウントダウンしているのに、名前を呼ばれてからはじめて気づいた様子で「えっ、なに? お土産? ぼくに?」という顔をする。まちがいなくこの三文芝居も見すかされている。でも他にどんなリアクションをとっていいのかわからない。だから毎回気づかないふりをする。
これと同じで、早めに「ティッシュどうぞー!」と言われると気恥ずかしいが勝ってしまい、結局受け取らずに立ち去ってしまう。自尊心に負けたー! と敗北感に打ちひしがれてその日はもう仕事が手につかない。

まとめると、ぼくの要求としてはただひとつ、近すぎず、遠すぎず、遅すぎず、早すぎず、ちょうどいい間合いで渡してほしい。欲を言えば渡す人が美女であってぼくの手を包みこむようにしてティッシュを握らせてくれればそれでいい。

ただそれだけのささやかな願いだ。



さっきのティッシュ配りは完璧だった。
絶妙なタイミング、ちょうどいい距離、押しつけがましくない表情。どこをとっても一級品。さぞかし名のあるティッシュ配り士なのであろう。

ティッシュだと意識する間もなく手渡されていた。
すごい剣豪になると斬った相手に斬られたことを気づかせないというが、まさにそんな感じだった。気づかぬうちに斬られた気分。それでいて不快ではなくむしろすがすがしい。

彼と出会うことは二度とないだろう。
でももしふたりが生まれ変わったら、マラソンランナーと給水所の係員として出会いたい。そして少しもペースを落とすことなく受け取れる絶妙な間合いで給水してほしい。


2020年1月24日金曜日

【読書感想文】こわすぎるとこわくない / 穂村 弘『鳥肌が』

鳥肌が

穂村 弘

内容(Amazonより)
日常のなかでふと覚える違和感。恐怖と笑いが紙一重で同居するエッセイ集。第33回講談社エッセイ賞受賞作!

歌人・穂村弘氏が「こわい」と感じるシチュエーションについて書いたエッセイ集。

鋭い感覚の持ち主だけあって 、その「怖い」に対する感覚も鋭い。
幽霊や強盗といったありきたりなものではなく(その手の話もあるけど)、母の愛とか家族の秘密とか、ふつうは「良きもの」あるいは「なんてことないもの」のおそろしさが書かれている。

子役が怖い、ってのはなんとなくわかる気がする。
時間が濃縮されすぎてるんじゃないかとか、人生のピークが前半に来すぎてるとか、たしかに傍から見ていて心配になる。

「子役として成功しすぎたせいで一家離散、当人もその後不幸な人生を歩む」みたいな例を聞くので(マコーレー=カルキンとかケンちゃんシリーズの子役とか)、ついつい「親の言いなりになって望まない道を歩まされてるんじゃないだろうか」とか「ふつうに学校に通って友だちと遊ぶ経験ができなくて正常な発達ができるんだろうか」とか「子どもを使って金を稼ぐ親ってやっぱり××なんじゃないだろうか」とか考えてしまう。

本人からすると余計なお世話だろうけど。



誰しも「あまり人には理解されないけどこわいもの」を持っているとおもう。

ぼくがこわいのはフィギュアスケート選手だ。
いろんな選手がいるんだけど、なんかみんな同じように見えるんだよね。さわやかな笑顔で、がんばり屋さんで、他人の成功を素直に祝福できる人たち。

すべてがつくりものっぽい、とおもってしまうのはぼくがひねくれすぎてるからかなあ。

全員いい人すぎて、逆に「そんなにいい人じゃない人」がフィギュアスケート界に入ったときにどういう扱いを受けるんだろうと考えるとこわくなる。

他の選手と同じところで笑って同じところで涙できる人じゃないとやっていけないんじゃないだろうか。
羽生先輩や浅田大先輩と同じところで笑わなかったら、それからはいないものとして扱われたりして。全員にこにこしながら無視してくんの。それがあまりにも自然で、無視してる当人たちも嫌がらせの意識とか一ミリもないの。ほんとに存在に気づけなくなってんの。
ひええ。



「近しい人の知らなかった一面」は怖い。
穂村さんの知人が離婚した理由について。
ほ「どうしたの?」
友「彼が放火してたんです」
 衝撃を受ける。彼女の話によると、或る日、警官が家にやってきたのだという。

友「でも、彼は、絶対にやってない、信じてくれ、って云ったんです」
ほ「うん」
友「信じました」
ほ「うん」
友「でも、現場にあった監視カメラの映像に彼の姿が映ってたんです」
ほ「えーっ」
友「なんだか、わけがわからなくなって、こわくなって」

 それで離婚したらしい。駐車中のバイク専門の放火だったという。金銭や愛憎や性欲などとは直接関係しない行為だけに、逆におそろしい感じがする。考えてもわかる気がしない。彼女から見た彼の人格や二人の関係性にはなんの問題もなかったらしい。他は完璧に素晴らしくて唯一の欠点が放火、みたいな人もいるのだろうか。身近な人間の裏は知りたくない、と強く思った。知らないこととないことは同じ、だろうか。
こういうのって「暴力的な人間が放火してた」よりも「善良で優しい人が放火してた」のほうがずっとこわいよね。
理解できないほうがおそろしい。

吉田修一『パレード』がそんな小説だった。
ある青年が通り魔をしている。だが彼は友人の前では明るく優しい人間で、仕事もちゃんとしている。
なのに、通り魔。
金銭目的の強盗とかレイプ犯ならまだ動機が理解できる。しかし通り魔や放火魔には目的がない。というか犯行それ自体が目的だ。ある意味もっともおそろしい犯罪かもしれない。

「優しいにいちゃんが実は通り魔」もおそろしいが、『パレード』でぼくがいちばんこわいと感じたのはそこではない。
「通り魔の同居人たちが彼が通り魔だと気づいているのに気づかないふりをしている」というところだ。

合理的に考えれば気づかないふりをする理由なんてないんだけど、だからこそそこに奇妙なリアリティがあっておそろしかった。

人間、ほんとにおそろしい目に遭ったら「おそろしい」と感じられなくなってしまうんじゃないだろうか。恐怖感が一定値を超えてしまったら恐怖センサーが機能しなくなり現実のこととして受け取れなくなる気がする。

こわすぎるとこわさを感じられなくなる。
それこそが、いちばんこわい。

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見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】



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2020年1月23日木曜日

【読書感想文】持つべきは引き返す勇気 / 小尾 和男『ガチで考える山岳遭難の防止』

ガチで考える山岳遭難の防止

小尾 和男

内容(Amazonより)
転落事故はなぜ同じ場所で繰り返されるのか
GPSがあるのになぜ道迷いを防げないのか
悪天候でもプロの山岳ガイドが登山を続行して事故を起こしてしまうのはなぜか
体力の不足や計画の不備、装備の問題で簡単に片付けられてしまいがちな
山岳遭難の原因について、長年北アルプスの夏山でパトロールをしていた著者が、
実際に事故が起きた現場の画像も交えながら詳しく解説。
ときどき登山をする。
といっても初心者に毛が生えかけてまだ生えてないレベルだ。
1,000メートル弱の山に日帰りで登るだけ。どちらかといえば下山して銭湯に浸かってビールを飲むのが目的だったりする。
登山ガイドで見た「登山初心者の山ガールにおすすめ!」みたいなところしか行かない。

これまでに何度か登ったが、一度も危険な目に遭ったことはない。

ときおり「山中で遭難」とか「滑落して大けが」なんてニュースを見ても、こわいなあ、本格的な登山はあぶないなあ、とどこか対岸の火事だった。
ぼくは入門者向けの山しか登らないから大丈夫だ、と。散歩の延長ぐらいに考えていた。

だが『ガチで考える山岳遭難の防止』を読んで考えを改めた。

ぼくがやってたような入門登山でも、ちょっと誤ったら十分生命にかかわる事故につながっていたんだな、と。



実際、本格的なトラブルに遭ったことこそないが、山頂で足をすべらせて足首を痛めたことがある。
道をまちがえて本来のルートに復帰するまで一時間ぐらい道なき道をさまよったこともある。
「ここで一歩足を踏み外したら大けがするな、下手したら死ぬかも」と冷や汗をかく道を通ったこともある。

それでも大きな事故や遭難に至らなかったのは、たまたま運が良かっただけなのだろう。
『ガチで考える山岳遭難の防止』には、初心者よりも中級者や上級者のほうが遭難しやすいと書いてある。
あのまま甘い考えの登山を続けていたら、いつかぼくも痛い目に遭っていたかもしれない。

特に方向音痴のぼくが怖いのは、道迷い遭難だ。
 道迷いに陥った登山者は微かに異変を感じている一方、「これは間違っている」というはっきりとした確信が無い状態だ。だから、ズルズルと前進を続けてしまう。早い段階で「間違いを確信できればいいのだが、遅れれば遅れるほど引き返しが困難になる。
 少しでも異変を感じたら、まずは行動を停止すること。そして疑問を解決するまでは、一歩たりとも前進してはならない。なぜなら登山道からコースアウトした登山者は、登山道をバックにして草むらの中を突進している状態であることが多いからだ。ここで前へ進んでしまうと、ますます登山道から遠ざかることになる。
これ、わかるなあ。
以前迷ったときも「これちがうんじゃないか」とおもいながら、引き返すことなく前進を続けて、たいへんな目に遭った。
山登りって疲れるから、なるべく余計なことをしたくないんだよね。だから「引き返す勇気」が持てない。
で、「そのうち本来の道につながるだろう」なんて考えで歩いて、ますます引き返すタイミングを失ってしまう。
一分後に引き返していれば往復二分のロスで済むのに、十分後なら二十分のロスだからね。遅くなればなるほど引き返す判断が困難になる。

街中の整備された道なら、たとえ迷ってでたらめに歩いても必ずどこかにつながるから、ついついその感覚で歩いちゃうんだよね。

肉体的に疲れるから頭もはたらかなくなるし。とにかく冷静な判断ができなくなる。


あとぼくの体験的に危険だとおもうのは、メンバーとの登山レベルが違う場合。
たとえば中級者と初心者が一緒に登っていて迷ったとき。
「あれ、この道ちがうんじゃない?」とおもっても、初心者は「でも中級者がこっちに進んでるから大丈夫だろう」と考えてしまう。
中級者のほうは初心者の前でいいかっこをしたいから「ごめん、道まちがえました」とは言いづらい。
で、お互いに薄々「この道おかしい」とおもいながらお互いに言いだせない、ということがあった。

きっと、こんなつまらない遠慮や見栄が原因で命を落とす遭難に至った人もいたのだろうな。



遭難しない方法だけでなく、遭難した場合の対策も載っている。
 さて、可能であれば転落滑落した遭難者を探す、あるいは接近して応急処置を行いたいところなのだが、ここで注意が必要である。なぜなら、転落・滑落事故では助けようとして自分も落ちてしまうケースがとても多いのだ。特に子どもが落ちた場合、慌てた親が無理に現場を下降して二重遭難するケースが、山岳遭難以外でも頻繁に起きている。岩場や斜面を無理矢理降りることは、絶対に避けるべきだ。
 少しでも危険や難しさを感じた場合、現場に向かって降りるようなことをしないように。安全に接近できるルートを見つけられた時に限って降りるべきだ。
 遭難者の捜索あるいは接近を試みる場合、転落・滑落していったラインをそのままたどると、落石を落としてしまった時に遭難者へ当たってしまう可能性がある。人が滑落していった跡は、不安定になっているかもしれない。上から直接行かず、迂回するルートを探そう。
なるほどねえ。
知らなければ、あわてて助けに行ってしまいそうだ。ここにも書かれているように子どもが落ちたときならなおさら。
でも余計に危ない目に遭わせてしまうかもしれないんだな。

山登りをする人は読んでおいて損はない一冊。
この知識が、万が一のときには生死を分けることになるかもしれない。

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【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』

クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】



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2020年1月21日火曜日

【読書感想文】「イヤさ」がいい / 吉田 修一『悪人』

悪人

吉田 修一

内容(e-honより)
小説、映画ともに大ヒットした不朽の名作。福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃が、出会い系サイトで知り合った土木作業員に殺害された。二人が本当に会いたかった相手は誰なのか?佐賀市内に双子の妹と暮らす馬込光代もまた、何もない平凡な生活から逃れるため、携帯サイトにアクセスする。そこで運命の相手と確信できる男に出会えた光代だったが、彼は殺人を犯していた。彼女は自首しようとする男を止め、一緒にいたいと強く願う。光代を駆り立てるものは何か?その一方で、被害者と加害者に向けられた悪意と戦う家族たちがいた。悪人とはいったい誰なのか?事件の果てに明かされる、殺意の奥にあるものは?毎日出版文化賞と大佛次郎賞受賞した著者の代表作。
残忍な殺人事件が起こると、テレビの報道では
「明るくていつも元気に挨拶してくれるかわいい子だった〇〇ちゃんが、どうして殺されなければならなかったのか……」
なんてナレーションをつけて報じられる。

あれが嫌いだ。

ひねくれもののぼくとしては、
「じゃあ内向的で無愛想でブサイクな人間は殺されてもしかたないのかよ!」
と言いたくなる。

うがった見方だとはわかっている。
でもやっぱり気に入らない。
「あんなにいい子がどうして殺されなくちゃいけないの」の裏には、そういう気持ちが隠されている。

近しい人が「どうしてあんな優しい子が」という感情を抱くのは当然だ。ぼくだって親しい人を失えば同じようにおもう。
「どうせ殺すなら××とか△△とかを殺せばいいのに」ともおもう。
でもそれは個人の本音であって、社会全体の意見であってはいけない。
近代国家に生きる者としては、建前としては「どんな人にも等しく生きる権利があるんですよ」と言わなくてはならない。

被害者がどんなクズだったとしても、逆に加害者が明るく社交的でまじめな人物だったとしても、殺人は殺人。
罪と被害者の人格は切り離して考えなくてはならない。

死体に鞭打てとは言わないが、ことさらに死者を美化するのも気持ち悪い。



吉田修一『悪人』は、ぼくが常々おもってる「被害者を必要以上に美化するな」という思いを代弁してくれるような作品だった。

被害者だからといって善ばかりではない。加害者だからといって悪ばかりでもない。
無罪の人間のほうが有罪の人間より「悪人」なこともある。

うちの六歳児は映画を見てると「この人いい人? 悪い人?」と訊いてくる。世界が善悪で二分されているのだ。
映画の世界はそれでいいし子どもの世界もそれでいいんだけど、現実はそうではない。優しい悪人もいれば嫌われ者の善人もいる。


吉田修一作品は、善悪の「まじりっけ」を誠実に書いている。
『怒り』や『パレード』もそうだったけど、登場人物がみんな善人じゃない。
ぼくらと同じように見栄っ張りで、ぼくらと同じように怠惰で、ぼくらと同じように小ずるくて、ぼくらと同じように自分勝手だ。
生まれたときからの血も涙もない極悪非道の人間ではないし、優しさあふれる聖人でもない。
だからこそ我が事のように感じられる。

行動に整合性がないのもいい。
登場人物たちは、「なぜこんなことをしたの?」と訊かれても「なんとなく……」としか言いようがない行動をとる。
どう考えたって得にならない、損をするだけの行動。
小説のお作法からするとルール違反かもしれない。

たいていのミステリ小説では、犯人はいついかなるときもベストを尽くす。
周到に計画を練って、綿密に準備して、必死に犯罪をおこない、あらゆる手を使って証拠を隠してアリバイを作り、あの手この手で捜査の手から逃れようとする。

でもじっさいの犯罪の99%はそうじゃないはずだ。
なんとなく罪を犯して、すぐわかる嘘をつき、自分自身に対しても嘘をつき、漫然と嫌なことを先延ばしにし、なんで自分がこんな目に遭うんだと逆上し、いよいよどうしようもなくなっても見苦しく自己を正当化したりするんじゃないだろうか。
もしぼくが犯罪者になったらそうするとおもう。

『悪人』の登場人物は、ちゃんと、だらしない。だから信用がおける。

吉田修一作品はたいてい読んでいてイヤな気持ちになる。でもそのイヤな気持ちがくせになる。ウンコをした後についつい出したものを見てしまうように。どんなにイヤでもそれは自分自身(の一部だったもの)なのだ。

『悪人』も、イヤな自分をつきつけられる感じがたまらない。


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2020年1月17日金曜日

【読書感想文】時代劇はいろいろめんどくさい / 大森 洋平『考証要集 秘伝! NHK時代考証資料』

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料

大森 洋平

内容(e-honより)
織田信長がいくら南蛮かぶれでも、望遠鏡を使わせたらドラマは台無し。「花街」を「はなまち」と読ませたり、江戸っ子に鍋料理を食わせようものなら、番組の信用は大失墜。斯様に時代考証は難しい。テレビ制作現場のエピソードをひきながら、史実の勘違い、思い込み、単なる誤解を一刀両断。目からウロコの歴史ネタが満載です。
NHKでドラマの時代考証を担当している著者による、時代考証資料集。
読み物ではなく製作者向けの手引きなので少々読みづらい(五十音順じゃなくてテーマ順にしてほしい!)が、素人が読んでも十分おもしろい。

時代も、戦国・江戸だけでなく、平安から昭和まで幅広い知識が紹介されている。
立ち上げる 【たちあげる】 これはパソコン用語で九〇年代前半から次第に使われ始め、九五年の「ウィンドウズ95」発売によって一気に広まった言葉で、それ以前には一切ない。台詞・ナレーションともに、「設立する」「生み出す」「編成する」「創立」「設置」等と正しく改める。
へえ。立ち上げるってそんなに新しい言葉なのか。
今じゃ「新規事業の立ち上げ」とかあたりまえのように使うけどね(逆にPC用語としてはほとんど使わなくなった。起動に時間がかからなくなったからかな)。

考えたことなかったけど、よく見たら「立ち上げる」って変な言葉だよね。自動詞+他動詞だもんね。
複合動詞って「立ち上がる(自動詞+自動詞)」とか「持ち上げる(他動詞+他動詞)」という形をとるもんね。「立たせ上げる」のほうが日本語として自然なんじゃないかな。



時代劇というと「言葉遣いに気をつけなくちゃいけないんだろうなー」と素人でも想像がつくが、言葉以外にも留意すべき点はいろいろあるようだ。
オーストラリア 【おーすとらりあ】 オーストラリアの発見は一七世紀初めであるから、戦国時代劇の「南蛮地球儀」に同地が描かれていたら間違いである。ドラマのシーンで織田信長に地球儀を回させたい時は、オーストラリアが映る前にカメラを切り替える必要がある。織田武雄『地図の歴史─日本篇』(講談社現代新書、九一頁)によると、司馬江漢の『地球全図』(寛政四年:一七九二年)にはオーストラリアが出ているが、これが日本での最初の例である。小道具にはアンティークな地球儀がいくらもあるだろうが、使う前に必ずオーストラリアの有無をチェックすることが戦国時代劇の鉄則。
こんなのとか。
へえ。オーストラリアが発見されたのって、地球が丸いと明らかになったよりも遅かったのか。
こんなの言われなかったら思いもよらないよなー。

冲方丁『天地明察』に渋川春海が地球儀を水戸光圀に贈るというシーンが描かれていたけど、あれにもオーストラリアはなかったんだな。

小説なら「地球儀を見せた」で済むことも、時代劇なら現物を用意しないといけない。オーストラリアが描かれていないものを。
あやふやなことがあっても、小説のように「書かずにごまかすというわけには」いかない。

時代劇を作るのってたいへんだなあ。



軍議・本陣 【ぐんぎ・ほんじん】 最近の戦国時代劇では、幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーンが多いが、これは慣習に過ぎず、多分スタジオのセットの組み方等、収録上の制限から来たものだろう。関ヶ原古戦場の東西両軍の本陣跡に登ればすぐわかるが、実際には戦況を見ながら指揮をとる(ナポレオンの時代でも同様)。往年の大河『天と地と』の川中島合戦では、両軍ともちゃんと戦場に向かって視界の開けた本陣で指揮していた。「地図を見ながら大兵力の配置を考えつつ指揮する」というのは近代ヨーロッパの戦争方式で、電信機がない戦国時代にそんなことをしても無意味である。
「幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーン」
たしかに観たことある気がするわ、これ。
言われてみれば意味ないよね。戦闘がはじまってから現場を見ずにあれこれ策を練っても。
大将は絶対に戦況が一目で把握できる場所(山の上とか)にいなきゃいけないよね。電話もモールス信号もないんだから。

しかし戦場がよく見える場所ということは、裏を返せば戦場にいる兵士たちからも容易に見つかる場所だ(しかも肉眼で見ているわけだからそう遠くないはず)。
飛び道具の発達した近代戦だったら「超危険な場所」だから、まずそんなところに本陣を置かない。
現代の感覚だとまちがえちゃうよね。

おつかれさま 【おつかれさま】 これは日本の一般的伝統的なねぎらいの言葉ではない。時代劇なら「ご苦労様でございます」「お役目ご苦労に存じまする」、旧日本陸軍なら「ご苦労様であります!」等が適切である。大河『篤姫』で「ごくろうさまでございます」という台詞がでた時、視聴者から「『おつかれさま』でないと失礼だろう」という批判があったが、そういうことはない。 一例をあげると、劇評家でエッセイストの矢野誠一著『舞台人走馬燈』(早川書房、二四頁)に、俳優の長谷川一夫が隣に住んでいた少年時代(一九四六年)の思い出として「私は隣家でもって交わされる、『おつかれさま』という挨拶語を生まれて初めて耳にした。いまでこそ立派に市民権を得ている『おつかれさま』だが、その時分はもっぱら藝界や水商売の世界で用いられていて、少なくとも山の手の生活圏には無かった言葉だ」とある。
「目上の人に“ご苦労さま”は失礼。“おつかれさま”と言いましょう」
と何度となく聞いたことがあるけど、“おつかれさま”は水商売の言葉だったんだね。

言葉は変わるものだから「だから“おつかれさま”は失礼!」とは言わないけど、「“おつかれさま”じゃないと失礼」も同様に間違いだよなー。



この本の端々に、時代劇を観た視聴者から「この時代に〇〇はおかしいだろ!」という電話がかかってくることが書かれている。

まあ誤りに対する指摘なら「ありがとうございます」といって拝聴すればいいけど、まちがった認識で電話をかけてくる人がたくさんいるらしい。

「江戸時代に〇〇はなかったはずだ!」
「いやあるんですよ。文献に出てきます」
なんてことが多々あるようだ。

自分の思いこみだけで他人の仕事にケチをつける人って……なんていうか……頭おかしい自己肯定感が高いんだなあ。

テレビで時代劇が減った理由のひとつに「めんどくさい人の相手がたいへんだから」ってのもあるかもしれないね。


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2020年1月16日木曜日

給料安いよ!来てね!


北新地という大阪でも有数の繁華街のすぐそばの地下街に、ひっそりと「各自治体のPR会場」がある。
ブースがいくつかあって、そこに「〇〇県就農体験者募集」「〇〇県〇〇町でお見合いパーティー」みたいなポスターがたくさん貼ってある。
わりと人通りもある場所なのにその一角だけやたらと薄暗く、妙に静まりかえっている。そこを通るたびにぼくはいたたまれない気持ちになる。

ポスターたちの発するうらさびしいオーラに吸い込まれそうになるのだ。とても直視できない。つらい。

なにがつらいのかというと、みんな「虫のいいこと」しか言ってないのだ。
就農だの移住支援だのお見合いパーティーだのと書いているが、内容はどれも同じ。
「この地域で生まれ育った若者にすら見放されるような土地だけど、働き者で文句を言わずに土地の蛮習に従ってくれる若者来てくれませんか? 給料安いよ! 不便だよ! 不自由だよ!」
としか言ってないのだ。

メリットがないか、せいぜい「空気がきれい」ぐらい。
そりゃあ来ねえだろう。こういうポスターを作っちゃうところがもう絶望的にセンスがない。
ブラック企業が「やりがいのある職場です!」「オンとオフの切り替えは大事。土日はみんなバーベキューをするぐらい仲良しです!」と求人票に書いちゃうぐらいまちがっている。


まあそれはいい。感覚は人それぞれだ。ぼくも地方で育ったのでその感覚はわからなくもない。

ただ心配になるのは、こういうポスターにお金を使っていること。
いろいろ背景を想像してしまう。
街のコンサルだか広告代理店だかが村役場を訪れて
「このままじゃいけませんよ。他の町村はいろんな手を打ってますよ。たとえばお隣の〇〇町なんか××っていうプロジェクトをやってますよ。ほら」
なんて持ちかけて、町長さんだか広報課長だかが「そっか。お隣もやってるのか。じゃあうちもやらなきゃな」
なんつってお金払って、各部署からだったらこれも載せてくれこれも書いといたほうがいいだろなんて言われて、見た目だけきれいだけど結局何が言いたいのかわからないポスター作って、ろくに効果検証もしないままお金を垂れ流しているんだろう。

「そんなお金があるなら今いる若者のために仕事をつくりましょうよ」なんていう人はひとりもいないまま、誰も足を止めないブースにポスターを貼るためにお金を払いつづけている。

そりゃあさ。
「来てね!」って呼びかけるだけで来てくれるならそれがいちばんいいけどさ。
でもじっさいは逆なわけじゃない。
「働き手がいねえんだよー。嫁さんが来ねえんだよー。若い夫婦もいないんだよー」って言ってる自治体に行きたい人はほとんどいないわけじゃない。

なんだか、貧乏人ほど宝くじを買うって話みたいで切なくなる。もう配当率の低い一発逆転に頼るしかないんだよなー。


2020年1月15日水曜日

書店の飾りつけは自己満足


とある書店員のツイートを目にした。
その人は売場をPOPや装飾できれいに飾りつけた写真を投稿して、「Amazonには負けない」とつぶやいていた。

それに対して賛同するコメントもあったが、「努力の方向がまちがってる」「客はそんなの求めてない」「飾りつけをがんばるんじゃなくて本を切らさぬようにしろ」という辛辣なコメントも並んでいた。

ううむ。
元書店員であり現Amazonヘビーユーザーであるぼくとしては、どちらの気持ちもわかるので心苦しい。


飾りつけは自己満足


「努力の方向がまちがってる」、厳しいがその通りだ。
まったくの無駄とは言わない。
でも飾りつけに使う材料費と人件費以上の効果があるかといわれれば、残念ながら首をかしげざるをえない。
シビアにコストと効果を計算すれば、おそらく「やらないほうがマシ」だろう。

そもそも店舗内で目立たせてどうする。
書店が二店舗並んでいるので、看板やのぼりを目立たせてライバル店から客を奪ってくるのならわかる。
でも自店舗内で〇〇フェアをやって一角だけ目立たせるということは、相対的に他の売場を目立たなくさせることになる。

ぼくも文庫コーナーで「〇〇フェア」を何度となくやったのでわかるが、フェアをやればたしかにその売場内の本はよく売れるが、文庫全体の売上が伸びるわけではなかった。
店舗内で売上をあっちからこっちに動かしているだけなのだ。

書店員のやれることに限界がある


とはいえきれいに飾りつけをしたくなる書店員の気持ちもわかる。
「大事なのは売場を飾りたてることじゃなく買いたくなる本を置くことなんだよ」
そんなことは客から言われるまでもなく書店員自身がよーくわかっている。できることなら人気の本を山のように積みたい。

が、やりたくてもできない事情がある。
まず売場面積の事情。
オンライン書店とちがって実店舗の棚には限りがある。すべての本を置くのが理想だが、そうはいかない。「この本を置いておけば一年に一冊ぐらいは売れるんだけどなあ」という本でも泣く泣く返品せざるをえない。

また経済的な事情もある。
返品すれば取次からお金がかえってくる。つまり在庫を持つことには金がかかるのだ。
資本が無限にあるならいいけど、使えるお金に制約がある以上、一定数は返品にまわさざるをえない。
在庫量を二倍にすれば売上も二倍になるのならいいけど、実際は十パーセント増えればいいほうだ。
棚に置いておくより返品するほうが確実に収入になるのだから、コンスタントに売れない本は返品に回さざるをえない。

そしてなによりいちばん大きな理由は、注文した本が手に入らないことにある。
話題の本、人気作家の新刊、映画の原作、文学賞受賞作品。いくら注文しても入荷しないのだ。
どこにもないのならあきらめもつく。だがあるところにはあるのだ。
取次や書店によって力の強弱があり、力の弱い書店がどれだけ注文しても入ってこない本が、力の強い書店には山のように積んであったりする。
返品すれば基本的に仕入れ値でお金がかえってくるのだから、力の強い書店は必要以上に仕入れる。で、弱いところにはまわってこない。まわってくるのはもうブームが去ってから。

もちろんこんな事情は客の知ったことではないのだが、書店員だって「もっと大事なことがある」ことはとうに承知なんだよ。

意欲だけがからまわり


で、意欲のある書店員はPOPや売場の飾りつけに走る。
「とりあえず何かやった気になれる」からだ。
フェアを組んで売場の一角を目立たせればとりあえずそこの売上は伸びるから、達成感も得やすい(さっきも書いたように店舗全体の売上が増えているわけではないのだが)。

たぶんほとんどの書店員は、こんなことをしても大して意味がないと気づいているとおも(「Amazonには負けない」と書いていた人は書店が好きすぎて気づいてないかもしれないけど)。

でも他に打てる手がないから売場を飾る。不安から逃げるために。
意欲はあるけどできることがなくてからまわり。

そしてある日気づく。
もうだめだ、と。
書店が息を吹き返すには、業界全体をリセットしてやりなおすしかない(それでもうまくいかない可能性のほうが高いけど)。
でもそんなことは不可能だと。
書店といっしょに沈むか、沈む船から逃げだすか。選択肢は二つだけ。


ああ。
書いてていやになった。
同じようなことを今までにも何度も書いている。書店で働いているときからずっと同じことを考えていた。でもどうにもならない。

書店は好きだ。だけど「買って応援」なんてする気にはなれない。
そんなことしてたらますます現状にあぐらをかいてAmazonとの差が拡がるに決まってるんだもの。

でももうしかたない。

いっそ完全に滅んでみんなが「リアル書店があったころはよかったなあ」と懐かしむ……。

それが書店にとっていちばん幸福な未来のかもしれない、とまで最近はおもうようになった。
想い出の中で美しく生きていてくれればそれでいいよ……。

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書店員の努力は無駄

書店が衰退しない可能性もあった

2020年1月14日火曜日

【読書感想文】差別意識が生まれる生物学的メカニズム / ロブ・ダン『わたしたちの体は寄生虫を欲している』

わたしたちの体は寄生虫を欲している

ロブ・ダン(著)  野中 香方子(訳)

内容(e-honより)
「キレイになりすぎた人体」に、今すぐ野生を取り戻せ!腸に寄生虫を戻す。街に猛獣を放つ。大都市のビルの壁を農場にする。―無謀な夢想家たちの、愛すべき実験の数々。
人類の歴史をざっとなぞる第一章は正直退屈だったが(ついこないだ読んだビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』と内容が重複していたので)、第二章で寄生虫の話が出てきてからぐっとおもしろくなった。

医学の歴史は、基本的に体内から異物を排除することの歴史だった。
病気をもたらす細菌や寄生虫や微生物を排除するために、手を洗い、風呂に入り、殺菌し、抗生物質を飲む。
現在我々は人類史上最も清潔な暮らしをしている。

では病気とは無縁になったのか。答えはノー。
一部の病気はほぼ撲滅することに成功したが、まだまだ病気はなくならない。それどころかクローン病、糖尿病、花粉症といった病気の患者はどんどん増えている。
 こんなありふれた病気がまだあまり理解されていないというのは、奇妙に思えるかもしれないが、実を言えば、人間を苦しめる病気のほとんどは、原因がいまだによくわかっていないのだ。人間がよく罹る病気の四○○余りが命名されているが、名前のついていない病気が、まだ数百は残っているはずだ。名前のある病気にしても、ポリオ、天然痘、マラリアなど一○余りの病気は比較的、理解が進んでいるが、その他の大多数は、謎の部分が多い。症状を抑える方法や、厄介な病原体(原因が病原体だとしたら)を殺す方法がわかっていたとしても、その病気に侵された体の中で何が起きているのかは、よくわかっていないのだ。
素人からすると、現代の医学ではほとんどの病気は原因も対処法もわかっていて対処できないのは一部の難病だけかとおもっていたが、実際は逆なのだ。
圧倒的に多くの病気は原因不明で、一部の病気以外は「なんかわからんけど〇〇をすればよくなることが多いとわかっている」「手の打ちようがないけど生命にかかわるほどではなく、ほっておけば身体が勝手に直してくれる」だけ。

コンピュータシステムで
「でたらめにあちこちさわってみたら一応正常に動くようになったけど、どこがあかんかったのか、何をしたのがよかったのか、ようわからんわ」
なんてことがあるけど、人体で起こっているのはまさに同じ。
ジェンガの後半みたいに、絶妙なバランスで立っていてどこを動かしたら倒れるのかはわからない、それが人体なのだ。

にもかかわらず我々は、薬を飲み、注射をされ、手術をされている。

数百年前の医者は手当たり次第に変な薬品や草を飲ませていたけど、今の医学もやっていることは基本的に変わらない。
ただ臨床実験を厳密にやるようになっただけで「なんかわからんけどこれをやったら病状が良くなることが多いみたい」という理由で変な薬品とか草とかを飲ませていることに変わりはない。



ここ数百年にわたって医学がやってきた「体内から異物を排除する」も、それが正しいことだったのか誰にもわからない。

プログラムコードの中の不要に見える1行を消したら動作が速くなったように見えても、実はそのコードは十年に一度だけ機能する大切なコードだったかもしれない。
 ワインストックの成功は他の人々を激し、ほどなくして多くの研究者が、自己免疫やアレルギー性の病気は、寄生虫の欠如が原因だと考えるようになった。うつ状態や一部のガンまで、寄生虫の欠如とのつながりが疑われ、漠然とした見通しの上に、さらなる実験が行われた。これらの追跡調査は、次第に過激で意義深いものになっていったが、いずれもワインストックの仮説の正しさを証明した。寄生虫を導入すると、炎症性腸疾患の患者たちは快方に向かった。糖尿病のマウスは血糖値が正常値に戻った。心臓疾患の進行は遅くなり、多発性硬化症の症状さえ改善した。
ここ数十年で我々は体内から寄生虫を追いだしたが、人類の歴史を考えれば寄生虫と共存してきた時代のほうがはるかに長かった。
ヒトは寄生虫がいることを前提とした体内環境を作り、寄生虫もまたヒトが健康に生きていける環境を整えることに協力した(なぜなら宿主が死ねばいちばん困るのは寄生虫なのだから)。
たまーにごく一部の寄生虫が悪さをすることはあっても、全体としてはうまくいっていた。

が、寄生虫は駆逐された。
結果、寄生虫が攻撃していた外敵は居座るようになり、寄生虫が消化を助けていた食べ物は栄養を吸収されぬまま体外に排出され、免疫細胞は寄生虫の代わりに自らの臓器を攻撃するようになった……。

これがこの本で唱えられている説だ。
あくまで一説だが(なにしろさっきも書いたように人体はわからないことだらけなのだ)、ありそうな話だ。
自然界には相利共生関係(互いにとってメリットのある共生関係)が多数見られるので、ヒトだけが例外であるとおもうほうが不自然だ。

ヒトの内臓のひとつである虫垂も、昔は不要な器官と考えられていた(ぼくも子どもの頃そう教わった)が、今では有用なものだとわかっているらしい。
細菌を蓄えて、必要に応じて体内の最近の活動を制御するはたらきをするのだそうだ。
細菌もまた、ごく一部が悪さをするだけで大半は人体にとって有用または善でも悪でもない存在なのだ。


『奇跡のリンゴ』なる本に、木村秋則さんという人が無農薬でリンゴを作ることに成功したことが書かれている。
無農薬でリンゴを育てる秘訣は、なるべく余計なことをせずに自然に任せることだそうだ(すごくかんたんに言うとね)。
基本的にリンゴは、虫や細菌と共存しながらバランスをとって勝手に成長してくれる。それを支えてやるだけでいい。これが木村秋則さんが何十年もかかって導きだした答えだ。

人間もリンゴと同じで、手を入れすぎるとかえって調子が悪くなるのかもしれない。

はたして寄生虫を追いだしたことは健康にとっていいことだったのか。
その答えを知るためには寄生虫を体内に戻してみるしかないけど、いまさら後戻りはむずかしいだろう。ぼくも、いくら健康になるとしてもできることなら寄生虫を腸内で飼いたくない。



タイトルは『わたしたちの体は寄生虫を欲している』だが、寄生虫の話がすべてではない。
本の後半では、今もヒトの肉体が、捕食者の存在におびえ毒や伝染病を避けるよう設計されている例をいくつも挙げている。

「ここ数百年、あるいは数十年で我々の暮らしは劇的に変わったが、肉体や脳はまだ旧時代のやりかたをひきずっている。そのギャップのせいでいろんな不具合が生じている」
が全体を通しての論旨だ。

たとえば、病気が蔓延している地域の人ほど、個人主義的であり、閉鎖的な傾向があるという(因果関係は証明されていないのであくまで傾向)。
知らず知らずのうちに他人との接触を避けて病気を回避しようとしているのだ。
 病気の兆候を誤解することで生じるさらに危険で深刻な問題は、その誤解ゆえに、わたしたちは無意識のうちに、何らかの社会集団を避けようとする可能性があるということだ。シャラーは、高齢であることや、伝染性でない病気(たとえば病的な肥満など)、身体障害なども嫌悪感の原因になりうると主張し、いくらかは証明している。そうだとすれば、その嫌悪は誤解によるもので、わたしたちの潜在意識が、高齢や肥満、身体障害を、感染症と間違えたのだ。人は、病気の脅威を認識すると、高齢者を差別する行動をとりがちになることをシャラーは示してきた。肥満に対しても同じような行動をとり、病気になることを心配している人の場合、嫌悪はさらに強くなる。
 こうした反応が実際に広く起きているとしたら、社会における高齢者や障害者、慢性疾患患者に対する扱いに大きな影響を及ぼしているはずで、そうした人々は社会の周辺的な地位に追いやられることになるだろう。行動免疫システムの機能は、完璧と呼べるものとは程遠い。人間が自分たちのために作った世界において、部分的にしか機能していない。何が正しく何が間違っているかをわたしたちが判断できないうちに、そのシステムは、無意識の行動と免疫反応を引き起こしてしまうのだ。
ふうむ。
あまり大きな声では言えないけど、ぼくは年寄りが嫌いだ。個人個人でいえば例外もあるけど、総じていえば嫌いだ。身内以外の年寄りとは関わりたくない。

たとえば電車で隣の席に年寄りや顔色の悪い人が乗ってきたとき、ぼくは不快感をおぼえる。内心でおもってるだけのつもりだけど、もしかすると顔にも出てしまっているかも。
無意識のうちに「病気を保有している可能性の高いもの」を忌避しているのかもしれない。

外国人を嫌う人は世界中にいるが、これも同じ理由なのかもしれない。
違う民族の人は「コミュニティの外の人」なわけで、新たな病原菌を持ちこむ可能性が高い。
だから接触を避け、排除することで健康を守ろうとする。

もしかすると世の中にある差別の多くは「病気になる確率を下げたい」という無意識の免疫反応から生まれているのかもしれない。
屠畜業者を避けるのも、動物の死体に触れる人は病気を持っている可能性が高いからだろうし。

だからといって差別を肯定するつもりはない。我々は生理的な欲求に打ち勝つことで文明社会を築いてきたのだから。
でも、免疫学を知ることで差別意識が生じるメカニズムを理解する一助にはなるかもしれない。

「生理的にムリ」の根っこにあるのは「健康でいたい」という自然な欲求なのかも。

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2020年1月10日金曜日

【読書感想文】逆に野球が衰退しない理由を教えてくれ / 中島 大輔『野球消滅』

野球消滅

中島 大輔 

内容(e-honより)
いま、全国で急速に「野球少年」が消えている。理由は少子化だけではない。プロとアマが啀み合い、統一した意思の存在しない野球界の「構造問題」が、もはや無視できないほど大きくなってしまったからだ。このままいけば、三十年後にはプロ野球興行の存続すら危ぶまれるのだ。プロ野球から学童野球まで、ひたすら現場を歩き続けるノンフィクション作家が描いた日本野球界の「不都合な真実」。
いっときは熱心なプロ野球ファンだった。
小学生のときは毎年春になると選手名鑑を買い、新聞の結果をチェックして、テレビで試合を観戦して、スポーツニュースも観て、ときには『週刊ベースボール』を買うこともあった(なぜか新聞の結果を毎日ノートに書き写していた時期もある)。プロ野球関連の本も読みあさった。

人生の最大の楽しみが野球だった。
公園でも友人たちと野球をし、その成績をノートに記録していた。
家でもひとりでプロ野球カードゲームなる遊びをしていた。自分と自分で対戦して、その結果をノートに記録していた(もしかしたら野球よりも記録することが好きだったのかもしれない)。

中学生になってそれほど熱心なプロ野球ファンではなくなった。他にいろいろ楽しみができたからかもしれない。
とはいえ新聞の結果は欠かさず見ていたし、テレビでタイガース戦をやっていれば(他に観たい番組がなければ)観ていた。

高校一年生のとき、横浜高校の準々決勝での延長17回の死闘、準決勝での6点差逆転ゲーム、決勝でのノーヒットを観て高校野球ファンになった。
反比例するようにプロ野球を観る機会は減った。高校野球を観た後だと、プロ野球の試合は冗長で観ていられないのだ。

そして今。プロ野球はまったく観ない。知っている現役選手は十人いるだろうか。
そもそもテレビでやっていないのだから観る機会がない。新聞もとっていないので結果もわからない。テレビのニュースも観るのをやめたのでまったく情報が入ってこない。ふだん観ないのに日本シリーズだけ観たっておもしろくない。日本シリーズもオールスターゲームもWBCも観ない。昨年どのチームが優勝したのかもしらない。
二十数年前の選手はよく知っているが、現役選手のことはそこらへんのOLと同じくらいの知識しかない(負けるかも)。



野球への興味をなくしているのはぼくだけでないようだ。
 プロ野球の営業面を短期的に見るなら、CRMビジネスを回していけば成果は出るだろう。ただし中期的、長期的な視点に立ったとき、「ファンの延べ人数は増えているけれど、実人数が増えていない」のは大きな課題になる。
「2017年スポーツマーケティング基礎調査」(出典:三菱UFJリサーチ&コンサルティングとマクロミル)によると、日本のプロ野球ファンは2009年の3780万人から2017年には2845万人に減少。この調査は男女各1000人から回答を得て、年齢階層別のファン率と年齢階層別の人口を掛け合わせて算出した数字だ。
 スタジアムに足を運ぶ人の延べ人数が増え続けている一方、同調査における「プロ野球ファン」が減少しているという対極的な事実は、球場には行かなくてもテレビ観戦やニュースで結果を確認するといったライトファンが少なくなった可能性を示唆している。
球場に足を運ぶ熱心なファンは増えている一方、「テレビでやっていれば観る」程度のライトなファンは減少しているという。
ぼくの体感とも合致する。
ぼくが子どもの頃、プロ野球は大人の男のたしなみだった。熱心なファンではなくても「好きな球団は?」と訊かれたら答えられる必要はあったし、「好きな選手は笘篠です」「おっ、渋いですなあ」みたいな会話のひとつもできなければいけなかった。ぼくは子どもだったのでよく知らないけど、たぶんそう。
ぼくなんか兵庫県で育ったので阪神タイガースの話題はあいさつみたいなものだった。
「ノムさんはあきませんな」「久慈を出したのは痛かったなあ」とやっていた。

でも今、少なくともぼくの周りにはあいさつ代わりに野球の話をする人はいない。
前置きなしに「今年もあきませんな」だけで阪神のことだなと伝わる時代ではなくなったのだ。
 1990年代から社会が激変し続けるなか、当たり前のように、人々(特に子ども)と野球の関わり方も大きく変わった。
 40年前の少年は誰もが気軽に野球遊びを行なっていた一方、高校まで続ける割合は5%に満たなかった。それでも野球のルールや楽しみ方を知っており、テレビで「見る」スポーツとして熱中した。そうして巨人戦のテレビ視聴率は1970年代後半から平均20%を記録し、多少の増減はあれども2000年まで同等の数字を維持している。
 しかし、イチローがMLBに移籍した2001年に年間平均15.1%を記録すると、徐々に下落していく。遂には地上波から姿を消し、同時に「見る」スポーツとしての野球は日本で存在感を薄めている(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東)。
 そうした環境で生まれ、野球少年は減り続ける一方、子どもの頃に野球を選択した少年の1割が高校生になっても野球を続けている。「する」スポーツとしての野球は、いまだ一定の支持者がいると言える。
 では、残り9割の高校生はどうだろうか。子どもの頃に触れなかった野球を大人になり、「見る」ようになる割合が高まるとはなかなか考えにくい。彼らが就職した後、可処分所得を有料放送中継観戦に使う割合は減っていくはずだ。そうしてプロ野球は収入を減らすと、現在のような規模を維持するのは難しくなる。
人々が野球離れを起こしたのはテレビの影響が大きい。
デーゲームの中継がなくなり、ナイター中継もなくなり、プロ野球ニュースもなくなった。
昔なんかオープン戦を中継していたんだぜ。サンテレビ(兵庫県のテレビ局)なんてタイガース戦の中継を再放送してたんだぜ。スポーツ中継の再放送って。今じゃ信じられん。

みんなが野球を観なくなったからテレビ中継がなり、テレビ中継がなくなったことで野球はますます観られなくなった。
野球は「テレビをつければやっている」スポーツではなくなり、「お金を払ってわざわざ観にいかないといけない」スポーツになった。

『野球消滅』ではその原因をいろいろ挙げているのだが……。


ちょっと待てよ、と言いたい。
筆者は野球ファンとして「日本人の野球離れ」の原因をあれこれ考えているけど、ぼくからすると理由はひとつだ。

今までがおかしかっただけ。


だってそうでしょうよ。
子どもたちが集まれば野球をし、中学高校では健康な男子は野球部に入って丸刈りにし、テレビでは昼も夜も野球を流し、他の番組をつぶして野球を流し、野球が延長すればまた別の番組をつぶし、ついさっき中継が終わったところなのに夜のニュースでは野球の結果を長々と報じ、翌朝のニュースでも野球の話題を報じ、会社ではおっさんたちが野球の話に興じている……。
どう考えたってそっちのほうが異常な世界でしょ。昭和の人間、どれだけヒマなんだよ。もっとやることなかったのかよ。なんで一スポーツの地位がそこまで高いんだよ。

しかも野球をやるには高価な道具が必要で、グローブ、ミット、バット、ボール、ベース、スパイク、プロテクターをそろえれば数十万円かかる。
専用のスタジアムも必要だ。野球場は特殊な形なので基本的に野球しかできない。サッカースタジアム兼陸上競技場のように、他の競技との兼用はむずかしい。
ボールは遠くまで飛んでいくし当たると危険なので周囲に民家や道路のある場所でやるためには高いフェンスがいる。
試合をするためには最低十八人の選手が必要で、控え選手、審判、監督を入れたら三十人近くはいないと成立しない。
費用、人数、場所などゲームをするまでのハードルがとにかく高い。

野球自体は嫌いじゃないけど「野球を好きにならないなんて何かがおかしい!」という傲慢さを見せつけられると「そういうとこだぞ」と言いたくなる。
野球離れに理由なんてなく、適正値に近づいただけなんだよ。



この本の中では、子どもを野球から遠ざける原因、それに対する提言も書かれている。
怪我をするまで選手を酷使することとか、うまい子(というより早熟な子)ばかり起用されてそうでない子に出番がまわってこないこととか、野球をやるために金銭的・時間的なコストが大きいとことか。

中でもぼくが大きくうなずいたのはこれ。
 現在の日本野球界の問題は、勝利至上主義のチームばかり存在していることにある。第三章で「高校野球の二極化」について取り上げたが、勝亦准教授は高校野球のそもそものあり方について指摘する。
「高校野球の二極化という話になるのは、『強い・弱い』という軸だけで見るからです。そこにもう一つのY軸をつくって、例えば『競技性が高い・レクリエーション(楽しむことを重視)』という軸があるとします。そうなると、『うちはレクリエーションがすごく高くて、同時に強いチームを目指そう』というチームが出てきます。チームが2軸のマトリクス表の中でどの辺に位置しているかがわかると、子どもたちは選びやすいし、自分はどこで野球をやりたいかをもっと考えるようになると思います。
 今は『甲子園優勝』という軸しかなく、その軸から離れた人が軟式野球をやっていたりしますよね。だから、選択肢を増やせばいい。子どもたちが自分の進路を考えるという意味でも、高校野球こそ理念が大事だと思います」
そうなんだよねえ。中学高校ぐらいで「楽しく野球をやる」環境がないんだよね。

ぼくが高校に入学した時。
ぼくは野球が好きだった。だが野球部には入りたくなかった。体育会系のノリも厳しい練習も丸坊主も休みの日の試合も朝練もなにもかもイヤだったからだ。
ソフトボール同好会があったのでそこに入ろうかとおもったのだが、顧問の先生から「うちは女子だけ。男子は野球部に入りなさい」と言われた。
しかたなくぼくは野外観察同好会に籍を置き(活動は半年に一回)、放課後友人たちと公園で野球の真似事をして過ごした。

勝たなくていい、そんなにうまくならなくていい、だからきつい練習をしなくていい、練習は楽しいのだけでいい、気軽に休んでいい、気が向いたときに参加するだけでいい、手を抜いてもいい。
そういう場がないんだよね。

大人になってから草野球チームに助っ人として何度か参加したことがあるが、そこでもやはり勝利至上主義が幅をきかせていた。
ぼくらのチームは半数近くが野球未経験者だったので適当に楽しくやっていたのだが、相手はすごくいいバットを使って、へたなぼくら相手にも全力でプレーして(キャッチャーが野球未経験者なのに盗塁までしてくる)、味方のエラーや凡退には容赦ない罵声を飛ばしていた。
ああいやだ、なんで楽しく野球をできないんだろう。「ちょっと力の差があるのでそっちの攻撃時は6アウトで交代にしましょう」とかあってもいいのに。


今までが人気スポーツだったから、「野球は野球道だから楽しくなくていいんだよ。厳しい練習についてこれないやつはやらなくていいよ。やる気がないならやめちまえ」って言ってきたのが野球の世界なんだよね。
それで「じゃあやめます」って子どもが増えてきて、今になって「えっ、ちょっと待って、ほんとにやめるやつがあるか」ってあわててるのが今の状況。ざまあみろとしかおもわない(野球という競技自体は好きなんだよ、ほんとに)。

著者はあれこれ改善提案を挙げているけど、まず野球界(特に学生野球)は悪い意味で伝統ある組織だからなかなか変われないだろうし、仮に変わったとしても野球が国民的人気スポーツになる日はもう来ない。

過去の栄華にすがって見苦しくあがくよりは、さっさと「一部の愛好家からの人気の高いスポーツのひとつ」に舵を切るほうがまだうまくいく可能性が高いんじゃないだろうか。
今のラグビーやテニスみたいに。
ま、無理だろうけど。

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2020年1月9日木曜日

【読書感想文】河童の魔導士のソムリエ / 岸本 佐知子『ひみつのしつもん』

ひみつのしつもん

岸本 佐知子

内容(e-honより)
奇想天外、抱腹絶倒のキシモトワールド、みたび開幕!ちくま好評連載エッセイ、いよいよ快調な第三弾!

何度も書いてるけど、ぼくがいちばん好きなエッセイストが岸本佐知子さん(本業は翻訳家だけど)。
とはいえはたしてこれはエッセイなのか……?
元々嘘成分のほうが多いエッセイを書く人だったけど、最近その傾向がよりいっそう強くなり、この本に収録されている話など妄想のほうが多いぐらい。どこまでが真実でどこまでが嘘かわからないのが魅力なんだけど、とはいえさすがに嘘がすぎないか。
もう短篇集といったほうがいいかもしれない。

ぼくが特に気に入ったのは、

粗末な部屋にあこがれるあまりマーラーの作曲小屋をのっとる『大地の歌』

劇場で目にしたボブとサムがいつのまにか脳内に居すわってしまう『カブキ』

物干し竿が壊れて中からドロドロの液体が流れるのを目にしたとたんに自我の分裂がはじまる『洗濯日和』

……そうだね、意味わかんないね。
でも説明しようがないんだよね。岸本さんの摩訶不思議なエッセイって。
読んでくれというしかない。

すごいなあ。こんなキレのある文章書きたいなあ。思いつくままに書きなぐってるようで綿密に構築してるんだろうなあ。
本業の翻訳をしながら、ようやるわ。


 数人でレストランに行った。何かワインを頼もうということになった。
 胸にソムリエのバッジをつけた店の人がテーブルにワインを四、五本持ってきて並べ、端から順に説明を始めた。
 知り合いでも紹介するようにボトルの肩にほんぽんと手を置きながら、「これは○○地方の××という村でしか採れない特別のブドウを使っていて」とか「これは喉ごしはすっきりとしているんですが、後から洋梨とかベリーといった果物系の香りが鼻に抜けて」とか、果ては「じつはここのシャトーは一度経営が苦しくて廃業しかけたんですが、たまたま末の娘さんが結婚した相手が経営学の博士号を持っていて」などといった話まで、一本ずつじつに事細かに懇切丁寧に解説してくれる。
 ソムリエってすごいなあ。さすがだなあ。と思って耳を傾けているうちに、ふいに愕然となった。
 これ、全部作り話なんじゃないか。
 いったんそう気づいてしまうと、もうそうとしか思えなくなってくる。
これは『河童』の書き出しだが、この導入の鮮やかさよ。

「気づいてしまう」って書いてるけど完全に妄想だからね。
ふつうはこんなこと考えないし、考えても一秒で海馬から抹消してしまう。
ここから、ソムリエの正体が河童の魔導士だ、と話が展開していくのだが、うん、そうだね、意味わかんないね。
でもそのとおりなのだから他に説明しようがない。

読んでくれというしかない。

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2020年1月8日水曜日

詰将棋と成功者


六歳の娘が将棋の駒の動かし方をおぼえたので何度か対局したのだが、勝負にならない。
ぼくも決して強いわけではないが、娘の指し方がでたらめなので十枚落ち(つまりこちらは王将と歩兵のみ)でも完勝してしまう。ゲームにならない(ぼくも負けず嫌いなのでわざと失策するような手は指したくない)。

娘の指し方は、とにかく駒を大事にする。歩兵一個でもとられないように全力を尽くす。結果、歩兵を守ろうとして角をとられる、なんてことになる。
あえて駒を捨てるなんてぜったいにできない。

また、せっかく取った駒を使わない。後生大事に抱えている。結果、守りはどんどん薄くなる。
たしかに初心者にとって「駒を打つ」のはむずかしい。盤上の駒が動ける範囲は限られているが、持ち駒を打てる箇所は数十個もある。ルール上は、空いている場所であればどこにでも打てる(歩兵、香車、桂馬には一部制約があるが)。
五種類の駒を持っていれば打てる場所は理論上数百になるわけだから、そこからひとつに定めるのはむずかしい。
ある程度慣れた差し手なら「現実的に意味のない手」ははじめから除外するので選択肢はぐっと狭くなるのだけど、慣れていなければ選択肢がありすぎて混乱する。
「カレーとハヤシライスどっちがいい?」なら答えられても「ばんごはん何がいい?」だと悩んでしまうのと同じだ。

そういやAI将棋ソフトは、「ベテラン棋士なら無意識に除外する手」も含めて検討すると聞いたことがある。
六歳児はAIと同じことをしているのだ。そう考えるとすごいな。すごかないけど。


ということで、「駒の捨て方を身につける」「駒の打ち方を身につける」練習のために、子ども向けの詰将棋の本を買ってきた。
一手詰めや三手詰めの問題を盤上に並べ、娘に解いてもらっている。

詰将棋をやっていると、ぼくも子どもの頃に父と詰将棋をしたことを思いだす。
だが、ぼくはちっとも詰将棋を好きにならなかった(今はわりと好きだが)。
そのわけは、父が出題する問題が難しすぎたことにあった。
父は新聞に載っている詰将棋の問題をぼくに解かせようとした。好きな人なら知っているとおもうが、新聞に載っている問題はけっこう難しい。七手詰めとか九手詰めとか。そこそこやっている人でもじっくり考えないと解けないレベルだ。
とうぜんぼくはさっぱり解けなかった。まちがえたとしてもどこでまちがえたのかわからない。七手目がちがったのか、五手目がまずかったのか、三手目が誤っていたのか、それとも初手からやりなおすべきなのか。
七手詰めだと可能性がありすぎてちっともわからない。娘の本将棋と同じ、「選択肢がありすぎてわからない」状態だった。

その経験を踏まえて、まずは一手詰めの問題ばかりを娘に出している。
一手詰めだと王手の方法は四通りぐらいしかない。これはダメ、これもダメ、これもダメ、じゃあこれだ。ってな具合に総当たり消去法でも答えが出せる。
娘がまちがえるたびにぼくは「それだと王様はここに逃げるよ。じゃあここに逃げられないようにするためにはどうやって王手をすればいいかな」とヒントを与えてもう一度指してもらう。
いろんな問題に挑戦しているうちに、娘の腕も少し上がってきた。

困るのは、娘がいきなり正解を出してしまったとき。
じっくり考えてあらゆる可能性を検討した上で正解を導きだしたのであればたいへん喜ばしいことなんだけど、そうではなく、何も考えずに指した手が正解だったとき。

正解なので褒めてやる。
で、その上で「そうだね。たとえばこの手だったらこう逃げられるからダメだもんね。こっちに行った場合はこう逃げられるしね」と説明する。
……のだが。
後半の台詞を娘はぜんぜん聞いてくれない。
「やったー! さっ、正解したから次の問題!」
という感じで済ませてしまう。
ぼくが「なぜこの手がいい手だったのか」を説明しても「わかってたし」と言って耳を貸そうとしない。

これでは学びが得られない。

ああ、これか、と。
野村克也氏が言ったとされる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」だ。
失敗には原因があるが成功はたまたま成功してしまうこともあるのだ。

成功者は成功の秘訣を真剣に考えない。
スポーツでもビジネスでもそうだ。
なぜ成功したのかをつきつめない。「おれがすごかったからだ」「がんばったからな」で済ませてしまう。他の選択肢を選んでいたらもっと良かったのではないか、他の選択ではどこがだめだったのかを考えない。
真剣に考えるのは今までのやり方がうまくいかなくなったときだけだ(そしてそのときにはもう遅い)。

詰将棋を通して、うまくいっているときこそ他者のアドバイスに耳を傾ける謙虚さを持ちなさいと伝えたいんだけど、まあ無理だわなあ。
だからぼくは、娘がまちがえた手を指してくれることをいつも願っている。


2020年1月7日火曜日

チェーホフの銃

最近のディズニー作品って、すごく人種に配慮してるじゃない。

たとえば『アナと雪の女王2』には肌の黒い兵士が出てくる。
はっきりとは描かれていないけどあの話の舞台(アレンデール王国)は中世の北欧っぽい雰囲気だから、黒人が出てこなくても不自然ではない。というか出てくるほうが不自然。
でも出てくる。
2015年の『シンデレラ』(実写版のほう)にもやはり黒人が出てくる。
どちらも、その役が黒人である必然性はない。「彼は移民の息子だ」みたいな説明もなく、ただいる。

それがいいとか悪いとかは言わない。
おもうところはあるけど、はっきり書くとややこしいことになりそうなのでやめておく。

まあいろんな事情があるのだろう、製作者もたいへんだ。


ところでこの傾向はどこまでいくのだろう。

この「あらゆる人種を平等に」を求めていけば、
「盲人がいないのはおかしい」
「どうして知的障害者が出てないのか」
「これだけの人がいれば同性愛者だって一定数いるはずだ」
「くせ毛の登場人物が少なすぎないか」
「どうしてこのミュージカルには音痴の人が登場しないんだ。現実には一定数いるはずなのに」
みたいな話になる。まちがいなく。

で、「いろんな人種の人をまんべんなく登場させろ」という声に抵抗しなかった製作者は、そういった声に反論することができない。だって前例に倣えば従うしかないんだもの。


演劇界には『チェーホフの銃』という言葉がある。
劇作家のチェーホフが「舞台に銃を置くのであればその銃は劇中で必ず発砲されなければならない」と語ったことに由来する。

つまり「意味ありげなものを出すなら必ず使えよ」「なくてもいいアイテムはなくせ」ということだ。
あえて意味ありげなものを置いて使わないことで観客の予想を裏切るというシチュエーションもあるだろうが、それはそれで「観客をミスリードする」という効果がある。

使われない、ミスリードにもならないアイテムなら使うな。観客が余計なことを気にするから。
ルールというより、「芝居をおもしろくするために守ったほうがいいこと」だ。

政治的な配慮のためだけにストーリーに関係のない属性の人をむやみに登場させた映画は、[発砲されない銃]や[昇られないハシゴ]や[撮影されないカメラ]だらけの映画だ。

その先にあるのは、[観られない映画]なんじゃないかな。


2020年1月6日月曜日

ノーヒットノーランの思い出


今から15年前のこと。
当時つきあっていた彼女(今の妻)と甲子園球場に行った。

ぼくは高校野球が好きで、毎年甲子園球場に足を運んでいた。
彼女のほうはテレビ観戦すらしたことがないぐらい野球に無関心。「一回ぐらい球場の雰囲気を知っておきたい」というので一緒に行くことになった。

2004年3月26日のことだ。
ぼくらは外野席に座り、東北ー熊本工の試合を観戦した。
特にこの試合を選んだ理由はない。二人の予定があったから。それだけ。
東北にはダルビッシュ有投手がいた。当時から注目されていたので、東北側スタンドは客が多いだろうとおもい、あえて逆の熊本工側のスタンドに座った。

熱心な高校野球ファンならピンときたかもしれない。
そう、ダルビッシュ投手が熊本工相手にノーヒットノーランを成し遂げた試合だ。

五回ぐらいからスタンド全体が「おいおいまだノーヒットだぞ」という雰囲気になり、七回、八回になると「まさか……」と観客席全体が浮足立ち、九回には全員が固唾を飲んで見守っていた。
もちろんぼくも大興奮。
「まさかノーヒットノーランを目の前で観れるなんて……!」と色めきたっていたのだが、ふと傍らの彼女に目をやると、なんともつまらなそうな顔でグランドを眺めている。

「このままいくとノーヒットノーランっていう大記録になるんだよ! 十年に一度ぐらいしか達成できないすごい記録! 1998年には横浜高校の松坂大輔が決勝で……」
とぼくは熱く語ったのだが、彼女は「ふーん。すごいねー」と気のない返事。

そこでぼくは気づいた。
そうか、ノーヒットノーランのゲームは野球に興味のない人にとってはすごくつまらないゲームなのだ。

ぜんぜん得点が入らない。ほとんどランナーも出ないから盛りあがりどころもない。おまけに熊本工側のスタンドに座っているからすぐ隣のアルプススタンドはお通夜のような状態。
野球ファンにとってはたまらないノーヒットノーランも、ルールもよくわかっていない人にとってはほとんど動きのない退屈な試合。
シーソーゲームの末に8対7でサヨナラ、みたいな展開であればルールがよくわからなくても楽しいのだろうが。

とうとうダルビッシュ投手はセンバツ大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成。
感動に打ち震えるぼくと、つまらなそうにあくびをする彼女。その大きな温度差によって巨大な上昇気流が発生した……。



東北ー熊本工の試合だけ観て帰り、その後も彼女と球場に行ったことはない。
退屈なゲームに懲りたのか、二度と野球場に行きたいということはなかった。

ということでぼくの妻は、「ノーヒットノーランゲームしか野球の試合を観たことがない」というめずらしい人間だ。

2020年1月3日金曜日

娘と銭湯

六歳の娘とよく銭湯に行く。

娘は銭湯が好きだ。
風呂も好きだし、水風呂も好きだし、お湯と水がいっぺんに出るシャワーも好きだし、風呂上がりに牛乳やジュースを買ってもらうのも好きだし、それを飲みながらテレビを観るのも好きだ。

三歳ぐらいのときから何度も銭湯に連れていった。
妻はあまり公衆浴場が好きではないので行くときはたいていぼくと二人。
娘の友だちを連れていったこともある。幼児六人の面倒を一人で見たときはさすがにゆっくり風呂に漬かるどころではなく閉口した。

ぼくにとっても楽しい「娘との銭湯」だが、もうそろそろ行けなくなる。娘を男湯に入れることに気が引けるからだ。
条例では十歳ぐらいまでセーフだそうだが、さすがに十歳の女の子を男湯に連れていくのはまずいとおもう。自身も嫌がるだろうし。

六歳の今でも、「娘の身体をじろじろ見るやつはいねえだろうな」と周囲に目を光らせ、娘が歩くときはさりげなく前に立って身体を隠し、脱衣場ではすばやくタオルを巻きつけ、なるべく娘の身体が人前にさらされないように配慮している。

「娘を男湯に連れていくのは小学校に入るまで」と自分の中で決めている。
こうやっていっしょに銭湯に浸かれるのもあとわずかだなあ、と少しさびしい気持ちになる。


そんなふうにして、娘といっしょにできることが少しずつ減ってゆく。
手をつないで歩くとか、いっしょに公園で遊ぶとか、肩車するとか、おんぶするとか、寝る前に本を読んでやるとか、手をつないで寝るとか、娘の友だちの話をするとか、娘から手紙をもらうとか、髪をくくってやるとか、ピアノの連弾をするとか、朝起こしてやるとか。
今あたりまえのようにやっていることも、あるとき、娘から「今度からは一人でやるからいい」と言われて終わる。
(肩車やおんぶに関してはぼくのほうからギブアップする可能性もあるが)

いや、そんなふうに終わりを告げられるならまだこちらも感慨深く受けとめられる分まだいい。よりさびしいのは「気づけば終わっている」ケースだ。たぶんこっちのほうがずっと多い。

ふと「そういや最近娘と手をつないでないなあ」とおもう。最後につないだのはいつだったっけ。おもったときにはもう「最後のチャンス」は永遠に失われている。
「これが最後」と感じることもなく。
今までだって、おむつを替えるとか自転車の後ろを持って支えてやるとか、「これが最後のおむつ替えだな」とか意識することもなくいつのまにか終わっていた。今後もそうなのだろう。

娘の中でのぼくの居場所がちょっとずつ削りとられてゆく。娘もぼくも気づかぬまま。
あたりまえなんだけど、やっぱり寂しさはぬぐえない。
死ってある日突然訪れるものではなく、ちょっとずつ死んでゆくものなんだろうな。ぼくは今もゆるやかに死んでいっている。