「〇〇の壁」で調べてみた。
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| 4歳の壁 |
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| 6歳の壁 |
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| 小1の壁 |
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| 小2の壁 |
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| 小3の壁 |
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| 小4の壁 |
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| 小5の壁 |
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| 12歳の壁 |
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| 中1の壁 |
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| 中2の壁 |
これだけ壁が続いてたら逆に平坦じゃないか?
飛行機に乗っている人のなかで、いちばんおしゃれに気を遣っている人は誰でしょう?
(答えはこの記事の最後)
笛の定義とはなんだろう。「息を吹くことで音が鳴るもの」といったところだろうか。単純なものでいえばホイッスルや指笛、指を使って音階を変えられるリコーダー、フルート、オカリナ、ハーモニカ(ハーモニカは指を使わなくても音階を変えられるけど)などももちろん笛だ。ここまで異論はあるまい。
サックスはどうだろう。でかいけど、あれも笛と呼んでいいんだろうか。笛と呼んでいる人を見たことはないが。
調べたところ、トランペットやトロンボーンは唇を震わすことで音を鳴らすので金管楽器、サックスは息を吹きつけることで音を鳴らすので笛の一種、フルートは金属でできていても金管楽器ではない、という解説が見つかった。
……ぜんぜんわかんない。金管楽器を演奏したことがないのでちっともわからない。トランペットも吹くんじゃないの? 唇を震わせてフルートを奏でたらその瞬間に笛から金管楽器に変わるのだろうか?
鍵盤ハーモニカはどうだろう。あれも人が吹くことで音が鳴るが、笛と言っていいのだうか。アコーディオンはどうだろう。風の力で音を奏でているから笛だろうか。
三大・落語好き以外にも知られている有名な落語といったら『寿限無』『饅頭こわい』『時そば(上方落語では時うどん)』だろう。
筋がわかりやすいしインパクトがある。日常会話で「寿限無か!」「饅頭こわいみたいなことね」と言ってもほとんどの人に伝わるだろう。
他の古典芸能では「タイトルは広く知られている」はあっても「興味のない人にもストーリーまで知られている」まではあまりないんじゃないかな。ぼくは『義経千本桜』とか『白鳥の湖』とか『オペラ座の怪人』とか『キャッツ』とかはタイトルは知っていてもストーリーはぜんぜん知らない。
なぞなぞの答え:副操縦士(服装重視)
とあるシステムが「和暦の数値部分のみ」を使うよう設計されていた(例:令和8年3月であれば「0803」と表す)。
なんて想像力のない設計だろう。和暦の場合、1年の翌年が1年になることも理論上はありうる。不謹慎と言われようがそこまで想像してシステム設計するべきじゃないか。
男子高校生の「なりたい職業」ランキング第9位に「投資家」が入ったそうだ。
投資家って職業か? 「筋トレしてる人」や「読書家」と同じで、仕事とは別でやるもんだろう。他の仕事をせずに投資のリターンだけで食ってる人は無職だ。
言うまでもなく、高校生がなりたい「投資家」は「儲かっている投資家」だろう。それって「宝くじ高額当選者になりたい」と同レベルの戯言だろう。
「大相撲公式ファンクラブに年間三万円払って会員になってるのに大相撲のチケットが当たらない! 外国人客やツアー客が増えてるせいだ!」
と書いている人がいた。
気持ちはわかるが、井の中の蛙すぎる。
「道楽の中でも相撲のタニマチほど金がかかるものはそうはない」なんて話を聞く。年に数百万、数千万をポンと出す人がめずらしくない世界らしい(もっと出す人もいるのかもしれない)。
年間三万円は一般的には安くない額だけど、好角家の世界では下っ端も下っ端、とても「三万円も出してるんだぞ!」とでかい顔できる額じゃない。昭和時代からそうだ。外国人客やツアー客は関係ない。
「銀座のクラブで三万円出したのに特別扱いしてもらえなかった!」って言うようなもので、特別待遇してもらいたいんなら戦う土俵を変えたほうがいいよ。相撲だけに。
海外の本を読むと、章のはじめにどうでもいいフレーズが引用されていることがある。こんなやつ。
本題とまったく関係ないわけじゃないけど、あんまり関係のない引用。あってもなくてもどうでもいい引用。
学術的な本なのに聖書から引用していたり、『マザーグース』や『不思議な国のアリス』のような子ども向けのお話から引用していたり。海外の本の文化なんだろう。シェイクスピアとかもよく引用されているイメージだ。
あれを書くために著者はけっこう労力を割いているんだろうな。いろんな小説とかを引っ張り出してきて、章の内容にちょっとでも関係のありそうな文章を探しているんだろうか。それだけで何時間もかかりそうな気がする。あってもなくてもどっちでもいい引用なのに。息抜き的にやっているんだろうか。
日本で「あってもなくてもいい章のはじめの引用文」をやっている人はあまりいない。宮部みゆきとか伊坂幸太郎がやってた気がするけど、ノンフィクションではまず見たことがない。
日本の研究者もやったらいいのにね。それも海外のかっこいい小説じゃなくて、もっとどうでもいい文章を引用して。
おお、くだらない文章でもなんかそれっぽくなるな。
ドラえもんの道具ってすごく危険だよね。
これ使いようによっては大けがするぞとか、死んでもおかしくないぞとかいうものもあるし、もっといえばこれ下手したら人類滅亡させちゃうじゃん、地球消滅しちゃうじゃん、みたいな道具もある。
こんな危険なものを勝手に使ってたら22世紀の世の中はめちゃくちゃになっちゃうぞ、と心配してしまう。
まあ漫画だから。しょせんまだ見ぬ22世紀の話だから。
じゃあ。
21世紀の我々が使っている道具ははたしてそんなに安全なんだろうか。
たとえば自動車。使いようによっては自分や他人の命をかんたんに奪ってしまう。
たとえばインターネット、たとえばスマホ。使いようによっちゃあ国がひっくりかえるほどの影響を与えることもできる。
数世紀前の人間が21世紀の道具を見たら「そんな危ないものをそのへんの人たちがあたりまえに使ってて大丈夫なのか!?」とびっくりするかもね。
「大の里関」のように、関取は「関」をつけて呼ぶ。
こんなふうに特定の職業にだけつく敬称って他にあるのだろうか(〇〇大臣、〇〇名人、〇〇師匠のように肩書そのままの敬称を除く)。
朝はEテレの子ども番組を観ている。平和な気持ちで一日をスタートできるからだ。
だがオリンピックのフィギュアスケートのせいで番組がつぶれた。『みんなのうた』も『プチプチ・アニメ』も『ピタゴラスイッチ』も『0655』も『The Wakey Show』も。
競技のせいで番組がつぶれるのはまだ許そう。だが競技が終わって結果が出た後も、リプレイとか選手が喜んでいる様子とかを長々と放送して、そのせいでいくつかの番組がつぶれた。そういうのは生で放送する必要がないだろ! 夜のニュースとかに回せ! それかBSでやれ! それも無理なら総合でやれ! Eテレは聖域であれ!
サツキに面倒な雑務を押しつけるカンタ
「……ん! ……んっ!」
ドラゴンボールのすごさのひとつに「悪役のネーミング」がある。
ふつう悪役って悪そう、強そうな名前をつけたくなるじゃない。濁点多めの。
なのにドラゴンボールの悪役はほとんどが悪役っぽくない名前を持っている。作中ではじめて殺人を犯した桃白白(タオパイパイ)なんて、漢字も音もすごくカワイイ。ピッコロもかわいい。音の響きだけでいえばピッコロの手下であるシンバルとかドラムのほうがよっぽど強そうだ。ベジータとかナッパなんて野菜だぜ。食べ物縛りで悪役の名前をつけるとなったら、ふつう肉の名前をつけない? ビフテキとかボルシチとかケバブとか。野菜をつけようとおもう?
でもセル編はふつうだ。ドクターゲロとかセルとか、いかにも悪役っぽいネーミングだ。まあセル編ってドラゴンボールの中ではちょっと異色だしな。主人公の交代を図っていた時期だし。ふつうすぎて逆に異色。
「議員が秘書を蹴った」とか「議員が大切なものを踏んづけた」といった醜聞の場合も『下半身スキャンダル』と言っていい。
通勤電車で、座席に座っていると目の前にヘルプマークつけている人が立った。席を譲ったら感謝された。
……と、ここまではお互い気分よくなれてよかった話なのだが、どうも譲った相手に顔を覚えられたらしく次の日もその次の日もぼくの前に立ってくるようになった。嫌になったので乗る車両を変えた。
今や「お茶の間」という言葉は「テレビを見ている人のいる場所、またはテレビを見ている人」という意味でしか使われない。
テレビCMで「近畿にいる私たちにお得な情報です!」というフレーズが流れていた。近畿にいない人が考えたのだろう。
近畿の人はまず「近畿の人」と言わない。「関西の人」「関西人」と言う。「近畿」は地理の授業とか天気予報とかで使う“公的な言葉”だ。まず口語では使わない。
(兵庫・京都・大阪に住んだことのある私の実感。ひょっとしたら「近畿」を日常的に使う地域があるかもしれない)
すれちがい際にちらっと耳に入ってきたのでどういう会話だったのかはわからないが
「ふつうのおすもうさんやで」
という声が聞こえてきた。
後からじわじわおもしろくなってきた。ふつうのおすもうさん。ふつうのおすもうさん。
おすもうさん自体が異形の者なのに。
ふとおもったのだが、物干し竿って「干し竿」で良くない?
「物証(物的証拠)」という言葉があるが、こちらの「物」は明確に意味がある。「自白とか証言とか状況証拠ではない物の証拠ですよ」という意味がある。でも物干し竿の「物」には意味がない。竿に干すのは物に決まってる。発言とか概念を干すものだとは誰も思わない。
物差しとか物置とか物思いとか、なくてもいい「物」はたくさんある。
妨害物のことを英語で「jammer(ジャマー)」と呼ぶのはあまりにできすぎている。
スーパーで紅茶を買おうとおもって「茶」のコーナーに行ったのだが、紅茶が見つからない。あちこち探すと遠く離れた「コーヒー・紅茶」コーナーにあった。日本茶と紅茶は別コーナーなのか。
また別の日。食べるラー油を探したが、見つからない。「米」コーナーの近くにふりかけはあるのだが、ご飯のお供(鮭フレークとかごはんですよとか)がない。店員に訊くと、「缶詰・瓶詰」のコーナーにあった。うーん、まあ形状的にはそうなんだけど、客は形状じゃなくて用途で探すんだよなあ。陳列する人と使う人の思考の違いだ。
ジャムも「缶詰・瓶詰」コーナーにあった。絶対にパン売場の近くのほうがいいぜ。
「あーもしもし。何年か前に、そちらの市役所に電話して『クマを殺すな。かわいそうだろ。人間のエゴで動物を殺すな!』ってクレーム入れた者だけど。
ニュース見てて、おれの考えがまちがってたことに気づいたよ。ほんとに申し訳なかった」
「嘘つけー! 縁もゆかりもない役所にクレームの電話するやつが己の過ちを認めて反省できるわけないだろー!」
「りんごを収穫するところを思い浮かべてください」と言うと、りんごが木になっているところをイメージできる。
だが「桃を収穫するところを思い浮かべてください」だと、頭に浮かんでくるのは桃が川から流れてくる映像だけ。
役者をやってる子どものことを「子役」と呼ぶのは変じゃないか?
「悪役」は悪人を演じる役者、「刑事役」は刑事を演じる役者のことだ。
であれば「子役」かどうかは「芝居による」としか言いようがない。
30歳でも子どもを演じていれば子役だし、逆に5歳でも大人を演じていれば子役ではない。
役者をやってる子どものことは「子役」ではなくちゃんと「ジャリタレ」あるいは「激イタ親持ちガキ」と呼ぶべきだ。
長年いろんな人間を見てきて得られた真理のひとつに「返事がいいやつはだめなやつ」というものがある。
こちらが何かを注意したときに「はい!」と気持ちいい返事をしてくるやつ。打てば響く、というやつだ。そういうやつは同じ失敗を何度もくりかえす。
なぜなら何も考えずに返事をしているからだ。「この人はどういう意図でこんな注意をしているんだろう」とか「おれの考えとこの人のやり方は違うんだけどなあ」とか「いやそれ逆にあんたがまちがってるだろ」とか何も考えずにとりあえず「はい!」と返事をするくせがついているのだ。
ある種の部活ではこういう人間を育成している。
カーペンターズに『SING』という曲がある。これはカーペンターズのオリジナルではなく、セサミストリートで用いられていた曲のカバーらしい。
これは完全に想像なのだが、きっとカーペンターズが営業の仕事で子どもが多い現場に行って、なかなか曲を聴いてもらえなくて苦労して、子どもウケするようにセサミストリートの曲を歌いはじめたんじゃないだろうか。
以前なんばグランド花月に行ったとき、春休みだったので子どもや学生の客が多く、2丁拳銃が童謡をテーマにした漫才を披露して爆笑をとっていた。きっとカーペンターズも同じことをしていたにちがいない。
同僚の女性が「Googleで『秋服コーデ』で検索するとレディースファッションばかりが表示される。Googleはちゃんとユーザーが女性であることを認識しているんでしょうね」と言っていた。
半分正解だが半分間違いだ。なぜなら秋服とは女性だけが持つ概念で、男の服に秋服なんてものは存在しないからだ。
男の服には夏服と冬服しかない。より正確に言えば半袖と長袖があるだけだ。
夏は半袖。秋は長袖。秋服にアウターを羽織ったら冬服で、冬服からアウターを脱いだら春服だ。
「知識がなくても正解にたどりつけるクイズ」が好きだ。
「アメリカ合衆国の首都は?」という問題は、知っているか知らないかだ。知っていれば答えられるし知らなければ答えられない。それだけ。頭をひねる必要がないからおもしろくない。
ぼくが好きなのは、答えを知らなくても、周辺知識から推理して答えにたどりつけるクイズだ。
お気に入りの「知識がなくても正解にたどりつけるクイズ」を2つ出題しよう。
1. 日本の市町村(東京23区除く)のうち、JRの駅がなく、かつその中でもっとも人口が多い市町村はどこ?
2. ニュージーランドには人間がやってくるまで哺乳類が1種類しかいなかった。その哺乳類とは何か?(ヒント:ネズミではない)
以下、考え方と答え。
引用の引用をすることを「孫引き」といい、原則としてしないほうがよいとされる。
内容が誤って伝わったり、著作権の侵害とみなされたりするからだ。
孫引きとはつまり「知り合いの知り合いから聞いたんだけど……」みたいな話だ。そりゃ信憑性は低い。
が、現実的に孫引きは多くおこなわれている。
たとえばスタンフォード監獄実験と呼ばれる有名な実験がある。被験者を看守役と囚人役に分けて行動させていると、次第に看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしくふるまうようになり、さらには看守役は囚人役に対して暴力をふるうようになった……みたいな実験だ(ただし実験の信憑性にはいろいろ疑いが持たれている)。
有名な実験なので、いろんな本でお目にかかることができる。お手軽心理学とか安っぽいビジネス書にもよく出てくる。
だがそれらの本の著者のうち、いったいどれだけの人がオリジナルの文献を読んでいるだろう。きっと1%もいないだろう。
「こんな実験があるらしいよ」と書いてある本を読み、「へーそうなんだ」と引用して、それをまた別の人が引用して……と、孫引きどころか曾孫引き、玄孫(孫の孫)引き、来孫(孫の孫の子)引き、昆孫(孫の孫の孫)引き……という感じだろう。
もちろんぼくだって原典にあたったことはないので、上で紹介したスタンフォード監獄実験の説明も孫引きだ(めんどくさいので孫引き以下の引用はすべて孫引きと呼ぶことにする)。えらそうに語ってごめんなさい。
ただ、ちゃんとした論文や著作ならともかく、日常会話なら「テレビで言ってたんだけど……」「友だちから聞いたんだけど……」「新聞に書いてあったんだけど……」で十分だ。
孫引きは決して悪いものではない。むしろ「知り合いの知り合いの話」を信じる能力があるからこそ人類は進歩してきたといえるだろう。
三平方の定理の証明方法を知らなくたって「教科書にそう書いてあるから正しいものとして扱う」として定理を使ってもかまわない。ありがとうピタゴラス。
あらゆるものの原典にあたるなんて不可能だし、そんなことをしてたら原典を読むだけで一生が過ぎてしまい新しいものを生み出すことはできない。
なので個人的には孫引きには寛容な立場だ。
ただ「孫引きをするときはちゃんと孫引きであることを記せ」とはおもう。孫のくせに子のふりをするな、ってこと。
具体的にどういうことかというと、White Berryがジッタリンジンの『夏祭り』をカバーして、それを聴いたまたべつのアーティストが歌うときに「White Berryの『夏祭り』をあのアーティストがカバー!」っていう歌番組は許せない、って話。
フロリダ州フォートマイヤーズには「Edison and Ford Winter Estates(エジソン&フォード冬の別荘)」という観光地がある。
ここはエジソンと自動車王ヘンリー・フォードが冬を過ごした邸宅と庭園が保存されている。
ここには「エジソンが一度も泳がなかったプール」として有名なプールがある。
エジソンはこのプールを設計して作らせたものの、自分は水に入ることを好まず、一度も泳がなかったのだそうだ。
このエピソードのおかげで「エジソンが泳がなかったプール」として観光案内やガイドツアーで紹介されているらしい。
すごい話だ。
「○○が××した」で有名な場所は世界中に山ほどある。○○が生まれた家、○○が撃たれた場所、○○が俳句を詠んだ土地……。
だが「しなかった」ことで有名なのはここぐらいじゃないだろうか。
「しなかった」ならなんとでも言える。
日本中にあるすべてのプールは「エジソンが泳がなかったプール」だ。同時に「ジョン・レノンがこの場所で作曲しなかったプール」でもあるし「ジョン・F・ケネディが暗殺されなかったプール」でもある。
「エジソンが一度も泳がなかったプール」はなんてことのないことをすごいことと思わせるのがすごい。
ぼくも「あの織田信長に一度も叱られなかった男」を名乗って生きていくことにしよう。
今年も、場つなぎのためにあたりさわりのない話題を探している日本中の人たちが待ちに待った新語・流行語大賞のノミネート作品が発表された。
ノミネートされた言葉のことは書かない。自分で調べてくれ。
ぼくが調べたのは、選考委員の年齢(2025年11月6日現在)だ。
大塚さんを除いた5名の平均年齢は56.0歳。昭和なら停年退職(昭和時代は定年のことを停年と書いていた)している年齢だ。ちなみに伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したのは44歳だ。
せめて一人か二人は若い人を入れたほうがいいんじゃないかとも思うが、今の50代は昔の50代よりもぜんぜん元気だ。なにより気持ちが若い。なんたって自分たちが世の中の流行について選考できる立場にあると思っているのだ。すばらしい。なんて若いんだ。気持ちは。
ぼくはこの5名の中の最年少である神田伯山さんと同い年だが、とてもとても世間の流行語について物申せる立場にあるとはおもえない。娘たちが学校で仕入れてきた「エッホ、エッホ」とか「チョコミントよりもあ・な・た」とか言っているのを聞いて「なんじゃそりゃ。それのどこがおもしろいんだ」と思っている人間なので、とっくに流行にはついていけていない。それでも小学生の娘がいるだけかろうじて世間一般のおじさんよりはマシなほうかもしれない。
「新語」のほうはニュースを見ていたらなんとなく耳に入ってくるけど、「流行語」のほうはむずかしい。テレビなどで取り上げられるのはとっくに流行のピークを過ぎて収束に向かってからの場合がほとんどだからだ。新奇な言葉は若い人、特に学生のような狭いコミュニティに属している人たちが仲間意識を高めるために使いたがることが多いので(ぼくも学生時分は仲間内だけで通じる符丁のような言葉をよく使っていた)、若い人同士の言葉をよく耳にする人じゃないとなかなか耳に入ってこない。
教師や塾講師のように日常的に学生と接する職業の人であれば何が流行しているか知りやすいだろうが、それでも学生が仲間内で使う言葉と大人に対して使う言葉はちがう。若者向けのSNSやYouTube動画にどっぷり浸かっているような“大人としてはちょっとアレな人”でないと流行りにはついていけなさそうだ。
そんな中、50代60代になってもまだ自分が流行語をジャッジする資格があると思える人は、くりかえしになるがほんとにすごい。多くの人が20代半ばぐらいで「ちょっと学生のノリがわからないことが増えてきたな。自分ももう時代の最先端にはいないな」と気づくものだけど、そんなことは感じずに「大人だけど若い人の感性にもついていけるぜ」と思えるなんて、なんという自信だろう。自分の感覚がずれているのではとか、いい歳して若者の流行についていこうとするのは恥ずかしいとか、そんなことは考えないのだろう。そのみなぎる自信、見習いたいものだ。
新語流行語選考委員の先生方の姿勢を見習いたいがとうてい真似できないので、ぼくは「年寄りの冷や水」という旧語を噛みしめて生きていくことにする。
「しばしば」という日本語は、oftenを和訳するときにしか使わない。
「ハードルが高い」という言葉がある。完全に想像だが、元々「~するにはハードルがある(障害がある)」という用法だったのだが「敷居が高い」という言葉と混ざって「ハードルが高い」になったのではないだろうか。
だって「ハードルが高い」は変だから。陸上競技で用いるハードルは、高さが決まっている。男子と女子、110m障害と400m障害で高さは違うが、競技場によって高さがちがうなんてことはない(その点敷居は高さが異なる場合がある)。
陸上の障害走は「一定の高さのハードルを跳び越えながら速く走る」のが目的であって、「より高いハードルを乗り越える」ことが目的ではない。
障害が大きいことを表すなら「ハードルが高い」よりも「高跳びのバーが高い」とか「バーベルが重い」とかのほうが適切だ。
110m障害が110mと半端なのは「ハードルを跳び越える距離の分、100m走よりも10m長くした」かとおもっていたが、どうやらそうではないらしい。
イギリスで「120ヤード・ハードル走」という競技をやっていて、120ヤードが約110mなので110m走になったんだそうだ。ハードルの高さもフィート・インチ基準なのでセンチに直すと半端な数字になるんだそうだ。
へーそうなんだーとおもったが、それはそれで「そもそもなんで100ヤードじゃなくて120ヤードだったんだ」とか「じゃあなんで400m障害のほうは440mじゃないんだ」とか「なんで女子はキリよく100mにしてるんだ」とか「短距離走は男子も女子も同じ距離なのになんで障害だけ男女で距離がちがうんだ」とかいろいろ疑問が出てくる。
韓国に旅行に行った。仁川国際空港付近を少しとソウルをぶらぶら。
以下かんたんな感想。めんどうなので写真は載せない。見たかったら自分で韓国まで見に行ってくれ。
Eテレで朝7時から放送している子ども向け番組『THE Wakey Show』で『地方ソング』という歌が流れている。
都道府県の位置関係を語呂合わせでおぼえるための歌だ(位置をおぼえるのが目的だからだろう、北海道と沖縄だけない)。
(数十年前の動画っぽい画質と横幅だが、この番組のために作られたものだそうだ。なんで古く見せかけているのかは知らない)
どれもなかなかよくできている。歌詞だけここに書く。
よくできている。東京、大阪がどちらも助詞の「と」「を」の1文字で処理されているのは気になるけど、まあ東京や大阪の場所をまちがえる人はそんなに多くないだろうから目をつぶろう。
だが改善すべき点はある。
まずは順番。ほとんどのエリアで、時計回りに都道府県名を歌っている。おかげで位置をおぼえやすい。
が、中国と四国だけは時計回りじゃない。
「山はねっとり 広い丘」を「山はねっとり 丘広い」に、
「姫香る こっちが徳」を「姫香る 徳はこっち」に変えれば、時計回りで歌える。メロディーもくずさなくて済む。
なんでここだけ時計回りにしなかったんだろう。
そしてもうひとつ。省略するのはそっちじゃない、というところがある。
たとえば中国地方の「山はねっとり 広い丘」の「山」は山口県のことだが、「山」がつく都道府県は、他にも山形県、山梨県、富山県、和歌山県がある。同じ中国地方の岡山県にも「山」は入っている。
だったら「山はねっとり」じゃなくて「口はねっとり」にしたほうがいい。「口」がつく都道府県は山口県だけなのだから。
「口はねっとり」だと気持ち悪いから、歌詞の美しさを優先させたのかなあ。でも「口はねっとり」のほうがインパクトあって忘れないけどなあ。
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| 口はねっとり 丘広い |
小学6年生の長女が1年生の次女に「誕生日何がほしい?」と訊いた。次女は少し考えてから「『アラレちゃん』のマンガ」と答えた。
なんでアラレちゃん知ってるの? と訊くと、学童保育に1冊だけ単行本があるのだという。
なるほど。『アラレちゃん』はぼくも子どもの頃にテレビアニメの再放送を観ていた。低学年でも楽しめそうなギャグマンガだ。
数日後、長女が本屋に『アラレちゃん』を買いに行った。
「買えた?」
「ううん、なかった」
「えっ、○○書店でしょ? あそこは漫画がかなり充実してるけどなあ。店員さんに訊いてみた?」
「店員さんには訊いてないけど、検索機があったから調べてみた。でもヒットしなかった」
「そうかー。前に行ったときにあったような気がしたけどな」
その翌週。ぼくと長女がその書店に行ったときに探してみると、『ドラゴンボール』の隣にちゃんと『アラレちゃん』が全巻置いてある。
なんだ置いてあるじゃないか、検索にヒットしなかったとか言ってたのに。
だがすぐに長女が『アラレちゃん』を見つけられなかった理由がわかった。
そうだった。『アラレちゃん』のタイトルは『アラレちゃん』じゃなかった! 『Dr.スランプ』だった。テレビアニメ版では『Dr.スランプ アラレちゃん』だが、漫画版のタイトルは『Dr.スランプ』だけだ。
そりゃあ検索で引っかからないわけだ。これはむずかしい。入手難度G(グリードアイランドと同等)レベルだ。
というわけで、長女は無事に『Dr.スランプ』を買うことができ、次女にプレゼントした。1巻から5巻まで。
次女はむさぼるように読んで、2日で5巻を読んでしまった。おもしろかったらしく、さっそく「んちゃ!」などと言っている。
ぼくも読んでみた。
なるほど、これは子どもにとってはおもしろいだろうな。
奥付を見ると1巻が刊行されたのは1980年だった。今から45年前。でもぜんぜん古くない(今では通用しなくなったネタも多いが)。絵が古びていないし、デフォルメがうまいので読みやすい。テンポもいい。今のギャグマンガよりもテンポがいいぐらいだ。
残念なのはフォント。すべてのセリフが細めのフォントで書かれている。ボケセリフとか強めのツッコミとかも全部細めのフォント。なんかすごく白々しい。今のマンガだったら太字にしたり手書きにしたりするところだ。フォントって大事なんだなあ。
あと驚いたのは、ほとんどルビがないこと。ふりがながふってあるのは、中学以上で習うであろう漢字ぐらい。
ということは小学高学年ぐらいが想定読者だったのだろうか。でも内容的にはウンコとかパンツとかそんなレベルだしなあ。
でも1年生の次女もふつうに読んでいる。たぶん読めない漢字もいっぱいあるだろうけど、だいたいで読んでいる。そういえばぼくも子どもの頃、習っていない漢字を読めることで大人から驚かれた。あれもマンガから得られたものだった。
漢字は表意文字だが表音文字の要素も持つ(たとえば「鉱」という字を知らなくても「広」を「コウ」と読むことを知っていれば「コウ」と読める)ので、初歩的な知識があればそこそこ読めてしまうのだ。読めなくても文脈から推測してだいたいの意味を察することはできる。小説だと文章しか手掛かりがないがマンガだと前後の文章+絵がヒントになっているのでより読解しやすい。ダイナマイトを手にしている絵の横で「やめろー爆発するぞー」と書いてあれば、「爆発」の漢字を知らなくても「ばくはつ」にたどりつくのは難しくない。
最近の子ども向けマンガはほぼすべての漢字にルビが振ってあるが、もうちょっとルビが少ないほうが勉強になっていいのかもしれないな。
『Dr.スランプ』を読んでいちばんおもしろかったのが、本編ではなく、間に挟まれていたおまけマンガ。
鳥山明氏がどんな感じで仕事をしていたのかが描かれているのだが、愛知県の実家に住んでいたため
「まずラフ原稿を描き、コピーを取って空港に行く。航空便でコピーを編集部に郵送。するとその夜編集者(あの有名なマシリト氏)から電話がかかってきて、修正の指示がある。それを踏まえて修正し、アシスタントに手伝ってもらってペン入れをし、再び空港に行って航空便で送る」
というやり方をとっていたそうだ。
そうかー。メールはおろかFAXもなかった時代、遠方の人に急いで絵を見てもらおうとおもったら空港に行かないといけなかったのか……。これを毎週やっていたなんてたいへんだ。
しかしこのやり方だと、修正は一回しかできないだろう。それ以上だと週刊誌連載には間に合わない。たった一回の修正(それも電話での指示)だけであの完成度の高い漫画を毎週仕上げていたのがすごい。
とはいえ漫画家の立場だったら何度も修正を命じられるよりも、一回だけの修正と決まってるほうがやりやすいかもしれない。あらゆることに言えるけど、チェックが増えるとミスは増える。
修正が少ないと自由に描けるし。極端なことをいえば、編集部からの修正の指示をまったく無視して原稿を完成させたとしても、よほどのことがない限り編集部としてはその原稿を掲載するしかなかっただろう。
『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』のあのいきあたりばったりなおもしろさ(読者には先の展開が読めない。なぜなら作者にもわかっていないから)は、鳥山明氏が愛知県に住んでいたからこそ生まれたものなのかもしれない。
カルビーが商品の実質値上げをするらしい。
実質値上げとは、お値段そのままで内容量を減らす「一見値上げに見せずに値を上げる」手口のことだ。
ま、値上げはいい。原料とか輸送量とかも高騰しているからね。値を上げないとメーカーもやってられないだろう。
お値段そのままで内容量を減らすのも、理解はできる。なんだかんだいってもやっぱり値が上がれば売上は落ちるのだろう。
ポテトチップスなんか「もうあんまりおいしいと思わないけど半端に残すのもアレだし、後半はいやいや食べてしまう」こともあるので、内容量そのままで値段を上げるより、値段そのままで内容量を減らすほうがいい面もある(ただあんなに袋に空気をいっぱいに詰めるのはずるいけどな)。
問題はフルグラだ。
カルビーが出しているグラノーラ。我が家ではこれを毎朝ヨーグルトに入れて家族全員で食べている。
あのさあ。フルグラは一回で食べ切るものじゃないわけよ。700gとか入ってるからね。大袋で買って毎日ちょっとずつ使うものなわけよ。
そういうものを「お値段そのままで内容量を減らす実質値上げ」してごらんなさいよ。どうなるとおもう?
そう、ただ単に「なくなるのが早くなって、買う頻度が増える」だけなんだよ。
これまで4週に1回買ってたのが、3週に1回買わなくちゃいけなくなる。
「もうフルグラなくなったのか。この前買ったばかりなのに」とおもいながら。フルグラはけっこう高い。「また買わなきゃいけないのか……」とストレスになる。
正直、ぼくは日用品や食料を買うときときにいちいち値段を見ていない。「だいたい前といっしょやろ」とおもって買っている。だからちょっとぐらい値上げされても気づかない。でも買う頻度が増えるのははっきりわかる。フルグラがそろそろ切れそうだとおもったら携帯のメモに「フルグラ」と打ちこむから。
カルビーさんよぉ!
ポテトチップスはともかくフルグラに関しては素直に値上げしてくれた方が気づかれにくいぞ! 100%の人が「値上げしてもいいから内容量減らすな!」とおもっていることが報告されているぞ(私調べ)。