ラベル エッセイ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル エッセイ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年2月21日金曜日

狂牛病フィーバー


2001年のこと。

BSEなる病気が世間をにぎわせていた。

BSE。正式名称は牛海綿状脳症。日本での通称は狂牛病。

なんともおそろしい病気だ。
牛の脳がスカスカの海綿状(スポンジ状)になるという病気で、当時原因はよくわかっていなかった。その後判明したのかどうかは知らない。

何がおそろしいって、その名前。
狂牛病。狂犬病もおそろしいが「狂牛」はもっとおそろしい。アメリカバイソンみたいなやつが怒り狂って角をふりかざして暴れまわりそう。ドラクエにあばれうしどりというモンスターが出てくるが、あのイメージ。
じっさい狂牛病になったからってそんなことにはならないんだろうけど、でもそれぐらいインパクトのある名前だった。

潜伏期間が長いというのもおそろしかった。感染しても発症するまでに十五年ほどかかるという話だった。
今から十五年後に世界中の人たちの脳がいっせいにスカスカになって狂牛化する……。そんなイメージは多くの人を震えあがらせた(だから狂牛化しないんだってば)。

当時、日本中が狂牛病に大騒ぎしていた。ほんとに。
「牛肉を食べるとヤバい」みたいな話が出回って(きちんと処理されている牛肉は大丈夫だったのだが)、焼肉屋やステーキ屋の経営があぶなくなったなんて話も聞いた。


そんな狂牛病騒動のさなか、当時十八歳だったぼくは高校卒業祝いとして友人たちと焼肉を食いに行った。
風評被害のせいで客の来ない焼肉屋が「食べ放題半額キャンペーン」をやっていた。
金はないけどたらふく肉と飯を食いたい高校生にとっては「いつか発症するかもしれないおそろしい病気」よりも「目の前にある大量の焼肉」のほうが重要だったのだ。

客はぼくたち以外にいなかった。
ぼくらは他の客に遠慮する必要もなく、「狂牛の肉うめー!」「ほっぺたが落ちて脳がスポンジ状になるぐらいうまい!」なんて不謹慎な冗談を言いながら肉を腹いっぱい食べた。

ほんとはぼくも「狂牛病に感染したらどうしよう」という不安を抱えていたが、そのおそろしさをふりはらうための強がりでわざと不謹慎ジョークを飛ばしていたのだった。



あれから二十年弱。
今のところぼくの頭は正常に動いている。たぶん。
多少物覚えは悪くなったが、経年劣化にともなう正常な範囲だとおもう。

あのとき食べた牛肉はぼくに狂牛病をもたらさなかったのだろう。

しかし今でも「赤ちゃんの脳はスポンジのように吸収力がすごい」なんて言葉を聞くとぼくの頭の中に暴れまわるアメリカバイソンが現れてどきっとする。


2020年2月13日木曜日

気の毒な苗字


ぼくの苗字はごくごくありきたりの苗字だ。
日本の多い苗字トップ10に入っている。

めずらしい苗字にあこがれたこともある。
星野とか桜井とか月島とかの美しい苗字がうらやましい。

しかし「苗字をランダムに変えられるボタン」があってもぼくは押さない。
今より悪い苗字になるのが怖いからだ。

親が様々な想いを込めてつける名前とちがい、苗字は「なんでこんなのにしたんだろ」とおもうものがちょこちょこある。

その苗字で生きている人には悪いが、毒島とか大尻とか。
毒島なんて漢字もひどいし読みも「ぶすじま」で二重苦だ。つくづく「毒島じゃなくてよかった」とおもってしまう。ごめんやで。

江口とか。
ぜったいに小学生のときのあだ名は「エロ」で確定だもんな。

大学生のとき、同級生に田尾さんという女の子がいた。
田尾さんはあまり字がきれいではなく、漢字のヘンとツクリが離れてしまう、横に間延びした字を書く人だった。
あるとき友人のひとりが、左右離ればなれになった「尾」という字を見て「田尾さんの毛がはみでてる」と云った。
ぼくは大笑いしながら「名前が田尾じゃなくてよかった」とおもった。

前の会社に毛尾さんというおじいちゃんがいた。
苗字に毛がふたつも入っている。
当人は少し薄毛で、ぼくは毛尾さんに会うたびに「名前はあんなにふさふさなのに」とおもっていた。

もちろん口に出したりはしない。いい大人なので。
でもこれからも江口さんに会えば心の中で「エロ」と呼んでしまうだろうし、大尻さんに会えばこっそりお尻の大きさを観察してしまうのだ。


2020年2月12日水曜日

喪服のバラ売り

仕事で付き合いのあった方が亡くなくなり、お通夜に参列することになった。

葬儀なんて何年ぶりだろう。
ありがたいことに知人の死とはほぼ無縁の人生を送っている。親戚以外の葬儀に出席するのははじめてだ。

たしか喪服があったはず。ついにこれが役に立つ日が……。
あれ。
喪服はある。ジャケットだけ。ズボンがない。

ズボンだけがない。
衣装棚の服を全部調べた。ない。喪服のズボンだけがない。

そんなことあるか?
こないだ着たのいつだっけ。わかんない。喪服なんてめったに着ないから思い出せない。一度か二度しか着てないのに。

この喪服は、高校を卒業するときに母が買ってくれたものだ。
「こういうのが必要になるときも必ずあるから」と云って、数珠や袱紗と一緒に“葬儀セット”を買ってくれた。
さすがは母親だ。
息子が「こういうの」を自分では買わないことをちゃんとわかっているのだ。
もしものときに備えて買っておくなんてことはぜったいにしないし、いざ「必要なとき」になっても
「喪服買わなきゃいけないのか……。黒っぽいズボンとシャツじゃだめかな。なるべく文字が入ってないやつで」
とおもうか
「別の葬式と重なったことにして『葬式の先約があるんです』と云って行くのやめようかな」
と考えるかで、いずれにせよめんどくさいことから逃げようとする人間だということを、母はちゃんと理解しているのだ。すごいなあ。

その、母が買ってくれた喪服のズボンだけがない。

クリーニングの袋には入ってないから、クリーニングに出したわけではない。なによりぼくの性格的に、目に見えて汚れたわけでもないのにクリーニングに出すなんて面倒なことをするわけがない。

いつなくしたんだろう。喪服のズボンだけがどこかに行くなんてことあるだろうか。
前回お葬式に出たときに、ズボンを履かずに下半身パンツ丸出しで帰ってしまったとしか考えられない。
きっとどこかの葬儀場のトイレの中だ。我ながらうっかりさんだなあ。ウケる。

しかし、ないものを嘆いてもしかたがない。
問題は明日のお通夜をどうするか、だ。

時間はあるから、買いに行くことはできる。家から徒歩五分のところに紳士服屋もある。
さすがに結婚して子どもも持った今となっては「黒っぽいズボンと黒っぽいシャツ」というわけにはいかない。

でもなあ。
ジャケットはあるんだよなあ。
両方なくしたんなら潔く買い替えるんだけどなあ。
ジャケットは一回かニ回しか袖を通してないから新品同様なんだよなあ。ぼくは十八歳のときから体型も変わってないからまだ着られるんだよなあ。
このジャケットを紳士服屋に持っていって「これにぴったりのズボンください」って言って買えるのかなあ。むりだろうなあ。喪服のバラ売りやってないだろうなあ。

試しに他のスーツのズボンをあわせてみる。
いちばん黒っぽいの。
うーん。
やっぱりちょっとちがう。喪服は漆黒だけど、スーツは黒といってもちょっと明るいんだよなあ。
妻に訊く。
「これ、上下ちがうってわかる?」

「んー。明るいところでよく見たらぜんぜんちがう。でもまじまじと見なければ気づかないかも。敏感な人なら気づくかもしれないけど」

おお。
なかなかいい手ごたえじゃないか。
これならごまかせるかも。
そうだよな。よく見なきゃ気づかないよな。
それにお通夜って夜だしな。葬儀場って祭壇以外はそんなに煌々と照らさないしな。
うん、いける。
しかも黒ネクタイとか数珠とかの「葬儀セット」はちゃんとあるしな。そっちに目が行くしな。
そもそも誰も「この人喪服の上下そろってなくない?」なんて疑いもしないだろうしな。

よし、これでいこう!
大丈夫だ!


そして翌日。
喪服のジャケットと黒っぽいスーツのズボンでぼくは出かける。
そして玄関先で気づく。
真っ黒の靴がない。
まあこの黒っぽい靴なら……。黒というかダークブラウンだけど……。


2020年2月7日金曜日

カポエラと不倫

幼なじみの不倫

大学生のとき、幼なじみの女の子Sと同窓会で再会した。幼稚園からの付き合いなので色恋沙汰にはならない。いとこのような感覚だ。
Sは大学を中退して今は仕事をしているという。
すぐ近所に住んでいることがわかったので「じゃあ今度ごはんでも行こうよ」と連絡先を交換した。

それっきりなんともなかったのだが数ヶ月後にSから「カポエラに興味ある?」とメールが来た。

カポエラ?
ネットで調べると、南米発祥の格闘技とのことだった。踊るように戦う武術。
奴隷が格闘技をしていると反抗を企図してるとおもわれるので、ばれないように踊りに見せかけたのがはじまり。鎖につながれたままでも戦えるような動きが特徴で……。

興味あるどころかカポエラについて考えたことすら一度もない。

なぜカポエラなのか尋ねると、今度カポエラ教室の無料体験があるから一緒にいかないかという誘いだった。
自分から新しいことにチャレンジするのは苦手だが、だからこそこういう誘いはありがたい。
授業の終わったあとにSと待ち合わせてカポエラ教室に向かった。

行ってすぐに自分が場違いな存在であることに気づいた。
格闘技とはいうものの「カポエラで楽しくダイエット!」的なレッスンで、ぼくと講師の男性をのぞく全員がOLで、いたく恥ずかしい思いをした。
ぼくは他のOLさんたちからSの彼氏だと勘違いされた。「彼氏?」と訊かれて訂正しようかとおもったが、彼氏じゃないならOLの汗のにおいをかぎにきた変態野郎だということになるので訂正はやめておいた。

カポエラ教室の後、Sと食事に行った。
カポエラの話や共通の知人の話で盛り上がり、Sから「彼女いるの?」と訊かれた。
「いるよ。Sは彼氏は?」
「……いるといえばいるかな」
「どういうこと?」
「わたし、不倫してんねん」
「えっ……」

それからSは不倫について語りはじめた。
相手は同じ会社の既婚男性であること、ごくふつうのおじさんでかっこいいわけでもお金持ちなわけでもないけどそういう関係になったこと、相手には子どももいて子どもの写真を見せてくれたりもすること、別れさせるとか結婚するとかは考えてないこと。

かなり赤裸々に語られたのだが、ぼくはまるでテレビドラマのストーリーでも聞かされているような気持ちだった。

目の前の女性は、今は二十一歳の女性とはいえ、ぼくが幼稚園のときから知っている子だ。
幼稚園では一緒に登園し、プール教室に通いたくないと泣き、ぼくのいたずらを先生に言いつけにいっていた子だ。
小学校も中学校も高校も同じだったので、きょうだいかいとこみたいな存在だった。

かつて五歳だったSと、今不倫をしていると語る目の前の女性とがどうしても結びつかなかった。
んなあほな。五歳だったのに不倫なんかするわけないじゃないか。
もちろん世の不倫女性すべてがかつては五歳だったわけだけど、それでもぼくの知っている元五歳児は不倫なんかするわけがなかった。

だいたい不倫をする女って、もっとセクシーで男を手玉に取るようなタイプなんじゃないのか。
中学校の図書室でメガネをかけて小説を読んでいたSと、ぼくの中にある不倫女性のイメージとはほんの少しも重ならなかった。「互いに素」だ。

なぜSがぼくにそんな話をしたのかわからない。
ごくごくふつうの調子で、「最近海外ドラマにハマってるんだー」みたいな調子で、「わたし、不倫してんねん」と語っていた。
きっと、Sにとってぼくはちょうどいい距離感の人間だったのだろう。
家族や友人ほど近すぎず、かといってまったく知らない間柄でもない。不都合になればいつでも連絡を断つことができる。
だからこそ打ち明けられたのだとおもう。

ぼくは、Sの行為を肯定も否定もしなかった。
「へえ」とか「不倫とか現実にあんねんなあ」と間の抜けた相づちを打っていた。



数年後、Sからひさしぶりに連絡があった。
「東欧に行くことになったから挨拶しとこうとおもって」

東欧?
Sからの話はいつも唐突すぎてわからない。

数日後に会うことにし、喫茶店でパフェを食べながら話を聞いた。

結婚することになった、相手の仕事の都合で東欧に行くことになった、となんだかせいせいするというような口ぶりでSは語った。

不倫関係があの後どうなったのかは聞けなかった。
結婚相手は同い年だと言っていたので、不倫相手と結婚したわけではないことだけは確かだった。

「しかし外国に住むなんてたいへんやなあ。子どもができてもかんたんに親に手伝ってもらうわけにもいかんやろし……」
と話すと、Sは云った。
「子どもはぜったいにつくりたくない」
その強い言い切りように、ぼくは「なんで?」と聞けなかった。
聞けばどういう答えが返ってくるかはわからないが、その答えがおそろしいものであることだけはわかった。



それから数年。
お正月に実家に帰ったら、母から「Sちゃん離婚したんだって」と聞かされた。

その言葉がずしんと響いた。
驚いたのではない。むしろ納得感があった。落ちつくべきところに落ちついた、という感覚。
ビールを一気に飲んで、しばらくしてから溜まっていた炭酸が大きなげっぷとなって出てきたときのような。

よく「不倫するような女は将来結婚しても幸せになれない」という言葉を聞く。
それは事実というより願望なのだろう。他人を不幸にしていい思いをしたんだからしかるべき罰を受けてほしい、という願望。
「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる」と同じだ。

Sの離婚の原因がなんだったのか、ぼくは知らない。
Sが過去にしていた不倫と関係あるかどうかもわからない。きっとS本人にもわからないとおもう。

Sが「罰を受けた」という見方には賛成できない。
Sに与えられたのは、罰ではなく解放だったんじゃないかとぼくはおもう。
離婚を決めたときのSの心に「ああよかった」と安堵する気持ちがちょっとはよぎったんじゃないかと想像する。これで過去の不倫がチャラになる、というような。

なぜなら、ぼくも似た感覚を味わったからだ。
ぼくが不倫をしたわけではない。
でも、Sから不倫をしているという報告を受けたことで、それを咎めなかったことで、Sが不倫をしているということを誰にも言わずに自分の胸に秘めていたことで、知らず知らずのうちにぼくも共犯者になっていたのだ。
まるでぼくがSの不倫相手の家族を苦しめているかのような。

それが「Sが離婚した」と聞かされたとき、ようやく解放された。だからこうして書くこともできる(これまでは匿名であっても書けなかった)。

もちろんSが離婚したことと、Sが結婚前に不倫をしていたこととは無関係だ。不倫の罪(罪だとするなら)が消えるわけではない。
でも、ぼくの中では相殺された。打ち消しあって完全に消えてしまった(当事者でないからなんだろうけど)。


Sに対して、よかったなと言いたい。
皮肉ではなく本心から。

ずっと不倫の過去という鎖につながれたまま戦ってただろうけど、ようやく自由になれたな。
もうカポエラはしなくていいんだよ。


2020年2月6日木曜日

「無難」を選ぶ生き方

娘の通う保育園のすぐ横に園長先生の住宅があるのだが、今朝その前に救急車が停まっていた。
何かあったのかとおもったが、救急隊員たちもあわてている様子はない。しばらくすると救急車はそのまま走り去った。大したことはなかったようだ。

保育園に入ると、男の子がぼくに向かって言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

すると横にいた保育士が「そういうことを大きな声で言ったらあかん」と言った。

また別の女の子が言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

保育士がきつく叱る。
「そういうことを言ったらだめでしょ! まだはっきりわかんないのに!」


聞いていたぼくはおもう。
「保育士さんの言わんとすることはわかるけど、その言い方では子どもに伝わらないだろう」と。



まず抽象的すぎる。
「そういうことを言ったらあかん」と言われたって、五歳ぐらいの子には「そういうこと」が「どういうこと」なのかわからないだろう。

保育士は「不確かな情報を広めるな」「仮に真実だとしても本人が隠したがる情報かもしれないのだからむやみに広めるな」と言いたいのだろうけど、「そういうことを言ったらあかん」の一言で五歳児が理解できるわけがない。

なにしろ言ってる子どもに悪気はないのだから。
ただ園長先生の家に救急車が停まっているのを見た。だから怪我か急病が発生したにちがいない。それしか考えていないのだ。
「さっき猫が園庭に入ってきてたよ」とか「明日雪が降るんだってー」とかと同じぐらいの意味合いで「園長先生の家で事故があったんやでー」と言っているのだ。
園長先生をおとしめようとしているわけではないのだ。

もちろん「今の時点でむやみに話を拡散すべきでない」というのはわかる。
ぼくが大人だから。

ぼくが園長先生だったら、「階段から落ちて脚の骨を折った」ならどうせ近いうちに明らかになることなのだから広められたっていい。
でも「興味本位で便座を下げずに便器に腰をおろしてみたらすっぽりはまってしまって抜けだせなくなって救急車を呼んだ」なら恥ずかしいから広めないでほしい。
だから本人が言うまでは話を広げるべきではない。大人のたしなみだ。

しかしいずれにしても
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
ことを五歳児に理解させるのはむずかしいだろうな。



ぼくが中学一年生のとき。
クラスにSさんという休みがちな女の子がいた。毎週のように休む。出席したときは明るくてまじめな子だったので、サボっているわけではなく身体が弱かったのだろう。

その日もSさんは休んでいた。三日連続だ。
日直だったぼくは、日誌の [欠席者] の欄にSさんの名前を書いた。そして余白に「三日連続!」と書いた。

翌朝、担任から職員室に呼びだされた。
ぼくには呼びだされた理由がさっぱりわからなかった。担任から日誌を見せつけられても、やはりわからなかった。

「こんなこと書いて、Sが読んだときにどういう気持ちになるかわからんのか?」
と叱られた。
ぼくにはわからなかった。心から。
だって「三日連続!」は事実を書いただけだったのだから。Sさんを傷つけようという意図はまったくなかったし。
仮にぼくが三日連続欠席したときに同じことを書かれたらどうだろうと想像してみても、やっぱりぜんぜんイヤじゃなかったから。

「三日連続!」をSさんが見たら、イヤな気持ちになっていたかもしれない。イヤな気持ちにならなかったかもしれない。
それは誰にも分からない(「三日連続!」は担任に叱られてすぐ跡形もなく消したのでSさんの目には触れていないはず)。

今ならわかる。担任の言いたかったことが。
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
処世術としては正しい。
今のぼくが担任だったとしても「書かないほうがいいんじゃない?」という。「たとえSさんを傷つけてでも書かずにいられないことならむりには止めないけど、そこまでじゃないでしょ? だったらやめといたほうが無難だよ」と。

しかし「無難」を選ぶには人生経験がいるんだよね。
中学一年生のぼくにはできなかった。
もちろん五歳児も無理だろう。


2020年1月31日金曜日

リュックあいてる


電車で前に立っている女性が背負っているリュック。
リュックの口がちょっとあいてる。
腕一本が余裕で入るぐらい。


不用心だな、とおもう。
でもそれだけ。何もしない。
勝手にファスナーを閉めたらスリや痴漢とまちがわれるかもしれない。
かといって声をかけて教えてやるほどでもない。全開になってて中のものが落ちそうになったらさすがに教えるけど、そこまででもない。ちょっとあいてるだけだもの。

ここは見て見ぬふり。
それが大人の処世術。

しかし意識はずっとそこにある。
いやもうとっくにリュックの中に腕をつっこんでいる。まさぐっている。
腕をつっこんで、これは手帳、これは携帯電話、これは化粧ポーチ、これは財布、中には札が四枚。たいしたことないな。
しかし狭いな。ちょっと物を乱雑に詰めこみすぎなんじゃないか。

いつのまにかぼく自身がリュックの中に入っている。
暗いけど中が見えないほどではない。なぜならぼくの頭上、リュックの口があいているから。
スマホの上に立ってあたりをみわたす。壁がきたない。このリュック、けっこう使いこまれている。このペットボトルはいつのだ。なんかにおうぞ。
たいしたものは入ってないな。お嬢さん、今度からは気をつけなよ。悪い人だったら財布を盗んだり個人情報を手に入れたりしてたぞ。ぼくだからリュックの中に入りこむだけで済んだけど。


ふいに、背後から肩を叩かれる。

ひっ。ぼくはあわてて意識をリュックから出し、肉体に戻ってくる。
まずい、勝手に他人のリュックに入ってたことがばれたのか。
おそるおそる振り向くと、後ろの男性が言う。

「リュックあいてますよ」

2020年1月30日木曜日

ロンパース紳士

君はロンパースを知っているか。

ロンパース。あかちゃんの正装。
シャツとパンツが一体になった肌着。

シャツとパンツがくっついていたらいったいどこから着るのか。
心配ご無用。股のところがあいているので頭からかぶせ、最後に股の下についたホックをポチンポチンと止めれば完成。

これを着せると、ザ・あかちゃんになる。どこからどう見てもあかちゃん。これでもううっかりあかちゃんを大人とまちがえて「つかぬことをお尋ねしますが……」と話しかけてしまうことはない。
ザ・あかちゃん

うちの子がずっと寝ているだけの新生児だったとき。
ロンパースは便利だった。
ははあなるほど。
おむつを替えるたびにいちいちズボンを脱がせたり履かせたり必要がないので便利だな。すきまがないから腹も冷えないしな。
すなおに感心した。

だが一歳二ヶ月の今。
彼女は立ってすたすた歩いている。後ろ向きに歩くこともある。ジャンプらしき動きもする(本人の中ではジャンプなのだろうが傍からはスクワットにしか見えない)。
さすがに肌着でうろうろするのもまずかろうと、ロンパースの上からセーターやズボンを着せて歩かせている。

しかしどれだけ歩こうが走ろうが四回転半ジャンプを決めようが、しょせんは赤子。
自分のケツも自分で拭けない。文字通りの意味で。
おむつを替えてやるのだが、そのたびに不便を感じる。
おむつを替えるためには

1.まずズボンを脱がせ
2.ロンパースのホックをはずし
3.ロンパースのすそにウンコがつかぬようすそをまくりあげてうなじのところに挟み
4.ウンコおむつを脱がせ
5.ケツを拭き
6.新しいおむつを履かせ
7.ロンパースのホックを留め
8.ズボンを履かせる

じつに八つのステップを必要とする(5の後に「自分の手に付いたウンコを拭く」というステップが加わることもある)。
だがロンパースがなければ、2と3と7の手順は省略できる。

面倒だ。
ロンパースなしじゃだめなのか。ふつうの肌着じゃだめなのだろうか。

妻に言ってみた。
「もうロンパースいらんのちゃうん?」と。
我ながら建設的ないい提案だ。

すると妻は言う。
「ふだんはいいんだけどね。でもウンチやおしっこをするとおむつが重くなって、おむつの重みでズボンが脱げちゃうのよ。おなかがぽっこりしてるからベルトをさせるわけにもいかないし。だからロンパースがいるのよ」

くっ……。
まただ。いつも妻は、理路整然と正論を語ってぼくの出鼻をくじく。理にかないすぎてぐうの音も出ない。


ロンパースに「おむつずり落ち抑止機能」があることはわかった。
だが。
うちの一歳児は食べることが大好き。歯が四本しかないくせに大人顔負けの量を食べる。口にバナナをほおばり、右手にバナナを持ち、左手でバナナをつかむ。
当然ながら身体はでかい。常に成長曲線の上限いっぱいをキープし、同世代に圧倒的な差をつけている。
おなかがぱんぱんなので、ロンパースのホックはしょっちゅうはずれる。はずれるというよりはじけるといったほうがいいかもしれない。
だっこをすればパチン。座ればパチン。しゃがめばパチン。
千代の富士の肩関節と同じくらいよくはずれる。

で、ロンパースのすそがズボンの外に出て燕尾服みたいになっている。びろーん。

もちろんおむつずり落ち防止機能は正常に動作していない。おむつずりーん。
うむ、ロンパースいらんな。
おむつずり落ち防止機能どころか「大人とまちがえられるの防止機能」も機能してないもんな。燕尾服の紳士とまちがえて「つかぬことをおたずねしますが、ここいらでおなかぱんぱんのあかちゃんを見かけませんでしたか」と話しかけてしまうもんな、これじゃ。


2020年1月28日火曜日

考えないための傘


いつからだろう、天気について考えるのをやめたのは。

はじめは「雨が降るかもしれないから」だった。
降水確率が五十パーセントぐらいのときに、念のためにとおもって鞄に折り畳み傘を入れた。

そんな日が続き、ぼくは天気のことを考えるのをやめた。
いまやぼくの鞄には毎日折り畳み傘が入っている。入れているのではない。入っている。

雲ひとつない絶好の快晴であっても鞄には折り畳み傘があるし、朝から雨が降っていて傘を持って出かけるときにも折り畳み傘が入っている。

折り畳み傘は重い。重い鞄を持つと肩がこる。
でも傘について考えるほうがめんどくさい。天気予報を見て「今日は傘いるかな」と頭をはたらかせたくない。だから折り畳み傘がずっと入っている。
濡れないための傘というより、考えないための傘。


天候全般に対して関心がなくなった。梅雨も夕立も気にしない。今降っていれば折り畳み傘をさすし、降っていなければささない。それだけ。
十分先の天気も気にしない。空を見上げることがなくなった。

狩猟採集民族でなくてよかった。

ぼくが狩猟採集民族だったら、天気を読み誤ったせいでずぶぬれになっている。遭難して体温が冷えて死んでいた。
ワナをしかけてからしばらく悪天候で出かけられず、久しぶりに見にいったら獲物がかかった形跡はあるのにとっくに逃げていた。飢えて死んでいた。
収穫した果実がカビだらけになっていたこともある。もっと早く収穫しておけばよかった。しかたなくカビだらけの果実を食べたらおなかをこわして死んだ。
もう三回も死んだ。
折り畳み傘にどんどん命が削られてゆく。


2020年1月25日土曜日

運命のティッシュ配り

運命の出会いというのはその瞬間には気づかなぬものだ。

仕事帰り。オフィス街を歩いているとき、ティッシュを受け取った。
いや受け取ったという言い方は適切ではない。
気づいたら手の中にあった、それぐらい自然だった。

ティッシュを渡され、数歩歩いて、そしてようやくティッシュを手渡されたことに気が付いた。

あわてて後ろを振り返る。だがぼくにティッシュを握らせた彼は、もうぼくのことなど気にも留めず一心に次の通行人の手にティッシュを握らせようとしていた。



思えば、街頭ティッシュ配りにはイライラさせられっぱなしの人生だった。

まずはじめにことわっておくが、ぼくはティッシュを欲しい。タダでもらえるのならばいくらでもほしい。
花粉症なので春先には途方もない量のティッシュを消費するし、幼い子どもふたりも鼻水をたらしたり口のまわりをアイスクリームでべたべたにしたりするので、ポケットティッシュはどれだけあってもいい。
とにかく欲しい。箱でくれたってかまわない。

だが、それと同時にぼくには「人からあさましいとおもわれたくない」という厚かましい願望もある。
本心では
「あっ、ティッシュ配ってんの!? ちょーだいちょーだい! えー、一個だけー? あっちのおじさんふたつももらってんじゃん。いいじゃんそんなにいっぱいあるんだからさ。もっとちょうだいよー!」
と言いたいところだが、それは三十代のいい大人としてさすがにみっともない。あと十歳若ければできたのだが。

だからできることなら
「ティッシュなんていくらでも買えるからいらないんだけどな。でもまあティッシュ配りのバイトも大変だろうから人助けだとおもってもらってやるか」
というスタンスでもらいたい。

この「タダでもらえるならどれだけでももらいたい」と「しかしタダに群がるあさましい人間だとおもわれたくない」というジレンマを抱えて人は生きている。
このことを理解していないティッシュ配りが多い。


まず押しつけがましいやつ。
道の真ん中にまで出てきて、こっちが避けようとしてもついてきて、強引にさしだしてくるやつ。
そこまでされたら受け取りたくない。あくまで歩道は通行人のためのもの。おまえらはそこで商売させてもらってんだから通行の邪魔すんじゃねえよという気持ちが先に来てしまう。
しかもそういうやつにかぎって差しだしてくるのがティッシュじゃなくてコンタクトレンズのチラシだったりする。いらねえ。
しかしなんでコンタクトレンズ屋にかぎってあんなにチラシ撒くんだろう。謎だ。世の中にはいろんな商売があるのに、道でチラシを撒いているのは決まってコンタクトレンズ屋だ(そして看板を持って立っているのはネットカフェだ)。
しかも、一見して相手がコンタクトレンズを必要としているかどうかわからないのに。チラシを渡す相手の視力が2.0かもしれないのに。

話がそれた。ティッシュ配りの話だ。
図々しいのはイヤだが、かといって遠慮がちなのもだめだ。
道のはじっこでおずおずと様子をうかがっているやつ。通行の邪魔にはならないけど、邪魔にならなさすぎる。あれだとこっちからわざわざ進路を変えてティッシュをもらいにいかなくてはならない。そんな意地汚いことできない。こっちは意地汚いことを隠して生きたいんだから。

突然差しだしてくるのもだめだ。
唐突に人からものを差しだされても、とっさには受け取れない。数秒前から「よしっ、受け取ろう」という心づもりをしておかないと手を伸ばせない。こっちは合気道の達人じゃないんだから油断してるときに斬りかかられても対処できない。

だからといって十メートルも前から「ティッシュどうぞー!」と声を張り上げられるのも困る。
「あっ、ティッシュ配ってる。ほしいな」と気づくけど、直後に自尊心が首をもたげる。どんな顔をして近づいていいのかわからない。
あれと同じだ。職場で、旅行に行った誰かがお土産を買ってくる。で、ひとりずつに配る。「お土産です」「どこ行ってたの?」「奈良です」「へーいいなー」なんて会話がふたつ隣の席から聞こえる。次の次だな、とおもう。もうすぐぼくの番だ。でもどんな顔をして待てばいいのかわからない。犬みたいにへっへっと舌を出して待つのは恥ずかしい。
だから気づかぬふりをする。目の前のパソコンをまっすぐに見つめて「仕事に集中しすぎて周りの声が耳に入っていません」という猿芝居をする。
心の中では「あとふたり、あとひとり」とカウントダウンしているのに、名前を呼ばれてからはじめて気づいた様子で「えっ、なに? お土産? ぼくに?」という顔をする。まちがいなくこの三文芝居も見すかされている。でも他にどんなリアクションをとっていいのかわからない。だから毎回気づかないふりをする。
これと同じで、早めに「ティッシュどうぞー!」と言われると気恥ずかしいが勝ってしまい、結局受け取らずに立ち去ってしまう。自尊心に負けたー! と敗北感に打ちひしがれてその日はもう仕事が手につかない。

まとめると、ぼくの要求としてはただひとつ、近すぎず、遠すぎず、遅すぎず、早すぎず、ちょうどいい間合いで渡してほしい。欲を言えば渡す人が美女であってぼくの手を包みこむようにしてティッシュを握らせてくれればそれでいい。

ただそれだけのささやかな願いだ。



さっきのティッシュ配りは完璧だった。
絶妙なタイミング、ちょうどいい距離、押しつけがましくない表情。どこをとっても一級品。さぞかし名のあるティッシュ配り士なのであろう。

ティッシュだと意識する間もなく手渡されていた。
すごい剣豪になると斬った相手に斬られたことを気づかせないというが、まさにそんな感じだった。気づかぬうちに斬られた気分。それでいて不快ではなくむしろすがすがしい。

彼と出会うことは二度とないだろう。
でももしふたりが生まれ変わったら、マラソンランナーと給水所の係員として出会いたい。そして少しもペースを落とすことなく受け取れる絶妙な間合いで給水してほしい。


2020年1月16日木曜日

給料安いよ!来てね!


北新地という大阪でも有数の繁華街のすぐそばの地下街に、ひっそりと「各自治体のPR会場」がある。
ブースがいくつかあって、そこに「〇〇県就農体験者募集」「〇〇県〇〇町でお見合いパーティー」みたいなポスターがたくさん貼ってある。
わりと人通りもある場所なのにその一角だけやたらと薄暗く、妙に静まりかえっている。そこを通るたびにぼくはいたたまれない気持ちになる。

ポスターたちの発するうらさびしいオーラに吸い込まれそうになるのだ。とても直視できない。つらい。

なにがつらいのかというと、みんな「虫のいいこと」しか言ってないのだ。
就農だの移住支援だのお見合いパーティーだのと書いているが、内容はどれも同じ。
「この地域で生まれ育った若者にすら見放されるような土地だけど、働き者で文句を言わずに土地の蛮習に従ってくれる若者来てくれませんか? 給料安いよ! 不便だよ! 不自由だよ!」
としか言ってないのだ。

メリットがないか、せいぜい「空気がきれい」ぐらい。
そりゃあ来ねえだろう。こういうポスターを作っちゃうところがもう絶望的にセンスがない。
ブラック企業が「やりがいのある職場です!」「オンとオフの切り替えは大事。土日はみんなバーベキューをするぐらい仲良しです!」と求人票に書いちゃうぐらいまちがっている。


まあそれはいい。感覚は人それぞれだ。ぼくも地方で育ったのでその感覚はわからなくもない。

ただ心配になるのは、こういうポスターにお金を使っていること。
いろいろ背景を想像してしまう。
街のコンサルだか広告代理店だかが村役場を訪れて
「このままじゃいけませんよ。他の町村はいろんな手を売ってますよ。たとえばお隣の〇〇町なんか××っていうプロジェクトをやってますよ。ほら」
なんて持ちかけて、町長さんだか広報課長だかが「そっか。お隣もやってるのか。じゃあうちもやらなきゃな」
なんつってお金払って、各部署からだったらこれも載せてくれこれも書いといたほうがいいだろなんて言われて、見た目だけきれいだけど結局何が言いたいのかわからないポスター作って、ろくに効果検証もしないままお金を垂れ流しているんだろう。

「そんなお金があるなら今いる若者のために仕事をつくりましょうよ」なんていう人はひとりもいないまま、誰も足を止めないブースにポスターを貼るためにお金を払いつづけている。

そりゃあさ。
「来てね!」って呼びかけるだけで来てくれるならそれがいちばんいいけどさ。
でもじっさいは逆なわけじゃない。
「働き手がいねえんだよー。嫁さんが来ねえんだよー。若い夫婦もいないんだよー」って言ってる自治体に行きたい人はほとんどいないわけじゃない。

なんだか、貧乏人ほど宝くじを買うって話みたいで切なくなる。もう配当率の低い一発逆転に頼るしかないんだよなー。


2020年1月15日水曜日

書店の飾りつけは自己満足


とある書店員のツイートを目にした。
その人は売場をPOPや装飾できれいに飾りつけた写真を投稿して、「Amazonには負けない」とつぶやいていた。

それに対して賛同するコメントもあったが、「努力の方向がまちがってる」「客はそんなの求めてない」「飾りつけをがんばるんじゃなくて本を切らさぬようにしろ」という辛辣なコメントも並んでいた。

ううむ。
元書店員であり現Amazonヘビーユーザーであるぼくとしては、どちらの気持ちもわかるので心苦しい。


飾りつけは自己満足


「努力の方向がまちがってる」、厳しいがその通りだ。
まったくの無駄とは言わない。
でも飾りつけに使う材料費と人件費以上の効果があるかといわれれば、残念ながら首をかしげざるをえない。
シビアにコストと効果を計算すれば、おそらく「やらないほうがマシ」だろう。

そもそも店舗内で目立たせてどうする。
書店が二店舗並んでいるので、看板やのぼりを目立たせてライバル店から客を奪ってくるのならわかる。
でも自店舗内で〇〇フェアをやって一角だけ目立たせるということは、相対的に他の売場を目立たなくさせることになる。

ぼくも文庫コーナーで「〇〇フェア」を何度となくやったのでわかるが、フェアをやればたしかにその売場内の本はよく売れるが、文庫全体の売上が伸びるわけではなかった。
店舗内で売上をあっちからこっちに動かしているだけなのだ。

書店員のやれることに限界がある


とはいえきれいに飾りつけをしたくなる書店員の気持ちもわかる。
「大事なのは売場を飾りたてることじゃなく買いたくなる本を置くことなんだよ」
そんなことは客から言われるまでもなく書店員自身がよーくわかっている。できることなら人気の本を山のように積みたい。

が、やりたくてもできない事情がある。
まず売場面積の事情。
オンライン書店とちがって実店舗の棚には限りがある。すべての本を置くのが理想だが、そうはいかない。「この本を置いておけば一年に一冊ぐらいは売れるんだけどなあ」という本でも泣く泣く返品せざるをえない。

また経済的な事情もある。
返品すれば取次からお金がかえってくる。つまり在庫を持つことには金がかかるのだ。
資本が無限にあるならいいけど、使えるお金に制約がある以上、一定数は返品にまわさざるをえない。
在庫量を二倍にすれば売上も二倍になるのならいいけど、実際は十パーセント増えればいいほうだ。
棚に置いておくより返品するほうが確実に収入になるのだから、コンスタントに売れない本は返品に回さざるをえない。

そしてなによりいちばん大きな理由は、注文した本が手に入らないことにある。
話題の本、人気作家の新刊、映画の原作、文学賞受賞作品。いくら注文しても入荷しないのだ。
どこにもないのならあきらめもつく。だがあるところにはあるのだ。
取次や書店によって力の強弱があり、力の弱い書店がどれだけ注文しても入ってこない本が、力の強い書店には山のように積んであったりする。
返品すれば基本的に仕入れ値でお金がかえってくるのだから、力の強い書店は必要以上に仕入れる。で、弱いところにはまわってこない。まわってくるのはもうブームが去ってから。

もちろんこんな事情は客の知ったことではないのだが、書店員だって「もっと大事なことがある」ことはとうに承知なんだよ。

意欲だけがからまわり


で、意欲のある書店員はPOPや売場の飾りつけに走る。
「とりあえず何かやった気になれる」からだ。
フェアを組んで売場の一角を目立たせればとりあえずそこの売上は伸びるから、達成感も得やすい(さっきも書いたように店舗全体の売上が増えているわけではないのだが)。

たぶんほとんどの書店員は、こんなことをしても大して意味がないと気づいているとおも(「Amazonには負けない」と書いていた人は書店が好きすぎて気づいてないかもしれないけど)。

でも他に打てる手がないから売場を飾る。不安から逃げるために。
意欲はあるけどできることがなくてからまわり。

そしてある日気づく。
もうだめだ、と。
書店が息を吹き返すには、業界全体をリセットしてやりなおすしかない(それでもうまくいかない可能性のほうが高いけど)。
でもそんなことは不可能だと。
書店といっしょに沈むか、沈む船から逃げだすか。選択肢は二つだけ。


ああ。
書いてていやになった。
同じようなことを今までにも何度も書いている。書店で働いているときからずっと同じことを考えていた。でもどうにもならない。

書店は好きだ。だけど「買って応援」なんてする気にはなれない。
そんなことしてたらますます現状にあぐらをかいてAmazonとの差が拡がるに決まってるんだもの。

でももうしかたない。

いっそ完全に滅んでみんなが「リアル書店があったころはよかったなあ」と懐かしむ……。

それが書店にとっていちばん幸福な未来のかもしれない、とまで最近はおもうようになった。
想い出の中で美しく生きていてくれればそれでいいよ……。

【関連記事】

書店員の努力は無駄

書店が衰退しない可能性もあった

2020年1月8日水曜日

詰将棋と成功者


六歳の娘が将棋の駒の動かし方をおぼえたので何度か対局したのだが、勝負にならない。
ぼくも決して強いわけではないが、娘の指し方がでたらめなので十枚落ち(つまりこちらは王将と歩兵のみ)でも完勝してしまう。ゲームにならない(ぼくも負けず嫌いなのでわざと失策するような手は指したくない)。

娘の指し方は、とにかく駒を大事にする。歩兵一個でもとられないように全力を尽くす。結果、歩兵を守ろうとして角をとられる、なんてことになる。
あえて駒を捨てるなんてぜったいにできない。

また、せっかく取った駒を使わない。後生大事に抱えている。結果、守りはどんどん薄くなる。
たしかに初心者にとって「駒を打つ」のはむずかしい。盤上の駒が動ける範囲は限られているが、持ち駒を打てる箇所は数十個もある。ルール上は、空いている場所であればどこにでも打てる(歩兵、香車、桂馬には一部制約があるが)。
五種類の駒を持っていれば打てる場所は理論上数百になるわけだから、そこからひとつに定めるのはむずかしい。
ある程度慣れた差し手なら「現実的に意味のない手」ははじめから除外するので選択肢はぐっと狭くなるのだけど、慣れていなければ選択肢がありすぎて混乱する。
「カレーとハヤシライスどっちがいい?」なら答えられても「ばんごはん何がいい?」だと悩んでしまうのと同じだ。

そういやAI将棋ソフトは、「ベテラン棋士なら無意識に除外する手」も含めて検討すると聞いたことがある。
六歳児はAIと同じことをしているのだ。そう考えるとすごいな。すごかないけど。


ということで、「駒の捨て方を身につける」「駒の打ち方を身につける」練習のために、子ども向けの詰将棋の本を買ってきた。
一手詰めや三手詰めの問題を盤上に並べ、娘に解いてもらっている。

詰将棋をやっていると、ぼくも子どもの頃に父と詰将棋をしたことを思いだす。
だが、ぼくはちっとも詰将棋を好きにならなかった(今はわりと好きだが)。
そのわけは、父が出題する問題が難しすぎたことにあった。
父は新聞に載っている詰将棋の問題をぼくに解かせようとした。好きな人なら知っているとおもうが、新聞に載っている問題はけっこう難しい。七手詰めとか九手詰めとか。そこそこやっている人でもじっくり考えないと解けないレベルだ。
とうぜんぼくはさっぱり解けなかった。まちがえたとしてもどこでまちがえたのかわからない。七手目がちがったのか、五手目がまずかったのか、三手目が誤っていたのか、それとも初手からやりなおすべきなのか。
七手詰めだと可能性がありすぎてちっともわからない。娘の本将棋と同じ、「選択肢がありすぎてわからない」状態だった。

その経験を踏まえて、まずは一手詰めの問題ばかりを娘に出している。
一手詰めだと王手の方法は四通りぐらいしかない。これはダメ、これもダメ、これもダメ、じゃあこれだ。ってな具合に総当たり消去法でも答えが出せる。
娘がまちがえるたびにぼくは「それだと王様はここに逃げるよ。じゃあここに逃げられないようにするためにはどうやって王手をすればいいかな」とヒントを与えてもう一度指してもらう。
いろんな問題に挑戦しているうちに、娘の腕も少し上がってきた。

困るのは、娘がいきなり正解を出してしまったとき。
じっくり考えてあらゆる可能性を検討した上で正解を導きだしたのであればたいへん喜ばしいことなんだけど、そうではなく、何も考えずに指した手が正解だったとき。

正解なので褒めてやる。
で、その上で「そうだね。たとえばこの手だったらこう逃げられるからダメだもんね。こっちに行った場合はこう逃げられるしね」と説明する。
……のだが。
後半の台詞を娘はぜんぜん聞いてくれない。
「やったー! さっ、正解したから次の問題!」
という感じで済ませてしまう。
ぼくが「なぜこの手がいい手だったのか」を説明しても「わかってたし」と言って耳を貸そうとしない。

これでは学びが得られない。

ああ、これか、と。
野村克也氏が言ったとされる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」だ。
失敗には原因があるが成功はたまたま成功してしまうこともあるのだ。

成功者は成功の秘訣を真剣に考えない。
スポーツでもビジネスでもそうだ。
なぜ成功したのかをつきつめない。「おれがすごかったからだ」「がんばったからな」で済ませてしまう。他の選択肢を選んでいたらもっと良かったのではないか、他の選択ではどこがだめだったのかを考えない。
真剣に考えるのは今までのやり方がうまくいかなくなったときだけだ(そしてそのときにはもう遅い)。

詰将棋を通して、うまくいっているときこそ他者のアドバイスに耳を傾ける謙虚さを持ちなさいと伝えたいんだけど、まあ無理だわなあ。
だからぼくは、娘がまちがえた手を指してくれることをいつも願っている。


2020年1月7日火曜日

チェーホフの銃

最近のディズニー作品って、すごく人種に配慮してるじゃない。

たとえば『アナと雪の女王2』には肌の黒い兵士が出てくる。
はっきりとは描かれていないけどあの話の舞台(アレンデール王国)は中世の北欧っぽい雰囲気だから、黒人が出てこなくても不自然ではない。というか出てくるほうが不自然。
でも出てくる。
2015年の『シンデレラ』(実写版のほう)にもやはり黒人が出てくる。
どちらも、その役が黒人である必然性はない。「彼は移民の息子だ」みたいな説明もなく、ただいる。

それがいいとか悪いとかは言わない。
おもうところはあるけど、はっきり書くとややこしいことになりそうなのでやめておく。

まあいろんな事情があるのだろう、製作者もたいへんだ。


ところでこの傾向はどこまでいくのだろう。

この「あらゆる人種を平等に」を求めていけば、
「盲人がいないのはおかしい」
「どうして知的障害者が出てないのか」
「これだけの人がいれば同性愛者だって一定数いるはずだ」
「くせ毛の登場人物が少なすぎないか」
「どうしてこのミュージカルには音痴の人が登場しないんだ。現実には一定数いるはずなのに」
みたいな話になる。まちがいなく。

で、「いろんな人種の人をまんべんなく登場させろ」という声に抵抗しなかった製作者は、そういった声に反論することができない。だって前例に倣えば従うしかないんだもの。


演劇界には『チェーホフの銃』という言葉がある。
劇作家のチェーホフが「舞台に銃を置くのであればその銃は劇中で必ず発砲されなければならない」と語ったことに由来する。

つまり「意味ありげなものを出すなら必ず使えよ」「なくてもいいアイテムはなくせ」ということだ。
あえて意味ありげなものを置いて使わないことで観客の予想を裏切るというシチュエーションもあるだろうが、それはそれで「観客をミスリードする」という効果がある。

使われない、ミスリードにもならないアイテムなら使うな。観客が余計なことを気にするから。
ルールというより、「芝居をおもしろくするために守ったほうがいいこと」だ。

政治的な配慮のためだけにストーリーに関係のない属性の人をむやみに登場させた映画は、[発砲されない銃]や[昇られないハシゴ]や[撮影されないカメラ]だらけの映画だ。

その先にあるのは、[観られない映画]なんじゃないかな。


2020年1月6日月曜日

ノーヒットノーランの思い出


今から15年前のこと。
当時つきあっていた彼女(今の妻)と甲子園球場に行った。

ぼくは高校野球が好きで、毎年甲子園球場に足を運んでいた。
彼女のほうはテレビ観戦すらしたことがないぐらい野球に無関心。「一回ぐらい球場の雰囲気を知っておきたい」というので一緒に行くことになった。

2004年3月26日のことだ。
ぼくらは外野席に座り、東北ー熊本工の試合を観戦した。
特にこの試合を選んだ理由はない。二人の予定があったから。それだけ。
東北にはダルビッシュ有投手がいた。当時から注目されていたので、東北側スタンドは客が多いだろうとおもい、あえて逆の熊本工側のスタンドに座った。

熱心な高校野球ファンならピンときたかもしれない。
そう、ダルビッシュ投手が熊本工相手にノーヒットノーランを成し遂げた試合だ。

五回ぐらいからスタンド全体が「おいおいまだノーヒットだぞ」という雰囲気になり、七回、八回になると「まさか……」と観客席全体が浮足立ち、九回には全員が固唾を飲んで見守っていた。
もちろんぼくも大興奮。
「まさかノーヒットノーランを目の前で観れるなんて……!」と色めきたっていたのだが、ふと傍らの彼女に目をやると、なんともつまらなそうな顔でグランドを眺めている。

「このままいくとノーヒットノーランっていう大記録になるんだよ! 十年に一度ぐらいしか達成できないすごい記録! 1998年には横浜高校の松坂大輔が決勝で……」
とぼくは熱く語ったのだが、彼女は「ふーん。すごいねー」と気のない返事。

そこでぼくは気づいた。
そうか、ノーヒットノーランのゲームは野球に興味のない人にとってはすごくつまらないゲームなのだ。

ぜんぜん得点が入らない。ほとんどランナーも出ないから盛りあがりどころもない。おまけに熊本工側のスタンドに座っているからすぐ隣のアルプススタンドはお通夜のような状態。
野球ファンにとってはたまらないノーヒットノーランも、ルールもよくわかっていない人にとってはほとんど動きのない退屈な試合。
シーソーゲームの末に8対7でサヨナラ、みたいな展開であればルールがよくわからなくても楽しいのだろうが。

とうとうダルビッシュ投手はセンバツ大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成。
感動に打ち震えるぼくと、つまらなそうにあくびをする彼女。その大きな温度差によって巨大な上昇気流が発生した……。



東北ー熊本工の試合だけ観て帰り、その後も彼女と球場に行ったことはない。
退屈なゲームに懲りたのか、二度と野球場に行きたいということはなかった。

ということでぼくの妻は、「ノーヒットノーランゲームしか野球の試合を観たことがない」というめずらしい人間だ。

2020年1月3日金曜日

娘と銭湯

六歳の娘とよく銭湯に行く。

娘は銭湯が好きだ。
風呂も好きだし、水風呂も好きだし、お湯と水がいっぺんに出るシャワーも好きだし、風呂上がりに牛乳やジュースを買ってもらうのも好きだし、それを飲みながらテレビを観るのも好きだ。

三歳ぐらいのときから何度も銭湯に連れていった。
妻はあまり公衆浴場が好きではないので行くときはたいていぼくと二人。
娘の友だちを連れていったこともある。幼児六人の面倒を一人で見たときはさすがにゆっくり風呂に漬かるどころではなく閉口した。

ぼくにとっても楽しい「娘との銭湯」だが、もうそろそろ行けなくなる。娘を男湯に入れることに気が引けるからだ。
条例では十歳ぐらいまでセーフだそうだが、さすがに十歳の女の子を男湯に連れていくのはまずいとおもう。自身も嫌がるだろうし。

六歳の今でも、「娘の身体をじろじろ見るやつはいねえだろうな」と周囲に目を光らせ、娘が歩くときはさりげなく前に立って身体を隠し、脱衣場ではすばやくタオルを巻きつけ、なるべく娘の身体が人前にさらされないように配慮している。

「娘を男湯に連れていくのは小学校に入るまで」と自分の中で決めている。
こうやっていっしょに銭湯に浸かれるのもあとわずかだなあ、と少しさびしい気持ちになる。


そんなふうにして、娘といっしょにできることが少しずつ減ってゆく。
手をつないで歩くとか、いっしょに公園で遊ぶとか、肩車するとか、おんぶするとか、寝る前に本を読んでやるとか、手をつないで寝るとか、娘の友だちの話をするとか、娘から手紙をもらうとか、髪をくくってやるとか、ピアノの連弾をするとか、朝起こしてやるとか。
今あたりまえのようにやっていることも、あるとき、娘から「今度からは一人でやるからいい」と言われて終わる。
(肩車やおんぶに関してはぼくのほうからギブアップする可能性もあるが)

いや、そんなふうに終わりを告げられるならまだこちらも感慨深く受けとめられる分まだいい。よりさびしいのは「気づけば終わっている」ケースだ。たぶんこっちのほうがずっと多い。

ふと「そういや最近娘と手をつないでないなあ」とおもう。最後につないだのはいつだったっけ。おもったときにはもう「最後のチャンス」は永遠に失われている。
「これが最後」と感じることもなく。
今までだって、おむつを替えるとか自転車の後ろを持って支えてやるとか、「これが最後のおむつ替えだな」とか意識することもなくいつのまにか終わっていた。今後もそうなのだろう。

娘の中でのぼくの居場所がちょっとずつ削りとられてゆく。娘もぼくも気づかぬまま。
あたりまえなんだけど、やっぱり寂しさはぬぐえない。
死ってある日突然訪れるものではなく、ちょっとずつ死んでゆくものなんだろうな。ぼくは今もゆるやかに死んでいっている。


2019年12月25日水曜日

寝具の魅力

娘たちとの遊び。

よく娘たちと寝室であそぶ。
ぼくに課せられた使命は、妻が料理をしている間、キッチンに次女(一歳)を近づけないこと。
包丁、火、熱湯、熱々のグリル、落ちた食べ物。そういったものから、なんでもさわりたい、なんでも食べたい年頃の次女を遠ざけることが求められている。
そこで、キッチンから遠い寝室で遊ぶことになる。

最近よくやるのは、布団とマットを組み合わせてすべりだいやテントやトンネルや船をつくるという遊びだ。
長女(六歳)はもちろん大はしゃぎだし、最近すべりだいをすべれるようになった次女も楽しんでいる。よたよたしながら坂(マット)をのぼり、すべりだい(マット)をすべり、テント(マット)に出入りし、トンネル(マット)をくぐり、船(マット)の上で歓喜の声をあげる。もうぜいぜいはあはあ言いながら遊んでいる。
あとは、ぼくが娘たちを布団の上に放りなげたり、マットの坂道に乗せて転がしたり、どったんばったん遊んでいる。



ぼくも子どもの頃、寝室で遊ぶのが好きだった。
一歳上の姉と、ベッドをトランポリンにしたり、枕を投げたり、布団の上で逆立ちをしたり、押し入れに入ったりして遊んでいた。
子どもはみんな寝室で遊ぶのが好きだ。

寝具というのは特別な魅力がある。
寝具を見ていると、ついつい飛びこみたくなる。どったんばったん遊びたくなる。

子どもだけでない。大人も同じだ。
家具売場のベッドを見るとついつい乗りたくなる。じっさいに腰をかける人も多い。さすがに飛び乗ったりする大人はまずいないが、本音はみんなやりたいはずだ。ぼくもやりたい。ウォーターベッドなんかたまらん。あんなとこにダイブしたらめちゃくちゃ愉しいだろうな。ぽよんぽよん弾んでみたいな。

ぼくが大金持ちになったら、でっかい部屋にキングサイズのベッドを三つ並べて、その上にとびきり弾力のあるマットとふかふかの布団を敷いてぴょんぴょん跳びはねるんだー!

あと押し入れの中に電灯と本とパソコンを持ちこんで秘密の書斎もつくるんだー!(それは今でもやろうとおもえばできる)


2019年12月24日火曜日

14 ÷ 4 =?


「いちご14個を家族4人で分けます。1人あたりのいちごは何個でしょう」

算数だったら正解は
「3あまり2」
「3.5」
「3と1/2」
のいずれかになる。

が。
現実にはたぶんそのどれでもない。

「1人が3個ずつ食べてからじゃんけんをして、勝った2人がもう1個ずつ食べる」
「おかあさんが『2個でいいわ』と言ったので、残りの3人が4個ずつ食べる」
みたいなことになる。

算数だと「3あまり2」だけど、現実にはまずいちごはあまらない。
「平等を期すために3個ずつ食べて、余った2個は捨てよう」とはならない。
「2つはナイフで2等分して、3.5個ずつ食べよう」ともならない。
みかんなら分割するかもしれないけど、イチゴを分割して食べる家庭はほとんどない。


だから同じ「14 ÷ 4 =?」という問題であっても、

「長さ14メートルのロープで1辺1メートルの正方形を囲うといくつ囲える?」
の場合は
「3個囲って2メートル余る」から
答えは「3あまり2」で、

「14個のみかんを四つ子が分けると1人いくつ?」
だったら
「1人3個ずつ。残る2つは2等分」だから
答えは「3.5」になるし、

「いちご14個をおとうさん、おかあさん、子ども2人で分けるとき、子どもはいくつ食べられる?」
なら
「両親、またはおかあさんが遠慮するだろうから子どもは4個食べられる」で
「4」が正解だよね。

2019年12月20日金曜日

六歳と一歳との平日夜

平日夜の過ごし方。
オチも何もないけど、将来自分で読み返したくなるかもしれないので書いておく。


ぼくが家に帰ると、一歳が出迎えてくれる。
「あっ!あっ!」といいながらとたとたと玄関までやってくる。
たいてい何か持っている。
おもちゃだったり、紙切れだったり。あるいはパプリカを口の中に入れている(夕食前はおなかがすいて不機嫌になるのでパプリカを渡されている。パプリカをしゃぶっている間はごきげんになる)。
手にしたおもちゃをぼくに見せてくれる。ぼくの鞄の中身を見ようとする。ぼくの脚にしがみついてくる。

一歳を抱えて手を洗い、リビングに行く。
六歳が寄ってきて「本よんで」「しょうぎしよ」などという。
一歳児の相手をしながら六歳児と将棋を指す。本を読む。最近はドラえもんの漫画を読むことが多い。六歳はもう自分で本を読めるのだが、読んでもらうほうが好きなのだ。
一歳がまとわりつくと料理がしづらいので、妻が料理をしている間に一歳の相手をするのがぼくの仕事だ。

夕食。
一歳がごはんを食べる手伝いをする。最近少しだけフォークやスプーンが使えるようになったが、うまくフォークを刺せないことも多い。刺すのを手伝ってあげる。スプーンでごはんをすくってやる。
コップでお茶を飲めるようになったが、飲んだ後にお茶をわざとこぼすことが多い。こぼさぬようコップに手を添える。
一歳の相手をしながら妻や六歳と話す。保育園でしたことを聞く。大げさに褒めてやったり六歳クイズにわざとまちがえたり。

夕食の後は一歳の歯みがきをする。歯は四本しか生えていない。上の前歯二本と下の前歯二本。いとをかし。四本しかないので歯みがきは一瞬で終わる。
六歳は自分で歯みがきをするが、雑なこときわまりないので仕上げをしてやる。六歳はぼくの膝の上に座って口を開ける。わざと口を閉じたりするので「あー」とか「いー」とか言いながら仕上げをする。
妻が料理や洗い物をし、ぼくが子どもの相手をするという役割分担にいつのまにかなった。ぼくが洗い物をしようとすると妻はあからさまにイヤそうな顔をして「それより子どもの相手してあげて」という。ぼくの洗い物が雑なのが許せないのだ。

風呂を沸かしている間に自分の歯みがきをし、一歳と六歳と遊ぶ。絵本を読んだり風船で遊んだり。
一歳と六歳と風呂に入る。一歳を膝の上に乗せて洗う。六歳は自分で身体を洗う。
一歳を湯船に漬ける。おぼれないように六歳が身体を支えてくれる。助かる。ひとりめのときはたいへんだった。
その間に自分の髪と身体を洗い、一歳と六歳と湯船に漬かる。狭いがリラックスできる。ペットボトルや水風船や水鉄砲で遊ぶ。
ぼくが先に出て身体を拭いてパジャマを着てから、一歳児を風呂から出し保湿クリームを塗りたくる。おむつを履かせる。パジャマを着せる。たいていその途中で逃げるので追いかけながら服を着せる。
次に六歳にも保湿クリームを塗ってやる。六歳はすぐにくすぐったがる。しかし自分では塗らずに必ず「お父さんぬって」と言いにくる。

妻が風呂に入っている間にまた一歳と六歳と遊ぶ。ぼくのおなかの上に二人を乗せたり、寝室でかくれんぼをしたり。ぼくと六歳が布団の下に隠れ、一歳が布団をめくって「あっ!あっ!」と言う。

妻が風呂から出てくると一歳はおっぱいをもらいにいく。
六歳は「やっと行った!」と言って本をぼくのところに持ってくる。一歳がいるとじゃまをされるので落ちついて本を読めないのだ。
最近は長めの児童文学を読むようになったので読みおわるまでに三十分ぐらいかかる。端からぼく、六歳、妻で寝る。一歳の寝る場所は決まってない。あちこち移動して好きなところで寝る。
六歳はすぐ寝る。ぼくも少しだけ本を読むがすぐ眠くなって寝る。

2019年12月17日火曜日

犯罪者予備軍として生きる


犯罪者予備軍として生きている。

その意識が芽生えたのはいつからだろう。
たぶん二十歳を過ぎたあたりから。そして無職だった期間がいちばんその気持ちが強かった。

といっても、べつに犯罪を企図しているわけではない。
「周囲の人から犯罪者とおもわれているかもしれない」という思いを持って日々生きている、ということだ。


たとえばひとりで公園に行く。
ベンチに座ってぼんやりする。

法的にはなんの問題もない。公園は市民の憩いの場だからだ。

だが、「世間の目」的にはどうだろう。
二十歳を過ぎたいい大人が、だらしない恰好で、何をするでもなく、公園のベンチに座っている。
不審者ではないだろうか。
小さい子どもを連れて公園に来ているお母さんは警戒しないだろうか。
警戒する。
ぼくが逆の立場なら「なんだあいつ」とおもう。


「男女で公園のベンチに座って話しこんでいる」「子どもが公園でサッカーをしている」「お父さんが子どもを連れて散歩している」ならまったく問題ない。
「スーツ姿の男性が公園のベンチでお弁当を食べている」はぎりぎりセーフ。目的がわかるから。
だが「普段着の大人の男がひとり公園に座っている」はアウト。法的にはセーフでも“世間的”にはアウト。
むしろ「明らかに家のなさそうなボロボロの服のおじさんが公園で空き缶を集めている」ほうがまだ目的がわかりやすいだけマシかもしれない。少なくとも「なんでこんなとこにいるんだよ」という目は向けられないだろう。

世間の目なんて気にしなくてもいい! と言うのはかんたんだが、社会で生きるぼくらはそんなに強くない。
“世間”から白い眼を浴びながら生きていくのはすごくしんどい。“世間”にあわせるほうが楽だ。少なくともぼくにとっては。

だからぼくは用もないのに公園に行ったりしない。
もし行くならこぎれいな恰好をする。
本を読む、たいして飲みたいわけでもないコーヒーを飲むなどして「目的のある人」であることをアピールする。


また、ぼくの所属する会社は服装自由だが、ぼくはスーツを着て出勤している。
なぜならスーツを着ているだけで、“世間”からの風当たりはぐっとやわらぐから。
サングラスにジャージ姿よりも、スーツ姿のほうが見知らぬ人から警戒されずに済むから。

高校生のときは、まだぼくは「犯罪者予備軍」ではなかった。
人目を気にせず好きなことをできた。
学校帰りに公園に行ってベンチの上にひっくりかえって昼寝をしたこともある。
周囲の人からは「変な学生」とおもわれるかもしれないが、変質者には見えないだろう。学校の制服、という帰属を表すサインを持っていたから。

屋根の上によじのぼって本を読んでいたこともある。
近くを歩いている人からしたら「あそこの息子さん変な子ね」とはおもっただろうが、「警察に通報しなきゃ!」とまではおもわなかっただろう。学生の特権だ。

でも今のぼくは、公園で寝ることも意味なく屋根によじのぼることもできない。
通報されかねないから。
少なくとも「変わった子ね」という生あたたかい視線ではなく、「ヤバい人だ」という凍てつく視線を向けられることは必至だ。

なぜなら、いい歳した男は存在自体が犯罪者予備軍だからだ。



子どもが生まれたことで、ぼくの犯罪者予備性はぐっとやわらいだ。

ベビーカーを押していると、赤ちゃんをだっこしていると、子どもと手をつないでいると、どこで何をしていても不審者扱いされない。

昼日中に公園にいても、道端に立ち止まっても、ショッピングモールの女性下着売場の前を歩いても、エレベーターで女子高生と乗り合わせても、「あの男こんなとこで何やってんのかしら。犯罪者じゃないの」という視線を感じない。

だって子ども連れだからな! 子連れは無敵だ。子どもはフリーパス。どこにいても許される。

そういや貧しい国だと、乞食に赤ちゃんを貸す商売があると聞く。
子連れの乞食のほうが多く恵んでもらえるからだそうだ。
子どもは免罪符。子どもを連れているだけで世間はぐっと優しくなる。

そして、子どもを連れて公園に行くぼくはこうおもう。
「なんだあの男、昼間っからベンチに座って。怪しいやつだ。うちの子に変なことするんじゃねえだろうな」と。


2019年12月16日月曜日

ハナクリーンの話

ハナクリーンSの話をしようとおもう。

知っているだろうか、ハナクリーンSを。
その名の通り、鼻をクリーンにする道具。またの名を、右の鼻から入れた液体を左の鼻から出す装置。

作っているのが東京鼻科学研究所で、販売しているのがティー・ビー・ケー。
なるほど、Tokyo Bikagaku KenkyujoでTBKなのだな。しらんけど。

ハナクリーン公式ホームページ

東京鼻科学研究所の沿革を見ると、
1979年2月 創業 鼻洗浄器「ハナクリーン」発売
1987年9月 鼻洗浄器「ニューハナクリーン」発売
1992年9月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ」発売
1994年11月 鼻洗スプレー「ハナクリーンミニ30」発売
1995年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンEX」発売
1997年9月 鼻洗スプレー「ぐ~クリーン」発売
1998年9月 鼻洗浄器「ハナクリーンα」発売
1999年9月 鼻洗スプレー「ハナぴゅあ」発売
1999年11月 鼻洗浄器「ハナクリーンS」発売
……と続く。一貫して鼻を洗うことしかやっていない。実に潔い。
創業以来40年、一途に人々の鼻をきれいにすることだけを考えてやってきたのだ。なんと尊い考えだろう。スポーツ選手とか芸能人ではなく、こういう会社にこそ国民栄誉賞をあげてほしい。

と、ぼくがさっき知ったばかりのこの会社を絶賛するのは、昨日試してみたハナクリーンSの効果がすばらしかったからだ。

添付しているサーレという薬をお湯で溶かし、ハナクリーンSを使って鼻に注ぎこむ。

おお、ぜんぜん痛くない。
ちょうどいい濃度、ちょうどいい温度なのでまったく痛くないのだ。ぬるま湯を飲むのと同じで、ただ流れこむだけ。
はじめはおそるおそるやっていたのだが徐々に勢いよく入れる。そして鼻をかむ。
これを何度かくりかえすと、鼻の奥にたまっていた鼻水が一気に流れ出てすっきりする。
鼻が通るようになり、右の鼻から入れた液体が左の鼻から出てくる。口からも出てくる。鏡を見るとめちゃくちゃマヌケな姿だが、これが気持ちいい。

水道管のパイプ洗浄剤ってあるじゃない。ぬめり詰まりをごぼっととるやつ。あれをやってる感覚。快感。
あー、人間って管なんだなーと実感する。
管なんだよね。鼻や口から肛門までの長い管。管のまわりに、管をとおるものを消化する器官や、それらを支える骨や筋肉がついている。単純化すればただの管。
溜まりに溜まった鼻水を洗い流すと、管に戻れる気がする。


何かの本で(たぶん『完全自殺マニュアル』だったとおもう)、服薬自殺に失敗したときは胃洗浄という処置をとられるがそれがめちゃくちゃ苦しい、と書いてあった。
胃にチューブをつっこんで液体を流し、胃を洗い流すのだという。

苦しいだろうな。
でも、終わったあとはめちゃくちゃすっきりするんじゃないかな。
胃や食道にこびりついた汚れを一気に洗い流すのだから、きっと気持ちいいだろう。
ちょっと経験してみたい気もする。でも苦しいのはイヤだな。

ぼくが死んだら、口から高圧の水を一気に流しこんで、食道や胃や腸のものを全部ずばずばずばーっと洗い流してほしい。
想像するだけでめちゃくちゃ気持ちよさそうだ。死んでるけど。汚いから誰もやりたくないだろうけど。
ただ、まちがっても入口と出口を逆にはしないでほしい……。