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2025年9月3日水曜日

小ネタ38(魔改造の夜 / 後ろこうなってます / 犬の形)


魔改造の夜

夜会主催者「今回の生贄はこちら……」

メーカー社員たち「Word……!?」

夜会主催者「君たちにはこの文書作成ソフトを使って、原価管理表を作ってもらう……」

メーカー社員たち「めちゃくちゃだっ……!」


後ろこうなってます

 美容院で散髪後に「後ろこうなってます」と手鏡を見せられるが、自分の後頭部を見るのは「散髪直後」だけなので比べるものがない。いいのか悪いのかわからないから、「こうなってます」と言われても「はあ」としか言いようがない。

 散髪前にもちゃんと「切る前は後ろこうなってます」と見せてほしい。


犬の形

 娘と茨城県の話になったとき、「茨城県って犬の形やろ?」と言われた。

「ちがうよ、犬の形の県は千葉県やで。チーバくんの形やろ?」

「茨城も犬って習ったで」

 調べてみたところ、千葉県も茨城県も犬の形に似ていると言われているらしい。さらに、神奈川県や岐阜県も犬の形をしていると言われているらしい。

 しかしいずれも「そこに犬を見いだそうとすれば見えないこともない」レベルだ。人はどんなものにも犬の形を見出してしまう生き物なのだ。


 だが、「犬の形に似ている」と挙げられている自治体の中で、東京都日野市だけはどこからどう見ても犬だった。

日野市


 もはや「犬市」にしてもいい。


2025年9月2日火曜日

ちびまる子ちゃんとH₂O

 少女漫画雑誌『りぼん』に連載されていた漫画で、最も売れているのは『ちびまる子ちゃん』で3200万部だそうだ。2位の『ときめきトゥナイト』は2800万部 であるが、現在もテレビアニメを放送されている『ちびまる子ちゃん』のほうが今後も売れる可能性が高いだろうから、この差は開いていくとおもわれる。

 『ちびまる子ちゃん』は『りぼん』で最も売れた漫画であり最も有名な漫画だが、『りぼん』を代表する漫画かと言われるとそれはちょっと違う気がする。

 『ちびまる子ちゃん』は『りぼん』の中ではかなり異色な作品である。恋愛要素がまるでないし、絵も下手だし、美少女も美男子も出てこない。はっきり言えば『りぼん』っぽくない。邪道が王道を抑えて一位になってしまったのだ。

 蕎麦屋がカレーを出していたら一番の人気メニューになってしまったようなものだ。


 邪道がいちばん有名になってしまった例としては、他に水がある。

 そう、あの水だ。H₂O。

 水はダントツで有名な液体だ。「液体を思いうかべてください」と言われれば、99%ぐらいの人が水または水溶液を思いうかべるだろう。雨も海も川もお湯も泥水もお茶もコーラもビールもワインもほとんど水だ。エタノールとかベンゼンを最初に思いえがく人はほとんどいない。

 でも水は液体としては異端だ。固体になると体積が増えるとか、0℃から4℃までの間は温度を下げると体積が縮むとか、いろいろと変な性質を持っている。

 水は決して“代表的な液体”ではない。王道じゃない。たまたま時代にあったから売れただけ!



2025年8月28日木曜日

モアイゆるキャラ説

 プラスチックはなかなか自然には分解されないそうだ。数百年たてば紫外線によって分解されるらしいが、土の中など紫外線があたりにくい場所であれば何千年も残ってもおかしくない。

 千年後の考古学者が千年前(つまり現代)の人々の暮らしぶりを想像するときに、プラスチックは大きな手掛かりになるはずだ。自然界にはないものだから、プラスチックが多く出土する場所は確実に人々が暮らしていたはず。貝殻が残りやすいので貝塚が昔の集落を知る手掛かりになるのと同じように。


 プラスチックについた色や絵も残るのだろうか。

 残ってほしいな。そしたらそれも、人々の暮らしを未来に伝えるための重要な情報源になる。

 プラスチックって子ども向けの製品が多いから、特に子ども向け文化が未来に伝わりやすい。

 未来の考古学者は、出土したプラスチック製品に描かれたミッキーマウスやハローキティやリラックマを見てどんなことをおもうんだろう。

「これは当時の人々が信じていた神様の姿ですね。当時はアニミズム信仰がさかんで、ネズミやネコやクマの姿に神聖なものを感じていたのでしょう。これらの食器は神にさ捧げる供物を載せるのに使われていたのでしょう」なんてことを言うかもしれない。

 そんなことを想像すると楽しい。


 はっ、待てよ。

 ってことは、今我々が数千年前の出土品や壁画を見て「これは神々への祈りのためにつくられたものです」なんて言ってるのもまるで見当違いで、あれは当時の人気キャラだったんじゃないだろうか。

 モアイなんて、今のくまモンみたいなものでイースター島のご当地ゆるキャラだったのかもね。



2025年8月25日月曜日

ダンスの著作権

 ふとおもったんだけど、ダンスに著作権ってあるんだろうか。聞いたことがない。

 たとえば、他人の曲を歌って金儲けをしようとおもったら、ちゃんと楽曲使用料を得ないといけないじゃない。同様に、他人の描いた絵や、他人の書いた文章や、他人の撮った写真を商用目的で勝手に使うことはできない。


 でも、ダンスってみんな勝手に使ってない? よくヒット曲のダンスが流行って、SNSとかYouTubeとかでみんな真似するじゃない。中にはそれで収益を得ている人もいる。あの人たち、ダンスの振付師に金を払っているんだろうか。そんな話、聞いたことがない。

 まあ厳密には著作権が発生するのかもしれないが(答えを出しちゃうとつまんないので調べない)、現実的には厳密に運用されていない。


 個人的な考えを言えば、ダンスにはあんまり著作権うんぬん言ってほしくない。

 ダンスって身体表現じゃない。それを著作権で保護しちゃうと、体操とか発声方法とか筋トレとか歩き方とか、あらゆるものが著作権保護の対象になっていく可能性があるわけで、「おまえの呼吸方法はおれが考案した呼吸の権利を侵害しているから今すぐその呼吸方法をやめろ」なんて言われる未来がくるかもしれない。





2025年8月20日水曜日

私はいつも他人の幸福を考えて生きている

 善行自慢をさせてほしい。

 ここ十年の間に私は落とし物を拾って交番または警察署に届けたことが四度ある。交通系ICカード、スマートフォン×2、財布だ。スマートフォンを落とした人はすごく困っただろうし、財布にいたってはちらっと中をのぞいたら数万円と各種カードが入っていた。

 相当な善行だ。もし私が地獄に落ちてもお釈迦様は縄ばしごを垂らしてくれるにちがいない。ヘリコプターで逃走する怪盗のようにハハハハハと高笑いしながら極楽に上がってゆける。


 スマートフォンを拾ったときに何か手掛かりがないかと起動してみたら、ハングル文字が表示された。たぶん韓国人のものだったのだろう。もしかしたら落とし主がこれを機に親日家になり、さらにその人が将来韓国の大統領になるかもしれない。そうすると私の善行が日韓関係の改善に大きく貢献することになる。すばらしいことだ。


 こうして拾得物による善行を重ねる一方、私は落とし物をして警察のお世話になったことがない。落とし物をしたことがないわけではないが、せいぜいマフラーとか折り畳み傘とか、「ちょっと惜しいけど買い替え時だとおもえばあきらめもつく」ぐらいのものばかりだ。

 折り畳み傘の場合は「もしかしたら私が落とした傘を誰かが拾って使っているかもしれない。そうすると私は傘を損したが人類全体で見ると幸福の総量は変わっていない」とおもえばちっとも悔しくない。私はいつも人類全体の幸福を考えて生きているのだ。あの日私が失ったマフラーだってホームレスのおじさんの首元を温めているかもしれない。

 落とし物でいちばん悔しかったのは買ったばかりの食パンを落としたことだ。会計後に買い物袋に入れたことははっきりおぼえているのに、家に帰ったら袋になかったので道中で落としたのだろう。パン屋さんで買った、ちょっといい食パンだった。三百五十円ぐらいのものだが、値段以上に悔しかった。なぜなら食パンの場合は、拾った人もたぶん食べてくれないからだ。きっとそのまま廃棄されているにちがいない。私も悔しいが、丹精込めてパンを焼いてくれたパン屋さんもさぞ悔しかろう。私はいつも他人の幸福を考えて生きている。


 私は一度も落とし物をして警察のお世話になったことがないので、“落とし物貯金”はずいぶん貯まっているはずだ。逆に「落とし物をしたが親切な人が届けてくれたおかげで無事に返ってきたけど、自分は一度も落とし物を警察に届けたことがない人」もいるはずだ。そういう人は、私がうんこを漏らしそうになっているときにはトイレの順番を譲るぐらいのことをしてもらいたい。なぜなら私がうんこを漏らしたらそのにおいによってあなたたちも不幸になるからだ。私はいつも他人の幸福を願って生きている。



2025年8月6日水曜日

変な名前に対する処世術

 六歳の娘が「こどもが生まれたらどんな名前をつけるか考えた」と言う。


「へーどんなの」

  「女の子だったら、かりん」

「へー。かりんちゃんかー。かわいい名前だね」

  「でしょ? で、男の子だったら、さいかわ!」

「さ、さいかわ……?」

  「そう!さいかわ!」

「(苗字みたい……)へー、えーっと、とってもめずらしい名前だねー」

  「でしょ!」

 そして娘は、母親のところへ走っていき、「ねえ聞いて、こどもが生まれたらどんな名前にするか考えた! めずらしい名前!」とうれしそうに語っていた。

 どうやらぼくの言った「めずらしい名前」という感想が気に入ったらしい。


 だが娘よ。

 君はまだ人生経験が浅いから知らないだろうが、おとうさんの言った「めずらしい名前だね」は褒め言葉じゃないぞ!

 悪いとは言えず、かといって良いとも言いたくないときに使う苦しまぎれの感想だ!

 おとうさんは、知人からこどもの名前を聞いて「変な名前」とおもったときは「へーめずらしいですねー」とか「クラスの誰ともかぶらなさそうですよね」とかで切り抜けてるぞ!

 変な名前をつけるやつは「唯一無二な名前であること」に異常に誇りを持っているから、そんな感想でもけっこう「そうなんですよー☆」と喜ばれるぞ!

 おぼえとくといいぞ!



2025年8月5日火曜日

ウナギとドジョウとヒトの呼吸

 ウナギはエラ呼吸だけでなく、皮膚呼吸もできるのだそうだ。だから泥の中でも動ける。落語で「ウナギをつかもうとしたらぬるりとすべって逃げるのでひたすら追いかけて、知り合いから『どこまで行くんだ』と言われたので『ウナギに訊いてくれ』と言った男」が出てくるが、あれもウナギが皮膚呼吸をできるから成り立つ噺なのだ。


 一方、ドジョウは腸呼吸ができるそうだ。口から息を吸い、腸から酸素を吸収。二酸化炭素は肛門から排出するのだそうだ。そのとき出た空気はドジョウのおならとも呼ばれるそうだ。

 このシステムはなかなかいいんじゃないだろうか。ヒトをはじめとする多くの陸上生物は、口にいろんな仕事を担わせすぎだ。噛みつく、咀嚼する、食べる、飲む、息を吸う、息を吐く。「息を吐く」だけでも他の器官が担当すれば、口の負担はずいぶん減るんじゃないだろうか。それに吸うのと吐くのが同じなんて効率が悪い。「吸いながら吐く」ができないじゃないか。掃除機だってエアコンだって換気扇だって吸うとこと吐きだすところは別口だ。

 ヒトも腸呼吸ならよかったのに。そしたらずっと肛門から空気が出ているわけだからおならも恥ずかしくないのに。でも痔になったりしたらずっと音が鳴っててそれはそれで恥ずかしいだろうな。



2025年8月4日月曜日

ファストパスはイヤだ

 ファストパスってあるじゃない。テーマパークで、高い金を出してファストパスを買った人は並ばずに優先的にアトラクションを体験できますよってやつ。

 あれ、いやだよねえ。

 最初に行っておくと、ぼくはディズニーランドにもUSJにも行かない。最後にディズニーランドに行ったのは2歳のときだし(もちろんまったくおぼえていない)、USJには会社のイベントで業務として行っただけだ。


 なので想像でしかないのだが、ファストパスはイヤだ。

「金の力で順番を抜かされる」のはもちろんイヤだし、逆に「金の力で順番を抜かす」のもイヤだ。ズルしてるようで後ろめたい。

 そもそもああいう場所で金のことを考えたくない。持たざる側に立つのも持ってる側に立つのもどっちもイヤだ。

 ぼくが好きなテーマパークは大阪のスパワールドなのだが(ただし夏場を除く)、あそこは水着が裸で移動するので「リストバンドでツケ払いをして帰るときに精算」というシステムをとっている。これは中でお金のことを考える必要がないのでたいへん気分がいい。


 ファストパスを売って売上を増やしたいという施設側の思惑もわかるのだが、それって短期的には収益上がっても長期的に見たらライトユーザーの印象を下げることにつながってマイナスなんじゃねえの? ともおもう。

 ぼくの意見としては、もっと収益を増やしたいんだったら入場料を上げてくれたほうがいい。そしたら入場者数は減るかもしれないけどその分待ち時間が減って居心地は良くなる。「行かない人」と「行って満足する人」に分かれるのが理想だ。前者はテーマパークを味わえないけど、時間も金も失っていないのでがっかり感は少ない。

 ファストパス制度は「行かない人」と「行って満足する人」の他に「行ったけど満足できない人」を生みだしてしまう。お金も時間も使ったのにあんまり楽しめなかったね、の人だ。これは最悪だ。行って楽しめないぐらいなら行けないほうがずっとマシだ。


 ファストパスじゃないけど、以前某テーマパークに行ったときの印象が最悪だった。とにかく従業員が足りていない。客は長蛇の列をつくっているのに従業員が少なすぎてまったくさばけていない。「乗物に誰も乗っていないのに、説明をする従業員がいなさすぎて乗れない」という状況だった。人が多くて乗れないのよりも腹が立つ。並んでいる人たちはみんなイライラしていた。ぼくも二度と行くもんか、とおもった。

 従業員がいないのはしゃあない。でも、対応できないならいっそ「今日はこのアトラクションは中止します!」とやってくれたほうがいい。遊べないとわかっていれば他のプランを考えられるのだから。


 今の時代、どれだけチケットが売れているか、どれぐらい客が来たらどれぐらい待つことになるかなんてリアルタイムですぐわかるはず。もっと賢いやり方があるはず。

 行くなら、「チケットは確実に買えるけどぜんぜん楽しくないテーマパーク」よりも「(枚数的、金額的に)なかなかチケットを買えないけど行ったら楽しいテーマパーク」だ。

 これから働き手は減っていく一方。海外からの旅行客は増えていて、あちこちで「需要はあるけど供給が追いつかず長時間待たせる」ことが増えてくるにちがいない。

 そろそろ旧来の「とにかくたくさんの人に来てもらう」やり方を捨てて、来てもらう人を絞って満足度を高めるほうに舵を切ってもらえないだろうか。単価を上げて同程度の売上を確保するやりかたもあるんじゃないかとおもうのだが。


 ま、ディズニーランドにもUSJにも行かないぼくにはほとんど関係のない話なのだが。

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おためごかしの嘘



2025年7月22日火曜日

そんじょそこらの人として生きる

 最近ふとおもう。

 昔の自分はおもしろいことを言おうとしてたなあ、と。


 逆に言えば、最近の自分はおもしろいことを言おうとしていない。

 たとえば、同僚から「脚痛いわ~」と言われたとき。


ぼく「どうしたんですか?」

同僚「昨日マラソン大会に出たんですよ」

ぼく「へえ。何km走ったんですか?」

同僚「フルマラソンです」

ぼく「フルマラソン? すごいですねー。普段から練習してるんですか?」


みたいな会話をする。ごくふつうのやりとりだ。順調に会話が進んでいく。


 でも若い頃はこうはいかなかった。

「昨日マラソン大会出たんですよ」と言われたら「1時間何分?」とか「なんで走らされたん?」とか「五輪選考会?」とか、“おもしろいこと”を言おうとしていた。いや、実際におもしろいかどうかはわかんないけど、とにかく“ふつうの人が言わなさそうなこと”を言っていた。いわゆる“ボケる”という行為だ。

 もちろん誰かれ構わずボケていたわけではなく気心の知れた相手に対してだけだが、とにかく「隙あらば笑いをとってやろう」と身構えていた。

 いや身構えていたというのは正確ではないな。なぜならべつに「笑いをとってやろう」と意気込んでいたわけではなく、デフォルトが「ふざける」で、これといったボケが思いつかないときだけ「ふつうに返答する」を選択していたから。それぐらいおもしろいことを言おうとするのがふつうだった。

 とにかく、おもしろい人間だとおもわれたかったのだ。そんじょそこらの人とはちがうとおもわれたかったのだ。



 そんなぼくも四十代になった。

 昨今では「ごくふつうの受け答え」が標準になった。聞かれたことに正面から答える。いちいちボケない。相手が望んでいるであろうリアクションをとる。

 よほど絶妙なタイミングでおもしろいことをおもいついたら口にすることはあるけど、基本は「どうってことのない返答」だ。とにかく、波風を立てないことが最優先。

 べつにおもしろい人とおもわれなくていい。そんじょそこらの人でいい。オレはチームの主役でなくていい。

 我執がなくなっているのを自分でも感じる。

 四十歳を過ぎて、この先自分が「特別な人」になる可能性がほぼなくなったから。

 結婚して、中年になって、もうモテる必要がなくなったから。

 子どもが生まれて、自分の人生が自分のためのものでなくなったから。


「そんじょそこらの人」として生きることにしてしまえば、人生はずいぶん生きやすい。

 なんせおもしろいことを言おうとしないのだからウケるタイミングを見計らう必要もない。スベることもない。「あいつおもしろいことを言おうとしてウケなかったな」とおもわれることもない。


 でも自分の変化に気づいてふっと寂しくなることもある。

 ふだんからおもしろいことを言おうとしなければ、反応速度も落ちる。だいぶん後になってから「さっきああ言えばウケただろうな」と気づくこともある。

 若い頃のぼくが今の自分を見たら、きっと「つまんないおっさん」とおもうだろうな。今のぼくには返す言葉もない。「そう、つまんないおっさんなんだよ」とつまんない返答をするだけだ。



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おまえの人生はないのかよ


2025年6月27日金曜日

テレビが強かった理由

 ちょっと前まで、テレビは強いメディアだった。誰もが認めるところだ。

 テレビの影響力はすごかった。視聴率10%だったら、単純計算で1000万人近くが観ていたわけだ。世帯視聴率なので実際はもっと少ないけど、それでも数百万、多ければ数千万人に同時にリーチできていたわけだから、とんでもないメディアだ。

 ある番組で健康にいいと言われた食材が翌日のスーパーから消えた、なんて話も聞く。1000万人が視聴して、そのうち5%が買いに行ったとしても50万人が買うことになるわけだ。それも同じ日に。すごい。


 今それに匹敵するメディアってないだろう(テレビ自身も含めて)。

 YouTubeを月に一度以上利用する人が、日本で7000万人ぐらいだそうだ。

 少し前ならテレビを月に一度以上視聴する日本人なんて100%に近かっただろう。月に一度どころかほとんどの人は日に一度以上は視聴していたはずだ。しかもYoutubeは観られている動画が無数にあるけど、地上波放送は数チャンネルしかない。ほとんどの人が同じものを観ていた。


 じゃあ昔のテレビがそれだけおもしろかったのかっていうと、必ずしもそうとは言いきれない。テレビが強かったのは「テレビがおもしろかったから」ではない。


 テレビの最大の強みは、「手軽に見られる」ことと「みんなが見てる」ことだ。

 まず手軽さだけど、リモコンのボタンを押すだけですぐに再生が始まる。テレビ放送の再生に特化したデバイスが居間にどんと置いてあって、ボタンを1個か2個押すだけで再生が始まる。

 パソコンの起動ボタンを押して、起動するのを待って、ブラウザを立ち上げて、検索するなりURLを入力するなりブックマークを探したりして目的のサイトを開き、そこで動画を検索し、再生ボタンを押すのに比べてずっと手軽だ。


 そしてみんなが観ていること。

 テレビの話題は、かなりの確率で共通の話題になりうる。いきなり映画や小説の話題を振ってくる人はあまりいないが、いきなりテレビの話題を振る人はけっこういる。

 以前、同じ職場のおばちゃんから朝いきなり「X(女優)とY(芸人)が結婚したのびっくりしたねー」と話しかけられて驚いたことがある。みんながワイドショーネタに興味を持っているとおもっているのだ。それぐらい芸能ネタというのは一般的な話題だ。

 人は「昨日のあのドラマ観た?」「こないだの〇〇おもしろかったなー」という会話をしたいものだ。だからネット動画になってもコメント欄がにぎわっている。


 テレビは娯楽の王様とか言われていたけど、決してテレビのコンテンツが優れていたからではないだろう。もちろんおもしろい番組もいっぱいあったが、それと同じぐらい、おもしろい映画、おもしろい小説、おもしろい舞台演劇もいっぱいあった。コンテンツ自体の強さでテレビに劣っていたわけではない。

 それでもテレビが圧倒的に強かったのは、手軽に、みんなが観ることができたからだ。


 昨今、テレビ業界も斜陽産業になりつつあるらしく、有料配信などの会員制ビジネスを始めたりしている。

 たぶんうまくいかないだろうな、とおもう。そういう囲い込みって、テレビの強みであった「手軽さ」「大衆性」の対極にあるものだから。


 ついでに言えば、新聞も似たようなものだ。

 日本の新聞が強いメディアだったのは、大衆性(みんなが同じような記事を読んでいる)と手軽さ(毎朝家に配達されるのでかんたんに読める)に依るところが大きい。

 だから多くの人が購読をやめて大衆性が失われれば読まなくたって平気だし、一度購読をやめてしまえばわざわざ買ってまで読もうとはおもわない。


 我々はとにかくめんどくさがりなのだ。


 仕事以外でパソコンを使う人が減ってスマホにシフトしているのも、やはり手軽さが理由だろう。

 だから今後スマホに取って代わるものができるとしたら、スマホを手に取って画面をオンにするよりも手軽なもの、たとえばまばたきするだけで眼前に映像が浮かびあがってくるようなメディアなのだとおもう。



2025年6月5日木曜日

小ネタ37 (ブザー /カレー / 植物の部位)

ブザー

 小学校に娘を迎えに行った。校門前で待っていたら小学生が大量に出てきたんだけど、数えてみたら五分ほどの間に防犯ブザーが七回鳴った(もちろんすべて誤報)。

 小学校の近くに住んでいる人で、防犯ブザーの音が聞こえたから様子を見に行く人、日本にひとりもいないとおもう。


カレー

 小学校に娘を迎えに行ったら、娘の口元にカレーがついていた。

 他の子も見てみたら、半分以上の子の口元にカレーがついていた。


植物の部位

 我々はいろんな植物のいろんな部位を食べている。

 実だけでなく、種子(豆など)、茎(ジャガイモなど)、根(ダイコンなど)、葉(キャベツなど)、花(ブロッコリーなど)と、ありとあらゆる部分を食べる。種類によって食べる部位が異なる。

 もしも宇宙からすごく強い生物がやってきて地球上の生物を食べることになったら、「チューリップは茎がうまい、キリンは脚がうまい、ハムスターは骨がうまい、ヒトは脳がうまい」みたいにあれこれえり好みを食べるのだろうか。

 どうせ食べられるなら全部残さず食べてほしい。


2025年5月27日火曜日

半径1メートルの世代論

 ある報道番組で、氷河期世代の特集をしていたらしい。

 そこに、氷河期世代のタレント二人がゲストとして出演して、「私たち氷河期世代の生きづらさ」を語っていたそうだ。

 番組は観ていないのだが、「自分の言葉として世代の苦しみを語ってくれていてほんとによかった!」という感想が多くSNSに投稿されていた。


 うーん……。

 番組を観ていないのでどんな番組だったかわからないが、その感想を見るかぎりは建設的な意見につながるとはおもえないなあ。

 アメトーークだったら「ぼくたち氷河期世代ってこんなにつらいことだらけなんですよー」「はい次、氷河期世代あるある~!」でいいんだけどさ。

 

 ゲストが「私たち氷河期世代の生きづらさ」をどれだけ語っても、それって結局「私の生きづらさ」、せいぜい「私と仲のいい数人の友だちの生きづらさ」じゃん。

 それはそれで価値がないとはおもわないけど、世代論ではないよね? だってあなたはあなたの世代しか生きたことがないんだから。


 人が「私たちの世代は大変だった」と語るときって、たいてい「私やその周りの人たち」と「他の世代のうまくいっている人たち」を比べてるんだよね。

 だって、うまくいっている人には、他の世代の「何もかもうまくいかなかった人たち」は見えないもの。


 同世代であればいろんな人の姿を見える。百社受けて全部落ちた一つ上の先輩。就職できずにずっと非正規で働いている同級生。引きこもっているらしいと噂で聞いたかつてのクラスメイト。精神を病んで自殺してしまった友人。

 自分の体験と知人の話を総合すれば、「つらい世代」エピソードはいくつも出てくるだろう。


 十歳上、あるいは十歳下の世代はどうだろう。「何もかもうまくいかなかった人たち」をどれぐらい知っているだろう。

 たぶん、(そういう人と関わる仕事をしていなければ)ほとんど知らないはずだ。なぜなら、“自分と歳の離れた引きこもり”は姿が見えないし噂にも聞かないからだ。

 我々がふつう関わる歳の離れた人は、自分と近い仕事をしている人だったり、誰かの親だったり、同じ趣味を楽しんでいる人たちだ。

 仕事や家族や趣味を通して他者とかかわる余裕のある人たちなんだから、ほとんどは「まあそれなりにうまくやっていけている人たち」だろう。


 だから我々は「自分たちの世代はつらかった」「他の世代はもっと楽に生きられた」とおもってしまいがちだ。実際にはどの世代にもそれぞれの苦しさがあるのに。

「あの世代は良かった」というとき、その世代のずっと孤独のまま死んでいった人たちのことは想像すらしないのだ。


 氷河期世代がつらくないとは言わない。

 でもそれは数々の統計的事実から明らかにすべきことであって、個人の「つらかった話」をいくら集めても世代論にはなりえない。


 その世代のタレントを呼んでつらかった思い出を語らせるのには、気の毒コンテンツとして楽しむ以外の効果はないんじゃないかなあ。


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2025年5月21日水曜日

小ネタ36 (サクマドロップ / 超能力戦士ドリアン / 高校生になってラグビーを始めたジャイアン)

サクマドロップ

 サクマドロップには2種類の味がある。「ハッカ」と「ハッカじゃないやつ」だ。


超能力戦士ドリアン

 妻に「超能力戦士ドリアンのライブに行ってくる」と言われた。まったく知らなかったが、そういう名前のバンドがいるらしい。

「地球儀持ってライブやるんでしょ?」と訊いたら「それは宇宙海賊ゴー☆ジャス」と的確にツッコまれた。結婚して10年以上たつとここまで心が通いあうのだ。


高校生になってラグビーを始めたジャイアン

「ALL FOR ONE, ONE FOR ONE」


2025年5月14日水曜日

レベルアップがゲームの醍醐味

 ロールプレイングゲームで、ゲーム中盤で仲間が追加されるイベントが発生することがある。

 そのとき、仲間のレベルが高いとがっかりする。加入した時点でLV30とか。


 やめてくれよぉ。

 制作者は「ここで弱いやつを入れても足手まといになるだろうしレベル上げ大変だろうからLV30にしといたるわ」って感じなのかもしれないが、余計なお世話だ。LV1にしてくれ!

 RPGの楽しさはレベル上げなんだよ。


 現実世界では、スポーツでも楽器演奏でも勉強でも、なかなかレベルは上がらない。何ヶ月も続けていけばレベルは上がっているが、それは「いつのまにか」であって、「おっ、今おれレベル上がった!」という瞬間はそう訪れない。

 たとえば野球で「カーブを投げる」という目標に向けて練習するとする。

「曲がらんなあ」

「あれ今ちょっと曲がった気がする」

「けっこう曲がった……かな?」

「あ、今のは失敗」

「ちょっと曲がったけどぜんぜんストライク入らねえ」

「曲がってる!」

みたいな感じでグラデーション的に成長していく(ときには後退することもある)ので、はたしてどの時点をもって「カーブを習得した」と言えるのかよくわからない。

 でもゲームなら「ピロリロリン♪ やった!大谷はカーブを習得した!」みたいなメッセージがあって、そこからは自由自在に投げられるようになる。このわかりやすさこそがゲームの魅力だ。



 その楽しさをいちばんわかりやすく味わえるのがロールプレイングゲームだ。

 レベルが数値化されていて、レベルが上がればパラメータも変化して、レベル以外にも武器の強さとか魔法のパワーとかも数字でわかって、自分の分身が成長していることがはっきりわかる。

 レベル上げこそロールプレイングゲームの醍醐味だ。

「LV30で加入してくる仲間」はその楽しさを奪っている(あとゲームスタート時に主人公のレベルが5とかになってるやつも意味わかんない。序盤にレベルが下がることはまずないんだからスタートは1でいいだろ)。


 ぼくが大好きなのは、「中盤で加入してくるレベルの低いやつ」だ。

 たしかにレベルが低い仲間は足手まといだ。戦力にはならないし、それどころかどんどん回復してやらないとすぐ死ぬし。

 その代わり、敵を倒したときはぐんぐんレベルが上がる。一気に2以上もレベルアップすることすらある。ドラクエの「てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪」が鳴りやまないときなんて、最高に楽しい。



『ポケットモンスター』が人気になった要因のひとつが、実はこの「レベル上げの快感をいっぱい味わえること」なんじゃないだろうか。

 ふつうのRPGならレベルが上がるのはせいぜい数百回だ。4人のキャラクターが1→100までレベルアップしたら、99×4で396回。じっさいはLV99まで上がらないこともあるし、前述したようにLV30から加入するやつもいたりするから、もっと少ない可能性もある。

(最近のゲームをやってないので昔のRPG基準で話してます)


 一方、『ポケットモンスター』では100を超えるポケモンを仲間にできるので、それぞれ育成させれば合計で数千、数万回もレベルアップする。

 さらにパラメータの上昇だけでなく「わざをおぼえる」や「しんか」といった、わかりやすい成長イベントも発生。

『ポケットモンスター』はレベルアップを楽しむためのゲームなのだ。



2025年5月12日月曜日

小ネタ35 (オヤジギャグ)

オヤジギャグ・1

 50代男性が「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど」と言っていて、そのザ・オヤジギャグに感心してしまった。

 丁寧に解説をすると

  • 「若者言葉のワンチャンをわからない自分」を俎上に上げて楽しんでいる
  • くだらないダジャレ
  • 今思いついたのではなく何度か口にしているかのようにすらっと出てきた
  • 2ちゃんというのが絶妙に古い。2ちゃんねるが5ちゃんねるになったことには対応していない

と、これぞオヤジギャグという点が目白押しだ。


オヤジギャグ・2

 ところで最近オヤジギャグという言葉をあまり聞かなくなった。最近のオヤジはあまりダジャレを言わない気がする。

 少し前(といっても二十年前ぐらい。ぼくもオヤジなので二十年前は少し前なのだ)は「オヤジってすぐダジャレを言うよね。キモ~い」みたいな風潮があったのだが、「ダジャレを言うオヤジは嫌われる」という意識が浸透しすぎたからだろうか。

 それとも「1950年代のオヤジが特別にダジャレを好きだった」といった世代の特徴だったのだろうか。

「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど~」のオヤジはいまや絶滅危惧種かもしれない。国を挙げて保護したほうがいい。


オヤジギャグ・3

 作業着をだましとったとして詐欺容疑で逮捕。


2025年5月7日水曜日

小ネタ 34 (説明しすぎる安西先生 / 説明しなさすぎる三井寿 / 宇宙船ドッキリ)

 

説明しすぎる安西先生

もう勝てないと諦めて逆転に向けて努力することをやめたらもう逆転することはないだろうからその時点で勝敗は決まってるようなもので、それってつまりそこで試合終了したのと同じだと言っていいとおもいますよ。


説明しなさすぎる三井寿

したいです……したいです……したいんです……したいんですよ……したいんですってば! だ・か・ら! したいんです!!


宇宙船ドッキリ

 宇宙船の乗組員になったらやりたいこと。ネジをひとつ船内に転がしておく。

 無重力になったらネジがふわふわと漂ってきて、「どこのネジが外れたんだ!?」とみんながパニックになるだろう。



2025年5月1日木曜日

ハンバーガーの値段、牛丼の値段

 ぼくが高校生のとき、マクドナルドのハンバーガーは59円だった。デフレどまんなかの異常価格だ。

 高校生といえば、行動範囲が広がって外食の機会は増え、けれど金がない時代。マクドナルドにはお世話になった。


 それもあって、ハンバーガーといえばいちばん安くて59円、トッピングをしてもせいぜい200円か300円ぐらいのもの、という“基準”ができてしまった。

 この“基準”はかなり長いこと残った。さらにマクドナルド以外にも適用されて、専門店の「ハンバーガー1,000円」なんて値段表示を見るたびに「200円か300円ぐらいで買えるハンバーガーに1,000円も出すなんて!」という気持ちになった。

 そのくせ、洋食屋の「ハンバーグ&パンのランチセット」だと1,200円であっても高いとはおもわない。ちょっとした洋食屋でランチを食べたらそんなもんだろうな、という気になる。

「ハンバーガー」も「ハンバーグ&パンのランチセット」もほとんど同じものなのに、前者は“マクドナルド基準”が適用されて「200円か300円ぐらいが相場」とおもってしまう。


“基準”は牛丼にも適用される。

 牛丼というと、吉野家やすき家や松屋の牛丼を想像してしまう。400円ぐらいのもの、という感覚だ。牛丼に1,000円は出さない。

 でも、ちょっといい感じの定食屋に「牛煮つけ定食 1,000円」というメニューがあったら特に抵抗なく頼める。牛丼なら600円でも高いとおもうけど牛煮つけ定食なら1,000円でも高くない。ほとんど同じものなのに。

 牛丼チェーンのせいで“基準”ができているのだ。これはぼくだけでなく、世間一般に広く認められている“基準”だろう。


 逆のパターンもある。寿司だ。

 寿司ははじめに高級感を持たせることに成功した。2個1,000円を超える寿司もめずらしくない(話はそれるが、堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』によれば寿司が1貫、2貫と数えられるようになったのは平成初期だそうだ。この後付けの伝統感も高級路線に一役買っているにちがいない)。

 だから回転寿司で1皿100円とか150円とかの値を見ると、すごく安いような気がする。寿司の“基準”はもっと高い位置にあるからだ。

 でも寿司ってそんなに高級であるべきものだろうか。たとえばコンビニおにぎりと比べても、入っているものもマグロ(ツナ)とかサーモンとかそんなに差はない。なんならおにぎりのほうがずっとご飯の量も多くて食べごたえがある。

 なのにおにぎりは庶民色の代表みたいな感じでいて、寿司の方は高級食でございという顔をしてふんぞりかえっている。これは最初の“基準”の設定に成功したからだろう。


 まったく新しい料理を開発したときは、まず最初は1食5,000円とかのべらぼうな値をつけて“基準”を引き上げておいて、それから「なんとあのホゲホゲ丼が1,000円で食べられます!」みたいにお得感を与えてやるほうがいいね。


【関連記事】

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』


2025年4月25日金曜日

自転車で公道を走りにくいときのたったひとつの冴えたやりかた

  NHKニュース『自転車交通違反に「青切符」来年4月からの方針 反則金の額は…』

警察庁は自転車の交通違反に対して、車やオートバイと同様に反則金の納付を通告するいわゆる「青切符」による取締りを来年4月1日から行う方針を固めました。反則金の額については携帯電話を使用しながら運転するいわゆる「ながら運転」を1万2000円とするなど、違反によって異なっていて、警察庁はパブリックコメントを実施したうえで、政令を改正することにしています。

 自転車の交通違反に対する罰則が強化されるらしい。

 携帯電話を使用しながら運転する「ながら運転」や信号無視、二人乗りのような明らかな違反はもちろん、一時停止、右側通行、歩道通行、傘差し運転、並んで走行のような「99%のライダーは一度はやったことがあるであろう」違反までが罰金の対象になるという。


 大賛成だ。もっとも制度を定めるだけでは意味がないので、じゃんじゃん取り締まってほしい。なんなら民間の取締員なんかを雇って大々的にやってくれ。

 とはいえすべての道路において等しく適用するのにはちょっと無理があるとおもう。

 たとえば郊外だと、「車やバイクはびゅんびゅん飛ばしていて、広い歩道には歩行者はほとんどいない」道がある。こんな道で、歩道を自転車が並んでゆっくり走っていても、危険でもなんでもない。すべてを厳しく取り締まれという気はない。

 あくまで他人に迷惑をかけている場合に限って、厳しく取り締まってほしい。


 歩行者としては、自転車に危険な目に遭わされることがよくある。特にぼくは幼い子を連れて歩いているのだが、歩道を歩いていてもけっこう怖い。ぜんぜんスピードを落とさず歩道を走る自転車がいる。ぼくが車道側を歩くようにしているのだが、わざわざ子どものいる側(車道と反対側)につっこんでくる自転車がいる。歩行者に対してベルを鳴らす自転車乗りがいる。傘をさしたまま歩道を走って、傘がぶつかってもおかまいなしで進む自転車がいる。

 控えめに言っても自転車乗りのマナーは最悪だ。もちろん全員ではないだろうが、ここ一年以内にひとつも違反をしたことのない自転車乗りは全体の5%もいないだろう。つまり最悪ってことだ。


 一方、罰則強化に対して不満の声も上がっているらしい。

「大型トラックとかがすれすれを走ることがあり、狭い車道を走るのは危険だ」

「罰則強化の前に自転車が安心して走れる道を整備してほしい」

「自転車専用レーンがあっても一時停止や駐車違反の車があって走れないことがある」

など。

 なるほど、なるほど。ぼくも一時は毎日のように自転車に乗っていたからよくわかる。たしかに車道を走るのは危険だし、自動車のマナーも悪いもんね。走りにくいよねー。



 安心してほしい、そうした不満を解決するかんたんな方法がある。

 自転車を降りて、押して歩道を歩くのだ。

 これですべて解決。はい、よかったね。


 はっきり言って、道が狭かろうが、路上駐車があろうが、そんなものは車両が歩道を走っていい理由にはならない。

 考えてみてほしい。車だって、いつでも好きなように走っているわけではない。路上駐車があってすれちがえなかったり、信号無視をする歩行者がいたり、車道に猫がいたり、いろんな事情で通行を妨げられる。

 そんなときに「危ないけど周囲が避けてくれるだろうという気持ちで突っ込みました」「路駐が邪魔だったので車で歩道を走ることにしました」「猫がいたから、対向車が来てるけど右車線を走ることにしました」といったことが許されるだろうか? そんな言い訳をしても、頭のおかしいドライバーとしかおもわれないだろう。

 だが、その頭のおかしい発想をする自転車乗りはいっぱいいる。しょうがないから歩道を走りました、じゃないんだよ。安全に走れないんなら止まるんだよ。



 車を運転していて「このまま進むとぶつかるかもしれない」と感じたらどうするか。止まる。または徐行する。ドライバーならあたりまえにやっていることだ。「しかたなく歩道を走る」「しかたなく逆走する」なんて選択肢はない。

 自転車も同じことをすればいいだけだ。

 幸い、自転車には「押して歩けば歩行者になれる」という強力な武器がある。これは車にはない選択肢だ。

 安全に通れないとおもったら(自分の安全だけでなく、もちろん歩行者やドライバーの安全も含む)止まる。そして安全になるまで待つか、自転車を押して歩行者として歩く。

 これで解決する。歩行者になったら歩道だって横断歩道だって道路の右側だって堂々と通れる。よかったね。

 これでほぼすべての問題が解決する(「歩道橋だけあって横断歩道がない」道とかはちょっと困るが、そんな歩道橋にはまずまちがいなくスロープがある)。


 自転車を降りて押して歩いてたら遅くなるじゃないかって?

 そうだよ。あたりまえじゃない。

 車だって、いつだって制限時間いっぱいで走れるわけじゃない。制限速度60km/hの道でも、止まったりスピードを落としたりして走るから、実際に進むスピードはもっと遅くなる。それを考慮に入れて早めに出発する。自動車ドライバーなら誰もがやっていることだ。


 自転車ライダーの公道に対する不満って99%が「自転車を降りて押して歩道を歩けばいいじゃない」で解決するんだよね。

「安全に進めないときは止まるか降りるかすればいい」という思考のできない自転車乗りが多すぎる。

 こち亀の両さんが「生きるか死ぬかで悩むな。悩んだらまずは“生きるモード”に切り替えて、そこから“どう生きるか”を悩め」と言っていたが、多くの自転車乗りがこれと同じで、危険がさしせまっていても“走るモード”を選び、そこから“どう走るか”を考えてる。

 人生と自転車はちがうんだから、ちゃんと“止まるモード”や“歩くモード”を選べよ。



 これはあれだな。

「安全に進めない状況なのにむりやり進んだ自転車乗りは死後、裸足で自転車に乗せられ、熱々の鉄板の上を延々と走らされ、疲れて足をおろすと大やけどをする無間業火鉄板サイクリング地獄に落とされるよ」

と教えてあげるべきだな。




2025年4月8日火曜日

小ネタ 33(だんごとたいやき / 用紙切っちゃいました / 藤子不二雄)


だんごとたいやき

『だんご3兄弟』の歌詞には「だんご」というフレーズが25回も出てくる。

 一方、『およげたいやきくん』に「たいやき」というフレーズは終盤に2回しか出てこない。

 子ども向け番組から生まれたヒットソング、和菓子をテーマにしている、という共通点がありながら、歌詞のつくりにはずいぶん差がある。

『およげたいやきくん』がヒットした1975年は直接的な表現をしなくてもみんな文脈を読んで理解できたが、『だんご3兄弟』が発表された1999年にははっきりと説明しないと伝わらなくなった。これは読書離れが進み子どもたちの読解力が低下してからだ……というようなことはもちろんない。


用紙切っちゃいました

 いちいちシュレッダーかけるの面倒だな……。

 そうだ!

 あらかじめ裁断しておいた紙を作って売ろう!これでいちいちシュレッダーする手間が省けるぞ!


藤子不二雄

 藤子不二雄はFとAに分かれた後、扱っているテーマに大きく差が出た。藤子不二雄Aは、ゴルフ、麻雀、ギャンブル、バー、女遊びなど「大人の世界」を描くことが増え、藤子・F・不二雄は一貫して「子どもの世界」を描きつづけた(大人向けSF作品も描いているが、その中でもギャンブルや性についての描写は少ない)。

 ピッコロが善の神様と悪のピッコロ大魔王とに分化したように、藤子不二雄も大人の心と子どもの心に分かれたのかもしれない。


2025年4月7日月曜日

小ネタ 32(結露 / 断熱性能 / 六角形)

結露

 半年ほど前に引越しをしたのだが、今の家は結露がひどい。冬の朝は窓ガラスに露がびっしりついていて、窓の下がびちょびちょになっている。しかたなく毎朝窓を拭く。

 前の家はこんなことはなかった。前の家は古かったので断熱性が悪く、家の中も寒かった。だから室温と外気温の差が小さく、あまり結露しなかったのだろう。断熱性が高いのも良し悪しだ。

 結露する分空気が乾燥するので、寝る前に濡れタオルを干して加湿している。加湿された分の水分が朝になると窓ガラスについている。結露させるためにタオルを干しているような気がする。

 窓ガラスの水分をとりつつ、その水を使って空気を加湿させる仕組みはないものか。


断熱性能

 以前、家の構造に詳しい人の話を聞いたことがあるのだが「断熱のこと考えたら窓なんていらんねや!」

 そのときはなんて無茶な意見を言うんだとおもったが、たしかに窓は断熱の敵だ。夏は窓から熱が入ってくるし、冬は熱が逃げる。おまけに結露する。

 景観や風通しといった“住人の気分”は無視して、家のことだけを考えれば窓がないほうがいいかもしれない。

 もっと言えばドアもないほうがいい。完全密閉された壁だけの家なんて最高だ。


六角形

 六角形は漢字の読み通りなら「ろくかくけい」、発音は「ろっかっけー」だが、ひらがな表記はそのどちらでもない「ろっかくけい」だ。八角形、十角形、十一角形なども同様。

「洗濯機」は発音は「せんたっき」でもかな表記するときは「せんたくき」だが、数字は促音便をそのままかな表記することが許されている。

 たぶんだけど、かなり日本語に堪能な外国人でも「六角形のよみがなを書いてください」という問題に正しく答えられる人は少ないとおもう。これぞクイズヘキサゴン。