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2018年7月18日水曜日

2018年FIFAワールドカップの感想


2018年FIFAワールドカップの感想。
10試合ぐらいはリアルタイムで観戦、残りはダイジェストで観戦。
気になったチームの感想だけ。日本の試合は観てないのでパス。

■ ロシア

世界ランキング70位と出場国中最下位でありながら、グループリーグでサウジアラビアとエジプトに圧勝し、決勝トーナメントではスペインも破り、クロアチアともPK戦までもつれるという大健闘。
ちょっとしか観てないけど、ふつうに強かったね。うまかったし、走りまくってたし。とても70位のチームとは思えなかった。これがホームの力か。

■ スペイン、ポルトガル

スペインーポルトガルはリアルタイムで観てたけどおもしろかったなあ。3-3というスコアもさることながらプレーが華やかだった。これぞワールドクラス、というゲームだった。
グループリーグ初戦でぶつかった、というのもよかった。初戦だから「勝ち点3がほしい」「負けても次がある」ということで、お互い果敢に攻めていた結果だね。もっと後で対戦していたら3-3にはならなかっただろうね。

■ フランス

予選では大勝こそしていなかったものの堅実な勝ちっぷりで、これはいいとこまでいきそうだなあ、という印象だった。優勝したから言うわけじゃないけど。守りの固いチームじゃないと勝ち続けるのは難しいよね。
アルゼンチン戦のエムバペはうまくて速くてかっこよかった。
ただ、準決勝のベルギー戦の終盤でエムバペが汚い時間稼ぎをしていたのでいっぺんに嫌いになった。ピッチ内ならどれだけ時間稼ぎをしてもいいけど、ボールが外に出てから時間稼ぎをするのはいかん。
ただ、時間稼ぎにキレたベルギー選手にどつかれて、どつかれたエムバペがイエローカードでどついた選手がおとがめなしだったのは笑った。ぼくでもどついてたな。ああいうプレーにはレッドカードを食らわせてほしい。

■ クロアチア

イビチャ・オシム氏のファンなので、旧ユーゴスラビアの躍進はうれしい。
今大会一番好きになったチーム。
モドリッチはかっこよかったなあ。あれだけうまいのに、誰よりも一生懸命走るし、身体を張って守備にも参加するの、めちゃくちゃすごくない? いちばんうまいやつがいちばんがんばってるんだよ。ネイマールは見倣え。
32歳だから次の大会では見られないのかなあ。寂しい。

決勝の後半で1ー4になったとき、クロアチアのマンジュキッチが相手キーパーの前まで詰めていって相手ミスを誘って1点をもぎとったのもほんとにしびれた。めちゃくちゃ疲れている時間帯で、まず逆転不可能な点差がついて、それでもわずかな可能性のために懸命に走る。すげえ。あんなのできないよ。

たぶん個々の実力でいったらクロアチアはベスト8にも入らないぐらいじゃないかな。それでも各選手の献身的なプレーで準優勝に輝いた。いやあ、いいチームだった。

■ アルゼンチン

グループリーグは1勝1敗1分で辛くも突破したものの、決勝トーナメント1回戦でフランスにあっさり敗北。チームは相変わらずのメッシ頼み、テレビ的には相変わらずのマラドーナ頼みで、相手チームにしっかり対策をされたメッシはこれといった活躍はできず。
一人のスーパースターがチームを優勝に導く時代は遠い昔のものになったんだということを、メッシとマラドーナが教えてくれた。

■ ナイジェリア

ナイジェリアはいつ観ても楽しい。サッカーが華やかなのもあるが、何より人が陽気だ。ナイジェリアが得点を決めて踊るところをもっと観たい。ガーナとかカメルーンとか、中央アフリカの人って陽気だから観ていて楽しいよね。ワールドカップを盛りあげるために「中央アフリカ枠」を用意しておいてほしい。

■ セルビア

イビチャ・オシム氏のファンなので、旧ユーゴスラビアの躍進はうれしい。さっきも書いたな。
予選敗退だったけど、地に足のついたサッカーでブラジルとスイスを苦しめた。惜しかったなあ。

■ ブラジル

ネイマールの大げさに転がる演技が話題になっていたけど、ネイマール以外もひどかった。ブラジル人、転がりすぎじゃね?
弱いチームが戦術としてやるならともかく、ブラジルには横綱相撲をとってほしいな。今回はVAR(ビデオ副審)が導入されたことでブラジル選手の三文芝居が次々に明るみにでてしまった大会でもあった。メキシコ戦観てたけど、なんかもう観ているこっちが恥ずかしかった。ベルギーに負けてくれてよかった。

■ メキシコ

前回大会でブラジルとスコアレスドローに持ちこんだ守護神・オチョアが健在。
初戦でドイツを破り、スウェーデンに大敗しながらもドイツが敗れたおかげでまさかの決勝トーナメントに進出するも、ブラジルの技術の前に敗れて7大会連続でベスト16で敗退となかなかドラマチックな展開を見せてくれた。
ずっと「そこそこ強い」のって逆にすごいよね。

■ ドイツ

前回大会優勝、ヨーロッパ予選は全勝という輝かしい実績をひっさげてやってきた圧倒的優勝候補だったが、初戦でメキシコに敗れ、スウェーデンには終了間際のゴールで辛勝するも、韓国にまさかの敗退を喫してあえなくグループリーグ敗退。
いやあ、ドイツが優勝すると思ってたんだけどなあ。ずっとちぐはぐな印象だった。組織力で勝つチームはひとたび歯車が狂うとボロボロになるのだということを教えてくれた。
でも、もしもグループリーグ突破して立て直していたら連覇もあったんじゃないだろうかと思わせてくれるうまさはあった。

■ ベルギー

スター選手がそろっていて、ひとつひとつのプレーが華やか。観ていていちばん楽しいサッカーをしてくれたのがベルギーだった。
特にでかくてうまくて速いルカクがいい。でかくてうまい選手ってなかなかいないよね。決勝トーナメントでもっと活躍してくれると思ってたんだけどなー。

■ イングランド

GKのピックフォードが「映画に出てくるイギリスのいじめっ子の少年」みたいな顔で、見るたびに笑ってしまった。子ども時代、『スタンド・バイ・ミー』か『グーニーズ』か『ハリー・ポッター』に出てなかった?
相手のミスを誘ってセットプレーで点をとり、守り切って勝つというサッカー。今大会の躍進はVAR(ビデオ副審)導入のおかげかもしれない。
観ていて楽しいサッカーじゃないよね。こういうチームもあったほうがいいけど。



ワールドカップは、世界最先端の映像技術が活躍する大会でもある。
2014年にはゴール判定システムで「すげえ!」と思ったけど、今大会はドローンによる空撮技術とかNHKアプリのマルチアングル映像とかに興奮した。次の大会とかは3Dパブリックビューイングとかあるかもなあ。

スタジアム内の広告を観ていたら、蒙牛乳業っていう中国の会社の広告が目についた。ぼくが十五年ぐらい前に中国にいたとき、よく蒙牛のアイスクリームを食べていた。懐かしい。
他にも中国の企業の広告が目について、つくづく中国は経済大国になったんだなあと実感した。今回中国は出場していないのに広告を打つということは、海外向けなんだろうなあ。

ぼくはワールドカップでしかサッカーを観ないにわかファンだけど(しかもダイジェストで観ることが多い)、やっぱりワールドカップって楽しいよね。
サッカー関係者は「ワールドカップで興味を持ったらJリーグも観てよ」なんていうけど、ワールドカップを観た後だとJリーグの試合なんて観てられない。ちんたらやってんじゃねえよ、という気になる。女子サッカーも。日本代表の試合も。だから観ない。

サッカー自体ももちろんおもしろいんだけど、駆け引きの生まれるグループリーグシステムとか、観客席にも国民性が出るとことか、いろんな国の老若男女がばか騒ぎしているとことか、プレー以外のところもお祭り感があってワールドカップは楽しい。

参加国数を倍の64ぐらいに増やしてもっと長くやってほしいぐらい。やっぱりイタリアとかオランダとか見たかった。
と思っていたら、2026年からは48チームになるらしいね(2022年からになる可能性もあるらしい)。楽しみだ。


2018年7月17日火曜日

もうダンス教室やめたい


娘のおともだち(四歳)がダンス教室に通っている。
「ダンス教室楽しい?」と訊くと、「もうダンス教室やめたい……」と云う。

「なんで? この前はダンス好きって言ってたのに」と尋ねると
「踊るのは楽しいけど、新しいダンスをいっぱい覚えないといけないし、せっかく覚えたダンスはやらせてもらえないし、まちがえたら怒られて何回もやりなおさないといけないし、もうイヤ……」
と返され、そのあまりにまっとうな理由に思わず言葉を失った。

四歳児の抱えるつらさがはっきりと実感できた。
それはつらいよね……。
ダンスが好きなのに、好きなダンスを踊れないんだもんね。




子ども向けサッカー教室をやっている知人から聞いた話では、最近のサッカー教室では技術的なことを教えずに「とにかくサッカーをやりましょう」という方針のところが増えているそうだ。
まずはサッカーのおもしろさを教えるのが先、おもしろいと思ったらうまくなるにはどうしたらいいかと自分で考える、そのときに誤った方向に行かないようにうまく手助けしてやるのが指導者の役目だ、という話を聞いた。

それがいちばんいい、と思う。
ぼくは小学校二年生から五年生までサッカーチームに入っていた。自分から「サッカーやりたい!」と行って入部したのだが、リフティングを〇回やれるように何回も練習しなさいだの、三角コーンの隙間を縫ってドリブル練習しなさいだの、シュートをして決まらなかったらグラウンド一周だのと言われているうちにすっかり「サッカーやりたい」という気持ちが消えてしまい、練習に行くのを苦痛に感じることも多くなった。
ぼくはサッカーがやりたかったのに。リフティングも三角コーンドリブルもグラウンド一周もサッカーじゃなかった。

むずかしいことはいいからサッカーのゲームをしましょう、という方針だったらぼくも続けていたかもしれない。



四歳児のダンスなんて、上手に踊れなくたっていいじゃないか、と思う。
ちっちゃい子が音楽にあわせてうごうご動いてるだけでも十分観ていて楽しい(親は)。

子どもがダンスをまちがえてもかわいい。
緊張して動けなくなっていたら応援したくなる。
一生懸命やっていたら感心する。
そしてなにより、楽しそうにやっていたらうれしい。

子どもダンス教室なんて、そんな感じでいいじゃない。

子どもをダンス嫌いにさせないこと、それが子どもダンス教室の最大にして唯一の使命だ。


2018年7月16日月曜日

地頭がいい人


いろんな企業の採用担当の人と話す機会があるのだが、
「地頭(じあたま)がいい人」
というフレーズをよく耳にする。

必ずしも学歴重視ではないが頭の回転がはやい人、みたいな意味で使われる。
「べつに高卒とかでもいいんですが、地頭がいい人に来てほしいです」のように。

ぼくはその言葉を聞くたびに、心の中で首をかしげる。
たしかに学歴は低くても頭の回転のはやい人はいる。
でもそういう人を表現するのは「頭がいい」でいい。わざわざ「」という接頭語をつける必要はない。

「地頭がいい」とは、「今は頭は良くないがすぐに良くなる」という意味なのだ。
だが、そんな人はいない。



「地頭がいい」という言葉を使う人は、
「今は頭が良くないけどなにかの拍子に頭の良さが開花する人」が存在すると思っているのだろう。
漫画の主人公がある日突然自分の眠っていた才能に気づくように、素質を持った者が聖なる弓矢に撃たれたとたんにスタンド使いになるように、「ある日突然頭がよくなる」ことがあると思っているのだろう。

あたりまえだが、そんなことはありえない。
素質だけで頭の良さが決まるのは三歳までだ(もっと早いかもしれない)。
頭の良さは、素質×トレーニングの量で決まる。そして大人になるほど後者の重要性が大きくなる。
二十歳をすぎて頭の良くない人が、急に頭が良くなることはない。トレーニング量が圧倒的に足りないから。
一念発起して必死に勉強したとしても、ずっと勉強してきた人にはまず追いつけない。

たくさんトレーニングをしてきた人ほどトレーニングのやりかたがうまいので、仮に同じ時間トレーニングをしたとしてもその差は開くばかりだ。



「地頭がいい」は、スポーツでいうところの「運動神経がいい」に相当するのかもしれない。

「運動神経がいい」とは、「トレーニングをしたときの上達するスピードが早い」や「十分なトレーニングをしたときに高いレベルに達することができる」である。「トレーニングをしなくてもできる」ことではない。
どんなに運動神経がいい人も、生まれてはじめてバッターボックスに立ったときは空振りする。

「トレーニングしたらプロ野球選手になれる人」と「どれだけトレーニングをしても野球選手になれない人」の違いはある。その差こそ「持って生まれた運動神経」の差だ。
だが「野球をやったことないけど素質だけでプロ野球選手になれる人」は存在しない。

「もし小さい頃から野球やってたらプロになれたであろう人」はいるだろうが、彼が今後野球選手になることはない。

同じく「地頭がいい人(=素質はあったけどトレーニングをしてこなかった人)」も、永遠に「地頭いい人」のままだろう。


2018年7月15日日曜日

椅子取りゲームで泣いた話


四歳の娘が云う。

「あのな、今日保育園でゲームして勝てなくて泣いちゃってん。椅子取りゲームをしてんけどな、ずっと勝っててんけど最後にRくんがズルしてん。ほんまは先に椅子を触ったらあかんけど、先に椅子を持っててん。それで負けたから泣いちゃってん。でも先生はRくんがズルしたこと知ってて、(娘)にがんばったねって言ってくれてん」

これ自体は大した出来事じゃないんだけど、

起こったことを他者にわかるように順を追って説明したり、

伝わりにくい点を補足したり、

自分の感情がどう動いたかを表現したり、

うまく伝えることができるようになったんだなあとしみじみと感心した。


2018年7月13日金曜日

ぼくたち見せしめ大好き!


『人口減少社会の未来学』という本の中で、平川克美氏がこんなことを書いていた。

 もし、晩婚化から早婚化へのベクトルの転換が難しいとするならば、少子化対策として可能な政策はひとつしかない。それは、結婚していなくとも子どもが産める環境を作り出すこと以外にはないだろう。
 少子化をめぐる状況を、改善のすすまない日本や韓国と、ある程度歯止めがかかったヨーロッパとの比較で見ていると、顕著な相違に気付く。その相違とは、婚外子率である。フランスもスウェーデンも婚外子率が5割を超えている。ヨーロッパの中で、日本と同じ家族形態を持っていたといわれるドイツでさえも35%という数値を示している。
 これに対して、日本の婚外子率は、1桁以上少なく、わずかに2.3%でしかない。韓国はさらに低く1.9%である。つまり、法律婚をしていないで子どもをもうけることは、儒教的なモラルに縛られているアジアにおいてはほとんどタブーのような扱いになっているということである。
 日本における少子化対策は、婚姻の奨励や、子育て支援が中心である。フランスやスウェーデンにおける少子化対策は、日本や韓国とは向かっている方向が逆で、法律婚で生まれた子どもでなくとも、同等の法的保護や社会的信用が与えられるようにすることであった。婚姻の奨励や、子育て支援といった個人の生活の分野には、政治権力が介入するべきではないと考えているからだ。むしろ、人権の拡大や、生活権の確保といった方向に、この問題を解決する鍵があるということである。

ここには少子化を(少しだけ)食い止めるヒントが書かれている。
婚外子の保護を手厚くすることだ。

でも。
断言してもいいが、絶対に日本は「結婚してない親から生まれた子どもを支援する」方向には舵を切らない。
フランスやスウェーデンだって結婚せずに子を生むことを推奨しているわけではない。ただ「結婚せずに生まれた子も差別せずに、むしろ積極的にサポートしていきましょう」と言っているだけだ。
日本はそれすらやらない。やれない。「むしろ積極的に差別していきましょう」という方針を貫く。



他の国はどうだか知らないので比較はできないが、日本人は"見せしめ"が好きだ。人類に共通する習性かもしれないが。

犯罪者が罰を受けることに対して、ほとんどの人は「被害者への償い」「犯罪者の更生」だとは考えていない。「他の人への見せしめ」と思っている。
だから遺族が望まなくても被害者の実名や写真を公表するし、報道に「冤罪だったら」「加害者が刑期を終えて一般市民に戻ったら」なんて視点は少しもない。
あるのは「悪いことをしたやつはこうなるんだぞ。わかったな」という見せしめ意識だけだ。磔(はりつけ)刑の時代とやっていることは変わらない。

見せしめだから、冤罪であっても関係ない。被害者が報道を望んでいなくても関係ない。補償も更生も気にしない。
それが冤罪であっても、犯罪を大々的に報道することは「悪いことしたらこうなるんだぞ」という見せしめには有効だ。





「結婚してから子どもを産んだほうがいい」という考え自体は、世界中ほとんどの文化で主流を占める考えだ。
でも"見せしめ"が好きな人たちは「結婚してから子どもを産んだほうがいい。だから結婚せずに子どもを産んだら不幸になるべきだ」と考える。そうすれば結婚せずに子どもを産む人間は減るだろう、と。

この手の考えはあちこちに蔓延している。
「高校を中退したやつはまともな仕事につくべきじゃない」
「不倫をしたやつはテレビに出るべきじゃない」
「あくどい儲け方をしたやつはろくな死に方をしない」
「夫婦別姓なんか選択する家庭の子どもはつらい思いをする」

赤の他人が高校中退しようが、不倫をしようが、法律スレスレのやりかたで金儲けをしようが、夫婦別姓を名乗ろうが、自分には関係ない。でも"見せしめ"を欲しがっている人にとってはそうではない。自分の考えと違う生き方をしている人には不幸になってほしいと思っている。



結婚してないやつは子どもを産むな、未成年者は子どもを産むな、まともな仕事をしてないやつは子どもを産むな、子どもをかわいがれないやつは子どもを産むな、責任感のないやつは子どもを産むな、他人に迷惑をかけるなら子どもを産むな、でも少子化を止めるために結婚して子どもを産め。
わが国で求めらているのはそういうことだ。

世の中が求めているのは「規範的な生き方をする人」と「見せしめ」のどちらかだけだ。規範から外れているけど幸せな人、は欲していない。


ぼくは「子どもは親のものではない」と思っている人間なので、個人的には、とりあえず産んでみて育てるのが難しそうだったらとっとと手放せばいいと思う。
子育てに必要なのは「何があっても子どもをまっすぐ育てあげる覚悟」ではなく「親が手放した後もちゃんと育てる仕組み」だと思っている。


2018年7月12日木曜日

古典の実況中継


高校生のとき、授業中にひとりで「実況中継」という遊びをやっていた。

授業中の他の生徒の様子を、ルーズリーフにひたすら書いてゆくのだ。
「□□が古典の教科書で隠しながら英語の宿題をやっている。と思ったら寝てしまった」
「〇〇が大きなあくびをした。それを見た△△が少し笑った」

これをルーズリーフにびっしり書く。五十分の授業中ずっと書く。
他の生徒を観察するのはなかなか愉しかった。ぼくは遊んでいるんだけど、ぱっと見ただけだと熱心にノートをとっているように見えるので意外と注意されなかった(一度、教師から「おまえは一生懸命ノートをとってるけど、そんなに書くことあるか?」と言われたが)。

できあがったルーズリーフには『〇月〇日 古典の実況中継』とタイトルをつけていた(タイトルの元ネタは当時売れていた参考書のシリーズ名だ)。

実況中継のルーズリーフは今でも実家にある。
たまに読みかえすと、二十年近くたった今でも授業中の雰囲気が思い起こされてなつかしい。おもしろくて、懐かしくて、泣きそうになる。
以前、同窓会に持っていったらものすごく盛り上がった。

現役学生の人たちは、後年のためにぜひとも実況中継をしておくといい。
十年後の自分が愉しめるから。


2018年7月10日火曜日

号泣される準備はできていた


四歳の娘を連れて、実家(つまり娘からすると「おばあちゃん家」)に泊まりに行く。

一日中おじいちゃんおばあちゃんやいとこたちと遊んで、娘は終始テンション高め。
ふだんはぼくと入るお風呂にも「(いとこの)〇〇ちゃんと入る!」といって、子どもたちだけで入浴した。もちろんおもちゃをいっぱい持って入り、一時間ぐらい遊んでいた。

そして夜。
娘は「〇〇ちゃんといっしょに子どもだけで寝る!」とのこと。

「わかった。じゃあおとうちゃんは下で寝てるからね。おやすみ」というと、
娘が心細そうに「二階で寝るけど、もし途中で寂しくなったら下に来てもいい?」と。

「はいはい。いいよ」と言ってぼくも布団に入った。
五分すると娘が階段を降りてきた。「どうした? 寂しいの?」と訊くと、「ううん。でも夜中に寂しくなったら降りてきてもいい?」との返事。

もう寂しくなってるやんと思いながらも、おもしろかったのでもうちょっと様子を見ることに。
「いいよ。二階で寝るのね。じゃあおやすみ」

今度は三分後。また降りてきた。
涙をせいいっぱいこらえた顔で「もしも、もしも、夜中に寂しくなったら、降りて、きても、いい?」と云う。
たぶん「いっしょに寝よう」と言ってほしかったのだと思うが、ぼくも意地悪なもので気づかぬふりをしたまま
「もしも寂しくなったらね。じゃあおとうちゃんはここで寝るからね。おやすみ、バイバイ」
と手を振った。

はたして一分後に、娘が号泣しながら降りてきた。「やっぱりいっしょに寝て!」

「手つないで寝て!」というので、手を握りながら寝た。



娘の気持ちはよくわかる。
ぼくも同じような経験をしたことがあるからだ。
五歳のとき、いとこの家で遊んだ。めちゃくちゃ楽しかったのでぼくと姉は「まだ帰りたくない!」と言い、伯母さんに「よかったら泊まっていってもいいよ」と言われたのに乗じて「子どもだけ泊まる!」と宣言した。

両親はぼくと姉を置いて帰宅した。ぼくと姉は楽しくご飯をごちそうになり、楽しくお風呂に入り、そして布団に入った。
布団に入ったとたんに心細くなり「やっぱり家に帰る!」と大泣きした。困りはてた伯母さんはぼくの親に電話をし、一度帰宅した両親は夜中に車で迎えに来てくれた(車で一時間ぐらいの距離だった)。

子どもというやつは遊ぶときは親がいなくても平気でも、布団に入ると急に心細くなるものらしい。



そして経験から学ばないのもまた子どもである。

保育園の友だちから「家に泊まりに来ていいよ」と言われた娘は、「Nちゃんの家に泊まりにいく!」と言いだした。
「同じ家の別の部屋」でも耐えられなかったのに「別の家にひとりで泊まる」なんてできるわけがないでしょ、と言っても聞く耳持たず。

やれやれ。やれやれやれ。


2018年7月5日木曜日

ファイトの軽薄さ


中学生のとき陸上部に所属していた。専門は長距離。
走ることは好きだったが、応援されるのは嫌いだった。
特に大会になると、沿道に同じ学校の生徒(短距離とか幅跳びとかの選手)が並び、「ファイト―!」と声をかけてくる。先輩、同級生、後輩、特に女子が多い。
ぼくはハッハッと息を吐いて走りながら「うるせえ死ね」と思っていた。

長距離走、という種目がよくなかった。
百メートル走だったら声援なんて聴いている余裕はないし、砲丸投げのような投擲競技や走り幅跳びのような跳躍競技であれば選手の集中を妨げないように観客は静かにしている。
だが長距離だと声援がはっきり聞こえる。誰が何を言った、と理解する余裕もある。だから余計に声援を送ってくるのだろう。

女子に応援されるなんてうれしいじゃないか、と思うかもしれない。だがそんなことはない。
野球のバッターボックスに立っているときに女子から声援を送られたらぼくだってうれしい。きりっとした顔をつくる余裕だってあるだろう。
だが長距離走だ。汗はだらだら、息ははぁはぁ、足はよれよれ、はっきりいって気持ち悪い。そんな姿を見られたくない。そっと目を背けてくれ、と思う。

こっちがめちゃくちゃ苦しいのに何もしてないやつが「がんばれー!」と言ってくることに腹が立った。言われんでもがんばっとるわ、この苦しそうな顔を見てわからんのかい、今以上がんばったらせっかくキープしてるペースがくずれるやろがい、と憎悪の念が湧いてくる。

特に「ファイトー!」が嫌いだった。なんと軽い言葉だろう。無責任きわまりない。
自分の子どもが徴兵されてこれから戦地に赴くことになるとする。なんと声をかけるだろう。「しっかりやってこい」だろうか、「生きて帰ってこいよ」だろうか、あるいは無言で手を握るかもしれない。少なくとも「ファイト―!」ではないだろう。うすっぺらすぎる。
「ファイト」には、本気で応援する気持ちはこもっていない。

中島みゆきはちゃんとその嘘くささを見抜いていて、『ファイト!』という絶望感たっぷりの歌を作っている。あの歌を「がんばる人への応援歌」と言っている人がいるが、何もわかっていない。あれは「ファイト!」の軽薄さを唄っているのだ。沿道の人間がマラソン選手に送る「ファイト―!」からもっとも遠いところにある歌だ。

チームメイトから応援されるのなら、わかる。サッカーのPKを蹴る選手にチームメイトが「決めろー!」と応援するのは納得がいく。彼のパフォーマンスが自分にとっても利益になるからだ。
だが陸上競技は、駅伝以外は個人種目だ。応援されても「おまえらには関係ないだろ」と思う。
ぼくがひねくれてただけかな。
でも学校のテストで同級生を応援しないんだから、個人競技に出場している同級生を応援するのも変じゃないか?
今にして思うと、応援が不快だったのは、ぼくに「学校を背負って走ってる」気が微塵もなかったからかもしれないな。


陸上部時代の嫌な思い出があるからか、今でも応援は好きじゃない。応援するのも、されるのも。
といってもこの歳になると人から応援されることなんてそうそうないんだけど。せいぜい保育園の保護者リレーで走ったときぐらい。
でも保護者リレーで走っているときに「がんばれー!」と言われても嫌な気にならない。それは本気でがんばってないからなんだろうな。「そんなに速くないし、がんばれと言われて当然」ぐらいの気持ちで受け止めることができる。

ということで、ほんとにがんばっている人に「がんばれ」と言うのはよくないね。
デブにデブと言ってはいけないのと同じだね。ちがうか。


2018年7月4日水曜日

怒りのすりかえ


娘が二歳のとき、いわゆる「イヤイヤ期」が訪れ、いったん火がつくと何をするのもイヤと言うようになった。

そんなときにぼくが対策としておこなっていたのが「怒りのすりかえ」である。

たとえば、
今からごはんというときに「イヤだ! おでかけする!」と娘が怒りだす
 ↓
「よし、はみがきしよう!」といって歯ブラシを取りにいく
 ↓
娘、「イヤだ! はみがきしたくない!」と暴れる
 ↓
ひとしきり暴れさせた後に「わかったわかった、じゃあはみがきしなくていいよ」と言う
 ↓
娘、少し落ち着く。この時点で「おでかけ」のことは忘れている
 ↓
「じゃあごはん食べよっか。大好きな納豆あるよ」と声をかける
 ↓
娘、機嫌を直して食卓につく


百パーセントではないが、このやりかたでうまくごまかせることがあった。
ただ「イヤ!」といって我を通したいだけなので、べつの話題を持ちだして「イヤ!」が通ったことにしてあげれば納得するのである。



仕事をしていると、ときどきイヤイヤ期の人に出くわす。
ただケチをつけたいだけ、自分の要望を通したいだけ、の人。


そういう人に話を通さなければならないときは、
「わざとわかりやすいミスを作っておく」
「無理めな要求を入れておく」
とするとうまくいく。

「ここが違うから直せ!」とか「こんなの認められん!」とかいうので、
少し逡巡したふりをしてから「わかりました。ご要望通りに対応します」といえば、わりと納得してくれるのだ。

怒りのすりかえ、二歳児以外にも使えるテクニックだ。


2018年7月3日火曜日

新刊のない図書館


よく大阪市立図書館に行く。子どものえほんを借りるのが目的だ。
ぼくは本を買うのが好きなので(読むために買うというより買うために読んでいるというぐらい)ずっと図書館とは無縁の生活を送ってきたのだが、子どもができて図書館を利用するようになった。

えほんはすぐ読みおわるし、かさばるし、値段は高い。
次々に買っていたら財布がもたない。毎週のように図書館に出かけて、肩がもげるぐらいリュックいっぱいにえほんを詰めて帰る。



大人の本はほとんど借りないが、図書館の棚を見るのは好きだ。
図書館の書架は書店とはだいぶ味わいが異なるので、他人の本棚を見るような楽しさがある。

しばらく見ているうちに気づいたことがある。
ある時期を境に新しい本が入っていない。



ぼくは書店で働いていたこともあるので、本の流行りには敏感だ。
図書館の本棚には、十年前のベストセラー、二十年前のベストセラーはあるけど、ここ数年に売れた本がほとんど並んでいない。
たとえば1990年代~2000年代前半にヒットを飛ばしていた宮部みゆきの本は充実している。ほぼ全作品が並んでいる。だが近年の人気作家の本は少ない。あっても古い本しかなかったりする。

はじめは借りられているだけかと思った。だが、注意してチェックしてみると、いつ見てもない。そもそも置いていないらしい。
まあそれはいい。図書館に新刊の文芸書を置くことはぼくも反対だ。趣味の本は買って読んでほしい。図書館に置くのは新刊書店で手に入らなくなった本だけでいいと思っている。

だが、新しい本がないのは文芸書だけではないことにも気づいた。実用書も古い本だらけだ。
たとえばパソコン入門書のコーナーなどを見てみると、十年ぐらい前の本がずらりと並んでいる。『わかる! Excel2007』なんて本が堂々と置かれている。
パソコン書の世界で十年前なんて大昔だ。医学書の棚に『解体新書』が置かれているようなものだ。

生活に困っている人が仕事を探すにあたりパソコンスキルを身につけようと図書館に行く、なんてシチュエーションもあるだろう(なにしろ大阪市の生活保護受給率は政令指定都市の中でナンバーワンだ)。
そんなときにExcel2007の本しかなかったら困るだろう。
図書館ってそういう人のためにあるものだと思うのだが。


どうしたんだろう。
どうして大阪市はここ十年ほど図書館の蔵書を増やすことを放棄してしまっているのだろう、と首をかしげていたのだが、2011年に大阪維新の会の橋下徹氏が大阪市長になったことに気づいて「ああそういうことかな……」と深くため息をついた。


2018年6月29日金曜日

鳩に関する常識


高校のとき。
生物の教師がこんな話をしていた。

伝書鳩が巣に戻ってこられるのは、磁気を感知する仕組みがあって、磁力で自分の所在地や巣の位置を把握しているからだと言われている。
ではここで問題。
実験で、鳩にあることをしたらまったく巣に戻ってこられなくなった。何をしたでしょう?

正解は「頭に磁石を乗せた」だったのだが、教師から「鳩に何をしたでしょう?」と訊かれたМさんという女子生徒はこう答えた。

「羽根をもいだ」



この答えを聞いたとき、なんて頭のいい女性だろう、とぼくは心から感心した。

「鳩に何をしたら巣に戻れなくなるでしょう?」という問いに対する回答としては、まごうことなき正解である。

だがふつうの人間は「磁力を使って位置を把握している」という前提や「あまりに明白であることは実験で確かめない」や「高校の授業で教師があまりにエグい話をしてはいけない」という"常識"にとらわれてしまって、「羽根をもぐ」というシンプルな正解を導きだすことはできない。

教師含めクラス全員がMさんの回答にドン引きだったが、ぼくは心の中で彼女の自由すぎる発想にこっそり喝采を送り、自由な発想という翼がもがれてしまわないことを願った。


2018年6月25日月曜日

幽体離脱というほどでもない体験


子どもと公園で遊んで、プールで泳いだ後、また子どもと遊んでくたくたになった。

その晩、意識が身体から離れている感覚を味わった。

まず尿意を感じた。
膀胱のあたりにだけ感覚がある。「あートイレ行きたい」と思うと、意識が身体にすとんと落ちてきたような感覚があった。
あっ、入った」と思った。とたんに、手足がずしんと重たくなった。


幽体離脱というほどでもない。
魂だけどこかに行っていたわけではない。意識は身体のすぐ近くにあった。ただし身体の中ではなかった

汗びっしょりのときにシャツを脱ぐように、疲労びっしょりの身体を一時的に脱ぎすてていた、という感じだった。意識が一時的に身体から離れていた。

身体の疲労と眠気と尿意がちょうど絶妙なタイミングで重なったおかげで味わえたのかな、と思ってちょっとおもしろかった。
すぐ忘れそうなので書きしるしておく。


2018年6月21日木曜日

わからないものをわからないもので例えてはいけない


天国や地獄が例えに用いられることがよくある。
「あの時代に比べたら天国みたいなもんだよ」とか「地獄のような光景が広がっていた」とか。

しかしぼくらの多くは、天国も地獄も知らない。ほとんどの人はどちらにも行ったことがない、はずだ。
物語に地獄の描写が出てきたり、天国について描かれた絵を見たりしたことはあるが、それらもすべて想像で語られているものだ。誰もほんとうの天国や地獄を知らない。
各人の頭の中には天国や地獄のイメージはあるだろうが、百人いれば百種類の天国と地獄があるはずだ。
そういう曖昧模糊としたものを例えに使っていいのだろうか。

こういうのが天国だと思う人もいる

比喩とは、物事をわかりやすくするために使うものだ。
ドローンを見たことがない人のために「ラジコンみたいにリモコンで操縦できて、ヘリコプターみたいに空を飛ぶ機械で、片手で持てるぐらいのサイズが多い」と説明すれば、ラジコンとヘリコプターを知っている人ならなんとなく実物を想像することができる。
これが「コジランみたいに操ることができて、プヘーコリタみたいに動いて、テタカに乗るぐらいのサイズの機械」だったらさっぱりわからない。説明することで余計にわからなくさせている。

「天国のよう」「まるで地獄」といった表現もこれと同じことだ。
わからないものをわからないもので例えてはいけない。



2018年6月20日水曜日

地震の一日


6月18日午前7時58分に地震があった。
大阪府内では死者も出る大きな地震。大阪では阪神大震災以来の大規模な地震だった。

ぼくの住んでいた地域は震度4だったが、それなりに混乱したのでその日のメモ。


7時50分頃、娘と一緒に保育園に向かった。地震が起こったのは、ちょうど保育園に着いたときだった。
門を開けようと手を伸ばすと、鉄の扉がガタガタガタっと震えだした。ぼくは「また子どもが遊んでるな」と思った。保育園ではよくあることだ。
だが園児の力にしては強すぎる。風で揺れているのだろうか、と思ったがそれほど風も強くない。そこでようやく「あっ地震か」と気づいた。揺れはじめてから地震だと気づくまでに3~5秒ぐらいかかっている。
あわてて娘に目をやると、揺れに気づいていないらしく、さっきの続きでぼくのお尻を叩いて遊んでいる。

園内に入った。園長先生と会ったので「地震でしたよね?」と確認しあった。
屋内はかなり揺れたらしい。教室の中を見ると、ふたりの保育士さんが十人ぐらいの子どもたちを抱きかかえていた。村を焼かれたときの母親が「子どもたちだけは……」と懇願するときの光景だ。
保育士はおびえていたが、子どもたちは平然としていた。誰も泣いていなかった。何が起こったのかわかっていなかったのだろう。

いつも通り、娘の着替えやタオルの準備をした。べつのお父さんと会ったので「地震でしたね」と話しかけると、「そうみたいですね。でもぼくは自転車に乗ってたので気づきませんでした」と言われた。外に歩いている人がかろうじて地震に気づく、自転車に乗っている人は気づかない、それぐらいの揺れだった。

娘の担任の先生に会った。「もし何かあったら〇〇小学校に避難しています。そこが危険な場合は〇〇公園に行きます」と伝えられた。さっき地震が起こったばかりなのに的確な伝達だ。しっかりした先生だ、と感心した。
娘に「また地震があるかもしれないから、そのときは先生の言うことを聞くんだよ。先生の近くにいたら大丈夫だからね」と言い残して保育園を出た。


地下鉄の駅まで来たとき、異変に気づいた。駅の前が人でごった返している。
その時点でぼくはすっかり地震のことを忘れていたので「何かイベントでもあるのか?」と呑気なものだった。この近くにホールがあるのでときおり人で賑わっているのだ。
しかしスーツ姿の男性が多いのを見て「ああ地震で地下鉄が止まっているのか」と気が付いた。

運行状況を見ようとスマホを取りだし、そのときはじめて緊急地震速報が届いていたことに気づいた。かなり大きな音で鳴っていたはずなのに、鞄に入れていたのでまったく気がつかなかった。
大阪メトロ(市営地下鉄)のホームページを見ると、つい五分ほど前の時刻で「ただいま遅延は発生しておりません」というメッセージが表示されていた。「嘘つけ」とつぶやいた。今現在止まってるじゃねえか。たぶん何もしなければ自動的に「遅延は発生しておりません」と表示されるシステムなのだろう。その結果、メッセージを打ちこむ余裕がないぐらい大きな事変が起こったときにも「遅延なし」と表示されてしまう。危機感のないシステムだ。

役に立たないホームページだな。ニュース検索をしようかと思うが、十分ぐらいしか経っていないのでまだニュースも出ていないだろう。
ふと思いついて、Twitterで「谷町線」と検索してみた。すると、いろんな人が「谷町線止まった」とつぶやいている。おお、こういうときはTwitter便利だな。Twitterが暇つぶし以外で役に立ったのははじめてだ。
ぼくの家から会社に行くルートはいくつかある。「御堂筋線」「大阪環状線」などでも検索してみるが、いずれも止まっているらしい。大きな地震だったことをようやく実感する。駅の行き先案内板が外れている画像がTwitterに流れていて、思わず「おお」と声が漏れる。

まだ駅の周囲には大勢の人がいたが、そんなとこに突っ立っていても仕方がない。地震で電車が止まったら復旧するまでに最短でも一時間はかかる。
自宅近くの公園まで歩いた。都会の公園なので、高いマンションに囲まれている。大きな地震が再び起こることを考え、中央のベンチに腰を下ろした。
社長にチャットで「地震で電車が止まっているので遅れます」と送った。社長からは「了解。必要であればタクシー使って来てください」といわれたが、いやけが人とか妊婦とかいるかもしれないのに、仕事みたいなくだらない用事のためにタクシー使ったらだめだろ、と思って無視した。
妻からLINEが来ていた。安否確認のメッセージだったので、娘も無事だと返す。
いろいろと情報収集もしたかったが、こんなことでスマホのバッテリーを消耗してしまったらいざというときに困る。電池長持ちモードというやつに切り替え、Kindleで本を読んだ。意外と集中して読むことができた。おろおろしていても何もやることができないし、こういうときには現実逃避するに限る。

自宅はマンションなのでなるべく帰りたくなかった。マンションはよく揺れるので怖い。
しかし小雨が降ってきた。しょうがない、どうせいつかは帰らなくちゃいけないんだ、と自らに言い聞かせて自宅に帰った。
マンションのエレベーターが止まっていたので階段を上がり、自宅に戻る。地震で閉じこめられないように少しだけドアを開けておいた。

トイレに行くと、床にトイレットペーパーが一個転がっていた。地震で棚から転げ落ちたらしい。我が家の唯一の被害だった。
万が一に備えてだいぶ前に準備していた防災バッグを引っぱりだした。水、消費期限切れ。イワシの缶詰、消費期限切れ。ミカンの缶詰、缶切りがないと開けられないやつ。なんで入れてたんだ。
とりあえず水のペットボトルだけ新しいものに入れ替え、貴重品の類とともに玄関に出しておいた。そうすると閉じこめ防止のために少し開けているドアが気になる。結局ドアを閉めた。

寝ようかと思ったがまだ九時前だ。おまけに気持ちが高ぶっているので寝られない。外で救急車のサイレンの音が聞こえる。
実家に安否報告をして、横になって本を読んだ。

十時半ぐらいにTwitterを見ると、地下鉄の一部区間が運行再開したらしい。今日はもう休もっかな、とも思ったが家にひとりでいるのも嫌だったので結局出社した。車内に閉じこめられることを想定して、ペットボトルのお茶を買って地下鉄に乗った。ぎゅっと力強くつり革を握りしめていた。

会社には半分くらいの社員が来ていた。多くの鉄道路線がまだ止まっていた。
電話で取引先の人と話して「どうですか」と尋ねると、「うちは冷蔵庫が倒れましたよ」と言われた。
「えっ、たいへんじゃないですか」
「そうそう、だから今うちの中ぐっちゃぐちゃ」
「それ出社してる場合じゃないでしょ」
「うーんでも家にいたってどうにもならないしね」
というやりとりをした。そういうものだろうか。平時と同じことをしているほうが精神的には気楽なのかもしれない。

やはりその日一日は何をしていても地震のことが頭から離れない。「今地震が起きたら……」と考えながら行動する。倒れそうな建物には近寄らない、落ちてきそうなもののそばには寄らない、非常階段の位置を確認する。小松左京『日本沈没』を読んでいるときもこんな気分だった。
電車に乗りながら「今電車が起きたら、まずは吊り革で身体を支えて……」などと考えていたらピーピーピーとけたたましい機械音が鳴りだした。「すわっ、緊急地震警報!」と身構えたが、隣のばあさんのばかでかい着信音だった。
年寄りの着信音はだいたいばかでかいけど、こんなに憎いと思ったのははじめてだった。


2018年6月17日日曜日

住みたくない町、それは京都


いくつかの町に住んできた。大阪で生まれ、兵庫で育ち、京都で学生生活を送り、愛知で働き、兵庫に戻り、結婚して大阪に住んでいる。

特にこの町が好き、というのはない。幼稚園から高校まで過ごした町は好きだが、これはいちばん長く住んで友人が多いから、という理由であって、町自体の魅力は低いように思う。思い出の中にあるから美しい町だが、今住んだら退屈きわまりない町だろう。ふるさとは遠きにありて思うものだ。

大好きな町はないが、住みたくない町はある。
京都だ。
今まで住んだ町の中でいちばん住み心地が悪かった。正確には京都市内。

盆地だから夏は暑いし、冬は寒いし、人は多いし、学生が多くてやかましいし、観光客が多くて人の流れは悪いし、バスやタクシーがひしめいているし、しょっちゅう祭りで交通が麻痺するし、ほんとに住みにくかった。
住みたくない町、ダントツのナンバーワンだ。

観光都市なのに、根っこのところではよそものを受け入れない風土もそうだ。
ぼくは京都で代々続く仏具屋の子の家庭教師をしていた。その家のお母さんが会話の中で「あの人は京都の人やないからねえ」と言うのを何度か聞いた。
嫌味っぽく言うわけではない。ごくごく自然に口をついて出る、という感じだった。ぼくらが「彼は日本人じゃないから文化や考え方も違うよね」というような調子で「あの人は京都の人じゃないから」というのだ。京都人にとって「京都の人じゃない人」はそれぐらい遠い存在なのだ。


住んでいたときは嫌いな町だったが、たまに京都に遊びに行くとおもしろい。独特の文化はあるし、見てまわるところは多いし、伝統ある食文化もあるし、新しい文化に寛容でもある(京都市内にはギャラリーやスタジオも多い)。
マニアックな古書店が並んでいたり、古い銭湯があったり、安くてうまい飲み屋が道の奥に隠れていたり、小さなエスニック料理屋や古着屋が小路に並んでいたりと、なんでもない道を歩いているだけでもぜんぜん退屈しない。なんと楽しい町なんだろう、ここに住んだら楽しいだろうなとすら思えてくる。


郷土と京都は遠きにありて思うものだ。


2018年6月16日土曜日

あえて言おう、人がごみのようだと


「見ろ! 人がごみのようだ!」

 アニメ映画『天空の城ラピュタ』に出てくるムスカ大佐の有名な台詞である。
 空から落ちていく乗組員たちを表現している。

 この言葉から受けるムスカ大佐の印象はどうだろう。「残忍」「傲慢」といったところだろうか。「本性があらわれた」と思う人も多いかもしれない。
 だが、ぼくはそうは思わない。むしろ、この台詞は「ムスカ大佐らしくない」という印象すら受ける。

 ムスカ大佐は主人公たちと対立する存在ではあるが、その立ち居振る舞いは気品にあふれている。王家の末裔であるという自覚を持ち、少女に対しては手荒な真似はせず、教養とそれに基づく自信に満ちあふれている。
 そのような人物が、「人がごみのようだ」とわざわざ口に出して言った意味とはなんだろうか。もはや助かる道の残されていない人間を貶めても何のメリットもない。そんなことは、計算高いムスカ大佐であれば百も承知だろう。むやみに人民の敵愾心を煽ることを、王家の末裔という自覚を持った人間がするとは思えない。

 彼の「人がごみのようだ」は、まちがいなく自分に言い聞かせた言葉だったのだ。
 人はあまりに残酷な場面に遭遇したとき、現実から目を背ける。今日も遠い外国で幼い子が腹をすかせて泣き叫んでいる。だがいつも彼らのことを想像をして同情していては自分の神経が持たない。だから人は目を背け、耳をふさぎ、残酷なシーンを想像の外へと追いだす。
 戦争中、爆撃をおこなうパイロットはゲームのような感覚で住居の上に爆弾を落とすという。パイロットが残酷だからではない。その逆で、住宅一戸一戸の中で生活している命のことを想像していては己の神経がもたないから、ゲーム感覚で上官の命令に従うのだ。

 ムスカ大佐も、ごみのようとでも言わなければ目の前に繰り広げらる残酷な現実に耐えきれなかったのだろう。「人がごみのようだ」発言は、彼が人間に対する深い愛情を捨てきれないことの表れだとぼくは思う。


 死んでゆく兵士たちそれぞれに人生や生活や家族があることを想像してたらやりきれない。
 そのつらさが「人がごみのようだ」には表れているように思える。


2018年6月14日木曜日

漫画を読むのがおっくうになってきた


歳をとったからか、漫画を読むのがおっくうになってきた。


昔は、漫画が手元にあればすぐに読んだ。どれだけ読んでも疲れなかった。「途中でやめて続きは明日」ということができなかった。あればあるだけ一気に読んだ。

ところが最近漫画を読むのがめんどくさいと感じるようになった。まったく読まないわけじゃないけど、ちょっと読んで「あとはまた今度にしよう」と閉じてしまう。一冊の漫画を読むのに一週間かかる。つまらないわけじゃないんだけど。
昔は考えられなかったことだ。

本を読むことに対する意欲は今のところ衰えていない。意欲、というのはちょっとちがうかもしれない。ほとんど習慣のように読んでいるからだ。食後に歯みがきをするように、ちょっと時間があったら本を読む。そこに意欲は必要としない。
小説やノンフィクションを読む時間は昔より増えている。漫画だけが面倒になった。


"セリフ"が原因かもしれない。

読むのに時間がかかる本もあれば、すぐに読みおえてしまう本もある。

難しい本を読むのには時間がかかる。これははあたりまえ。
ところが易しい内容の本でも時間がかかることがある。「会話文の多さ」が理由だということに最近気がついた。
他の人はどうだか知らないが、どうやらぼくは会話文だけは心の中で音読しているらしい。頭の中で音声として再生しているのだ。だから時間がかかる。

ノンフィクションは会話が少ないのですっと読める。活字を目で追うだけでいい。
でも小説はセリフの多さに比例してペースが落ちる。こないだ桂米朝『上方落語 桂米朝コレクション』という本を読んだが、すべて噺家口調で脳内再生しながら読んでいたのでものすごく時間がかかった。内容的にはさほど難解なものでもないのに。


漫画もセリフが多い。だから時間がかかるのかもしれない。
岩明均『ヒストリエ』は漫画だけど説明文が多くてセリフが少ないから、あっさり読める。
そういう漫画がもっと出てきてほしい。セリフは少なくて説明文が中心。『もやしもん』みたいなやつ。
なんなら絵もなくて活字だけでいい。それもう漫画じゃない。



2018年6月13日水曜日

船旅の思い出


学生時代、船で中国に行った。
なにしろ金はなかったがひまだけはあった。
今はどうだか知らないけれど、ぼくが大学生のとき、夏休みは二ヶ月半もあった。春休みも二ヶ月近くあったから、それだけで一年の三分の一以上を休んでることになる。冬休みとか土日祝日とか入れたらたぶん半分以上は休日だったはずだ。狂った制度だったとしかいいようがない。それだけではあきたらず平日のうち一日は授業を入れずに自主休校にしていた。制度が狂っていると学生も狂うようだ。
そんな学生が週休一日で毎日残業の社会人生活に耐えられるはずもなく、数ヶ月で仕事をやめてめでたく無職になった。狂った学生生活のおかげである。社会人生活のほうも狂っている気もするが。


閑話休題。船旅の話に戻る。
ぼくと友人は蘇州号という船で中国へ渡った。神戸から天津まで片道五十時間かかる。移動だけで五十時間、往復で百時間。なんとも贅沢な時間の使い方だ。
ただし贅沢なのは時間だけで、金銭のほうは実にお手頃だった。たしか往復で三万円ぐらいだったはず。往復百時間で三万円。一時間あたり三百円。安すぎる。中国語でいうと太便宜。太い便が出たみたいな字面だ。
飛行機だと二時間ちょっとで到着して数万円だから時間あたり一万円を超える。はたしてこの計算にどんな意味があるのか知らないが、とにかく船旅は安い。

蘇州号には一等客室と二等客室があって、ぼくらはもちろん安いほうの二等客室を選んだ。あたりまえだ。一等客室を選ぶ理由があるのか。安くもないし速くもないのに。わざわざ一等客室を選ぶ理由としては「飛行機が飛ぶことを信じていない」「荷物がでかすぎる」ぐらいだろうか。

船を選んだのにはもうひとつ理由がある。
旅行の少し前に肺気胸という病気を患ったのだ。肺に穴が開くというおそろしい病気だ。
内視鏡手術を経て治ったのだが「肺気胸は再発しやすい病気です。高い山とか飛行機とか気圧の変化の大きなところにいくとまた穴が開きやすいので気を付けてください」と言われたのだ。
飛行機上で肺に穴が開いたら困る。人生において一度ぐらいは「この中にお医者さんはいらっしゃいませんか!?」の場面に遭遇してみたいものだが、そのとき横たわっているのが自分なのは嫌だ。


船のチケットを取ろうとしたら、ビザがいると言われた。二週間以上の滞在だとビザが必要なのだ。
京都華僑総会という怪しい組織の事務所へ行ってビザを取得した。大使館や領事館のような公的機関じゃなくても取得できるのか。さすがは華僑、力を持っているなと感心した。


船旅はなかなか楽しかった。
出発のタイミングで見送りの人が手を振っていた(残念ながらぼくらの見送りはいなかったが)。船旅はこれができるのがいい。飛行機だと離陸の瞬間はシートベルトをしているし、外なんかほとんど見えない。下が見えるようになったときには人間なんかもう豆粒より小さくなっている。船だと乗客は甲板に出て港を見ることができる。
また飛行機は離着陸の瞬間はものすごく揺れるのでぼくは毎回事故を起こさないかと怖くてたまらないのだが、船の場合はさほど怖くない。万一沈んでもまだここだったら泳いで岸に戻れるな、と思える。
出発の瞬間、映画みたいに紙テープを投げて別れを惜しんでいる人がいて、ほんとにやるんだと感心した。

蘇州号の乗客はぼくらのような学生と、バックパッカーと、中国人の家族ばかりだった。みんなお金がなさそうだった。あたりまえだがビジネスマンなんかひとりもいなかった。五十時間の船旅を許してくれる豪気な会社はないらしい。
二等船室は、二十人ぐらいが入れる大部屋だった。といっても客数は少なく、定員の半分もいなかったのでゆったりと使えた。布団と枕が置いてあるだけで後はなんにもなく、ここで雑魚寝するのだ。

船が出発して間もなく、避難訓練をするから全員集合せよというアナウンスがあった。
じっさいに救命胴衣を身につけ、沈みかけたらここから脱出して浮いて救助を待てと言われた。
飛行機は墜落したらまず助からないが、船なら沈んでもなんとかなりそうな気がする。救命胴衣を身につけてぷかぷか浮かんでいたら救助が来てくれるかもしれない。みんな真剣に説明を聞いていた。

船内の食事はめちゃくちゃまずかった。中国風のお粥や饅頭が出されたと記憶しているが、味がまったくしなかった。こんなにまずい食べ物があるのか、と感心した。
飯がまずかったからか、ひどく酔った。吐きはしなかったが(なぜなら食事がまずくてほとんど手をつけていなかったから)、終始胃がむかむかしていた。
気分転換に船内を散歩していると、ビールの自販機があった。缶ビールが一本百円ぐらいで売られていた。船内は免税なのでばかみたいに安いのだ。残念ながら絶賛船酔い中だったので飲む気にはならなかった。

そう大きい船でもないので見るところはさほどない。甲板に出ると風が気持ちよかったが、潮水をかぶるので長居はできない。
やることもないので船室で過ごした。
部屋の片隅にそう大きくないテレビが吊るされていて、そこで映画『リング』をやっていた。こういう不特定多数が見るような場所で流すものとして、ホラー映画はどう考えてもふさわしくないだろう。謎のチョイスだ。
中国人家族と一緒に『リング』を眺めた。

同室に、見るからにバックパッカーの若い男がいた。ぼくと同年代だ。
彼は「どこに行くの?」と話しかけてきて、こちらの答えを聞くか聞かないかのうちに自分のことを語りだした。中国から陸路でインドに渡るのだという。
「インド行ったことある? ぼくは何度もインドに行ったけど、インドはいいよ。人生観変わるよ」と語られた。
その、人生観変わったとは思えないほど薄っぺらい言葉にぼくらは内心失笑していたが、彼はうれしそうにインドの魅力を語ってくれた。乞食が群がってくるとか、ガンジス川で死体が流れてくるとか、「どこかで聞いたことのあるインド」を得意げに披露してくれた。

彼の絵に描いたようなインドかぶれっぷりは、ぼくらに道中の話題を提供してくれた。
ぼくらは中国に渡った後、そして帰国した後もしばらく「人生観変わったごっこ」をして楽しんだ。
「君は京都に行ったことがあるかな。あそこには人力車が走ってるんだ。人間の生きるパワーがまるで違うね。あれに触れたら人生観変わるよ」
「君はケンタッキーフライドチキンに行ったことがあるかな。あそこには鶏の死体がたくさんある。けれどいちいち騒いだりしない。死が生活と隣り合わせにあるんだな。あそこに行ったら人生観変わるよ」
と、インドかぶれ男の口調を真似てはげらげらと笑った。


五十時間の船旅は、ぼくの人生の中でもっとも贅沢だった五十時間かもしれない。
退屈でしかたなかったし、船酔いで気持ち悪かったし、飯はめちゃくちゃまずかったけど、それこそが贅沢な経験かもしれない。
楽しくて快適でおいしいものを食べる旅行なんて、金さえ出せばかんたんにできるもんね。


2018年6月12日火曜日

ストロベリーハンター


子どもを連れて狩りに出かけた。
まだ人類が定住生活をしていなかった時代から、子どもに狩りを教えるのは父親の役目だ。ただしぼくが教えるのはいちご狩りだが。


娘はいちごが大好きだ。

以前、義母が大粒の高級いちごを手土産に持ってきてくれたことがあった。娘は、子どもが唯一持っている武器である「いじらしさ」を存分に発揮し、その場にいた大人たち全員からいちごをせしめ、一パック十個のうち六個をひとりでせしめることに成功した。

大きくて甘いいちごだったのでほんとはぼくだってもっと食べたかったが、ほかの大人たちが高級いちごのように甘い笑顔で「もっと食べたいの? じゃあどうぞ」といちごを差しだしているのに、父親であるぼくだけが「食べたいなら自分で稼げるようになってから働いた金で買って食え」と言うわけにもいかない。泣く泣くいちごを献上した。

他人のいちごまで遠慮なく食うぐらいだからいちご食べ放題のいちご狩りに連れていったらさぞ喜ぶだろうと思い、いちご狩りができる場所を調べてみた。
わかったことは、世の中の人はいちご狩りが好きということだった。土日は予約がいっぱいで、二週先までいっぱいだった。いくつかの農園にあたってみたがどこも似たような状況だった。仮想通貨ブームが落ち着いた今、いちご狩りブームが来ているらしい。

いくつかあたった結果、予約可能な農園を見つけた。
あたりまえだがいちご農園は駅前直結ショッピングモールの中のような便利な場所にはない。車で行くべき場所なのだろう。だが都会人の悲しさ、我が家には車がない。電車で一時間、さらにバスで三十分という立地の農園を予約した。


いちご狩りは二十数年ぶりだ。幼稚園児のときに家族で出かけた記憶がある。ただしいちごを摘んだ記憶はない。ぼくがいちご狩りに行ったとき、ちょうどそこで市のイベントをやっていて、市長のおっちゃんが来ていた。そしてきれいなお姉さんがバスガイドのような恰好をして立っていた。「ミス〇〇」というたすきをかけている。まだミスコンテストが堂々とおこなわれている時代だったのだ。
そして市長がミス〇〇と握手をした。今になって思うと、農協だかいちご生産者協会だかの人が悪だくみをして「美人と握手をさせて市長の機嫌をとっておこう」みたいな企てがあったのかもしれない。幼稚園児のぼくはそこまで考えていなかったが、美人と握手をしている市長の顔が真っ赤になっていたことだけ記憶している。
以来ぼくにとって「いちご狩り」とは「美人と握手をした市長の顔が真っ赤になるイベント」だったのだが、ついにその記憶が上書きされる日がやってきた。


予約当日はあいにくの大雨だった。
いちごはビニールハウスで栽培するので狩りに天候は影響ないのだが、大雨の中電車とバスを乗り継いでいくのはおっくうなものだ。「交通費を考えれば百貨店に行って高級いちごを買ったほうが安くつくな」と不穏な考えも首をもたげてきたが、娘と「日曜日はいちご狩りにいくよ」と約束してしまっている。いちご狩りの愉しさを説いてしまった上に、この一週間は「歯みがきしないんだったらいちご狩りに行くのやめるよ」などとさんざん要求を呑ませるためのダシに使わせてもらった。今さらひっくり返すことはできない。しかたなく雨具を用意して出かけた。


いちご狩りはファミリーで楽しむものかと思っていたが、ヤンキーのカップルや大学サークルのイベントっぽい団体などもいて、若者にも人気のようだった。やはりブームが来ているらしい。
農園のおじさんから「5と6のエリア以外のイチゴは摘まないでください。他のエリアは入口に鎖がしているので入らないでください」と説明を受けたにもかかわらず、ヤンキーカップルの男は禁止エリアのいちごを摘んでいた。また彼は農園の入り口でたばこをポイ捨てしていた。
「ヤンキー」と「いちご狩り」はまるで似合わないように思うが、彼はちゃんとヤンキーらしく社会のルールを逸脱しながらいちご狩りを楽しんでいるのだ。その一貫する姿勢は清々しさすら感じられた。なんてまじめなヤンキーだ。「ヤンキー」と「いちご狩り」が両立することをぼくははじめて知った。


狩りはかんたんだった。赤く色づいたいちごを見つけ、茎をはさみでチョキンと切るだけ。熊狩り、潮干狩り、オヤジ狩り、魔女狩り、刀狩り、モンスターハント。世の中に狩りと名の付くものは数あれど、いちご狩りほど容易な狩りはないだろう。いや、紅葉狩りには負けるか。なにしろあれは見るだけだからな。
いちご狩りはかんたんだ。狙った獲物は逃がさない。誰でも百発百中の優秀なハンターになれる。四歳児ですら何の造作もなく赤いいちごを仕留めていた。

まずいちごを十個ほど狩って席についた。
いちごだけでなく、アイスクリームやケーキやプリンもあってそれがすべて食べ放題。ファミレスにあるようなドリンクバーも置いてあって、こちらも飲み放題。すばらしい。
「いちごの乗ってないショートケーキ」があって、そこに好きなだけいちごを乗せてオリジナルいちごのショートケーキを作れる。わくわくする。

なによりうれしいのが、業務用の練乳がどーんと置いてあることだ。
ぼくは甘いものと乳製品が好きだ。当然、練乳も大好きだ。
小学生のときは練乳を食べるためだけにかき氷をつくって食べていた。途中からかき氷をつくるのがめんどくさくなって練乳だけ飲んでいた。森永の練乳チューブに直接口をつけて吸いだすのだ。

おさな心にも「いけないことをしている」という背徳感があり、家族が誰もいないときを狙ってひそかに犯行に及んでいた。
松本大洋『ピンポン』で主人公のペコが練乳のチューブを吸っているのを見たとき、自分だけではなかったのだと知って少し気が楽になった。


皿に練乳を山盛りにして(さすがにいいおっさんになった今は公共の練乳チューブに直接口をつけて飲んだりしない)、いちごをつけて口に運ぶ。
うまい。だが結果からいうと、これは失敗だった。
練乳いちごが甘すぎて、それ以降いちごを食べても味気ないのだ。プリンに乗せてもものたりない。練乳いちごは甘さのチャンピオンだから、それに比べたら他のどんな食べかたも負けてしまう。
しかたなくまた練乳をつけたいちごを口に運ぶが、やはり甘いものというのはすぐに飽きる。十個も食べたら「もういちごはいいや」という気になってきた。

電車とバスで一時間半もかけて来たのに、ひとり二千円ぐらい払ったのに、いちご十個で飽きてしまう。ますます「百貨店で良かった」の思いが強くなるが、あっという間にいちごを食べ終えて新たな狩りに出かけた娘の後姿を見て、思いを改める。

いちご狩りにおいて、いちごを食べるためにお金を払うのではない。体験を買っているのだ。
娘のみずみずしい体験のためなら金銭も労力もたいしたものではない。こう考えられるようになったのは、ぼくが父親になったということなのだろう。
皿に残った練乳を指につけてなめながら、自分が大人になったことを実感していた。


2018年6月10日日曜日

書店員の努力は無駄



書店員の努力、について。

あえて乱暴な言い方をするなら、その努力はほとんど無駄だ。

ぼくが書店員を辞めて六年になる。
働いているときから感じていたこともあるし、辞めてから気づいたこともある。働いている当時に経営者から言われて意味が分からなかったが今になってわかることもある。

ぼくが書店員としてやっていた努力は、ほとんど売上に貢献していなかった。



たとえば、よく「本を紹介するポップを書きましょう」と云われた。文庫の帯なんかについている紹介コメントだ。
ぼくもポップを一生懸命書いた。たくさん書いて、どんなポップを書けばどんな売上になるか、調べてみた。

たくさん書いて、その結果を追って、ひとつわかったのは「意味がない」ということだった。
多くの経験を積んで、ある程度は「売れるポップの書き方」を理解した。ポップを書けばその本の売れ行きはよくなった(もちろんある程度売れそうな本を選ぶ必要はあるが)。
そして気づいた。全体の売上は増えない、と。

たしかに本を売るために効果的なポップの書き方は存在する。
だがそれは「その本を売る」ために効果的なのであって、その本が売れれば隣の本の売上は減る。結果として、店全体の売上には何も貢献しない。
そもそもポップに頼って本を買う人はたいした本好きではない。そういう人が本屋に来るのは「なんか一冊買おう」と決めてきている。目を惹くポップがあればその本を買うし、そうでなければべつの本を買う。
「気になる本がなければ一冊も買わないし、おもしろそうな本があれば十冊でも買う」ような本好きはポップなんかに頼って本を買わない。

ヴィレッジヴァンガードがあらゆる商品におもしろおかしいポップをつけて成功したが、あれは特定の本を宣伝するためではなく店全体のブランディングに役立っていたからうまくいったわけで、やるならあそこまでやらなくては意味がない(当然ながらヴィレヴァンの後に同じことをしても無駄だけど)。



ポップは一例で、書店員がしている努力というのは「売上を増やす努力」ではなく「好きな本を売る努力」がほとんどだ。

ポップを書くのも、おすすめ本フェアをするのも、村上春樹の新刊をタワー状に積みあげるのも、本屋大賞を選ぶのも、(0,1) を (1,0) にする努力だ。あっちの売上を削ってこっちの売上を増やしているだけ。総量は変わっていない。

出版社はそれでもいい。「他社の本の売上を削ってその分自社の売上が上がればいい」は正解だ。
だが書店がすべき努力は、ふだん本を買わない人に買ってもらう(0を1にする)か、使ってもらう額を増やす(1を2や3にする)かだ。
たとえば書店に足を運ばない人に買ってもらえるようべつの業種の店にも本を置かせてもらうとか、本を買った人にべつの本も勧めるとか。それが有効かどうかはわかんないけど、少なくともAmazonはそれをやった。
しかしそういう施策はまったくといっていいほどおこなわれない。ぼくが働いているときは他の書店に出向したり業界関係者と話したりしていたが、こういう話はほとんどされなかった。みんな (0,1) を (1,0) にするために奮闘していた。



書店の売上が伸びるためにいちばんいいのは「世の中の人が本をたくさん読むようになること」だが、そんなことは現実的に不可能だ。
だったら、「客の読む時間は一定である」という前提に立った上で、「より単価の高い本を買ってもらう」とか「より早く読める本を買ってもらう」とかの方向性を考えなければならない。
売上や利益のことを考えるなら、めちゃくちゃおもしろい五百円の小説よりも、千円の低俗なエロ本が売れたほうがいい。
でもほとんどの書店員は前者を売ろうとする。

早く読める漫画、内容の薄いビジネス書、手軽に読めて定期的に買ってくれる雑誌。利益に貢献するのはそういうところだ。
[費用/時間]という点で見たとき、売上パフォーマンスがもっとも悪いのが文芸書だ。たった五百円で何時間も楽しめる。いい本だと何度も読み返したくなる。そんな、読者にとってすばらしい読書体験は、書店にとっては「安い金で読書時間を奪う」悪い商品だ。けれど書店員はおもしろい小説ばかり売ろうとしている。ぼくもそうだった。本が好きだから。

文芸書をなくせとは思わない。利益率の低い商品で客を釣るのはよくある手法だ。だが売上を稼ぐのは文芸書ではない。
やはり本好きに書店員は向いていない。



日本の出版業界には再販制度というものがあり、一部の商品を除き、売れ残った本はそのままの金額で返品できる。
この制度が経営感覚を狂わせるのかもしれない。

仕入れた金額で返品できるとはいえ、本を入荷して開梱して棚に並べ、長期間売場をつぶして、しばらくしてまた箱に詰めて取次に送りかえすという流れが無駄なコストでないはずがない。
輸送費も人件費もかかるし、その本を置かなければ他の本が売れたかもしれないという機会損失も生んでいる。キャッシュフローも悪化させる。
であれば返品は極力減らさなくてはならないのだが、大半の書店員はそんなことを考えていない。「売れ残ったら返品できるんだから売り切れにならないように多めに仕入れよう」と思っている。

そもそも、毎日毎日書店には取次から新刊が勝手に配送されてくる。頼んでもいない本が続々と入ってくる。「どうせ返品できるんだからいいでしょ」という具合に。
ぼくが働いていたときは、この件でよく本部や取次と喧嘩をしていた。「このジャンルではこの出版社の本は一切いりません」と再三伝えていた。しかし要望は聞き入れられず、相も変わらず頼んでもいない本がどんどん送りつけられてくる。そういう業界なのだ。ぼくは一度も売場に並べることもなく即座に返品にまわしていた。なんと無駄なコストだろう。
他の業界だったら考えられない話だ。勝手に商品を送りつけておいて「金払ってくださいよ」だなんて、そんなことするのは詐欺師とNHKだけだ。


出版社はばかみたいに新刊書を作って送りつけてきた。
だが読者は新刊なんて求めていないのだ。

たとえば料理の本。毎年春になると、ひとり暮らしを始める人が増えるので料理の入門書が刊行される。
それ、新刊で出す必要ある?
十年前と今とで、初心者向け料理の方法がどれだけ変わった?
客は新刊かどうかで買っていない。実用書に関して、客が求めているのは新刊ではなく「多くの人が買っている実績のある定番書」だ。
PCやファッションみたいに日進月歩の分野はともかく、料理や洋裁だったら十年同じでもいい。どうせ買う人は毎年違うのだ。それなのに輪転機の停止ボタンが壊れたのかと思うぐらい新刊が出つづける。
出版社は競合他社に負けたくないから他社のヒット商品をパクった本を次々に出してくるが、誰もそんなものを求めていない。
取次はごまんとある内容の"新刊"を送ってきて、書店員はそれを店頭に並べて、ほぼ同じ内容の"既刊"を返品する。何かをやった気にはなるが、売上に対しては何も貢献していない。書店員の作業はこういう「プラスにもマイナスにもならないこと」であふれている。

書店の仕事はハードワークだが、原因の大半は入荷にある。
余計な本のせいで品出しや返品に追われている。それでポップがどうとか本をタワー状に積んだらどうとか言っている。
雨漏りで家の中が水浸しになっているのに、屋根を直そうとせずに一生懸命床を拭きつづけるようなものだ。



ぼくが書店を辞めて六年。
詳しくは知らないが、まちがいなく当時よりも内情は悪くなっているだろう。

本が好きだから書店はずっとあってほしい。
だから、だからこそ、一度みんな潰れたらいいのに、と思う。そして取次がなくなれば、書店も「無意味な新刊をどんどん出す」ことから脱却できるだろう(オンライン書店では既刊がよく売れる)。
そしてその後に再び書店が立ちあがってほしい。もっと時代にあったやり方で。もっと書店員の努力が正しく実るような形態で。