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2025年6月5日木曜日

小ネタ37 (ブザー /カレー / 植物の部位)

ブザー

 小学校に娘を迎えに行った。校門前で待っていたら小学生が大量に出てきたんだけど、数えてみたら五分ほどの間に防犯ブザーが七回鳴った(もちろんすべて誤報)。

 小学校の近くに住んでいる人で、防犯ブザーの音が聞こえたから様子を見に行く人、日本にひとりもいないとおもう。


カレー

 小学校に娘を迎えに行ったら、娘の口元にカレーがついていた。

 他の子も見てみたら、半分以上の子の口元にカレーがついていた。


植物の部位

 我々はいろんな植物のいろんな部位を食べている。

 実だけでなく、種子(豆など)、茎(ジャガイモなど)、根(ダイコンなど)、葉(キャベツなど)、花(ブロッコリーなど)と、ありとあらゆる部分を食べる。種類によって食べる部位が異なる。

 もしも宇宙からすごく強い生物がやってきて地球上の生物を食べることになったら、「チューリップは茎がうまい、キリンは脚がうまい、ハムスターは骨がうまい、ヒトは脳がうまい」みたいにあれこれえり好みを食べるのだろうか。

 どうせ食べられるなら全部残さず食べてほしい。


2025年5月27日火曜日

半径1メートルの世代論

 ある報道番組で、氷河期世代の特集をしていたらしい。

 そこに、氷河期世代のタレント二人がゲストとして出演して、「私たち氷河期世代の生きづらさ」を語っていたそうだ。

 番組は観ていないのだが、「自分の言葉として世代の苦しみを語ってくれていてほんとによかった!」という感想が多くSNSに投稿されていた。


 うーん……。

 番組を観ていないのでどんな番組だったかわからないが、その感想を見るかぎりは建設的な意見につながるとはおもえないなあ。

 アメトーークだったら「ぼくたち氷河期世代ってこんなにつらいことだらけなんですよー」「はい次、氷河期世代あるある~!」でいいんだけどさ。

 

 ゲストが「私たち氷河期世代の生きづらさ」をどれだけ語っても、それって結局「私の生きづらさ」、せいぜい「私と仲のいい数人の友だちの生きづらさ」じゃん。

 それはそれで価値がないとはおもわないけど、世代論ではないよね? だってあなたはあなたの世代しか生きたことがないんだから。


 人が「私たちの世代は大変だった」と語るときって、たいてい「私やその周りの人たち」と「他の世代のうまくいっている人たち」を比べてるんだよね。

 だって、うまくいっている人には、他の世代の「何もかもうまくいかなかった人たち」は見えないもの。


 同世代であればいろんな人の姿を見える。百社受けて全部落ちた一つ上の先輩。就職できずにずっと非正規で働いている同級生。引きこもっているらしいと噂で聞いたかつてのクラスメイト。精神を病んで自殺してしまった友人。

 自分の体験と知人の話を総合すれば、「つらい世代」エピソードはいくつも出てくるだろう。


 十歳上、あるいは十歳下の世代はどうだろう。「何もかもうまくいかなかった人たち」をどれぐらい知っているだろう。

 たぶん、(そういう人と関わる仕事をしていなければ)ほとんど知らないはずだ。なぜなら、“自分と歳の離れた引きこもり”は姿が見えないし噂にも聞かないからだ。

 我々がふつう関わる歳の離れた人は、自分と近い仕事をしている人だったり、誰かの親だったり、同じ趣味を楽しんでいる人たちだ。

 仕事や家族や趣味を通して他者とかかわる余裕のある人たちなんだから、ほとんどは「まあそれなりにうまくやっていけている人たち」だろう。


 だから我々は「自分たちの世代はつらかった」「他の世代はもっと楽に生きられた」とおもってしまいがちだ。実際にはどの世代にもそれぞれの苦しさがあるのに。

「あの世代は良かった」というとき、その世代のずっと孤独のまま死んでいった人たちのことは想像すらしないのだ。


 氷河期世代がつらくないとは言わない。

 でもそれは数々の統計的事実から明らかにすべきことであって、個人の「つらかった話」をいくら集めても世代論にはなりえない。


 その世代のタレントを呼んでつらかった思い出を語らせるのには、気の毒コンテンツとして楽しむ以外の効果はないんじゃないかなあ。


【関連記事】

【読書感想文】サンプル数1もバカにできぬ / 雨宮 処凛『ロスジェネはこう生きてきた』


2025年5月21日水曜日

小ネタ36 (サクマドロップ / 超能力戦士ドリアン / 高校生になってラグビーを始めたジャイアン)

サクマドロップ

 サクマドロップには2種類の味がある。「ハッカ」と「ハッカじゃないやつ」だ。


超能力戦士ドリアン

 妻に「超能力戦士ドリアンのライブに行ってくる」と言われた。まったく知らなかったが、そういう名前のバンドがいるらしい。

「地球儀持ってライブやるんでしょ?」と訊いたら「それは宇宙海賊ゴー☆ジャス」と的確にツッコまれた。結婚して10年以上たつとここまで心が通いあうのだ。


高校生になってラグビーを始めたジャイアン

「ALL FOR ONE, ONE FOR ONE」


2025年5月14日水曜日

レベルアップがゲームの醍醐味

 ロールプレイングゲームで、ゲーム中盤で仲間が追加されるイベントが発生することがある。

 そのとき、仲間のレベルが高いとがっかりする。加入した時点でLV30とか。


 やめてくれよぉ。

 制作者は「ここで弱いやつを入れても足手まといになるだろうしレベル上げ大変だろうからLV30にしといたるわ」って感じなのかもしれないが、余計なお世話だ。LV1にしてくれ!

 RPGの楽しさはレベル上げなんだよ。


 現実世界では、スポーツでも楽器演奏でも勉強でも、なかなかレベルは上がらない。何ヶ月も続けていけばレベルは上がっているが、それは「いつのまにか」であって、「おっ、今おれレベル上がった!」という瞬間はそう訪れない。

 たとえば野球で「カーブを投げる」という目標に向けて練習するとする。

「曲がらんなあ」

「あれ今ちょっと曲がった気がする」

「けっこう曲がった……かな?」

「あ、今のは失敗」

「ちょっと曲がったけどぜんぜんストライク入らねえ」

「曲がってる!」

みたいな感じでグラデーション的に成長していく(ときには後退することもある)ので、はたしてどの時点をもって「カーブを習得した」と言えるのかよくわからない。

 でもゲームなら「ピロリロリン♪ やった!大谷はカーブを習得した!」みたいなメッセージがあって、そこからは自由自在に投げられるようになる。このわかりやすさこそがゲームの魅力だ。



 その楽しさをいちばんわかりやすく味わえるのがロールプレイングゲームだ。

 レベルが数値化されていて、レベルが上がればパラメータも変化して、レベル以外にも武器の強さとか魔法のパワーとかも数字でわかって、自分の分身が成長していることがはっきりわかる。

 レベル上げこそロールプレイングゲームの醍醐味だ。

「LV30で加入してくる仲間」はその楽しさを奪っている(あとゲームスタート時に主人公のレベルが5とかになってるやつも意味わかんない。序盤にレベルが下がることはまずないんだからスタートは1でいいだろ)。


 ぼくが大好きなのは、「中盤で加入してくるレベルの低いやつ」だ。

 たしかにレベルが低い仲間は足手まといだ。戦力にはならないし、それどころかどんどん回復してやらないとすぐ死ぬし。

 その代わり、敵を倒したときはぐんぐんレベルが上がる。一気に2以上もレベルアップすることすらある。ドラクエの「てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪」が鳴りやまないときなんて、最高に楽しい。



『ポケットモンスター』が人気になった要因のひとつが、実はこの「レベル上げの快感をいっぱい味わえること」なんじゃないだろうか。

 ふつうのRPGならレベルが上がるのはせいぜい数百回だ。4人のキャラクターが1→100までレベルアップしたら、99×4で396回。じっさいはLV99まで上がらないこともあるし、前述したようにLV30から加入するやつもいたりするから、もっと少ない可能性もある。

(最近のゲームをやってないので昔のRPG基準で話してます)


 一方、『ポケットモンスター』では100を超えるポケモンを仲間にできるので、それぞれ育成させれば合計で数千、数万回もレベルアップする。

 さらにパラメータの上昇だけでなく「わざをおぼえる」や「しんか」といった、わかりやすい成長イベントも発生。

『ポケットモンスター』はレベルアップを楽しむためのゲームなのだ。



2025年5月12日月曜日

小ネタ35 (オヤジギャグ)

オヤジギャグ・1

 50代男性が「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど」と言っていて、そのザ・オヤジギャグに感心してしまった。

 丁寧に解説をすると

  • 「若者言葉のワンチャンをわからない自分」を俎上に上げて楽しんでいる
  • くだらないダジャレ
  • 今思いついたのではなく何度か口にしているかのようにすらっと出てきた
  • 2ちゃんというのが絶妙に古い。2ちゃんねるが5ちゃんねるになったことには対応していない

と、これぞオヤジギャグという点が目白押しだ。


オヤジギャグ・2

 ところで最近オヤジギャグという言葉をあまり聞かなくなった。最近のオヤジはあまりダジャレを言わない気がする。

 少し前(といっても二十年前ぐらい。ぼくもオヤジなので二十年前は少し前なのだ)は「オヤジってすぐダジャレを言うよね。キモ~い」みたいな風潮があったのだが、「ダジャレを言うオヤジは嫌われる」という意識が浸透しすぎたからだろうか。

 それとも「1950年代のオヤジが特別にダジャレを好きだった」といった世代の特徴だったのだろうか。

「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど~」のオヤジはいまや絶滅危惧種かもしれない。国を挙げて保護したほうがいい。


オヤジギャグ・3

 作業着をだましとったとして詐欺容疑で逮捕。


2025年5月7日水曜日

小ネタ 34 (説明しすぎる安西先生 / 説明しなさすぎる三井寿 / 宇宙船ドッキリ)

 

説明しすぎる安西先生

もう勝てないと諦めて逆転に向けて努力することをやめたらもう逆転することはないだろうからその時点で勝敗は決まってるようなもので、それってつまりそこで試合終了したのと同じだと言っていいとおもいますよ。


説明しなさすぎる三井寿

したいです……したいです……したいんです……したいんですよ……したいんですってば! だ・か・ら! したいんです!!


宇宙船ドッキリ

 宇宙船の乗組員になったらやりたいこと。ネジをひとつ船内に転がしておく。

 無重力になったらネジがふわふわと漂ってきて、「どこのネジが外れたんだ!?」とみんながパニックになるだろう。



2025年5月1日木曜日

ハンバーガーの値段、牛丼の値段

 ぼくが高校生のとき、マクドナルドのハンバーガーは59円だった。デフレどまんなかの異常価格だ。

 高校生といえば、行動範囲が広がって外食の機会は増え、けれど金がない時代。マクドナルドにはお世話になった。


 それもあって、ハンバーガーといえばいちばん安くて59円、トッピングをしてもせいぜい200円か300円ぐらいのもの、という“基準”ができてしまった。

 この“基準”はかなり長いこと残った。さらにマクドナルド以外にも適用されて、専門店の「ハンバーガー1,000円」なんて値段表示を見るたびに「200円か300円ぐらいで買えるハンバーガーに1,000円も出すなんて!」という気持ちになった。

 そのくせ、洋食屋の「ハンバーグ&パンのランチセット」だと1,200円であっても高いとはおもわない。ちょっとした洋食屋でランチを食べたらそんなもんだろうな、という気になる。

「ハンバーガー」も「ハンバーグ&パンのランチセット」もほとんど同じものなのに、前者は“マクドナルド基準”が適用されて「200円か300円ぐらいが相場」とおもってしまう。


“基準”は牛丼にも適用される。

 牛丼というと、吉野家やすき家や松屋の牛丼を想像してしまう。400円ぐらいのもの、という感覚だ。牛丼に1,000円は出さない。

 でも、ちょっといい感じの定食屋に「牛煮つけ定食 1,000円」というメニューがあったら特に抵抗なく頼める。牛丼なら600円でも高いとおもうけど牛煮つけ定食なら1,000円でも高くない。ほとんど同じものなのに。

 牛丼チェーンのせいで“基準”ができているのだ。これはぼくだけでなく、世間一般に広く認められている“基準”だろう。


 逆のパターンもある。寿司だ。

 寿司ははじめに高級感を持たせることに成功した。2個1,000円を超える寿司もめずらしくない(話はそれるが、堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』によれば寿司が1貫、2貫と数えられるようになったのは平成初期だそうだ。この後付けの伝統感も高級路線に一役買っているにちがいない)。

 だから回転寿司で1皿100円とか150円とかの値を見ると、すごく安いような気がする。寿司の“基準”はもっと高い位置にあるからだ。

 でも寿司ってそんなに高級であるべきものだろうか。たとえばコンビニおにぎりと比べても、入っているものもマグロ(ツナ)とかサーモンとかそんなに差はない。なんならおにぎりのほうがずっとご飯の量も多くて食べごたえがある。

 なのにおにぎりは庶民色の代表みたいな感じでいて、寿司の方は高級食でございという顔をしてふんぞりかえっている。これは最初の“基準”の設定に成功したからだろう。


 まったく新しい料理を開発したときは、まず最初は1食5,000円とかのべらぼうな値をつけて“基準”を引き上げておいて、それから「なんとあのホゲホゲ丼が1,000円で食べられます!」みたいにお得感を与えてやるほうがいいね。


【関連記事】

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』


2025年4月25日金曜日

自転車で公道を走りにくいときのたったひとつの冴えたやりかた

  NHKニュース『自転車交通違反に「青切符」来年4月からの方針 反則金の額は…』

警察庁は自転車の交通違反に対して、車やオートバイと同様に反則金の納付を通告するいわゆる「青切符」による取締りを来年4月1日から行う方針を固めました。反則金の額については携帯電話を使用しながら運転するいわゆる「ながら運転」を1万2000円とするなど、違反によって異なっていて、警察庁はパブリックコメントを実施したうえで、政令を改正することにしています。

 自転車の交通違反に対する罰則が強化されるらしい。

 携帯電話を使用しながら運転する「ながら運転」や信号無視、二人乗りのような明らかな違反はもちろん、一時停止、右側通行、歩道通行、傘差し運転、並んで走行のような「99%のライダーは一度はやったことがあるであろう」違反までが罰金の対象になるという。


 大賛成だ。もっとも制度を定めるだけでは意味がないので、じゃんじゃん取り締まってほしい。なんなら民間の取締員なんかを雇って大々的にやってくれ。

 とはいえすべての道路において等しく適用するのにはちょっと無理があるとおもう。

 たとえば郊外だと、「車やバイクはびゅんびゅん飛ばしていて、広い歩道には歩行者はほとんどいない」道がある。こんな道で、歩道を自転車が並んでゆっくり走っていても、危険でもなんでもない。すべてを厳しく取り締まれという気はない。

 あくまで他人に迷惑をかけている場合に限って、厳しく取り締まってほしい。


 歩行者としては、自転車に危険な目に遭わされることがよくある。特にぼくは幼い子を連れて歩いているのだが、歩道を歩いていてもけっこう怖い。ぜんぜんスピードを落とさず歩道を走る自転車がいる。ぼくが車道側を歩くようにしているのだが、わざわざ子どものいる側(車道と反対側)につっこんでくる自転車がいる。歩行者に対してベルを鳴らす自転車乗りがいる。傘をさしたまま歩道を走って、傘がぶつかってもおかまいなしで進む自転車がいる。

 控えめに言っても自転車乗りのマナーは最悪だ。もちろん全員ではないだろうが、ここ一年以内にひとつも違反をしたことのない自転車乗りは全体の5%もいないだろう。つまり最悪ってことだ。


 一方、罰則強化に対して不満の声も上がっているらしい。

「大型トラックとかがすれすれを走ることがあり、狭い車道を走るのは危険だ」

「罰則強化の前に自転車が安心して走れる道を整備してほしい」

「自転車専用レーンがあっても一時停止や駐車違反の車があって走れないことがある」

など。

 なるほど、なるほど。ぼくも一時は毎日のように自転車に乗っていたからよくわかる。たしかに車道を走るのは危険だし、自動車のマナーも悪いもんね。走りにくいよねー。



 安心してほしい、そうした不満を解決するかんたんな方法がある。

 自転車を降りて、押して歩道を歩くのだ。

 これですべて解決。はい、よかったね。


 はっきり言って、道が狭かろうが、路上駐車があろうが、そんなものは車両が歩道を走っていい理由にはならない。

 考えてみてほしい。車だって、いつでも好きなように走っているわけではない。路上駐車があってすれちがえなかったり、信号無視をする歩行者がいたり、車道に猫がいたり、いろんな事情で通行を妨げられる。

 そんなときに「危ないけど周囲が避けてくれるだろうという気持ちで突っ込みました」「路駐が邪魔だったので車で歩道を走ることにしました」「猫がいたから、対向車が来てるけど右車線を走ることにしました」といったことが許されるだろうか? そんな言い訳をしても、頭のおかしいドライバーとしかおもわれないだろう。

 だが、その頭のおかしい発想をする自転車乗りはいっぱいいる。しょうがないから歩道を走りました、じゃないんだよ。安全に走れないんなら止まるんだよ。



 車を運転していて「このまま進むとぶつかるかもしれない」と感じたらどうするか。止まる。または徐行する。ドライバーならあたりまえにやっていることだ。「しかたなく歩道を走る」「しかたなく逆走する」なんて選択肢はない。

 自転車も同じことをすればいいだけだ。

 幸い、自転車には「押して歩けば歩行者になれる」という強力な武器がある。これは車にはない選択肢だ。

 安全に通れないとおもったら(自分の安全だけでなく、もちろん歩行者やドライバーの安全も含む)止まる。そして安全になるまで待つか、自転車を押して歩行者として歩く。

 これで解決する。歩行者になったら歩道だって横断歩道だって道路の右側だって堂々と通れる。よかったね。

 これでほぼすべての問題が解決する(「歩道橋だけあって横断歩道がない」道とかはちょっと困るが、そんな歩道橋にはまずまちがいなくスロープがある)。


 自転車を降りて押して歩いてたら遅くなるじゃないかって?

 そうだよ。あたりまえじゃない。

 車だって、いつだって制限時間いっぱいで走れるわけじゃない。制限速度60km/hの道でも、止まったりスピードを落としたりして走るから、実際に進むスピードはもっと遅くなる。それを考慮に入れて早めに出発する。自動車ドライバーなら誰もがやっていることだ。


 自転車ライダーの公道に対する不満って99%が「自転車を降りて押して歩道を歩けばいいじゃない」で解決するんだよね。

「安全に進めないときは止まるか降りるかすればいい」という思考のできない自転車乗りが多すぎる。

 こち亀の両さんが「生きるか死ぬかで悩むな。悩んだらまずは“生きるモード”に切り替えて、そこから“どう生きるか”を悩め」と言っていたが、多くの自転車乗りがこれと同じで、危険がさしせまっていても“走るモード”を選び、そこから“どう走るか”を考えてる。

 人生と自転車はちがうんだから、ちゃんと“止まるモード”や“歩くモード”を選べよ。



 これはあれだな。

「安全に進めない状況なのにむりやり進んだ自転車乗りは死後、裸足で自転車に乗せられ、熱々の鉄板の上を延々と走らされ、疲れて足をおろすと大やけどをする無間業火鉄板サイクリング地獄に落とされるよ」

と教えてあげるべきだな。




2025年4月8日火曜日

小ネタ 33(だんごとたいやき / 用紙切っちゃいました / 藤子不二雄)


だんごとたいやき

『だんご3兄弟』の歌詞には「だんご」というフレーズが25回も出てくる。

 一方、『およげたいやきくん』に「たいやき」というフレーズは終盤に2回しか出てこない。

 子ども向け番組から生まれたヒットソング、和菓子をテーマにしている、という共通点がありながら、歌詞のつくりにはずいぶん差がある。

『およげたいやきくん』がヒットした1975年は直接的な表現をしなくてもみんな文脈を読んで理解できたが、『だんご3兄弟』が発表された1999年にははっきりと説明しないと伝わらなくなった。これは読書離れが進み子どもたちの読解力が低下してからだ……というようなことはもちろんない。


用紙切っちゃいました

 いちいちシュレッダーかけるの面倒だな……。

 そうだ!

 あらかじめ裁断しておいた紙を作って売ろう!これでいちいちシュレッダーする手間が省けるぞ!


藤子不二雄

 藤子不二雄はFとAに分かれた後、扱っているテーマに大きく差が出た。藤子不二雄Aは、ゴルフ、麻雀、ギャンブル、バー、女遊びなど「大人の世界」を描くことが増え、藤子・F・不二雄は一貫して「子どもの世界」を描きつづけた(大人向けSF作品も描いているが、その中でもギャンブルや性についての描写は少ない)。

 ピッコロが善の神様と悪のピッコロ大魔王とに分化したように、藤子不二雄も大人の心と子どもの心に分かれたのかもしれない。


2025年4月7日月曜日

小ネタ 32(結露 / 断熱性能 / 六角形)

結露

 半年ほど前に引越しをしたのだが、今の家は結露がひどい。冬の朝は窓ガラスに露がびっしりついていて、窓の下がびちょびちょになっている。しかたなく毎朝窓を拭く。

 前の家はこんなことはなかった。前の家は古かったので断熱性が悪く、家の中も寒かった。だから室温と外気温の差が小さく、あまり結露しなかったのだろう。断熱性が高いのも良し悪しだ。

 結露する分空気が乾燥するので、寝る前に濡れタオルを干して加湿している。加湿された分の水分が朝になると窓ガラスについている。結露させるためにタオルを干しているような気がする。

 窓ガラスの水分をとりつつ、その水を使って空気を加湿させる仕組みはないものか。


断熱性能

 以前、家の構造に詳しい人の話を聞いたことがあるのだが「断熱のこと考えたら窓なんていらんねや!」

 そのときはなんて無茶な意見を言うんだとおもったが、たしかに窓は断熱の敵だ。夏は窓から熱が入ってくるし、冬は熱が逃げる。おまけに結露する。

 景観や風通しといった“住人の気分”は無視して、家のことだけを考えれば窓がないほうがいいかもしれない。

 もっと言えばドアもないほうがいい。完全密閉された壁だけの家なんて最高だ。


六角形

 六角形は漢字の読み通りなら「ろくかくけい」、発音は「ろっかっけー」だが、ひらがな表記はそのどちらでもない「ろっかくけい」だ。八角形、十角形、十一角形なども同様。

「洗濯機」は発音は「せんたっき」でもかな表記するときは「せんたくき」だが、数字は促音便をそのままかな表記することが許されている。

 たぶんだけど、かなり日本語に堪能な外国人でも「六角形のよみがなを書いてください」という問題に正しく答えられる人は少ないとおもう。これぞクイズヘキサゴン。



2025年3月21日金曜日

夏休みの宿題をさっさと終わらせてしまう人の心理

 「夏休みの宿題をやっていかなくて、最初のうちは先生から早く宿題出せよと言われるのに、そのうち何にも言われなくなる。その経験が今の自分を形作っている」

と書いている人がいた。


 なんかしみじみと納得した。

 そうなんだよなあ。「早く宿題出せよ」と言われるのはつらいけど、あれは意地悪ではなく、むしろ温情だったんだよなあと大人になってから気づくんだよね。更生するなら今のうちだぞ、とチャンスをくれてるんだよね。


 今でも忘れない、小学二年生の冬休み、始業式の前日の夜になっても宿題が終わってなくて、半泣きになって両親に手伝ってもらいながら(といっても答え合わせをやってもらうとか)なんとか終わらせた。

 親からは「今度からは早めにやるんだぞ」と言われ、つくづくその通りだとおもい、それからぼくは長期休みの宿題は毎回早めにやるようになった。

 今おもうと、小二の冬休みの「始業式前日なのに宿題が終わってない」はいい経験だとおもう。あの失敗があったからこそその後の大きな失敗を回避できたのだろう。


 夏休みの宿題をやらないと、嫌なことからすぐ逃げる大人になるのかどうかはわからない。相関があるようにおもうが、もしかするとぜんぜん関係ないのかもしれない。


 大人になってわかるのは、バイト、いやそれどころか正社員であっても、「何も言わずに来なくなる大人はめずらしくない」ということだ。

 いやまあいろんな事情があるんだろう。精神的に追い詰められているのかもしれない。

 それでも、いや、だからこそ、「やめます」の連絡はしたほうがいい。だって何も言わずに辞めるほうがずっとめんどくさいことになるんだから。電話して「今日でやめます」と言ったら雇い主から文句を言われて(まあ文句っていうか当然の抗議なんだけど)嫌な思いをするかもしれないが、せいぜい数分だけだ。

 連絡せずに仕事をサボり、その後何度も電話がかかってきてそのたびに嫌な思いをして、その店や会社の近くに行くたびにびくびくしたりするほうがずっとしんどい。へたしたら一生嫌なおもいを引きずることになる。


「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」という言葉があるが、「面倒ごとをやるのは一時の苦痛、やらないのは一生の苦痛」だ。


「夏休みの宿題を早めに終わらす」というと「嫌なことに耐える性格」のようにおもわれがちだが、ぜんぜんそんなことはない。

「宿題をやること」と「宿題が終わっていないこと」のどっちが嫌かを考え、後者のほうがより嫌だとおもっているから宿題をさっさとやってしまうのだ。

 つらいことに耐えたくないから、つらいことをやってしまうのだよ。



2025年3月14日金曜日

小ネタ 31(見たことがない踊り / 一人称 / 幸せ)

見たことがない踊り

名前は多くの人が知っているが誰も見たことがない踊り

それはアルペン踊り


一人称

ケイちゃん「ケイちゃん、きのうあそびにいってね」

担任「自分のことを『ケイちゃん』と呼ぶのは小さい子みたいでみっともないですよ。もう三年生なんだから、おうちの外では、まわりの人から呼ばれる呼び名で自分のことを呼ばないほうがいいと先生はおもいますよ」

ケイちゃん「先生の一人称は『先生』ですよね? 『先生』というのは周囲の人が使う敬称であって、敬称を一人称として使うのは名前を一人称にすること以上にみっともないとケイちゃんはおもいます」


幸せ

 あるコンテンツを褒めるときの「まだ〇〇を読んだことがない者は幸せである」という陳腐化した言い回しをまだ聞いたことがない者は幸せである。

 これから先も聞かずにすむ者はもっと幸せである。



2025年3月7日金曜日

ブログにコメントをつけることについて

 このブログにはコメント投稿があるのだが、ほとんどコメントを頂戴することはない。

 数ヶ月に一度あるかどうか。明らかなスパムとかもあるので、まともなコメント(記事に対する意見や感想など)は年に十件ぐらいだろうか。

 アクセス解析ツールによると、このブログには月10,000ぐらいのアクセスがある。それだけアクセスがあってもほとんど誰もコメントをつけないのだ。


 ことわっておくが、ぼくのスタンスとしてはコメントは大歓迎だ。

 さすがに悪口雑言は勘弁してほしいが、たいていのコメントはもらえるとうれしい。


 以前やっていたブログも含め、ぼくはもう二十年近く前からブログをやっている。

 その二十年で感じたのは、ブログというのはコミュニケーションツールではなくなったということだ。

 二十年前のブログは、書き手と読み手のコミュニケーションの場だった。書き手が話題を提供して、読み手がそれに対してコメントをする。場合によっては読んだ人が自分のブログにアンサー記事を書いたりもする。そこから別の人へと話題が広がり……ということがよくあった。

 それが、SNSが普及したことで、他者とのコミュニケーションはSNSでやりましょう、ブログは書き手が一方的に見解を述べる場、という感じになった。ある日突然そうなったわけではなく、ちょっとずつそうなった。


 ブログにコメントがつかないことを嘆いているぼく自身も、他者のブログにコメントをつけることはほとんどしなくなった。

「あーわかるわかる。ここに書かれている以外にもこんな事例もあるよね」なんてことをおもったりするけど、たいていコメント欄には書かない。

「コメントを書いたら、知らない人が急に会話に参加してきたみたいでいやな気持ちにさせてしまうんじゃないかな」なんて考えてしまう。

〝ブログがコミュニケーションツールだった時代〟を知っているぼくですらそうおもうのだから、物心ついたときからSNSがあったような世代の人にとっては「ブログにコメントをつけるなんてそんな非常識な!」という気持ちかもしれない。


 だからといって「もう一度ブログをコミュニケーションの場にしよう!」なんて唱える気もないし、「このブログを読んだ人はコメントを残せよな!」なんて言う気もないのだが、でも基本的にコメントをもらえたらうれしいですよ、ということだけ書いておく。

 ぼくも他の人のブログに臆せずコメントするようにしようかな。

 コメント機能をオフにしてないってことは、知らない人がなんか書いてもいいってことだもんね。


2025年3月6日木曜日

就活詐欺

 何度か書いているが、就活がほんとに嫌だった。人生でいちばんつらかったのは就活をしていた時期だったかもしれない。


 人と話すのが得意でないとか、慣れない場所に行かないといけなかったとか、基準のよくわからない試験を受け続けないといけないといけないとか、不採用になるたびに人格否定されたような気になるとか、そもそも働きたくなかったとか、いろいろあるけど、最近ふと「丸腰で戦地に行かなくてはならなかったのがつらかったのだ」とおもい、その言葉が当時の自分の心情をうまく言い表せていることに気づく。


 もっと後になって何度か転職の面接を受けたが、そんなに嫌じゃなかった。人間的に成長したからというのもあるが、転職の面接ではわりと対等に話ができる。

「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と自己を開示し、企業のほうは「こんな仕事をやってもらいます。あなたに対してこれだけの給与を払います。労働条件はこうです」と条件を提示する。お互いが相手に価値を感じれば採用→入社となる。単なる交渉だ。不動産屋で部屋を借りるのとそんなに変わらない。

 ところが就職面接に関しては「自分はこんな仕事をやってきました。これができます」と伝えるべきものがない。なぜなら仕事をしていないから。

 一応「アルバイトやサークルなどの課外活動を通してこんな経験を得られました」みたいなことを語るが、そんなものが仕事に何の役に立たないことは言ってる当人だってよくわかっている。

 結局のところ「自分はこんなことができます」がないので、企業側には“可能性”を売るしかないのだ。

 これがきつい。

 可能性を売るってさ、「金貸してくださいよ。万馬券当たったら倍にして返すんで」と変わらないわけじゃない。あるんだかないんだかわからないものを売るなんてほとんど詐欺だ。

 まれにその“可能性”を買って「給与と教育与えてあげる。出世払いでいいよ」と言ってくれる企業もあるが、やっぱり対等な取引じゃないよね。

 まだないものを売ってくるんだから就活がキツいのも当然だ。投資詐欺の営業やらされてるみたいなもんだもん。


2025年3月4日火曜日

『お料理行進曲』2番


『お料理行進曲』という曲をご存知だろうか。

 勇壮な音楽に乗せてコロッケの作り方を歌いあげるふしぎな味わいの曲で、アニメ『キテレツ大百科』のオープニング曲だったので今の中年にはなじみのある歌だ。

 テレビでは1番しか流れていなかったのであまり知られていないが、コロッケの作り方を説明した後は長尺の間奏が入り、2番ではナポリタンの作り方が歌われる。

 その中に、

炒めよう かるく 塩・コショウで
忘れるな スパゲッティ ケチャップで混ぜて

という歌詞があるのだが……。




 ナポリタンをつくるときにスパゲッティを忘れることなんてある?




2025年2月25日火曜日

いかにも浮気してるやつのFacebook

 高校時代の友人たちと話していて、Tという男の話題になった。


「Tって最近どうしてんの?」

「いろいろ悪いことしてるみたいやで。女癖悪いから」

「結婚して子どももいるんやろ?」

「そう。Facebookにマメに投稿してるんやけど、やたらと家族の写真載せてるわ」

「うわー。いかにもやなー」

「そりゃあな。ほんまに家族円満やったらわざわざFacebookでアピールする必要ないからな」

「やましい気持ちがあるからSNSでいいパパアピールするんやろな」

「この前ちょっと大きい地震があってさ、そのときにTのFacebook見たら『地震があったから子どもを守った。俺がこいつらを守っていけないという思いを改めて強くした』とか書いてて」

「うわー。モテようとしてるやん」

「いやほんま。心の中でおもっといたらいいことを、なんで世界に向けて発信するねんってことよ」

「自分のオヤジが、そんなことを世界に向けて発信してたら最悪やわ」

「いかにも浮気してるやつのFacebookって感じやな」


 というわけで、Facebookでいいパパアピールしてる男はもれなく浮気してます。現場からは以上です。



2025年2月1日土曜日

消防署の向かいの生活

 昨年、消防署の向かいのマンションに引っ越した。

 ご想像の通り、うるさい。

 うちは九階なのだがそれでもけっこうサイレンの音が聞こえる。出動時は窓を閉めていてもテレビの音が聞こえないぐらいだ。

 ま、それはいい。消防署が先にあって、それを承知で後からこちらが引っ越してきたのだから。消防署員の方々に対してはなんら不満はない。ごくろうさまです。


 発見したのは、音にはけっこう慣れるということだ。

 たぶん閑静な住宅街に住んでいた人が我が家に来たら「よくこんな騒々しいところで生活できるね」とおもうだろうが、慣れてしまえばどうということもない。寝室は消防署と反対側なので、深夜のサイレンも気にならない。さすがに窓を開けて寝ていたらサイレンで起きてしまうが。


 向かいなので、消防署の様子がよく見える。消防隊員たちはいつも訓練をしている。腕立て伏せをしたり、走ったり。また署の敷地内にSASUKEのセットみたいなやつがあって、そこで登ったり走ったりしている。

 すごいなあ。軟弱者としてはただただ頭が下がる。

 おもったのは、消防活動に関する道具の進歩はいろいろあるけど、現場で消火活動をする人たちに求められる能力ってのは江戸の火消しの頃から(あるいはもっと前から)そんなに変わってないんだろうな、ということ。

 どれだけ道具が進歩しても、最後は身軽さとかが求められるんだな。



2025年1月27日月曜日

小ネタ29(全盲ランナー / GM / 世界海賊口調日)

全盲ランナー

 以前、ニュースで「パラリンピックで全盲ランナーが金メダルを獲得しました」と伝えていた。

 それ、わざわざ報道する必要ある?

 オリンピックならわかる。オリンピックで全盲ランナーがメダルを獲得したら特筆すべきニュースだろう。

 でもパラリンピックで障害者がメダルを獲るのはあたりまえだ。障害者じゃない人がメダルを獲ったらそっちのほうがニュースだ。

「パラリンピックで全盲ランナーが金メダル」と伝えるのは、「女子サッカーの大会で女子チームが優勝」とやるようなものだ。


GM

 ガムとゴムとグミはたぶん語源が一緒なのだろう。全部「G」+「M」の音だ。

 そのせいで我々は「G」+「M」を聞くとぶにぶにした感じを思い浮かべる。

 今後、ああいう食感のお菓子を開発したときは、食感をイメージしやすいように「G」+「M」の命名をするといい。ギモとかゲマとか。あとゴマとか。あとゴミとか。


世界海賊口調日

 毎年9月21日は世界海賊口調日(International Talk Like a Pirate Day)だそうだ。海賊のような口調で話す日とのこと。よくわからない。詳しく調べれば由来とかがわかるのだろうが、わかってしまうとつまらない気がするのであえて調べないことにする。

 ハロウィンとかより気軽に参加できそうなのがいい。相手やその場の雰囲気によって「海賊口調で話すかどうか」を決められるのもいい。仮装だとこうはいかない。ハロウィンよりもこっちが流行ってほしい。でも日本だと「海賊口調」のイメージがあまりないので、「侍口調」のほうが良さそうだ。



2025年1月9日木曜日

どうしてテーマパークは変に凝ったメニューを作るのか

 テーマパークや動物園のレストランが嫌いだ。

 たぶんたいていみんな嫌いだろう。めちゃくちゃ高くて、買うのに時間がかかって、こんでいるからなかなか席がとれなくて、それでいてそんなにおいしくない。


 何がイヤって、「時間がかかって高くてうまくない」の三拍子そろっているところだ。「早い・安い・うまい」の逆だ。

 このうち二つなら許せる。個人的には「時間がかかる」がいちばんイヤだ。

 なぜならテーマパークや動物園には飯を食いに行ってるわけではないから。飯を食うのはトイレと同じで「生存のために必要だからやるがなるべく時間をかけたくない行為」だ。

 そこで儲けたい会場側の思惑もわかる。だから値段に関してはしかたないと諦める。まずくてもいい。ただ、「高くてまずくていい」と割り切ってしまえば、時間のほうはなんとかできるだろ、とおもうのだ。

 コンビニで売ってるようなおにぎりとかサンドイッチを仕入れて、市価の二倍で売る。こっちはそれでいいのだ。歩きながら食べられるし。

 会場側としても、施設や人を割かずに稼げる。悪くない話だとおもうのだが。


 なのに。

 どうして変に凝ったメニューを出すんだ。

 そのテーマパークのキャラクターをイメージしたハンバーグランチとか、動物園の人気のペンギンをあしらったプレートランチとか、余計なことをするんだ。

こんなのとか

こういうの


 その変に凝ったメニューを、調理に慣れてない学生バイトが一生懸命用意するのだ。時間がかからないわけがない。

 いや、そういうメニューがあってもいい。求めている人だっているだろう。

 ただ、それとは別窓口で(ここ重要)、市販のパンやおにぎりを売ってくれ。同じ売場にすると結局全部混むからやめてくれ。


 なに? 客単価? いっぱいお金を落とさせたい?

 わかった。じゃあ二倍と言わずもっととっていい。市販のおにぎり二個と市販の魚肉ソーセージのセットにして2,000円にしていい。その代わりすぐ提供してくれ!



2025年1月7日火曜日

名物・豚汁がうまい店(ただし氷点下)

 昼時に慣れない道を歩いていたら「名物・豚汁がうまい店」と書かれた看板を見つけたので店に入った。

 うん、こんな寒いときに食べる豚汁はたまらない。


 15人も入ればいっぱいのそう大きくない店。店員は四十代ぐらいの男性と四十代ぐらいの女性。一人客のぼくはカウンターに座った。さっそく塩さば・豚汁定食を注文する。

 店内には豚汁のいい香り。これは期待できそうだ。

 定食の到着を楽しみにしていながらカウンター内の様子をうかがっていたのだが……。


 どうも店員の男女の仲が悪いのだ。

 静かに喧嘩をしている。断片しか聞こえてこないのだが、


女「あ、それごはん大盛りです」

男「大盛りにしたつもりですけど?」

女「……」


というやりとりがあったり、


女「~って言いましたよね?」

男「主語がなかったのでわかりません。はっきり言ってもらわないと」

女「……」


と、丁寧語で喧嘩をしている。


 すごく感じが悪い。

 ふたりともいい大人なのでさすがに声を荒らげたりはしないが、ずっと押し殺した声で喧嘩している。


 そりゃあ、まあさ。店員だって人間だから腹の立つこともあるさ。働いていたらいろいろ言いたくなることもあるだろう。ぼくだって同僚相手に文句や嫌味を言ったこともある。

 でもさあ。


 豚汁のうまい店で険悪な空気出さないでよ!

 コンビニとか、国道沿いのチェーンのラーメン屋とかなら、まだいい。そういう店にあったかい接客なんて期待してないから。金髪ピアスのにいちゃんが気だるげにラーメン持ってくるみたいな接客でもいい。

 でも「名物・豚汁がうまい店」はちがうじゃない。にこにこした小太りのおばさんかおじさんが「はい、豚汁おまたせ! 寒いからこれ食べて元気つけてね!」と言いながら豚汁よそってくれるみたいな雰囲気を期待しちゃうじゃない。

 喧嘩するんなら豚汁の看板をはずしてくれ!