2025年5月29日木曜日

【読書感想文】朝井 リヨウ『正欲』 / マイノリティへの理解なんていらない

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正欲

朝井 リヨウ

内容(e-honより)
自分が想像できる“多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな―。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繋がりは、“多様性を尊重する時代”にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。第34回柴田錬三郎賞受賞!


 (一部ネタバレを含みます。)


 性的マイノリティを題材にした小説。

「性的マイノリティ」は最近よく耳にする言葉だ。小説、漫画、ニュースなどでホットなテーマといっていいだろう。

 うちの小学生の娘も「付き合うのは男と女とはかぎらないんだよね」なんて言ってる。学校でもしっかりとLGBTQなんて言葉を教える。

 が。『正欲』で描かれるのは、その“いわゆる性的マイノリティ”からもはずれた性指向の人たちだ。


 この小説に出てくるのは「水」に性的昂奮をおぼえる人たち。「水に濡れた人」ではない。水そのものが対象なのだそうだ。

 マイノリティの中でもさらにマイノリティ。ぼくはそんな指向の人たちがいることすら知らなかった。



 自分とはまったく異なる価値観を持つ人の話を読むのは好きだし、それこそが小説の醍醐味でもあるとおもうのだが、『正欲』はあまりにも遠い世界すぎて最後まで入りこめなかった。

 だって水だもん。ヤギに欲情するとかならギリ理解できないこともないけど、水だよ? 無生物だよ。それどころか決まった形すらないんだよ。

 それこそがぼくが「自分と異なる価値観の人を遠ざけている」証左なんだろうけど、べつにそれでいいとおもうんだよね。

 はっきり言って、他人を理解することなんて無理だよ。ぼくはリベラル派を気取ってるけど、本音のところを言えば同性愛者は気持ち悪いとおもってるよ。決して口には出さないけど。実害があるわけじゃないからわざわざ弾劾したりはしないけど、自分から近づきたいとはおもわない。

 でもそれでいいとおもってる。おたがいさまだし。たとえばぼくは四十代のおっさんだけど、二十代の女性をエロい目で見たりする。とても書けない妄想をくりひろげたりもする。行動にはうつさないけど。

 それを気持ち悪いとおもう人もいるだろう。べつにいい。頭の中でエロいことを考える権利があるように、誰かがぼくのことを気持ち悪いとおもう権利もある。

 ただそれを口に出して「おまえ気持ち悪いよ」と言われたり、「エロいこと考えることを禁止する」とか言われたら反発する。

 こっちは迷惑をかけないようにしてるんだから、おまえもおれに迷惑をかけるな。それだけだ。流星街の掟だ。




『正欲』にこんな文章が出てくる。

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。
 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

 これはわかる。当事者でもないくせに多様性の理解とか叫ぶ人には、ある種の傲慢さを感じる。


 以前、あるニュースを見た。イギリスの放送局が日本の人形工場について取材したニュースだ。そこでつくっている人形というのはいわゆるラブドールというやつで、それも幼い女の子の形をした人形を、愛好家に向けて作っているのだ。

 それをイギリスの放送局は「こんな気持ち悪いことをしているやつらがいます! こんなことが許されていいんですか!」みたいな感じで報じていた。


 ぼくは人形愛好家ではないけれど、そのニュースを見て腹が立った。何が悪いんだ、と。

 たしかに気持ち悪いよ。幼い女の子の姿をした人形を愛して抱いているおっさんは。

 でもそんなことは当人たちだってわかってるはずだ。だからみんなこっそりやっている。こっそり買って家でこっそり楽しんでいるのだ。実際の少女に手を出したらいかんけど人形なんだから誰にも迷惑をかけていない。

 それを、森の石をひっくりかえして「うわこんなところにゴキブリがいるぜ! 気持ち悪い!」と言うように、わざわざ工場まで訪れて取材して「こんな気持ち悪い人間がいるんだぜ! どうだみんな気持ち悪いだろう!」と白日の下にさらすことで誰が得するんだよ。気持ち悪いものを見に行ってるおまえのほうが気持ち悪いよ。

 家に出たゴキブリを殺すのはふつうでも、わざわざ森にゴキブリを殺しにいくやつは異常者だ。


 差別に遭っている当事者でもないくせに多様性が大事とか言ってるやつって、そのタイプに近い。

 別に他者を理解する必要なんてない。というか理解なんかできるわけないし。

 そもそもLGBTQってなんだよ。なんでぜんぜんちがうものをひとくくりにしてるんだよ(同じ不快さをSDGsにも感じる)。「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」みたいなことだよね、LGBTQって。勝手にくくるな。


 一緒にトラウマを乗り越えていきたい?
 笑わせないでほしい。自分が抱えているものはトラウマなんかではない。理由もきっかけも何もなく、そういう運命のもとに生まれた、ただそれだけのことだ。こうなってしまった自分には何かしらの原因があって、それを吐露する場があれば何かが癒され変化するような次元の話ではない。
 そもそも、お前みたいな人間にわかってもらおうなんてこっちは端から思ってない。お前にはお前のことしかわからない。お願いだからまずそのことをわかれ。他者を理解しようとするな。俺はこのまま生きさせてくれればそれでいいから。
 関わってくるな。

 ぼくは音痴だ。ぜんぜん音程がわからない。

 他人からしたらどうでもいいことかもしれないけど、学生のときは「他人があたりまえにできていることが自分にはできない」ことがかなりのコンプレックスだった。

 当時のぼくに必要なのは他者からの理解などではなかった。「とにかくほっとかれること」だ。もしも「音痴でもいいじゃない。ぼくたちは音痴を差別しないからカミングアウトしても大丈夫だよ。さあ、一緒に歌おう!」なんて言われてたら地獄だった。 「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」なんて言われてたら最悪だった。

 別に他者のことなんてわからなくていいんだよ。危害さえ加えなければ。




 他の人があまり切り込まないテーマを扱っていて、その点ではいろいろ考えさせられるいい小説だった。

 ただ、物語としてはあんまりおもしろくなかった。

 登場人物が多いわりに、最後はわりと投げっぱなし。いやすべてきれいに決着しなくてもいいんだけど。でも、問題提起にすらなってないというか、書きかけで世に出しちゃったみたいな印象を受けた。

 そしてラスト直前の大也と夏月の口論。それまでずっと周囲に対して本心をひた隠しにしていた大也が、急に本音を赤裸々に吐露しはじめる。

 ここがそれまでの大也の言動と比べてずいぶんちぐはぐな印象。朝井リョウさんの小説にしては雑に感じたなあ。

 テーマの重さをストーリーが支えきれなかったような印象。




 いちばんぞっとしたくだり。
  採用率。その言葉は、YouTubeのコメント欄に書き込んだリクエストが採用される確率を表している。
 自分が属するフェチがマイナーであればあるほど、性的興奮に繫がるような素材は早く底を突く。何の努力もせずとも次々と〝オカズ〟が生成される同級生たちを横目に、血眼になって素材の自給自足を続けるほかなくなる。
 YouTubeのコメント欄にリクエストを書き込むという方法は、一体誰が始めたのだろうか。人間の承認欲求と特殊性癖者の性的欲求、その交点がまさか駆け出しの配信者のコメント欄であるなんて、一体誰が予見できただろうか。 『暑くなってきたら、夏らしく、水を使った企画はどうでしょうか。水風船を割れないまま何度投げ合えるか対決、ホースの水をどこまで飛ばせるか対決など、見てみたいです』
 今読み返してみれば、過去に大也が書き込んだ文面は観たい映像を引き出すためのリクエストとしてあまりに稚拙だ。もっと砕けた空気を醸し出すべきだし、そもそもこの文章の向こう側にポジティブな雰囲気の人間がいるとは想像しがたい。だけど、このコメントを読んだ小学生の配信者は、すぐにリクエストに応えてくれた。動画内で、「この企画、面白いのかなあ?」等と訝しみながらも、水を様々に操ってくれた。
 本人が気づいていないだけで、マイナーなフェチの需要に応える動画を投稿している配信者は、多い。
 息止め対決をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、窒息フェチがいる。早割り対決や膨らまし対決、セロテープ剝がし対決など、風船を使ったゲーム企画をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、風船フェチがいる。罰ゲームを電気あんまに指定しているリクエストなんて、わかりやすすぎてこちらが恥ずかしくなるくらいだ。駆け出しの動画配信者の飢餓感は、自給自足ではすぐに限界が訪れるようなマイナーなフェチに属する人間にとって、とても都合が良かった。
 そして、そのようなリクエストの対象になっているのは、大抵が十代の子どもだ。
 中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで、実は持ちつ持たれつな関係性であることを認知し合っているようで、その緊張感はひどく居心地が悪かった。一方子どもたちは、自分たちの行動がその行動以上の意味を持つ可能性に全く気づいておらず、その無邪気さはこちらの後ろ暗さを誤魔化してくれるほどだった。

 おおお。

 YouTubeのコメント欄ってこんなふうに使われるたのか……(現在は13歳未満のチャンネルはコメント欄が使用できないらしい)。

「中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで」と書いてあるけど、「もっと脱いでほしい」とかならともかく「水中息止めチャレンジ」や「風船ふくらまし対決」をリクエストされて、それがフェチズムを満たす要求だと気づけるだろうか。ぼくだったら気づかない。

 知りたくなかったな。知らなきゃなんともおもわなかったけど、知ってしまった今となっては水や風船を使ったゲームを見るたびに「これで昂奮してる人もいるのか……」と考えてしまう。


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