2020年6月30日火曜日

【コント】誘拐ビジネス

「もしもし」

 「桂川だな」

「そうですが」

 「単刀直入にいこう。おまえの息子をあずかった」

「おまえ……なんて卑劣な……」

 「こっちの要求はシンプルだ。現金で一億円用意しろ。受け渡し手段は後で連絡する」

「そんなこと急に言われても……」

 「おっと、用意できないとは言わねえよな。金庫にたんまりあるのをこっちは知ってんだ」

「……」

 「わかってるとはおもうが、誰にも知らせるんじゃねえぞ。じゃなきゃ息子の命は保証しない」

「おまえには人の心がないのか」

 「これは取引だ。ビジネスライクにいこうぜ。それがあんたのやりかただろ? へっへっへ」

「……わかった。ビジネスライクにいきましょう」

 「?」

「こちらの希望条件をお伝えします。本日中に息子を我が家まで無事に送り届けること。息子の無事を確認したら、息子を預かってくれた謝礼として現金で十万円手渡します。領収書は不要です」

 「は?」

「半日のベビーシッター代としては十分すぎる額かと見ています。食費や交通費など、息子の面倒をみるのに要した経費は別途請求してくれればお支払いします」

 「ちょっと待て、ふざけんな。なんだ十万円って。こっちは一億円要求してんだ」

「一億円は呑めません。どうしてもというのであれば他をあたってください。十万円なら捻出可能です」

 「おまえ息子がかわいくないのか」

「ビジネスライクにいきましょう」

 「は?」

「よくお考えください。
 そちらが今日中に息子を連れてきてくだされば、十万円が手に入るわけです。こちらは警察には知らせません。
 ですが連れてきていただかなければこちらとしても警察権力に頼らざるをえません。九分九厘そちらは逮捕されるでしょう。仮に逃げおおせたとしてもずっとおびえて暮らすことになるでしょう。もちろん一億円は手に入りません」

 「……」

「ビジネスライクにお考えください。どちらが利益を生むか」

 「……おまえが約束を守るという保証は?」

「もちろん契約書を取り交わします。フリーメールを用意してくだされば、そこに捺印済みの契約書のPDFファイルをお送りします。そちらは捺印して返送してください」

 「そうするとこちらの氏名住所が知られてしまう」

「そのときにはもう契約成立です。契約書はそちらの手元にもあるわけですから。こちらが支払わなければ契約不履行で管轄裁判所に申し出てくださってもかまいません」

 「しかし一億円のはずが……。苦労して計画してきたのに……」

「『コンコルド効果』という言葉をご存じでしょうか」

 「なんだそれは」

「それまで投資してきた時間や労力を惜しむあまり、利益を生まないとわかっていても撤退を決断できない心理のことです。
 計画を実行しようが中止しようが、これまでに投下したコストは返ってきません。だったら未来だけに目を向け、どう行動するのが利益を最大化するかを考えたほうが得だとおもいませんか」

 「たしかに……」

「過去は変えられませんが、未来は変えられるんですよ」

 「いい言葉だな……いえ、いい言葉ですね……」

「おわかりいただいたようでなによりです」

 「ではこちら側のタスクとして、さっそくフリーメールをご用意させていただきます」

「こちらは現金のご用意に取りかからせていただきます」

 「それでは、今後とも引き続きよろしくお願いいたします」

「何卒よろしくお願いいたします」


2020年6月29日月曜日

ラテン語きどり


学者ってやたらとラテン語使いたがるじゃない。
動植物の学名とか。恐竜の名前とか。

ラテン語なんて今や誰も使ってないのに。

なんだよ、きどっちゃって。
あれでしょ。
自分は教養があるぜって言いたいんでしょ。
庶民とは違うんだぜって言いたいんでしょ。
とはいえじつはラテン語なんて知らないからこそこそラテン語辞典引いて、まるではじめから知ってましたけどなにか? みたいな顔で発表してるんでしょ。
まったく、素直じゃないんだから。

……とおもってたら。

更科 功『絶滅の人類史』にこんなことが書かれていた。
ただ、学名をラテン語にしたことには理由がある。言葉が時代とともに変化することは、昔から知られていた。でも学名は、何百年も何千年も、ずっと使えるものにしたい。だから学名には、変化しない言語を使いたい。そこで、もはや変化することのない死んだ言語、つまりラテン語を使うことになったのである。
あー……。
なるほど……。

たしかに言葉って移りかわるものだもんね。
昔の「をかし」と今の「おかしい」はちがう意味だもんね。

そっかそっか。
死んだ言葉には死んだ言葉なりの使い道があるのか。

そっかー。
きどってたんじゃなかったのね。

素直じゃないひねくれ者なのはぼくのほうでした。
ごめんなさい。


2020年6月26日金曜日

ツイートまとめ2019年12月


公園

憲法

きつね色


ストレス

無知と未知


かけ算の順序

You

ミニマム


なぞなぞ

社長


におう

薬物


てへっ

突き詰める


当たり馬券

自由民主党


世論調査

ロベカル


トラウマ




ペイ

正邪


隠滅

無限のファンタジー!


洞窟

シェアハウス


コッシー

2020年6月25日木曜日

しゃぼん液の恐怖

公園にいた親子。
おねえちゃん(四歳ぐらい)がしゃぼん玉を飛ばしている。
その横には一歳ぐらいの男の子。

とつぜん、男の子が火が付いたように泣きだした。
しゃぼん液の容器を手にしている。
どうやらしゃぼん液をおもいきり飲んでしまったらしい。

しかしおとうさんは悠然としている。
「おー。しゃぼん液飲んじゃったのかー。それはあんまり栄養ないぞー」
なんてのんきなことを言っている。

まあしゃぼん液なんて決して身体にいいものではないだろうが、かといって大あわてするほどのものでもない。

ということはわかっている。
わかっているのだが。

ぼくの心臓はばくばくしている。



なぜならぼくは子どものころにしゃぼん玉あそびをするとき、母親から
「それ飲んだら死ぬよ!」
と脅されていたからだ。

うちの母親はことあるごとに「死ぬよ!」と息子を脅していた。

「道路に飛びだしたら死ぬよ!」とか「勝手に火を使ったら死ぬよ!」とか。

まあそれはあながち嘘でもない。
道路に飛びだしたり火遊びをしたりして命を落とす子どももいるのだから。
また「死」は子ども心にもこわいので、その脅しはちゃんと効果があった。

「道路に飛びだしたらタイミングが悪ければ車にひかれて、打ちどころが悪ければ命を落とすこともあるよ」
よりも
「死ぬよ」
のほうがずっと効果がある。

しかしそれに味を占めたのか、「はよ寝ないと死ぬよ!」とか「ほこりまみれの部屋で生活してたら死ぬよ!」とか「死ぬよ」を乱用するようになり、その使用頻度に反比例して脅し効果も薄れていった。

だが幼いころに言われた「しゃぼん玉の液飲んだら死ぬよ!」という言葉は、ぼくの心の奥底に恐怖心といっしょに深く刻まれたままだ。
五歳ぐらいのときだったとおもうが、うっかりしゃぼん液を少しだけ飲んでしまい、号泣しながら
「おかあさん! しゃぼん玉の液飲んじゃった!」
と母のもとにかけつけた記憶がある。
あのときは本気で命の危険を感じたのだ。

いまでもしゃぼん液はこわい。

もちろん理屈ではそんなはずないとわかっている。
しゃぼん液なんて界面活性剤さえあればつくれると。しょせんは石鹸や洗剤だと。
石鹸にしても洗剤にしても多少は口に入ることを想定してつくられているのだからよほど大量に飲用しなければどうってことないと。
だいたい本当に危険なものだったら子どものおもちゃにするわけがないと。

わかっているが、だからといって心の奥底に染みついた恐怖心が薄れるわけではない。

罰なんてあたらないとわかっていてもお地蔵さんを蹴ることができないのといっしょで、ぼくはいまでもしゃぼん液を口に入れるのがこわい。



息子がしゃぼん液を飲んだというのに悠然としているおとうさんの傍らで、ぼくはおろおろしている。

救急車呼んだほうがいいんじゃないでしょうか。
胃洗浄とかしてもらったほうがいいんじゃないでしょうか。
せめて救急安心センター事業(#7119)に電話して相談したほうがいいんじゃないでしょうか。

よそのおとうさんに、言いたくて仕方がない。

2020年6月24日水曜日

【読書感想文】叙述トリックものとして有名になりすぎたせいで / 筒井 康隆『ロートレック荘事件』

ロートレック荘事件

筒井 康隆

内容(e-honより)
夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?動機は?推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。

<ネタバレあり>


叙述トリックものの話になると必ずといっていいほど名前の挙がる『ロートレック荘事件』。

正直、その前評判と“叙述トリック”という前提知識のせいで、「期待外れ」というのが正直な感想だ。

叙述トリックミステリというやつをいくつも読んできた。
ナントカラブとかナントカの季節とかナントカ男とかナントカにいたるナントカとか。
その後で『ロートレック荘事件』を読むと、「なんでこれが評価高いんだ?」とふしぎにおもう。

とはいえそれは今だからこその感想であり、発表当時(1990年)には『ロートレック荘事件』のトリックはたいへん斬新だったのだろう。
(さっき一部だけ挙げた叙述トリックミステリたちも『ロートレック荘事件』以後の作品だ)



ということで、ミステリ史を語る上では欠かせない作品なんだろうけど(そしてそれを書いたのがSF作家の筒井康隆氏というところがまたすごい)、残念ながら2020年のミステリファンを納得させられる作品ではない。

叙述トリックを読んだことのある読者なら、けっこう早い段階でタネがわかっちゃうんだよね。

一人称小説、同じ人物に対する呼び名が変わる(苗字で呼ばれたり下の名前で呼ばれたり「画伯」と呼ばれたりする)、誰の発言か明記されていない台詞が多い、そろっていない章タイトルなど、あからさまにあやしいことだらけ。

これで「この“おれ”とこの“おれ”は同一人物ではないな」と気づかないわけがない。

それだけでも2020年の読者にとっては野暮ったいのに、さらにクサいのがタネ明かしパート。

「ほらほら。じつはこれも伏線だったんやで」
「ここの記述は〇〇とおもったやろ? じつは××やねんで」
「ここは語り手が入れ替わっていたんでしたー。どやっ」
みたいな説明がくどくどと続く。
これがもう寒くて見ていられない。

昨今は「たった一行ですべてをひっくりかえす」みたいなスマートなミステリがたくさんあるからなあ。

まあこの泥臭さも筒井康隆氏らしいといえばらしいんだけど。
ミステリ作家ではない人のミステリ、って感じだな。



ってことで、ミステリとしてはイマイチ(あくまで今読むと、の話ね)。

でも小説としてはけっこう好きだった。
犯人が判明してからの、ラストの意外な事実とやるせないエンディングはしびれた。

身体障碍者ならではの卑屈さ、かわいさあまって憎さ百倍といった複雑な心境などは、表現のタブーに挑戦しつづけてきた筒井康隆氏ならでは。
障碍者を犯人に据える、しかも犯行動機にも障碍が深くかかわってくる……となると書くのに腰が引けてしまいそうなものだけど、ネガティブな部分をしっかり書ききっているのはさすが。

あと、いとこ同士の「他人でありながら一心同体に近い関係」という設定もうまいね。
この関係だからこそ、「相手のことを我が事のように書く」ミスリードが不自然でない。

とはいえ、「いとこが自分から離れるのがイヤだから」という理由でいとこと結婚しそうな女性を殺していくのはさすがに動機として無理があるやろ……。
無限に殺しつづけなあかんやん……。
いとこのほうも、いくら贖罪の気持ちがあっても自分の婚約者を殺した人物をかばおうという気になるだろうか……。


ということで、叙述トリックものとして有名になりすぎてしまったこともあって犯人当てミステリとして読むと賞味期限切れ感は否めないけど、心情の揺れや人間関係を描いた小説としては今読んでも十分楽しめる小説でした。

あ、随所に掲載されているロートレックの絵画がなにかのカギかとおもったら、ぜんぜんそんなことなかった。
小説にわざわざ絵を載せるんだからぜったい意味があるとおもうじゃないか……。
なんだったんだあれは……。

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【読書感想文】筒井康隆 『旅のラゴス』

【読書感想文】破壊! / 筒井 康隆『原始人』



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2020年6月23日火曜日

【読書感想文】作家になるしかなかった人 / 鈴木 光司・花村 萬月・姫野 カオルコ・馳 星周 『作家ってどうよ?』

作家ってどうよ?

鈴木 光司  花村 萬月  姫野 カオルコ  馳 星周

内容(e-honより)
鈴木光司、馳星周、花村萬月、姫野カオルコ。四人の人気小説家が語る“作家の打ち明け話”。「“カンヅメ”ってつらいの?」「休日は何をして過ごしてる?」「本が一冊出ると、どのくらいお金が入ってくるの?」「“直木賞待ち”って、どんな感じ?」「文学賞の賞金は何に使うの?」などなど、ここでしか読めない赤裸々トーク。一見華やかそうに見える「作家業」も、いろいろ大変なようで…。作家志望者必読のエッセイ集。
2004年刊行。
当時の人気作家たちによる「作家」についてのエッセイ。
2004年の鈴木光司さんなんて、『リング』シリーズの映画化などでウハウハの時期だったはず。
当代きっての売れっ子、という勢いの良さがエッセイからも伝わってくる。
まあ正直今はあんまり名前をお見かけしないけど……。ぼくが知らないだけかな……。

この本を読んでいるタイミングで、馳星周さんが2020年下半期の直木賞候補に選出されたというニュースを目にした。なんと七回目のノミネートだとか。

この本にも『夜光虫』で直木賞にノミネートされながら落選したエピソードが書かれているが、なかなかしんどいものらしい(本人が、というより周囲が落胆するのがつらいそうだ)。
部外者からすると、もう五回ノミネートされたら数え役満で受賞扱いでいいじゃないか、とおもうんだけど。

ちなみにぼくは四人とも、ほとんど作品を読んだことがない。
鈴木光司さんはなにかのアンソロジーで短篇を読んだことあったような気がするけど……。



「作家」に関するエッセイ集とあるけど、要は雑多な身辺エッセイ。
趣味とか好きな食べ物とか好きな音楽とかについて書いている。

以下は姫野カオルコさんの文章。
 やがて一人暮らしをしている時に、郵便局の通信販売で地方の名産品が買えるというのを発見しました。さっそくたらば蟹一キロを申し込み。確か七二○○円でした。それが箱に入ってやって来まして、食べる計画をした夜は、まずお昼を手短に済ませ、ジョギングをして程よくお腹を減らしました。いよいよ蟹を食べるにあたり、一部はポン酢で一部は焼いて、最後の一部は鍋、というふうに準備をいたしました。
 そして全ての準備が調ったら、電話を留守電にして誰にも邪魔されないように蟹に取りかかりました。シーンとした邪魔者のいない部屋で蟹を心行くまで口に含んで呑み込む時、蟹のあの白い淡白な、ちょっと素っ気ないような熱のない身が、ツルンと喉を落ち込んでいく……それを一人で何度も何度も繰り返しながら、やがてじわーって涙が出てくるんですよ、おいしくて。ああ、大人になってよかった。一人で蟹を全部食べられてよかった。
 皆さんの中には「おばさんになるの嫌だな、大人になるの嫌だな」と思っている若い人がいるかもしれませんが、いえいえ、大人になったら楽しいことばかり。大人になった時のほうが蟹がおいしく味わえます。蟹、大好きです。
ぜんぜんおもしろくないんだけど、その「どうってことなさ」が逆に新鮮だった。
今、なかなかこういう「発見も新しさもオチもない」文章って読めない気がする。
いや、もちろん読もうとおもえばいくらでも読めるんだけど。
このブログなんてまさにその典型なんだけど。

でもわざわざ読まないでしょ。
ネット上に山のように「話題の情報」や「役に立つ情報」や「短時間で読めるおもしろコンテンツ」がある中で、よく知らない人が書いた「わたしの好きな食べ物の話」なんて。
もっとおもしろいものがいっぱいあるんだもの。

でもほんの二十年前まではお金出してこういう文章を読んでいたんだよなあ、とずいぶん懐かしくなった。
「刺激の少ない文章」も、たまに読むには悪くない。



あと、「思想の古さ」が味わえるのもおもしろい。

「自分探しをしても自分なんて見つからない。自分探しをしている自分こそが本当の自分だ」
とか
「携帯電話でずっとつながってなきゃ不安になるような関係なんてむなしくない?」
とか。

ふるっ! と声を上げてしまう。
2020年の今、こんなことをドヤ顔で言う人なんて誰もいない。
とっくの昔にみんなが通りすぎた議論だ。

2005年はこんなのが「切れ味鋭い意見」だったのかなーとおもってなんだか逆に新鮮。

五十年前の体操選手の映像とか見ると「えっ、こんな低レベルでオリンピック出られたの!?」とびっくりするけど、その感覚に近い。

時代って変わってないようでちゃんと進んでるんだなあ。



花村萬月さんのエッセイだけは、他の三人とは一線を画していて素直に興味深かった。
 そうしたらその時に、愛用している“洩瓶(しびん)”が見つかってしまいまして(笑)。もうバレてるので恥さらしで言ってしまいますが、それはカッコ良く言えば、執筆のときにトイレに行くのがめんどくさいので、そのままジャーっとしちゃうっていう物なんですけれども、本音を言えば寝てる時もそれを使ってて、ベッドに上半身を起こして跪いてやってました。洩瓶といってもちゃんとした洩瓶じゃなくて、イトーヨーカドーで買ってきた漬物を漬けるような容器か何かなんです。いろいろ試行錯誤したんだけど洩瓶に一番いいのはやっぱり口が広いことで、見栄張るわけじゃないんですけど、起きてる時は割とどうにでもなるんですけど、寝てる時はちょっと固くなってたりして上を向いてたりするわけですよ。そうすると、初期の頃はペットボトルにジョーっとしてたんですが上を向いているとペットボトルのあの狭い口とは相性が非常に悪くて、つまりペットボトルの口を下に向けて本体を上に向けると逆流してくるということで、それは不可能だと。自分を無理やりひん曲げてしなきゃなりません。口が大きければ大きいほど融通が利くので、その漬物容器みたいな物にしてるんです。
 そんなのが見つかってしまって、まあ業界ではうまく誤解してくれて「あいつは執筆に集中するあまりトイレ行く時間も惜しんで仕事をしてる」と(笑)。でもそんなことはなくて日常でもベッドの脇にもそれがあるし、テレビ見てる時にも椅子の脇にそれがあるし。つまり、単純にトイレに立つのがだるいというだけなんです。
ううむ、クレイジー。
無頼派というかなんというか。
西村賢太さんと同じ人種のにおいがするなあ。
そういや花村萬月さんも西村賢太さんも中卒だ。

作家って、ずっと作家にあこがれていてなった人が多いとおもうけど、花村萬月さんとか西村賢太さんはそうじゃないんだよね。
他の道でまともに生きていけなかった、作家しかなれるものがなかった、作家になっていなかったらホームレスになるか犯罪者になるかしかなかった、っていう人たちなんだよね。

かっこいいなあ。
絶対にこうはなりたくないけど。
だからこそ、あこがれる。

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【読書感想文】己の中に潜むクズ人間 / 西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』



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2020年6月22日月曜日

【読書感想文】尿瓶に対する感覚の違い / 高島 幸次『上方落語史観』

上方落語史観

高島 幸次

内容(e-honより)
上方落語は笑わせてなんぼ。ならばその中身はウソばかり?いやいや、幕末から明治初期にかけて創作された古典落語は、当時の歴史風土や人々の生活習慣が色濃く反映されている。つまり、歴史を学ぶための手がかりが溢れた「教科書」なのだ。昔の人たちの笑い声が聞こえてくる、リアルな大阪の歴史を紐解きます。

大阪の近世史の研究者が、上方落語の時代背景について書いた本。

落語まわりの蘊蓄を披露、という感じだが、落語を楽しむ上での役に立つことはあまりない。
あまり知識がなくても楽しめるのが大衆芸能である落語だし、噺家は昔の噺が現代でも通用するようにいろいろ工夫してくれているし。
今ふつうに高座にかかっている噺で、歴史の知識がないと楽しめない噺というのは、つまり演者のチョイスか話し方に問題があるのだ。

なので落語を聴いて楽しむ人向けじゃなくて、研究対象として楽しみたい人向けかな。

あと著者がウケを狙いにいってるところはことごとく上滑りしている。“イタい落語ファン”という感じがして、読んでいてつらい。

堀井憲一郎さんの『落語の国からのぞいてみれば』のほうが、読み物としても雑学本としてもずっとおもしろかったな。



落語といえばカミシモ(顔を左右にふりわける)というイメージもあるが、必ずしも必須ではないという話。
 その意味では、落語はスクリーンもなく、ただ言葉だけで人物や風景を表現できる芸なのですから、これはすごいことです。「言葉だけで」というと反論があるかもしれません。落語家さんは、上下(カミシモ)をふって(顔を左右にふり分けて)登場人物を区別しているじゃないか、扇子を箸やキセルに見立て、科を作り女性を演じるじゃないか、という反論が予想されます。
 たしかにその通りで、落語家さんの所作が言葉を補って余りある効果を持っていることは否定しません。しかし、その所作がなければ成り立たないかというとそれは違います。だって、落語はCDやラジオでも楽しめるのですから。ラジオでは上下が見えないからわかりにくい、といった不満は聞いたことがありません(あるとしたら、聞き手の知覚力の欠如か、落語家さんの力不足のせいか、どちらかですね)。箸に見立てた扇子が見えなくても、うどんをすする擬音だけで、ダシの熱さを感じ、湯気までもが見えてくる、落語の芸とはそういうものです。
たしかに。
ぼくが小学生のころ、三代目桂米朝さんのカセットテープを買ってもらって寝る前に何度も聴いていた。
田舎だったので気軽に寄席に行くことができなかったのだ。
今は場所的にも経済的にも生の落語を聴きにいきやすくなったが、そうはいっても小さい子どもがいるとなかなか「ちょっと寄席に行ってくるわ」とも言いづらく、寄席に行くのは数年に一回だ。
もっぱらYouTubeで楽しんでいる。

でもそれで十分だ。
Eテレでやっている落語の番組を毎週録画して観ていたことがあるが、すぐにやめてしまった。集中して観るのは疲れるのだ。
寝物語としてYouTubeで聴くのがちょうどいい(ただ聴いている途中に眠ってしまい、最後のお囃子で起こされるのが困るが)。



「尿瓶(しびん)」について。
落語にはときどき尿瓶が出てくる。
当時も今も尿瓶の用途はいっしょ。おしっこを入れる容器だ。

でも尿瓶に対するイメージは今とはずいぶんちがったようだ。
しかし、十八世紀にもなると尿瓶はかなり普及しました。しかも、それは現代のような介護用というよりは、日常的な用途に供せられたのです。
 特に長屋の住人には、屋外の共同便所を避けて室内で用をたすための必需品だったようです。江戸時代の大坂は、借家率が高く住民の六割以上が長屋住まいでしたから、大坂は「尿瓶率」全国第一位だった可能性が高いのです。たしかに、極寒の夜に家を出て長屋の端っこのトイレに突っ立ってジョンジョロリンはつらい。温かい寝床で用を済ませられるならそれに越したことはない。
 落語〈宿屋仇〉では、清八が宿屋の部屋を出ようとすると、宿屋の伊八に止められます。清八が「いや、ちょっ、ちょっ、ちょっとお手水(便所)」と答えると、伊八は「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」と答える場面があります。伊八は清八を部屋から出せない事情があるのですが、それはともかく、この会話は、尿瓶の使用が病人だけではなかったことを窺わせます。
今はどの家にもトイレがあるのがあたりまえだけど、長屋には便所がなかった。
たしかにトイレのたびに毎回外に出なきゃいけないのはつらい。冬の夜や朝方だったらなおさらだろう。
大用ならともかく、小用なら尿瓶に済ませてしまいたくなるだろう。どうせ昔の長屋なんてすきまだらけだし、いろんなにおいが漂っていただろうし。

だから現代人の感覚だと
「ほな、ここへ尿瓶持って来まっさかいな」
と聞くと
「部屋を出させないために尿瓶だなんてそんな大げさな。病人じゃあるまいし」
とおもってギャグになるけど、江戸時代の感覚だと大げさでもなんでもないことなのだろう。
「腹が減ったから飯食ってくる」「だったらコンビニでなんか買ってきてやるよ」ぐらいの感覚なんだろう。きっと。

これはちょっと役に立つ知識だった。



落語を聴いていていちばん理解できないのはお金の感覚。
江戸時代の噺なら「一両」、明治時代の噺なら「十円」とか出てくるが、どれぐらいの価値があるのかがぴんとこないのだ。
「金」の単位は「両・分・朱」です。これが十進法ではなく四進法だから厄介なのです。一両=四分=十六朱となります。
「銀」の単位は「貫・匁・分」です。一貫=千匁、一匁=十分というように十進法と千進法が混じります。留意しておかねばならないのは、匁の一の位がゼロの場合は「匁」ではなく「目」になること。つまり、九匁、十目、十一匁、という具合です。文楽の床本に「二百匁などは誰ぞ落としそうなものじゃ」(『女殺油地獄』)と書いてあっても、太夫さんは「二百もんめ」ではなく、ちゃんと「二百め」と語りはります。さすがの口承芸能です。
「銭」の単位は「文」です。銭千文=一貫文、銀でも銭でも「貫」は千の意味なのです。穴空きの銭千枚を紐で貫いたことに由来するようです。
四進法の金と十進法の銀と千進法の銭があり、しかもそれぞれが交換されることもある……。
おまけに一文銭を九十六枚束にしたものは百文の価値があった……。

ややこしすぎる……。
よしっ、これを理解するのはあきらめた!

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堀井 憲一郎 『落語の国からのぞいてみれば』

【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』



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2020年6月18日木曜日

【読書感想文】字幕は翻訳にあらず / 清水 俊二『映画字幕の作り方教えます』

映画字幕の作り方教えます

清水 俊二

内容(e-honより)
映画字幕作り57年、その数なんと2千本に及ぶ斯界の第一人者が語る草創期の苦心から、最近の「フルメタルジャケット」事件まで。字幕翻訳の秘訣は「正しく、こなれた日本語と、雑学への限りない好奇心」と説く著者が明かす名訳、誤訳、珍訳の数々。63年5月、急逝した著者が遺した映画ファン必読の書。

戦前から洋画の字幕(スーパー)を作ってきたという字幕のスペシャリストのエッセイ。
(この本の刊行は1988年。本の説明文に「63年5月、急逝」とあるのは昭和63年ね)

日本で一、二を争う有名な翻訳家といえば戸田奈津子氏だが、その戸田奈津子氏の師匠筋にあたる人らしい。

字幕作りのうんちく二割、老人のとりとめのない思い出話が八割という内容。
思い出話の部分は著者本人に興味のある人以外は退屈きわまりない内容だったので飛ばし読みしたけど、字幕作りにまつわるエピソードはわりとおもしろかった。

映画産業は衰退しているらしいが、インターネットで手軽に動画を観られるようになって、海外の動画を目にする機会は増えた。
その中には字幕のついているものも多い。

機械翻訳の精度はどんどん上がっているが、字幕は当分AIにはつくれなさそう。
今後、字幕を作れる人の価値は上がっていくかもしれない(というか翻訳者が流れこむのかな?)。



字幕作りはふつうの翻訳とはまったく別物なんだそうだ。
「スーパー字幕という奇妙なものについて」という短い文章を映画ペンクラブのパンフレットに書いたことがある。「諸君!」という雑誌に立花隆君が『地獄の黙示録』のスーパー字幕が誤訳であると書いたのに答えたものだ。
 ウィラード大尉がカーツ大佐討伐に向かうとき、大佐がどういう人物であるかという説明をうける。その説明のなかに“His method is unsound.”という文句が出てくる。スーパー字幕ではこれが、“行動が異常だ”となっている。立花君によるとこれは誤訳で、“方法が不健全だ”でなければならないという。
 たしかに“方法が不健全だ”のほうが訳文としては正確だが、あの場合は、“行動が異常だ”とするほうがはるかにわかりやすい。“方法”というのがどういうことか、すぐ頭に入ってこないし、“不健全”も話しことばとして適当でない。たとえ瞬間的にでも観客に意味を考えせるようでは、字幕として落第である。次々に現れて消える字幕が抵抗なく頭の中を通りすぎていかないと、鑑賞が妨げられる。ポイントはことばの選択で、これは経験によって身につけるほかはない。
たしかに「方法が不健全だ」のほうが正確だけど、これでは意味が分からんよね。

おまけに字幕が出るのは数秒だけ。
その数秒で読んで意味を理解しないといけないわけだから、正確さよりもわかりやすさのほうが大事だ。

表示される文字数、秒数、前後の文脈、文化の違いなどを考慮に入れて、「映画のストーリーがすっと頭に入ってくる日本語」をつくるのが字幕作りなのだ。
目的は言葉の意味をそのまま伝えることではない。


この本には、いくつか字幕作文の例が紹介されている。
たとえば『そして誰もいなくなった』の台詞。
I'm sorry sir, Mr. Owen will be here for dinner.
直訳すれば
「申し訳ございません。オーウェンさんは夕食のときにここに来ます」
といったところか。

だが映画字幕として観客が読める時間を考えると、文字数は11文字から13文字におさめないといけない。
おまけに「執事が客から館の主人について尋ねられての返答」という文脈を考えると、それにふさわしい言葉遣いをしなければならない。

著者は「オーウェン様はご夕食の時に。」と訳したそうだ。
なるほどー。

改めて考えると、映画字幕には主語や述語の省略が多いよね。

「戸田奈津子さんの字幕は誤訳が多い!」と聞いたことがあるけど、わざと元の意味とはぜんぜん異なる訳にしていることも多いんだろうね。
字数制限があるとか、一瞬で意味をとれないとか、制作された国の文化を知らないと伝わらないとか、その他諸々の理由で。

字幕作りという作業は、翻訳半分、創作半分ぐらいなのかもしれない。

今度から字幕映画を観るときには、「この字幕をつくるのにどんな苦労があったのだろう」と気になってしまいそうだ。



『フルメタル・ジャケット』のエピソードはおもしろかったな。

『フルメタル・ジャケット』の字幕は戸田奈津子さんが担当することになっていたのだが、スタンリー・キューブリック監督自らが日本語字幕をチェックして、急遽担当者変更になったのだそうだ。
 キューブリック監督がこの英訳を受けとってからのチェックがこれまた念がいっている。スーパー字幕をつくるために、こんな作業が行われたことは映画が始まって以来、いままで聞いたことがない。
 キューブリック監督はまず戸田奈津子君の第一稿を全部ローマ字に書き直させ、国会図書館の日本人館員に来てもらって、日本から送られてきた英訳とくらべて、一枚ずつ、英文のせりふがどう訳されているか、せりふがまったく変えられているが日本語のニュアンスはどうなのかなどを検討した。とにかく、一二〇〇枚検討するのだから、気の遠くなるような作業である。
 みなさんごぞんじのとおり、日本語スーパー字幕はもとの英語のせりふの二分の一から三分の一の長さであるのが普通であるから、原文のせりふの一節が抜けている場合もある。ときには原文とまったく違う表現の日本語で原文の意味を伝えている場合もある。このへんはスーパー字幕屋の腕の見せどころなのだ。キューブリック監督はこれがお気に召さなかった。原文にもっと忠実に、せりふの英文のとおりに翻訳して欲しい」と申し送ってきた。戸田君は「そんな字幕をつくったら、お客が読み切れないのが四、五百枚はある。こんどはお客から文句が出る」といっている。そのとおりである。

(中略)

 キューブリック監督がもっとも頭にきたのは“四文字語”が全部、そのままの日本語になっていないことだった。
 たとえば、こんなせりふである。
「ケツの穴でミルクを飲むまでシゴキ倒す!」
「汐吹き女王・メアリーを指で昇天させた……」
「セイウチのケツに頭つっこんでおっ死んじまえ!」
 とにかく、ワーナー・ブラザース日本支社はキューブリック監督から日本語字幕を原文にもっと忠実に、全部作り直せ、と指示されたのでは、何とかしなければ映画を公開できない。予定されていた昨年秋の公開予定を延期して、日本語スーパー字幕の第二稿を作成することになった。

すげえなこのこだわり……。
いくらこだわりのある監督でも、ふつうは他の国で上映されるときの字幕なんか気にしないだろ……。
キューブリック監督はまったくわからない日本語字幕まで再翻訳させてチェックしたのだそうだ。

ちなみにこの文章にある“四文字語”というのは、英語の卑猥なスラングのこと。「FUCK」とかね。

きっと戸田奈津子さんの字幕は上品すぎたのだろう。

『フルメタル・ジャケット』は観たことないけど、友人から
「軍曹が新兵を罵倒しまくるシーンがすごい!」
と聞いたことがある。

【台詞・言葉】ハートマン先任軍曹による新兵罵倒シーン全セリフ

↑ こんなものがあったので、『フルメタル・ジャケット』未見の人はぜひ見てほしい。

なるほど……。
たしかにこれはすごい……。
ふつうの字幕だったらこの強烈なインパクトは失われるな……。

『フルメタル・ジャケット』観てみたくなった……。

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2020年6月17日水曜日

【読書感想文】書店時代のイヤな思い出 / 大崎 梢『配達あかずきん』

配達あかずきん

成風堂書店事件メモ

大崎 梢

内容(e-honより)
「いいよんさんわん」―近所に住む老人から託されたという謎の探求書リスト。コミック『あさきゆめみし』を購入後失踪した母を捜しに来た女性。配達したばかりの雑誌に挟まれていた盗撮写真…。駅ビルの六階にある書店・成風堂を舞台に、しっかり者の書店員・杏子と、勘の鋭いアルバイト・多絵が、さまざまな謎に取り組んでいく。本邦初の本格書店ミステリ、シリーズ第一弾。

いわゆる「日常の謎」系ミステリ。
書店で働く主人公と、切れ者のアルバイトが身の周りで起こった謎を解く。

文庫のレーベル、漫画の内容、雑誌の配達、おすすめ本、ディスプレイなど、書店に関係のある小道具が謎や謎解きに使われている。

少し前に『ビブリア古書堂の事件手帖』というライトミステリシリーズが人気になっていたが、それの新刊書店版みたいな感じかな。
『ビブリア』読んでないからテキトーだけど。



ミステリとしての出来は可もなく不可もなくという感じだけど、小説としての基礎がな……。

とにかく登場人物がみんなうるさい。

考えていることをぜんぶ口に出す。
ほぼ初対面の人間になんでもかんでも話す。
身内の死、教え子の恋愛といったデリケートな話題でもべらべらしゃべる。
書店の店員相手に。

うるせえよ。
ちょっとはひかえろよ。
たしなみとかデリカシーとかゼロかよ。

言いにくいことまで「それはまだ言えません」とかはっきり言っちゃう。
話をそらす、とか、口を濁す、とかそういうのがぜんぜんない。
あまりにおしゃべりをセーブできないので登場人物全員バカに見えてくる。

これは小説というより漫画のノベライズだな……。
漫画だったら説明文だらけにならないように登場人物にあれこれ説明させなきゃいけないけど、小説でそれをやるなよ……。

ライトノベルってこんな感じなのかな。
ふだん小説を読まない人にはこっちのほうが読みやすいのかもしれないけど、ぼくは読んでいて耳をふさぎたくなったな。



「書店のお仕事」情報がちょこちょこ入る。
かつて書店でバイトおよび社員として働いていたぼくとしては、いろんな苦い思い出とともによみがえってくる。
 毎朝毎朝、その日の入荷リストと配達分をつき合わせ、一軒ごとに調えていくのも気を遣う作業だが、それらを受け取り、駅周辺の各店舗に届けるのはバイトやパートの役目であり、これはこれで大変なのだ。
 原則として雨の日も風の日も、猛暑の日も酷寒の日も欠かすことはできない。今のところ成風堂では、配達業務は早番の人たちが曜日ごとに受け持っている。
 博美の電話がきっかけとなり、レジまわりでは配達先の話に花が咲いた。エレベーターのないビルの三階にある美容院や、タバコの煙がたちこめる喫茶店、次から次に注文する本を替える銀行、一軒だけぽつんと離れた床屋、集金の日はなかなか出てこないオーナー、居合わせた従業員が気安く本を頼むブティック。
あったなあ、配達。
ゴミクズみたいな仕事。
大っ嫌いだった。

客から配達を頼まれていてもぼくは断っていたんだけど、前任者が引き受けた配達リストがあって、しかたなく喫茶店とか美容室とかに配達してた。

ほんとくだらない仕事なんだよね。
店ごとに何種類かの雑誌を届けるんだけど、雑誌の発売日はばらばらなので月に何度も配達しなければならない。
数百円の雑誌なんて書店の利益は百円か二百円ぐらいだ。
それを数十分かけて配達するのだ。
配達料なんてとらない。雑誌の定価をもらうだけ。

発売日に配達分を取り分ける手間、配達中の人件費、ガソリン代、事故リスクなどを考えたら、よほど大口の客以外はどう考えても赤字だ。

まともな会社なら、数百円の利益のために数十分かけてたら
「おまえアホか。生産性というものを考えろ!」
と怒られるだろう。

ところが書店員は生産性の低いことばかりやっている(売上にまったく貢献しないポップを書くとか)から、コスト意識が麻痺してきて、嬉々として配達に行ってしまうのだ。
はあ、ほんとくだらない。

いや、わかるよ。
「そうやって地域に密着したお客様との信頼を築くことが長期的な利益に……」
みたいな御託は。
まあなんぼかはあるんでしょう。ボランティア配達によって得られるものも。
けど失うものはもっと多いとおもうな。

あー。
書いてたらいろいろ嫌なこと思いだしたなー。

ぼくが配達に行ってた個人でやってる美容室は、定休日以外にもおばちゃんの気分次第で休むから配達に行ったら閉まってることがあったなー。
配達に行ってた喫茶店の店員は、代金請求するたびにめちゃくちゃ嫌そうな顔をしてたなー。
タダで持ってきてやってんのになんで迷惑がられなあかんねん!

ほんと、配達って書店のダメさを象徴するような業務だったなー。



あと配達とは関係ないけど、あれも嫌いだったなー。
分冊百科。
ディアゴスティーニとか「週刊○○をつくる。創刊号は380円!」みたいなやつ。

あれ、はじめの何号かはふつうに書店に並ぶけど、途中からは定期購読分しか入荷しなくなるんだよね。
だから定期購読を頼まれるんだけど、あれの定期購読する人って八割方、途中で飽きて取りに来なくなる。
で、書店のレジ内にどんどん溜まってくる。
またあれがかさばるから苦労して置き場をつくらなくちゃいけないんだ。

定期的に電話して「もう10週分溜まってるんです取りに来てください」とか言わなくちゃいけない。
そしたら客は「わかりました。今週中には行きます」とか言うんだけど、まあ来ないよね。
あれ創刊号以外はけっこう高いから10週溜まったら1万円超えるんだよね。金銭的負担も大きいからますます客は足が遠のく。
書店にはどんどんバックナンバーが溜まってゆく。
レジの中だけで収まりきらなくなって、ストッカー(書架の下の引き出し)とか休憩室とかのスペースがどんどん浸食されてゆく。

定期購読がいやになったんなら、やめるって一本連絡してくれればいいのに。
でもそれをしないんだよね、分冊百科を定期購読する客は。
そもそも、計画性のある人はあんなものに手を出さないからね(偏見)。
「創刊号は380円!」に釣られてお得とおもっちゃうような人だからね。朝三暮四の猿レベルなんだよ(偏見)。

前の職場にいっつも金がないって言ってる人がいて、クレジットカードの返済に追われてる人だったんだけど、「何に金つかってるんですか?」って訊いたら「えっとまずディアゴスティーニの……」って返答で「ああやっぱり」って納得した。

分冊百科にはまる人はクレジットカードでリボ払いとかしちゃう人だ。



ディスプレイコンテストの話。
 ディスプレイコンテストは各出版社がよく使う手で、春の新入学フェアや夏のコミック祭り、秋のファッション特集、といった定番はもとより、新刊雑誌を盛り上げるために、発売前から豪華景品で参加を呼びかける大騒ぎもある。
「いいなあ、エルメスのバッグに、お食事券ですか」
「でもほら、ここまでやらないと取れないのよ。むりむり」
 今回、ブランドバッグで釣るコンテストは、アニメにもなった人気漫画の販促フェアだ。
 昨年、似たような企画が催され、そのときの様子が参考までにと掲載されていた。
 カラー写真で紹介された入賞作は、天井から飛行船の模型がぶら下がり、入道雲がむくむく立ちのぼり、登場人物たちの切り抜きが飾り立てられ、左右では迫力満点のドラゴンが火を噴いていた。
「これってみんな手作りなんでしょうか」
「そのはずだよ。模造紙や段ボールをうまく使って、凝りまくったものを作っているんだよ。すごいね」
あー、あったなー。
無駄の極み、ディスプレイコンテスト。

「この商品を売りたいのでめいっぱい飾りつけしてください!」
って出版社が書店に言ってくる。
それって本来なら出版社の仕事なんだけど、「上手に飾りつけした書店には一万円あげますよ」みたいなエサで釣って書店にやらせる。

で、いくつかの書店はアホみたいに気合入れてディスプレイつくんの。
入賞せずに賞品もらえなかったらもちろんムダだし、入賞したってぜったい賞品よりもディスプレイにかかった材料や人件費のほうが高いからムダ。
だいたいディスプレイがんばったところで売上なんてほぼ変わらないし。買う人は買うし。
むしろディスプレイするために他の商品の売場を削るからトータルの売上は落ちそうだし。

書店のムダの象徴みたいなイベントだよね。
文化祭気分で仕事してんの。
そりゃ衰退するわ。

こんな非効率なことばっかりして経営が苦しくなったら
「書店がなくなったら地域の文化の担い手が……」
とか言ってんだぜ。
非生産的文化の担い手じゃねえか。そんなもんつぶれろつぶれろ!


……いかんいかん。つい書店のことになると非難がましくなってしまう。
「人は、自分が通ってきた道に厳しい」って言うからね。

書店に対して淡いあこがれを持っている人は楽しめるかもしれないね。
ぼくは書店時代のイヤな思い出をいろいろ思いだして不快な気持ちになった小説だった。

がんばれ書店員!(とってつけ)


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書店が衰退しない可能性もあった



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2020年6月16日火曜日

映画の割引券を配ってるおっちゃん

まだいるのかな。
小学校の前で映画の割引券を配ってるおっちゃん。

ぼくが子どものころは夏休み前になると現れた。
朝早くから校門の前に立って、投稿してくる子どもたちにドラゴンボールとかの映画の割引チケットを配っていた。
割引ったって50円引きだか100円引きだかでたいして安くなってないんだけど。
でも小学生はばかだから、カラーで印刷された紙に
100円引き」
って書いてあるものを見て、
「この紙は100円の価値があるぜー!」
なんつって昂奮して集めてた。
おっちゃんはひとり一枚しかくれないから、校門を出たり入ったりして何枚ももらってるやつがいた。
そういうやつにかぎって映画観にいかないから無価値なんだけど。
でも男子小学生ってタダでもらえるもんなら病気でももらうって人種だから、「(映画を観にいく人にとっては)100円分の価値があるカラープリントの紙」をもらえることはめちゃくちゃうれしかった。

今でもあの類のおっちゃんいるのかな。
もういないかもしれないな。21世紀だもんな。
昔はどろくさい宣伝活動してたんだなー。

とおもったけど、よく考えたらあれはじつに効率的なマーケティング手段だ。



ぼくはWebマーケティングの仕事をしているけど、いちばん頭を悩ませるのは
「いかに狙ったターゲットだけに広告を配信するか」
だ。

たとえば弁護士が遺産相続の広告を出すとして。
・最近、親などの親戚が亡くなった(または亡くなりそう)
・遺産が多い
・親戚間でトラブルになっている(またはなりそう)
という条件をすべて満たしていないと、弁護士にとっては顧客になりえない。
トラブルにならないと弁護士に相談する理由がないし(司法書士とか税理士とかに頼んだほうが安い)、遺産が少なければ弁護士に相談したほうがかえって高くつく。

でも、条件をすべて満たしている人だけに広告を出すのはむずかしい。
「1億円 相続 トラブル」
みたいなキーワードで検索してくれたらいいけど、たいていの人はそんなに丁寧に検索しない。
「相続」「相続トラブル」「相続 相談」とかで検索する。
で、そのうち大半は弁護士にの顧客にならない。
相続額が少なかったり、親戚間でもめていなかったり、まだ親がピンピンしていたりする(芸能人が死んでその相続人が誰なのか知りたいだけ、なんて下世話なやつも多い)。

Web広告は基本的に配信した量に比例して料金が発生するから、関係ない人に配信すればするほど無駄なコストも増えることになる。
だからといって「1億円 相続 トラブル」で検索されたときだけ広告を表示する設定にしても、ほとんどクリックされない(おまけにそういうキーワードは競争も激しい)。

だから
「狙ったターゲットだけに広告配信をする」
ことができるかどうかが、マーケティングの成否のカギを握っている。
これはWebマーケティングにかぎった話ではない。
基本的にどの媒体でも、ターゲットじゃない人の目に増える回数が増えるほど広告の費用対効果は悪くなる



「小学校の前で男子だけにドラゴンボールの映画の割引券を配る」
は、すごく精度の高いマーケティング手段だ。

的確にターゲットだけにアプローチできる。

たとえば「新聞折りこみで割引チラシを入れる」と比べてみると明らかだ。
折りこみなら、子どものいない家庭にも配られる。
子どもがいたとしても、子どもが目にする前に捨てられる可能性も高い。
すべて無駄になる。
テレビCMならもっと無駄が多い(近くに映画館のない地域にも配信されるしね)。

インターネットの時代になっても、小学生だけにアプローチする広告手法として
「校門の前でビラ配り」ほど効率のいい方法は他にないだろう。

2020年6月15日月曜日

【読書感想文】人生の復習と予習をいっぺんに / ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

アルジャーノンに花束を

ダニエル・キイス (著)  小尾 芙佐 (訳)

内容(e-honより)
32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン。そんな彼に夢のような話が舞いこんだ。大学の先生が頭をよくしてくれるというのだ。これにとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に検査を受ける。やがて手術によりチャーリイの知能は向上していく…天才に変貌した青年が愛や憎しみ、喜びや孤独を通して知る人の心の真実とは?全世界が涙した不朽の名作。著者追悼の訳者あとがきを付した新版。

知的障害者のチャーリイが、実験手術を受けた結果、知能が飛躍的に向上する。
平均的な知能になり、さらには常人をはるかに上回る知能を手に入れたチャーリイ。
だが彼の知能が向上するにつれて周囲の人々はよそよそしくなり、チャーリイ自身も失望や怒りを味わうことが増える……。

何度も映像化されている作品だからあらすじは知っていたのだが(鑑賞はしていない)、それでもやはり胸を打つ名作だった。

特にラストの一文の美しさは印象に残った。
物語すべてがこの一文のためにあったかのよう。この一文にチャーリイの優しさや苦しみがすべて現れている。
まちがいなく文学史上トップクラスの「ラスト一行」だ。

最後の最後でこんなに感動したのは漫画『モンモンモン』の単行本版ラスト一コマ以来だ……(下品なギャグ漫画なのにラストはめちゃくちゃ泣けるんだよ)。



自分の知能が人並みになったことを喜ぶチャーリイだが、やがて周囲の人たちと衝突するようになる。
知能レベルが低かったときには気づかなかった周囲の不正や悪意に気づくようになるのだ。
周囲もまた、これまでは「取るに足らない相手」と見下していたチャーリイが一人前にものを言うことに反発するようになる。

チャーリイと、パン屋の同僚との会話。
「いや」と私は食いさがった。「今――今でなくちゃだめだ。あんたたちは二人ともぼくを避けている。なぜだ?」
 フランク、早口の、女好きの、調停役のフランクがちらっとぼくを眺め、それからトレイをテーブルに置いた。「なぜだって? 言ってやろうか。なぜかっつうとな、おめえが、とつぜん、おえらいさんの、物知りの、利口ものになっちまったからよ! いまじゃおめえは、ご立派な天才の、インテリだもんな。いつだって本を抱えてよ――いつだってなんだって答えられないことはないもんな。いいかい、まあ開けよ。おめえは自分がここにいるおれたちよりえらいと思ってるんだろう? なら、どっかほかへ行きな」

ぼくには一歳と六歳の娘がいる。
どちらも楽しく過ごしている(と信じている)が、どっちがより楽しい日々を送っているかというと、一歳のほうだろう。

遊びたいときに遊んで、腹が減ったら泣けば食べ物を与えられ、眠くなったら寝て、嫌なことがあれば大声で泣き、楽しいときは満面の笑みを浮かべる。
楽しそうだ。

一方、六歳のほうは、嫉妬心とか虚栄心とか羞恥心とか自尊心とか複雑な感情にふりまわされて、怒ったり傷ついたりしている。
大人に比べたらよっぽど感情表現が素直だが、それでも「いろいろわかる」からこその苦しみからは逃れられない。

それが正常な発達だとはわかっていても、子どもの成長を見ていると
「成長って当人にとっては苦しいものだな」
と感じずにはいられない。



チャーリイの知能は常人を超え、誰も手の届かないレベルまで向上する。
「口をはさまないで!」声にこめられた真剣な怒りが私をひるませた。「本気で言ってるのよ。以前のあなたには何かがあった。よくわからないけど……温かさ、率直さ、思いやり、そのためにみんながあなたを好きになって、あなたをそばにおいておきたいという気になる、そんな何か。それが今は、あなたの知性と教養のおかげで、すっかり変わって――」
 私は黙って聞いてはいられなかった。「きみは何を期待しているんだ? しっぽを振って、自分を蹴とばず足をなめる従順な犬でいろというのか? たしかに手術はぼくを変えた、自分自身についての考え方を変えた。ぼくはもう、これまでずっと世間の人たちがお恵みくださってきたクソをがまんすることもなくなったんだ」
「世間の人たちは、あなたにひどいことはしなかったわ」
「きみに何がわかる? いいか、その中でいちばんましな連中だって、独善的で恩着せがましくて自分が優越感にひたって、自分の無能さに安住するためにぼくを利用したんだ。白痴にくらべれば、だれだって自分が聡明だと感じられるからね」

以前、高学歴大学のほうが学生の自殺率が高いと聞いたことがある。
その話が事実かどうかは知らないが、さもありなんという気がする。

ぼくの大学のサークルの三年先輩に、Kという人がいた。
ぼくはKさんに会ったことがない。なぜならKさんは、ぼくが入学する直前に自殺したからだ。
会ったことはないが、他の先輩を通してKさんの話は何度か耳にした。
「ばつぐんに頭の切れる人だった。ユーモアのセンスもあった」
「あんな頭のいい人はほかに知らない」

日本各地から学生の集まってくる国立大学だったので、学生たちはみんな多かれ少なかれ自分の頭脳に自信を持っている。
そんな人たちが口をそろえて「頭のいい人だった」と言うのだ。
亡くなった人だから美化されていた部分もあるのだろうが、それを差し引いても相当の切れ者だったのだろう。

Kさんがなぜ自死を遂げたのかぼくは知らない。他の先輩たちも詳しくは知らないようだった。
きっと、頭のいい人にしかわからない悩みや孤独があったのだろう。

ウィリアム・ジェームズという人の言葉に
「Wisdom is learning what to overlook.(知恵とは、何に目をつぶるかを学ぶこと)」
なるものがある。
なんでも知っている、なんでも理解できることは必ずしも幸福にはつながらないのかもしれない。



チャーリイの戸惑いは、自分自身の知能が短期間で急成長したこと、そして急激にまた衰えたことに由来している。

これはチャーリイだけが味わっている苦悩ではない。
スパンはもっと長いが、ほとんどの人間が味わっていることではないだろうか。


幼いころ、親は絶対的な存在だった。
決してまちがわない。なんでも知っている。進むべき道を知っている。親の言うことは正しい。

やがて、その考えが正しくないことに気づく。
親も知らないことだらけで、しょっちゅうまちがえて、感情のおもうままに行動し、怠惰で、嫉妬深くて、愚かな、どこにでもいるひとりの人間だと。

思春期の頃に親の不完全さに気づき、その矛盾に憤りを感じる。
「えらそうなこと言ってるくせに自分はぜんぜんできていないじゃないか!」
と。

そこで親と決裂する人もいるだろうが、たいていの人はときどき親と衝突しながらも徐々に受け入れてゆく。

親だけでなく、友だちの親も、親戚のおじさんおばさんも、教師も、テレビでえらそうな顔をしてしゃべっている人たちも、有名スポーツ選手も、作家も、いいところもあれば悪いところもある人間なんだということが少しずつわかってくる。
人間だからいいところもあれば悪いところもあるよね、完璧な人間なんていないよね、と。

社会に対しての接し方も同様。
どんなに正しくまじめに生きていても理不尽な不幸に見舞われることがある。その一方で悪いやつがのさばっていて甘い汁を吸っている。
世の中の不条理さに憤りを感じながらも、たいていの人はほどほどのところで折り合いをつけてゆく。


若いころはぐんぐん成長していくから、成長を止めた大人を見ると怠惰に見えて仕方がない。
ぼくも高校生ぐらいのとき、学業に関しては明らかにぼくより劣っているのにえらそうにふるまう父親を軽蔑していた。

やがて自らも老いると、(少なくとも学習に関しては)成長するのが難しくなり、停滞、そしてゆるやかな下降へと遷移する。
そして認知症を発症すると急激に記憶が失われてゆく。

ぼくのおばあちゃんも認知症になった。
症状が進行した今ではおだやかな痴呆老人になったが、初期の「ときどき正気に戻ることがある」ぐらいのときは不安やいらだちを隠そうともせず、ずいぶん攻撃的になっていたらしい(らしい、というのはその期間はぼくとはあまり会おうとしなかったし母も会わせようとしなかったからだ)。


  己の見分や思索が深まる
⇒ 周囲の矛盾や不正に気付く
⇒ 矛盾や不合理を徐々に受け入れる
⇒ 自身の衰えに気づく
⇒ 自身の衰えを受け入れる

この、ふつうの人間なら八十年ぐらいかけてゆっくり経験してゆくステップを、『アルジャーノンに花束を』のチャーリイはわずか数ヶ月で味わうことになる。

そのショックたるや、どれほど大きなものだろう。
小説の中では、チャーリイの独白という形で丁寧に苦悩を表現している。

ぼくは知的障害者の気持ちも天才の気持ちも認知症患者の気持ちも知らないけど、この状況に置かれたらこう考えるだろうな、といった苦悩がつづられている。
なんたる説得力。

ぼくが小説に対してもっとも重きを置くのは「いかにもっともらしいホラを吹くか」なのだが、『アルジャーノンに花束を』はその点でも超一流のSF小説だ。

説得力十分だからいやおうなく小説の世界に引きずりこまれる。
チャーリイの体験をなぞることができる。
そう、人生八十年をチャーリイと同じく超スピードで駆け抜けることができるのだ。

人生の復習と予習をいっぺんにやったような読後感だった。



改めて書くけど、大傑作。

テーマ、アイデア、構成、人物描写、どれをとっても一級品。

特におそれいったのは文体。
知的障害者の文章から天才の文章まで、変幻自在という感じ。
このエッセンスを受け継いだまま絶妙な日本語にしてみせた翻訳も見事。

魂を揺さぶってくれる小説だった。

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2020年6月12日金曜日

お世辞が過ぎる


六歳の長女とエレベーターに乗っていたら、同乗していたおばちゃんから
「お嬢さんですか?」
と訊かれた。

??

一歳の次女ならわかる。
まだ髪も短いし、赤ちゃんの顔なんて男も女も似たようなものだ。

けど長女はもう六歳だし、髪も肩まで伸ばしている。
おまけにそのときは赤いランドセルを背負っていた。
多様性を認めなきゃいけない時代なので「どっからどう見ても」とまでは言えないが、まあ誰が見たって99%女の子だろう。
「お嬢さんですか?」と訊いてくる意図がわからない。

戸惑いながら「はい」と答えると、おばちゃんは言った。
「まあ! ご兄妹かとおもいました! お嬢ちゃん、おとうさん若くてかっこいいわねえ!」

んなあほな。

お世辞が過ぎる。
いくらなんでもぼくが六歳の女の子のお兄ちゃんには見えるわけがない。
あと数年で四十歳。髪には白いものも増えてきた。
どんなお兄ちゃんやねん。
三十歳離れた兄妹だとしたら、おかあさんがんばりすぎやろ。


驚いたのを通りこしてなんだか怖くなった。
なんなんだこのおばちゃん。
目的はなんなんだ。
高校生の女の子とおかあさんが並んでいるのを見て「まあ、姉妹かとおもいましたわ」とおだてるならまだ理解できるが、知らないおっさんをつかまえて「お若いですねー」と言って、おばちゃんになんの得があるんだ。
いったい何を売りつけようとしてるんだ。
おだてたって、三千円ぐらいまでのものしか買ってやらんぞ。


2020年6月11日木曜日

無精卵


ごはんを食べていると、子どもに「この卵をあたためたらヒヨコが出てくるの?」と訊かれた。

ぼく「それは無精卵といって中に赤ちゃんのもとは入ってないんだよ。だからあたためてもヒヨコは孵らないよ」

子どもは「ふーん」と一応納得したようだったが、横で聞いていた妻が言った。

妻「でもなんで無精卵なんか生むんだろう。ニワトリからしたら資源の無駄でしかないのにね」

ぼく「月経みたいなもんじゃない? あれだって受精しなかった卵(らん)でしょ? 子どもを産む準備してたけどタイミングが合わなかったから準備してたものを捨てるんじゃないの」

妻「その言い方だとまるで月経が無駄なものみたいじゃ……。あっ、無駄だわ。あんなもの、無駄以外のなにものでもないわ!」

考えているうちになんだかいろいろと怒りがこみあげてきたらしく、

「くそう。いいなあ、ニワトリは。まだ月経が他の生物の役に立って……。人間なんてしんどいだけで何の役にも立たないのに……」

とぶつぶつ言いだしたので

「もし宇宙人が侵略してきて人間が家畜にされたら、月経で排出されたものもおいしく食べてもらえるかもしれないよ」

と言ったのだが、「それはそれでイヤ」とのこと。


2020年6月10日水曜日

【読書感想文】絶妙な設定 / 西澤保彦『瞬間移動死体』

瞬間移動死体

西澤保彦

内容(e-honより)
妻の殺害を企むヒモも同然の婿養子。妻はロスの別荘、夫は東京の自宅。夫がある能力を使えば、完璧なアリバイが成立するはずだった。しかし、計画を実行しようとしたその時、事態は予想外の展開に。やがて別荘で見知らぬ男の死体が発見される。その驚愕の真相とは?緻密な論理が織り成す本格長編パズラー。

西澤保彦氏の作品といえば、以前に『七回死んだ男』を読んだことがある。
たしか、1日前にタイムリープする能力を持った主人公が、何度も殺人事件に巻きこまれながら推理するという話だった。
「SF+ミステリ」「何度やりなおしても被害者が殺されてしまう」というアイデアはおもしろかったのだが、残念ながら謎解きや結末についてはまったく記憶に残っていない。
さほど性に合わなかったのだろう。


『瞬間移動死体』も、SFとミステリを組み合わせた作品だ。
主人公は思い描いたところに瞬間移動できる能力を持っている。

めちゃくちゃ便利じゃないか、どんな犯罪でもやりたい放題じゃないか、とおもうが、話はそうかんたんではない。
この能力には、大きく三つ制約がある。
  • 飲めない酒を飲んで酩酊したときしか瞬間移動できない(ただし瞬間移動と同時にアルコールは身体から抜ける)。
  • 身一つでしか瞬間移動できない。ものを持っていけないのはもちろん、着ていた服も脱げて移動先では全裸になってしまう。
  • 自分がA地点からB地点に瞬間移動するのと引き換えに、B地点にあったものがなにかひとつA地点に瞬間移動する。何を引き換えにするかは選べない。

この制約があるため、たとえば「銀行の金庫の中に移動して金を持って帰る」みたいなことはできない。
金庫の中に移動したとしても、移動先に酒がないから戻ってくることができない。
仮に酒があったとしても、札束を持ったまま瞬間移動することはできない。手ぶらで行って手ぶらで帰ることになる。
また日常生活にも使えない。遅刻しそうだから瞬間移動で……とやろうにも、向こうには全裸で現れることになるのだから。

意外と使えない能力なのだ。

だが、主人公が妻に対して殺意を抱いたときに気づく。
アリバイトリックに使えるじゃないか。

日本から瞬間移動でアメリカに行き、妻を殺す。
瞬間移動で戻ってくる。
パスポートには出入国履歴がないから鉄壁のアリバイを手に入れることができる。
完全犯罪だ。

ところが主人公がアメリカに瞬間移動したとたん、おもわぬ邪魔が入る。
やむなく殺害を先延ばしにするのだが、なんとまったく身に覚えのない死体が発見され……。

と、なんとも意外な展開に。



まったく先の読めない設定で、すばらしい導入。
能力の制約が絶妙なのだ。

だが……。

ううむ。
やっぱり性に合わなかったなあ。

なんでだろうな。

SF要素があるとはいえ、ミステリとしてはすごくフェア。
前半にすべての条件を提示し、その中で謎を生みだして解いてみせる。
事件発覚にも謎解き作業にも謎の真相にも、瞬間移動能力がからんでいる。
設定に無駄がない。

無駄がなさすぎるのかなあ。
小説というよりパズルみたいなんだよね。

瞬間移動に関係するトリックをまず作って、それを引き立てるためにおあつらえ向きの舞台とふさわしい登場人物を配置して、トリックを成功させるためだけに全員が行動する。
ハプニングも起こるけど、それもトリックを成立させるために必要不可欠なハプニング。予定通りのハプニング。

ピタゴラスイッチを観ているような気分になるんだよね。
「よくできてんなー」とはおもうけど「どうなっちゃうの?」って気持ちにはならない。
「最後はしかるべきところに収まるんだろうな」って気分で読んでいた(そしてじっさいそうなった)。

精密に作りこまれすぎたミステリって好みじゃないんだよね。
多少は無駄なストーリーとかどうでもいい会話とかがあったほうがいい。
や、『瞬間移動死体』にはあるんだけどね。
ものぐさな主人公とか、すごくいびつな夫婦関係とか、可愛さあまって憎さ百倍みたいな憎悪とか。
でもそういうのもとってつけたように感じてしまったな。

漫画『DEATH NOTE』を読んだときも同じようなことをおもった(ただ『DEATH NOTE』は後から小出しでルールをどんどん追加してくるのでぜんぜんフェアじゃない。『瞬間移動死体』のほうがはるかによく練られている)。
あの漫画を好きだった人なら楽しめるかもしれない。


よくできてるけど、ぼくの好みには合わない作品でした。ぺこり。


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2020年6月9日火曜日

ワードバスケット

ワードバスケット ジュニア

長女が四歳ぐらいのときに買って、ときどき盛りあがる。
タイトルに「ジュニア」とあるが大人がやっても十分楽しめる。むしろ大人同士でやったほうが白熱するかもしれない。

ルールはシンプル。

1. 各プレイヤーに手札を5枚ずつ配る。
 手札には「あ」「い」などのひらがな一字が書いてある。
2. 山札のカードをバスケットに入れ、スタートの文字を決める。
3. プレイヤーは、バスケットに出たカードの文字で始まり手札の文字で終わる単語を言いながら手札をバスケットに投げ入れる(早い者勝ち)。
 (バスケットのカードが「き」で手札が「い」なら「きかい」と言いながら「い」のカードをバスケットに入れる)
4. 3.をくりかえす。(次は「い」で始まる言葉を考える)
5. はじめに手札がなくなった人の勝ちです。

大人が子ども相手に本気でやれば勝つに決まってるので、「大人は三文字以上」などのハンデをつけるとバランスよくなる。
さらに大人は「子どもが知っている言葉」を言わないといけないので思いついた言葉をなんでも出せるわけではない。

シンプルなルールでおもしろいんだけど、やってるとストレスが溜まってくる。
「ちょっと変えるだけでもっとおもしろくなるのに!」とおもうことが随所にある。
ゲームバランスが悪いのだ。


使い勝手の悪い文字が多すぎる

五十音のカードが一枚ずつある(そのほかに「たべもの」「いきもの」「おうち」「そと」「3文字以上」「4文字以上」「なんでも」などのカードがある)。

で、当然ながら使いにくいカードがある。
たとえば「ぬ」とか。
「3文字以上」で「子どもも知っている言葉」で「“ぬ”で終わる」言葉、どれだけある?
今ちょっと考えてみたけど「こいぬ」ぐらいしかおもいつかない。

ほかにも「あ」とか「れ」とか「せ」とか難しい(語尾だけでなく語頭としても使いづらい)。
一方「い」「か」「き」「し」なんかはかんたんだ。
カードによる使いやすさの差が大きすぎる。

いかに早くカードを捨てるかのゲームになる

ゆきづまりを防ぐために、
「おもいつかない場合は手札を1枚捨てて代わりに山札から2枚取る」
というルールがある。

そうすると「ぬ」が手元に来たら“ぬ”で終わる単語を考えるより(どうせおもいつかないのだから)すぐに捨てて他のカードを2枚取ったほうがいい、ということになる。

難しいカードは即捨てられる運命にある。ただのゴミなのだ。

「なんでもカード」「3文字以上カード」が使いやすすぎる

「どんな文字の代わりにもなる」という「なんでもカード」がある。
「3文字以上ならどんな言葉でもいい」という「3文字以上カード」がある。
これがすごく使いやすい。しかもまあまあ数がある。

「なんでもカード」をラスト2枚になるまで持っておくことが勝つコツだ。
たとえば「く」と「なんでもカード」になったら、
「『なんでもカード』で“く”で終わる単語をつくる」→「『く』カードで単語をつくって終わり」
というコンボを決めて上がり。
こうすれば上がれる、というかこうでもしないとなかなか上がれない。
ラストはほぼこのパターンになってしまう。


ゲームアイデアはいいのに、カードのバランスが悪いせいで戦略がパターン化してしまうのだ。
いろいろと惜しい。

【改善案】

ということで勝手に改善案。

■ 「なんでもカード」は減らす

強すぎるのでバランスをくずす。めったに出ないレアカードにする。

■ 文字以外の条件のカードを増やす

「身につけるもの」カード、「形のないもの」カード、「外来語(カタカナ語)」カードなんかがあってもいい。

■ 使いやすいカードは増やす

「い」「う」「か」「き」「し」などの使いやすいカードは複数枚ずつ用意する。これによって「“か”ではじまって“か”で終わる言葉」なども使う機会が生まれる

■ 使いづらいカードはまとめる

たとえば「な・に・ぬ・ね・の」で1枚にするとか(どの文字として使ってもいい)。


こんな感じにすれば、テンポよくプレイできるとおもうんだけどな。
じゃあ自分でつくれよって話なんだけど(カードだけだから誰でもかんたんにつくれる)それはめんどうだからやらない。


2020年6月8日月曜日

【読書感想文】抜け出せない貧困生活 / ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

潜入・最低賃金労働の現場

ジェームズ・ブラッドワース(著)  濱野大道(訳)

内容(e-honより)
英国で“最底辺”の労働にジャーナリストが自ら就き、体験を赤裸々に報告。働いたのはアマゾンの倉庫、訪問介護、コールセンター、ウーバーのタクシー。私たちの何気ないワンクリックに翻弄される無力な労働者たちの現場から見えてきたのは、マルクスやオーウェルが予言した資本主義、管理社会の極地である。グローバル企業による「ギグ・エコノミー」という名の搾取、移民労働者への現地人の不満、持つ者と持たざる者との一層の格差拡大は、我が国でもすでに始まっている現実だ。
以前、吉野 太喜『平成の通信簿』を読んで(→感想)、
「日本ってほんと没落したんだなあ」
と感じた。
実感もあったし、データを見ても平均的な日本人の暮らしが貧しくなっている数字ばかり。
かつては世界ナンバー2の経済規模にまで昇りつめただけに、その凋落っぷりを情けなく感じた。

だが世界の覇権的ポジションから没落した国は日本だけでない。
ローマだって中国だってモンゴルだってポルトガルだって、かつては世界一といっていいほど栄華を極めた国だった(中国はまたトップに返り咲きそうではあるけど)。
しかしおごれる平家は久しからず。どこも栄枯盛衰をくりかえしてゆく。アメリカだって百年後も今のポジションに踏みとどまっていられるかあやしいものだ。

そんな没落国家の中でも、いちばん日本のお手本になりそうなのがイギリスだ。
20世紀半ばまでは世界トップクラスの大国でありながら、1960年代以降は相次ぐ経済政策の失敗により「英国病」「ヨーロッパの病人」などさんざんな扱いを受けた。
サッチャー以降、国全体の経済は少しマシになったが、失業者の増加、移民の増加、EU加盟そして離脱、それらによる国民間の分断など、人々の暮らしは以前より悪くなったかもしれない。

ブレイディ みかこ『労働者階級の反乱 ~地べたから見た英国EU離脱~』にこんな記述があった。
 一方、米国の政治学者のゲイリー・フリーマンは、『The  Forum』に発表した論考「Immigration, Diversity,  and  Welfare  Chauvinism(移民、多様性、そして福祉排他主義)」の中で、「政府から生活保護を受けることに対して、白人労働者階級は〝福祉排他主義〟と呼ばれる現象に陥りやすい」と指摘している。「福祉排他主義」とは、一定のグループだけが国から福祉を受ける資格を与えられるべきだ、という考え方だ。顕著に見られるのは、「移民や外国人は排除されるべき」というスタンスだが、同様に、ある一定の社会的グループ(無職者や生活保護受給者)にターゲットが向けられる場合もある。
 こうした排他主義は、本来であれば福祉によって最も恩恵を受けるはずの層の人々が、なぜか再分配の政策を支持しないという皮肉な傾向に繋がってしまうという。「恩恵を受ける資格のない人々まで受けるから、再分配はよくない」という考え方である。
 本来は彼らの不満は再分配を求める声になって然るべきなのに、それが排外主義や生活保護バッシングなどに逸脱してしまい、自分たちを最も助けるはずの政策を支持しなくなる。白人の割合が高い労働者階級のコミュニティほど、この傾向が強いという。
伝統的なイギリス人(白人)たちが、自分たちの生活が悪くなったのは〇〇のせいだ(〇〇には移民や生活保護受給者が入る)とバッシングをおこない、富の再分配につながる政策を支持しない。本来ならその政策によって自分たちも恩恵を受けられるのに。
「自分が100円得しても移民が200円得するような政策はいやだ!」というわけだ。
かくして貧富の差はどんどん拡大し、労働者階級の暮らしはますます悪くなってゆく。

……まるで日本と同じだ。
リベラル派を目の敵にし、生活保護受給者やワーキングプアを非難し、消費税増税、高額所得税の減税、法人税優遇を掲げる政党を支持する。
それを金持ちがやるならわかる。金持ち優遇政策をとってくれたほうが得するもの。
ところが、決して裕福とはいえない層までもがすっとするために自分より貧しいものを叩く。
それが自分自身の首を絞めていることに気づかない。

どこの国も同じなんだなあ。
だからこそ、イギリスの姿から日本は学ぶことが多いはず。



著者は、ライターという素性を隠しながら(ときに明かしながら)、Amazonの倉庫、ホームレス、訪問介護の派遣会社、コールセンター、Uberのドライバーなどで働きながら貧困層の暮らしを体験してゆく。

少し前に日本でも横田増生氏というジャーナリストがユニクロで1年働いてその潜入ルポを発表して話題になった。
時期としては『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』よりも横田増生氏のユニクロ潜入ルポ発表のほうが早いので、もしかしたらジェームズ・ブラッドワース氏は横田増生氏のルポを知って真似たのかもしれない(そのあたりの記述はこの本にはなし)。

いわゆるワーキングプア(または失業者)の暮らしを身をもって味わい、厳しい状況に置かれた人々の声をありのまま記し、ときにデータも示しながら、その生活を描く。
たぶん、そこそこ裕福をしている人はまったく知らない、知ろうともしない生活だ。

Amazon潜入の章より。
 私たちピッカーには、通常の意味でのマネージャーはいなかった。あるいは、生身の人間のマネージャーはいないと表現したほうが妥当かもしれない。代わりに従業員は、自宅監禁の罪を言い渡された犯罪者のごとく、すべての動きを追跡できるハンドヘルド端末の携帯を義務づけられた。そして、十数人の従業員ごとにひとりいるライン・マネージャーが倉庫内のどこかにあるデスクに坐り、コンピューターの画面にさまざまな指示を打ち込んだ。これらの指示の多くはスピードアップをうながすもので、私たちが携帯する端末にリアルタイムで送られてきた――「いますぐビッカー・デスクに来てください」「ここ1時間のペースが落ちています。スピードアップしてください」。それぞれのピッカーは、商品を棚から集めてトートに入れる速さによって、最上位から最下位までランク付けされた。働きはじめた1週目、私は自分のピッキングの速さが下位10%に属していることを告げられた。それを知ったエージェントの担当者は、「スピードアップしなきゃダメです!」と私に忠告した。近い将来、人間がこの種のデバイスに24時間つながれるようになったとしても、なんら驚くことではない。
 クレアのある友人は、9カ月の契約期間の終わりに近づくにつれ、ブルーバッジ獲得への期待を膨らませていった。そのために、彼は身を粉にして働いた。本から台所用品まで、何十万もの商品をアマゾンの顧客のために棚から取り出した。ピッキングの目標基準をつねに上まわり、いつも時間どおりに出勤した。そしてなにより重要なことに、仕事のほぼすべての側面を支配する無数の細かいルールをなんとか破らずに切り抜けた。にもかかわらず、この勇ましい新たな経済――病は許しがたい罪だとみなされるダーウィン的弱肉強食の世界――は、唾を吐き捨てるように彼を解雇した。彼が犯した罪は、生意気にも風邪を引くということだった。彼はトランスラインの規則にしたがい、始業の1時間前に会社に電話し、マネージャーに風邪を引いたことを知らせた。しかし、そんなことにはなんの意味もなく、彼は派遣会社にクビを言い渡されたのだった。
 まさに非人道的な扱いだ。
人を人とも思わない、という言葉がしっくりくる。
Amazonのイギリス倉庫で働く労働者の多くは東欧からの移民などだという。過酷すぎる労働環境のせいでイギリス人はすぐにやめてしまうからだ。

これを読んで「Amazonはひどい会社だ!」と腹を立てるのはかんたんだ。
だが真の問題は、Amazonの労働環境が悪いことそのものより、それでもAmazonで働かざるをえない人たちがたくさんいるということだ。

他にいい仕事がたくさんあれば、誰もこんな労働環境で働かない。
Amazonだって首に縄をつけて労働者を集めてきているわけではない。みんな、自分の意志でAmazonに入り、自分の意志で働きつづけることを選んでいるのだ。

前にも書いたが、技術の発展によって「誰にでもできるかんたんな仕事」は減ってきている。

誰にでもできる仕事

そうはいっても誰もが「特別な知識や技能を要する仕事」ができるわけではない。
なのに今でも働かないと食っていけない。
働かなきゃいけない、働く意欲もある、なのに仕事がない。
だからどんなブラック企業でもやめるわけにはいかない。

Amazon一社の問題ではなく、もっと大きな問題だ。



「ブラック企業」という言葉がすっかり定着した。
昨今は「ブラック企業大賞」なんて不名誉な賞もある。
ブラック企業として名高い企業も多い。

しかし問題はその有名なブラック企業が、なんだかんだいってうまいこと商売を続けているということだ。うまいこといっているからこそ目立って批判されるのだ(つぶれたブラック企業はブラック企業大賞に選ばれない)。
アパレルU社も広告代理店D社もコンビニS社も儲かってる。入社希望者がまったくいなくなったという話も聞かない。
なんだかんだ言いながらブラック企業を利用する客も跡を絶たない(ぼくも利用する)。

結局、過酷な労働環境はその企業だけを批判してもなくならないのだ。
誰だって、自社の従業員をいじめたいわけではない(たぶん)。そっちのほうが得だから労働環境を厳しくするのだ。

だからブラック企業をなくすためには、システムで防ぐしかない。
法律や行政によって「ブラック企業だと損をする仕組み」をつくるしかない。
個人や企業の仕事ではなく、政治の仕事だ。

……なんだけど。
 同僚たちの多くは、政治に対してほぼなんの興味も示さなかった。「政府は税金を上げるのが大好きだ。いろいろと支出があるから仕方ないことさ」と、ある同僚が1週目に言った。「ぼくは政治の議論には参加しない。そんなの意味ないだろ?」とのちに彼は肩をすくめて言った。政治はほかの人々のためのものであり、私たちのような人間が属していない領域で起きていることだった。別の同僚は、現在のイギリスの首相は「あの国会議員の女の人だっけ?」と訊いてきた。国の政治に大きな関心を示せば、その人物は変わり者だと思われたにちがいない。政治とはこちらがただ受け取るべきものであり、実際に興味をもつべき対象ではなかった。政治的な決定はほかの人々が下すのが当然だと考えられ、彼らによって決められたあらゆる物事とともに同僚たちは議論をそのまま受け容れた。“彼ら”とは、政治家、税務署員、大家、6時のニュースの原稿を読み上げるアナウンサー、携帯電話の料金を請求してくる会社、地方議会や自警団の集まりに決まって姿を現わす時代遅れのお節介な人々のことを意味した。政治家とは、自らの利益だけを考える人々だった。もしそうではない政治家がいたとすれば、それは何かより不吉なものの兆候であり、狂信者の印だととらえられた。仕事を楽しいものにしようとするアドミラルの並々ならぬ努力は、会社を、“彼ら”の仲間ではなく“私たち”の仲間として描こうとする試みだった。
そうなんだよね。
いちばん政治によって救われるはずの人たちが、いちばん政治に無関心なんだよね。
いちばん労働法によって守られるはずの人たちが、いちばん労働法を知らなかったり。
いちばん労働組合によって守られるはずの人たちが、いちばん労働組合を毛嫌いしていたり。

貧しい人が自分自身の首を絞めているとしかおもえないようなことをする。
これが現実。



最近、日本でもよくウーバーイーツのバッグを背負った人をよく見るようになった。

ウーバー配車サービスヤウーバーイーツのような「単発の仕事を受けて個人事業主として働く人」のことをギグワーカーと呼ぶそうだ。

ぼくは、ああいう働き方もアリだとおもっていた。
たとえば売れない役者をやっている人は、決まった時間にシフトに入るバイトをやるのはむずかしい。だから空いた時間にお手軽にできるウーバーイーツをやる。
そういう自由な働き方はすごくいいんじゃない? とおもっていた。

この本を読むまでは。
 分別のある人間であれば、このような仕事を喜んで引き受けることはないはずだ。だからこそ、ウーバーはドライバーに長時間にわたって仕事を拒否することを許そうとしないのだろう。同社はドライバーたちに、乗車リクエストの80パーセントを受け容れなければ「アカウント・ステータス」を保持することができないと通知している。ドライバーが3回連続で乗車リクエストを拒否すると、自動的にアプリが停止する場合もある。なかには、2回連続で拒否しただけでアプリから強制ログアウトされた例もあった。「あなた自身が社長」という美辞麗句とは裏腹に、強制ログアウト後10分間はアプリにログインできないという事実は処罰のように感じられた。
ウーバーは
「好きなときに好きな時間だけ働く」
「誰もが社長。個人事業主として自由な働き方を」
と、耳当たりのいい言葉で労働者を集める。

だがその実態は、必ずしも自由ではない。
好きなときに好きなだけ働けるわけではない。そんな働き方をしていたら稼げないし、ウーバーから仕事がまわってこなくなる。
ウーバーは「命じられたらいつでも働いてくれる労働者」に優先的に仕事を回す。

だから実際のところ、そこそこ稼ごうとおもっている労働者にとってウーバーから与えられた仕事を断る権利はほとんどない。
会社に雇われているのと同じだ(会社員だってときどきは仕事を断ることができる)。
会社員とちがう点といえば、仕事がないときは給料がもらえないこと、車やガソリン代や保険などの経費を自分で負担しなければならないこと、ケガや病気で休んだら収入がゼロになること。つまり悪いことばかりだ。

まあそういうリスクも承知の上で「自由」な働き方を選んで本人が損をするなら自業自得と言えなくもない。

だが、労働者が事故や病気で働けなくなったとすると、不利益を被るのは彼だけではない。
社会全体にとっても大きな損失だ。
本来なら会社が与えるべき労災補償や給与を、国家が負担しなければならなくなる。

結局、ウーバーは国の社会保障制度にフリーライド(タダ乗り)しているわけだ。

いろんな国で、ウーバーを相手取った訴訟がおこなわれている。
そのほとんどは「ウーバーで働く労働者はウーバーと雇用関係にあるか」という点が争われている。
国によっては「ウーバーのドライバーはウーバーの従業員である」という判決が出たようだが、日本ではまだほとんど事例がないようだ。

ぼくがウーバーを利用するのは最高裁の判決が出てからにしよう。



貧富の差って、単なる財産だけの問題じゃない。
いろんな文化がちがう。

そこそこ豊かな暮らしをしている人からすると、
「金がないって言うけど、だったらなんでそんな生活してるの? そんな生活してたら貧乏になるのはあたりまえじゃん」
と言いたくなることも多い。
 最近、古いテレビが動かなくなると、息子は購入選択権付きレンタル店から新しいテレビを分割払いで買った。この種のレンタル店は、クレジットスコアの悪い人々にソファー、テレビ、オーディオ機器などを驚くほど高い金利で売って儲けを得ている。2016年には40万以上の世帯が購入選択権付きレンタル店を利用し、その数は2008年に比べて1.31倍に増えた。利用者の多くは目先の誘惑に屈していま欲しい商品を(一定の保証付きで)高金利で購入し、たいていあとになって後悔するのだった。
 テレビを見る以外ほとんど何もすることのないミスター・モーガンには、「ニュースとラグビー」が必要なのだと彼の妻は語った。息子が購入したテレビは、通常の店では150ポンドほどで売られる安物だった。しかし、購入選択権付きレンタル店から分割で買ったモーガン家の総支払額は、最終的に400ポンドほどになる予定だった。
ぼくも、かつて会社の先輩社員が
「車をローンで買っている。ローンを払い終わったら車を売って、その金でまたローンを組んで新しい車を買う」
と語っているのを聞いて「なんでローン組むの?」とおもった。
「貯金してから買ったほうがいいのに。ローンの利息払うのは無駄じゃん」とおもっていた。

でもそれは、ぼくがそこそこ豊かな家で生まれ育ったからだ。
ぼくは親に大学進学のお金も出してもらったし、就職後しばらくは実家に住まわせてもらっていた(一応家にお金は入れていたけど気持ち程度の額だった)。
もしも親に「通勤に必要な車買うからお金貸して」と泣きつけば、たぶん貸してくれただろう。

そういう人間にとって、「ローンを組んで住宅以外のものを買う」「消費者金融で金を借りる」「クレジットカードで分割払いをする」なんてのは理解の外にある行動だ(ぼくはいずれも経験がない)。
金をドブに捨てているとしかおもえない。

ここに深い断絶がある。
お金がないことは理解できても、こういうところはなかなか理解しあえない。

お金で苦労したことのない人は
「お金がないなら自炊して食費を浮かせたらいい」
「コンビニで買い物をせずに安いスーパーで買い物をしたほうがいい」
「漫画喫茶に住むより安いアパートを借りたほうが安い」
「パチンコや宝くじで儲かるわけがない」
「身体をこわしたらたいへんだから調子悪ければ早めに病院に行ったほうがいい」
「収入以上のお金を使わないようにしたほうがいい」
「会社の不当行為で不利益を被ったら弁護士に相談したらいい」
とおもう。
どれも正論だ。

でも、それができない人もいる。
「教わってこなかった」「そういう習慣がない」「初期投資をするだけの経済的余裕がない」などの理由で。

貧乏の問題は金がないだけじゃない。
金がないと、時間もなくなるし自己投資をする余裕もなくなるし気持ちの余裕もなくなる。

『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』の著書は、アマゾンの倉庫で肉体的にきつい労働をした後は酒やスナック菓子がほしくてたまらなかった、と書いている。
なんとなくわかる。
強いストレスがかかると、甘いものとか脂っこいものとかアルコールとかの誘惑に抗う力がなくなるのだ。


ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』にはこんなことが書いてあった。
 ストレス状態になると、人は目先の短期的な目標と結果しか目に入らなくなってしまいますが、自制心が発揮されれば、大局的に物事を考えることができます。ですから、ストレスとうまく付き合う方法を学ぶことは、意志力を向上させるために最も重要なことのひとつなのです。
酒やタバコやスナック菓子はやめたほうがいい、ドラッグなんてもってのほか、適度な運動と野菜やフルーツの摂取で健康でいられる、経済的にも健康的にもどっちがいいかは明らかだ。
そのとおり。そのとおりなんだけど、それを実践できるのは金銭的余裕があるからなんだよなあ。


生きていくのに困るほどお金に苦労したことがない、という人こそ読んだほうがいい本。


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2020年6月5日金曜日

思春期に幼児から少年に変わる


近所の男の子、Hくん。
人なつっこい子で、よく笑いながら「今日〇〇したんだ~」と話しかけてくれていた。機嫌がいいときはぼくの背中にとび乗ってきたりもしていた。
元気がありあまっていて、いつも走りまわっていた。

そんなHくんと公園で久しぶりに会った。
彼も小学二年生。
「おお、大きくなったなー」
と声をかけたが、軽く会釈をしただけで友だちと遊んでいる。

ありゃ。
久しぶりだからぼくのことを忘れちゃったかなーとおもって見ていたら、Hくんがこけて肘をすりむいた。
ウェットティッシュを持っていたので差しだして「ばい菌入るといけないから拭いとき」と言うと、Hくんは恥ずかしそうに
「ありがとうございます」
と言った。


あ、ありがとうございます……!?

あの、Hくんが!?
あの、すれちがいざまにいきなりパンチを食らわしてきていたHくんが!?
あの、まだ三歳だったうちの娘に出会い頭にいきなり「あげる」とひよこのぬいぐるみを渡してきたHくんが!?
あの、両手いっぱいにダンゴムシを抱えていたHくんが!?

あぁ……。
彼もいつのまにか幼児から少年になったんだなあ。
立派に成長しているのは喜ばしいはずのことなんだけど、正直、さびしい。

自分の子どもは早く礼儀正しくなってほしいけど、よその子はいつまでもむじゃきなままでいてほしい。
勝手な、そして決して叶わない望みだけど。


2020年6月4日木曜日

【読書感想文】歴史の教科書を読んでいるよう / 辻井 喬『茜色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯』

茜色の空

哲人政治家・大平正芳の生涯

辻井 喬

内容(e-honより)
スマートとはいえない風貌に「鈍牛」「アーウー」と渾名された訥弁。だが遺した言葉は「環太平洋連帯」「文化の時代」「地域の自主性」等、21世紀の日本を見通していた。青年期から、大蔵官僚として戦後日本の復興に尽くした壮年期、総理大臣の座につくも権力闘争の波に翻弄され壮絶な最期を遂げるまでを描いた長篇小説。

少し前に読んだ中島 岳志『保守と立憲』にこんな記述があった。
 懐疑主義的な人間観に依拠する保守は、常にバランス感覚を重視します。私が尊敬する保守政治家・大平正芳は「政治に満点を求めてはいけない。六十点であればよい」と述べています。大平は、自己に対する懐疑の念を強く持っていた政治家でした。自分は間違えているかも知れない。自分が見落としている論点があるかもしれない。そう考えた大平は、「満点」をとってはいけないと、自己をいさめました。
「満点」をとるということは、「正しさ」を所有することになります。また、異なる他者の意見に耳を傾けるということも忌避します。大平は、可能な限り野党の意見を聞き、そこに正当性がある場合には、自分の考えに修正を加えながら合意形成を進めていきました。これが六十点主義を重んじたリベラル保守政治家の姿でした。
ほう、そんな謙虚な政治家がいたのか、しかも総理大臣だったのか、と軽い驚きがあった。
大平正芳氏はぼくが生まれる前(1980年)に逝去しているのでぼくは彼の政治家としての姿をまったく知らない。

どんな思想を持っていたのだろう、とおもってこの『茜色の空』を手に取ったのだが……。

つ、つまらん……!

だらだらと事実が並べてあるだけ。
〇〇年に〇〇で大平は〇〇と出会った。そこで〇〇について話し合った。その後〇〇が起こった。
ずっとこんな調子。
歴史の教科書を読んでいるようでぜんぜん頭に入ってこない。
時系列順に出来事を羅列していっているだけの、ただの記録。

取捨選択ができておらず、調べたことを全部同じ調子で書いている。
ロッキード事件で田中角栄が逮捕されたことと、大平氏が小料理屋の女将とどうでもいい会話を交わしたことが同じぐらいの分量で書かれている。
司馬遼太郎の悪いところだけをコピーしたようなつまらない文体だ。

誰だこの本を書いたのは、とおもったら著者の辻井喬という人物、どうやらセゾングループ代表だった堤清二氏のペンネームらしい。
あー……。どうりで……。
えらい人だったから誰も「うわーこんな長くてクソつまらない文章よく書けましたねー。書いてて眠くなりませんでした? 逆にすごいっすねー」と言ってくれたなかったんだね。気の毒に。



これだったらWikipediaの「大平正芳」の項を読んでいるほうがずっとおもしろかった。

香川県の裕福とはほど遠い農家の子として生まれ、学生時代にキリスト教と出会って洗礼を受け、大蔵省官僚を経て、池田隼人元首相に引っ張り上げられる形で政界入り。

朴訥な風貌や、演説の合間によく「アーウー」と入るところから「讃岐の鈍牛」の異名もとったが、実際は読書家、思想家であり政界きっての切れ者であり「哲人宰相」とも呼ばれる一方、ユーモアのセンスも持ちあわせていた。また首相にまで昇りつめたものの本人は権力争いを嫌った。

とまあ、今目立っている政治家たちとは真逆のような人物であったことがわかる。
なにしろ今の政治家ときたら舌鋒鋭く政敵を非難することだけに全精力を賭けていて思想は空っぽ、みたいな人物が多いもんね。あの人とかあの人とか。

 彼は久し振りに、迷った時に自分の頭を冷やし冷静にもう一度考え直す機会を持とうと、彼流に“定点観測”と名付けている方法を思い出した。そのひとつは郷里に帰って、昔からの知人に腹蔵のない意見を聴くことである。もうひとつは政界や、万年与党であることしか考えない経済人と違って、直接利害関係のない学者のような立場の人がどう考えているかを知る方法である。
首相になりながらも、決して独善的な人間にならぬよう、はっきりと物を言ってくれる人との話に耳を傾けていた。
このエピソードだけでも、あの総理と比べてどれだけ謙虚で思慮深い人柄だったかがわかる。

しかし「立派な人物だ」と感心するとともに、「この人政治家に向いてなかったのかもしれないな」ともおもう。
大平氏も、ときに密約の存在を知りながら隠すという国民に対する裏切り行為を看過したり、組織を守るために記者が陥れられるのを黙認したり、良心に反する行動をとって葛藤するところが描かれる。
総理になるも自民党の内紛に巻きこまれて退陣。就任したタイミングのせいもあるが、今伝わるほど大きな功績は残っていない。

有権者としてはまともな人間に政治家になってほしいけど、まともな人間が政治家として成功するのはむずかしいのかもしれない(大平さんは総理にまでなってるわけだから十分成功してるけどさ)。



この本は出来事をならべているだけなので大平正芳氏の思想にはほとんど触れることができないが、その数少ない「思想が読み取れる部分」について。
「今の僕の一番奥底の目標は、どうやったら政界全体の水準を上げて、そのことで世の中に民主主義を浸透させることができるか、ということなんだ。自分の責任で判断し行動を決めることができる大衆がいてこそ民主主義はいい制度になる。あの、自由主義者で大衆嫌いの吉田さんもそのことを考えていた。池田さんもそうだった」
 と正芳は故人の思い出を手繰り寄せながら、
「そんなことは実現不可能だ、夢のような理想論だという絶望感に落ち込んでしまう場合がある。しかし、主はニヒリストになることをわれわれにお許しにならない」
何度か書いているとおもうけど、ぼくは政治家は夢想家でいてほしいともおもってるんだよね。
現実主義もいいんだけどさ。でもその先にちゃんとビジョンを見ている人であってほしい。
たとえば「経済成長」ってのは大事だけど、それは手段のひとつであって目的ではないわけじゃない。
経済成長した先にどういった未来をつくるのか、そこにたどりつくための手段は経済成長しかないのか、ということを考えられる人に政を任せたいんだよね。

思想からっぽのあの人やあの人じゃなくてさ。

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2020年6月3日水曜日

脳ストレッチ


コロナ休校中の娘の小学校。
宿題で「ラジオ体操を毎日やること」とあったので、ぼくもいっしょにやる。
ラジオ体操なんていつ以来だろう。
ぼくの通っていた高校では“緑台体操”という独自の体操があってことあるごとにその体操をさせられたので、ラジオ体操をやる機会はまったくなかった。
今にしておもうがいったいあれはなんだったんだ。体操の動き自体はラジオ体操と似ていた。だったらラジオ体操でいいじゃないかとおもうのだが、ラジオ体操を嫌いな教師でもいたのだろうか。

話がそれたが、二十数年ぶりにラジオ体操をやっておもったのは、意外ときついなということ。
第一、第二を通してやるとけっこう息が上がる。
肩を上げるのがけっこうしんどい。
首を回すとごきごき鳴る。

ふだん使わない筋肉を使っているなあ、と感じる。
日常生活で、肘を肩の上まで上げたり、胸をおもいっきり反らせたり、胴体をめいっぱいねじったりすることないもんね。

凝り固まっていた身体がほぐれていくようで気持ちがいい。



緊急事態宣言が解除されて、約二ヶ月ぶりに会社に行った。
感じたのは、脳がほぐれていくような心地よさ。

リモートワークの間は、脳の狭い部分しか使っていなかった。
同じ場所で活動し、同じ人とだけ話し、同じような仕事をする。疲れたら同じような息抜きをする。
楽な生活ではあるが、どうも思考が固まる。

ぼくはふだん息抜きでこうしておもいついたことをブログにだらだら書くのだが、緊急事態宣言中はほとんど書かなかった。何もおもいつかなかったからだ。

会社に出勤するようになり、電車に乗ったり、歩いたり、階段を昇ったり、信号が変わるのを待ったり、道をふさぐように突っ立っているおばちゃんにぶつかりそうになったり、コンビニで店員の動きの悪さにいらだったリしているうちに、またくだらないことをあれこれ考えられるようになった。

脳もあちこち使わないと凝り固まるんだね。


2020年6月2日火曜日

【読書感想文】今じゃ書けない居酒屋談義 / 奥田 英朗『延長戦に入りました』

延長戦に入りました

奥田 英朗

内容(e-honより)
ボブスレーの二番目の選手は何をしているのかと物議を醸し、ボクシングではリングサイドで熱くなる客を注視。さらに、がに股を余儀なくされる女子スケート選手の心の葛藤を慮る、デリケートかつ不条理なスポーツ無責任観戦!読んで・笑って・観戦して、三倍楽しい猛毒エッセイ三十四篇。
書かれたのは著者が作家デビューする前ということで、1990年代の話が中心。
古いんだけど、ぼくからしたら最近はスポーツをほとんど観なくなったので古い話のほうがわかりやすい

とはいえ、この四半世紀で世の中の価値観はずいぶん変わった。
この本を2020年の感覚で読むと
「これは完全にセクハラだ」
「うわあこれは国際問題になりかねない」
「これがユーモアのつもりなのか。多様性を認められない人だなあ」
みたいな表現であふれかえっている。

昔の発言を今の価値観で断罪しようとはおもわないけど、「世の中の価値観って変わっていないようでけっこう変わってるんだなあ」と感じる。
昔は「冗談と言えば許されたこと」が今では「冗談でも言っちゃいけないこと」になってる。

社会全体としてみたらまちがいなくいいことだよね。
誰かが傷つくようなことは言っちゃだめですよ、ってなるのは。

でも「大きな声では言えないけど」という枕詞付きで“みんなうすうすおもってるけど大っぴらには言えないこと”を話すのは楽しい。
ぼくも友人同士ではよくやる。インターネットの網にはとても乗せられないような不謹慎な冗談を口にする。
『延長戦に入りました』は、そんな「酒の席のバカ話」として読むのが正しい。
男女平等とか多様性とかポリティカルコレクトネスとか考えずに読むと、すごく楽しい。



柔道の判定勝ちについて。
 こんなもの柔道以外なら絶対許されない。
 伝統の巨人・阪神戦。優勝を決める大一番。9回を終わって3対3の同点で決着つかず。いよいよ、旗の判定です。ホーム・プレート上に審判が並びました。さあ判定は! おおっと、赤が2本、白が1本。優勢勝ちで巨人の優勝が決まりました。
 場内騒然。御堂筋は大暴動になり、審判は大阪湾に浮かぶだろう。
 結局、日本人は物事を数量化することが苦手なのかもしれない。得点を競うゲームを何ひとつ生み出していないし、明確な採点も好まない。しかし、日本人同士ならよくても、それでは絶対に国際化はできないのである。
 国際社会の一員への道は険しい。柔道着のカラー化は仕方がないんじゃないの、なんて思ったりして。
たしかにいわれてみれば、日本生まれのスポーツで得点を競うゲームってないなあ。
相撲、柔道、剣道、空手、駅伝……。みんな得点は競わない。得点を競うのはゲートボールぐらいか。

相撲のルールはシンプルだけど、大相撲の番付はかなり恣意的なものだしね。番付上位になるほど、勝敗以外に「勝ちっぷり」とか「品格」とかが求められるし。

剣道なんかわかりやすそうで、知らない人からしたら「何それ?」みたいな決まりだらけだよね。
たとえば剣道試合・審判規則第12条にはこうある。
有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。
すごい。剣道やってない人間からしたら意味のわからないことだらけだ。
「充実した気勢」も「適正な姿勢」も「刃筋正しく」も「残心あるもの」も全部主観じゃん(だいたい竹刀に刃筋があんのかよ)。
これは規則じゃなくて心構えとか訓示とか志とかに属するものだろ。
これがルールとして成り立つなら六法全書も「悪いことをしたら適正な処分を下す」の一行で済んでしまう。

あいまいなものを白黒つけずに残しておく、ってのは日本的でぼく個人としてはけっこう好きだ。
法律なんかも条文で事細かに決めずに判例で決めるほうが使いやすいっていうしね。
ただ国際スポーツとしてやっていくには不向きなので、柔道の国際化・オリンピック競技化は失敗だったんじゃないかとおもうな。



バカ話にまぎれて、ときどき「たしかにそうかもしれない」と膝を打つような説もある。

「出席番号の早い人は短時間で心の準備を整えることに慣れているので野球のトップバッターに向いている」
とか
「背面跳びはクッションありきのプレーなので、じっさいに高い壁を跳びこえるようなときには自己ベストが低くてもベリーロール派の人のほうが信用できる」
とか。

1996年から高校野球の甲子園大会で女子マネージャーがベンチ入りできるようになったが、その件について。
 ところで、マスコミは今回のこの《女子マネのベンチ入り解禁》を、「男女平等」への一歩前進としてとらえたがっているようであるが、もちろんこんな馬鹿馬鹿しい大義名分を信じているお人好しはいないだろう。
 私が考えるに、これは「認知」と言った方がいいと思う。
 十代にしてすでに《尽くすタイプ》となってしまった少女たちを、教育の現場はどうとらえてよいのかわからないのである。ごく常識的に考えて、貴重な青春を、自分の目標に向かって突き進むのでなく、男子の練習のお手伝いに費やすというのは、理解しづらい価値観なのだ。
 ま、中には男子の中に入ってチヤホヤされたいという邪な考えの持ち主もいようが、大半のマネージャーたちは、
「できることなら男の子たちの、あの額の汗をワタシがぬぐってあげたい」
 という純粋な乙女心の発露から志願してきていることは間違いない。
 つまり、男女平等などといった概念からはほど遠いのだ。「銃後の守り」という言葉さえ頭に浮かぶ、きわめて儒教的で封建的な存在なのである。
 西洋のフェミニスト団体が視察に来たら、きっと「日本の女性はまだまだ虐げられている」と言い出すだろう。
 いや、ほら、彼女たちは自ら志願してやってるんだってば、と説明しても、恐らく「ならば情操教育に問題がある」とか言い出すだろう。
 おまけに男社会は、彼女たちの自立を促すどころか、これ幸いとばかりに便利に使っている。
 こうなったらベンチにでも入れて認知しないことには、女子マネという曖昧な存在を説明しきれない。彼女たちは重要な任務を与えられている、というポーズだけでもとらなければ、教育的にも言い訳がたたない。
 とまあ、これが私が理解するところの今回の経緯なのである。
これはもちろん根拠のない憶測なのだが、当たらずとも遠からずという感じがする。

少し前に、新聞に「毎日選手のためにおにぎりを大量に握ったりユニフォームを洗濯したりしてがんばっている女子マネージャー」みたいな記事が載って、その記事は彼女に好意的な文章で書かれていたのだが、「自己犠牲を美化するのは気持ち悪い」「男尊女卑が根底にある」「戦時中みたいだ」「女子学生に“おかあさん”の役割を担わせるな」みたいな批判的なコメントがネット上にあふれていた。

いや、それはちがうでしょ。
もちろん女子学生が強制的に連行されておにぎりを握らされたりユニフォームを洗濯させられたりしてたら大問題だ。
でも彼女は好きでやってるのだ。
「男子部員に献身的に尽くす私」が好きなのだ。タカラヅカに入れあげて贔屓のタカラジェンヌにせっせとプレゼントを貢いでいるファンといっしょだ。

それを「いやそんなのはおかしい。彼女は間違った思想を植えつけられている。教育が悪いのだ」と言うのは、「女は男に尽くすものだと教育しなければならない」というのと、根底にある考え方は同一だ。「価値観は一様であるべきでそれ以外は間違った考え方だ」という発想だ。
「結婚したら妻は夫の苗字を名乗らなければならない」というのも封建的な考えなら、「結婚したら夫婦は別々の姓を名乗らなくてはならない」というのもまた(今の日本においては)同じぐらい乱暴な考えだ。

高校生活の大半を野球部員に捧げる女子学生がいたっていいし、逆に女子に尽くす男子学生がいたっていい。

でも、「自分から見たら不合理としかおもえないこと」をする自由を許せない人はけっこう多い。

女子マネージャーのベンチ入りってのは、そういう人対策なのかもなあ。
ほんのちょっぴりだけ前線に引っ張り上げて「彼女たちも10番目の選手なんです。決して男子の後方支援に甘んじているわけではないですよ」と弁明するための。
嘘だって誰もが気づいているけど。


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2020年6月1日月曜日

緊急事態宣言下の生活について


緊急事態宣言下の生活についてのふりかえり。
備忘録的に。

仕事について


丸々二ヶ月ほど、完全リモートワークだった。
元々パソコンと電話さえあればほとんどできる仕事だった。
ときどき客先に行って打ち合わせをすることはあったが、「こんなご時世ですので訪問するのもかえって迷惑かとおもいますので電話かビデオチャットで打ち合わせさせていただけないでしょうか」と言って断られたことはない。
なので比較的スムーズにリモートワークに移行できた。

後輩から教えてもらったChrome リモートデスクトップを使用。
Googleアカウントにログインしてさえいれば自宅PCから会社PCを動かせるのだ。社内ネットワークにもアクセスできるので支障はない。
会社ではデュアルディスプレイにしていたが自宅はモニターひとつなので(二台も並べられるスペースがない)少しストレスだったが、社長に愚痴ったら大きいディスプレイを買ってくれた。
気前がいいなとおもったが、リモートワークになれば交通費や電気代やドリンク代(うちの会社では飲み物を自由に飲んでいい)の会社負担が減るわけだからそれぐらいどうってことないのかもしれない。

業務自体はほとんど支障はなかった。
むしろ平常時より効率が良かったかもしれない。
サボってしまうんじゃないかとおもっていたがそれなりにちゃんとやれたし(短時間はサボる。でもそれは会社にいても同じ)、余計な電話や通勤時間がなくなった分、仕事をしている時間が増えた。

インターネット広告の仕事をしているのだが
「こんなご時世なのでインターネットで集客したい」
みたいな問い合わせがちょこちょこあり、ふだんより業績はいいぐらいだった。

体調面について


新型コロナウイルスには感染しなかった(とおもう)のだが、ずっとリモートワークだといろいろと不具合が生じる。

まず痔が再発したこと。
はじめのうちは適当な椅子に座っていたのだが、てきめんにケツがいたくなった。脱肛して、切れ痔になって出血までした。
こりゃやばい。以前にも痔で病院に行ったことがあるが、こんなご時世なのでなるべく病院に行きたくない。こんなご時世じゃなくても痔で病院には行きたくない。
あわてて痔の薬と、痔にいいというクッションを買う。適当な台に座っていたのだがちゃんとした椅子に座ることにする。
座り方を変えたら痛みも治まった。あぶねえ。
「入院することになったんですよ」「え!? コロナですか!?」「いや痔で……」なんてやりとりをしたくない。
椅子は大事だね。

運動不足について。
元々インドア派の人間なのでさほどストレスは感じなかった。
とはいえさすがにこれは運動不足が過ぎるな、とおもった。なにしろ1日の総移動距離が100メートルにも満たないぐらいなんだもの。
そこで朝、子どもと外に出て遊ぶことにした。
すぐ前の公園に行って遊ぶ。といってもボールを軽く蹴ったりいっしょにすべり台をすべるぐらいでほとんど運動にはならないが。まあ一日中家にいるよりはマシだろう。
あと長女の学校の宿題で「毎日ラジオ体操をすること」とあったので、ぼくもいっしょにおこなう。
ううむ、いい運動になるなあ。大人になると肘を肩より上にあげることなんかほとんどないもんなあ。

子どもとのかかわりについて


六歳(一年生)と一歳の子どもがいるのだが、どちらも家にいた(保育園はやっているがなるべく来るなと言われたので)。

六歳のほうは「今から大事なお電話するからちょっと向こうに行っといて」と言えば聞いてくれるが、それ以外のときはぼくの近くにいる。じゃまこそしないが横で本を読んだり勉強をしたりしている。
気が散るが一応おとなしくしてくれているのであっちに行けとも言いづらい。

一歳に関しては当然聞き分けなどないので電話中だろうがビデオチャット中だろうがおかまいなしに叫ぶし寄ってくるし膝に乗ってくるしキーボードや携帯電話をさわる。
幸いふだん使用していない部屋があったのでそこにこもって突っ張り棒で中からロック。子どもたちを締めだした。
すまん娘たちよ、それ以上にすまん妻よ(妻は育休延長した)。

……だが一週間もしたら子どもたちも父親が一日中家にいることに慣れて(そして仕事中の姿をのぞいてもおもしろくないことに気づいて)あまり寄ってこなくなった。ちょっと寂しい。

娘の学習について


長女(小学一年生)のために、妻や娘といっしょに時間割をつくった。
学校に慣れられるよう、なるべく学校と同じ時間配分で。
45分ドリルをやったら10分休憩、次は45分パズル。休憩の後は45分読書。勉強ばかりでは飽きるだろうと体育(近くの公園)や音楽(ピアノの練習)や家庭科(お菓子作り)や図工(絵を描いたり工作をしたり)の授業も入れた。

はじめは順調にこなしていた。
さすが我が娘、なんて優秀なんだ。

だが一週間、二週間経つうちに疲れが見えてきた。
しょっちゅうおかあさんと喧嘩をしている。怒りくるって床にひっくりかえったまま三時間目、なんてことも起こるようになった。学級崩壊だ。

考えてみれば、学校であれば45分授業といってもそのうち35分ぐらいはぼーっと先生の話を聞いているだけだ。ほんとに集中して問題を解いている時間は10分にも満たないぐらいだろう。
だが家庭でドリルをやる、横にはおかあさんがマンツーマンでついているとなると、ずっと集中しないといけない。これは疲れるだろう。
じっさい、保育園ではまず昼寝をしなかった娘が、自宅待機中はちょくちょく昼寝をするようになった。保育園や学校に行くよりも精神的に疲れるのだろう。

これはいかんと勉強時間を減らしたり、テレビを観る時間を設けたりした。
また学校が週二回だけ(しかも90分だけ)始まったり、習い事(ピアノとバレエ)が再開したりで、気がまぎれるようになったらしい。
娘の精神状態も落ち着いてきた。
あと前にも書いたけど進研ゼミのタブレットが届いたのも大きい。おかげで楽しく勉強できるようになった。

うちはぼくが自宅勤務(しかもかなりゆるいので30分ぐらい席を外しても大丈夫)、妻が育休延長で家にいて、かなり恵まれた環境にあったとおもう。
それでもずいぶん手を焼いた。
親ひとりで見なきゃいけない家とか、子どもの多い家とか、仕事の融通を聞かせづらい人とかはめちゃくちゃたいへんだっただろうなあ。

休校の判断については賛否両論あるけど、ぼく個人的には学校はやってほしかったな。
子どもの感染者はほとんど出てなかったし、休校にしたってどっちみち学校内で子どもを預かったりしていたので。

まあこれは収束しつつある(ように見える)今だから言えることで、休校せずに子どもの感染者が大量に出ていたら
「だからあのとき休校にしていればよかったんだ!」
なんて言ってたかもしれないけど。

困ったこと


意外に困ったのが散髪だった。
散髪屋に行くのを自粛。密接するし、マスクをするわけにもいかないし、どう考えたってリスク高いもんなあ。
で、髪が伸びてきた。まあ人に会うわけじゃないからいいんだけど、しかし前髪が長くてじゃまだ。
で、妻に切ってもらったり(娘の髪を切ってるのでへたではない)、娘のヘアピンを借りて前髪を止めたり。
わずらわしい。

で、緊急事態宣言も解除されたので久々に床屋に行ってみた。
あれ? 満員を覚悟していたのに意外とお客さん少ないぞ。みんなまだ自粛モードなのか?
とおもって店に入ったら「2時間半待ちですけどいいですか」と言われた。
「え? でもそんなにお客さんいないですよね」
「感染リスク下げるため店の外で待ってもらってるんですよ」
とのこと。
10分カットの店で2時間半待ちか……。
「また今度にします」と言ってすごすごと帰ったんだけど、帰ってから気が付いた。
しまった。整理券だけもらってから帰宅して2時間半後にまた出直してきたらよかったのか。

楽しみ


せっかくのリモートワークなのでふだんできないことをしよう、ということでヒゲを伸ばしはじめた。
うちの会社はヒゲ禁止じゃないけど、でも中途半端に伸びたヒゲは見苦しいからね。
で、2ヶ月近く伸ばしてみたけどぜんぜん濃くならない。もともと薄いのだ。
さすがに2ヶ月も伸ばしたので長さはそこそこになったけど、長いヒゲがひょろひょろとまばらに生えているだけでぜんぜんかっこよくない。男らしいヒゲではなく仙人みたいなヒゲなのだ。
ということで久々の出社前に剃ってしまった。
ま、ヒゲを伸ばしたところでどうせ毎日の手入れが面倒になってやめたとおもうけど。