火花
又吉 直樹
へそまがりな人間なので、話題作、タレント本というとついつい避けてしまう。
「ふだん本なんて読まないくせに話題になっている本だけ読む」人間だとおもわれるのがイヤなのだ。といっても誰もぼくが何を読んでいるかなんて気にしないわけだから、完全に自意識過剰だ。それはわかっている。わかっていてもどうにもならないから自意識過剰なのだ。
というわけで『火花』も「おもしろい」という評判や、描かれている題材などからすごく興味を持っていたにもかかわらず、テレビによく出ている人が書いた+芥川賞受賞作という超話題作だったためにずっと遠ざけてきた。
しかし、そもそも何のためにやっているのか自分でもよくわからない意地を張っていても何の得もない。
ということで、読みたい本は話題作だろうとタレント本だろうと読むことにしようと決意して『火花』を手に取った。大仰な決意をしないと好きな本も読めないのだから、我ながらめんどくさい性格だ。
『火花』の主要登場人物である徳永と神谷も、負けず劣らずめんどくさい性格の人間たちだ。
芸人である以上、売れたいとおもっている。評価されたい、テレビに出たいとおもっている。
けれど自分がおもしろいと信じていることだけをやりたいともおもっている。
もちろん、自分がおもしろいとおもうことだけをやって、周囲からも認められるのがいちばん幸福だが、そうはいかないのが笑いの世界だ。
どこかで折り合いをつけなければならない、けれど妥協したくない、だけど評価もされたい。
表現の世界に身を置く人間であれば誰でも抱えている普遍的な悩みなのだろう。
しかし普遍的な悩みだからといって当事者にとっては悩みが軽くなるわけではない。
ずっとひりひりした痛みを抱えながら先の見えない闘いを続けるしかない。
これがスポーツならまだわかりやすい。勝ち数が多いとか防御率が低いとか、歴然とした指標があるから。
多少は監督のえこひいきも入るだろうけど、チーム一の成績を出している選手を起用しないことはよほどのことがないかぎり難しいだろう。
しかし「おもしろさ」は数値化できないし時代や場所によっても変わるものだから、芸人はずっと「おもしろい」を模索しつづけなければならない。
しかもおもしろければいいというものでもない。笑いをたくさんとった者が売れるとはかぎらない。
これは『火花』の中で、傍若無人にふるまっているように見える芸人たちが交わす会話だ。
ここまで明快に言語化されているかどうかはわからないが、きっとほとんどの芸人たちはこれに近いことを考えながら生きているのだろう。そして考えれば考えるほど答えがわからなくなる。
ぼくの家の近くには公園があり、そこでよく漫才師の卵が稽古をしている。近くに芸人の養成所かなにかがあるのだろう。彼らは並んで一方向を見ながら派手な身振り手振りで話しているので(でも声は小さい。公園なので)、すぐに漫才の稽古だとわかる。
もちろん公園で練習するぐらいだからプロ未満の芸人なのだろう。だが彼らの顔は真剣そのものだ。稽古をした後は、小声でぼそぼそと話している。あそこがちがう、ここはこうしたほうがいい、などと話しあっているのだろう。
サラリーマンの商談のほうがよっぽど笑顔にあふれてるよ、というぐらい真剣なおももちで話しあっている。
まじめさとふまじめさ、常識と非常識、賢さと愚かさ、新しさと古さ、優しさと冷酷さ。いろんな「相反する要素」を持たないと生きていけない世界。
外から見た華やかさとは真逆の苦しい世界なんだろうなあ。
こういう小説は芸人界の内情を垣間見れておもしろい(フィクションなんだけど作者も芸人だとついつい実在の芸人と重ね合わせてしまう)。
でもこうやって芸人の悲哀を見せてしまうのは、今後の芸にとってはマイナスの影響のほうがずっと大きいんじゃないだろうか。「ぼくらめちゃくちゃ苦労してて命を削りながらネタつくってるんです」って言われると、もう笑えなくなっちゃう気がする。
特に漫才は、ネタのキャラクターと実際の芸人の姿が地続きになっているから。
そういや、高山トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』、ユウキロック 『芸人迷子』など芸人の私小説を読んだけど、どちらもコンビ解散してから書いてるんだよね。又吉直樹さんのピースも、『火花』が芥川賞を受賞してからほどなくして活動休止してるし。
やっぱり内情を暴露してしまうと、もう漫才は続けられないのかもしれないな……。
芸人が書いているだけあって随所にユーモアがちりばめられているんだけど、そのクオリティも十分に高いんだけど、だけどぼくは笑えなかった。
笑いよりも悲哀のほうが先にきてしまったのだ。
笑わせることは物悲しい。
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