2017年4月20日木曜日

自分の人生の主役じゃなくなるということ

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いちばん影響を与えた本


人生に影響を与えた本はいっぱいあるけれど、あえて1冊選ぶなら、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』 を挙げたい。


二十歳くらいのときに『利己的な遺伝子』を読んで、それまで学校教育やテレビで押しつけられてきた「努力」だとか「優しさ」だとか「愛情」だとか「正義」とかがみんないっぺんにふっとんだ。
なーんだ、努力とか優しさとか愛情とか正義とかって、こんなにどうでもいいものだったのか、と目から鱗が落ちた。

思春期のころはみんなそうだと思うけど、ぼくもいっちょまえに「人は何のために生きるんだろう。自分は何を成し遂げられるんだろう」と思い悩んでいた。答えなんて見つかるわけないから、好きでもない新しい環境に飛び込んだり、好きでもない人と会ったり、模索を続けていた。
でも答えは『利己的な遺伝子』に書いてあった。

人は遺伝子の乗り物にすぎない。


乗り物の目的は?
乗り手を運ぶこと、ただそれだけ。
それ以上の意味なんて必要ない。
自転車が愛や美や善を担う必要がないように、乗り物としての人にとっても「遺伝子様を運ぶこと」以上の意味なんかどうでもいい。

そりゃあダサい車よりかっこいい車のほうがいい。でも車の最大の目的は「人を乗せて走ること」だから、どんなにかっこよくても人を乗せられない車は車じゃない。飛べない豚はただの豚だし、飛べる豚は脂の乗ったコクと鳥の持つあっさりした口あたりを兼ねそろえていておいしそう。何の話だったっけ。



ぼくらは死ぬけど遺伝子は生きる


ぼくらの細胞は毎日大量に死んでいくけど、それでも新しい細胞がどんどんできて、1年もすればもうまったく別の細胞に入れ替わっているらしい。
だけどぼくらは別人になるわけじゃない。細胞が死んだってぼくらが死ぬわけじゃない。

ぼくらと遺伝子の関係も同じこと。
ぼくらは100年ちょっとすれば完全に入れ替わるけど、遺伝子はずっと生きている。ぼくらが死んでも遺伝子は死ぬわけじゃない。


結局、人は遺伝子を残すためだけに生きている。

ってなことを書くと、「いろいろな事情で子孫を残せない人を人間扱いしないのか」って言われそうだけど、そんなことはない。
『利己的な遺伝子』を読めばわかるけど、子どもを産むことだけが遺伝子を残す方法じゃない。
甥や姪や従兄弟の子だって、自分と同じ遺伝子を持っている。
赤の他人だって、いくらかは共通の遺伝子を持っている。

だから人類みんなのためにおこなう行為がめぐりめぐって自分の遺伝子のためになるわけで、そうすると愛とか善とかも無意味なものではないということになるんだけど、どっちにしろ「人の行動はすべて遺伝子様に尽くすための行動」ということに変わりはない。



生きるのが楽になった


「自分は遺伝子にコントロールされる乗り物にすぎない」ということを受け入れた後は、生きるのがすごく楽になった。
だって乗り物なんだもの。何を悩むことがあろうか。

しょせんは乗り物

後世に遺伝子を残すことさえできればそれでいい。しかもそれは自分の子孫という形じゃなくてもいい。
生きることのゴールが、「善く生きる」という崇高である上によくわからない目標から、「人類が死滅しないこと」に変わったわけだ。
しかもアメリカ大統領ならいざしらず、「人類を死滅させない」ためにぼくができることはほとんどない。
借金に苦しんでいたのにいきなり徳政令を出されたような気分だった。




ぼくは主役の座を降りた


さらに子どもが生まれたことで、生きることの負担はさらに軽くなった。

子どもが生まれて1年くらいしてからだろうか。
友だちと話していて、ふっと「ぼくはもう人生の主役じゃないからなあ」という言葉が出てきた。
それまでそんなことを考えたこともなかったから自分でも驚いたのだけど、「人生の主役じゃない」という言葉は己の心境をよく言い表していた。


あたりまえだけど、それまで自分の人生の主人公は自分だった。
誰が何といおうとぼくの人生はぼくのためにあったし、他の登場人物はすべてぼくを引き立たせるための脇役にすぎなかった。通行人Aとか森の樹Wとかぐらいの扱いだった(森の樹多いな)。
誰しもがぼくのためにあった。

でも、子どもがすべり台をしている横で寒さに震えながらじっと付き添っているぼくは、明らかに脇役だ。
ぼくの人生において、父や母が主役を支える脇役だったのと同じように。

我が子だけではない。
娘と同じ年頃の子どもたちを見ていると、「ぼくはこいつらのためなら死ねるかもしれない」と思う。
無条件に命を投げ出すのはイヤだけど、「知らない子どもが溺れていて死にそうだ。飛び込んだら自分も50%の可能性で死ぬけど、50%の可能性で助けられる」という状況だったら、ちょっと迷うけれども飛び込めるんじゃないかと思う。
それってマリオを助けるためにヨッシーを切り離して穴底へ落とすようなもので、寂しいけど脇役なんだからしかたないとも思う。

もちろん何歳になったって、子どもや孫や雲孫(孫の孫の孫の孫)が何人いようと、「おれの人生の主役はずっとおれだぜ!」って人もいるんだろうしそれはそれでけっこうなことだけど、ぼくは「脇役は脇役なりの楽しみ方をすればいいや」って気持ちだ。
もともと主役は遺伝子様だったんだし。

ぼくはヒーローの座を降りた


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