2022年5月31日火曜日

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2022年5月30日月曜日

爆弾犯あれこれ

「爆弾犯」という言葉がある。

「凶器」+「犯」という呼び方、他ではちょっとお目にかかれない。

「ピストル犯」や「ナイフ犯」はほとんど聞かない。

 Google検索をしてみたら、"爆弾犯"の検索結果37,500件に対して"ピストル犯"は103件、"ナイフ犯"は575件だった。爆弾よりもナイフのほうが圧倒的に多くの犯罪に使われていることをおもえば、「爆弾犯」だけが突出していることがうかがえる。


「凶器」+「犯」という呼び方はなかなかおもしろい。

「ナイフ犯」だとナイフで刺すか脅すかしたのだろうとだいたい想像がつく。

「カメラ犯」だと盗撮でもしたんだろうなとおもう。

「バールのようなもの犯」はよくわからないけどとにかく何かをこじあけたのだろう。

「自動車犯」はむずかしい。ひき殺したのかもしれないし、あおり運転かもしれない。逃走の手段に使ったということも考えられるし、自動車を盗んだということもありうる。


「凶器」+「犯」は「爆弾犯」ぐらいかな、と考えていたらもうひとつおもいついた。「知能犯」だ。凶器とはちがうが、「犯行に使われたもの」+「犯」になっている。

 しかしこれまたどうして知能だけなのだろう。同じ理屈でいえば、殴ったら「拳犯」、痴漢は「掌犯」、詐欺は「口犯」でもよさそうなものなのに(詐欺は知能犯か)。


 犯行に使われなさそうなイメージの言葉に「犯」をつけてみると想像がふくらむ。

 ラブレター犯、カフェラテ犯、おりがみ犯、アブラゼミ犯……。

 どんな犯罪なんだろうとわくわくする。小説の題材になりそうだ。


 爆弾犯や知能犯は例外で、ふつうは「行為」+「犯」で呼ぶ。殺人犯、ひき逃げ犯、ひったくり犯、食い逃げ犯、万引き犯、盗撮犯、窃盗犯。

 これまた例外があり、「犯」以外の字を使うこともある。

 たとえば。詐欺。詐欺犯ではなく詐欺師と呼ぶ。ペテン師、スリ師も「師」チームだ。

 どうして「師」なのだろう。「師」といえば、教師、講師、恩師、牧師などものを教えてくれる人や、医師、薬剤師、絵師、漁師、猟師、講談師、漫才師、呪術師などあるジャンルで高い能力を持った人を指す。そりゃあペテン師や詐欺師も一芸に秀でてはいるが、わざわざ「師」の字をつけなくたっていいのに。ぼくが医師や猟師だったら「詐欺野郎といっしょにしないでくれ」と言いたくなる。


 痴漢もわざわざ「漢(おとこ)」と呼んでいる。「痴犯」でいいとおもうのだが。

 そりゃあ圧倒的に男が多いわけだけど、女が電車内で別の人のおしりをなでまわしたらなんと呼ぶんだろうか。やっぱり痴漢だろうか。「痴女」だと意味が変わってしまう。たぶんだけど「痴漢女」とか呼ばれるんだろう。デビルマンレディーみたいに男なのか女なのかよくわからない呼び名だ。


「爆弾犯」の話に戻る。

 よく見ると、とても物騒な三文字熟語だ。「爆」も「弾」も「犯」もみんなそれぞれ暴力的な響きがある。

 三文字とも暴力的な熟語。他にあるだろうか。

 おもいついたのは「銃撃戦」「剣闘士」「争奪戦」「核戦争」「死刑囚」とか。あと昔の力士で「戦闘竜」とか。



2022年5月27日金曜日

【読書感想文】花村 萬月『笑う山崎』 / 愛と暴力は紙一重

笑う山崎

花村 萬月

内容(e-honより)
マリーは泣きそうな子供のような顔をした。「なにする!」圧しころした声で言った。「犯しに来た」その一言で、マリーは硬直した。冷酷無比の極道、山崎。優男ではあるが、特異なカリスマ性を持つ彼が見せる、極限の暴力と、常軌を逸した愛とは!フィリピン女性マリーを妻にしたとき、恐るべき運命が幕を開けた…。

 この小説の主人公・山崎はとんでもない男だ。ヤクザからも恐れられ、些細なことで初対面の女の顔面を殴ったり、敵対する人間には残虐な拷問をおこなって殺したりもする。それでありながら、京大中退の過去を持ち、色白細身、下戸、喧嘩は弱い。

 漫画『ザ・ファブル』を想起するが、あっちはもはや〝単に強いだけの善人〟だが山崎のほうはあくまで悪人だ。敵とみなした相手はどこまでも追い詰める。死ぬ覚悟ができている相手を助け、食事や女に触れさせて生きる気力が湧いてきたところで拷問にかけて殺すなんていう悪魔のような所業もおこなう。

 とことんワルでありながら、山崎はなんとも魅力的なキャラクターだ。どこか憎めない(もちろん近づきたくないが)。稀代のダークヒーローである。

 あ、エロとグロと暴力の描写がきついし、すかっとする部分もあるけど基本的に山崎は極悪非道のクズ野郎なので胸糞悪いくだりも多い。万人におすすめはしません。




 山崎は血のつながらない娘・パトリシアを溺愛し振り回される一方で、さして怨みもない相手に残虐な仕打ちを加える。慕ってくるヤクザに対して優しさを見せるが、銃撃されたときは平気で盾に使う冷徹さも持っている。どうも一貫していない。行動がちぐはぐな印象を受ける。

 物語のラスト、自身の行動原理を問われた山崎は答える。

「愛だよ、愛」

 これだけ見たらじつに安っぽい言葉だ。「愛だよ、愛」なんて歯の浮くような台詞を吐く人間は信用できない。ましてヤクザと濃密なつながりのある男が口にしたら冗談にしか聞こえない。

 しかし、ここまで読んで山崎という男の不器用きわまりない生き方を見てきたぼくとしてはおもう。まったく、その通りだと。山崎はまさしく愛に生きているのだと。

 山崎だけでない。山崎を取り巻くヤクザや情婦たちも愛を求めて生きている。

 もっとも彼らの愛はみんな歪んでいる。登場人物の多くは親の愛を知らぬまま大人になり、それを別のもので埋め合わせようとしている。
 彼らにとっての愛の表現は、女の顔面を殴りつけることだったり、身代わりとなって死ぬことだったり、誘拐した少女をあちこち連れまわすことだったり、覚醒剤を欲しがる男の代わりに手に入れてやることだったり、一般常識からすると狂っている。

 しかしぼくはおもう。歪んでいるからこそ愛なんじゃないか、と。

 常識で測れるものは愛じゃない。「こうした方が得だから」「こっちのほうが世間的に認められるから」という原理で動くのは愛とは言わないだろう。

 親から子への愛だって同じだ。どんなに悪い子でも、どんなにダメな子でも、献身的に尽くす。それこそが愛。親とはそういうものだとおもっているけど、冷静に考えればいかれている。

 そして愛と暴力はけっこう近いところにいるとおもう。

 ぼくが誰かを殴ったのは中学生のときが最後だ。それ以来誰も殴ったことはないし、殴ろうとおもったこともなかった。数年前まで。
 でも最近はある。相手は、娘だ。こっちが娘のことを大事にして、心配して、甲斐甲斐しく世話を焼いてやる。にもかかわらずまったく言うことを聞いてくれなかったり、露骨に反発されたりすると、つい手を出したくなる。

 どうでもいい相手のことは殴ろうとおもわない。殴っても損をするだけだから。そもそもそこまで他人の行動に感情を動かされない。でも、愛する娘のことは猛烈に憎くなることがある。愛と暴力は近いところにある。


 徹頭徹尾いびつな愛を見せつけてくれる、愛と暴力にあふれた小説だった。


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【読書感想文】あいたたた / 花村 萬月『父の文章教室』

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2022年5月26日木曜日

【カードゲームレビュー】NHKカガクノミカタ くらべてみるゲーム

NHKカガクノミカタ
くらべてみるゲーム

「賢くなる」を謳い文句にしているゲームは基本的につまらないので買わない、という信念があるんだけど、これはルールを読んでおもしろそうだったので買ってみた。


 ルールはこんな感じ。

・「動物X」役(一人)と、「博士」役(それ以外の全員)に分かれる。

・「動物X」はさまざまな動物(哺乳類)が書かれたカードから一枚めくり、こっそり見る。

・比較対象となる動物カードをめくる。

・「博士」たちは質問カードにもとづいて「動物X」役に質問をして、「動物X」が何かをあてる。


 シンプルなルールだ。たとえば「動物X」がオオカミで、比較対象がハリネズミだとする。
 動物X役は、「どっちが大きい?」ならオオカミ、「どっちが飼いやすそう?」ならハリネズミと答える(主観も入る)。質問を重ねて、一種に絞っていくわけだ。




 八歳の娘と何度かやってみたが……。

 まず、ルールに忠実にやるとつまらない。おまけにむずかしい。欠点だらけだ。


質問カードがクソ

「強そうなのはどっち?」とかならいいが、「空を飛ぶのが上手そうなのはどっち?」とか「鼻が長そうなのはどっち?」とか、なんとも微妙な質問が多い。

 動物カードは哺乳類ばかりなので、空を飛べるのなんてはモモンガぐらいしかいない。そりゃあカバよりもウサギのほうがまだ飛べそうだけど、そのあたりは主観なので人によるとしか言いようがない。

「どっちが鼻が長い?」もひどい質問だ。ゾウと比べたらすべての動物が短い側に入るので、まったく絞り込みに役立たない。カバとヒトのどっちの鼻が長いかなんて比べようがない。ウマやオオカミは顔の中心がつきでているが、あれは鼻が長いのか? それとも口が長いのか? よくわからない。

 質問カードはダメな質問ばかりだ。「草を食べていそうなのはどっち?」とか(そんなの比べるもんじゃねえ)、「角が大きそうなのはどっち?」とか(両方ない場合比べようがない)、「耳が大きそうなのはどっち?」とか(絶対的な大きさなのか、それとも相対的な大きさなのかわからない。たとえばウサギは相対的に耳が大きいが、絶対的な大きさではサイより小さいだろう)。


動物カードが微妙

 ゾウやキリンはいいとして、クマとかイノシシとかアルパカとかキツネとか、そんなに特徴のないやつも多い。二択の質問をくりかえしてタヌキかキツネかを見分けるとか、ライオンかトラかを見分けるとか、大人でもむずかしいぜ。子どもにはまず無理だ。

 哺乳類にこだわることなく、ニワトリとかカメとかカブトムシとかタコとかバラエティ豊かな顔ぶれにしたらいいのに。


質問をしても絞れないことが多い

 たとえば「比較対象カード」がライオンで、質問カードが「強そうなのはどっち?」なんてことが起こる。この質問をして、答えがライオンでも、答えがまるで絞れない。ライオンといい勝負ができるのはトラかゾウぐらいだからだ。ほぼ無意味な質問だ。



「比べることで動物Xを当てる」という大枠はいいのだが、ルールがひどすぎる。開発者はじっさいに子どもと遊んでみたのだろうか。


ってことでルールを改変してみる

 まず質問カードをなくした。質問は自分で考える。
 また、「比較対象カード」も自由に変えられることにした。

 たとえば比較対象の動物をブタにして「大きいのはどっち?」と訊けば、だいたい半分ぐらいに絞られる。

 これでなんとかゲームとして成立するようになった。しかし「タヌキとキツネを見分ける質問をするのがむずかしい」といった問題が残る。

 もう動物カードもいらないかもしれないな。自分で動物を考えて、「それはキツネより大きいですか?」「それとネズミ、食べるならどっち?」といった質問をくりかえすことで当てるのだ。

 質問カードも動物カードもいらない……。となると、そもそもこのゲームを買う必要がないな!



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2022年5月25日水曜日

【読書感想文】氏原 英明『甲子園という病』 / 高校野球は高校生でなくたっていい

甲子園という病

氏原 英明

内容(e-honより)
甲子園はいつもドラマに事欠かないが、背後の「不都合な真実」に光が当たることは少ない。本来高校野球は「部活」であり「教育の一環」である。勝利至上主義の指導者が、絶対服従を要求して「考えない選手」を量産したり、肩や肘を壊してもエースに投げさせたりするシステムは根本的に間違っている。監督・選手に徹底取材。甲子園の魅力と魔力を知り尽くしたジャーナリストによる「甲子園改革」の提言。


 ぼくは高校野球が好きだ。最近こそあまり観なくなったが、以前は毎年春と夏には必ず甲子園に足を運んでいた。通算二十回は甲子園に高校野球を観にいった(連日行っているファンからは鼻で笑われそうなレベルだが)。

 高校野球はおもしろい。甲子園で観ても、テレビで観ても、ラジオで聴いても、熱闘甲子園(野球を楽しむのではなくドラマを作ろうとしてた長島三奈時代を除く)で観てもおもしろい。

 が、そんな高校野球ファンであるぼくから見ても、高校野球は異常だとおもう。あかんところだらけだ。

 野球をするための越県進学、野球がうまい子を集める特待生制度、勉強を犠牲にしての朝早くから夜遅くまでの練習、平日昼間に開催されるので学校をサボって参加しなければならない予選、八月の炎天下にアリジゴクの巣みたいな場所で開催される大会、身体を壊しても無理して投げる投手、それを美談として伝えるマスコミ、すべてが狂気の沙汰だ。海外のメディアや選手から厳しく批判されても、ほとんど変わることはない。

 高校野球がすっかり日本に根付いているのでみんな忘れてしまいがちだが、たかが野球である。野原で球っころを投げて棒っきれでひっぱたく、あの野球だ。そりゃあ野球は楽しいが、だからって健康や勉学を犠牲にしてしなきゃいけないほどのものではない。

 他の部活でも多かれ少なかれ無茶はするが、高校野球と箱根駅伝は特に異常だ。そもそも八月の昼間の甲子園球場も正月の朝の箱根もスポーツをやる環境じゃない。


 学生野球の異常さにみんなが気付いてきたのだろう、野球をする少年は減ってきているそうだ(少子化のペースよりずっと速いペースで減っている)。ええこっちゃ。

 もちろん野球が異常だから避けられるってのもあるけど、それ以上に「みんなが野球をやって野球を観ていた昭和~平成中期が異常だっただけ」だとはおもうけどね。




『甲子園という病』では、長年高校野球の取材をしてきた著者から見た、高校野球を取り巻く異常な環境について書かれている。

 肘を壊しても投げつづけるエース、翌日も授業なのに平日夜遅くまでおこなわれるナイター、食べるものや量まですべて管理されている野球部員、指導者としてのトレーニングを受けていない監督やコーチ、甲子園で活躍したせいでかえって道を踏み誤ってしまった選手……。

 特にひどいのが、選手の身体にダメージを与える過酷なスケジュールやエースの連投だ。

 2013年の甲子園に出場した木更津総合の千葉投手は、肩を痛めた状態で登板。スローボールしか投げることができずにマウンドを降りた。無理がたたり、その後数年間はリハビリに費やすこととなった。

 問題の核心は別のところにある。「身体のケアに関する考え方が変わったいまでも、あの時に戻ったら、またマウンドに立つ」と頑なに言い続ける千葉にある質問をぶつけてみると、それまでとは異なった感情を吐露した。
 もし、自分の兄弟や親戚にあの日の千葉君と同じ立場の人がいて、ケガを我慢して甲子園で投げるといったら、何とアドバイスしますか。
「それを言われると、考えますね。その立場なら止めると思います。自分がプレーヤーとしてならいいんですけど、人が痛みを我慢してプレーしているのを見ると心苦しくなります。自分と同じ苦しみは人に味わってほしくないと思います」
 高校生の成熟しきっていない精神状態では、将来のことなど頭から消えていくというのが現実なのだろう。日々の厳しい練習を乗り越える部活動の仲間がいて、甲子園という存在がある。選手の意見は一つにしかならないというのが実情なのだ。

 千葉投手のことは知らなかったが、ぼくの記憶には2009年の甲子園に出場した菊池雄星投手の姿が強く残っている。大会再注目左腕として出場した菊池投手は、しかし万全ではなかった。腰や背中に痛みを抱え、思うような投球ができなかった。それでも痛みを押して出場。敗退後のインタビューで涙を流しながら「一生野球ができなくなってもいいから、人生最後の試合だと思って投げ切ろうと思った」と語るシーンが強く印象に残った。

 そのインタビューを見たぼくは感動したのではなく、「こんな状態で投げさせたらあかんやろ……」とドン引きしていた(なんと彼は肋骨が折れた状態で投げていたそうだ)。

 幸い菊池投手はその後回復してプロ野球、メジャーリーグで活躍をしたが、あの試合はそんなすばらしい才能を持った選手をつぶしてしかねない危険な試合だった。


 著者は、高校野球で活躍することが必ずしも選手にとっての幸福につながるわけではないと語る。

 カープやメジャー球団で活躍した黒田博樹投手は、高校時代チームの三番手投手だったそうだ。

 田中は感慨深くこう語る。
「高校の時のクロがプロの世界に行くなんてことは全く思っていなかったですね。それを果たせたのは彼の性格でしょう。どれだけ怒られても一生懸命やっていました。反骨心もあったと思います。甲子園に行けなかったので、甲子園組には負けたくないと大学の時は言っていました。ピッチング的なことで言えば高校時代、技に走らなかったのが良かったのかもしれません。彼の持ち味はストレートだったので、『お前は変化球なんか暦かんでええ。ストレートで押せ』とストレートにこだわるようにとは言っていました。でも、それができたのは二枚看板の投手がいたからです。黒田は大きく育てようという気持ちになれました。高校野球の監督には甲子園に出ないといけないという使命感があります。だから、もし、黒田しかチームに投手がいなかったら、指導法も起用法も変わっていたでしょうね。高校時代は開花しませんでしたけど、それが彼にとっては良かったのかもしれません」


 現役最高の日本人選手といってもいい大谷翔平選手も、高校時代は注目はされていたが甲子園ではさほど結果を残していない。二回出場して二度とも初戦敗退。怪我にも泣かされ、三年夏は地方大会で敗れている。

 しかし、このときの大谷は未完成だった。というのも、前年夏の甲子園に出場していた大谷は、その際に骨端線を損傷していた。長く尾を引いたケガで、前年秋の大会にほとんど出られなかったのだ。
 その際、花巻東の佐々木洋監督は、大谷に技術練習を一切させず、身体づくりに専念させた。負荷の掛かる練習ができなかった大谷は早々に練習から切り上げさせ、全体寮とは別の学校が借りている下宿先に住まわせた。ご飯を食べてしっかりと睡眠を取ることで、身体の成長を促そうとしたのだ。
 その成果が実って大谷の身体は大きくなり、後に一六○キロのストレートを投げられるようになったと佐々木は回想しているが、その分投球フォームの安定性は欠いていた。藤浪と対戦したセンバツ時は一球一球、リリースポイントが違っていたほどで、制球は荒れていた。当時、使っていた変化球もカーブが主流だった。なぜなら、スライダーを多投すると投球フォームが崩れるからだ。

 甲子園ではおもうような結果は残せなかったが、今考えると大谷翔平選手にとってはそれが良かったんだろうなとおもう。仮に花巻東高校が甲子園で勝ち進んで連投するようなことになっていたら、今の活躍はあったかどうか。結果論ではあるが。

 ちなみに大谷選手は前述した菊池雄星投手と同じ花巻東高校で、大谷選手が三年後輩だ。菊池投手の「一生野球ができなくなってもいいから、人生最後の試合だと思って投げ切ろうと思った」があったからこそ、監督は大谷に無茶をさせなかったのかもしれない。


 いくぶんマシになってきたとはいえ、高校野球、特に日程がタイトで過酷なコンディションで試合をおこなう甲子園では選手は無茶をさせられる(または自分から無茶をする)ことが多い。

 野球界以外でも無茶をする人はいる。貴乃花が痛みに耐えて優勝決定戦に出場したり、羽生結弦が痛み止めを打ってオリンピックに出場したり。

 そういうのもよくないが、プロのやることであれば最後は本人の好きにしたらいい。それで選手生命を縮めても自己責任だ。手塚治虫に「そんなに漫画ばっかり描いてたらあなた寿命を縮めますよ」と言っても無駄だろうし、命を削ってでも何かに打ちこみたいとおもっている人を止めるのがいいことともおもえない。

 ただ怪我を押して出場した貴乃花や羽生結弦を褒めたたえるべきではないとおもうけどね。ゴッホと同じ「趣味にとりつかれて発狂してしまったかわいそうな人」カテゴリに入れてあげるべきだとおもう。




 プロならまだしも、高校生の部活ごときで将来を投げ捨ててしまっていいものだろうか。

 全員がプロ野球選手を目指しているわけではない、実際にプロになれるのはほんのひとにぎり。プロになったって大半は活躍できずに球界を去っていく。

 それなのに、現在日本の高校の野球部はほぼすべてが「本気で甲子園を目指さないといけない」という呪いにとりつかれている。異常だ。

「勝てなくてもいいから楽しく野球をやろう」という人は居場所がない。漫画『H2』では、せっかく野球愛好会というすばらしい組織があったのに、野球バカである主人公たちによって甲子園を目指す野球部に作り替えられてしまった。あれは泣けた。しかもあいつ野球部乗っ取った上にかわいいマネージャーといちゃいちゃしてるし。なんなの。楽しく野球をやりたかっただけの先輩たちの立場がないじゃん。

 ぼくも、野球愛好会があれば入りたかった口だ。ぼくの通っていた高校にはソフトボール部があったが部員は女子だけで、顧問の先生に「男子は入れないんですか」と訊いたら「男子は野球部で甲子園を目指さんかい!」と言われた。うちの高校が特別だったわけではない。これこそが日本中の高校を覆っている空気だ(軟式野球部もあるけどね)。


 結局、高校野球であることがすべての元凶なんじゃないかとおもう。

 サッカーのクラブユースみたいにプロの養成機関を作ったらいいのに。プロになりたい人は高校じゃなくてそっちに進む。高校生じゃなくてプロの見習いという立場であれば、朝から晩まで野球したっていい。

 むしろ、サッカーのクラブユースは高校と提携したり、サッカー選手になれなかった選手の進学をサポートしたり、就職先を斡旋したりしているそうだ。高校じゃなくてプロチームの下部組織だからこそ、そのあたりも手厚くできるのだろう(そうじゃなかったら保護者がユースに入らせないだろうし)。

 もう甲子園に出るのは高校野球じゃなくてもいいともおもうよ。高校生が参加してもいいけど、クラブユースも参加できる大会にしたらいい。どっちみち今だって甲子園に出てくるようなチームなんか地元出身じゃない選手だらけだし。




 高校野球にいろいろ問題はあるけど、つきつめていけば指導者の問題になる。

『甲子園という病』では勉強や資格取得に力を入れているチームや、楽しんで野球をやらせているチームも紹介されている。でもそれらは結局「いい指導者ががんばったからできたこと」とであって、野球界全体での改善の話はほとんど見られない。

 結局、ほとんどの指導者がアマチュアなんだよね。資格や講習がなくても高校野球の監督にはなれるわけだし。甲子園に何度もチームを率いている名将と呼ばれる監督だって、チームを勝たせることに長けているだけであって選手育成のプロとはかぎらない。しょっちゅう甲子園には出てくるけどぜんぜんプロ野球選手を輩出しない高校とかあるもんね。■■■とか■■■■■とか。

 選手はアマチュアでいいけど指導者はアマチュアではいけない。

 野球界全体として、監督は「いい選手だった人がなる」という風潮がある。現役時代は大した結果を残せなかったがプロ野球の監督として有名になった人って仰木彬氏とボビー・バレンタイン氏ぐらいしかおもいつかない。

 日本の野球界における監督選びは「観客動員」を意識しているところがある。監督は球団の看板でなければならない。そのため、指導力云々よりも知名度や人気が重視される傾向にある。
 プロの世界がそうだと、日本の野球にとっての指導者の在り方そのものが軽薄にうつってしまうのではないか。プロ野球の監督ですら実績を積まない人間でもなれるものという認識がまかり通るのだから、野球における指導者の価値が高まってこないのだ。

 これは半分は同意できるけど「とはいえプロ野球はショービジネスだからな」ともおもう。やっぱりビッグボスみたいに客を呼べる監督は、それはそれで正義だよ(その分コーチやトレーナーはちゃんとした人にするべきだけど)。


 この「現役時代の実績が指導者になるためにものをいう」は野球界にかぎった話ではないけどね。会社員でもそうだし。営業成績が良かった人が管理職についたりするし。営業として優秀だからといって管理職として一流とはかぎらないのに(むしろトップ営業マンほど管理職としてはダメであることが多い)。




 仮に、今新しいスポーツができて、
「そのスポーツをさせるために日本中から選手を集めます。そのスポーツがうまい高校生は勉強なんかしなくていいから朝早くから夜遅くまで練習させます。平日昼間に試合やるので学校サボらせます。八月の炎天下に熱中症の危険にさらしながら競技させます」
ってやったら非難の嵐だろう。

 でも高校野球だったら許される。伝統というわけのわからない理由を盾に。年寄りたちの「おれたちの時代はもっとひどかった」という理屈になっていない理屈を盾に。

 伝統とは「論理的に他者を説得できる材料がすべてなくなった人が最後にすがりつく藁」なんだよな。


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2022年5月24日火曜日

一年に一度の服を捨てたくなる瞬間

 一年に一回ぐらい唐突に「服を捨てたくなる瞬間」が来るので、「よっしゃきたー!」って言いながらどんどん捨てる。


 基本的に服を捨てられない人間だ。基本っていうか応用も発展も捨てられない。ふだん服を捨てるのは「外から見えるところに穴が開いたとき」ぐらいだ。

 Tシャツだと、何回も洗濯してよれよれになって、ぶどうの汁とかがついて汚れが目立つようになってもまだ捨てない。パジャマにまわす。いったんパジャマにすると襟元がびろびろになってもカレーがこぼれても「家の中で着るだけだからまあいっか」となって捨てられない。へたすると二十年ぐらい前に買ったシャツをまだ着ている。

 靴下は穴が開くので、明確に「終わり」がわかる。穴が開いたら捨てる。シンプルだ。
 しかし両方は捨てない。ぼくは黒の無地の靴下しか買わないので(洗濯後にペアの相手を探すのが面倒なので)、片方に穴が開いた靴下が二足あればそれで新たにワンペアできる。したがって片方は置いておく。

 パンツは、うんこを漏らしたら終わり。これもわかりやすい。
 しかしぼくもいいおっさんなのでそうそう漏らさない。数年に一回ぐらいだ。したがってパンツも捨てられない。こないだパンツを履こうとおもったらお尻のところに穴が開いていた。パンツに穴が開くってどれだけ履いたのだろう。十年以上履いたかもしれない。


 身だしなみには気を遣わないけどさすがに外に着ていく服は選ぶ。三ヶ月に一回ぐらいユニクロなどに行ってどかっと買いこむ。
 スーツは毎年買う。仕事ではそこそここぎれいにしないといけないという意識はある。

 買うけど捨てられない。だからどんどん増える。たんすがいっぱいになる。


 そんなわけで、一年に一回の「服を捨てたくなる瞬間」はぼくにとってチャンスタイムだ。
 これは汚い。これは襟がよれよれになっている。これは一年以上着ていない。どんどん理由をつけて捨てていく。ちらっと「もったいない」という意識もよぎるが、ここで立ち止まったらたんすが爆発するので、むずかしいオペに集中しているブラック・ジャックみたいに「なむさん!」と言いながらどんどんごみ袋に放りこむ。

 ひととおりごみ袋に放りこんだらものすごくすっきりする。はあ、やってやったぜ。厄介な癌細胞をとりのぞいた気分だ。


 だが油断は禁物だ。今度は「着なくなった服を捨てにいく」という作業がある。
 これがなかなかおっくうで、すべての仕事を終えた気になっているぼくにとってはなかなかの難事業だ。だがこれはその日のうちにやらなくてはならない。

 なぜなら、このごみ袋を捨てに行かないと、後日洗濯物がたまったときに「着る服ないなー。おっ、これまだ着れるやん」とごみ袋から服をひっぱりだして着てしまうからだ。そういうやつなんだよ、ぼくは。

 これで何度癌が再発したことか。



2022年5月23日月曜日

【読書感想文】井手 英策『幸福の増税論 財政はだれのために』/増税は(理論上は)いいこと

幸福の増税論

財政はだれのために

井手 英策

内容(e-honより)
なぜ日本では、「連帯のしくみ」であるはずの税がこれほどまでに嫌われるのか。すべての人たちの命とくらしが保障される温もりある社会を取り戻すために、あえて「増税」の必要性に切り込み、財政改革、社会改革の構想を大胆に提言する。自己責任社会から、頼りあえる社会へ―著者渾身の未来構想。

 おもしろかった。

「税を増やそう」「消費税は悪くない」といった提言なので、反射的に拒否反応を示す人も多いだろう。

 案の定、Amazonのレビューを見ても「☆一つ。なぜ消費税増税が必要なのでしょうか」みたいなひどいレビューが並んでいる。その理由を本の中に書いているのに。読まずにレビューを書いていることが一目瞭然だ。


 税金をとられることを好きな人はほとんどいない。ぼくだって免除されるんなら免除されたい。ただし免除されてうれしいのは「自分だけ免除」の場合だけだ。「日本国民全員から税金をとるのはやめます!」は困る。学校も警察も消防も医療もインフラもあっという間に立ちいかなくなる。

 勘違いしがちだが、ぼくらはべつに税金が嫌いなわけではないのだ。嫌いな理由は「正しく使われていないのではないか」「払うべきやつが払ってないのではないか」という不公正感があるからであって、税金制度自体に反対する人はまずいないだろう。

 そもそも税金というのはほとんどの人にとっては得なのだ。それぞれの家に水道を引こうとおもったら、いったいいくらかかるか想像もつかない。個人浄水場と個人上水道と個人下水道と個人下水処理場を作れる金持ちはまずいない。それだけでも、生涯に納める税金額を超えるはずだ。そんなサービスが税金と水道料金あわせてもせいぜい月数千円で利用できるのだ。おとく~!


 だから税金を上げるべき、という主張はしごく正しい。正しく徴収して正しく使えば、税金は高ければ高くてもいい。所得税が50%を超えたって、それ以上のサービスを受けられるのであれば得だ。じっさい、日本よりも高い税率の国はいくらでもあるわけだし。

 もちろん「正しく徴収して正しく使えば」の部分がむずかしいわけだが、それはまた別の問題。税金自体が悪いわけではない。




 著者はまず「勤勉に働けば経済が成長する時代は終わった」と説明する。どう考えたって高度経済成長期やバブルのような時代は二度とやってこない。その時代に築いた経済モデルでやっていくのは無理がある。

 日本人が勤勉でなくなったわけではない。必死に働いてもあんまり経済成長しない。他の国もそうだ。アメリカも成長率は落ちている。中国だって近いうちにそうなる。


 ぼくもまったくの同意だ。多くの人が気付いているだろう。永遠の経済成長なんてまやかしだということに。歴史上、ずっと成長を続けた国も企業も存在しない。

「〇〇すれば成長する!」という人は現実を見ていない。「毎日運動を続けていれば身体能力は向上する!」はある時期までは正しいが、一定の年齢を超えると通用しなくなる。永遠の経済成長を信じられる人は百歳超えても若い肉体でいられるために筋トレでもしてなさい。


 経済は成長しない。格差はどんどん拡がる。そんな状態で消費が伸びるはずがない。ますます経済は成長しなくなる。もはや個人の努力ではどうにもならない。だったら分配のしかたを変えるしかない。

 だが「困っている人を税金で救う」ことを嫌う人は多い。

 自分も税金で得している(払っている額より受けているサービスのほうがずっと大きい)くせに、公務員や生活保護受給者を非難する人たちだ。

 だから「困っている人を税金で救う」ことはなかなかうまくいかない。


 そこで筆者が提案するのは「ベーシック・サービス」だ。

 ここでひとつの提案をしよう。現金をわたすのではなく、医療、介護、教育、子育て、障がい者福祉といった「サービス」について、所得制限をはずしていき、できるだけ多くの人たちを受益者にする。同時に、できるだけ幅ひろい人たちが税という痛みを分かちあう財政へと転換する。ようは財政のあるべき姿への回帰をめざすということだ。
 僕たちは、だれもが、生まれた瞬間に保育のサービスを必要とし、そして育児のサービスを必要とするようになる。一生病気をしないという人はいない。歳をとって介護を絶対に受けなくてすむと断言できる人もいない。教育はだれもが必要とする。だれだっていつ障がいをもつようになるかわからない。
 すべての人びとが必要とする/必要としうる可能性があるのであれば、それらのサービスはすべての人に提供されてよいはずである。また、そのサービスは、人びとが安心してくらしていける水準をみたす必要がある。これらを「ベーシック・サービス」と呼んでおこう。
 人間が生きていくプロセスには、自己責任で対応すべき領域と、おたがいに頼りあい、ささえあいながら、解決するしかない領域とが存在する。そのうち、後者を、財政によって確実に保障する。一人ひとりがささえあう領域を拡大し、いかなる不遇にみまわれても、みなが安心して生きていける社会をめざすのである。

「困っている人を救う」のではなく「全員を救う」のだ。これなら抵抗感も減るだろう。

 困っている人を救うための政策が反対されるのは、不公平だからだ。

 低所得者や子育て世帯や高齢者の医療費を税金で出すことには反対の人でも、全国民の医療費をタダにするのであれば少なくとも「不公平だ」という批判はなくなるだろう。

 ベーシック・インカムにも似ているが、「ベーシック・サービス」は金銭ではなくサービスで支給する。これにより必要な人にだけ必要なサービスを提供できる。医療費がタダになったからって健康なのに病院に毎日通う人はほとんどいないだろう。

 ベーシック・インカムであれば、結局難病になったときなどに医療費をどうするかという不安は解消されない。むしろ、「毎月金をもらってるんだからその中でやりくりしろよ」と自己責任論が幅を利かせそうだ。だからベーシック・インカムよりもベーシック・インカムのほうが不安解消にはいいと著者は説く。


 これはすごくいいとおもう。将来が不安なのは、未来がどうなるかわからないからだ。

 病気や怪我で働けなくなるかもしれない。介護が必要になるかもしれない。だから貯蓄が必要になる。

 でも、医療費も介護費用も子どもが大学まで行くお金も全部タダであれば、不安はだいぶ軽減される。貯蓄はずっと少なくて済む。

 今でも生活保護制度はあるが、これはほとんど「最後の手段」だ。条件は厳しいし、申請はたいへんだし、後ろめたさも感じる。ところが「全国民がタダ」であれば後ろめたさを感じる必要もない。

 サービスの自己負担が少ない北欧諸国を見てみると、社会的信頼度が先進国のなかで最高水準にあることがわかる。それは彼らが善良な人間だからではない。受益者の範囲をひろげ、他者を信頼した方が自分のメリットになるメカニズムを生みだしているからである。
 このメリットは低所得層の心のありかたにまでおよぶだろう。いかに自分がまずしく、はたらく能力がないかを告白して、生活保護によって救済されるという社会ではなく、だれもが堂々と生存・生活に必要なベーシック・サービスを受けられる社会になる。低所得層は「社会の目」「他人の目」から自由になり、尊厳をもって生きていくことができるようになる。
 所得の平等化だけではなく、人間の尊厳を平等化するという以上の視点は、きわめて重要である。ベーシック・サービスは「尊厳ある生活保障」を可能にするのだ。
 それだけではない。所得制限をはずしていけば、現在、所得審査に費やされている行政職員の膨大な事務を大幅に削減することができる。だれが嘘つきかをあばく所得審査のために労力を費やすのはおろかなことだ。ムダづかいを探しあて、人間不信をあおりたてることの結果ではなく、人間の生の保障と幸福追求の結果として、自然に行政も効率化していくのである。


 うちには子どもがいるので毎年子ども手当をもらっているのだが、毎年毎年手続きが必要になる。役所から書類が送られてきて、それに記載して返送。役所でチェックをして、後日指定した口座に子ども手当が振り込まれる。それでもらえる額が年一万円だ。

 毎年「ばっかじゃないの」と毒づきながら書類に記載をしている。この書類の作成、郵送、記入、返送、チェック、振り込みに使っている額を時給換算したら数千円になっているだろう。一万円の支給をするために数千円かけて手続きをする。実にばかばかしい。最初から現金書留で一万円送ってきたらいいのに。多少は送付ミスも起こるかもしれないが、それで失われる額よりも手続きにかかる金のほうがずっと多いにちがいない。

 でも、公的支援においては効率よりも公正が求められる。こないだ、誤って数千万円の給付金が振り込まれた人が返還を拒否したために大騒動になった。あれはよくないことだが、逆に考えればあれが大ニュースになったということは「誤って大金が振り込まれて返還に応じない人」というのはめちゃくちゃ稀少な存在だということだ。数十年に一度発生するぐらいの。

 予言するが、きっと今後役所の振り込み手続きは今よりずっとずっと面倒なものになるだろう。誤入金をなくすために。そしてそれにより失われる金額は数千万円どころではないはずだ。

 公正におこなうために誰も得しない煩雑な手続きを課しているのだ。

 ベーシック・サービスが実現すれば、こういう無駄な手続きもずっと少なくなるはずだ。「還付する」よりも「はじめっから徴収しない」ほうがずっと楽なのだから。


 ま、手続きが簡便になるってことは、これまで中抜きをしてうまい汁を吸ってた人や、特定の団体を優遇することで集票に使っていた政治家からしたら困ることだろうけどね。




 ぼくらは「貯蓄はいいことで、税金をとられるのは悪いこと」と考えてしまう。

 だが、貯蓄と税金は表裏一体のものだと著者は説く。

 もう少し議論を深めておこう。貯蓄をすれば、資産が増えることは事実である。ただし、それが将来へのそなえであり、いま使うことのできない資産である以上、税を取られるのと同じように消費は抑えられている。(中略)
 注意してほしいのは、人間は自分が何歳で死ぬのかを知らないということだ。したがって、九〇歳、一○○歳まで生きてもいいように過剰な貯蓄をする。マクロで見ればこの分の消費抑制がおきるうえ、相続人も高齢化がすすむため、相続した貯蓄をそのままためこんでしまう。
 頼りあえる社会では、人びとが将来へのそなえとして銀行にあずけている資金を税というかたちで引きだし、これを医療、介護、教育といったサービスで消費する。たしかに僕たちは取られる。だが、自分が必要なときにはだれかがはらってくれる。
 さらには、手元にのこったお金は、貯蓄ではなく、遠慮なく消費にまわしてよい。「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」が頼りあえる社会のめざす究極の姿である。
 もちろん、税によって短期的には消費が抑制されることは事実である。この点は、次章であらためて検討する。ここでいっておきたいのは、社会保障・税一体改革の反省をもとに、税収を財政健全化ではなく、僕たちのくらしの保障に財源を回せば回すほど、税による消費の抑制効果は小さくなるということだ。税の使いみち次第で経済効果はちがってくる。

 多くの人は「増税すれば消費が鈍る」と考える。しかしこれは正確ではない。消費が鈍るのは「増税しても受ける公的サービスが増えないから」だ。

 たとえば所得税が月に一万円増える代わりに、大学の授業料がすべて無料になったとしたらどうだろう。多くの子育て世帯はむしろ自由に使えるお金が増えるんじゃないだろうか。

 そう考えると増税はぜんぜん悪い話じゃない。




 増税をして公的サービスを充実させようという著者の提案はすばらしい。猫も杓子も(財務省以外)減税せよしか言わないので、こうした意見はたいへん貴重だ。

 著者の言っていることは、理論上は正しいとおもう。


 でも……。やっぱりむずかしいだろうな。

 すべての人が納得する税の使い方なんてないもの。おまけに不正な金の使い方をする政治家や役人は(少数とはいえ)ぜったいに存在するし。

「不正はあるけどそれはそれとして増税しましょう」に多くの国民が納得するかというと……。ま、無理でしょうな。

 せめて政治家だけでもこういう考えを持ってくれると助かるんだけど。


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2022年5月20日金曜日

『ベイクオフ・ジャパン』の感想

ベイクオフ・ジャパン

内容(Amazonプライムより)
イギリスの大人気番組『ブリティッシュ・べイクオフ』の日本版がついに登場!全国から選ばれた10人のアマチュアベイカーたちがお菓子やパン作りなどベイキングの腕を競います。審査員は、一流パティシエの鎧塚俊彦さんと日仏ベーカリーグループオーナー/パン職人の石川芳美さん。ベイカーたちは各話3つのチャレンジに挑戦。審査員によるジャッジの後、各話ごとに1位が選ばれスターベイカーの栄誉を与えられます。しかし同時に敗者も選ばれ、そのベイカーは会場を去ることに。最終話で選ばれる「日本一のスターベイカー」の称号を目指し、ベイカーたちは自慢のレシピでスイーツやパン、審査員に用意された課題を焼き上げます! 番組ホストに坂井真紀さん、工藤阿須加さんを迎え、おいしく楽しい、そしてドキドキする時間が始まります。


 Amazonプライムにて視聴。

 パンやケーキ作りが趣味の10人が、毎回3つの課題に挑戦。審査の結果、最下位だった人は次のステージに進めない。何度ものコンテストをおこない、チャンピオンを決めるという番組。
 NHKでもやっている『ソーイング・ビー』という裁縫コンテスト番組の、ベイカー版。

 もともとは英国の番組でそれを日本に輸入したらしい。英国版は観たことない。


 ぼくはパン作りもお菓子作りもやらない。焼き菓子といてば、大学生のときに二度ほどブラウニーを焼いただけだ。大学祭で売るために。パンはといえば、結婚祝いでGOPAN(お米でパンを焼ける機械)をもらったので何度か挑戦したが、買った方がだんぜん早いしうまいとおもってすぐにやめてしまった。

 そんな、もっぱらパンもお菓子も食べるの専門のぼくですら、この番組(シーズン1)はおもしろかった。


■ テンポがいい

 とにかくテンポがいい。

 1時間の番組で3つの課題に挑戦する。たとえば第1回なんかは10人の参加者がいるから、10人×3種の料理をつくるわけだ。30種の料理を1時間で紹介するわけだから、どんどん紹介される。だからまったく退屈しない。

 決勝になると3人になるが、それでも1時間で9品だ。ぜんぜん間延びしない。このテンポの良さはすごく現代的だ。


■ 金と時間のかけ方が贅沢

 日本国内とはおもえない、だだっぴろい高原に作られた広くて使いやすそうなキッチンスタジオ。そこでの長期に渡る戦い(1年近くかかってるんじゃないの?)をたったの8話で流す贅沢さ。

 それでいて余計なものは一切ない。必要なところにはふんだんに金をかけ、無駄はすべてそぎ落とす。金と時間の使い方がうまいなーと感じる。

 この番組を日本のテレビ局が作ったら、きっと無駄にきらびやかなセットを作り、コメンテーターとしてアイドルや俳優や芸人を並べ、要所要所で音楽や効果音を流し、ものすごく下品なものにしてしまうだろう。

 あくまで主役は参加者であり、作られたパンやお菓子。それを最大限に引き立てるために効果的に金と時間をかけている。


■ 参加者が魅力的

 よくもまあこんなに素敵な10人を集めてきたものだとおもうほど、10人が10人とも上品。年齢も職業もばらばらなのに、みんな品がある。

 こういう対決形式の番組だと特に「こいつは好きじゃないな」みたいな人がいるものだけど、この番組に関しては皆無。みんなそれぞれ好感がもてる。

 それでいて、キャラクターが立っている。

 AikaさんとYuriさんの関係は『ガラスの仮面』の北島マヤと姫川亜弓を見ているようだった。粗削りながらもすごい吸収力で驚異的な成長を見せるAikaさんと、豊富な実績に裏打ちされた高い技術を安定して披露するYuriさん。たぶん年齢も近い。評価も拮抗して、いったいどっちが紅天女の座を射止めるの!? と目が離せない(紅天女は目指しません)。

 随所に人柄の良さがにじみでているKoheiさん。美的センスがアレなところも、本人の人柄を表しているようでかえって好感が持てる。この人、絶対いい人だもんな。Koheiさんに「すまないけどお金貸してくれないか」と言われたら5万までなら貸せる。
 Koheiさんは知れば知るほど好きになる。ぼくが女性なら狙ってる。でもKoheiさんは交際中の彼女にゾッコンなんだよなー!

 あとトークにふしぎな説得力があるSatoruさん。Satoruさんが自信たっぷりに「このお菓子はこうやって作るんですよね」としゃべっているのを聞いていると、「この人の作るお菓子ぜったいおいしいやん!」という気になる。その自信の割にけっこう失敗するところがほほえましい。

 参加者たちの成長が見られるのも楽しい。最初は毒々しい見た目のケーキを作っていたAikaさんが後半では同じ人が作ったとはおもえないほど上品なケーキを仕上げてきたり、うまくいかないとあわてふためいていたYumikoさんが回を重ねるごとにメンタルをコントロールできるようになったり。

 高い評価を受けてびっくりしすぎて無表情になっていたToshiharuさんもチャーミングだったし、Nobuoさんはこの人の淹れるコーヒーめちゃくちゃうまいだろって感じだったし、10人それぞれが非常に魅力的だった。


■ 余計な演出がない

 さっきもちょっと触れたけど、テレビ番組にありがちな余計な演出がないのもいい(一部あるけど、それについては後で触れる)。

 余計な音楽もないし、同じ場面をくりかえしたりもしない。制作陣が参加者たちに敬意を払っていることがうかがえる。

 また、コンテスト形式ではあるが過剰に対決をあおってないのもいい。

 参加者たちに勝ちたい気持ちはあるが、とはいえ彼らにとってお菓子作りはあくまで〝趣味〟なのだ。楽しむこと、自分の技術が上がることが第一で、勝ち上がることが最優先ではない。だから難しい技術にも果敢に挑戦するし、ときにはライバル同士助け合う。他の参加者にアドバイスを求めたり、作業を手伝ったり、道具を貸してあげたり。

 このあたりも、テレビ番組だったら過剰に対決姿勢を求めちゃうんだろうなー。そうやってストーリーをつくった方が作り手としては〝仕事をした気〟になれるんだろうけど、見ている側はべつにそんなもの求めてないからね。素材のまんまでおいしいから。

 なんかついついテレビ批判ばかりしちゃうけど、〝日本のテレビ番組じゃない番組〟を見ると、日本のテレビ番組がいかに凝り固まった思想にとらわれているかがわかるなあ。


■ 司会はダメダメ

 余計な演出がないと書いたけど、唯一余計だったのが司会者のふたり。まあ脚本があるんだろうけど……。

 まず坂井真紀さんが1話目の結果発表時に泣く。えっ、しらじらしすぎて気持ち悪いんですけど……。

 関係性が深くなってからならともかく、たった数時間、料理をしているのを見ただけの人が退場するだけで泣くの……。会話を交わしたのも二言三言でしょ。この人の涙腺どうなってるのよ。これぐらいで泣いてたら常にポカリ飲んでないと脱水症状起こしちゃうよ。

 この泣き真似が毎回あるのか、イヤだなあ、とおもっていたら、一話目で泣いてたくせに二話目以降はぜんぜん泣かない。どないやねん。なんで関係性深くなってからのほうが別れがつらくないんだよ。
 あれかな。
「あの坂井さん、さっき泣くフリしてたじゃないですか。ああいうのほんとうちの番組にいらないんで二度とやらないでください。気の利いたコメントができないもんだから困ったら泣けばいいとおもっていた『探偵!ナイトスクープ』の西田敏行前局長じゃないんで」
と、きつめに注意されたんだろうか。だとしたら注意した人はえらい。

 もっとひどかったのが工藤阿須加さん。まあこれは本人が悪いというより起用した人や演出を考えた人が悪いんだろうけど……。
 いわゆる「スベリキャラ」の感じで出てくるのだが、これが痛々しい。つまらないジョークを飛ばしたり、意味不明なダンスを披露するのだが、肩に力が入っているせいで「一生懸命やっている」ことが伝わってきてちっとも笑えない。もっといえばやらされている感というか。

 ぼくは本家英国版を見たことがないのだけれど、どうやらこれは本家のノリをそのまま持ってきたものらしい。だったら芸人にやらせるとか、他の人選があったんじゃないだろうか。下手な人のスベリ芸ほど見ていてつらいものはない。

 彼が出てくるシーンだけ学芸会の空気になるんだよね。「拙いですけどあたたかい目で見守りましょう」という空気になる。

 まあつまらないだけならまだいいんだけど、参加者が制限時間内に追われながら一生懸命作っている間にやる。そのたびに参加者は手を止めて学芸会を見てあげる(なにしろみんないい人たちだから無視できないのだ)。じゃまでしかない。

 司会のふたりがちょいちょいうんちくなんかを披露するのも、にわか仕込み感が濃厚に出ていて哀れだ。審査員はプロ、参加者はアマチュアとはいえセミプロレベルなんだから、司会のふたりは素人に徹したらいいのに。「素人として、視聴者の代わりに質問をする」役であれば存在価値もあるとおもうのだが。

 他の部分の演出が洗練されているだけに、司会ふたりの稚拙さ、もっといえば〝下手なくせにうわべだけうまい人のまねをしている感〟が鼻についた。


■ 味がわからない

 これはもう番組である以上しょうがないんだけど、作ったものの味がわからないのが残念。見ている側もいっしょに審査したいのに! 「見た目がきれいか」と「おいしそうか」しかわからず、肝心の「おいしいか」がわからない。

 だから審査結果を聞かされてもいまいち腑に落ちない。「見た目もきれいでおいしそうだったけど、食べたらおいしくなかったんです」と言われたら、こっちは「はあそうですか」と引き下がるしかない。

 これはもう味まで伝えられる次々々々々々世代テレビの登場を待つしかないな。

 ちなみにぼくが審査員だったら、抹茶が嫌いなので抹茶のケーキをつくってきた参加者には軒並み低い点をつけます!(そんなやつ審査員にさせるか)


2022年5月19日木曜日

老害の漢字

一 右 雨 円 王 音 下 火 花 貝 学 気 九 休 玉 金 空 月 犬 見 五 口 校 左 三 山 子 四 糸 字 耳 七 車 手 十 出 女 小 上 森 人 水 正 生 青 夕 石 赤 千 川 先 早 草 足 村 大 男 竹 中 虫 町 天 田 土 二 日 入 年 白 八 百 文 木 本 名 目 立 力 林 六


 上に挙げた漢字の共通点がわかるだろうか。


 答えは、「小学一年生で習う漢字」だ。

 こうして見ると、いくつかの共通点が見えてくる。

 まず、当然ながら「画数の少ない漢字」。龍とか躑とか簫とかは出てこない。

 それから「具体物を指す漢字」が多いことに気づく。一年生でも理解できる、身の回りにあるものを指す漢字だ。

 たとえば「干」「丈」「乞」はいずれも三画の漢字だが、一年生では意味をつかみにくい。こうした漢字はまだ習わない。

 また、ほぼ熟語でしか使わない漢字「凡」「寸」「士」なども三画だが、まだ習わない。一年生で習う漢字は、ほとんどがそれ単体で具体物や具体的な行為を指すものばかりだ(上下左右などは抽象的概念ではあるが一年生でも理解できる)。


 二年生になってもこの傾向は大きくは変わらない。


引 羽 雲 園 遠 何 科 夏 家 歌 画 回 会 海 絵 外 角 楽 活 間 丸 岩 顔 汽 記 帰 弓 牛 魚 京 強 教 近 兄 形 計 元 言 原 戸 古 午 後 語 工 公 広 交 光 考 行 高 黄 合 谷 国 黒 今 才 細 作 算 止 市 矢 姉 思 紙 寺 自 時 室 社 弱 首 秋 週 春 書 少 場 色 食 心 新 親 図 数 西 声 星 晴 切 雪 船 線 前 組 走 多 太 体 台 地 池 知 茶 昼 長 鳥 朝 直 通 弟 店 点 電 刀 冬 当 東 答 頭 同 道 読 内 南 肉 馬 売 買 麦 半 番 父 風 分 聞 米 歩 母 方 北 毎 妹 万 明 鳴 毛 門 夜 野 友 用 曜 来 里 理 話


 これが二年生で習う漢字。家族、身体の部位、動物、色、季節、自然現象など、やはり低学年でも理解できる概念が多い。

 よく考えられているなあと感じるとともに、ちょっと時代に合わないのではないかと感じる漢字もいくつか混ざっている。


「村」「麦」「刀」「矢」「弓」あたりは、昔は身近なものだったのだろうが今ではあまりなじみのないものになっている。というか刀や弓矢が身近だったのっていつの時代だ。
 このあたりの漢字を習うのはもう少し後でもいいんじゃないか。


 特によくわからないのが「京」と「汽」だ。

「京」を使う熟語といえば、上京、帰京、在京などで、いずれも低学年はまず使わない。

 固有名詞(東京、京都、北京など)でよく使われるじゃないか、という意見もあるだろう。だが、「奈」「栃」「沖」「賀」「群」「徳」「富」「城」など「都道府県名で使われている漢字シリーズ」は四年生で習う。「阪」「茨」「埼」「潟」「媛」「阜」など地名以外ではまずお目にかかれないような難しい漢字もみんな四年生だ。「京」だけ特別扱いをするのはおかしい。「京」も四年生でいい。


 さらに解せないのが「汽」だ。

「汽車」「汽笛」「汽船」「汽水」……。はっきりいって今の小学生にはまったくなじみのない言葉ばかりだ。というか大人のぼくでも汽車や汽船なんて実物を見たことないぞ。

 きっと汽車があたりまえに走っていた時代に「これは身近なものだから二年生で習うべき」と定められて、ずっとそのままになっているんだろう。


 おい「汽」よ。おまえ、いつまで子どもの身近な存在みたいな顔をして二年生の教科書に居座るつもりだ。はっきりいって子どもはおまえなんかに興味ないんだよ。さっさと引退して後進(通信の「信」とか)にその座を譲りやがれ! この老害が!



2022年5月18日水曜日

【読書感想文】『大当たりズッコケ占い百科』『ズッコケ山岳救助隊』『ズッコケTV本番中』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第八弾。

 今回は20・21・22作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら、20・23・19の感想はこちら、28・23・19作目の感想はこちら


『大当たりズッコケ占い百科』(1989年)

 占いにハマったハチベエが、クラスメイトの市原弘子から〝レイコンさん〟なる占いを紹介される。死者の霊を呼びだすというその占いは驚異の的中率を見せ、すっかり〝レイコンさん〟に魅せられる三人組。
 ところがクラスの女子がなくしたペンダントが他の子の鞄にあることを〝レイコンさん〟が当てたことによりクラスメイトたちの関係が悪化する……。


 なかなかの問題作。オカルト、呪い、不登校、嫉妬など扱われている題材がとにかく陰湿だ。だが、個人的にはかなり好きな作品に入る。こういう〝ふつうの人の嫌な部分〟をちゃんと書いてくれる文学は信用できる。

 特に児童文学だと、悪い人が出てこなかったり、出てきたとしても〝頭の先から足の先までぜんぶが悪い単純な人物〟として描かれることが多い。
 でも現実はそうじゃない。誰しも優しい面もあれば意地悪な面もある。クラスの九割から好かれている人物が、残りの一割からものすごく憎まれていたりする。

 その点、ズッコケシリーズには根っからの悪人も出てくるが、ごくごくふつうの人の醜い姿や意地悪な面も書かれている。『ぼくらはズッコケ探偵団』の学級会のシーン、『花のズッコケ児童会長』で優等生がおこなったいじめ行為、『ズッコケ結婚相談所』の男子の恋心をもてあそぶ女子や、暴かれた母親の嫌な過去、『ズッコケ文化祭事件』での小説家の狭小な態度……。

 特にそれが顕著なのがこの『大当たりズッコケ占い百科』だ。占いを引き合いにクラスメイトをこばかにしたり、持ち物がなくなったときにクラスメイトを犯人だと決めつけたり、ターゲットにわかるように〝呪いのおまじない〟を実行したり、うわさ話を広めたり……。そういった行動をとるのは特定の悪い子ではない。ごくごくふつうの子である。主人公の三人組も加担している。

 学校でのいじめもだいたいそんなものだ。めちゃくちゃ悪いやつ、なんてのはそんなにいない。いじめの加害者がクラスの人気者で被害者のほうが問題行動の多い嫌われ者、なんてケースも多い( 奥田 英朗『沈黙の町で』もそんなリアルないじめを描いていた)。

 クラス内に疑心暗鬼が蔓延してギスギスしている様子なんか、挑戦的ですごくいい。しかも最終的に「悪いやつがやっつけられてめでたしめでたし」にならないのもいい。悪役もいるが、懲らしめられることもないし、悔い改めたりもしない。
 でもそれでいいとおもう。世の中、勧善懲悪ってわけにはいかないし、「クラスみんな仲良くしましょう」なんて欺瞞だ。そんなことを言っても弱い子は助からない。「嫌なやつもいるけどほどほどの距離をとってつきあっていきましょう」こそが教えなきゃいけないことだ。


 ちなみにこの本に、栄光塾という過激な塾が出てくる。毎月のテストで生徒を順位付けし、成績下位者は上位者のために靴をそろえてやらなければならない、というとんでもないやりかたをとっている。これ、人によっては「そんな塾ねーよ」とおもうかもしれないけど、今はどうだか知らないけど三十年前は野蛮な時代だったからこういう塾もあったんだよ。ぼくの友人が通っていた中学受験対策塾でも「まちがえた回数だけ物差しで叩かれる」って言ってたし。

 厳しいシステムをとりいれた結果、一生懸命勉強するよりも他の生徒に嫌がらせをして足を引っ張るようになる、というのが現実的でおもしろい。
 そうなんだよね。狭いコミュニティで競争させたら自分が向上するより他人を蹴落とすほうが楽なんだよね。こういう成果主義の弊害を1989年に書いていた、というのもすごいなあ。まだまだ「これからは欧米を見習って日本企業も成果主義だ!」って言われていた時代だもんなあ(そして国全体での凋落がはじまった時代でもある)。


『ズッコケ山岳救助隊』(1990年)

 子ども会の登山旅行に参加することになった三人。ところが悪天候やハプニングにより、三人組+同学年の有本真奈美だけがはぐれてしまう。霧、豪雨、土砂崩れ。最悪の状況でやっとたどりついた山小屋で出会ったのは、なんと誘拐されて監禁された少女。誘拐犯が戻ってくるかもしれないこの小屋で一夜を過ごすことになった子どもたち……。


 とまあ、これまでに様々な危険な目に遭ってきた三人組だが、その中でもかなりのピンチに陥る。にもかかわらずあまり緊迫感がない。

 山は怖い。が、その怖さはどうも伝わりにくい気がする。海で溺れるとか、高いところから落ちるかもとか、殺人犯に狙われるとか、そういう一刻一秒を争う危機に比べるとどうも「山での遭難」は人間の本能に訴えかけてくるものが小さい。だからこそ人々は山をなめ、遭難するのだろう。


 次から次にいろんなことが起こるので決してつまらないわけではないのだけれど、いまいち印象に残らない作品。ただ出来事が説明されるだけで、登場人物たちの心の動きが伝わってこない。終始三人組と行動をともにする真奈美という新キャラクターも、これといった活躍を見せるわけでもないし。

 唯一内面の苦しみが伝わってきたのが、引率役の有本さん。おもわぬアクシデントや一瞬の甘さのせいで子どもたちを遭難させてしまい、大いに苦しむ。もちろん自分の娘も心配だろうが、それ以上に心配なのはよその子。十分に監督しなければならない立場だったのに、ほんのわずか目を離してしまった隙にはぐれてしまったのだから悔やんでも悔やみきれないにちがいない。さらには子どもたちが遭難して夜になっても見つからないことを保護者に連絡しなければならない状況、その心痛は想像するにあまりある。

 子どもの頃は引率する大人の気持ちなんてまったく考えなかったけど、自分が親になると痛いほどよくわかる。『となりのトトロ』でも、いちばん共感してしまうのはカンタのおばあちゃんだもん。面倒を見るといっていた四歳の子が迷子になる……、こんなおそろしいことはないぜ。もしものことがあったら、と考えると自分が死ぬよりも怖い。


 ぼくが小学校四年生のとき、担任の先生が「初日の出を見るツアーをする!」と言いだして、子どもたち(希望者だけ)を連れて大晦日の夜から山に登った。

 当時は夜中に友だちと出かけられる楽しさしか感じていなかったけど、今考えたら「担任たったひとりで小学生数十人を深夜の山登りに連れていく」ってめちゃくちゃリスキーなことやってたなあ(ご来光目的の登山客が多かったとはいえ)。おお、こわ。



『ズッコケTV本番中』(1990年)

 ひょんなことから放送委員になったモーちゃん。慣れないカメラ操作に悪戦苦闘していると、見かねたハカセやハチベエが練習につきあうことに。折しも町内で放火事件が相次いでいるので、放送委員の後輩である池本浩美もくわえて放火犯を追うドキュメンタリー映画をつくることになった。
 ところがハチベエの不用意な発言のせいで池本浩美が放送委員内で孤立。めずらしくモーちゃんがハチベエに対して怒りをぶつけ……。


 後半こそ放火犯をつきとめることになるが、中盤までは学校の委員活動などの描写が多く地味な作品。

 ……というのが小学生時代のこの作品に対する評価だったのだが。

 今読むとおもしろい。たしかに町内だけで完結するので派手さはないが、モーちゃんやハチベエの胸中の動きが丁寧に描かれていて引きこまれる。

 温厚なモーちゃんがハチベエに対して怒る展開がいい。
 自分のことではまず怒らないモーちゃんが、自分を慕ってくれる後輩の女の子が放送委員内で吊しあげを食らい、原因をつくったハチベエに対して堪忍袋の緒が切れる。これが熱い。

 モーちゃん VS ハチベエの喧嘩にいたるための流れも丁寧だ。モーちゃんが当初は苦手意識を感じていた放送委員の仕事にやりがいを感じるところ、いつもなら「モーちゃんがハチベエを誘おうとしてハカセが渋る」なのに今回はその逆「ハカセがハチベエを誘おうとしてモーちゃんが渋る」になっていること、ハチベエやハカセたち VS 放送委員 という対決構図になって両方に属するモーちゃんが板挟みになることなど、周到に喧嘩の伏線が組まれていく。

 また今作のキーパーソンである池本浩美の存在も重要だ。モーちゃんにはあまり主体性がないが、後輩から頼られることで責任感を持ちはじめるあたり説得力がある。恋をしても終始もじもじしていた『ズッコケ㊙大作戦』のときから比べると飛躍的な成長だ。

 モーちゃんの怒りもいいが、ハチベエの心中描写もリアリティがあって好きだ。
 うっすら見下していた相手から怒りをぶつけられ、とっさに逆ギレしてしまう。さらには相手の痛いところをつく攻撃的な言葉までぶつけてしまう。自分の落ち度にも気づいているので後悔するが素直に謝れず、そのくせ妙に下手に出てしまう。このへんの心の動きは実に現実的だ。ぼくも何度こんな失敗をしたことか。おもわぬ人から急に怒られるととっさに攻撃的になっちゃうんだよね。自分が悪くても。

 また、はっきりとした仲直りが描かれないのも好感が持てる。そうそう、友だちと喧嘩をした後って仲直りなんかしないんだよ。なんとなくうやむやになって、いつのまにか元の関係に戻っている。友だちってそんなもんだよね。謝罪しないと仲直りできない関係なんて友だちじゃないぜ。

 いやあ、よかった。かつては平均点ぐらいの作品だとおもっていたけど、今読むと『花のズッコケ児童会長』の次ぐらいに繊細な心の動きが描かれたいい作品だ。

「放火魔を捕まえる」が後半の見どころではあるが、正直いってこのくだりはなくてもいいぐらい。日常の枠内でも十分おもしろい作品になったとおもう。


 放送委員の連中がかなり痛々しいのもおもしろかった。

 委員以外の子を「素人さん」と呼び、自分たちを「プロ」と呼ぶ。バイトを始めていっぱしの社会人になった気分でイキがる大学生みたいだ。十代って妙に優劣をつけたがるもんね。どうでもいいことを鼻にかけて。

 大人になってみると、放送委員の仕事に慣れてることのなにがえらいんだって感じだけど、子どもにとってはこういうのがすごく誇らしいんだよなあ。


 あと、映像作品というものに対する意識の違いが今とずいぶん違うのも興味深かった。

 テレビカメラで撮影されると町の人たちが喜んでインタビューに答えてくれたり、自分たちが映っている映像を子どもだけじゃなく大人も熱心に眺めたり。

 今となっては忘れがちだけど、この頃って「自分が映像に記録される」ってめちゃくちゃ貴重な体験だったんだよなあ。ほとんどの人にとっては一生のうちに数えるほどしかない出来事だった。ぼくは大学生のときにビデオカメラを買ったけど、17万円した。で、それを向けられた友人たちは例外なくテンションが上がった。それぐらいビデオカメラというのはめずらしい存在だった。

 子どもでもスマホを持っていてあたりまえのように動画撮影をして、撮影どころか全世界に向けてかんたんに配信できる今じゃ考えられないことだけど。


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【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2022年5月17日火曜日

王女様マインド

 こんな話を聞いた。

「幼い子は、周囲の大人が自分の世話を焼いてくれるので、すべての人は自分のために動く存在だとおもっている。だが成長するにつれて世界が自分を中心に回っているわけではないことを学ぶ。その理想と現実の衝突により引き起こされるのがいわゆる〝イヤイヤ期〟だ」

 なるほど。ほんとかどうか知らないが、なかなか説得力のある話だ。


 そりゃあ親が24時間つきっきりで世話してくれて、おなかがすいたと泣けばおっぱいを与えられ、だっこを要求すれば眠るまでだっこしてくれ、うんこを出せばおしりを拭いてくれるんだもの。自分を王族かなにかと勘違いしてしまうのも無理はない。自分を天上天下唯我独尊だと勘違いしているのはお釈迦様だけでなく、すべての赤ちゃんがそうなのだ(ちなみにお釈迦さまはマジ王族だったけど)。

 だからだろう、うちの三歳児もご多分に漏れず自己肯定感が高い。両親からも祖父母からもおじやおばからも保育園の先生からもかわいがられるのだから、森羅万象から愛されて当然だとおもっている。


 そんな彼女にも天敵がいる。五歳上の姉だ。

 驚くべきことに、姉は自分の言うことを聞いてくれない。いや、赤ちゃんのときはかわいがってくれてすべてを許してくれたのに、最近の姉はどんどん生意気になってきて私に歯向かうようになった。私の指示に従わないばかりか、あろうことかこの私に口ごたえをしたり、さらには手を上げてきたりもする。なんたる不敬。

 こんな不届き者はいつか懲らしめてやらねばならぬが、甚だ憎らしいことにこいつは力が強い。武力で対峙するのは得策ではない。


……とまあこんなふうに考えるのだろう、次女は姉に悪口を言われると、

「もう、ねえねとあそんであげへん!」

と高らかに宣言する。

 あっぱれ。王女様の気品。もうあなたには笑いかけてあげないわ。せいぜい後悔しなさい。


 彼女にとっては「あそんであげへん」が最大の罰なのだ。なんと高貴なお方だろう。




 とまあ三歳児のほほえましいエピソードを紹介したわけだが、そんな高貴な精神の持ち主は三歳児にかぎらない。いい歳した大人でもこういう高慢さ 品格を持った人は少なからずいる。

 たとえばTwitterで有名人が波風の立つ発言をする。すると、こんなコメントがつく。

「そんな人とは思いませんでした。あなたの出ている番組はもう見ません」

「失望しました。あなたの書いた本はもう読みません」


 このマインド、まさしく三歳児の「もうあそんであげへん!」のそれだ。

 このわたくしに嫌われたのよ、このわたくしから見向きもされなくなったのよ、さぞつらいでしょうね。泣いて悔しがってももう遅いわよ!


2022年5月16日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『マスカレード・イブ』 / 月夜はおよしよ素直になりすぎる

マスカレード・イブ

東野 圭吾

内容(e-honより)
ホテル・コルテシア大阪で働く山岸尚美は、ある客たちの仮面に気づく。一方、東京で発生した殺人事件の捜査に当たる新田浩介は、一人の男に目をつけた。事件の夜、男は大阪にいたと主張するが、なぜかホテル名を言わない。殺人の疑いをかけられてでも守りたい秘密とは何なのか。お客さまの仮面を守り抜くのが彼女の仕事なら、犯人の仮面を暴くのが彼の職務。二人が出会う前の、それぞれの物語。「マスカレード」シリーズ第2弾。


『マスカレード・ホテル』の前日譚的短篇集。『マスカレード・ホテル』で出会う前の、ホテルマン・山岸と刑事・新田の若き日の物語。


 うん、悪くはない。悪くはないが、『マスカレード・ホテル』の完成度が高すぎたのでやや期待外れ。いやおもしろいんだけどね。短篇だけど、事件発生→推理→解決という単純な構図ではなく、二転三転するし。

 どれも一定以上のクオリティを保った佳作ミステリといっていいとおもう。

 ただ、『マスカレード・ホテル』で「刑事がホテルに潜入するという設定のおもしろさ」や「あまりにさりげない周到な伏線」といった一級品の技術を見せられた後だけに、どうも物足りなさを感じてしまう。

 高級ディナーコースの最後にハーゲンダッツを出されたような気持というか。そりゃもちろんハーゲンダッツはおいしいんだけど今ここで求めているのはそれじゃないんだよ。




 ということで、『マスカレード・ホテル』ファン向けスピンオフという感じだったが、ラストに収録されている書下ろし作品『マスカレード・イブ』はおもしろかった。

 トリックも本格的で、謎解きも丁寧。新田とコンビを組む穂積という女性警察官もいいキャラクターだし、話の流れもちゃんと『マスカレード・ホテル』につながる内容になっている。『マスカレード・ホテル』の前日譚として完璧な作品だった。

 ここで新田が女性警察官である穂積のことを下に見ているところも、『マスカレード・ホテル』の心境の変化へのお膳立てになっているしね。ニクいぜ。




 ところで、『ルーキー登場』にも『マスカレード・イブ』にも悪女が出てくる。男をたぶらかせて悪の道にひきずりこむ魔性の女。

 東野圭吾氏は悪女が好きだよね。『夜明けの街で』『聖女の救済』など、怖い女が出てくる作品は挙げればきりがない。

 個人的によほど苦い記憶でもあるのかね。


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2022年5月13日金曜日

「天才ヘルメット」と「技術手袋」に支配される日

 ドラえもんの映画『のび太の宇宙小戦争』に「天才ヘルメット」と「技術手袋」という道具が出てくる。
 ヘルメットがラジコンの改造内容を考えてくれて、手袋が勝手に手を動かしてくれる、というものだ。


 この道具の説明を聞いたとき、ぼくは「人間いらんやん」とおもった。

 思考も動作も道具がやってくれるのなら人間が装着する必要などない。


……だがじっくり考えるうちに、ふと人間が装着する理由に思い至った。

 そうか、あの道具は人間を動力源としているのだ。だから人間が装着しないといけないのだ。人間のエネルギーを借用することで「天才ヘルメット」は考え、「技術手袋」は動くことができるのだ。

 つまり、あのヘルメットと手袋をつけている間、人間はエネルギーを供給するだけの「電池」に過ぎないのだ。


『のび太の宇宙小戦争』には、スネ夫が「天才ヘルメット」と「技術手袋」をつけて夜遅くまでがんばって戦闘機を改造するシーンが出てくる。

 映画を観ているときは「思考も実行も道具がやってくれるのに、何をがんばってる感じ出しとんねん」とおもっていたが、その考えは浅はかだった。じっさいスネ夫はがんばっていたのだ。なにしろ道具にエネルギーを吸い取られるのだ。きっとひどく疲れるだろう。


 コンピュータが日常のものになり、AIの精度もどんどん上がっている。「このままだとAIに仕事をとられて、人間の仕事はなくなるぞ!」なんて言う人もいる。

 その予想は見事に当たっている。22世紀では、人間は頭脳労働も肉体労働もとられ、人間は電池としての仕事しかさせてもらえないのだ。

「天才ヘルメット」と「技術手袋」は、人間が電池になる未来を示唆している道具なのだ。




……という話を友人にしたところ、「映画『マトリックス』がそんな話だよ」と言われた。

 ぼくは観たことがなかったので「グラサン男がエビ反りをするだけの映画」の認識だったのだが、「仮想現実の中で生きながらコンピュータの動力源として培養されるだけの存在である人間を解放するために、キアヌ・リーヴスが戦う物語」なんだそうだ。

 がんばれキアヌ・リーヴス! コンピュータに支配されたスネ夫少年を助け出すために!


2022年5月12日木曜日

死に向かう生き物


 公園で三歳の次女と遊んでいたら、次女の保育園の友だち・Tくんに会った。

 次女が補助輪つきの自転車に乗っていたので、「後ろ乗る?」と誘ってTくんを荷台に乗せてやる。転ぶといけないので、ぼくが自転車を持ったままついていく。
 なにしろぼくは三十数年前、姉の運転する自転車に二人乗りして転んで左腕の骨を折ったことがあるのだ。自転車二人乗りのおそろしさはよく知っている。

 Tくんを後ろに乗せて次女が運転したり(といってもぼくがずっと支えているのだけれど)、交代してTくんが前に座って次女を後ろに乗せたり。
 二十分ほど遊んだろうか。次女は「かくれんぼしよう」と言って自転車から降りた。ところがTくんはまだまだ自転車に乗りたかったらしい。勝手に次女の自転車にまたがる。


 やめてほしい。
 べつに自転車を貸すことはいいのだが、こけてケガでもされたら困る。なにしろTくんはペダルも満足にこげないし、ハンドル操作もあぶなっかしい。バランスをくずしたときに立て直す力もない(ぼくが支えてやらねば転んでいた、ということが何度かあった)。

「あっちであそぼっか」「かくれんぼしよ」と誘っても、Tくんはかたくなに自転車に乗ろうとする。すべり台に連れていっても、ちょっと目を離すとすぐに自転車に手をかけてまたがろうとしている。おまけに「あっちにいく!」と、下り坂を指さす。

 おいおいおい。ハンドル操作もできず、もちろんブレーキもかけられない三歳児が自転車で下り坂につっこんだらどうなるか。火を見るより明らかだ。なのに彼は果敢にチャレンジしようとする。どこからくるんだ、その自信は。




 男女平等だなんだといっても、生まれもった性差というのは確実にある。「死に向かう子」は圧倒的に男の子のほうが多い。

 高いところには登ってみる、登った後は飛び降りてみる、よくわからないものは触ってみる、よくわからない場所には入ってみる。もちろん個体差もあるが、総じて男子の生態だ。

 ぼくもそうだった。大きなけがはあまりしなかったが、崖やため池や川や立ち入り禁止の屋上など、一歩間違えれば命を落としかねない場所でよく遊んでいたから、今生きているのは単に運が良かったからだ。


 その点、うちの娘はふたりとも慎重すぎるぐらい慎重だ。目を離しても親から離れない。ずっとついてくる。二十センチぐらいの段差でも飛び降りない。「て!」と言って手をつなぐことを要求する。こっちが「ジャンプしてみ」と言っても首を横に振る。危険なことには一切手を出さない。

 そんな慎重女子に慣れているので、たまに男の子と遊ぶとその大胆さがおそろしくなる。ちょっと目を離すと高いところに上ってたりするんだもの。

 こないだも、坂道の上にスケボーを置いてその上に腹ばいになっている男子小学生を見つけて、ぜんぜん知らない子だったけどおもわず「やめときや」と注意した。スケボーに乗って頭から坂道を降りていったら99%ケガする。残りの1%は死だ。
 でも男子はわからないんだよなあ。ぼくも似たようなことやってたからよくわかる。


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2022年5月11日水曜日

【読書感想文】小林 賢太郎『短篇集 こばなしけんたろう』/活字は笑いをとるのに向いていない

短篇集 こばなしけんたろう

小林 賢太郎

内容(e-honより)
「小説幻冬」二〇一六年十一月号~二〇一八年十月号に連載されたものを再構成。「くらしの七福神」「第二成人式」「覚えてはいけない国語」「素晴らしき新世界」「なぞの生物カジャラの飼いかた」「新生物カジャラの歴史と生態」「落花8分19秒」「砂場の少年について」ほか。23篇。

 元ラーメンズ(で、いいんだよね? 芸能活動を引退したから)の小林賢太郎氏の短篇集。

 ぼくはラーメンズのファンで、DVDはすべて持っているし、舞台『TEXT』『TOWER』やKKPの『Sweet7』も生で観た。

 片桐仁氏も好きだが(『シャキーン!』が終わったのがつくづく残念)、多くのラーメンズファンと同じく、より好きなのはラーメンズのブレーン・小林賢太郎氏のほうだ。彼の作る舞台作品はほんとうに見事だ。


 そんな小林賢太郎氏による初短篇集(戯曲集は四冊出している)。

 まず褒めておくと装丁が美しかった。たいへん凝っている。電子書籍で販売していないのも納得の装丁だ。

 で、肝心の中身だが……。


 うーん、まあところどころおもしろいところはあるが、ぼくがラーメンズのファンだからってのを差し引いてもおもしろいかと言われると……。

「これを舞台でやったらおもしろいだろうな」とか「これを小林賢太郎さんの語り口で聞かされたら感心するかもしれないな」とか考えてしまう。


 まず、文章がうまくないんだよね。ちゃんと意味はとれる。でもそこに作者の個性みたいなものがぜんぜん感じられない。体温を感じない文章。

 ああ、わかった。これはト書きなんだ。台本の。だから「誰が」「何を」「どうした」は書かれていても「どうやって」「心情はどうだった」といった描写が少ない。芝居の場合、それは演技で補うものだから。

 ここに収められている作品、形式は小説だけど実態はほとんど戯曲だ。




「笑い」について。

 表現手段はいろいろあるが、笑いをとるのにふさわしいものとそうでないものがある。

 前者の例はマンガや演劇で、後者の例は活字だ。ぼくが活字を読み、声を出して笑ったことはほとんどない。穂村弘氏や岸本佐知子氏のエッセイはめちゃくちゃおもしろいとおもうけど、それでもせいぜいニヤリとする程度。表情も声のトーンも〝間〟も伝えられない活字で笑いをとるのは至難の業だ。


『短篇集 こばなしけんたろう』には、明らかに笑いをとりにいっているものがある。

 これがつまらない。おもしろくないどころではない。読んでいてつらくなる。

 特にひどかったのが『カジャルラ王国』。ウケを狙いにいっているのが見え見えで、にもかかわらずギャグがことごとく笑えない。ぼくも小学生のときにこういうのを書いていた。つまり小学校の学級新聞レベルのギャグ。それがくりかえされる。

 読んでいて「もうやめてくれ」と言いたくなった。

 たぶん舞台で観ていたらもうちょっと楽しめたんだろうけど。




 比較的よかったものは、ほぼ落語の『ひみつぼ』。やっぱりこの人は小説よりも戯曲が向いているんだな。


『短いこばなし』は、ネタ帳のボツ作品を放出したという感じ。

海外旅行先でのコンセントの形に関する、抜き差しならない問題。

 ああ、そういうことね、ニヤリ。これだけで放出してしまうのがもったいない。ラーメンズが活動を続けていたら、こういうのも肉付けされて一本の作品になっていたのかもしれないな。




 いちばん好きだったのは『ぬけぬけと噓かるた』。

 もっともらしい嘘うんちくを五十個並べたものだ。

  キリンは眠らない。

 キリンは、体を倒してしまうと起き上がれないため、横になって寝ることはない。そのかわりに、頭部を高く上げることで血液の循環を遅らせ、起きたまま脳を休ませることができる。ちなみに「不必要なもの」という意味の「キリンの枕」という慣用句を最初に使ったのは、ニ葉亭四迷。嘘。
  ホワィトハウスは窓からの景色を統一するために、庭の木が一種類。

 テレビに映ることがある大統領執務室。テロ対策として建物内のどこにあるのかを、窓の景色から推察させないために、庭の木を統一してある。ちなみに、このアイデアを出したのはロナルド・レーガン大統領である。品種はアメリカブナ。嘘。

 こんなの。ありそうだなあ。「嘘」と言われなかったら信じてしまうとおもう。

 特にホワイトハウスの庭の木なんかめちゃくちゃありそう。やってないんだったら、やったほうがいいんじゃないの?




 小林賢太郎氏のファンならおもしろいところが見つけられる本なんじゃネイノー。

 なんとも煮え切らない感想になってしまったな。


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2022年5月10日火曜日

【読書感想文】上野 千鶴子『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』 / 差別主義者による差別撤廃論

女の子はどう生きるか

教えて、上野先生!

上野 千鶴子

内容(e-honより)
「生徒会長はなぜ男子が多いの?」「女の子が黒いランドセルってダメ?」「理系に進みたいのに親がダメっていう」等々。女の子たちが日常的に抱くモヤモヤや疑問に、上野先生が全力で答えます!社会に潜む差別な刷りこまれた価値観を洗い出し、一人一人が自分らしい選択をする力、知恵や感性を磨くアドバイスが満載の1冊。

 男として生きてきたのでほとんど気にしてこなかったけれど、自分が女の子の父親になってはじめて「女の生きづらさ」を意識するようになった。男はたいへんだけど、トータルで考えると今の日本では女のほうがたいへんなことのほうが多いとおもう。

 以前、NHKのテレビ番組で「男になったり女になったり自由に変えられるとしたらどうする?」という質問をいろんな出演者に訊いていた。おもしろいことにその結果はだいたい同じで、十代後半~二十代前半ぐらいまでは女性のほうがよくて、三十歳ぐらいからは男性のほうがいいと答えた人がほとんどだった(男も女も)。

 そう、二十歳ぐらいは女のほうがちやほやしてもらえる。もちろん危険な目に遭うこともあるが、恩恵のほうが大きそうだ。逆に二十歳ぐらいの男なんて、金もないし、権力もないし、性欲をもてあましてたいへんだ。力もなければかわいがってももらえない。

 ところが中年になるとそれが逆転する。歳をとってからもちやほやしてもらえる女性は少ないし、権力を手にする女性も少ない。仕事も男性以上に選べなくなる。家事の負担も女性のほうが大きいことがほとんどだ。

 そして、人生においては中年以降の期間のほうが圧倒的に長い。



 

 この本は、十代ぐらいの女性からの質問に答えるという形で、女性の生きづらさ、男女差別の歴史、差別にあったときの戦い方、身を守るためのふるまいなどが紹介されている。

 特に3章の『リア充になるのってけっこうたいへん?!』は性のことについて書かれ、そう遠くない将来娘に性教育をしなければならないと考えているぼくにとってはたいへん参考になった。

 彼氏にキスをせがまれ、断ったのにむりやりキスをされたという人への回答。

 あなたの彼氏は古い女性観を持っているかもしれませんね。ほんとはあなただってやりたかったのに、恥ずかしがりだから自分では言えない、だから少々強引でもボクがひっぱらなきゃ、と。そういう男性には、ちゃんと教えてあげてください。
 大きなお世話、わたしにはわたしの意思がある、イエスはイエス、ノーはノー。心配しなくても、自分で決められる。突然のおしつけは、恐怖しか与えないから、逆効果にしかならない。キスをしたいとき、セックスをしたいとき、自分にその準備があるかどうかは、そのときになってみないとわからない。そういう時には必ずわたしに訊いてくれない?「キスして、いい?」って。そうしたらニッコリ笑って「いいわよ」って言うから。……そうしたらふたりとも幸せになれるでしょう?
 でも、忘れないでください。キスしてもいい、って答えたからって、ハダカになっていいと答えたことにならないし、セックスしてもいい、と答えたことにはならない。セックスしてもいい、と答えたからと言って、避妊しなくていいとは言ってない。ひとつひとつ、わたしの意思を確かめてね、と。

 これは女の子よりも男の子に対して教えなきゃいけないことだ。 と、かつて同じように「嫌がっているのは恥ずかしがっているだけ」だと考えていたぼくとしてはおもう。

 これねえ。ほんとに勘違いしてるんだよ、多くの男は。バカだから。

 そして、こう教わったからってはいそうですか我慢します、というわけにはいかないのが若い男なんだよね。いやほんと若い男の性欲なめちゃいけませんよ。ごちそうを目の前に置かれた犬と同じくらいの自制心しか効かなくなるからね。だってこういっちゃあ悪いけど、男子が女子とつきあう理由の95%が「ヤりたい」だからね。

「交際はするけどセックスはなし」ってのは、二十歳前後の男からしたら「寝不足のときに布団の上に横たわって目を閉じてもいいけど寝ちゃだめよ」って言われてるようなもんよ。


 だから上野さんが書いているのはきわめて正しいんだけど、現実に男と交際しているときにそれを貫き通せるかというと、なかなかむずかしいんじゃないだろうか(貫けないから悩んでるわけで)。

「セックスまでする気がないならキスもハグもするな。ふたりきりになるな」のほうが現実的なアドバイスなんじゃないかとおもう。


 覚えておいてください、愛されるって、大事にされるってこと。大事にされるって、あなたの意思を尊重されるってこと。大事にされるってキモチよいものです。もし彼氏との関係がキモチよくなかったら、警戒信号。この彼氏、はっきり言ってウザいです。自分の心とカラダにきいてみて、キモチよくない関係は一刻も早くやめましょう。

 正論なんだけど。わかってることなんだけど。「やめましょう」と言われてもやめられないからこその悩みなんだとおもうけどなあ。



 

 この本、いいことも書いているのだが、著者自身が強烈な差別主義者なせいですべてを台無しにしている。

 たとえばこんな言説。

 東大男子は東大女子が苦手です。なぜって、自分と同じぐらいかそれ以上優秀かもしれないから。なぜ男子は女子が優秀だと困るんでしょう?これも答えはかんたんです。「オレサマ」になれないからです。その点、他大女子は、「東大生、すごいわねえ」と目にハートを浮かべて「オレサマ」を見あげてくれるでしょう。
 こういう男性を、オッサン、と呼びます。そのとおり、東大男子は若いうちからオッサンなんです(ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません。自己チューでオレサマ度が高く、オンナコドモや立場の弱いひとを差別する、想像力がなくて鈍感力の高いひとを言います。年齢も性別も問いません。女のひとのなかにも、たまにいます)。おばあちゃんはまわりにオッサンばかり見てきたから、お姉ちゃんに「オッサン受け」するには東大へ行くと不利だよ、とアドバイスするのでしょう。

 偏見と差別意識だらけのひっどい文章。この文章と「女は物事を単純にしか考えられないから責任ある役職にはつけられない」という発言と、どう違うんだろう?

 東大男子を十把一絡げにして「こういうもの!」と決めつける姿勢もひどいが、もっと俗悪なのが後半の文章。


 とってつけたように「ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません」と書いているが、だったらなぜ一般的に中高年男性を差す言葉である〝オッサン〟をわざわざ使うのか。まったく新しい言葉を生みだせばいいじゃない。

 逆に「身勝手でヒステリックで他人に迷惑をかけまくる人間のことをオバサンと呼びます(ここでいうオバサンとは、中高年のオバサンのことではありませんよ)」と書かれても平気なのか? 「中高年のオバサンのことではありません」って書いてあるから女性差別じゃないよねー、とおもえるのか?


 じっさい、例示されているような男はいっぱいいるよ。だからって「東大男子は東大女子が苦手です」と書くのは、理系教科が苦手な女子が多いから「女子は理系教科が苦手です」と書くのとおんなじだ。

 男がどんなときに自己効力感(オレサマ意識)を持つか、を測定する心理学のテストがあります。それによると「稼得力(稼ぎの大きさ)」という因子がもっとも高い効果があるといいます。つまりオレサマ意識を支えているのが、「オレはこれだけ稼いでいるぞ」ということなんだそうです。なあんだ、ことあるごとに「誰の稼ぎで食わせてもらっていると思ってるんだ」とオッサンが言う理由がよくわかりますね。

 ステレオタイプで物を見て全体を語る人の話は聞く必要がない。男の傾向がAだからといって、ある男もAだと決めつけてはいけない。もちろん女にもあてはまる。


 とまあ、こんな感じで随所に差別意識丸出し言説が垂れ流されている。

 これでよくぬけぬけと〝差別や不公正は許さないから〟なんて書けたものだ。

 いや、べつにいいんだよ。どれだけ身勝手で差別的な発言をしたって。それは自由だ。ぼくも、女性差別意識全開の井上ひさし『日本亭主図鑑』を楽しく読んだし。

 でも、一方であからさまな差別をしといて、同じ口で「差別や不公正は許さないから」とか言ってるんだぜ。「私は差別と黒人が嫌いだ」のブラックジョークを地で行く人だ。




 女性専用車両は逆差別か? という問いに対する回答。

 そもそも、なぜ「女性専用車両」ができたか、考えてみてください。原因をつくったのは、男です。男がラッシュアワーの電車の中で痴漢をするから、女性の自衛のために、女性専用車両が必要になったんです。「逆差別だ~」って騒ぐんなら、「ボクらは決して痴漢なんかしませんから」って、男性全員に保証してほしいですね。「ほかの男は知らないけど、ボクは決してしないよ」って言うんなら、「逆差別」を受けてとばっちりを喰らっているのは、「ボク」と同性の他のけしからん男性たちのせいですから、怒りは女性にではなく、痴漢男性に向けてください。「キミたちみたいな不埒な男がいるから、ボクらが迷惑をこうむるんだ」って。そして満員電車のなかで、痴漢を見つけたら、あるいは女性が声を上げたら、ぜったいに無視しないで、「キミ、やめたまえ」って介入してください。男の敵は男、ですよ。痴漢男性を野放しにするから、男性全体の評判が落ちるんです。

 これがまかりとおるなら、下の文章もオッケーと言うことになる。

 そもそも、なぜ「外国人お断りのマンション」ができたか、考えてみてください。原因をつくったのは、外国人です。外国人が日本のマンションで犯罪をするから、日本人の自衛のために、外国人お断りのマンションが必要になったんです。「差別だ~」って騒ぐんなら、「ボクらは決して犯罪なんかしませんから」って、外国人全員に保証してほしいですね。「ほかの外国人は知らないけど、ボクは決してしないよ」って言うんなら、「逆差別」を受けてとばっちりを喰らっているのは、「ボク」と同じ国の他のけしからん外国人たちのせいですから、怒りは日本人にではなく、犯罪をした外国人に向けてください。「キミたちみたいな不埒な外国人がいるから、ボクらが迷惑をこうむるんだ」って。そして日本のなかで、外国人の犯罪を見つけたら、あるいは日本人が声を上げたら、ぜったいに無視しないで、「キミ、やめたまえ」って介入してください。外国人の敵は外国人、ですよ。外国人犯罪を野放しにするから、外国人全体の評判が落ちるんです。


「ある集団の一部が加害的だからといって集団全体を差別してもよい」ということになれば、部落差別だって人種差別だってすべて許されることになる。差別は被害者意識から生まれる、ということがよくわかる身勝手な論理だ。

「ウイグル人がテロ行為をしたからウイグル人全員を洗脳教育しなくちゃいけない」という中国共産党の論理とまったく同じだ。


 ことわっておくが、ぼくは女性専用車両はアリだとおもっている。でも差別だともおもっている。「女性専用車両は男性差別だが、痴漢被害を防ぐという公益のほうが大きいからしかたなく採用している差別」だ。当然、もっといい方法があるのなら、すぐさま撤廃しなければならない。

 だから女性専用車両には、法的な強制力はない。あくまで「鉄道会社から乗客に対して協力にお願いしてもらっている」だけだ。憲法に違反するから法制度化できないのだろう。

「しかたなく採用している差別」であることに無自覚であるのは、たいへんおそろしいことだ。


 この本を読むかぎり、上野千鶴子さんは加害者になることに対して無自覚すぎる。差別されることには敏感だが、差別する側になることについてはまったく無頓着だ。

 だからオッサンに対してはどれだけひどい言葉をぶつけてもいいとおもっているし、ある集団の一部が犯罪者であれは集団まるごとが迫害されるのも当然だとおもっている。典型的な差別主義者だ。

 結局この人は自分が女だから女の地位向上のために闘っているだけで、もし男として生まれていたなら「女はだまってろ」側の人間になっていただろう。差別をなくしたいわけではなく、自分が差別される側でありたくないだけなのだ。

 まあだいたいの人間がそうなので(ぼくもそうだ)、しかたないことではあるけれど。


 こういう人が先陣を切っているのだから、フェミニズム活動が反発を食らう理由がよくわかる(また反発をされても「自分たちが正しいからこそ反発された」とおもってそうなのがタチが悪い)。

 子どもの喧嘩じゃないんだから、自分が言われてイヤだったことを言い返したって事態は好転しませんよ。


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2022年5月9日月曜日

【読書感想文】藤岡 換太郎『山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門』/標高でランク付けするのはずるい

山はどうしてできるのか

ダイナミックな地球科学入門

藤岡 換太郎

内容(e-honより)
あたりまえのように「そこにある」山は、いつ、どのようにしてできたのか―。あなたはこの問いに正しく答えられますか?実は「山ができる理由」は古来から、地質学者たちの大きな論争のテーマでした。山の成因には、地球科学のエッセンスがぎっしりと詰まっているのです。本書を読めば、なにげなく踏んでいる大地の見え方が変わってくることでしょう。

 同じ著者の『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』がめっぽうおもしろかったので読んでみたのだが、これは難解だったなあ……。『海はどうしてできたのか』はテンポよく読めたのに、『山はどうしてできるのか』はまるで教科書を読んでいるようだった。同じ人が書いているとはおもえないぐらいにちがう。ぼくが地学苦手だったから、ってのもあるけど。

 特に中盤は、「山はどうしてできるのか」ではなく「山はどうしてできるのか、と昔は考えられていたのか」の話が延々と続く。これがつまらない。地学を体系立てて学びたい人にはいいかもしれないが、「ざっとわかればいいや」ぐらいの人間にとっては「今では否定されている昔の誤った学説」なんかどうでもいいんだよー。




 世界で一番高い山は?

 そう、エベレスト(チョモランマ)だ。標高8,849m。標高というのは、海から見た高さだ。

 ただし、他の測り方をすれば世界一はエベレストではない。

 海で一番高い山は、海面から上にまで達している島です。島はひょっこりひょうたん島のように浮いているのではなくて海底から隆起しているからです。なかでも火山島は、多くが水深5000mの深海から聳え立っていますので、海面すれすれに顔を出しているような小さな島でも、山として見ればその高さは5000mになるわけです。ハワイ島のマウナケアは標高4205mですが周辺の海底が約5000mなので約9000mの高さになることは準備運動の章で述べました。これが地球上では一番高い山になります。太平洋には少なくとも4000の海山があることが20世紀までに確認されています。その後の測量によってもっと増えているでしょうから、現在では1万近い海山があると考えられます。
 ニュートンらが観測によって明らかにした地球の形は、実は球体ではなく、回転楕円体という形をしています。赤道半径(東西の半径)と極半径(南北の半径)を比べると、赤道半径のほうが20㎞ほど長いのです。つまり、地球はほんの少しだけ横長の楕円体をしているわけです。
 したがって、地球の中心からの距離で山の高さを決めると、赤道に近い山ほど高くなります。この方法による世界最高峰は赤道直下、南米のエクアドルにあるチンボラソ山になります。標高は6310mですが、北緯28度のエベレストよりも地球の中心からの距離が2㎞以上も上回るため、世界一の高さになるのです。エベレストは31番目に成り下がり、世界で474番目とされている富士山は44番目に浮上します。

 ふもとからの高さを測るなら、周辺の海底から9,000mも突き出ているマウナケアが世界一、地球の中心からの直線距離ではチンボラソ山が世界一位になる。

 ぼくがマウナケアやチンボラソの関係者なら「エベレストはずるい!」と言い張っているところだ。


 前々から山を「標高(海抜)」でランク付けするのはずるいとおもってたんだよなあ。富士山は標高3,776mだけど、富士山に登る人はみんな海から登りはじめるわけじゃない。登山口から登りはじめる。富士山の登山口はいくつかあるけど、そこがすでに標高2,000~3,000mぐらいだ。そこから登って「3,776mの山を制覇したぞ!」ってのはインチキだ。それが許されるのならマラソンのゴール手前からスタートしてゴールテープを切ってもいいことになる。

 ぼくは神戸にある六甲山に登ったことがある。標高931mだ。だが六甲山は海のすぐそばだ。ぼくが登りはじめた阪急芦屋川駅は海と高さがあまり変わらない場所。つまり900mぐらいの高さを登ったことになる。一方、標高1,100mの登山口から標高2,000mの山に登っても、登った高さは同じだ。なのに後者のほうがすごいとおもわれる。登山業界では「〇m級の山を制覇した!」という言い方がまかりとおっている。

 そりゃあ高度が高ければ空気が薄くなったり寒くなったりもするだろうけど、それにしたって、自分の足で登ったわけでもない高さを勘定に入れるのはずるい。




 石の名前とかプレートの名前とかむずかしいことはよくわからなかったけど、山がどのようにできるか(というか地球上でプレートがどのように動くか)についてはなんとなく理解できた。

 我々はつい世界の地形が普遍的なものだと考えてしまうけれど、地球の一生から考えると今の大陸や山の形はほんのひとときのもので、大陸の形も山の形も刻々(長いスパンで見たときの刻々)と変わるのだ。

 ヒマラヤ山脈だってかつては海だったそうだ。

 いま地球上にある大陸は、超大陸が分裂と集合を繰り返し、地球の表面を何周も巡って現在の位置にモザイクの1つのピースとしてはめ込まれた寄木細工です。日本列島も、より規模が小さな寄木細工です。
 それは地球スケールで考えても、実は同じことがいえます。「はやぶさ」が訪ねた「イトカワ」という小さな星がありますが、イトカワのような星が寄せ集まって約46億年前にできたのが地球なのです。日本の国歌である「君が代」には「さざれ石」という言葉が出てきます。さざれ石とは礫岩、つまり岩や石のかけらが寄せ集まった岩のことです。日本列島は大きく見れば一つの礫岩なので、この歌は日本のことをよく表現しているといえます。そしてその考え方は大陸、ひいては地球のスケールにまで広げても同じなのではないかと思われます。大陸も、地球も、より大きな規模で見れば分裂と集合を繰り返す寄せ集めの「さざれ石」にすぎないのです。

 日本列島はひとつのさざれ石、地球全体もひとつのさざれ石。いくつかの小石が集まって大きな石を作っているだけ。

 なんともスケールの大きな話だ。

 想像すらおいつかないぐらいの大きなスケールの話を読むのは、凝り固まった頭をほぐしてくれるようでなかなか気持ちがいい。


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【読書感想文】藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』



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2022年5月6日金曜日

たったひとりの例外もなく

 

「親が本好きなら子どもも本好きになるというのはウソ。ソースは私。うちは両親とも本好きで家に大量の本があったが、私はまったく読まないまま成長した」

という内容のツイートを見た。そしてそれがそこそこ広まっていた。


「親が本好きなら子どもも本好きになる。ひとりの例外もない」なら、たしかにウソだろう。

 だが、「親が本好きなら子どもも本好きになる傾向がある」なら数件の反例をもって否定することはできない。



 世の中には「AすればBになる!」といった記事やテレビ番組があふれている。

 その意味はたいてい「AすればBになることが多い」である。

 特に医療や教育に関しては「Aすれば100%Bになる」なんてほぼありえない。ありえるとしたら「青酸カリを大量に摂取すると100%人は死ぬ」とか「毎日20時間ゲームをしている子は100%東大に合格できない」とかの極端な話だけだ。

 でも「AすればBになる可能性が少し上がる」だと見出しにキャッチーさがないから、あえて言い切る。ほとんどの人は「こういう説もあるのね」と適当に聞き流す。


 ところが、冒頭のツイートをした人は「AすればBになる!」を文字通りの意味で受け取ってしまったようだ。

 だから「親が読書好きなら子どもも読書好きになる」という記事だか番組だかを見て、「私はそうじゃなかった。例外がひとつでもあるからAならばBとは言えない!」と考えてしまった。

 この考えは、論理学的には正しい。「AならばB」は、たったひとつの反例「AなのにBでない」を挙げれば覆せる。

 ただ、この人は修辞技法というものを理解していない。



 人に物事を伝えるためには、ときに正確さを犠牲にする必要がある。

 たとえば隠喩。「その夜のぼくらは迷子の子犬だった」

 たとえば擬人法。「夜の闇が彼の姿を包んだ」

 たとえば誇張法。「死んでも君を離さない」

 どれも正しくない。でも伝わる。「じっさいにはあと数分したら君を離してしまうけれど今はいつまでも君を離したくないという気持ちを持っている」というよりも「死んでも君を離さない」のほうが簡潔に、切実に、伝わる。


 我々が一般に使う表現は、論理学的な正しさとはまた別のところにあるのだ。

 だから「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」という記事を見ても、たいていの人は「たったひとつの例外もないんだな。親が読書好きなのに本好きにならなかった子どもは世界中にひとりもいないんだな」とはおもわない。

「親が本を読んでいる姿を自然に見せることで子どもが本好きになる確率が有意に上がるんだろうな。もちろんいくばくかの例外はあるだろうけど」と受け取る。


 修辞技法の使い方、受け取り方は学校ではあまり教わらない。様々な文学表現に触れるうちに、自然と身につけるものだ。

 だから、冒頭のツイートをした人が「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」を文字通りの意味にしか解釈できなかったのはある意味しかたのないことかもしれない。なにしろ彼は本をまったく本を読まないそうなのだから。

 結局、何が言いたいかというと、やっぱり読書って大事なんだなあってこと。本を読まないと修辞技法を理解できない!(反証は受けつけません)



2022年5月2日月曜日

【読書感想文】渡辺 容子『左手に告げるなかれ』/自己満足比喩につぐ比喩

左手に告げるなかれ

渡辺 容子

内容(e-honより)
「右手を見せてくれ」。スーパーで万引犯を捕捉する女性保安士・八木薔子のもとを訪れた刑事が尋ねる。3年前に別れた不倫相手の妻が殺害されたのだ。夫の不貞相手として多額の慰謝料をむしり取られた彼女にかかった殺人容疑。彼女の腕にある傷痕は何を意味するのか!?第42回江戸川乱歩賞受賞の本格長編推理。

 ああ、江戸川乱歩賞っぽいなあ。というのが読んだ感想。

 知らない人のために解説しておくと、江戸川乱歩賞ってのはミステリ小説の新人賞なんだけど、賞金が破格の1000万(2022年からは賞金500万円)ということもあってめちゃくちゃレベルが高い。文学新人賞の中では最高難易度の賞だ。たぶん芥川賞よりもとるのが難しい。文学界のM-1グランプリだ。

 というわけで、江戸川乱歩賞受賞作というのはただおもしろいだけでなく、「構成がよくできている」「題材が新しい」「丁寧な取材がされている」などあらゆる面ですぐれていないと受賞できない。そのため受賞作は数年かけて書かれていることもザラである。たとえば 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』 によると、岡嶋二人が乱歩賞に応募をはじめてから受賞までには七年かかったそうだ。もちろん七年かけても受賞できない人が大半なのだが。


『左手に告げるなかれ』も、乱歩賞受賞作の例に漏れず細部までよくできたミステリだ。

 主人公はスーパーの保安士。いわゆる万引きGメンだ。社内不倫が原因で大手企業を退職することになった過去を持つ。
 あるとき、主人公のもとにかつての不倫相手の妻が殺されたことを知る。そして自分に容疑がかかっていることも。身の潔白を証明するために調査に乗りだした主人公。
 すると同じく事件を探っていた探偵から、被害者女性以外にも殺人事件が多発していたことを聞かされる。被害者に共通しているのは、急成長中のコンビニチェーンのスーパーバイザーであること。はたしてコンビニチェーンと事件にどうつながりがあるのか。そして現場に残されたメッセージ「みぎ手」と、被害者たちが口にしていた「四時間を潰すために戦う」という謎の言葉の意味とは……。

「万引きGメン」「不倫の過去」「コンビニチェーンの強引な手法」「連続殺人事件」「ダイイングメッセージ」「訳あり風の探偵」「アリバイトリック」と、これでもかと要素をつめこんだ作品。それでいて煩雑にならずスピード感のあるミステリにしあげているのだから、乱歩賞受賞も納得の作品。




 万引きGメンやコンビニ業界に関する知識(1996年刊行なので今となっては古いが)、意外な犯人、主人公をとりかこむ濃いキャラクター、しゃれたタイトルなどどれをとってもよくできている。

 が、この小説は嫌いだなあ……。


 その理由はただひとつ。「気の利いた言い回しをしようとしているのがうっとうしい」ことだ。

 村上春樹くずれというか、ハードボイルド作品の登場人物くずれというか。

 私は黙って宙を睨みつけていた。あの出来事についての感慨なら、段ボールの箱にアン・クラインの衣類といっしょくたにして放りこみ、三年前、ゴミ集積所に出したつもりでいた。思い出はすべて廃棄したはずなのだ。なのに、刑事の口にそれを並べ立てられた途端、目薬を注いだ直後のように、目の前の光景がぼんやり霞んで見えてくる。犬丸の顔が、ゴミ袋の中身を探っては「不燃物を入れてはいけない」と文句をつけてくる、近所の老婦人そっくりに見えてきてしまう。
 思い出は不燃物です、燃やせば危険ですから、自分で処理しなくてはいけません……。

 これでもかといわんばかりの比喩の羅列。

 これだけの文章に、「感慨をゴミに例える」「霞んだ視界を目薬を注いだ直後に例える」「刑事の顔を老婦人に例える」と三種類の比喩が使われている。そしてだめ押しのように、「感慨をゴミに例える」をしつこくもう一度。暗喩、直喩、直喩、暗喩。

 ああ、うんざりだ。鼻につくなんてレベルじゃない。強烈な悪臭を放っている(釣られてこっちまで比喩を使ってしまった)。

 比喩って本来、わかりやすくするためのものなんだよ。文字だけで伝えるために、比喩によってイメージを喚起させる。でもこの人は「どやっ、気の利いた言い回しでっしゃろ?」と己の才気を見せつけるために比喩を多用している。わかりやすくさせることなんてこれっぽっちも考えていない。この文章から比喩を消したほうがどれだけわかりやすくなるか。

 過剰な比喩だけでなく、ウィットとアイロニーたっぷりの台詞も気持ち悪い。しかも、ひとりやふたりではなく、ほとんどの登場人物がハードボイルド作品みたいな台詞を吐く。全員が全員「うまいこと言える自分」に酔っているのだ(もちろんほんとに自分に酔いしれているのは作者なんだけど)。

 比喩とかウィットに富んだ台詞って中毒性があるから、使ってると比喩を使うことが目的になっちゃうんだろうね。


 作者がどや顔をするためだけに濫用された比喩や言い回しをなくせば、三分の二ぐらいの分量になってぐっと読みやすくなったとおもうんだけどね。


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