2022年9月30日金曜日

【読書感想文】吉田 修一『パーク・ライフ』 / クズにあこがれる心理

パーク・ライフ

吉田 修一

内容(e-honより)
公園にひとりで座っていると、あなたには何が見えますか?スターバックスのコーヒーを片手に、春風に乱れる髪を押さえていたのは、地下鉄でぼくが話しかけてしまった女だった。なんとなく見えていた景色がせつないほどリアルに動きはじめる。日比谷公園を舞台に、男と女の微妙な距離感を描き、芥川賞を受賞した傑作小説。

『パーク・ライフ』と『flowers』の二篇を収録。

 芥川賞受賞作である『パーク・ライフ』は、正直肌に合わなかった。なんだか村上春樹みたいだな、でも村上春樹よりももっと退屈だな、という感想。断片的には悪くないんだけど、シーンとシーンがばらばらで、有機的につながってこない。日記を読んでいるみたいだった。

 もちろん和博さん側にも言い分はある。無口な人で、日ごろはほとんどその手の話をしないのだが、あるとき一緒にラガーフェルドを駒沢公園に連れていった帰り、こんなことを言い出した。「たとえば瑞穂がリビングでテレビを観てるだろ、そうするとなんていうか気を遣うっていうのかな、いつも一緒だと息も詰まるだろうなんて思ってさ、俺は寝室で本を読むわけ。で、瑞穂が寝室に来ると、明るいと眠れないだろうと思って、今度はリビングへ。一緒にいたくないわけじゃないんだよ。一緒にいたいもんだから、部屋から部屋へ移動してるんだよな」と。

 このくだりとか好きなんだけどね。はっきり言語化するのはむずかしいけど、ああわかるなあという感じで。うちの夫婦も、子どもが寝た後はこんなんだ。仲が悪いわけじゃないよ。嫌なわけじゃないけど、ただしゃべりたくないだけ。




『flowers』は好きだった。これこれ、やっぱり吉田修一作品はこうでなくっちゃ。

 ぼくは吉田修一作品の「嫌な感じ」がたまらなく好きだ。怠惰、倦怠感、恨み、諦め、妬み、堕落、逃避、焦燥、自暴自棄……。そんな、誰もが味わいたくない、けれど味わってしまう感情をうまく書いてくれる。

『flowers』には、嫌なやつばかり出てくる。特にクズなのが元旦(こういう名前)で、会社の先輩の奥さんと浮気し、その奥さんを別の男に紹介したりもする。イチモツが大きいのが自慢で、面倒な仕事は要領よく他人に押しつける。……とまあクズ中のクズなのだが、ふしぎと主人公は元旦に悪印象を持っていない(途中までは)。しょうがないやつだとおもいながら、ほんのわずかな憧れを抱いているようにも見える。

 そうだよね。どうしようもないけど、でもなぜか憎めないやつっているよね。バカだなあとか、痛い目に遭っても知らんぞ、とかおもいながらも常識やモラルを軽やかに飛び越えて生きている姿にちょっと憧れたりする。

 己の中の「他人を傷つけて生きるダメなやつでありたい」という反道徳的な欲求に気づかせてくれる短篇だった。べつに気づきたくなかったけど。


【関連記事】

吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……

見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2022年9月29日木曜日

【読書感想文】マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク ~人づきあいの経済学~』 / ネットワークが戦争をなくす

ヒューマン・ネットワーク

人づきあいの経済学

マシュー・O・ジャクソン(著)  依田 光江(訳)

内容(e-honより)
会社のゆくえ、個人の収入、恋愛、健康、学力…私たちの将来を見通す「スタンフォード流」ネットワークの経済学!


「ネットワーク」が我々の社会にいかに大きな影響を与えているか、を経済学の立場から読み解いた本。

 ネットワークといっても人付き合いだけの話ではない。15世紀のフィレンツェでメディチ家が力を持ったのも、金融危機が起こるのも、伝染病が広まるのも、地域によって失業率が異なるのも、ネットワークによって読み解くことができる。

 20世紀半ば以降に国家間の戦争が急減しているのも、貿易手段が発達して国家間のネットワークが強固になったからだという説もあるらしい。どの国の経済も海外貿易に大きく依存しているため、戦争を仕掛けて貿易ができなくなると困るから、ということらしい。まさに今、戦争を仕掛けているロシアは経済的に窮地に追い込まれているし。案外、北朝鮮に対しても経済制裁をするよりも積極的に貿易をしたほうが安全な国になってくれるかもしれない。


 ちなみに原著の刊行は新型コロナウイルス流行直前の2019年だが、伝染病の感染拡大やワクチン接種効果について書かれた箇所もあり、まるで予見したかのようにタイムリーな内容になっている。




「フレンドシップ・パラドクス」という概念がある。

 あなたは「自分には、周囲の人間よりも多くの友だちがいる」とおもうだろうか?

 おそらく、ほとんどの人の答えはノーだ。なぜなら、友だちのネットワークは不均衡だから。数人しか友だちがいない人もいれば、数十人、数百人の友だちがいる人もいる。後者を仮に〝人気者〟と呼ぶとする。

 あなたが〝人気者〟である可能性は低いが、あなたが〝人気者〟と友だちである可能性は高い。なにしろ〝人気者〟には友だちがたくさんいるのだから、その中のひとりがあなたであってもふしぎではない。

 フレンドシップ・パラドクスはわかりやすい。人気のある(友だちが多い)人は多くの人の友だちリストに現れ、友だちの少ない人は友だちリストにあまり出てこない。多くの友だちがいる人は、集団の人数に占める割合よりも何倍も多く友だちリストに登場し、強い存在感を放つ。友だちが一〇人いる人は、友だちが五人の人より、二倍多くの人から友だちとして数えられるわけだ。
 フレンドシップ・パラドクスは数学的にはたいして深い概念ではない(そもそもパラドクスに深いものはほとんどない)が、ほとんどの人の人間関係にかかわりがある。親にしろ、子どもにしろ、「学校ではみんなもってるのに……」とか、「友だちはみんな親が認めてくれているのに……」の言いまわしを聞いたり言ったりしたことがあるだろう。この種の言い方はだいたい真実ではなく、当人の周りの少数の人しか反映していない。人気のある生徒は子どもの友だちとしてよく出現するため、とくに人気のある生徒たちが何か共通の流行を追っていたなら、他の子どもたちの目にはみんながそうしていると映る。人気のある人のふるまいによって、感じ方や挙動の基準が一般の人よりも強く決定づけられてしまうのだ。

 これはSNSによってより視覚化されやすくなった。

 かつては「あの人はどうやら友だちが多そうだ」「彼は顔が広い」ぐらいの漠然としたものだったが、FacebookやTwitterでは友だちの数やフォロワーの数がはっきり見てわかる。

 SNS上であなたがフォローしているのが100人いるとすると、その中には数万人ものフォロワーを持つ人もいるだろう。あなたがよく目にするのはきっとそういうアカウントだ。逆に、数人しかフォロワーのいない人を目にする機会は少ない。なぜならそういう人はあまり他人と交流しないし、あなたもきっとフォローしていないだろうから。


 こうして、じっさいには「フォロワー数の少ないアカウント」のほうが圧倒的に多いのに、「フォロワー数の多いアカウント」ばかりを見て「私が見ている人たちはみんなフォロワーがいっぱいいていいなあ」という現象が発生する。

 そして、「フォロワー数の多いアカウント」というのは当然ながら「著名である」「おもしろい投稿をする」「一芸に秀でている」人であるため、まるで自分以外のみんなが自分より優れているように感じてしまう。

「SNS疲れ」が話題になったが、「フレンドシップ・パラドクス」によって疲れてしまった人も多いのだろう。自分が集団の中で劣っていると突きつけられる(じっさいは必ずしもそうではないのだが)のは、そりゃあしんどい。




「フレンドシップ・パラドクス」は、人気があるかどうかだけでなく、悪影響を与えることもある。

 一般学生の認識は、パーティーや催しでの経験だけではなく、身近にいる友だちの言動からも影響を受ける。ここでもフレンドシップ・パラドクスが作用する。もし、人気者がより多くタバコを喫い、より多く酒を飲むのなら、これは一般学生の判断をゆがませる。実際、ある調査では、中学校では、友だち関係が増えるたびに、生徒が喫煙しはじめる可能性が五パーセント上昇すると推計している。同様の推計はアルコールについても見られ、自分を友だちだと言ってくれる生徒が五人増えると、中学生が試しに酒を飲んでみる確率が三〇パーセントあがるという。
 社交的な学生の飲酒や喫煙量を増やす要因はいくつかある。そうした嗜好品を楽しむこと自体が社会活動の一環であることもそのひとつだ。他者との交流に費やす時間が増えるほど、アルコールを消費する理由が増えていく。逆向きの作用もある。アルコール好きの学生は、むしろ飲める機会を増やすために、同じ傾向にある知人を探そうとする。とくに、親の監視が少ない学生ほど仲間の学生とつきあう時間が長くなり、タバコや酒、ドラッグに触れる機会も増える。そうした性質に基づく社会活動にはフィードバックがあり、仲間が飲んでいる姿を見れば、自分も飲もうという気になる。当人の飲酒レベルがあがれば、仲間の飲酒レベルもあがる。こうしてフィードバックの環が回りつづけるのだ。

 たしかになあ。中高生ってタバコを吸いがちだけど(今はどうだか知らないけど)、あれは周囲がやってるから始めるんだもんな。「友だちは誰ひとり吸ってないけど俺は吸うぜ」って人間はまずいない。

 そういえばぼくの周りでも大学生のときは喫煙者と非喫煙者が半々ぐらいだったけど、喫煙者のうち何人かが禁煙すると、それにつられるように他の連中もタバコをやめ、今ではぼくの身近な友人に喫煙者はひとりもいなくなった。

 ひとりで吸いつづけるのはむずかしいようだ。


 喫煙者や日常的に酒を飲む人の数がどんどん減ってきているという。

 もちろん社会の変化もあるけど、いちばんの原因は「周りが吸わないから吸わない」「周りが飲まないから飲まない」じゃなかろうか。

 影響力のある人がやめる → その周囲の人たちもやめる → そのまた周囲もやめる

という感じで、どんどん減っているのだろう。

 お酒を好きな人はけっこういるけど、「家でひとりでも飲む」人は(依存症以外では)そんなに多くないもんな。




 以前読んだ中室牧子 『「学力」の経済学』に、「学力の高い友だちの中にいると、自分の学力にもプラスの影響がある」と書かれていた(ただし優秀な子からプラスの影響を受けるのはもともと優秀な子だけで、そうでない子は自信をなくしてマイナスの影響を受けるそうだ)。

 また、飲酒、喫煙、暴力、カンニングなど反社会的な行為は特に友人からの影響を受けやすいという。

 多くの親は子どもを進学校に行かせたがるけど、進学校のいいところは教師やカリキュラムよりも「悪影響を与える友人に出会う可能性が低い」ことなんだろう。

 ぼくが通っていた高校は、難関大に進む生徒から、はなから進学する気のない生徒までいろんな学力の生徒がいたけど、自然と友人関係は学力別になっていた。勉強のできる生徒と、まったく勉強をしない生徒が友人関係にあるというケースは、ぼくが見たかぎりほとんどなかった。

 あれは「学力が近いものがつるむ」ことでもあり、逆に「ふだんからつるんでいるから学力が近くなる」効果もあったんだろうな。




 アメリカのシリコンバレーには世界的に成功しているハイテク企業が多数存在している。シリコンバレーにハイテク企業が林立しているのはもちろん偶然ではない。

 高い教育を受けた人が集まったから多くの成功企業が誕生し、多くの企業が成功したから高い教育を受けた人や意欲の高い人が集まった。

 ハイテク企業と高いスキルをもった技術者が同じ場所に集まる理由は情報の豊かな流れだけでなく、もっと強い共生関係があるからだ。サーチクワント社というスタートアップを創業したクリス・ザハリアスは、創業前にネットスケープ社やエフィシェントフロンティア社、オムニチュア、ヤフー、トリジットで働いた経験をもつ。彼のような履歴書はさほどめずらしくはない。現代の企業は、とくにハイテク企業は、あっというまに生まれ、消えていく。こうした企業が世界に事業を展開していくのなら、数年ごとに引っ越ししなければならない従業員が出てくる。これは当人にとっても、ひいては企業にとっても、大きなコストがかかる。だが、シリコンバレーに住めば、会社が消えそうになっても、自宅から数キロしか離れていない別の会社への転職を決めてさっさと移ることができる。技術者も企業もシリコンバレーに群がり、似たバックグラウンドをもつ人が集まることでさらに多くの人と企業が呼ばれるので、ハイテクのキャリアを積みたい人にとってはほかの場所に住むことが考えられなくなる。

 金融業界がニューヨークや東京に集まるのや、映画産業がハリウッドに集まるのも、同じことだ。

 どれだけ通信手段が発達しても「距離的に近い」ことは大きなアドバンテージとなる。遠くの親戚よりも近くの他人。

 きっと今後も都市部への一極集中の流れは止まることがないだろう。




 ネットワークには長短両面があるが、うまく使えば努力の何倍もの結果を生む。

 そのためには、ネットワーク間でのヒトや情報の移動が自由であることが必要だ。

 だが現実には、移動が制限されているネットワークも多く存在する。むしろそっちのほうが多いかもしれない。

 非移動性は、人が自分の生まれた社会環境にとらわれてしまうことから生じる。閉じこめられたネットワークのなかでは、成功するために必要となる情報や機会を得られない。
 非移動性が問題になるのは、機会を得られない人が気の毒という感情論からだけでなく、社会の効率がよくないからだ。本来なら大きな生産性を発揮できたであろう人が非生産的な役割に閉じこめられ、社会全体の生産性を落としてしまう。何人のピカソが鉱山で働いて生涯を過ごしたことだろう。生まれた場所がスラムでさえなければ、ガンの治療法を発見した人だっていたかもしれない。非移動性は国の成長率にも大きな影響を及ぼしかねないのだ。

 医者の子どもしか医者になれないとか、親が政治家じゃないと政治家になれないとか。

 インドのカースト制度はそういう制度だし、そこまでいかなくても日本にもそういう傾向はある。

 これは社会にとって大きな損失である。凡庸な三世議員より、何のコネもないけど優秀で意欲のある人間が総理大臣になったほうがいいに決まっている。

『国家はなぜ衰退するのか』によると、自由な競争が推奨されて能力にふさわしい対価が得られる国は発展し、収奪的な政治的・経済的制度を持つ国は成長が進まないそうだ。わかりやすいのが、韓国と北朝鮮の例で、地理的にも民族もほぼ同じ国なのに、経済成長率には天地ほどの差がついている。それは北朝鮮が「一部の権力者にとっては、国全体を豊かにすることよりも、他人の成長を妨害するほうが自分の富が増える国」だからだ。

 日本もそうなりつつあるのかもしれない(日本だけでなく多くの国が)。




 我々の行動はネットワークによって強く支配されているので、それを断ち切って動くのはむずかしい。

 自分の行動を友だちの行動と連携させたいと思うと、それによっていくつかのことが派生して起こる可能性があり、ときにそれはかなり安定した状態になる。これは、ゲーム理論の専門家が言う「複数均衡」というものだ。相互に強化する作用が働くと、一人ひとりが本来もつ性質を強くすることがある。連携したために、本来なら最適ではない行動から抜けだせなくなる例はいくらでもある。私たちは最適とは言いがたい文字配列のキーボードを使っている。なぜなら、自宅や職場や出張先など多くの場所でキーボードを使う必要があり、また、自分用にカスタマイズするよりみなと同じキーボードを買って使うほうが安価だからだ。私たちは不必要なまでに複雑で例外規則に満ちた言語を話す。なぜなら、周りにいる人たちと話したいならそうするしかないからだ。車が道のどちら側を走るべきかは国によって異なり、注意力が散漫だったり時差ぼけだったりする観光客は、道を横断するときにヒヤリとさせられる。フィードバック効果や連携の強い動機があるせいでよりょい代替手段がとられないということは、そうした不合理なふるまいを変えることがほぼ不可能ということである。代替手段のほうが本当は優れているとわかったあとでも。

 たしかにね。

 ぼくもいっとき、「親指シフト」というキーボード入力を練習していたことがある。日本語入力に向いているという触れこみの入力方法だ。が、やめてしまった。理由のひとつは、職場のパソコンではこれまで通りローマ字入力を使う必要があったこと。結局、多数派にあわせるしかないのだ(まあ親指シフトがそこまで便利ではないことも理由にあるが)。

 エスペラント語が普及しなかった理由もそれだよね。エスペラント語というのは人工的につくられた言語で、世界中の人が使うことを目的として考案された。不規則動詞がまったくなく、シンプルでおぼえやすい。これを世界中の人がおぼえれば、誰もが世界中の人と話せるようになるはず……という理念はすばらしかったが、考案されてから百年以上たった今でもほとんど使われていない。日本語や英語のように例外だらけの(新たに学ぶには)不便な言語を使い続けている。

 理由はひとつ、「みんなが今使っているのが不規則だらけの言語だから」。既存のネットワークを離れて、新たなネットワークを構築するのはすごくたいへんだから。


 ということで、人間の行動がネットワークにいかにコントロールされているかがわかる本。マーケティングとかにも役立ちそう。ネットワークビジネス(マルチ商法)には役立たないとおもいますよ。


【関連記事】

【読書感想文】中室牧子 『「学力」の経済学』

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』



 その他の読書感想文はこちら


2022年9月27日火曜日

まるで参考にならないであろうダイエット成功記

 1年間で7kg痩せたので、その記録。

 痩せたい痩せたいとおもっている人にはたぶんあんまり参考にならないとおもう。



■ 1年間で7kg太った

 2021年夏に受けた健康診断で、前年から比較して7kg増えていた。生涯で最高の体重である。

 もともとぼくは痩せ型で、食べてもさほど太らず、二十歳の頃から現在までの十数年間で3kgぐらいしか体重が増えていない。そんなぼくが1年間で7kgも太った。これは驚異的なことである。ついでにいうと、血液検査の結果も軒並み悪化していた。

 原因はいくつか考えられる。


1.コロナ禍で外出が減った

 デスクワークだが、それでもコロナ前は週に一、二度は他の会社に出向いていた。ところがコロナ禍で打ち合わせがほとんどリモートになった。客先訪問が週に一、二度から月に一、二度になった。


2.プール通いをやめた

 週に一度、長女のプール教室を待つ間、ぼくもプールで泳いでいた。だがコロナ対策として通うのをやめた。やはりマスクをしないのはちょっと怖いし、そもそもコロナ禍でプールに来る人というのはちょっとアレな人が多くて、プールサイドでゴホゴホと咳き込んだりしている人もいる。すっかり嫌になってしまった。


3.次女が離乳食を卒業した

 なんの関係があるのかとおもうかもしれないが、これが関係大アリなのである。

 次女が離乳食を卒業して大人とほぼ同じごはんを食べるようになった。子どもというやつは日によって食べる量がずいぶんちがう。もりもり食べることもあればほとんど箸をつけないこともある。大人であれば「今日は食欲ないから少なめでいいや」と事前にごはんの量を減らしたりもできるが、子どもはそういうことをしてくれない。あれもこれもちょっとずつ箸をつけるだけつけて、大半を残したりする。

 当然、ごはんが残ることが多い。まったく箸をつけていなければ翌日に置いといたりもできるが、ちょっとずつ箸をつけていたり、ひどいときはごはんに納豆を乗せたところで「もうおなかいっぱい」と言ったりする

 もったいない。しかたなくぼくが食べる。当然、太る。


■ 痩せることにした

 もともと痩せ型だったので7kg太ってもまだ標準体型よりはやや痩せている。とはいえさすがに1年間で7kgは太りすぎだ。このままだとデブになってしまう。血液検査の数値も悪化しているので、ぼくは痩せることにした

 ここで強調しておきたいのは、「痩せようとおもった」ではなく「痩せることにした」であることだ。

 まずぼくに言わせれば、ダイエットに失敗する人は「痩せるための努力」をしている。そんなもので痩せるわけがない。やるべきは「痩せる」である。「痩せるためにがんばる」と「痩せる」はまったく別物だ。

 親から「歯みがきしなさい」と言われた子どもが「歯みがきしようとおもってる!」「歯みがきするための努力をするよ」などと言った場合、たぶん彼は歯みがきをしない。その場しのぎの言い訳でしかない。やる子はうだうだ言ってないですぐにやる。

 だから「痩せようとおもう」なんて考えてる時点でもうダメだ。おもったその瞬間からもう痩せはじめなければならない。


■ 痩せるのはかんたん

 理論的には、痩せることはすごくかんたんだ。摂取カロリーより消費カロリーを大きくすればいい。それだけ。

 そしてカロリー計算をしたことのある人ならわかるとおもうが、運動によって消費カロリーを増やすのはすごくむずかしい。痩せるぐらいのカロリーを使おうとおもったら相当きつい運動をしないといけない。疲れるし、めんどくさいし、時間もとられる。おまけに運動をしたら腹が減る。だいいち、いっぱい食べて、消費するためだけにいっぱい運動するなんて非効率じゃないか。

 そんなわけで、痩せるためには「食べる量を減らす」これにかぎる。ほとんど唯一の方法だ。


■ 食べる量を減らした

 だから食べる量を減らした。といっても無理はしない。三食きちんと食べるし、家族がおやつを食べるときはいっしょに食べる。好きなものも我慢しない。次女がごはんを残したときはもったいないからぼくが食べる(ただしその分、あらかじめぼくの分のごはんは少なめにしておく)。

 ただ、ごはんの盛りをちょっと減らし、仕事中の間食をちょっと減らしただけだ。

 減らしたら減らしたでなんてことはない。太ったということはもともと食べすぎだったのだから。つらくもないし、(ほとんどないけど)つらいときは食べればいい。


■ 痩せた

 うちには体重計がない。だからぼくが体重を量るのは、年に一回健康診断のときだけだ。

 今年の健康診断。前年と比べて7kg痩せていた。2020年から2021年にかけて7kg増え、翌年には7kg減った。つまりすっかり元通りになったわけだ。ついでに血液検査の数値も改善していた。


■ 結論

 ということで、食べる量を減らしたら痩せた。それだけ。あたりまえすぎる話だ。ダイエット情報を求めてうっかりこのページに来てしまった人はがっかりしただろう。

 身もふたもない話だけど、これがすべてなのだ。食べる量を減らせば痩せるし、減らさなければ痩せない。食べて痩せる食品は毒だけだし、きつい運動を持続できてかつ食べる量を抑えられるような強靭な意志の持ち主はそもそもはじめから太らない。


 ぼくは本屋で働いていたときにさまざまなダイエット本を目にした。『〇〇するだけダイエット』をどれだけ見たことか。体操だ、お酢だ、記録だ、ストレッチだ、マニキュアだ、オリーブオイルだ、海藻だ、と。

 ぼくは「アホだなあ。食事の量を減らせば絶対に痩せられるのに」とおもいながらそれらの本を棚に並べていた。食べる量を減らすだけだから、運動も労力も時間も器具も特別な食品もいらないのに。おまけに食費も抑えられる。


 ずっと自身がダイエットをする機会がなかったのでその理論の正しさを証明することができなかったが、今回1年間で7kg減らしたことで身をもって理論にまちがいがなかったことを示すことができた。

 というわけでどこかの出版社さん、この理論を世に広めるため『食べる量を減らすだけダイエット』を刊行しませんか?


2022年9月26日月曜日

【読書感想文】今井 むつみ『ことばと思考』 / 語彙が多ければいいってもんじゃない

ことばと思考

今井 むつみ

内容(e-honより)
私たちは、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりする。では、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考のあり方は異なるのだろうか。「前・後・左・右」のない言語の位置表現、ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など、興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら、認知心理学の立場から明らかにする。


 言語学の世界には、ウォーフ仮説というものがある。言語的相対論ともいうそうだ。

 かんたんにいうと「人間の思考は言語によって決定される。言語から離れた思考は不可能だ」という考えらしい。


 思考にとって言語が重要なことは間違いない。「民主主義とは人民が主権を持ち人民が政治を行う考えである」みたいな抽象的な概念を言語なしに考察することは不可能だろう。

 ただ、「言語から離れた思考は不可能だ」とまでいうのは難しい。民主主義について考えることはできなくても、「はらへったからあそこにあるあれをくおう」ぐらいのことなら言語とは無関係に考えられるはずだ。なぜなら言語をもたない動物も、人間の赤ちゃんも、考えているのだから。

 ということで、どこまでが「言語によって決定されていること」なのかを探るのが本書だ。




  ついつい「日本語の〇〇って英語でなんていうんだろう」と考えてしまう。まるで日本語のある単語と英語のある単語が一対一で対応しているかのように。

 たしかにそういう言語もある。日本語の「いぬ」と英語の「dog」は同じものを差すだろう。だが日本語の「歩く」と英語の「walk」は同じ意味ではない。英語ではゆっくり歩くことは「stroll」で、ぶらぶら歩くことは「amble」で、目的なくゆっくり歩くのは「saunter」、とぼとぼ歩くのは「traipse」、重たい足どりで歩くのは「trudge」、千鳥足で歩くのは「totter」、よちよち歩きは「waddle」……など、歩くだけでも20種類以上の動詞がある。日本語では副詞や擬態語を使って表現するが、動詞は「歩く」1種類だ。つまり日本語の「歩く」と英語の「walk」はぜんぜんちがう意味の動詞なのだ。「歩く」のほうがずっと広い。


 以前、『翻訳できない世界のことば』という本を読んだ。「肌についた、締めつけるもののあと」「夫が妻に許しを請うために贈るプレゼント」といった、日本語では一語で訳せない単語を集めた本だ。

 だが、ほとんどの外国語が「翻訳できないことば」なのだ。「walk」といった中一英語ですら翻訳できないのだから。

 色を表す言葉もそうだ。青はブルーだと小学生でも知っているが「青」と「blue」は完全に同じ範囲を指す言葉ではない。

 そもそも、色を指す言葉の数自体が言語によって大きく違う。色の名前で「赤」や「青」のようにそれ以上分けられないものを〝基礎名〟と呼ぶ。「黄緑」のように基礎名を組み合わせたものや「栗色」「きつね色」のように物質の名前を使ったものは基礎名でない(オレンジ(橙)色はオレンジ(橙)由来だが色の名前として使うことのほうが多いこともあって基礎名とみなすらしい)。灰色や桃色も同様だ。

 日本語や英語に色を指す基礎名は11ある。白、黒、赤、黄、緑、青、紫、灰、茶、オレンジ、ピンク(厳密には日本語と英語ではそれぞれの差す範囲は微妙に異なるのだが)。

 だがこれは多いほうで、ほとんどの言語はもっと少ないらしい。

 アメリカのカリフォルニア大学の研究グループが、世界中の言語のなかから一一九のサンプルを取り出し、それぞれの言語における色の基礎名の数を調査した。色の名前の数がもっとも少ないのは、パプアニューギニアのダニ族という部族の言語で、この言語には色の名前が二つしかない。色の名前が三つ~四つの言語が二〇、四つ~六つの言語が二六、六つ~七つの言語が三四、七つ~八つが一四、八つ~九つが六、九つ~一○個の言語は八つであった。一○以上の色の名前を持つ言語は、一一しかなかった。つまり、日本語や英語のように一一も色の名前(基礎名)がある言語は、少数派だったのである。例えば、色の基礎名が三つの言語では、大まかに言って、白っぽい色、私たちが赤と呼ぶ色から黄色にかけての色、私たちが呼ぶ緑・青・黒にまたがる色に、それぞれ名前がつけられる。
 この調査から、私たちが「緑」と「青」とそれぞれ呼ぶ色を別の名前で区別しない言語は、区別する言語より多いことがわかった。一一九の言語のうち、「緑」と「青」を区別する言語は、三〇しかない。一方で、「緑」と「青」を区別するだけでなく、私たちが「緑」、「青」と呼ぶ色を、さらに細かく基礎名で分ける言語もある。例えば韓国語では、黄緑を「ヨンドゥ」、緑を「チョロク」という二つの基礎語によって、「別の色」として扱っている。

 こう書くと、「日本語は色の基礎名が11もあってすごい!」と身びいきしてしまいそうになるが、必ずしもそうとは言い切れないのがおもしろいことだ。

 意外なことに、色が少ない言語のほうが正確に色を認識できることもあるようだ。「青と緑の中間だけど少し青っぽい色」を見せられると、日本語話者は「青」と認識してしまう。だが、青と緑の区別のない言語の話者は、その色を(典型的な)青とは違う色と認識できる。なまじっか「それらしい色を指す言葉」を知っているせいで、認識がその言葉に引きずられてしまうのだ。

隣接する二つのカテゴリーの境界にある刺激を、二つのカテゴリーの中間の曖昧な刺激として知覚するのではなく、はっきりとどちらかのカテゴリーのメンバーとみなすことを、心理学では「カテゴリー知覚」(あるいは「範疇知覚」)という。(中略)つまり、ことばを持たないと、実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく、ことばがあると、モノの認識をことばのカテゴリーのほうに引っ張る、あるいは歪ませてしまうということがこの実験からわかったのである。

 色だけでなく、たとえば〇が棒でつながったイラストを見せられ、時間を置いた後にそれと同じ絵を描いてくれと言われる。そのとき、「メガネ」という文字といっしょにイラストを見せられた人はよりメガネっぽい絵を描き、「ダンベル」という文字を見せられた人はよりダンベルっぽい絵を描く。「見た絵をそのまま描く」という課題に挑戦するときに、言葉の情報がじゃまをするのだ。




「色を指す言葉が少ない」ぐらいは想像できるけど、驚くことに世の中には「前」「後」「左」「右」といった言葉を持たない言語もあるそうだ。

 しかし、世界には「前」「後」「左」「右」に相当することばをまったく持たない言語が多く存在する。例えばオーストラリアのアボリジニの言語のひとつであるグーグ・イミディル語は、モノの位置をすべて「東」「西」「南」「北」で表す。私たちが「ボールは木の前にある」とか「リモコンはテレビの左にある」と言うとき、この言語の話者は「ボールは木の南にある」とか「リモコンはテレビの西にある」とか言うわけである。そもそもこの言語では、話者を中心とした相対的な視点でモノの位置関係を表すということをまったくしないそうである。

 東西南北を使って絶対的な位置関係で指し示すそうだ。これは幼児にはむずかしそうだけど、慣れるとこっちのほうが便利かもしれない(前後左右を指す言葉もあったほうがいいけど)。

 じっさい、この言語の話者は遠くに連れていかれてもまっすぐ戻ってこられるそうだ。常に東西南北を意識しているから迷うことが少ないのだろう。

 だが「左右反転した図形は同じものと見なしてしまう」という弱点もあるらしい。それぞれ一長一短あるようだ。




 副詞や擬態語が脳に与える影響について。

筆者自身が行ったある実験では、実験協力者に、人がいろいろな動き方で歩いたり走ったりしているシーンのビデオを多数見てもらった。それぞれのビデオ(例えば人が肩で風を切り、大またで胸を張ってすばやく歩いているシーン)に対し、「ずんずん」「はやく」「歩く」などということばが個別にテロップで示された。この実験では機能的画像磁気共鳴法、通常f(unctional)MRIと呼ばれる方法により、このときに協力者の脳がどのように活動しているかを測定した。
 すると画像を見ているときにいっしょに見たことばの種類によって、脳の活動のしかたが違うことがわかった。副詞(「はやく」)、動詞(「歩く」)を見たときは、一般的に言語を処理する部分(主に左半球の側頭葉の、意味の処理をする部分)が多く活動したが、擬態語(「ずんずん」)を見たときには、左半球だけでなく、右半球でジェスチャーなどの、言語以外の認知活動をする部分の活動が目立った。特に人やモノの運動を知覚するときの脳内ネットワークで非常に重要な中継点となるMT野という部分が、擬態語を見たときは動詞、副詞のときよりも強く活動した。つまり、動きといっしょに擬態語を見た場合、「歩く」「はやく」などの普通の動詞や副詞といっしょに同じ動きを見た場合よりも、運動を知覚する部分や、運動を実際に行ったり、これから行う運動のプランニングをしたりする部分の活動が多く見られた。また、実際にはことばは文字で提示され、音の刺激はまったく聞かされなかったのに、言語ではなく、環境中の音を聞いたときに活動する部分にも動きが見られた。

 擬態語といっしょに見たときのほうが、より見た対象に共感できると。

 ふうむ。

 日本語はオノマトペ(擬音語・擬態語)が他の言語に比べて豊富だという。そして日本人は、良くも悪くも他人の顔色をうかがうことに長けているともいう。

 もしかすると、オノマトペがいわゆる〝日本人気質〟を築く一端になっているのかもしれない。なんの根拠もない、ぼくの勝手な憶測だけど。




 思考のうちどこまでが「言語によって決定されていること」なのか? という冒頭の話に戻る。

 ここまで紹介された例を見れば、かなりの思考が言語によって左右されていることがわかる。が、本書では「言語によらない思考」も紹介されている。言葉を扱うようになる前の乳児を対象にした実験により、言語とは関係のない思考パターンがあることもわかっている。

 ということで「思考の多くは言語によって左右されるが、全部が全部そうというわけではない」ということらしい。真実はいつだって平凡なものだ。


【関連記事】

【読書感想文】見えるけど見ていなかったものに名前を与える/エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』

【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』



 その他の読書感想文はこちら


2022年9月21日水曜日

ケンタウロスのなかまたち

 キマイラ(ライオンの頭とヤギの身体とヘビの尻尾)、スフィンクス(ヒトの頭とライオンの胴体)、ペガサス(馬の身体と鳥の翼)、コカトリス(雄鶏の上半身とヘビの下半身)、グリフォン(鷲の上半身とライオンの下半身)、ヒッポグリフ(鷹の上半身と馬の下半身)、鵺(サルの頭、タヌキの胴体、トラの胴体、ヘビの尻尾)など複数の動物を組み合わせたキメラは数あれど、なんといってもいちばん有名なのはケンタウロスだろう。馬の胴体とヒトの上半身がくっついたやつだ。

 ケンタウロスの特異性は、その「つなげるとこ、そこ?」感にある。


 他のキメラは一応、「〇〇の上半身と××の下半身」だったり「〇〇の頭と××の首から下」だったりして、身体の部位が重複しないようにしている。

 まあ「ヘビの尻尾」だったり、「鳥の翼」だったりはかなり無理があるが(鳥の翼はもともと脚から進化したので翼があるのなら脚が四本あるのはおかしい)、少なくともぱっと見ではそれほど違和感はない。「こんな動物いるかも」とおもわせてくれる造形をしている。

 なんせ、上半身がシマウマで下半身が馬みたいなクアッガという動物は実在したのだ。

Wikipedia『クアッガ』より

 だったら、遠い昔あるいははるか未来に、グリフォンみたいなやつが生きていたとしてもさほどふしぎはない。


 ところがケンタウロスだけは、はなから生物の基本を無視している。哺乳類×哺乳類の組み合わせなのに、手足は六本。ヒトの胴体と馬の胴体を持っているので、心臓も肝臓も膵臓も胃もふたつずつ持っていることになる(まあ胃に関してはウシなんか四つも持っているか)。はじめっから「いそう」とおもわせる気がないデザインなのだ。

 いや待てよ。哺乳類だとおもうからいけないのか。ケンタウロスは脚が六本だから昆虫なのか?

 いやあ。さすがにあのサイズの昆虫はいないだろう。昆虫は肺を持たないから、あの大きさの身体に酸素を送れないもんな。

 待てよ。タコやイカは?

 タコやイカには心臓が三つある。おまけに脚の数も多い。まさしくケンタウロスと同じじゃないか!!


 そうか。ケンタウロスは、タコやイカと同じ頭足類だったのか。水中で暮らしていて、何かの拍子に陸に上がり、そこで速く走れるように四本の脚が馬みたいになり、高いところの果実や虫を取って食べられるように二本の脚がヒトの手のように進化したのだ。

 つまりあいつがウマやヒトに似ているのはまったくの偶然で、ハリネズミとハリモグラのように別々の道をたどって進化して、たまたま形状が似てしまっただけなのだ。

 そう。ケンタウロスはヒトでもウマでもなく、タコやイカの仲間なのだ!


【関連記事】

ふざけんなクアッガ


2022年9月20日火曜日

【読書感想文】いっくん『数学クラスタが集まって本気で大喜利してみた』 / 数学は直感を超える

数学クラスタが集まって本気で大喜利してみた

いっくん(著)  店長(構成協力)

目次
ケーキを三等分せよ
時計の文字盤をデザインせよ
地球の直径を求めよ
規則性に反するものを見つけよ
ハートのグラフを描け
答えが1になる問題を考えよ
角を三等分せよ
大定理でくだらないことを証明せよ
円周率を求めよ
起こる確率が無理数である事象を考えよ
ほとんどの整数の数をいえ
「病的な数字」の例をあげよ
1=2を示せ
不思議な図形の例をあげよ
満室の無限ホテルの部屋を空けよ
とにかく大きい数をあげよ

 あれこれ書くより、このツイートをいちばん見てもらうのがいちばん早い。


 以前このツイートを見て「おお、すげえ!」となったので(理解はできない)、『数学クラスタが集まって本気で大喜利してみた』を読んでみた。




 おもしろかったのは『規則性に反するものを見つけよ』の章。

 タイトルだけだと意味がわかりづらいけど、たとえばこんな話。

 n^17+9と(n+1)^17+9の最大公約数は?

 最大公約数とは、2つ以上の数に共通している約数(公約数)うち最も大きいもののことです。では、n^17+9…①と(n+1)^17+9…②の最大公約数はいくつになるでしょうか?

 まずn=1を代入すると、
 ①1^17+9=1+9=10
 ②(1+1)^17+9=131072+9=131081
となり、10と131081の最大公約数は1です。
 次にn=2を代入すると、①が131081、②が129140172となり、この最大公約数も1です。
 これをn=3,4,5…と続けていっても、最大公約数は1のまま。どこまでいっても、ずっと最大公約数は1に違いない!と思いきや、

n=8424432925592889329288197322308900672459420460792433
で、
急に最大公約数が1ではなくなるのです。
これはコンピュータの演算でわかった結果ですが……それまでに8424432925592889329288197322308900672459420460792432回も同じ流れが続いていたことを考えると、規則性が裏切られた時のインパクトはすさまじいものがありますね。

 ある命題があって、nが1のときは真である。nが2のときも真である。nが10のときも100のときも1000のときも1億のときもその1億倍のときもずっとずっと真である。

 にもかかわらず、nが8424432925592889329288197322308900672459420460792433 のときは真ではない。

 うそー。そこまできて裏切られることある?


 この話を妻(工学部出身)にしたところ、「だから数学は嫌いなんだ」と言われた。妻いわく、物理の世界だったら一万回試して同じ結果になれば100%と見なしていい。まあ物理に限らず日常生活においてはそうだろう。1兆回やって同じ結果になれば、1兆1回目も同じになるに決まっている。

 ところが数学の世界ではそうは断定できないし、じっさいに8424432925592889329288197322308900672459420460792433回目で裏切られてしまうこともある。

 人間の感覚で理解できる範囲を超えている。


 物理はさ、理解できなくてもなんとなくは想像できるじゃない。「この材質・形の物体をこの角度で投げればだいたいこのへんに届くな」ってのはわかる。もちろん予想と外れることはあるけど、10メートル先に行くと予想した物体が100メートル後方に行くようなことはない。

 でも数学ではそういうことが起こってしまう。




『1=2を示せ』も、直感を見事に裏切ってくれる。



 どうだろう。この証明。

  2=√2 になるわけないから、まちがっていることはわかる。わかるけど、いざ反証しようとするとむずかしい。

 物理の世界だと、〝かぎりなく直線に近づけた曲線〟は直線として扱っていいもんね。というか現実世界にはまったく凹凸のない直線なんて存在しないし。

 でも数学の世界だと矛盾が生じてしまう。うーん、わずらわしい。

 



 とまあ、数学が嫌いでない人からしたら楽しめる本だとおもう。細かい数式はぼくにはぜんぜん理解できなかったけど(高校のときは数学めちゃくちゃ得意だったのになー。高校数学レベルではまったくついていけない)、


 で、まあ、おもしろかったんだけど、残念だったのは「第1章の『ケーキを三等分せよ』がいちばんおもしろかった」ってこと。尻すぼみ感がある。

 大喜利と言いつつ、オリジナルの回答じゃないのも多いしね。数学界で有名な解法や議論とか。昔の有名数学者が考えたものを持ってきて「大喜利の答えです!」っていうのはちがうんじゃないの、とおもってしまう。まあ看板が悪いだけで中身は悪くないんだけどさ。


【関連記事】

【読者感想】大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』

むずかしいものが読みたい!/小林 秀雄・岡 潔 『人間の建設』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2022年9月16日金曜日

【読書感想文】冲方 丁『十二人の死にたい子どもたち』/ 惜しい!

十二人の死にたい子どもたち

冲方 丁

内容(e-honより)
廃病院に集まった十二人の少年少女。彼らの目的は「安楽死」をすること。決を取り、全員一致で、それは実行されるはずだった。だが、病院のベッドには“十三人目”の少年の死体が。彼は何者で、なぜここにいるのか?「実行」を阻む問題に、十二人は議論を重ねていく。互いの思いの交錯する中で出された結論とは。

 冲方丁さんといえば『天地明察』で骨のある時代小説を書いた人、というイメージだったので、こんな安いWebマンガみたいなタイトルの小説も書くんだーと意外な気持ちで手に取った。

 タイトルからもわかるように『十二人の怒れる男』のオマージュ的作品でもある。もしかすると三谷幸喜の『十二人の優しい日本人』の影響もあるのかもしれない(筒井康隆の『12人の浮かれる男』はたぶん関係ない)。


 集団自殺をするために廃病院に集まった十二人の少年少女。ところが実行直前になって、十三人目の死体があることに気づく。それでも予定通り自殺を実行しようとするメンバーだったが、ひとりの少年が異議を唱えだして……。

 ここからは『十二人の~』の典型的パターン。一人 VS 十一人という構図からスタートし、議論を重ねるごとにひとりずつ賛同者が増えていき、徐々に場の流れが変わりはじめる……というストーリー。




【以下、ネタバレ感想】


 これを小説でやるのはきついな、というのがいちばんの感想。動きの少ない密室劇。登場人物は十二人。これで十二人の個性を読者に印象付けるのはそうとうむずかしい。

 それぞれのキャラクターを書き分けようとすると極端な性格にするほかなく、超傲慢、超バカ、超冷静沈着頭脳明晰、超日和見主義、超無口、超美人……などマンガチックなキャラクターになってしまう。

 特に女性キャラはひどい。男性のほうは(考えは違えど)全員議論ができる他者への優しさを持っているのに、女性のほうはヒステリック、超バカ、傲岸不遜、視野狭窄、攻撃的でほとんどまともに会話が成り立たない。作者はよほどの女嫌いなのか?

 そこまでしてもやはり十二人の個性を印象付けるのはむずかしく、案の定、読んでいてこいつ誰だっけとなってしまう。


 おまけに病院の見取り図を利用したトリックなんかも出てきて、ややっこしいったらありゃしない。やはり〝十二人もの〟は映像作品だからこそできるものだよね。




「ゼロ番の死体」の正体については、納得のいく設定だった。

 自分のせいで植物状態になってしまった兄。まあこれなら集団自殺の場に連れてきてもおかしくないとおもえる。

 ただ、アンリとノブオが、彼を自殺の場に連れていった理由がいまいち腑に落ちない。見ず知らずの死体なのに。頼まれたわけでもないのに。ましてアンリは誰よりも自由な選択を重要視していたのに。

 そして、誰ひとりとして彼が死んでいるかどうかを確かめようとしないのも不自然。シンジロウなんか細かいところはめちゃくちゃ気にして微に入り細を穿って調査するくせに、肝心なところはまったく調べない。

 で、案の定「ゼロ番は生きている」という予想通りの展開。そりゃあね。物語冒頭から死体が出てきて、ろくに調べられていなかったら、実は生きてましたーパターンだよね。そうならないのは落語『らくだ』ぐらいだ。


 話の展開自体はぜんぜん悪くなかったので、登場人物を減らして、ゼロ番移動のくだりをまるっと削除すればすごくおもしろい物語になったんだろうな、とおもう。いろいろ惜しかった。

 結局自殺をやめるというのも予定調和ではあるが、これはいい予定調和だとおもう。

 ただ、興醒めなのが大オチ。

 実はサトシがこの集まりを開くのは三回目で、過去に二回参加者たちの自殺を止めていたという設定。

 これ、いらなかったんじゃないかなあ。よくあるよねという仕掛けで意外性はないし、驚きをもたらす効果よりも「ここまでの物語の価値を貶めてしまう効果」のほうが大きい。

 さんざん熱い議論を見せられたあげく、これじつはサトシくんのてのひらで転がされてただけでしたーって言われちゃうと、あの話し合いはなんだったんだって気になっちゃう。あれで一気に作品全体への評価が下がってしまった。




 なんか不満点ばっかり書いてしまった。でも一応書いておくと、ぼくは本当につまらない小説を読んだときにはあんまり感想を書かない。特に心動かされないから。不満を書く気にすらならない。

 不満を書きたくなるのは「あとちょっとですごくおもしろくなっただろうに」という作品に対して。アイデアは良くて、キャラクターも良くて、細かいところまで気を配っていて、だったらあとここだけ変われば完璧だったのにー!って作品に対してはあれこれ言いたくなってしまう。

 ということで、いろいろと「惜しい!」と言いたくなる作品だった。そもそも小説に向いてなかったようにおもう(この作品は映画化もされてるみたいね)。


【関連記事】

【読書感想文】暦をつくる! / 冲方 丁『天地明察』



 その他の読書感想文はこちら


2022年9月15日木曜日

ツイートまとめ 2022年6月



ベクトル

トヨタ

永年陽当たり良好

アヒルと鴨のコインロッカー



貨幣経済

へりくつ

診察料

故事成語

確率

それは最初からわかっている

ジャー

トラップ

政党マッチ診断

ポイント

2022年9月14日水曜日

短歌


部下の退職報告を聞き怒鳴る課長がリピート「円満退職」


「甘い考えかもしれませんが」と保険を打つ その前置きが甘い考え


「人権侵害落書きはやめましょう」 そうでない落書きならいいのね


成長を約束している候補者の演説が生む交通渋滞


「不要物を便器の中に捨てないで」 待てよ小便は不要物では



2022年9月13日火曜日

ダイソーのカードゲーム

 百円均一のダイソーに、限定のカードゲームが売られているのを知っているだろうか。

 ダイソーがゲームクリエイターとコラボして制作しているらしい。

 これが意外に侮れないというか、とても百円とはおもえないクオリティのものもあって、たいへんお買い得だ。


 ボードゲームやカードゲームが好きで娘とよく遊んでいるのだが、安いカードゲームでも二千円ぐらいはするし、高いボードゲームだと一万円近くしたりする。

 それでもおもしろいものは何十回も遊べるからぜんぜん高くないのだけれど、問題は「ぜんぜんおもしろくなくて一回しかやりたくならないゲーム」も世の中には存在するということだ。

 カードゲームなんてのは基本的には紙だけでできているので、アイデア次第でとんでもなくおもしろいゲームにもなれば紙屑にもなりうる。
 そして紙だけでできているということは「コピーしやすい」ということでもある。トランプだってUNOだって花札だって、自宅で作ろうとおもえば作れる。だからだろう、多くのカードゲームは商品説明欄にごくごく一部のルールしか書いていない。全部書いてしまうとコピーされてしまうから。

 だから、カードゲームのおもしろさはやってみるまでわからない。クソつまらないゲームかもしれない、とおもうと数千円を出すのはなかなか勇気がある。


 その点、百均のゲームはいい。なんせ百円だ。消費税を入れても百十円だ。クソつまらなくて、一回やったらもうやりたくないようなゲームだったとしても、百円とおもえばぜんぜん許せる。今どきゲームセンターのゲームでも一回二百円三百円するようなものがあるのだ。

 だからダイソーでゲームを見つけたら手当たり次第に買っている。置き場所の問題もあるのでさすがに全部は買わないけど、ちょっとでもおもしろそうかもとおもったら買うようにしている。

 そんなダイソーで買ったゲームについて。







『ボードゲーム(生物学カードゲーム CELL ジェネリック 遺伝子工学vs生態学)』
『ボードゲーム(生物学カードゲーム CELL ジェネリック 免疫学vs微生物学)』

 生物学用語(キメラマウスとかips細胞とか)の擬人化キャラを使った対戦カードゲーム。やったことないけど、たぶん遊戯王カードとかマジック・ザ・ギャザリングみたいな感じだとおもう。

 これがなかなか奥が深く、九歳の娘が気に入って毎週土日の朝になると「セルしよう!」と誘ってくる。免疫学・微生物学・遺伝子工学・生態学の四種類のカードセットがあるが、パワーバランスが優れていて、どれも一長一短ある。運と戦術のバランスもよく、戦術によって勝率を上げることはできるが、それでも運が悪ければどうにもならない。

 これが、娘とやるのにちょうどいい。前にも書いたが、ぼくは子どもとゲームをするときに「わざと負ける」ことをしたくない。ハンデをつけるのはいいが、手は抜きたくない。だから運要素のあるゲームがいい。でも運だけでもつまらない。このゲームの場合、当初はぼくが娘に負けることはほぼなかったが、娘の実力もだんだん上がってきて今ではぼくの勝率は七割ぐらい。いい勝負ができるようになった。娘からすると「本気のおとうさんに勝てる」「工夫によって勝てることが増えてきた」という感じで、すごく楽しそうだ。

 ちなみに、近所のダイソーで「遺伝子工学vs生態学」を買ったが同じ店舗には「免疫学vs微生物学」が売られておらず、わざわざ電車に乗って遠くのダイソーにまで買いに行った。




『セカンドベスト!』

 四目並べのようなルールだが、このゲームのユニークな点は「待った」ができること。一度は待ったをかけてもいい。
 つまり、相手のうっかりミスによる勝利は期待できず、勝つためには「相手がどう指しても勝てる手」を打たなくてはならない。将棋でいう「必至」の状態だね。

 このルール、力量差のない相手とシビアに戦いたい人にはいいが、子ども相手で遊ぶのには向いていない。うっかりミスでの負けがない以上、数手先を読む力が必須である。そしてぼくは詰将棋や五目並べが得意なので、負けることはない。

 三回ぐらいやってすぐにやらなくなってしまった。




『グースカパースカ』

 グーが三枚、チョキが六枚、パーが三枚。これら全十二枚のカードのうち十枚をお互いに配っておこなわれるジャンケンゲーム。『カイジ』の限定ジャンケンのようなものだね。ジャンケンによって宝石を取り合うところも似ている。

 カードによって取れる宝石の数が異なる、後半になるほどやりとりする宝石の数が異なるなどの工夫はあるが、どうしても最後がぐだぐだになってしまう。なぜなら「勝った方は負けた方にカードを渡す」というルールがあるから。勝てば勝つほど手札の数が減り、さらに相手にカードを読まれてしまう。「あと一勝で終わる」まではたどりつけるが、そこから勝つのが至難の業。大勢が決してから、だらだらと勝負が長引いてしまう。

 これは一度やっただけでもうやらなくなった。




『GIRIGIRI』

 双六のような盤面があり、プレイヤーの出したカードによって駒が進んでいく(駒は全員でひとつだけ)。20の倍数を通過するとダメージを食らい、11の倍数に止まるとダメージを他のプレイヤーに渡せる。最終的にいちばんダメージの少ないプレイヤーが勝利。

 これは娘の友だちも入れて四人でやったが、たいへん盛り上がった。戦略と運の要素のバランスが良く、最後まで誰が勝つかわからない。途中でリードしていても最後に10ダメージを食らうとまず勝てないし。

 アクションカードの枚数が多すぎる、誰かひとりを集中攻撃することができるので空気が悪くなりやすいなど少し粗さも目立つが、そのへんはカードを抜いたりルールを追加したりして調整してもよさそう。

 特に盛り上がるのは「GIRI GIRI」というカード。これが出されると、全員「ギリギリ!」と言わなくてはならなくて、いちばん遅い人がダメージを受けてしまう。

 ただこれは三人以上でやるときにだけ有効なルールなので、一応説明書には「2~6人」と書いてあるが三人以上でやることを推奨する。



2022年9月9日金曜日

【読書感想文】那須 正幹『ぼくらは海へ』 / 希望のない児童文学

ぼくらは海へ

那須 正幹

内容(e-honより)
船作りを思い立った5人の少年。それぞれ複雑な家庭の事情を抱えながらも、冒険への高揚が彼らを駆り立てる。やがて新たな仲間も加わるが―。発表当時、そのラストが多くの子どもの心を揺さぶった巨匠・那須正幹の衝撃作。


 海辺の小屋に集う小学六年生五人。彼らは廃材を利用して船を作りはじめる。幾度もの失敗を経て、そして途中から加わった二人の協力もあり、ついに全員が乗れる立派な船が完成する。

 ……というあらすじだけ見れば、さわやかな冒険小説かとおもうだろう。ところがどっこい。物語は、終始どんよりした雰囲気に包まれている。

 父親不在のため、母親から進学校に進むようプレッシャーをかけられている誠史。病弱な妹のせいで家庭内の雰囲気が暗い雅彰。家は裕福で成績優秀でありながら、家族愛に飢えている邦俊。家庭の事情で引っ越しをくりかえしている勇。そして家が貧しく、家庭内もあれている嗣郎。

『スタンド・バイ・ミー』『グーニーズ』にも似た、それぞれ問題を抱えた少年たちの冒険譚ともいえるが、『ぼくらは海へ』の少年たちはとうとう最後まで心を一つにすることはない。船作りに対する熱意もバラバラだし、邦俊はほとんど協力しない。誠史は嗣郎を見下しており、新たに加わった康彦や茂男は他のメンバーとぎくしゃくしている。

 そして、台風が接近してきたある晩。船の近くに行った嗣郎は暴風によって船が壊れるのを防ごうとした結果、波にさらわれて死んでしまう。


 ぼくは小学生のときにこの本を読んで衝撃を受けた。

『ズッコケ三人組』シリーズの那須正幹さんの作品ということで同様のポップな少年冒険譚を期待して読んだのだが、まったくちがう。

 それまで読んだ児童文学には、主要登場人物が死んでしまう話なんてなかった。だが嗣郎はあっけなく死んでしまう。嗣郎の死は、強いインパクトを与えた。他のシーンはまったくおぼえていなかったが「メンバーのひとりが死んでしまう話」ということだけはずっとおぼえていた。




 さて、おっさんになってから再読してみると、改めて嗣郎の死が残酷な描かれ方をしていることがわかる。

 まず嗣郎が台風の晩に外出をしたきっかけは、酒飲みの父親に怒鳴られたことである。母親は止めるが、強くは止めない。それよりも「父親を怒らせないこと」を重要視しているように見える。両親からないがしろに扱われた結果の死。子どもにとってこんな不幸があるだろうか。

 おまけに彼は死んでも仲間から悲しまれない。船作りをしていた少年たちは校長先生から叱られるのだが、他の少年たちは反省するどころか「運が悪かった」「かかわらなきゃよかった」「嗣郎が死ぬのはぼくが引っ越した後だったらよかったのに」などと、我が身のことばかり考えている。康彦だけは深く反省するものの、彼にしても優等生としての自分の評価に傷が入るのを心配しているふしがある。

 このへんの描写は実にリアルだ。そうなんだよな、子どもって基本的に反省しないんだよな。怒られても「運が悪かった」「あいつのほうが悪いのに」「バレないようにするべきだった」ぐらい。ま、大人もそうか。

 そもそも校長先生の叱り方こそが責任転嫁のためである。児童が死んだのは、他の子らが危ないことをしていたから、担任の教師が危険な場所に立ち入らないように厳しく指導していなかったから、という他責感が随所ににじみ出ている。

 誠史たちのよこには、教頭先生をはじめ、六年生の先生がずらりとならんで、誠史たちをにらみつけていた。嗣郎の担任の中田先生のすがたは見えなかった。
「きみたちのやっていたあぶないあそびが、ひとりの友だちのとうとい命をうばったのですよ。それは、わかっているね。亡くなったのが、たまたま多田くんだったけれど、もしかしたら、ここにいるきみたちのなかのひとりが、死んでいたかもしれない。そうでしょう。」
 校長先生は、ゆっくりとしゃべる。「だいたいあの埋め立て地は、部外者立ち入り禁止じゃないんですか。うちの子どもたちにも、そのへんのところは指導してあったんでしょうねえ。」
 校長先生が、先生のほうに目をむける。教頭先生が、かしこまって口をひらいた。
「はあ、いちおう……。ただ、なにぶん校区外ですので、徹底した指導は……」
「校区の外といっても、うちの校区と隣接した危険地帯ですよ。現に、こうしてうちの子たちが、一年もまえから出入りしていたというじゃありませんか。」
「は、まことに申しわけありません。」

 大人も子どもも、誰も嗣郎の死を本気で悲しんでいない。それより責任をどう押しつけるかのほうが自分にとって大事だ。

 でもまあ、こんなもんだよな。他人の死って。


 少し前にいとこが自殺したんだよ。ぼくの一歳下だったので小さい頃はいっしょに遊んだけど、遠くに住んでいたので会うのは年に一回ぐらい。思春期になってからは会うこともなくなり、もう二十年近く会ってなかったんだけど。

 知らない人じゃないから「そっか……」とはおもったけど、「そっか……」以上の感想は出てこないんだよね。

 もう二十年会ってないからどんな顔してたかもおぼえてないし、生きてたとしても会うのは法事ぐらいだっただろう。だからひどい言い方をすれば、彼が生きていようが死んでいようがぼくの人生にはほとんど影響がない。

 だから「そっか……」。ニュースでどこかの誰かが不幸な死を遂げたのを見たときぐらいの気持ち。

 フィクションの中だと死って仰々しく描かれることが多いけど、じっさいは家族とか恋人とかでなければ「そっか……」ぐらいのもんなのかもしれない。




 嗣郎の死が強い印象を与える作品だが、改めて読んでみるととことんリアリスティックな作品だ。

 メンバーたちの家庭環境、うまくいかない船作り、学校や塾での居心地の悪さなどどこをとっても都合の良いところがない。登場人物たちを甘やかすことなく、かといって理不尽な目に遭わせることもなく、現実に起こりえる範囲の苦境を与えている。「誠史と邦俊が船で海に出るラスト」だけはファンタジーだけどね。

 人間関係もリアルに描かれている。

 船づくりは、埋め立て地の小屋での嗣郎を、いま一歩、連中のなかへくいこませる絶好のチャンスだった。
 いままで必死で四人の顔色をうかがい、おべっかをつかって、なんとか仲間にいれてもらっていたのが、船をつくるうちに、いつのまにか嗣郎を連中と対等にしてしまったのだ。
 こんなにあっさりと自分が、〈できる子〉と対等につきあえるなんて、嗣郎は思ってもいなかった。のこぎりのつかい方がうまいとか、かなづちのあつかい方をこころえているとか、たったそれだけのことで、育英塾にかよっているほどのエリートが、嗣郎のことをみとめてくれるとは思いもよらなかった。

 少年たちの冒険物語というと、なにかと美化されがちだ。自分の少年時代を思い返しても、キラキラした思い出がよみがえってくる。友人たちとひとつになって何かを成し遂げようと懸命になった記憶がよみがえってくる。

 でもそのときの気持ちをじっくり思い返してみると、そんなに単純なものではなかった。嫉妬したり、えらそうにしたり、すねたり、見下したり、意地悪をしたり。ぜんぜん対等じゃなかった。心はひとつじゃなかった。

 こんなに希望のない児童文学を書けるのはすごいとおもう。皮肉でもなんでもなくほんとに。希望がないからこそ届くことってあるもんなあ。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



 その他の読書感想文はこちら


2022年9月8日木曜日

ジグソーパズル

 九歳の娘がジグソーパズルを好きなのでいっしょにやる。

 ぼくも嫌いじゃない。というかやりだすととまらない。好き、というのとはちょっとちがう。


 なんなんだろう、ジグソーパズルというやつは。

「あんなの何がおもしろいの。ばらばらになった部品をまた組み合わせるだけで生産性ゼロじゃない。時間さえかければ誰にだってできるし、何がおもしろいのかわからない」

という人もいるだろう。その気持ち、わかる。ぼくも何がおもしろいのかまったくわからない。でもおもしろい。やりだすと止まらなくなる。


 ジグソーパズルはやめどきがわからない。風呂が沸くまでの間、ジグソーパズルをする。風呂が沸いたというアナウンスが流れる。けれど止められない。娘に「そろそろお風呂行こっか」と言う。娘が「うん」と言う。しかしふたりとも手が止まらない。あと一個だけはめたら中断しようとおもう。けれど一個はめるとその隣が気になる。ひとつ見つけると次から次に気になるパーツが見つかる。妻が呼びに来る。「早くお風呂入ってよ」と。しかし妻もジグソーパズルのパーツを手に取って「これ、ここじゃないの」とやりだす。こうして風呂が沸いてから三十分たっても家族みんなまだジグソーパズルの前から離れられない。

 わざわざやろうという気にはならない。ジグソーパズルをやっていないときに「あー、無性にジグソーパズルやりたくなってきたー!」とはおもわない。しかしやりだすと止められない。それがジグソーパズルの魔力だ。


 まったく、ジグソーパズルなんて二十一世紀の人間様のやることではない。こんなものはプログラムを組んでコンピュータにやらせる時代だ。我々ホモサピエンスはもっと創造性の高い仕事をしなくてはならない。

 なのに人間はジグソーパズルの前から離れることができない。形や模様が合うものを探してきて並べる。それだけのことに何時間も費やしてしまう。なんて人間は愚かなんだろう。いや、ジグソーパズルが強すぎるのか。




 ジグソーパズルはむずかしくておもしろいのがいい。

 うちには十種類以上のジグソーパズルがある。何度もくりかえし遊ぶものもあれば、一、二回やっただけでそれっきりやっていないものもある。

 その差は「作業の時間が少ないかどうか」だ。


 ジグソーパズルには、たいてい〝作業〟の時間が発生する。

 基本的にジグソーパズルは、
「カドや端のパーツを見つけて組みあわせる」
「特徴的なパーツ(人物など)を見つけて組みあわせる」
「特定の色のパーツを見つけて組みあわせる」
「特徴のある形のパーツを見つけて組みあわせる」
「何の特徴もないパーツを見つけて組みあわせる」
みたいな感じで進行する(もちろんこんなにきれいに分かれていなくてそれぞれがからみあっている状態だが)。

 問題は「何の特徴もないパーツを見つけて組みあわせる」の部分だ。これは〝作業〟である。とにかくひたすら試行錯誤をくりかえすだけ。

 ここがほんとにつまらない。ここの部分だけ時給を払って人にやらせたい。 


 いいパズルは、この〝作業〟の部分が少ない。

 盤面全体にバランスよく人や物が配置されていて「何も描かれていないパーツ」が少ない。空や海のように一見平坦な部分であっても、影が描かれているとか、高度や深度によってグラデーションになっているとか、なんらかの変化がある。

 また、絵柄の少ない部分の形がオーソドックスな「凹凸凹凸」だけではなく「凸凸凸凸」「凹凸凸凸」になっていたりして、手がかりが設けられている。

 こういうパズルはずっとおもしろい。「何も考えずにひたすら試行錯誤」の部分がほとんどないからだ。


 こないだやった『名探偵コナン』のジグソーパズルはよかった。

 1,000ピースとちょっとしたボリュームがあったが、人物が多く描かれていて、それぞれの肌の色、瞳の色、髪の色、眼の形などが似ているようで微妙に異なる。もちろん服の色も異なる。背景部分にもステンドグラス風の模様があしらっていて、細部までノーヒントのパーツがない。

 ジグソーパズルの良し悪しを買う前に見極めるのはむずかしい。たいていは絵柄の好みとかピースの数で選んでしまうが、こういった細部への配慮こそがおもしろさを決めるからだ。

 ジグソーパズルは単純に見えて意外と奥が深いのだ。ただ、何がおもしろいのかはまったくわからないが。


【関連記事】

四歳児とのあそび

2022年9月7日水曜日

名づけることで見えてくる

 名づけることで見えてくるものがある。


 たとえば『トマソン』。赤瀬川源平氏が、街中にある役に立たない建造物などを「トマソン」と名付けた(名前の由来は鳴り物入りで来日したけどまったく活躍しなかった外国人野球選手)。

 どこにもつながっていない階段とか、何も防いでいない塀とか、開けられない位置にあるドアなどが『トマソン』だ。

 この命名により、多くの人が「これはトマソンだ」「あれはトマソンじゃないか」と次々にトマソンを発見した。トマソンの命名は今から五十年前だが、今でもTwitterなどで「トマソン」で検索すると、多くの人が「トマソン発見!」とつぶやいている。

 もちろん、命名以前にもトマソンは存在していた。人々は「なんでこんなところに階段があるんだろう」とか「あんなところにドアをつけても無駄じゃないか」とおもっていたはずだ。

 だが、赤瀬川源平氏が『トマソン』という名前を与えたことで、トマソンはより鮮明に人々の前に立ち上がってきた。『トマソン』という言葉を知っている人は、そうでない人に比べて「街の中にある何の役にも立たない建造物」の存在に気づきやすいはずだ。



『レトロニム』という言葉がある。名付けたのはアメリカのジャーナリストだそうだ。

  • 携帯電話が主流になったので、それまで電話と呼んでいたものを「固定電話」と呼ぶようになった
  • 新幹線ができたので、それまでは鉄道と呼んでいたものを「在来線」と呼ぶようになった
みたいな言葉だ。「白黒テレビ」「アナログ時計」「地上波放送」などもレトロニムだ。

 これも、言葉を知らないと気づきにくい。

 ぼくは『レトロニム』という言葉を知っていたせいで、コロナ禍に生まれた〝オフライン飲み会〟や〝ノーマスク会食〟という言葉を聞いて「レトロニムだ!」と気づけた。気づいたからなんだって話だが。


「今までみんなの目に入っていたけど特に意識されなかったもの」に名前をつけるのがうまいのが、みうらじゅん氏だ。

 有名なところだと『マイブーム』『ゆるキャラ』『クソゲー』など。言われてみれば、そういうのってあるよねとおもわせるようなものを見事にカテゴライズして名前を与えている。『ゆるキャラ』なんて、名前を与えられたことで認知されたどころか増殖した。

『クソゲー』もいい。「つまらないゲーム」だと誰も見向きもしないが、『クソゲー』という名前を与えておもしろがったことで逆に愛着が沸くようになった。

『いやげ物』『ムカエマ』なども、誰もが一度は見聞きしたものだがほとんど気にも留めなかっただろう。だがネーミングを与えることで改めてその存在に気づかされる。



 よく言われることだが、日本語には「梅雨」「小雨」「にわか雨」「霧雨」「雷雨」「五月雨」「氷雨」「長雨」「豪雨」「時雨」「春雨」「秋雨」など雨に関する言葉が多いという。だから日本語が豊かだとかいうことはぜんぜんなくて、単に季節の変化がはっきりしていて湿度の高い国だからそうなっただけで、緯度の高い国なら雪に関する言葉が多いだろうし、小島で暮らす民族なら海の状態を指す言葉をたくさん持っているはずだ。

 語彙が増えると、世界の見え方が変わる。いわゆる〝解像度〟が高くなるという現象だ。


 ぼくのおばあちゃんは、名前をつけるのが好きな人だった。無灯火の自転車で走る見知らぬ人を勝手に「ムトウさん」と呼び(ムトウカ走行なので)、ケチな知人のことは「高月さん」(「高くつく」が口癖なので)、うるさい人は「大越(オオゴエ)さん」、強情な人は「片井(カタイ)さん」と呼んでいた。

 きっとおばあちゃんには、街ゆく人々のことがずっと身近に鮮明に見えていたことだろう。


関連記事

レトロニム

2022年9月5日月曜日

【読書感想文】パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』 / 民主主義のほうがおもしろい

つっこみ力

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
世の中をよくしていくために、「正しい」議論をしていこう!ってそれは大いにけっこうですけど、でもその議論、実は誰も聞いてなかったりなんかしてません?ちょっと、エンターテイメント性に欠けてない?そこで本書でおすすめするのは四角四面な議論や論理が性にあわない日本人におあつらえ向きの「つっこみ力」。謎の戯作者パオロ・マッツァリーノによる本邦初の「つっこみ力」講演(公演)会、おせんにキャラメルほおばりながら、どうぞ最後までお楽しみくださいませ。


 自称イタリア人のパオロ・マッツァリーノによる、講演(公演)会の形をとった統計漫談。

 パオロ・マッツァリーノ氏の本はこれまでに何度も読んだことがあるが、基本的な話は似たようなものだ。「Aは最近増えた。これはBだからだ」「伝統的にCをやってきた。だからCを絶やしてはならない」「Dが変わった結果Eが悪くなってしまった。Dを戻さなくては」といった世間一般にあふれる言説に対して、統計や各種データをもとに「いやそんなことないぜ」と反論していく形だ。

 氏の本に対するぼくの評価は「話はおもしろいけど内容はあまり残らない」だ。たしかにおもしろい。おもしろいんだけど、ほとんど何も残らない。「〇〇とおもわれていたけど調べた結果ウソでした」という結論になることが多いからね。

 世の中は組み立てる人とぶっ壊す人がいるからこそ成り立っているのだが、パオロ氏は圧倒的に後者だ。先人たちがつくったものをスクラップするのは見ていて楽しい。でも、後に残るのは更地だけ。だから読み終わって「あーおもしろかった」で終わってしまう。

 ま、それはそれでいいんだけど。ただ建設的な話が読みたい人にはおすすめしない。




 氏の本にはそういう傾向があるけど、中でもこの本は特に散漫だ。全体を通してのテーマはないに等しい。一応「世の中に対してつっこみを入れよう。批判じゃなくて楽しくつっこむぜ」ってテーマがあるけど、話があっちこっちに移るので「この人は何が言いたいんだろう?」という気になる。

 エッセイとして読む分にはいいんだけど、仮にも新書として刊行している以上は全体を貫く軸があったほうがいいのにな。




 散漫な話がくりひろげられるので、以下、散漫な感想。

 新聞の読者投稿欄に、定年退職した人が「無職」と書きたがらないことについて。

 さて、投書する際に無職と書くことに抵抗のある見栄っ張りがたくさんいることはわかりましたが、彼らが取る手段としてもっとも多いのは、なにかわかりますか。これがじつは、「元なになに」という肩書きなんです。平成七年だけで八一人あまりの投稿者が元なになにと名乗って掲載されています。そのなかでも一番多いのが、元教師・元校長で、二九人いらっしゃいました。教育問題と関係のないネタでも、元教員と名乗るのですから、教員のみなさんのプライドの高さといったら、尋常ではありません。
 この事実に気づいたのは私だけではなかったようで、平成一一年の四月に、「無職とはなぜか書けない元教師」というスパイスの効いた投稿川柳が掲載されてるんです。これを受けて、さっそく元教師のかたが、じつは自分も疑問に思っていた、と投書を寄せています。このことがきっかけになったのかは定かでありませんが、これ以降、元教師という肩書きが投書欄から姿を消します。その代わり、みなさん「元教員」を名乗るようになりました。なんじゃそりゃ。
 でも、「元」ってのは反則ですよねえ。これが許されるなら、失業中の人は、元会社員と名乗る権利があることになってしまいます。なかには、「前市議」という投書もありました。いつまで過去の栄光にしがみついてぶら下がってたら気がすむんですか。あんたはターザンか。

 はっはっは。「元〇〇」を名乗るのって恥ずかしいねえ。教師としての体験談を語るんならわかるけど、それ以外の話でもずっと「元教師」を引きずって生きてるんだ。みっともないねえ。

 母が自治会の役員をしたとき、
「自治会の役員ってヒマなじいさんがいっぱいいるんだけど、あの人たちは事あるごとに『私は〇〇社の役員をしていた』とか『私は□□大学を出たのだが』とか言うのよ。そんな肩書が自治会で通用するとおもってるのよ。アホだわ」
と言っていた。

 ぼくの見た限り、昔の栄光を引きずるのは圧倒的に男が多い。ちゃんと調べたわけじゃないがまちがいない。女で「私は〇〇大学出身です」「私は〇〇で取締役やってました」とか言ってるのを聞いたことないもんね。そんな肩書をつけてる女なんて「元タカラジェンヌ」と「元インドネシア大統領夫人」ぐらいだ。




 自殺対策と失業率対策のどちらを優先させるか、という話。

 まあ、こういったコワい考えは、かなりうがった見方ですけど、仮に、景気回復によって失業率が低下し、自殺率も下がるという正統派の法則が成り立つにしましても、だから失業率の改善が大事って主張には、どうしても、違和感が残るんです。
 いままさに自殺しようとしている人や、溺れかけてる人にむかって、「おおい、待ってろよー、いま景気を良くしてやるからなー」って、それで人助けをしてるつもりなんです かね。
 景気なんていう、数字の羅列でできた経済の枠組みを維持するのが先決で、切れば血が出る生身の人間は、ついでに救ってやれれば御の字だ、みたいなね、いかにも頭でっかちな優等生が考えそうな、いけすかない考えかたに、私は虫酸が走るんです。
 受験秀才が学者になって社会学とか経済学をやると、川の流れこそが大切で、一滴一滴の水滴はどうでもいいみたいな、マクロ社会理論や社会システム論信仰に走りがちなところがあるんです。私は、どうしてもそこについていけません。ときとして社会科学に人間性が感じられないことがあるのは、人間を信じていない学者が多いからです。

 ふうむ。

 ぼくはどっちかというと「個別の対策よりもマクロな対策を」とおもってしまう側の人間なんだよね。受験秀才だったから。

 でも言われてみれば、マクロな施策が大事だからといってミクロな対策をおろそかにしていい理由にはならない。

 最近もコロナ禍で「感染症対策と景気対策のどちらを優先させるか」という議論をよく耳にした。ほんとはこの問いの立て方自体が誤っているのかもしれないけど。
 そこで「景気対策重視派」は、「景気が悪化すれば失業者が増える。そうすれば感染症で死ぬよりももっと多くの自殺者が出る」という説を唱える。

 一見もっともらしい。でもほんとうだろうか。

 ほんとに景気が悪くなれば自殺者が増えるんだろうか。「景気が悪くなったから死ぬわ」なんて人はひとりもいないだろう。

 景気が悪くなって失業してそれを苦にして自殺するのなら、それは「失業したぐらいで生きていけなくなる社会」こそが問題なんじゃないだろうか。

 不景気に自殺した人は、好景気なら自殺してなかったのだろうか。

 また、感染症対策を強化するのと、対策を緩めて感染拡大させるのとではどっちが景気が悪くなるんだろうか。

 仮に感染症対策を強化すると自殺者が増えるとして、「生きたかった人が感染症で死ぬ社会」と「死にたい人が自殺する社会」ではどっちが経済成長するのだろう。


 答えはぜんぶ「わからない」だ。

 わからない。景気が良くなれば自殺者は減るのか。どうすれば景気が良くなるのか。誰も正解は知らない。

 だったら「効果のわからないマクロな施策」よりも「とりあえず目の前のひとりを救えるミクロな施策」のほうが大事かもしれない。

 少なくとも、生活保護などのセーフティーネットへの予算を削って、「経済成長」なんていうよくわからないもののために金を使うのはまちがっているかもしれない。




 おもしろさは、人それぞれです。ですから、社会をおもしろくするためには、多くの国民の意見に耳を傾けなければなりません。政治家は大変な労力を求められます。でも、それこそが民主主義の精神なわけで、民主主義国家とは、正しい国のことでなく、おもしろい国のことなんです。

 いい言葉だなあ。

 たしかにね。正しさなんてどこにもない。ぼくは民主主義国家で生まれて民主主義国家で育ったから他は知らないけど、どう考えても全体主義国家や権威主義国家よりも民主主義国家のほうがおもしろそうだもんな。まちがいない。

 統治する側としては全体主義のほうが都合がいいから、気を抜くとそっちに傾いてしまいがちだけど(今も「ああこいつほんとは全体主義国家にしたいんだろうな」って政治家いっぱいいるもんね)、どう考えたって民主主義国家のほうが楽しい。

 学校なんかわかりやすい例だよね。バカな教師ほど、全体主義的にしたがる。そっちのほうが楽だから。でもトップクラスの進学校ほど民主的だ。灘高校や麻布高校は私服で髪色も自由。どっちの学校のほうがおもしろいかは考えるまでもない。そしておもしろい学校にはおもしろくて優秀な学生が集まってますます差がつく。


「正しいかどうか」「良いかどうか」ではなく「おもしろいかどうか」を基準に考えることは大事かもね。そうすりゃ自然に民主的になる。


【関連記事】

【読書感想文】伝統には価値がない / パオロ・マッツァリーノ『歴史の「普通」ってなんですか?』

【読書感想文】怒るな! けれど怒りを示せ! / パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』



 その他の読書感想文はこちら