2019年10月7日月曜日

【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

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超予測力

不確実な時代の先を読む10カ条

フィリップ・E・テトロック (著) ダン・ガードナー (著)
土方 奈美 (訳)

内容(e-honより)
「専門家の予測精度はチンパンジーのダーツ投げ並みのお粗末さ」という調査結果で注目を浴びた本書の著者テトロックは、一方で実際に卓越した成績をおさめる「超予測者」が存在することも知り、その力の源泉を探るプロジェクトを開始した。その結果見えてきた鉄壁の10カ条とは…政治からビジネスまであらゆる局面で鍵を握る予測スキルの実態と、高い未来予測力の秘密を、米国防総省の情報機関も注目するリサーチプログラムの主催者自らが、行動経済学などを援用して説く。“ウォール・ストリート・ジャーナル”“エコノミスト”“ハーバードビジネスレビュー”がこぞって絶賛し、「人間の意思決定に関する、『ファスト&スロー』以来最良の解説書」とも評される全米ベストセラー。

おもしろかった!
仕事、投資、政治、軍事、趣味その他いろんなことに使えそうな知見がぎっしり。

この本のテーマは「予測」だ。
著者は多くのボランティアを集め、大規模な予測実験をした。
「北朝鮮は三年以内に韓国に軍事攻撃をしかけるか?」といった近未来に関する問いをいくつも用意し、回答者たちは「その可能性は30%」などと予測する(途中で変更してもよい)。

「Yes/No」で答えられる質問ばかりなので、チンパンジーがやっても50%は正解する。
大半の予測者の成績はサルと大差なかった。
だが、その中に明らかに高い正解率を出した人たちがいた。研究機関の専門家よりも正解率が高かったのだ。
著者は彼らを「超予測者」と呼び、重ねて実験をした。すると超予測者の多くは続いてのテストでも高い成績を出した。

超予測者とはどういう人たちなのか?
彼らにはどんなやりかたで高いスコアをたたきだしているのだろうか?
そして我々が彼らのような高い予測力を身につけることは可能なのだろうか?

……という本。
わくわくする内容だった。



「超予測者」というと百発百中で未来の出来事を言い当てる超能力者みたいな人を予想するかもしれないが、もちろんそんなことはない。
彼らもまちがえる。ふつうの人が50%まちがえる問題を、彼らは30%とか40%とかまちがえる。

なーんだそんなもんかとおもうかもしれないが、このちがいが大きい。
ルーレットで赤と黒が出るかを60%の確率で的中させることができれば確実に大金持ちになる。

超予測者自身も、重要なのはわずかな違いであることをを知っている。
100%は不可能。50%を60%にする、60%を61%にする。そのために学び続けられる人が超予測者になる資格を持っている。

つまり、予測の精度を上げるためには「自分はまちがっているのでは?」という反省を常にしつづけることが重要だということだ。

「おれは正しい! まちがってるはずがない!」って人はまちがえる。「私は誤っているかもしれない」という人が正解に近づける。皮肉にも。
 ビル・フラックも予測を立てるとき、デビッド・ログと同じようにチームメートに自分の考えを説明し、批判してほしいと頼む。仲間に間違いを指摘してもらったり、自分たちの視点を提供してもらいたいからだが、同時に予測を文字にすることで少し心理的距離を置き、一歩引いた視点から見直せるからでもある。「自分自身によるフィードバックとでも言おうか。『自分はこれに賛成するのか』『論理に穴はないか』『別の追加情報を探すべきか』『これが他人の意見だったら説得されるか』といった具合に」
 これは非常に賢明なやり方だ。研究では、被験者に「最初の予測が誤っていたと思ってほしい、その理由を真剣に考えてほしい、それからもう一度予測を立ててほしい」と要求するだけで、一度めの予測を踏まえた二度めの予測は他の人の意見を参考にしたときと同じくらい改善することがわかっている。一度めの予測を立てたあと、数週間経ってからもう一度予測を立ててもらうだけでも同じ効果がある。この方法は「群衆の英知」を参考にしていることから「内なる英知」と呼ばれる。大富豪の投資家ジョージ・ソロスはまさにその実例だ。自分が成功した大きな理由は、自らの判断と距離を置いて再検討し、別の見方を考える習慣があるためだと語っている。

知的謙虚さのほかに、超予測力のためには思考の柔軟さも必要であるとしている。

 ではなぜ二つめのグループは一つめのグループより良い結果を出せたのか。博士号を持っていたとか、機密情報を利用できたといったことではない。「何を考えたか」、つまりリベラルか保守派か、楽観主義者か悲観主義者かといったことも関係ない。決定的な要因は彼らが「どう考えたか」だ。
 一つめのグループは自らの「思想信条」を中心にモノを考える傾向があった。ただ、どのような思想信条が正しいか、正しくないかについて、彼らのあいだに意見の一致はなかった。環境悲観論者(「ありとあらゆる資源が枯渇しつつある」)もいれば、資源はふんだんにあると主張する者(「ありとあらゆるものにはコストの低い代替品が見つかるはずだ」)もいた。社会主義者(国家による経済統制を支持する者)もいれば、自由市場原理主義者(規制は最小限にとどめるべきだと主張する者)もいた。思想的にはバラバラであったが、モノの考え方が思想本位であるという点において彼らは一致していた。
 複雑な問題をお気に入りの因果関係の雛型に押し込もうとし、それにそぐわないものは関係のない雑音として切り捨てた。煮え切らない回答を毛嫌いし、その分析結果は旗幟鮮明(すぎるほど)で、「そのうえ」「しかも」といった言葉を連発して、自らの主張が正しく他の主張が誤っている理由を並べ立てた。その結果、彼らは極端に自信にあふれ、さまざまな事象について「起こり得ない」「確実」などと言い切る傾向が高かった。自らの結論を固く信じ、予測が明らかに誤っていることがわかっても、なかなか考えを変えようとしなかった。「まあ、もう少し待てよ」というのがそんなときの決まり文句だった。

なんていうか、世間で大きな声で何かを叫んでいるのって柔軟とは真逆な人たちだよね。

政治家や評論家やアナリストとかが「これからこうなる!」って叫んでるけど、この人たちのありかたは「謙虚」「柔軟」とは正反対に見える。
自分の正しさを疑うことなく、思想信条に基づいて、新たな情報の価値を低く見る。

当然彼らの予測はあまり当たらない。チンパンジー並みの成績しか出せない(逆にいうとどんなバカの予想でもチンパンジー程度には当たってしまう)。
予測が外れてもろくに検証されずに「私は元々こうなるとおもっていた」という後出しじゃんけんの一言で済ませてしまう。
あるいは「こんな悪いことになったのは私の言うとおりにしなかったからだ!」「おもっていた以上に良い結果になったのは私ががんばったからだ!」と己の手柄に持っていくか。

これは、チンパンジー並みの正答率しか出せない政治家や評論家が悪いというよりも、そういう人の発言に耳を傾けてしまう我々が悪いよね。
だってみんなはっきりものをいう人が好きなんだもん。
「Aの可能性もあるしBが起こる可能性も捨てがたい。もちろんCが起こる可能性もゼロではないので備えを欠いてはいけない……」
という人より
「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」
って人の発言のほうをおもしろがってしまう。

だけどおもしろいからってチンパンジー並みの政治家を持てはやしちゃだめだ。それだったらまだタコにワールドカップの勝敗予想をさせるほうがマシだ(古い話だな)。



予測精度を上げるためには、検証が欠かせない。
 コクランが例に挙げたのは、サッチャー政権が実施した若年犯罪者に対する「短期の激しいショック療法」、すなわち短期間、厳格なルールの支配するスパルタ的な刑務所に収容するという手法である。それは効果的だったのか。政府がこの政策を一気に司法制度全体に広げたため、この問いに答えるのは不可能になってしまった。この政策が実施されて犯罪率が下がったら、それは政策が有効だったためかもしれないが、他にも考えられる理由は何百通りもある。反対に犯罪率が上昇した場合、それは政策が無益あるいはむしろ有害だったためかもしれないし、逆にこの政策が実施されなければ犯罪率はさらに高くなっていたかもしれない。当然政治家はどちらの立場もとる。与党は政策は有効だったと言い、野党は失敗だったと言うだろう。だが本当のところは誰にもわからない。政治家も暗闇で虹の色を議論しているようなものだ。
「政府がこの政策について無作為化比較試験を実施していれば、今頃はその真価がわかり、われわれの理解も深まっていたはずだ」とコクランは指摘する。だが政府はそうしなかった。政策は期待どおりの成果を発揮すると思い込んでいたのだ。医学界の暗黒時代が何千年も続く原因となった無知と過信の弊害がここにも見られる。
これはイギリスの話だが、日本の政治もほとんどが検証されていないようにおもう。

本来なら、政策導入前に「これを実施することによって〇〇の効果が見込めます。□□年までに××、□□年までに××の効果が得られなければ効果はなかったものとして中止します」といった検証プロセスを設定するべきだ。
(ちなみにぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、Webマーケティングの世界ではこれはやってあたりまえのことで、やっているからといって誇るようなことではない)

残念ながらぼくは寡聞にして、政治の世界においてこのようなプロセスが公表されているのを聞いたことがない(仮にやっていたとしても公表しなければ意味がない。なんとでもごまかせてしまうのだから)。

もちろん政治においては数値で検証不可能なことも多い。人々の幸福度を上げるのが目的であればどうやったって恣意的になるし、結果が出るまでに十年以上かかるような政策もざらだ。
でも、仮目標として指標を定めるなり、スモールゴールを設定するなり、やろうとおもえばできることはいくらでもある。
それをしないのは、「失敗を認めたくない人間」ばかりが政策立案をしているせいなのだろう。

さっきの例でいうと「A! A! A! ぜったいA! それ以外はありえん!」っていうタイプ。言い換えると、チンパンジータイプ。


これはもう根本的に制度が誤っているんだろうね。
まちがえた人間を失脚させて、まちがえなかった人間を引き上げる制度にしていると、まちがいが減るかというとそんなことはない。
「まちがいを認めない人間」「まちがいをごまかす人間」ばかりになってしまう。そして予測精度は0.1%も改善しない。

改めるには、「まちがいを発見した人間(己のまちがいも含む)」に褒章を与えるような制度にしないといけないんだけどなあ。



この他にも、かつてドイツ軍が強かったのは「予測がはずれる前提で作戦を立てていた」からだとか、おもしろいエピソードがたくさん。

重要な意思決定に携わる人間は全員読むべき本だね。チンパンジーのままでいいならべつだけど。


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