2015年11月30日月曜日

【思いつき】われら復讐の子

「復讐は何も生まない!」
と言う人は、『忠臣蔵』『かちかち山』『さるかに合戦』が誰にも何の感動も与えずにこれだけ長く語り継がれてきたと思っているのだろうか。


2015年11月28日土曜日

【思いつき】日本ふつう話

 有名な日本むかし話も、ちょっと変えるだけでメルヘンさのかけらもないごく普通の話になるね。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

「わたしがお風呂に入っているあいだは、決して中をのぞかないでください」
 男が言いつけを破って中をのぞくと、
あんなに美しかった女は鬼の形相へと変わり、走り去ったまま二度と戻ってくることはなかったということでした。


2015年11月27日金曜日

【戯曲】正直村と嘘つき村(当時)

「この先に、正直村と嘘つき村があります」

 「はい」

「どちらも行政区分としての村ではありません」

 「はい?」

「かつて存在していた正直村と嘘つき村は、平成の大合併により四国中央市に統合されました」

 「四国中央市に」

「今では、『愛媛県 四国中央市 正直』という地名にその名を残すのみです」

 「嘘つき村のほうは」

「イメージが悪いのでその名前は完全に消えました」

 「なるほど。四国中央市は四国の中央にあるんですか」

「いえ。北端です」

 「じゃあ嘘つき村の精神は今も根づいているわけですね」

2015年11月26日木曜日

【エッセイ】下々の生活

ミュージシャンが全国ツアーで言う
「大阪めっちゃ好きやねん!」
「福岡好いとーとよ!」
って、ほんとに好きだったらぜったいそんなこと言わないよね。

庶民の服を着て城下町へ出て「なるほどこれが下々の生活か」とうそぶく殿様と同じような傲慢さを感じる。

全国ツアーでご当地あいさつをするミュージシャンは、アメリカ南部なまりの人に向かってわざと南部なまりの英語でしゃべって銃を向けられたらいいのに。

2015年11月25日水曜日

【思いつき】人形のプーさん

くまのプーさんが熊じゃなくてぬいぐるみだということを、今さらながらはじめて知った。
どうりで黄色いと思った。

ってことはプーさんの世界は、クリストファー・ロビンの空想の世界なわけか。
『くまのプーさん』のクリストファー・ロビンとプーさんの関係は、
『トイ・ストーリー』におけるアンディとウッディだったんだね。
 視点が逆だから気がつかなかった。

2015年11月24日火曜日

【エッセイ】しつこくないやぎさんゆうびん

 2歳児が歌っていた。
「くろやぎさんからおてがみついた♪
 しろやぎさんたらよーまずにたべた♪
 しーかたがないっ!」

 うん、そうだよね。
 そっちのほうがまっとうな対応だよね。


2015年11月23日月曜日

【ふまじめな考察】世にもつまらない文章

インターネットが普及したことによって、ホームページやブログやTwitterやFacebookなんかで、誰でもかんたんに自分の文章を全世界に向けて発信できるようになった。
とても便利な世の中になったと思うが、何がすばらしいって、誰でも手軽に「つまらない文章を読めるようになった」ことだ。

昔は、そうではなかった。
書籍や雑誌や新聞など、活字となって世に出回っているものは、ちゃんと訓練を受けた人が書いていて、ちゃんと訓練を受けた人がチェックしていたわけだから、一定の水準には達していた。
現在TwitterやFacebookで散見される「うちの子こんなにかわいいのよ。でへへ」みたいなゴミや、「おれってこんなに人脈広くてすごいお方なんだぜ。どやっ!」みたいな産廃は、インターネット以前には活字になる前に葬られていたものだった。
そういったひどい文章は、小学校の文集や会社の社内報でひっそりと出回っているだけで、誰でもかんたんにアクセスできるようなものではなかった。

つまらない文章を読むと、勉強になる。
起承転結のない自分語りがいかに読者を不快にさせるか、どんな文章指南書よりも雄弁に教えてくれる。
テクニックのない人の内輪話を読んでいると、痰壺をのぞいているような気分になる。この事実は、名文家とされる文豪の著書をいくら読んでもわからないことだ。

ぼくが子どもの頃、大人はみんな立派な人だと思っていた。
大人たちが書く文章は、筋道が通っていて、読み手のことを意識していて、エゴを抑えたものばかりだったからだ。
その認識が誤りだったことを、インターネットは教えてくれた。
大人がみんな読みごたえのある文章を書くわけではなく、そういった文章を書ける大人だけが世間に文章を発表する権利を与えられていただけだったのだと。

文章にかぎった話ではない。
歌がへたくそな歌手や、つまらないお笑い芸人や、考えのない評論家は昔からいた。ただ彼らが陽の目を見なかっただけで。
今、我々は彼らから多くのものを学ぶことができる。いい世の中になったものだ。

数百年前から駄作を提供してくれていた、和歌がへたくそな歌人や、弱い武士や、思想浅薄な儒学者たちの存在が現在に伝わっていないことがつくづく残念でならない。

【思いつき】あんたがたどこさ


たぬきがあんたがたどこさをしているイラスト。

撃たれて煮られて焼かれて喰われるとも知らずに……。

2015年11月20日金曜日

【ふまじめな考察】おばあちゃんの寿命を伸ばすには

海外のとある大学教授の話。
試験前になると多くの学生が
「すみません、祖母が先週亡くなりまして。葬儀があって勉強できなかったんです。そういう事情なんで、なんとか単位をもらえないでしょうか……」
と言いにくるので、
「試験と祖母の急死の間の因果関係」
を調べたそうです。
教授がデータを収集してみたところ、祖母が亡くなる確率は、試験の前にはふだんの10 倍以上になり、さらに成績の良くない学生の祖母が亡くなる確率は50 倍にも上ることがわかったそうです。
(中室牧子『学力の経済学』より)


なるほど、おもしろい研究だ。

ということは、平均寿命を伸ばすためには、大学の試験をやめればいいわけだな!
(正しい推論から導きだされる、誤った結論)

2015年11月19日木曜日

【エッセイ】一円たりない

 レジから離れてから気がついた。
 お釣りが一円たりない。
 もう一度数える。
 まちがいない。

 心臓が高鳴る。
 ぼくは今、試されている。
 そう、こういうときにこそ真の人間性が試されるのだ。
 ここでいかにスマートに振る舞えるか。そこでダンデーな大人か、あるいはしみったれた守銭奴かを決定づけるのだ。
 さあ、この危機的状況を打破できるのか。
 ペットボトルのキャップサイズのぼくの人間としての器に、途方もなく大きな試練が注がれている。
 
 
 足りないのが百円だったなら話はかんたんだ。
 百円だったら堂々と云える。
 胸を張ってレジに戻り「おつり百円たりなかったよ!」と大きな声で云えばいい。
 そこまで強く云われたら中国ですら尖閣諸島をあきらめんじゃね? ってぐらい声高らかにぼくの領有権を主張することができる。
 百円という大金だったなら。

 しかし。
 今ぼくの手元に足りないのは一円なのだ。
 都会では自殺する若者が増えているが、問題は一円たりないことだ。

 数万年前に我々の祖先が言語を獲得して以来、ありとあらゆるフレーズが人々の間を飛び交ってきた。
 その中でも、およそこんなにも情けないセリフはなかろう。
「一円たりないんですけど」
 九歳のときのことが頭によみがえる。
 あの日おつかいを頼まれたぼくは、会計を済ませた後、おつりが十円たりないことに気づいた。
 あわててレジに駆けもどり、店員のおねいさんに十円たりない旨を伝えた。
 そのときの不信感に満ちたおねいさんの顔が今でも忘れられない。
 ほんとにたりなかったの?
 そうやって十円多くせしめようって腹でしょ、小汚いガキンチョね。
 おてんと様は騙せても、このあたいの目は欺けないわよ。
 この桜吹雪が目に入らないの?
 おねいさんの瞳はそう云っていた(ような気がした)。
 結局、しぶしぶといった様子でおねいさんは十円玉を手渡してくれたのだが、疑われた(ような気がした)ことは、少年だったぼくに深いショックを与えた。

 この出来事はぼくを卑屈な人間にした。
 つまり今ぼくが女にモテないのはあのおねいさんのせいであるということだ。


 しかしもうあの頃とはちがうんだ。
 ぼくもいい大人になった。
 ネクタイだってしてるし、シャツの裾だってほとんどズボンの中にしまってる。
 こんな三十のおじさんが、たかが一円のために嘘をつくなんて誰も思いやしない。
 堂々と権利を主張すればいい。
 考えすぎるな。
 あれこれ考えるほど必死さが増す。
「あっ、えっ、ぼぼぼくのおおおつりがですね、たりなかったっていうか、あでも一円なんすけど、あっ、えっ、あやっぱいいです。すんませんすんません、うへへっ」
 こんなにかっちょ悪いことはない。

 ぼくは思う。
 ああ、ぼくがばばあだったなら。
 もしぼくがばばあだったなら、
「ちょっとあんた一円たりないわよ何考えてんの!」
と、脊髄反射よりも早く云えるのに。

 こんなことも思う。
 ああ、ぼくが野口英世だったなら。
 留学費用を女遊びに使い込んだせいで渡米できなくなり、親切な人に泣きついて借りた金もまた夜の街で使い果たしてしまった野口英世だったなら。
 きっと一円たりないことなんて一秒たたないうちにきれいさっぱり忘れてしまえていただろうに。もしくは一円足りなかったことを理由に誰かから一万円借りるのに。

 でも云わなきゃ。
 そう、一円が惜しいから云うわけじゃないんだ。
 閉店時に一円のレジ誤差が出るとお店の人が困るから教えてあげるだけなんだ。これは親切なんだ。
 よし、云おう。
 なるべく、なんでもない調子で。

 決意を固めたそのとき。
 店員さんが近づいてきた。
 ぼけっと突っ立っているぼくに、
「すみません、先ほどプリンを買われた方ですよね」
  「はあ」
「レジの前に一円落としていまして、お釣りを一円少なく渡していました。申し訳ありません」
 そう云って店員さんはぼくに一円玉を差し出した。
 なんだ。
 向こうから気づいたじゃないか。
 ぜんぜんぼくが気をもむ必要なかったじゃないか。

 ぼくはダンデーな大人の余裕たっぷりに応じる。
「あっ、えっ。そそそそうですか。ぜんぜんぜんぜんききき気がつかなかったです。すんませんすんません、うへへっ」


2015年11月18日水曜日

【思いつき】ときには乳酸菌のように


 「生きたまま腸まで届く!」

(寄生虫アニサキスのキャッチコピー)

2015年11月17日火曜日

【エッセイ】無神経な父

 ぼくの父親はほんとに無神経な人だ。

 プレゼントをもらったときに
「同じやつこないだ買ったばっかりなんですよ」
って言っちゃう。

「うちの家ほんとに田舎で……」と謙遜する相手に
「あーたしかに、あのへんほんとになんにもないですよね!」
と言ったこともある。
 悪気がないのが余計にたちが悪い。

 無神経な発言をしては、母にたしなめられるのが常だ。



 ぼくが小学生のときのこと。
「わらじを作る」という授業があった。
 紐を編んでわらじを作る。
 まずは自分ひとりで一足作り、残り一足は授業参観の日に保護者と一緒に作るという予定だった。

 前半のわらじ作りの日。悪ガキだったぼくは、悪友Sと一緒に紐で指を縛ったり、紐を切って投げたりと、ぜんぜんまじめにわらじを編まなかった。
 ふと気がつけば、他の子たちのわらじ作りは着々と進んでいる。すでに一足完成させた子もいる。

 やばいな。おれらもそろそろやるか。
 あれ。
 けっこう難しいな。ちゃんと説明聞いてなかったからな。
 まずい、このままだとおれとSだけまったくできていないじゃん。

……ふと隣を見ると、Sはすごい勢いでわらじを編みあげてゆく。
 しまった、こいつめちゃくちゃ器用なんだった!
 そして無情にもチャイムが鳴り、前半のわらじ作りが終わった。
 周りを見渡してみると、どんなに遅い子でも4割は完成している。ぼくだけだ、1割もできていないのは。

 その日から1週間、ぼくはずっと憂鬱だった。
 わらじができていないことはべつにかまわない。自業自得だ。
 問題は、ぼくだけがぜんぜんできていないこの状況を、授業参観でやってきた母が見たとき、何と思われるかだった。
 母は怒るだろうか。
 いや、それならまだマシだ。
 母はきっと怒らない。きっと深いため息をつくだろう。そして悲しそうな顔を見せるにちがいない。
 己のばかな行為で母親を悲しませる。ほんとに気が滅入る話だ。
 まじめにわらじを作らなかったことを心底後悔した。

 そして授業参観当日。
 意外にも、学校に来たのは母ではなく父だった。
 ぼくの父は仕事大好き人間なので授業参観のようなイベントに来るのは決まって母親だった。 母に用事があって代わりに休みをとったのだろう。父が参観日に来たのは後にも先にもこのときだけだった。

「それでは、おうちの人と一緒にわらじ作りの続きをしましょう」
 担任が言い、みんなはロッカーに作りかけのわらじを取りに走った。ぼくだけが重たい足どりで、1割もできていないわらじを取りに行った。

 父は、戻ってきたぼくが手にしている、ちっともできていないわらじ(というかほとんどただの紐)を見た。それから周囲を見渡して、他の子の作品と見比べた。自分の息子だけがダントツで見劣りしていることは明らかだった。

 父は、笑った。
 それはもう、大笑いだった。
「はっはっは! おまえだけぜんぜんできてないじゃないかー!」
 ぼくのできそこないのわらじを指さして爆笑していた。 

 予想に反して父が大笑いしたので、ぼくはびっくりして、そして照れ笑いを浮かべた。

「おまえだけだぞ、こんなにひどいのは。なんだこれ。わらじの形にもなってないじゃないか! はっはっは!」
「ははっ。ずっと遊んでたからね」
「ほんとおまえはダメだなー!」

 もし母がこの場にいたら、「そんなこと言わないの!」と父をきつくたしなめていたことだろう。
 だが父はちっともぼくに対して気を遣わなかった。
 そして「ぜんぜんできてないけどしょうがない、一からわらじつくるかー」と言ってぼくと一緒にわらじを完成させた。

 ぼくは、このときの父の無神経さに心から救われた。
 作ったものをばかにされて、嘲笑されて、おまえはダメだと言われたことで、1週間憂鬱だった気持ちがすっと晴れた。

 同情よりも無神経にばかにするほうが、よっぽど相手を楽にすることもあるということをぼくは学んだ。

2015年11月16日月曜日

【写真エッセイ】エサヤルナラマスクかけてやれ

公園にあった落書き。



ハトのフンの粉吸うと
肺ガンなるぞ
エサヤルナラマスクかけてやれ
わからんのか本ぐらい読め

なんかものすごい狂気と暴力性を感じる……。
と思ったんだけど、見た目のインパクトが強烈だからそう思うだけで、冷静に書いてあることの内容だけみると、見ず知らずの誰かの健康を気づかう心優しいメッセージだ。

表現のしかたがおかしいだけで、じつはこれを書いた人はすごくいい人なんじゃないか?

ま、でも、かかわりあいにはなりたくないけど。

2015年11月15日日曜日

【読書感想】 内田 樹 『街場の戦争論』

内容(「版元ドットコム」より)
日本はなぜ、「戦争のできる国」になろうとしているのか?
安倍政権の政策、完全予測!
全国民の不安を緩和する、「想像力の使い方」。
シリーズ22世紀を生きる第四弾!!
改憲、特定秘密保護法、集団的自衛権、グローバリズム、就職活動……。「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていること」を、別の視座から見ると、まったく別の景色が見えてくる!現代の窒息感を解放する、全国民必読の快著。

内容はいつもの内田樹という感じなのだが(べつにけなしているわけではなくいつもの水準でおもしろいということだ)、本文よりもあとがきに心を動かされた。
 ですから、この本はかなりシリアスかつアクチュアルなトピックを扱ってはいますけれど、ほとんど論争的な性格を持っておりません。ただ、「みんながいつも同じ枠組みで賛否を論じていることを、別の視座から見ると別の様相が見えます」ということを述べているだけです。それだけ。「僕が見ているようにみんなも見るべきだ」というようなことは求めておりません。

ぼくが他人に読ませる文章を書くときに心がけていることがふたつある。
ひとつは「自慢ほどつまらないものはない」ということ。これは説明不要。

もうひとつは「『~するべき』の言い回しを極力避ける」ということ。
右翼でも左翼でも、原発推進派でも反対派でも、うどん派でもそば派でも一緒だけど、
「~するべき」「~しなければならない」「~という考え方をするやつはだめだ」
という調子で書かれたものは、まあつまらない。

逆説的だけど、他人に指示をする文章は、他人に読ませる文章ではない。
登山をするべきだとはどこにも書いていないけれど、読んだ後に「おれも山に登ろう!」と思わされるテキスト。それが他人に読ませるための文章だ。
あるいは「おれは山が嫌いになった!」と思わされるテキスト。これもまたいい文章。
書き手の意図とはぜんぜんちがう方向に心を動かされるのも、すばらしい読書体験だ。

金曜ロードショーで観る映画が7割減でおもしろくなくなるのは、画面の端に
「この後、感動のエンディング!」
みたいな煽り文句が出てくるから。
はいここで泣きなさい、この映画は名作なので感動しなさい。そんなことを言われておもしろくなるわけがない。

論争とは自己満足と自己満足のぶつかりあい。他人を動かす力はない。
テレビ番組や国会の論争を見て「これはいいものを見た」と思ったことはありますか。ぼくはない。論争をしている人たちのうち少なくとも片方を、多くの場合は双方を嫌いになる。耳を貸したくなくなる。
こうすべき、これが絶対に正しい、という主張に人を動かす力はない。

スローガンというやつも同じ。
書くの好きな人多いよね、スローガン。
学校の教室に貼ってある「元気に明るくあいさつしよう」やら、オフィスの「汗と知恵を出せ!」やら、電車内の「チカン、アカン」やら。
あれを読んで「よし、元気に明るくあいさつしよう!」とか「今まで温存していたけど、知恵を出すことにしよう!」とか思ったことはありますか。ぼくはありません。痴漢があれを見て「チカン、やめよう!」と思うこともないだろう。

あんな直截的なメッセージで人の心を動かせるなら、小説家なんてひとりもいらない。何百ページにもわたる小説を書く必要なんかない。たった一文、「感動しなさい」と書くだけでいい。「おもしろがりなさい」と書くだけでいい。

そんなわけでぼくは思う。
「~するべきだ」という言い回しはぜったいに避けるべきだ!

2015年11月13日金曜日

【エッセイ】ナッツなめちゃいました

 同僚のA田さんは、美人なのに結婚できないまま30歳を迎えた。
 彼女がハンカチを持たずに衣服で濡れた手を拭くことや、食品以外のものをなんでもかんでも冷蔵庫に入れてしまうことは、以前にここで書いた。

 そんなA田さん、最近はナッツ類にはまっている。
 きっかけは、ぼくがうっかり
「ぼくんちの近くに豆屋さんがあって、いろんなナッツを1袋100円で売ってるんですよ」
と云ってしまったことだった。
 ナッツ好きのA田さんは
「お金渡すから買ってきて!
 くるみと、カシューナッツと、マカデミアンナッツと、あとピスタチオでいいや」
と、ぼくに300円を握らせて命じた。
 あの、A田さん。
 100円足りないんですけど。
 


 そんなわけで最近のA田さんは仕事中にずっとナッツをぽりぽりやっている。
 ハンカチを持ち歩かないぐらいがさつな人だから、もちろん彼女のデスクの下はピスタチオの殻だらけだ。

「A田さん、ほんとナッツ好きですね」

「そうなのよ。あと、かりんとうも好き。やっぱおやつは自然な食品がいいよね。チョコやスナックと違って食べすぎても太らないし」

「いやいや。ナッツはすっごく高カロリーですよ。脂肪も多いですし。種子ですからね」

「そうなの!? 知らんかったー。ただでさえ、最近腹出てきたのになー」



 ナッツが高カロリーだと知ったA田さんは、しかし大好きなナッツを控えることもできず、斬新な対策を打ち出した。
 それは「ナッツをかじらずに舐めつづける」という方策だった。

「ほら、かじるからついつい食べすぎちゃうのよね。舐めてたら溶けるまでに時間かかるから、食べる量を抑えられるでしょ」

「いや、そうかもしれないですけど……。ナッツって、あの食感がおいしいんじゃないですか。舐めてもおいしくないでしょ」

「いいの! どんな食べ方してもあたしの自由でしょ!」

とはいうもののA田さん、ほお袋にくるみを溜めこむのはやめてください。
 仕事の話をしてるときに、口から溶けかけのくるみが飛び出すんで。

 あと、お皿がないからってお菓子をティッシュに乗せて机に置いとくのも、ほんとやめてください。
 近くの席の人たちが、ティッシュに乗ったかりんとうを見てぎょっとした顔してますから。

2015年11月12日木曜日

【エッセイ】チェスとエロス

小学5年生のとき。
大人向けの本のおもしろさに目覚めつつあったぼくは、母の本棚をあさり、タイトルがおもしろそうだったのでジェフリー・アーチャーの短篇集『十二の意外な結末』を手に取った。

タイトルのとおり、十二の短篇が収められた作品。そのうち十一の作品についてはまったく記憶に残っていない。
だが『チェックメイト』だけは、鮮明に覚えている。何度も読み返した作品だからだ。

短篇小説として優れているわけではない。感動するような話ではないし、意外なオチもない。見聞が広げられたり、考えこまされたりするような小説でもない。
ではこの短篇のいったい何が10歳のぼくを惹きつけたのかというと、すごくエロかったからだ。



『チェックメイト』はこんな話だ。

ある男が、チェスクラブで美女と出会う。
ふたりは男の自宅でチェスをすることになった。
そこで男は美女からこう持ちかけられる。
私が勝ったらあなたからお金をもらう、ただしあなたが勝ったら私は一枚ずつ服を脱ぐ、と。
そして男は連勝し、約束通り美女は身にまとっているものを脱いでいくのだが、あと一回勝てばいよいよ下着を脱がせられるというところから連敗を喫し、男は大金を巻き上げられてしまう。
じつは美女はチェスのチャンピオンで、その強さを隠していたのだった……。

というお話。


大人にとってはちっともエロいストーリーではない。
だが10歳のぼくにとっては、美女が服を一枚ずつ脱いでいく描写がものすごく刺激的だった。
まだエロ本も読んだことのなかったぼくにとって、はじめて触れたエロいメディアが『チェックメイト』だったのだ。何度も読み返し、そのたびに興奮した。

日本の文学、漫画、映画、テレビにチェスの描写が出てくることはめったにない。小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』ぐらいしかぼくは知らない。
また、チェスの対局をしたこともない。

だから、ぼくにとってチェスといえば、エロい美女の服を脱がすための手段であり、将棋やバックギャモンのようなテーブルゲームというより、どちらかというと野球拳に近い。
ゲームではなく、“前戯”に分類されるものなのである。

2015年11月11日水曜日

【エッセイ】代わりに夏休みに補修受けるんで

ということで眼科に行ったら、結膜炎だと診断された。
薬局で目薬をもらってくださいと言われる。

薬局に寄ると会社に遅刻しそうだったので、上司に電話をした。

Trrrrr……

「すみません、結膜炎になったので薬局に行ってから出社します。15分ほど遅刻します」

 「ええっ! 結膜炎!?」

「はいそうです(そんなに驚くような病気か?)」

 「おまえ、結膜炎って、それ出社して大丈夫なのか? うつるんじゃないのか?」

「いや、ふつうにしてたら大丈夫なんじゃないですか。医者にも特に何も言われませんでしたし」

 「いやいや、うつるって。プールとか入ったりしたら」

「いやぼく、課長もご存じのとおりデスクワークなんで……」


というわけで社長、今日のプールは見学させてください!

2015年11月10日火曜日

【エッセイ】優しい両替

 駅前で、アジア系女性が若い男の人に声をかけていた。
「両替シタインデスケド……」
という言葉が漏れ聞こえてきた。
 しかし、若い男性は彼女を無視してその場を離れてしまった。

 ぼくは激しく憤った。
 なんて冷たい若者だ。
 こういうときに他人に親切にするのが日本人の美徳ではないのか。
 旅は道連れ世は情けとか、
 情けは人のためならずとか、
赤の他人に親切にすることを尊ぶ言葉が今にも伝わっている。
 その素晴らしい日本の伝統はどこへいってしまったのか。
 これは、生まれ育ったこの国を愛するものとして黙ってはおれない。
 ぼくが日本人代表として立ち上がるしかあるまい。
 見てなさい、外人さんよ。
 まだまだ日本も捨てたもんじゃないってことを今からぼくが証明してみせるよ。
 なんならあなたの持ってる外貨をぼくが両替してあげたっていいぜ!

 とまあ弘法大師ぐらいの広い心と、
めいっぱいの笑顔で外人さんに声をかけたわけです。

「両替ですか。なんでもおっしゃってください」
 「ハイ。コノテレフォンカードヲ500円ニ両替シタイデス……」
「あーごめん無理」

 ほんとごめん。
 薄情な若者とかいって。
 あとそれ両替じゃないから。

2015年11月8日日曜日

【ふまじめな考察】トイレの並び順


駅のトイレに入る。個室が3つある。
あなたはどこに入りますか。


Bと答えたあなたは、相当な変わり者だ。

まあふつうはAかCだろう。
隣に人がいると用を足しにくいという人はけっこう多い。まして両隣に人がいると、すごくやりづらい。
結果、真ん中は使われていないことが多い。

両端のトイレが汚くなってきても真ん中だけきれいなままだ。
もったいない。
せっかくあるのに、真ん中だけ使われない時間が長くてもったいない。

この無駄を解消するために、ぼくが考えたのはこんな並びのトイレだ。


どの個室も他の2つの個室と壁を共有している。
これで「真ん中だけが両隣に人がいる」という問題は解消された。
しかも公平を期すため面積を同じにしてある。

だが。
それでもやはり不公平感は拭えない。
Aだけが三方に隣人を配することとなり、より閉塞感を味わうことになるからだ。

そこで考案したのが、以下の配置だ。


いかがだろう。
これなら、
「どの個室も他の2つの個室と隣り合っている」
「面積が同じ」
「形も同じ」
という条件を満たしており、実に公平だ。
おまけに個室と個室は点で接しているだけなので、「壁の向こう側でも誰かが用を足している」感覚はゼロに等しい。

唯一残された問題は「どうやってこのトイレに入るのか?」ということだけだが、これも想定済みだ。
上から降りる、下から昇る、時空のひずみを利用する、先に人を洗面所に配置してからそのまわりにトイレを作る、などいくらでも方法はある。

実用的でないことをのぞけばたいへんいいアイディアだと思うのだが、いかがだろうか?



2015年11月6日金曜日

【ふまじめな考察】ニホンマダラビールモドキ

発泡酒とか、第3のビールとか、ノンアルコールビールとか、それぞれ本物のビールの味に近づける努力を各企業がおこなってるよね。

でもあたしに言わせれば、本物のビールの味に近づけることなんか、すっごくかんたん。
ビールとまったく同じパッケージに入れて売ればいいの。
これだけ。

まあほとんどの人は言われなきゃ気づかないだろね。
そんでビールを飲んだと思いこんで、まんまとノンアルコールビールで酔っぱらっちゃうでしょうね。
いいアイディアだと思わない?

あっ。
でも。
酔っぱらわないためにノンアルコールビールを飲むわけだから、酔わせたらだめか。


2015年11月5日木曜日

【エッセイ】ピノを勝手に食らうな

 みなさんもご存じのとおり仕事中に食べるアイスクリームのうまさは格別だから、ぼくは会社近くのスーパーでピノを買ってきてオフィスの冷凍庫に常備している。
 仕事の合間合間に「難しい案件を処理しています」みたいな顔をつくりながら冷凍庫へと足を運び、こそこそとピノを食べるのが至福のひととき。
 ピノを食うために仕事をしているといってもいいぐらいだ。

 そんなぼくのピノが、どうも知らぬうちに減っている気がする。
 はじめは気のせいかと思ったが、明らかに減っている。
 あと10個はあったはず。
 しかし、この冷凍庫を開けるのは社内の人だけだ。
 同僚を見渡してみても、勝手に他人のピノを口に入れるような育ちの悪い人はいない。

「なんかさ、冷凍庫に入れてるピノが減ってるんだよね。怪奇現象かな」
 後輩Nに向かってつぶやいた。

  「ああそれ、おれが食ってるんすよ」

「はあ!?」

  「ピノうまいですよね」

「いや知ってるけど。ピノのうまさは誰よりもよく知ってるけど。じゃなくて、ええー!? なにおまえ、冷凍庫に入ってる誰のかわかんないピノを勝手に食べちゃうの?」

  「そんなことしませんよ」

「したじゃん」

  「誰のかわかんないのは食べませんよ。犬犬さんのってわかってたから食べたんですよ」

「あーそっかー。って、ええー!?」

  「だってちゃんとピノの箱に犬犬さんの名前書いてるじゃないですか」

「そうだよね。うん、ちゃんと名前書いてるよね」

  「だから、あー犬犬さんのなんだーって思って、それで、食べました」

「いやいや意味がわかんない。そこで『それで』って接続詞を使う意味がわかんない。『にもかかわらず』でしょ。いやそれでもどうかと思うけど」

  「だって犬犬さん、よくお菓子くれるでしょ。変なおばちゃんみたいに」

「あげてるね。変なおばちゃんは余計だけど」

  「だからこのピノも、おれにくれるために買ったんでしょ」

「はあ?」

  「だからもらってもいいかなって思ったわけです」

「……。いやね、よしんばね。よしんばおまえにあげるために買ったとしてもね。もらうのと勝手にとるのは意味合いがぜんぜん違うからね」

  「“よしんば”って何ですか」

「はぁ……。わかった、じゃあ一万歩ゆずって、勝手にとったことはいいとするわ。で、何でアーモンド味ばっかり減ってるわけ?」

  「いちばん好きなんですよ、アーモンド味」

「おれも好きなんだよ! アーモンド味を食べるために525円も出してピノバラエティパックを買ってると云ってもいいぐらいにね!」

  「気が合いますね」

「なに握手求めてきてんだよ。今のやりとりから和解にはほど遠いわ!」

  「犬犬さん」

「なんだよ!」

  「これで今日は最後にするんで、もう一個だけもらっていいすか」

「あげねーし!
 しかも今日は最後ってことは明日以降も食う気だし!
 って勝手に取っとるし!
 アーモンドだし!」

2015年11月4日水曜日

【エッセイ】交換日記と文章修行


高校生のとき、同じクラスの女の子と交換日記をしていた。
ぼくの唯一の甘酸っぱいおもいでだ。

きっかけはよく覚えていない。
なぜだかわからないけど、ぼくのところに女の子から手紙がまわってきて、ふざけた返事を書いたら、それが妙にウケた。
それからというもの、「○○先生についてどう思いますか?」とか「さっきの授業中に先生が発した□□という言葉についてどう思う?」みたいな他愛のない質問状が届くようになった。
一生懸命考えておもしろおかしく質問に答えて、別の紙にこちらからも質問を書く。

口下手なぼくは話しかけることもできず、もちろんデートに誘うこともできず、交換日記だけの関係だった。
日記といってもちゃんとした日記帳に書くわけではなく、ノートの切れ端やプリントの裏に書くだけだった。
いつしかぼくは彼女に好意を持つようになったが、告白するどころか交換日記に本心を書くこともできなかった。
交換日記は半年以上続いたが、そのうちその子に彼氏ができて終わりを告げた。



ノートの切れ端、というのが緊張感があった。
ノートの切れ端ならいつでも終わらせることができる。
つまらないことを書いたら、もう返事が来ないかもしれない。
なんとなく始まった交換日記は一度途絶えてしまったら再開するのは難しい。
そのはかなさがあったからこそ、この手紙のやりとりを終わらせないようにしよう、飽きられないようにしようと、毎回毎回手を変え品を変えて渾身の文章を書いた。
文体を変え、クイズ形式にしたり会話調にしたり。わざと核心を書かずに次回への引きを作ったり、あえて誤ったことを書いて指摘させたり。そんなテクニックも使ってたったひとりの読者を引きつけようとした。
授業中にこそこそ書く手紙なので、常に先生に見つかる危険性もはらんでいる。もし見つかって読まれてもさほど恥ずかしくない文章にするような客観的な視点も要求された。

いい経験だったと今にして思う。

ぼくは今では少し文章を書く仕事をしているが、あのときほど必死に文章修行をしたことはない。今後もないだろうな。

2015年11月3日火曜日

【エッセイ】ボルダリング殺人


ボルダリング(フリークライミングの一種)に初挑戦。
ちょろっとレッスンを受けただけですぐに始められるのがいい。
練習しなくとも上級者のすぐそばでプレーできる競技というのは、めんどくさがりで練習嫌いのぼくにはぴったりだ。
こんなスポーツは他にちょっと思いつかない。

なにより、達成感が手軽に得られるのがいい。
細かい課題がたくさんあるので、ちょっとやっただけですぐ上達する(気になる)。
これは飽きっぽいぼくにはぴったりだ。

こんなすばらしいスポーツがあってもいいものか。
まるで打ち出の小槌のようにいいことばかりが出てくるではない。


とまあ、はしゃぎにはしゃぎながら3時間ほど壁を登っていたのだが。
気がつけば、手が血まみれになっている。
知らない間にぼくの別人格が人を殺めたんじゃないかってぐらいに血に染まっている。
登っているあいだにどこかに挟んだらしい。
友人から指摘されて気づいたのだが、膝もすりむいて出血している。
足の爪も猛烈に痛い。
腕の腱も異常にこわばっている。

壁昇りに夢中で、身体が発するSOSサインにまったく気づいていなかったのだ。
これはいかん。
自分が死んだことに気づかずにうっかり化けて出ちゃうタイプのアレだ。

あわてて切り上げて帰ったのだが、もちろん翌日の筋肉痛たるや無形文化財レベルである。
腕を鞭打たれる夢で目が覚めたほどだ(これは腕の痛みによるものであって、ぼくの性癖を投影したものではない)。
すぐにさじを投げてしまうやぶ医者よりも握力がなくなり、ドアを開けるだけで乙女のような叫び声が飛び出す始末。

つらい練習をしなくてもいいといっても、結局はつらさを先延ばしにしているだけなのだ。
やはり打ち出の小槌なんてものはないわけで、というわけでクレジットカードのご利用は計画的に。

2015年11月2日月曜日

【ふまじめな考察】汚れをください


スポンジに洗剤をたっぷりつけ、きゅっとひとなで。
ぎとぎとの油汚れがすっととれて、真っ白なお皿が姿を現す。
という洗剤のCM。

欲しい。
欲しくてたまらない。
新製品の洗剤を、ではない。
あの油汚れがほしい。



あんなにきれいに落ちる汚れ、CMでしか見たことない。
ぎっとりと汚れているのに、さっと拭くだけで鮮やかに落ちる。
あの汚れを拭いたらさぞかし気持ちよかろう。
換気扇の汚れもあんなだったら、どんなに換気扇掃除が楽しいだろう。

ふだんやらないところを掃除するのは楽しい。
なぜなら、目に見えて汚れが落ちていくから。
風呂場の排水溝を掃除をするのは、風呂をきれいにしたいからじゃない。ぬめぬめの髪の毛を見て、ああこんなに汚れがとれた、と達成感を味わいたいからだ。

「留守宅に侵入して風呂を掃除していた男が逮捕されました。男は『ぬめぬめをとりたいという欲望が抑えられなかった』などと供述しており、警察ではぬめぬめ欲しさの計画的な犯行と見て捜査を進めています」
みたいな事件もどこかで起こっているにちがいない。
それぐらい「汚いものがとりたい」というのは、人間の根源的な欲求なのだ。

だから、こまめに掃除をして、いつも部屋をぴかぴかにしている人を見ると、かわいそうだと思う。
だって彼らは、ごっそり溜まった汚れを落とす快感を味わえないのだから。汚れは溜めれば溜めるほど、こそげ落とす喜びは大きい。微々たる汚れしか落とせない、きれい好きさんが不憫でならない。



ところで洗剤のCMの話に戻るが、あの映像に出てくる汚れは、当然《落とすための汚れ》なんだろな。
汚く見えて、落ちやすい汚れ。
となると、洗剤を開発している薬品会社には、《落とすための汚れ》を開発する《汚れ開発部》が存在するにちがいない。
そこでは、よりかんたんに落ちてより汚ならしく見える汚れを開発するために、優秀な研究員たちが日夜、研究に研究を重ねているのだ。

殺虫剤を開発しているメーカーでは、実験をするためにゴキブリや蚊を大量に飼育している。
あそこにもまた、《殺すための虫》を飼育する害虫飼育班がいるわけだ。

なんだか不毛なことをしている気もするが、よく考えたら我々はみな、排出するために食事をして、死ぬために生きているわけだから、ま、そんなもんか。

2015年11月1日日曜日

【考察】ママ友とのつきあい方

育児の本を読んでいたら
『公園デビューの悩み ~ママ友とのつきあい方~』
って特集があったんだけど、『ママ友』って言葉が悩みの原因なんだと思う。

友だちだと思うから、仲良くしなきゃ、嫌われたくないって悩むわけでしょ。

「お姉ちゃんの友だちの妹」は、わたしの友だちじゃない。
その人に好かれなくたってかまわない。
「子どもの友だちのお母さん」が友だちじゃなくたっていいじゃない。