2019年7月31日水曜日

【読書感想文】犯人が自分からべらべらと種明かし / 東野 圭吾『プラチナデータ』

プラチナデータ

東野 圭吾

内容(e-honより)
国民の遺伝子情報から犯人を特定するDNA捜査システム。その開発者が殺害された。神楽龍平はシステムを使って犯人を突き止めようとするが、コンピュータが示したのは何と彼の名前だった。革命的システムの裏に隠された陰謀とは?鍵を握るのは謎のプログラムと、もう一人の“彼”。果たして神楽は警察の包囲網をかわし、真相に辿り着けるのか。

ミステリとおもって読みはじめたが、近未来SF+サスペンス+サイコ小説って感じだった。

多重人格の主人公、素性不明の謎の少女、DNA捜査システム、新技術をめぐる日米の攻防、裏に隠れた大物の陰謀……と東野圭吾氏にしてはずいぶんケレン味の強い設定。

ただ、どぎつい設定のわりにストーリー展開は平凡。ある研究者が冤罪で追われ、警察から逃亡しながら真犯人を追う……。と、今までに何度も読んだことのあるような展開。真犯人も「まあ順当だよね」という人選だし、謎となっている“プラチナデータ”も想像を超えてくるものではなし。

まあそれだけなら「そこそこのサスペンス」だったんだけど、ラストでがっかりして大きく点数を下げた。

「主人公を追い詰めた犯人が自分からべらべらと種明かし」があったからだ。

これやられたらほんと興醒めなんだよなー。

「おまえはどうせ死ぬのだから冥土の土産に教えてやろう」ってやつね。

聞かれてもないのに自分に不利になることを長々と語るやつね。

計算高くて慎重なはずの犯人なのに、その瞬間だけは相手に逃げられるとか録音されてるとか一切考えないやつね。

『プラチナデータ』の犯人は、典型的なこのタイプだった。
まあしゃべるしゃべる。
全部教えてくれる。なんて親切なんだ。
おまけに、抵抗した主人公と格闘している間もべらべらしゃべる。
「君も警察官だから、武道の心得はあるだろう。しかしこう見えて、私も柔道では黒帯なんだ。おまけに薬の影響で、君は十分な実力を発揮できないときている。勝負あったね。ああ、もう一つ付け加えておくと、この扼殺痕を神楽君の仕業に見せかけることなど、私にとっては朝飯前なんだよ」
これ、犯人と主人公が銃を奪いあって格闘しているときに、犯人が主人公の首を絞めながらいうセリフですわ。
生きるか死ぬかの格闘をしながらいうセリフかね、これが。

つまりこれは作中で交わされている会話じゃなくて読者に対する説明なんだよね。
無理のあるストーリーをごまかすために、言い訳がましいセリフを登場人物に吐かせてるわけです。
「素手での格闘になったら警察官が勝つだろ」「絞め殺したらすぐばれるだろ」というツッコミを封じるために説明させているわけです(ちなみに「この扼殺痕を神楽君の仕業に見せかける」方法は一切説明されない。思い浮かばなかったんでしょう)。

コントを演じている役者がいきなり客席のほうを向いて「えー今のは何がおもしろかったのかといいますと……」と説明しだしたようなものなのです。
だせえ。


東野圭吾作品って初期作品はともかく最近はどれも一定の水準をキープしてるとおもってたんだけど、これはめずらしくその水準に達してなかったなー。


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2019年7月30日火曜日

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』

「地図感覚」から都市を読み解く

新しい地図の読み方

今和泉 隆行 

内容(e-honより)
方向音痴でないあの人は地図から何を読み取っているのか。タモリ倶楽部、アウト×デラックス等でもおなじみ、実在しない架空の都市の地図を描き続ける鬼才「地理人」が、地図を感覚的に把握するための技術をわかりやすく丁寧に紹介。オールカラー図解。

地図界では有名人の地理人こと今和泉隆行さんの本。
先日、この人のトークショーに行ってきた。『新しい地図の読み方』もトークショーの会場で買ってきたものだ。

地理人氏は、存在しない町の地図を描いた「空想地図」で有名だ。
空想地図については以下のサイトなどを参考にされたし。
 地理人研究所
 空想都市へ行こう!

空想地図もおもしろいのだが(トークショーで知って驚いたのだが、空想地図を描く人はけっこういるらしい。日本にひとりかとおもっていた)、『「地図感覚」から都市を読み解く』では空想地図の話はほとんどなく、「地図感覚」について語られている。


突然ですが、ここで問題。
この本、紙の本だけで電子書籍版は出ていない。
電子書籍にできない理由があるんだけど、それは何でしょうか?
(答えはこの記事の最後に)



地図感覚とは何か。
「地図を見て多くの情報を読み取る能力」のことらしい。

ぼくなんか地図を読むのが苦手で、地図を見るのは目的地までの経路を調べるときぐらい。
それも「ええと、駅を出て電車の進行方向に向かって進んで、ふたつめの角を左、で、公園の次の角を右にいったところか」と、必要な経路をみるだけでせいいっぱいだ。空間認知能力が低いので、情報を言語化しないとおぼえられないのだ。しかも「来たときは犬がいたところを右に曲がった」とか、まったくあてにならない情報に頼ってしまう。
もっとも最近はGoogleマップのおかげでほとんど迷うことはなくなった。ありがたい。

だが地理人氏のような地図感覚に長けた人は、ぼくと同じ地図を見ても
「このへんは古くから住んでいる人の多い地域だ」
「この道は週末は渋滞するね」
「ここは都市計画に失敗したところだな」
とかわかるらしい。
平面の地図から、街並み、人の流れ、住人の気質、歴史、将来の展望などもわかるのだ。ただただ驚くばかり。
 地図ネイティブになることは、最低限の実用性を得られるだけでなく、その土地と通じ合う感覚を得ることができます。しかしこうしたアプローチ、習得法はこれまでなく、本書で風穴を空けたつもりです。これまでの章では個別具体的な話をしましたが、ここまで例に出てきた地図は、比較的煩雑な地図ばかりでした。複雑なものは分解し、単純化する必要があります。頭の中でいくつかの層に分けて見たり、重ねたりすると咀嚼できるようになります。たとえば都市地図の場合、店舗ロゴからはチェーン店の密度、建物の色からは建物の用途、道路の色からは道路の重要性(幹線道路かどうか)、背景の色からは町域が見えてきます。そしてそれらを重ねて見えてくることもあるのです。

そういえば、サッカー好きの知人と話していたときのこと。
「サッカーって観てても退屈じゃない? なかなか点が入らないし、0ー0で終わることすらあるじゃない」
というと
「退屈なのはボールの動きしか追ってないからですよ。ボールを持っていない人の動きを見ていると戦術がわかるし、戦術がわかれば両チームの駆け引きが見えてくる。そこを楽しむのがサッカー観戦です。将棋は王将をとるのが目的ですけど、王将の動きだけ見ていてもぜんぜんおもしろくないでしょう。それといっしょですよ」
と言われた。
なるほど、と感心した。それを聞いたところでぼくには戦術なんてわからないわけだが、とにかくサッカー通は素人とはぜんぜんちがうところを見ているのだとわかった。

地図も同じようなものなのだろう。
地図感覚に長けた人にいろいろ解説してもらいながら街をぶらぶら歩いたら楽しいだろうなあ。




駅前が栄えている街と、そうでない街があることについて。
 鉄道は、今や大都市圏のみならず、全国県庁所在地等の地方都市周辺でも大きな役割を担っています。今や地方でも、短距離の普通列車は通勤通学に使われ、日常的な利用も多くなりましたが、開通当初は蒸気機関車で牽引される長距離列車や貨物列車が中心でした。蒸気機関車の時代は煙害もあれば、機関車や貨車が待機、転回するための広い敷地を要したため、駅は市街地から離れたところに作られました。このため鉄道駅の場所を見ると、そこが明治時代の市街地のぎりぎり外側であることが多いのです。さきほど紹介した熊本駅も、明治時代の街の外れです。ただ、山形市、福山市などのように、駅が城の真ん前にできる、という例外もあります。城の敷地が官有地として接収され、広大な空き地となり、ここに駅が作られることもありました。
 名古屋市で最も賑わうのは名古屋駅ではなく栄、福岡市では博多駅ではなく天神が中心的な市街地です。こうした中心市街地は江戸時代からすでに街でしたが、名古屋駅も博多駅も、明治初期の市街地の少し外側なのです。当初、駅は単なる遠距離交通の拠点で、街ではなかったのですが、今や名古屋駅、博多駅ともに、栄、天神に次ぐ大きな市街地になっています。

高度経済成長期以降に開けたような新しい街だと駅が街の中心になっていることが多いが、古くからにぎわっていた街だと駅は市街地のはずれにつくられたのだという。

そういえば、人気のない商店街を通るたびに
「なんでこんな微妙な位置に商店街があるんだろう。こんなに駅から遠かったらシャッター街になるのは当然だろ」
とおもっていたが、あれは順番が逆だったんだな。駅があってそこから離れたところに商店街がつくられたのではなく、商店街が先にあって、商店街のすぐそばには駅をつくる土地がないから離れたところにつくったらそっちのほうがにぎわうようになったのだ。
なるほどねー。

ぼくは京都市に住んでいたことがあるが、JR京都駅は街のはずれにある。
JRを利用するたびにバスで京都駅まで行かなくてはならないので「なんでこんな不便なところに」とおもっていたが、京都のように古い街だと中心部に駅や線路をひけないんだよな。建物も文化財も多いし。
だから京都の中心部である四条河原町付近には地上を走る鉄道はない(阪急や京阪が通っているが河原町付近では地下を走る)。
鉄道は新参者なんだね。

ぼくは鉄道網が整備されてから生まれたし、幼少期は戦後に開発された街に住んでいたので「鉄道があってその周りに人が住む」という感覚だったんだけど、逆パターンも多いのかー。

こういうことを知っていると、街歩きも楽しくなるね。




この人は「地図とは文章や写真と同様に表現手法のひとつだ」と書いていて、はじめはあまりぴんと来なかったのだが、講演や本の内容を見ているうちになんとなく共感できるようになってきた。
地図は事実をありのまま伝えているように見えるけど、三次元のものを二次元に落としこむ、大きなものを小さく縮尺するという過程で、必ず「何を載せて何を載せないか」と絶えず選択を迫られているはずだ。
情報をそぎ落とし、ときにはつけくわえる過程には必ず「車を運転する人が迷わないように」「住人が生活に困らないように」「山歩きをする人の助けになるように」といった作者の意図が入るわけで、そう考えるとたしかに地図は表現手法のひとつだよなあ。

考えたこともなかったが、自分とはまったく異なる考え方をする人の話を読むのはすごくおもしろい。
世界がほんのちょっと広がったような気がする。




(クイズの答え)

電子書籍だと、閲覧者の環境によって地図の大きさが変わってしまうので、「1/25,000」といった縮尺が嘘になってしまうんだよね。

ところでこないだ『チコちゃんに叱られる!』で「これがトウモロコシを400倍に拡大した画像です」ってやってた。
すべてのテレビでも400倍に見えるわけないだろ!


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2019年7月29日月曜日

子どもの笑顔を買うには


子どもといっしょに夏祭りに行った。
夏祭りなんて何年ぶりだろう。
人混みが嫌いなので十年以上遠ざかっていた。

しかし今年、子どもを連れて夏祭りに行ってみた。
暑い、人が多い、売ってるものが高い、ガラの悪い人が多い。ふだんならぜったいに行かない場所だ。
しかし子どもが生まれてから、「ふつうのことを一通りは経験させないと」という使命感に駆られるようになった。

我が子が大人になったときに「えーおまえ夏祭りに行ったことないのー? おまえんち変わってるなー」と言われないように。
また、ぼくは何度も夏祭りを経験した上で「今の自分には夏祭りは不要」という判断を下したわけだが、それを別人格である娘に押しつけるのは良くないとおもうから。

初詣も、二十年ぐらい行っていなかったが子どもが生まれてから行くようになった。
ひな祭りとかクリスマスとかのイベントも個人的には好きじゃないのだが、子どものためにやっている。ハロウィンなんて一生やらないだろうとおもっていたが、昨年は娘をハロウィンパーティーに連れていった(さすがに自分は仮装はしなかったが)。

きっとぼくの親も、同じように考えていろんな年中行事をやってくれていたのだろう。




娘を連れて屋台をまわった。
くじ引きがしたいといえば「一回だけやで」とお金を出してやり、りんご飴がほしいと言われれば買ってやった。

ぼくは屋台のくじ引きなんてハズレだらけなのでふつうに買うほうが安いと知っているし、りんご飴なんて口や手がべたべたになるだけでぜんぜんおいしくないと知っている。

でも娘は知らない。
お祭りなんてじつはそんなに楽しいもんじゃないことを知るのもいい経験だ。
そうおもってお金を出してやった。

しかし。
残念ながら娘は、くじ引きであたったしょうもないおもちゃに嬉しそうにしていたし、りんご飴もおいしいと言って中のカスカスりんごが出てくるまでなめていた。
なんでいじらしいんだ。かわいいじゃないか娘よ。

ということで、風船を買ってやったりかき氷を買ってやったり輪投げをやらせてあげたりと、娘のためにあれやこれやと金を遣ってしまった。
だって数百円ですごく喜んでくれるんだもん。
大人の笑顔を買おうとおもったら何万円もするのに。

くそう、まんまとお祭りにしてやられた気がするぜ。


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無一文の経験



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2019年7月24日水曜日

新しい四字熟語


良事無報

悪いことはニュースになるが良いことはニュースにならないこと。


徒歩倍分

不動産屋の「徒歩〇分」は、実際は二倍ぐらいだと思えという教え。


他人道義

「マナー」を他人に強要しないことこそが最大のマナーだという教え。


百呟三真

書いてあることのうち真実は百個中三個ぐらいしかないという意味。


岩波筑摩

一目置かれたかったら、読まなくてもいいから岩波書店か筑摩書房の本を書架に並べろという教え。



2019年7月23日火曜日

渇望と創作


子どものとき、家にファミコンがなかった。
ファミコンとは家庭用ゲーム機のことだ。当時は、ファミリーコンピュータもスーパーファミコンもゲームボーイもみんなファミコンだった。

ファミコンがほしかった。
クラスの男子で家にファミコンがないのは、二、三人だけだった。

もちろん親に買ってくれと頼んだことはある。
でも、つっぱねられた。
うちにはお金がないとか眼が悪くなるとか。

嘘だ。ほんとは「教育方針」だ。
今にしておもえば親の方針は理解できるし、結果的にファミコンがなくてよかったかなとおもう。

でも。
当時はつらかった。
ファミコンで遊べないことそのものより「クラスメイトはほとんど持っている」という事実がぼくをみじめにさせた。
あのアホやデブやグズですら持ってるのにぼくだけ持ってないなんて。


よくノートに自分だけのゲームを書いていた。
友人の家でやったマリオの新しいコースを考えたり(『スーパーマリオメーカー』の先駆けといっていいだろう)、友人の家で見たドラクエをサイコロでできるゲームに作りかえたり。
わりとおもしろいゲームだったはずだ。

中学生になるとそこそこ小遣いも増えたのでこっそりゲームボーイを買い、親に隠れてやるようになった。
大学に入ってひとり暮らしをするようになると、念願だったテレビゲーム機を購入した。
ついに人目を気にせず堂々とゲームをできるようになったのだが、すぐに飽きてしまった。
あれ。ゲームってこんなもんなのか。たしかに楽しい。楽しいけど、幼いころに思い描いていたほどは楽しくない。
きっとぼくは、ゲームを楽しむのにいちばんいい時期を逃してしまったのだろう。

すっかりゲームへの熱は冷めてしまった。


創作意欲は渇望から生まれる。
ファミコンを買ってもらえなかった小学生時代はいろんなオリジナルゲームを考案して遊んでいたのに、今はそんな気にならない。
好きなときに好きなだけゲームをできるようになったことで、渇望が満たされてしまったのだろう。

そういや鳥山明氏が『ドラゴンボール』のカバー見返しのところにこんなことを書いていた。

子どものころ、バイクがほしかったけど手に入らなかったのでバイクの絵をたくさん描いた。馬がほしくなると馬の絵ばかり描いていた。

と。
もしも鳥山明少年の家がとんでもない金持ちで、バイクや馬を好きなだけ買ってもらえていたら(どんな教育方針やねん)、きっと『Dr.スランプ アラレちゃん』も『ドラゴンボール』も生まれていなかったことだろう。

もしもぼくがゲームを買わずにゲームに飢えたまま育っていたら、モノポリーや将棋をもしのぐような人気テーブルゲームを生みだしていたかもしれないな。


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ぼくの家にはファミコンがなかった

2019年7月22日月曜日

ニッポンの踏切係


ルートポート『会計が動かす世界の歴史』に、なぜ産業革命は18世紀のイギリスで起こったのか、という話が載っていた。
 こうして産業革命前夜の18世紀までに、イギリスでは高賃金と格安の燃料という状況が生まれたのです。
 産業革命がイギリスで始まった理由を考えると、やはり賃金の高さがもっとも重要なポイントです。
 たとえばジェニー紡績機は石炭を利用しません。燃料費の安さとは関係がないのです。しかし、それでもこの紡績機が発明されたのは、人件費を節約することで利益を出せたからです。
 人材を安価に利用することは、経済成長に繋がるとは限りません。むしろ労働を機械に置き換える(生産を効率化する)インセンティブを奪い、技術革新を鈍化させ、経済の発展を阻害する恐れさえあります。
 産業革命を起こしたイギリスの歴史には、現代の私たちにとっても学ぶところが多いでしょう。
なるほどなあ。

たとえば「今まで一ヶ月かかっていた作業がたった一分になります!」というツールがあったとする。
そのツールの利用料が百万円/月であれば、今までどおり手作業で一日かけてやったほうがいい。ほとんどの従業員は一ヶ月雇うのに百万円もかからないのだから。

しかし従業員に百万円以上の給料を出している国の会社は、そのツールを導入するだろう。
すると作業時間を短縮することができ、余った時間でより創造的な仕事をすることができる。彼らが生みだした質の高い製品やサービスは世界を席巻し、より人件費は上がる。そして人件費を抑制するために効率化を進めるツールが開発される。

人件費が高いのは、経営者からみると悪いことだ。でも短期的なマイナス点も、長期的にはプラスになりうる。


IT革命がアメリカを中心に花開いたのも必然だったのだ。
べつにアメリカ人が特別にイノベーティブだったわけではない(それも多少はあるだろうが)。
アメリカ人の給与が世界トップクラスに高かったからIT化が進んだのだ。
人件費よりもコンピュータを使うほうが安い。だからIT化する。技術が高まるので世界的な競争力がつく。さらに賃金が上がる。それがより生産性を高める原動力になる……というサイクルだ。

これの逆をやっていたのが日本だ。
世界がIT化を進めている間、日本では
「従業員増やして電卓たたかせたほうが安いよ」
「残業させればいいじゃん」
「派遣を使って人件費を抑えよう」
とやっていた。
タダで残業する従業員がいるなら、設備投資をして作業をスピードアップさせる必要などない。残業させるだけでいい。
これで新しい技術が根付くはずがない。




「合成の誤謬」という言葉がある。
ひとりひとりが正しい行動をとることで、全体で見るとかえって悪い結果を生んでしまうことを指す。
たとえば無駄遣いを抑えて貯蓄に回すのは家計にとってはいいことだが、みんながそれをやると国全体の景気が悪くなるように。

人件費カットもまた合成の誤謬をうみだす。
個々の経営者レベルで見ると、人件費を抑えて利益を出すほうがよい。
だがすべての経営者がそれをやると経済は成長しなくなる。また人件費カットをする会社は短期的には利益を出せても長期的に見れば必ず失速する。技術革新を進める動機が薄れるし、そもそも能力を持った社員がいなくなるのだから。

人件費カットという合成の誤謬を止めるにはマクロな政策が必要になる。個々の経営者に任せてもうまくいくわけがない。
長時間労働の厳罰化、最低賃金のアップ、賃金アップした企業に対する補助金などの対策を国を挙げてしなければならないのだが、どうもこの国にはそういうことをやる気は一切ないらしい。




こないだ北朝鮮に行った人から、北朝鮮には今でも「踏切係」という仕事があると聞いた。

線路の脇に立って、列車が来る前に「危ないから入っちゃいかん」という仕事だ。
なんてアナクロなんだ、と逆に感心した。

北朝鮮に電動の踏切を作る技術がないわけではない(ロケットを飛ばしたり核実験をしたりできる国だ)。
それでも「踏切係」が2019年に生き残っているのは、電動にするより人間にやらせたほうが安いからだろう。


今いろんな自動車メーカーが自動運転カーの研究をしているそうだが、世界で最初に実用化されるのは日本ではないだろう。
法律面の事情もあるが、それ以上に日本人の人件費は安いから。
「高い自動運転カーを買うぐらいなら運転手を雇ったほうが安い」という国では自動運転カーは売れない。


今のぼくらが「北朝鮮は人間が踏切係をやっているのか」とおもうように、
20XX年には「日本ではまだ人間が車を運転したりレジ打ちをやったりしているのか」と驚かれる時代になっているかもしれない。


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【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』


2019年7月19日金曜日

【読書感想文】中学生のちょっとエッチなサスペンス / 多島 斗志之『少年たちのおだやかな日々』

少年たちのおだやかな日々

多島 斗志之

内容(e-honより)
人間の一生にも禍いの起きやすい時がある。その最初はたぶん思春期だろう。性に目覚めるだけの年頃ではなく、人間界の様々な”魔”にも出逢いはじめる時期だ。本書は十四歳の少年たちが”魔”に出逢う珠玉の恐怖サスペンス短編集。

七作の短篇からなる作品集。
それぞれべつの話だが、どれも主人公は十四歳の少年。

ある出来事をきっかけに日常が少しずつ壊れてゆく……というサスペンス。
「友人のお母さんの浮気現場を見てしまう」「友達のお姉さんにゲームをしようと誘われる」「教師から泥棒の疑いをかけられる」
といった、どこにでもありそうな出来事が引き金となり、少年たちが恐ろしい目に遭う。
すごく鮮やかなオチはないが、それぞれテイストが異なる怖さを描いていて楽しめた。


十四歳男子を主人公に据えるという設定がいい。
自分が十四歳のころを思いだしても、火遊びをしたり、高いところに登ったり、入っちゃいけない場所に入ったり、言っちゃいけないことをいったり、詳しくは書けないようなことをたくさんした。
あの頃SNSがなくてほんとうによかった(インターネットはかろうじてあったが子どもが遊べるようなものではなかった)。

十四歳って、身体は大人になりつつあって、性的な好奇心は大人以上に高まって、けど社会的にはぜんぜん子どもで、でも自分の中では全能感があって、周囲に対して攻撃的になって、大人が嫌いで、世間のことをわかったような気になって……というなんともあやういお年頃だ(「中二病」はおもしろい言葉だけど、その一語だけでひとまとめにしてしまうのはもったいない)。

そんなあやうい十四歳だから、危険をかえりみずに未知の世界に足を踏み入れてしまう気持ちはよくわかる。


読んでいていちばんドキドキしたのは『罰ゲーム』という短篇。

友だちの家に行ったら、きれいだけどちょっとイジワルなお姉さんが「ゲームをしよう」と持ちかけてくる。
エッチな展開に持ちこめそうとおもった主人公はそのゲームに乗ることにする……という、なんともドキドキする導入。
ところがお姉さんが決めた罰ゲームはとんでもないもので……。

こわい。でもエロい。
エロの可能性が待っているのに退くわけにはいかない。エロの前では恐怖すらも絶妙なスパイスになってしまう。
このお姉さん、明らかに頭イカれてるんだけど、"エロくてイカれてるお姉さん"って最高じゃないですか。


小学五年生のとき、ジェフリー・アーチャーの『チェックメイト』という短篇小説(『十二の意外な結末』収録)を読んで、すごく昂奮した。

今思うとエロスとしても小説としても大した話じゃないんだけど、エッチなお姉さん+この先どうなるかわからない展開 というのは、思春期男子にとっては居ても立ってもいられないぐらいのドキドキシチュエーションなのだ。

中学生だったときの気持ちをちょっと思いだしたぜ。あっ、そういう青春小説じゃなくてサスペンス? 失礼しました。


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2019年7月18日木曜日

【コント】驚きのラスト! もう一度読み返したくなる! あなたも必ず騙される


「先生、たいへん申しあげづらいんですけどね」

「なんだい」

「これじゃ売れませんよ」

「えっ……。今作はわりと自信があったんだけどな」

「いや、いい作品ですよ。いい作品なんです。でも売れないんです」

「というと」

「先生のお書きになるミステリはよくできているんですよ。たぶん読んだらおもしろかったと言ってくれるとおもいます。でもそれだけなんです」

「それだけでいいじゃないか」

「それだけじゃだめなんです。売れないんです。なんていったらいいのかな……」

「つまりぼくの作品にはケレン味がないってことか」

「ケレン味?」

「つまり派手さとか奇抜さとか」

「そうです! それなんです! そのケレン味とやらがないと売れないんです。実力派作家の安定のクオリティ、これじゃミステリファンにしか買ってもらえません。広告費を投じて派手な宣伝を打つこともできないんです」

「なるほど。たしかに君の言うことももっともだ。ぼくも子どもじゃないからね。おもしろい作品と売れる子作品がちがうことも理解している」

「でしょ」

「しかし、だったらどうしたらいいとおもう」

「ずばり叙述トリックです! ほら、あるでしょ。実は語り手が男だったことが最後に明らかになるやつとか、実は時系列が逆だったとか、実は前半と後半の語り手は別人だったとか」

「ああ、叙述トリックね……。あれあんまり好きじゃないんだよな……。もうやりつくされた感があるでしょ。今さら叙述トリックに出すのってなんかダサくない?」

「それはミステリファンの感覚です。ふだん小説を読まない連中は叙述トリックが大好きなんです。というか叙述トリックしか求めていないんです」

「まあ売れるよね。本屋で平積みされてるのはそんなのばっかりだもんね」

「でしょ。『最後の一行であっと驚く!』とか」

『必ずもう一度読み返したくなる!とか」

「で、映画になるんですよ。『映像不可能と言われた原作がまさかの映画化!』っていって」

「『あなたは二度騙される!』とかのキャッチコピーつけられて

「でしょ。よくあるでしょ」

「なんかげんなりしてきた。そういう映画がおもしろかったためしないんだよね……」

「でも、おもしろくないのにその手のキャッチコピーの作品がなくならないのは、客を呼べるからなんですよ」

「まあそういうことになるかな……」

「ですから先生の作品にも叙述トリックの要素を取り入れてください。そしたら帯に『衝撃のラスト! 必ず二度読みたくなる作品』ってキャッチコピーつけて売りだせるんで」

「安易だなあ……」

「安易なのがいいんですって」

「とはいえもう作品は完成しちゃったからな。今さら叙述トリックにはできないよ

「なんでもいいんですよ。叙述トリック要素があれば」

「しかし……」

「こういうのはどうです。主人公がペットを飼ってることにするんです。で、ペットの名前が『ポチ』なんですけど、実はそれが猫だったことが最後の一行で明かされる」

「だからなんだよ」

「キャッチコピーは『ラスト一行のどんでん返し。ネタバレ禁止』でいきましょう」

「だめだって。犬かとおもったら猫だった、じゃどんでん返ってない」

「じゃあ犯人が双子だったってのはどうです」

「双子トリック? それこそ手垢にまみれたやつじゃん。だいた叙述トリックじゃないし

「いいんですよ。騙されてくれればなんだって」

「もうストーリーは完成してるんだよ。どこで双子が入れ替わるの」

「いや、入れ替わりません」

「え?」

「犯人には双子の弟がいるんです。でも弟は遠くに暮らしているので今回の話には登場しない」

「意味ないじゃん」

「でも犯人が捕まるときに言うんです。『弟が知ったら悲しむだろうな……。あ、私双子の弟がいるんですけどね』って。で、刑事が『一卵性? 二卵性?』って訊いて、『一卵性です』『へー意外』っていうやりとりがくりひろげられる、と。これでいきましょう。キャッチコピーは『衝撃のラスト!』で」

「衝撃が軽すぎる。ガードレールにこすったときぐらいの衝撃じゃん」

「でもなんか意外な感じがしません? 知り合いが双子だと知ったときって。子どもの頃は同級生に双子がいても意外とはおもわないじゃないですか。両方知ってるから。でも大人になってから知り合った人が、付き合って何年かしてからなにかの拍子に『私は双子の妹がいるんですけど』って言ったらちょっとびっくりするでしょ」

「ちょっとびっくりするけど。『この人にそっくりな人がどこかにいるんだー』とおもったらなんかふしぎな気持ちになるけど。『あたりまえだけど一卵性双生児でも大人になったら別々の人生を歩むんだよなあ』とか考えてしまうけど」

「でしょ。『ラスト一行で明かされる意外な真実&奇妙な味わいの物語』これでいきましょう」

「それ小説の味わいじゃなくて単に双子ってなんとなくミステリアスだよねってだけじゃん」

「だめですかね」

「だめだめ。やっぱりそんな小手先の騙しはよくないよ。ちゃんとミステリの質で勝負しよう。このままいこう」

「じゃあこうしましょう。作品自体はこのままいきます。でも帯には『驚きのラスト! 必ずもう一度読み返したくなる!』というコピーをつけましょう」

「えっ、だって王道のミステリだよ。殺人事件が起こって刑事が推理をして犯人を捕まえる話だけど。そんなに意外性ないでしょ」

「だからこそですよ。『驚きのラスト! もう一度読み返したくなる! あなたも必ず騙される』って触れ込みだから、読者は身構えながら読みますよね。どんな意外な事実があるんだろうとおもいながら。ところが最後の一行まで読んでも何も起こらない。読者は驚く。えっ、何もないじゃん。そしておもう。自分が何か見落としていたのかも。で、もう一度読み返したくなる」

「ひでえ」

「そして気づくわけですよ。あっ、騙された! と」

「出版社にね」


2019年7月17日水曜日

【映画感想】『トイ・ストーリー 4』

『トイ・ストーリー 4』

内容(ディズニー公式より)
“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”―― 新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズら仲間たちの前に現れたのは、彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。しかし、彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう。ボニーのためにフォーキーを探す冒険に出たウッディは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会いを果たす。そしてたどり着いたのは見たことのない新しい世界だった。最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは…?

≪公開中の映画に関するネタバレを含みます≫

ぼくは『トイ・ストーリー』シリーズの大ファンだ。
これまでの3作、および短篇作品もくりかえし観た。『4』の公開は何年も楽しみにしてきた。
ほかのファンと同じようにぼくも「あんなに完璧な『3』の後に続編を作れるのか?」とおもったが、同時に「でもピクサーならその不安をふっとばしてくれるすばらしい作品を生みだしてくれるはず」と信じていた。

で、『4』を観賞。
結論からいうと、不満がたくさん残る作品だった。
ぼくが大ファンじゃなかったら素直に楽しめたんだろうけど、思い入れが強い分、わだかまりも多く残った。

1~3までの作品とはずいぶん毛色がちがうなあとおもって調べてみたら、やはり『トイ・ストーリー』の生みの親であるジョン・ラセターが制作から離れたということで(離れた理由については自分で調べてください))、どうりでまったく別物になっているわけだ。
換骨奪胎。
変わったところが、ことごとく好きじゃなかった。




変えることが悪いとはおもわない。
同じようなことをくりかえすだけではマンネリを生む。『トイ・ストーリー3』ではウッディたちをアンディの元から去らせるという大転換をおこなって見事に成功を収めた。

今回の『4』では最終的にウッディがボニーやバズ・ライトイヤーたちと別れて新しい世界へと旅立つが、その決断自体は否定しない。

置かれた境遇が変われば心境も変わるし、「おもちゃは子どもに愛されるためにある」というウッディの自我は前三作で常に危機にさらされてきた。結果的にウッディたちは「子どもと一緒にいる」を選んできたが、唯一無二の選択だったわけではなく「悪いこともあるけどまあしょうがないよね」という妥協を内に含む決断だった。
だから今さらウッディの信念が揺らいだとしても驚かない。

ただ、これまでのウッディたちの決断を否定するのであればそれなりの理由が必要だ。『4』には「なるほど、それならウッディの信念が変わるのもしょうがないよね」と観客に思わせるだけの説得力がまったくなかった。

ひとことでいうと「」。
ストーリー展開、心理描写、リアリティ、整合性。ひたすらに雑。
いや『4』がほかの映画にくらべて悪いわけではない。『3』までがきめ細やかすぎただけ。『4』ではそれが受け継がれていないだけ。

もう少し具体的にいうと、前作までは「課題があって、おもちゃたちが100点ではないけど一応納得できる解決を導きだす」というストーリーだった。
だが『4』では「まず解決があって、そのために課題を設ける」という作り方をしている。

まず「ウッディがボニーやバズたちと離れる」というゴールがあり、そのために
  • ウッディがボニーやその親からないがしろにされる
  • ボニーの心の支えになるフォーキーというおもちゃを登場させる
  • 子どものおもちゃから離れて自由闊達に生きている、ボー・ピープというキャラクターと出会わせる
など、着々と「ウッディ引退のための花道」が準備されてゆく。いや、花道というより追い出し部屋か。
以前のウッディならフォーキーに対して嫉妬ぐらいは抱いていたはずなのに、まるで自分の引退を悟っているかのように己の持てるものをフォーキーに譲りわたしてゆく。

そして、自分自身が不要になったことを(それなりの葛藤があるとはいえ)あっさり受け入れて新天地へと旅立つ。

まるで、社内に居場所がなくなってきたと感じているベテラン社員が、会社が用意した早期退職制度に応募して「おれの実力なら独立してもやっていけるっしょ」と起業するみたいに。
アンディ社でエースを張り、子会社のボニー社で不遇を強いられてきたウッディが、脱サラして喫茶店のマスターに。どう考えてもこの先うまくやっていけるとはおもえない。
独立するのであれば、追い立てられるような逃避的独立ではなく、前向きな理由でのリスタートであってほしかった。




制作者の敷いたレールを最短距離で走らせるために、前作までで丁寧に描いてきた
  • 常に自分が主役でいたいというウッディの人間くさい欲
  • アンディとボニーが交わした、おもちゃを大切にするという約束
  • ボー・ピープは陶器のおもちゃだからアクションができないという制約
  • 直情的なウッディに比べて思慮深いバズのキャラクター
  • ウッディとバズの深い友情
といった設定はあっさり無視されている。

そしてなにより、「子どもの友だちでいることがおもちゃにとってなによりの幸せ」というウッディの信念、ときにはそのせいでバズに嫉妬心を燃やし、プロスペクターやジェシーとの約束を反故にし、居心地の良い保育園やおもちゃの仲間たちに別れを告げたほどの頑固な信念は、「あっちのほうがなんとなく良さそう」ぐらいの軽いノリであっさり捨てられてしまう。


ほぼ称賛一色だった前作とはちがい今作は賛否両論だそうだが、その"否"はほとんどここに向けられているのだろう。
過去三作に対する思い入れの強い観客ほど、ウッディやボニーの豹変っぷりには戸惑いを感じるはずだ。

主役の座から降ろされることも、子どもが成長すればいずれ遊んでもらえなくなることも、子ども部屋の外にはいつまでも子どもと遊んでもらえる場所があることも、ウッディはこれまでの三作で味わってきた。
それでも愚直なまでに信念を曲げなかったウッディが『4』ではさしたるきっかけもなくあっさり考えを転向させてしまう。

よほど現状がつらいとか、よほど移動遊園地が魅力的な場所であるとかの「これまでの決断を覆すほどの根拠」は描かれない。これこそぼくが「雑」と思うゆえんだ。

ボニーの元を離れて生きていくという決断を見せられても、「だったらあのときサニーサイド保育園に行ってたらよかったじゃない」としかおもえない。
強権的政治を敷いていたロッツォが退場したサニーサイド保育園はおもちゃの楽園だ。しかもボニーの家からおもちゃでも移動できる距離にあるから今からでも行ける。
「他のおもちゃといっしょにサニーサイド保育園」に背を向けたウッディが、なぜ「単身で移動遊園地」は受けいれるのか?

移動遊園地がサニーサイド保育園に勝っているところはただひとつ。
「ボー・ピープがいる」という点だけ。
それだけでウッディがあっさりボニーやバズを捨てちゃうの? 子どもと遊んでもらえなくなってもかまわないの?
まさか「恋愛はすべてに勝る」ということをトイ・ストーリーを通して伝えたいわけじゃないよね?

トイ・ストーリーの世界観において、おもちゃは単なる子どもの友だちではない。制作者たちも語っているように、彼らの役割は「保護者」だ。
おもちゃたちは子どもを守るために行動している。第一作でウッディが憎いバズを助けにいくのも、『2』でさらわれたウッディを他のおもちゃたちが連れ戻しにいくのも、理由は「アンディが悲しまないように」だ。
だからこそ『3』ではアンディが家を出ていくときにアンディのママが感じる我が身を引き裂かれるようなつらさがおもちゃの視点を通して描かれる。あのシーンは時間にすればわずかだったが、強烈な印象を放っていた。
『4』でも、ボニーがはじめて幼稚園に行くときに寂しがらないようにウッディがついていったり、モリー(アンディの妹)が寝るときに怖がらないようにボーがついていたことが語られたり、おもちゃは子どもたちの保護者としてふるまっていた。
なのに、ボーと出会ったウッディはあっさり保護者であることをやめてしまう。


「新しい生活のほうがなんとなく良さそう」とボニーのもとを離れるウッディの姿は、まるで新しい男を見つけて子どもを置いて去ってゆく母親だ。
母親には母親の人生があるからそういう選択を否定する気はないけど、でもピクサー映画で見せる必要はあるか?
ぼくは、自分が母親に見捨てられたような気分になった




『3』までと『4』の制作者の「おもちゃへの愛」は、アンディの母親とボニーの両親のちがいにはっきりと描かれている。
アンディがおもちゃを大切にする気持ちをよく理解しているアンディの母親。一作目では最後の最後までウッディを捜すアンディに寄り添うし、『2』では高値を付けてウッディを買い取ろうとするアルに対していくら積まれても売らないと言い切る。

だがボニーの両親はアンディのママとはちがう。
ボニーのおもちゃを平気で踏んづけるし、旅行先でボニーのお気に入りのおもちゃがあるかどうかも確認せずに車を出そうとする。おもちゃがなくなっても「まあそのうち出てくるだろう」ぐらいで済ませる。
「おもちゃなんてなくなればまた買えばいい」ぐらいの気持ちなんだろうな。それは制作者の気持ちがそのまま表れたものだ。
ボニーの父親のもとにアルが現れて「あなたのお子さんのおもちゃを300ドルで売ってください」と言ってきたら喜んで手放すだろうな。『トイ・ストーリー4』の監督も。




不満を書きだしたら止まらなくなってきた。
いいところも書こうとおもっていたのに。ファンにはうれしい、ティン・トイのさりげない登場シーンやコンバット・カールの再登場とか。

ティン・トイ
迷子のシーンを通して「自分より弱いものを守る立場に置かれることで強くなる」ことを表現していたこととか。

それでも思いかえすほどに、納得のいかないところが次々に出てくる。

ボー・ピープのキャラクター変化とか。
内面が変化するのはぜんぜんかまわない。環境が大きく変わったのに同じ性格でいるほうが不自然だ。
でも、物理的な制約を飛びこえてしまうことはいただけない。
さっきも書いたけど、ボー・ピープは陶器の人形だ。激しいアクションには耐えられない。服は着色されているから着替えられない。折れたらかんたんに修復できない。
だから『2』では留守番を強いられたし、『3』では姿すら見せない。『4』ではそういった設定をぜんぶ無視している。
「おもちゃの材質や形状に応じた動きをする」ってのがトイ・ストーリーの魅力なのに、それがかんたんに捨てられている。

『4』におけるボー・ピープのキャラクターは、いかにもここ数年のディズニーヒロインという感じだ。
『シュガーラッシュ』シリーズのヴァネロペに代表される、旧習に縛られずに自分がもっとも輝くフィールドで戦うかっこいいヒロイン。
いっしょに観ていたうちの六歳の娘も「ボーがかっこよかった! ボーがいちばん好き!」と言っていた。そりゃそうだろうな。かわいくてかっこいいお姉さん。女の子は大好きだろう。
そういうキャラクターが出てくることには大賛成だ。
でもその役目を担うのはボー・ピープじゃないでしょ。陶器製の電気スタンドじゃないでしょ。ウッディを役立たず呼ばわりするのは、ウッディが誰よりも仲間思いなのを間近で見てきたボーじゃないでしょ。




『4』が雑な印象を与えるのは、キャラクターたちのその後の描かれ方が投げやりだからでもある。

これまでの作品では、キャラクターたちにしかるべき居場所が与えられていた。
たとえば『3』では、序盤に家を出た軍曹やグリーンアーミーメンたちはラストでサニーサイド保育園にたどりつき、そこではケンやバービーを中心におもちゃにとって居心地のいいコミュニティがつくられている。
ロッツォの手下として強権的支配に手を貸していたおもちゃたちも心を入れ替えて仲良くやっている。
最後まで無慈悲だったロッツォにすら居場所が与えられていた(ひどい目には遭うが彼を拾うのはおもちゃを愛している人物だ)。『2』でウッディを傷つけたプロスペクターも同じだった。

だが『4』はすべてがなげっぱなしだ。
移動遊園地に残ったウッディたちのその後が描かれるが、ダッキーとバニーは子どもにもらわれたいと願っていたのに叶わなかった。おもちゃを大切にしない家に残されたバズたちに明るい未来が待っているのだろうか? ベンソンは最後まで感情のないロボットとして描かれていて、ギャビーギャビーとはぐれた後にどうなったのかはわからない。不気味な存在から一転してかわいらしい赤ちゃんの心を取り戻した『3』のビッグベビーとは対照的だ。

おもちゃだけではない。ボニーというキャラクターの造形もひどかった。
ボニーがウッディを気にするシーンあった?
ウッディに話しかけたり、ウッディをさがしたりするシーンあった? ウッディから保安官バッジを引きちぎるシーンだけじゃない?
あれが、アンディが信頼しておもちゃを託した子?




愚痴はまだ続く。
ギャグシーンがうわすべりしていたこと。

デューク・カブーンが笑い担当だったんだろうけど、百人が百人ともケンを思いうかべるだろう(あと『トイ・ストーリー・オブ・テラー!』のコンバット・カールと)。つまり既視感しかない。

あとはダッキーとバニーの妄想コント。
ありえない展開がくりひろげられた後に「実はこれ、ダッキーとバニーの妄想でした!という流れが何度かある。
これ、おもしろくないとか以前に、完全に話の流れを妨げていた。
せっかく物語の世界に没入してるのに、「はいこれはぜんぶ作り物ですからね」といちいち現実に引き戻される。
しかも『2』のスターウォーズパロディや『3』のバズのスパニッシュモードのようなストーリーの流れにからんだギャグではなく、このシーンがあってもなくても本筋にはまったく影響を与えないようなとってつけたギャグパート。
「さあ、ここは笑うとこでっせ!」という制作者の声が聞こえるようで、完全に鼻白んでしまう。いかりや長介の「だめだこりゃ。次いってみよう!」という声が聞こえてくるようだった。
劇場でもほとんどウケていなかった。

おもしろかったのも鍵を手に入れるとこぐらい。でもあれも場面を区切って回想にしないでほしかった。
前作までは、ほぼすべて時系列にそって描かれていた。
回想が入るのは、ジェシーがエミリーとの思い出を語るシーンとロッツォが持ち主と離別するところぐらいかな。それでも単純な回想にはせずに「今語っている」という形をとっていた。
あれも、観客が物語の世界から現実に引き戻されないための工夫だったのだろう。時系列順に描かれることで、「この物語はまさに今目の前で起こっている」かのような気持ちで見ることができる。
『4』ではその約束も壊されてしまった。観客は(数分前の)回想シーンを通して「これはしょせん作り物ですよ」という野暮な事実をつきつけられる。


そう、ありていにいえば「野暮」なのだ。すべてにおいて。
永遠の友情なんてありえない、おもちゃなんてしょせん替えの利くモノにすぎない、このお話はつくりもの。この映画は、いちいち現実を突きつけてくる。
そんなことはわかっている。わかってるけど、なんで金を払ってつまらない現実を見せられなきゃならんのか。こっちは夢を観にきてるのに。




不満ばかりになってしまった。
書く前は「『昔は良かった』ばかりだと老害くさくなるから、良かった点と悪かったとこを半々ぐらいで書こう」とおもっていたのに。

でも、そうなんだよ。観ているときはおもしろかったんだよ。観終わったときの感想も、少なくとも半分は「良かった」が占めていたんだよ。これはほんと。
ピクサー作品の中でも平均以上の出来だとおもうよ。

ただ、高級イタリアンの店に入ったら出されたのがサイゼリヤの料理だった、みたいな気持ちにはなるよね。
ええ、おいしいですよ。サイゼリヤ。ぼくは大好きですよ。
でも高級イタリアンで出されたら「サイゼリヤはおいしいからまいっかー!」とはならない。味の問題じゃない。

要するにまったくべつの物語を作りたいならトイ・ストーリーの看板掲げて商売すんじゃねえよ、ってことなんですよ。
『トイ・ストーリー4』という名前の映画をつくる以上は、壊しちゃいけない部分がある。なのにこの映画では深い考えもなくそこを踏みにじっている。


「おもちゃが動いてしゃべるけどトイ・ストーリーじゃない」物語を作ればよかったんだよ。それならなんの不満もない。
ジョジョとスティールボールランとジョジョリオンみたいに、設定だけ活かしてまったく別のキャラの物語にすればよかったのに。


願わくば、『5』をつくってウッディに「あの決断は失敗だった」と語らせてほしい。
それが、おもちゃを愛する少年だったぼくの願いだ。


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2019年7月16日火曜日

【読書感想文】ミニオンアイスみたいなことをやられても / 湊 かなえ『少女』

少女

湊 かなえ

内容(e-honより)
親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。ふたりとも相手には告げずに、それぞれ老人ホームと小児科病棟へボランティアに行く―死の瞬間に立ち合うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー。

ううむ。
よくできている。が、よくできているがゆえにおもしろくない。
とにかく偶然がすぎる。
「たまたま〇〇が□□の親だった」「あのときの××がなんと△△につながっていた」みたいなのがひたすら続く。
天文学的確率の20乗。いくら宇宙が広いからってこれはやりすぎ。


リアリティのない小説が嫌いなわけじゃない。
「ありえねーよ!」って設定も、それはそれでいい。

ただ。
ありえない展開の小説にするには、それなりのテイストが必要なわけ。

『ホーム・アローン』はコメディだからおもしろいわけじゃん。ケヴィン少年の策略がことごとくうまくいくのはご都合主義だけど、それも含めて楽しいわけじゃん。コメディだから。
でもサスペンス映画のラストで、主人公が敵を撃退するために『ホーム・アローン』みたいな仕掛けをやったら興醒めするよね。

べつのたとえをするとさ。
サーティワンアイスクリームに「“ミニオン” フラッフィワールド」って味があるのね。
映画のミニオンとコラボした商品で、公式サイトによると「ストロベリー風味、マシュマロ風味、コットンキャンディが織りなすフワかわいい美味しさ!」って書いてある。

“ミニオン” フラッフィワールド

まあばかみたいなアイスクリームだよね。
でもアイスクリームだからこれでいいわけじゃん。
だってみんながサーティワンアイスクリームに求めるのは「楽しさ」「おもしろさ」「はじけとんだ感じ」であって、「素材にこだわったおいしさ」とか「プロの料理人の熟練した技術」とか「栄養」とかじゃないから。
だからミニオンのハチャメチャな味でもぜんぜんオッケー。

でも老舗の天ぷら屋が「“ミニオン” フラッフィワールド味はじめました!」ってやったらげんなりするでしょ。いや天ぷら屋にそういうの求めてないから、ってなるじゃん。


そういうことなんだよね。
だから『少女』もかる~いタッチで書いてくれたらおもしろかったはず。よくできてるなーって素直に感心できたとおもう。
映画『キサラギ』なんかやはり死を扱った作品だったけど、とことんポップに描いていたから、ストーリーのありえなさも含めて楽しめた。

かといって湊かなえさんがポップで底抜けに明るい小説を書いたら、それはそれでなんかイヤだな……。


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2019年7月12日金曜日

男らしさ、女らしさ


娘の中で「おかあさんは家事をする人。おとうさんは遊ぶ人」という意識ができているようだ。

おとうさん(ぼく)としては、べつに亭主関白を気どっているわけではない。
共働きなのでぼくも家事をやる。少しは。
でも、
  • 妻は神経質でぼくの料理や掃除のやりかたが気にいらないことが多い
  • 下の子の妊娠・出産・授乳などで妻が家にいないといけないことが多かった
  • 妻の職場は時短勤務が認められているので、妻のほうが早く帰ってくる
  • ぼくは自分の子にかぎらず子どもと遊ぶのが好き。妻はあまり好きではない
といった理由から、自然と「休みの日はおとうさんといっしょに遊んだり買い物に行ったり。その間におかあさんが料理や洗濯をする」という役割分担になった。



あるとき、ぼくが洗い物をしていると、娘が「おとうさん、あそぼ」と言ってきた。
「洗い物してるから終わるまで待ってね」というと、娘はこういった。
「洗い物なんかおかあさんにさせたらいいやん」

ひ、ひどい。
令和の時代を背負って立つ女の子だというのに、昭和の横暴亭主みたいな価値観に染まっている……。

「おかあさんもお仕事に行ってるんだよ」
「おとうさんも料理できるよ」
「こどもを産んだりおっぱいをあげたりはおかあさんしかできないけど、ほかのことはだいたい男でも女でもできるよ」
と、ことあるごとに男女平等思想を持ってもらおうと教育しているつもりだったのに。



これからの時代を生きる人間として、「男は外で仕事。女は家で家事育児」という価値観を持ってもらいたくない。
妻も同じ考えだし、周りのおとうさんおかあさんも同じ考えの人が多いとおもう(保育園の友だちの家は当然ながらみんな共働き世帯だ)。

でも、親がそういう意識を持っていても、子どもは自然と「男らしさ、女らしさ」を学習してしまう。

絵本ではおかあさんが家事育児をしていることが多いし、幼児雑誌にも「ママといっしょにやってみよう」とか書いてあったりする。

四~五歳ぐらいから娘も「ピンクや赤は女の子の色、男は青とか緑とか」なんてことを言うようになった。親は教えていないのに。
「男らしさ」「女らしさ」に敏感になる年頃なのだろう。


だからって、べつにジェンダーの押しつけは許さん!と憤るつもりはない。
「男女はどんなときでも平等であらねばならない!」って世の中になったらそれはそれで「男は外で稼いでこい、女は家で子どもを守れ!」って世の中と同じぐらい息苦しいし。

ただ、令和の時代になっても子どもたちは「女らしさ、男らしさ、母性、父性」的な価値観をいったん身につけてから、学習によってジェンダーフリーを習得していかなくてはならないんだなあ。

ぼくらの時代はそうやって一度習得した価値観を後から修正する必要があったけど(修正できていない人も多いけど)、そのへんのわずらわしさは今の時代もあんまり変わらないのかもしれないな。


2019年7月11日木曜日

政治家を増やそう


政治家の定員を削減しろっていう人が多いけど、ぼくはむしろ、定員をおもいっきり増やしたらいいとおもう。たとえば10倍に。


議員の数は10倍、議員報酬は10分の1、責任も10分の1。町内会の会長ぐらいの感覚だ。
議会には基本的に出席しなくていい。月に1回ぐらいでいい。
議会は基本的にチャットでおこなう。採決もオンラインで。

それぐらいならやってもいい人は多いんじゃないだろうか。
ぼくも副業としてやってやってもいい(えらそう)。

地方議員の報酬は、少ないとこだと年に120万円くらい、多いとこだと1000万以上だそうだ(ばらつきすげえな)。
10分の1にしたら年12~100万円。副業としては十分魅力的だ。でも専業で食っていくには厳しい。
だから政治家は年金受給者以外みんな兼業になる。それでいい。経営者なら経営者、保育士なら保育士、工員なら工員、主婦なら主婦の考えをそのまま政治に反映させられる。無職の人がとりあえずのつなぎとして地方議員になってもいい。就職してもそのまま続けられるし。

今だとまず仕事を続けながら議員にはなれないから、選挙に出馬するのは年寄りと強固な地盤を持つ人ばかりだ。
兼業でやれるなら、いろんな立場の人間が議員になれる。
仕事をしている人、お金のない人、健康に問題がある人、育児中の人、介護中の人。いろんな事情で出馬をあきらめなければならなかった人が参政できる。
すばらしいことだ。



選挙のやりかたも変わる。

選挙に金をかける必要がなくなる。当選者が10倍になるわけだから、当落ボーダーラインが今よりもずっと下がる。
幅広い層にアピールする必要がなくなるのだから、選挙カーで名前を連呼して薄く広くアピールするよりも確実に入れてくれる強い支持者を育てるほうが重要になる。

そもそも金をかけられなくなる。
当選したって報酬は今までの10分の1。政治家ひとりあたりの権力も10分の1。
政治家の持つ金銭的なパワーは今よりずっと小さくなる。

議員数増加にともない供託金制度は撤廃でいこう。

当落ラインが下がれば自分の一票が当落を分ける可能性も高くなるし、定員が増えれば「知人」や「知人の知人」が出馬することも増える。
「1万人の代表」よりも「千人の代表」のほうがずっと身近に感じられるはずだ。陳情もしやすい。

関心が高くなれば投票率も上がるだろう。



「議員数削減しろ!」と声高にとなえる声は多いが、そんなことをしたらひとりあたりの権力が増してますます市民の声が政治に反映されなくなるだけだ。
国会が金持ちの世襲議員だらけになることを望んでいるんだろうか?

だから人口が減少している今こそ、議員数はどんどん増やすべきだとぼくはおもう。

まさか、自分の権力や報酬が減らされるからって反対する了見の狭い政治家の先生方はいないでしょ?


2019年7月10日水曜日

塾に行かせない理由


まがりなりにも人の親をやっている。
上の子は来年小学生。早いものだ。

保護者同士で話していると、小学校受験だ塾だといった話題も耳にする。
受験対策の塾に行っている子(月謝が五万円以上もするという。ひええ)、公文に通っている子、英語を習っている子。
みんないろんな教育を受けている。まだ小学校入学前なのに。

一方、うちの娘がしている習い事はプールとピアノ。勉強系はやらせていない。
他のお父さんお母さんから「受験させないんですか?」「いっしょの塾に行かせませんか?」と言われて「いやーうちはいいですわー」とへらへら答える。

しかし心の中ではこうおもっている。
「なんも考えてないわけじゃない。娘のためをおもった結果、塾に行かせないんです!」



塾に行かせていないのは、ぼくなりにいろんな本を読んだ(個人的な体験に基づく自称教育書ではなくデータに基づく本ね)結果、今の時期に塾に行かせて勉強させるのはデメリットのほうが多いと考えたからだ。

いくつかの本を読んで得た知見は、
  • 知能は遺伝によって大部分が決まる。
  • 幼少期の知性は教育によって大きく変わる。しかし思春期になると先天的な要因のほうがずっと大きくなる(つまり幼少期に与えた教育の効果は長続きしない)
  • 親が直接的に子に及ぼす影響はわずか。しかし親以外の環境の影響は受ける。
ということだ。

遺伝は今さらどうにもならないことなので、ここをあれこれ悩んでも仕方がない。
「ぼくと妻の子なんだから賢いはず!」と無根拠に信じこむしかない。

「親が勉強させる」はすぐ通用しなくなると知った。
幼少期は言われるがままにやってくれるかもしれないが、成長するにしたがって親の言いなりにならなくなる(もし親の言いなりで動く人間のままだとしたら勉強ができない以上にヤバい)。

だから、ぼくが子どもに対して求めるものはただひとつ。

「自発的に学習する人間になってほしい」

これが大目標。
自発的に学習する人間になれば、どんな学校に行っても、どんな仕事についても、どんな環境におかれてもそれなりにうまくやっていける。
「勉強ができる」はその結果であって、目的ではない




「自発的に学習する人間になってほしい」
この目標を達成するために必要なものは、ぼくの考えでは大きく三つ。

読解力」「論理的思考力」そして「知的好奇心」だ。

読解力

読解力はすべての基本だ。
情報の伝達は文字を通しておこなわれるのが基本。少なくともあと百年は変わらないだろう。本の役割は小さくなるかもしれないが、文字はまだまだなくならない。
「人から教えてもらう学習」には限界がある。能動的に学ぶためには読解力は必要不可欠だ。

論理的思考力

たとえば「AならばBは自明である。だからといってBならばAとはいえない」。こんなレベルの論理でも、わかっていない人は世の中には存外多い。
どれだけ文字を読んでも、論理的にものを考えられなければどうしようもない。

知的好奇心

勉強が苦行だとおもっている人のなんと多いことか。
何度も書いているが、勉強は本来たのしいものだとぼくは信じている。
わからなかったことがわかるようになる、こんなにおもしろいことはない。全人類に共通する悦びだ。
でも世にはびこる「勉強は苦しくてつらいもの」という言説のせいで嫌いになってしまう人は多い。
娘には、学ぶことを好きになってほしいと常々おもっている。


大目標達成のためにやっていること

まず読書。
月に一回ぐらいは本屋に行って、本を何冊か買ってあげる。
隔週で図書館に行って十数冊の児童書を借りる。
で、毎晩寝る前に読んであげる。それ以外でも読んでくれと頼まれたらなるべく読んであげる。
ぼく自身もよく本を読んでいるので、娘も本を好きになった(親が読まないのに子が読むわけがない)。
ひとりで本を読んでいることもよくある。

それからパズル。
ぼくは子どものころ、ずっとペンシルパズルをやっていた。クロスワードとか数独とか、ああいうやつね。『ニコリ』という雑誌を定期購読していた。『ニコリ』は日本唯一といっていいパズル総合誌だ。
ありがたいことにニコリには子ども向けコースがある(こどもニコリ)。
これを申しこんだ。娘は楽しくやっている。

他に、どうぶつしょうぎ、トランプ、バックギャモンなど、テーブルゲームをよくやっている。論理的思考力が鍛えられそうだし、なにより、いっしょに遊んでいるぼくが楽しいから。


なにより大事なことだが、読書もパズルもゲームも強制しない。
「本読む?」「パズルしない?」と誘うことはあるが、断られたら引き下がる。
買う本、借りる本は娘に決めさせる。「これおもしろそうじゃない?」と提案はするが、娘が「やめとく」といったらそれ以上は勧めない。
ぼくが「つまんなさそう」とおもっても、娘が読みたいといった本は買ってあげる。

他人に何かを嫌いにさせるのはかんたんだ。強制すればいい。
「毎日ゲームを二時間以上やること。どんなに忙しくても気が乗らなくても途中でやめてはいけない」というルールを決められたら、ゲームを見るのもイヤになるだろう。

だから、学ぶことを娘に対して決して強制しない。
「パズルしてもいいよ」とは言うが「パズルしなきゃダメ」とは言わない。

おもえば、ぼくの両親もそうしてくれていた。
母はぼくの手の届くところにいろんな本を置いていたし、父は「おもしろそうだったから」といってパズルやクイズの本を買ってきてくれた(『ニコリ』ともそうやって出会った)。
だが読書やパズルを強制されたことはない。
おかげでぼくは読書とパズルが好きになり、ついでに勉強も好きになった。
幼少期から塾に通わされていたら、勉強を好きにはなっていたかどうか。

ひとくちに塾といってもいろんな方針の塾があるのは知っている。
決して押しつけないやりかたをとっているところもあるだろう。

でも、その考えがすべての講師に徹底されているかどうか。
まじめな講師ほど「月謝をもらっているんだからちゃんとやらせないと!」とおもってしまうのではないだろうか。

それに、娘が「今日は塾に行きたくない」と言いだしたとき。
「じゃあ行かなくていいよ」とぼくが言えるかどうか。
月謝が月に五万円、ということは一回一万円以上、行かなかったらそれが無駄になる……。とそろばんをはじいてしまわないだろうか。
とても自信がない。



今のところ、娘は学ぶことが好きだ。
「本読みたい」「パズルやってもいい?」と言ってくる。図書館に行くのも本屋に行くのも好きだ。そしてなにより、新しい場所にいくこと、やったことのないものが大好きだ。

どうかこのまま勉強を好きでいてほしい、そのために全力でサポートしてやりたい。
それが「娘を塾に通わせない理由」だ。


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2019年7月9日火曜日

【読書感想文】ビミョーな間柄の親戚 / 新津 きよみ『孤独症の女』

孤独症の女

新津 きよみ

内容(e-honより)
甥の翔が生まれたとき、目元が由希によく似ていると言われた。似ていたのは顔だけでなく、幼い翔は絵の才能があった。画家になることが夢だった由希は、その夢を託すように彼に絵の指導を始めた。いつしかその思いは過剰なものとなるが、成長する翔の時間は他のものに奪われていく。焦燥を隠しきれない由希は―(「愛甥」)。全七篇、様々な家族のカタチを描く珠玉の作品集。

姑、異母兄弟、義理の兄、兄嫁、別居中の夫など「ビミョーな間柄の親戚」との関係を描いた短篇七篇を収録。


ぼくもいい歳になったし結婚したことで「ビミョーな間柄の親戚」が増えた。
義父母、義妹、義妹の夫、義兄、義兄のおとうさん、義兄のおとうさんが再婚した相手(つまり義兄の義母)、いとこの夫、いとこの子(従甥(じゅうせい)/従姪(じゅうてつ)っていうんだって。なんか怖い響きだよね)……。

配偶者は自分で選ぶけど、その親戚までは選んで親戚になったわけじゃない。妻の妹の夫、なんてほぼ他人だ。
だけど親戚の集まりや法事などで顔を合わせる機会はけっこうある。むげにもできない。
けれど年齢も職業もぜんぜんちがうし共通の趣味もない。
ちょっとした話はしなければならないが共通の話題もない。「お正月休みはいつまで?」とか「お子さん大きくなりましたよねえ」「いやまだまだわがままな子どもですよ」とか毒にも薬にもならぬ話題でなんとかやりくりをする。大人ってたいへんだ。

幸いうちの親戚はみんな常識人だし(たぶん)、そもそもお互いそんなに濃密な付き合いをしないようにしているので「間が持たなくて気づまり」ぐらいで済んでいるが、「金に困っている親戚」とか「良からぬことを生業にしている親戚」とか「やたらとなれなれしくしてくる親戚」とかがいると、苦労もそんなもんでは済まないだろう。

誰しも「この人と結婚していいだろうか」と悩むだろうが、ぼくに言わせれば結婚がうまくいくかどうかなんて運でしかないとおもう。
結婚してから豹変する人は(たいていの場合悪くなる)いくらでもいるし、それを事前に見抜くのはほぼ不可能だろう。
結婚相手ですらわからないのだから、結婚相手の親戚がマトモな人かどうかなんてわかるわけがない。完全に博打だ。

無作為に選んだような相手と、家族同然の付き合いをしたりお金の交渉をしたりしなければならないわけだから、当然そこにはサスペンスやホラーのドラマが生まれる。
小説としていい題材だとおもう。




中でもいちばんおもしろかったのは『愛甥』。

顔も才能も自分に似た甥に対して、果たせなかった夢を投影する独身の伯母。甥に期待するあまり両親の教育方針に疑問を持ち……。

正直早い段階でオチは読めたが、それでもよくできた小説だとおもう。
叶えられなかった過去の夢を投影する先として、甥という存在はすごく絶妙だ。

ぼくにも姪と甥がいるが、すごくかわいい。
自分の子に感じるのとはまたちがった愛おしさがある。

姪や甥に対しては、ただかわいがるだけでいい。将来をおもって厳しく叱ったりしなくていい。たまに会うだけなので好きなだけかわいがってやればいい。会うたびにお年玉やプレゼントをあげて、いっしょに遊んでやる。甥姪がおかあさんに怒られていたらなぐさめてやる。多少のわがままも笑って許してやる。
甘やかすので、向こうもこちらになついてくる。なおのことかわいい。

甥や姪は遺伝子的にはけっこう近い。四分の一は自分と同じ遺伝子を持っている計算になる。孫と同じだ。
働きバチは子どもを産むことができないが、妹のために働く。妹や姪が出産することで自分の遺伝子を残すことができるからだ。
甥や姪がかわいいのは、遺伝子を残す上でもあたりまえのことだ。

わが子であればふだんから見ている分、欠点も見える。
けれどたまに会う甥や姪はいいところしか見えない。ぼくが彼らに「優しいおじさん」の顔しか見せないのと同じで。
だから余計に期待を抱いてしまうのかもしれない。


遠くから応援する程度であれば過度な期待に害はないかもしれないが、なまじっか距離が近ければその期待は甥姪を苦しめる刃になるかもしれない。

「おじ/おば」と「甥/姪」の関係って、家族であり他人であり上下関係であり横の関係であり、じつは愛憎紙一重な間柄かもしれない。


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2019年7月8日月曜日

【読書感想文】己の中に潜むクズ人間 / 西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』

二度はゆけぬ町の地図

西村 賢太 

内容(e-honより)
中卒で家を出て以来、住み処を転々とし、日当仕事で糊口を凌いでいた17歳の北町貫多に一条の光が射した。夢想の日々と決別し、正式に女性とつきあうことになったのだ。人並みの男女交際をなし得るため、労働意欲に火のついた貫多は、月払いの酒屋の仕事に就く。だが、やがて貫多は店主の好意に反し前借り、遅刻、無断欠勤におよび…。夢想と買淫、逆恨みと後悔の青春の日々を描く私小説集。

この人の本ははじめて読んだ。気になってはいたんだけどね。芥川賞受賞式での「風俗」発言とか、テレビに出ても少しも賢く見えるようにとりつくろわないところとか。

小説ではあるがほぼ実話だそうだ。
主人公の「北町寛多」はその字面からして明らかに「西村賢太」だ。
すごくおもしろかった。
身内の恥を切り売りするのが小説家の商売だとどこかで読んだことがあるが、それにしてもよくぞここまで己の醜いところをさらけだせるものだと感心する。

たとえば『潰走』における、家賃を払わない寛多と大家である老人のやりとり。
「とにかく、六千円あるならば、まずはそれを内金として払って下さい。こっちはあんたにあの部屋を、無代提供してるわけじゃないんですよ」
 もはや貫多も、これ以上この老人からの必要以上の恥辱に晒されるのには耐えられず、目に涙をためながら、仕方なく有り金をそっくり差し出した。
 するとそれを取り上げた老家主は、さらに残金はいつ入れるのかと、手をゆるめることなく追及してくる。そしてこれも、一週間後に、と答えたのを強引に三日後までとされてしまい、尚かつそれについては念書まで提出することを約させられることとなった。
 貫多が吐きたい気持ちを抑え、持ち主憎さで、もはやけったくそ悪いだけのかのアパートの自室に戻ったときは、毛布と僅かな衣類が転がっているきりの四畳半には、すでに暗闇の匂いが広がっていた。
 電気をつけてポケットに残ったジャラ銭をかぞえ終わると、ふいとあの老家主に対して殺意が湧いてきた。そしてその思いはすぐと我が身に返り、中学時分にだって、したことはあれ、決してされたことはなかったあのカツアゲを、あんな老人からやってのけられ不様に震えてた自分を、実際蹴殺してやりたい衝動に駆られてきた。
自分が家賃をためこんだくせに、家賃を催促する大家を逆恨みして殺意を抱く。ひでえ。ラスコリーニコフかよ。

この北町寛多、クズすぎて同情できるところが少しもない。
家賃を滞納したのも稼ぎを風俗や酒に使ったせいだし、大家に対してもその場しのぎの言い訳ばかり並べている。誰が見ても10対0で寛多が悪い。
にもかかわらず、その後も家賃を督促する大家のことを「悲しい生きもの」だの「余りの非常識」だの「嘗めきった態度」だの「乞食ジジイ」だの、さんざんにこけおろしている。クズ中のクズだ。

しかし。
見ないようにしているだけでぼくの中にも北町寛多は存在する。
周囲の人間を全員自分より下に見て、己の怠惰さが招いた苦境を他人のせいにして不運と嘆く人格は、たしかにぼくの中に生きている。己の不幸は他人のせい、他人の不幸はそいつのせい。己の欲望や怠惰になんのかんのと理由をつけて正当化。

この本を読んでいると、見たくもない鏡をつきつけられているようでなかなかつらい。おまえは寛多を嗤えるのかい、と。

ぼくは今でも身勝手な人間だが、特に二十歳くらいのときはもっとひどかった。
自分以外はみんなバカだとおもってた。それを公言してはいなかったが、きっと言動からはにじみ出ていただろう。

傲岸不遜、けれども他者に対しては潔癖さを求める。
北町寛多はまさしく過去のぼくの姿だ(もしかしたら今の姿かもしれない)。




全篇味わい深かったが、特に『春は青いバスに乗って』はよかった。

ずいぶんメルヘンチックなタイトルだとおもって読んでみると、著者(じゃなかった北町寛多)が警官をぶんなぐって警察のお世話になったときの話だった。

つまり青いバスとは、あの金網のついた警察の護送車のことなのだ。そういや青いな。

――ところで慣れと云うのは恐ろしいもので、当初一秒でも早くここから出たかった私も、それから三日も経てると、これでもう少し煙草が吸え、たまに面会人でも来てくれれば、それ程留置場と云うのも悪くない気分になっていた。留置場と云うより少し規則の厳しい寮にいるような錯覚が起きるときもあり、横になってひたすら雑誌に目を落としているときなぞ、ふいに自分が入院生活でも送ってるかの思いがした。現に健康面でも、毎日飲酒していた私がここに来て一週間足らず、その間、当然ながら一滴の摂取もないだけでえらく体にキレがあり、頭も妙に爽快である。かようなブロイラーじみた日々は、本来ならぶくぶくと太りそうなものだが、後日ここを出た直後に体重を測ったら、逆に八キロ近く落ちていた。
 こうなると留置場も、どうも私にとってはある意味天国で、その環境は少なくとも自己を見つめ直したり、罪を隠い改めるような余地なぞ全く生まれぬ場所であるようだった。ただ、ここに入るには家族親類、友人がいなければ絶対に不利である。面会や差入れのない惨めさや不便さが解消され、それに性絵面で、せめて便所の謎の両側にもう少し目隠しがあれば(そう云えばここへ入って一週間、少なからぬ心労でついぞその気にもならなかったが、下腹部の疼きはそろそろ臨界に近い雰囲気もあった。それであえて借りる本に成人雑誌は選ばないようにしたが、ここに二箇月近く収容されながらそれをすすんで手にし、平然と眺めている広岡たちは、この点をどう解消しているのだろうか)、ここは一種の保養所みたいなものだし、これなら何度入ってもいいとさえ思えてくる。

幸いにしてぼくはまだ留置所に入ったことはないが、留置所の環境が「ある意味天国」というのは容易に想像がつく。

なにしろ決断しなくていいのだから。決断しなくていいことほど楽なことはない。
決められた時間に決まったことだけやって、先のことは何も考えずに生きていく。これぞ天国の生活だ。だってそうでしょ? 天国の住人たちが「これから先どうやって生きていこう」「ずっとこんな生活を続けていていいんだろうか」って思い悩む?

学校生活というのも、留置所の生活に近いとおもう。
言われたことだけやっていればいい。いくつかのルールがあってそれさえ守っていればそこそこ快適な生活が保障される。ただしルールを逸脱した場合は厳しい罰が課せられるが、決断をしたくない人間にとってはいたって気楽なものだ。

ぼくは学校生活を楽しいとおもっていた人間なので、留置所や刑務所に入ってもそこそこうまく適応できるだろうという気がする。
もっと今のところは入る気ないけど。


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2019年7月5日金曜日

【読書感想文】政治の世界の不透明さ / 曽根 圭介『黒い波紋』

黒い波紋

曽根 圭介

内容(e-honより)
元刑事・加瀬将造(38)は、借金取りから逃げ回るロクデナシの日々を送る。ある日、子どもの頃に家を出ていった父親が、孤独死したとの知らせを受ける。加瀬は父親が住んでいたボロアパートを訪ね、金目のものがないかと探すと、偽名で借りた私書箱の契約書があり、何者かが毎月30万円を送金していることを知る。さらに天井裏には古いVHSのビデオテープが隠されていた。再生した映像に映っていたのは…。

曽根圭介作品を読むのは六冊目。
……なのだが、これは期待外れだった。

中盤まではおもしろかったんだけどな。

死んだ父親の遺品を整理していたら、「毎月三十万円を誰かから送金されていた」記録の残る通帳と、犯罪行為を記録したビデオテープを発見する。
で、それらをもとに話が進んでいくので「なるほどこの三十万円とビデオテープの出所が最後につながるのね」と思いながら読んでいたら……。

つながらないんかい! まったくの別案件かい!
途中で国会議員、革命家グループ、右翼団体、冤罪事件などいろんな要素が出てくるのだが、それらもほとんどつながらないまま終わってしまう。
えええ……。
「最後で明らかになる意外な真相」みたいな感じをすごい出してたのに……。

曽根圭介作品、文章はさほどうまくないけどプロットはしっかりしていてそこが好きだったんだけどな。
これは風呂敷の畳みかたがへただったなあ。



この小説内では殺人、脅迫、暴力などが描かれるが、そのへんの描写はべつにこわくない。
おそろしいのは「政治の世界」だ。
もちろんこの作品はフィクションだが、「政治の世界ならこれぐらいのことがまかりとおってもおかしくないな」とおもわせる説得力がある。

ぼくもそうだけど、政治家と個人的にかかわったことのない人にとって政治家稼業ってまったく得体が知れない世界じゃないですか? 政治家という人物はよく見るのに、裏で何をやっているかまったく知れない。
その不透明さは、もしかしたらヤクザ以上かもしれない。

『黒い波紋』はそういう怖さを書こうとした作品だったのかもしれない。
そうだとしたらすごくおもしろい試みなんだけど、それにしては余計な要素が多すぎるんだよなあ。

いろんな要素をちりばめすぎて散漫な印象になっちゃったな。


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2019年7月4日木曜日

【読書感想文】家庭料理のプロ / 中原 一歩『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』

小林カツ代伝

私が死んでもレシピは残る

中原 一歩

内容(e-honより)
“家庭料理のカリスマ”と称された天性の舌はどのように培われたのか。その波瀾万丈の生涯を、伝説のレシピと共に描く決定版評伝。

「家庭料理のプロ」としてテレビ番組出演やレシピ本の執筆をしていた小林カツ代さんの評伝。

正直、評伝としてはものたりない。
だって小林カツ代さんを必要以上にもちあげているんだもの。
欠点や失敗や過ちも書くことで人間が立体的に浮かびあがってくるものなのに、『小林カツ代伝』ではほめちぎってばかり。
著者は小林カツ代さんと生前から親しくしていたそうで、文章の端々から遠慮が感じられる。
近しい人だからこそマイナス面も見てきたはずなので、そこに踏みこんでほしかったな。

カツ代さんが亡くなったのが2013年、この本の慣行が2017年。評伝を書くには早すぎたのかもしれない。

大崎善生さんが書いた団鬼六の評伝なんて、団鬼六のクズっぷりもありのままに記していて、それがかえって清濁併せ呑む団鬼六の懐の深さを魅力的に伝えていた。
【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

故人を侮辱しろとはいわないけれど、好きだからこそ書ける欠点もあるとおもうんだけどな。


あと一章『料理の鉄人』はいらなかったな。少なくとも冒頭に持ってくる内容ではなかったようにおもう。
このエピソードからは小林カツ代さんの人間性は伝わってこない。
「あの『料理の鉄人』に出て鉄人に勝ったんだぞ!」ってのが勲章になるような世界に生きてた人じゃないでしょ。



構成はともかく、小林カツ代さんという人の生涯はおもしろかった。

料理を職業にするぐらいだから小さいころから料理好きだったのかとおもいきや、なんと結婚するまで味噌汁はダシをとるということすら知らなかったらしい。

結婚後も料理とは関係のない仕事をしていたが、テレビ番組に「料理のコーナーをつくってほしい」と投書をしたことから運命が決まる。
ディレクターから「だったらあなたがやってみてはどうか」と言われ、まったくの素人でありながらテレビの生放送で料理を披露。それが好評を博して次々に料理の仕事が舞いこみ、ついには百冊以上の料理本を出すほどの人気料理研究家に……。

これぞとんとん拍子、と驚くようなサクセスストーリー。
もちろん幸運に恵まれたこともあるが、それ以上に幼少期からおいしいものを食べて育ってきたことで培われた「味の才能」を持っていたことが成功の要因なのだろう。

しかし、カツ代さんがその番組を観ていなければ、投書をしていなければ、ディレクターが出演を依頼しなければ、小林カツ代という稀代の家庭料理人の才能が花開くことはなかった。
もしも小林カツ代さんが数多のレシピを発表することがなければ、現代の日本人の食卓もけっこうちがったものになっていたかもしれないなあ。

女性の社会進出も今より遅れていたかもしれない。



カツ代さんは、家庭料理のプロとして生きていた人だった
 カツ代はプロの料理と家庭料理には、決定的な違いがあることを、天ぷらを例にあげてよく説明していた。
「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない。これが料理研究家の仕事なんです」
 確かに、お店ではカウンター越しにプロの料理人が天ぷらを揚げ、その熱々が客に振る舞われる。しかし、家庭ではそうはいかない。それに一般家庭の台所で天ぷらなど「揚げ物」を作ることは、手間暇と共に技術が必要で、家庭では敬遠されてきた。
 そこでカツ代が考えたのが「少量の油で一気に揚げる」という手法だった。しかし、これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の天ぷらの常識とは真逆の手法だった。
「それまでは、親の手作りが一番尊いという信念がありました。けれども、子育てをする中で、さまざまな境遇の母親に出会い、必ずしもそうでないことを知ったのでしょう。おいしい料理を作ることは大切だが、それよりも、おいしく食べることのほうが何倍も大切だということを、先生自身が学んだのだと思います」
 つまり、時間に追われた状況の中で、手を抜けるところは抜かないと、とても毎日の食事を作り続けることはできない。カツ代のレシピが、当時、出版されていたそのほかの料理本と比べて画期的だったのは、例えば「ドゥミグラスソース」「トマトジュース」の缶詰など既成の食品を、何の言い訳もなく堂々と使ったことだ。また、ある時はスーパーで売っている焼き鳥を買ってきて、温かいご飯の上にのせて焼き鳥丼にする提案もいとわなかった。「全てが手作り」が当たり前の時代である。当然、「母の手作り話」を信仰する輩からは批判も多かったようだが、そうでもしなければ、日々の料理を作り続けることができない、働きながら子どもを育てる切羽詰まった女性たちに、カツ代のやり方は全面的に受け入れられる。ただ、お味噌汁くらいは、一から出汁をとって、野菜を補うため具だくさんにするといい、という提案も忘れなかった。

たしかに天ぷら屋さんに行くと、板前さんがちょっとずつ揚げてアツアツを食べさせてくれる。
もちろん天ぷら屋さんの天ぷらはおいしいけど、家庭で同じことはできない。そんなことしてたらはじめに揚げたものが冷めてしまうし、なによりめんどくさい。

家庭で求められる料理の条件は
「短時間でできる」「他のおかずと同時進行で作れる」「冷めてもおいしい」「つくりおきができる」「レンジであたためなおしてもおいしい」「材料を残さない」
などで、お店の料理とはまったくべつものなんだよなあ。

毎回毎回全力でおいしいものを作らなければならないシェフや板前と、365日食べても飽きないものを作らなければならない主婦は、短距離選手とマラソンランナーぐらいぜんぜんちがう能力が求められるんだろうね。



 カツ代は生前、こんな言葉を残している。
「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。家庭料理のおいしさは、リピートなんです」
 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。

これ、土井善晴さんも同じようなことを書いていたなあ。
家庭の料理はそんなにおいしくなくていい、と。
 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。
(土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』)

ぜんぜん関係ないけど、ぼくはこうやって毎日のようにブログを書いているが、書いているうちにどんどん楽に書けるようになってきた。
昔は「おもしろい文章を書きたい」「センスが光る名文を」と身構えながら書いていたが、書けば書くほどそんなものは自分には書けないとわかった。
プロの作家だったらそれじゃダメなんだろうけど、ぼくは文章で飯を食っているわけじゃない。
うまくなくてもおもしろくなくても、好きなように書けばいいのだ。

家庭で料理をする人は、お金をとれるような格別においしい料理を毎日作っているわけじゃない。
まずくなければ大丈夫。そこそこ栄養がとれてそこそこ経済的であればいい。手を抜く日があってもいい。

趣味のブログもそんなスタンスでいいのだ、と最近はおもうようになった。
そこそこまずくない文章が書ければそれでいい。
毎回おもしろい必要はない。珍奇なテーマや斬新な視点がなくてもかまわない。
ふつうのことをふつうの視点でふつうの文章で書けばそれでいい。
家庭料理のような文章を書いていこう。


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土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』



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2019年7月3日水曜日

おでんというドラマ


おでんの大根が好きだ。

ぼくが五歳になる少し前、「誕生日は何がほしい?」と訊かれて「おでんの大根!」と答えたそうだ。
「あの頃のあんたがいちばんかわいかったわ……」
母はこの話をするたびに遠い目をしながらつぶやく。

それはそうと。
おでんの大根がおいしいことに異論はあるまい。

百万人に「いちばん好きな大根料理はなんですか?」と訊いたら、「おでんの大根」に七十万票ぐらい入るだろう(くだらない質問のくせに母数多すぎない?)。

ちなみに二位はぶり大根だ。たぶん。


ここからわかるのは、みんな、大根そのものの味はべつに好きじゃないってことだ。
おでんの大根の味は大根本来の味じゃない。他の具材から染み出したダシを吸収しているだけ。いってみればスポンジ役。
ぶり大根も同じ。
豚の角煮に入ってる大根も同じ。
大根は他の食べ物の味を吸収させたときにいちばん輝く。名バイプレイヤーだ。

同じくおでんの定番を張っているこんにゃくとは対照的だ。
こんにゃくはあくまで自分が主役。
決して周囲に染まらない。
一時間煮こんだおでんも、半日煮こんだおでんも、こんにゃくの味はほとんどいっしょ。見た目もいっしょ。歯ごたえもいっしょ。決して変わろうとしない。
きんぴらに入っているときと、こんにゃく自体の味は変わらない。
これはあれだ。キムタクだ。
キムタクはどんなドラマに出ていてもキムタクをやっている。バラエティ番組でも映画でもキムタクをやっている。作品の舞台や共演者が変わってもキムタクは変わらない。
こんにゃくも同じだ。どこまでもいってもキムタクはキムタク。こんにゃくはこんにゃく。


よくテレビや雑誌で「おでんの人気の具ランキング」なんてやっているが、一位は必ず大根だ。
二位はたまご。ここまでは不動。
あとは調査対象によってはんぺんだったりちくわだったり牛すじだったりするが、上位のふたりは変わらない。
おでんの主役は大根。こんにゃくは脇役。

名脇役である大根が主役で、蛾の強い大女優キャラのこんにゃくが脇を張っているのだから、おでんはなかなか味のあるドラマだ。おでんだけに。


2019年7月2日火曜日

父の単身赴任


父は、三度単身赴任をしていた。

最初は、ぼくが二歳~三歳のとき。
一年間エジプトに行っていた。
一年間エジプトの地で過ごす父も苦労はあっただろうが、それより幼児ふたりを抱えて(ぼくの姉も四歳ぐらいだった)ひとり日本に残された母はたいへんだっただろう。
祖父母も近くに住んでいなかった。母はよくノイローゼにならなかったものだ(ぼくが知らないだけでなっていたのかもしれない)。

二度目は、ぼくが九歳ぐらいのとき。
「転校するかも」という話を聞いたぼくと姉は、泣いて嫌がった。結果、父がひとりで横浜に行くことになった。
このときは、わりと楽しく単身赴任を受けいれていた。ぼくらは毎日父親に宛てて手紙を書いていたし、たまに父が帰ってくると大喜びした。ゴールデンウィークには父のいる横浜に行って中華街を案内してもらった。

三度目は、ぼくが十五歳のとき。父は東京に行った。
二度目のときとちがって「転校するかも」という話すらなかった。子どもたちの知らない間に父の単身赴任が決まっていた。子どもたちが中高生だったので、交友関係や受験のことを考えると転校はありえないという判断だったのかもしれない。
なにより、当時はあまり家族の仲が良くなかった。

娘も息子も反抗期。両親もすごく仲が悪かった(当時がウソのように今は仲がいい)。
父が単身赴任をすることに反対する人は誰もいなかった。口には出さなかったが、みんな「せいせいする」という気持ちだったようにおもう。
もちろん父への手紙など一度も出さなかった。電話すらほとんどしなかったようにおもう。父は父で、東京で友人をつくり山登りやゴルフに明け暮れていたらしい。
いない間はそれなりにうまくやっていた。

その分、単身赴任を終えて父が帰ってきたときはそこかしこで衝突が起こった。
父のいない間に「家族のルール」がいろいろできあがっていたのだ。
風呂に入る順番、トイレの順番、何曜日はどのテレビを観るか、休日の朝ごはんは何にするか、電話を使う時間……。
明文化はされていないけれど家族の間で共有されていた「家族のルール」、父が帰ってきたことでそれらがすべて狂った。
「いつまでテレビ観てるんだ」「先に風呂入るぞ」父に言われるたびに、ぼくも姉も反発した。母もだ。
「今までは良かったのにダメになる」ことが増えて、ストレスになった。
父は父で「ここはオレの家だ」というプライドがあったのだろう、自分のいない間に決まっていたルールに合わせることを良しとはしなかった。

父が単身赴任をしていたのは一年間だったが、父が帰ってきてから衝突が収まるようになるまでには同じぐらいの時間がかかった。



自分が父親になったことで、当時の父の気持ちもいろいろ理解できるようになった。想像でしかないけど。
その上でおもうのは、やっぱり単身赴任なんてロクなもんじゃねえなってこと。
「家族のメンバーが長期間別居してまた戻ってくる」という制度は家庭に対してとんでもない負荷をかける。
ぜったいにしないほうがいい。

うちの家庭がギスギスしたのは父の単身赴任だけが理由ではないが、大きな理由のひとつだったことはまちがいない。
結果的に時間をかけて家族仲は良くなったが(ぼくや姉の反抗期が終わったり大学進学にともなって家を出たこともあるが)、単身赴任きっかけでそのままばらばらになってしまう家庭も少なくないはずだ。

だったら家族そろって引越すのがいいかというとそれはそれでいろんな問題があるだろう(ぼくは転校を経験したことがないのでわからない)。

いずれにせよ、本人の意思を無視した転勤辞令という制度はほんとに非人道的行為だとおもう。


「江戸時代は斬り捨て御免がまかりとおっていたらしいよ」とか「古代ローマでは奴隷制があったんだって」みたいな感じで「昭和~平成時代の会社には強制転勤制度があったんだって。野蛮な時代だよねえ」と語られる日が来るといいな。


2019年7月1日月曜日

【読書感想文】低レベル検察官の身勝手な仕返し / ジリアン・ホフマン『報復』

報復

ジリアン・ホフマン(著)  吉田利子(訳) 

内容(e-honより)
太陽の街フロリダは、キューピッドに怯えていた―それは若い金髪美人ばかりを狙い、何日も被害者をいたぶったあげく、生きたまま心臓をえぐり出して殺す連続殺人鬼の名だ。捜査は難航したものの、偶然、キューピッドが捕らえられる。やり手と評判の女性検事補、C・Jが担当することになったが、法廷で犯人の声を聞いた彼女は愕然とした。それは今なお悪夢の中で響く、12年前に自分を執拗にレイプした道化師のマスクの男の声だった!この男を無罪放免にしてはならない―恐怖に震えながらも固く心に誓うC・Jだったが、次々と検察側に不利な事実が発覚しはじめ…。期待の大型新人による戦慄のサスペンス。

法学生だったクローイは、覆面男にレイプされ心身ともに深い傷を負った。
数年後、C・Jと名前を変えて検察官に彼女は、連続殺人事件の容疑者として逮捕された男が自分をレイプした男だと気づく
C・Jは男を死刑にするために検察官として戦いを挑むが……。


残虐な連続殺人事件を扱っているが、わりと早い段階で容疑者が捕まるのでたぶん多くの読者は「捕まったやつは犯人じゃないのでは」と気づくだろう。「謎の密告電話」というわかりやすいヒントもあるし。
これ以上はネタバレになるが、犯人はたいして意外な人物じゃない。

この本の読みどころは犯人捜しではなく(そもそも犯人を捜すのは検察官の仕事ではない)、検察官でありレイプ被害者であるC・Jが、連続殺人犯であり自分をレイプした男(とおぼしき人物)とどう立ち向かうかという心理描写のほうだ。

C・Jが心に傷を負うきっかけとなるのが学生だったC・Jがレイプされるシーンだが、これがとにかく恐ろしい。
丹念に描写されるので、もう読んでいられない。そこまで細かく書かなくてもだいたい何されたかわかるからもういいよ、とおもうのだが作者は筆を止めない。ひたすらC・Jが苦しむ姿が書かれる。これがきつい。


ぼくも娘を持つようになり(といってもまだ幼児だが)、性犯罪に対しては被害者側の立場で考える割合が増えた。
もしも娘が……とおもうと、つらすぎてそれ以上思考が進まない。

中盤以降には殺人被害者の描写や終盤の格闘シーンなどのヤマ場もあるのだが、プロローグの不快感に比べたらかすんでしまう。
冒頭が強烈すぎてしりすぼみの印象。中盤以降もおもしろいんだけど。



ここからはネタバレになるけど、もやっとしたところ。

容疑者を起訴する際に、検察が不正をはたらく。

「捜査の手続きが不正であれば、その捜査によって得られた証拠はすべて無効となる」
というルールがあるのだが(そうじゃないと警察がやりたいほうだいになっちゃうからね)、検察官であるC・Jは、警察官が逮捕時に必要な手続きを踏まなかったことを知りながら強引に起訴に踏みきる。
裁判では、警察官と口裏を合わせて嘘をつく。
C・Jは葛藤しながらも「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」と不正をはたらく決断をする……。


いやあ、ダメでしょ。
証拠はほとんどなし、容疑者は否認、逮捕時には警察側の不適切な手続き。あるのは検察官の直感だけ。
これで起訴したらダメでしょ。しかも有罪になれば死刑になる罪状で。

「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」じゃねえよバカ。
100人の真犯人を見逃してでも、1人の冤罪を生みださないことを優先させるのが法治国家なんだよ。

小説にいちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうけど、そうはいっても「裁判に私怨を持ちこむ」「私怨を晴らすために手続きの不正に目をつぶる」って、こいつのやってることは検察官として最低だ。
それならそれでハチャメチャ検察官として描くんならいいんだけど(両津勘吉が何やっても許されるように)、法制度をおもいっきり無視しといて「あたしは多くの犠牲者を救った正義のヒロイン」みたいな顔をすんじゃねえよ。身勝手な正義に酔って己のダメさに気づいてすらいない腐れ外道だなこの女。
ここまでダメ検察官だと、いくら被害者だったからといえまったく共感できない。むしろ被告人のほうが気の毒になってくる。

この検察官のやってることは『かちかち山』レベルの仕返しだよ、ほんと。


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