2022年1月31日月曜日

カレーにふさわしいナン

 近所にネパール人がやってるカレー屋があって、そこのテイクアウトをよく利用する。

 カレーもうまいんだけど、ナンもうまい。800円のカレーセットでライスかナンを選べるんだけど、ご飯が好きなぼくですら毎回ナンを選んでしまう。

 A4用紙ぐらいのばかでかいナンが入っていて、それを見るたびに「こんなに食えねえよ」とおもうのだが、結局毎回残さず食っている。それぐらいうまい。

 この大きさのパンだったらぜったいに食えないのに、ナンだと食えてしまう。なんなんだ、これは。ナンだけに。


 こないだその店に行ったとき、メニューの隅に小さく「+200円でチーズナンにできます」と書いてあるのに気付いた。

 ほう。チーズナンか。うまそうだ。

 ということでチーズナン+バターチキンカレーのセットを買って帰って食べてみた。


 これはうまい。

 チーズナンがうまい。ものすごく。もちもちしていて、しっかりとチーズの味がする。それでいて素朴で、飽きのこない味。

 ナンというよりピッツァに近い。クアトロ・フォルマッジという四種のチーズを乗せたピッツァがあるけど、それに似ている。でももっとシンプルで、もっとうまい。

 うまいうまいとばくばく食っていたのだが、ふと気づいた。

 だめだこのナンは。うますぎて、カレーには合わない。

 チーズナンだけでも十分にうまい。カレーといっしょに食べると、もちろんそれはそれでうまいのだが、チーズナンの風味や素朴さが損なわれてしまう。

 カレーもうまくて、チーズナンもうまいのだが、いっしょに食べるとそれぞれの持ち味を殺してしまう。100のうまさと100のうまさを同時に食うことで150のうまさになっている。

 はっきり言って、チーズナンのうまさが邪魔だ。そんなにうまくなくていい。


 たとえるならば、好きなミュージシャンのライブを観にいったら、隣の席に座ったのがおしのびで観にきていたプーチン大統領だった、みたいな。

 いやこんな間近でプーチン見れたらうれしいけど。でもプーチンが気になってライブに集中できない。プーチンは後日プーチンだけでじっくり拝みたい。


 ということで、ナンはそんなにうまくなくていいです。モスクワからは以上でーす。



2022年1月28日金曜日

【読書感想文】白石 一郎『海狼伝』 ~わくわくどきどき海洋冒険小説~

海狼伝

白石 一郎

内容(e-honより)
戦国時代終盤、対馬。海と船へのあこがれを抱いて育った少年・笛太郎は航海中に村上水軍の海賊衆に捕えられ、以後は水軍と行動をともにするようになる。そしていつしか笛太郎は比類なき「海の狼」へ成長していった―。海に生きる男たちの夢とロマンを描いた海洋冒険時代小説の最高傑作。第97回直木賞受賞作。

 おもしろかった。時代小説はほとんど読まないのだが、そんな人間でもこれはおもしろく読めた。


(以下ネタバレあり)


 時代は戦国時代。長崎・対馬で育った笛太郎は、会ったことのない父親を追い、海賊になる。だが笛太郎と雷三郎は海賊同士の戦いに敗れ、村上水軍の捕虜となり、水軍の一員として行動するようになる……。

 驚くようなことが起こるわけではないのだが(ある程度史実に基づいているので当然)、それなのにわくわくさせられる。
 特に村上水軍の一味となってからの展開はスピード感もあってめっぽうおもしろい。

 

 なにしろ、一味が個性豊かだ。

 戦いは苦手だが潮の流れや風の動きを読むのがうまい主人公・笛太郎、船上の戦いでは誰にも負けない雷三郎、大将のくせに戦いは苦手だが金儲けのうまい小金吾、船づくりの天才・小矢太。
 それぞれが能力を活かして、一味は快進撃を続ける。

 これはあれだ、『ONE PIECE』だ。航海士・ナミ、剣士・ゾロ、話術巧みなウソップ、船大工・フランキー。ルフィのいない麦わら海賊団だ。最高じゃないか(麦わら海賊団の中でぼくがいちばん友だちになりたくないのがルフィだ。人の話聞かねえもん)。

 謎めいた将軍、女海賊・麗花、笛太郎が想いを寄せる三の乙女、行方のつかめない笛三郎の父親・孫七郎など、他の登場人物も魅力的。

 船の構造、海賊たちの戦術や生活も事細かく描写されているし、なんといっても戦いのシーンがおもしろい。

 能島村上の海賊衆がくり出したのは殆んど小舟だった。三艘がひと組となって四方八方から敵船を攻め立てた。
 六、七人の武者を乗せた舟が敵船に漕ぎ寄って弓、鉄砲を射る。防戦に必死の二艘はいつの間にか離れ離れに誘導される。それぞれ孤立した船を小舟たちが取り囲み、弓と鉄砲の一斉射撃。そのあいだに敵船に忍び寄った端舟が船首と船尾から炮烙を投げ入れて敵を混乱させ、舵を破壊する。
 二艘が進退の自由を失ったところで小舟たちは退き、かわって三十挺立ての小早船数艘が現われ、それぞれ二十人ばかりの武者を乗せて敵船に突進する。舷側を接して踏み板を掛け渡すと、武者たちが一斉に乗りこむ。
 船上の武者たちは敵を殺傷するより海へ抛り込む。ふきんに遊弋している小児たちが海中の敵を大熊手にひっかけて捕虜にする。
 火矢は使わなかった。船を無傷でぶん捕るためだろう。たくさんの小舟たちが貝と太鼓の合図で整然と動いて、進退は全く水際立っている。
 まるで日頃の海賊衆の調練を眺めているようである。実戦と調練が全然かわらない。笛太郎は玄界灘で襲われた青竜鬼のことを思いだしていた。おそらく村上海賊衆にとってはジャンクの一艘など、さしたる敵でもなかったろう。航行中の船を襲い、人を殺傷し、荷物を奪い、あわよくば船を拿捕するという海賊行為が、ここでは戦術として磨き上げられ、整然と組み立てられていた。
 弓、鉄砲、火矢、炮烙などの武器も、ときに応じての使い分けが、あらかじめ定められていて、船上の武者たちには迷いがない。
 小舟は小舟で前哨線を立派につとめ、大船は大船で、焦らずに出番を待っている。

 もっとも興奮するのが、三度にわたる青竜鬼(ジャンク)と村上水軍 の戦い。笛太郎は、一度は青竜鬼の乗員として村上水軍に敗れ、二度目は村上水軍として青竜鬼を助ける。そして三度目は自分たちで作った船に乗り青竜鬼と戦う。かつての仲間であり、恨みもある敵となった青竜鬼との戦いは胸が熱くなった。

 しゃらくさい正義や友情を語らないのもいい。そんなものを口にするのは海賊じゃない。悪の自覚を持っているのが潔い。


 波に揺られる船のように二転三転する笛太郎の波乱万丈な人生を読みながら、心からわくわくした。この歳になって、少年のように冒険小説で手に汗握るとはおもわなかった。

 本も終盤に近付くにつれて「こんなにおもしろいのに、もうすぐ終わってしまう……」と寂しくなった。だが、なんと続編『海王伝』に続くという。よかった、まだ続きを読める……。


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2022年1月27日木曜日

【読書感想文】服部 正也『ルワンダ中央銀行総裁日記』 ~ ルワンダを見れば日本衰退の理由がわかる

ルワンダ中央銀行総裁日記

(増補版)

服部 正也

内容(e-honより)
一九六五年、経済的に繁栄する日本からアフリカ中央の一小国ルワンダの中央銀行総裁として着任した著者を待つものは、財政と国際収支の恒常的赤字であった―。本書は物理的条件の不利に屈せず、様々の驚きや発見の連続のなかで、あくまで民情に即した経済改革を遂行した日本人総裁の記録である。今回、九四年のルワンダ動乱をめぐる一文を増補し、著者の業績をその後のアフリカ経済の推移のなかに位置づける。

 ルワンダってどこ?とおもうかもしれませんね。
 教えましょう。ルワンダは、ブルンジの北です。ごめんわからんわ。

 ということで、日本銀行勤務や海外留学を経て、1965年から6年間にわたってルワンダ中央銀行の総裁を務めた日本人の回想録。ルワンダ中央銀行というのは単なる銀行じゃなくて、国の金融を管理する機関。日本銀行みたいなもんね。

 ルワンダはベルギーの植民地だったのが、1962年に独立。服部さんが赴任したのはその3年後だから、まだまだできたて国家。いやあ、さぞたいへんだったんでしょう。

 かたや1965年の日本はというと高度経済成長期のまっただなか。東京オリンピックの翌年だから、いけいけどんどんの頃だね。

 だもんで、著者の文章にも、良く言えば自信がみなぎっている、悪く言えば「飛躍的な成長を遂げた日本から教えにいってやる」という上から目線を感じる。

 これは決して著者が傲慢とかいうわけではなく、当時の日本人の総意に近いとおもう。1990年代までの日本人がアジア・アフリカについて書いた文章を読むと、終始「日本人が忘れた素朴な気持ちを持っているアジア・アフリカの連中」「おれたちがアジアやアフリカを導いてやる」って気持ちがぷんぷん漂ってるんだよね。それが善意であるのが余計にたちが悪い。

 太平洋戦争時の日本人の意識とあんまり変わってなかったんじゃないかな。「欧米列強に虐げられているアジア諸国を解放してやる」って意識と。

 幸か不幸か(主に不幸だけど)この三十年で日本が没落したことで、今の日本人からは「アジア・アフリカを導いてやる」意識が薄れてきた。だから著者のうっすら上から目線が気になる。




 まあ偉そうではあるんだけど、実際偉い人なんだよ。この人。

 まだ国の形も定まっていないルワンダで経済成長への道を形作ったんだから。

 理事会の議事録を読んで驚いたのは、前一九六四年五月から十月まで十回の会合で、金融政策に関する討議は一回もなく、昇給、建築といったことが決定されているほかは、理事会と総裁はどちらが上位かという議論だけは毎回くりかえされ、ついに大蔵大臣の裁定を願っていることである。大臣の裁定は理事会は政策決定機関、総裁は執行機関であるという法律の趣旨をくりかえし、つまらない非生産的な議論はいい加減にして仕事を始めよとの強い叱責が付されている。
 さらに記録によれば、初代総裁は法律で定められた監事の検査を、門扉を閉して拒否し、これまた大蔵大臣から強く叱られているのである。

 まるで学級会。この本読むと、いかにルワンダにシステムができていなかったかがわかる。システムはなく、外国人にいいように食い物にされている国。

 明治時代に日本に来ていた外国人もこんな気持ちだったんだろうな。

 日本もまるで自分たちだけの力で経済成長したかのような顔をしているけど、外国からの指導がなかったらまだ未開国の可能性あるよな。明治時代の本読んだら、大学の先生なんて外国人ばっかりだもんな。


 服部さんが大統領に語った話。

 それでは現実の問題として途上国の経済成長はなぜ遅いのか。私は日本の経済成長と、東南アジアの国の実情をみて、これはその国の社会経済の仕組みに問題があると思っています。国のなかで生産された富が一部の人の手に渡ってゆき、それがさらに生産を増すために使われるなら、富が富を生み、国の経済はますます発展するのです。しかし生産された富を手に入れた一部の人がこれを浪費すれば、富は富を生まず経済は停滞するのです。もし国民のあいだに、身分や血縁関係などによらず能力のあるものが出世できるような自由競争が行なわれていれば、富を下手に使ったり浪費するような人たちは早晩競争に負けて、能力のある人たちがこれにとって代り、国の富を手に入れてそれを生産に使うことによって再び富を生むという過程が始まるわけです。しかし国の制度でこの競争が制限されていると、富を浪費する人たちが階級化され、富の浪費が恒久化するのです。
 東南アジアのカーストや貧富の差や農民負債はいずれも、国民間の競争を制限抑圧しているもので、この地域の経済発展を阻害している最大の要因になっていると私は思っています。次にこの地域で経済発展を阻害しているのは、国の富、ことに近代的生産のために使われている富のかなりの部分が、植民地時代の名残りと、民間外資の神話とのために、外国人の手にあり、そこから生まれる新しい富の大部分が再び富を作るために国内に残らず、所有者である外国人の本国に輸出されることです。日本の場合はどんなに貧乏な家の子でも、勉強して試験に合格すれば一流の大学に入れ、しかも一流の大学ほど学費は安いのです。現に私の学友のうち三分の二は苦学していたのです。一流の大学を出れば官界事業界に自由に入れ、最高の地位も獲得できるという自由競争が行なわれています。また明治以来日本は、民族資本の育成に心がけてきたので、利潤の大部分が国内に蓄積され、新たな富を作っているのです。

 この言葉を、2022年の日本政府に言って聞かせてやりたい。

 なぜ日本が30年間経済成長せずに停滞して、他国に大きく後れをとったのか。答えがまさにこれ。ここで服部さんが語っているのと正反対のことが日本では起きていた。大企業・正社員という〝身分〟の人間が不当に優遇され、自由な競争が制限された。そして国の富は国内の繁栄のためではなく投資家のために使われた。高所得者と資産家に対する課税は下がり、消費税は上がる一方。50年前の人が知っていた「経済成長の道」の逆を行き、見事に没落した。

 私は経済再建計画の構想を詳しく説明し、協力を願った。彼は熱心に聞いていたが私の話を聞き終ると、破顔一笑して、「今まで経済はむつかしいものと思っていたが、あなたの話を聞いていると、私のような小学校教師の教育しかないものでもよくわかる。本当にそんな簡単なものですか。またルワンダみたいな途上国であなたのいうとおりうまくゆきますか」と聞いた。私は、「ルワンダは途上国だからこそ経済は簡単なのです。今までうまくゆかなかったのは、簡単な経済に複雑怪奇な制度を強制していたからです。通貨改革の意味は、ルワンダを苦しめている複雑怪奇な制度を潰して、働けば栄えるという簡単な制度を新たにつくることなのです。私は世界で最も有能な日本銀行に二十年奉職し、アジアの途上国の経済にも接した職業的経験に照らして、今後ルワンダ経済が隆々と発展することを確信します」と答えた。

 この、自信みなぎる言葉を聞くのが恥ずかしい。50年前は「世界で最も有能な日本銀行」と心からおもえたんだな。今、そんなこと信じる人ひとりもいないだろう。


 ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』によると、国が経済成長するかどうかを分けるカギは「努力やイノベーションが報われる国か、それとも成果が権力者に収奪される国か」だという。

 日本が成長したのは日本人が勤勉だとかいう輩がいるが、そんなわけない。国民性なんて持って生まれたもんじゃない。がんばって報われるならがんばるし、そうでないならサボる。誰だって同じだ。

 だから「努力すれば(多少の不運があっても)幸福を手に入られれるようにする」ことが政治の正しい役割なのだが、残念ながら今の日本はそういう制度になっていない。貧しい家庭に生まれれば高い教育を受けられないし、高い教育を受けられなければ大企業の正社員になれない。大企業の正社員になれなければ、悪いことか大博打でもしないかぎりまず金持ちにはなれない。服部さんが就任する前のルワンダと同じ状況だ。




 読めば「服部さんはなんて立派な人だ」とおもうけど、あまりにも立派すぎてちょっと辟易してしまう。しょせんは自伝だからな、自分のことは悪く言わんわな、という気になる。

 だってほんとにこの本を読むかぎりスーパースターなんだもん。経済に明るく、努力を惜しまず、権力者におもねることなく、先入観にとらわれず、強き者(欧米の企業)に立ち向かい、弱き者(ルワンダ国民)に寄り添い、必要であれば守備範囲外も助け、けれど必要以上には口を出さずに人を育て、国を正しい道へと導く。完全無欠すぎる。

 ほんとにこの人同じ人間なのか、とおもってしまう。

 ほぼ唯一といっていい、人間らしいエピソード。

ところが空港で一悶着あった。日本で旅券を発給してもらうとき、行先国にブルンディも申請しておいたのだが、ルワンダとブルンディは仲が悪いから旅券の行先に入れないほうがいいでしょうと、外務省が親切にブルンディを落してくれたのである。
 ブルンディに出発するとき私もそれが心配だから、飛行機会社に前もって入国管理に話してくれと頼んでいたのだが、連絡不充分で話が通じなかったらしい。入国管理で私の旅券を見て、フランス語で「あなたの旅券の行先国としてブルンディが書かれていませんが」という。外国で官憲と問題が起ったときは言葉ができないほうが得だと私は思っているので、私が知らん顔をしていると、今度は同じ質問を英語でした。相変らず知らん顔をしていると、私の顔とパスポートを見比べて「日本の外交官でしたか。大変失礼しました」と、スタンプを押して一礼して、私の一般旅券を返してくれた。英語もフランス語も知らない人を外交官でもないだろう、アフリカでも沈黙は金なりかと苦笑した。

 ふはは。

 あまりにも完全無比な人だから、ちょっと悪いエピソードにかえって安心する。




 服部さんが在任した6年間の後、ルワンダの経済は大きく成長した。周辺国に大きく水をあけたので「アフリカの優等生」とも呼ばれたらしい(この言い方も上から目線だよなあ)。

 だが1980年には内紛が起こり、1994年には民族紛争により数十万人が殺される大量虐殺が起きる。その後も戦争などを経て、21世紀に入って「アフリカの奇跡」と呼ばれるほど大きな経済成長を遂げたものの今では強権的な独裁者が長らく大統領の座にとどまっている。

 こうした「その後の悲劇」を知ってしまうと、なんだかむなしくなってしまう。服部さんやルワンダ国民が奮闘して経済成長しても、紛争が起きたらそんなのもふっとんでしまうんだもんな。もしも経済成長していなかったら歴史が変わって紛争が起こっていなかったのかも……なんてことも考えてしまう。まあそんなことは誰にもわからないし、そっちルートはもっと不幸な未来が待っていたのかもしれないけどさ。


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2022年1月25日火曜日

【読書感想文】湊かなえ『花の鎖』/技巧が先走りすぎたミステリ

花の鎖

 湊かなえ

内容(e-honより)
両親を亡くし仕事も失った矢先に祖母がガンで入院した梨花。職場結婚したが子供ができず悩む美雪。水彩画の講師をしつつ和菓子屋でバイトする紗月。花の記憶が3人の女性を繋いだ時、見えてくる衝撃の事実。そして彼女たちの人生に影を落とす謎の男「K」の正体とは。驚きのラストが胸を打つ、感動の傑作ミステリ。


 うーん……。

 たしかに湊かなえさんは小説家としてのテクニックはすごいんだけど、技巧に走りすぎてたなあ。うまいけど、おもしろいかというと……。

 三人の女性の日々が交代で描かれる。一見無関係に見える三人。で、それぞれに「謎の男」「親しくなる男性」「父母の謎めいた過去」「鼻持ちならないいとこ」などが出てくるので、かなりややこしい。ここについていくだけでたいへん。

 で、肝心の仕掛けなんだけど、この手口もううんざりなんだよね。
 ミステリにおいて複数の語り手が出てくるときって、十中八九あのパターンじゃん。ああどうせ今回もあれなんだろうなーっておもいながら読んでいたら、案の定そのパターン。はいはい、出た出た、書店員のやっすい「あなたはもう一度はじめから読み返したくなる!」POPをつけられるどんでん返しパターンね。それもう食傷してるんですけど。


『花の鎖』なんかもう「読者をだましてやろう」が最優先になってるような気がする。「おもしろい小説にしよう」よりも。

「実は××でしたー!」ってやるより、ふつうに順を追って説明していった方がおもしろかったんじゃないかな。せっかくのおもしろいストーリーなんだから、安易な「驚きのラスト」トリックに逃げずにふつうに書いたほうがわかりやすくてよかったのに。
 策に溺れたって感じがするなあ。




 あと「こんなやついねーよ」とおもったのも減点ポイント。

 いや、いいんだよ。フィクションだからどんなやつが出てきたって。
 超天才が出てきたって、超ラッキーなやつが出てきたって、超能力者が出てきたって、宇宙人が出てきたっていい。小説ってそういうもんだから。

 ぼくが許せないのは、「自分にとって不利になることをべらべらとしゃべるやつ」だ。
 未来が舞台であろうと、宇宙が舞台であろうと、他人の気持ちのわからないサイコパスだろうと、そんなやつはいちゃいけない。自分にとって不利なことは隠さなきゃいけない。話すのであれば、それを上回るだけのメリットがなければならない。

『花の鎖』の登場人物は、まあしゃべる。ほぼ初対面の相手に「過去に恥をかいた思い出」とか「身内の秘密」とかをしゃべる。
 質問をされて、「答えたくありません。小学校の遠足で同じ質問に答えて、大恥をかいたことがあるので」なんて答える。いやそれもっとつっこんで聞いてほしい人の答え方やないかーい! ほんとに答えたくない人がそんなこと言うかい。

 フィクションにはどんなキャラクターがいたっていいけど、「己の不利になることべらべらしゃべる人物」だけは許せない。

 話を進めるためだけに登場人物に論理性ゼロの行動をとらせるのはやめてほしいなあ。


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2022年1月24日月曜日

【読書感想文】『こちらズッコケ探偵事務所』『ズッコケ財宝調査隊』『ズッコケ山賊修業中』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第三弾。

 今回は8・9・10作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら


『こちらズッコケ探偵事務所』(1983年)

 盲腸炎で入院したハカセのお見舞いにモーちゃんが持っていったケーキが、謎の女性によってぶたのぬいぐるみとすりかえられる。一見何の変哲もないぬいぐるみだが、その直後からモーちゃんの周囲で不審なことが起こりはじめる。モーちゃんの家に泥棒が入るも何も盗まれず、さらにはモーちゃんが誘拐されてぶたのぬいぐるみを要求され……。

 ハチベエ主導で物語が進むことが多いが、この話の主役はモーちゃんとハカセ。ハカセの入院からはじまり、モーちゃんの誘拐、そしてモーちゃんの記憶を頼りに犯人のアジトを捜索。さらにハカセとモーちゃんの女装しての捜査、そしてハカセがぬいぐるみに隠したものが決め手となっての犯人逮捕……。二人の活躍が光る。

 ハチベエも犯人のアジトに潜入するが、何も発見できぬまま捕まっただけだし、そもそも家宅侵入だし。これが刑事だったら懲戒免職もの。違法な捜査によって得られた証拠は裁判では無効になるんだよ。

 子どもの頃はあまり好きな話ではなかったが、今読むとなかなかよくできている。「妹のいる男の子」「ヤマモト先生」といったわずかなヒントから犯人のアジトをつきとめるところや、逮捕の決め手となるハカセの機転など。

 ただ、犯人の行動が短絡的。ぬいぐるみのありかを知るために誘拐なんてしたら余計に事を荒立てるだけだし、決定的な証拠をつきつけられたわけでもないのに逃走を図って自滅するし。

 ただ、子ども向け推理小説としては十分すぎるほどよく練られたストーリー。




『ズッコケ財宝調査隊』(1984年)

 小学生の頃、ズッコケ三人組シリーズを20冊ほど持っていたが、その中のワースト1がこの作品だった。
 とにかく難解。苦労して最後まで読み通してもよくわからない。数年して「もうわかるかもしれない」と読み返しても、やっぱり理解できない。ダントツでつまらなかったのがこの作品だ。

 大人になって読み返したら印象変わるかなーとおもったけど、うーん、やっぱりイマイチ。さすがに理解はできるようになったけど、物語としてのおもしろみは他作品に比べて圧倒的に落ちる。

 なんせ『財宝調査隊』なのに、なかなか財宝調査をしない。八割ほど読み進めてようやく「どうやら財宝があるらしい」ことがわかる。それまではひたすら三十年以上前のお話が続く。回想ばかりなのだ。これはつまらない。

 歴史大好きなハカセのような子ならいいかもしれないが、ごくふつうの少年は回想話ばかり読まされたら放り投げてしまうだろう。やはり「つまらない」とおもった小学生当時のぼくの判断は正しかったのだ。

 また、肝心の財宝の中身も、読者にはかんたんに想像がついてしまう。
 なにしろプロローグで「戦時中、北京原人の骨が輸送中になくなったこと」と「終戦間際に日本軍が何か重大な荷物を運ぼうとしていたが、その飛行機が不時着したこと」が語られるのだ。プロローグを読めば誰でも「ははあ、なくなった荷物とは北京原人の骨だな」とわかってしまう。
(ただ、ぼくが小学生のときにはわからなかった。というよりプロローグに書いてあることが難しすぎて読み飛ばしていた)

 難解なプロローグ、だらだら続く年寄りの回想話、そしてかんたんに予想のつく財宝の正体。これでおもしろいはずがない。

 はたして、大人になってから読み返してみても、やっぱりズッコケシリーズワースト作品という印象は変わらなかった(もっとも大人向け作品としては読みごたえがある。でもやはりズッコケシリーズは児童文学なので、児童文学としての評価)。


 ところでこの作品ではモーちゃんの親戚の過去が多く語られるのだが、驚くのはモーちゃんのお母さんの境遇。幼い頃にお兄さんを亡くし、故郷の村はダムの底に沈み、十代で父親を亡くし、その数年後に母親も亡くす。
 苦労したんだなあ。そりゃあ酒に逃げたくもなるわ(その話は後の作品『ズッコケ結婚相談所』で語られる)。



『ズッコケ山賊修業中』(1984年)

 ズッコケシリーズ最大の問題作といっていいかもしれない『山賊修行中』。

 設定がすごい。三人組と、近所の大学生・堀口さんが山道をドライブしていると、山賊のような男たちに拉致される。彼らは土ぐも族と名乗り、地中に穴を掘って暮らしている集団だった。教祖・土ぐも様は周囲の村々からも慕われ、多くの貢ぎ物が届く。三人組は脱走を企てるが、脱走に失敗したものは首を切られると知らされ……。

 土ぐも族、なんとも異様なカルト集団である。メンバーひとりひとりはふつうの人間だが、掟のためには平気で人を殺すし、彼らの最終目的は日本転覆による政権奪取。オウム真理教にも匹敵するほどのテロリスト集団だ。
(ちなみに土蜘蛛とは、古来ヤマト王権(≒天皇)に従わなかった豪族たちをさす名称だという。『日本書紀』などにも記述があるそうだ)

 三人組が脱走して駐在所にかけこむが、味方だとおもっていた警察官が土ぐも一族の内通者だとわかったときの絶望感といったら……。小学生のときは深く理解できていなかったのでそこまで怖くなかったけど、今読むとめちゃくちゃ怖い。

 また、土ぐも様の「一身に怨みを集める」なる設定も妙なリアリティがある。人々の恨みをぶつける対象となることで慕われる。人々が土ぐも様にぶつける「おうらみもうす」がなんとも不気味だ。

 土ぐも一族の設定が微に入り細に入り書き込まれているので、これは那須正幹の完全創作ではなく、なにかしら元ネタがあるんじゃないだろうか? 過去にこれに近い事件があったとか?


 最後は三人組が無事に谷を脱出して自宅に帰りつくのだが、それでめでたしめでたしではなく、堀口さんだけは谷に残るのも後味が悪くていい。堀口さんは自ら谷に残る選択をしたわけだけど、全員無事に帰還していないことで「まだ終わっていない」感が残る。おお、おそろしい。

 八歳の娘に寝る前この本を読んだら「こわい」と震え上がっていたので「怖い夢を見るかもしれないな」と脅かしていたんだけど、その晩まんまとぼくが何者かに追いかけられる悪夢を見て夜中に目が覚めた。大人でも怖いぜ。


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2022年1月21日金曜日

【読書感想文】今野 敏『ST 警視庁科学特捜班』

ST 警視庁科学特捜班

今野 敏

内容(e-honより)
多様化する現代犯罪に対応するため新設された警視庁科学特捜班、略称ST。繰り返される猟奇事件、捜査陣は典型的な淫楽殺人と断定したが、STの青山は一人これに異を唱える。プロファイリングで浮かび上がった犯人像の矛盾、追い詰められた犯罪者の取った行動とは。痛快無比エンタテインメントの真骨頂。


(一部ネタバレあり)

 警視庁の科学特捜班(ST)の活躍を描いたハードボイルド小説。

 班長の警部を除けば、「一匹狼を気取る法医学者」「秩序恐怖症のプロファイリングの天才」「武道の達人でもある、人並外れた嗅覚の持ち主」「達観した僧侶」「紅一点でグラマー美女の超人的な聴覚の持ち主」と、漫画じみたキャラクターが並ぶ。小説というよりは、テレビドラマのキャラクターっぽい(実際ドラマ化されたようだ)。

 ただ、ギャグ漫画のようにコミカルなキャラクターばかり出てくる割には、起こる事件は妙に猟奇的で生々しい。殺された女性の身体の一部が持ち去られていたり。そのへんはちょっとちぐはぐな印象を受けた。


「そうじゃありません。殺人の動機の話をしているのです」
「動機などは刑事が考えることだ」
「え……?」
「キャップ。しっかりしてくれ。俺たちは何なんだ? 科捜研の職員だぞ。俺は、殺人そのものにしか興味はない。そして、この捜査本部の連中だって、俺たちに動機だの、殺人の背景だのの推理など期待していないはずだ。どういう犯人がどういう手段で殺人を行ったか。その正確な情報だけを期待しているはずだ。違うか?」
「そりゃそうですけど......。でも、STは、ただの科捜研の職員じゃなくて……。どう言うか、これまでの科捜研の範囲を超えた活動を期待されているわけで……」
「基本を忘れちゃ何にもならないよ」
「基本?」
「そう。俺たちがやるべきことは科学捜査だ。探偵の真似事じゃない」
 赤城の言うことはもっともだった。百合根は、急に気恥ずかしくなった。
「そうでしたね。どうやら僕は、功をあせるあまり本来の役割を忘れかけていたようです」


 はじめは「コミカルなドラマとシリアル・キラーとの対決とのどっちを書きたいんだろう」と戸惑ったが、「どっちも書きたいんだな」と気づいてからはおもしろく読めた。

 リアリティやヒューマニズムを捨て、ひたすらエンタテインメントに徹する姿勢は嫌いじゃない。

 警察小説ってテーマが重厚になって、やたらと登場人物(の口を借りた作者)が説教を垂れたがるけど、この作品にはぜんぜんそんなところがない。STのメンバーはほんとに犯人を見つけることにしか興味がなくて、犯行動機にも、世直しにも、市民の安全にも、まったく興味がない。これはすがすがしい。


 ……とはいえ、三人もの女性を殺した犯人の内面がまったく描かれていなくて、もやもやしたものが残った。金銭目的でもなく、恨みもない人を三人も殺すなんて……。

 マフィア同士に抗争を起こさせるのが目的だったらしいけど、それだったらもうちょっとうまいやりかたがあったとおもうけどな……。


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2022年1月20日木曜日

【読書感想文】キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』 ~見事なほら話~

わたしたちが光の速さで進めないなら

キム・チョヨプ (著)
カン・バンファ (翻訳)  ユン・ジヨン (訳)

内容(e-honより)
打ち棄てられたはずの宇宙ステーションで、その老人はなぜ家族の星への船を待ち続けているのか…(「わたしたちが光の速さで進めないなら」)。初出産を控え戸惑うジミンは、記憶を保管する図書館で、疎遠のまま亡くなった母の想いを確かめようとするが…(「館内紛失」)。行方不明になって数十年後、宇宙から帰ってきた祖母が語る、絵を描き続ける異星人とのかけがえのない日々…(「スペクトラム」)。今もっとも韓国の女性たちの共感を集める、新世代作家のデビュー作にしてベストセラー。生きるとは?愛するとは?優しく、どこか懐かしい、心の片隅に残り続けるSF短篇7作。


 韓国の作家によるSF短篇集。

 出生前の遺伝子コントロールによって欠陥のない存在として生まれた〝新人類〟と、欠陥を持つ人類との間の差別意識を描いた『なぜ巡礼者たちは帰らない』

 ワープ、コールドスリープ技術、ワームホールといった宇宙探求技術の進化のはざまに取り残された人の悲劇を描く『わたしたちが光の速さで進めないなら』

 様々な感情を得ることができる商品が登場する『感情の物性』

 生前の人間の意識だけを保管することができる〝図書館〟で、亡き母親の意識がなくなり、それを探す娘が再び母親の記憶と向かい合う『館内紛失』

 宇宙探求のために人体改造を施した人間の意識の変化を描く『わたしのスペースヒーローについて』


 どれも、ザ・SFという感じでおもしろかった。遺伝子コントロール、ワープ技術、意識のデータベース化、人体改造など、SFの素材としてはわりとおなじみの発想だ。だが、それを主軸に据えるのではなく、「遺伝子コントロールによって、コントロールされなかった人はどう扱われるようになるのか」「ワープ技術が古くなったとき、何が起こるのか」「意識のデータベース化がおこなわれた後、データが紛失したら」と〝その一歩先〟を想像しているのがおもしろい。




 中でも気に入ったのが『スペクトラム』と『共生仮説』。

『スペクトラム』は、はじめて人類以外の知的生命体と遭遇した人物の話。いわゆるファースト・コンタクトものだが、この宇宙人の生態がおもしろい。

 ヒジンには皆目理解できないやり方で、彼らは以前の個体が残した記録を読んで習得し、彼らの感情や考えを受け入れる。それまでのルイたちがヒジンの世話をし、大切に扱ったため、新しいルイもヒジンの世話をすることに決める。その過程で何か重大な決断があるわけではない。彼らは当然のように「ルイ」になる。
 彼らは別々の個体だ。ヒジンは一体のルイが死に、次のルイがその後釜に納まるとき、連続しない二つの自我のずれを目撃していた。魂は引き継がれない。それだけは確かだ。彼らは別のルイとしてスタートする。
 だが彼らはやはり、同じルイになると決めた。そこにはいかなる超自然的な力も働いていない。ルイたちは単に、そうすることに決める。記録されたルイとしての自意識と、ルイとしてのあらゆるものを受け入れる。経験、感情、価値、ヒジンとの関係までも。

「ルイ」が死ぬと、別の個体が「ルイ」を引き継ぐ。まったく別人が死んだ個体になりすますわけだ。なりすますというか、完全になりきるというか。人格の乗っ取りだ。

 これは地球人の考えとはまったく異なるようで、案外わからなくもない考え方だ。

 たとえば落語や歌舞伎の「襲名」。たとえば人間国宝になった桂米朝さんは便宜上「三代目」と呼ばれることもあるが、基本的に桂米朝は桂米朝である。「初代や二代目と同じ名前を名乗っている別人」ではなく、「桂米朝」という人格はひとりなのである。「桂米朝」が死んだりまた生まれたりして、百年以上生きているのだ(今は死んでいるが)。

 死ねばすべてが消えるが、襲名とは死なずに永遠の命を手に入れるための方法なのだ。

 そこまではいかなくても、「○○家を継ぐために養子をとる」なんてのもめずらしくない話だ。あれも人格の乗っ取りに近い。

 またアメリカ人なんか、息子に父親と同じ名前をつけることがある。有名な例だとジョージ・ブッシュ。日本人の感覚だとなんでだよとおもうけど、あれも「いつまでもジョージ・ブッシュとして生きていたい」という意識の表れなんだろう。人格というのは個体としての生命とは少し離れたものなのだ。


 なので『スペクトラム』に出てくる異星人の行動は、そこまでけったいなものではないかもしれない。ただ、その〝人格の乗っ取り〟をおこなう手段がユニーク。

 「ルイ」は絵を描き、後に残す。後からきた別の個体はその絵を観ることで新しい「ルイ」になるのだ。絵を媒介として自我をひきつぐ。

 うーん、まったく共感はできないけど理解はできる。「異星人ならこれぐらいのことはやるかも」とおもわせてくれる絶妙なラインだ。SFとは結局「ありえないけどあってもおかしくないかも」をいかに書くかだ。この作品は見事にそれをやっている。




『共生仮説』もおもしろかった。

 様々な動物の言語を翻訳できる装置を使って人間の赤ちゃんの言葉を翻訳したところ、赤ちゃんたちが複雑な会話をしていることがわかった。どうやら赤ちゃんの脳内に別の個体がいて、そいつらこそが赤ちゃんを「人間らしく」させているらしい。では、人間以外のものによって備わった「人間らしさ」ってほんとに「人間らしさ」なのか……?

 脳内に別の存在がいるというのは一見荒唐無稽におもえるが、我々の体内にはミトコンドリアや大腸菌のように別の個体が存在している。だったら知覚できないような知的生命体がいてもふしぎではない。
 また、幼児期健忘(人間は3歳ぐらいまでのことを覚えていないこと)の納得のいく説明として「脳内の生命体」を持ち出しているので、妙な説得力がある。

 もちろんほら話だが、これまた「ありえないけどあってもおかしくないかも」とおもわせてくれる。


 見事なほら話、上質なSF短篇集だった。


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2022年1月19日水曜日

プールとトイレと風呂椅子と

 先月、三歳の次女を連れて区民プールに行ったときのこと。

 今までも連れて行きたかったのだけど、ところかまわず小便を垂れる幼児を連れてプールに行くのはしのびない。まあ明らかにおむつとれていない子ども連れてきてる親もいるけど。

 だが最近ようやっとちゃんとトイレに行けるようになったので、プールに連れてきた。


 で、幼児用の水深五十センチぐらいのプールで遊んでいると、娘が「おしっこ」と言う。

 よしよしよく言えた、と急いでトイレに連れていくが、「いやだ」と駄々をこねる。慣れないトイレだし、補助便座もないし、暴れて座ってくれない。

 どうしよう。ここで我慢させたらプールサイドとか更衣室で漏らされるだろうしな。
 あっ、子育て経験のない人のために説明しておくと、幼児が「おしっこ出そう」と言ってから我慢しきれなくなって決壊するまでは三分ぐらいしかありません。限界の三分前に「おしっこ」と言う生き物なんです。

 しゃあねえ、漏らすよりは、ってことで更衣室にあるシャワー室に連れていく。で、シャワーをかけながら「ここでおしっこして」と小声で娘に告げる。はたして、すぐに娘はおしっこをする。

 シャワー室でおしっこするのもダメだけど他でやるよりはマシだよね。ごめんなさい、区民のみなさん。

 とおもいながらシャワー室を出たんだけど、ふと隣のシャワー室を見たら、おっさんがマイ風呂用椅子を持ちこんで、全裸で座りながらシャンプーしてやがんの。プールを銭湯代わりに使うんじゃねえ。

というわけで、シャワー室で幼児におしっこさせてことで後ろめたさを感じていたけど、「全裸でシャンプーしてるおっさん」に比べたらぜんぜんどうってことないやとおもって罪悪感はふっとびました。ありがとう。いやありがたくねえ。


2022年1月18日火曜日

【読書感想文】鹿島 茂『子供より古書が大事と思いたい』

子供より古書が大事と思いたい

鹿島 茂

内容(e-honより)
仏文学者の著者が、ある時『パリの悪魔』という本に魅せられ、以来19世紀フランスの古書蒐集にいかにのめりこんだか―。古書や挿絵芸術の解説からランクづけ、店の攻略法、オークション、購入のための借金の仕方まで、貴重な古書にまつわる様々な情報と、すべての蒐集家のための教訓が洒脱につづられる。

 フランス文学研究者であり、フランス古書蒐集家でもある著者のエッセイ。

『子供より古書が大事と思いたい』とはなんとも不穏なタイトルだが、あながちおおげさでもない。ほんとにすべてを犠牲にして古書を蒐集しているのだ。

 ちょっと注釈が必要なのだが、フランス古書というのは我々の想像する古本とはちょっと違う。
 19世紀のフランスの本というのは、今のように表紙がついておらず、仮綴本の状態で売られていたのだそうだ。買った人が装丁屋に依頼してオリジナルの表紙をつけてもらう。また印刷技術が今ほど高くないので本によって印刷の質がちがう。さらに著者直筆の訂正や献本メッセージが入っている本もある。
 したがって、大げさでもなんでもなくすべての本が世界に一冊の本となる。

 なので、フランス古書というのは古本というより美術品に近い。実際、貴重なものであれば数千万円の値がつくそうなので、ほとんど骨董品である。


 ぼくは本が好きだが、本に対して読むもの以上の価値を見いださない。コレクション品として本を買ったのはただ一度、星新一の全集を買ったときだけだ(すでに文庫で全作品を持っていた)。

 一度、古書店で文庫をレジに持っていったら「800円です」と言われ驚いた。「えっ、定価より高いじゃないですか」と言うと、店主が「初版本だからね」と答えた。ぼくは買うのをやめた。絶版本でもないのに定価より高い値段で本を買おうとはおもわないが。

 しかし、共感はできないが古書蒐集をする人の気持ちもちょっとわかる。めずらしい本、世界にひとつしかない本を手元に置いておきたい心理はわからなくもない。本とは著者の思考の表出である。世界に一冊しかない本であれば、それを所有することは著者の思考を独占することである。これはさぞや大きな快楽をもたらしてくれるに違いない。

 西村賢太氏や井上ひさし氏の「古書蒐集について書いた文章」はいずれもおもしろい。古書を集めることは、きっと多くの人に共通する願望なのだろう。




 愛書家のことをビブリオフィルと呼ぶそうだが、それが高じて〝愛書狂〟にまでなった人のことを〝ビブリオマーヌ〟と呼ぶそうだ。この言葉は十六世紀からあるそうなので、本の蒐集に狂った人はいつの時代にも存在するのだ。

 鹿島茂氏はまぎれもなくビブリオマーヌである。

そして、その日から私はビブリオマーヌとしての人生を生きることを決意した。私が本を集めるのではない。絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ。とするならば、私は古書のエコロジストであり、できるかぎり多くのロマンチック本を救い出して保護してやらなければならない。これほど重大な使命を天から授けられた以上は、家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい。

 この心境。もはや信教に近い。

「家族の生活が多少犠牲になるのもやむをえまい」と書いているがこれは決して大げさな表現ではなく、ほんとに家族の生活を犠牲にして本を買っているのだ。

 はっきり言って、私の資金源は、これみな借金である。しかも親や親類からの出世払いの借金などという甘っちょろいものではなく、銀行やローン会社から、自宅を抵当に入れて借りた本格的な借金ばかりである。したがって、当然、ローンの返済は毎月容赦なく襲いかかってくる。そして、その額は、多重債務者の常として絶えず増加傾向にある。この調子でいけば、破産宣告はまずまちがいのないところである。にもかかわらず、私はあいかわらず古本を買い続け、借金は雪だるま式に増加している。

 借金をしてまで本を買うのだから相当なものである。ちなみに著者が古書を買い集めていたのはバブルの頃だそうで、バブル期は銀行もほいほい金を貸してくれたんだなあ(とはいえさすがに「本を買うため」という理由では銀行も金を貸してくれなかったそうだ)。

 趣味というのは人によれば生きる目的そのものだから、趣味にどれだけ金を遣おうが他人がとやかく言うことではない。……とはいえ、借金をしてまで趣味に金をかけるのはどう考えても度が過ぎる。

 しかし、今回だけは、なんとしても金をつくらなければ、『さかしま』を手に入れる千載一遇のチャンスをみすみす取り逃がすことになる。買うも地獄、買わぬも地獄なら、いっそ買う地獄のほうを選んだほうがいい。ええ、ままよ、銀行が貸してくれないなら、サラ金でも暴力金融でもなんでもいい、なんとしても金を作るんだ! と叫んで、ついに買い注文のファックスを入れた。待つこと数分、折り返しのファックスが届いた。『さかしま』は売却済みと書いてある。
 ああ、よかった。ほっとした。とりあえずは、破産→一家離散→ホームレスの運命は回避された。買えなくて本当によかった。先に買ってくれたお方、どこのどなたかは存じませんがありがとうございます。感謝してます。あなたはわが家の恩人だ。
 しかし、考えてみれば、買えなくてうれしがるというのも変な話である。だれだって、それなら、初めから、買い注文など出さなければいいのにと思うだろう。ところが、買い注文を「入れない」のと、注文を「出したにもかかわらず買えなかった」のとは、本が手に入らなかったという現象面では同じなのだが、心理面では、これがまったく違うのだ。たとえてみれば、オリンピックに参加できたのにしながったのと、参加したが敗れたのとの違いである。後者の場合、とにかく、やれるだけはやったのだという爽やかさが残る。

 ほら、もう頭おかしくなってるじゃん!

 買い注文を入れておいて、「買えなくてよかった」ってもうまともじゃないじゃん。オリンピック選手もこんな頭おかしい人といっしょにされたくないだろう。


 しかし、たいていの頭おかしい人のエッセイがそうであるように、このエッセイもめっぽうおもしろい。

 でもぼくは美術品とか骨董品にまったく興味ないからいいけど、そういうのが好きな人がこのエッセイを読むと集めたくなってしまうかもしれないので要注意。そこは地獄の入口ですよ……。


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2022年1月17日月曜日

【DVD感想】ロングコートダディ単独ライブ『じごくトニック』

内容紹介(Amazonより)
『キングオブコント2020』決勝に進出した実力派コンビ・ロングコートダディの単独ライブをDVD化。7月に行われた東阪ツアーの大阪公演より、「厳格お父さん」「時をかける兵藤」ほか新作コント7本と東京公演限定コントほかを収録。

厳格お父さん

 犬を拾ったので飼いたいと言う息子に対して父親が放つ言葉が……。


 基本的にはひとつのボケ。それも大ボケではなく「ちょっとした違和感」程度。オープニングアクトにふさわしい上品なコント。


時をかける兵頭

 職場の先輩に後輩が誕生日プレゼントをあげる。お礼を言う先輩。なんのへんてつもないシーンだが、なぜか同じようなシーンが延々くりかえされる……。


 違和感だけが残る前半。後半の説明で前半の謎が解け、続きが気になる展開に。謎のちりばめかた、最小限の説明、そして何とも言えない絶妙なボケ。

 いやあ、これはロングコートダディらしさがあふれているなあ。ボケらしいボケがほとんどない。プレゼントの内容自体で笑いが起きるのだが、冷静に考えるとぜんぜんおかしなプレゼントじゃないんだよね。どっちもおかしな人じゃないしふざけてもいない。なのに絶妙におもしろい。

 この、説明のしようのない笑い。センスあふれるコントだ。


カットステーキランチ

 ファミレスで話すバイトの同僚。どうということのない職場のうわさ話なのだが、徐々に片方の価値観のずれが目立ってきて……。


 これまた大掛かりなボケはないものの、じわじわとおもしろい。「気にするところ、そこ!?」と言いたくなる。なのにコント中では誰も指摘しない。

 そして秀逸なのが、カットステーキランチの使い方。序盤のカットステーキランチがずっと気になってたんだけど、もっとも効果的なタイミングで登場。ほんとにファミレスでカットステーキランチが焼かれるぐらいの時間なのがたまらない。


ランプの精

 願いを三つ叶えてくれるランプの精を呼び出した男。彼の願いを聞いたランプの精はなんともいえない顔をして……。


 個人的にいちばん笑ったのがこのコント。男の倫理観や価値観が狂ってる。それも、わかりにくく狂ってる。わかるようでわからない。でもちょっとは理解できるのかなーとおもったら、やっぱり理解できない。

 コントや漫画で「三つの願い」って定番の設定だけど、キーとなるのはやっぱり「三つ」をどう使うか。三段落ちにするとか、一つめと二つめを三つめで使うとか、三つだからこその笑いを作らないといけない。
 その点、このコントでは「三つ」をうまく処理している。「三つめ」がアレだからこそ、男の狂気性がよりいっそう浮かび上がる。ディズニー版『アラジン』を観てからこのコントを観ることをお勧めします。


脱がせてもらっている時間は時間に含まれていないと思っていたでござる

 もうこれはタイトルがすべて。ほぼ出オチのコント。
 一分もないコントなので説明のしようがない。


魔物

 甲子園を目指すエースと、お互いに好意を持っているらしいマネージャー。地方予選決勝前日にいちゃついていたのが原因でエースが指を怪我してしまい……。


 十年ほどの時間の経過を見せてくれる、スケールが大きいようで小さいコント。「指の怪我をマネージャーに知られるとあいつが責任を感じてしまうから隠し通さないと」というエースの優しさが哀しい笑いを生む。


じごくトニック

 小説家が自殺をすると、そこに死神のような存在が現れる。死後の行き先は天国か、地獄か、はたまた転生か。転生先は選べないが、その三つのどれでも好きに選んでいいという。はたして男が選ぶのは……。


 三十分を超す大作コントだが、個人的にはあまり好きになれなかった。他のコントはどれも人生におけるある一瞬を切り取ったものだが、このコントだけは起承転結がしっかりしていてちゃんとした芝居である。それが逆に性に合わなかったというか、ロングコートダディにはもっと「人から見ればどうでもいいような一瞬」をすくいあげるコントを期待してしまう。

 個人的な好みの話になってしまうが、「単独ライブのラストに収められているちょっと人情的なコント」があまり好きではないのだ。ラーメンズのライブ『鯨』のラストである『器用で不器用な男と不器用で器用な男の話』はたしかに素晴らしかった。あの一作によって『鯨』というライブ自体がすごく引き締まった。ただそれは『器用で不器用な男と不器用で器用な男の話』が非常によくできたコントだったからである。

 特にオークラさん(バナナマンや東京03のライブにもかかわっている人)がその手のコントを好きらしく、彼が手がけたライブのラストはたいてい「しんみりコント」だ。もちろんその中にはたいへんすばらしい作品もあるが、中には「しんみりさせようとすればいいってもんじゃないよ」と言いたくなる作品もある。「ラストにしんみりするコントを入れておけば、観終わった後に『ああいいものを観た』という気になるだろう」という狙いが透けてしまうというか。ああいうのはたまにやるからいいのであって、毎回毎回松竹新喜劇みたいになられても「お笑い」を観にきている側としては醒めてしまう(松竹新喜劇観たことないけど)。

 そんなわけで、当然ながらラーメンズやバナナマンや東京03がコント界に与える影響はすさまじいものがあるから、昨今はなんだか「コントライブのラストは笑いあり涙ありの人情派コントにしなくちゃいけない」かのような風潮まで感じてしまう。考えすぎかもしれないが。

『じごくトニック』の話に戻るが、せっかくここまでナンセンスな笑いを披露してきたのに最後にストーリー性豊かなコントを見せられると「出来は悪くないんだけど今求めているのはそれじゃないんだよな……」という気になってしまう。




 なお、本編もさることながら幕間映像もおもしろかった。

 特に、堂前・ビスケットブラザーズきん・kento fukayaが18禁のゲーム『話れ』をやる映像は声に出して笑った。
「一生懸命話をしてくれていますが話が入ってきません。アイテムをゲットして話が入ってくるようにしよう!」というさっぱり意味のわからない説明でゲームがスタート。だが次の映像を観ると、一瞬にして説明の意味が理解できるようになる。

 すばらしくばかばかしい。18禁どころか、何歳でもアウトだろ、これは!


 他にも、YouTube動画の編集をする映像、『兎の好きな食べ物ランキング』、『阪本と中谷が近づいたらマユリカの漫才が聞こえてくる動画』などナンセンスな笑いに満ちた映像がたくさん。これに関しては、DVDでツッコミを入れながら観るほうがだんぜん楽しい。舞台で観たら「ツッコミたいけど声を出すわけにはいかない……」というもやもやが残りそうだ。




 全篇通してまずおもうのが、金と時間のかけ方が贅沢だということだ。

 たとえば『脱がせてもらっている時間は時間に含まれていないと思っていたでござる』なんて、そこそこ大掛かりなセットや衣装を用意しているが、コントの時間はおそらく1分にも満たない。セッティングや片付けのほうがはるかに長い。もちろんその時間は幕間映像でつないでいるけど。

 ふつう、これだけのセットを用意するのであれば、もっと展開を持たせて長いコントにしようとか、あるいは準備のコストに対して得られる笑いの量が見合わないからこのコントはボツにしようとか考えそうなものである。

 なのに、数十秒であっさり終わらせている。贅沢だ。

『厳格お父さん』も非常に短いし、『ランプの精』だってあんなにドライアイスをたく必然性はない。劇団四季ばりにふんだんにもくもくもくもくやっている。

 手間や金のかけかたと笑いの量が比例していなくて、そこがまた単独ライブらしくていい。いろんな芸人が出るライブでこんなことをやったらきっと怒られるだろう。

 この贅沢さ、現実的な枠組みにとらわれない、自由な発想ができるからこそなのだろう。「もったいない」ともおもうが、その贅沢さがなんとも上品。

 聞けば、ドリフのコントや、『ごっつええ感じ』のコントでも、たった数分のコントのためにものすごい金をかけて豪華なセットを組んだという。

 きっと、一流のクリエイターには、頭の中にビジョンがあるのだろう。そのビジョンに現実を近づけていく作業がコント作りなのだ。だから、観ている側にとっては「もったいない」とおもえるようなコストのかけかたになるんじゃないだろうか。想像上の絵を描くときに「ここにこんな建物があったら建築費が高くつくな」とはいちいち思わないのと同じで。


 ただ、気になったのが女装のクオリティ。『脱がせてもらっている時間~』と『魔物』で堂前さんが女装しているのだが、そのクオリティが低いのだ。まったくもって女性に見えない。ただカツラをかぶって女の服を着ただけ、という感じ。美人である必要はないけど、女性らしさがまったくない。

 いや、いいんだよ。コントだから女装のクオリティが低くても。バカリズムなんて女性を演じるときにカツラすらかぶらないし。
 ただ、ロングコートダディのは中途半端なんだよね。やらないんならやらないで「観客に想像させる」でいいし、やるならメイクとか小道具にもこだわって徹底的に女性らしさを出してほしい。半端な女装のせいでコントの世界に入りづらかったのが残念。ここはもっとコストをかけてもいいとこだとおもうぜ。


 どの作品もおもしろかった。でも、「お笑いDVDを観て大笑いしたい」という人には正直いってお勧めしない。爆笑するようなコントはほとんどないからだ。作品性は高いが、笑いを取りにいく姿勢はいたって控えめだからだ。

「じんわりおかしい」を味わいたい方にはおすすめ。



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2022年1月14日金曜日

【読書感想文】テッド・チャン『息吹』~17年ぶり2作目~

息吹

テッド・チャン(著)  大森 望(訳)

内容(e-honより)
「あなたの人生の物語」を映画化した「メッセージ」で、世界的にブレイクしたテッド・チャン。第一短篇集『あなたの人生の物語』から17年ぶりの刊行となる最新作品集。人間がひとりも出てこない世界、その世界の秘密を探求する科学者の、驚異の物語を描く表題作「息吹」(ヒューゴー賞、ローカス賞、英国SF協会賞、SFマガジン読者賞受賞)、『千夜一夜物語』の枠組みを使い、科学的にあり得るタイムトラベルを描いた「商人と錬金術師の門」(ヒューゴー賞、ネビュラ賞、星雲賞受賞)、「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(ヒューゴー賞、ローカス賞、星雲賞受賞)をはじめ、タイムトラベル、AIの未来、量子論、自由意志、創造説など、科学・思想・文学の最新の知見を取り入れた珠玉の9篇を収録。


 デビュー作『あなたの人生の物語』からなんと17年ぶり(!)となる作品集。

 17年で2冊しか発表していない超寡作作家ながら多くのSFファンから評価されているのだから、それだけでも作品のクオリティが高いことがよくわかる。

 ぼくも前作『あなたの人生の物語』を読み、この想像力の豊かさに驚かされた。「知能がものすごく高くなったら」「宇宙人が地球にやってきてファーストコンタクトをとることになったら」といったごくごくシンプルな発想なのに、とことんまで突きつめて細部を想像しているから説得力がすごい。

 「こんなにシンプルなのにおもしろい話を、どうしてこれまで誰もおもいつかなかったんだろう」とうならされたものだ。

 今作ももちろんすばらしかった。

「機械の身体を持った生命が跋扈する世の中になったとしたら」「過去の言動すべてが記録されていつまでも残るとしたら」「創造説の通りに、ある瞬間に世界のすべてが神によって作られたとしたら」といったシンプルな設定からとんでもない飛躍をみせてくれる。

 ただ、個人的には『あなたの人生の物語』に比べると設定がこみいりすぎていたように感じる。もちろん本格SFファンにとってはそれぐらいのほうがいいのだろうが、ぼくのような軟弱SFファンには設定を理解するだけでせいいっぱい、みたいな短篇が多かったぜ。




 好きだったのは冒頭の作品『商人と錬金術師の門』。

 アラビアンナイトの語りを借りた時間旅行もの。SFの定番中の定番・時間旅行だが、この作品では「過去や未来を変えることができない」というのがミソ。
 主人公もそれはわかっている。だが過去へと旅立つ。やはり過去を変えることはできない。だが主人公はそれでも過去に行ったことで深い満足を味わう。歴史を改変することはできなくても、主人公の心中にはたしかに変化が起こるのだ……。

『ドラえもん』でもくりかえし語られるテーマだよね。『ドラえもんだらけ』『ぼくを止めるのび太』『タイムマシンで犯人を』『無事故でけがをした話』など、「タイムマシンを使って過去を変えようとするも結局変わらない」話は枚挙にいとまがない。

『ドラえもん』でも扱われるぐらいのテーマなので、SF初心者にも易しい。




 表題作『息吹』は機械生命たちの世界で、医師が命の神秘について考察する話。同胞たちはほぼ不死で、解剖はタブーとされている。

 すこぶる忙しいときや、ひとりでいたい気分のときは、ただたんに、満杯の肺を保管場所からとりだして胸郭に装塡し、空になった肺を部屋の反対側に置く。ほんの数分でも時間の余裕があるなら、空の肺を給気口に接続して、次の人のために満杯にしておくのが一般的な礼儀だ。しかしなんといっても、いちばん一般的なのは、給気所に残って社交を楽しみ、その日の出来事について友人や知人と語り合ったり、また満杯になった肺を話し相手にさしだしたりすることだろう。厳密な意味での空気共有とは呼べないにしろ、われわれの空気すべてがおなじ源から発していると実感することで、仲間意識が生まれる。なぜなら、給気口とは、地下深くにある貯蔵槽──世界の巨大な肺にして、われわれの栄養すべての源──から延びる給気管の末端にほかならないからである。

「機械が支配する世の中になったら」はよくあるアイデアだけど、その世界での「機械生命の疑問や悩み」についてここまでじっくり考察を深められるのはさすがテッド・チャン。
 知性と空想の極限を極めた逸品だ。





『偽りのない事実、偽りのない気持ち』は、「リメン」と呼ばれる映像記録装置によって見たもの話した内容などをすべて記録できるようになった世界の話。

 リメンはユーザーの会話を監視して、過去の出来事についての言及を見つけると、視界の左下隅にその出来事の映像記録を表示する。「覚えてる? あの結婚式でコンガを踊ったの」といえば、リメンはそのときの動画を再生する。話している相手が「こないだいっしょに海に行ったとき」といえば、リメンはその動画を再生する。だれかと話しているときだけではない。リメンはユーザーの声に出さない言葉も監視している。もしあなたが「はじめて行った四川料理店」という文章を読むと、その文章を朗読しているときと同様にあなたの声帯が動き、リメンは関連する映像を再生する。
「鍵をどこへやったっけ?」という声に出さない質問にすぐさま答えてくれるソフトウェアが役に立つことは否定すべくもない。しかしウェットストーンは、リメンを便利なバーチャル・アシスタント以上のものと位置づけている。リメンが人間本来の記憶にとってかわることを望んでいるのだ。

 これは近い未来に実現しそうな技術だ。というか技術的には今でも可能なんじゃないだろうか(検索はまだ難しいだろうが、記録だけなら可能だろう)。というか今でも予定や日記をクラウド上に記録している人や、片時もスマホを手放さずにSNSにひっきりなしに投稿していう人は、ほとんどこれに近いことをやっている。

 ぼくだって、読んだ本をほとんどこのブログに書いているので「あの本なんだったっけ」と自分のブログを検索することがある。Kindleで読んだ本は本の内容もかんたんに検索できるし。読書だけに限定した「リメン」を使っているようなものだ。


「リメン」によって浮かび上がるのは、人間の記憶がいかに不確かなことかということだ。なにしろ正確な過去がいつまでも形を変えずに残り続けるのだから。

 だが、『偽りのない事実、偽りのない気持ち』では正確な記憶は必ずしも良い結果ばかりをもたらすものではないことを突きつける。人間の記憶は不正確だからこそ良好な人間関係を築けるのだ、と。

 たしかになあ。ぼくは家族や友人たちから言われた言葉で傷ついたことがあるし、それ以上に心無い言葉で傷つけてきた。それでもそこそこ良好な関係を築けているのは、お互いに嫌な過去を忘れてきたからだ。嫌な過去が永遠に鮮明に残るとしたら、関係を続けることはできないかもしれない。

 記憶はあてにならないからこといいんだよね。

「中二病」とか「黒歴史」という言葉があるけど、あれは自分の記憶の中にだけあるからまだ笑い話になるけど、過去のイタい行動が全部どこかのデータサーバに残って誰にでも参照可能だとしたら……。おお、考えただけでもぞっとする。

 思春期に世界とつながれる(そしてその痕跡がいつまでも残りつづける)今の若い人は不幸なのかもしれない。




 ということでおもしろかったんだけど、ちょっと重厚すぎたというか、ぼくには『あなたの人生の物語』のほうが性に合ってたな。

 物語としては『息吹』のほうが高い完成度を持っているのかもしれないけど、『あなたの人生の物語』のほうがワンアイデアをどこまでも推し進めるパワフルさがあって好きだったな。豪速球ストレートって感じで。


2022年1月12日水曜日

【読書感想文】知念 実希人『ひとつむぎの手』

ひとつむぎの手

知念 実希人

内容(e-honより)
大学病院で激務に耐えている平良祐介は、医局の最高権力者・赤石教授に、三人の研修医の指導を指示される。彼らを入局させれば、念願の心臓外科医への道が開けるが、失敗すれば…。キャリアの不安が膨らむなかで疼く、致命的な古傷。そして緊急オペ、患者に寄り添う日々。心臓外科医の真の使命とは、原点とは何か。過酷な現場で苦悩し戦う医師のリアルが胸に迫る感動のヒューマンドラマ。

 主人公は大学病院の心臓外科医・平良。三人の研修医を心臓外科医に入局させれば希望の病院に出向できてキャリアアップが望める。だが三人中二人入局させることに失敗すれば、心臓外科のない病院に飛ばされて心臓外科医としての道が実質絶たれることになる。そんな中、医局の最高権力者に論文不正疑惑が湧いて出る……。

 医師でもある著者ならではの設定。仕事周りのうんちくがふんだんに散りばめられた、ここ二十年ばかりの定番ジャンル〝お仕事小説〟だね。

「まあ、なんでそこまで心臓外科にこだわるのか知りませんけど、それにかんしても割に合わないと思うんですよ。先輩、心臓外科に入局したドクターのうち、一人前の執刀医になれるのってどれくらいの割合なんですか?」
「……十人に一人っていうところだな」
 痛いところを突かれ、また声が小さくなってしまう。
 心臓外科に入局した医師の多くは、あまりにも過酷な勤務に耐えられず他科に移っていく。そして、たとえその勤務に耐えても一人前の執刀医になれるとは限らなかった。
 心臓外科の手術の件数はそれほど多くはなく、その大部分は一部の一流心臓外科医が執刀するのだ。
 心臓手術の執刀医になるためには、手術数の多い病院に勤務して、『一流心臓外科医』たちから直接手ほどきを受ける必要がある。その立場をつかみ取れる者は、決して多くはなかった。
「そう、たった十人に一人ですよ。馬車馬のように何年も働いても、執刀医になれるとは限らない。そんなの不条理すぎると思いませんか?」

 なるほどね。心臓手術をするってことは当然大手術になるだろうから件数は多くないだろうし、生命に直結する機関だから経験の浅い人に手術させたくない。自分の心臓を手術されるときに「医療の未来のために、はじめての医師に執刀させてください」と頼まれたって「いやそれはべつの機会にしていただけませんか……」ってなるもんね。

 そうなるとトップの医師にばかり手術の機会がまわってきて、他の医師との差は広がる一方。ほんとは体力もあって成長の余地の大きい若手を育てたほうがいいんだろうけど。




「それぞれ問題を抱えた研修医」「主人公の過去」「医局内の権力争い」「教授の不正疑惑」「主人公の出向先」といろんな要素があるが、ラストには全部きれいにまとめられる。物語の構成はよくできている。「感動的なラスト」も用意されている。ただ個人的には心を動かされなかった。

 登場人物が漫画のキャラクターみたいなんだよな。すぐ怒って感情を表に出す、たったひとつの出来事をきっかけにころっと心変わりする、悪いやつはわかりやすく権力者にこびへつらう……。素直すぎるというか、もっと率直にいえば単純すぎる。

 少年漫画ならこれぐらい単純でもいいけど、小説としては物足りないな。「物語を動かすためのコマ」感が強くて。


 以前読んだ『祈りのカルテ』のほうは、話のスケールが大きくなかったので人物造形が深くなくても不自然ではなかったんだけどね。短篇のほうがいいなあ。


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2022年1月11日火曜日

【読書感想文】『あやうしズッコケ探険隊』『ズッコケ心霊学入門』『とびだせズッコケ事件記者』

 中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想。

 今回は4・5・7作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら


『あやうしズッコケ探険隊』(1980年)

 子どもの頃に好きだったズッコケシリーズベスト3を選ぶなら、『うわさのズッコケ株式会社』『花のズッコケ児童会長』そしてこの『あやうしズッコケ探険隊』だ。

 中盤のズッコケシリーズは幽霊に取り憑かれたりタイムスリップしたりはては宇宙人に連れ去られたりとずいぶんぶっとんだ設定のものが多いが、ぼくは地に足のついた作品が好きだった。この『あやうしズッコケ探険隊』は、リアリティを持たせながらもわくわくさせる大冒険を見せてくれる。

 モーターボートで海に出た三人組。すぐ近くの島まで行くはずだったが、燃料がなくなったために漂流。そのうち救助されるさとたかをくくっていたらどんどん流され夜を迎える。翌朝、流れ着いたのは絶海の孤島。幸い三人組はこの島で生きていく決意をする……。

 当時はよくわかっていなかったが、細かい設定がしっかりと書かれている。愛媛県伊予灘から出航して漂流、そのまま太平洋に流されたと三人組はおもうが、じつは瀬戸内海をぐるぐる回っていただけで大分県・国東半島のすぐ近くの島だった。

 石川 拓治『37日間漂流船長』(感想)という本に、実際に漂流した人の体験談が出てくるが、ズッコケ三人組の漂流の様子もそのときの状況によく似ている。はじめはなんとかなるさとたかをくくり、助かるチャンスがあっても本気で手を打とうとはしない。そうしているうちにどんどん流されて取り返しのつかない事態になるところがまったく同じ。
『あやうしズッコケ探険隊』の漂流シーンはリアリティのある描写だったんだなあ。

 またハカセが太陽の南中高度や北極星の位置から緯度と経度を天測するシーン。小難しい上に長いので小学生のときは読み飛ばしていたけど、今読むとあれは必要な描写だったのだとわかる。あそこに十分ページを割くから「太平洋のど真ん中だ!」という勘違いに説得力が生まれるんだよね。まあ、おバカ小学生からすると太平洋も瀬戸内海も違いがよくわかんないんだけど。

 サザエやゆり根をとって食べたり、ゆり根から団子を作ったり、住居やトイレまで作ったりと、三人組のサバイバル生活はなんとも楽しそう。このへんは児童文学の都合のいいところで、苦労らしい苦労はほとんど書かれない。まあ三人組がサバイバル生活をしたのは実質三日ぐらいなので、水と食糧さえ豊富にあればキャンプみたいなもので楽しいかもしれない。

 無人島サバイバルだけでなく、もうひと展開あるのがいい。なんと島の中で三人組はライオンに遭遇するのだ。なぜこの小さな島にライオンが? そして出会った謎の老人の正体は? と、次々に新しい謎を提示してくる。さらに三人組はライオンを生け捕りにすることに……とハリウッド映画もびっくりの息もつかせぬ展開。

 ラストはすべて丸く収まり大団円となるのだが、とうとう最後まで老人がなぜ島にひとりで住んでいるのかがはっきりと書かれていないのが味わい深い。想像はさせる材料は与えるけど、はっきりとは書かない。文学だなあ。

 ところで、中盤に島の地図の挿絵が入ってるんだけど、そこに「老人の家」とか「助けの船がやってきたところ」とか書いてあるんだよね。まだ無人島だとおもっていたところなのに。地図をよく見たら「人が住んでいるのか」とか「船で助けが来るのか」とかわかっちゃう。挿絵でネタバレしちゃだめだよ。



『ズッコケ心霊学入門』(1981年)

 1970年代に心霊写真ブームがあったそうで、その流行りに乗っかった一冊。ハチベエが雑誌に投稿するために心霊写真を撮ろうと奮闘。空き家となっている屋敷で撮った写真には奇怪なものが写っており、さらに幽霊研究家の博士とともに降霊実験をおこなったところほんとうに怪奇現象が起こり……という話。

 ハチベエが使っているのはフィルムカメラ、しかも白黒カメラとなんとも時代を感じさせる。そもそも〝心霊写真〟が今となっては絶滅寸前だ。デジカメになってフィルムカメラのように光が入りこんだりピントがずれたりしにくくなったのと、誰でもかんたんに画像の加工がおこなえるようになったことで心霊写真の怖さがなくなったのだろう。

 この物語のキーマンとなるのが、四年生の浩介少年。おとなしいのになぜかハチベエになついていて、俳句好きという個性的な少年だ。
 屋敷についている地縛霊だとおもっていたのが、浩介のマンションでも異常な現象が次々に起こりはじめる。じつは浩介の潜在能力によって引き起こされたポルターガイスト現象だということをハカセが「ヘビの種類やサイズ」をヒントに見破る。ここまではおもしろい。

 だが、その後がなんとも残念。三人組が超常現象を解決するのではなく、三人がいないところで精神科医が解決してしまうのだ。三人組は「もう手を打ったから安心だよ」と聞かされるだけ。えええ……。『幽遊白書』の魔界統一トーナメントかよ……。
 この尻すぼみ感ったらない。「もう解決しときました」と聞かされるだけだなんて。せっかくハカセが原因を突き止めたのに、それが治療に活かされていない。

 他にも、空き家の主人がすんなり降霊実験の許可を出してくれたり、悪霊が霊媒の身体に入りこむという危険な降霊実験なのに小学生の参加が許されたり、非科学的なことは信じないはずのハカセが幽霊博士が出てきたとたんころっと信じたりといろいろと粗の目立つ作品。



『とびだせズッコケ事件記者』(1983年)

 クラスの各班で壁新聞をつくることになり、ハチベエ・ハカセ・モーちゃんの三人は新聞記者に抜擢(というか押しつけ)される。

 前半は行動力あふれるハチベエの本領発揮、といった感じ。自分で名刺を刷り、ひとりでお寺に取材に行って談話をとってきたり、交番に突入して警官に名刺を渡したり。なんともたくましい。
 そういや小学生のときって、金にもならないことでめちゃくちゃがんばってたなあ。目の前のことに全エネルギーを注げるのって小学生の特権かもしれない。
 これが中学生になると照れが出てくるだろうし、小学校低学年だとここまで行動範囲が広がらない。小学校高学年という設定がここで活きている。

 ただ事件記者としての活躍を描くだけでなく、記者になったハチベエが私憤を晴らすための記事を書いたり、起こった出来事をおもしろく見せるために針小棒大に書いたりするところはさすがズッコケ。権力を手にしてえらそうにふるまう報道機関に対する風刺も効いている。


 小学生のときは気付かなかったが、今読むとおもしろいのはハチベエの班の班長・金田進の中間管理職っぷり。

 ハチベエをおだてて記者をやらせ、(書かれてはいないけどおそらく)編集会議では女子の言うことに賛同し、こっそりハチベエの記事の扱いを小さくする。ハチベエに文句を言われたら「おれはおもしろいとおもったんだけどなあ」と保身に走り、先生に褒められたら「八谷くんのおかげです」と手柄を譲る。調整役としての立ち居振る舞いが見事。こういう男子は稀少だ。

 もうひとり、重冨フサというコミカルなキャラクターが出てくる。通称、探偵ばあさん。推理小説が好きで、近所のうわさに精通していて、何にでも首をつっこむ人騒がせなばあさんだ。

 なかなか魅力的な人物で、ラストは三人組がこのばあさんの命を救うのだが、終盤でばあさんの台詞がないのが寂しい。助けてもらって感謝しながらも憎まれ口のひとつも叩く、といったシーンがほしかった。


  記者になったハチベエが張り切る
→ モーちゃん、ハカセも記者になり、三人が奮闘
→ だがおもったような成果を上げられずすっかり自信をなくす
→ 人命救助により一躍ヒーローに

と、絵に描いたような起承転結ストーリー。
 それぞれ追いかける記事が、ハチベエは恋愛ゴシップ、モーちゃんはグルメ記事、ハカセは重厚な歴史レポートってのもいいね。三人のキャラクターがよく出ていて、これぞズッコケ三人組という感じのお話だった。


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2022年1月7日金曜日

満員電車で立っていて、眼の前の席が空いたのに座るわけでもなく移動して他の人が座りやすいようにするわけでもなくただそこに立ちつづけて他人が座るのを妨害する人間の思考


 おっ、目の前の席空いた。

 右のおっさん座りたそうだな。左のねえちゃんも座りたそうだな。

 だがダメだ! おれは立つ! だからおまえらも立て!


 おれはダイエット中だから座らない。電車内で立っているだけダイエットだ。

 でも、おれだけがつらい思いをするのは嫌だ。できるだけ多くの仲間がほしい。

 だからおれは席には座らんが、その前に立ちはだかって他の人が座るのも妨げる!


 よく見たら隣のねえちゃん、鞄にマタニティマークつけてるじゃないか。

 さすがのおれも心が痛む。

 だがここが我慢のしどころだ。おれは耐える。苦しいけど、座らない。苦しいけど、空いてる席の前に立って他の乗客の邪魔をする。


 わかってる。おれが右か左にちょっと移動すれば他の人が座れる。

 そうでなくても、おれが座ればその分スペースが空くからこのぎゅうぎゅう詰めがちょっとは緩和される。

 周囲の誰もが「あいつ座らないんだったらどけよ。どかないんだったら座れよ」とおもっているにちがいない。それはわかっている。

 でもおれは座らないし移動もしない。

 なぜなら、ただただ空席の前に立ちつづけて他人が座るのを妨害することこそおれの悦びだからだ!



2022年1月6日木曜日

価値観がちがう人

 今までに出会った、価値観がまったくちがう人。


1.皿を捨てる人

 家に、陶器やプラスチックの食器が一切なかった。紙皿と紙コップのみ。一度使ったら捨てるとのこと。

「環境にやさしくないな」と言ったら、「水も洗剤も使わないから環境にいい」とうそぶいていて、ふしぎな説得力があった。

 たしかに良心さえ傷まなければ合理的な方法かもしれない。皿が割れたり、食洗器や洗剤を買ったり、皿洗いに時間をかけたりすることを考えれば、紙の食器を使うのもコストはあまり変わらないかもしれない。

 でもぼくにはできない。やっぱり胸が痛む。


2.コーラを箱で買う人

 家にコーラの箱があった。1.5リットルのペットボトルが冷蔵庫にぎっしり詰まっていた。

 ぼくはコーラをまったく飲まないので、コーラを大量に買う人の気持ちが理解できない。食事中の飲み物も必ずコーラだと言っていた。毎日一本以上消費するらしい。ONE PIECEのフランキー並みの消費スピードだ。


3.デアゴスティーニを買う人

 そりゃまあ買う人がいるから商売が成り立つわけだけど、あれを買う人の気持ちが理解できない。一括で買った方が圧倒的に安いし。

 この人は車も必ずローンで買うと言っていた。ローンで買って、返しおわる頃にまたローンを組んで車を買い替えるのだそうだ。

 払わなくてもいい金ばかり払ってる。致命的に買い物が下手なのだ。こういう人がいるからリボ払いが成り立つんだろうな。


4.給料日前にかつかつになる人

 決して少なくないけど、存在する。「あと○円で○日過ごさなきゃいけないんですよー」って人。

 ぼくにはまったく理解できない。給料が少なくて食うや食わずの生活を送っているならしかたないが、遊びに行ったり飲みに行ったり趣味にお金を使ったりしていてこうなる人の気持ちが理解できない。
 一ヶ月だけ我慢してちょっと貯金をつくれば、給料日前にひもじいおもいをしなくて済むじゃない。ま、でもこういう人は貯金があればすぐ使っちゃうんだろうな。

 心配症で、常に余分なお金がないと不安になるぼくとしては信じられない。

 そういや本屋で働いてたとき、五百円ぐらいの雑誌を買う際に「クレジットカードの分割払いで」って言ってきた客がいた。信じられん。そんなに金ないなら雑誌なんか買うな。


2022年1月5日水曜日

人を人とも思わない

 前いた職場のY部長の話。

 Y部長は切れ者だった。いつでも冷静。どんなときでも落ち着いた話し方をし、理路整然と語る。また理解も早い。一を聞いて十を知るとは彼のような人のことをいう。
 理不尽に部下に当たるようなことはない。しかし厳しさも持ち合わせていて、感情を昂らせることはないものの、不出来な部下にはこんこんと理詰めで説教をするような人だった。

 当然ながら上司からも部下からも信頼が厚く、Y部長は支部長としてオフィスに数十人いたパート社員をまとめる役目を任されていた。

 ほとんどパート社員は小さい子を抱えているので、子どもが熱を出して休むことなど日常茶飯事。それでもY部長は嫌な顔ひとつせず、てきぱきと指示を出して仕事を割り振る。パート社員からの苦情や要望も丁寧に吸い上げ、大きなトラブルなく業務をこなしていた。


 ある年の忘年会のとき。
 ぼくはY部長の隣の席になった。ぼくはY部長を立派な人だとおもっていたので、素直に褒めた。

「Y部長はすごいですよね。あれだけの部下を抱えていて、パート社員の管理もきちんとしていて。誰からも信頼されてますしね。Y部長のことを悪く言う人はいませんよ」

 すると、Y部長は「ありがとうございます」と微笑みを浮かべながら、こう言った。

「でもねえ。私は、パートの名前をぜんぜん覚えてないんですよ」


 え? え?

「でもY部長、いろんなパートさんと話してるじゃないですか。仕事を依頼することもあるでしょうし」

「いやあ、でもひとりひとりの名前なんかおぼえてませんよ。名前おぼえてなくても仕事の依頼はできますしね」

「いやでも何度も顔を合わせていたら自然におぼえません?」

「おぼえませんね。関心がないんで。パートの名前なんか知る必要ないでしょ

 そう言って、Y部長はにっこりと笑った。


 こ……こえー!

 この人、誰に対しても人当たりがいい人だとおもってたけど、「誰にも興味ない人」だったのか……。



 とはいえ。

 それから十年ほどたった今、ぼくはY部長の気持ちがちょっとわかる。

 ぼくは転職を機に、職場での人間付き合いを大きく減らした。といってもべつに「人と関わるのはよそう!」と決意したわけではない。前の職場では、やれ忘年会だ、やれ送別会だ、やれバーベキューだ、やれ朝礼だチーム会議だ全社会議だとなにかと濃密な人付き合いを要求されていたが、今の職場では「こなすべき仕事さえやっていればいい」という風土だ。社員全員参加の飲み会は年に一度の忘年会だけだし、それすらも「子どもをお風呂に入れないといけないので」という理由で断ったらそれ以上しつこく誘われることもなかった。たいへんありがたい。

 前の職場ではたいてい誰かとランチを食べに行っていたのだが、今の職場だとみんなばらばらに食べる。ぼくは自席でパソコンや本を見ながらおにぎりを食べる。同僚とは、仕事以外の話はほとんどしない。だから彼らが休みの日に何をしているのか知らないし、彼らもぼくのオフの生活を知らない(はずだ)。


 人付き合いを減らした結果、ストレスも大いに減った。
 結局ストレスなんてものはほとんどがつきつめれば人間関係に由来するものだ。人との付き合いを減らせばストレスは減る。

 人と人との付き合いをすれば、好き嫌いの感情も湧くし、期待もする。期待をすれば裏切られることもある。
 一方、電車でたまたま隣り合わせた人であれば、よほどのことがないかぎりは腹が立つこともないし失望することもない。電車でたまたま隣り合わせた人のことはほとんど人とおもっていないからだ。物体である。物体に腹を立てることはあまりない。急な雨でずぶ濡れになったからといって雨に対して怒ったりしない。

 人付き合いを減らせばストレスが減る。ストレスが減るから人に優しくできる。なにしろ興味がないのだから。そのへんにある物体をいちいち壊しながら歩かないのと同じだ。


 ってことで「優しい人」は、じつは「人を人とも思わない人」であることが多いんじゃないだろうかとおもう今日この頃。


2022年1月4日火曜日

【読書感想文】阿佐ヶ谷姉妹『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』

阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし

阿佐ヶ谷姉妹

内容(e-honより)
40代・独身・女芸人の同居生活はちょっとした小競合いと人情味溢れるご近所づきあいが満載。エアコンの設定温度や布団の陣地で揉める一方、ご近所からの手作り餃子おすそわけに舌鼓。白髪染めや運動不足等の加齢事情を抱えつつもマイペースな日々が続くと思いきや―。地味な暮らしと不思議な家族愛漂う往復エッセイ。「その後の姉妹」対談も収録。

 正月に帰省した折、母に「最近おもしろかった本ない?」と訊くと、「最近は阿佐ヶ谷姉妹にはまってる」と言われ、この本を手渡された。

 女性コンビ芸人である阿佐ヶ谷姉妹(を名乗っているが姉妹ではない)が交代でつづったエッセイ。

 そういや阿佐ヶ谷姉妹の生活がNHKでドラマ化されたと聞く。ドラマは観ていないが、おもしろいと評判だ。

 タレント本はあまり手に取らないが、阿佐ヶ谷姉妹はなんとなく気になる存在だ。




 なぜ阿佐ヶ谷姉妹が気になるのかというと、芸能人特有のギラついた感じがないからだ。

 芸人にかぎらず、役者でも歌手でもアナウンサーでも、テレビにいる人からはたいてい「おれの才能を見せつけてやろう」「チャンスをつかんでのしあがってやろう」という野心を感じる。

 べつに悪いことではなく、野心がなければ狭き門に向かって努力を続けなければテレビに出続けられるような人にはなれないのだから当然だ。

 ところが阿佐ヶ谷姉妹からはそういったギラつきを感じない。もちろんそう見えているだけで彼女たちだって野心はあるだろうし努力もしているのだろうが、観ている側にちっともそれを感じさせない。ほんとに、そのへんにいるおばさんのたたずまいなのだ。前に出る機会があっても「あたしは遠慮しときます」と一歩下がるタイプのおばさん。まず芸能界にはいないタイプだ。

 いったいどうして彼女たちが芸人を目指すことになったのだろうとずっとふしぎだったが、この本に少しだけ答えが書いてあった。

 まだ阿佐ヶ谷姉妹を始める前、姉と川秀さんに行った時、ご主人から「2人は似ているけど姉妹なの?」と聞かれ、似てますけどお友達なんですと言うと、そんなに似てるんだったら、阿佐ヶ谷に住んでいる姉妹みたいな2人、「阿佐ヶ谷姉妹」という名前で何かやったらいいのにと言われ、姉がやっていたブログに阿佐ヶ谷姉妹に何かご用命ありましたら、と書いたら、最初にお笑いライブへのお誘いがきたので、まあ1回だけならと軽い気持ちで出演したのが始まりでした。
 なので、ご主人に名付けてもらわなかったら、阿佐ヶ谷姉妹は生まれなかったのです! 不思議なものでございますね。

 なんとも人を食ったような経歴だ。今テレビに出ているお笑い芸人で、赤の他人から「お笑いやりませんか」と言われて芸人になった人は他にいないだろう。

(とはいえその前は劇団の養成所で役者をめざしていたらしいので、彼女たちにもちゃんと野心があったのだ)




 テレビでのたたずまい同様、エッセイも力が抜けている。

 一生懸命書いているらしいが(エッセイのネタがなくて苦労しているという話がよく出てくる)、それにしてはたいしたことが書いていない。いや、いい意味でね。

 仮にもテレビに出る芸能人をやっているのに、こんなすごい経験をしたとかこんなめずらしい場所に行ったとかの話はまるでなく、半径一キロメートルぐらいの日常しか出てこない。そういうコンセプトのエッセイだからなんだろうけど、それにしても地に足がつきすぎている。西友でこんなものを買ったとか、商店街の人からこんなものをもらったとか、自宅でこんな動画を見ているとか。話が阿佐ヶ谷から出ない。

 それも、ショッキングな出来事とか貴重な体験はまるでなく、そのへんのおばちゃんをつかまえて一年間エッセイを書いてもらったらこんな内容になるだろうなーというぐらいの話だ。

 文章からも「おもしろい文章を書いてやろう」というケレン味をまるで感じない。インターネットにおもしろおかしいコンテンツがあふれている今、それがかえって新鮮だ。

 書かれているのはなんとも平凡な日常なのだが、それがいい。「阿佐ヶ谷姉妹にはこういう人であってほしい」というこちらの願望そのものの生活だ。
 やらしい話だけど、テレビに出演する機会も増えて、稼ぎもなかなかのものだろう。それでもこのエッセイから伝わってくるのは「年収200万円ぐらいの人の生活」だ。どれだけ売れてもこの阿佐ヶ谷姉妹でいてほしい。というよりあまり爆発的に売れないでほしい。勝手な願いだけど。




 平々凡々とした日々がつづられるけど、第3章の『引っ越し騒動』でほんの少しだけ様相が変わる。

 6畳1間に同居していたふたりが、ついにそれぞれの部屋を求めて(とはいえ探すのは2DKでやはりいっしょに暮らせる家)阿佐ヶ谷の物件めぐりをはじめる。

 気合が入っているのか、テンションも高めだ。

 続いて伺ったのは閑静な住宅が立ち並ぶ南口。ベランダにも両部屋から出られて、過ごしやすそう。ただ、なぜか玄関のドアが、塗り直したのか内側だけすごく水色。みほさんは、「私は水色、大丈夫ですけど」とこれまた高らかに宣言。
 さてベランダに出てみると、2人の視界のすぐ先に、とある大学の有名相撲部のお稽古場が見えました。日も暮れかかった時間に、うっすら見える干されたまわし達。まわしもお相撲も嫌いではないけれど、あちらのまわしがこちらから見えるという事は、あちらから見ようとしたら、こちらのまわし的なものも見えてしまうのではないかしら。いや、こちら側のまわし的なものって何? という問いはさておき結局こちらも保留に致しました。

 だが、あちこち物件をまわったもののいろいろ欠点が目について決められず、「今の家がいいのよね」となってしまう。

 このあたりの心境、よくわかるなあ。ぼくもそういうタイプだ。妻も同じタイプなので、何度家探しをして「うーん、もう少し今のとこでいっか」となったことか。

 結局阿佐ヶ谷姉妹は引っ越し先が決められず、隣のワンルームが空いたのでそこも借りてお隣同士で暮らすことになる。今なら余裕でもっといいマンションにも住めるだろうに、それをしないところが阿佐ヶ谷姉妹の魅力なのだ。




 見た目はよく似ているのでちがいもよくわからなかった阿佐ヶ谷姉妹だけど、このエッセイを読むとふたりの性格の違いがよく見えてくる。

 細かいことを気にするけど忘れ物も多い江里子さんと、思い切りがよくてマイペースな美穂さん。

 この文章にも、江里子さんの人柄がよく表れている。いっしょに食事をしたときに、みほさんが自分の分のシチューしか持ってこなかったときの話。

 2人の部屋からみほさんの部屋になったとて、間取りは変わらず6畳1Kの狭い部屋です。コタツから立ち上がり、シチュー鍋まで5歩。自分の好きな分をよそって、また5歩。おそらく何カロリーも使わぬ動作で、シチューをゲットできます。いい歳をした女が、「なぜシチューをよそってくれないの」と、同じ位いい歳をした女につっかかるなんて、何だかあまりに器の小さい人間のようで言葉に出せず。普通に自分でよそってきて、普通のやりとりをして、ごちそうさまをして、隣の部屋に戻りました。
 自分の部屋に戻ってから、何だか無性に切ない気持ちになってしまいました。理由は間違いなく「シチューをよそってもらえなかった」という1点。こんな小さな事に引っかかっている自分も情けないのだけれど、どうにものどに刺さったお魚の骨のように、気にかかってしかたないのです。

 しばらく、みほめ~あの冷血人間め~なんてカリカリしていましたが、こう考え始めました。「私だったら、持ってくるけど」という考え方が違っているのかしら。
 私がそうしているから、あちらにもそうしてもらえるものだと思っている所から、ものさしが狂い始めるのかも、と。
 実際夫婦でも家族でもない2人が、たまたま生活様式を共にしているだけで、本来は個個。むしろ、私がみほさんにしている事は、頼まれてやっている事でもなく、こちらがよしとしてやっている事なのだから、それを相手に勝手に求めて勝手に腹を立てたりするのは、変な話で。やってもらう事は「必須」でなく「サービス」なのだ。そう思うと、落ち着いてきました。

 このエッセイを読んでいるとよくわかる。江里子さんはこういうことをいつまでもくよくよと考えているタイプで、美穂さんはたぶん気にしていない。たぶん「たまたま忘れていた」とか「なんとなくめんどくさい気分だった」とかで、深い意図があったわけではない。でも江里子さんは気になる。

「あたしの分は?」と訊けばいいのに、タイミングを逃してしまうともう訊けない。だったら気にしなきゃいいのに、気にしてしまう。余計な勘繰りで疲れてしまう。

 たぶん誰しも同じような経験があるだろう。
 ぼくも結婚生活を十年続ける中で何度も経験した。江里子さんは「夫婦でも家族でもない2人が、たまたま生活様式を共にしているだけで、本来は個個」と書いてるけど、夫婦だって同じだ。しょせんは他人。

 相手のちっちゃい行動が気になる。でもちっちゃいことだからこそ、余計に言えない。言えば「そんな細かいこと気にするなよ」とおもわれそうで。

 でもこういうのって、「言う」か「忘れる」のどっちかしかないんだよね。相手に察してもらうなんて無理だから、自分が変わるしかない。

 同居生活でうまくやっていく秘訣は「相手に心の中で求めない」だよね。つくづくおもう。


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