2022年3月31日木曜日

讃辞のおやつ

 人を褒めるのが苦手だ。

 本当にすごいとおもっていても、
「なんかおべんちゃら使ってるようでかっこわるいよな」
「『すごいですねー』って、上から褒めてるように受け取られるんじゃないかな」
「嘘くさいとおもわれそう」
とあれこれ考えてしまって、なかなか褒められない。

 本当におもっていても褒められないのだから、いわんや「おもってもいないのに社交辞令で褒める」なんてとうてい無理だ。


 その一方で、自分が褒められるとうれしいものだ。たとえお世辞が半分、いや百パーセントだとしても、「すごいですね」「頭いいですね」「おもしろいこと言いますね」と言われるとやっぱり悪い気はしない。

 だったら他人のことも褒めてやりゃあいいのに、と我が事ながらおもう。社交辞令だって、嘘くさくったって、褒められて悪い気はしないものなのだから。


 とはいえ、子ども相手なら素直に褒められる。

 たとえば三歳の娘がぬりえを見せてくれたとき。
「はみだしまくりだし、色づかいもむちゃくちゃだし、色調も汚いし、ひどいもんだな」と心の中ではおもうけど、それでも「うわーすごい! 上手だねー!」と褒めてあげる。照れも恥じらいもなく、全力で褒められる(さすがによその人がいる前ではやらないけど)。


 なぜ子ども相手なら全力で褒められるのか。

 それは、最初に挙げた「褒めるのをためらってしまう理由」を、子ども相手なら気にしなくていいからだ。


  おべんちゃら使ってるようでかっこ悪い

→ おべんちゃらではなく褒めて自信をつけさせる教育である。


  上から褒めてるように受け取られるんじゃないかな

→ そりゃそうだろ。三歳児相手に上から褒めて何がおかしい。


  嘘くさいとおもわれそう

→ 三歳児はそこまで見抜けない。


 てらいもなく褒められる。

 ということで、子どもをしきりに褒めていたら、大人相手にもちょっとは褒められるようになってきた。「すごいですね」「すばらしい」などと。何事も慣れだ。褒めるのが苦手な人は、子どもを育てたりペットを飼ったりするといいかもしれない。

 そういやアメリカ人はとにかく人を褒めるイメージがある。すぐにぐれーととかわんだほーとかまーべらすとか言う印象だ。あくまでイメージだけど。

 もしかして彼らは、周囲の人間をみんなガキんちょだとおもっているのかもしれない。



2022年3月30日水曜日

筋トレ発電

 フィットネスジムで発電できるようにしたらいいとおもう。

 ジムってものすごく無駄じゃん。エネルギーの無駄。なんせエネルギーを無駄にするためにみんな通ってるわけだもん。カロリー(=エネルギー)を消費するのが目的。

 SDGsだなんだと言われている時代に、こんなエネルギーの無駄遣いが許されていいのか! いいわけない。


 そこで発電ですよ。

 あいつらがバーベルを持ち上げたり、なんかがちゃがちゃやる器械を動かしたりするたびに、ちょっとずつ蓄電する。

 わかってる。そんなことしたって、得られる電力は微々たるものだ。たぶんジムに置いてある自動販売機分の電力量すらまかなえない。

 でも、問題は電力量じゃない。自分の行動によって何かを得た、という達成感だ。

 筋トレやってるほうだって身が入るとおもうんだよね。成果があったほうが。
「この運動をすれば〇cal消費」よりも、「本日のあなたのがんばりで電子レンジ10秒分の電力が得られました」とか「電気シェーバー30秒分まであとひとがんばりです」とかのわかりやすい指標があったほうがぜったいにいいとおもう。イメージしやすいもん。

 そして、必死に汗を流しても得られる電力量がわずかであることを思い知れば、「電気を大切に」という気持ちも自然と湧いてくるはずだ。

 使わないときは照明をこまめに消そう、アイドリングストップだ。なんせスクワット〇回分なんだもん。


 メリットは「発電できる」「省エネ意識が高まる」だけでない。

「あー今日ジム行くのだるいなー。あ、そうだ。テレビをいつもより五分早く消そう。これでジムでトレーニングしたのと同じ量のエネルギーを節約できたことになるわー」
という、〝自分への言い訳〟をひねりだしやすくなるのだ。



2022年3月29日火曜日

親孝行をしたくなるわけ

 月並みな話だけど、自分が親になって「親孝行しなきゃな」とおもうようになった。

 今できるいちばんの親孝行は孫の顔を見せること。
 なるべく、娘たちを連れて実家に帰ったりジジババと孫の食事会を開いたりしている(コロナでやりづらくなったけど)。


 ところで、「親孝行をしなきゃ」という心理はなぜ生じるのだろう。

 ぼくらが生きる目的は遺伝子を残すことだが、遺伝子を残すためであれば親に親切にしてもあまり意味がない。
 そのリソースを子育てに向けたほうがいい。自分の子や甥姪を大事にした方がいい(実兄・実姉の子の遺伝子は1/4が自分と同じだ)。

 しかし歳をとると親孝行をしたくなる。
 この心理はなんなんだろ。


 もちろん「親になってわかる、親の苦労」というのはある。

 でも、わかったところでもうどうしようもない。今さらぼくが孝行息子になったところで、さんざん苦労をかけた事実は変えられない。

 もっと早くに夜泣きをやめて、食べ物をわざとこぼすのをやめて、電車で大きな声で叫ぶのをやめて、家を出る前にどの服もいやだと言って泣きわめくのをやめて、自分の散らかした分だけでも自分で片付けて、学校に親が呼び出されるようなことをやめればよかったんだろうけど、もう遅い。全部やっちゃった。

 三十代のぼくはもう夜泣きをしないし、電車で大声で叫ばないし、食べ物はときどきこぼすけど自分で拾うし、部屋は汚いけどその汚さを甘受しているから親に掃除してもらうことはないし、職場で同僚とつかみあいの喧嘩をして親が呼び出されたことも今のところはない。
 だけどこれは親孝行じゃない。あたりまえのことだ。

 親の苦労を理解したところで、母の日や父の日に贈り物をしたところで、親の苦労はなかったことにならない。


「親孝行をしなきゃな」の背景にあるのは、罪悪感なのだろうか。

 さんざん迷惑をかけたうしろめたさがあるから、罪滅ぼしのために親孝行をしたくなるのだろうか。

 ちょっとは当たってるかもしれないけど、ちがう気もする。だったらもっと早く親孝行したくなりそうなものだ。子どもが生まれたこととは関係なく。


 うーん。

 子どもが生まれてから特に親孝行の意識が芽生えたということは、これは
「自分が将来親孝行されたいから、親孝行する」
じゃないだろうか。


 将来、子どもに見捨てられたくない。

 金銭的支援をしてほしいとか介護してほしいとまではおもわないけど、子や孫と良好な関係を築いていたい。何かあったときは助けあえる関係でいたい。死ぬときはできたら看取ってもらいたい。死んだ後もときどき思い出してもらいたい。

 だから、ぼくが親孝行をするのは、子どもに対して「親孝行のお手本」を見せているからだとおもう。
 我が子が将来親になったとき、おじいちゃん(つまりぼく)にはこう接するんだよ、という規範を示すために今、親孝行をしているのだ。

 そう、今ぼくは三十年後に〝親孝行〟を受け取るために、こつこつと〝親孝行貯金〟の積み立てをしているのだ。



2022年3月28日月曜日

【読書感想文】堤 未果『政府はもう嘘をつけない』 ~おもしろい話は要注意~

政府はもう嘘をつけない

堤 未果

内容(e-honより)
パナマ文書のチラ見せで強欲マネーゲームは最終章へ。「大統領選」「憲法改正」「監視社会」「保育に介護に若者世代」。全てがビジネスにされる今、嘘を見破り未来を取り戻す秘策を気鋭の国際ジャーナリストが明かす。


 次々に明かされる「意外な真実」。おもしろい、たしかにおもしろい。だが……。

 ぼくの頭の中で警鐘が鳴り響く。おもしろすぎる話は要注意だぞ、と。

 そういう目で見ると、この人の話はかなりあやしい。いや、大筋は事実なんだとおもう。でも細かいところを調べていないのが伝わってくる。


 この本に書かれている話は、ほとんどが伝聞だ。おまけに出典があやしい話も多い。〇〇はこう語る、みたいなたったひとりの証言をさも事実かのように書いてたり。たったひとりの証言でもあればまだマシなほうで、匿名の人物のコメントをもって「この裏のカラクリはこうなっている」と断じていたりする。

 そりゃあ取材源を秘密にしなきゃいけない事情はあるのだろうが、裏をとっていない話をそのまま鵜呑みにはできない。

 複数の人に話を聴いたり、立場の異なる人の意見を紹介したりはしていない。だが、この本をおもしろくしている。

 知に対して謙虚な姿勢をとっている本はおもしろくない。
「こんな意見もあります。それとは反対にこんな意見もあります。また別の〇〇だという人もいます。未来は△△になるという人もいますがもちろん未来のことは誰にもわかりません」
 こんな本はぜんぜんおもしろくない。
 堤未果氏や橘玲氏のように「〇〇は□□だ! なぜなら△△がこう言っているからだ!」とすぱっと断じたほうが読んでいて明快でおもしろい。橋下徹氏のような人が相変わらずメディアでもてはやされているのも同じ理由だ。不正確なことでも言い切ってくれる人、誤りを検証するよりも次々に目新しい説を呈示してくれる人のほうがおもしろいからだ。


 ことわっておくが、ぼくは堤未果氏の姿勢を批判しているわけではない。論文ならまだしも、知識の浅い人たちが手に取る新書、おまけにページ数も限られている。だったら深い考察や丁寧な検証よりも、キャッチーな言葉や断言でまずは興味を持ってもらうほうがいいかもしれない。

 だからこの本に向き合う姿勢としては、眉に唾をつけながら「こんな意見もあるんだ。他の人はどう考えてるんだろう」と考えるきっかけにするのがちょうどいい。

 実際ぼくもこの本をきっかけにアイスランドが経済破綻から立ち直った経緯について興味を持った。

 ただ問題なのは、この本に書かれているのは伝聞が多いので参考文献が少ないこと。せっかく興味を持ってもここから深掘りしにくいんだよなあ……。

 



 この本に限らず、堤未果氏が伝えているメッセージは一貫している。

 金の流れを見ろ、だ。
 ほんとに悪いのは政治家や官僚や経営者なのか? その裏で糸を引いているのは? 99%の人の暮らしぶりが悪くなる政策が推し進められるのは誰のためか?

 政治を批判する人は多いが、投資家を批判する人は少ない。政治を本当に動かしているのは政治家ではなく、彼らに資金を提供している連中ではないのか?

 彼らはやがて、資本主義が正常に機能する条件である「競争原理」を免れるための、素晴らしい抜け穴を発見した。
〈フェアに競争するよりも、規制する側に気前よくカネをつぎこみ、「政治」という投資商品を買うほうが、はるかに楽で効率が良いではないか〉
 政治家への献金額と企業ロビイストの数を大幅に増やし、規制は弱め、企業利益を拡大する法律をどんどん成立させるのだ。たっぷり献金した候補者が当選した暁には、自社の幹部を政権の中に入れさせ、法案設計チームや政府の諮問会議の重要メンバーに押しこんでゆく。任期を終えた政治家は企業ロビイストとして、元政府高官は取締役などの幹部として、優良条件で自社に迎え入れればよい。

 これはアメリカの話だが、当然ながらアメリカに限った話ではない。もちろん日本も同じだ。いや、もっとひどいかもしれない。

 国会議員に金を渡していいなりにすれば、都合の良い法律を作れる。法律を作れるということは、ゲームのルールを好き勝手に操作できるということだ。ルールを好きに変えてもいいサッカーをやるようなものだ。負けるはずがない。

 リーマンショックが起きた連中も、無茶なローンを推し進めた銀行の面々は結局責任をとらなかった。「Too big to fail(大きすぎて潰せない)」という屁理屈で、責任をとるどころか国から救済してもらった。もちろん、救済を決めたのは財界から資金提供を受けている議員たちだ。

 自分の作ったルールでゲームをやって勝った連中が「我々が勝ったのは実力のおかげだ。勝者はすべてを手に入れる権利がある」と言っているのが新自由主義だ。ええなあ。ぼくもそんな楽なゲームで勝利してでかい顔してみたいぜ。




 それから5年後の2015年5月。
 調査報道ジャーナリストのアンドリュー・ペレスとデイビッド・シロタの2人によって、ヒラリー・クリントン国務長官時代、彼女の財団にサウジアラビアから1000万ドル(約10億円)が寄付されていた事実が報道された。
 さらに、世界最大軍用機メーカーであり米国最大の輸出企業であるボーイング社からも武器輸出契約が締結される2カ月前に、10万ドル(約9000万円)というダイナミックな額の寄付金が振り込まれている。
 世界一の軍事大国であるアメリカ政府そのものが、超優良グローバル投資商品として想像を超えた価値を持っているのだと、ペレスは言う。
「サウジだけではありません。ヒラリーが国務長官だった時期、カタールやウクライナ、クウェートにアラブ首長国連邦など、20の外国政府が同財団に巨額の寄付をしています。その見返りに国務省が承認した武器輸出の総額は1650億ドル(約6兆5000億円)ですから、ものすごいリターンですよね。
 軍需産業だけじゃない、医療に保険に金融に石油、食料に農薬に遺伝子組み換え種子にハイテク産業……」

 2016年のアメリカ大統領選でドナルド・トランプ氏が勝利したとき、「あんな強欲そうな差別主義者を選ぶなんてアメリカ国民はアホなのか」とおもった。でも、こういった事情を知れば、また別の見え方が浮かび上がってくる。バラク・オバマもヒラリー・クリントンも財界から多額の寄付を受けていた。国民の味方のような顔をして清廉潔白なことを口では言うが、当選したら資金を援助してくれた金持ちのための政治をする。だったら、身銭を切って圧倒的に少ない資金で選挙活動をしているトランプのほうがアメリカのための政治をしてくれるんじゃないだろうか。多くの人がそう考えてもふしぎではない。ぼくも、『政府はもう嘘をつけない』を読んで「たしかにクリントンよりもトランプのほうがマシかも……」と考えた。

 なにしろ、大統領選でヒラリー・クリントンに献金された総額は1億8800万ドル、ドナルド・トランプは利益団体からの献金は拒否していたため献金は約2700万ドルだったそうだ。この数字だけ見れば、ドナルド・トランプのほうがよほど信頼できる人間に見える(それでもぼくはあの人を信頼できないけど)。




 日本の政治が悪いのは官僚が牛耳っているからだ、と言われていた。ほんの十年前までそんな話を聞いた。政治家が変わっても官僚は変わらない。官僚の力が強いからダメなんだと。

 ところが……。

 村上議員の言う「公務員法改正」(2014年4月の第186回国会で成立)は、約600人の省庁幹部人事を一元管理する「内閣人事局」を発足させ、これにより官僚幹部の人事には、全て首相官邸の意向が反映される仕組みになった。
 中央官庁の官僚にとって、出世競争の最終目標はトップである事務次官の椅子を得ることだ。通常は同期の中で事務次官になれるのは一人だけなので、横一列の中で皆が「あの(一番優秀な)人がなるだろう」と暗黙のうちに共有するという。
 ここに目をつけた賢い安倍政権は、早速、法律を変えて「最終人事権」を手に入れる。
 すると、どうだろう。それまでは皆が一番優秀だと認める一人が事務次官の座を手に入れるのが当たり前だった官僚たちの目の前で、全く新しい〈出世レース〉のゴングが鳴り響いたのだ。
〈もしかしたら、二番手の自分にも可能性があるかもしれない〉
 だが、そこには条件がつく。
〈人事権を握る官邸に気に入られれば〉
 TPPや税制など幅広い分析を続ける経済評論家の三橋貴明氏は、官邸が〈人事権〉を握ったことで、官庁内の空気は180度変わったと指摘する。
「これが全てを変えてしまいました。それまで官邸が進めるTPPや農協改革に反対していた一部の農水官僚たちまでが、手のひらを返したように推進に回ってしまったのです」

 官僚の力が弱くなってどうなったか。もっとひどくなった。官邸におもねって黒を白と言う人間ばかりが重宝されるようになった。

 大事なものはなくなってから気づく。「誰がやっても同じ」は日本の政治の欠点ではなく、長所だったのだと。憲法も知らない人間が総理大臣になったとき、誰も止める人間がいなくなるのだと。


 ぼくも昔は「政治システムは悪いことだらけだ。変えないと」と信じていた。

 だが、ここ二十数年政治を見てきて、ドラスティックに変えたものがことごとく悪い結果を引き起こしたのを目にした。長く使われているシステムは、たとえ不合理に見えたとしてもそれなりに有用なものなのだ。もちろん時代にあわせて微修正をくわえていく必要はあるが、大幅な改革は99%悪い結果を引き起こす。
 そりゃそうだ。修正に修正を重ねてきた現行制度と、誰かが頭の中でおもいついた改革案のどっちがいいかなんて、「現チャンピオン」と「デビュー戦のボクサー」が戦うようなものなのだから。

 どんな政治家がいいのか、どんな政治システムがいいのかなんてのは人類にとって永遠の課題だが、「劇的な改革を主張する人間を信用してはいけない」ってことだけは間違いない真実だ。一新とか改革とか維新とかは耳障りがいい言葉を並べる人ね。


【関連記事】

【読書感想文】「今だけ、カネだけ、自分だけ」の国家戦略 / 堤 未果『日本が売られる』

【読書感想文】少年Hにならないために / 堤 未果 中島 岳志 大澤 真幸 高橋 源一郎『NHK100分de名著 メディアと私たち』



 その他の読書感想文はこちら


2022年3月25日金曜日

オリジナルのトランプゲーム

 娘といっしょに考案したトランプゲーム。




【準備】

・基本は2人対戦。3~4人でもできるが、駆け引き要素が薄れてしまうのでおすすめは2人。

・各スートの1~6のトランプ合計24枚をシャッフルし、表向きに6×4に並べる。

・各スートのキングを裏返しにし、1枚ずつ選ぶ。自分だけがこっそり見て、伏せておく。


【進行】

・6×4に並べたトランプから1枚選び、タテヨコに隣り合うカードに重ねてゆく。


例) 上段右から2番目のAを、右の4に重ねたところ。

 A  3  4  5  A  4 
 2  4  5  6  6  2 
 A  2  4  5  3  3 
 2  A  6  3  5  6 

 ↓

 A  3  4  5     A 
 2  4  5  6  6  2 
 A  2  4  5  3  3 
 2  A  6  3  5  6 

 

・これを交互にくりかえす。すでに重なっているカードを動かすときは、すべてのカードもいっぺんに動かす。

・重ねられるのは、1つ隣のカードにだけ。下の図のようになっている場合、右上のAはもう動かすことができない。

 A  3  4  5     A 
 2  4  5  6  2    
 A  2  4  5  3  3 
 2  A  6  3  5  6 

・動かせるカードがなくなったら終了。


【得点計算】

(最終の形)

   ♠A         ♡A 
       ♢5      
    ♡5          
 ♢A   ♠3      ♠3 

・重なっている枚数が得点となる。得点は、いちばん上のカードのスートのキングの持ち主に与えられる。
 右上のハートは2枚重なっているので、ハートのキングの持ち主に2点が与えられる。

・さらにボーナスとして、重なっているカードの中にいちばん上のカードと同じスートがあれば、そのカードに書かれている数字がプラスされる。
 ハートのAの下にハートの4があれば、2点(枚数得点)+4点(ボーナス)で、6点となる。いちばん上のカードはボーナスの対象外。

・合計得点の多いほうが勝ち。
 20点とればまず勝てる。両者低調なら10点ぐらいで勝つこともある。




 某カードゲームのルールを読んだとき、「これならトランプで代用できるな」とおもい若干修正を加えた。

 八歳の娘と何度かやったが、なかなかおもしろい。ぼくの勝率は6割ぐらい。
 子ども相手に本気でやってもいい勝負になる。(ぼくが子どもとゲームをするときのポリシーとして『ハンディをつけるのはいいがわざと負けることはしない』というのがある)

 このゲームで勝つために必要なことは、

・相手のスートを見抜き、相手が得点をとるのを妨害する

・相手に気づかれぬよう、さりげなく自分の得点を増やす

である。
 序盤に自分のスートを見抜かれてしまうと、もう勝ち目がない。

 なので、慣れてくると前半はわざと自分のものではないスートに得点をとらせるなど、相手を攪乱するための動きが必要になる。ところが、相手を欺くために自分のではないスートに得点を与えたところそれが相手のスートだった、なんて悲劇も起こりうる。こうなると、相手の得点は増えるし欺くこともできないし、いいことなしだ。

 そこで、裏の裏をかいてあえて目立つように得点をとりにいく……なんて戦略も生まれる。駆け引きやハッタリが重要となる。


 運も多少は影響するが、「相手のスート」以外の情報はすべて開示されているので、運の要素は小さい。「いかに相手の心理を読むか」で勝負は決まる。

 ポーカーよりもずっと駆け引きの要素が大きいので、心理戦が好きな人なら楽しめるゲームだとおもいます。


2022年3月24日木曜日

【コント】勝負

「やんのか」

「あ? やんのかコラ」

「おお、やったろやないか。先に言っとくけど、負けたらおまえらのメンバーからひとり差しだせよ」

「おうええぞ。その代わり、こっちが勝ったらひとり連れていくからな」

「誰連れていく気やねん」

「あいつじゃ」

「あいつって誰やねん」

「ちょっと待っとけ。こっちの仲間と話し合うから」

「おうええぞ」



「よっしゃ、決まった」

「おう、こっちも決まった」

「おまえ、こっちに来い」

「あ? おまえこそこっち来いや」

「勝負すんぞ」


~~~~~~~~~~~


「かーってうれしい はないちもんめ♪」

「まけーてくやしい はないちもんめ♪」



2022年3月23日水曜日

【読書感想文】藤田 知也『郵政腐敗 日本型組織の失敗学』

郵政腐敗

日本型組織の失敗学

藤田 知也

内容(e-honより)
日本郵政グループは、二〇二一年に郵便事業の創業から一五〇年を迎えた。従業員四〇万人を超える巨大組織は「腐敗の構造」にはまって抜け出せずにいる。近年では、かんぽ生命の不正販売、内部通報制度の機能不全、ゆうちょ銀行の不正引き出しと投信販売不正、NHKへの報道弾圧、総務事務次官からの情報漏洩と癒着など、数多の不祥事が発覚した。一連の事象の底流にあるのは、問題があっても矮小化し、見て見ぬフリをする究極の「事なかれ主義」だ―。スルガ銀行や商工中央金庫による大規模な不正事件など、金融業界の不祥事を追及してきた朝日新聞の記者が、巨大グループの実態にメスを入れる。

 日本郵政は、郵政民営化を受けて2006年に設立された巨大企業グループだ。主に、日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険からなる。

 2018年、NHKの『クローズアップ現代+』が、かんぽ生命保険が不正な契約をくりかえしおこなっていることを報道した。当然ながら被害者の声に基づくものだったが、かんぽ生命側は改めるどころか報道を否定してあろうことかNHKに抗議をおこない、圧力をかける(後に番組の内容は正しかったことが判明する)。その後の調査で、かんぽ生命は10万件以上の不正契約をおこなっていたことが明らかになった。

 日本郵政グルーブが2019年7月以降に調査した過去5年分の契約には、次のようなものが含まれていた。

・不必要な保険料上昇
  新旧契約の保障内容が同じで、保険料が上がっている=約2万件
・不合理な乗り換え
  乗り換えの必要がなく、特約の変更などで対応できた=約2万5千件
・引き受け謝絶
  旧契約を解約後、病歴などの理由で新契約加入が拒まれた=約1万9千件
・保険金支払い謝絶
  乗り換え後の新契約時の告知義務違反で、保険金が払われなかった=約3千件

 こうしたことが明らかになっても、「顧客が納得した上での契約変更なので問題ない」という言い訳に終始したり(誰が好きこのんで不利になる契約に切り替えるんだ)、個人の問題として処理したり、ごまかしを続けた。

 そりゃあ日本郵政は巨大組織だから一定数おかしなことをする職員が混ざるのはしかたない。とはいえ10万件以上の不正な契約が起こっていたら誰がどう見ても組織の在り方に問題がある。

『郵政腐敗』は、日本郵政がおこなっていた不正、そしてその後の対応を事細かに調べ上げた渾身のルポルタージュ。いい本だった。そして読んでいてため息しか出ない。日本郵政の腐敗っぷり、そしてそれを守ろうとする政府のダメダメっぷりに。




 不正や失敗はどの組織にでも起こりうることだが、日本郵政が特にまずいのはその後の対応だ。

 日本郵政グループでは、坂部の事例でもわかるように、客観的にみて不正の疑いが濃い場合でさえ、郵便局員がしらを切って否認すれば、「シロ(無実」とみなす運用がなされていた。これは「自認主義」と呼ばれ、保険勧誘に限らない傾向とみられる。そうした前例を目の当たりにすれば、現場で不正がバレそうになっても、まずは否認しようと考えるのが自然な原理だ。
 保険会社は、法令違反があれば金融庁に届け出ることを保険業法で義務づけられている。しかし、かんぼが不正と認定さえしなければ、届け出る必要はない。自認主義は、かんぼや日本郵便にとって都合のいい対処法だったに違いない。
 不正と認めることには極めて後ろ向きである一方で、顧客から強く抗議されると、「配慮が足りなかった」などと口実をつけ、保険料を返すハードルは低くしていた。「合意解除」や「無効」と呼ばれる手法を駆使し、契約はなかったことにすると同時に、顧客には口外しないよう約束もさせていた。じつに抜け目のないやり方ではないか。

 もはやオレオレ詐欺集団だよね。年寄りに付け入って金を騙しとり、不正を指摘されても「金さえ返せば文句はないだろ」という態度。

 なまじっか「郵便局」というブランドがあるのがよくないんだろうね。郵便局なら変なことはしないだろう、という信用があるから。「郵便局」の名前は剥奪したほうがいいんじゃないのかね。

 不正に関与したとして懲戒処分を受けた現場の郵便局員数は、2020年11月30日時点で1173人。懲戒解雇は25人、停職が13人で、残りは減給、戒告、訓戒などだ。
 一方、懲戒処分された局員の上司への処分は499人。ほぼ全員が「実態把握が不十分」「指導が不十分」といった処分理由で、訓戒や注意といった軽めの処分で済んだ。日本郵便の説明では、数人が「パワハラ」やその関連で停職や減給などの処分を受けたが、部下の不正を「知っていた」と認めた上司はゼロ。翌月に1人だけ認めた郵便局長が現れたというが、処分を受けたほぼ全員が「不正があるとは知らなかった」と主張していることになる。
 郵政グループはこれとは別に、日本郵便・かんぽの両社長を含む本支社幹部378人の処分を2020年7月に発表した。両社の担当幹部339人は戒告などの懲戒処分、執行役員39人は厳重注意・報酬減額の処分とした。こちらも「実態把握の遅れ」や「対応の不十分さ」が処分理由で、「まさか不正が横行しているとは思わなかった」という前提は同じだ。
 特別調査委員会のアンケートで、不正を自白した郵便局員の7割が「上司も知っていた」と訴えたことと比べても、処分の前提となる〝事実〟が間違っているのではないか。

 10万件の不正があったのに、上司は誰ひとり「部下の不正を知らなかった」。そんなわけあるかい。直属の上司が責任をとらない。当然ながらもっと上の上司は責任を素知らぬ顔。

 不正を隠す、不正を指摘した人を守るどころか逆に罰する、下に詰め腹を切らせて上は逃げおおせる。日本政府がよくやるやつだ。内閣がこれをやるのを何度見たことか。

 この本を読む限り、日本郵政が今後立ち直ることは二度とないだろうなとおもう。自浄作用があればこんなことにはなってないのだから。ここまで隅々まで腐敗した組織は、もはや誰かの努力によって立て直すことはできない。柱も屋根も壁も全部が腐っている家は、一度解体して再建築するしかない。たぶん誰がトップになったって無理だろう。打つ手としたら、政府・公共機関が半数以上を所有している株を全部手放すことしかないんじゃない? そしたらつぶれるだろうけど、それが唯一の解決法だとおもう。東電もそうだけど、国に支えてもらえるかぎりはなんともならないだろう。


 特に日本的なのは、立場が上の奴ほど責任をとらないこと、組織が大きくなるほど責任を取らないことだ。

 ふつうに考えれば末端の悪さよりも上層部の悪さのほうがより悪質だし、巨大組織の不正のほうが影響が大きい分より大きな問題だ。

 だが小さな会社であればつぶれるような不正であっても、郵政や電力会社のような巨大機関であればなぜか国から助けてもらう。国が積極的に不正を赦しているわけだ。年寄りから騙しとった日本郵政も、嘘をついてずさんな原発運営をしてきた東京電力も、法律を守らない電通も、「この会社をつぶすと替えがきかない」という理由で軽い罰で済ませてどんどん国の仕事をまわしてあげる。替えがきかないような大事な仕事であれば、なおさらのこと不正機関にやらせるのではなく他の組織に仕事を回さないといけないのに。

 これぞまさに「日本型組織の失敗学」。日本の組織のダメなところが全部出たような失敗例だ。といっても他の国の組織の特徴なんてよく知らないんだけど。

 とりあえず郵便局に金を預けるのはぜったいにやめとこう。


【関連記事】

【読書感想文】「絶対に負けられない戦い」が大失敗を招く/『失敗の本質~日本軍の組織論的研究~』

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』



 その他の読書感想文はこちら


2022年3月22日火曜日

【読書感想文】芹澤 健介『コンビニ外国人』

コンビニ外国人

芹澤 健介

内容(e-honより)
全国の大手コンビニで働く外国人店員はすでに四万人超。実にスタッフ二十人に一人の割合だ。ある者は東大に通いながら、ある者は八人で共同生活をしながら―彼らはなぜ来日し、何を夢見るのか?「移民不可」にもかかわらず、世界第五位の「外国人労働者流入国」に日本がなったカラクリとは?日本語学校の危険な闇とは?丹念な取材で知られざる隣人たちの切ない現実と向き合った入魂のルポルタージュ。


 コロナ禍で減ったが、少し前はコンビニで働く外国人をよく見た。というより、ぼくの住んでいる大阪市だと外国人店員のほうが多いぐらいだったかもしれない。

 そんな「コンビニで働く外国人」を切り口に、日本で生活・労働をおこなう外国人の現状や問題点について調べたルポルタージュ。

 もっともこの本の刊行が2018年で、コロナ前とコロナ後ではすっかり社会が様変わりしてしまったので今とはちがう面もちらほらあるけどね。




 コロナ禍で数が減ったとはいえ、今の日本には外国人労働者が大勢いる。彼らなくしては社会が成り立たないといってもいい。

 たとえば、早朝のコンビニでおにぎりをひとつ買うとしよう。具は「いくら」でも「おかか」でも何でもいい。その物流行程を逆回転で想像してみてほしい。
 おにぎりを買ったレジのスタッフは外国人のようだ。
 その数時間前、工場から運ばれてきたおにぎりを検品して棚に並べたのも別の外国人スタッフだ。
 さらに数時間前、おにぎりの製造工場で働いていたのも六~七割が外国人。日本語がほとんど話せない彼らをまとめ、工場長や各部署のリーダーからその日の業務内容などを伝えるスタッフも別の会社から派遣された外国人通訳である。
 そして、「いくら」や「おかか」や「のり」の加工工場でも多くの技能実習生が働いている。
 さらにその先の、米農家やカツオ漁船でも技能実習生が働いている可能性は高い。


 ぼくは移民受け入れに賛成だ。どんどん受け入れたらいい。というか、今の日本は「移民受け入れますか? それとも社会崩壊を選びますか?」という二択の状況なのだ。賛成も反対もない。

 それでも「日本は単民族国家」ファンタジーを信じている人々にとっては、移民はなかなか受け入れがたいものらしい。現実と空想の区別がつかないアホとしかおもえないのだが、問題はそのアホどもが政治的に大きな力を持っていることだ。

 というわけで「アホどもの眼をなんとかごまかしつつ、移民を受け入れる政策」が必要になる。

 しかし、これまで見てきたように、事実として日本で働く外国人の数は増えている。外国人の流入者数を見れば、すでに二〇一四年の時点で、経済協力開発機構(OECD)に加盟する三十四カ国(当時)のうち日本は世界第五位の「移民流入国」だという報告もある。
 にもかかわらず、政府は「移民」を認めていない。
 政府の方針をわかりやすくいえば、「移民」は断じて認めないが外国人が日本に住んで働くのはOK、むしろ積極的に人手不足を補っていきたい、ということだ。
 むしろ外国人に人手不足を補ってもらうための制度は多く、政府はこれまで「EPA(経済パートナーシップ協定=経済連携協定)による看護師・介護福祉士の受け入れ」や「外国人技能実習制度」、「高度外国人材ポイント制」、「国家戦略特区による外国人の受け入れ」、「留学生三十万人計画」といったプロジェクトを押し進めてきた。 

 移民を受け入れないと社会が破綻する。でもアレな人向けには、移民は受け入れていないことにしない。

 そこで、「出稼ぎ労働者を留学生として受け入れる」「外国人技能実習制度という名目で実質的に移民を受け入れる」という嘘をつく。実態は変えずに名前だけ変える。なんとも日本政府らしいこずるい発想だ。

 そもそもが嘘からスタートしているから、ごまかしが横行する。「稼げるよと言って外国人を集めてるのにいざ日本に来てみたらおもうほど就労できない」「技能実習制度なのに母国に持ち帰るようなスキルが身につかない」となり、ツケを被るのは日本に来た外国人だ。

 韓国は移民を積極的に受け入れ、政府が入国やら就業状況やらをきちんと管理しているそうだ。はじめから「移民」ということにすればきちんとチェックできるけど、日本は嘘で集めているから、外国人が働きつづけようとしたら「逃げて不法移民として働く」「犯罪に手を染める」しか道がなくなる。政府が犯罪者を生みだしているのだ。

 とはいえ、日本にいる外国人の数は増えているのに、外国人の犯罪件数は減っているそうだ。一部の人が持っている「外国人が犯罪をする」というイメージは過去のものになりつつある。まあもともとファンタジーなんだけど。




 日本にいる外国人は優秀だ。アルバイトをしている外国人を見ているとつくづくそうおもう。自分が外国のコンビニで働けるかと考えたら、彼らがどれだけすごいことをしていたかと思い知らされる。

 とはいえ、接客の仕事の中ではコンビニは外国人にとってかんたんなほうだそうだ。たしかに仕事の内容は多いけど、客に対して話す言葉はある程度決まっている。「袋はいりますか」とか「お箸はおつけしますか」とかいくつか覚えればだいたい済みそうだもんね(宅配便とか振込とかはたいへんそうだけど)。

 だが正社員として就職する道はまだまだ険しい。

 日本の就職活動は独特だ。
 留学生に聞くと、「エントリーシートを日本語で手書きで書くのはすごく大変」だし、「SPI(新卒採用の適性テスト)が難しすぎるし、面接のときの言葉遣いも難しい」という。
 NODEではこうした留学生の意見を汲み上げ、採用する側にも伝えていくという。しかし、このように留学生の立場になって就職支援をしてくれる会社はきわめて稀だろう。実際、ASEAN人材の採用支援に特化した会社は日本で唯一ということだ。
 説明会に来ていたタイ人留学生の言葉が印象的だった。「日本で就職するのは本当にたいへん。スーツも靴も高かった。説明会に行く交通費も高いです。日本で働きたいという希望はありますが、日本のシステムのなかで自分が働くことができるかすこし心配です」

 政府は「留学生三十万人計画」を押し進めている一方、留学生の就職のケアまでは行っていない。将来も日本で働きたいという希望者をみすみす国に帰してしまっている。
 本来は国家レベルでのトータルな対処が必要なのではないだろうか。

 あーあ。もったいないなあ。くだらない慣習で優秀な人材を逃しているなあ。まあ外国人にかぎった話じゃないけど。

 採用担当者や経営者の話を聞くことがあるけど、いまだに「採ってやる」みたいな意識の人が多いからね。若い人はどんどん少なくなってるのに。まだ「たくさんいる中からちょっとでも悪いところを探してふるい落とす」感覚なんだよね。育てる気がない。




「コンビニで働く外国人を切り口に日本にいる外国人の問題を読み解く」切り口はおもしろかったけど、後半はコンビニとほとんど関係なかったのが残念。

 あと気になったのが、「二〇三五年には三人に一人が高齢者という超高齢化社会になる」という記述。この認識は遅すぎ。「超高齢社会」の定義は人口の21%以上が高齢者である社会。日本が超高齢社会になったのは2007年だ。2035年には超超超高齢社会ぐらいじゃないかな。


【関連記事】

【読書感想文】移民受け入れの議論は遅すぎる / 毛受 敏浩『限界国家』

【読書感想文】高野 秀行『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』



 その他の読書感想文はこちら


2022年3月21日月曜日

インデックス型記憶と映像型記憶

 多くの読書好きと同様、ぼくも小説を書いてみたことがある。

 そして多くの人と同様、すぐに挫折した。


 書けない理由はいろいろあるけど、特にだめなのが風景描写だった。

 考えてみれば、自分が小説を読むときも風景や事物の描写はほとんど読み飛ばしている。車がどんな色でどんなデザイン、登場人物が何を身につけているか、まるで興味がないのだ。

 そりゃあ「貧乏人なのに高級車に乗っている」とか「現代人なのにちょんまげをしている」なら目を止める。それらはきっとストーリー展開に影響を及ぼす情報だからだ。
 ただ、金持ちが高級そうなスーツを着ているとか、成功者が瀟洒な邸宅に住んでいるとか、探偵がよれよれのトレンチコートに身を包んでいるとかはどうでもいい。


 もちろん、そういった描写が小説を奥行きのあるものにしていることはわかる。「金持ちの男」と書くよりも、乗っている車や身に着けているものを描写することで裕福さを伝えるほうが、ずっとリアリティのあるものになることも理解できる。

 ただ、ぼくが個人的に興味があるのが〝情報〟なのだ。

 5W(いつ、どこで、誰が、誰に、何を)には興味があるが、1H(どんなふうに)にはあまり関心がないのだ。

 関心がない。だから書けない。


 小説にかぎった話ではない。

 誰かの話を五分聞いた後に
「どんな話をしていたか、かいつまんで説明してください」
と言われたら、難なくできる。

 でも、
「今の人がどんな服を着ていたか説明してください」とか
「さっきの人はどんな声でしたか」
と訊かれたら、まるで答えられないだろう。それらはぼくにとってまったく興味のない情報だからだ。


 ところが、世の中には逆の人もいる。たとえばぼくの妻がそうだ。

 いっしょに映画を観たりすると、ディティールを驚くほどよくおぼえている。誰がどんな服を着ていたとか、どんな音が聞こえていたかとか、ディティールをよくおぼえている。台詞を一字一句正確に再現できたりもする。

 しかし彼女は要約が苦手だ。
 彼女が観た映画のストーリーを説明してくれることがあるが、すごくわかりづらい。本筋と関係のない些細な情報が多いのだ。「黄色い服を着た人が……」なんて言うので「この情報が後で何かにつながるのだな」とおもって聞いていたら、ぜんぜん関係なかったりする。


 おもうに、情報の整理のしかたが異なるのだろう。

 ぼくは、情報を加工しながら記憶する。得た情報のうち、自分にとって重要だとおもったものだけをインデックス(目録)化して脳に入れる。だから関心のないことはまったく記憶にない。その代わり、はじめから情報を整理しているので要約はすんなりできる。

 妻はというと、見たり聞いたりした情報をそのまま脳に格納しているのだろう。録画型だ。だから細部までおぼえている。その代わり索引をつくっていないので「かいつまんで説明する」が苦手だ。

 世の中の人の記憶のしかたは、だいたいこの「インデックス型」と「録画型」に分かれるんじゃないだろうか。ま、中には「そのまんま記憶するけど整理もできる人」や「どっちもできない人(断片的にぐちゃぐちゃにしか記憶できない人)」もいるんだろうけど。


【関連記事】

くだらないエッセイには時間が必要/北大路 公子『流されるにもホドがある キミコ流行漂流記』【読書感想】



2022年3月18日金曜日

万引き小学生

 小学校のとき、同じクラスにAという女の子がいた。Aは四年生ぐらいで転入してきて、卒業と同時ぐらいに転校していった。目を惹くような外見でもなく、話しかけたら返事をするぐらいの活発さで、これといって印象に残るような子ではなかった。Aは眼鏡をかけていたのでぼくは「おとなしい子」という印象を持っていた。小学生にとっては「眼鏡をかけている女子=おとなしい」なのだ。ばかだなあ。


 それはそうと、Aが転校していってから一年ぐらいたったときのこと。
 中学生になっていたぼくは、Aと仲の良かったIという女の子としゃべっていた。どういう流れだったかは忘れたけど、Aの話になった。

 Iが言った。

「知ってる? Aって万引き常習者だったんやで」

 ぼくは驚いた。えっ。だってAだよ。眼鏡かけてたんだよ(まだ「眼鏡=まじめ」とおもってる)。

「あの子、毎日のように万引きしててんで。Aの弟も万引きしてたし。親から万引きしてこいって言われて」

「まさか」

 まさかAが、と言えるほどAのことを知っていたわけではない。
 ぼくがその話を信じられなかったのは、Aが、というよりそもそも「そんな親がいるわけがない」とおもったからだ。

 人の親が、我が子に向かって「万引きしてきなさい」と命じるはずがない。
 中学生のぼくは本気でそうおもっていた。

 まだピュアだったのだ。
 親は子に正しい道を教えるもの、そして眼鏡をかけている女の子はまじめ。当時のぼくはまだ純粋に信じていたのだった。


 だけど今は知っている。

 我が子に万引きを命じる親がいるということを。そして、眼鏡をかけている子がおとなしい子ばかりではないことを。


【関連記事】

【映画鑑賞】『万引き家族』




2022年3月17日木曜日

出木杉の苦悩


もちろん、おもしろくないですよ。

いや、もっと率直に言うと、不愉快ですね。

こないだは小さくなって宇宙戦争をしてましたよね。その前はタイムマシンで恐竜時代を冒険ですか。その前は、月世界の探検でしたっけ?

ええ、みんな観てますよ。劇場でね。

そうなんです。ぼくはいっつも後から知らされるんです。野比くんから。ぼくたちドラえもんといっしょにこんなすごい冒険をしてきたよ、って。
ぼくは誘ってもらえずに、後から聞かされるだけです。

この気持ちわかりますかね。
野比くんならちょっと考えれば容易に想像できるとおもうんですけどね。彼はいっつも骨川くんから自慢されて、そのたびに悔しい思いしてるんだから。でも彼にはドラえもんがいる。悔しいと言えば、その悔しさを解消してくれる道具を出してもらえる。だけどぼくはただただ悔しがるだけです。

ええと、『のび太の結婚前夜』でしたっけ。
あの作品の中で、しずかちゃんのパパが言ってましたよね。野比くんについて、「あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ」って。
ぼくに言わせれば、あんなの嘘っぱちですよ。ぼくが冒険に参加させてもらえずに悲しい思いをしているとき、野比くんがぼくの気持ちを想像して悲しんだことがありますか? 自分だけが世界中の不幸をしょいこんだみたいな顔をして、ぼくみたいな子の不幸については想像してみることすらしないんだ。


自分でいうのもなんですが、ぼくは人一倍知的好奇心の強い子どもだとおもいます。宇宙、過去の世界、海底、地底。どれもとても興味がある。ぜひドラえもんといっしょに探検してみたい。行けば、得るものもいっぱいあるとおもう。はっきりいって、野比くんたちよりずっと多くのことを学べると自負している。

なのにぼくは誘ってもらえない。


いや、いいんですよ。誰を誘おうと彼の自由ですから。

でもね、ぼくは都合のいいときだけ利用されるんです。宿題を見せてほしいとか、むずかしいことを教えてほしいとか。

『のび太の大魔境』観ました? あの映画で、謎の巨像がある場所はヘビー・スモーカーズ・フォレストだと気付いたのは誰だか知ってますか? そう、ぼくです。

『のび太の小宇宙戦争』観ました? 冒頭でジオラマ撮影をしますよね。あそこで知恵を出して映画のクオリティを高めたのは? そう、ぼくです。

決してぼくは貢献してないわけじゃない。それなのに、いざ冒険となるとぼくは誘ってもらえない。それが許せないんです。

そのくせ、連中ときたら映画ではすぐに「仲間は見捨てておけない!」とか「友だちを放ってはいけないよ!」とか口にするでしょ。ぼくのことは見捨てておいて。あれ、どの口が言うんでしょうね。連中にしたらぼくなんて友だちじゃないってことなんですかね。なーにが「あの青年は人の不幸を悲しむことができる人だ」なんですか。


ぼくが許せないのは、彼が己の非情さに気づいてすらいないことなんですよ。そうやって、利用できるときだけクラスメイトを利用しておいて、用が済んだら切り離して、それで勝手に地球代表を名乗るんじゃないよって話ですよ。


だいたいね。メンバー選出もどうかとおもいますよ。

しずかちゃんはわかりますよ。好きな女の子を誘いたいって気持ちは理解できます。
骨川くんもまあいいでしょう。なんといっても彼には財力がありますからね。実際、『小宇宙戦争』なんかは彼のラジコンがなければどうしようもなかったわけですし。
理解できないのは、剛田くんですよ。いっつも野比くんをいじめてるじゃないですか。それなのに冒険には誘ってもらえる。そして「映画のジャイアンは男気があっていいやつ」だなんて言ってもらえる。ヤンキーがたまにいいことをするとものすごく褒められて、ふだんから品行方正な人間は評価してもらえないのと同じですよ。みんな何もわかっちゃいない。

自分で言うのもなんですが、あんな粗野な男をメンバーに入れるぐらいならだんぜんぼくを入れたほうがいいですよ。ぼくが、このぼくが、剛田以下だっていうんですか!




2022年3月16日水曜日

【コント】お金をくれる人

「あげるよ」

「えっ。なにこのお金」

「なにって……。一万円だけど」

「いやそういうことじゃなくて……。えっと、おれおまえに金貸してたっけ?」

「借りてないけど」

「だよね。じゃあなんで」

「なんでって……。あれ、もしかしてお金嫌い?」

「嫌いじゃないけど。大好きだけど。嫌いな人なんていないだろ」

「じゃあいいじゃん。もらっとけば。かさばるものでもないし」

「いやいやいや。もらえないよ」

「なんでよ。お金好きなんでしょ」

「お金は好きだけど、こんなよくわかんないお金もらえないよ。怖いよ」

「あーたしかに福沢諭吉ってちょっといかめしい顔してるもんな」

「そういうことじゃなくて。この状況が怖いって言ってんの。いきなりこんな大金渡されたって受け取れないよ」

「じゃあいくらなら受け取ってくれるの」

「いくらとかじゃなくて、百円でも嫌だよ。理由なく渡されたら。まあ十円ぐらいなら受け取るかもしれないけど」

「じゃあとりあえず十円渡しとくわ」

「いやいいって。なんでそんなにお金渡したがるかがわかんないんだけど」

「なんでそんなにお金を受け取ろうとしないのかがわかんないんだけど」

「え、この状況でおかしいのおれのほう!?」

「そりゃそうだよ」

「なんでよ」

「だってさ、おまえはお金が好きなんでしょ。よく金ほしーとか今月金欠だわーとか言ってるじゃない」

「言ってるけど」

「だからどうぞって言ってるの。それで受け取らないほうがおかしいでしょ。定食屋でうどんくださいって言って、うどん運ばれて来たらいりませんって言うようなもんじゃない」

「いやそのたとえは違うくない? おれはおまえから金ほしいって言ってるわけじゃないから」

「じゃあ誰からほしいのよ」

「誰ならいいとかじゃなくて」

「あ、わかった。おまえ、おれが金貸そうとしてるとおもってる? だから嫌がってるんだろ。大丈夫、これは貸すわけじゃなくてあげる金だから。ぜったいに返せとか言わないから」

「だからそれが怖いんだって。借りるほうがまだいいよ」

「なんでよ。もらうより借金のほうがいいなんておまえ変わってるな」

「変わってるのはおまえのほうだよ」

「なんで怖いの。あ、もしかしてこの金と引き換えになにか要求されるとおもってるんでしょ。後からとんでもないお願いされるかも、って」

「あーそうかも。だから怖いのかも」

「大丈夫だって。ほんとにただあげるだけ。恩を売るつもりもないし。こうしよう、おれがおまえに一万円あげて、そのことをお互いに忘れよう。それならいいでしょ」

「忘れられるわけないだろ。こんな異常な事態

「なんで受け取ってくれないかなあ」

「なんでそんなにおれにお金くれようとするわけ。あ、もしかして宝くじ当たったとか万馬券当てたとか? 幸せのおすそ分け的な?」

「いやべつに」

「こんなこと聞いちゃわるいかもしれないけど……。もしかして宗教の教えとか? 喜捨しなさい、みたいな」

「おれがそういう不合理なこと嫌いなこと知ってるだろ」

「だよなあ。でも、理由もないのに友だちにお金あげるほうが不合理じゃない?」

「おいおい。おれは不合理なことは嫌いでも、人としての情はあるの。
 たとえば、おまえが十個入りのチョコレートを食べてるとするよな。そこにおれが来たとする。おまえはどうする?」

「一個どう? って訊くよ」

「そう。それがふつうの人間の感覚なんだよ。だからおれが十万円持ってたら、おまえに一枚どうぞって言うのが人としての常識なんだよ」

「なるほどな……。ん?  いやいや、やっぱりおかしいって。その例でいうならさ、チョコレートどうぞって勧めて、いりませんって言われてるのに無理やり押しつけようとしてるようなもんじゃん。それはやっぱりおかしいよ」

「まったく、ああ言えばこう言う……。それは本心からチョコレートをいらないとおもってる場合でしょ? そこで無理に勧めるのはたしかにおかしいよ。だけどさ、おまえの場合はお金好きなわけじゃん。そしてお金ダイエットをしているわけでもない」

「なんだよお金ダイエットって。お金減量中です、なんて人いないだろ」

「つまりおまえは遠慮してるわけだよ」

「まあ遠慮といえば遠慮かな……」

「だったら無理やりにでも押しつけてあげるのが優しさだろ。さ、受け取れよ」

「嫌だってば。おまえから一万円渡されたって受け取れないよ」

「じゃあ誰ならいいわけ?」

「誰であっても知り合いからもらうのは嫌だよ」

「じゃあ知らない人ならいいわけ?」

「もっと嫌だよ。知らない人からいきなり一万円渡されるとか、怖すぎるだろ」

「知ってる人からもらうのは嫌、知らない人も嫌。なのにお金ほしいってどういうことだよ?」

「うーん……。わかった、理由がないのが嫌なんだ。貸してた金を返してもらうとか、労働の対価とか、理由があれば受け取るよ、ぜんぜん

「こないだおまえ『あー、どっかの金持ちがぽんと十億円ぐらいくれないかなー』って言ってたじゃん」

「あれは冗談。実際にはもらうべき理由がないのにお金渡されたら怖いよ」

「そんなもんかねえ。でもさ、こないだミナモトさんが四国に旅行行ってきたからってお土産のお菓子買ってきたとき、おまえももらってたじゃん」

「もらってたよ」

「なんでよ。もらうべき理由がないじゃん」

「あれはお土産じゃん」

「だからなんでよ。ミナモトさんが休みの日に四国に行ったこととおまえにどんな関係があるの? おまえがミナモトさんの旅費出したの? だったらわかるけど」

「いやそうじゃないけど。でもほら、お土産ってそういうもんだから。特に理由なくてももらうもんだから」

「じゃあおれもこないだATMに行ってきたから、そのお土産としておまえに一万円あげるよ」

「だからそれはおかしいじゃん」

「なんで? お土産なら理由なくてももらうんでしょ」

「だからそれは……。
 ああ、もういいや。この件で議論するの疲れたわ。もらう、もらうよ。その一万円もらうよ」

「もらってくれるのか」

「ああ」

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

「どういたしまして。で、おまえに折り入って頼みがあるんだけど……」

「やっぱり! やっぱりそうきた! でもちょっと安心した! ちゃんと理由のある金でよかったー!」


2022年3月15日火曜日

【読書感想文】白石 一郎『海王伝』

海王伝

白石 一郎

内容(e-honより)
海賊船「黄金丸」の船頭・笛太郎は明国の海賊・マゴーチの本拠地であるシャムのバンコクに赴く。そこで笛太郎はマゴーチが実父であることを知るが、異母弟を殺してしまったことから、親子の宿命的な対決が始まる―。笛太郎は海の「狼」から「王」へ変わることができるのか?直木賞受賞作「海狼伝」衝撃の続編。

『海狼伝』がおもしろかったので、続編『海王伝』にも手を出してみた。

 前作では津島~瀬戸内海あたりが舞台だったが、今回の舞台は琉球、シャム(タイ)。話のスケールとしては大きくなったが、正直、物語のおもしろさはトーンダウンしてしまったように感じる。

 というのは、『海狼伝』が笛太郎やその仲間の成長を描いていたのに対し、『海王伝』のほうは成長後を描いているからだ。

 『海狼伝』冒頭の笛太郎は何者でもなかった。海女のために船を出してやるだけの男であり、その仕事すら満足にできず海女からもばかにされる始末。そんな男が海に出て、半ば強制的に海賊の仲間に入れられ、囚われの身となって命からがら救われたり、口と商才だけが達者な男の下について借り物の船ではあるが海賊になり、そして幾多の戦いを経て船づくりの天才を味方につけ、ついに自分たちの船を完成させ、中国に向けて出航する……。なんとも波乱万丈な物語だった。

 一方の続編『海王伝』はすでに成熟してしまっている。そんじょそこらの海賊には負けない立派な船があり、笛太郎はお頭であり、戦いに慣れた仲間もいる。これではなかなか血沸き肉躍る冒険にはならない。中盤以降のONE PIECEといっしょで「はいはいどうせ絶対絶命のピンチになっても最後はルフィがボスをぶっとばして宴なんでしょ」と冷めた目で見てしまう。

 だからだろう、『海王伝』では牛太郎という新しいキャラクターの話から始まる。牛太郎は獣が好きなせいで罠にかかった獣を勝手に逃がしてしまい、村八分を食らっている男だ。この男も、昔の笛太郎のように何者でもない。この男が村から追いだされるようにして逃げ出し、初めて目にする海に出ることになる……。というオープニングは、こちらの期待を十分に高めてくれるものだった。

 しかし牛太郎が笛太郎と出会ってからは、いたって平和そのもの。他の船との戦闘になってもどうも緊張感がない。黄金丸(笛太郎たちの船)が強くなりすぎてしまったのだ。

 どおんと後方で大筒の音がした。
 三郎が振り返ると、大型ジャンクが遥か後ろから黄金丸の船尾をめざして来ている。しかし黄金丸のあざやかな上手回しの旋回に慌てたらしく、大型ジャンクと黄金丸の距離は先刻より遠く離れていた。
 上手回しの回頭は詰め開きともいい、最も難しい操船術だ。
 ずんぐりしたジャンクの船体では、むりに上手回しをやると、前進力を失って操船に苦しむ。
 大型ジャンクの場合がそれだった。とつぜん大旋回した黄金丸の櫓走に戸惑い、自分も櫓走に切替えて風上へ向ったが、回頭に失敗したのだ。

  海戦の描写は相変わらずすばらしいんだけどね。海や船のことがさっぱりわからなくても、なんかふしぎと説得させられるんだよね。




 笛太郎の目的のひとつが「父親・孫七郎に会う」だ。その孫七郎ではないかと疑われるのが明の海賊・マゴーチだ。この巻ではついにマゴーチに出会う。

 はたしてマゴーチは本当に笛太郎の父親なのか、そしてふたりはどうやって向き合うのか……。

 引っ張って引っ張って単純な「感動の父子の再開」にはなるまいなとおもっていたら、なんとこういう展開とは。なるほどなあ。
 余韻を残す終わり方もなかなかしゃれている。

 これはこれでおもしろかったんだけど、『海狼伝』がおもしろすぎたので、期待を上回ることはできなかったかなあ。やっぱり一番魅力的だったキャラクターである小金吾が前作のラストで死んじゃったのが残念。彼を主人公にした話を読みたいぐらいだ。


【関連記事】

【読書感想文】白石 一郎『海狼伝』 ~わくわくどきどき海洋冒険小説~



 その他の読書感想文はこちら


2022年3月14日月曜日

ツイートまとめ 2021年11月



筋肉は裏切らなかった。これまでは。

SDGs

時空のゆがみ×2

帝国

コンビニなぞなぞ

習慣

耳たぶ

ズトバク

按分

人の心

現場主義

偏差値

イヤ系

からっぽ

祖母のあだ名

計略

人生の半分

夢を買う

昔の映像

尾崎豊

2022年3月11日金曜日

父親に、あのとき言わなくてよかった言葉

 父親に対して、あのとき言わなくてよかった言葉がある。


 大学を卒業して、親の反対を押し切って小さい会社に就職し、しかしとんでもなくブラックな会社だったために(日をまたぐ残業があたりまえ、給与も求人票の内容とまったく違う)一ヶ月で辞めた。

 事前の相談もなく「もう辞めたから」と告げると温厚な父親もさすがに怒り、電話で「何考えてるんだ!」と怒鳴られた。
 怒られることは想定していたものの「今からでも頭を下げて元の会社に戻れないか」なんてことを言ってくるものだからこちらも「おまえに何がわかるんだ」と頭にきて口論になり、

「会社に長く勤めることに価値があるとおもってんのか? もうそんな時代じゃないんだよ。自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」

という言葉が口をついて出そうになった。が、すんでのところで思いとどまった。




 父は会社大好き人間だった。朝早くに起きて仕事に向かい、夜遅くに帰ってくる。ぼくが子どもの頃は、平日に父と顔をあわせるのは朝だけだった。土日も接待ゴルフに出かけることが多かった。

 家は自社の製品であふれ、阪神大震災があったときは対応業務で何週間も家に帰ってこない日が続いた。

 会社に命じられるまま関西から転勤もした。エジプト、東京、横浜。すべて単身赴任だった。

 父はそこそこの役職を得ていたようだが、五十歳を過ぎて、子会社へ出向することになった。ぼくは大会社に勤めたことがないが「五十歳を過ぎて子会社へ出向」が栄転でないことはわかる。

 当時大学生だったぼくは「あんなに仕事に人生を捧げてたくせに、子会社に飛ばされてやんの」とうっすら小ばかにしていた。親の金で大学に通っておきながら。なんて生意気なガキだ。




 あれから十数年。

 ぼくもそれなりに働いて給料を稼いでいる。何度か転職をしたが、今の業種で十年以上やっているし、結婚して子どもも生まれて、一応父親を安心させることができたとおもう。

 仕事を続けるたいへんさもわかった。

 そしてつくづくおもう。

 あのとき「自分だって長年勤めてきた会社から捨てられて子会社に出向になったくせに!」と言わなくてよかった、と。

 ぎりぎりのところで胸にしまっておいてよかった、と。


 あの言葉を口にしていたら、父子の間に一生消えないヒビができていただろう。

 父が家族との時間も削って仕事に打ちこんでいた理由のひとつは、月並みな言い方になるが「家族のため」だろう。妻子の生活を守るため懸命に働いたし、転勤を命じられたときは子どもたちに負担をかけぬよう単身赴任を選んだのだろう。

 ぼくは「父は仕事大好き人間だ」とおもっていたけれど、仕事を辞めたくなる日もあったはずだ。
 それでも辞めなかった理由のひとつは、子どもがいたからだろう。


 仕事に打ちこむことで家庭を守ろうとした人が、その家族から「会社から捨てられたくせに」なんて言われたらどうなっていただろう。

 あやうくぼくは、彼のぜったいに傷つけてはいけない場所を傷つけてしまうところだった。つくづく、言わなくてよかった。




 ただ、あのときぼくが口にしかけた「会社に長く勤めることに価値がある時代じゃない」については、今でも正しかったとおもう。

 でも、やっぱり言わなくてよかった。正しかったからこそ、余計に。


2022年3月10日木曜日

【読書感想文】ヴィトルト・リプチンスキ『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』

ねじとねじ回し

この千年で最高の発明をめぐる物語

ヴィトルト・リプチンスキ(著)  春日井 晶子(訳)

内容(e-honより)
水道の蛇口から携帯電話まで、日常生活のそこここに顔を出すねじ。この小さな道具こそ、千年間で最大の発明だと著者は言う。なぜなら、これを欠いて科学の精密化も新興国の経済発展もありえなかったからだ。中世の甲冑や火縄銃に始まり、旋盤に改良を凝らした近代の職人たちの才気、果ては古代ギリシアのねじの原形にまでさかのぼり、ありふれた日用品に宿る人類の叡智を鮮やかに解き明かす軽快な歴史物語。

「この千年で最高の発明は何か」について考えていた著者は、身近な道具の歴史についての調査を進め、最高の発明は「ねじとねじ回し」ではないかとおもいいたる。

 そして様々な文献を読みあさり、ねじとねじ回しの誕生、そして進化、それらがもたらした影響について考察を進めてゆく……。

 と、なんともマニアックな題材の本。


 以前、アンドリュー・パーカー『眼の誕生 ―カンブリア紀大進化の謎を解く―』という生物に眼が誕生した経緯を追い求めるノンフィクションを読んだことがあるが、なんとなくその本を思いだした。

 我々はあたりまえのように眼から情報のほとんどを獲得しているが、眼のような複雑な器官がどうやって誕生したのかを考えるとじつに不思議だ。さらに角膜や水晶体や脳の視覚をつかさどる部分などどれが欠けてもまともに機能しない。なぜ生物は「できかけの眼」を持つにいたったのか、それともそれらが同時発生的に誕生することなどあるのだろうか?

 ……眼の話になると長くなるので気になる人には『眼の誕生』を読んでもらうとして『ねじとねじ回し』の話に戻る。

 たしかに、生まれたときからあたりまえのように身近にあったので今までねじやねじ回しについてじっくり考えたことがなかったが、言われてみればよくできた道具だ。

 ねじ穴にねじをつっこみ、ねじ回しでくるくる回す。それだけなのにものとものががっちり固定される。多少はゆるむこともあるが、おもいっきり締めればたいてい十年はもつ。それでいて、反対側にまわせばゆるんではずせるのがすごい。

 精密機械にも使われているし、大きな橋を見るとあちこちにボルトがつけられていたりもする。あんな巨大なものでもねじで支えられているのだ。見たことはないけど、きっとロケットや宇宙ステーションにだってねじは使われてるんじゃないだろうか。

 おまけにねじのすごいのは、もうほとんど完成しているところだ。数十年前からねじの形状はまるで変わっていない。そりゃ細かい修正はあるのだろうが、形状は百年前となんら変わらない。

 そういや『ドラえもん』に、ドラえもんのねじが一本はずれて調子が悪くなるというエピソードがあった。22世紀のロボットにもねじが使われているのだ。

 電動ドライバーなるものもあるが、あれも人の手がやる部分を電気の力でやっているだけで、ねじとねじ回し部分はなんら変わっていない。

 よく考えたら、すごいぞねじ。「この千年で最高の発明」という称号も決しておおげさではないかもしれない。




 本筋とはずれるが、すごいのはねじだけではない。

 この本には、他のすごい発明品も挙げられている。そのひとつが、洋服のボタンだ。

 ところが一三世紀に入ると、突如として北ヨーロッパでボタンより正確には――ボタンとボタン穴――が出現した。この、あまりにも単純かつ精巧な組み合わせがどのように発明されたのかは、謎である。科学上の、あるいは技術上の大発展があったから、というわけではない。ボタンは木や動物の角や骨で簡単に作ることができるし、布に穴を開ければボタン穴のできあがりだ。それでも、このきわめて単純な仕掛けを作り出すのに必要とされた発想の一大飛躍たるや、たいへんなものである。ボタンを留めたりはずしたりするときの、指を動かしたりひねったりする動きを言葉で説明してみてほしい。きっと、その複雑さに驚くはずだ。

 単純な仕組みでありながら、そして技術的にはさほど難しくないにもかかわらず、人類が何千年もおもいつかなかったボタン。

 穴に、糸のついたものを通してひっかける。たったこれだけのことで、服が脱げたりずれたりするのを防いでくれるし、それでいて脱ぎたいときにはすんなり脱げる。言われてみればすごい発明品だ。

 誰かがボタンを発明したとき、きっと周囲の人たちは「どうしてこんなかんたんなことを思いつかなかったんだ!」と悔しい思いをしただろうなあ。




 正直言って、「ねじとねじ回しの発明」という本題はあまりおもしろくなかった。

 最大の理由は、図解が少ないこと。ねじがどんなふうに進化してきたかを一生懸命説明してくれているのだが、こんなのはどれだけ筆を尽くしても伝わらない。がんばって説明しようとしているのはわかるが、ぜんぜんわからない。一枚の図解があれば伝わるのに……。

 結局、どんなふうに誕生したのかはよくわからなかった。最後の最後でアルキメデスの名前が出てきたときは「おお、こんなところにまで登場するとはさすがはアルキメデス! 」と興奮したけど。

 まあぼくがねじに興味がないからおもしろくなかっただけで、ねじ大好き! 四六時中ねじのことばかり考えています! というねじファンが読めば楽しいんじゃないでしょうかね。


 今すでにある発明品について、なんとなく「遅かれ早かれ誰かが発見した」とおもってしまう。

 ところが筆者によると、必ずしもそうではないらしい。

 天才技師は、天才芸術家ほど世の中から理解されないし、よく知られてもいないが、両者が相似形をなす存在であることに間違いはない。フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE・M・バタイユはこう述べている。「発明とは、科学者の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、なにかを作り出すことなどできないからだ」たとえば、セザンヌが存在しなくても誰か別の画家が同じようなスタイルの絵を描いただろうと言われても、多くの人は納得しないだろう。その一方で、新しいテクノロジーは登場すべくして登場したのだ、それは必然の結果だったのだと言われれば、たしかにそうだと納得してしまう。だが、この一○○○年で最高の工具を探し求めるうちにわかってきたのは、それは違う、ということだ。

 発明品には、世界各地で別々に発明されているものがある。たとえば文字は、あらゆる場所でそれぞれ無関係に発明された。だからルーツの異なる文字が何種類もある。

 だが、たったひとりの発明家によって発明されて、それが世界中に伝わったものもある。たとえば、さっき書いたボタン。もし十三世紀にボタンが発明されていなかったら……ひょっとすると二十一世紀の今でもボタンが存在していないかもしれない。いまだに紐でぐるぐる縛っていた可能性もある。

 一部の発明品は「遅かれ早かれ誰かが発明していたさ」とは言えないのだ。

 ということは。

 いまだに我々は、ボタンのようで「ごくごく単純な仕組みでありながら超便利な発明」をおもいついていない可能性がある。

 二十六世紀の人々から「二十一世紀の人たちってヌローズでエネルギーを作る方法すらおもいつかずに石油や原子力で一生懸命発電してたらしいよ。ばかだねー」なんて言われているかもしれない。


【関連記事】

【読書感想文】ぼくらは連鎖不均衡 / リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』

【読書感想文】ライアン・ノース『ゼロからつくる科学文明 ~タイムトラベラーのためのサバイバルガイド~』



 その他の読書感想文はこちら


2022年3月8日火曜日

【映画感想】『のび太の宇宙小戦争 2021』

『のび太の宇宙小戦争 2021』

内容(映画.comより)
国民的アニメ「ドラえもん」の長編映画41作目。1985年に公開されたシリーズ6作目「映画ドラえもん のび太の宇宙大戦争(リトルスターウォーズ)」のリメイク。夏休みのある日、のび太が拾った小さなロケットの中から、手のひらサイズの宇宙人パピが現れる。パピは、宇宙の彼方の小さな星、ピリカ星の大統領で、反乱軍から逃れて地球にやってきたという。スモールライトで自分たちも小さくなり、パピと一緒に時間を過ごすのび太やドラえもんたち。しかし、パピを追って地球にやってきた宇宙戦艦が、パピを捕らえるためのび太たちにも攻撃を仕掛けてくる。責任を感じたパピは、ひとり反乱軍に立ち向かおうとするが……。

 劇場にて、八歳の娘といっしょに鑑賞。もともと2021年公開のはずが、コロナ禍で1年延びて今年公開となった。配信にしてくれたらいいのに、とおもうが、劇場の都合など考えるとそんな単純な話でもないのだろう。


 1985年版『のび太の宇宙小戦争』の映画は観ていないが、大長編コミックを持っていたのでストーリーはよくおぼえている。

『のび太の宇宙小戦争』はドラえもん映画の中でも好きな作品のひとつだ。特に、「ドラえもん映画にしては出木杉の出演シーンが多め」「ドラえもん映画では脇役にまわりがちなスネ夫としずかちゃんが活躍する」のがいい。

 だが、好きな映画だからこそリメイクをすると聞いたときは若干の心配もあった。


 ドラえもんの映画は、エンタテインメントに徹しているものもあれば、やたらと説教くさいものもある。環境保護だとか他の生物との共生とか。当然ながらおもしろいのは前者のほうだ。メッセージなんて観た人が好き勝手に受け取るものであって、製作者が押しつけるものではない。

 なので『宇宙小戦争』も、一時のドラ映画のように「センソウ、イケナイ。ヘイワ、ダイジ」的なメッセージ性の強いものに改悪されていたら嫌だなーとおもいながら劇場に足を運んだのだが、心配は杞憂だった。

 原作の魅力はそのまま残し、劇場版ならではの迫力は倍増。さらに登場人物の内面もより深く掘りさげられ、それでいながらスピード感があるので説教くささは感じさせない。とにかくわくわくさせてくれた。

 ウクライナで戦争が起こっている今だからおもうことはいろいろあるが、それについては書かないでおく。あくまでこれはドラえもんの映画。子どもを楽しませるための映画なのだ。現実の政治や戦争を語るために利用すべきではない。




『宇宙小戦争』がいいのは、ドラえもんが道具をちゃんと使えることだ。

 以前にも書いたが、ドラえもんの映画ではドラえもんの道具使用が制限されることが多い。ポケットがなくなったり、ドラえもんが精神異常になったり。
 そりゃあドラえもんの道具はほぼ万能だから封じたくなる気持ちはわかるが、この〝ハンデ戦〟をやられたら観ているほうとしたら興醒めだ。「はいはい、登場人物を窮地に陥れるために道具を使えなくしたのね」と、製作者の意図が透けてしまう。ピンチをつくるために無理やり道具を使えなくする。ご都合主義の反対、不都合主義とでも呼ぶべきか。ドラえもんの道具を封じたら、

 だが『宇宙小戦争』ではスモールライト以外の道具は問題なく使える。スモールライトを使えなくなる理由もストーリー的にまったく不自然でない。

 ちなみに昔『宇宙小戦争』を読んだときは「ビッグライトで戻ればいいじゃん」とおもったものだが、今作ではその解決法を封じるために「スモールライトで小さくなったものはスモールライトでないと戻れない」という設定をつけくわえている。

 ドラえもんがスモールライト以外のすべての道具を使えるのに、それでも敵わない。だからこそ敵の強さが伝わってきて、観ている側はどきどきする。『魔界大冒険』もそうだった。安易に道具の使用を制限しないでほしい。




 出木杉の活躍

 旧作『宇宙小戦争』の序盤は、出木杉が大いに活躍した。スネ夫たちが特撮映画を撮影するにあたって、のび太の代わりに出木杉を仲間に入れる。すると出木杉は次々にすばらしいアイディアを出し、映画のクオリティはどんどん上がる……。

 ところがリメイク版でははじめから出木杉が仲間に入っている。そこにドラえもんが道具を貸すことで、さらにクオリティが上がる……というストーリーだ。これは残念だった。出木杉がドラえもんの引き立て役になってしまっている。

 旧作のスネ夫の技術に出木杉の知恵が加わることですばらしい映画ができあがっていくシーンはほんとにわくわくしたのに。ドラえもんが道具を貸したらいいものができあがるのはあたりまえじゃん。足りない分を知恵で解決するところが特撮映画の魅力なのに。なんでもかんでもドラえもんの道具を使えばいいってもんじゃないぞ。

 また、「出木杉が塾の合宿に行った」という設定がつけくわえられ、途中で完全に出木杉は姿を消す(ラストシーンでだけ再び顔を出す)。これも、出木杉ファンのぼくとしては残念でならない。
 でもこれはよく考えたら出木杉に対する優しさだな。なんせ旧作では「途中まで仲間だった出木杉が何の説明もなくのけものにされる」んだもの。それに比べれば「塾の合宿があるから誘えない」という今作はずっと優しい。


 スネ夫の活躍

 やはり『宇宙小戦争』はスネ夫の活躍抜きには語れない。というより、本作の主役はスネ夫だといっていいだろう。リメイク版ではスネ夫の出番が減るどころか、より多くスネ夫にスポットライトが当たっていた。

「ジャイアンは映画では性格が変わる」とはよく言われるが、いちばん変わるのはのび太だ。特に最近の映画でののび太は、勇敢で意志が強くて行動的なスーパーヒーロー。原作ののび太は「何をやらせてもダメ」だからこそ多くの子どもに愛されるのに、映画版のび太は大谷翔平のような超人だ。まったく共感できない。

 のび太も、ジャイアンも、しずかちゃんも、とにかくまっすぐだ。一度自分のやるべきことを決めたら一切の迷いもなく突っ走る。
 そこへいくと人間・スネ夫は迷い、悩み、反省し、考える。自分の正しさをも疑うことができるのがスネ夫だ。『のび太の月面探査記』でも、唯一臆病さを見せていたのがスネ夫だった。

 ぼくが信用できるのはスネ夫のような人間だ。なぜなら多くの人間と同じだからだ。もちろんぼくもそうだ。

 行動に一切のためらいのない人間は信用できない。全力疾走する人間はたまたまいい方向に走ればすばらしい結果を生むこともあるが、まちがった方に向かえばとんでもない悲劇を生む。正しさなんて誰にもわからない。みんな自分が正しいとおもっているのだから。ヒトラーだってポル・ポトだって毛沢東だってプーチンだって、みんな自分は正しいとおもって一生懸命がんばってたんだぜ。

 戦争を始めるのが映画版のび太のような人間で、戦争を防ぐのがスネ夫のような人間なのかもしれない。

 だって、パピが言っていることが真実だとどうしてわかるの? もしかしたらあっちが多くの人を殺した大悪党なのかもしれないよ? 遠い星で起きた内戦で、どちらが正しいかなんて地球にいるのび太に判断できるわけがないよね。
 それなのに、一方の言い分だけを鵜呑みにして加勢するなんて怖すぎる……。


 いや、これ以上はやめておこう。ぼくはなにものび太たちの行動にケチをつけたいわけではない。子ども向けエンタテインメント映画なのだから、わかりやすい正義VSわかりやすい悪でいい。悪役はとことん悪くていい。生まれながらの悪で、四六時中悪いことを考え、いいことはひとつもせず、悪いことをするためだけに悪事をはたらく。そんなやつでいい。悪党にとっての信念だの道を踏み誤った背景だのはいらない。
 じっさい、『宇宙小戦争』の敵であるギルモア将軍はそんなやつだった。だからおもしろかった。

 ただ、自分がスーパーヒーローになれないとわかったおっさんとしては、どうしてもスネ夫に肩入れしてしまうんだよね。ほんとはよその星の戦争なんかに参加したくないのに周囲に流されてついていってしまうスネ夫、ついていったはいいもののやはり怖くなってしまうスネ夫、戦う決心をしたもののいざ敵を目の前にすると足がすくんでしまうスネ夫、身の危険がないとわかると調子づいて戦うスネ夫……。なんて人間くさいんだ。

 今作は、スネ夫の人間的魅力が存分に発揮された作品だった。


 ドラコルル

 大ボスであるギルモア将軍は卑怯で、心が狭く、猜疑心の塊で、思考が単純で、そのくせ自信家で、どうしようもない敵だった。

 その点、ギルモア将軍の部下であるドラコルル長官はじつに魅力的な悪役だった。大長編ドラえもん史上「最弱にして最強」とも呼ばれているらしい。地球人ならかんたんに踏みつぶせるほどの小さな身体でありながら、その知恵と計略でスモールライト以外の道具を使えるドラえもんたちを追い詰める。決して敵を侮ることはなく、常にあらゆる可能性を想定し、どんなときでも落ち着いて思考し、行動する。

 彼は敵だけでなく、上司であるギルモア将軍を疑うことも忘れない。おそらく自分自身をも完全には信じていない。またドラえもんたちに追い詰められた後は「我々は敗れたのだ」と潔く負けを認め、ギルモア将軍のように保身のために逃走したりもしない。かっこいい男だ。もし彼がパピよりも先に地球にやってきてのび太と出会っていたら……。ピリカ星はまた違った運命を迎えていたかもしれない。


 前作とリメイク版との違い

 前作を最後に読んだのは二十年以上前だから記憶を頼りに書くが……。


・出木杉の活躍シーンの減少

 これは前に書いたとおり。残念。


・ウサギがぬいぐるみが横切るシーンの削除

 パピの初登場、スネ夫と出木杉が推理をくりひろげるシーンがまるっと削除。これにより、出木杉の活躍シーンがさらに減ってしまった。


・パピの姉・ピイナの存在

 原作には存在しなかったキャラクター・ピイナ。これはゲスト声優を出演させるための大人の事情ってやつなんだろうな。原作ではしずかちゃん以外に女の子が登場しないから。

 はっきりってピイナはいてもいなくてもほとんどストーリーには関係ないポジション。パピ大統領の子どもっぽい一面がかいまみれる、ぐらいのはたらきしかない。「ピイナとしずかちゃんの顔が似ている」設定も、だからなんだって感じだし。

 大人の事情はわかるとしても、無理やり新キャラをねじこむぐらいなら出木杉の活躍シーンを残しておいてほしかったぜ。


・その他細かいシーン

 果敢に戦うしずかちゃんを、それまで隠れていたスネ夫が助けるシーン。たしか原作でのスネ夫の台詞は「女の子を危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」だったと記憶しているが、今作では「君ひとりを危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」になっていた。これは当然、時代に即した修正。

 ラスト近く、逃げるクジラ型戦闘機にジャイアンが馬乗りになるシーン。原作ではジャイアンが服を脱いで戦闘機にかぶせて目隠しをしていたのだが、なぜか今作では服を脱がなかった。特に問題があるシーンとはおもえないが……。
 やっぱあれかね。男の子であっても小学生児童の乳首が見えるのはまずい、という配慮なのかね。そのわりにしずかちゃんの入浴シーンはしっかり残っていたが……。



 
 前作の良さを存分に残しているので、前作ファンにも楽しめる。もちろん前作を知らない人はもっとおもしろいにちがいない。娘も大満足だった。

 ただ一箇所だけ、ぼくは気になったところがある。

 すごく細かい揚げ足取りで申し訳ないけど、ドラえもんたちが戦車に乗っているシーン。ずっと画面隅に戦車のバッテリー残量らしきものが写っているのだがそれがどのシーンでもずっと残量90%だった。

 どうでもいいのだが、どうでもいいところだからこそずっと気になってしまった。


【関連記事】

【映画感想】『のび太の月面探査記』

【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』

【読書感想文】たのむぜ名投手 / 藤子・F・不二雄『のび太の魔界大冒険』


2022年3月7日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ宇宙大旅行』『ズッコケ結婚相談所』『謎のズッコケ海賊島』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第五弾。

 今回は12・15・16作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら


『ズッコケ宇宙大旅行』(1985年)

 子ども向け、特に男子向けのフィクション作品には定番ジャンルがいくつかある。昆虫、戦国、恐竜、乗り物、幽霊、推理など。そのひとつに「宇宙」がある。

 ということで定番の「宇宙」を題材にしているのだが、さすがは那須正幹先生、安易に宇宙人を登場させたりはしない。アメリカのUFO研究機関の蘊蓄を並べたり、バードウォッチングをしたところ奇妙な音がカセットテープに録音されることから磁力線が発生していることに気づいたり、これでもかと説得材料を並べ立てている。このあたり、非常に理屈っぽい。はっきりいってUFOの歴史や定義など子どもには難解でいまいち伝わらないとおもうんだけど、きっと著者自身が書かずには納得できないのだろうな。児童文学だからといって細部まで手を抜かない矜持を感じる。

 ただ、設定がしっかりしていることが裏目に出たのか、宇宙をテーマにしているわりにはこぢんまりした印象だ。「大旅行」といいながら宇宙に行っているのは数時間だけだし、小宇宙船と母船の中をうろうろしているだけで、他の星に行くわけでもない。

「敵」が出てきて頼みの綱の宇宙人がやられて……とスリリングな展開になりかけたところで、あっさり「敵」の正体がゴキブリだと判明。

 地球人をはるかに上回る科学力を持っているのに、防疫システムだけはザル。他の星に行って動植物をサンプルとして採集し、それを自分たちの食糧といっしょに保管しておくなんて、バカすぎるだろ宇宙人。

 バルサンでやられる「敵」、UFOの形状や内部構造、宇宙人の姿などどれも「漫画で見た通り」な感じで、全体的にチープさが否めない。


 ……とおもいきや。

 エピローグで明らかになる、意外な事実。

 あーなるほどー。宇宙人やUFOがあまりにもステレオタイプだとおもったらこういうわけかー。このどんでん返しは見事。
 うまいことやったね。宇宙人やUFOの描写っていろんな人が試みてるから、既視感があるものになっちゃうもんね。かといってあまりに新奇なものにすれば少年読者がついていけないし。「地球人にも理解できるように」かつ「地球人の想像も及ばないようなもの」という正反対の要求を見事にこたえる、すばらしい逃げ道、じゃなくて解決法だ。

 ぼくが小学生のときにもこの本を何度か読んだはずだけど、ゴキブリ退治のくだりは印象に残っているが、エピローグはまったく記憶に残っていなかった。小学生にはちょっと難しいオチだったかもしれない。当時はあんまり好きな作品じゃなかったしな。
 小学生のときと大人になってからで大きく評価が変わった作品だ。

 似たようなメタなオチは、後の作品『ズッコケ文化祭事件』でも使われてて、そっちはよくおぼえてるんだけどなあ。



『ズッコケ結婚相談所』(1987年)

 ズッコケシリーズの話の導入には大きく二種類あって、「三人組がおもわぬ事件に巻きこまれる」型と、「三人組(特にハチベエ)が行動を起こして周囲を巻きこんでいく」型がある。

 前者は『探偵団』『探偵事務所』『山賊修行中』『時間漂流記』『恐怖体験』『宇宙大旅行』などで、後者は『探検隊』『心霊学入門』『事件記者』『児童会長』『株式会社』『文化祭事件』などだ。
 好みはあるだろうが、ぼくはだんぜん後者のほうがおもしろい作品がおおいとおもう。

 殺人事件に遭遇したり、幽霊に憑りつかれたり、宇宙人と出くわしたりする導入だと終始「お話」感がついてまわるが、「学校の壁新聞を作るための取材をはじめたら……」「子どもだけで会社を作ったら……」といった導入には「あるいは自分も同じような体験をできるかも」とわくわくさせてくれたものだ。

 で、この『ズッコケ結婚相談所』である。これは典型的な「三人組の行動が周囲を巻きこむ」パターンの話だ。

 女子小学生の自殺を伝える新聞記事、という異様に暗いシーンから物語が幕を開ける。ズッコケシリーズの中でも、いや全児童文学をさがしても、ここまで陰鬱なシーンからスタートする物語は他にそうないだろう。

 新聞記事を読んだハチベエは顔も知らぬ女子小学生の死に心を痛め、同じ境遇にある小学生を救うために何かできることはないかと知恵を絞る。で、おもいついたのが「子ども電話相談室」の開設。

 このあたりはコミカルに描かれているけど、すばらしい行動力だ。いきなり全員を救うことはできなくても、まずは近くの子どもに手を差し伸べる。自分にできる範囲の小さなことをやる。こうした小さな行動の積み重ねがやがて世界を変える。かもしれない。

 しかしそんなハチベエ先生の奮闘むなしく、ハチベエはクラスの女子から嘘の相談を持ちかけられてまんまと騙され(このいたずらはほんとにひどい)、ハカセはヒステリックな母親から説教され、「子ども電話相談室」はあえなく終了することに。

 そして後半はうってかわって、モーちゃんのお母さんの再婚話が主題となる。

 この作品は、前半と後半でまったく別の作品だ。そしておもしろいのは断然前半だ。「周囲を巻きこんでいく」型の前半と、「巻きこまれる」型の後半なので当然かもしれない。


 児童文学で親の離婚、再婚をテーマに据えた意欲は買いたい。今の時代でも挑戦的だと感じるのだから、三十年以上前の出版当時は相当新しいチャレンジだったのだろう。

 意欲的な作品なのは事実だが、物語としておもしろいかというとそれはまた別の話。

 親の離婚や再婚って子どもからすると人生を大きく左右する一大事件でありながら、自分が介入できる余地は少ないんだよね。納得いかなくても、親の決定に従う以外の道はないんだから。

 だから母親の再婚話に直面したモーちゃんは大いに悩むし、それを知ったハカセやハチベエも親友のために東奔西走するけれど、子どもたちが悩んだり話し合ったところで事態は変わらない。なのでずっと空回り感はぬぐえない。

 モーちゃんの行動が母親の最終的な決断に影響を与えたのはまちがいないけど、あくまで要因のひとつ。「あの行動がこの結果につながったかもしれないし、無関係かもしれません」では、読み終わった後の爽快感は得られないなあ。

 モーちゃんの気持ちがいまいち伝わってこないのもマイナス。ずっとうじうじ悩んではいるけど、それは父親に対するものだけで、母親に対する思いはまったくといっていいほど書かれていない。子どもにとっては母親って絶対的な存在なわけじゃん。母子家庭だったら余計に。その母親が再婚するかもしれない、って自分のアイデンティティが揺さぶられるぐらいの出来事だとおもうんだけど、モーちゃんがそこについて戸惑っている描写がぜんぜんない。
 モーちゃんは過去との決別のために実父に会いに行くわけだけど、どっちかっていったら「物心ついてから一度も会ったことのない父さん」よりも「生まれたときからたった一人だった母さんがよその人と結婚する」のほうが重要事項だとおもうのだが。そこを書かないのは片手落ちじゃないだろうか。

 試みはおもしろかったけど、このテーマをエンタテインメントにするのはむずかしいよなあ。


『謎のズッコケ海賊島』(1987年)

 モーちゃんが食べるものがなくて困っているおじさんを助けてあげたところ、後日そのおじさんから海賊の宝のありかを示したメモを渡される。そしてはじまる宝探し、暗号解読、小島の洞窟探検、そして悪者の登場……。

 と、定番要素をぜんぶ詰めこんだ王道すぎる冒険譚。大人の目から見ると、王道すぎて逆に退屈なぐらい。手塚治虫の初期作品(貸本時代)にこんな話がよくあったなあ。つまり1987年当時でもすでに新しくない。

 しかし「はやての陣内」という海賊を登場させ、歴史背景をもっともらしく語ることで洞窟の実在に説得力をもたせているところはさすが。那須先生はこういう「もっともらしいほら話」が非常にうまい。

 暗号もいっぺんに解読されるのではなく、「二枚で一セット」「浄土にまいるべし」「『女島の南』というフレーズの意味が陸の人間と海賊とでは異なる」など、徐々に謎がとけてゆくところはうまい。

 目新しさはないが、ズッコケシリーズとしてはまあまあの良作といっていいんじゃないだろうか。モーちゃんの人の好さ、ハカセの博識、ハチベエの行動力と三人の長所がそれぞれ発揮されているのもいい。子どもの頃は「つまらなくもないが、シリーズ上位に入るほどではない」という評価だったが、大人になって読んでもその評価は変わらなかった。

 ただ、最後にほんとに宝を手にして三人組が全国区のヒーローになってしまうのが個人的にはちょっと物足りない。最後の最後でズッコけるのがこの三人組の魅力だし、物語にリアリティを与えてくれているのに。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



 その他の読書感想文はこちら



2022年3月4日金曜日

洞口さんはうがいができない

 あたしはうがいができない。

 ガラガラペッ、ってやつ。あたしがやるといつもゲボバボバゴボッ、とか、ゴボベバババッ、とかになる。
 そんで、周囲がびちょびちょになる。なぜか。

 だってやりかたがわかんないもん。

 理屈はわかる。水をのどに入れて、そんでのどを震わせるんでしょ。でも理屈でわかるのとじっさいにできるのとは違う。ボールにタイミングよくバットをあわせて鋭くスイングすればボールをスタンドまで運べるとわかっているだけではホームランが打てないのとおんなじで。

 考えてもみてほしい。のどは何のためにあるのか。ひとつ、水や食べ物を食道へと運ぶ器官。もうひとつは、空気を震わせて声を発するため。決して水を震わせるための器官ではない。その証拠に、人間以外のどの動物もうがいをしない。

 わかる? のどの役割はふたつ。
「空気が出てきたときは震わせる、または吐き出す」
「水や食べ物が入ってきたときは飲みこむ」
 AならばA'、BならばB'。ごくごくかんたんなプログラミング。

 なのにうがいがやろうとしていることは、BならばA'。
 なんじゃそりゃ。規則違反。Excelだと#NUM!とか出るやつ。

 だからあたしがのどに水を入れたら自動的に飲みこんでしまうのも、飲みこまないようにぐっとこらえてのどを震わせようとしたらおぼれてしまうのも、しかたないとおもわない?


 まあそれはいい。子どものときは「ちゃんとうがいしなさい」なんて言われたものだけど、大人になると人前でうがいをする機会なんかなくなる。もうあたしは一生うがいとは無縁の人生を送っていくのさ、さらばうがい、このうがいからの卒業。と、晴れ晴れした気分で日々の生活を送っていた。

 ところがどうよ。このコロナ禍とかいうやつのせいで、またうがいが脚光を浴びるようになってきた。ちくしょううがいのやつ、あのとき確かに殺したはずなのに。まさか虎視眈々と再び脚光を浴びるチャンスを狙ってたとはね。

 医者も、テレビのアナウンサーも、政治家も、教師も、サラリーマンも、何かと言えば「手洗いうがいを徹底しましょう」だ。ばかの一つ覚えみたいに、手洗いうがいを徹底させようとする。

 そりゃああたしだって、うがいが防疫に有効だということは百も承知だ。だけどできないんだもん。しかたないじゃない。
「コロナウイルス予防には後方二回宙返り一回ひねりが効果的であることがわかりました」って言われても、体操選手以外にはどうしようもないじゃん。それといっしょよ。

 まあテレビで言ってるだけなら聞き流せばいいんだけど、あろうことか、うちの会社の社長が「昼休み明けに全社員で手洗いうがいをすることにします」なんてことを言いだした。

 ほらー。医者やアナウンサーや政治家が言うからー。真に受ける人が現れるじゃんかよー。

 だいたいなんでみんな一斉にやるのよ。どう考えたって別々にやったほうが衛生的でしょうに。こうやってすぐ横並びでやりたがるのが地球人のよくないとこよね。あっちじゃ、もっと個々の意思を尊重してるってのに。

 ってことで毎日昼休みの直後に同僚たちの目の前でおぼれてるのがこのあたし。あげくにはあたしがうがいができないせいでオフィスビルが全館停電になっちゃったわけだけど、その話をする時間はもうないや。ガバラベボボベッ。


【関連記事】

洞口さんとねずみの島

洞口さんじゃがいもをむく


2022年3月3日木曜日

【コント】少年サッカーチームのお手本

「いや、見事なプレイでしたね」

「ありがとうございます!」

「今日はいつにも増して精彩を放っていたように見えましたが」

「そうですね、今日はぼくが支援している少年サッカーチームを客席に招待していたので、子どもたちにかっこ悪いところは見せられないとおもっていつもより気合が入りました!」

「なるほど、そうでしたか。子どもたちにもハナカミ選手のプレイはしっかり届いたとおもいますよ」

「ありがとうございます! おーい、ジュニアチームのみんなー! やったぞー!」

「特に前半二十四分のフリーキックにうまく頭をあわせたシーン」

「あれは自分でも会心のシュートでした」

「シュート直前に相手チームのユニフォームをがっしりつかんで離しませんでしたよね」

「えっ」

「ユニフォームの裾をひっぱることで相手がジャンプするのを見事に妨害していました」

「えっ、いや」

「あれはやはり日頃から練習を重ねていたんですか」

「いや、練習っていうか、とっさに」

「なるほど。とっさに手が出てしまったということですね。非常にラフなプレイでした」

「……」

「それから後半開始直後。相手のスライディングによって転倒したシーン」

「あれはヒヤッとしました」

「そうですね。でも当たらなくてよかったですね。スロー映像で確認したところ相手の足はまったく当たっていませんでした」

「えっ、そうでしたっけ」

「ですがその直後の大げさに痛がるシーン、あれは見事でした。まるで当たったかのように見えました(笑)」

「大げさにっていうか、実際に痛かったし……」

「ははあ、自分自身も騙されるほどの演技だったということですね。やはりああいった演技は普段からイメージしているのでしょうか」

「演技っていうとアレですけど、まあ誰しもやっていることですので」

「そうでしたか。『みんながやっていることだったらフェアじゃないプレイでもやってもかまわない』というハナカミ選手のメッセージ、しっかり子どもたちに届いたとおもいます!」

「いやそんな意識はないんですが……」

「そして最後にロスタイムに大きくボールを外に蹴りだしたシーン。あれは見事な時間稼ぎでした」

「時間稼ぎっていうとアレですけど、あれも戦術っていうか」

「最後まで手を抜かない、勝利のためならどんな手も使う、勝利への執着。ハナカミ選手のひたむきなプレイ、プロを目指す子どもたちにも刺激になったんじゃないでしょうか」

「ですかね……」

「では最後に、ハナカミ選手から、客席にいる少年サッカーチームの子どもたちにメッセージをお願いします!」

「ええと、あの、ぼくみたいな薄汚れた大人にならないでください……」



2022年3月2日水曜日

動物キャラクター界群雄割拠

 各動物ごとの、国内知名度1位動物キャラクターについて考えてみた。


ネズミ

 これはもうミッキーマウスで決まり。異存はあるまい。

「某ネズミのキャラクター」といえば誰もがミッキーマウスを思い浮かべるぐらいに圧倒的なパワーを持っている(版権の厳しさをネタにされるから、ってのもあるけど)。

 ジェリー(『トムとジェリー』)、ぐりとぐら、メイシー、ねずみくん(『ねずみくんのチョッキ』シリーズ)などはとうてい足下にも及ばない。

 1位がミッキーマウス、2位がミニーマウス。この座は揺るがない。唯一善戦できるとしたらピカチュウぐらいか。あいつをネズミと見なしていいのであればだけど。

 

イヌ

 これまた世界に通用するキャラクター・スヌーピーが圧倒的知名度を誇る。主役じゃないのにこの知名度。「主役じゃないのに主役よりはるかに有名ランキング」があるとすれば、これまたスヌーピーが上位にくるだろう(ピカチュウと一、二位を争うぐらい)。

 犬のキャラクターで他におもいつくのは、プルート、グーフィー、ポムポムプリン、シロ(『クレヨンしんちゃん』)など。どれもぱっとしない。イヌってペットの定番なのに、なぜかキャラクターとしてはあまりかわいいやつがいない(愛らしいのってリトル・チャロぐらいでは?)。ケンケン(『チキチキマシン猛レース』)とかイギー(『ジョジョの奇妙な冒険』)とか、かわいくないどころか憎らしいもんな。

 ちなみに小さい子がいる家庭に限ればワンワン(『いないいないばあっ!』)が1位になりそうな気もするが、あいつはほぼ人間だからな……。


ネコ

 ダントツ有名なのはハローキティだろう。やつの強みは、誰とでも寝る節操のなさ 何とでもコラボする社交性の高さ。

 しかしネコのキャラクターってたくさんあるようで、案外思い浮かばない。ジジ(『魔女の宅急便』)、トム(『トムとジェリー』)、タマ(『サザエさん』)、タマ(『うちのタマ知りませんか』)、ねこ(『すみっコぐらし』)、トロ(『どこでもいっしょ』)……。意外と地味だな。
 化け猫のイメージがあるからか、なぜか妖怪化したやつが多いのがネコキャラの特徴。ジバニャンとかネコバスとかひこにゃんとか。


クマ

 日常的になじみのない猛獣でありながら、なぜかキャラクター界では絶大な人気を誇るクマ。

 プーさん、くまモン、ダッフィー、リラックマ、パディントン、ジャッキーなど人気者がひしめきあう。知名度ではプーさんが圧倒的人気だったが、ここ数年でいえばくまモンがそれを抜いたかもしれない。とはいえひこにゃん人気があっという間についえたように、くまモンの人気もいつまで続くかわからない。まだまだクマキャラクター争いからは目が離せない。


ウサギ

 1位はやはりミッフィーか。本名ナインチェ・プラウス、過去の名はうさこちゃん、と複数の名を持つキャラクターだ。本名でない名前がここまで広まっているのはミッフィーくらいのものだろう。

 かわいくないやつが多いイヌ界とはちがい、マイメロディ、ピーターラビットなど、ウサギのキャラクターはただ純粋にかわいらしいやつが多い(ピーターラビットは性格がかわいくないけど)。
 かわいくないウサギキャラといえば……ウサビッチぐらいかな。


トラ

 寅年なのでトラのキャラクターを考えてみたが、しまじろう、ティガー(『くまのプーさん』)、トニー(コーンフロスティ)あたりが横一線で並んでいて、「トラといえばこれ!」というほどの知名度のあるキャラがいない。しかもどれもあんまりかわいくない。

 これから動物キャラをつくるのであれば、トラはねらい目じゃないですかね。トラの赤ちゃんはかわいいし。



2022年3月1日火曜日

【読書感想文】北尾 トロ『ぼくはオンライン古本屋のおやじさん』

ぼくはオンライン古本屋のおやじさん

北尾 トロ

内容(e-honより)
ここ数年で急激に増えているネット古書店。たった一人でサイドビジネスとして始める人、従来の古本屋さんのネット進出、さらには脱サラ独立組みもいて、活況を呈している。開業のための講座も人気だ。著者はライター稼業から、ネット古書店・杉並北尾堂を始めてしまったのだ。具体的なノウハウはもちろん、日々の楽しみなどを綴る。

 まだインターネットといえば個人ホームページが中心だった時代(1999年)に、ネット古書店を立ち上げた著者のルポルタージュ。北尾トロさんといえば裁判傍聴の人(『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』)というイメージだったのだが、それ以前はこんな活動もしていたのか。

 この本では「ネット古書店の作り方・運用の方法」を懇切丁寧に書いてくれているのだが、残念ながらここに書かれていることは今となってはまったく役に立たない。なぜなら、インターネットの世界がこの二十年でまったく様変わりしてしまったから。

 なにしろ、書かれているのが個人ホームページの作り方。それも、アクセスカウンターを設置とか、掲示板を作るとか、リンク集ページを作って相互リンクを貼ってもらうとか。ああ、なつかしいなあ。ぼくがかつて作っていた大喜利ホームページ(2004~2010年ぐらい)もまさにこんなんだった。この頃はまだこれで人を呼べたんだよなあ。インターネットのつながりっていっても口コミの延長みたいなもんだった。

 この頃って、まだインターネットは個人のものだったんだよね。企業はホームページを持っていない会社も多かったし、持っていても「とりあえず作っておくか」ぐらいの気持ちだったのでWeb上で集客をしたり販促をしたりというのはあまり本気で考えてなかったんじゃないかな。

 楽天市場ができたのが1997年、Amazonの日本向けサイトAmazon.co.jpが誕生したのが2000年11月。まだまだ「インターネットで本を買う」のがめずらしかったどころかほとんど誰も知らなかった時代だ。

 北尾トロさんが作ったネット古書店「杉並北尾堂」は、かなり先駆け的存在だった。当然ながらWeb決済なんて影も形もなかった時代ので、注文はメール、決済は郵便為替。メールで注文して、入金方法や発送方法はメールでやりとり。今から見ると、ずいぶんのどかな時代だ。

 Web広告もSEOも存在しない。なんせGoogle日本版がサービス開始したのが2000年。「検索する」という行為すら一般的でなく、Yahoo!のようなポータルサイトからリンクをたどってWebサイトを見つけなくてはならない時代だった。

 だからこの本に書かれている集客方法は「有名サイトにリンクを貼ってもらって集客しよう」。インターネット自体がこぢんまりとしたコミュニティだったのだ。ああなつかしい。


 懐古しだすときりがないのでこのへんにしておくが、とにかく「杉並北尾堂」がそれなりの集客をできて、スタートしてすぐにある程度の売上を確保できていたのは、「インターネットで商売をやる」がまだめずらしかった時代だからだ。当然ながら今このやりかをまねても、一ヶ月で一冊も売れないとおもう。それどころかほとんど誰もやってこない。

 今はどうなっているんだろうと「杉並北尾堂」を検索してみたが、やはりというべきか、跡形もなかった。当時北尾トロ氏がやっていたブログは見つかったが、店へのリンクは当然ながらリンク切れ。

 Amazonや楽天やマーケットプレイスに飲みこまれ、個人古書店サイトが生き残る余地などなくなってしまったのだ。寂しいことだ。

 だが、古本屋自体は今の時代も健在。大きい街には古本屋は存在するし、Amazonなどのサービスを使ってオンラインで売上を立てている古本屋も多い。「個人ホームページで売る」という販売形態が立ちいかなくなっただけで、ビジネス自体は衰えていない。まあ楽な商売ではないだろうけど。

 結局、始めやすいものは終わりやすいんだな、ということをつくづく思い知らされる。

 毎年毎年「これからは〇〇で副業の時代!」と次々に新しいサービスが生まれるが、その中で十年後も同じように稼げる仕事がいくつあるだろうか。うまくいかないものは消えるし、うまくいくものには大手資本が参入してきて競争力を持たない個人は駆逐される。
「〇〇でかんたん副業」は、趣味程度に考えておいた方がよさそうだね。




 やってみてわかったのは、こんな本が売れるのかと半信半疑でアップしたものは、よく売れることである。どんな古本が売れるかを一般論で考えてはいけない、逆だ。一般性がないものだから新刊で売れず、すぐ絶版になり、ずっと探し続ける読者がいるのである。本好きをナメてはいけないのだ。彼らの懐はぼくなど及びもつかないほど深い。

 なるほどなー。
 たしかに素人考えだと、人気作家の本やベストセラーのほうがよく売れるだろうとおもってしまうが、そんな本はブックオフにもあるし新刊書店でも買える。わざわざオンライン古本屋で買う必要がない。

「こんなの誰が買うんだ」とおもうような本は新刊書店からはすぐに姿を消し、市場に多く出まわっていないから古本屋でもなかなか見つからない。

 そういやぼくがはじめてインターネットで買い物をしたのもたしか星新一の絶版になっていたエッセイ集だった。ショートショートはどこでも買えるけど、エッセイは需要が少ないので見つからなかったのだ。

 今でこそネットでものを買うのはあたりまえだが、当時はごく一部の人だけの行為だった。一般的じゃない人が一般的じゃない方法で買うんだから、そりゃあ世間一般のトレンドとはちがうよなあ。

 人気のないもののほうがよく売れる、というのはおもしろい(もちろんまったく人気がないものはダメだろうけど)。




 古本屋は大好きな商売だけど、好きだからこそ古本屋ごときに必死になりたくないという気持ちがぼくにはある。せめて古本屋ぐらいは儲けた損したなんて二の次でいたい。なぜなら、オンライン古本屋になることは、ぼくがようやく見つけた余計なことはみんな忘れて熱中できる仕事』なのだ。大切にしないとバチがあたると、甘いのは承知でそう思う。

 この気持ちはよくわかる。

 ぼくはこうして読書感想文を書いている。ほんのわずかながら広告料も入ってくる(といっても年間で本を一冊買えるぐらいなので大赤字だが)。

 いろんな本の感想文を書いているうちに、どんな本の感想を書けばページビュー数を稼げるかはわかってきた。出てまもない本、話題の本、コミック、タレント本。要するに「多くの人が読む本」だ。

 そういう本の感想を書けば、アクセス数は稼げるだろう。人気作家の本を発売日当日に読んで誰よりも早く感想をアップすれば、ひょっとすると広告費が増えて黒字化できるかもしれない。

 でも、それをやると「いやいややる仕事」になってしまう。ぼくは読書感想文を書くのが好きだからこそ、必死になりたくない。市場を読んだり仮説を立てたり成果を検証したり利益を増やすために努力したり、そんなのは仕事だけで十分だ。わざわざ読書感想文を嫌いになることはない。




 ほんとはぼくも、こんなふうに好きなことを仕事にして生きていきたい。たとえ月の収益が数万円でも。

 でもぼくにはそういう生き方はできない。「なんとかなるさ」ではなく「どうにもならなくなるかもしれない」と悲観的に考えてしまう人間なので。

 だから筆者が古本屋稼業を楽しんでいる姿を読むだけでも愉しい。

 でも「その後オンライン古本屋がどうなったか」を知っているものとしては、読んでいて胸が痛む。

 文庫版(2005年)のあとがきより。 

 一方、アマゾンでは自分で値段がつけられる。しかも、新刊書との値段の比較になるので、どこにでもありそうな本でも、よく売れるという。そのためか、仕入れに混じる不要本だけをアマゾンで売る古本屋はかなりいる。ブックオフに代わる本の処分法として、これはこれで悪くないと思う。
 じゃあなぜやらないかと言えば、価格競争で消耗したくないからだ。アマゾンでは各店の値段が一目瞭然だから、安いものから売れていく。使用するデータは共通で、他にライバルがいたら値段の勝負になるわけだ。
(中略)
 そんなことが繰り返されれば、やがてはオンラインの古本屋はアマゾンがあればいいってことにもなりかねない。売り上げを伸ばすための参入が、めぐりめぐって店の存続をおびやかすことになるかもしれないのだ。最後に笑うのは、参加費と手数料で儲けるアマゾンだけ? うーん、それじゃあ哀しい気がする。 「ぼくとしては個人も業者も入り乱れた土俵には上がらず、なるべくマイペースで店をやっていきたいと思っている。

 著者の懸念である「やがてはオンラインの古本屋はアマゾンがあればいいってことにもなりかねない」がまさに現実化したのが今の状況だ。寂しいことだ。アマゾンヘビーユーザーのぼくがいうのもなんだけど。

 オンライン古本屋だけでなく、あの頃はまだ「インターネットをうまく使えば無名の個人でもすごいことできる」という夢が十分現実的だった時代だったな。じっさいうまくやってた人もいたし。 

 でも誰もがPCやスマホを使うようになると、結局は大手資本と著名人が人の流れを寡占してしまうようになった。ああ、せちがらいぜ。


【関連記事】

古本屋の店主になりたい

本の交換会



 その他の読書感想文はこちら