高野 和明『ジェノサイド』
学生時代の読書は、小説:ノンフィクション=8:2ぐらいの比率だった。
30代になると、その比率は逆転。2:8ぐらいになった。
勉強したいという気持ちが学生時代よりも強くなったからだろうか(学校に行かなくなると知識欲を満たす場が読書だけだからね)。
ノンフィクションのほうが楽しめるようになり、月並みだけど「やっぱり事実は小説よりも奇なりだな」と思うこともよくある。
でも高野 和明『ジェノサイド』を読んで思ったことは
「いやいや、人間の想像力には限度がない。小説はどこまでもおもしろくなる!」
なんだこの小説は。
緻密な構成、膨大な情報量、スリリングな展開。
そしてなんといっても途方もないスケール!
このスケールはもはや世界史の教科書レベル。
人類が文明を持つようになり、文字によって歴史を刻み、さまざまな人物が国々を動かし、多くの発明品や文化が生まれては消えていく数千年の歴史。
それに匹敵するぐらいスケールのでかい小説です。
2週間でこの本を読みきったけど、読み終わった今の気持ちとしては、半年ぐらいどこかに旅行していたような気分。
心地いい疲れと、まだうまく整理されていない記憶と、そして無事に帰ってこられたという安堵感と。
今まで数千冊の小説を読んできたが、まちがいなくトップ5には入る。
小説ってやっぱりいいなあ。
ここからはネタバレ感想。
この小説の肝はなんといっても「超人類の存在」にどれだけの説得力を持たせているか。
ただ「超絶すごい知能を持った超人類あらわる!」って書かれても、読者は入っていけない。
そのために、現人類の何万年もの歴史や、アメリカ国防省の描写や、丁寧すぎる遺伝子の解説を通して、これでもかというぐらい「超人類の誕生」に説得力を与えている。
冗長なようで、これが効いている。
読んでいる側が「もういいよ」と言いたくなるぐらい根拠を積み重ねているので、無茶とも思えるような設定を違和感なく受け入れることができる。
高野和明という作家は「嘘をつく才能」に長けている(もちろん小説家に対するほめ言葉)。
この途方もない設定が受け入れられた時点で、成功したようなものです。
また、超人類も、それを守る傭兵たちも、絶対的な善として描かれていないのがいい。
「自分が生き延びるためには罪のない人であっても殺す」という行動原理がリアリティを持たせているし、同時に「どう転ぶかわからない」要因にもなっている。
物語の原理原則として、「善なる行動は報われる」というものがある。
正義のための行動は、フィクションの世界では基本的にうまくいく。当事者が死ぬことはあっても、善行自体は必ず報われる。
いろんな例外はあるにせよ、ハリウッド映画なんかのメジャーな分野ではぜったいに守られる原則だ。これを守らないと、受け手が離れてしまうから。
なので、映画や小説を観ていると「ああこいつは助かるな」とか「こいつは殺されるんじゃないかな」とか、だいたいわかる。
でも『ジェノサイド』の主要人物の行動原理は善じゃない。
超人類を抹殺しようとするアメリカ大統領も、超人類を守る傭兵たちも、善意で動いているわけではなく、「自分の立場を守る」のが目的だ。
そして現生人類の知性をはるかに上回り、必要とあれば人間を殺すことに躊躇しない超人類の命を守ることが「善」なのか「悪」なのかは、誰にも判断ができない。
その結果、最後の最後までどっちに転ぶかわからない、息もつかせぬ展開になっている。
一方で、超人類の脱出劇と交互に描かれる、「日本の大学院生の創薬」パートは正直いって展開が読めるのでやや退屈だ。
傭兵たちとちがい、大学院生のほうは「子どもの命を救うために自らの立場を捨ててでも創薬に尽力する絶対的な善」の存在として描かれている
なので、「少なくとも薬が完成するまでは捕まることはないな」という展開が読めてしまう。
また、遺伝子や人類進化の解説は、長いけれども超人類の存在に説得力を持たせるという必然性があったが、かなりのページ数を割いて専門用語が並んでいる創薬の説明は、物語にとって必要ではない。むしろテンポを悪くしているので、割愛したほうがよかったんじゃないだろうか。
「せっかく調べたんだから書かないと損」という『司馬遼太郎的精神』がはたらいたのかね。
とはいえ、創薬パートも、緊張感を解くための『息抜きパート』として必要だったかもしれない。
超人類の脱出パートだけだと、おもしろすぎて、寝る時間を削って削って読んでしまっただろうから。
ほんと、小説ってすごい! と改めて思う小説だった。
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