2019年7月10日水曜日

塾に行かせない理由

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まがりなりにも人の親をやっている。
上の子は来年小学生。早いものだ。

保護者同士で話していると、小学校受験だ塾だといった話題も耳にする。
受験対策の塾に行っている子(月謝が五万円以上もするという。ひええ)、公文に通っている子、英語を習っている子。
みんないろんな教育を受けている。まだ小学校入学前なのに。

一方、うちの娘がしている習い事はプールとピアノ。勉強系はやらせていない。
他のお父さんお母さんから「受験させないんですか?」「いっしょの塾に行かせませんか?」と言われて「いやーうちはいいですわー」とへらへら答える。

しかし心の中ではこうおもっている。
「なんも考えてないわけじゃない。娘のためをおもった結果、塾に行かせないんです!」



塾に行かせていないのは、ぼくなりにいろんな本を読んだ(個人的な体験に基づく自称教育書ではなくデータに基づく本ね)結果、今の時期に塾に行かせて勉強させるのはデメリットのほうが多いと考えたからだ。

いくつかの本を読んで得た知見は、
  • 知能は遺伝によって大部分が決まる。
  • 幼少期の知性は教育によって大きく変わる。しかし思春期になると先天的な要因のほうがずっと大きくなる(つまり幼少期に与えた教育の効果は長続きしない)
  • 親が直接的に子に及ぼす影響はわずか。しかし親以外の環境の影響は受ける。
ということだ。

遺伝は今さらどうにもならないことなので、ここをあれこれ悩んでも仕方がない。
「ぼくと妻の子なんだから賢いはず!」と無根拠に信じこむしかない。

「親が勉強させる」はすぐ通用しなくなると知った。
幼少期は言われるがままにやってくれるかもしれないが、成長するにしたがって親の言いなりにならなくなる(もし親の言いなりで動く人間のままだとしたら勉強ができない以上にヤバい)。

だから、ぼくが子どもに対して求めるものはただひとつ。

「自発的に学習する人間になってほしい」

これが大目標。
自発的に学習する人間になれば、どんな学校に行っても、どんな仕事についても、どんな環境におかれてもそれなりにうまくやっていける。
「勉強ができる」はその結果であって、目的ではない




「自発的に学習する人間になってほしい」
この目標を達成するために必要なものは、ぼくの考えでは大きく三つ。

読解力」「論理的思考力」そして「知的好奇心」だ。

読解力

読解力はすべての基本だ。
情報の伝達は文字を通しておこなわれるのが基本。少なくともあと百年は変わらないだろう。本の役割は小さくなるかもしれないが、文字はまだまだなくならない。
「人から教えてもらう学習」には限界がある。能動的に学ぶためには読解力は必要不可欠だ。

論理的思考力

たとえば「AならばBは自明である。だからといってBならばAとはいえない」。こんなレベルの論理でも、わかっていない人は世の中には存外多い。
どれだけ文字を読んでも、論理的にものを考えられなければどうしようもない。

知的好奇心

勉強が苦行だとおもっている人のなんと多いことか。
何度も書いているが、勉強は本来たのしいものだとぼくは信じている。
わからなかったことがわかるようになる、こんなにおもしろいことはない。全人類に共通する悦びだ。
でも世にはびこる「勉強は苦しくてつらいもの」という言説のせいで嫌いになってしまう人は多い。
娘には、学ぶことを好きになってほしいと常々おもっている。


大目標達成のためにやっていること

まず読書。
月に一回ぐらいは本屋に行って、本を何冊か買ってあげる。
隔週で図書館に行って十数冊の児童書を借りる。
で、毎晩寝る前に読んであげる。それ以外でも読んでくれと頼まれたらなるべく読んであげる。
ぼく自身もよく本を読んでいるので、娘も本を好きになった(親が読まないのに子が読むわけがない)。
ひとりで本を読んでいることもよくある。

それからパズル。
ぼくは子どものころ、ずっとペンシルパズルをやっていた。クロスワードとか数独とか、ああいうやつね。『ニコリ』という雑誌を定期購読していた。『ニコリ』は日本唯一といっていいパズル総合誌だ。
ありがたいことにニコリには子ども向けコースがある(こどもニコリ)。
これを申しこんだ。娘は楽しくやっている。

他に、どうぶつしょうぎ、トランプ、バックギャモンなど、テーブルゲームをよくやっている。論理的思考力が鍛えられそうだし、なにより、いっしょに遊んでいるぼくが楽しいから。


なにより大事なことだが、読書もパズルもゲームも強制しない。
「本読む?」「パズルしない?」と誘うことはあるが、断られたら引き下がる。
買う本、借りる本は娘に決めさせる。「これおもしろそうじゃない?」と提案はするが、娘が「やめとく」といったらそれ以上は勧めない。
ぼくが「つまんなさそう」とおもっても、娘が読みたいといった本は買ってあげる。

他人に何かを嫌いにさせるのはかんたんだ。強制すればいい。
「毎日ゲームを二時間以上やること。どんなに忙しくても気が乗らなくても途中でやめてはいけない」というルールを決められたら、ゲームを見るのもイヤになるだろう。

だから、学ぶことを娘に対して決して強制しない。
「パズルしてもいいよ」とは言うが「パズルしなきゃダメ」とは言わない。

おもえば、ぼくの両親もそうしてくれていた。
母はぼくの手の届くところにいろんな本を置いていたし、父は「おもしろそうだったから」といってパズルやクイズの本を買ってきてくれた(『ニコリ』ともそうやって出会った)。
だが読書やパズルを強制されたことはない。
おかげでぼくは読書とパズルが好きになり、ついでに勉強も好きになった。
幼少期から塾に通わされていたら、勉強を好きにはなっていたかどうか。

ひとくちに塾といってもいろんな方針の塾があるのは知っている。
決して押しつけないやりかたをとっているところもあるだろう。

でも、その考えがすべての講師に徹底されているかどうか。
まじめな講師ほど「月謝をもらっているんだからちゃんとやらせないと!」とおもってしまうのではないだろうか。

それに、娘が「今日は塾に行きたくない」と言いだしたとき。
「じゃあ行かなくていいよ」とぼくが言えるかどうか。
月謝が月に五万円、ということは一回一万円以上、行かなかったらそれが無駄になる……。とそろばんをはじいてしまわないだろうか。
とても自信がない。



今のところ、娘は学ぶことが好きだ。
「本読みたい」「パズルやってもいい?」と言ってくる。図書館に行くのも本屋に行くのも好きだ。そしてなにより、新しい場所にいくこと、やったことのないものが大好きだ。

どうかこのまま勉強を好きでいてほしい、そのために全力でサポートしてやりたい。
それが「娘を塾に通わせない理由」だ。


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