漫才過剰考察
高比良 くるま
M-1グランプリ2023、2024で史上初の連覇を成し遂げた令和ロマンの高比良くるまさんによる、漫才に対する“考察”。この本の刊行は2024年なので、初優勝をした後、連覇をする前に書かれたもの。
まず本の内容と関係ない話をしておくと、電子書籍版はただの画像でレイアウトもクソもなくて超読みにくいので、読むなら紙版です。
また、雑誌の連載を元にしているので時事性も強く、固有名詞やネタの話がばんばん出てくるが「当然みんな観てるしおぼえてるよね」という前提で話が進んでいくので、M-1とかキングオブコントとかをしっかり観ている人以外はついていけないんじゃないかなー。
M-1グランプリの話もおもしろかったが、個人的により興味深かったのは寄席の漫才の話。
何度か生の漫才を見たことがあるけれど、ベテランのほうがウケていたし、ベテランのほうが「ぼくらのこと知ってる人ー!」と客に手を挙げさせたり、客に話しかけたり、「漫才に客を引きこむこと」にたっぷり時間をかけていた。手を動かさせ、声を出させ、しょうもないけどわかりやすいボケでまず笑わせてから、ネタに入っていた。
漫才というと「おもしろいことを言う」が最重要だと思いがちだけど、もっと大事なのは「まず聞いてもらう」「安心して笑える状況をつくる」ことなのだろう。その準備が整っていないうちにいくらおもしろいことを言ってもウケない。
そういえばM-1グランプリ2023での令和ロマンの漫才も、「松井ケムリさんはあごひげともみあげがつながっていて……」と、まず顔に注目させるツカミをしていた。
おそらくトップバッターだったから余計に、おもしろいことを言うより先に「話を聞いてもらう」状況をつくることに時間をかけていたのだろう。
令和ロマンの漫才が高い点数を獲得したとき、テレビで観ていたぼくは正直「悪くはなかったけどそんなに高くつけるほどか?」とおもった。でもそれはテレビで観ていたからわからなかっただけで、「まだ場が整っていなかった舞台ですごいスピードでお客さんを引き込んだ」ことを含めた評価だったのかもしれない。数々のやりにくい舞台で漫才をやってきた審査員だからこそ、そのすごさがわかったのだろう。
「大阪弁は親しみやすく漫才に向いてる」というのは、よく聞く話。
ただ高比良さんのすごいのは、「親しみやすいから」とか「もともと商人の言葉だから」なんて根拠のあいまいな話で終わらせず、ちゃんと理論立てて説明しているところ。
なるほど、アクセントか。「ボケる」→お客さんがお笑い終わるのを待つ→「なんでだよ」だと遅すぎるもんな。
よく「漫才は掛け合いが大事」と言うけど、関西弁じゃなければ速いテンポでの掛け合いはむずかしい。言われてみれば、関西弁以外の漫才師は、遅いテンポでやるか、テンポを上げるのであれば細かくツッコまないやりかたをとっていることが多い。
万事こんな感じで理論を持っているから、どんな場にもあった対応をできて、不利とされるトップバッターからのM-1グランプリ2連覇という偉業を成し遂げることができたのだろう。
ほとんどのコンビが「そのとき自信のある2ネタ」を持って決勝に臨むのに、令和ロマンは何本ものネタを用意してその場にあったネタを選んでいたのだそうだ。すごい話だ。
ぼくは漫才を見るのは好きだが、芸人の書いた本はあまり読まない。芸のプロではあっても文章を書くプロではないとおもっているからだ。
特に令和ロマンのファンでもないぼくがこの本を買ってみたのは、高比良くるまという人が、芸人としてはあまりに特異な思想を持っていることに興味を持ったからだ
M-1優勝後のインタビューで、高比良くるまさんは「自分が優勝した年のM-1は失敗だった。盛り上がりに欠けた」とか「大会が盛り上がることを最優先に考えている。盛り上がるのであれば自分たちが優勝でなくてもいい」といったことを何度も口にしていた。
ほんまかいな、とおもう。そんなわけないだろ。番組プロデューサーが言うならわかる。でも漫才師としてずっと芸を磨いてきて、1000万円の賞金とそれ以上の名誉や肩書を手に入れることのできる大会の決勝に出て、「優勝は自分たちでなくてもいい」とおもえるだろうか? そんなモチベーションの芸人がそこまで勝ち進められるのだろうか?
何度インタビューを読んでも「嘘じゃないの? 話をおもしろくするためにおおげさに語ってるんじゃないの?」とおもっていた。
だがこの本を読んでみて、ほんとかもしれないとおもうようになった。
とにかく表現者としての我が感じられない。
芸人になろうとする人って多かれ少なかれ、「己のすごさを世に知らしめたい!」というエゴを持っているものだとおもう。そのエゴこそが(うまく世間の求めているものと合致したときは)世間を惹きつける力になる。
だが高比良くるまさんの語りからは、そういうエゴがほとんど感じられない。「他の人に理解されなくてもおれはこれをおもしろいとおもう! だからおれはこれをやる!」という思想がまるでない。
だが観察眼や分析力はとんでもなく長けているので、「どうやら世間はこれを求めているらしい」「こういうことを言えばみんなは笑うらしい」と察する力はすごい。他の成功している芸人にもそうした力はあるだろうが、エゴと「世間の求めているもの」の間で葛藤する。「こうしたらウケるだろうけどダサいからやりたくない」と。
だがくるまさんにはそのエゴがほとんどないので葛藤がない。だから変幻自在に自分のスタイルを変えることができる。NON STYLEというコンビがその名前とは逆にがっちがちにスタイルを定めた漫才をやっているのとは逆に、令和ロマンには特定のスタイルがない。これこそノンスタイルだ。
この本には、同じく若くしてM-1グランプリを制してよく並んで比較される粗品さんとの対談も収録されている。
二人の対談を読むと、思想の違いがはっきりわかっておもしろい。粗品さんは「おれがいちばんおもろい! 世間がなんと言おうと、おれがおもろいと認めないやつはおもろない!」という強烈なエゴがある。
これはむしろ芸人としてはふつうだ。ほとんどの芸人が多かれ少なかれそういう意識を持っているだろうし、成功した芸人ほどそれが顕著だ(例外はナインティナインだとおもう。あれだけ成功した芸人でありながらほとんどエゴを感じない)。
バスケで言うと、粗品さんはスコアラーだ。自分が得点にからみたい。自分がシュートを打って決めたいし、そうでなくてもアシストをするぐらいのポジションでありたい。
一方、くるまさんはシュートにはこだわっていない。チームの勝利、あるいはいいゲームを目指していて、そのためなら自分はディフェンスでもいいしなんならベンチでもいい。攻めることが必要と考えれば攻める。翔陽の藤真ポジションだ。
ただしふたりとも戦術には絶大の自信を持っているので、納得のいかない戦術には従いたくない。
世間一般の話をすれば、くるまさんみたいなタイプもめずらしくはないとおもう。ただし芸人界、それもメジャーになる芸人ではべつだ。裏方もやれるタイプはそう多くないだろう。
くるまさんは、表現者というよりファンとしての立場で漫才に関わっているのだろう。YouTubeで分析動画を語っているくるまさんなんか、完全にファン目線だ。
読んでいておもうのは、この人を漫才師にしておくのはもったいないということだ。もっと広い視野で物事を考えられる人なのだから。
ちょうど所属事務所を退所したことだし、これを機に、何かもっと大きなこと(事務所をつくって漫才で海外に進出するとか)をやってほしい。
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