2021年9月29日水曜日

栄光時代

 「オヤジの栄光時代はいつだよ…全日本の時か? 俺は……俺は今なんだよ!!」
(『SLAM DUNK』より)


 ぼくの栄光時代がいつかと訊かれたら、高校時代と答える。
 とにかく毎日が楽しかった。気の合う友人に囲まれ、毎日遅くまで遊び、勉強は学年で一番で、女子ともそれなりに仲良くし、明るい未来が広がっていた。童貞だったけど。

 そこからいろいろあって今に至る。
 今が不幸だとはおもわないけれど、高校時代以上に楽しい日々はもう来ないだろうなとおもう(高校時代から「きっと今がいちばん楽しいだろう」とおもっていた)。


 だがぼく個人の栄光時代は終わったが、それ以上の楽しみがなくなったわけではない。

 なぜなら、我が子の栄光時代はまだまだこれからだから。
 朝から晩までめいっぱい遊んだり、全エネルギーを使いはたすまで走りまわったり、くだらないことでばかみたいに笑ったり、はじめての場所でテンションが上がったり、おいしいものを食べて驚いたり、寝るのも忘れてひとつのことに打ちこんだり、本気で喧嘩をしたり、仲直りをしたり、そういった「ぼくがこの先ほとんど経験しないこと」を、彼女たちはこれから経験していくだろうから。

 ぼくはもう経験できないだろうけど、娘たちが経験するのを近くで見ることはできるだろうし、手助けしてやることもできる。
 もう現役選手として第一線で活躍することはないだろうけど、コーチや監督としてはまだまだ戦える。

 若いころは己の人生の主役はずっと自分だとおもっていたけど、プレイヤーを降りてからもまだまだ楽しいことはあるんだな。


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2021年9月28日火曜日

ツイートまとめ 2021年5月



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時速は91kmだい

万葉集

2021年9月27日月曜日

【読書感想文】プレイワーク研究会『子どもの放課後にかかわる人のQ&A50』

子どもの放課後にかかわる人のQ&A50

遊ぶ・暮らす 子どもの力になるプレイワーク実践

プレイワーク研究会/編

内容(e-honより)
放課後児童クラブ(学童保育)、児童館、冒険遊び場等のスタッフや、教員・保育士等、子どもにかかわるすべての人へリアルな困った!にこたえる待望のQ&A集。悩みや課題をどうとらえ、どう対応するかのヒントや知恵が満載。

 まず書いておくと、ぼくは〝子どもの放課後にかかわる人〟ではない。
 会社員で、平日は18時まで仕事をしている。まったくかかわりがない。

 じゃあなぜこの本を買ったのかというと、土日は大いに子どもとかかわっているからだ。

 ぼくは子どもと遊ぶのが好きだ。ほんとは、ずっと前から子どもと遊びたかった。でも親でもない大人が子どもと遊ぶのはむずかしい。世の中には「子どもと遊ぶサークル」みたいなものもあるが、そういうのには入りたくない。なぜなら他の大人ともかかわらなきゃいけないから。大人とはべつにかかわりたくない。あと「子どもと遊ぶサークル」にいるのはたいてい明るく元気ですぐ他人にあだ名をつけて呼ぶ人種なので(勝手なイメージ)とりわけかかわりたくない。

 だが自分に子どもが生まれて、大手を振って子どもと遊べるようになった。土日はたいてい朝から晩まで公園で遊んでいる。娘の友だち、そのきょうだい、その友だち、よく会う子。子ども交友関係はどんどん広がってゆく。
 子ども十人ぐらいと大人はぼくひとりでおにごっこやドッジボールをしている、ということもよくある。

 ぼくの場合、子どもと遊ぶのが好きなのもあるが、「大人と話すのが苦手」というのもある。だから保護者の集まりなんかに行くと輪に入れなくて肩身が狭い。そのとき、子どもと遊んでいると場が持つ。ぼくも楽しい。他の保護者から「面倒見てもらってありがとうございます」と言ってもらえる。いいことづくめだ。

 あとぼくが子どもと遊ぶのは「人目があまり気にならない」ということもある。
 たぶん人より「恥ずかしい」という気持ちが薄いのだ。だからいいおっさんが子どもと本気でおにごっこをしていても、子どもを笑わすためにヘンテコダンスを踊っても、ちっとも恥ずかしくない。他の大人は「変な人」とおもっているだろうが、ぼくにとってはどうってことない。だって「変な人」とおもわれて実害ないもん。警戒されて距離をとられるなら、むしろ喜ばしい。だってなるべくなら他の大人とかかわりたくないもん。


 というわけでぼくは多くの子どもとかかわっている。子どもたちを笑わせたり、教えたり、注意したり、逃げ回ったり、おしりをたたかれたり、ときには子どもから怒られたりもする。子どもの扱いに手を焼くこともある。

 嘘ばかり付く子(そしてその嘘を自分で信じこんでしまう子)、ふたりっきりで遊ぼうとする子、ルールを守らない子。

 そんなときの参考になれば、ということでこの本を手に取った。前置きが長くなった。




 結論からいうと、ほとんど参考にならなかった。

 だって書いてあることが小学校の学級目標ぐらい抽象的なんだもん。

「その子の気持ちを理解しましょう」

「子どもの気持ちに寄り添いましょう」

「その子のために何ができるか考えましょう」

とか。何も言ってないに等しい。
(執筆陣の名誉のために書いておくと、複数いる執筆者のうち特にひとりがひどかっただけだ)

 いやわかるけど。ケースバイケースだからあらゆる状況に通用するアドバイスがないことぐらい。
 でも、だったらこの本いらんやん。

 せめて「私が経験したケースでは○○したら□□という結果になりました」ぐらいのことは書いてほしい。

「子どもの気持ちに寄り添いましょう」ってあなた。それで「なるほど、参考になった!」と納得する人がいるとおもってるんですか。




 子どもと遊んでいると、どこまで「危険」を許容するか悩むことがよくある。

 危険は、「リスク」と「ハザード」という考え方で整理することができます。「リスク」は、自分から挑戦する危険のこと。これは、子どもの成長には欠かせないといわれる危険です。一方の「ハザード」は、目に見えない危険で、それ自体が目的にはなっていない危険です。強風で鉄扉が閉まったり、腐食した柱が折れたり、突起物が突き出ていたりするなど、子どもにとっては想定外の危険なため、突発的な事故が起きる可能性があります。私たちの役割では、いかに重大な「ハザード」を取り除きつつ、育ちにつながる「リスク」を残せるようにするかが大切になります。
 また、「子どもがやることは、一通りスタッフもやってみる」を実践してはどうでしょうか。そうすることで、子どもの動きが想定できるだけでなく、そこからの風景なども見えてきます。

 この考えは参考になった。

 なるほどね。「高いところから飛びおりた着地に失敗するかも」「木登りしたら落ちるかも」なんてのは、小学生にもなれば一応想定しているだろう(可能性をだいぶ低く見積もってはいるだろうが)。

 そんなふうに本人が(一応)予期している「リスク」については、許容してもいい。
 ただし子ども自身が気づいていない「ハザード」については事前に制止しなければならない。台風が来ているときに川に近づくとかね。子どもの人生経験からは想定できない危険だからね。

 ちなみにぼくは「全治一週間ぐらいのケガで済むようならだまって見とく」というスタンスをとっている。すりむくとか、ばんそうこうで抑えられる血が程度の怪我なら、身をもって体験するのも悪くないという考えだ。
 でも骨折とか死ぬとかになるようなことなら、「体験」に対して代償がでかすぎるので止めている。

 しかしうちの子は女の子だからかすごく慎重で、すり傷をつくるようなチャレンジすらほとんどしないんだよね。えらいなあ。ぼくが子どもの頃はもっとバカだったのに。




 この本を読んでおもったけど、「子どもに手を焼かされる」なんてぜんぜん大した問題じゃないんだよね。ぼくのように趣味でかかわっている人間からすると特に。

 子どもをおだてたり叱ったりするのなんてそこまでむずかしいことじゃない(自分が子どものときのことを思いだせば操縦しやすい)。

 たいへんなのは、他の親との関わりだ。
 子育てに関する考えは親によってちがうからね。
 ぼくは「軽い怪我なんてどんどんしたらいい」って考えだけど、他の親が同じ考えとはかぎらないし。大人の考えを変えさせるのなんてほとんど不可能だし。

 友人が保育士をやめたとき「子どもといる時間はぜんぜん苦じゃなかったけど、園長や保護者にあれこれ言われるのがつらかった」と言っていたし。そうでっしゃろなあ。


 保育士や学童保育の職員の苦労はたいへんなもんだろう。

 嫌ならいつでも逃げられる立場で子どもと遊んでいるだけで「子どもの面倒をみている」とえらそうにしているぼくはただただ頭を下げるばかりだ。


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2021年9月24日金曜日

【読書感想文】小谷野 敦『本当に偉いのか』

本当に偉いのか

あまのじゃく偉人伝

小谷野 敦

内容(e-honより)
上げ底評価の明治の偉人、今読んでも全然面白くない文豪、宗教の“教祖”まがいの学者…「裸の王様」をブッタ斬る、目からウロコの新・偉人伝!


 不当に高く評価されすぎてるんじゃない? という偉人を挙げていって、大したことないぜとあげつらう本。

 試みはおもしろかったが、内容はひどいものだった。


 序盤はまだよかったんだけどね。

 夏目漱石の項とか。

 漱石が持ち上げられていったのには、消去法のようなところがあって、まず性的なことを書かないということ、ついで、政治的左翼ではない、私小説作家ではないということがある。戦前はもちろん、戦後でも、保守的な中産階級にとって、左翼作家というのは文豪扱いしづらい。宮本百合子や大江健三郎ではダメなのである。また私小説も、赤裸々に自身の生活を暴露するといったものは、穏健な市民にとっては受け入れがたい。

 たしかになあ。
 漱石って国内では一、二を争うぐらい有名な作家だけど、文学的にすぐれているかというとそこまでありがたがるほどのものではない気がする。研究者が読むのは好きにすればいいけど、少なくとも百年後の中学生が読むに値するものとはおもえない。

「明治時代の小説にしては読みやすくてわかりやすい」以外にこれといった良さがあるわけじゃないもんね。『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』なんてただおもしろいだけ、って感じだもん。

 読みやすいのがいいんだったら現代小説のほうがずっとわかりやすいし。

 ただ、毒にも薬にもならないのがいいんだろうね。太宰や三島はやっぱり思想と切り離せないから、国民的作家にはなれない。鴻上尚史さんが「大スターの条件はからっぽであること」と書いていたけど、漱石作品って代表的なものだけ見ればそこまで思想はないもんな(全部読んだわけじゃないのであったらごめん)。

 芥川も「ただおもしろいだけ」の小説をたくさん書いてるけど、あっちは言葉遣いが少々難しいからな。

 というわけで国民的作家にふさわしいのは夏目漱石ということになるんだろうけど、それって文学者としては不名誉なことかもしれんな。




 ただ、共感できたのは漱石のくだりぐらいだった。

 著者が日本文学の研究者ということで、文学者を批評してるうちはまだいい。好き嫌いはあっても、個人の意見だからな。

 だが途中からアレクサンドロス大王とか石田三成とかナポレオンとかまで手を出しはじめると、もう擁護の仕様がない。

 根拠が伝聞なんだもん。
「おれはあいつの本を読んだけどくそつまらなかった」はまだ批評といえるけど、
「あいつは大したことないやつだという話を聞いた。だからあいつは嫌いだ」というのは単なる偏見にもとづく悪口だ。批評精神のかけらもない。

 中でも最悪なのは、歴史上の人物を語るのに、大河ドラマにもとづいてああだこうだ言ってるとこ。
 いやいや大河ドラマはフィクションだから。ドラマと現実の区別がついてないのか?

 しかも、攻撃の材料が下品なんだよね。
 誰々は身長が○○センチしかなかったとか(この人はやたらと身長を気にしている。よほどコンプレックスでもあるのか)、誰々は男色家だとか、誰々は処女だったとおもうとか、とにかくゲスい。

「私自身が茶の湯をやったことも、観たこともない」から茶道を優れた文化と思わないとか、「ぎょろりとした目つきも何か好きではなかった」から南方熊楠を好きじゃないとか、よくもまあ個人的な好悪をここまでえらそうに文章にして発表できるわとおもう。

 おもしろい悪口は好きだけど、この人のはユーモアのセンスもなくてただただ不快なだけ。


 少なくとも新書ではなくエッセイとして出すべきだったよな。新潮社は内容読んだのかね。


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2021年9月22日水曜日

臨時休校てんやわんや

 平日の昼頃、娘の通う小学校から保護者宛てのメールが来た。

「新型コロナウイルス陽性者が出たので給食を食べた後は一斉休校にします。学童保育も休みです。
 15時までに迎えに来てください。
 15時になっても迎えがなければ児童はそのまま下校させます」

 いやいやいや。バカなの?

 仕事中にいきなりメールしてきて、2時間ちょっとで迎えに来いって。
 来なければ強制的に下校させるって。

 だいたいさあ。
 仕事中にメール見られない人もいっぱいいるやん(ぼくは見たけど)。親である教師も多いよね。あんたたちは授業中に携帯チェックしてんの? ちょっと考えればわかるやん。
 すぐに迎えに行けない人だっていっぱいいるよね。
 学童保育に行かせずに下校させるって何? 放課後児童だけにさせとくのは不安だから学童保育に預けてるわけやん。突然下校したって家に入れませんよ。
 全家庭専業主婦がパートもしないで家にいるとおもってんの? 学童保育が何のためにあるのかわかってないの?


 幸いぼくはリモートワークに切り替えることができたので、仕事を中断して子どもを迎えに行くことに。

 他の保護者も困ってるだろうとおもい、同じ保育園の保護者が集うLINEグループに
「迎えにいけなさそうならいっしょに迎えにいってうちで預かりますよ」
と投稿する(保育園出身者なので当然みんな共働きだ)。

 すると「学校からメール来てたんですね。今知りました!」という返事が。ほらやっぱり。メールなんてすぐ気づくとはかぎりませんよ。
(四時間たってから「今メールに気づきました!」という人もいた。そりゃそうなるってば。みんな仕事してるんだから)

 だいたい保護者がいっせいに同時間帯に迎えに行っていいわけ? ふだんより密集してかえって危険じゃないの?
 給食後の下校ってのもむちゃくちゃだ。給食は用意したから残したくないんだろうけど、いちばんリスクの大きい給食を強行するんだったら、よりリスクの小さい学童保育もやってくれよ。


 ……なんて悪態をつきながら学校に向かっていたら、またメールが来た。
「迎えにこられない場合は、迎えがあるまで学校で児童をあずかります」

 ほらね。どう考えてもそれが正しい。はじめっからそうせえよ。
 どうせ苦情がたくさん寄せられたんだろう。あまりに思慮に欠ける方針だったから。

 感染者が出て学校側もあわてているのはわかるが、それにしても対応が良くない。
(っていうかこれだけ感染拡大してるんだから陽性者が出ることを想定してシミュレーションしとけや。強制下校させられることがあるなんてまったく事前通達がなかったぞ)

「感染者が出たら登校させない」が目的になって、「なぜ登校させないのか」を忘れているんだよね。
「さらなる感染拡大を防ぐため」という意識があれば、「一斉に迎えに来てください」なんてバカな指示になるはずがない。学校に入ってくる人を増やしてどうするんだ。




 そんなわけで翌日も休校。

 ぼくはリモートワークに変更。
 娘は学校から貸与されたノートPCを持ち帰っていたので、それで自宅学習。

 娘にPCを触らせたことはなかったのだが、学校で教わったらしく、いっちょ前に使えるようになっている。
 学習アプリを使って勉強したり、休み時間にはNHKの教育動画(学校から観てもいいと言われたらしい)を見て楽しんでいる。
 こちらが「ずっとパソコンに向かってると疲れるから休憩しいや」と声をかけるぐらい熱心にオンライン学習に取り組んでいる。まあ最初は楽しいだろうな。


 娘はPCをひととおり使えるようになっている(さすがにタイピングはできないが)。さすが子どもは適応力が早い。
 ぼくがPCにはじめて触れたのは中学生になってからだったなあ(そしてその前にワープロで遊んでいた時期があった)。

 娘は急に「小さくなった!!」とか「どうしよう、青くなっちゃった!!」とか叫ぶ。
 見ると、ブラウザの大きさが最大化→縮小になっただけだったり、テキストが選択されて色が反転したりしているだけだったりする。日頃PCを触っている人間からするとなんでもないことでも、初心者からすると大騒ぎする出来事なのだ。

 算数や国語の学習自体は昨年の復習なのでむずかしくなさそう。どちらかというとパソコン操作の勉強になっている。たまには自宅学習もいいものだ。


2021年9月21日火曜日

【読書感想文】今村 夏子『むらさきのスカートの女』

むらさきのスカートの女

今村 夏子

内容(e-honより)
近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性のことが、気になって仕方のない“わたし”は、彼女と「ともだち」になるために、自分と同じ職場で彼女が働きだすよう誘導する。『あひる』、『星の子』が芥川賞候補となった話題の著者による待望の新作中篇。


 今村夏子作品らしい、終始うっすらと気持ち悪い小説(褒め言葉です)。

「むらさきのスカートの女」は、どの町にもいる町の名物変な人。身なりにまったく気を遣わないらしく、いつでもむらさきのスカートを履いている。大人からは一定の距離を置かれ、小学生からはからかいの対象になっている。

 変な女である「むらさきのスカートの女」を観察する〝わたし〟。

 たしかになあ。変な人って気になるもんなあ。

……とおもっていたら、ちょっと待て。〝わたし〟の行動は常軌を逸しているぞ。毎日毎日「むらさきのスカートの女」を尾行したり、それとなく自分の勤務先に「むらさきのスカートの女」が来るように仕向けたり、身なりに気を遣わない「むらさきのスカートの女」のためにシャンプーを送りつけたり……。

 やばいのはこっちのほうだ。「むらさきのスカートの女」もたいがいだが、〝わたし〟はもっと変だ。


「異常者が異常者を観察している」という体裁の小説、それが『むらさきのスカートの女』。

 徹頭徹尾うっすらと狂っている。読んでいるとこっちまで常識を忘れてしまいそうになる。


 こういう小説は好きなんだけど、ラストはあまり好きじゃない。

 最後にわかりやすいオチが提示されるんだよね。〝わたし〟の世俗的なところが見えてしまい、なーんだ、という気になる。他人の弱みを握って脅すような打算的な人だったんだ、つまんないの。

 最後の最後で失速しちゃったな、という印象。
 おもしろいんだけどさ。でもこの作品で芥川賞とらせるんなら、『こちらあみ子』のほうがずっといいとおもうけどな。




 だいたいどの町にも変な人はいるとおもうが、ほんとにヤバい人とか危害を加えるタイプの人は収監されたり隔離されたりするので、たいていは人畜無害か、「ちょっと迷惑」ぐらいの人だ。

 ぼくが子どもの頃いた〝町の変な人〟は、「演歌おじさん」。
 夕方になると犬を連れて公園に現れる。で、ベンチに座って演歌を熱唱する。それも、サッカーができる広い公園中に響き渡るボリュームで。レパートリーは一曲だけ。毎日毎日同じ歌。

 公園で遊んでいるぼくらからすると「また出た」だけで済んでいたのだが、近隣の住人からするとたまったものじゃなかっただろうな。毎日毎日近所で熱唱されたら刃傷沙汰になってもおかしくないぜ。

 あとは中学校の近くに出没した「おはようおじさん」。
 カゴに水筒を入れた自転車で走っていて、その名の通りすれ違う人全員に「おはよう!」とさわやかに挨拶をする。基本的には人畜無害なのだが、女子中学生に対してはひときわ大きい声で挨拶をしていた。


 かくいうぼくも、土日はたいてい娘+その友だちと遊んでいて「大人ひとりと子ども十人ぐらいで遊んでいる」という状況もよくあるので、近所の人からは「犯罪者一歩手前の変な人」と見られている可能性も否定できない。


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2021年9月17日金曜日

【読書感想文】森 達也『たったひとつの「真実」なんてない』

たったひとつの「真実」なんてない

メディアは何を伝えているのか?

森 達也

内容(e-honより)
メディアはすべて、事実と嘘の境界線上にある。それをまず知ろう。ニュースや新聞は間違えないという思い込みは捨てよう。でも嘘ばかりというのは間違い。私たちに不可欠となっているメディアを正しく使う方法とは?


 著者の森達也さんはドキュメンタリー映画などをつくっている人。

『1984 フクシマに生まれて』という本に森達也さんが出ていて語っていることがおもしろかったのでこの本を読んでみたのだけど、内容が薄かった。書いてることはいいんだけど、五十ページぐらいの分量をむりやり希釈して一冊の本にしたかのような。

 ちくまプリマ―新書という中高生向けのレーベルから出ているので浅めなのはしかたないにしても、それにしてもなあ。

「メディアの言うことを鵜呑みにするな」なんてこれまでにもさんざん言われてるわけじゃん。
「メディアの言うことは100パーセント真実だからそのまま信じよう!」とおもってる人なんてひとりもいないでしょ。いまどき中高生でも「新聞やテレビで言ってたから本当だ!」とはおもってないでしょ(逆に「新聞やテレビは嘘ばっかり」とおもってる中学生はけっこういそう)。ちくまプリマ―新書を読むような子なら余計に。

 メディアが間違えたり嘘をついたりすることなんてみんな知ってる。

 なのに「メディアもまちがえるんですよ」をくりかえし語っている。
 いやいや。そこはみんなわかってるから。わかってて騙されるんだから。

 書いてあることはすごくまっとうだっただけに、薄かったのが残念。

 



 20世紀前半に世界各地でファシズムが台頭したのはラジオと映画の普及によるものだ、という話。

 でも識字能力(読み書き)を要求しない映画とラジオは、それまでとは比べものにならない規模のプロパガンダを可能にした。この新しいメディアと、新聞やポスターなどの旧いメディアを縦横無尽に組み合わせながら、ゲッベルスは国民に対して、政治的なプロパガンダを行った。

 この説は眉唾だけど(それ以前にも独裁国家はいくらでもあったし)、瞬時に大量の情報を届けられるメディアがファシズムの勢力拡大に貢献したことは間違いない。
 少なくとも20世紀以降の世の中では、メディアを牛耳ることなく独裁を貫くことはまず不可能だろう。
 ディストピア小説でもまずまちがいなくメディアは権力者によって押さえられている。

 全世界で6000万人という膨大な犠牲者をだした第二次世界大戦は、1945年に終了した。ヒトラーやゲッベルスは自殺したけれど、残されたナチスドイツの幹部たちは、連合国側が主催するニュルンベルク裁判で裁かれた。かつてヒトラーから後継者の指名を受けていたナチスの最高幹部ヘルマン・ゲーリングは、「なぜドイツはあれほどに無謀な戦争を始めたのか」との裁判官の問いに、以下のように答えている。
「もちろん、一般の国民は戦争を望みません。ソ連でもイギリスでもアメリカでも、そしてドイツでもそれは同じです。でも指導者にとって、戦争を起こすことはそれほど難しくありません。国民にむかって、我々は今、攻撃されかけているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたは、どんな国でも有効です」

 これは時代を超えて通用するやりかただよな。
 今でも「○○国が攻めてくるかもしれないから軍備を強化しなければ!」って声は弱くならないもん。相手国のほうも「このままだと日本が攻めてくるぞ!」という雰囲気になれば、すぐにでも戦争は始まってしまう。


 いじめや差別もそうだよね。
 ほとんどの差別って「あいつに嫌がらせしてやろう」という悪意から生まれていない。
「このままだとあいつらに安全を脅かされる」っていう防衛本能から生まれる。

 フィクションで描かれるいじめは「極悪非道ないじめっ子と、純粋無垢ないじめられっ子」という構図が多いが、現実のいじめはそんなに単純じゃない。いじめられっ子が嘘つきだったり攻撃的だったり嫌なやつであることが多い。
 だからいじめが止まらない。悪意を持ちつづけられる人はほとんどいないけど、正義感は持続できるしどこまでもエスカレートする。

 戦争も差別もいじめも、正義によって生みだされる。




 オウム真理教報道について。

 地下鉄サリン事件が起きた直後の日本のメディアは、まさしくオウム一色だった。新聞は毎日一面で事件の推移を伝え、号外はしょっちゅう出る。雑誌も毎週のようにオウム特集で、増刊号もたくさん出た。テレビはレギュラー番組の放送を休止して、朝から晩までオウム一色。それも1週間や2週間じゃない。何カ月もそんな状態が続いていた。
 この頃のメディアは、とても危険な宗教団体としてオウムを描いていた。確かに事件それ自体は凶悪そのものだ。でも、打ち合わせのためにオウム施設を訪れたとき、そこで出会った大勢のオウム信者は、一人残らず善良で、優しくて、気弱そうな人たちだった。僕は混乱した。世間ではマインドコントロールされた凶悪な殺人集団と思われている彼らは、殺生を固く禁じられ、世界の平和を本気で願う人たちだった。

 これねえ。
 当時を知らない人には伝わらないとおもうけど(ぼくも中学生だったからそこまでテレビ観てたわけじゃないけど)、すごかったんだよ。ずっとオウムの話やってた。

 新型コロナウイルスで騒ぐのはまだわかるんだけど。みんなの生活に直結する話だから。

 でもオウムはそうじゃない。たしかに地下鉄サリン事件は大事件だったけど、大半の日本人にとっては関係なかった。それなのにずっとオウムの話やってた。山梨県に上九一色村って村があったんだけど、当時の日本人はみんなその名前を知ってた。オウム真理教の施設があったから。教団内部で使ってた用語も幹部の名前もみんな知ってた。

 オウム真理教は異常な集団だったけど、今おもうと当時の報道も同じくらい異常だった。

 今からふりかえると「そこまで騒ぐことか?」ってことなんだけどね。
 まあ「おもしろかった」んだよね。得体の知れない宗教団体が謎のルールに従って暗躍している、って話が。

 しかも、ただ騒いでただけでなく、みんな同じトーンで語ってた。「異常な集団が起こした異常な事件」だと。
「いや彼らには彼らの事情があるんでしょ」とか「彼らにも人権はある」とか言う人は、少なくともテレビや新聞にはひとりもいなかった。

 あの熱狂ぶりを知っている者からすると、戦争に突き進むのもあっという間なんだろうなという気がする。
 オウム真理教がそこまで信者の数も多くない一宗教団体だったからあの程度で済んでいたけど、あれがもっと大きい団体とか国とかだったら、すぐに戦争になっちゃうだろうな。

 メディアの種類が変わっても、人間の性質はずっと変わらない。

 

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2021年9月16日木曜日

暴言ジジイ

 言っちゃいけないことの基準が甘い。

「これぐらいの悪口は言ってもいいだろ」の基準が人より甘い。
 面と向かっては言わないけど、冗談まじりに「あいつ○○じゃねえの」「これだから○○な人間は」みたいなことを言ってしまう。炎上こわいからここでは伏せるけど。


 あるとき職場の後輩の前で汚い言葉を使っていたら「すごいこと言いますね」と言われた。

 あっ、これ、危険なやつだ。


 後輩は気を遣ってくれたのだろうが、「言っていいこととダメなことの区別もつかねえのかよバーカ」をマイルドにしたのが「すごいこと言いますね」だ。

 ふと気づけばぼくも中年。
「そんなこと言うな!」と叱ってくれる人は、妻しかいなくなった。

 このままだと、あれだ。
「時代が変わったことに気づかず暴言を吐いてみんなから眉をひそめられるおっさん」ルートまっしぐらだ。

 政治家とか会社役員とかのえらいおっさんによくいるタイプ(えらくないおっさんにもいるが)。
 いらんことを言って周囲を不愉快にさせるタイプ。でも周りは誰も注意できないから当人は「みんなが言えない本音を言えちゃうオレ」みたいな感じでいい気になっちゃうタイプ。
 ほんとは「みんなが言えない」じゃなくて「みんなが言いたくないし聞きたくもない」なんだけど。

 若いころは「毒舌」「歯に衣着せぬ」「無鉄砲」「舌鋒鋭い」として気に入られることもあったけど、歳をとって権力を手にしたことで(この国では何も成し遂げてなくてもジジイであるというだけでえらくなってしまうのだ)単なる暴言ジジイになってしまう。

 いかんいかん。
 ぼくも気を付けねば。
 あいつやあいつのように口汚い言葉ばかり使う、×××ジジイにならないように(口汚い表現なので伏せ字)。



2021年9月15日水曜日

【読書感想文】H・F・セイント『透明人間の告白』

透明人間の告白

H・F・セイント(著)  高見 浩(訳)

内容(e-honより)
三十四歳の平凡な証券アナリスト、ニックは、科学研究所の事故に巻き込まれ、透明人間になってしまう。透明な体で食物を食べるとどうなる?会社勤めはどうする?生活費は?次々に直面する難問に加え、秘密情報機関に追跡される事態に…“本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30”第1位に輝いた不朽の名作。

 誰もが一度と言わず十度や百度は考えたことがあるであろう「もしも透明人間になったら」を小説にした作品。

 つまりアイデア自体はいたって平凡。誰でもおもいつくアイデア。
 透明になった理由も「研究所の事故」で、なぜ透明になったのかはまったく説明されない。「透明になった経緯」にもまったく新しい試みはない。
 正直、主人公が透明になるまではなんとも退屈な小説だった(またそこまでが長いのだ)。


 だが透明人間になってからは精緻な描写と、透明人間を追う政府組織(おそらくFBI)VS逃げる透明人間というサスペンス展開になってようやくおもしろくなる。

精神を集中しようとして、両目をつぶった。ところが、なんの変化もない。目をあいているときと同じく、すべてが鮮明に見えるのだ――どんなにきつく目をつぶっても。どうなってるんだ、いったい。僕の中の恐怖心は、すでにそのとき飽和状態にあったから、胸の中にはかえって、グロテスクな好奇心が湧いてきた。派手な惨事で手足を吹っとばされる人間は跡を絶たないけれども、目蓋だけを吹っとばされた人間の例なんて、聞いたことがない。体のバランスを保つために左手を床についたまま、おずおずと右手を顔にのばした。指先で、そっと目の周辺をさぐってみる。ちゃんと眉毛がある。焼け焦げてはいない。こんどは人差し指で右目をさぐってみた。ある。たしかに目蓋がある。動いているのも感じられる。睫毛もまちがいなくある。

 そうかあ。透明人間になるとまぶたも透明だから、目を閉じても見えちゃうわけか。たしかになあ。
 言われてみれば当然の話なのだが、「透明人間が目をつぶったら」なんて考えたこともなかった。

 その他にも、「歯間の食べかすや爪の下の汚れがあると人目に付くので身だしなみをきれいにする」などほんとに細かい設定が随所に光る。
 ぼくが考えるおもしろい小説の必要条件として「いかにうまく嘘をつくか」というのがあるのだけど、『透明人間の告白』の語り口はほんとに見事。
「透明人間になったら爪の垢をきれいにしなきゃ」って考えたことある人いる?




 少し前に、別の透明人間の小説を読んだ。
 柞刈 湯葉『人間たちの話』に収録された『No reaction』だ。
 あれもおもしろい小説だったが、残念なことがある。「透明人間は食事をどうするか」について一切触れられていなかったのだ。

『透明人間の告白』ではきちんと答えを提示されている。

 なんたることだろう、まったく! 僕の肉体は透明でも、いや、透明であるが故に、そこに外部から摂取されるものは、当然のことながら、はっきりと見えるのだ。見方を変えれば、僕という人間は、吐瀉物と排泄物のつまった、一つの細長い袋になりつつある、ということじゃないか。考えてみれば、実は生まれたときから、僕はそうだったのだ。ただ、すべての人間に共通のその側面は――いまだから落ち着いて言えることだが――肉という不透明な衣によって隠されていたにすぎないのである。その衣が透明になってしまった僕は、この先ずっと吐瀉物と排泄物の細長い袋として生きていかなければならない。そういう思いがひらめいたとき、目の前が、文字どおり真っ暗になってしまった。

〝食べたものは外から見える。ただし消化吸収されれば己の肉体の一部になるので見えなくなる〟がこの本の解だ。

 とはいえ、その日、化学作用に関する知識がまだお粗末きわまりなかったにもかかわらず、僕は、将来の自分の食生活を支配すべきいくつかの基本的な指針をうちたてたのだった。まず第一に、なによりも重要なのは、繊維質を避ける、ということ。おそらく、繊維質の栄養的役割については、人によってなにかと異論があるだろうけれども、僕にとっては、繊維質を避けることが生存にとってなによりも肝心なのだ。それがどんな果物であれ、種子や核の類も、皮同様避けなければならない。未消化の種子は何日間も小腸や大腸に留まって、それはいやらしい光景を呈するものなのだ。野菜類の葉っぱを食べるときも、同様に細心の注意を必要とする。それとは対照的に、砂糖やデンプン類は、いまでは僕の栄養の基礎になっている。砂糖やデンプンの消化速度たるや、あきれ返るほど早いのだ。いまではお菓子の類もどんどん食べているけれども、ナッツやレーズンが中に隠れてないかどうか、注意を怠らない。主な蛋白源は肉よりも魚にたよっている。色がついているもの、着色剤を使ったものも避けている――もっとも、着色剤を使ったものより、自然な色のついている食品のほうが手に負えないのだけれども。

 朝は飲み物だけ、食べるのは夜寝る前。食べるものはなるべく透明なもの・消化の良いもの。そういったことに気を付けなくてはならないのだ。透明人間もたいへんだあ。




 こういった細かい設定の描写は一級品だったが、物語としては二流以下。

「追手から逃れる透明人間」というのが大筋なのだが、追手側はそんなに悪い人間じゃないんだよね。透明人間を味方につけようとしているだけなんだからそんなに敵視する必要あるか?

  むしろ透明人間である主人公のほうが、危害を加える気のない相手を銃撃したり放火したりするヤバいやつ。

「危険な追手から逃れる善良な主人公」ならサスペンスになるが、「常識的な追手から逃れる危険な主人公」では、どっちに感情移入していいのかわからない。ピカレスク小説といえるほど主人公は悪人でもないし。中途半端。

 また中盤は、透明人間になった主人公ががんばってリモートワークしたりしてて、「何やってんの?」という気になる。
 透明人間になったのになんで会社員続けてるんだよ! 透明人間になったらまじめに働いて金稼がなくていいだろ。


 また逃避行中にはいろいろ不便を強いられる。買い物もできない。夜寝るところもなかなか見つけられない。

 でもそれは単独逃避行をおこなうからだ。協力者を見つければあっさり解決できる問題だ。協力者だって透明人間を味方につければいろいろ便利なことはあるんだからお互いにメリットのある関係を築ける。

 なのに主人公はそれをしない。ずっとひとりで逃げつづける(そのわりにはニューヨークから出ようとしない)。
 かつての知人はすべて〝組織〟の捜査網に含まれているからしかたないにしても、新たな協力者をつくることもできるだろうに。

 そのせいで、逃げても逃げても〝組織〟に追われる主人公。中盤はこのくりかえしなので退屈だ。読んでいてもどかしい。さっさと協力者を見つけろよ。

 で、終盤やっと協力者をつくることに成功するのだがそれがまた唐突。初対面(透明人間なので向こうは対面すらしていない)と女性と一瞬で恋人関係になってしまう。えええ。透明人間と一瞬で恋人になれる女性ってなんなのよ。そっちのほうが摩訶不思議だわ。

 細かいところは細かいのに、このへんはものすごく雑。

 上下巻のボリュームある小説だけど、無目的な右往左往やくりかえしが多いので、この半分の分量でよかったのにな。

 昔の作品を今の基準で評価できないとはいえ、それにしても“本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30”第1位は不当に評価が高すぎるとおもうな。
 おもしろくないわけじゃないけど、これが30年間のトップってことはないだろ……。


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2021年9月14日火曜日

【ボードゲームレビュー】ラビリンス

 

ラビリンス

 小学二年生の娘のために買い、娘といっしょに毎週やっているボードゲーム。
(二歳の娘も『カードを渡す係』をして楽しんでいる)

 迷路を通って宝物を全部手に入れスタート地点に早く帰ってきた人が勝ち、というゲーム。

 おもしろいのは、ターンごとに迷路の形が変わること。
 複数のピースによって迷路は構成されていて、ピースは一枚余る。その余ったピースを迷路に差し込むと迷路は形が変わる。そして入れたところの反対側からピースが一枚押し出される。
 次の人はそのピースを別の場所に入れる(元あった位置に入れることは禁止)。
 これをくりかえすことで、迷路はどんどん形を変える。四人でプレイすると自分のターンが再びまわってくる頃にはまったく別の形となっている。


「どうやったら自分が狙っている宝までの道を作れるか」
「他のプレイヤーは何を狙っているか」
「他のプレイヤーの邪魔をするにはどうすればいいか」
など、頭を使う要素もありつつ、運の要素もある。思わぬ経路で宝までの道がつながったり、たまたま他のプレイヤーが道をつなげてくれたりする。狙う宝がすぐ近くにあって、はじめから道がつながっていることもある。

 頭脳戦と運のバランスがいい。子ども相手に本気でやっても負けることもある。
 ぼくは子ども相手だからといって手を抜くことは嫌いなので(ハンデはいいが手加減はしたくない)、運の要素があるゲームはやっていて楽しい。

 

 このゲームに勝利するためには
「自分のコマが盤面の外に押し出された場合、反対側に移動する」
というルールをどう使うかがカギを握る。

 ついでのように書かれているルールだが、これをうまく活用できるかどうかで宝をとるスピードは大きく変わる。スーパーマリオブラザーズ3の2人プレイ時にできるミニバトルゲームとおんなじだね。うん、わかりやすい。


 このゲーム、数学者同士とか棋士同士で対戦したりしたらすごくおもしろいだろうな(相手が狙っている宝を開示すればなおおもしろい)。最適解を求める高度な頭脳戦が展開されて。

 シンプルなルールでありながら楽しめるゲーム。1986年発売だそうだから30年以上愛されていることになる。


 独自ルールをつくってもおもしろそう。

 たとえば「宝箱を手に入れたらもう追加でもう一回できる」とか「お化けを手に入れたら他のプレイヤーの宝を一枚リセットさせることができる」とかすれば運の要素が強くなる。
(続編ではこんな感じのルールが取り入れられているそうだ)

 逆に、本来は「一枚ずつカードをめくって次に手に入れる宝を確認する」というルールだが「いっぺんにカードをめくることができ、どのような順番で宝をとってもいい」というルールにすれば戦略性が増す。

 シンプルであるがゆえにいろんな遊び方ができるボードゲームだ。


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2021年9月13日月曜日

冗談みたいな漫画喫茶

 冗談みたいな漫画喫茶があった。


 大学四回生のときだ。ひとり暮らしをしていたマンションの近くに漫画喫茶ができた。チェーン店ではなく、個人経営の漫画喫茶。おばちゃんふたりぐらいでやっていた。漫画は何百冊かはあったが品揃えはあまりよくなかった。

 冗談みたいというのは、利用料金の安さだ。
 なんと何時間いても780円。24時間営業ではなかったが、朝から晩までいても780円。
 そしてドリンク飲み放題。
 さらに驚くことに。なんと食べ物も食べ放題だったのだ。

 置いてあったのは手作りのカレーとかチャーハンとか。たぶんおばちゃんが作ったのだろう。大鍋にどんと作って置いてあった。


 はじめて友だちと行ったときのことをおぼえている。
 え? 何時間いても780円? ドリンク飲み放題? えっ、ご飯も食べられるの? しかも冷凍のやつじゃなくて手作りの料理じゃん。ほんとに780円? だってこんなの一食食べるだけで元取れるじゃん。お代わりしたらもう黒字じゃん。だまされてない?

 だがだまされてはいなかった。何時間か滞在して、漫画を読んで、飯を食ったけど、請求されたのは780円だけだった。さらにおばちゃんは笑顔で「また来てね」と言いながら次回半額券をくれた。
 こんなに安いのにまだ値引くの!? いったい何が目的なんだ!?


 数日後、また行った。
 なにしろこちらは金のない貧乏大学生だ。たらふく食えば自炊するより安いぐらいだ。そのときもやはり780円。カレーを三杯ぐらい食ったのに。

 だがぼくがその漫画喫茶に行ったのはその二回だけ。
 卒論を書いていて忙しかったのもあるし、なにより安すぎてなんだか申し訳なかったから。
 ぼくが行けば行くほどあの気のいいおばちゃんたちは苦しむんじゃないだろうか。こちらが得をするということは向こうは損をするということだろう。べつにこっちが心配する必要はないのだが、あまりに常軌を逸した価格設定に心配になったのだ。

 もしかしたら漫画喫茶というのは表の顔で、ヤバい商売でもやってるんじゃないだろうか。
 おばちゃんに「ゴルゴの79巻さがしてるんだけど」と秘密の合言葉をいえばこっそり奥の部屋に通されてそこは札束が飛びかう裏カジノルームになっているとか……。
 いやいや。もしそうだとしたら、余計に漫画喫茶の価格設定はふつうにしたほうがいい。手作りカレーなんか出して目立たせないほうがいい。

 はっ、まさか。あのカレーに依存性のある香辛料でも入っているのか。
 そして中毒者がさらなる強烈なスパイスを求めたとたんに「これ以上はグラム5万だ」と言われるとか……。


 だがぼくの心配は杞憂に終わった。
 漫画喫茶はほどなくしてつぶれたのだ。二ヶ月ぐらいの命だった。

 あの漫画喫茶はほんとうにあったのだろうか。もしかして狐にでもだまされていたのだろうか。
 だがいっしょに行った友人も〝冗談みたいに安い漫画喫茶〟のことをはっきりおぼえていた。現実にあったことなのだ。

 なんのことはない、「あまりに商才のないおばちゃんたちによる道楽経営」だったのだろう。
 ああよかった。それにしてもほんと冗談みたいな漫画喫茶だったなあ。


2021年9月10日金曜日

やめるほどでもない組織

 最近気付いたんだけど、「組織に属す」ことに関しては始めるよりやめるほうがエネルギーを必要とする。




 小学二年生のとき、サッカーチームに入っていた。
 サッカーおもしろそうとおもって入ったのだが、すぐに気づいた。ぼくはうまくない。練習してもうまくならない。元々うまいやつはどんどんうまくなるので差は開く一方。
 うまくなければおもしろくない。
 努力が大事とかいう人もいるが、そこそこ得意だから努力できるのだ。偏差値70の人が75を目指してがんばることはできても、偏差値30の人が35を目指して努力するのはむずかしい。がんばって偏差値35になったとて。

 友人に誘われて野球をやってみたらおもしろかった。毎日のように友人と野球をしていた。自主的にサッカーの練習なんてしたことがないのに野球は練習していた。

 それでもぼくはサッカーチームに所属していた。十二人しかいないチームで、後ろから二番ぐらいの実力だったけど。周囲との差は離れるばかりだったけど。サッカーより野球のほうが好きだったけど。

 脱退するのが怖かったんだとおもう。「チームに入らない」はかんたんだが、「入ったチームを抜ける」のは容易ではない。
 結局六年生になってやめたけど、元チームメイトからの「裏切者」という視線におびえていた(たぶん他のメンバーは何も気にしていなかったとおもうが)。




 中学校では陸上部に入っていた。嫌なこともあったけど、ほぼ毎回練習には参加していた。早起きして朝練もやっていた。

 走るのが好きだったわけじゃない。速かったわけでもない。長距離の選手だったが大会ではいつも後ろから数えたほうが早かった。予選を通過したことなど一度もなかった。
「全員何かしらの部活に所属しなければならない」という中学校なので入部したのだが、辞める生徒や幽霊部員の生徒もいた。陸上部の顧問も先輩も厳しくなかったので、辞めようとおもえばいつでも辞められた。
 それでも三年の夏まで辞めなかったのは「辞めるほどの理由がなかった」だけだ。

 もしぼくが「部活辞める」といえば、教師や親から「なんでや、どうしたんや」と質問攻めにされていただろう。それが面倒だった。「続けた」というより「辞めなかっただけ」というほうが正確だ。




 高校ではバドミントン部に入ったが、これは一週間ぐらいで辞めた。「なんとなく楽そう」という理由でバドミントン部に入ったのだが、顧問でもないコーチ(非常勤講師)がやたらいばって怒鳴り散らしていたので「こりゃあかんわ」とおもってすぐに辞めた。本気でバドミントンをやっている人には申し訳ないが、たかが羽根つき遊びなのに青スジ立てて怒鳴る人と同じ空間にいるのは耐えられなかった。

 辞めたら辞めたでぜんぜんなんともなかった。夏休みなんかはひまをもてあましたが、そのおかげで本をいっぱい読めた。
 高校にもなると「帰宅部のやつ」や「幽霊部員のやつ」や「ふだんあまり活動しない部活(軽音部など)のやつ」なども増えて、〝部活やってない友だち〟ができた。友だちと川で遊んだり公園で野球やサッカーをしていた。
 〝部活やってない友だち〟とは高校卒業から二十年たった今でも付き合いが続いているので、部活をやめてよかったと心からおもっている。




 大学生のとき、お好み焼き屋のバイトを数ヶ月でやめた。店主の嫁が嫌いだったから、というのが最大の理由だ。
「家の事情で急に引っ越すことになり……」と嘘をついてやめた(たぶん店主もぼくの嘘に気づいていた)。

 大学卒業して就職した会社は数ヶ月でやめた。
 体調を理由にして(体調が悪かったのは事実だが続けられないほどではなかった)。

 その次の会社をやめるときは退職者が相次いでいたのでちょっと揉めた。

 次の会社は揉めないように半年以上前から根回ししたので比較的円満にやめることができたが、それはそれで大変だった。やめる社員には容赦なく賞与を減らしてくる会社だったので、会社にばれないようにしながらそれとなく周囲に引き継ぐのはしんどかった。


 組織をやめる経験をいくつもしてわかったのは、「やめるほうが加入するより大変」ということだ。

 手続きや新たに覚えることは加入するときのほうが多い。でも新規加入時はこちらの気力も充実しているし、周囲の人たちも歓迎ムードだ。前向きな気持ちで乗り切れる。

 でもやめるときは「一日でも早くやめたい」とおもっているものだし、周囲もなんとなくよそよそしい(少なくともそう感じてしまう)。居心地は決して良くない。あたりまえだ、居心地が良ければやめたりしない。




 だから、ぼくが特に好きでもない陸上部を「やめるほどでもないから」という消極的な理由で続けたように、ただ慣性の法則で組織に所属しつづけている人はいっぱいいるとおもう。

 心の底から部活動を愛している人もいるだろうが、ほとんどの人は辞めると居場所がなくなるとおもってなんとなく続けているだけだとおもう。
 PTAとか町内会もそうだ。やめると角が立つから続けているだけ。99%の人は積極的に所属していない。
 仕事もそう。「あなたが転職しない理由はなんですか」と訊かれて即答できる会社員はそう多くないだろう。
 プロ野球球団だってヒーロー戦隊だってプリキュアだって世界征服をたくらむ悪の秘密結社だって、ぜがひでも続けていきたい意欲にあふれているのはほんの一握りで、ほとんどのメンバーは「やめるのも角が立つから」ぐらいの気持ちで続けているのかもしれない。


 案外世の中って「まあやめるほどでもないし」という気持ちのおかげでまわっているのかもしれないね。


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サッカーがへただったサッカー少年


2021年9月9日木曜日

【読書感想文】藤岡 拓太郎『夏が止まらない』

夏が止まらない

藤岡拓太郎作品集

藤岡 拓太郎

内容(ナナロク社HPより)
2014年から2017年の間にネット上で発表した1ページ漫画、およそ500本の中から厳選した217本と、「あとがき」を含めた書き下ろしの文章5編を収録。


 おもしろかった。

 二コマ~十コマぐらいのショート不条理ギャグマンガ集。

 一作ずつタイトルがついてるんだけど、まずタイトルがおもしろい。そんで漫画本編でちゃんとタイトルのおもしろさを超えてくる。
 すごいものになるとタイトルがおもしろくて、一コマ目がもっとおもしろくて、二コマ目でさらにおもしろいという、二コマ漫画なのに三段跳びみたいな作品もある。跳躍力がすごい。

 ぼくはかつて仕事もせずに朝から晩まで大喜利やっていたことがあったぐらい大喜利が好きなんだけど、大喜利でお題それ自体がおもしろいときって、だいたい回答はおもしろくならないんだよね。
「ヤクザの親分がギャル神輿大好きだとバレた理由とは?」みたいな狙いにいったお題はおもしろくない。お題が回答のじゃまをするんだよね。お題はつまらないほうがいい。

 だけど『夏が止まらない』はお題もおもしろいのに、本編はそれを軽く超えてくる。
「適当に捕まえたおばさんに、自販機の飲み物をおごるのが趣味のおっさん」なんてタイトルだとそれ以上おもしろくするのむずかしいはず。でもそれをやってのけている。すごい。


 ちなみにぼくがいちばん好きだった漫画は
「仲直りをしたらしい小学生をたまたま見かけて、適当なことを言うおっさん」

 このお題に対して提示された漫画が、これの他はない、ってぐらい鮮やかな回答。
 ぜひ漫画を読んでみてください。




 大喜利っぽい漫画だなとおもって読んでいたのだが、案の定だった。

(途中にある著者のエッセイより)

 インターネット大喜利にどっぷりと浸かっていた。
 二十歳のころ。ネット上にはいろんな大喜利サイトがあり、そのいくつかに投稿をしていたのだが、自分が一番入れ込んでいたのはあるチャットルームで夜な夜な開催されていた大喜利。
 その部屋には毎晩七時ぐらいから人が集まりだし、くだらない話から始まり、誰かがお題を出すと、皆、思い思いにボケる。お題を出した人が、よきところで締め切る。そして全員、自分以外のボケの中から一番面白かったと思うものを一つ選ぶ。最も多くの票を集めた人が優勝となり、次のお題を出す。それを延々繰り返す。多い時には五十人以上が集まっていた。
 大学やアルバイト先では居場所がなく、ギャグ漫画もうまく描けなかった当時、いちばん笑い、笑わせ、息ができていたのはその部屋にいる時だった。
 猿だった。
 ネット大喜利という温泉に引きずり込まれた猿だった。その温泉はぬるま湯だから、いつまでも浸かっていられた。
 夜が深まるにつれ、部屋から人は減ってゆき、明け方近くになると再び雑談に切り替わり、やがて自然とお開きになる。そんな時間までディスプレイに照 らされていたときは、ウケた日であろうとスベッた日であろうと、いつも自己嫌悪を身にまとって布団にもぐり込んだ。
「今日もペンを握らなかった……」
 それでもまた夜が来ると目を血走らせてボケ狂う。

 なつかしい。ぼくがいたのはチャット大喜利ではなかったけど、だいたい雰囲気は同じようなものだった。

 ぼくがネット大喜利にどっぷり浸かっていたのは、新卒で入った会社をあっちゅうまに辞めて、無職~フリーターだった頃。
 当時は「ぼく無職なんです」とは言えなくて、仕事の合間に大喜利をやっているふりをしていたけど、ほんとは大喜利の間に呼吸しているような生活だった。
 こうやって大喜利をやっている人はいっぱいいるけど、自分だけが明日が見えない生活をしているんだろうとおもっていた。

 でも、それから十数年経って「いろんな事情で不安定な生活をしていたけど大喜利に救われていた」という人の話をちらほら読むようになった。
 こだまさんとかツチヤタカユキさんとか藤岡拓太郎さんとか。他にもいろいろ。

 ネット大喜利って、バックボーンとか一切関係なく、おもしろい回答をすれば評価してもらえるんだよね。無職で怠惰でモテなくて金がなくても、大喜利でおもしろい回答をすれば他者から認められて一位になれる。だから救いになっていたんだとおもう。

 もしかしたらあの頃ネット大喜利をやっていた人たちは、みんな病んでいたのかもなあ。いやじっさい病みすぎてあっち側に行ってしまった人もいたし。




 著者あとがきより。

片手間にイラスト付き大喜利や一コマ漫画をこさえていたのですが、ある時、たわむれにニコマ漫画を描いてみると、「!」と思いました。

 一コマからニコマにするだけで、ただの絵が、ぐっと「映画」になるんやな、ということに改めて気がついたのです。いや「映像」と言ってもいいんやけど、なんかかっこいいので「映画」と言わせてください。その、つまり、たとえば一コマ目で豚にかまれているおっさんを、ニコマ目で、顔をどアップにすることもできるし、ヘリコプターからの視点でとらえることもできる。あるいはニコマ目で時間を飛ばして、少年時代のおっさんを描いてもいい。石器時代のおばさんが寝ているところを描いてもいいし、まったく脈絡なくオムレツだけを描いてもいいのです。ニコマあれば、時間が表現できたり、カメラの動きが付けられるようになったりするということです。

 この人の作風は二コマ漫画にあっているとおもう。
(この本には十コマぐらいの漫画も収録されているが、二コマ漫画のほうが圧倒的におもしろい)

 二コマ漫画を自由自在に使いこなしている。二コマなのに奥行きがある。正確にいうと、タイトルのつけかたも秀逸なので、タイトル+二コマ。

 ぜひともこの道を究めて、二コマ漫画界の巨匠になってもらいたい。


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2021年9月8日水曜日

【読書感想文】伊藤 計劃『ハーモニー』

ハーモニー

伊藤 計劃

内容(e-honより)
21世紀後半、「大災禍」と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰にただひとり死んだはずの少女の影を見る―『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。第30回日本SF大賞受賞、「ベストSF2009」第1位、第40回星雲賞日本長編部門受賞作。


『虐殺器官』がめっぽうおもしろかったので読んでみた。

 ……これはあれだな。ぼくが読み方をまちがえたな。
 寝る前に布団の中で毎日ちょっとずつ読んでたんだけど、そうやって読む小説じゃなかった。まとまった時間をつくって一気に読まなきゃいけないやつだった。


『ハーモニー』はかなり難解な小説だった。

『虐殺器官』のほうは、ただ単純に暗殺集団に属す主人公の描写がおもしろくて、わくわくするストーリー展開を追ってるうちに壮大なSF的仕掛けが浮かびあがってくるという小説だった。

 だが『ハーモニー』のほうは、あまり動きはない。
 仲間といっしょに自殺未遂をしたり、同時多発事件があったり、主人公が命を狙われたりする。これだけ書くと波瀾万丈な小説みたいな気がするが、実際はそんなことはない。概ね静かな小説だ。説明や思索や回想が物語の大半を占めている。

 あとこれはいいところでもあるんだけど、直接的な説明が少ない。「今こうなってるんですよ。これが課題ですよ。だからこれをするためにここに向かってるんですよ」という説明がない。そこがおしゃれなんだけど、集中して読まないと「今この人はどこで何のためにこの人と会ってるの?」となってしまう。就寝前に読むもんじゃなかった。




『ハーモニー』は、健康を司る〝生府〟が人々の健康を管理する社会を舞台にしている。

 一度、わたしのぜんぜん知らない料理らしきものが延々と映し出されているメディアチャンネルを見かけたことがある。あれは何、と父に訊くと、ああ、あれは二分間憎悪、って言うんだ、と父は答えた。ああいう、脂肪過多、コレステロール過剰、塩分過多──健康に良くない、リソース意識に欠けた食事を摂っていた最後の世代が、ああいう画面を見つめながら、俺はあれを食べてはいけない、あれを口にするのは社会的存在として最低だ、リソース意識の欠如だ、公共的身体の損耗だって自己暗示をかけるんだよ。

 これは明らかな『一九八四年』へのオマージュだが、恐怖ではなく健康によって支配された世の中だ。
 これをディストピアと見る人もいるだろうが、ユートピアとおもう人のほうが多数派なんじゃないだろうか(二分間憎悪はやりすぎだが)。不健康になる自由よりも、誰もが健康でいる社会を望む人のほうが多いはず。


 だがその世の中で同時多発自殺が起こり、さらには「殺さなければ殺される」という予告が全人類につきつけられる。

「わたしたちは新しい世界をつくります。
 そのためにはまず、それができる人を選ばねばなりません。
 これから一週間以内に、誰かひとり以上を殺してください。
 手段は何でもかまいません。
 自分自身のためならば、他者などどうでもいいということを証明してください。
 いちばん大切なのは自分の命だという感情を、解放してください。
 それができない人には、死んでもらいます。
 先程も言いましたが、それをわたしたちが実行できる力があることは、この前の事件でわかったと思います。
 もしあなたが、他の誰かの命を奪うことを躊躇したら。
 たとえ自分が助かるためですら躊躇したとするなら。
 そのときには、わたしたちは容赦なくあなたを殺します。
 自分で自分の命を奪うように仕向けます。
 繰り返しますが、わたしたちにはボタン一個でそれができるのです。
 まだ信じない人のために、もうすぐそれを実証する映像をお見せします。
 おそらくは一瞬しか映りません。
 目をこらして、見逃さないようにしてください」

 はたして予告は本当なのか、本当なら誰が何のためにおこなったものなのか、どういう手段を用いるのか、そして結果は……。

 この予告がおこなわれるのが本の中盤なのだが、このへんからやっと物語が動きだす。それまではプロローグみたいなもの。プロローグなげえ。

 そこからは物語も動きだすし、いろんな謎が解けていくのでやっとおもしろくなる。
 安易な「主人公が世界を救う」系の結末にならないのもいい。


 感心したのが、ずっとHTML構文のように書かれている文章。

 〈uncomfortable〉テキスト〈/uncomfortable〉みたいな感じで。

 なんだよこれじゃまくせえ、HTMLおぼえてばかりの中学生かよ、とおもって読んでいたのだが、最後の最後で謎が解けた。なるほど、そういうことね。こういう仕掛けはおもしろい。




 よくできてるSF小説だなとはおもうけど、SF好きがSF好きのために書いた小説みたいだなー。そこまでSFファンでない者からすると、ちょっとついていけない。
 そう、「難しいことやるからがんばってついてこいよ!」って感じなんだよね。SF予備校の上級クラスの授業。
 いやこっちはそこまでの意気込みがあるわけじゃないんすよ。


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2021年9月7日火曜日

【読書感想文】ライアン・ノース『ゼロからつくる科学文明 ~タイムトラベラーのためのサバイバルガイド~』

ゼロからつくる科学文明

タイムトラベラーのためのサバイバルガイド

ライアン・ノース(著)  吉田 三知世(訳)

内容(e-honより)
残念です。私たちは紀元前XXXXXX年にいて、タイムマシンFC3000は、完全に故障してしまいました。でも、肩を落とすことはありません!必要なものは、このガイドに全て載っています。荒野に農業をスタートさせ、初めて電気の明かりを灯し、最初の飛行機で青空を飛び、みずから交響曲を作曲して、文明を、あなたの手に取り戻しましょう!本書は、皆様にあらゆるモノの発明方法をご紹介する科学本です。


 ええと、どういう本か説明するのがちょっとややこしい。
 著者の説明を信じるなら「マニュアル(取扱説明書)」ということになる。
 タイムマシンで過去にいったもののタイムマシンが壊れた人のための「新たに文明を再構築するためのマニュアル」だそうだ。
 ちなみにこの本は著者が書いたものではなく、タイムマシンを発明した世界線の人が書いたものを著者が偶然見つけたもの、ということらしい。
 うん。めんどくさいね。しゃらくさいね。

 まあ要するに、「人類が今まで発明したあらゆるもの(はさすがに言いすぎだが主要なもの)をゼロから発明するにはどうしたらいいか」を説明する本だ。

 飲料水を確保するには、農業をやるには、ウマやヒツジを家畜化するには、鉄を精製するには、紙をつくるには……と、とにかくありとあらゆる発見・発明・技術が詰め込まれている。いや、詰め込まれすぎている。

 そう、詰め込みすぎなのだ。

 ほんと、後半は読むのが苦痛だった。無駄に長いんだよね。紙の本で573ページもある。そしてつまらない記述が多い。
「心肺蘇生法をやるときに歌うべき1分間に100拍のテンポの曲のリスト」とか「有名な曲の楽譜」とか「三角関数表」とか、無駄にページ数を引き延ばそうとしているとしかおもえない。なんだそれ。
 しかも説明が長いわりに図解が少ない(図で説明したほうがはるかにわかりやすい事柄でも)。

 前半の「見つけたものが食べられるかどうかの見分け方」「役に立つ動植物」「さまざまな道具を作る方法」なんかはサバイバル術としておもしろいけど、後半は、哲学、音楽、コンピュータなど、サバイバルからは遠く離れてしまっている。
 まだ「とにかく生き延びる」に絞っていればなあ。

 この本のピークは最初だった。




 一冊の本として見たときはまとまりがなくて冗長なんだけど、断片的にはけっこうおもしろい(ところもある)。

 書くことの背後にある考え方──目に見えない音を目に見える形に変えて保存しよう──は至ってシンプルですが、じつのところ書き言葉の発明は、人類にとって極めて困難でした。あまりに困難で、人類史全体でたった2度しか起こっていません。

 ・エジプトとシュメールで紀元前3200年ごろ
 ・メソアメリカで紀元前900年から紀元前600年のあいだ

この2回です。
 書き言葉は、ほかの場所でも出現します。たとえば紀元前1200年の中国ですが、これはエジプト人に中国人が感化されたからです。同様に、エジプトとシュメールの書き言葉はほぼ同じころ登場し、見た目はまったく異なるものの、両者には多くの共通点があります。これらの文明のいずれかが書き言葉を発明し、おそらく、それがいかに有用な発明かを見て、もう一方がそのアイデアをまねたのでしょう。

「言葉を文字にする」なんて現代人からしたらあたりまえの話なんだけど、人類は長い間それをおもいつかなかった。
 5万年ほど前に話し言葉は誕生していたのに、文字が発明されたのは5000年ほど前。長い間人類は書き言葉を持たなかった。
 それは「思いついたことを、同じ時代・同じ場所にいる人にしか届けられなかった」ということでもある。
 もしかしたら数万年前の人類は、めちゃくちゃおもしろい物語とかすばらしい音楽とか現代人より優れた技術を持っていたかもしれない。でも時代を超えてそれを伝える手段を持っていなかったがために、廃れてしまった。なんともったいない。

 もしも現代人が5万年前に行って「話していることを粘土とか板とか石とかに記しておけば、知り合い以外にも伝えられるよ」とだけ教えれば、数万年分のアドバンテージを得られることになる。初期から文字を持っていれば、科学は今よりずっとずっと進歩していることだろう。




 様々な発見・発明の歴史を見ていると、昔の中国ってすごかったんだなあとおもわされる。
 羅針盤・火薬・紙・印刷の四大発明が有名だが、絹、ニワトリの家畜化、低温殺菌技術、麹の利用、製塩、サングラス、舵、傘、車輪など、実に多くのものが中国で発明されている。

 とはいえ近代の歴史を見ると、中国は決して世界のトップを走ってきた国ではない(最近またトップに返り咲こうとしているが)。
 なぜ最も科学技術が発展していた中国が、ヨーロッパ諸国に抜かれ、水を開けられたのか。
 そのヒントとなるのが印刷だ。

 活字は、西暦1040年ごろの中国に存在しましたが、本当に軌道に乗ったのは、数世紀のちにヨーロッパにこの技術が到達してからのことでした。それは、もうひとつの画期的発明、アルファベットのおかげです。中国の表記法は、表音的な言語のように、音を表す限られた数の文字を使うのではなく、意味を表す膨大な数の文字を使うので、一冊の本に60,000種以上の異なる文字が使われています。どちらの文字体系にも長所と短所がありますが、活字を使う際の中国の文字体系の短所は深刻です。60,000種類の文字よりも、26種類の文字のほうが、保管し分類するのは、はるかに安価で簡単です。

 中国が製紙+印刷技術のおかげで、知識を広く伝達することができた。だがその恩恵をこうむったのは、活字にしにくい漢字を使う中国ではなく、26種しかないアルファベットを使うヨーロッパのほうだった。結果、ヨーロッパで産業革命が起こり、優れた科学技術を持っていた中国はヨーロッパ諸国に追い抜かれてしまった。
 中国が生んだ製紙と印刷が中国を(相対的に)衰退させたなんて、なんとも皮肉な話だ。

 もちろん他の要因もあるんだろうが、これはおもしろい話だ。




 テレビドラマにもなった『JIN-仁-』という漫画があった(読んだことないけど)。
 脳外科医が江戸時代にタイムスリップし、その医療技術を活かして多くの人の命を救うという話だそうだ(読んだことないのでまちがってたらスマン)。

 医師だから別の時代に行っても活躍できた……とおもいきや、特別な医療技術を持たない我々でも十分命を救える可能性はある。

・地球上で最も猛威を振るった伝染病は冬に起こりました。なぜでしょう? それは、死んだ人の衣服を着てしまう可能性が冬に最も高かったからです。衣服にシラミがたかっているひとりの人間が、町全体に疫病を広げる源になる可能性がありました。死んだ人の衣服は、熱湯で煮沸した後でない限り、絶対に身に着けないでください。病気で死んだ人のものならなおさらです。
 あなたが食べたい食物は、ほかの植物や動物もそれを食べはじめると、やがては、あなたが食べたくない食物になってしまいます。このプロセスは「腐る」、「傷む」、あるいは「ご飯が台無しになる」と呼ばれ、暮らしのなかの自然な出来事なのですが、食欲が削がれますし、有毒でもあります。そんなプロセス、できる限り遅らせたいですよね。ここに、あなたの秘密兵器をお教えしましょう。「地球上のすべての生き物は──食物を傷めてしまう微生物も含めて──、生存のために水が必要です。また、その水があったとしても、大部分の生き物は特定の温度と特定の酸性度の範囲内でなければ生き残れません」。このことに気づかれたなら──そして、私たちが今お話ししたので、あなたはこれに気づいたわけです──、ほかの生物から食物を自分で守り、保存することは可能だと納得されるでしょう。それにはこの、水、温度、酸性度というパラメータのいずれかひとつかふたつを極端な値にして、食物の上では生物が生きられないようにすればいいのです。それに、ひとつの保存手段だけを使い続ける必要はありません。食物を、乾燥させて塩漬けにしたり、燻製にして冷凍したり、ピクルス漬けにして缶詰にしたりしていいのです。そうすると、一層美味しくなることもありますし!

 我々は医師ではないけど、ほとんどの病気が細菌やウイルスによって引き起こされることを知っている。
 そしてそれらの多くが「汚い手で触らない」「きれいな水で手を洗う」「乾燥させる」などのごくごくかんたんな方法で防げることも。
(特に新型コロナウイルス流行以降の人間はよく知っている)

「食事前に手洗いうがい」「傷口は流水で洗う、汚い手で触らない」といったことを伝えるだけでも、多くの命を救えるはず。

 ぼくやあなたも過去に行けば名医になれるのだ(言うことを信じてもらえればだけど)。




 ということで、パーツパーツで見ればおもしろいところも多い本だった。

 だが一冊の本として見れば、とにかくまとまりがない。
 はあ疲れた。百科事典を読破したような気分だぜ。


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2021年9月6日月曜日

【読書感想文】乾 くるみ『物件探偵』

物件探偵

乾 くるみ

内容(e-honより)
高利回りのマンションを手に入れたはずが、オーナー生活はなぜか4ヵ月で終了。新幹線の座席が残された部屋、HDDから覚えのない録画が流れたり、バルコニーに鳩の死骸を見つけたり。全て何者かの嫌がらせなのか?格安、駅近、など好条件にも危険が。事故物件をチェックしただけでは見抜けない「謎」を宅地建物取引を極める不動尊子が解明。物件×人を巡る極上ミステリー6話。

 不動産物件をめぐるミステリ短篇集。

 お買い得とおもわれた投資用物件だが購入したとたん借り手が退去、全室入居済みとしかおもえないマンションが空室ありとして売りに出されている、事故物件を購入したら謎の女性がやってきた……。
 など、日常のちょっとした謎系ミステリ。真相も詐欺やご近所トラブル程度の話で現実にもありそう(ありえない話もあるけど)。

 不動産×ミステリという着想はおもしろい。
 ミステリの世界で不動産というと「××の館」みたいな奇想天外な建物で起こった殺人事件みたいな話が定番だが(古いか?)、ほんとにありそうな物件を題材にしたミステリというのはありそうでなかったかもしれない。
 業界用語の解説もあり、不動産の勉強にもなる。

 ただ中古分譲マンションしか扱っていないのが個人的には気に入らない。
 なぜならぼくは不動産を購入したことがない(そして購入したいという気もあまりない)から。
 ぼくにとって不動産屋といえばもっぱら賃貸のほうなんだよな。


 テーマはおもしろいんだけど、小説としておもしろいかというと、うーん……。

 決してつまらなかったわけじゃないんだけどね。ミステリとしての粗もないし。

 最大の問題は、意外性がないこと。
「宅地建物取引業法にはこんな意外な抜け穴があったのか!」
「この間取りを使ってこんな大胆な犯行ができるのか!」
みたいな驚きがないんだよね。
 まあそれをやると、それこそ××館の殺人になってしまうんだろうけど。


 あと個人的には探偵役が魅力的じゃなかった。
「物件の声が聞こえる」女性が探偵役なんだけど、好きじゃない。探偵役に超常的な能力を持たせちゃうと、ミステリとしての説得力がなくなるんだよな。
 超能力使って犯罪を見破ったら、それもうミステリじゃなくてSFだもん。
 西澤保彦作品みたいに、SF+ミステリがメインテーマであるならいいんだけどさ。

 乾くるみ作品は『リピート』や『セブン』がパズル的なおもしろさにあふれていたから期待したんだけど、これはそこまでじゃなかったな。


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【読書感想文】乾くるみ 『セブン』



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2021年9月3日金曜日

ワクチン日記

 新型コロナウイルスワクチン。

 二ヶ月ぐらい前に接種券は届いていたものの「どうせまだ予約できないだろ」と悠長にかまえていたら、気づけば周囲に接種済みの人が増えている。えっ、もうふつうに予約できるんだ。

 で、はじめてちゃんとワクチン接種について調べる。
 市がやってるやつと府がやってるやつと国がやってるやつがある。で、それぞれ予約サイトが異なる。めんどくせえ。一本化して適当に割り振ってくれ。

 何度か予約を試みるも、いつ見ても満席。
 こうなるとちょっと不安になってくる。みんなが予約できてるのにぼくだけできていないような気がする。しかも明日にも感染するような気になってくる。一日でも早く接種したい! という気になってくるからふしぎだ。
 なんともおもっていなかった女友だちが、彼氏ができたと聞いたとたんになんだか急にいい女に見えてくるような感覚。

 そんなこんなで何度も挑戦していたらぽっかり予約が空いている日があった。9月3日。やった、金曜日だ。これなら発熱しても翌日ゆっくり休める。しかも月末は仕事の休みをとりやすい。好都合だ。
 よしっ、予約!
 はあよかった。

 胸をなでおろして予約票を見ていると、「2回目の接種は4週間後の同じ曜日となります」とある。
 9月3日のちょうど4週間後というと……げっ、10月1日。月初じゃねえか。業務が多くて月の中でいちばん休みをとりづらい日。
 あわてて別の日を探す。空いている日があったので予定変更。そっか、2回目の接種のことも考えてスケジュール組まなきゃならんのか。


 ということで市の集団接種会場へ。

 会場はインテックス大阪。大阪の咲州ってとこ。
 ほとんど行ったことなかったけど、この世の終わりみたいなところだね。

Google ストリートビューより
Googleストリートビューより

 真ん中に見えるでかい建物が大阪府咲洲庁舎(旧称大阪ワールドトレードセンタービルディング)。この、なんもない荒地にそびえたつ55階建ての建造物。
「周囲が発展することを想定して建てたのに見事大失敗」だということが素人目にもわかる。

 五輪招致失敗だとかバブル崩壊による目論見外れとか運営団体の経営破綻とか、要するに大阪の悪いところの縮図のような建物だ。
 ちなみに地盤がやわらかい(海に近い)ところにばか高いビルを建てたせいで地震でめちゃめちゃ揺れるそうだ。

 咲洲庁舎だけでなくこのへん一帯がアンバランス。でっかい建物がいっぱいあるのに静まりかえっている。道にぜんぜん人がいない。飲食店もコンビニもまったくない。
 市民のニーズを完全に無視してつくられた結果見捨てられた街、という感じだ。


 まあ咲州の開発失敗はさておき、インテックス大阪へ。

 入口で消毒、検温。受付で問診表などを提出。
 予約票はちらっと見られただけ。ちゃんとチェックしていない。ぼくは予約の時間帯より十五分ほど早く会場に着いてしまったのだけど、何も言われなかった。
 まあ厳密に入場制限するより、どうせみんないつかは打つんだから時間がずれててもどんどんさばいちゃったほうがいいということなんだろうな。いい判断だ。

 これなら予約なしで行っても接種してもらえそうだなーとおもう(実行しても私は責任はとりません)。
 受付横にウォーターサーバーがあってご自由にお飲みくださいと書いてあるが、受付はあわただしいので誰も飲んでいない。まあマスク外すのもあれだし。

 会場のスタッフは妙に慣れている。
 イベント運営会社のスタッフが担当しているとどこかで聞いた。コロナでいろんなイベントがなくなっているからええこっちゃ。
 だがウレタンマスクをしているスタッフもいる。ウレタンマスクは効果薄いってあれだけ言われてるのに、ワクチン接種会場のスタッフのウレタンマスクを許しちゃうんだ。
 会場内は涼しいんだし、せめてスタッフに対しては不織布マスク義務付けてほしいなあ。

 ぼくに接種してくれたのはやたら陽気な歯科医。
「どう? 緊張してる? はっはっはー!」
って感じ。
 性分なのかわざと明るくふるまってるのかわからないけど、こういうところで明るくしてくれるのはいいことだ。病院とかだとあんまり朗らかにできないけどね。

 無事に接種終了。ぜんぜん痛くない。
 経過観察のため15分待てと言われ待機。ウォーターサーバーはない。ここに置いてくれよ!

 

 帰宅してふつうに過ごしているうちにどんどん注射されたほうの腕がしびれてきた。
 すぐ反応が出るんじゃなくてじわじわくるのかー。
 翌朝になるとさらにしびれている。腕を上げるのがつらい。甲子園で150球投げた次の日みたいだ。投げたことないけど。

 だが二歳児は平気で「だっこー」とか「おんぶしてー。そのまま手を洗う―」とか甘えてくる。
 いつもはおかあさんに甘えることが多いくせにこんなときにかぎって「おとうさんがいい!」と駄々をこねる。ええい。かわいこまったやつめ。



2021年9月1日水曜日

【読書感想文】小田嶋 隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』

友だちリクエストの返事が来ない午後

小田嶋 隆

内容(e-honより)
人と人とがたやすくつながってしまう時代、はたして友だちとは何だろうか?永遠のテーマを名コラムニストが徹底的に考え抜きました!

 携帯電話やSNSにより、いつでも手軽につながれるようになった時代の〝友だち〟について考察した本。

 昔は、今ほど友だちの価値が重くなかったと小田嶋さんは書く(小田嶋さんの主観だけどね)。

 私が学生だった時代は「ぼっち」が基本であり、単独行動者であることがキャンパスを歩く大学生のデフォルト設定だった。私自身、昼飯はほぼ一人で食べていた。時間割によっては、一日中誰とも口をきかないままで帰って来る日もあった。それもそのはず、われわれの時代には、携帯電話が無かった。だから、特定のたまり場を持っていない学生は、キャンパス内で偶然知り合いに出くわさない限りは、「ぼっち」を余儀なくされた。(中略)
 とはいえ、誰もが多かれ少なかれ「ぼっち」であった私たちの時代の「ぼっち」は、現代のキャンパスを歩く「ぼっち」ほど孤立的ではなかった。
 わかりにくいいい方だったかもしれない。具体的な言葉でいい直す。つまり、誰もがつながれないでいた時代の「ぼっち」と違って、全員が携帯電話やラインを通じて常時ゆるやかにつながっていることが前提となっている現在の状況での「ぼっち」は、状況として「誰からも電話がかかってこない」本格的な村八分状況を意味しているわけで、だからこそ、「ぼっち」であることは、単なる暫定的な単独行状況ではなく、全面的な孤立ないしは村八分の恥辱として受けとめられているわけなのだ。
 私は、本書を「ぼっち」の人間の立場で書こうと思っている。


 ぼくは「大学生が携帯電話を持つようになった最初の世代」だ。ぼくの中学生時代は、大人も含めて携帯電話を持っている人はほとんどいなかった。高校一年生のとき、ポケベルを持っている生徒は半数よりやや少ないぐらい、PHS(携帯電話の簡易版みたいなやつ)を持っている生徒はクラスにひとりいたかどうか。
 だが高校一年生のときは「携帯電話を持っているのはクラスにひとりいるかどうか」だったのが、大学一年生では逆に「携帯電話を持っていないのはクラスにひとりいるかどうか」に変わっていた。その三年間で急速に社会が「携帯電話を持つ世の中」へと移行したのだ。


 そういう時代を生きてきたので「携帯電話のなかった時代」も知っているわけだが、小田嶋氏のこの文章には賛同できない。

 携帯電話によるコミュニケーションが一般的でなかった時代(つまりぼくの中高生時代)でも、やはり単独行よりも複数人で行動してるやつのほうが〝上〟という雰囲気はあった。
 まあそれは当人のキャラクターによるところも大きく、たとえばユーモアセンスがあったり運動神経がよかったりして周囲から一目置かれているようなやつの「ぼっち」は〝孤高〟という感じがして、何をやっても人より劣るやつの「ぼっち」は見下されていたわけだけど。
 それでも始終ひとりでいるよりも友だちに囲まれてるほうがいいよね、という感覚はほとんどの人が共通して持っていた。そこは古今東西いっしょだとおもう。


 だから携帯電話やSNSの普及と「ぼっち」の扱いの変化はあまり関係ないんじゃないか、というのがぼくの意見だ。

 むしろ今のほうが「ぼっち」が〝全面的な孤立ないしは村八分の恥辱〟と受け取られにくくなったんじゃないかな。
 だって今はキャンパスでひとりで歩いてる人が、数万人のチャンネル登録数を抱えるYouTuberだったり、世界中の人から注目されるインフルエンサーだったりする可能性があるわけでしょ。
「あいつはひとりで行動してるからさみしいやつだな」ってのはむしろ古い時代の価値観なんじゃないだろうか。まあ今の若い人の価値観なんて知らんけど。




 友だちとはガキのものだと小田嶋氏は喝破する。

 飯干晃一の言う「男の理念型」という言葉もほとんど同じ内容を指している。すなわち、「力」を崇拝し、「徒党」を好み、「身内」と「敵」を過剰に峻別し、「縄張り」に敏感な「ガキ」の「仲間意識」から一生涯外に出ない人間たちを、飯干は「男」および「ヤクザ」と呼んだわけで、別の言葉で言えば、男であることと、子どもであることと、ヤクザであることは、三位一体の鼎足を為す形で、完全に一致している。
 それゆえ、われわれは、子どもっぽく振る舞うか、悪ぶるかしないと「友情の芝居」を貫徹することができない。自然な、ありのままの大人の男であることと、誰かの友だちであることを両立させるのは、やってみるとわかるがひどくむずかしいものなのだ。なんと皮肉ななりゆきではないか。

 なるほど。言われてみれば、「男の友情」と「大人の付き合い」とは相反するものだ。
 ぼくも古くからの友人と話すことがあるが、話すことといえばウンコチンチンみたいな低レベルの話だ。仕事の悩みとか親の介護の話だとかを旧友に話す気にはならない。それは、中年になった今でも友人との関係が「ガキの仲間」であるからだ。

 そして「ワル」と「ガキ」が非常に近い存在であることも、まったくもってその通りだ。
 なわばりを張るとか、力で脅すとか、実利よりも面子を重視するとか、任侠の世界とガキの世界はよく似ている。
 そういや小学生のときは「この公園はうちの学校の校区なのに○○小のやつらが来てるぞ」みたいなことを気にしてたなあ。そうか、ヤクザのやっていることってあれの延長だったのか。


 仕事で知り合った人や娘の友人のお父さんと仲良くすることもある。酒を飲んだり、(子どもを含めてだけど)いっしょに遊んだりもする。
 でもその人たちのことを「友だち」とは呼べない。「親しい人」だ。なぜなら大人の付き合いだから。個人的には「忌憚なく悪口を言い合える関係」こそが友だちなのだが、仕事や子どもを媒介にして知り合った人とはそれはできない。親しくなることはできても友だちにはなれない。




 小田嶋氏は元アルコール依存症患者である。このままだと確実に死ぬと宣告されて完全に足を洗ったそうだが。

 酒をやめたのを機に、飲み友だちとの縁も完全に切れたのだという。

 ある年齢に達した男たちが、アルコール依存というわけでもないのに、どうしても酒場に通わずにおれないのは、たぶん、友だちがいないからだ。
「友だちだから飲むんじゃないのか?」
 違う。酒なら誰とだって飲める。たとえば、犬が相手でも、酒ならなんとか飲める。かなり嫌いな奴でも、酒を飲みながらだったら話ができる。ところがブツがコーヒーになるとそうはいかない。話の噛み合わない奴が相手だと、3分ともたない。
 というわけで、結論。
 コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ。
 ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない。
 たぶん、生前葬の列席者みたいなものだ。

 そうか。仲がいいから飲むのではなく、仲がよくないから飲むのか。
 そうだよな。大学の飲み会にしても職場の飲み会にしても、そこまで気心の知れない相手とめちゃくちゃ盛りあがることはある。それは酒があるから。
 酒は人間関係の潤滑油とはよくいったもので、潤滑油がないとギスギスする関係だからこそ潤滑油がいるのだ。元々スムーズにまわるのであれば潤滑油はいらない。

 ぼくはいっときは毎週のように誰かと酒を飲んでいたが、今ではほとんど飲まない。月に一度ぐらいになり、コロナ以後は三ヶ月に一度になった。
 なぜなら「無理して付きあわないといけない関係」をどんどん断ち切ってきたから。コロナのおかげもあるけど。
 家族とか旧い友人とかと話すときは酒はいらない。無理してテンションを上げる必要がないからだ。

 コロナ禍によって飲酒量が減った人は多いとおもう。
 それは単に感染拡大の場である飲み会が減ったからだけではなく、「緊張を強いられる相手と長時間過ごす場」が減ったからだろう。

 小田嶋さんは「コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ」と書いているが、ぼくの定義では「同じ空間にいて5分沈黙が続いても平気な相手を友だちと呼ぶ」だ。


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