最近ふとおもう。
昔の自分はおもしろいことを言おうとしてたなあ、と。
逆に言えば、最近の自分はおもしろいことを言おうとしていない。
たとえば、同僚から「脚痛いわ~」と言われたとき。
ぼく「どうしたんですか?」
同僚「昨日マラソン大会に出たんですよ」
ぼく「へえ。何km走ったんですか?」
同僚「フルマラソンです」
ぼく「フルマラソン? すごいですねー。普段から練習してるんですか?」
みたいな会話をする。ごくふつうのやりとりだ。順調に会話が進んでいく。
でも若い頃はこうはいかなかった。
「昨日マラソン大会出たんですよ」と言われたら「1時間何分?」とか「なんで走らされたん?」とか「五輪選考会?」とか、“おもしろいこと”を言おうとしていた。いや、実際におもしろいかどうかはわかんないけど、とにかく“ふつうの人が言わなさそうなこと”を言っていた。いわゆる“ボケる”という行為だ。
もちろん誰かれ構わずボケていたわけではなく気心の知れた相手に対してだけだが、とにかく「隙あらば笑いをとってやろう」と身構えていた。
いや身構えていたというのは正確ではないな。なぜならべつに「笑いをとってやろう」と意気込んでいたわけではなく、デフォルトが「ふざける」で、これといったボケが思いつかないときだけ「ふつうに返答する」を選択していたから。それぐらいおもしろいことを言おうとするのがふつうだった。
とにかく、おもしろい人間だとおもわれたかったのだ。そんじょそこらの人とはちがうとおもわれたかったのだ。
そんなぼくも四十代になった。
昨今では「ごくふつうの受け答え」が標準になった。聞かれたことに正面から答える。いちいちボケない。相手が望んでいるであろうリアクションをとる。
よほど絶妙なタイミングでおもしろいことをおもいついたら口にすることはあるけど、基本は「どうってことのない返答」だ。とにかく、波風を立てないことが最優先。
べつにおもしろい人とおもわれなくていい。そんじょそこらの人でいい。オレはチームの主役でなくていい。
我執がなくなっているのを自分でも感じる。
四十歳を過ぎて、この先自分が「特別な人」になる可能性がほぼなくなったから。
結婚して、中年になって、もうモテる必要がなくなったから。
子どもが生まれて、自分の人生が自分のためのものでなくなったから。
「そんじょそこらの人」として生きることにしてしまえば、人生はずいぶん生きやすい。
なんせおもしろいことを言おうとしないのだからウケるタイミングを見計らう必要もない。スベることもない。「あいつおもしろいことを言おうとしてウケなかったな」とおもわれることもない。
でも自分の変化に気づいてふっと寂しくなることもある。
ふだんからおもしろいことを言おうとしなければ、反応速度も落ちる。だいぶん後になってから「さっきああ言えばウケただろうな」と気づくこともある。
若い頃のぼくが今の自分を見たら、きっと「つまんないおっさん」とおもうだろうな。今のぼくには返す言葉もない。「そう、つまんないおっさんなんだよ」とつまんない返答をするだけだ。
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