2020年3月31日火曜日

【読書感想文】ザ・SF / 伴名 練『なめらかな世界と、その敵』

なめらかな世界と、その敵

伴名 練 (著)

内容(e-honより)
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの1度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曾有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6篇。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。

星新一が好きだったので学生時代に筒井康隆、小松左京、かんべむさしといったあたりのSFを読んではいたのだが何十冊か読んだところでSFが性に合わないことに気づき(気づくの遅いな)、久しく遠ざかっていた。
海外の有名作品をちょろちょろと読んでいたけど、日本SFはなんとなく敬遠していた。伊藤計劃ですら読んでいない。

で、久しぶりに手に取った国内SFが『なめらかな世界と、その敵』。
本格的なSF短篇集だ。
六篇が収録されているが、どれも文体やテーマがぜんぜん異なる。そしてそれぞれちがうおもしろさがある。これだけでも大した才能だと感心させられる。
SF界の将来を担う新進気鋭の新星、みたいな評価を先に知っていたので少し身構えていたのだが、なるほど前評判にたがわぬ短篇集だった。

とはいえ「ザ・SF」という感じなので、SF初心者におすすめはしにくいかな。



なめらかな世界と、その敵


人々が[乗覚]なる能力を身につけた世界が舞台。
[乗覚]というのはパラレルワールドをいったりきたりできる能力というか。教師からお説教を食らったからその間は[お説教を食らわない別の世界]に行ってやり過ごす、とか。交通事故に遭ったから[交通事故に遭っていない世界]に行くとか。
そういうことができる能力。

RPGでセーブデータを切り替えるようなものだろうか。
失敗したからリセットボタンを押して他のセーブデータに切り替える。

パラレルワールドへの移動自体はSFによくあるテーマだが、この作品の設定のすごいのはパラレルワールドが無数にあってその中から好きな世界を選択できること。
たとえば[水の上を走ることができた世界]なんかにも行けちゃう。こうなるともう何でもありだ。しかも世界中の人がこの能力を持っている。
もう収集がつかなくなりそうだが、それでもこの小説の登場人物たちは他の世界に行ったり来たりしながらそれなりの秩序を持って生きている。わけがわからない。

なのにちゃんと小説として起承転結の中に落としこんでいるのは高い筆力のたまものだ。
[乗覚障害]という乗覚を失った人物を出すことでさりげなく[乗覚]を説明するとことか、ほんとうにうまい。
こないだ読んだ某小説がそのへんほんとへたで不自然かつ冗長な説明をくどくど並べていたので、それと比べて余計に巧みさに感心した。



ゼロ年代の臨界点


日本のSF小説は1900年代の女性作家たちによってつくられた、という真っ赤な嘘をさも史実であるかのような語り口で説明。小説というか嘘ノンフィクションというか。

おもしろかったが、日本SFの黎明期を支えた星新一のファンとしてはちょっと複雑。フィクションとはいえ、星新一の功績がなかったことにされてるんだもの。

しかし現実には女性SF作家って少ないよなあ。ぼくが知らないだけかな。
ぼくが知っているのは栗本薫、新井素子ぐらい。漫画だと萩尾望都。古いなあ。
SFは特に女性が少ない分野だとおもう。だからこそこの作品が小説として成立する。ほんとに女性SF作家が増えたら『ゼロ年代の臨界点』のおもしろみが消えちゃうだろうな。



美亜羽へ贈る拳銃


伊藤計劃の『ハーモニー』や『虐殺器官』に対するトリビュート作品として発表されたものだそうだ。
ぼくは伊藤計劃作品を読んでいないので正しく評価できないとおもうのだが、それでもおもしろかった。
登場人物の造形がみんなつくりものじみている。リアリティのかけらもない。ふつうなら欠点でしかなさそうなものだけど、この人の小説に関してはそれがかえってしっくりくる。
ハードな設定のSFになまぐさい人間味はいらないのかもしれない。



ホーリーアイアンメイデン

自殺した妹が、生前に姉に宛てて書いていた手紙からなる短篇。
ううむ。書簡文学って嫌いなんだよなあ。不自然きわまりないから。相手も知っていることをそんなにことこまかに説明するわけがないだろ。
ストーリーにも意外性はなく、これは凡作かな。



シンギュラリティ・ソヴィエト

ソヴィエト連邦が西側諸国より先にシンギュラリティ(技術的特異点。人工知能が人間を超える瞬間)を迎えた世界が舞台。
ヴォジャノーイという人工知能が世界を統治し、人間は脳をヴォジャノーイに演算装置として貸しているという発想がおもしろい。
「あなた方は我々に勝つためにヴォジャノーイを作り、我々はあなた方に追い付き追い越すためにリンカーンを作った。しかしいつの間にやら、競っているのは我々とあなた方ではなく、リンカーンとヴォジャノーイそのものになった。ヴォジャノーイは勝利のためにあなた方やその他の生命を演算資源にしようとするし、リンカーンは勝利のために我々を眠らせようとする。チェスを指しているうちに、駒と指し手が入れ替わってしまったようなものだ。今この時も、ヴォジャノーイとリンカーンはそれぞれの国民を駒に見立てて、チェックをかけるため互いに戦略をぶつけ合っているが、盤上の駒に過ぎない我々には、戦略や戦局どころか、どこに動かされているのかさえ分からないし、自分が既に盤面から下ろされたのかどうかも分からない。……こちらがどうやって『これ』を見せているか、お尋ねにならないのですか?」
今は我々がコンピュータを外部の記憶・演算装置として使っているわけだけど、それと逆のことが起こるのだ。ふうむ。たしかに人間の脳ってすばらしくよくできているから、それを人間に使わせるのはもったいない。優秀な人工知能が使ったほうがよりよく効率的に活用できるかもしれない……。

ソヴィエトに敗れたアメリカ人たちは次々に現実逃避して電脳の世界ですばらしい世界(に見えるもの)を享受する。
人工知能に支配されているソヴィエト人と、人工現実の世界に救いを求めるアメリカ人。これぞ人類の終わり。でもどっちもそんなに不幸ではなさそう。
家畜がさほど不幸に見えないのと同じだな。

すごく精密な設定のわりに妙にばかばかしいオチはあまり好きじゃないが、設定はおもしろかった。



ひかりより速く、ゆるやかに


多くの修学旅行生を乗せた新幹線のぞみ号が突如動きを止めた。乗客も含め完全に停止した。……かに見えたが、よく調べてみると新幹線とその中だけ時間の流れがきわめてゆっくりになっているのだ。外の世界の二千六百万分の一の速度。このままだと、この新幹線が名古屋駅に停車するのは西暦四七〇〇年……。

意味不明の現象が起きたという導入はいいのだが、その後の展開がちぐはぐな気がする。
「名古屋駅に停車したら再び動きだす」という前提で主人公たちは行動しているのだが、それがまったくもって意味不明。元に戻る保証なんかまったくない。それどころか戻らないと考えるほうが自然じゃない?

その後も、きわめて少ないサンプルをもとに根拠の薄い憶測に従ってどんどん行動していく。
それも「1%でも可能性があるなら賭けてみる!」みたいな感じではなく、「前はこうだったからまた同じになるでしょ?(サンプル数1)」というぐあい。要するにバカ。
主人公たちがバカだから(バカの勘がたまたま当たったけど)共感できない。
設定はおもしろかったけどなあ。



ということでちょっと尻すぼみ。
全体的に「設定はものすごくおもしろいんだけどその後の話の転がり方に無理がある、不自然だ」という作品が多く、良くも悪くもハードSFらしい短篇集だったな。


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2020年3月30日月曜日

評価基準が外部にある人


評価基準が外部にある人はたいへんだろうな。

極力そういう界隈とか関わらないようにしているのだが、幼なじみにひとりだけいる。
しょっちゅうパーティーとかやって、Facebookに「今日は〇〇さんと会いました! 明日は△△でお食事です! 来月はロンドンに行きます!」みたいな報告をしているやつが。

なんだか見ているだけでこっちが疲れる。
「自分をよく見せる」ことに全身全霊を傾けていて、しかもそれがわかっちゃうものだから痛々しい。
本人はハッピーそうに見せているのだから他人がとやかく言うことではない。
彼の投稿を見るたびにうげえとつぶやいてそっとブラウザを閉じる。見なきゃいいじゃないかと言われるとそのとおりなのだが、でもときどき怖いもの見たさで見にいっちゃうんだよね。そしてそのたびにげんなりする。

ことわっておくが、そいつはいいやつなのだ。
そいつのことはぜんぜん嫌いじゃない。
まあいいやつに決まってる。周囲からよく見られたいという行動原理で動いてるのだから、当然明るく社交的で親切なのだ。嫌いになる要素がない。

だからこそ、しんどい。
いいやつが、勝ち目のないレースに参加しているのを見るのがつらい。

そう。勝ち目がないのだ。
「他人からよく思われるレース」に勝者はいない。全員が敗者だ。

だって、自己評価を他人の評価が上回ることなんてないんだもの。ぜったいに。
自分に対する自己評価が10としたら、他者が自分に下す評価なんてせいぜい2とか3とかだ。
5あったらいいほう。もしかしたら0とか-5とかかもしれない。

思春期のときなんかはそのギャップに悩む。ぼくも悩んだ。
でもだんだんわかってくる。この差はぜったいに埋まらないものなんだと。自分以上に自分を評価してくれる人なんておかあさんだけなんだと。

もちろんちょっとでも埋めようと努力するのはすばらしいことだけど、残念ながら努力しても差は縮まらない。それどころか開く一方。だって自分の努力をいちばんわかってくれるのは自分なんだもの。

だから他人の目なんか気にしなくたっていい。まったく気にしないのも問題だけど、それより自分がどう感じるかが百倍大事だ。
……とまあ、多くの人は二十代三十代ぐらいでこういうことをちょっとずつ悟るんじゃないかな。


しかしFacebookには「他人からよく思われるレース」出走者がたくさんいる(Instagramにもいるんだろうけどぼくはやってないので知らない)。

おれってこんないい暮らししてるぜ、オレっちはこんなに有名な人と付き合いあるんだぜ、ボクチンはこんな楽しい日々を送ってるんだぜ。

見るたびに心が痛む。
もうやめようぜ。そんな不毛な戦いは。
その先に幸せはないんだから。

やめてくれ。そんな必死に自己顕示をしなくたっていいじゃないか。
大丈夫だ、ぼくはわかっている。
そんなアピールをしなくたって、おまえが十分すごいやつだってことを。
ぼくは評価しているから大丈夫だ。おまえ自身の評価の二割ぐらいは評価してあげてるから。


2020年3月29日日曜日

六歳児とのあそび

六歳の娘と最近よくやる遊び。

◆ おぼえてしりとり

しりとりをしながら、これまでに言ったものをおぼえるという遊び。
「りんご」
「りんご、ごりら」
「りんご、ごりら、らっぱ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ、つみき」
……とだんだん長くなっていくしりとり。記憶力が試される。

高校時代、友人たちとの間でこの遊びが流行ったのだが、当時のぼくは無類の強さを誇っていた。ほとんど無敗。短期記憶が強いのだ。三十ぐらいまでならほとんど苦労せずに覚えられる。

さらに「かもしか」「いか → かい」のように同じ文字のワードを近接させると飛ばしてしまいがちになるとか、「なかよし」「げんき」のような抽象的なワードを言うことでイメージしにくくさせるとか、容赦ないテクニックを使って六歳児相手に連勝している。

ちなみにこれ、三人以上でやると格段にむずかしくなる。
自分の言ったワードより他人が言ったワードのほうが思いだしにくいからだ。

これの別バージョンとして「おぼえて古今東西」もやる。
赤いもの、というお題で
「りんご」
「りんご、ポスト」
「りんご、ポスト、トマト」

「りんご、ポスト、トマト、赤信号」

……とやっていくのだ。こっちは単語同士の間につながりがないためさらにむずかしい。

◆ キャラクターあてクイズ

「はい」か「いいえ」で答えられる質問をくりかえして、相手が思いうかべたキャラクターをあげるゲーム。
アキネイター の人力版だ。

選ぶのはぼくと娘の両方が知っている人でないといけないので、アニメのキャラクターや、親戚、保育園の友人など。

娘は慣れないころは序盤に「青いですか?」と質問したりしていたが(ドラえもんしかおらんやないか)、「人間ですか?」「女ですか?」「大人ですか?」のようにおおざっぱな質問をして徐々に狭めていくのがコツだよ、と教えると徐々に上達してたいてい十以下の質問であてられるようになってきた。

キャラクターだけでなく「場所」「動物」「食べ物」などでもやる。
ただし娘の知識が乏しいため、「卵を産みますか?」「いいえ」だったのにカメだったとか、「緑ですか?」「いいえ」なのにトウモロコシだったりとか(緑の皮に覆われていることを知らなかった)、意図せぬ嘘が混じって難問になることがある。

◆ めいろ、あみだくじ

娘は昔から迷路が好きだったのだが、最近は自分でそこそこ骨のある迷路をつくれるようになってきた。
以前は娘が作る迷路は分かれ道がなかったり、すべてが行き止まりだったりしたのに……。成長したなあ……うう……。

なので娘が作った迷路をぼくが解くことになる。らくちんで助かる。
昔は「めいろつくってー」と言われて十分ぐらいかけて大作をつくっても一分で解かれて「べつのつくってー!」と言われていたなあ……。あれはつらかった……うう……。

めいろもあみだくじも、ぼくも子どものころ好きだった。あとサイコロと。
単純な遊びなんだけど、おかげで高校数学の順列組み合わせとか確率とかを難なく理解できたので、何が役に立つのかわからない。

◆ めいたんていゲーム

1から7までの数字の中から、重複しない三つを紙に書いて相手に見せないようにする(2,4,7など)。
相手は、数字を予想して「1,2,5」と言い、それに対し出題側は「1つあたり」と答える(順番はどうでもいい)。
これをくりかえし、三つとも的中させるまでの質問数が少ないほうが勝ち。当然論理的思考力が必要になるが運の要素もあるので、三回に一回ぐらいは娘が勝つ。

ヒットアンドブローというゲームの簡易版。



娘には賢い人になってほしいとはおもうが、いかにも教育的なことはしたくない。

娘の友人たちは塾や英会話教室に通ったりしているが、ぼくはまだいいんじゃないかとおもっている。
足し算引き算を一、二年早くおぼえたところで十年たったらいっしょだし、それよりは学ぶことのおもしろさを今のうちに知ってほしい。

考える、知る、調べるっておもしろいんだよ、ということを伝えたい。

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四歳児とのあそび



2020年3月27日金曜日

ユニバーシティのキャパシティ


最近、大学の講義はチャットで質疑応答をしたりするところがあるらしい。

講義に対して質問や意見があれば、受講者はスマホを使いチャットで質問をする。
講師はそれを見ながら、回答・解説を講義に織りまぜてゆくのだという。

なるほど。
いい仕組みだとおもう。
手を挙げて質問をするよりぐっとハードルが下がる。文章でまとめて質問するほうが論理的な内容になるだろう。
講師にとっても、受講者の理解度がつかみやすいし、質問が文字として記録に残るので次回以降の講義にも活かしやすい。

しかし。
それだったら、もう一箇所に集まって講義をする必要もないのではないだろうか。
講義をネットで生配信して、受講者は自宅で視聴すればいい。どうせ質問はチャットなのだ。
どうせ大学の授業の出席なんてさして重要でないのだ。
そうすると講師は東京にいて、受講者は全国各地にいるなんてことも可能になる。
もしかすると大きな大学だともうやっているかもしれない。

待てよ。
この考えを突きつめていくと、そもそも大学の定員自体が必要なくなるんじゃないか?
入学試験という選抜制度をあたりまえのように認識しているけど、本来は物理的な制約から生まれた制度なんじゃないだろうか。
理想をいえば意欲と能力のある人なら誰でも勉強できるようにしたほうがいい。だけど教室に収容できる人数は物理的な制約がある。だから入学試験をおこなって選抜する。
ネットであれば制約はないに等しい。何万人が視聴しようが、せいぜいサーバーを増強するだけで済む。
だったら「ネット環境さえあれば誰でも受講できるよ! 日本中、いや世界中どこにいたってオーケー。年齢も職業も問いません。八十歳でもいいし、理解できるなら十歳でもいい。勉強したい人は誰でもウエルカム!」とできるし、少なくとも国立大学はそうするのが本来の在り方じゃないだろうか。

まあさすがに試験やレポートは採点の労力があるので人数無制限ってわけにはいかないが、講義に関しては一般無料公開でいいんじゃないだろうか。

もう希望者全員東大生でいいんじゃない?


2020年3月26日木曜日

【読書感想文】語らないことで語る / ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』

本当の戦争の話をしよう

ティム・オブライエン (著)  村上 春樹 (訳)

内容(e-honより)
日ざかりの小道で呆然と、「私が殺した男」を見つめる兵士、木陰から一歩踏み出したとたん、まるでセメント袋のように倒れた兵士、祭の午後、故郷の町をあてどなく車を走らせる帰還兵…。ヴェトナムの・本当の・戦争の・話とは?O・ヘンリー賞を受賞した「ゴースト・ソルジャーズ」をはじめ、心を揺さぶる、衝撃の短編小説集。胸の内に「戦争」を抱えたすべての人におくる22の物語。

じっさいに兵士としてベトナム戦争に行き、仲間を失い、敵(と呼べるのかどうか)を殺した著者による戦争小説集。
小説、創作とは書いているが、大部分はほんとうにあったことなんじゃないかな。フィクションとノンフィクションの境界をわざとあいまいに書いているけど。

タイトルのとおり「本当の戦争の話」という感じがする。
ぼくは戦争を経験したことないけどさ。
でもわかるんだよ。作者は本当のことを書こうとしているということが。

何も断定しようとしない。教訓を引きだそうとしない。わかりやすい因果関係を探さない。責任の所在を見つけようとしない。すごく誠実な態度だ。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、正確な未来予測ができるのは以下のようなタイプなんだそうだ。
  • 自分はまちがっているのでは? という疑いを常に持つ
  • 自らの思想信条に重きを置かない
  • あいまいなものはあいまいなままにしておく
  • 頻繁に検証を重ね、自らのまちがいを認める
要するにほとんどの政治家やコメンテーターとは真逆のタイプ。
ティム・オブライエン氏は、予測力の高いタイプの人間なんだろうなとおもう。
わからないものはわからないものとして扱う。決めつけを避ける。シンプルな法則を見いだそうとしない。
戦争の得体の知れなさをそのまま読者に提示している。



『本当の戦争の話をしよう』を読むと、戦争を一言で語るなら「一言では語れない」なんだろうとおもう。パラドックス。

ぼくは学校で、戦争は単純なものだと教わってきた。
いわく「戦争は悲劇だ」「戦争は残酷だ」「戦争は悪だ」「戦争は二度としてはいけない」。
スローガンとしてはそれでいいのかもしれない。でもそれは本当の戦争の姿を伝えていない。

『水木しげるのラバウル戦記』には、南方に出兵した水木しげる氏が、アンパンを食べられなかったことを何度も悔やんでいたという記述があった。
これもまた戦争の姿だ。
『本当の戦争の話をしよう』には、ガールフレンドのストッキングを首にまきつけている兵士や、意味なく仔牛を殺す兵士や、下品な冗談を言いあう兵士の姿が描かれている。これもまた戦争の本当の姿だ。

「戦争は残酷だ」の一言からは、そういった人間の姿がこぼれ落ちてしまう。笑い、おびえ、踊り、妬み、恥じらい、あきらめ、歌い、ふざける兵士たちの姿が見えなくなってしまう。

本当の戦争は語りつくせない。だからティム・オブライエン氏は語る。とりとめもない話をくりかえすことで。



有史以来人間はさまざまな戦争をしてきたが、ベトナム戦争ほど兵士たちが戦う意味を見いだせなかった戦争はなかなかないだろう(米軍の兵士にとっての話ね)。
祖国や家族を守るためでもない。敵に恨みがあるわけでもない。そもそも敵かどうかもよくわからない。だけど戦わなくちゃいけない。戦っても自国民から感謝されない、それどころか非難を受ける。終わりが見えない。誰と戦っているのかもわからない。

帰還兵のPTSD発症率も高かったという。そりゃそうだろう。
命を削って敵と戦い、味方だとおもっていた人間からも石を投げられるんだもん。

ティム・オブライエン氏は発狂はしなかったかもしれないけど、深く傷を負ったことはまちがいない。
それは「死に直面したから」「仲間の死を目の当たりにしたから」「人を殺したから」なんて単純な理由によるものではない。そうやって語れるようなものではないからこそ、小説を書くことで語らずにはいられないのだろう。

『本当の戦争の話をしよう』は、戦争の悲惨さを伝えるために書かれたような本ではない。
作者自身の魂の救済のために書かれたものだ。



最後に。
これは名文だとおもった文章。
 ノーマン・バウカーとヘンリー・ドビンズが毎日日没の前にチェッカーをやっていたことを覚えている。それは二人にとっては儀式みたいなものだった。二人はたこつぼを掘って、チェリッカー盤を取り出し、ピンクから紫にと変化していく夕空の下で黙りこくったまま延々とゲームに耽った。我々は時折足をとめてゲームを見物した。そこにはなにかしら心の休まるものがあった。秩序正しく、そして見ているだけでほっとできる何かがあった。それは赤い駒と黒い駒の戦いだった。完璧な碁盤目がその戦場だった。そこにはトンネルもなければ、山もジャングルもなかった。自分がどこにいるか、はっきりとわかる。得点だって把握できる。駒は全部盤の上に載っているし、敵の姿だってちゃんと見える。作戦がより大きな戦略へと展開していく様をこの目で見ることもできる。そこには勝者がいて、敗者がいる。そこにはルールというものがある。
この文章、すごくない?
この文章はチェッカー(テーブルゲーム)について語っているだけ。戦争については何も書いていない。なのに「戦争とはどういうものか」がひしひしと伝わってくる。

書かないことで語る。すげえなあ。

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2020年3月25日水曜日

自動運転車の形状


いろんな会社が自動運転技術を搭載した自動車を開発しようとしている。
試運転の映像を目にすることがあるが、今の自動車と見た目はほぼいっしょだ。

ふとおもう。
自動運転車は、あの形じゃなくていいんじゃないだろうか?

今の自動車の形状はたぶんベストに近いとおもう。
いろんな人が長い間数々の試行錯誤をくりかえして、今の形にたどりついたのだろう。

だからといって、自動運転車が同じ形である必要はない。
むしろ別の形のほうがいいとおもう。

だってまず運転席がいらないわけでしょ。
まあ最初は「必要に応じて人間が運転する」みたいなやりかたをとらざるをえないだろうけど、完全に機械にまかせっきりになったら運転手はいらない。
ということは運転席もいらない。助手席もいらない。今だって助手席の乗員がほんとに助手として働いているのって教習車ぐらいだ。
もっといえばフロントガラスだっていらない。前が見えなくたってかまわない。電車に乗るのと同じ感覚なんだから。電車で前方を見てる乗客って鉄道ファンと子どもだけだもん。
もちろんバックミラーもいらないしウインカーもいらない。
ヘッドライトは……いるか。歩行者のために。

今の自動車は「運転しやすい」「事故に遭ったときに乗員を守る」といった点を重視して設計されているけど、運転が必要なくなり、事故に遭う可能性もほとんどなくなったらエネルギーコストと乗り心地だけ考えればいいことになる。

ほぼ半球形に落ち着くんじゃないだろうか。完全自動運転が実現した社会の自動車は。
空気抵抗も少ないし、ぶつかったときの衝撃も小さくなるし。
テントウムシみたいな形の自動車がいっぱい走ることになる。

半球の周辺部ににエンジン類を積みこむ。すると中はほぼ直方体の部屋になる。
これがいちばん快適に過ごせる。

リクライニング椅子を置き、前には机。
未来の自動車はあんまり揺れないから、車内でひまつぶしができるように机にはパソコン。脇にはひまつぶし用の漫画。

これはあれだ。
漫画喫茶だ。
未来の自動車は走る漫画喫茶だ!


2020年3月24日火曜日

文才がある


学生のとき、よく自作の文章を書いて友人たちに見せていた。
何人もの人から「おまえは文才があるな」と言われた。ぼくは真に受けて、そうか自分には文才があるのかと信じきっていた。

そこからいろいろあって、今では自分に非凡な文才などないことを知っている。
読み手の心を揺さぶる文章だとか、巧みな描写だとか、玄人が舌を巻く表現とか、そういったものはまるで書けない。
ビジネス文書を書くのは得意だが、それは文才と呼べるようなものではない。
ぼくの場合、「書くことがあまり苦にならない」であって「書くのがうまい」わけではないのだ。

そう。
最近になってようやくわかった。
世の中には、まとまった分量の文章を書くことすらできない人がたくさんいるのだ。うまいへた以前に、書けない人が。
Twitterが世に出たとき「ブログとかmixiとかFacebookでいいのに、なんで140字しか書けないものをみんなわざわざ使うんだろう」とふしぎだった。
今ならわかる。「140字を超える文章を書くのがすごく苦痛な人」は存外多いのだ。

そういう人にとっては、長い文章を破綻なく書けるというだけで「文才のある人」だ。


ぼくは、いってみれば「42.195kmを走りきれる人」だ。
これだけでも、マラソンをやっていない人からしたらすごいことだ。
でも42.195kmを走れることはトップ選手になるための必要条件であって、十分条件ではない。
「42.195kmを走りきれる人」と「一流マラソンランナー」には遠い隔たりがある。
同じように、「長い文章を難なく書ける人」と「文才のある人」はまったく違う。
そんなかんたんなことに、最近になってようやく気づいた。

ということで、文章を書けない人の「文才がある」を真に受けちゃだめだぜそこの若ぇの。

2020年3月23日月曜日

倍倍菌

中学校の数学の授業で「文字につく1は省略して表記する」と教わった。

「2x」とは書くが「1x」とは書かない、「x」と書けばそれは「1x」のことなのだ、と。

数式にかぎった話ではない。

「おれは億を稼ぐ」といえば1億円のこと。2億円ではない。
「箱」とか「ダース」とか「カートン」とかも、特に数字をつけない場合は「1箱」「1ダース」「1カートン」だ。

単位につく係数(3xの3の部分が"係数")が省略されている場合は、係数は1である。
どんな単位でも。


ところがひとつ例外がある。

「倍」だ。
ただ「倍」という場合、それは「2倍」のことだ。「1倍」ではない。

「1倍」の場合はわざわざ「等倍」なんて言葉を使う必要がある。

「倍」だけが1ではなく2を省略する。
ちょっと考えてみたけど、ほかにこんな言葉はおもいつかない。

「倍々ゲーム」といえば、それは[1 , 1 , 1 , 1 , 1 ,……]ではなく[1 , 2 , 4 , 8 , 16 ,……]のことだ。



ところでふとおもったのだが「倍々ゲーム」ってなんなんだ。
「ねずみ算式」とか「等比級数的に増加」ならわかる。
でも何かが倍倍ペースで増えてゆくゲームなんか見たことも聞いたこともないぞ。

ひとつおもいつくのは、むかし北杜夫氏が書いていた『ルーレット必勝法』だ。
カジノのルーレットで、赤に1ドルを賭ける。はずれたら今度は赤に2ドル賭ける。それでもはずれたら次は4ドル賭ける。次は8ドル、その次は16ドル……。
とやっていけば、いつかは当たる。そうするとこれまでの収支で1ドルだけプラスになる。
という理屈だ。

一見もっともらしいが、これは「資金が無尽蔵にある」ことが前提の話だ。
はじめは1ドル2ドルであっても、13回目の賭け金は1,000ドルを超え、15回目には10,000ドルを超え、18回目には100,000ドル、21回目には1,000,000ドルを超える。
20回もはずれつづけることはめったにないが(赤になるのが1/2の確率だとしても100万回に1回ぐらい。実際は赤でも黒でもないこともあるのでもっと多い)、長くやっていればいつかは訪れる。資金が尽きればそこでジ・エンド。
「必ず1ドル稼げる必勝法」は「途中で降りるに降りれず莫大な損失を生みだす賭け方」になる。
(北杜夫氏の名誉のために書いておくともちろん氏はこれが必勝法でないことはわかって書いている)

「倍々ゲーム」とはルーレットのことだろうか。
しかし倍々に賭けていくのは戦略のひとつであって、ほとんどの人は倍々ゲームをしない。

なんで「倍々ゲーム」なんだろう。「倍々方式」でいいんじゃないか。
ゲーム理論の「ゲーム」だろうか。
それにしても倍々になっていくゲーム理論なんて聞いたことないけどなあ。

2020年3月21日土曜日

ツイートまとめ 2019年5月


懐中電灯

痴漢

コロンブス

地平線

古本市

怨念

負けっぷり

連休明け

象徴

育児

コンテンツ

タワーマンション

うそみたいなほんとの話

うそだとおもうなら

下着

京都

ダービー

見た目

なんもしてないのに

2020年3月19日木曜日

【読書感想文】「没落」の一言 / 吉野 太喜『平成の通信簿』

平成の通信簿

106のデータでみる30年

吉野 太喜

内容(e-honより)
平成元年。消費税が施行され、衛星放送が始まり、日経平均株価は史上最高値をつけた。それから三十年、日本はどれくらい変わったのか?家計、医療費、海外旅行、体格、様々なアングルからこの三十年間の推移を調査。平成日本のありのままを浮き彫りにする。

昨年、『FACTFULLNESS』という本を読んだ。
さまざまなデータを示して、「みんな悲観するけどほらじっさいは世界はこんなに良くなってるんだよ~」と紹介する本だ。
病気で死ぬ人は減った、戦争も減った、子どもは教育を受けられるようになった、豊かな暮らしができるようになった、と。

その本に載っているデータはもちろん本当で、世界が多くの人にとって生きやすい世の中になっていっているのはまちがいない。
でもその一方でぼくは「いや世界は良くなってるんだろうけど、でもぼくらが生きる日本についてはどうなのさ」ともおもった。

たとえば1989年(平成元年)の若者と2019年(令和元年)の若者、どっちが生きやすいんだろう?
もちろん物質的には2020年のほうが豊かだろう。スマホあるし。それだけで圧勝。写ルンですでは勝負にならない。
でも「将来に希望を持てるか」とか「周りと比べて自分は恵まれない境遇にあるとおもう人はどっちが多いか」とか「今の社会は自分にとっていい社会か」とか尋ねたときに、令和元年の若者からより前向きな答えを引きだせるだろうか。

世界は全体的によくなっている。それはまちがいない。
でも人が幸福を感じるのは絶対的な尺度よりもむしろ相対的な優位性による面が大きい。
日本人は、三十年前と比べて幸福になったのだろうか?



ということで『平成の通信簿』。
平成のはじまりと終わりで比べて、日本をとりまく状況がどう変わったのかをデータで示す。
「日本版・FACTFULLNESS」といった内容だ。

で、ぼくがもともと悲観的な見方をしていたからかもしれないけど、やっぱり残念なデータが目立つ。
 1989(平成元)年の日本の一人あたりGDP(名目)は、世界第4位であった。1988年の第2位からは少し下がったものの、米国やイギリス・フランス・ドイツを上回り、スイスや北欧諸国など、欧州のトップグループと同じ層にあった。
 では現在は、どうなっただろうか。一人あたりGDPの順位は、2000年の第2位をピークに低下をつづけ、2017年のランキングでは日本は25位となった。このランキングには、マカオ、アルバなど、国家ではない地域も含まれているので、これらの扱いによって順位の数字は微妙に異なりうるが、傾向は変わらない。現在の日本は、かつて首位を争った欧州のトップグループからは引き離され、イギリス・フランス・ドイツなど欧州の一軍グループからやや後れをとりつつある。そして、イタリア・スペインなど欧州の二軍グループや、韓国・台湾が後ろに迫っている。
 1989(平成元)年当時、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位であった。世界経済全体に占める日本のシェアは15.3%で、3位から5位のドイツ・フランス・イギリスを合わせたのと同じくらいあった。ニューヨーク・ロンドン・東京が世界の三大証券市場であり、米国・欧州・日本が世界経済を考えるうえでの三本柱であった。
 最新のランキングはどうなったか。2017年の日本のGDPは、米国、中国に次ぐ世界第3位となり、世界経済におけるシェアは6.5%にまで低下した。
 日本のGDPは、1989年から2017年の間に1.6倍に増えている。これだけを見ると、「失われた20年」とはいえ、なかなか増えているものだと思われるかもしれない。しかし世界の中でみると、日本はこの3年間でもっとも成長しなかった国のひとつである。
 世界全体のGDPは、この間に4.0倍になった。中国は26.1倍、インドは8.7倍、韓国は6.3倍、米国は3.5倍。ヨーロッパの国々は世界平均よりも低いが、それでもドイツ3.0倍、フランス2・5倍、イタリア2.1倍となっている。日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目である。ちなみに、日本よりも下位は、中央アフリカ(1.4倍)、ブルガリア(1.3倍)、リビア(1.1倍)、イラン(1.1倍)、コンゴ民主共和国(1.0倍)となっている。なお戦争のあったシリアやイラク、アフガニスタン、あるいは北朝鮮など、このデータには含まれていない国もある(3-2)。
経済力だけでいえば「没落」の一言に尽きる。「凋落」でも「零落」でもいい。
もちろん他国が伸びたから、というのもある。日本は早い段階で成長しきっていたからのびしろが少ないのもある。
とはいえ。とはいえ。
「日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目」ってのはあまりに衝撃的なデータだ。
日本より下位の中央アフリカとかリビアとかコンゴ民主共和国って、クーデターや内戦があった国だからね。それらの国よりちょっとマシってのが日本の30年。
大きな自然災害があったとはいえ、戦争もないのにこの数字ってのは相当なもんですよ。
ちなみに高齢者人口が増えてるのは日本だけじゃないからね。同じくらい高齢化が進んでても経済成長してる国もあるからね。高齢化だけのせいにしちゃだめよ。

国の経済が伸びていないのだから、もちろん国民の暮らしは悪くなっている。
支出の内訳でいうと、家賃、インフラ代、家賃、交通費、医療費などの「生きていくために必要なお金」の額が増え、被服費、教育費、娯楽費、交際費などの「余裕のある暮らしをするためのお金」が減っているそうだ。
うーん、せちがらい。ほんとに貧しい国になってるんだなあ。

これを「失政」と呼ばずして何を失政と呼ぶって感じだけど、為政者が責任をとるどころか総括すらしないわけだから、日本の凋落は令和の世になっても止まらないだろうな。

せめて認識だけでも改めないとね。先進国という意識は捨てないと。
モンゴルとかポルトガルといっしょですよ、日本は。
はるか昔に世界の覇権を手に入れそうになった国。それだけ。今は見るかげもない小国のひとつ。

もっとも、個人的にはそれでいいとおもうんだけどね。
没落した中小国家のひとつとしてやっていくならそれなりに幸せにやっていける道はある。小国には小国の幸せがある。
そこでオリンピックだ万博だと身の丈にあわないことを言いださなきゃ、ね。
そういうのは先進国さんや成長中の国家さんに任せましょうよ。ねえ。



国債について知らなかったこと。
 国債には、建設国債と赤字国債(特例国債)がある。公共事業など後世に残る資産を作るために一時的に資金を借りるのが前者、単なる借金が後者である。ただし建設国債で作ったものが本当に資産になるかはわからないので、この区分はかなり恣意的なものである。とはいえ、昭和の日本には、後世のために何かを作る建設国債ならともかく、後世の負担にしかならない赤字国債を発行してはいけないという矜持が一応はあった。
 高度成長期はおおむね均衡財政を維持してきたが、70年代から低成長期に入ると悪化、1975(昭和62)年度、ついに赤字国債を発行するに至った。財政規律はいったん緩むと歯止めがかからない。国債残高はたちまち増加、当時OECDで最悪の水準にあったイタリアと肩を並べるに至った。これに危機感を持った当時の政府は、国鉄や電電公社の民営化など財政再建に取り組んだ。バブル景気の税収増加にも助けられ、1991(平成3)年度の赤字国債の発行額はゼロとなった。
ぼくなんか物心ついたときから日本が借金まみれだから、借金があるのがあたりまえだとおもっていた。国の財政ってそういうものなんだと。
でもそうじゃないんだね。
1975年までは赤字国債を発行していなかったし、1991年も赤字国債はゼロだった。
借金がないのが健全なのだ。そんなあたりまえのことを忘れていた。たぶんみんな忘れている。財務省の人間なんかもう完全に麻痺しちゃってるんだろう。
「借金があっても大丈夫ですよ」と主張するための言い訳は必死で探すけど、借金を返す方法なんて考えようともしていない。



いちばん悲しくなるのがこれ。
 数の少なくなった貴重な人材を、今の日本はどう育てているだろう。教育費の公費負担額の対GDP比をみると、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位、未加盟国を含む40カ国では39位である。トップの中米のコスタリカは、建国当初から教育熱心な国として知られ、教育費にGDPの6%を使うことを憲法に明記している。
 教育費を公私どちらが負担するかは、国によって異なる。欧州の大陸系の国は公費負担の比率が高く、英米系の国は公費負担の比率が低い。そして総額は、英米系のほうが多い。日本は公私の比率では英米系に属するが、私費負担はとくに高等教育で英米ほど多くなく、結果として総額が少なくなっている。私費負担を含む教育費の総額でみても、日本はGDP比で4.1%と、OECDの34カ国の平均5.0%を下回っている。
はああ。
教育費の公費負担分は、コスタリカはGDPの6.6%、アメリカと韓国は4.1%(先進国はだいたいその前後)、そして日本の公費負担分は2.9%……。

情けなくなってくるね。
貧しいのはしかたないにしても、未来に投資しなくなったらもう終わりじゃない。小泉純一郎が総理時代に「米百俵」とか言ってたけど、その話はどうなったの?

子どもに投資するどころか、老人が子どもから借金してる(そして返す気はない)のが日本の状況だからね。
つくづく憂鬱になる。


ほんとに平成ってまるまる日本没落の時代だったんだな。
何がつらいって、その没落が止まる傾向がまったくないことなんだよな。

他人事みたいに言ってるけど、責任の一端はぼくにもあるんだけどね。はぁ。選挙行ってるんだけどなあ。変わんねえなあ。

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2020年3月18日水曜日

【読書感想文】地獄の就活小説 / 朝井 リョウ『何者』

何者

朝井 リョウ

内容(e-honより)
就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから―。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて…。直木賞受賞作。

もしも過去に戻れるとして、いちばん戻りたいのはいつ頃だろう。高校生のときがいちばん楽しかったし、でも何も考えていない小学生の頃も幸せだったし、結局うまくいかなかったあの子とのデートの日に戻って……。なかなか決められない。

でも「ぜったいに戻りたくない時期」は即決できる。
就活をしていた時期だ。

あの頃はほんとにつらかった。
こないだ、昔友人たちと会話をしていたBBS(ネット掲示板)を久しぶりに見てみた。そこには就活中のぼくがいた。ほんとうにイヤなやつだった。周囲全員を見下し、自分だけが特別な人間であるかのようにふるまい、攻撃的な言葉を隠すつもりもなくまきちらしていた。うげえ。とても見ていられなくなってBBSを閉じた。
「こんなやつとよく友だち付き合いをしてくれていたな」と友人たちに感謝をした(ほとんどは今でもときどき会う友人だ)。

ぼくは、高校までは友だちも多くて勉強もできて「おまえはおもしろいやつだな」とか「個性的だね」とか言われて(「個性的」は必ずしも褒め言葉ではなかったとおもうが)、難関と言われる大学にストレートで入って、ほんとに調子こいていた。
自分は周囲の人間とはまったく違う、いずれ世に広く名前を知られる存在だと本気で思い込んでいた。何も成し遂げていないのに。

で、そのぼくの出鼻がこっぴどくくじかれたのが就活だった。
就活をすると、ぼくは何者でもなかった。履いて捨てるほどいる学生の中のひとり。誰もぼくを特別扱いしてくれない。
面接でがんがん落とされる。上っ面だけ調子のいいやつが次々に面接を突破しているのに、誰よりも誠実な自分は落とされる。

なんなんだ就活って。仕組みがまちがってるとしかおもえない。
毎日がめちゃくちゃ苦しかった。
だからまったく聞いたこともないような会社の社長から「君こそうちにくるべきすばらしい人材だ!」みたいなことを熱く語られて、すぐに飛びついた。社長の言葉に共感したから、というのを自分への言い訳にしていたがほんとは一日でも早く就活を終わらせたかっただけだった。

今にしておもうと、肥大化しきった自尊心を叩き潰してくれたという意味で就活はいい経験だったといえるかもしれない。
でもそれは十年以上たった今だから言えることで、やっぱり当時は毎日つらかったんだよ。



『何者』は読んでいてつらかった。
この小説には、周囲をうっすらと見下している人物が出てくる。
自尊心のかたまりみたいな人間で、何もしていないくせに自分だけは他と違うとおもいこんでいて、自分だけが繊細で物事を深く考えている人間だと思っていて、真正面から就職活動に取り組む同級生を見下し、かといって就職せずに世捨て人になるほどの覚悟もなく傷つかないような鎧をたくさん着込んでから就活に勤しむ。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。
二十一歳だったぼくそのものだ。

この登場人物はことあるごとに、社会の矛盾に対して一席ぶつ。それを周囲が感心して聞いている、と当人は思っている。「個性的だね」「いろいろ考えてるんだね」といったお茶を濁す言葉を、額面通りに受け取って。
でもじっさいは、自分が見下している周囲の人間から見下されている。理屈だけこねまわして自分が傷つかないように必死に逃げ回っているのだということを見透かされている。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。

たぶん世の中に何万人といるんだろう。
自分だけは他の就活生とは別の考え方で就活をしている、と思っている人間が。

『何者』は、そんなありきたりな人間を容赦なく切り捨てる。
 たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分は、幼いころに描いていたような夢を叶えることはきっと難しい。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の「何者か」になれるのかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。
「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。決して、個人として何者かになることを諦めたわけではない。スーツの中身までみんな同じなわけではないのだ。
 俺は、自分で、自分のやりたいことをやる。就職はしない。舞台の上で生きる。
 ギンジの言葉が、頭の中で蘇る。就活をしないと決めた人特有の、自分だけが自分の道を選んで生きていますという自負。いま目の前にいる隆良の全身にも、そのようなものが漂っている。

「『企業から採用してもらうために自分を型にはめて偽りの仮面をかぶって就活するなんてダサい』という考えこそがダサい、と。
そうなのだ。
就活をしている人間は何も考えずに就活をしているわけではない。
「自分を偽って面接に臨むことが正解なのか」なんて考えをとっくに通過した結果として面接に臨んでいるのだ。
何も考えていないのは、それをばかにするぼくのほうだったのだ。

読んでいると過去の自分を殺したくなってくる。つらい。



これだけでもぼくにはグサグサと刺さったのに、後半の展開はすごかった。もう息ができないぐらい苦しかった。
「こういうイタいやついるよねー」って半分客観的に読んでいたら、「いやこれまさしくおまえの姿なんだよ!」って小説の内側から指をつきつけられた気分。
観察しているつもりになっていたら、いつのまにか観察される側になっている。

やめてくれえ。
これ以上傷口を広げないでくれえ。痛い痛い痛い痛い。

タイムマシンで過去に戻って就活をやっているぼくの姿を見せつけられているような。いちばん戻りたくない時期なのに。地獄だ。



この小説を貫くキーワードは「就活」と「SNS」だ。
ぼくが学生のときはSNSは誰もやってなかった。卒業ぐらいのタイミングでやっとmixiが広まった。FacebookもInstagramもtwitterもなかった。せいぜいさっきも書いたようなBBSぐらい。

SNSのある時代に学生生活を送らなくてよかった、とおもう。『何者』を読んで余計に。

だってSNSっていやおうなしに「何者でもない自分」を突きつけてくるツールだもん。
すごい人がすごいことを発信している。どうでもいいことをつぶやくだけで何千という「いいね!」をもらう人がいる一方で、自分の渾身のツイートには誰も反応しない。
すごく残酷だよね。

一方で、かんたんに自分をとりつくろうこともできる。だけど無理していることがみんなにばれている。ばれていることにも気づいている。でもやめられない。

ぼくはもう老いて「何者でもない自分」として生きていく覚悟をある程度身にまとったから(完全に捨てられたわけではない)なんとか耐えられるけど、「もうすぐ功成り名遂げるはずの自分」として生きていた学生時代だったらとても耐えられなかった。

でも逆にSNS慣れしてる若い人のほうがそういうくだらない「自己と世間の評価のギャップ」をあっさり乗りこえてたりするのかなあ。それはそれでちょっと寂しい話だなともおもう。
現実を見るのは大事だけど、現実ばかり見なきゃいけないのもつらいよなあ。



就活のときに味わった苦しさをもう一度味わわされた気分だ。
それどころじゃない。
苦しさを何倍にも増幅されて与えられたようだ。

めちゃくちゃひりひりする小説だった。
三十代の今だからなんとか耐えられたけど。
これを二十五歳ぐらいで読んでたら発狂して自傷行為に及んでいたかもしれないな。それぐらいの殺傷能力がぼくに対してはあった。

朝井リョウ氏のデビュー作『桐島、部活やめるってよ』は特に何の感情も揺さぶられなかったので油断してた。ぐわんぐわんと揺さぶられた。

就活が嫌いだったすべての人におすすめしたい。
いやーな気持ちになれること請け合い。

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2020年3月17日火曜日

【読書感想文】明るく楽しいポルノ小説 / 奥田 英朗『ララピポ』

ララピポ

奥田 英朗

内容(e-honより)
みんな、しあわせなのだろうか。「考えるだけ無駄か。どの道人生は続いていくのだ。明日も、あさっても」。対人恐怖症のフリーライター、NOと言えないカラオケボックス店員、AV・風俗専門のスカウトマン、デブ専裏DVD女優のテープリライター他、格差社会をも笑い飛ばす六人の、どうにもならない日常を活写する群像長篇。下流文学の白眉。

内容説明に「下流文学」とあるが、まさに下流文学。
登場人物がみんな社会の下層にいる人間ばかり。ただ貧しいだけじゃない。向上心がない、モラルにも欠けている、地道な努力は嫌い(風俗のスカウトマンだけは地道に努力してるけど)、でも他人への嫉妬心は強い、濡れ手で粟だけは夢見ている。
なかなかどうしようもない連中だ。

しかしそれがリアル。
清貧なんて嘘。貧しい出自で懸命に努力を積み重ねて成功を手にする、なんて例外中の例外。
貧しい環境にある人ほど明日が見えなくなってゆく。明日が見えないのに将来に向かっての努力なんてできるわけがない。
まともな方法で人生大逆転なんてできない。大博打を打つにも資本がいるのだ(金だけでなく時間とか教育とか人脈とか)。

貧困からの一発逆転手段といったら非合法なやりかただけ。
で、違法スレスレ(またはアウト)の方法に手を染める。
それはそれで成功を手にするのはむずかしい。まして非合法なやりかたで継続的な成功を収めるなどまず不可能だろう。
かくしてひとつの過ちをごまかすためにまた別の悪事に手を染め、あとはどんどん転落の一途……。

といったのが全篇に共通するおおまかな展開。
しかしじめじめせずに乾いたユーモアで包みながら物語は目まぐるしく動くので、読んでいて楽しい。
けっこう陰惨なエピソードもあるのだが(介護老人の死とか放火とか売春とか逮捕とか盗撮とか……。よく考えたら陰惨なやつばっかりじゃないか)、でもからっとした筆致のおかげで気が詰まらない。

最後は下流なりの小さな幸せをつかむ……みたいな展開にはなるのかとおもったら、そうはならずに、最後まで救いのない結末だった。個人的にはこのほうが好き。とってつけたような救済を与えたって嘘くさいしかえってみじめったらしいもん。とことん突き離してどん底に叩き落とすほうがいい。フィクションなんだし。

ストーリーはおもしろかったんだけど、性描写が多くて(全篇にある)電車の中で読みながら「これは窮屈な満員電車で読む本じゃなかったな」と後悔した。

性描写があるエンタテインメント小説というより、もはや明るく楽しいポルノ小説。



ちなみにタイトルの「ララピポ」とは「a lot of people」のことだそう。
たしかに早口で言うとそう聞こえる。
だからなんだって話だけど(この小説本編にもあんまり関係ない)、タイトルに使いたくなる気持ちはなんとなくわかるなー。

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2020年3月16日月曜日

【読書感想文】ゲームは避難場所 / 芦崎 治『ネトゲ廃人』

ネトゲ廃人

芦崎 治

内容(e-honより)
現実を捨て、虚構の人生に日夜のめり込む人たち。常時接続のPCやスマホが日用品と化した今、仮想世界で不特定多数と長時間遊べるネットゲーム人気は過熱する一方だ。その背後で、休職、鬱病、育児放棄など社会生活に支障をきたす「ネトゲ廃人」と呼ばれる人々を生んだ。リアルを喪失し、時間と金銭の際限ない浪費へ仕向けられたゲーム中毒者の実態に迫る衝撃のノンフィクション。
ノンフィクションというより、ネットゲーム中毒になった人たちへのインタビュー集。
あくまで実体験を積み重ねただけで、考察は少ない。第9章の『オンラインゲーム大国、韓国の憂鬱』だけがちょっとデータ多めだけど、それでも個別の事例や談話が中心だ。

なので読んでいても「ふーん、たいへんだなー」とおもうだけ。
対策とか治療法とかは何もない。
ゲーム雑誌の企画でおこなわれたインタビューらしいので、ゲーム会社への批判的な視点もない。
つくづく何もない本。
まるでクリアもゲームオーバーもなくだらだらと続いてゆくオンラインゲームのように。



ゲームにはまっている(いた)人たちの話を読んでおもうのは、ネットゲームにはまる人が社会でうまくやっていけなくなるというよりも、社会でうまくやっていけない人がネットゲームにはまるのだということ。

家庭に問題があったり、学校や職場で疎外感を味わっている人がネットゲームに居場所を求めたり。
ゲームは避難場所なのだ。


ぼくはあまりゲームに夢中になることはないのだが、いっときネット大喜利なるものにはまっていた。2004年~2012年ぐらいのことだ。
インターネット上で大喜利好きの人たちが集まって、お題に対してこれぞとおもう回答を出すという遊びだ。で、回答に対してみんなで投票をして、順位をつける。
たあいのない遊びだ。でもこれに夢中になった。ひとつのお題に対して何十個も回答を考えたり、一週間ずっと回答を考えつづけたり。ぼくは回答もしたし出題もしたし自分で大喜利サイトも運営したしブログで他人の回答について寸評したしときには熱く議論をしたりもした。
傍から見ていると、なんでそんなことに夢中になっているの、それやって何になるの、と言いたくなることだとおもう。
でも当時のぼくは夢中になっていた。ぼくだけでなく、ネット大喜利に没頭している人は何十人、何百人といた。

だからネットゲームにはまる人の気持ちもわかる。
ネット大喜利で自分の回答が何十人の中で一位を獲ったときの快感は、実生活ではなかなか味わえないものだ。自分の才能が認められた! という気になる。

当時ぼくは就職活動がうまくいかなかったり、新卒で入った会社をすぐ辞めたり、体調を崩して無職だったり、ようやくフリーターとしてバイトをはじめたりと、あまりうまくいっていない時期だった。だからこそ余計にネット大喜利の世界は居心地が良かった。唯一の認められる場という気さえした。


それでも実生活に悪影響が出るほどネット大喜利にはまっていた人はそう多くなかっただろう。それは、ネット大喜利を運営しているのもみんな素人だったからだ。
今はどうだか知らないけど、当時のネット大喜利は運営側もみんな趣味でやっていた。金儲けの要素はぜんぜんなかった。課金制度もないし、やめられなくなるような巧妙なイベントやアイテムも存在しなかった。もしあったら、ぼくなんかはもっともっとはまって抜けだせなくなっていたかもしれない。

ぼくはもうネット大喜利をやっていないけど、当時知り合った人とは今も交流があるし(ほぼオンラインでだけど)、ネット大喜利があったから人生の低迷期をそこそこ楽しく乗りこえることができたともおもっている。

ゲームも同じで、ゲームばかりして人と出会わなくなるのは、きっとゲーム以外に原因があるからなのだ。
それを「ゲームこそが悪の根源だ! ゲームは一日三時間まで!」と言うのは、「薬を飲んでいる人は薬を飲まない人に比べて体調が悪い傾向がある! 薬を飲むな!」と言うようなものだ。
ゲームにはまっている人からゲームを取り上げてもその時間を勉強に向けるようにはならないよ。他の場所に逃げるか、何もしなくなるだけだよ。



数々の「ゲーム廃人」が口をそろえて言っていることがある。
「ゲームばっかりやってきたぼくが言うのは変ですが……」
「こんな私が言うのは、おかしいんですけど……」
「ぼくみたいな者が言うのは、何なのですが……」
 そう断って、反省とも自戒ともとれる警鐘を鳴らした。
 彼らは異口同音にこう語った。
「自分が親だったら、子どもには、やらせない」
子どものときにはまっていたらヤバかった、幼い弟にはやらせないようにしていた、自分の子どもにはやらせたくない。
ゲームにどっぷりはまっている人でも(はまっている人だからこそ?)子どもにはゲーム漬けになってほしくないとおもっているようだ。

大人とちがって子どもは、行動の選択肢が多くない。学校に居場所がなければ家にいるしかない。家でやることといったらゲームぐらいしかない。
「稼がないと生きていけない」「このままじゃ留年/退学になる」といったきっかけも少ないので、親や学校が何もしなければ外に出る機会はない。
子どもの場合、大人以上にとことんまではまりやすいのだろう(そしてゲーム廃人になってそのまま戻ってこられない子どもも多いのだろう)。

またおそろしいのは「親がゲーム廃人になった子ども」の将来だ。
 ところで、両親が毎晩のようにパソコンの画面を見続けていれば、子どもに与える影響は少なくないだろう。子どもは小学三年の男の子と小学一年の男の子がいる。上の子は三歳の時にパソコンに触れた。

(中略)

「おやすみなさい……」
 午後八時になると、子どもは一言いって布団に入るようになった。
「何か理由はわからないけど、午後八時になると勝手に布団に入ってくれる。ロボット化されていくというのか。子どもがゲームに理解のある子なので、『ぼくたちは寝なきゃいけない』という気持ちがあったのかも。主人がいないときは、主人の代わりにプレイをお願いすると、操作もできる。ゲーム仲間には、『ご主人より、息子のほうがゲームはうまい』という人もいます。上の子だけですけど、チャットもできるし、やりたいときには、ゲームをやらせてあげている」と言う。
 長男はおとなしい、喋らない子に育った。
「ママは、ちょっと忙しいからね」
 片山百合がゲームを優先しているので甘えてこない。用でもない限り下の子と一緒に遊んでいる。
さすがにこのエピソードには背筋が冷たくなった。

いやいやいや……。
「子どもがゲームに理解のある子なので」じゃねえだろ……。
どう考えたってすでに子どもの発達に影響出てるだろ……。


親本は2009年刊行なので、「ネトゲ」とはスマホゲームではなくPCゲームのこと。
小中学生でもスマホで手軽にゲームをやるのがあたりまえの今はこのときよりももっと状況が悪くなっているんじゃないかな。

「ゲームが教育に悪い!」と安易な決めつけはしたくないけど(そしてゲームそのものではなくゲームにはまる原因をなんとかしないと意味がないとおもっているけど)、子どもがゲームに大量の時間を投下するのはどう考えたって良くない。

体系的なゲーム依存治療法が確立されていない今、「子どもをゲームから遠ざける」が最適な方法になっちゃうんだよなあ。
ほんとはゲーム業界こそがゲーム依存症の治療にお金と労力を割くべき(そっちのほうが長期的には得をする)だとおもうよ。

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2020年3月13日金曜日

【読書感想文】オスとメスの利害は対立する / ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』


人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

ジャレド=ダイアモンド(著)  長谷川 寿一(訳)

内容(e-honより)
人間は隠れてセックスを楽しみ、排卵は隠蔽され、一夫一婦制である―ヒトの性は動物と比べてじつは奇妙である。性のあり方はその社会のあり方を決定づけている。ハーレムをつくるゴリラや夫婦で子育てをする水鳥、乳汁を分泌するオスのヤギやコウモリなど動物の性の“常識”と対比させながら、人間の奇妙なセクシャリティの進化を解き明かす。

原題は『Why is Sex Fun?』で直訳すると『セックスはなぜ楽しいか』なのだが(和訳版元々はこの題で出ている)、なぜか文庫化の際に『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』となんとも野暮ったいタイトルに改題している。

まあ原題だと学術書だということが伝わりにくいし大学の講義で扱いにくいので改題はいたしかたないのだけど……。
にしても『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』はちょっとつまんなすぎるなあ。



だれもが知っているように、人間は動物だ。哺乳類だ。
ところが人間は他の哺乳類、動物とはいろんな面で性行動が異なる。例外だらけなのだ。
 また一般的に社会生活をする哺乳動物は、群れのメンバーの見ている前で交尾を行なう。たとえば発情したメスのバーバリーマカクは群れのあらゆるオスと交尾を行なうが、他のオスに見られないように隠れたりはしない。こうしたおおっぴらな繁殖行動が多いなか、例外として最もよく知られているのはチンパンジーの性行動だ。大人のオスと発情したメスは群れを離れ、二匹だけで数日間を過ごす。研究者たちはこの行動を「コンソート行動」または「ハネムーン行動」と呼んでいる。ところが配偶者とコンソート関係を結び二匹だけで交尾を行なったメスが、同じ発情サイクル[通常一〇~一四日間つづく]のあいだに別のオスたちと、今度は群れのメンバーのいる前で交尾を行なうこともあるのだ。
 ほとんどの哺乳動物のメスはさまざまな目立つシグナルを発し、いまが繁殖サイクルのなかで受精可能な短い排卵時期であることをまわりに宣伝する。そのような宣伝のシグナルには、性器のまわりが鮮やかに赤くなるなど視覚的なものもあれば、強烈な匂いを発するなど嗅覚に訴えるものもある。また、鳴き声を上げるといった聴覚的なものや、大人のオスの前にかがみこみ、性器を見せるなど行動的なシグナルもある。メスが交尾を誘うのは受精の可能性のある数日だけで、それ以外の時期にはオスを刺激する性的シグナルを出きない。そのためオスのほうも普段はメスにまったく、あるいはほとんど性的な関心を示さない。それでもオスが性的関心から寄ってきた場合、メスはどんなオスであれ拒絶する。つまり動物にとって交尾は決して楽しむためのものではなく、繁殖という機能から切り離されることはほとんどないのだ。だがこの一般論にもやはり例外がある。ボノボ(ピグミーチンパンジー)やイルカなど少数の動物種は、明らかに繁殖以外のために交尾を行なうのである。
 最後に、大多数の野生哺乳動物にとって、閉経は正常な現象ではない。閉経とは、老年期に繁殖機能が完全に停止してしまうことで、それ以前の繁殖可能な期間にくらべるとはるかに短いにせよ、以後かなりのあいだ不妊の状態がつづく現象をさす。一方、野生動物の場合は、死ぬ瞬間まで受胎可能か、加齢とともに少しずつ繁殖能力が衰えるかのどちらかである。
人間だけが交尾を他の個体から隠れておこなう、人間だけが排卵時期以外でも交尾する、人間だけが閉経する(生殖機能がなくなってからも生き続ける)……。
(いくつかの例外はあるにせよ)ヒトだけが持つ特徴がいくつもある。

どれも、生物として一見不利になることばかりだ。
チャンスがあればどんどん交尾をしたほうが遺伝子を残せるし、受精のチャンスがないときにまで交尾をするのはエネルギーの無駄だ。閉経してしまったら子どもを産めないのだから死ぬ直前まで受胎できるほうがいい……。
いわれてみればそのとおりだ。

この人間の奇妙な習性の謎を解くのが『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』だ。
うん、わかりやすくていいタイトルだな(さっきと言ってることがちがうぞ)。



これら「人間の奇妙な性」が進化した理由を、ひとつひとつわかりやすく説明してくれる。さすがはジャレド=ダイアモンド。
ところでジャレド=ダイアモンドって『銃・病原菌・鉄』とか『危機と人類』が有名だから「へえ、文化人類学以外の本も書くのか」なんておもってたけど、本業が進化生物学者なんだってね。こっちが専門だったのかー。


たとえば閉経について。
閉経をするのは、高齢になってからは自らが出産するより子どもや孫の世話をするほうが結果的に子孫繁栄につながる確率が高いからなんだそうだ。
文字が発達していない社会では、おばあちゃんは若い人より知識も経験もあって仕事ができるから、おばあちゃんがいるほうが孫が生存しやすいんだと。

なるほどね。ヒト以外の動物だと知識や経験を伝達できないから、閉経後に長生きする理由がないけど、ヒトには言語があるから「おばあちゃんの知恵袋」が生存率を高めてくれたのだ。
しかしそれは文字が発達する以前の話であって、近代においてはおばあちゃんは若い人より有用な知識や仕事効率の上で劣っていることのほうが多いはず。
もしかするとあと何万年かしたら人間の女性は閉経しなくなるか、閉経と同時に寿命が尽きるように進化していくのかもしれないなあ。

現代は、高年齢女性が「なんのために生きるか」を見いだしにくい時代なんだろうな。
もちろん人間は子孫を残すためだけに生きてるわけじゃないけどさ。でもどれだけえらそうなことを言ってもぼくらは遺伝子の乗り物だから、遺伝子を運ぶ役に立てなくなったまま生きていくのはつらいはず。
更年期障害のつらさってそういうところから来ているのかもしれないね。



男と女の永遠のテーマ、結婚と浮気について。
 だれもがよく知っているように、男性と女性では婚外性交にたいして異なった態度をとるが、その生物学的基礎も子育てから得る遺伝的価値に性差があることに根差している。伝統的な人間社会では、子供には父親の世話が不可欠だったので、男性は既婚の女性と婚外性交し、その夫が、他人の子とは知らずに生まれた子供を育ててくれた場合に最も大きな利益を得た。男性と既婚女性が浮気をすることで、男性は子の数を増やせるが、女性は増やせない。この決定的な違いから男性と女性が婚外性交に走る動機も異なってくる。全世界のさまざまな社会を対象に行なわれた社会調査によると、男性は女性にくらべて、偶発的なセックスや短期間の肉体関係など、バラエティーに富んだ性行動にたいしてより強い興味を抱いていることがわかった。男性がそのような行動傾向を示すのももっともなことである。女性とは異なり、男性はこうした行動傾向を通じて、遺伝的成功を最大化できるからである。一方、女性が婚外性交にかかわる動機は、結婚生活に満足がいかないからという自己報告が多い。夫に不満な女性は新たな長期的関係を求める傾向があり、再婚を求めたり、現在の夫よりも財力のある男性や、よい遺伝子をもつ男性と長期的な婚外関係を求めたりするのである。
男と女は子を産むためのパートナーでありながら、その利害は必ずしも一致しない。ときには対立する。

男も女も、遺伝子を残すためだけでいえば「子どもをつくって世話はパートナーに押しつけて自分はさっさと浮気する」が最適解になる。
ところが妊娠・出産までに投じたコストが男と女ではまるでちがう。だから子どもの押し付けあいになればどうしたって女が不利になる(親権問題というと両者とも引き取りたがることが多いが、遺伝子の保存の観点でいえば押しつけるほうがいい)。
こういう事情があるから、男と女では結婚や浮気に対する最適な戦略が異なる。当然の話だ。人間だけでなく、有性生殖をする動物ならみんなそうだ。

なのに人間だけが「夫婦で同じ価値観を」という無茶を求めるから話がややこしくなる。


高校生のとき、家庭科のテストで「なぜ結婚してパートナー関係を結ぶのがよいか説明しなさい」という問いが出された。
ぼくは「今の日本では慣例的に一夫一妻制を布いているがそれが最良の選択肢ではない。種の保存や多様化のためには婚外交渉を積極的におこなうほうがよい」みたいなことを書いた。
そしたらおばちゃん教師から怒りのこもったコメントを書かれた。なんと書いてあったかは忘れたが、理屈ではなく「こんなものダメに決まってるでしょ! ダメだからダメ!」みたいな論調だった。

でもぼくが書いたことはまちがってなかったのだとこれを読んで改めておもう。
もちろん一夫一妻制にもメリットはあるが、それは普遍的に正しい制度ではなく、あくまで「近代の日本においては比較的マシ」程度だ。べつの制度のほうが良くなる時代がくるかもしれない。いや、もしかしたらもうすでに来ているかも。だって今、一夫一妻制の結果(それだけじゃないけど)人口構成がどんどんいびつな形になっているもん。

結婚して一対一の関係は結ぶけど、ときどきは浮気をする。そして浮気相手の子どもを作ることもある。浮気をするメリットは男のほうが大きいので、男が浮気をすることのほうが女よりも多い。
こっちのほうが生物として自然なことなのだ。

言っとくけどぼくは婚外恋愛を推奨してるわけじゃないよ。あくまで生物として自然という話ね。
人間だから生物としての自然さより社会的規範を優先させるべきという考えもわかる。
だけどそれは種の繁栄の観点では最適な方法ではない。
だから「性交渉は慎重に。決まったパートナーとだけ。浮気なんてもってのほか。パートナーの子どもを産んで育てましょう」というルールを守れば守るほど人口が減っていくのも自然なことなのかもしれない。

そういやフランスはシングルマザーへの保護を手厚くしたら少子化が少しだけ解消されたという話を聞いたことがあるなあ。
日本も本気で少子化対策をするなら、そろそろ「伝統的な家族観」という虚像を捨てさったほうがいいのかもしれない。ほどほどに浮気をして外に子どもを作る、こそが本当に伝統的な家族観なのだし。



なぜ授乳をするのがメスなのか、という話。
あたりまえでしょ、と言いたくなるかもしれないが出産はともかく授乳は必ずしもメスがやる必要がない(出産についてはメスの仕事というより、出産する側の性をメスと呼ぶという定義そのものの話だ)。

いくつかの動物ではメスではなくオスが子育てをする。だったらオスが授乳できたほうが都合がいい。
じっさい、乳を分泌できる人間の男も存在するそうだ。
 このように、ヒトがダヤクオオコウモリにつづくオスの乳汁分泌の第一候補となる条件はずらりと揃っている。実際にヒトの男性が自然淘汰を通して完全に乳汁分泌をするようになるには数百万年がかかるだろうが、われわれにはテクノロジーという強い味方があり、進化のプロセスを一気に縮めることができる。手による乳頭の刺激とホルモン注射を組み合わせれば、出産を待つ父親――彼の親としての確実性はDNA鑑定によって裏づけられている――の乳を出す潜在能力は、遺伝的な変化を待たずとも、すぐに発達するだろう。オスの乳汁分泌に秘められた利点は測りしれないほどある。それが可能になれば、いまは女性にしかもてない親子の感情的な絆が、父親にも得られるようになるだろう。実際、多くの男性が、授乳によってもたらされる母子の特殊な結びつきを羨ましく思っている。授乳が伝統的に女性の特権であることで、男性は疎外感を感じているのだ。
感じたよ、ぼくも。疎外感。

なるべく子育てに関わりたいとおもっていても、授乳だけはぜったいに代われない。
赤ちゃんって夜中に泣くから、そのたびに母乳をあげて眠らせる(粉ミルクでもいいけど、熱湯で溶かして、冷めるまで待って、飲みおわったら煮沸消毒して……って夜中にやんなきゃいけないの超めんどくさいんだよね)。
そうすると子どもは母親といっしょに寝ることになる。「今日はぼくが代わるよ」ってわけにはいかない。

長女が小さいときは、ぼくとお風呂に入って、ぼくと本を読んでも、寝るときになったら妻の布団に行ってしまう。
目を覚ましておかあさんがいなければ、いくらぼくがあやしても泣きやまない。妻がおっぱいを口にふくませるとぴたっと泣きやむ。
そのたびに「おっぱい、ずるい!」とおもったものだ。

ふたりめのときは「妻が次女にかかりっきりになるので、ぼくが長女の相手をする」と自然と役割分担できたのでよかったけど、ひとりめのときは疎外感を味わったなあ……。

だったら「安くてかんたんで安全で痛みのない手術を受けるだけで男性でも母乳を出せるようになりますよ!」となったら喜んで手を挙げるかというと、
「いや、それはもうちょっと考えてから……。世の父親の二割ぐらいが手術受けるようになったら、かな……」
と情けない返事をしてしまうんだろうけど。

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2020年3月12日木曜日

【読書感想文】「清潔な夫婦」はぼくの理想 / 村田 沙耶香『殺人出産』

殺人出産

村田 沙耶香

内容(e-honより)
今から百年前、殺人は悪だった。10人産んだら、1人殺せる。命を奪う者が命を造る「殺人出産システム」で人口を保つ日本。会社員の育子には十代で「産み人」となった姉がいた。蝉の声が響く夏、姉の10人目の出産が迫る。未来に命を繋ぐのは彼女の殺意。昨日の常識は、ある日、突然変化する。表題作他三篇。

『殺人出産』

殺人が合法的な制度になった時代の物語。
 もちろん、今だって殺人はいけないこととされている。けれど、殺人の意味は大きく異なるものになった。
 昔の人々は恋愛をして結婚をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精をして産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった。避妊技術が発達し、初潮が始まった時点で子宮に処置をするのが一般的になり、恋をしてセックスをすることと、妊娠をすることの因果関係は、どんどん乖離していった。
 偶発的な出産がなくなったことで、人口は極端に減っていった。人口がみるみる減少していく世界で、恋愛や結婚とは別に、命を生み出すシステムが作られたのは、自然な流れだった。もっと現代に合った、合理的なシステムが採用されたのだ。
 殺人出産システムが海外から導入されたのは、私が生まれる前のことだ。もっと以前から提案されていたものの、10人産んだら一人殺してもいい、というこのシステムが日本で実際に採用されるのには、少し時間がかかった。殺人反対派の声も大きかったからだ。けれど、一度採用されてしまうと、そちらのほうがずっと自然なことだったのだと皆気付くこととなった、と学校で教師は得得と語った。命を奪うものが、命を造る役目を担う。まるで古代からそうであったかのように、その仕組みは私たちの世界に溶け込んでいったのだと、教師は熱弁した。恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ、という。
 殺人出産制度が導入されてから、殺人の意味は大きく変わった。それを行う人は、「産み人」として崇められるようになったのだ。
 日本では依然として人工授精での出産が1位を占めるが、それでも「産み人」から生まれた子供の比率は少しずつ増え、昨年度の新生児の10パーセント以上を占めるようになっていた。
 当然だが、それは命懸けの行為であるので、「産み人」としての「正しい」手続きをとらずに殺人を犯す人もいる。逮捕されると、彼らには「産刑」というもっとも厳しい罰が与えられる。女は病院で埋め込んだ避妊器具を外され、男は人工子宮を埋め込まれ、一生牢獄の中で命を産み続けるのだ。
 死刑なんて非合理的で感情的なシステムはもう過去のものなのです、と教師は言った。殺人をした人を殺すなんてこわーい、とクラスの女子は騒いだ。死をもって死を成敗するなんて、本当に野蛮な時代もあったものです、命を奪ったものは、命を産みだす刑に処される。こちらのほうがずっと知的であり、生命の流れとしても自然なことなのです、と教師は言い、授業を締めくくった。
設定はおもしろい。
でも説得力に欠ける。ぼくは入っていけなかった。

いまぼくらが暮らす世界とはまったくべつの世界のお話、であればすんなり受け入れられたとおもうんだけどな。
でも『殺人出産』の舞台は近未来の日本。現実と地続きになっている。
ってことは今の「人殺しはだめ」から「出産のために人を殺すのはすばらしいことだ」に至るまでの間に大きな社会的な葛藤があったはず。
そこを丁寧に書く必要があるのに、この小説ではたった数行の説明で済ませている。いちばん書かなきゃいけないところを、教師の口上という形をとることで読者への説得から逃げている。ずるい。

説得できないのはしかたない。もともと無理があるんだもの。
物語の本筋はここじゃないこともわかる。何十ページも割いて説明したら冗長になるだけかもしれない。
でも、だったらいっそ説明するなとおもう。稚拙な言い訳を並べたてるから「それはおかしくないですか」と言いたくなるのだ。いっそ説明せずに「こうなってるんです」でいい。

藤子・F・不二雄氏のSF短篇に『気楽に殺ろうよ』という作品がある。
設定は『殺人出産』によく似ている(言うまでもないが『気楽に殺ろうよ』のほうが四十年以上早い)。子どもをひとりつくれば一人殺していい、という世界の話だ。
『気楽に殺ろうよ』は基本的に説明がない。「なんかしらんけどこうなってました」で済ませている。氏の短篇にはこういう価値観が倒錯した世界を描いた作品が多いが、だいたいそうだ。
藤子・F・不二雄氏は知っていたのだろう。へたな説明をくだくだ並べるぐらいなら説明しないほうがおもしろいと。

SFとして読むには設定が雑で、ファンタジーにしては理屈っぽく、エンタテインメントとしては意外性がない、なんとも半端な読後感だった。



『トリプル』

この本の中でいちばん好きな作品だった。キモくて。
三人で性的な関係を結ぶことがマジョリティとなった世界。男一女二の場合もあるし、女一男二だったり、男三や女三という関係もある。
で、三人でやるセックスの描写があるのだがとにかく気持ち悪い。うげえ。ほぼスカトロじゃん。

でもその「気持ち悪い」という感覚が、トリプルの人がカップルのセックスに対して抱く感情であり、ヘテロセクシャル(異性愛者)が同性愛者のセックスに対して抱く感情と同質のものであると気づかされる。

ぼくはヘテロだが「LGBT? けっこうじゃないか。誰もが自らの性嗜好に対して自由であるべきだよ」なんておもっている。でも同時に、同性同士のセックスはキモイともおもっている。
どれだけ口では偉そうなことを言っていても、理屈と本能的な快不快ってぜんぜんちがうものなのだ。
結局人間は差別とは無縁ではいられないんだろうなあと気づかされた作品だった。



『清潔な結婚』

これはいちばん共感できたな。
性生活を排除した夫婦の話。うん、わかるわかる。

そうなんだよ。夫婦って恋人と家族を両立させなきゃならないんだけど、それってすごくしんどいんだよね。
それが苦にならない人もいるんだろうけど、ぼくにとってはけっこう負担が大きい。
ぼくは結婚して九年だけど、もうすっかりセックスレスだ。というか九年中八年半はセックスレスだ。でも仲はいいほうだとおもう。

だってぼくにとって妻は家族であり、子どもたちのおかあさんであり、経済的パートナーであり、愚痴をこぼしあえる仲間であり、くだらない話題で盛りあがる友人であり、ときには利害が対立する交渉相手だ。
そんな人といちゃいちゃしたいとおもわない。
夫婦間の性交渉を続けている人はすごいなあとすなおに感心する。
うちは子どもをつくるときは「そろそろ子どもつくるか。よしっ!」ってな感じで一念発起してがんばった。情動に動かされて、みたいな感じではぜんぜんない。むしろ本能が拒むのを理性で押さえつけて事に及んだ。

だから『清潔な結婚』で描かれる、性的な関係を完全に切りはなした「兄妹のような夫婦」はぼくの理想かもしれない(それぞれ家庭の外に恋人がいる、という点には共感できないけど。めんどくさそうだもん)。

家族としての最適なパートナーと理想の恋人はまったく別、というのは心から共感する。つくづくそうだよなあ。
恋愛結婚という制度自体が人類に向いてないのかもしれない。自由恋愛の延長に結婚があるのなんて長い人類の歴史の中でもごくごく限られた時代・社会の話だもんなあ。



『余命』

短篇というよりショートショートぐらいの長さ。
とはいえ何も起こらない。医療の発達によって自然死や事故死がなくなった世界で、人々は自分で死ぬ時を選ぶようになった、という説明だけの小説。

どれも設定はおもしろいんだけどなあ。頭でっかち尻すぼみ、という印象。
話を膨らませたりディティールをつきつめたりするのが得意でないのかなあ。

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2020年3月11日水曜日

【読書感想文】売春は悪ではないのでは / 杉坂 圭介『飛田で生きる』

飛田で生きる

遊郭経営10年、現在、スカウトマンの告白

杉坂 圭介

内容(e-honより)
現在、160軒がひしめく大阪・飛田新地。そこで2軒を経営する人物が初めて当事者として内情を語る。ワケあり美女たちの素顔、涙なしに語れぬ常連客の悲哀、アットホームな小部屋の中、タレントばりの美貌の日本人美女たちはどこから来たのか、呼び込みの年配女性の素性、経営者の企業努力、街の自治会の厳格ルール、15分1万1000円のカラクリ、元遊郭の賃料と空き状況、新参経営者の参画等、人間ドラマから数字的なディテールまでを網羅する。
飛田新地を知っているだろうか。
大阪市にある遊郭だ。知らない人はこの令和の時代に遊郭なんて、とおもうかもしれないが、ほんとうに遊郭なのだ。
ぼくも一度友人に連れられて冷やかしたことがある(店には入ってないよ)。和風の建物が立ち並び、通りに面した座敷がオープンになっている。そこに着物姿のお姐さんが座り、派手な照明を浴びている。横にはおばちゃんが座っていて「にいちゃん、どうや」と客を引いている……。
もうどこをとっても遊郭、純度百パーセントの遊郭なのだ。
(ただし一応名目は料亭という扱い。料亭でお客さんと従業員が恋に落ちてコトに及んでしまう……という設定になっているそうだ。たった十五分で。もちろん警察も売春だとわかっているが目をつぶっているのが実情)

ぼくが飛田で見たお姐さんは、めちゃめちゃ綺麗だった。化粧や照明の力も大きいのだろうが、テレビタレントよりも美しかった。ぼくが生まれてから見た中でいちばんの美女だったかもしれない。こんな綺麗な人が売春を……とものすごくどきどきした。

もうまるっきりの異世界で、同じ日本とはおもえなかった。中国に行ったときに売春宿の外観を見たことがあるが(なぜか床屋が売春宿だった)、それよりももっとつくりものっぽくてとても現実とはおもえなかった。

飛田で目にした光景は、冷やかしただけなのにかなり衝撃的だった。
ちなみに友人から「ぜったいに写真を撮ったりしたらあかんで。あやしいそぶりがあると怖い人がとんでくるらしいで」と脅されていたのでそういう意味でもどきどきした。

日本にもこんな世界が残っているんだなあと夢でも見たような感覚にとらわれたものだった。


そんな異世界・飛田だが、今のぼくにとってはまったくの別世界というわけでもなくなった。
今ぼくが住んでいる場所が飛田のすぐ近くなのだ。区は違うし飛田新地は壁で覆われているので通り抜けることもないが、行こうとおもえば徒歩十五分もかからずに行けるぐらいの距離。
うちの家は再開発された地区なので新しいマンションが並んでいるのだが、なぜか飛田新地と小学校の校区が一緒なのだ。なぜ。区もちがうのに。
で、娘が小学校に入るにあたり相当悩んだ。同級生に飛田の子がいるってどうなの。低学年のときはよくても六年生になったらいろんなことがわかるでしょ。そもそも飛田に住んでるのってどういう人なの。保護者同士のまともな付き合いができるの。
差別意識丸出しだが、事実そうおもったのだからしかたない。ぼくもふだんはリベラル派を気取っているが、やはり自分の子のことになると「出自や門戸で人間の本質は決まらないから気にしない!」とは言い切れない。決まらなくても大いに影響は受けるもの。

で、(飛田だけじゃなくて他にもいろいろ理由はあったけど)他の小学校に行かせることにした。別の校区でも希望を出せば行ける制度があったので。

そう、なんだかんだいってもぼくは差別主義者なのだ。
自らの本性をつきつけられた出来事だった。



そんなわけでちょっと自己嫌悪にもなっていたので、「飛田のことを知らねば! 同じ差別をするのでも知らずに差別するより知った上で差別したほうがまだマシなんじゃないか!」と『飛田で生きる』を読んだ。

いやあ、いい本だ。骨太。
文章を書きなれていない人の本なので朴訥とした語り口なのだが、それがかえってわかりやすくていい。題材に力があるので余計な技巧はいらない。

まったく別業種から、ひょんなことから料亭(売春宿)経営をすることになった人の体験談。
経営者として十年、その後は女の子のスカウトをやっているそうで、飛田の裏側を存分に知っている。飛田のことってこれまでは口にするのもタブーみたいなところがあったので、ものすごく貴重な体験談だ。

で、わかったのは、飛田新地は意外なほどちゃんとした世界だということ。
「でも、暴力団がバックについているんでしょ?」
「そんなのまったくない。飛田を管理しているのは、飛田新地料理組合。組合の人は普通の人たちで、暴力団との関わりはいっさいない。逆に徹底的に排除してる。考えてみ、もし飛田が暴力団の資金源になっとったら、大阪府警がほっとくわけあらへん」
「でも店の奥で怖い人が待機してるって聞きますよ」
「そんなん、おらんわ。でもわざわざ『おらん』と言う必要もない。なせならそのほうが都合がいいからや。裏に怖い人がおる、と思われているほうがお客さんの行儀がええから。確かに、写真を撮ったり女の子に悪さする客を叱る親方や、街を見回りする組合の人のなかには迫力ある人おるから、そう思われても仕方ないんやけどな」
暴力団は徹底的に排除、組合が定めた営業時間はきちんと守る、組合内での女の子の引き抜きは禁止、料金も基本的に一律。とにかくきっちりしている。余計なトラブルを起こさないように厳しく管理している。
組合は地域の清掃活動などにも取り組んでいるらしい。
他の風俗街はおろか、ふつうの繁華街でもこんなに厳しくルールを守っているところはないだろう。

逆にいえば、それだけマズいことをしているということでもあるんだけど。
「売春」という非合法なことで生業を立てているがゆえに、その他の点で府警や近隣住民から苦情を寄せられないよう細心の注意を払っているんだろう。

女の子のスカウトについても、ぜったいにトラブルにならないように配慮しているらしい。
デメリットなども説明した上で、本人の同意をもらってから働いてもらう。辞めたいと言ってきた女の子がいたら無理な引き留めはしない。
万が一女の子が「無理やり働かされた」なんて警察に駆けこんだりしたら飛田新地全体が取り壊しなんてことになりかねないので、そのへんは十分配慮しているそうだ。
 開業前、私は柴田さんに紹介してもらいスカウト歴一五年という四十代の男性に会いました。女の子を他業種から引き抜く方法を教えてもらおうと思ったのです。その人から教わったのは、次のようなことです。

 ■街頭で女の子に声をかけるのは警察、暴力団に目を付けられるので避ける
 ■縄張りを荒らすと暴力団に拉致・監禁されることもあるから極力目立たないこと
 ■ねらい目は、消費者金融のATMから出てきた子
 ■ハローワークから出てきた子もいいが、最近は不況のあおりで就職活動中の学生も含まれるので注意すること

 喫茶店で話を聞いた後、その人には必ずキャバクラに連れて行かれおごらされました。授業料ということなのでしょう。初めはその親切心に感謝し喜んでキャバクラをおごっていたのですが、二回、三回と授業を重ねていくうちに、はたと気づいた。彼は私にはばれないようにこっそりスカウト活動をしていたのです。
「そうかあ、自分なかなか大変な生い立ちやなあ」
「一重がいや? 十分かわいいやん。二重にしたいの? それいくらかかるん?」
「そらその彼氏はひどいなあ。毎日パチンコ通いかあ。それあんたが出してあげてるんやろ? いくらここで働いてもお金足らんやん」
 言葉巧みに彼女たちの悩みを聞きだし、連絡先を教える。
「なんか力になれるかもしれんから、困ったときは連絡してな」
 この時点では、自分が飛田のスカウトであることはいっさい言いません。あくまで困ったときには助けてあげられるということを伝えて、向こうからの連絡を待ちます。連絡が来たら二人で会い、相手の悩みをさらに聞き込み巧みに飛田で働くよう仕向けていくのです。その後聞いたところによると、私がおごったキャバクラで彼は二人ほど女の子を飛田に送り込んだようです。
風俗のスカウトなんていうと、虚言をあやつって半ば騙して強引に……みたいなイメージがあったけど、(少なくとも著者の周辺では)ないみたい。
やはりそもそもが非合法なビジネスで成り立っているので、その他の点は極力クリーンにしようとしているのだろう。

嘘をついて連れてきて後々トラブルになるほうが長期的に損するので、だったら最初から正直に……ということらしい。

 飛田にくる子の約九割は派手好きな子であると書きましたが、ごくまれに、国家資格を取りたい、自分で店を持ちたいなどの夢を持ってくる子もいます。そういう子たちは明確な目標があるぶん意志も強く、まじめに働いて稼ぐだけ稼ぎ、辞めるときはスパッと辞めていきます。
 いちばん多いのは看護師を目指す子です。彼女たちは専門学校に通う学費と日々の生活費を稼ぎながら勉強もしなくてはなりません。いくら稼がなくてはならないといっても、ハンバーガーショップで週六日もバイトしていたら今度は勉強ができなくなります。しかも時給も安い。七〇〇~八〇〇円くらいの時給では八時間働いても一日六〇〇〇円程度ですが、飛田なら一五分で稼げる額です。
 だから彼女たちはみんなこう言います。
「一日一本で十分ですから。あとは勉強の時間にあてさせてください」
 まじめに毎日働いてくれるのはありがたい。しかし一本で終わってしまっては困ります。
「もう少し上がってくれんか。もしくは週一日でいいから、六本やってくれん?」
「わたし、あとはもういいです」
 そう言うと待機部屋で勉強するのです。実際に看護師の国家資格をとって、今も病院で働いている子がいます。
こういうのを読むと、飛田新地は今の社会に必要なものなんだろうなとおもう。

もちろんこんなケースはごく一部で、大半の女の子はブランド品やホスト通いに使うのだとしても。
でも、飛田で働くにはそれぞれワケがある。ブランド品やホスト通いが原因のこともあるけど、親がつくった借金だったり学費だったり家族の生活費だったり。
原因はどうであれ、若い女性がまっとうな仕事で何百万円も貯めることなど、まず不可能だ。
一度貧困にはまると抜けだすことはほぼ不可能だ。
そういう人にとっての貧困からの脱出手段が風俗。その中でも(比較的)危険が少なく、短期間で高額のお金を稼ぐチャンスがあるのが飛田なのだ。

売春はけしからんというのはかんたんだけど、今の日本の生活保護制度や奨学金制度では救えない女性たちを売春宿が救っているのもまた事実。
読めば読むほど「なんで売春っていけないことなんだ? 双方同意でやって、男は満足して女は助けられるんなら何も悪いことないのでは?」という気になる。
批判するやつはこの社会から貧困をなくしてから言えよなー。

といいながらも、こういう世界と自分が積極的に関わりたいかというとやっぱり「まあそれはぼくや家族とは関係のない世界でやってくれ」と彼我の間に線を引いてしまうのもまた事実で……。

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ペーソスライブ@西成区・萩之茶屋

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』



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2020年3月10日火曜日

【読書感想文】成功者の没落を楽しめる本 / 荒木 博行『世界「倒産」図鑑』


世界「倒産」図鑑

波乱万丈25社でわかる失敗の理由

荒木 博行

内容(e-honより)
「倒産」は教訓と知恵の宝庫である。なぜ一時代を築いた企業は破綻に至ったのか。日米欧の25事例を徹底分析!

仕事で弁護士とつきあっている。その人は法人破産の案件を担当しているのだが、「もうどうしようもなくなってから駆けこんでくるんだよね」と語っていた。

金もなくなり、信用もなくなり、人も離れ、万策尽きてから弁護士に相談に来るのだという。
そうなると弁護士としてはどうすることもできない。破産しかないが、弁護士としてはそのサポートすらできない。なぜなら弁護士費用を一切払えないから(破産したら無一文になるから弁護士費用は前金でもらうしかない。だがその数十万円すら払えない)。

「あと半年早く相談してくれたら、負債を整理するなり、経営者個人の財産だけは守るなり、打てる手があったのに……」
というケースが多いそうだ。

傍から見ていると「もっとなんとかできる方法はいっぱいあったのに」とおもうけど、渦中にいる人間にとってはどうすることもできない。
それが倒産だ。



『世界「倒産」図鑑』は、そごうやNOVAといった比較的最近倒産した日本の企業から、ゼネラルモーターズ、コダックといった海外の老舗企業まで、25社の倒産に至った経緯とそこから導きだされる教訓をまとめた本。

25社の紹介ということで、それぞれの説明はあっさり。
倒産に至るまでには様々な要因があったのだろうが、ひとつかふたつぐらいの要点にまとめて説明している。

これがおもしろい。
正直に言おう。
下世話な楽しさだ。
うまくいって調子こいてた企業が、調子に乗りすぎたためにみるみるうちに転落してゆく。こんなおもしろいことはない。うひゃひゃひゃひゃ。この手の話、みんな大好きでしょ?

著者のまえがきには「決して興味本位でおもしろがるわけじゃなく、過去の失敗例から教訓を導きだして二の轍を踏まないように気を付けてもらうためにこの本を書いた」とあるが、そんなものは建前にすぎない。
成功者の没落が見たいんだよ、みんな。



たとえばそごう。1830年創業、戦後に次々新店舗を開業して勢力を急拡大したものの、その急成長戦略がバブル崩壊で裏目に出て2000年に民事再生法を申請した。
 そごうがここまで急激に拡大できた背景には、「地価」という要素がありました。そごうは出店予定地周辺をあらかじめ買い占め、出店で地価を上げることで資産を増やします。こうして担保力をつけて黒字化した独立法人が、新しい店舗(独立法人)の債務保証をしながら銀行から資金調達し、そしてまた新たな店舗を作っていく、というサイクルを作っていきました。
 例えば、千葉そごうが軌道に乗ると、今度は千葉そごうが出資して、柏そごうを設立。さらに柏そごうと千葉そごうが共同で札幌そごうなどに出資するという形です。地価が上がっていれば、担保によって銀行から新たな資金を調達することができ、そうして新しい店舗を広げていったのです。
 しかし、このサイクルはいくつかの重大な問題を孕んでいます。
 1つ目は、そごうの独立法人同士が支え合う複雑な形になっていたため、経営の内情がブラックボックスになること。これに水島社長のカリスマ性が合わさって、誰もグループ全体の経営状況を把握できない状況になりました。資金の貸し手である銀行も、そして当の水島社長ですら、正確な全体像を把握していなかったと言われています。各社ともに独立法人であったために、人的交流もなく、数字の基準もバラバラな状態が放置されていました。恐ろしい規模のどんぶり勘定が許されてしまっていたのです。
 そしてもう1つは言うまでもなく、地価が下がった時は全てが逆回転する、ということです。担保価値が低下して銀行が資金提供を止め、資金回収に回る時、この拡大サイクルは一気に「崩壊サイクル」へと転じます。
「地価」を担保にどんどん支店を作り、そのおかげで上がった「地価」を元にさらなる出店……というサイクルをくりかえしてきたため、地価が下がるとすべてがシナリオ通りにいかなくなる。

今の我々から見ると「そんな無茶な」と言いたくなるようなシナリオだけど、でも地価が上昇している局面ではそごうの戦略は正しかったんだよね。
バブル期までは大半の日本人が「土地の値段は上がりつづける」という認識を持っていたそうだし、たぶんそごうにはどうすることもできなかった。
仮に社長がタイムテレビで未来を見ることができて「地価の上昇が止まるだろうからここらでブレーキを踏もう」って言いだしたとしても、一度動きだしたサイクルはなかなか止められない。そごうの破綻は避けられないシナリオだったんじゃないだろうか。

もちろん「拡大サイクル」をやっていなければ破綻はなかっただろうけど、でもそうすると成功もなかっただろうしなあ。



フィルム写真で世界を席巻したもののデジタル化の波に乗り遅れて倒産したコダックについて。
 もちろん、コダックの思慮が足りなかったという側面もあるかも知れませんが、私たちは後日談をベースにこの事例を笑うことはできません。優秀な人材はたくさんいたでしょうし、彼らによるビジネスの分析も行われていたはず。デジタル化に真っ先に踏み込んだ通り、デジタル化の未来を予測し、最も脅威を感じていたのはコダックだったのかも知れません。
 しかし、それ以上に、コダックには「保守派」「守旧派」と呼ばれるステークスホルダーが多く存在していました。銀塩周りの写真品質にこだわる技術者や、現像に関わる販売店など、従来のコダックのビジネスモデルによって潤う人たちはたくさん存在したのです。このような技術的転換点において、経営者はジレンマに陥り、そして、ジレンマは「希望的観測」を生み出します。「こうなってくれた方が私たちにとって強みが活かせる」「この方が私たちに都合が良い」という願いが冷静な分析を打ち消していくのです。
いろんな倒産のケースを見ていると、たしかに倒産の近しい原因としては失敗や慢心や見通しの甘さや組織の機能不全があるのだけれど、それらがなかったらその企業たちは数十年先も業績好調だったかと言われれば首をかしげてしまう。

たとえばコダックは誰がトップに立っていたとしてもカメラのデジタル化で大打撃を受けたことはまちがいない。
富士フイルムのようにフィルムを捨てて化学工業メーカーとして生まれ変わった例もあるけど、そんなの例外中の例外で、まったく別の業種に乗りだして成功した例よりも失敗した例のほうが圧倒的に多い。

この本には
「うまくいっているときも慢心するな。今の技術や手法は必ず時代遅れになる」
「時代の先を読んで次の手を打ちつづけること」
「常に社内の風通しを良くして、でも決定はスピーディーに」
といった教訓が挙げられている。
それは正論ごもっともなんだけど、それらをすべて実践しつづけられる企業なんか世界中どこにもないでしょ。

AppleやAmazonやアルファベット(Google)だって、今はうまくいっているからその手法がもてはやされてるだけで、彼らのやっていることって強引かつ無茶なやり方だからいったん歯車が狂ったらだめになるのも速いはず。

企業たるもの、倒産するのがあたりまえなのだ。
「できるだけ長く健康に生きる方法」はあっても「不老不死になる方法」はないのと同じで、遅いか早いかの違いはあっても倒産は避けられないのが企業の運命だとおもうなあ。



いくつものケースを見ていて気付くのは、ブレイクスルーを果たすのはその業界のトップ企業ではないのだということ。

コダックがデジタルカメラを生みだせなかったように、トイザラスがオンラインでの販路を拡げられなかったように、トップ企業には業界の仕組みを変えることができない。なぜなら、業界の仕組みが変われば自社の優位性を捨てることになるから。

ネット通販よりもっと便利な販売方法ができて(それがどんなものか想像もつかないけど)「ネット通販なんてもう古いぜ!」となったとき、たぶんAmazonや楽天はそこに力を入れることができない。
今、書店が「地方から書店文化が消えていいんですか?」と消費者にとって何の利益ももたらさないわけのわからぬ理屈を並べながら消えていこうとしているように、Amazonや楽天もネット通販にしがみついて消えてゆくだろう。

車の自動運転技術を実用化するのは自動車メーカーではないはずだ(じっさいGoogleらが開発しているしね)。
オンライン時代の報道を牽引するのは新聞社やテレビ局ではない。

業界の人間には既存の仕組みを壊せないのだ。大手であればあるほど。

新聞社だって「紙の新聞をやめてオンラインに専念してはどうか」とはおもいついてたはずなんだよね。かなり早い段階で。
でも、それをするには、全国各地の販売店をつぶして、印刷所をつぶして、既存の広告枠を全部なくして、記者の数も減らさなければいけない。しがらみでがんじがらめになっている新聞社にはできない。

新聞社や書店だけでなく、銀行も自動車メーカーも電機メーカーもそうやってつぶれてゆく。
自らが生まれ変わることはできずに外からやってきた黒船に押しつぶされる。かつて自分たちがそうやって旧いビジネスを叩きつぶしてきたように。
 しかし、歴史というものは皮肉なものです。1893年に創業したシアーズは、通信販売という流通革命を起こし、アメリカ全土に品物を行き渡らせてアメリカ人の生活をより豊かなものにしてきました。それから100年経った1993年、シアーズは祖業の通信販売から撤退するのですが、その翌年の1994年、まるでシアーズの遺志を継いだかのように、アマゾンが新たな通信販売モデルを立ち上げます。そして、シアーズはやがてそのアマゾンに引導を渡されるのです。

そして。
企業だけでなく、国家も同じだとおもう。
有史以来、いろんな国が生まれては消えていった。同一の政治体制が五百年続いたことなんてほとんどない。百年続けば国家としては十分長命なほうだ。
あらゆる組織は、外圧以外では大きく変われない。そして大きな外圧を受けたらたいていはぶっ壊れる。

日本という国も、そのうち滅びる。
現在すでに「過去の成功にしがみついて時代の変化についていけない」という危険な局面に陥っているように見える。

明治維新で近代国家となった大日本帝国が太平洋戦争でこてんぱんにやられて国家システムが瓦解するまでが七十余年。
そして終戦から現在までが七十五年。
もしかすると「日本の倒産」もそろそろかもな……。


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2020年3月8日日曜日

ラグビー発祥の地

 昨日公園で保育園児たちとドッチボールしてたら、ふたりの子がボールの取り合いをして、そしたら規模が大きくなって数人でのボールの取り合いになって、もうそっちのほうがおもしろいからボール奪って逃げるっていう遊びをやってたら近くにいた小学生たち(二年~五年生)もなんだなんだおもしろそうなことやってるなって感じで入ってきて、そしたら当然小学生ばっかりにボールが渡って保育園児が手出しできない状態になったからぼくも「よっしゃ! 保育園児 対 小学生や! おっちゃんは保育園児の味方や!」って宣言して参戦して(気分は第二次世界大戦に参戦したアメリカ)、小学生からボールを奪って保育園児にパス出して、保育園児が奪われたら小学生がパス回しするのを必死に追いかけてスチールしてまた保育園児に手渡して、っていう遊びを三十分以上やっていた。

 久々に全力疾走したね。
 走って、ジャンプして、ボール奪いにくる小学生をブロックして、フェイントかけて、保育園児に指示出して、また走って……ってやってたから汗びっしょり。山王戦の湘北の選手たちぐらいの運動量だったからね。

「ボールを奪って敵に奪われないように味方にパスをする」というだけのシンプルなルールだったけど、けっこういい勝負になった。
 保育園児チームがボールを持っている時間と、小学生チームがボールを持っている時間、それほど変わらなかったんじゃないだろうか。
 ふつうに考えれば小学生チームが圧勝しそうなものだけど、大人のぼくが保育園児チームに入ったことでバランスが良くなった。高さもスピードもまだ小学生には勝てる。体力はかなわないが、ぼくもかつては長距離走をやっていた人間なので同世代のおっさんの中では体力はあるほうだ。
 それに小学生は「保育園児に怪我をさせないようにしないといけない」という制約があるが、保育園児チームには一切遠慮がない。全力で小学生にぶつかってゆく。さすがの小学生も、六歳児が全力でぶつかってきたらけっこうひるむ。
 慣れない人がトカゲを捕まえようとするようなものだ。人間とトカゲのパワーは比べものにならないが、トカゲは文字通り死にものぐるいの全力で逃げるのに対し、人間側は「怪我をしないように」「強くつかみすぎてトカゲが死んじゃったらイヤだ」といった気持ちが邪魔をして全力を出せない。結果、トカゲに逃げられる。
 同様に小学生はボールを抱えて走る保育園児に追いつくことはできても、そこから手が出せない。うかつに手を出すと怪我をさせてしまうからだ。敵陣営のパスミスを待つしかない。結果的にちょうどいいハンデが生まれる。

 で、やりながらおもったことは「これはゴールのないラグビーだな」。
 ボールを抱えて走る。敵に取られる前に味方にパスを出す。このへんはラグビーといっしょ。
 ただしゴールラインはない。だからトライもない。キックでのゴールもない。相手にボールを取られるまでは走りつづける。取られたら取りかえすために走りつづける。終わりもなければ休めるタイミングもない。ひい。

 そんでおもったのは、やっぱりラグビーのルールってよくできてんなってこと。
「ゴールがあったほうがいい」ってのもそうだし、それ以外の部分でも。

 ボールを投げてパスをするのだが、小学生の子が保育園児のパスをスチールすることはあっても、その逆はない。
 うまい人同士がパス回しをしていたら、よほど人数が勝っていないかぎり技術的に劣るチームがボールを奪うことは難しい。小学生チームからボールを奪うのはもっぱらぼくの役目だった。
 ここでラグビーのルールである「前方に投げてはいけない」を導入すれば、技術的に劣るチームにもボールを手にするチャンスがぐっと増えるだろう。後方に投げたり前方にキックしたりすれば、自然とパスミスも増える。

 あとボールを抱えている人間が倒れこんだら、収集がつかなくなる。みんながボールを奪おうと群がってくるのでボールは動かなくなる。危険でもある。
 ラグビーのルールである「倒れたらボールを手離さなくてはいけない」を導入すれば、危険も解消される。

 ラグビー誕生のエピソードとして
「イングランドのラグビー校の生徒が、フットボールの試合中にボールを抱えて走りだした」
というのはあまりにも有名な話だ。
 ぼくらが昨日やったのとほぼ同じような状況だった。
 そこからもみくちゃになってボールを奪いあう競技になり、「前方にパスしちゃいかんってことにしないと相手チームにボールが渡らないよね」「倒れたのにボールを抱えてたら危ないし見てるほうもつまらないよね」みたいなことに気づいて徐々にルールが整備されていったのだろう。

 ラグビーの歴史が垣間見えた気がした。


2020年3月6日金曜日

【読書感想文】カツオとインターネットは旬が大事 / 綿矢 りさ『インストール』

インストール

綿矢 りさ

内容(e-honより)
学校生活&受験勉強からドロップアウトすることを決めた高校生、朝子。ゴミ捨て場で出会った小学生、かずよしに誘われておんぼろコンピューターでボロもうけを企てるが!?押入れの秘密のコンピューター部屋から覗いた大人の世界を通して、二人の成長を描く第三八回文藝賞受賞作。

「かつて話題になった本を今さら読んでみる」シリーズ。
綿矢りさ氏が十七歳の若さで『インストール』で文藝賞を受賞したのが2001年。
『蹴りたい背中』で芥川賞を受賞し、著者のルックスも相まって文壇以外でもたいへん話題になったのが2004年。
へそまがりのぼくは「ふん。話題作なんか読むもんか」ということで文庫になってからも手を伸ばさなかったのだが、二十年近くたったしもういいだろうと(何が?)いうことで今さら読んでみた。

うーん、おもしろくない。
いやこれはぼくのせいだ。話題になったときにすぐ読まなかったぼくのせいだ。

「当時は有効に機能していたであろう小道具」が2020年の現在ではすっかり錆びついてしまっている。
「女子高生が小学生の男の子といっしょにインターネットを使って人妻のふりをして風俗チャットで小遣い稼ぎをする」
というストーリー、2001年には新しくて電脳的で不安を抱かせてくれるものだったんだとおもう。
女子高生も小学生もスマホを持っているのがあたりまえの2020年には、そんなストーリーは日常でしかない。何の新しさもない。
もちろん文学は設定の斬新さだけで成り立つものではない。が、『インストール』に関してはその設定に依存する部分がきわめて大きい。
というわけで今読んでもぜんぜんおもしろくない。当時はこんなものをめずらしがっていたんだなあとおもうだけ。かといって懐かしむにはさほど古くないし。

『潮騒』や『太陽の季節』や『限りなく透明に近いブルー 』も、発表当時はその新しい性風俗の描写が話題になったらしい。でも数十年たった今では「そこまで大騒ぎするほどのことか?」という感じだ(陰茎で障子をつきやぶる、とかは今でも異常行動だけど)。
まあ『潮騒』も『太陽の季節』も『限りなく透明に近いブルー 』も読んでないんですけど。

ってことで、文学には鮮度が短いものがある。鮮度が短いものは旬のうちに読んじゃいましょうね、という結論。


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2020年3月5日木曜日

【読書感想文】電気の伝記 / デイヴィッド・ボダニス『電気革命』

電気革命

モールス、ファラデー、チューリング

デイヴィッド・ボダニス(著)  吉田三知世(訳)

内容(e-honより)
同じ電信技術を追求しながら特許のために人生の明暗が分かれたモールスとヘンリー。聴覚障害者の恋人への愛から電話を発明したベル。宇宙は神の存在で満たされていると信じつつ力場を発見したファラデー。愛した上級生の死の喪失感をバネにコンピュータを発明したチューリング。電気と電子の研究の裏側には劇的すぎる数多の人間ドラマがあった!
だじゃれを言いたいわけではないが、電気にまつわる人々の伝記。
電気の性質に気づき、活用し、改良を加えた人たちに関する逸話が並んでいる。

褒めそやすばかりではなく、悪いところも書いているのがいい。
今もその名が知られているモールスやエジソンの金に汚い部分とか(金に汚かったからこそ成功したのかもしれない)。
 これらの発明のほとんどすべてにおいて、エジソンと彼の研究開発チームは重要な役割を果たしていたので、エジソンはご満悦だったに違いない。エジソンは、年老いてからは愚痴っぽくなったものの、機械が大好きで、社会に起こった一連の変化を総じて歓迎していた。だがじつは、彼にはまだ不満があった。当時の技術者でそのように考えていた者は極めて少数だったが、エジソンは、電気の効果の背後にある原理を科学的に解明したいと考えつづけていたのである。
 エジソンは、当時の最高の電気技師だと目されていたが、彼には導線の内部で何が起こっているかさえわからなかった。新聞記者たちに、彼の偉大な発明品が機能するほんとうのからくりを説明してくれないかと求められると、たいてい彼はただ笑ってごまかすのだった。そして、そういうことは、ご立派な大学教授の皆さんが解明すべきことであって、それがほんとうに解明されるころには、自分はとうに死んでしまっているだろうと話した。
へえ。
エジソンって電気のことを(当時としては)熟知しているのかとおもっていたが、じつは仕組み自体はよくわかっていなかったんだね。
エジソンは技師であって研究者ではなかった。だから「こうすればああなる」という事象は知っていても、「なぜそうなるのか」はよくわかっていなかった。
まあ発明するのにはそれで十分なんだろう。

ぼくだってWeb広告の仕事してるけどパソコンがどういう仕組みで動くかまったくわかってないし。だからよく「パソコンが動かないんです」とか相談されるけど、ちっとも答えられないんだよね。「再起動してみたらどうですか」ぐらいしか言えない。

とはいえ、エジソンの発明した電球や、エジソンが改良した電話はほとんど同じ原理でごくごく最近まで使われていた(今も一部では使われている)そうで、百年間も使用に耐えるものをつくるなんて、エンジニアとしてはほんとに天才だったんだなあとつくづくおもう。原理をわかっていないのに、いやわかっていないからこそすごい。

エレクトロニクスってものすごく進歩しているようで、案外ほとんど進んでいない分野もあるんだなあ。



電気はレーダーを生みだし、戦争の性質を大きく変えた。

敵機の来襲や攻撃目標の選定など、肉眼ではとらえきれないものをレーダーでとらえられるようになった。
おかげでイギリスはナチスドイツを撃退することができた。イギリスがレーダーを使えずドイツがイギリス侵攻に成功していたら世界の勢力図も大きく変わっていただろう。

この顛末にはけっこうページが割かれていて、すごくおもしろい。
でもここだけテイストがちがうんだよなあ。サイエンスノンフィクションではなく軍記物小説のようになっている。
 イギリス政府が、レーダーによる防衛システムを隠蔽するために、作り話を積極的に広めたのも功を奏した。新聞各紙に、特に夜間に正確に敵を迎撃することができるのは、ニンジンの視力改善効果によるものだという情報がわざと流され、それが掲載された(ニンジンが目にいいという話は、ここから始まったようだ)。英国空軍のメンバーたちの機転もあった。たとえば、フィリップ・ウェアリング軍曹が、敵機をフランスまで追っていた際に撃墜され、捕らえられてまもなく尋問を受けたときの機転の利いた受け答えについて、彼自身の説明を引用しよう。
「あるドイツ兵が尋ねました。『どうしておまえたちは、われわれが行くところにいつも先回りしているんだ?』と。わたしは、『われわれには強力な双眼鏡があって、それでいつも見張っているからさ』と答えました。それについてはそれ以上訊かれませんでした」
レーダーを発明したことを隠すために自国民に対しても積極的にデマを流したイギリス政府。
おかげでドイツ軍はレーダーの存在に気付くのが遅れ、戦況に大きく影響を与えた。
ドイツの諜報活動というレーダーに対してデマというレーダー遮蔽装置を使ったわけだ。

しかし結果的に成功したからよかったものの、政府が国民を騙すことを美談としてしまってよいのだろうかとちょっと気になる。「ニンジンが目にいい」程度の罪の小さい嘘だったらまだいいんだけどさ。
でも「国民を安心させるために日本は連戦連勝と虚偽の発表をした」大本営発表と本質的には変わらないわけで、楽しい話ではあるけれどいいことじゃないよね。



コンピュータの父とも呼ばれるアラン・チューリングの章より。
チューリング自身がコンピュータを完成させることはなかったが、彼の構想がコンピュータの開発につながった。
 チューリングの主張とは異なり、この機械は万能などではない」と批判する者が、この機械が実行できないような仕事の例を列挙したときには、チューリングはその批判者に、不可能と思われる仕事をいくつかの段階に分割して表現して、それぞれの段階を、チューリングと同じ明確で論理的な言葉で表現してもらえばよかった。そのうえで、チューリングがその分割された命令を機械に与えると、機械は着々と、指示通りに仕事を果たすだろう――そして、批判者が間違っていたことが明らかになる、というわけだ。今の世に生きるわたしたちは、一連の指示を実行する機械というものにあまりに慣れきっており、コンピュータにせよ携帯電話にせよ、打ち込んだ命令に従うものと思い込んでいるので、そのようなアイデア自体が受け入れられなかった時代があったということを忘れてしまいがちである。だが、チューリングが学生だったころは、生物ではなく、自らの意志で動くのではない機械に、そのような知的な仕事が成し遂げられると想像できる人間は、ほとんど存在しなかったのだ。
これ、今の我々にはわかりにくいんだよね。
パソコンやスマホに囲まれている我々は、「命じられたことを実行する機械」の存在に疑問を持つことはない。
「計算をしろと言われて計算をする機械がある」と聞かされても「そりゃそうでしょ」としかおもえない。
でもほんの数十年前までは、その考え方自体がとうてい受け入れられるものではなかったのだ。
「スイッチを入れたら灯りがつく機械」と「計算でもお絵描きでも映画上映でもできる機械」の間には遠い隔たりがあったのだ。

言われてみれば、ほんの二十五年ぐらい前でもそんな感じだったかもしれない。
当時小学生だったぼくのまわりにも機械はいくつもあったが、基本的に一機一用途だった。
文書を作るならワープロ、計算をするなら電卓、スケジュールを管理するなら電子手帳(懐かしい!)、日本語を調べるなら電子国語辞典、英語を調べるなら電子英語辞典、テレビ、ラジオ、カメラ、ゲーム機、ぜんぶ別々の機械だった。
それらすべてがひとつの機械に収まって、誰のポケットにも入っている時代がくるなんて想像もつかなかった(しかもそれが二十年たらずで実現するなんて!)。

チューリングの頭の中にはハードウェアとソフトウェアを別のものにする発想もあったようで、とんでもない天才だったんだなあ。今の時代にはそのすごさが伝わりにくいけど。



電気が変えたのは人々の生活だけではないという話。
 これによって、遠い遠い昔から変わることがないと思われていたいろいろな関係が変化しはじめた。召使たちが、ひざまずいて、冷たい水で衣類を洗濯したり、暖炉の煤を擦り取ったり、汚れた水の入ったバケツを持って階段を昇り降りしているのを目にすれば、彼らは、気の利いた会話をしたり読書をしたりする自由な時間のある人間とはまったく違う種類の人間だと思える。したがって、召使には投票を行なう「資格」などないと考えるのはごく自然なことだろう(日々の労働で疲れ切った召使たちのほうも、投票権を要求するなど身に余ると感じることだろう)。だがしかし、電気3ポンプと電気モーターで動く洗濯機が登場し、続いて電気冷蔵庫に電動ミシン、そして次々といろいろな電化製品が生まれるようになると、単純な家事労働はどんどん減っていき、それと共に召使も姿を消し、自分を他人より下だと感じる気持ちも薄らいでいった。労働者階級の成人男子に投票権を与えてもいいのではないかという機運が高まり、やがて、以前はまったく無謀な考えでしかなかった、女子の投票権というものが検討されるようになったのである。
これは著者の個人的見解だけど、機械化が人権の拡大に寄与した影響は少なからずあるだろうね。
職業に貴賤はないというけれど、やっぱり尊大にさせられる仕事や卑屈な気持ちにさせる仕事はぜったいにある。
たとえば靴磨き。今ではめったに見なくなったけど、ぼくが子どもの頃はまだ街中に座って靴磨きをやっているおじさんがいた。
あれぜったいに卑屈になるとおもうよ。他人の足元にひざまずいて手を真っ黒にして靴を磨くんだもん。「おれは人から必要とされる立派な仕事をやっている!」という気持ちにはなれないとおもう。やったことないから想像だけど。古今東西どんな社会にも「磨いてほしいのかい? こっちも忙しい身だからね。まあ条件次第だね」みたいな態度の靴磨きはいないにちがいない。
逆に政治家なんてのは「選ばれた」という意識があるし、困っている人が陳情にきたりするからどうしても自分が偉くなったと勘違いしてしまう。他人を生かすも殺すもオレ次第だぜ、みたいな気持ちになっちゃうんだろうなあ。

人権意識っていついかなる社会にでも適用できるものじゃないのだと改めて気付かされる。
未開文明で「男女平等、基本的人権、思想の自由」なんて唱えたって、科学技術がなければ「家の中で炊事洗濯をする人」「教育を受けずに働かないといけない子ども」「過酷で危険な労働に従事する人」がいないと生きていけない。そういう環境で等しく人権を、なんて意識を持ったとしても実現不可能であれば意味がない。

思想や権利って普遍の真実であるみたいについついおもってしまうけど、じつはテクノロジーに支えられてぎりぎり立っている、きわめて危ういもんなんだなあ。

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2020年3月3日火曜日

えらいやつほどえらそう


池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』に、こんな話が載っていた。

横断歩道で手を上げている歩行者が渡り終わるのを待たずに通過してしまう割合は、普通車よりも高級車のほうが高かった。交差点で割り込む率も普通車より高級車のほうが高い。
一般的に社会的地位の高い人ほどモラルに欠ける行動をとる傾向がある。

ほう。
たしかに言われてみればそんな気もする。社会的地位が高くなり、高い車を持つと偉くなった気になり、横柄にふるまってもよいとおもうのだろう。

年寄りのほうが若者よりマナーが悪いという話をよく聞く。ぼくの体感的にもそうおもうし、なによりぼく自身が昔よりがさつになった気がする。特にこどもを連れているときなんかは「こっちは子ども連れてんだぞ。スーツ着てんだぞ。まっとうな家庭人組織人として社会的信用度が高いんだぞ」という気持ちがまったくないといえば嘘になる。

おおっぴらには言わないけれど、ぼくは自分が人より賢いとおもっているし人より思慮深くて道徳的だとおもっている。
そんな自分の判断がまちがっているわけではないはずだという気持ちがないだろうか。うん、あるな。

こないだベビーカーを押して駅のエレベーターに乗ろうとしたら、あと二人分ぐらいしかスペースがなかった。前にいたおばちゃん(元気そう、大きい荷物も持ってない)がエレベーターに乗りこもうとしたので「おいこらおまえはエスカレーター使えや。ベビーカー優先やろがい」という気持ちが芽生えて、操縦を誤ったふりしてベビーカーでおばちゃんの足を軽く轢いてしまった。「あっ、すみません」と言ったものの内心は「ざまあみさらせ」という気持ちだった。
よくない。ぼくが悪い。おばちゃんも悪いがぼくも悪い。いや、そういう気持ちがよくない。おばちゃんは悪くない。ぼくだけが悪い。


「車のハンドルを握ると性格が変わる」とよくいうが、ぼくの場合、ベビーカーを持つと性格が荒っぽくなってしまう。おらおら、こっちは子連れ様だぞと気持ちが荒ぶる。
ぼくの中では「高級車に乗っている」というのはまったくステータスにならないが(だって車嫌いだもん)、「子どもを連れている」は高いステータスの象徴なのだ。

こないだベビーカーを押して百貨店に行き、エレベーターを待っていた。隣では車椅子に乗った高齢男性も待っている。
やがて「車椅子・ベビーカー優先エレベーター」が到着した。中は若い女性で満員。ベビーカーも車椅子も乗れる余地がない。だが乗っている女性たちは誰ひとり降りる気配がない。
ぼくは言った。「車椅子の人いるんで降りてもらえますか」と。
言われてようやく彼女たちはぞろぞろと降りた。ベビーカーを押したぼくは「ったく。言われる前に降りろよ。車椅子・ベビーカー優先エレベーターなんだから」とおもっていた。

だが少ししてから反省した。言い方がよくなかった。
「降りてください」と言ったこと自体は正しかったとおもっている。「車椅子・ベビーカー優先エレベーター」だったのだから。

だが「車椅子の人いるんで降りてもらえますか」と他人をダシにしたのはよくなかった。ちゃんと「ベビーカー優先エレベーターなので」と言うべきだった。

実るほど頭が下がる稲穂かな。偉そうにならないように気をつけないとね。
ぼくは世界一地位の高い人間だからね(自分の中では)。

2020年3月2日月曜日

マジックバー体験

六歳の娘に「手品やって」とせがまれる。

といってもぼくはマジシャンではないので、手品などほとんどできない。
指を隠して「指がなくなっちゃった!」とか、右手に握っていたビー玉を左手に持ちかえたふりをして「ビー玉が消えた!」とか、たあいのないものしかできない。

娘が三歳ぐらいのときはそれでも驚いてくれていた。まさに子どもだまし。
だが元々手品のレパートリーもないし、娘も知恵をつけてきたので「下に落としただけやろ」などとすぐに見破られるようになった。
手品の本を読んでみたのだが、そこそこむずかしいのはテクニックがいるのでぼくにはできない。

ということでマジックバーなる場に娘を連れていった。
お酒を飲みながらマジックを見るバーだが、土日は昼の公演もやっているという。


二十分くらい前についたが既に行列ができていた。

客は全部で十組ぐらい。半分ぐらいは子ども連れ。残り半分はおばちゃんグループ。いかにも昼公演らしい客層だ。

開場と同時に他の客は急いで席に詰めかける。ぼくは娘をトイレに連れていったり飲み物を買ったりしてから席に着いた。
後から気づいたのだが、マジックを観る上でポジション取りはすごく大事なのだ。最前列だとマジシャンの手元や足元がよく見えるし、マジシャンから話しかけてもらいやすい。
なるほど。してみると急いで最前列を陣取ったおばちゃんたちは常連客なのだろう。よくわかっている。

開園前だが、若いマジシャンが前に出てきてテーブルマジックを披露してくれる。トランプの数字を当てたり、コインが消えたりするマジックだ。残念ながら三列目の我々にはよく見えない。もっと前に座ればよかったと後悔する。

若いマジシャンはマジックを披露しながら前説もおこなう。
写真は撮ってもいいよ、でもフラッシュはやめてね、SNSにアップするときはハッシュタグをつけてね、と随所に笑いをとりながら説明してゆく。
ちなみにこのマジシャン、めちゃくちゃイケメンだった。男のぼくから見てもほれぼれするぐらい。堂本剛をもっと若くかっこよくした感じの顔立ち。堂本剛がすでにかっこいいのにそれをかっこよくするんですぜ!
かっこよくて、しゃべりも達者で、マジックもできる。ひゃあ。こりゃあ合コンでは敵なしだろう。

やがて幕が開き、マジックショーが始まる。
鳩が現れるとかテーブルが宙に浮くとかサインをしたトランプが別の場所から出てくるとか、定番のマジックが続く。だがそれがいい。
なにしろ娘はもちろん、ぼくも生でプロマジシャンのマジックを観るのははじめてなのだ。変に凝ったものよりシンプルなやつがいい。

幕間に暗転するのだが、隣に座っていた娘がぼくの手をぎゅっと握ってきた。怖いらしい。
大きな音が鳴るのも嫌みたいだ。暗転するたびに手に力が入る。
マジシャンたちはことあるたびに「誰か手伝ってくれませんか」と参加者を募る。子どもたちははいはいと手を挙げるのだが、うちの娘は手を挙げようとしない。「やってみたら?」と尋ねてもかたくなに首を横に振る。
一度マジシャンから「手伝ってくれない?」と指名されたのだが、「こわい」と言って下を向いてしまった。
もったいない。参加したほうがぜったいに楽しいのに。

代わりといってはなんだが、ぼくは協力した。
「誰かお札を貸してくれませんか」と言われたので一万円札を貸したのだ。
まず大丈夫だろうが、もしもこのまま返してもらえなかったら……と考えるとすごくドキドキした。ただマジックを観るよりも一万円札を貸したほうが四倍ハラハラできるのでおすすめだ。
驚くことに、お札は消えなかった。ぜったいにお札が消えるマジックだとおもったのに。
お札の中から金魚が出てくる、というマジックだった。お札は返してもらえたがちょっと濡れていた。

だったらお札じゃなくてただの紙でいいじゃないかとおもったのだが、「紙自体に仕掛けがあるわけではないですよ」とアピールするためにはやはりお札を客から借りるのがいいのだろう。
誰でも持っていて偽造が容易でないのだから、なるほど、お札はマジック向きだ。

手品をやるだけでなく、間にマジシャンのトークやジャグリングも挟まる。
落語寄席だと落語の間にマジックなどの色物が挟まるのだけど、マジックバーでは逆なのだ。

その後もパントマイム風のマジック、さっきの超イケメンが炎を口に入れる大道芸のようなマジック、そしてラストに大仕掛けの人間入れ替わりイリュージョンがあり、めでたく閉幕。
出口でまんまとマジックセットを買わされてマジックバーを後にした。



娘は暗転や炎を怖がっていたものの、「鳩が出てくるのと人間が入れ替わるのはおもしろかった!」と人生はじめてのマジック鑑賞を堪能していた。

帰り道には「お父さん、あの最後のおりの中の人と外の人が入れ替わるやつやって!」とリクエストされた。
無理! できたら刑務所に入れられたときに助かるけど!