2021年10月29日金曜日

【読書感想文】井上 真偽『ベーシックインカム』

ベーシックインカム

井上 真偽

内容(e-honより)
日本語を学ぶため、幼稚園で働くエレナ。暴力をふるう男の子の、ある“言葉”が気になって―「言の葉の子ら」(日本推理作家協会賞短編部門候補作)。豪雪地帯に取り残された家族。春が来て救出されるが、父親だけが奇妙な遺体となっていた「存在しないゼロ」。妻が突然失踪した。夫は理由を探るため、妻がハマっていたVRの怪談の世界に飛び込む「もう一度、君と」。視覚障害を持つ娘が、人工視覚手術の被験者に選ばれた。紫外線まで見えるようになった彼女が知る「真実」とは……「目に見えない愛情」。全国民に最低限の生活ができるお金を支給する政策・ベーシックインカム。お金目的の犯罪は減ると主張する教授の預金通帳が盗まれる「ベーシックインカム」。

 ミステリ+SF短篇集。この趣向はおもしろい。

 ミステリ的な仕掛けがあり、さらにその後もうひとつSF的な仕掛けが待ち受けている。二段階の裏切り。

 人工知能、遺伝子工学、仮想現実、人間強化など、ちょっと先の技術をうまく活かしている。


 この人の小説を読むのは二作目。

 前に読んだ『探偵が早すぎる』は、個人的には好きなミステリじゃなかった。

 ノリがギャグ漫画みたいで。登場人物もトリックもストーリー展開もすべて嘘くさいし、かといってそれが笑いにつながるほどのユーモアもない。ひとことでいうなら「すべってる」状態だった。

 試みはおもしろかったんだけどね。


『ベーシックインカム』のほうは、試みのおもしろさはそのまんまで、不自然さが薄れていた。
 こっちもかなり無理はあるんだけど、テーマがSFだから無理が効くんだよね。「そういう世界だから」で済ませられる。

『探偵が早すぎる』の感想で「この人の本はしばらく読まない」って書いたけど、この路線だったらまた読みたいな。


 SF+ミステリといえば、西澤保彦氏が有名で、タイムリープや瞬間移動などを使ったミステリを書いている。

 しかし西澤作品はギャグ漫画的なんだけど、『ベーシックインカム』のほうはより本格SFに近い。ミステリ要素がなくても成立するぐらい。


 ちなみに表題作『ベーシックインカム』はあんまりベーシックインカムと関係ありませんでした。


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2021年10月28日木曜日

投票に行こうと言われましても

  ぼく自身は国政選挙でも地方選挙でも毎回投票に行くんだけど、でも行かない人の気持ちもわかる。というか、行きたくないのに「投票しましょう!」と大上段に言われるうっとうしさがわかる。

 選挙前になると、いろんな人が「投票は大事ですよ! 若い人は投票しましょう! 投票しないと悪い世の中になりますよ!」って言うんだけどさあ。
 あれ、興味ない人からしたらたまったもんじゃないだろうなあと同情する。選挙カーと同じぐらいのノイズだろう。


 ぼくは投票に行くけど、それは政治や選挙が〝好き〟だからだ。
 興味を持っている。だからおもしろい。

 そう、選挙はおもしろいのだ。そこそこ興味がある人間からすると。

 毎回ドキドキする。
 自分の投票した候補者や政党の結果が悪くてもそれはそれで関係者でもないのに「何がダメだったのか」「次はどうしたらいいのか」とか考えるし、投票した人が当選したり議席数を伸ばしたりしたらもちろんうれしい。

 ぼくは大阪市民だけど、過去二回の大阪市廃止を問う住民投票はすごくおもしろかったもん。

 ぼくはアイドルに興味がないのだけど、アイドルグループの選抜選挙に投票する人はこんな気持ちだろう。


 で、もしぼくが「今度アイドルグループXのメンバー入れ替え選挙があります! あなたも投票できます! ぜひ投票に行きましょう! あなたが投票しないとあなたの意見がないものとされちゃうよ!」と言われたとする。

 はあそうですかべつにいいですけど。だって誰も知らないし。誰がセンターになってもかまわないし。

 仮に「スマホでホームページを開いてタップひとつで投票可能」だったとしても、やらない。ましてや「指定された日に指定された場所に、事前に配布された投票権を持っていって、候補者の名前を書く」だったらぜったいにやらない。

 

「選挙に行きましょう!」と言われる人の気持ちはそれと同じだとおもう。
「行きましょう」だけ言われてもなあ。

 アイドルの選挙に投票させたいんだったら、
「今度アイドルグループXの選挙があります」じゃなくて、
「アイドルグループXってこんなにすごいんですよ。Aちゃんはこんなにかわいいし、Bちゃんはこんなにダンスがうまいし、Cちゃんにはこんな特技があるし、ライブではこんなパフォーマンスをやっててすごい盛り上がりを見せるんですよ!」
っていうプレゼンをしなきゃダメ。

「選挙に行きましょう!」だけ言われても、行くわけがない。


 だから、呼びかけるとしたら「選挙に行きましょう!」じゃなく、

「この選挙区では前回の選挙ではJ党が大差をつけてR党とK党の候補者に勝利しました。しかし今回はR党とK党が候補者を一本化。これで勝敗の行方はわからなくなりました」

とか

「J党の過去4年間のスキャンダルは××、××、××。一方のR党がやらかしたのは××、××、××。I党は××、××、××をやっていますが反省の色はなし。さあ国民の審判で制裁を受けるのはどの党?」

みたいな、選挙のおもしろさを伝える努力をすべきだとおもうんだよね。

 選挙っておもしろいんだから。


 ま、そんなことしてもほとんど変わらないだろうけどね。

 個人的には
「若者はもっと投票に行こう!」じゃなくて
「年寄りは投票に行くのをやめて若者の意見を反映させよう!」と呼びかけたいけどね。

 20年後に生きてる可能性が低い人が舵を握ろうとするなよ(候補者も含めて)。



2021年10月27日水曜日

【読書感想文】西村 賢太『小銭をかぞえる』

 小銭をかぞえる

西村 賢太

内容(e-honより)
女にもてない「私」がようやくめぐりあい、相思相愛になった女。しかし、「私」の生来の暴言、暴力によって、女との同棲生活は緊張をはらんだものになっていく。金をめぐる女との掛け合いが絶妙な表題作に、女が溺愛するぬいぐるみが悲惨な結末をむかえる「焼却炉行き赤ん坊」を併録。新しい私小説の誕生。

 どこまでが実体験でどこまでが創作なんだかわからないところが魅力的な私小説。

 西村賢太氏の書く小説の主人公はほぼ同じ。幼少期に父親が性犯罪で逮捕され、自身も定職につかず、女のヒモのような生活をし、藤澤清造(戦前の劇作家)に入れこんで古書を買い集め、自堕落でありながら他人に対しても厳しい目を向ける男だ。つまりクズ。

 どの作品の主人公もほぼ同じなので、著者本人の姿がかなり濃厚に投影されているのだろう。私小説に対して「どこまでが事実かフィクションか」なんて話をするのは野暮だが、まあ九割方実体験なんじゃないかとぼくは睨んでいる。そうおもわせるだけの筆力がこの人の小説にはある。




『焼却炉行き赤ん坊』『小銭をかぞえる』の二編が収録されている。

『焼却炉行き赤ん坊』はヒモ男が同棲している女と喧嘩してひどい仕打ちをする話であり、『小銭をかぞえる』のほうはヒモ男が同棲している女と喧嘩してひどい仕打ちをする話だ。
 そう、どちらも内容はほぼ同じである。

 主人公のクズっぷりもいっしょだ。仕事をせず、趣味や酒や風俗に金を遣い、借金をくりかえし、返済の期日は守らず、同棲相手の父親にまで金を借り、断られると逆恨みする。
 すがすがしいほどのクズだ。

 自らに酔うように、昂然と続けてきたが、私はこの、完全にこちらを小馬鹿にしているに違いない、まるで図に乗り放題の言いようがたまらなく癇にさわると、もはや我慢のならぬものが腹の底から噴き上げてきてしまった。
「だからお前を、ちったあ見習えってのか。馬鹿野郎、てめえの説教なんざ、聞いてやる義理はねえよ。たかが郵便屋風情が何をえらそうにえばってやがんだ。マイホームを買ったからって、のぼせ上がるんじゃねえよ……何んならこの場でよ、てめえの同僚が見ている前で泣かしてやってもいいんだぞ」

 これは、かつての知り合いに嘘の理由をでっちあげて借金を頼みに行き、「一万円しかもらえなかったこと」に腹を立てた主人公が吐く捨て台詞だ。

 一万円もらっておいてこの言いぐさ。おそろしいほど身勝手だ。


 幸いにしてぼくは、友人にまとまった金を借りたことはないし、貸してくれと頼まれたこともない。せいぜい数千円立て替えたぐらいで、それもすぐに返してもらっている。

 しかし金の貸し借りをした人の話を聞くと「友人間で金の貸し借りをしてはいけない」と強くおもう。

 借金をくりかえす人の思考回路って「貸してくれた。ありがたい」なんておもわないんだろうね。借りたときはおもうのかもしれないけど、それは一瞬だけ。
 あとは「あいつは会うたびに返せと言ってきやがる。ケチなやつだ」「追加で貸してくれなかった。なんで意地汚いやつだ」になってしまうんだろう。




 西村賢太作品の主人公はどうしようもないクズなんだけど、心底憎むことができない。

 なぜなら、彼らが持つ身勝手さや傲慢さは、ぼくの内にもあるものだから。
 己の内にあるエゴイズムを拡大して突きつけてくる。それが西村賢太作品。


『焼却炉行き赤ん坊』『小銭をかぞえる』の主人公はどうしようもない男なんだけど、邪悪ではない。
 単なる〝幼児〟なんだよね。

 うちにもふたり子どもがいるけど、子どもというのはつくづく自分勝手な生き物だ。世界は自分を中心にまわっていると心の底から信じている。わがままを通せば最後は周りが折れてくれるとおもっている。周囲の人間が自分の機嫌を取ってくれないのは悪だとおもいこんでいる。

『焼却炉行き赤ん坊』『小銭をかぞえる』の主人公は、まるっきり幼児だ。幼児がそのまま大きくなったおじさん。

 とことんダメな人なんだけど、でもちょっとだけかわいいんだよね。幼児だから。

 だから金を貸してくれる女がいるんだろうな。母性本能をくすぐるのかしら。


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【読書感想文】己の中に潜むクズ人間 / 西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』



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2021年10月26日火曜日

ツイートまとめ 2021年6月



地域

しごき

汚さ

暗号文

シネジジイ

タイムマシン

フランス代表

長寿命

いい子

まんま

パーマン

追悼ツイート

ケンタッキー

私はロボットではありません

ありがたき迷惑

2021年10月25日月曜日

テニスである

(この記事は八月下旬に書いたものです)


 にしこりもすなるテニスといふものを、してみんとてするなり。


 そんなわけでテニスである。
 きっかけは娘の友だち・Sちゃんのおかあさんに誘われたこと。

 話はそれるが、男から見た「子どもの友だちのおかあさん」の呼び名って〝ママ友〟でいいんだろうか。ママ友でもパパ友でも友だちでもないような気がする。そもそも「子どもの友だちの保護者」のことを友だちとおもったことないんだけどな。なんかいい呼び名ないかな。〝保護者仲間〟ぐらいかな。まあそれはどうでもいい。

 親戚が小学生向けテニススクールをやってるから人数合わせのために参加してくれないか、と誘われた。

 娘に「どうする?」と訊くと、「うーん、Sが行くなら行く」という煮え切らない返事。しかしそれも当然で、娘はそもそもテニスというものをほとんど知らないのだ。まともに見たことすらないのだから「やる?」と訊かれても「やりたい!」という返事にはならないのは当然だ。ぼくだって「クィディッチやる?」と訊かれて「やる!」とは即答しないもんな。ハリー・ポッターに登場する箒にまたがって球入れをする架空のスポーツを現実にやる人がいるらしいです。それがクィディッチ。


 そしてテニス教室へ。正午スタート、一時間。
 八月、好天、正午。暑くないわけがない。暑いというより熱い。腕からちりちりと音がする。

 ラケットの持ち方を教わり、ボールを真下についてみようとか、ボールにラケットを当てようとかコーチから指示。娘の様子を見ると、決して楽しくはなさそう。なにしろそもそもテニスが何かをよくわかっていないんだもんな。目的のわからない作業をさせられるのはさぞつらかろう。

 そんなこんなで一時間のレッスンは終了。最後に申し訳程度に「ふたり一組でネットをはさんで打ち合ってみましょう」という時間があったが、当然ながらラリーにはならない。よくて一往復。

 まあテニスがどんなもんかわかっただけでもいいさとおもい、娘に「どうする? またやりたい?」と訊くと「やりたい!」と意外にも強い返事。
 しかも友だちのSちゃんが「うーん、どうしよっかなー」と迷っているのに、娘は「Sが行かなくても行く」と言う。
 えーレッスン中はむすっとしてぜんぜん楽しそうに見えなかったのに。なんかわからんが心の琴線にふれたようだ。


 さあ来週もテニス教室へ行こう、とおもっていたら教室から連絡が。緊急事態宣言の延長で一切の部活が禁止になったのだと。
 むー。テニスなんて全スポーツの中でいちばんディスタンスとるスポーツなのになー。


2021年10月22日金曜日

【読書感想文】永 六輔『一般人名語録』

一般人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
またまた日本全国一億二千万人が創った名言・箴言。格言・警句。すごいものです。一般人が生みだす言葉の力強さと皮肉とスゴ味は。たとえば「今日も無事、小便できる幸福よ」―。本当にじっくり読んでみて下さい。何か痛快な気持ちになって、日本と自分の置かれた状況が見えてきませんか。どうぞ御愛読を。

『無名人名語録』『普通人名語録』に続く「市井の人々がふと漏らした発言集」第三弾。

 内容は変わらずおもしろいけど、一部前作と同じ内容があるぞ。チェックしてないのか。

 まあこの時代(約三十年前)はふつうの人はパソコン使わずに仕事してた時代だもんな。チェックも容易ではなかったんだろう。




「市民運動でマスコミに対応している人が
 スターになってくると、
 潮が引くように運動が無力になっていくことがあるの。
 運動って無名でないと、
 まとまらないのね」

 はるか昔、星新一氏が対談で、「市民運動が注目されるようになると中心人物の売名や利益と結びついてしまって権力にとりこまれる」と言っていた。

【読書感想エッセイ】 小松左京・筒井康隆・星新一 『おもろ放談―SFバカばなし』

 多くの市民運動を見ていてもそうおもう。

  高潔な思想を持った市民運動がはじまる
→ 中心人物が注目を集める
→ その人物の過去の言動が検索され、炎上
→ 運動自体の評価が下がり、下火になる

というケースを何度も見てきた。
 特に今の時代はかんたんに過去の発言を検索できるので、まずいことがかんたんに見つかる。誰だってうしろ暗いことのひとつやふたつやみっつやよっつはあるだろう。ぼくなんか悪口ばっかり書いてるからひとたまりもない。

 論理的に考えれば「市民運動の中心人物がいいやつじゃなかった」からといって市民運動までも否定される筋合いはないのだが、残念ながら人々はそんなに論理的じゃない。
「悪いやつがやってるんだから悪いこと」になってしまう。




 言われてみればたしかにそう! という発言。

「内科っていうのは外から診察して、
 外科っていうのは、
 内側をあけて治療するわけですからね。
 内科が外科で、
 外科が内科なんですよね」

  ほんとだ。

 なんで外を診るのを内科、中を開くのを外科っていうんだろう。


「昭和天皇って相撲が好きだったっていうのは、
 あの行司が好きだったんじゃないかな。
 土俵の上で一番偉そうに見えて、
 決定権のないところがさ、誰かに似てない?」

 言われてみれば。

 相撲の行司ってぜんぜん権力ないからね。

 スポーツの審判はフィールド上の最高権力者なのに、行司はちっとも権力がない。行司が裁いても土俵下にいる審判団にかんたんにくつがえされるし、ミスジャッジをしたら小刀で切腹しないといけない(じっさいはしないけど)。

 権力はないのに責任だけはある。天皇と同じだ。




「戦争体験を伝えろって、
 若い奴が話を聞きに来るんだけどさ、
 オレが中国戦争でやってきたことなんか言えないよ。
 強姦ばっかりだもの」

 戦争体験談っていうと悲惨な話ばかりになるけど、全員が悲惨な思いをするんなら戦争なんかそもそも始まらない。

 一部には、戦争によっていい思いをするやつもいるはずなんだよな。強姦したとか、戦争によって大儲けしたとか、票を集めたとか、そういうやつがさ。

 でもそういうやつは語らない。自分もつらい目に遭ったかのような顔をする。

 ほんとは、そういうのこそ書き残さなくちゃいけないんだよな。匿名でいいからさ。

「戦争すれば庶民が悲惨な目に遭うぞ!」よりも「戦争すればあいつがうるおうぞ!」のほうが抑止力になるんじゃないかな。




「プロ野球が立派でないと青少年に悪い影響を与える……。
 冗談じゃねェや、のぼせるんじゃないよ、
 たかがプロ野球が!」
「障害児が、
 精一杯生きているっていう言い方をするけど、
 本当は、障害児に対して
 精一杯生きなきゃいけないのよ」

 24時間テレビが「感動ポルノ」と言われて久しい。ぼくは観たことないので何とも言えないけど。

 ただ、テレビで伝えるべきは「障害者が何かにチャレンジする姿」よりも「障害者が何かにチャレンジするのを助ける人の姿」ではないだろうか。

 十年ぐらい前に、ある日本人の登山家が八十歳でエベレストに登頂して「世界最高齢! えらい!」とニュースで騒いでいた。

 でも、その人はべつにえらくない。好きで登っているんだもん。好きでラジオ体操するのも好きでエベレストに登るのもいっしょだ。趣味でやっているだけなんだから、べつにえらくもない。

 えらいのは、彼を助けた人たちだ。エベレストに登るだけでもたいへんなのに、じいさんをサポートしながら登らなきゃいけないのだ。仕事でやっているとはいえ、じいさんの道楽に付きあって命を救っているのだ。これはえらい。

 パラリンピックの選手だってぜんぜんえらかない。好きなスポーツをやっているだけだ。あれがえらいなら、公園でスケボーの練習をしている連中もえらいことになる。

 褒めたたえるとするなら、パラリンピックの選手をサポートしてる人たちだよな。
 彼らを取りあげて「ほら、すごいでしょ!」とやれば、観ているほうも「自分も何か手助けできるかも」とおもえるようになるかもしれない。


 スポーツ選手に対して、ファンが「感動をありがとう!」とか言うのは好きにしたらいいけど、問題なのは一部のスポーツ選手がそれを真に受けて「自分は日本中に勇気を与えられるすごい存在だ」と勘違いしちゃってること。

 勘違いするなよ。おまえは好きで跳んだり跳ねたりたたいたり投げたりしてるだけなんだよ。その姿がおもしれえから注目を集めてるだけ。パンダと同じ、何も生みださないごくつぶし。

 いやいいんだよ。ごくつぶしを飼える社会はすごく成熟してるってことだから、そうやってプロスポーツ選手が存在することはぼくも賛成だ。

 でもこないだのオリンピック開催の議論のときに明らかになったけど、一部のスポーツ選手は「社会の見世物をさせていただいている」立場だということを忘れて「社会がスポーツ選手のためにまわるべき」と思いこんじゃってるんだよね。愚かにも。

 ファンがちやほやするからだぞ!


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2021年10月21日木曜日

部活は違憲

 部活は諸悪の根源。

 とまでは言わないが、部活がなくなれば世の中からパワハラがだいぶ減るんじゃないかとにらんでいる。


 小学生のとき、上級生は単なる「年上」だったし、下級生は「年下」でしかなかった。

 なのに中学生になると急に上級生は「敬うべき存在」になり、下級生は「威張っていい相手」になる。

 なんなんでしょうね、あれ。

 小学校でも縦割りの活動はあった。掃除とか運動会とかで、六年生が一年生の面倒を見ることが。
 そのときは「六年生のおにいさんおねえさんは一年生に教えてあげましょう」という感じだった。
「年下の子にはやさしくね」だった。

 なのに中学生になると急に「二年生は一年生に対してえらそうにしていい」になる。

 急にびゅんびゅん吹かしてくる。先輩風を。

 なんでだよ。「二年生のおにいさんおねえさんは一年生にやさしく教えてあげましょう」にしろよ。


 こうしてぼくらは部活動を通して
「先輩は後輩に対して敬意を払わなくていい」
「後輩は先輩が理不尽なことを言っても逆らってはいけない」
と誤った考えを学ぶ。

 憲法十四条「すべて国民は、法の下に平等であつて」は、部活においては無視される。
 部活は違憲。


 まあすべて部活のせいとは言わんが、他の学年と関わることなんて部活以外にはほとんどないから、まちがった上下関係を身につける原因の九十パーセントは部活のせいといってもいい。

 だから部活がなくなれば世の中からパワハラは減る。あと貧困と疫病と暴力と争いと鼻出しマスクでマスクした気になってるやつも減る。まちがいない。


2021年10月20日水曜日

【読書感想文】永 六輔『普通人名語録』

普通人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
再び日本全国の普通人が創った名言・箴言・格言・警句を、味わってください。なんと深く世相をえぐり、庶民の微妙な気持ちをとらえていることでしょう。この素晴らしい表現力に、だれもが驚きます。そして共感がひろがります。さあ、1億2千万人のペーソスあふれる大傑作を、声をだして読んでください。


『無名人名語録』に続く「市井の人々がふと漏らした発言」を集めた本。刊行は今から三十年前の一九九一年。

 なんてことない言葉なんだけど、うならされたり笑わされたり。

 たとえばこんなの。

「デマを流すコツは、みんなが信じたがるデマを流すこと」
「年をとってみるとわかることがあるね。
 戦争をやろうとするのは、決して若い連中じゃないんだよな。
 自分は戦地に行かないという連中が、はじめたがるんだ。
 自分が死なないとわかりゃ、
 戦争って面白いものなァ。
 で、若い連中が死ぬ……。
 年とった連中の若者に対するヤキモチだな」




「パーティとか、寄り合いで、帰りそびれて最後までつき合っちゃってさ。
 そのために、オーバーに言えば、
 人生が狂っちゃったりするんだよな。
 帰るタイミング、
 別れるタイミング。
 うまい奴がいるからねェ」

 何歳になっても「帰るタイミング」ってむずかしいよね。

 まあぼくは数年前から「どう見られてもいいや」とおもえるようになったのでスッと帰れるようになったけど、それまでは帰りそびれて後悔したものだ。そんなにおもしろいわけじゃないんだけどな、とおもいながら周囲に流されて二次会三次会に行き、やっぱりおもしろくなくて「早く帰りたいな」とおもいながら時間が過ぎるのを待つ。

 でも子どもが生まれたことで、帰る口実を作りやすくなった。

「子どもが待ってるので」「妻に怒られるので」と言えば、そこまで引き止められない。

 これは今の時代だからで、昭和の時代だったら「男が家庭なんか気にするな」なんて言われていたかもしれない。

 いい時代になったなあ。




「地下鉄に乗ってさ。
 いきなり喧嘩、なぐり合い。
 思わず、ポカンと見ちゃったよ。
 事情はわからねェんだもン。
 割って入れるもんじゃねェ。
 様子を知ろうとすりゃ、
 時間はかかるよ。
 そのうち、次の駅で、連中は、
 ホームに出ちゃう。
 それを車内で傍観していたって、
 そんなこと言われたって困っちゃう。
 正義感とか、公徳心てェものは、
 いつも持ってて、
 すぐに出せるってものじゃねェもの」

 ぼくもこの前、似た経験をした。

 街中で口論や喧嘩を目にすることがたまにあるんだけど、ほとんどの場合一部始終はわからない。

 注意 → 反論 → 再反論 → 再々反論 → 激昂してでかい声を出す

 のあたりで周囲の人は「なんか揉めてるな」と気づくから、いきさつがさっぱりわからない。

 止めたほうがいいのか、止めないほうがいいのかもわからない。たとえば痴漢を現行犯で捕まえたのだったら止めないほうがいいし、刃物を持って暴れてる人がいるんなら止めに入るより逃げたほうがいい。

 都会の無関心とか現代人は冷たくなったなんて言われるけど、たいていの場合は事情がわからなくてどうしようもないんだよね。




「ニュースショーの司会をしていると、
 自分の考えと、局としての考え、
 さらに視聴者が満足する考えと三つの発想の、
 どれを選ぶかということで疲れ果ててしまう。
 だからまず、自分の考えがない人がいい。それから局としての考えにも及ばない人がいい。
 正義も、真実も、無視して、
 視聴者が考えそうなことを言う人。
 そんな人こそ、すぐれた司会者」

 なるほどなあ。そうかもしれない。

 長続きするニュース番組の司会者って、自分の意見を出さない(もしくは何も考えてない)ように見えることが多い。

 政治家の不正や有名人の不倫にすぐ怒ってすぐ忘れるような人ばかりだ。

 みんなが右に行けば右に走り、世間が左に向かえば自分も左に移動する。思想も信条も洞察もない。わたぼこりのように風に流されて漂うだけ。

 それがうまくいく秘訣なんだろうね。




 中でもいちばんおもしろいのは、公共の電波や紙面に乗せることは決してできない、偏見まみれの本音の言葉。

「お客様、ここは東京のライブスポットです。
 田舎から来た人は下手なリズムで手を叩かないで下さい。
 それからブスの人、気取らないでェ!」
「オレがひとり暮らしの老人だからって、
 若い女のボランティアが来るんだよ。
 来てもいいけど、ケツを触ったら
 怒ってもう、来てくれないの。
 そういうケチなのも、ボランティアっていうのかい? 孤独なスケベだっているんだよ。
 触るだけなんだからさァ」

 いいなあ。

 こんなこと、Twitterでもなかなか言えないもんなあ。匿名掲示板に書いたことが原因で逮捕されることもある世の中だもんな。

 貴重な歴史的史料だ。


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2021年10月18日月曜日

【読書感想文】永 六輔『無名人名語録』

無名人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
日本全国一億二千万人が創った名言・箴言・格言・警句。巷に生きる無名人が残した言葉を、ひたすらメモしてみると、時にドキッとするような内容にであう。ジッとかみしめ想いをひろげていくと、何かそこはかとない共感と連帯の気持ちがわいてくる。ここに集めた傑作を、どうぞ声をだして読んでください。


 なんだろう。すごく新奇なことが書いてあるわけじゃないんだけど。でもいい本だったなあ。
 本ってこのためにあるのかもしれない、とすらおもえる。


 ラジオやテレビのタレントであり、番組で日本中あちこち旅をしていた永六輔さん。そんな永六輔さんが全国各地で耳にした、市井の人々の発言を集めた本。
 刊行は今から三十年以上前。

 どんな状況で誰が発した言葉か、なんてのは一切書かれていない。ただ発言だけが並べられている(一応テーマごとに分かれている)。

 これが、しみじみといい。 

「名誉や、地位は捨てられるんですよ。
 出世欲だって、性欲だって、なんとか捨てられるものです。
 物欲、もちろん、捨てられます。
 一番むずかしいのは、名前です。
 名前を捨てることができたら、プロの乞食になれます。そういうものです」

 こんなのとかね。

 ホームレスの人から聞いた話なのかな。ふしぎな説得力がある。

 たしかに、名前を捨てるのはむずかしそうだ。
 ブッダだって、名誉も地位も家族も財産も捨てたけど、名前だけは捨てなかったもんね。すべてを失っても、名前という「生きた証」だけは捨てられない。それを捨てたら人間でなくなる。

 人間と他の動物を区別するものは「自分の名前を持っているか」かもしれないな。動物には、他人からつけられる名前はあっても自称する名前はないだろうから。
(だから『吾輩は猫である』の猫は名前がないのか!)




 深く考えずに発したであろう言葉の中にも、箴言は多く眠っている。

「そりゃ若いときは有名になりたいと思ったさ、無名で終わるなんて考えもしなかった。でもね、でも、年をとってみると、ちょっとはわかってくるんだよ。
 有名人なんてものは、ありゃ世間のペットみたいなもんでさ。
 我々は気が向いたときに可愛がってやりゃいいもんだってね」

 そうだねえ。

 ぼくも有名人にあこがれたことはあった。というか、自分は有名になるもんだとおもっていた。

 でも中年になって、これから先ぼくが有名になることなんて大犯罪でもしないかぎりはないとあきらめた。あきらめたから負け惜しみでいうわけじゃないけど、有名人ってたいへんだろうな。どこへいっても有名人なんだもの。

 だからデーモン小暮さんとかゴールデンボンバーの樽美酒研二さんみたいな「素顔の知れない有名人」がいちばんいいよね。有名人と無名人を使い分けられるから。




「女郎とか杜氏っていうのは、みんな貧しさが前提なんですね。出稼ぎで都会に来たり、産地に行ったりするわけですよ。
 だからこそむかしはいい女郎も、いい杜氏も育ったわけなんですね。
 世の中が豊かになって、ソープ・ランド嬢はいてもむかしのような女郎はいませんね。
 同じことなんです。酒を作る現場も、技術は落ちてますよ」 

 日本がモノづくり大国と言われていた時代もあったけど、あれは貧しい人がたくさんいたからこそなんだろうな。

 そりゃあモノづくりが好きな人はいるけど、豊かな生活を送れる人はなかなか「汗と機械油にまみれる仕事」や「地味で、長期間の修行が必要で、それほど給料がいいわけでもない仕事」を選びませんよ。

 従事する人が減れば全体のレベルも落ちる。「モノづくり大国」が衰退したのも必然。

 しかし日本はまた貧しい国になりつつあるので、職人が復活するかもね。いやでも一度途絶えた技術はそうかんたんに取り戻せないか……。




 いい言葉はたくさんあるが、中でも気に入ったもの。

「人間が制御できない科学というのは、科学って言っちゃいけないんじゃないですか」
「政治家のなかには立派な人もいますよ。でもね、全体のことを考えて、その立派な人も入れて皆殺しにするってのは、どうですかね」

 特にこの「政治家のなかには~」なんて、大っぴらに言ったり書いたりできることじゃない。

 だからこそ、こうやって書き記しておくことには価値がある。ネット空間ですらうかつなことを書けなくなっちゃったからね。

 三十年前の日本人がプライベートな場でどんなことを言っていたのかを知る手掛かりになる、貴重な本だ。 

 当時は市井の人々の声なんてなかなか世に届けられなかったしね。

 今だったら個人ブログやSNSで発信しやすくはなったけど、それでも「書いて世界に向けて発信しよう!」という意図がはたらいた上で書いているものだから、「ふとした瞬間に漏れたなんてことない言葉」とはやっぱりちがう。

 こういう「無名な人のなんてことない言葉」を集めた本、ずっと出し続けてほしいな。永六輔さんは亡くなっちゃったから、誰か引き継ぐ人いないかねえ。日本中を旅していろんな人とふれあってる人で。


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2021年10月15日金曜日

ボール遊び禁止の公園

 近所の公園。

 小学二年生たちとドッジボールをやっていたら、警察官が来て「ここはボール遊び禁止なので……」と申し訳なさそうに言われた。

 え? 公園ですぜ?

 警官が指さす看板を見ると、たしかに書いてある。禁止事項として「スケボー・ボール遊びなど」と。

 いやあ。噂には聞いていたが本当だったか。公園でボール遊びが禁止だなんて。

(警察官の名誉のために書いておくと、彼は横で野球をやっていた高校生ぐらいの子に注意しにきて、「高校生に注意して小学生の方は見てみぬふりするのは不公平だから」って感じで一応注意しにきたのだった)


 それにしてもなあ。

 五十メートル四方ぐらいのだだっ広い公園だぜ。

 硬式野球ならわかるが、小学二年生のドッジボールだぜ。何があぶないんだ?

 ここでボール遊びしないなら、このスペースは何のためにあるの?

 警察官に言ってもしょうがないので「へーい」と言ってその場はやりすごしたが、嫌な世の中になったものだ。嫌な世の中じゃなかった時代なんてないけど。




 一律に判断しようとするとこうなっちゃうんだよね。
「公園でやってもいいボール遊び」と「やっちゃいけないボール遊び」があるわけじゃん。

 そういうのって、厳密に線引きしちゃいけないわけよ。厳密に線引きしたら「じゃあ鉄のトゲのついた球をぶんなげることは禁止されてないからやってもいいんだな」ってなっちゃうから。

 だから法律はあえて曖昧にしてる。
「公共の福祉に反しないかぎり」とか曖昧な表現にとどめている。解釈の余地を残しとかないと「書かれてないからやってもいい」ってやつがぜったいに現れるから。

 だから公園の看板も「他人の迷惑になること、危険なことは禁止」でいい。
「スケボー禁止」って書くと、「これはスケボーじゃなくてジェイボードって名前です」「これはキックボードだから禁止されてない」ってなるから。

 だからルールはゆるくつくっておくほうがいい。
 迷惑かどうか、危険かどうかは利用者が個別に判断すればいい。揉めたときだけ警察官が出てくればいい。




 ついでにいうとさあ。

「ボール遊び禁止」と書かれた横に貼り紙があって
「子どもたちが遊ぶ公園なので喫煙は配慮いただきますようお願いします」とある。

 ボール遊びは「禁止」で、喫煙は「配慮いただきますよう」かい。そっちは禁止とちゃうんかい。 


 こういうのってさ。どうやったら変わるんだろうね。

 そりゃあね。いろんな人がいるからね。
 公園でボールをぶつけられたとかで、「公園でボール遊びすんな!」って人がいるのはわかるよ。
 でもさあ、それ以上に「公園でボール遊びしたい!」って人もいるわけじゃん。

 でも、行政に届くのは「ボール遊び禁止しろ」の声だけ。そんで禁止になる。
 そうなっていったら最終的に「公園は立ち入り禁止」にするまで終わらない。


「公園でボール遊びすんな!」に対抗する「ボール遊びさせろ」という声を届けるにはどうしたらいいんだろう。

 めんどくさいクレーマーになって、役所に電話入れまくって「ボール遊びさせろ!」って言いつづけるしかないんだろうか。
「ボール遊びさせなくて子どもがまっすぐ育たなかったらおまえら責任とんのか!」って理不尽なクレーム言いつづけるしかないんだろうか。

 やだなあ。


2021年10月14日木曜日

表現するためのガソリン

 昔やっていたブログとかmixiとかを含めると、もう二十年近くネット上に文章をアップしている。
 変わらないのは、昔も今もいちばんの読者はぼくだということ。

 ほんと、かつて自分が書いた文章ってどうしてこんなにおもしろいかねえ。天才じゃないかとおもうね。いや、まちがいなく天才だな。今のところその才能に気づいているのが自分自身だけってだけで。


 それはそうと、昔書いた文章を読むと「繊細だなあ」とおもう。
 いろんなことに腹を立て、憎み、傷つき、恐れ、愛している。
 今のぼくは、他者に対してここまで強い感情を持てない。
「ま、どうでもいいじゃない」とおもってしまう。

 ひとつには、歳をとったから。
 もうひとつは、子どもが生まれ、強い関心を抱く対象がそちらになったから。

 結果、その他のあれやこれやに対しては興味がなくなった。興味がないから許せる。
 傍若無人なおばちゃんも、無礼千万なおっちゃんも、無知蒙昧な兄ちゃんも、春蛙秋蝉なねえちゃんも、「まあそんな人もいるわな」とおもえるようになった。ぼくの人生に密接にかかわってこないかぎりはどうでもいい。
 いわゆる〝丸くなった〟というやつだ。

 じっさい、生きやすくなった。
 他者に対して腹を立てることが減り、ストレスを感じることが減った。ええこっちゃ。

 その反面、創造性は低下した。
 いや元々大したことなかったんだけど(天才なんとちゃうんかい)。
 元々高くなかったものが、さらに低下した。

 他の人はどうだか知らないけど、ぼくが何かを書くための原動力の多くを占めているのが「怒り」だ。
 「ふしぎ」とか「納得」とかをガソリンにして書くこともあるけど、いちばん筆が進むのは「怒り」だ。つまんねえ本の悪口とか、書きだしたら止まらんからね。
 逆に「好き」ではぜんぜん書けない。おもしろかった本の感想なんかは書くのに苦労する。

 しかし、歳をとって怒りを感じる力が弱くなってきた。
 生きやすくなった反面、表現する力は弱まった。

 今いちばん怒りを感じるのは政治に対してだけど、これに関しては書いてて楽しくないのでなるべく書かないようにしている。
 書きたいことはいっぱいあるけど、政治批判っておもしろくならないんだよなあ。
「あたりまえのことができていない政治」を批判しようとおもったら、あたりまえのことを書くしかなくなるから。


 まあぼくの場合は書く力が弱まってもさして困らないんだけど。趣味で書いているだけだから。
 これが表現を生業にしている人だと苦労するだろうな。

 有名な作家とか画家とかで、やたら破壊的な生き方をしている人がいるじゃない。借金しまくったり家族を不幸にしたりして。団鬼六タイプ。
 ああいう人たちって「周囲や己を傷つけて怒りを感じないと表現する力が衰えてしまう人」なんだろうな、きっと。

 ぼくも表現を仕事にしていたら、表現をつきつめるあまりそっちの道に突き進んでいたかもしれない。


 あー、表現者にならなくてよかったー(完全なる負け惜しみ)。


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【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』



2021年10月13日水曜日

【読書感想文】河合 雅司『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』

未来の年表

人口減少日本でこれから起きること

河合 雅司

内容(Amazonより)
日本が人口減少社会にあることは「常識」。だが、その実態を正確に知る人はどのくらいいるだろうか? 第1部では「人口減少カレンダー」とし、2017年から2065年頃まで、いったい何が起こるのかを、時系列に沿って、かつ体系的に示した。第2部では、第1部で取り上げた問題への対策を「10の処方箋」として、なるべく具体的に提示した。本書は、これからの日本社会・日本経済を真摯に考えるうえでの必読書となる。


 ちょっと前によく売れていた本を今さら。

 あまり知られていないが、この社人研の推計には続きがある。一定の条件を置いた〝机上の計算〟では、200年後におよそ1380万人、300年後には約450万人にまで減るというのだ。世界的に見れば人口密度が非常に高かったはずの日本列島は、これからスカスカな状態になっていくということである。300年後というのは現在を生きる誰もが確認しようのない遠い未来の数字ではある。が、450万とは福岡県(約510万人)を少し小ぶりにした規模だ。日本の人口減少が地方消滅というような生易しいレベルの話ではないことはお分かりいただけよう。

 これからの日本はどんどん人口が減る、ってのは知っていても、こうして「何が起こるか」を並べられると背筋が冷たくなる。

 介護離職が大量発生、ひとり暮らし社会が本格化、社員の平均年齢が上がり人件費だけが増える、東京も人口減少、認知症患者急増、医療機関や商業施設やインフラが立ちいかなくなる、自治体の半数が消滅の危機に、食糧不足……。

 しゃれにならない。
「人口が減るのはいいことも多い!」という声も耳にしたことがあるが、とんでもない。
 全体的にまんべんなく減っていくのならそれもいいかもしれないが、問題は「若い人がいなくなって高齢者だらけになる」ことなのだ。

 じっさい、上に挙げた問題のほとんどは「高齢者が増える」ことに起因するものだ。




「少子高齢化」なんて言葉をよく耳にするが、少子化と高齢化はまったく別の問題だ。

 くっつけていっしょに語ること自体がおかしい。

 これは「2040年問題」で取り上げた〝常識のウソ〟の続きともなるが、「高齢化は地方ほど深刻」と誤解されていたのは、高齢者数の増加を意味する「高齢化」と、総人口に占める高齢者の割合が増える「高齢化率の上昇」とを混同していたことに由来する。つまり、高齢化率が上昇するのは少子化が原因という誤解である。こうした誤解は往々にして「高齢化問題を解決するには、少子化対策に全力で取り組むしかない」 という奇妙な理屈になる。
 だが、少子化対策が功を奏して出生数が劇的に増えたとしても、高齢者の絶対数が減るわけではない。そして、高齢者が多いから「子供が生まれにくい国」になったわけでもない。高齢者数が増える「高齢化」と、子供の数が激減することを表す「少子化」とは、全く種類の異なる問題なのである。

 まず認識しなければならないのは、「少子化」はもう止めようがないということだ。

 二十代三十代が全員結婚して、全夫婦が三人ずつ子どもを産んだとする。それでも人口は増えない。だってそもそも二十代三十代が少ないんだから。

 全夫婦が六人ぐらい子どもを産めばやっと増えるが、そんなのは非現実的すぎるし、そうなったらなったでまた別の問題が生まれるだろう。

 今後は子どもが減るし、総人口も減る。働き手も減りつづける。これはもう絶対に避けられない。

 そしてこれも大事なんだけど、「少子化」ですぐに困る人はそんなにいない。教育産業ぐらい。
 だって子どもは働き手じゃないもの。どっちかっていったら社会のお荷物なんだもん。とりあえず今は。
 だから少子化は、一時的には社会にとってプラスだ。


 問題となるのは「高齢化」のほうだ。こっちはほぼマイナスでしかない。

 ちなみに、いまだに「高齢化社会」なんて言葉を使う人がいるが、日本は1994年には「高齢化社会」を脱して「高齢社会」になり、2007年には「高齢社会」すら通りすぎて「超高齢社会」になっている。
「高齢化社会」という言葉を使う人は、認識が30年遅れている。

 正確にいえば、高齢者が増えることによる社会全体の「生産性の低下」と「社会負担の増加」が問題になる。

「高齢者を強制的に減らす」が不可能である以上、打てる手は「高齢者にも働きつづけてもらう」「高齢者への医療・年金などの支給を減らす」しかない。

 移民の受け入れ、女性労働力の活用、AIの利用などいくつか対策は検討されるが、どれもまったくの無意味ではないものの焼け石に水といったレベルだ。

 鍋の底に大きな穴が開いて水漏れしてるのに「だったら鍋に入れる水の量を増やそう」「水の流れを変えたら水漏れのスピードが落ちるんじゃないか」「水の代わりにべつの液体を注ぐのはどうか」とか言ってるようなものだ。
 肝心の穴をふさがないとどうしようもない。

 でも、保守も革新も含め、どの政党も「高齢者への過剰なサービスは止めよう」という話をしない。
 ぼくはそれが納得がいかない。

 今の年金・医療費の制度を維持できないことは誰もが知っているわけじゃない。このままだといつかは破綻する。
 だったら早めに手を打たないといけない。でも誰も手を付けようとしない。先延ばしにすればするほど後の世代が困るのに、それを先延ばしにしている。

 目先の票が欲しいから「年金給付を減らします。高齢者の医療費負担を上げます」と言わない。
 それはすなわち「現役世代の年金給付を減らします」「現役世代が歳をとったときの医療費負担を増やします」と言っているのと同じことなのに。

 なんでどの政党も問題を先送りにするのかね。

 べつに、今の高齢者だけが苦しいおもいをしろなんて言ってるわけじゃないんだよ。
「今の高齢者が楽して、その分他の人が苦しいおもいをする」のをやめようって言ってるだけなんだよ。

 そこにちゃんと切り込む政党が現れたら票を入れるのに。

 あーあ、地域別の比例代表制じゃなくて年代別の比例代表制にならないかな。平均余命に応じて議席数を配分して。




 外国人の大規模受け入れが新たな日本人の少子化を招くことも認識しなければならない。各国とも外国人は低賃金で厳しい仕事に就く傾向にある。割安な賃金で働く外国人が増えれば、日本人全体の賃金も押し下げるだろう。永住者は原則どんな仕事にも就けることも忘れてはならない。人手不足の業界が、〝後継者〟と期待して受け入れたのに、永住権を取得した途端、〝割の良い仕事〟に転職するというケースも生じよう。それは穴埋め要員どころか、日本人の職を奪う存在にもなりかねないということだ。
 不安定な雇用を余儀なくされる日本の若者が増えることになれば、ますます結婚ができないケースが増える。その結果、少子化が進み、さらなる外国人労働者の必要論になるのでは、まさに負のスパイラルである。

 移民受け入れの話をすると「外国人に日本が乗っ取られる!」みたいなことを言う人がいるけど、ぼくはべつにそれでもいいとおもう。

 アメリカやオーストラリアなんかそうやって繁栄してきたんだし。

〝生粋の日本人〟なんてそもそもがフィクションに近い概念だし、そんなものなくなったってぼくはいっこうに困らないけどな。どうせその頃には全員死んでるんだし。

 

【関連記事】

【読書感想】内田 樹 ほか『人口減少社会の未来学』

【読書感想文】移民受け入れの議論は遅すぎる / 毛受 敏浩『限界国家』



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2021年10月12日火曜日

【読書感想文】下川 裕治『歩くアジア』

歩くアジア

下川 裕治

内容(e-honより)
旅は広さが、一平方メートルにも満たない僕の机の上から生まれた。「飛行機を使わずに、東京からイスタンブールまで陸路の旅はできるだろうか」と思い描いたのがはじまりだった。マイナス20度の寒さに震え、気温50度の暑さにあえぎ、アジアの西端をめざす旅はつづく―。

 1995〜1997年におこなわれた「飛行機を使わずに東京からトルコのイスタンブールまで行く旅」を書いたエッセイ。一度にイスタンブールまで行くのではなく、途中で東京に帰って、中断地点まで飛行機で行って改めて「飛行機を使わない旅」を再開するというツアー。雑誌の企画なのでしかたないとはいえ、ちょっとずるい気もする。

 まあお遍路も中断をはさみながらやってもいいらしいので(「区切り打ち」っていうんだって)まあいいか。


 大学生のときに下川裕治さんの旅エッセイを読んだことがあって、そのときは「なんておもしろそうな旅なんだ!」とあこがれたものだが、すっかり中年になった今ではあんまり魅力的に見えなくなってしまったな。「しんどそ……」という感想が先に来てしまう。老いたなあ。


 あと、2021年の今読むと「やたらと上からアジアを見下しているな」という気になる。
 いやこれは下川さんがえらそうという気はぜんぜんなくて、日本全体が変わったんだとおもう。

 どういうことかというと「先進国の日本から見た、途上国であるアジア諸国」という意識がずっと漂ってるんだよね。

「実にアジア人らしいのんびりさだ」とか「人々もいかにもアジアの素朴でいい顔をしている」みたいな表現が頻出するわけよ。

 国籍も人種も言語も宗教も文化もなにもかもちがう国々を「アジア」でひとくくりにして、おまけに日本だってアジアなのに「私はアジア人じゃありませんよ」みたいなスタンスで一方的に「古き良き純朴さを持った人々」みたいな書き方をするのがあまりにも傲慢だ。

 でも、改めて書くけど、下川さん個人がアジアの国を見下してるってわけじゃないのよ。20年以上前の日本人はほぼ全員こういう感覚だった。むしろ下川さんは現地に足を運んでいる分、平均的日本人よりもずっとニュートラルにものを見ているといっていい。

 90年代後半の日本といえば、バブルははじけたとはいえまだまだ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の意識をひきずっていて、アメリカには負けるけど世界第2位の経済力の国だという自負があって、ヨーロッパ諸国ならともかくアジアの国々なんて経済的には比較の対象にすらならないとおもっていたわけよ。まさか中国に追いつかれるどころか追い越されてあっという間に大きく水を空けられるなんて想像すらしていなかった。

 だからこのエッセイにも「アジアをはるか下に見ている傲慢な日本人」の感覚が存分にあふれている。著者の意識というより、読者である日本人全員の意識かもしれない。


 全体的に「アジアっていいよね」ってスタンスなんだけど、それは他者の文化を尊重しているからのものではなく、むしろずっと下に見ているからこその優しさに感じられる。

「三歳の子って何も知らなくてかわいいよね」
「猫は悩みがなさそうでいいよな」
みたいな「かわいがる」感覚に近いかもしれない。

 近いうちに追いつき追い越されるかもしれないとおもっていたらとても出てこない「圧倒的下位者に対する優しい目」なのだ。
 ぼくも含めて、二十数年前のほとんどの日本人はこういう意識を持っていた。




 ぼくは「海外旅行行きたいなあ」とおもいつつなんのかんのと理由をつけて行かない(つまりほとんどの人と同じ)タイプの人間なので、誰かの旅行記を読むのは楽しい。読んだだけで行った気になってしまう。

 ぼくが海外に行ったのは五回。香港、中国、中国、イタリア、ベトナム。香港は小学生のときの家族旅行だったし、イタリアは新婚旅行、ベトナムも夫婦での旅行なのでほとんど観光地しかまわっていない。一度目の中国は留学だったので大学のまわり(北京)をうろうろしただけだ。
 だから自分で何から何まで決める海外旅行に行ったのは一度だけだ。友人とともに船で天津に渡り、北京ー桂林ー広州ー上海と旅した。ほんとは桂林から昆明に移動し、そこからベトナムに行くつもりだった。

 だが、土砂崩れで当初予定していたルートが使えなくなったのと、電車の切符が買えなかっただめにベトナム行きは断念したのだった。

手がひとつ入ればいっぱいになるような窓の前にできた長い列に三十分、一時間と並び、窓口近くでは横入りするセコい中国人と押しあいへしあいを繰り返して、ようやく小さな窓に手を突っ込んで、行き先、日時、座席のクラスなどを漢字で書いた紙をさしだす。しかし、窓口の服務員は、
「没有(そんなものはない)」
 と紙をつっ返してくる。ねばるとその紙に何番窓口へ行け、というようなことを書いてくる。そして再び長い列に並び、ようやく窓口に辿り着いたかと思うと、再び、
「没有」
 万策つきて切符売り場にたむろするダフ屋から、高い切符を買ったこともある。

 日本じゃ考えられないが(中国でも今はなくなったのかもしれないが)、中国では電車の切符が買えないことがよくあったのだ。日本でも長期休みなどはチケットが手に入りにくいことはあるが、中国では季節を問わず一年中買えないのだ。電車は走っているのに。特に、途中駅(始発駅以外)からの切符を買うのはほぼ不可能と言われていた。

 しかし電車は毎日何本も走っているわけだし、乗っている人がいるからにはどこかしらで切符を売っているはず。行けばなんとかなるだろうと行ってみたが、ほんとに買えない。旅行会社(ほぼダフ屋)が先に抑えてしまうらしい。

 しかたなく旅行会社に足を運び、手付金を払って切符を予約した。翌日、旅行会社を再訪すると「買えなかった」と言われた。
 旅行会社でも買えないのか、買えなかったのならしかたないとおもって手付金を返してもらおうとすると旅行会社の社員は「買えなかったが、あと○元出せば買えるとおもう」と言う。
 そんなわけあるかい。あからさまに足下を見てふっかけてきているのだ。
 正直「あと○元」は当時の中国の物価からするとそこまで高い金ではなかった。日本円にして数千円だったか。
 だが「足元を見られてぼったくられる」ことに我慢がならなかったので「だったらいらんわ!」と言いのこして、手付金を取り返して旅行会社を後にしたのだった。

 事前にこの本を読んで知識があれば、もうちょっとうまくやれたかもなあ。


 あれでいろいろと予定が狂ったので腹も立ったが、今となってはいい思い出だ。
 ベトナム行きの予定がポシャったので、桂林のホテルに十日間ほど滞在した。田舎町なので、いくつかある観光スポットを見てしまえばあとはもうやることがない。
 男三人で、朝はホテルで点心を食い、近くの商店街をうろうろし、昼は屋台で汗だくになって丼を食い、ホテルに戻って海外チャンネルを見ながら昼寝。夕方涼しくなるとまた近所をぶらぶらし、食堂に行って飯を食ってビールを飲むという怠惰な日々を過ごした。
 あんなにのんびり過ごした十日間は人生において他にない。ストレスフリーな生活で、まさにバカンスという感じだった。




 香港にある重慶マンションというビル群の話。

 当初はふつうのマンションだったのだが、観光客が増えるとゲストハウス(今でいう民泊のようなものか)だらけになったそうだ。

 僕がはじめて重慶マンションに足を踏み入れたのもそんな時期だった。もちろん目的は中国のビザだった。あの頃、ウェルカムゲストハウスには、いつもビザの申請用紙が用意されていた。そこに必要事項を書き込み、パスポートと写真を用意すると、中国国際旅行社のスタッフが回収にきた。そう、あの頃、ウェルカムゲストハウスだけで毎日二十人ちかい旅行者がビザを申請していたように思う。もうゲストハウスというより、ビザの申し込み所と化していたのである。その後、中国の個人用ビザは日本でもとれるようになった。それは欧米でも同じことで、重慶マンションのビザセンターの役割は終わるのだが、今度はインド人、パキスタン人、バングラデシュ人などが姿を見せるようになってきた。重慶マンションの一、二階には、彼らのための土産屋、カレー屋、軽食屋などが並び、インド線香の匂いがたちこめている。さながらリトルインドなのである。最近ではそこにアフリカ勢も加わって、独得の雰囲気をかもしだしている。彼らは旅などというものにいっさい関心はなく、中国へ行くことなど考えてもいない。彼らは狭い香港というこの街で、わけのわからぬ商売にいそしんでいる。そんな長逗留組がゲストハウスを埋めるようになってきたのだ。香港が中国に返還されれば、今度は貧しい中国人がこの老朽化したビルの住人にとって代わっていくかもしれない。重慶マンションは、いつも本流からちょっとはずれた人々に支えられて生きのびてきた。

 すごいなあ。居住用マンションがゲストハウスになり、ビザの申し込み所でもあり、インドやアフリカの人が増え、彼らを相手にした商売が店を出す。

 生きてるマンションって感じだなあ。マンションというよりひとつの街だな。街だったら時代の流れとともに成長したり姿を変えたりするもんな。

 ちなみに今でも重慶マンションはショッピングモールや飲食店が入っている「街」として生きているらしい。




 ラオスの高速船に乗ったときの話。

 彼らはポケットからボロボロになったキップの紙幣をだすのだが、それがどう考えても少なすぎるのである。僕らは四百バーツ、ラオスのキップにして一万五千キップほどを払う客なのだが、途中から乗った客が差しだす金は百キップにも満たないのだ。僕はとんでもなくボラれたのかと思ったが、実は違った。それが彼らの持ち金のすべてなのだった。船頭は困ったような面持ちで、
「これだけじゃとても足りないよ」
 という。客は戸惑ったような頼りない笑みを浮かべて、ポケットをまさぐるのだがそこから金がでてくるわけがない。そのうちに船頭の方が、
「まあ、いいか」
 と諦めてしまうのである。乗客全員が少額のラオスキップしか払えないのなら、むしろ話は簡単なのかもしれない。ラオスの貧しさとか、そのなかでこんな船を走らせてしまったいいかげんさを嗤えばいいのだが、困ったことにちゃんとしたキップ単位の運賃を払う奴がいるから話がややこしくなってしまうのだ。まあ、正規の運賃を払う乗客がいるから、この船も運航しているのだが、つまりは金のある奴は払って、ない奴は持っているだけ払えばそれはそれでなにも問題もなく動いていってしまう社会というのが僕はよくわからないのである。(中略)しかしひとたびラオスに入ると、突然、僕らが当然のものとして受け入れている貨幣経済の骨が抜かれてしまうような茫漠とした感覚にとらわれてしまうのである。この船の乗客たちは、船の運賃というものをどう理解しているのだろうか。支払った運賃でガソリンを買い、船の口ーンを払っていくという、日本の小学生でもわかっていそうな貨幣経済のカラクリを彼らは知っているのだろうか。僕はにわかにわからなくなってしまうのである。

 ふつう(現代日本におけるふつう)は、お金がない人は安い運賃で乗る、なんてのは許されない。
 これを許すと「だったらおれも安くしろ」という客や、金を持ってるのにないふりをする客が現れたら、正直者が馬鹿を見ることになってしまうからだ。

 この理屈はわかる。

 でもよくよく考えてみれば「お金がない人は〝あるだけ〟でいいんじゃないの?」という気もする。
 食堂で飯を食うのならともかく、船の場合は客が十人であろうが十一人であろうが船頭の手間はほとんど変わらない。多少はガソリンを余計に使うだろうが、微々たるものだ。
 だから「お金がないやつはあるだけでいいよ」でも、実は船頭はこまらないわけだ。

 全員が正直で、他者に対して寛容であれば「あるやつだけ払う」制度で問題ない。
 今の日本や他の多くの国が「フリーライダー(ただ乗り)は許しません」という制度をとっているのは、お金があるのにないふりをする不正直者や、「他者の得」に不寛容な人がいるせいだ。


 そう考えると、ラオスの船の「お金がない人はあるだけでいい」は、原始的でありながらすごく進歩的な制度なのかもしれない。

 仏教国かつ社会主義国のラオスだから許されるんだろうか。

 どの国もこうなったらいいのに。理想の世の中だよね。

 ま、ぼくは「あいつだけ少ない運賃で乗せてもらってずるい!」とおもっちゃう側の人間なんだけど。

 

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2021年10月11日月曜日

バカは怖い

 コロナ禍とやらも一年を超え、もはやこっちのほうが日常となってきた。
 コロナ前ってどんな生活してたんですっけ。コロナ前でもマスクはしてましたよね。え、うそ、マスクせずに出歩いてたの? 不潔―! 野蛮ー! マスクしてなかったってことはあれですか、やっぱり生肉そのままいってたってことですかね。なんでそうなるんですか。


 そんなこんなで慣れたとはいえ感染症対策ってストレスフル。
 なにがストレスかって、やらかした当人以外が被害を受けることよね。

 たとえばさ、年に二回ぐらい目にする「高速道路を時速200km以上ですっとばした車が大破」みたいなニュースあるじゃない。パンダの赤ちゃん誕生と同じぐらい心温まるほのぼのニュース。

 あれってさ「巻き添え食らった人はかわいそうだな」とはおもうものの、事故を起こした当人には一ミリも同情しないじゃない。むしろ「ちょっとだけいい世の中になってよかったな」とおもうだけ。

「十五歳が無免許で車を運転して事故」とか「一気飲みで救急車搬送」とかも「親御さんはかわいそうにな。子どもがバカで」「こんなことで出動させられる救急隊員や医療関係者は気の毒に」とかはおもうけど、当人には一マイクロシーベルトも同情しない。部外者からするとハッピーな出来事だ。

 なぜなら、バカがバカなことをやってバカがひどい目に遭うから。
 お菓子とコーラばかり口にしているデブが糖尿病になるのも、喫煙者が肺がんになるのも、いちばん苦しむのは当人だ。医療費がかさむとか副流煙の悪影響も多少はあるけど、基本的には自業自得だ。バカがいるから人生は楽しい。

 ところが伝染病はそうじゃない。

 会食したり、酒を飲んだり、バーベキューをしたり、マスクをつけなかったり、通気性ばつぐんのマスクでマスクをつけた気になったり、マスクから鼻を出したり、しゃべるときだけマスクをはずすという謎の行動をとったりする連中が感染して苦しむ分にはいっこうに気にならない(医療リソースを逼迫するという問題はいったん置いておく)けど、問題はバカによるバカのためのバカな行動のために赤の他人までもが同じ苦しみを味わうこと。


 だから分断が生まれる。他人のバカな行動を許せない。
 他人が糖尿病になろうが肺がんになろうが事故で死のうが平気だけど、病気をうつされるのは困る。他者の行動が気になって仕方ない。


「伝染病をうつされたくない」という気持ちはすごく強い。たぶん自分が意識するよりもっと。
 歴史上、多くの人間が伝染病でばったばったと死んできた。結果、伝染病に対する警戒心の強いものだけが生き残ってきた。だから人間の遺伝子の中には伝染病に対するおそれが強く残っている。

 外国人に冷たく当たる人が多いのは伝染病対策だと聞いたことがある。
 よそからやってきた人は新しい伝染病を持ちこむ可能性が高い。だからよそ者は排除される。
 見た目が醜い人が嫌われるのも同じだそうだ。
 ある種の病気は見た目を悪くする。皮膚がただれたり、顔が変形したりする。
 だから見た目が悪い → 病気を持っている可能性が高い → 感染のリスクを避けるため見た目が悪い人を避ける ということらしい。あくまで一説だけど。

 病気を持っている人は怖い。この気持ちは生まれる前から持っているものだからすごく強い。


 だけど医学が進歩したから人々は伝染病をそんなに恐れなくなった。毎年多くの人の命を奪っていたインフルエンザでさえほとんど気にしなかった。
 新型コロナウイルスの流行は「病気を持っている人は怖い」という人類があたりまえに持っている本能を久しぶりにおもいださせたのだ。

 人類は気づいたのだ。バカは脅威だ、と。

 バカは怖い。



2021年10月8日金曜日

秘伝脳

 あれ。ちょっと待って。
 脳ってそんなに大事じゃないかも。

 とまああたしは気づいちゃった。人類がまだ気づいていない真実に。


 SF作品には
「脳だけが活かされていてバーチャル空間で活動している(とおもっている)」
「古びた肉体を捨て、アンドロイドとして生まれ変わる」
「肉体は不要。頭脳だけを電子データに置き換えることで永遠の命を手に入れる」
みたいな〝肉体不要論〟がよく出てくる。

 その背景には、脳を何より大事だとおもう思想がある。

 でもさあ。
 逆でしょ。
 人間にとって、なくてもいいのは肉体じゃなくて頭脳のほうでしょ。

 細菌でも虫でも植物でも動物でもそうだけど、生物の生きる目的って遺伝子を残すことでしょ。究極を言えば、子孫さえ残せるなら生殖器だけあればいい。
 じゃあなんで頭脳なんてかさばるものがあるのかっていったら、より効率的に遺伝子を残すためだよね。餌をとって、遠くに移動して、多くの同種の生物と出会って、遺伝子を残すため。
 それさえできれば頭なんかからっぽでもいい。頭からっぽのほうが遺伝子つめこめる。


 言ってみれば、遺伝子はマリオ。人体はヨッシー。目的はマリオを無事にゴールまで届けること。そのためならヨッシーは乗り捨ててもかまわない。

 人体は古びる。だから医学の進化によってどんどん取り換え可能になっている。
 義手、義足、義歯、人工臓器、臓器移植、輸血。取り換え可能じゃないもののほうが少ないぐらい。

 取り換えできないものの代表が脳だ。
 今はね。取り替えたら別人になってしまう。
 でも、ほんとにそう?
 それは脳を中心に物事を考えているから。だけど脳なんて数ある臓器のひとつ。


 こう考えてみよう。
 スマホが壊れたので修理に出したら、データがすべてふっとんだ。初期状態に戻ってしまった。
 そのとき「新しいスマホが手に入った」とおもう?
「自分のスマホはどこかに行ってしまった」とおもう?
 おもわないよね。「スマホがリセットされた」とおもうだけだ。

 逆に、機種変更をしたとき。データを古いほうから新しい機種に引き継ぐ。
 このとき、メモリは以前のままだけど「新しいスマホを手に入れた」とおもう。

 ここからわかるのは、スマホの本体とはデータではなく、ボディのほうだということ。
 ボディが新しくなればデータが古くても「新しいスマホ」だし、ボディが変わらなければデータがふっとんでも「元のスマホ」だ。

 人間も同じように考えればいい。脳は別のものに変わっても身体が変わらなければ同一人物だ。


 そう考えれば、いつまでも古い脳を使いつづける必要なんかどこにもない。
 脳が古くなったら新しい人工脳を使う。肉体が古くなったら新しい身体に取り換える。
 そうやって、秘伝のタレみたいにつぎたしつぎたし使っていけばいいよね。


2021年10月7日木曜日

ただ倦怠感

 二度目のワクチン接種。

「40度近い熱が出た」「数日は何もできなかった」という話を周囲から聞いていたのでおそれていたのだが、最高37.7度と大したことはなかった。

 あくまで観測範囲の話ではあるが、若い人ほど高熱が出て年配の人は大したことがないケースが多い。ということはぼくももう若くないということである。知ってたけど。


 覚悟していたほどではないとはいえ、37.7度はまあまあの高熱だ。しんどさとしては、風邪以上インフルエンザ未満ぐらい。

 ただ風邪やインフルエンザとはちがうのが、熱こそ出るものの、喉も痛くないし、鼻水も咳も痰も出ない。ただ倦怠感があり、身体の節々が痛むだけだ。

 ああそうか、これはあれだ。「老化」の症状だ。
 まだ三十代なので本格的には経験していないけど、聞くところによれば年をとると身体の節々が痛くなり、なかなか疲れがとれず、だるいのが経常化するそうだ。たぶんこの症状は多くの年寄りが日常的に味わっているやつだ。

 つまりワクチンによって老化を先取り体験しているのだ。
 コナンが飲まされた「若返る薬」の逆だ。老ける薬。

 身体は老人、頭脳は中年!
(そういう人、世の中にいっぱいいるな……)


2021年10月6日水曜日

【読書感想文】少年割腹マンガ / 藤子・F・不二雄『モジャ公』

モジャ公

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
奇想天外宇宙SF冒険活劇の大傑作!ある日突然やって来た宇宙人のモジャ公&ロボットのドンモと”宇宙へ家出”した空夫。予測不可能なドタバタ大冒険が始まる!


 半端に終わった『21エモン』の続編的漫画。
 というだけあって、主要登場人物は『21エモン』とほぼ同じ。
 空夫はまだ21エモンとはずいぶん性格がちがうけど(21エモンは主人公にしてはおっとりしすぎてた)、モジャラ(≒モンガー)、ドンモ(≒ゴンスケ)との「一人と一頭と一体で宇宙冒険の旅に出る」というストーリーはほぼ同じ。

 ただしどこか牧歌的だった『21エモン』と比べて、『モジャ公』はずいぶん殺伐としている。
 まずモジャラがかわいくない。マスコットキャラクター風の見た目なのに、一人称は「おれ」で負けず嫌いで女好き。ぜんぜんかわいげがない。

 ストーリーもシリアスなものが多い。
 前半の、金をだましとられる、恐竜に追いかけられる、ロケットレースに参加する、といったところはまだ昔の少年漫画っぽいが、最強の超能力者に執拗に命を狙われたり、死者の星を訪れたりと中盤からはかなりどぎつい表現が目立つ。


 特に『自殺集団』の回はかなりブラックだ。

 とある事情により住民が全員不老不死となったフェニックス星を訪れた三人。すばらしい星だと喜ぶ三人だが、住人たちはみんな覇気がない。死なないことに疲れて気力を失っているのだった。 

 ここで予知能力のあるモジャラが不吉な予知夢を見る。なんと三人が自殺をするという予兆だった。だが空夫とドンモは信じようとしない。モンガーもこの星の住人に恋をして、この星に滞在することに。 

 三人は怪しい異星人オットーににそそのかされて、金を手に入れるために「自殺屋」をやることに。自殺を予告することで注目を集める商売だ。
 予告自殺イベントが大反響。どんどんまつりあげられ、退くに退けない、逃げるに逃げられない状況に追い込まれる。脱走を試みても、自殺を撮影に来た映画監督によって阻止される。オットーに相談するも、大丈夫だから任せておけと言われるだけ。
 いよいよ自殺イベントまであと少しと迫ったとき、オットーは三人を残して金を持ち逃げしてしまう。

 そしてついに自殺イベント当日。観客は何万年ぶりの熱狂。全国民が三人の自殺を熱望している。この状況ではたして自殺を回避できるのか……。


 というスリリングな展開。
 もちろん自殺したらそこで話が終わってしまうので最終的には自殺を回避するわけだが、絶対に予知を外さないモジャラが三人の自殺を予兆しているので「あの予知はどう決着させるのだ?」という疑問が緊張感を強めている。

 しかもモジャラの予知した自殺シーンというのが、割腹したり首を吊ったりで、かなり生々しい。腹から勢いよく血が噴きだしている絵、というのはかなり強烈だ。
 藤子・F・不二雄氏は他にもブラックな作品を描いているが、ここまで直接的な描写はほかで見たことがない。

「誰も死なない世界」というのも、やがて到来する超高齢社会を暗示しているようでおもしろい。
 人口が減らないので新たに子どもは生まれず、住民は全員高齢者。無気力で、目的もなくぼんやりと生きている。
 日本の数十年後の姿かもしれない。 


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2021年10月5日火曜日

【読書感想文】上西 充子『政治と報道 ~報道不信の根源~』

政治と報道

報道不信の根源

上西 充子

内容(e-honより)
安倍晋三前首相の「訂正してない訂正会見」。加藤勝信内閣官房長官の「狡猾にはぐらかすご飯論法」。菅義偉首相の「全く答えにならない答弁」…なんで政治報道は突っ込まないのか??不誠実な政府答弁とその報じ方への「違和感」を「ご飯論法」を喝破した著者が徹底検証。

「ご飯論法」の名付け親である研究者による著書。
 この本の中でもさんざん誇らしげに「ご飯論法」名づけ自慢をしている。

 が、ぼくは「ご飯論法」という言葉、好きじゃない。というか大嫌いだ。

 だってわかりにくい上につまんないんだもん。

 わかりにくい答弁を例えたのだからわかりにくくて当然なのかもしれないが、それにしたってキャッチーさがない。ぜんぜん伝わらないしユーモアセンスもない。

「ご飯は食べたか」という質問をされて、(パンを食べたにもかかわらず)「ご飯(白米)は食べていない」と答えるようなもの。
というのがご飯論法の説明だが、うん、わかりにくいね。


 だいたいさ、政治家や官僚の逃げの答弁を「ご飯論法」と呼ぶのって、労働基準法違反を「サービス残業」と呼ぶようなものでしょ。問題を卑小化してるだけなんじゃない?

 政治家が国会でまともに答弁しないのって民主主義の根底を揺るがすぐらい重大な問題なのに、ご飯だのパンだのと言われたら「どっちでもええやん」という気になってしまう。あかんやん。

 ちゃんと「詭弁を弄した」とか「支離滅裂な答弁」とか「論点ずらし」とか「話題をそらした」とか指摘して真っ向から非難すべきでしょ。わけのわからん例えをするんじゃなくて。

『政治と報道』の内容は、「メディアがちゃんとおかしいものはおかしいと言え」って話なんだけど、だったら「ご飯論法」なんて言葉遊びをしてないでちゃんと「支離滅裂な答弁で回答を避けた」って書けよ。




 ま、それはいい。

 問題は、この本もまたつまんないってことだ。
 ○年○月○日の国会で□□大臣が「××」と言った、○年○月○日付の△△新聞が「××」と書いた、みたいな細かい話が延々続く。
 一個二個例示するぐらいならいいんだけど、とにかく多い。

 ウェブ用に書いた記事を集めたものらしい。どうりでつまんないわけだ。

 はっきり言って本に収めるような内容じゃない。
 消費期限が数年持つようなトピックじゃないんだよね。古新聞を読んでいるような気分になった。




 後半は消費期限切れの話が延々続くのでほとんど読みとばしたのだが、前半は悪くなかった。

 たとえば野党が与党政府に異議を唱えた場合、「反発した」「批判した」などと報じられることが多い。
 これは「野党は建設的な意見を出さずに反対ばかり」という印象を与えると著者は書く。

 しかし実際の国会で野党議員がおこなっているのは、「批判」「反論」「異議申し立て」「指摘」「主張」「抵抗」などだ。「そのような説明では説明責任を果たしていない」「そのような違法なことは許されない」「そのような対応は不適切だ」「このような状態で採決を急ぐべきではない」――そのように、理由があって異議申し立てをおこない、説明責任を果たさないまま性急にことを進めようとする政府与党の動きに、対抗しているのだ。 なのにそれを「反発」という言葉で表現してしまうと、まるで理もなく感情的に騒いでいるだけのように見える。それは野党に対して失礼だし、「野党は反対ばかり」「パフォーマンス」「野党はだらしない」といった表層的な見方を強化することに加担してしまう。
 国会報道は与野党の動きを報じるのだというのなら、野党がなぜ反対しているのか、どのような指摘をおこなっているのか、何を批判しているのか、その内容を示すべきではないか。「野党は反発」と言わずに、「野党は『……』と批判した」と書くべきではないのか。なぜ、そうしないのか。

 これはぼくもおかしいとおもう(こともある)。

 たとえば憲法53条に
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」
という規定があるにもかかわらず、野党の要求を無視して与党が国会を開かないことについて。

 これは誰が見ても憲法違反だ。
 なのにニュースでは「臨時国会を開くべきだと野党の○○議員は批判した」といった文章になる。
 どう考えたっておかしい。

 殺人が起きたときに『検察は殺人犯に反発した』と書くのか。

 野党議員の口を借りるのではなく、「自民・公明両党は憲法を守っていないし是正する気もない」と事実を書くべきだろう。

 また政府による不正行為・疑惑があったときに
「政府は問題ないとの見解を明らかにした」
などと書くのもどう考えてもおかしい。第三者のことならそれでいいが、当事者の言い分を「明らかにした」はおかしい。

 やはり殺人容疑で逮捕された容疑者が「殺してもいいじゃん」と言ったら「問題ないとの見解を明らかにした」と記事にするのだろうか。

 書くとしたらせいぜい「容疑を否認している」だろう。


「客観的」「中立」は大事だが、それがいきすぎているようにおもう。
 あかんものはあかん!と書かなあかん。


「『不快な思いをさせたのであれば申し訳ない』『誤解を招いた』と陳謝した」なんて記事もよく見る。あれもおかしい。だってあれは謝ってないもん。「おまえらが悪い」と言ってるだけなんだもん。
 ちゃんと「言い逃れに終始した」と書かなきゃ。


 とまあ、序盤に書いていることはまあまあまっとうなんだけど、この著者は党派性が強すぎるんだよね。野党にめちゃくちゃ甘い。

 野党の失態をあげつらってる場合じゃないだろ、的なことを書いている。いや与野党関係なく悪いものは悪いと言わなあかんやろ。そうしてこそ与党批判が正当性を持つんだろ。

 あと「野党は反対ばかり、みたいな印象操作をする書き方はやめろ」と書いておきながら、この本の中でも「大臣はあざ笑うような笑い方をした」とか書いてるし。いやそれこそおまえの主観による印象操作やろがい。




 新聞などの報道は「政治の中身」ではなく「政局」について報じられることが多い。

 しかし本来であれば、政治報道は政局を報じる以外に、今、国会では何が問題となっているのかも、わかりやすく報じるべきなのだ。例えば働き方改革関連法案について、なぜそれが与野党の対決法案になっているのか、野党は何に反対しており、政府与党はどう答えているのか、論点に即したわかりやすい報道がもっと必要だった。
 そういう報道があれば、危ない法案が成立しそうになったときに、世論の力で止めることができる。論点に即した報道がなければ、市民が問題点に気づかないまま法案が成立してしまい、後から問題点を知ることになる。それでは遅いのだ。なのに多くの場合、与野党対決法案は、日程闘争や採決の場面での混乱ばかりがクローズアップされる。政局にならなければ大きく報道しないというのであれば、報道がみずから権力を監視し、警鐘を鳴らすという役割を果たせない。

 政治ニュースを見ていると、まるで将棋の対局記事を読んでいるような気になる。

 逃げ切り、詰め手を欠く、迫った、決定打を欠いた、攻撃、善戦、対決姿勢……。

 いやいや。そもそも全国会議員って個人でしょ。政党や党派に属していても、最終的には個人個人が議員なわけじゃん。
 プロ野球選手は「ジャイアンツの長嶋」だからいついかなるときでもチームのために行動しなきゃいけない。ジャイアンツをやめてフリーのプロ野球選手でやっていくわけにいかないし。
 でも国会議員はそうじゃない。所属する政党の方針に背いてもいいし、党を抜けたって国会議員を続けられる。

 だから党単位で語ること自体がそもそもおかしいんだよね。


 政治の中身ではなく政局の話ばかりになるのは、政治記者がわかってないからなんだろうな。

 だって政策のことをちゃんと書くのはたいへんだもん。

 プラスチックごみ袋を有料化したことで、本当にプラごみが減ったのか、それとも個包装が増えてかえって増えたのか、減ったとしたら環境にどれだけの影響が見込めるのか、代わりに増えたものがないか。
 そういうことを調べるのはすごく面倒だ。

 でも「野党は反発した」なら、寝そべってテレビで国会中継を観ているだけでも書ける。

 小学生にだって「ああこの人はあの人の発言に納得してないんだな」ってわかる。何が問題なのか、どういう歴史背景があるのかはわからなくても、「野党は反発」はわかる。


「将棋のルールを知らないのに将棋担当になってしまった記者」みたいなものだ。

 どういう戦術をとっているのかとか、今の手にどんな意味があるのかとか、序盤の手が終盤にどう効いてくるのかとか、棋士同士にどんな因縁があるのかとかは書けない。ルールも戦術も歴史も知らないから。

 でも棋士が首をかしげたとか、お昼ごはんに何を注文したとか、悔しそうな顔を浮かべたとかは素人でも書ける。目の前の光景さえ見ていればわかるから。


 だから政局の話ばかり書くんだろうね。嘘じゃないし。はい、いっちょあがり!




 報道はしっかりせい、というのもわかる。

 でもぼくは報道機関にそもそも期待をしていない。
 もし自分が報道機関にいたら、と考えればわかる。

 苦労して地味な記事を書くより、国会中継を見て「与野党の対決」系の記事を書くほうがずっと楽でずっと話題になるんならそっちを選ぶ。
 自分が怠惰な人間なのに、記者だけは社会正義のために身を粉にして働けという気はない。

 だから新聞ちゃんとせいとか記者はがんばれとかいう気はない。そんな権利ないし。
 ぼくにあるのは「新聞を読まない」権利だけ。だから購読していない。購読していないからえらそうなことは言わない(NHKに関しては受信料を払っているスポンサー様なので文句を言いたいが)。

 ただまあ報道は社会の木鐸だ、みたいなウソはやめてねとおもうだけだ。営利目的の私企業なんだから、社会正義を司る特権階級みたいな顔すんなよとおもうだけだ。新聞社は軽減税率を呑むなよ、とおもうだけだ。

 週刊文春が喝采を浴びるのは、社会の木鐸とかジャーナリズムとか言わないからなんだよね。軽減税率適用外だからなんだよね。


 ぼくは、政治が悪いのは報道のせいとはおもわない。しょせん私企業が営利目的でやっている報道にそんな力はない。

 問題があるとしたら、司法だとおもっている。上の顔色をうかがって仕事をしない司法機関だけは許せない。社会のゴミクズだとおもっているよ。
 マスコミなんかどうでもいいからみんなもっと腐った司法を非難しよう。


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2021年10月4日月曜日

キングオブコント2021の感想

 キングオブコント2021の感想。


審査員

 準決勝敗退組芸人による審査制度が終わってから、はじめて納得できる審査員だった。

 2015~2020年はひどかったもんな。審査員がひどいんじゃなくて審査員構成がひどかった。
 そりゃ個々の審査員がどう審査するのは自由なんだけど、だからこそバランスよくいろんな角度からの意見が聞きたい。それなのに、たった3組の芸人なんだもの。
 おまけに照れてるのか言語化できないのかしらないけど変にふざけてコメントするし。まじめなコメント+ボケではなく、単なる悪ふざけみたいなコメントもあった。
 しかも「他の審査員と点数が近いことにあからさまに安堵する審査員」がいたし。いやいや、みんな同じ傾向だったら頭数ならべてる意味がないだろ。他人と違うことを誇れよ。

 今回は審査員によって点数にばらつきがあってよかった。
 やっぱり東京03飯塚さんは構成を重んじるんだねとか、ロバート秋山さんはキャラの濃いコントが好きなんだなとか、やっぱりかまいたち山内さんやバイきんぐ小峠さんはサイコパス感漂うネタを評価するんだなとか、それぞれが書くネタの傾向が審査にも反映されててよかった。5人とも「ウケ量」以外の部分をちゃんと評価できる審査員だった。

 やっぱり審査員は最低限の条件としてネタ書く人にしてほしいよね。


出番順

 詳しくは知らないけど、抽選で出番順を決めたんだよね……。なんか出来すぎだったけど。
 前半に初出場組が続き、中盤はリベンジ組。終盤に前回惜しかったニューヨークや空気階段がきて、ラストがRー1、Mー1との3冠のかかるマヂカルラブリー。ウソみたいによくできた出番順だった。誰かの意思の介入を感じてしまう並びだな。


観客について

 客がひどかったな。ジャブ程度のボケで手を叩いて笑ってた。どう考えても笑いすぎ。全員マリファナきめてんのか。
 感染対策で人数を入れられない分、大げさに笑うように指示でもされてたんだろうか。コントの大会なのに笑い声がじゃまだった。

 笑わない客よりは笑う客のほうがいいに決まってるけど、それにしたってなあ。フリになるところで手を叩いて笑うなよ。見た目のおかしさだけで大爆笑するなよ。



ネタ感想(1本目)


1.蛙亭

 自我を持ってしまったホムンクルス(人造人間)と研究者。

 出番順に泣かされたなあ。後半出番だったら4位くらいにはなっていたんじゃないだろうか。最初のインパクトが強烈だったけど、途中で失速することなくその勢いのまま最後まで走り抜けた。
 ストーリー展開自体は平凡なSFだったけど、キャラクターや関係性を表現するコントだったから変に凝ったストーリーにしなくて正解だったかも。

 露骨にキモがるんじゃなくて、「キモがっていることを見せないようにしているけどついつい出してしまう」表現がいい。

 ホムンクルスの「ピュアであるがゆえの怖さ」は、中野さんの「ただのお人好しっぽい見た目なのにじつは何でも軽くできちゃう人」というキャラクターとよくあっていた。

 

2.ジェラードン

 痛々しいカップルと転校生。

 今大会の個人的最下位。キャラクター押しのコントは好きじゃない。

 もう「キモい見た目のやつがキモいふるまいをして、それをキモいと指摘する」で笑える時代じゃないとおもうんだよね。この〝多様性の時代〟に。
 たとえば蛙亭のコントでは「見た目はキモいけどすごく心はまっすぐで、だからこそかえって周囲に気を遣わせる」という設定だし、この後に出てくるザ・マミィなんかはもっと先に進んでて「誰に対しても分け隔てなく接しましょう、ということの欺瞞」をコントの中で鋭く指摘している。

 そういうコントと並べるには、ジェラードンのこのコントはあまりに古い。
 彼らの「化け物みたいな見た目のやつが実は敏腕FBI捜査官」などのネタを見たことがあるからこそ余計に、「キモいやつをキモく演じる」で終わってしまったこのネタは残念。


3.男性ブランコ

 ボトルに入れた手紙で知り合った男女が初めての対面。

 この導入のコントだと「美しい女性を想像してたらとんでもない女が来た」となることは誰しもが予想できるとおもうが、その予想をほんのわずかに裏切ってくるのが見事。そっち方面で裏切ってくるかーという感じ。すごくセンスを感じた。

 引き合いに出してしまって申し訳ないが、ジェラードンのコントに出てきたような「誰が見てもヤバいと感じる、わっかりやすい変な人」ではなく「たしかにこういう人は実在するけどこのシチュエーションには似つかわしくない人」という程度の裏切りなのが、リアリティと意外性を両立させている。この設定はすごい。

 さらに、他者の見た目を一方的に審判しないところや、変な女性に対して男性が寛容であることで、すごく上品なコントに仕上がっている。

 冒頭に大きな裏切りがあるのでへたしたら出オチになりかねない設定なのに、その後もワードセンスや会話の展開でおもしろさを持続させているのもすばらしい。

 ただ個人的には終盤の「……こんな人だったらいいのにな」という展開は好きじゃなかった。夢オチみたいで。


4.うるとらブギーズ

 迷子センターの従業員と、息子が迷子になってしまった父親。

 ここまで3組強烈なキャラクターが全面に出てくるコントが続いたので、やっとふつうの人がストーリーで魅せてくれるコントが出てきてほっとした。職人による正統派のコント。コントというよりはコメディといったほうがいいかもしれない。

 前半、父親が迷子の奇抜な特徴を伝えるシーンは「おもしろくないな」とおもいながら観ていたのだが、これはフリだったんだね。後半ではボケとツッコミが逆転して、前半を見事に回収してくれた。

 ただ、それだったら前半は「誰にでもわかるわかりやすい異常性」ではなく「実際にいるかいないかぐらいの絶妙なダサさ」ぐらいにしてほしかったな。ニューヨークがそういうの上手なんだけどね。

 感心したのは、笑いをこらえる演技のうまさ。素人が「笑いをこらえてください」と言われたら漫画みたいににやにやして「プッ、ククク……」ってやっちゃいそうだけど、ウルトラブギーズは顔をこわばらせたり顔の体操をしたりで「笑いをこらえる」演技をしていた。うまい。


5.ニッポンの社長

 バッティングセンターにいる高校生に勝手に指導するおじさん。

 個人的にはすごく好きなネタなんだけど、こういう展開で優勝するのはむずかしいよなあ。笑いどころが2種類しかないもんな。深夜のコント番組でやるようなコントだ(『関西コント保安協会』にぴったりのネタだ)。
 でも、だからこそ「ボールが当たるのを気にしない」というひとつのボケで延々引っぱる勇気に感心した。
 過剰に痛がるわけでもなく、凝った言い回しのツッコミをするわけでもない。なのにずっもおもしろい。

 この次のそいつどいつが「怖がらせる」ネタをやっていたが、ほんとに怖いのはニッポンの社長の世界のほうだ。
 ラストで明らかになる「ただの厄介なおじさんではない」という事実によってよりいっそう気味悪さが浮きだつ。

 しかし、審査員にも指摘されてたけど、ほんとに「ボールが当たる演技」がうまいなあ。ボールが見えるようだった。大げさに痛がらず、けれど我慢しているだけで痛くないわけでもないのが感じられるという、絶妙に〝抑えた〟演技だった。


6.そいつどいつ

 同棲中の彼女が顔パックをしている。

 恐怖を感じるコントは嫌いじゃないのだが、これは「怖がらせようとしているのを感じるコント」で、怖さは感じなかった。

 わかりやすすぎる。怖さって、そういうもんじゃない。不気味なマスクつけて不気味な動きしてたら怖いわけじゃない。
 怖いというのは結局「わからない」なのだ。なのにそいつどいつのコントでの女性の動きは全部「怖がらせようとしてる動き」だった。わかりやすい。だから怖くない。ストーリーも予想できるものだったし。

 めいっぱい怖がらせれば緊張を緩和したときに笑いが起こるものだが、怖さが半端なので笑いも半端になってしまった。
「この人は何のためにこんな行動をとっているのだろう?」とおもわせてほしかったな。


7.ニューヨーク

 ウェディングプランナーと新郎。

 ただただバカバカしいだけのコント。わっかりやすいダメなやつがダメダメなふるまいをする。

 ウェディングプランナーの描き方が単純だったんだよな。
 ダメなやつをコントで描くのはいいけど、ダメなやつにはダメなやつなりの論理があるはずなんだよ。「私はこう考えたのでこうしました」「失敗したことを怒られるのがイヤだからごまかすためにこんな行動をとりました」っていう論理が。
 このコントにはそれがなかった。失敗するためだけに失敗をしている。だからキャラクターがすごく平板だ。コントのためだけのキャラクターで、生きた人間じゃない。

 あと、ウェディングプランナーと新郎が初対面であるかのような設定が気になった。
 結婚式なんだからこれまでに何度も打ち合わせしてたわけでしょ。この人が担当だったんなら、その時点で「変えてくれ」ってならなきゃ嘘でしょ。
 この人と初対面という設定にするなら「これまでお客様を担当しておりました〇〇が急遽休職することになりまして。ですが打ち合わせ内容はすべて引き継いでおりますのでご安心ください」みたいなセリフが最初に必要になるんだよね。
 かまいたちが優勝を決めたネタ(ウェットスーツが脱げないネタ)では、冒頭にそういうセリフを置いていた。笑いにはつながらないけど、設定の違和感をつぶすネタはぜったいに必要なんだよね。

 でも「賞味? 消費? どっち?」は笑ったよ。終始「コントのためだけのキャラクター」だったけど、あそこでちょっとだけキャラクターにリアリティが感じられた。

 コントの作りとしては雑だったけど(特に後半のセットが倒れたり外国人の画像を出したりするとこ)、じっさいぼくも笑ったし、ぜんぜん悪いコントではないんだよね。去年は似た系統の「むずかしいことを考えずにただ笑えるばかばかしいコント」で2位になったわけだし。
 これが最下位になったことが、今大会がいかにハイレベルだったかを物語っている。


8.ザ・マミィ

 街中で終始怒っているおじさんに一切の偏見も持たない青年。

 今大会の個人的ベストコント。

 コントって芝居である以上、「ただ笑えるだけ」では物足りない。たとえばサンドウィッチマンのコントはたしかにおもしろいけど、でもおもしろいだけなんだよね。だからあれはおもしろいけれど優れたコントとはおもわない。

 笑いをとるだけならコントより漫才のほうが効率がいい。セットがない分、表現できる幅が無限に広がる。時間も空間も軽々と飛び越えられる。
 だけど、怒らせたり悲しませたり困らせたり喜ばせたり、感情を揺さぶるのにはコントのほうが向いている。だから「笑わせるだけでなく感情を揺さぶってくれるコント」をぼくは期待する。

 ザ・マミィのコントは、ただ笑わせるだけじゃなかった。はぐれ者の悲哀や他者に対する愛おしさを感じさせてくれるものだった。ニューヨークのコントの後だからこそ「生きた人間」を描いているところが光った。だってこのふたりの「これまで」や「今後」も想像させてくれたんだもの。ちゃんと「それまで別々の人生を歩んできたふたりの人間がたまたま出会った一瞬」を切り取ったコントだった。

 ちなみに空気階段にも「ちょっと頭おかしいように見えるおじさんの意外な一面」を描いたコントがあるが(電車内でおじさんが他人に注意するコント)、あちらはツッコミ役が終始傍観者にとどまっていたのに対し、こちらは両者がきちんとからんでいるのでぼくはザ・マミィのほうが好み。

 ところで終盤のミュージカルは力ずくで笑いをとりにいったようで、あまりおしゃれでなかった。
 でもそうは言いながらミュージカル部分では笑わされたけどね。力技で笑わせようとしてくるのがわかっているにもかかわらず。
 特に、あんまり歌がうまくないのがよかった。リアルなおっさんのミュージカルって感じで。


9.空気階段

 SMプレイ中に火事に遭ったふたりのおじさん。

 うーん、ぼくはあんまり笑えなかったな。新しさを感じなかったので。

 笑いとしては最初がピークで、あとは見た目のおもしろさぐらい。「ダメな人かとおもったらだんだんかっこよく見えてくる」という単純な構成で、深みが感じられなかった。

 さらば青春の光の『ヒーロー』というコントがある。噂では、キングオブコント2018で最終決戦に進んでいたら披露する予定だったというコントだ。こちらも同じく火事場を舞台にしている。
 詳しいネタバレは避けるが、空気階段とは逆に「火事現場で逃げ遅れた人を助けるヒーローかとおもわれた男がとんでもないクズだったと判明する」というストーリーだ。
 ぼくは、さらば青春の光版『ヒーロー』のほうが好きだ。保身と打算にあふれた人間くささが根底にあるからだ。空気階段のヒーローは、性癖を除けばフィクションの中にしか存在しない完全無欠のヒーローで、共感できる要素がなかった。

 作りこまれた、感情を揺さぶってくれるネタを数多く作っているコンビなので余計に期待外れだった。


10.マヂカルラブリー

 深夜の心霊スポットでコックリさんをする学生ふたり。

 マヂカルラブリーのラジオを毎回聴いているぐらい好きなんだけど、いや好きだからこそ、「えっ、こんなもん?」という印象だった。

 前回決勝進出のときもおもったけど、マヂカルラブリーって漫才は「既存の概念をぶち壊してやる!」みたいな破戒的なパワーを感じるのに、コントはすごく丁寧に作りこまれてるんだよね。抑えるべきところは抑えて、説明すべき点は説明して。それはいいことなんだけど、でもマヂカルラブリーにはもっとむちゃくちゃな展開を期待してしまう。
 漫才だと、時間も空間も軽く飛びこえて自由自在に演じられるのに、コントだとセットがある分、表現が窮屈になってしまう。

 ふたりとも漫画やアニメが好きだからだろう、表現が漫画やアニメの枠を超えてこない。漫画のネタを実写化したみたいなコントなので、これだったら漫画で読んだほうがおもしろいやという気になる。そう、ギャグ漫画みたいなコントだった。

 でも「指先に操られる人間」というむずかしい演技をやってのける身体表現能力の高さには舌を巻いた。特に指先に立たされるとことか。あの身体の使い方はすごかったなあ。

 点数が伸びなかった原因のひとつに、死体が操られることに対する生理的な嫌悪感もあったのかもしれない。野田くん死んじゃうし。死んだまま終わっちゃうし。やっぱり人の死を笑いに変えるのはむずかしいよ。


 最終決戦進出は、1位空気階段、2位ザ・マミィ、3位男性ブランコ。

 ぼくが選ぶなら空気階段の代わりにニッポンの社長を入れるな。


ネタ感想(最終決戦)


男性ブランコ

 レジ袋をケチった男の末路。

 レジ袋有料化という根拠の明確でないおもいつきのような政策にふりまわされる国民の姿をシニカルに描いた(ウソ)時代に即したコント。
 レジ袋有料化される2020年より前には存在しえなかったネタだし、来年だったら「いいかげんレジ袋ないことに慣れろよ」とおもってしまうので、今がこのネタをできるギリギリのタイミングだったね。

 一本目のネタの感想でも書いたけど、すごく上品なコントを作るコンビだ。最小限のセット、最小限の動きに、最小限の感情の揺れの表現。それでいて大きな効果を上げるのだからすごい。

 レジ袋をケチった男は明らかにダメなやつなんだけど、ニューヨークのコントで描かれたダメ男とちがって、彼にはダメなやつなりの論理がちゃんとあるんだよね。レジ袋を買わなかったのは袋代が惜しかったからだし、だからレジ袋をもらったらお金を払わなきゃいけない、他人の手を煩わせたらお礼を言わなきゃいけない。彼には確固たる信念がある。

「あなたはあのときケチったレジ袋ですか」なんて、その人間に深く入りこまないと出てこないセリフだよ。〝笑わせるためだけに生みだされたキャラ〟には言えない。

 強引に笑いを取りにいくコントではなかったので点数は伸びなかったが、そこがまたかっこいい。今大会もっとも評価を上げたコンビじゃないかな。


ザ・マミィ

 ドラマっぽいセリフを言いあう社長と社員。

 キングオブコントのオールドファンなら誰しもが、しずるが2010年のキングオブコントで披露したコント『シナリオ』を思い浮かべたのではないだろうか。審査員の秋山さんが「観たことがあるような」と暗に示していたのもおそらくこのコントだろう。


 とはいえパクリだという気はさらさらない。もっといえば25年ぐらい前にビリジアン(小藪一豊さんが組んでいたコンビ)が「演技でしたー!」というコントをやっているのを観た記憶があるし、小学生だって「演技でしたー!」をやる。
 ドッキリ番組が数十年定番コンテンツであることからわかるように「人が芝居に騙されて真に受ける」というのは人間が根源的に好きな笑いなのだろう。

「演技でしたー!」はかんたんに裏切りを起こせるのでコントにしやすいのだろうが、裏を返せば裏切りのパターンが予想されやすいということでもある。「演技でしたー!」が二度続けば誰もが次も同じパターンがくることを予想するし、そうなるともう「演技でしたー!」か「演技と見せかけて実はほんとでしたー!」の2種類しか道はない。どっちを選んでも想定内だ。

 韓国ドラマ、音楽再生、ボイスレコーダーなど随所に工夫はあったものの全体的な展開は観客の想像を大きく超えるものではなく、この設定を選んだ時点で負けは決まっていたのかもしれない。


空気階段

 オリジナル漫画を題材にしたコンセプトカフェのマスターと客。

「変な店員と客」という設定はありがちだが、実はコントにするにはむずかしい。
 漫才コントであれば「店員をやりたい相方に練習をつきあってあげる」または「客の練習をしたいので相方に店員役をしてもらう」という導入があるので、どれだけ変な店員が現れてもかまわない。
 だがコントは芝居なので、入った店に変な店員がいた場合、客には「店を出る」という選択肢があるし、場合によっては店を出ないと不自然だ。
 だから「変な店員と客」は、コントの舞台としては設定の強度がもろい。

 空気階段のこのコントは「雨が降ってきたのでカフェで雨宿り」という笑いにはつながらない導入を入れることでそうかんたんに店を出られないシチュエーションを作りだし、「変だけどさほど不愉快ではない」程度の仕掛けを並べることで「怒って席を立つ」状況を回避している。すごく丁寧な作りだ。

「小学校のときにノートに描いていたオリジナル漫画」というのはわりとよく見る題材だけど、接客セリフ、メニュー表、登場人物などディティールまできちんと作りこまれている。 もぐらさんのキャラクターを活かしたばかばかしい設定でありながら、ちゃんとマスターのこれまでの人生を感じさせてくれる。

 だからこそ気になったのが、コーヒー豆にはこだわっているという設定。あれ自体はすごくおもしろいのだが、だったら注文してからあんなに瞬時に出してきちゃだめだろ。時間をかけて煎れてくれなきゃ。
 全体的に丁寧だったからこそ、あそこの雑さが気になった。

 ところでロバート秋山さんが設定の着眼点を褒めていたが、たしかに「異常なコンセプトカフェ」ってものすごくロバートのコントにありそうな設定だよな。
 コンセプトカフェに行ったら変な店員にからまれる……というロバートのコントが容易に頭に浮かんだ。この設定を先に使われた秋山さん、悔しかっただろうなあ。


総括

 いやあ、いい大会でしたよ。
 こうして感想を書いていても楽しい。
 笑えなかったのはジェラードンだけだったし、ジェラードンにしてもぼくの好みじゃないネタだっただけで腕があることは十分伝わったし。

 空気階段は、今回のネタはぼくの好みとはちょっとちがったけど、昨年の定時制高校のコントはまちがいなく大会トップのネタだったとおもうので今年やっと優勝できたことは喜ばしい。
 見た目のコミカルさ、導入のわかりやすさ、細部へのこだわりなどを随所に見せつけてくれるコンビなのでいつかは優勝できていただろう。

 M-1グランプリ以前と以後で飛躍的に漫才の技術が進化した(第1回大会の決勝ネタなんか今だったら全組2回戦か3回戦で敗退だろう)ように、コントのクオリティも全体的に大きく向上したなあと感じさせてくれる大会だった。

 とにかくたくさん笑わせれば何でもいいという時代は終わり、人間模様を感じさせる完成度の高い芝居でないと評価されない時代になった。
「きちんと人間の内面を描けているか」「そのメッセージを作品に昇華させるにあたり題材選びは適切か」といった、まるで純文学賞の選評みたいなハードルを越すことが求められる大会になってきた。

 もちろんコンテストなので優勝を決める必要はあるのだが、ことキングオブコントに関してはあんまり優勝だけにこだわる必要はないとおもうんだよね。上位に関してはほとんど出番順とその日の雰囲気だけで決まるような感じだし。

 だから優勝賞金1000万! よりも、総額1000万円にして、1位○万円、2位○万円、3位○万円、審査員特別賞○万円、みたいな感じのほうがいいのかもしれない。演劇のコンクールみたいに。


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2021年10月1日金曜日

数字あつめの旅

 娘がどこかに行きたいという。時節柄、人の多い場所には行きたくない。

 そこで「散歩でもしようか」と言って外に出る。

 娘は「どこに行くの?」としきりに訊いてくる。子どもには「目的もなくただ歩く散歩」ができないのだ。ぼくもそうだった(だから飼い犬の散歩も嫌いだった)。

 目的を与えるため、「数字さがしゲーム」を提唱した。
 街中にある0~99の数字をさがす(3桁以上の数字から一部をとるのはダメ)。街をぶらりと一周するまでの間になるべく多くの種類を見つけよう。


 数字をさがしながら娘と歩く。

 少ない数字はかんたん。0円、一番、24時間、10時~22時。
 住んでいるのが都心部なのでお店も多い。メニューや営業時間を見ると数字がたくさん並んでいる。
 1桁の数字はすぐにコンプリートした。

 24以下もそうむずかしくなかった。営業時間でよく使われている(ただし16時などは開店時刻にも閉店時刻にもなりにくいので意外と少なかった)。バス停を発見。時刻表は数字の宝庫だ。数字が一気にそろう。ただし当然ながら59までしかない。

 車のナンバープレートは禁止とした。労せずして見つかってしまいつまらないからだ。
 ナンバープレートのように意味のない数字はつまらない。

 番地を探すが意外と少ない。都心部はマンションが多く、住所表記が多くないのだ。住所で使われている数字は小さいものが多い。田舎だと「○○町 1-1419」なんて住所があったりするが、街中は住所が細かく分割されているのでかえって数字が大きくならないのだ。

 メニューには料金も書かれているが2桁の料金などまずない。せいぜいトッピング50円ぐらい。

 30分ぐらい歩いて25ぐらいまでの数字はコンプリートしたが、大きい数はむずかしい。
 なにかの拍子に73なんて半端な数を見つけるとおもわず「やった!」と声が出てしまう。

 不動産屋の店先に貼っている物件を眺める。これも数字が多い。家賃○○万円、駅から○○分、築昭和○○年……。
 これはいいぞとおもって見ていたら、店内から従業員が出てきて「なにかお探しですか」と訊かれた。
「あ、いえ、大丈夫です」とあわてて退散した。ちぇっ、せっかく数字がいっぱいあったのに。

 そんなこんなで一時間ぐらいかけて、1~99までの数字のうち6割ぐらいは見つけることができた。やっぱり大きい数字はむずかしいね。


 こういう散歩は昔からよくやってきた。
 小学生のとき、母と姉と「なるべく多くの公園を見つける」という散歩をやったことがある。
 やはり小学生のとき、友人と「できるだけ多くのクラスメイトの家の前まで行く(前まで行くだけ)」ツアーをやった。
 高校生のときは「できるだけ多くのクラスメイトの家の前まで行く(さらにインターホンを押して出てきた人にお菓子を配る)」ツアーをやった。

 ただ歩くのはつまらなくても、目的があるととたんにゲーム性が増して楽しくなる。たとえそれが「数字を見つける」といった何の役にも立たない目的であっても。