2019年3月29日金曜日

元号について


ふだん、元号はほとんど使わない。
会社の書類関係も基本的には西暦で作る。

元号なんてなくしてしまえなんていう人もいる。
ぼくはそうはおもわない。あまり使わないけど、あったほうがいいとおもう。


ぼくらはあまり時間をとらえるのが得意でない。
数十年単位で物事を考えることはほとんどない。長くて数年、ほとんどが一年以内だ。

一年先の予定なんてまったく決まっていないし、一年以上前の思い出がすっぱりなくなったとしても生活する上ではそれほど不自由は感じないだろう。

八十歳まで生きて、文書や写真や映像で記録を残せるようになった現代においてもこうなのだから、原始狩猟採集生活をしていた時代の人類には、数年単位で物事を考えることなどほとんどなかったにちがいない(そして人類の歴史の大部分はそういう生活をしていた)。
人類は長いスパンで物事を考えられるようにできていないのだ。



そこで役に立つのが、時代の区切りだ。

「平成時代」という区切りをつけることで、長い時代を脳の中で整理しやすくなる。

たとえばテクノロジーの分野だと
「平成は、携帯電話やインターネットが爆発的に普及した時代」
とか。

経済だと
「平成は、長く不況に苦しみ終身雇用制度や年功序列賃金が崩壊していった時代」
とか。

たいていの物事はいっぺんには変わらないので、一年単位だと短すぎる。
一世紀だと長すぎる。百年前と今とでは何もかもがちがう。そもそも百年前のことを記憶している人がほとんどいない。

ある程度の長期的な変化を把握するには、元号ぐらいの長さがちょうどいい。
(ただし昭和は長すぎる。戦争で出征していた世代と、生まれたときからコンビニもファミコンもあった世代を「昭和生まれ」で一緒くたにするのはさすがに無理がある)

昭和は例外(大正時代が短かった+医学の驚異的な進歩があった)にしても、元号は天皇の世代交代が区切りになるから、必然的に二十~三十年ぐらいの長さになる。

平成は三十年と四ヶ月。
これはちょうどいい長さだ。

女性の初産時の平均年齢がだいたい三十歳ぐらいだそうだ。
つまり平成元年に生まれた子どもが、次の元号の元年に親になるぐらい。

元号がちょうど一世代。
これぐらいのスパンだと「ひとつの時代が終わる」という感じがして、感覚的にはちょうどいい。

数十年たってから「たまごっちが流行ったのっていつだったっけ」「CDを買わなくなったのっていつだったっけ」「あいつと出会ったのはいつだったっけ」と振りかえったときに、西暦何年かはわからなくても「平成時代だったな」ということぐらいはわかる。

数十年前の記憶なんてそれぐらいでいい。
こういう節目があるのはけっこう便利だ。

だから元号はこれからもぜひ存続させてほしいとおもう。



とはいえ、役所の文書で元号を使わせることには反対だけどね。

それとこれとは別問題だぜ。


2019年3月28日木曜日

【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

オンチは誰がつくるのか

小畑 千尋

内容(e-honより)
「オンチはなおりますか?」実に多くの方が質問されます。オンチはなおすものではありません。克服するものです。オンチは病気ではなく、生まれながらの能力の欠如でもないからです。歌唱スキルは、適切なトレーニングを行えば、発達可能な能力であり、大人になってからでも十分に向上します。

ぼくは音痴だ。ものすごい音痴だ。
どのぐらい音痴かというと、2音を聴いて「どっちが高い?」と言われてもよくわからないときがある。それぐらい音痴だ。

中学生のときに友だちから「おまえ歌へただな」と言われ、そのときは「まさか」と思っていたのだが、合唱コンクールの練習時に教師から「まったくちがう」と言われて自分が音痴だと確信した。

それ以来、自分は音痴だという自覚を持って生きている。
中高生のときはすごく恥ずかしかった。音痴であることがコンプレックスだった。音楽の授業や合唱コンクールが苦痛だった。
人前では歌わない。カラオケにも行かない。どうしようもないときはしぶしぶ付きあうが、どれだけ勧められてもマイクは握らない。

もうこれは一生治らないものだからしょうがない、とおもって生きてきた。

おっさんになってからはカラオケに誘われることもなくなってきたので、特に不自由しなかった。ようやく音痴で苦しむことから解放されたとおもった。

だが娘が生まれてそうも言ってられなくなった。
子どもを寝かしつけるとき。
子どもから「いっしょに歌おう」と言われたとき。
歌ってあげたい。だが歌えない。ぼくのへたな歌を聞かせたら娘も音痴になってしまうかも。


……そんな心配もむなしく、娘は音痴になった。

娘の歌はへただ。
音痴のぼくが聞いてもめちゃくちゃだとおもうので、相当ひどいのだろう。
まあ子どもだからこんなもんかとおもっていたのだが、娘の友だちが歌っているのを聞いて驚いた。うまいのだ。
幼児でもうまく歌える子はいる。だとしたら娘は音痴なのだろう。

もうぼくが音痴なのはしょうがないが、娘にはこれから音楽の授業や合唱コンクールや友だちとのカラオケなどの試練が待ち受けている。
つらい思いをさせるのはかわいそうだ。

ということで、一縷の望みをかけてこの本を読んでみた。

いい本だった。すごく。

音痴になるメカニズムや克服トレーニング方法だけでなく、オンチの人の抱える精神面での悩み、それが生まれる社会的背景、トレーニングによって音痴を克服した人のエピソードなどじつに丁寧に説明されている。
非常に読みごたえがあった。



ぼくの妻は歌がうまい。
おまけに絶対音感もある。
ぼくがピアノで2つの鍵盤を同時に叩いてみせると、聴いただけで「ドとソのシャープ」なんて言いあてることができる。
一度聴いただけの曲でも、ピアノで演奏することができる。

特別なトレーニングをしたわけではないという。ピアノは習っていたが趣味程度。絶対音感は「自然に身についた」という。

ぼくからしたら驚異的だ。
体操選手の後方抱え込み2回宙返り3回ひねりを見ているような気持ちだ。とても同じ人間の所業とはおもえない。


歌のうまい人の例に漏れず、妻には歌のへたな人の感覚がわからない。
娘に歌を教えるときも
「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」
なんて言う。

音痴代表として、ぼくはおもう。
ちがうんだって。
よく聴いてるんだよ。よく聴いてもどっちが高いかわからないんだよ。そもそも「音が高い」という感覚もよくわかってないんだよ。

音痴にとっての「よく聴いて。ほら、これと同じ高さで歌ってごらん」は、真っ暗な部屋で「ほらこれと同じ絵を描いてごらん。見たまんまに描けばいいから」と言われているようなものだ。
技巧がどうこう以前に、見えてないのに描けるわけがない。

でも歌がうまい人には、音痴の人が「見えていない」ことがわからないらしい。
 オンチだと言われてきた方は、「なんで音が外れるんだ」「なんでみんなは合わせられるのに、自分は合わせられないんだ」と思い続けてきたかもしれません。でも私がレッスンを通して強く感じるのは、彼(彼女)らは同一の音高で合わせる感覚を単に知らなかっただけだということです。
 歌唱指導で、内的フィードバックができない人に対して、いくら「この音に合わせて」「よく聴いて」なんて指示を出しても効果はありません。一体「何をよく聴いたらいいのか」がわからないからです。音楽の指導者のほとんどは、そのことが想像できていないのではないでしょうか。

学校の音楽の先生はほとんどが子どもの頃から歌が得意だった人だろう。音程を理解するのに苦労した、なんてことはまず経験していないはず。

だから「音の高低がわからない」という感覚がわからない。
平気で「よく聴いて、同じ音で歌って」なんて口にする。

英語のネイティブスピーカーが[a]を使うべきか[the]を使うべきかなんて考えなくてもわかるように、音楽の先生にとっては「ドよりレが高い」なんてのは自明のことなので考えて理解するようなことじゃないのだろう。
 私は、音程が著しく外れる歌を聴くと、どのように音程が外れているのか、本人がそのことを認知できているのかを分析しています。それは、「教育者が使う言葉として『オンチ』はふさわしくないから、使わないようにしよう」という発想からではありません。
 音程が外れた歌唱を聴いた時、「オンチ」というレッテルしか貼れない音楽の指導者だったら、(ちょっときつい言い方になってしまうかもしれませんが)それは専門性に欠けると思うのです。もし歌唱を指導する立場の人だったら、著しく音程が外れた歌を聴いた時、その人がどうして音程を正しく合わせることができないのか、その原因を探り、指導をすべきではないでしょうか。
 これも、体育に置き換えて考えてみると、わかりやすいと思います。たとえば、水泳で息継ぎができない子どもに対して、「どうして息継ぎができないのか」「どうやったらその子どもが息継ぎをできるようになるのか」を考え、その子どもにとって 必要な指導をするのが体育の先生の仕事です。それを、体育の先生が「この児童は、運動オンチだなぁ」と思って、息継ぎの方法を教えないのはかなり妙な話ですよね。音楽の先生が「オンチだ」と思って具体的な指導をしないのは、これと同じことだと私は感じています。

そうそう、指摘だけされて指導してもらえないってのが、音痴にとっていちばんつらいとこなんだよね。

ぼくも音楽の先生から「音がずれてるね」と言われたことがある。
でもそれだけ。
修正するための指導を受けたことはない。
どうやったらずれずに歌えるのか、そもそもずれてるとはどういうことなのか、ずれてないのがどういう状態なのか、音痴のぼくが理解できるような説明を誰もしてくれなかった。
通知表には10段階評価で3か4がつけられて、それで終わり。改善のしようがない。



今でこそ「ぼく音痴なんですよー」と堂々と言えるようになったが、思春期の頃はそれすら言えないぐらい恥ずかしいことだった。

カラオケに誘われたときも「音痴だからやめとくわ」とは言えずに、「あの狭い空間が苦手なんだよね。息苦しくって」なんて妙な嘘をついて逃げていた。

そこまでコンプレックスにおもっていた理由も、この本を読んで腑に落ちた。
 そもそも、「歌う」ことは楽器の演奏とは異なった感覚があります。弦楽器であれ、管楽器であれ、打楽器であれ、楽器は演奏する本人と、演奏する楽器が基本的に別物です。
 たとえば、ピアノは指が鍵盤に接触しています。でも、音を発する楽器本体は人間ではなく、ピアノです。弦楽器や管楽器も体が接触し、振動させる、息を吹き込むなどしても、やはり音を発するのは楽器本体です。熟練者になると、楽器がまるで自分の体の一部のように演奏する感覚もあるでしょう。でも歌は、体そのものが楽器なのです。話す時の声が体から発せられるのと同じように、歌声も演奏者自身の体から発せられます。
 ですから、たとえば学校の音楽の授業で、鍵盤ハーモニカを弾いている時に、「違う音を弾いてるよ」と指摘されたり、リコーダーを吹いて「押さえる指が間違っている」と指摘されたりするのと、歌って「音程が違う」と言われるのとでは、全く重みが違うのです。楽器だとワンクッションあるけれど、歌はダイレクトに感じられてしまうのです。
 こんなふうに考えてみると、歌に対する指摘を受けたとしても、その指摘が直接自分自身に向けられたように感じてしまっても不思議ではありません。「歌声」イコール「私自身」という感覚です。

そっか!
「歌声」イコール「私自身」だから恥ずかしいのか!

たしかにそうだよね。
ぼくは楽器全般ができないけど、それはべつに恥ずかしいとおもったことがない。
もし友人の前でリコーダーを吹くような状況になっても(どんな状況だ)、堂々とへたくそな演奏をやってやれる。
それで「おまえリコーダーへただなー」と笑われてもぜんぜん平気だ。「そやねん。へたやねん」と言える。

でも、友人の前でへたな歌を歌いたくない。「おまえ歌へただなー」と言われたら赤面してしまう。


歌のうまい人には理解できないかもしれないけど、「歌がへた」ってほんとに重いことなんだよね。
「リコーダーがへた」とか「バスケットボールがへた」とはぜんぜんちがう。
それらは「練習が足りないから」ですませられるけど、歌がへたなのは人間として欠陥があるような気さえする。


これは個人的な憶測だけど、音痴が恥ずかしいのってジャイアンのせいなんじゃないかとおもう。
『ドラえもん』の中で、ジャイアンの音痴ってめちゃくちゃひどい描かれ方してるじゃない。ジャイアンの歌声を聞いた子どもが気を失うとか、猫が木から落ちてくるとか、窓が割れるとか。
あれってべつに音痴なんじゃなくてただうるさいだけなんじゃないかとおもうんだけど、漫画の中では「歌がへたなせい」ということになっている(窓が割れるぐらいのボリュームだったらたとえうまい歌でも具合悪くなるとおもうんだけど)。

のび太が勉強できないこととかスポーツが苦手なこととかは同情的に描かれているのに、ジャイアンの音痴に対してはそういう視点は一切なく、とことん笑いものにされている。
リサイタル参加を強制する点についてはジャイアンが悪いが、音痴なのはしかたのないことなのに。

あれは「音痴は人前で歌うな」というメッセージになってしまってるんだよね。
ひどいや藤子・F・不二雄先生……。



くりかえしになるが、本当にいい本だった。

著者は東京音大を出てピアノの指導者をしている人なので、音痴で苦労した経験など一度もないにちがいない。
だけど音痴の人に寄りそう姿勢を持っている。
ちゃんと原因を分析して、音痴であることによってどんな精神的な苦痛を抱えているかをさぐって、歌が嫌いにならないようにすごく配慮しながら指導をしている。

もう、歌の先生というよりセラピストのようだ。

ぼくもこの著者みたいな先生に指導してもらいたかった……。
(学校のカリキュラムではそこまでの時間も割けないんだろうけど)

この本には、音痴のメカニズムや、修正するための方法、そしてじっさいに克服した人の事例が紹介されている。

自分はもう一生音痴として生きていくしかないとおもっていたが、この本を読んで「ぼくの音痴も克服できるかもしれない」とおもえるようになった。
もうそれだけで気持ちが楽になった。

ぼくの音痴はまったく治っていないが、しかし気持ちはまったくちがう。
「一生歩けません」と「リハビリをしないと歩けるようになりません」ぐらいちがう。

娘も、音楽の道に進むことは無理でも、友だちと行ったカラオケで恥をかかなくて済むぐらいにはなるかもしれない。
さっそくこの本に載っているトレーニングをやってもらおう(サポートするのは音程がとれる人じゃないといけないので妻にやってもらうのだが)。

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2019年3月27日水曜日

【読書感想文】晴れやかな心中 / 永井 龍男『青梅雨』

青梅雨

永井 龍男

内容(Amazonより)
一家心中を決意した家族の間に通い合うやさしさを描いた表題作など、人生の断面を彫琢を極めた文章で鮮やかに捉えた珠玉の13編。

日常のスケッチのような短篇集。
いわゆる名文なんだろうけど、個人的にはこういう「何も起こらない小説」は楽しめないんだよなあ。志賀直哉なんかもそうだったけど。

ただ、葬儀にまぎれこんだ狂人(自分ではまともで「他の人」が狂っているとおもっている)の心境をスケッチした『私の眼』、
そして同じ場面を「他の人」の視点で描いた『快晴』はぞくぞくしておもしろかった。
この男、見ず知らずの人の葬式に参列して、香典袋に靴べらを入れて渡す。あからさまな「おかしい」ではなく、当人にとってはまっとうな理由がありそうな狂気なのがいい。
読んでいて、狂気と正常のボーダーラインがゆらいでくる。


一家心中当夜の家族の落ち着いたたたずまいを描いた 『青梅雨』もよかった。
心中を前にしている家族の立ち居振る舞いは、むしろ晴れやかで楽しそうですらある。

心中って経験したことないけど(たいていの人はないだろう)、案外こんなもんかもしれないなあ。
ひとりで自殺するよりも、気楽で悲愴感はないのかもしれない。
先生に怒られてひとりだけ教室に居残りさせられるのはつらいけど、ふたりで居残りさせられるときはちょっと楽しいもんね。妙な親近感がわいて。そんな感じなんじゃないかな。

末井昭という人が「おかあさんがダイナマイト心中した」ことを書いてるけど、申し訳ないけど、もう笑っちゃうもんね。ダイナマイト心中ってちょっと楽しそうな感じするもん。

太宰治なんかあれもう心中をどっか楽しんでるようなとこあるしね。
過激派が自爆テロなんてのも、あれはやっぱり誰かと一緒に死ぬからこそできるんだろうね。
みんな心の奥底に「ひとりで死にたくない」って思いがあって、それが心中や自爆テロがなくならない理由なのかもしれない。


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【読書感想文】おかあさんは爆発だ / 末井 昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』



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2019年3月26日火曜日

軍手を剥ぎたいんです


私は軍手剥ぎ師です。
軍手を剥ぐのが仕事。といってもわかってもらえないかもしれませんが、ほら、道端に軍手が落ちてるのを目にしたことがあるでしょ。あれが私たちの業績です。


といっても剥ぐのは軍手だけじゃありません。
赤ちゃんの靴下とか、酔っ払いの靴とか、マフラー、ストール、キーホルダーその他さまざまな衣類やアクセサリーをこっそり抜き取って地面に捨てています。

ちょっと特殊な仕事と思うかもしれませんが、立場上は地方公務員です。共済年金にも加入してます。
特定を防ぐためにどの都市かは書きませんが、地方中核都市とだけ言っておきます。

この仕事のことは口外してはいけないことになっているので、家族以外には話したがありません。他人には「市の清掃局の仕事」って言ってます。まあ管轄は清掃局だから嘘じゃないんですが。

軍手や靴下を地面にばらまく理由は、注意喚起です。
財布とか携帯電話とか大事なものを落とさないように、さほど重要じゃなさそうなものを選んで地面に落とします。実際これを導入してから貴重品の遺失物が減ったと聞くのでちゃんと効果はあるらしいです。

あとは若干ですが景気拡大にも効果があるそうです。手袋落としたら買い替えてくれるので。ですから金融政策の一環でもあります。不況のときは少しだけ落とさせる量が増えます。
とはいえ最大の目的はやっぱり注意喚起です。
「私たちの本分は注意喚起です。それを忘れないように」と研修のときにしつこく聞かされました。

注意喚起が目的なので、あまり高価なものは狙いません。
無造作に尻ポケットにつっこんでる軍手とか、だいぶ使いこんでる手袋とかを見定めて落とさせます。

あと多いのは赤ちゃん関係。
子育てしてる人ならわかると思いますが、だっこされてる子やベビーカーに乗ってる子っていろんなもの落としますよね。手袋や靴下とか、ひどいときには靴まで落とす。あれは私たちが乳幼児を重点的に狙っているからです。
あれは落とし物に注意というより「赤ちゃんのことをちゃんと見てあげてね」というメッセージです。
赤ちゃんって目を離してるとすぐにベビーカーから身を乗りだしたり、へんなものを口に入れたりしますよね。だから、ちょくちょく見てくださいねって思いを込めて靴下を脱がして地面に置いてます。

仕事はまあそれなりにやりがいはあります。成果は感じやすいですし。
この仕事はほんとに世の中に必要なのかって考えることもありますが、そんなことを言ったらたいていの仕事がそうだと思うので、とりたてて不満に思うこともありません。
給料は地方公務員としてはごくごく標準的な水準だと思います。他人に話してはいけないことについても、機密保持手当がつくのでストレスに感じたことはありません。

さて、これまでこの仕事のことを誰かに漏らしたことのなかった私がなぜインターネット上で軍手剥ぎ師について書いているのか。
それは、私たちの仕事が奪われようとしているからです。

きっかけは昨年市長が変わったことでした。市長は公務員の大幅コストカットを選挙公約に掲げており、じっさいにいくつかの事業を民営化しようと乗りだしました。市バスや清掃事業など。軍手剥ぎ事業もそのひとつでした。

たしかに軍手剥ぎは利益を上げていません。お金の面で見たら、無駄といえるかもしれません。
ですが、だからこそ公的機関がやるべきなのではないでしょうか。
市長の案では民間の軍手剥ぎ業者に委託し、ゆくゆくは軍手剥ぎそのものをなくそうとしています。

しかし先ほども申しましたように、軍手剥ぎは利益を上げません。剥いだ手袋を転売してしまっては窃盗になりますので、私たちには落とさせることしかできません。
軍手剥ぎ事業に参入してくる業者は当然ながら助成金が目的です。それ自体が悪いことではありませんが、民間業者である以上コストを抑えることになり、それはつまり軍手剥ぎの質の低下につながることは目に見えています。

軍手剥ぎ事業を民営化させることは、短期的には予算削減につながるでしょう。しかしそれは市民の注意力低下につながります。遺失物が増え、市民の財産は減り、警察の労力は増えます。乳幼児の事故も増えることでしょう。長期的には大きな損失となるのです。

どうかみなさまには軍手剥ぎの実態について知っていただき、公共事業としての存続を訴えたいと思い、こうして筆を執った次第です。
どうかご理解いただきますようお願いいたします。

2019年3月25日月曜日

【読書感想文】イケメンがいちばんいい / 越智 啓太『美人の正体』

美人の正体

外見的魅力をめぐる心理学

越智 啓太

内容(e-honより)
なぜ美人は一人勝ちといわれるのか?納得の定説から予想を超える新事実まで、最新の研究成果に基づいたネタ満載。美人が大好きな人、美しくなりたい人の知的好奇心を鮮やかに刺激する!

人はどれぐらい美人/イケメンを好きなのか。
そもそも美人/イケメンとはどういう顔なのか。
なぜ美人/イケメンが好かれるのか。
美人/イケメンはどれぐらい得をするのか。
逆に美人/イケメンが損をすることはあるのか。

……などなど、とにかく顔の良し悪しに関する研究ばかりを集めて紹介している本。

とにかくいろんな研究のいいとこどり、悪くいえば寄せ集めという感じで、著者の主張はほとんどない。
が、個人的にはこのほうが信頼がおけて好きだ。べつに著者の個人的主張はなくてもいい。

橘玲『言ってはいけない』もいろんな研究を紹介する本だけど、あれはちょっと著者のつけたし(という名の暴走)が過ぎるからなあ。



見た目のいい人のほうがモテるのはもちろんだが、学問の面においても高い知能を持っていると期待されるそうだ。

そういや前の職場に清楚な感じのすごい美人がいて、しゃべってみたらぜんぜん物事を知らないし計算もできないしだらしないので驚いたことがある。
あれは、ぼくが勝手に「この人は顔が整っているから頭も良くて性格もきっちりしているにちがいない」と思いこんでいたせいなんだろうな。

そんなふうに勝手に期待されて失望されることもあるが、期待されることはプラスにはたらくことが多いようだ。
 ローゼンソールらはある小学校で、知能検査を行いました。そして、担当の先生に「この知能検査は、今後その子どもがどのくらい伸びるかをテストするものなのです」と信じさせて、今後伸びる可能性のある子どもとして何人かの子どもの名前を示しました。その8か月後にもう一度知能検査を行ったところ、実際にそれらの子どもたちの知能が伸びていることがわかったのです。この実験の面白いところは、じつは先生に示された「伸びる子ども」のリストは単に、ランダムに選ばれた生徒にすぎなかったことです。つまり、「この子どもは伸びる」と先生が信じたことにより、実際にそれらの子どもたちの知能が伸びてしまったのです。
 このように、先生の期待が現実化してしまう効果が存在すると仮定すると、美人だったりハンサムだったりする子どもは先生から期待され、実際に成績が良くなってしまう可能性があります。また、このような効果が自己拡大していく可能性について言及している研究者も少なくありません。つまり、魅力的 → 先生から期待される → 勉強を頑張る → 実際に成績が良くなる → さらに先生から期待される → さらに頑張るという良い方向のスパイラルが形成されるというわけです。これは逆の場合、恐ろしいスパイラルとなります。つまり、魅力的でない → 先生から期待されない → 勉強を頑張らない → 成績が低下する → さらに期待は低くなる → さらに成績が低下するという流れです。

期待されることで、それに応えようとしてじっさいに成績が良くなる。
つまり見た目のいい子はそうでない子よりも勉強もスポーツもできるようになる(傾向がある)わけで、見た目の悪い子にとってはなんとも救いようのない話だ。

「美人は性格が悪い」という通説もあるが、現実には美人は(特に異性からは)性格も良いとおもわれるらしい。

また、自信がつくことで明るく社交的になりやすいわけで、生まれついて魅力的な人はどんどん魅力的になり、そうでない人はどんどん卑屈になってしまう。

いい顔に生まれるかどうかで、恋愛以外の面でもまったく異なる人生を歩むことになるのだ。

改めておもうけど、ぼくもイケメンに生まれたかったぜ。



ただし、男の場合は「見た目がいい」が必ずしもモテるにはつながるわけではないという。
 じつはこのような「男らしい男」を選択する場合にはいくつかのリスクもあるのです。一つは、このような男性は生殖力が強いため、自分の遺伝子を最大限残すために、一人の女性との間で家庭を作って、そこで少数の子どもを作り育てるというよりは、多くの女性と短期的な関係を築くという方略のほうが有利になる可能性があります。つまり、「やりにげ」方略、子どもの養育には投資を行わないという方略をとりやすくなるのです。女性から見るとつまり「男らしい男」は、生殖力があるが「やりにげ」される可能性があるちょっと危険な存在ということになります。
 このような危険な存在をあえて選択するということも可能ですが、危険を避けて長期的な関係を築くためには、「女性らしさを持っている男性」を選ぶのもいい選択かもしれません。この場合、それほど「モテる」要素を持っているわけではないし、女性的な特性を持っている可能性があるので、「やりにげ」されずに、じっくりと自分の子どもの養育に投資を行ってくれるかもしれません。

マッチョな男、かっこいい男は一夜限りのアバンチュールの対象としてはモテるが、長期的な恋愛・結婚の対象としては必ずしもそうとはかぎらないようだ。

女性の場合、「やりにげ」されることのコストが大きいため(妊娠・出産したらひとりで子育てをしなくてはならない)、好みが多様化する傾向にあるようだ。
相手を選ぶうえで「浮気をしなさそう」ということも重要なファクターとなるため、「浮気をしなさそう」≒「モテなさそう」な男が選ばれることもめずらしくない。

たしかに「美女と野獣」の組み合わせはときどき見るが、その逆は少ない。

これはわれわれかっこよくない男性には朗報だ。



顔の好みの話。
この図を見てみると、同性の人物の場合には、自分に類似した顔が選ばれやすかったのに、異性の場合にはそのような傾向はあまり見られないということがわかります。これが、おそらく我々に備わった近親交配回避のためのメカニズムだと思われます。
 同性の場合には2人の間に子どもを作ることはなく、好意を持つということは、相手を援助することなどと関連するので、単純に血縁関係が大きい相手を選好するほうが、結果的に自分の遺伝子を多く後世に残すことができます。相手の遺伝子と自分の遺伝子に共通するものが多いほど、相手を助けてその生殖を支援することが結果的に自分と同じ遺伝子をより多く後世に残すことにつながるからです。そのために似ている個体であればあるほど好感を持ったほうが、より適応的だと考えられます。
同性であれば自分と似た顔に好感を持つ、異性に関してはそのような傾向はあまり見られない。
遺伝子を残すためには親戚は助けあったほうがいいけど、親戚には恋愛感情を抱かないほうがいいから。
なるほどね、よくできている。

そういや特に女の人にいえることだけど、似た感じの人でつるんでいる印象がある。
同じぐらいのかわいさ、同じようなメイクの人が友だちになっている。美人とブスの友情はめずらしい。
あれはこういう理由もあるのかもしれないね。



当然ながら見た目がいい人のほうが得をすることが多いんだけど、この本の最後には「美人ならではの苦労」も書かれている。

遊び目的の男に声をかけられる、不当に高い期待をされる、同性から妬まれる、など。

娘が生まれたとき、ぼくは「あまり美人すぎないほうがいいな」と願った。
美人は美人で苦労するだろうし、悪い男に目をつけられて道を踏みはずしやすそうだし、親としては心配が多そうだから。
幸か不幸か、ぼくに似て、今のところは美人ではなさそうだ(もちろん親としてはかわいいけど)。

幼なじみの美人だった子を見ても、あんまり幸福そうには見えないんだよなあ(やけに独身率が高いし)。
美人もあんまりいいことないのかもしれない。ブスよりはマシだろうけど。

「見た目がいい男」がいちばん得かもしれないな。
モテるし、優秀そうに見られるし、あまり妬まれないし(男もイケメンが好きだ)。

「美人ならではの苦労」は聞くけど、「イケメンならではの苦労」なんてぜんぜん聞かないもんなあ。

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2019年3月22日金曜日

ラサール石井さんに教えてもらえ!


もう十年以上前、何の番組だったかも忘れたが、テレビで教育についての番組をやっていた。

「子どもたちに大人気の先生」のVTRが流れた。
小学校の教師で、ダジャレを言ったり、変な顔をしたりして、授業中は爆笑の連続。
子どもたちから大人気、そのクラスは学級崩壊とは無縁。勉強嫌いの子どももちゃんと授業を聞くと評判になって、今では他の学校からも多くの教師が視察に来る……。
という内容のVTRだった。

それを見ていた芸能人たちが口々に言う。
「すごくいい先生」
「こんな先生の授業を受けたかった」
「みんながこんな授業をやってくれたらいいのに」

そんな中、スタジオにいたラサール石井氏がこんなことを口にした。
「あのクラスの子どもたちが好きになってるのは勉強のおもしろさじゃなくて先生のおもしろさだと思う。先生の仕事は笑わせることじゃなくて勉強のおもしろさを伝えることだ」

するとその場にいた芸能人たちが言った。
「ふつうは勉強なんて好きにならないよ」
「勉強はおもしろくないけどやらなきゃいけない。だから子どもたちを授業に集中させるだけでいいじゃない」

ラサール石井氏は反論した。
「いやそんなことはない。勉強は本来おもしろいものだ」

すると誰かが言った。
「ラサールさんは勉強ができるからね」

それでその話は終わりになった。

ラサール石井氏の悔しさが、ぼくにも理解できた。



何も言い返さなかったラサール石井氏に代わってぼくが言ってやりたい(言ったのかもしれないけど少なくとも放送はされなかった)。

そうだよ、勉強できるからだよ! だから知ってるんだよ!

勉強できるようにさせたいなら勉強できる人の言うことを聞け! ラサール石井さんに頭を下げて教えを乞え!

おまえは英会話を学ぶときに「英語をまったく話せない人がおすすめする教材」を選ぶのか!
「勉強嫌いの子が選ぶ、いい授業をする先生」なんてそれと同じだぞ!



ぼくは、ラサール石井氏の意見に全面的に賛同する。勉強は楽しい。

ぼくも勉強がよくできた。授業についていけないという経験をしたことがない。
だから「勉強ができる人はそうでしょうけど」と言われたら少したじろいでしまうけど、それでもきっぱりと言いたい。勉強は楽しい、と。

たしかに、勉強ができるから勉強を楽しめるのかもしれない。だが逆もまた言える。勉強を楽しいと思うから、勉強ができるのだ。
サッカーが上手な子がサッカーを好きになり、サッカーを好きな子がサッカーの練習をして上手になるように。


小さい子どもほぼ例外なく身体を動かすのが好きだ。隙あらば外で走りまわろうとする。
運動が得意とか苦手とか関係ない。外でおにごっこしようというとみんな大喜びする。

それが成長するにつれ運動嫌いになってゆくのは、やりたくもない動きを強制されたり、できないことをバカにされたりするからだ。
「体育の授業は嫌いだったけど、身体を動かすのは好き」という人は多いはずだ。

勉強もそれと同じだ。
やりたくないことをやらされたり、できないことを笑われたりするから嫌いになるのであって、勉強は本来楽しいものだ。

わからなかったことがわかるようになる。こんな楽しいことがあるだろうか?



もちろん、「勉強が楽しい」というのと「学校の勉強が楽しい」のはまた別だ。

恐竜の名前を覚えたり、新幹線についていろんなことを知っていたり、アイドルについて詳しかったり、自分の興味のあることには興味を見いだせても、学校の勉強に魅力を感じない人は多いだろう。

でもそれは、勉強の先にある世界を知らないからだ。
ぼくは九九が嫌いだった。なんでこんなの覚えなくちゃいけないんだ、と思っていた。でもやらないといけないから嫌々覚えた。

高校数学は楽しかった。確率や数列の問題を解くのは楽しかった。解法を覚えるたびに世界の見え方が広がる気がした。
もしも小学生のとき、九九を覚えるのがめんどくさいといって算数を学ぶことを投げ出していたら、この境地にはたどりつけなかっただろう。


学んだことではじめて見えてくる世界というのが存在する。
うちの娘にカタカナを教えようとしたとき、「ひらがなが読めるんだからもういいやん」と言われた。

大人なら誰しも「カタカナの読み書きができなくても何も困らないよ」とは思わない。
それは、カタカナが読める世界を知っているからだ。でもカタカナを学ぶ前の子どもにとっては、カタカナを学ぶことに価値は見いだせないのだ。

井戸から出たことのない蛙には、井戸の外がどうなっているのかわからない。
出てみてはじめて、周りにたくさんの池や沼やべつの井戸があることがわかる。

今では娘もカタカナを読める。もう「カタカナなんかいらないよ」とは言わない。カタカナが読める世界の楽しさを知ったから。

「学ぶことで世界が広がる」という経験をたくさんすることで、学ぶことが楽しいことに気がつく。
学校の勉強というのはそれに気がつくための練習だ。社会に出てから古文が何の役にも立たなくてもいい。古文の学習を通して「学ぶことで世界が広がる」という経験をしたのなら、十分すぎるほどの成果は出ている。



教育者の仕事は、「学んだら新しい世界が見えた」経験をたくさんさせることだ。
「学んだらご褒美をあげましょう」「学ばないと叩くぞ」といって無理やり学ばせることではない。
目的は井戸を登らせることではなく、「アメもムチもなくても自分で登りたくなる」ようにさせること。

学んだからといって必ず世界が広がるわけではない。
学んだものの新しいものは何もなかった、ということもよくある。しかしそれだって学んでみるまでわからない。

失敗しても、成功体験を多く持っていればまたチャレンジできる。
本好きはつまらない本をたくさん読む。映画ファンはくそつまらない映画をたくさん観る。数多くの駄作に触れないといい作品に出会えないことを知っているから。


教師がダジャレや顔芸で子どもの注意を惹きつけること自体は悪いことではない。
しかし問題はその後、どうやって学習のおもしろさを伝えることだ。笑わせることが目的化してはいけない。

ってことが言いたかったんですよね、ラサール石井さん!

え? ぜんぜんちがう? あっ、そうですか。すんません。

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2019年3月20日水曜日

【読書感想文】「人とはちがう特別な私」のための小説 / 村田 沙耶香『コンビニ人間』

コンビニ人間

村田 沙耶香

内容(e-honより)
「いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて…。現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作。

聞くところによると、太宰治を好きな人は「太宰のこの気持ちを理解できるのは自分だけだろう」とおもうものらしい(ぼくはまったく感じなかったけど)。

「生きづらさ」を抱えている人の気持ちを的確に表現したのが太宰の魅力で、けれどそれは「自分では特別なものだとおもっているけれどわりと普遍的なもの」であって、だからこそ太宰は今も一定数の支持を集めている。

穂村弘氏のエッセイにも同じものを感じる。
そして、この『コンビニ人間』も同じ系統の小説だ。

多くの人が「自分だけが特別に苦しんでいる」とおもっていること(つまりほんとは特別でもなんでもない)を『コンビニ人間』は見事に作品化している。
「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いてるよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」
「なんで? せっかく死んでるのに」
 私の疑問に、母は絶句した。
 私は、父と母とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった。父は焼き鳥が好きだし、私と妹は唐揚げが大好きだ。公園にはいっぱいいるからたくさんとってかえればいいのに、何で食べないで埋めてしまうのか、私にはわからなかった。
 母は懸命に、「いい、小鳥さんは小さくて、かわいいでしょう? あっちでお墓を作って、皆でお花をお供えしてあげようね」と言い、結局その通りになったが、私には理解できなかった。皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。「綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ」などと言っている光景が頭がおかしいように見えた。
ここまで人の気持ちがわからない人はめずらしいにしても、「人が悲しんでいるところで悲しめない」とか「自分にとってはあたりまえの疑問を口にしただけなのに非常識だと言われる」なんて経験は、多かれ少なかれ誰しも持っているだろう。

ぼくはおじいちゃんやおばあちゃんが死んだとき、ちっとも悲しくなかった。「そうか、もう会えないのか」とおもいつつも「まあ順番的には当然そうなるよね」というぐらい。
自分が中学二年生のときに三年生が卒業してもちっとも悲しくないのと同じだった。

ぼくの母は、花を飾ったり植えたりする人の気持ちがまったく理解できないといっていた。
でも植物を育てることは好きでサツマイモとかゴーヤとかの食べられる植物は育てている。
花を美しいと感じない、ただそれだけ。

そんなふうに、みんな「あたりまえの常識」とはちょっとずつちがう価値観を持っていきている。
その「ちょっとちがう部分」を『コンビニ人間』は巧みにくすぐってくれる。



 いつまでも就職をしないで、執拗といっていいほど同じ店でアルバイトをし続ける私に、家族はだんだんと不安になったようだが、そのころにはもう手遅れになっていた。
 なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。
マニュアルに従うことの心地よさ、というのは少しわかる。

学生時代、家族経営のお好み焼き屋でアルバイトをした。ずっとなじむことができず、三ヶ月でやめてしまった。
「自分で考えて動け」と言われ、自分がこうだとおもう行動をとると「勝手なことをするな」と言われた。店の人は勤務中は厳しいのに、仕事が終わると妙になれなれしく「お父さんはどんな人なの」「慣れない一人暮らしで困ってることない?」と話しかけてきた。たぶんアルバイトのことも「家族同然」におもいたかったのだろう。ぼくにはそれが耐えられないぐらい居心地が悪かった。

その後でアルバイトをしたレンタルビデオ屋は、行動がすべてマニュアルで決まっていた。
返却作業、レジ、清掃、入荷や返品の処理。ひとつひとつにルールがあり、水曜日の20時になったらこれをする、と決まっていた。
マニュアルをおぼえるのはたいへんだったが、おぼえてしまうとすごくやりやすかった。
そして新たな発見があった。マニュアルに従ってやると、ふだんならできないこともできてしまうということだ。

お好み焼き屋でバイトをしていたときは「いらっしゃいませー!」と大きな声を出すのが恥ずかしかった。それはぼくがぼくだったから。
でもレンタルビデオ屋でマニュアルに沿って動いているときは「いらっしゃいませー!」がスムーズに言えた。気に入らない客にも笑顔で「ありがとうございました!」と頭を下げることもできた。自分ではない、"店員"という役になりきっていたからだろう。

ふだんは引っ込み思案な北島マヤがガラスの仮面をかぶることでどんな人物にもなれるように、マニュアルにしたがって行動することで店員らしいふるまいが自然とできるようになるのだ。
衣装を着てメイクをしたほうが役に入りやすいように、マニュアルがあったほうが店員になりやすい。
マニュアル通りの接客は人間の心が感じられないなどというが、むしろ心(みんなと同じ心)を持たない人に心を持たせてくれる装置がマニュアルなんじゃないだろうか。

社会の歯車になんかなりたくねえよ、という人もいるが、社会という機構のパーツとなることがむしろ心地いいひともいるのだ。
むしろそっちのほうが多数派なのかもしれない。



へそまがりなので話題になった本はあまり読まないのだけれど、『コンビニ人間』はすごく評判がよかったので読んでみた。


うん、おもしろい。
自分とはぜんぜんちがう人間なのに、ふしぎと共感できる。

「人とちがう特別な私」のための居場所をつくってくれるような小説だ。
この小説が芥川賞を受賞して売れている、ということこそが「人とちがう特別な私」は特別でもなんでもない、という証左なんだけどね。

「人とはちがう特別な私」であるぼくも、やっぱり共感した。
自分を特別扱いしたままで居場所を提供してもらえるんだから、こんな気持ちのいいことはない。


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2019年3月19日火曜日

【読書感想文】盗人にも三分の理 / 斉藤 章佳『万引き依存症』

万引き依存症

斉藤 章佳

内容(e-honより)
被害総額1日約13億円!なぜ繰り返す?どうすれば止められる?自分や家族が、いつかなるかもしれない。依存症の専門家が解き明かす、万引き依存の実態。

万引き依存症クリニックのスタッフとして依存症治療プログラムに携わっている著者による、万引き依存症の解説。

万引き依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ、どんな人が万引き依存症になりやすいか、万引き依存症になるには家庭に問題があることが多いのでそっちを解決しないといけない……など。
 面白いことに、彼らが言うことはだいたい似通っています。一定のパターンがあるのです。次に挙げるのはクリニックに通院する人たちから聞いた認知の歪みのうち、何人もに共通するものをまとめたリストです。
  • どうせ買うつもりだったんだから、盗ってもいい・たくさん買っているんだから、ちょっとぐらいは盗っていいだろう
  • 私が万引きをするのは、ギャンブルをする夫のせいだ
  • レジが混んでいるから、お金を払わずに店を出よう
  • このお店は死角が多いレイアウトだから、盗ってしまう
  • お店の棚が、盗ってくださいと言わんばかりの配列だから万引きした
  • このお店は儲かっているのだから、少しぐらい盗っても許される
  • 今週は仕事でイヤなことがあったけどがんばったから、万引きしよう
  • 新商品や限定商品は買って使う前に試しておきたいから盗ってもいい
  • 今までたくさん買い物をしてお金を落としてきたから、今日ぐらいは盗んでもいい
  • もっとひどい万引きをやっている人もいるし、私が盗むぐらいはたいしたことない
  • 今月は出費が多かったから、盗むことで収支のバランスがとれるからいいだろう
  • ここのオーナーは、きっと私に万引きしてもらいたいに違いない
  • ここのGメンはぜんぜん見ていないから、少しぐらい盗んでもバレない
  • 私の人生、損ばかりだから盗っていい
  • バレたら、買い取ればいい
どれも被害店舗が聞けば卒倒しそうなほど、勝手な言い分ばかりです。彼らは心からそう思っているので、お店のバックヤードに連れていかれたとき、従業員を前にして大真面目に右のようなことを訴えます。
こんなことを主張する人間は、どう考えたってまともとはおもえない。たしかに治療が必要だとおもう。


ぼく自身は身近に万引き依存症の人がいないこともあって(知らないだけかもしれないが)「万引きをするやつなんてクズ」としかおもっていなかったが、この本を読んで万引き依存症への理解が深まった。

なるほどねえ、病気だから自分の意志だけじゃあどうにもならんもんなんだねえ……。

とおもいつつも、ぼくは言いたい。
「ふざけんな」

この本を読んだ後でも、「万引きをするやつなんてクズ」という気持ちに変わりはない。



この本には、万引き依存症はアルコール依存症やギャンブル依存症と同じ治療が必要な病気だと書かれている。

だがそこを一緒にしていいのか?
アルコールや公営ギャンブルはそれ自体が違法ではないので、ほどほどの距離をとってつきあう分には何の問題もない。
けれど万引きは規模の大小にかかわらず犯罪だ。しかも直接の被害者がいる。

アルコール依存症やギャンブル依存症の人には同情できる面もあるが、万引き依存症や痴漢依存症の人にはまったく同情できない(ちなみにこの著者は『男が痴漢になる理由』という本も書いている。未読)。

著者は万引き依存症の人に同情的だ。
支援プログラムをする立場からしたら当然かもしれない。
が、そのスタンスにどうも納得がいかない。

著者にも「たかが万引き」という意識があるんじゃないのか?

世の中にはストレスが溜まると通り魔をする人間がいる。見ず知らずの人をナイフで刺し、ときには命を奪う。
レイプ依存症としか言いようのない人間もいる。

そういう人間にも「通り魔依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ」「レイプ依存症になるには家庭に問題があることが多いのでまずそっちを解決しないといけない」と言えるか?
通り魔に家族を殺された人がそんなたわごとを聞いたら、ふざけんなと激怒するだろう。

万引き依存症も同じだ。
著者の主張を聞いていると、まるで「彼らもある意味被害者なのです」と擁護しているようにおもえてしまう(そうは書いてないけどね。でもそう言われているようにおもえる)。
万引き依存症の人間は100%加害者だ。もう一度いう、100%加害者だ。

万引き依存症になる背景には、たしかに家族トラブルやストレスなどの他の原因があるのかもしれない。
だからといって罪が軽減されるわけではない。「手厚いサポート」をするとしてもそれはちゃんと刑を受けて罪を償った後の話だ。
「夫が横暴なので夫を刺してしまいました」ならまだ情状酌量の余地もあるかもしれないが「夫が横暴なので近所のスーパーで万引きしました」は、まともに取り合う理屈ではない(たとえ本人が本気でそう思いこんでいたとしても)。

「万引き依存症を放っておくと社会的コストが増すので治療させましょう」という主張には大いに納得できるけど、
「万引き依存症の人たちもまたさまざまな事情で苦しんでいるんです」には「知らんがな」としかおもわない。

被害店舗のことを考えたら「家庭に事情があるから」なんて弁護はとても口に出せないだろうに。



結局、万引きをくりかえす人間も、その治療をサポートする人にも「たかが万引きぐらい」という意識があるのだろう。

だから万引きは病気だから止められないと言いつつ、警察署に強盗に入ったりはしない。
ちゃんと「ここならバレない」「たかが万引き」「もし捕まっても万引きだったら刑罰も軽い」という計算がはたらいているのだ。

極端な話だけど、「万引き依存症だからどんなにやめようとおもっててもやっちゃうんです」と言っている人だって「盗みをはたらいたものは問答無用で腕を切り落とす刑に処す」だったらやらないとおもうんだよね。

刑罰が軽ければ病気だからやめられない、でも刑罰が重ければやらない。ずいぶん都合のよい病気でございますねえ、と嫌味のひとつも言いたくなる。



万引き依存症を止めるには、罪の厳罰化、万引きの通報コストを減らすことなどがいちばんだとおもう。

この本の巻末には、著者と万引きGメンの伊東ゆう氏との対談が掲載されている。正直いって、本文よりもこの対談のほうがよほど納得できた。
伊東ゆう氏は、万引きは加害側と被害側のバランスのとれていない犯罪だと語っている。

よほどの常習でないかぎりは起訴されない、精神病や認知症など他の症状があるとなおさら、起訴されても微罪、万引きを発見して捕まえるにもコストがかかる、捕まえて警察に通報すると現場検証などに数時間とられる。

これでは、数百円ぐらいのものを万引きされたぐらいだと「捕まえるより盗まれるほうがマシ」ということになってしまう。
しかし一件あたりの被害額は大きくなくても、積み重なれば大きな額になる。万引きが原因で倒産する店舗もある。万引き対策に費やすコストもばかにならない。

ぼくは書店で働いていたので、万引き対策のむずかしさはよく知っている。
毎日のように盗まれる。防ごうとおもえば人を増やすしかないが、そうすると人件費のほうが高くつく。

店側の負担をゼロに近づけた上で万引き犯をしょっぴけるようになるといいとつくづくおもう。
万引き依存症の人の気持ちに寄りそうサポートよりも「万引きが見つかったら盗んだものに関わらず50万円を店舗に払わせる法律」のほうが、万引きを減らすにはずっと有効だろう。

まあ万引きが減っても、万引きをくりかえしていたやつらは他の犯罪に向かうだけなんだろうけど。



ぼくがここに書いたようなことは、専門家である著者は当然わかっていることだろう。

万引き犯は身勝手な犯罪者で、万引きされた人のほうが百倍気の毒
そんなことは百も承知だろう。
自明なことだからわざわざ書かなかったのかもしれないけど、被害店舗の視点がほとんどないことにはやっぱり疑問を感じる。

加害者側の立場に立つことも必要だ、と主張しすぎているがために「めちゃくちゃ加害者寄りの本だな」とおもえてしまう。

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2019年3月18日月曜日

【読書感想文】アメリカ大統領も総理大臣も怒っている / 鷲田 清一・内田 樹『大人のいない国』

大人のいない国

鷲田 清一  内田 樹

内容(e-honより)
「こんな日本に誰がした」犯人捜しの語法でばかり社会を論じる人々、あらゆるものを費用対効果で考える消費者マインド、クレーマー体質…日本が幼児化を始めたターニング・ポイントはどこにあったのだろうか。知の巨人ふたりが、大人が消えつつある日本のいまを多層的に分析し、成熟への道しるべを示した瞠目の一冊。

哲学者で大阪大学の総長でもあった鷲田清一氏と、フランス文学者(というか思想家というか文筆家というか武道家というか)の内田樹氏の対談+二人がいろんなところに書いた文章の寄せ集め。
一応テーマは「大人のいない国」なのだが、あまりまとまりはない。ほとんど関係のない話も多い。

全体を貫く明確なテーマみたいなものはないんだけれど、まあそれでもいいじゃないか、という気もする。どんなことでも白か黒かではっきりさせようというのは"大人"の態度じゃない。

内田  相互依存ということをネガティヴな意味でとらえてますね。このあいだ、若い人に「折り合いをつけることの大切さ」を説いていたら、「それは妥協ということでしょう」と言われた。妥協したくないんだそうです。「妥協」と「和解」は違うよと言ったんですけれど、意味がわからないらしい。「交渉する」ということがいけないことだと思っている人がたくさんいますね。ストックフレーズ化した「正論」をべらべらしゃべることの達者な若者に、「ちょっとネゴしようよ」と言うと、「大人は汚い」とはねつけられる。自分たちだってもういい大人なのにね。彼らにしてみたら、自分は「正しい意見」を言っているのに、何が悲しくて「正しくない意見」と折り合わなきゃならないんだ、ということでしょうね。その理屈がわからない。「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割くらいは実現するよ」と説明してみるんですけれど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。
鷲田  何を恐れているんでしょうねえ。
内田  和解することと屈服することは違うのに。世の中には「操作する人間」と「される人間」の二種類しかいないと思っている。
鷲田さんと内田さんは「最近の日本には成熟した大人がいない」と嘆く。
こういう語り口は好きじゃない。「最近の日本は……」というだけで聞く気がなくなる。だったら成熟した市民がたくさんいた時代っていつのどこなんだ、何をもってそう断定できるんだ、と訊きたくなる(これはこの本の中で「日本人が劣化した」と主張する人に内田氏がぶつけるのとまったく同じ論理だ)。

まあそれはそれとして、白黒つけたい人が多いなあということはぼくも同感だ。
そんなに何もかもはっきりさせなくてもいいじゃないか、もっとあいまいでいいじゃないか、と。

政治を見ていてもそうだ。
まるで賛成か反対のどちらかしかないような言説が多い。
賛成だ、反対だ、だったら採決で決めよう。

政治ってそういうものじゃないでしょ。
多数決で決めるなら政治家いらない。今はインターネットでかんたんに投票できるんだから全部の法案を国民投票で決めればいい。

折り合わない意見をすりあわせてほどほどのところで調整をつけるのが政治だ。お互い納得いかないでしょうがこのへんで手を打ちましょう、と。


「水面下の交渉」が悪いものであるかのように言われるが、それもちがうとおもう。
水面下の交渉が良くないとされるのは報道機関の都合だ。自分たちの知らないところで物事が決まったら報道機関は商売あがったりだから非難するけど、それはきわめて健全なことだ。
ぼくらが家庭やサークルや仕事でルールを決めるときは投票なんかしない。話し合いや阿吽の呼吸で決める。家庭内で投票をしなきゃいけないとしたら、その時点でもうだいぶこじれてると考えていい。

国会で議題に上がる頃にはすでに事前の根回しによって大勢が決している、というのが本当の政治だとぼくはおもう。
国会で丁々発止の論戦、なんてのはパフォーマンスにすぎない。

社内の会議で「まだ何も決まっていません。さあ今からみんなで話し合って決めていきましょう!」と提案するのは、仕事ができないやつだ。
優秀な人間は会議がはじまる前に各方面にキーマンに話をつけて、大まかな道すじを作っておく。会議では最終的な確認と微調整だけ、ということが多い。これこそが政治だ。

「水面下での交渉」や「ほどほどのところでの調整」に長けた人を選ぶのが間接民主制における選挙だ
選挙は正しい人」を選ぶものではない。


本来、採決で決めるのは最終手段のはずなのに(そうじゃなかったら議会の意味がない)、どうもそれが唯一絶対の方法になっている気がしてならない。
「決をとるという行為は、一見個人の意思を尊重しているように思える。
 しかし!! 実は少数派の意志を抹殺する制度に他ならない!!」
ってトンパも言ってたじゃない(『HUNTER×HUNTER』より)。



この本の中では、「白黒はっきりつけないこと」「首尾一貫していないこと」「正解を決めないこと」の重要性がくりかえし語られている。
 今、結婚に際して多くの若者たちは「価値観が同一であること」を条件に揚げる。二人で愉快に遊び暮らすためにはそれでいいだろう。だが、それは親族の再生産にとっては無用の、ほとんど有害な条件であるということは言っておかなければならない。というのは、両親が同一の価値観、同一の規範意識を持っている完全に思想統制された家庭で育てられた子どもは、長じても教えられた価値観に整合する事象以外のすべてを「存在するはずのないもの」あるいは「存在してはならないもの」として意識から排除するようになるからである。
 スターリンや金正日の統治が非人間的であるのは彼らが「間違った社会理論」に基づいて社会を構築したからではない。「正しい唯一の社会理論」に基づいて社会を構築したからである。そこでは、公式の価値観に整合しないもの(例えば支配者に対する異議申し立て)は「存在しないもの」として無視されるか、「存在してはならないもの」として排除される。
上に引用した文章は内田さんのものだが、鷲田さんも「対立の外に身を置く」ことの重要性を説いている。


うちの娘(五歳)と話していると、物事をすごくシンプルに理解したいんだなあと感じる。
「絵本に出てくるこの人はいい人?」「あれは悪いことだよね」「この前は〇〇だと言ってたじゃない」と。

でも、フィクションの中ならともかく、現実はたいていそうシンプルではない。
いい人が悪いことをすることもあるし、その逆もある。良かれとおもってやったことが悪い結果を招くこともある。時と場合によって同じ人がまったく正反対のことを言うときもある。

五歳には「清濁併せ呑む」なんて芸当がないから、物事をなんとかシンプルに切り分けて理解しようとしているんだろう。

なんでも単純化してしまうのは五歳だけじゃない。大人にも多い。
議論になるような出来事は、清濁併せもっている。戦争も原発も自衛隊も死刑も増税も医療も介護も、みんなメリットデメリットがある。

自宅の前に原発つくるって話なら原発稼働に反対するし、毎日停電が起きますよって言われたら原発稼働停止はちょっと待ってよっておもう。
それで「さあ原発稼働に賛成ですか、反対ですか、どっちか一方に決めてください」といわれても困ってしまう。
明確に割り切れるものならそもそも議論にならない。「タバコのポイ捨て、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」と訊かないでしょ。

ゼロか百かしかないのはきわめて幼稚で、大人のふるまいじゃない。
だから新聞社やテレビ局はまず「現政権を支持しますか? その理由を次の中から選んでください」っていう単純な世論調査をやめたらいいとおもう。
あれで明らかになるのは子どもの意見だけだから。



子どもと大人のいちばんの違いは、自分の感情をいかにコントロールできるかという点だとぼくはおもう。

以下、内田さんの文章。
 だけど、ものすごく怒っている人がいると、その人にはきっと怒るだけの確かな根拠があるんだろうと思ってしまう。だから、とりあえず自分は黙っても、その人の言い分を聞こうということになる。
 なぜ怒っている人間の言うことをとりあえず聞くかというと、怒っている人間というのは集団にとってのリスク・ファクターだからです。
 怒り狂って我を忘れている人間というのは、とんでもない行動をする恐れがある。公共の福利を損なうような行為を怒りにまかせてしてしまう可能性がある。だから、ものすごく怒っている人間がいた場合は、とりあえずその人の怒りを鎮めるということが集団での最優先課題になる。誰かが怒り出したら、とりあえずほかの仕事はストップして、その人の怒りを鎮めることに優先的に資源を分配しようということになる。考えてみれば当然なんです。でも、みんなそれに味をしめてしまった。とにかくはげしく怒ってみせれば、みんなが自分を気づかってくれる。そういうふうにみんなが思い出した。だから、「誰がいちばん怒っているか」競争になってしまった。政治家だけじゃないです、テレビのコメンテーターとか、新聞の論説委員でも、「切れた」人の発言がとりあえず傾聴される。みんな怒りを政治的に利用しようとしているから怒りの連鎖が止らない。
これねえ。なんとかならんもんか。
怒りをあらわにするって、いちばん子どもっぽいふるまいじゃないですか。

うちの幼児なんか、毎日めちゃくちゃ怒ってますよ。

風呂に入れと言われたら「今入ろうとしてたのに!」と怒り、脱いだ服を洗濯カゴまで持って行けと言われたら「わかってる!」と怒り、そろそろ帰ろうと言われたら「いやだ!」と怒り、腹が減っては怒り、眠くなっては怒り、「眠いんだから早く寝ようね」と言われては「眠くない!」と怒っている。

ふつうの口調で言えばいいのに、全部怒る。怒ることで話を聞いてもらおうとする。
だからぼくも妻も、娘が怒っているときは放置する。無視して他の話をする。
「怒ることで他人をコントロール」しようとしても無駄だと教えるために。他人に要求を伝えたいのなら、むしろ落ち着いた語り口を採用しなければならない。

なのに、政治家や記者など「立派な立場」とされるポジションにある人が子どものように怒っている。
それも「私を侮辱するのか!」とかしょうもない理由で。それって幼児の「わかってるのに言わんといて!」と同じレベルだよ。
失礼な態度をとられたら、より慇懃に接するのが大人のふるまいだろうに。

ぼくが前いた会社の社長もこういう人だった。
どうでもいいことでスイッチが入っていきなりキレる人。
そうすると周囲の人は「あの人はやっかいものだから慎重に扱おう」と接する。それを本人は「大事に扱われている」と勘違いしちゃうんだろうなあ。爆弾を慎重に扱うのは爆弾に敬意を持っているからじゃないのに。


ぼくは、すぐ怒る人のことをばかだとおもっている。知性的な人間はそうそう怒らない。ほんとうに怒っているときこそそれを表に出さない。

成熟した大人の数は昔も今も少なかったんだろうけど、昔はまだ「怒りをあらわにするやつはばかだ」という認識が知識層の間にはあったんじゃないかな。
だからこそ「バカヤロー解散」なんてのが名前として残っているんだろう。総理大臣なのに感情的になったぜ、あいつばかだぜ、ってことでああいう名前をつけたんじゃないのか。

だけど今はえらい人がすぐ怒る。
アメリカ大統領も総理大臣も怒っている。「戦略的に怒ったふりをしてみせる」とかじゃなく、ただ怒りをあらわにしている。

こういう非知性的なふるまいが許容されているのはよくない。
ばかなことをしている人は、ちゃんとばかにしなければいけない。

感情のおもむくままに怒っている人はスーパーの床にころがって駄々をこねている幼児といっしょなのだから、ちゃんと言ってあげないといけない。
「そんなこという子はうちの子じゃありません!」

2019年3月16日土曜日

差別主義者判定テスト


先日、住んでいる市からアンケートが届いた。
ランダムに選ばれた人に送っているのだと書かれていた。
多くの人の中からぼくが選ばれた、というのがなんとなくうれしい。御礼ということでボールペンも同封されている。

アンケートに回答していると「なるほど。今回のメインテーマはLGBTなのだな」と気づいた。
「死にたいと思ったことはありますか?」とか「世帯年収は?」といった設問もあるが、LGBTについて問われている設問がやたらと多い。
なるほど、これからどんどん改革をしないといけないホットなテーマなので、それにあたって意識調査をしているわけだな。

ぼくはリベラル派を自称している。
自分自身は異性愛者だが、LGBTの人たちにも住みやすい世の中になればいいと思う。

 同性間での婚姻を認めることについて …… 賛成

 同性カップルについてどう思いますか …… ぜんぜんイヤじゃないよ

 職場の人や友人がトランスジェンダーだったらどうですか …… ぜんぜんいいじゃない。ぼくは差別しないよ!

ってな感じで答えていたのだが、「自分の子どもが同性愛者だったらどう思いますか?」という設問ではたとペンが止まった。

むむむ。それは……イヤ……かもしれない。
いや、正直に言おう。イヤだ。



同性婚に反対する人は、頭の固い古い人間だとばかにしていた。
「同性愛者は生産性が低い」とか「同性愛者ばかりになったら国が滅びる」とかいう政治家を、「現代の感覚にアジャストできない老人」とあざ笑っていた。
自分はちがう、性嗜好や性同一性障害で人を差別したりしないと思っていた。

しかし自分の子どもがそうだったら、と思うとやっぱりイヤだ。
イヤといっても矯正できるものではないので結局は受け入れるしかないのだが、とはいえ心から「そのままでぜんぜんいいよ」と言えるかというと自信がない。
将来娘が女同士で結婚したいといってきたら心からおめでとうと言えるだろうか。わだかまりはないだろうか。「やっぱり男の人じゃだめなの?」と訊いてしまわないだろうか。

自分はリベラルだ、差別意識はない、と思っていても結局は他人事としてとらえているからなんだろう。
いざ自分のすぐ近くのこととして直面すると、「どんな人でも受け入れるよ!」と広げていた手をおろしてしまいそうになる。

自分の娘が結婚相手として連れてきた人が同性だったら、障害者だったら、被差別部落地域に住んでいたら、重い病気を抱えていたら、生活保護受給者だったら。
そうでないときと同じスピードで「おめでとう!」と言えるだろうか。
「差別するわけじゃないけど他の道を選んだほうが苦労しなくていいんじゃない?」とおためごかしに言ってしまわないだろうか。
自信がない。

アンケートのたったひとつの設問が、ぼくの中にあった差別意識を鮮明に暴きだした。

2019年3月15日金曜日

【読書感想文】おもしろすぎるので警戒が必要な本 / 橘 玲『もっと言ってはいけない』

もっと言ってはいけない

橘 玲

内容(e-honより)
この社会は残酷で不愉快な真実に満ちている。「日本人の3人に1人は日本語が読めない」「日本人は世界一“自己家畜化”された民族」「学力、年収、老後の生活まで遺伝が影響する」「男は極端、女は平均を好む」「言語が乏しいと保守化する」「日本が華僑に侵されない真相」「東アジアにうつ病が多い理由」「現代で幸福を感じにくい訳」…人気作家がタブーを明かしたベストセラー『言ってはいけない』がパワーアップして帰還!
博識の人のとりとめのないおしゃべりを聞いているという感じ。
話のひとつひとつはすごくおもしろい。
でも全体として見ると少し散漫。
「いろんな本のおもしろいところを紹介するブックガイド」として読んだらすごくいい本だとおもう。


「知能は遺伝子によってある程度決まる。人種によって知能は(平均で見ると)違う」
というのが全体を通しての主張なのだが、そのあたりのことは前作『言ってはいけない』にも十分書いてあったので、『言ってはいけない』を読んだ人にとってはさして驚きはない。
まあそりゃ人種によってばらつきはあるだろうね。肌の色だって身長だってちがうんだから、知能だけが同じなはずがない。

ただ「日本人(を含む東アジア人)は知能が高い傾向にある」ってのは事実でも、「日本人はみんな優秀」は事実ではない
でも、そこをごっちゃにしてしまう人は決して少なくない(これこそが日本人みんなが知能が高いわけではないことの証左だ)。

だから、橘さんの言っていることは間違いではないんだけど「すごく誤解を招きやすいこと」を言っている。
橘さん自身は自分の発言が誤解を招くこともわかってて言ってるんだろうけど、あえて誤解の招きやすいことを言う手法にはちょっと疑問も感じてしまう。

読解力がなくて誤解したほうが悪いんだけど、「読解力の低い人が誤解するであろうこと」を強い口調で語るのもどうなんだろう。
ガソリンを撒いておいて「悪いのは火をつけたやつでしょ。火をつけるやつがいなければ火事にはなりませんよ」と言うようなもので。

まあこの人の場合はずっとそういう露悪的な立ち位置で商売しているわけだし、それがおもしろいんだけどさ。



『言ってはいけない』でも述べたが、行動遺伝学が発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が一般に思われているよりもずっと高いことではなく(これは多くのひとが気づいていた)、ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。――音楽や数学、スポーツなどの「才能」だけでなく、外交性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子どもが親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。
 ところが子育ての大切さを説くひとたちは、親の努力によって子どもの運命が決まるかのような主張をする。これがほんとうだとすれば、子育てに成功した親は気分がいいだろうが、「失敗」した親は罰せられることになる。
 どんな子どもも親が「正しい教育」をすれば輝けるなら、子どもが輝けないのは親の責任だ。「犯罪が遺伝する」ことがあり得ないなら、子どもが犯罪者になるのは子育てが悪いからだ――という理屈もいまでは「言ってはいけない」ことになったので、「社会が悪い」となった。「人権」を振りかざす〝自称〟リベラルが目指すのは、「努力が報われる」遺伝率ゼロの世界なのだ。
このへんの話はすごくおもしろかった。

ふうむ。
「人間はみんな生まれたときは同じ能力を持っている」という主張は一見平等なように見えるけど、「あなたが成功しなかったのはあなたやあなたの親に責任がある」という"完全自己責任論"にもつながりやすい。

「どんな親から生まれたかによってあなたが成功するかどうかはある程度決まっている」というのは残酷なようで、「だったら成功する確率が低い人には手厚いサポートを」という議論につながる。
身体の弱い人に対するサポートがあるように、生まれつき知能の低い人もサポートするわけだ。

「誰でもやればできるさ」は、誰にでもチャンスを認めているようで、じつはかなり残酷な主張だ。それって「できないのはやらなかったから」の裏返しなのだから。

仮にぼくが小さいときから血の出るような努力をしてきたとしても、100メートル9秒台で走れなかっただろう。
それを桐生祥秀選手に「おれは努力したおかげで9.98秒で走れた。おまえが走れなかったのは努力が足りなかったからだ」と言われたらたまったものではない。

しかし教育の場ではわりと日常的にこういう論旨がまかりとおっている。
才能の無い分野で努力するよりは、早めに見切りをつけて自分にあった道を探したほうがいい。
そして残酷なようだけど「どんな分野にも才能のない人」が存在することは認めなければならない。
「人間誰しもどこかしら優れたところはあるんだ」というきれいごとは耳あたりがいいけれど、それこそが人を苦しめる。



本筋とはあんまり関係がないけれど、「人類水生生活説」はなるほどとおもった。
 海洋生物学者のハーディーは、「陸生の大型哺乳類のなかで、皮膚の下に脂肪を蓄えているのは人類だけだ」との記述を読んで、アシカやクジラ、カバなど水生哺乳類はみな皮下脂肪をもっていることに気づいた。だとしたら人類も、過去に水生生活をしていたのではないか。
 このアイデア(コロンブスの卵)を知ったモーガンは、アクア説ならさまざまな謎が一気に解けることに驚いた。
 人類が二足歩行に移行したのは、四つ足で水のなかに入っていくよりも、直立したほうが水深の深いところで息ができるからだ(それに、水の浮力が上半身を支えてくれるから倒れない)。鼻が高く、鼻の穴が下向きなのも、水にもぐるときに都合がいいからだ。体毛がないのはそのほうが水中で動きやすいからで、皮下脂肪を蓄えれば冷たい水のなかでも生活できるし、水に浮きやすくなって動きもスムーズになる。
そういや手塚治虫のなんかの漫画でも似たようなことが描いてあったなあ。
人間は身体的に弱いから、水辺に棲んで敵が来たときは水中に逃げるしかなかった。水中では二足歩行のほうが暮らしやすい。浮力があるし、顔を水上に出さなくてはいけない。赤ちゃんがおぼれないようにするためには手でだっこしなくてはならない。こうして手が発達して、道具を生みだせるようになり……。

これはあくまでひとつの説なので正しいかどうかはわからないけど、納得のいく説ではある。
風呂に入ると気持ちいいのも、水のなかで暮らしていたときの記憶があるからかも……。



人類が(他の哺乳類よりも)攻撃的でない理由、の仮説。
 なぜ人類は、身体的な強さが権力と直結しないように進化したのだろうか。
 ボームの慧眼は、石槍は獲物を倒したり外敵と戦うときのためだけに役立つのではないと気づいたことだ。いまならオモチャにしか思えないかもしれないが、打製石器は人類の歴史では大量破壊兵器に匹敵するイノベーションだった。ひとたびそれを手にすれば、ひ弱な人間も集団でマンモスをしとめることができる。だとすれば、共同体のなかのひ弱なメンバーが身体の大きなボスを殺すのはもっとかんたんだったはずだ。
 こうして旧石器時代の人類は、共同体の全員が大量破壊兵器(打製石器)を保有し、「いつでも好きな時に気に入らない相手を殺すことができる」社会で生き延びなければならなくなった。
だから人類は平等な社会を築くようになったし、徒党を組むために言語や高い知能が必要になった……と続く。
自己中心的な人間や暴力的な人間は殺されたり、排斥されたりして、そうした遺伝子は淘汰された、という考え方だ。

核抑止論とか、アメリカ人が好きな「銃があるからこそ平和が保たれる」みたいな話だね。
逆説的だけど、強力な武器があるからこそ平和的にふるまわなくてはならない。

しかしこれが正しいとしても、平和的な社会というのは裏返せば暴力的な人が得をする社会だ。
周囲がみんな争いを好まず、自分だけが戦闘的であれば、反撃に遭うことなく他人の資源を奪うことができるわけだから。詐欺師にとって「みんながお人好しの世の中」が暮らしやすい世の中であるように。
だから、平和的な社会になったとしても攻撃的な人は一定数存在する。

ということで「平均的に見ると平和と平等を愛する人類」なのかもしれないけど、それは「人類はみんな平和と平等を愛する」とイコールではないんだよねえ。



さまざまな言説をものすごいスピードでどんどん紹介してくのは、刺激的でおもしろい。圧倒的な読書量、そしてわかりやすくかみくだいて説明する力。これだけのことができる人はそう多くない。
全盛期の立花隆氏のようだ。

ただ、橘さんが自分の見解や仮説を述べるあたりは、ちょっと暴走しすぎかなあと眉に唾をつけたくなることが多い。話としてはおもしろいんだけど、話半分に聞いておかないと。
おもしろすぎるので警戒が必要な本、だよなあ。

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2019年3月14日木曜日

SNSでバズるのひええ


はじめて、Twitterでバズるということを経験した。

ツイートから5日経過した時点で、13,000回以上リツイートされ、40,000近い「いいね」がついている。
インプレッション(表示された回数)は180万回を超えている。
ひええ。テレビの不人気な深夜番組だと視聴率1%を切るというから、それよりも見られているわけだ。

人気アカウントの持ち主からしたらめずらしいことじゃないのかもしれないけど、ぼくのツイートなんてふだんは「いいね」が3個ついたら多いぐらいなので、もうすっかりびびってしまった。

はじめは「おっ、なかなか好評だな」とうれしかったんだけど、そのうち通知が止まらなくなり、1秒ごとにリツイートや「いいね」がどんどん増えていくのを見ていると、胃が痛くなってきた。
自分の言葉が自分の身体を離れてひとり歩きしているという感覚。

今回はたまたま毒にも薬にもならぬ内容だったからよかったけど、ぼくは不謹慎なこととか特定の団体批判とか政治色の強いことなんかも書いているので、もしもそういうツイートがここまで拡散していたらと思うとぞっとする。



バズったことで、いろんな発見があった。

まず、けっこうフォロワーが増えること。1日で100人ぐらい増えた。ありがたい。

Twitterから流れてブログ記事を読んでくれる人も増えた。
ぼくは、Twitterをブログの更新告知ツールと位置づけているので、これがいちばんうれしい。

あとツイートに対していろんなコメントがつくのが愉しい。
これが賛否両論だったら精神的に耐えられなかっただろうけど、今回は内容が内容だけにほとんどが肯定的なコメントで助かった。

なんかいろんな人がいろんな解釈をしてくれる。
  • 他人に迷惑をかけないならやってみろ、ってことですね
  • やりたいならやればいいが責任は自分で持てよ、ってことか
  • 実は背中を押してくれる優しいアドバイス
とか。

ぼくが伝えたかったことは 「ぼくのおじさん、こんなおもろい人やでー」 ぐらいだったので(悪口みたいに聞こえたらイヤなので最後にフォローをつけたした)、自分の何気ないつぶやきがいろんな意味に解釈されていくのはおもしろい。
文章から何を読みとるかは読み手の自由だしね。

いちばんおもしろかった反応はこれ(知らない人だけど勝手に引用)。

たしかになあ。
「挑戦してみろよ。自己責任で」だとずいぶん冷たい印象になるよなあ。言ってることは同じなのに。



ちなみにこのツイートに出てくるおじさん、実在する。
以前にこのおじさんのことを書いた記事がこちら。

おじさんじゃないもの


この記事は数十人に読まれただけだったけど(それでもすごくありがたいことなんだけど)、ほとんど同じ内容なのにTwitterだと100万人に見てもらえるんだなー。

2019年3月13日水曜日

【読書感想文】どうして絶滅させちゃいけないの / M・R・オコナー『絶滅できない動物たち』

絶滅できない動物たち

自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

M・R・オコナー (著), 大下 英津子 (翻訳)

内容(e-honより)
厳重に「保護」された滅菌室にしか存在しないカエル、周囲を軍に囲まれて暮らすキタシロサイ、絶滅させられた張本人にDNAから「復元」されつつあるリョコウバト……。人が介入すればするほど、「自然」から遠ざかっていく、自然保護と種の再生テクノロジーの矛盾を、コロンビア大学が生んだ気鋭のジャーナリストが暴く。

動物が絶滅、と聞くと反射的に「良くない!」と思ってしまう。なんとか食いとめなければ、どんな手を使ってでも保護しなければ、と。
だがこの本の著者は問いかける。「それってほんとに必要なことなの?」

どうして動物を絶滅から守らなくちゃいけないんだろう……。



著者は「生物が絶滅してもいい」と主張しているわけではない。
ただ、絶滅しそうな動物を隔離して保護したり、DNAを保存したりして「絶滅を防ぐ」ことに疑問を呈している。
それって絶滅を防ぐことになるの? それで何かをやった気になるだけじゃないの? それよりもっとやるべきことがあるんじゃないの?

たとえば、動物を絶滅から防ぐために人間の飼育下におくことで、かえって環境に適応できなくなってしまうことを挙げている。
 「箱舟」もいつも効果を発揮するわけではない。遺伝的適応度(生殖可能年齢まで生きのびた個体が産んだ子の数によって測定)の損失の発生は、飼育下繁殖の個体群では早く、数世代で生じて子孫が途絶える確率が高い。飼育されている状態だと個体群内部で形質の選択が行われ、この環境下の生存率は上昇するが、野生の生存率は上がらない。とはいえ、そもそもこれらの生物が自然に戻されることがあれば、の話だが。
 大半の飼育下繁殖プログラムの目的は、動物を再導入することだが、飼育下繁殖の動物が、実際に自立した、つまり「野生に」戻ったケースは数えるほどしかない。アメリカシロヅルは、今でも人間のパイロットから移動のしかたを教わらなければならない。両生類になると再導入の成功率は格段に下がる。ある調査では、飼育下繁殖ののちに再導入された58種のうち無事に野生環境で成長したのは18種、そのうち自立できたのは13種だった。
 もっと言えば、飼育下繁殖プログラムで育てた110種のうち、52種はそもそも再導入の予定がなかった。これらの種が生息していた生態系がなくなってしまったのだ。動物を生まれ育った場所で保全する生息域内保全という方法の支持者は、再導入の予定なしに飼育下繁殖を行うことこそが飼育下繁殖において最も致命的だという。絶滅のリスクをできるだけ減らそうとするあまり、環境よりも動物を救うことが主眼になっている。
たとえばカイコガは、長い期間人間によって絹を生産するために飼われてきたため、今では自然界で生きていくことができない。
飼育という環境に適応した結果、自分で餌をとったり敵から逃げたりできなくなったためだ。
佐渡トキ保護センターのような保護施設をつくっても、もともと持っていた性質を失った動物を増やすだけだ。

保護センターの中でしか生きられないのであれば、はたして絶滅から救ったといえるのだろうか。



さらに最近では、動物そのものを保護するのではなく、絶滅しそうな動物のDNA情報だけを保存しておく方法もとられている。
だが、動物の行動はDNAだけで決まるのではない。
 一方、20年以上、飼育下繁殖しているアララが産んだ卵は、巣から取りだされて、確実にひなが孵るようにと保育器に移される。2013年までは、最初の雌は自分で卵を孵化させてひなを育てることが許されたが、現存しているアララについては、抱卵、孵化、飼育を人間が一手に担っている。その結果、アララの文化が一変したという証拠がある。かつては世代間で継承されてきたアララ特有の行動が消滅したのだ。発声のレパートリーは減った。1990年代に飼育下繁殖のアララを自然に還そうと試みたが、ハワイノスリの避けかたがわからなかったらしい。かつては仲間と結束して戦っていたというのに。また、すっかり人間に慣れてしまって自分で餌を探さなくなった。習性を失ってしまったために、野生で生きていくのは不利になるおそれがあった。

もしも地球が爆発して人間が絶滅することになったとする。
そこで、とんでもない技術を持った宇宙人が、人間すべてのDNAを保存する。さらに地球そっくりな環境の星をつくりなおし、保存したDNAをもとに人間を復活させたとする。

復活した人間たちは今と同じ生活を送れるか?
当然ながら答えはノーだ。
言語も文化も知識もすべて失われる。遺伝子には組み込まれていないから。
現代の生活はおろか、狩猟や採集すらできない。ほとんどの人間は生きていくことすらできないだろう。

動物だって同じだ。
DNAの冷凍保存では、非言語的コミュニケーションによって種の間に伝えられていることまで残せない。
そうやって復活させた動物は、復活前と同じものとはいえないだろう。



『絶滅できない動物たち』は話があっちこっちにいくので論旨は決して明快ではないのだが、著者の主張は
「絶滅を防ぐことに意味がないとはいわないが、生きていればいいというものではない、DNAを残せばいいというものではない」
ということだとぼくは受け取った。

絶滅寸前の動物の遺伝子を冷凍保存して未来に残すことは、それ自体が悪ではないけれど、そのせいで「今生きている動物の棲息環境を守る」ことがなおざりにされているのではないだろうか。

だが、棲息環境を守るのはDNAを保存することよりもずっとたいへんだ。なぜなら、われわれの暮らしが制限されるから。
ぼくらは「トキ保護センターをつくります」には同意できても、「トキが棲みやすくするため、あなたはこの土地から出ていってください」には同意できない。
「動物を絶滅から防ごう!」に共感できるのは、「自分に関係のないところでどっかの誰かがやるのはいいよ」と思っているからで、自分の暮らしを犠牲にしてまで守りたいとは思っていないのだ。

結局、「絶滅しそうだからなんとかしなきゃ」ってなった時点で、もうどうしようもないんだろうね。
環境は元に戻せないもの。


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2019年3月12日火曜日

【読書感想文】スリルを楽しめる人 / 内田 幹樹『機長からアナウンス』

機長からアナウンス

内田 幹樹

内容(e-honより)
旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業だが、華やかなスチュワーデスとは違い、彼らの素顔はほとんど明かされない。ならばと元機長の作家が、とっておきの話を披露してくれました。スチュワーデスとの気になる関係、離着陸が難しい空港、UFOに遭遇した体験、ジェットコースターに乗っても全く怖くないこと、さらに健康診断や給料の話まで―本音で語った、楽しいエピソード集。
元・全日空のパイロットによるエッセイ集。
(一応この本の中では「A社」と伏せられているけど、「A社とJALの違いは……」とか書かれていて伏せている意味がまったくない)。

内容紹介文には「旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業」とあるが、少なくともぼくはぜったいにやりたくない職業だ(できないだろうが)。
高いところは嫌いだし、速い乗り物は嫌いだし、車の運転も嫌いだし、睡眠時間はたっぷりほしいし、決断力はないし、責任感もないしで、なにひとつパイロットに向いている要素がないからだ。

だからこそ、こういう本を読むと自分とはまったくちがう人の考え方にふれられるわけで、おもしろい。
 着陸は離陸に比べておもしろい。
 天気の良いときも悪いときもそれなりにおもしろいのだ。たとえば風の強い日、春一番なんて最悪だ。スピード計の針は暴れ回るし、降下率も一定になりきらない。機の姿勢はあおられて定まらず、コースからはすぐに外れる。こんなときは暴れ馬に乗っている気分になる。
 ある程度暴れさせておいて、ズレそうになったら、そっち側を手綱の代わりに舵で押さえる。躊躇するような気配があったら、すかさず拍車の代わりにパワーを当てる。これが上手くいくとたまらなくおもしろい。雨や雪、霧などもそうだ。計器のほんの少しの動きも見逃さず、張り付いたように指示を追いかける。パワーもスピードも機の姿勢にも、一瞬たりとも隙を与えない。目と耳と手と尻とに全神経を集中させる。
スリルを楽しめる人がパイロットに向いてるんだろうな。ぼくなんか臆病だから「今日天気悪いんで出航やめにしませんか」とか言っちゃいそうだもん。

この本の中には「パイロットにはバイクを趣味にしている人が多い」と書いているが、そうだろうなあ。バイク乗りもこういうスリルを楽しめる人だろう。
安全第一主義のぼくにはまったく理解できない。すごいなあとただただ感心するばかり。



V1速度について。
V1速度というのは離陸時の臨界速度のことで、「これより前ならば離陸は中止できるが、これを超えると飛び上がるしかないという、いわゆる離陸直前の決心をしなければならない速度」のことらしい。
 V1速度は天気が悪いときとか、風向きが悪いとか、雪で滑走路が滑りやすいとか、そうした悪条件の場合には路面の摩擦係数を測定し、それに基づいて計算されている。実際のケースで、ほんとうにブレーキの摩擦計算が理論通りになるかというと、これが一○○パーセントとは誰にも言えない。そこは経験を積むことによって、さまざまなケースを頭に入れて操縦する。
 臨界速度直前でトラブルが発生した場合、そのあたりの判断がいちばん難しい。エンジン関係のトラブルなら離陸を中止するが、ブレーキ関係のトラブルなら離陸を続行するという具合だ。なにしろ時速二五〇から二六○キロ前後の速度で前を見ながら計器を見て、一秒の何分の一かで認して、判断して操作するのだから。パイロットは離陸滑走中、スロットル(出力レバー)に手を添えている。これはパワーを出すためではなく、不具合が発生した場合にいつでもパワーを絞ることができるようにするためなのだ。V1を超えて、はじめて絞る必要のなくなったレバーから手を離すことができる。
ひゃあ。
こんなの、ぼくにはぜったいむりだ。
車を運転していても「えっ、今のところ右折だったのか、えっ、まずい、どうしよう、まだいけるか、もうむりか、あっ、あっ」みたいな感じで不本意な直進をしてしまうのに。

しかしブレーキにトラブルが起こっていても離陸しちゃうのかあ。おっそろしいなあ。一度スピードに乗ってしまったらもう飛び立つしかないんだもんなあ。
「エンジンが一発壊れたぐらいでは、離陸してしまったほうが問題がない」とも書いていて、理屈としてはそうなのかもしれないけど、こういうのを読むとますます飛行機に乗りたくなくなる。
今度飛行機に乗るときは「この飛行機、もしかしたらブレーキやエンジンが壊れてるのかかもしれないんだよなあ」と考えてしまいそうだ……。
知らなきゃよかった。



コーパイ(=コーパイロット。副操縦士)の運転の話。
 当然のことだが最終的な決断と権限はつねに機長が持っている。
 実際の飛ばし方自体は、ちゃんと訓練をしているわけだから、コーパイが飛ばしてもキャプテンが飛ばしても、それほどの差にはならない。むしろ、若くてやる気じゅうぶんのコーパイのほうが、キャブテンより部分的にはうまいなどということもある。
 ただ、これはあくまでも技量だけの問題であって、総合的な判断能力のことではない。その意味でいうと、考え方によっては天気が悪い日はコーパイにやらせたほうが安全だということがある。
 というのは、キャプテンは自分が操縦していると、操縦自体に神経を集中させてしまうから、逆に、それ以外の状況の見定めが甘くなる可能性があるからだ。たとえばある種の自信から「俺はまだ大丈夫、まだ大丈夫」と、逆にどんどん気持ちが入っていく。管制からの情報と自分がイメージする情報が違っていても、「もう少し先に行けば元に戻るだろう」「自分ならばできるだろう」という意識が出る。実際、その読みが当たることは多いが、そうならなかった場合は危険に近づくことになりかねない。
 コーパイが操縦していた場合、キャプテンとしてはその操縦を見ていればいいわけで、他のことに気を配る余裕が出てくる。しかも危ないと思ったらすぐにやり直しを要求できるし、コーパイは機長のオーダーに間髪を入れず従ってくれる。

もちろん飛行機の運転のことはよくわからないけど、「コーパイにやらせたほうが安全」というのはよくわかる。

ぼくは、仕事をする上で「これは誰かに任せるより自分でやったほうが早いわ」と考えて、自分でやってしまうことが多かった。
でも最近では、積極的に若い人に仕事を振っている。
そして気づいたのは、自分でやらないほうが格段に視野が広がるということ。

自分でやったことだと「せっかくここまでやったのだから」とか「成果が悪くなってきたけどなんとか持ちなおしてくれるはず!」とか、判断に"もったいない"や"願望"といった感情が入ってしまう。時間をかけてやったことほど特に。
どうでもいいことなら、そういう"お気持ち"も大事にしないといけないんだけど、成果がシビアに数字で見える仕事であれば早めに冷静な判断を下さなければならない。

だから「実行する人」と「チェックする人」はべつにしておいたほうがいい。
経験の浅い人に仕事をやらせるってのは、経験を積ませるだけじゃなく、冷静な判断をするためにも重要だね。



こういう「ちょっとめずらしい職業についている人が語る」業界ものエッセイって、たいてい下世話な暴露話が多いんだけど、『機長からアナウンス』は終始落ちついた語り口で、品がある。

ほんとに機長のアナウンス、という感じでその上品さがかえって新鮮だった。

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2019年3月11日月曜日

子どもを動かす3つの方法


こないだ娘の友だちの家におじゃましたとき。

さあそろそろお片づけしようかということになったが子どもたちがいっこうに片づけをしないので

「よっしゃ、じゃあおっちゃんがお片づけしようっと!
 ほらおっちゃん五個も積み木片づけた! おっちゃんがいちばん片づけ上手やな!」
とやってみせた。

すると、それまで遊んでいた子どもたちが「十個片づけた!」とか「ほらこんなにきれいに片づけたよ!」と口々に言いながら競うようにおもちゃを片付けはじめた。


その様子を見ていたおかあさんから「子どもをノせるのがうまいですね」と言われた。
うむ。
自慢になるが、自分でもうまいと思う。

それはひとえに、自分自身がめんどくさがりやで、おまけに親や教師の言うことをちっとも聞かずに育ったからだ。
自分が言いつけを守らない子だったから、やるべきことをやらない子どもの心理がよくわかる。

子どもに何かをさせたいと思ったら、「〇〇やってね」と素直に命じても無駄だ。
まあうまくいかない。

行動させるためには、禁じるか、競争させるか、負い目を感じさせるかだ。



禁じるのはシンプルながら案外うまくいく。

「お風呂に入らない!」と言ってる子に、
「あっそう。じゃあ入らなくていいよ。ぜったいにお風呂に入っちゃだめだからね!」
と言うと、子どもは「いやだ! 入る!」と泣きながらあっさり主張をひっくりかえす。

「かかったな」と内心ニヤリとするが、ここであわてて「よしじゃあ入ろう」と捕まえにいってはいけない。まずはゆっくりリールを巻いて相手がこちらに近づいてくるのを待つ。
「だめだめ。おとうちゃんがひとりでお風呂に入るんだから。やったー! ひとりでお風呂だー!」
と言いながら風呂に向かって走る。
そうすると子どもは「いやだ! お風呂入る!」と言いながら風呂に向かって駆けだす。
こうなればもうあとは「しょうがないなあ。じゃあ一緒に入ってもいいよ」と、「こっちが折れてやった」感を出す。

子どもが駄々をこねる場合はたいてい、明確な目的があるわけでなく、ただ「自分の要求を呑ませたい」ためだ。
そんなときには、

「風呂に入らせたい親 VS 風呂に入りたくない子」
 ↓
「風呂に入らせたくない親 VS 風呂に入りたい子」

と立場を逆転させることで、相手のプライドを満足させつつ目的を果たすことができる。
人は禁止されるとやりたくなる。これを心理学用語でナントカ効果という。忘れた。



競争させるのは説明不要だろう。
最初に挙げた、「お片づけ競争」のようなものだ。
「どっちが上手かな?」とか「おっちゃんがいちばん上手やで」と対抗意識を煽ることで、「やりたくないこと」をゲームにする方法だ。

小学生のとき、掃除は嫌いだったが「雑巾がけ競走」は楽しんでやっていた。
「マラソンで走った距離を教室の後ろに貼りだします」と先生が言いだしたときは、みんな競いあって走っていた。
誰しも負けるのは嫌なものだ。競争は手段のはずだが、多くの場合それ自体が目的化する。



負い目を感じさせるというのは、子どもの良心に訴えかける方法だ。
「片づけをしない」とか「ものを独り占め」とかやってる子どもは、それが良くないことだとわかっている。
悪いとは知っているが、意地になって後に引けなくなっているのだ。

既に悪いことだと自分でわかっているのだから、そんな子に対して
「片づけをしなきゃだめだよ」とか「みんなで仲良く使おうね」とか言っても意味がない。ますます意固地になるだけだ。

そんなときは「そうか。片づけてくれないのか。しょうがない。他の子だけでやるか」とか「〇〇ちゃんがひとり占めしてるからしょうがないよ。他の子らでべつの遊びしよう」とか言ってその場を離れる。
わがままを言っている子は、自分でも悪いことをしているとわかっているのだから胸が痛む。結果的に折れてくれることが多い。

要は、「言われて動いた」のではなく「自分の意志で動いた」と思わせることだ。
誰かに注意されたから改めるのは子どもでもプライドが許さないのだ。



三つのやりかたに共通しているのは「まず行動させる」ということだ。
教える前に行動させないといけない。

わがままを言っている最中の子どもに対して「〇〇しなさい」とか「〇〇したらだめでしょ」とか言う大人がいるが、そんな説教に子どもは耳を貸さない。
子どもだけじゃない。大人も同じだ。政治家のおじいちゃんも同じ。まちがったことをしている人に「あなたのやりかたはまちがっている」と言ったって反発されるだけだ。

やっていることを否定されたら自分自身を否定されたように感じる。当然ながら反発する。
だからあれこれ言う前に行動させる。
折れてやったふりをしたり、甘やかしたり、なだめたりすかしたり、脅したり、言うことを聞く薬を使ったり(こえー)、なんでもいいからとにかく行動させる。まずは風呂に入らせる。片づけをさせる。
その後で「ほら。早くお風呂に入ったらその後で遊べるでしょ」とか「片づけをしたらものがなくならないからいいよね」と言う。すると子どもはうなずいてくれる。

片づけをしていないときに「片づけしたほうがいいよね」と言われたら、"片づけをしない自分" が否定されることになる。

片づけをした後に「片づけしたほうがいいよね」と言われたら "片づけをした自分" が肯定されることになる。

言うことは同じでも、やる前に言うのとやった後に言うのでは反応はまったくちがう。

あれこれ言う前にとにかく行動させる。
行動を否定するのではなく肯定するように持っていく。できていないことを叱るのではなく、できたことを褒める。



ってのが、子どもと接しているうちにぼくが探しあてた方法。
「禁じる」「競争させる」「負い目を感じさせる」でじっさいうまくいくことが多いし、何より怒らなくていいので自分の精神上もいい。

ちなみにえらそうなことを書いたが、自分の娘やその友だち、姪、甥などの観測範囲の話なので、万人にうまくいくかどうかは知らない。

またぼくは教育の研究者じゃないので、ぼくのやりかたが長期的な発達にどんな影響を与えるかは知らない。どうせ誰にもわからないだろうけど。

2019年3月8日金曜日

【読書感想文】まるで判例を読んでいるよう / 薬丸 岳『Aではない君と』

Aではない君と

薬丸 岳

内容(e-honより)
あの晩、あの電話に出ていたら。同級生の殺人容疑で十四歳の息子・翼が逮捕された。親や弁護士の問いに口を閉ざす翼は事件の直前、父親に電話をかけていた。真相は語られないまま、親子は少年審判の日を迎えるが。少年犯罪に向き合ってきた著者の一つの到達点にして真摯な眼差しが胸を打つ吉川文学新人賞受賞作。

乱歩賞作家の作品なので、ずっとミステリかと思って読んでいた。
あれ、ぜんぜん意外性のない結末だな、とおもったらどこにもミステリとは書いてなかった。ぼくが勝手に勘違いしていただけだった。
「乱歩賞作家の書いたものだからミステリだ」と無条件に信じてしまう、思いこみとはおそろしい。

思いこみといえば、少年犯罪といえば「手の付けられない不良少年」か「快楽殺人者的な精神のねじまがった少年」がやるもの、という思いこみがある。
たぶんぼくだけではないだろう。「少年院に行っていた」と聞くと、ほとんどの人は相手と距離をおくと思う。

『Aではない君と』では、主人公である会社員男性の息子が殺人犯として逮捕される。
デビュー作『天使のナイフ』では被害者の遺族の苦悩を描いていた薬丸岳氏だが、本書は加害者の家族がストーリーの中心。
ある日殺人犯の家族になったら……。

ぼくも人の親として、考えずにはいられない。自分の子が誰かを殺してしまったら。殺されてしまったら。
あれこれ考えたけど、答えは……わからん!

そんなものなってみないとわからんと言うしかない。たぶん「そんなこと考えたくない」という気持ちが強すぎて、想像力がうまくはたらかないのだろう。
殺人なんて遠い世界の出来事と思っていないと、とても子育てなんてできやしない。「ひょっとしたらうちの子が人殺しになるかも」なんて考えてたら、誰も子ども生まないよ。

『Aではない君と』は綿密な取材に基いて丁寧に書かれた小説だけど、どれだけ現実に即した描写があっても別世界のファンタジーとしか思えない。題材が重たすぎて。子どもがいるからこそ、余計に。



『Aではない君と』に現実感がないのは、登場人物がまっすぐすぎるからでもある。
同級生を殺した中学生の翼には反抗期のかけらも見られないし(人は殺すけど親の前ではすごくいい子)、主人公(父親)はとにかく責任感が強くて、真摯に自分のかつての行動を反省している。
人間、そんなにまっすぐに自分の過去を反省できるもんかね?
他人のせいにしたり、世の中のせいにしたり、運が悪かっただけだと嘆いたり、おかれた状況から逃げたしたいと思ったりするもんじゃないだろうか?
この主人公にはぜんぜんそういう思考が見られない。ただひたすらに「自分がもっと息子と向き合えばよかった」と反省している。

人間ってもっと身勝手なもんだと思うよ。そうじゃなかったら、「息子が人を殺した」という現実の前では心がつぶれてしまうんじゃないかな。
そりゃあ自制心が強くて他人のせいにせず頑強なメンタルの持ち主だってどこかにはいるかもしれんが、そんな人が離婚して子どもを捨てるかね?

少年犯罪の司法制度のことなんかは事細かに描写しているのに、人物描写が単調なせいで小説としてはずいぶん平板な印象。
まるで判例を読んでいるようで、重厚なテーマの割には感情を揺さぶってくれる小説ではなかったな。

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2019年3月7日木曜日

【読書感想文】まったくもつれない展開 / 井上 夢人『もつれっぱなし』

もつれっぱなし

井上 夢人

内容(e-honより)
「…あたしね」「うん」「宇宙人みつけたの」「…」。男女の会話だけで構成される6篇の連作編篇集。宇宙人、四十四年後、呪い、狼男、幽霊、嘘。厄介な話を証明しようとするものの、ことごとく男女の会話はもつれにもつれ―。エンタテインメントの新境地を拓きつづけた著者の、圧倒的小説世界の到達点。

そういや井上夢人氏の小説を読むのはこれがはじめて。でも学生時代、岡嶋二人(井上夢人が組んでいたコンビ)のミステリはよく読んでいた。
岡嶋二人作品って常に一定の水準を保っているんだけど、すごく印象に残る作品もないんだよなあ。常に七十五点ぐらいのミステリだったなあ。個人的には。

で、『もつれっぱなし』なんだけど、やはり印象に残らない作品集だった。
六篇とも男女の会話だけで構成され、いわゆる地の分は一切ない。会話だけなのでさくさく読める。「説明くさいセリフ」のような不自然さはなく、じつにうまい。
ほんとうはすごくむずかいしことをやっているのに、苦労の跡も見せずにさらりと男女の関係性や状況を説明してみせている。

ただ、ストーリー展開がすごく単調だった。
『もつれっぱなし』というタイトルだから、どんな意外な展開になるのかと思いきや、「こうなるのかな」と予想したとおりに話は進んでいく。
本筋と関係のない会話がときおり差しこまれるから「これがなにかの伏線なのかな?」と思いながら最後まで読むが、何の伏線でもない。

んー……。これ、なにが『もつれっぱなし』なんだろう?
「二人の主張がはじめはかみあわないが、だんだん理解してもらえるようになる」という話ばかりで、ちっとももつれてない。


ラーメンズに『不透明な会話』というコントがある。
コントではあるが動きはほとんどなく、ほぼ会話のみで成り立っている。
うまくいいくるめて間違ったことを相手に納得させたり、へりくつを並べたり、意図がまったく伝わらなかったり、いつのまにか立場が入れ替わっていたり、これぞ「もつれっぱなし」という感じがする。
(ぜひ一度観ていただいたい)


それに比べると井上夢人『もつれっぱなし』は、ずいぶん単調な話だった。タイトルのせいでこちらが過剰に期待してしまったのかもしれないけど。

とはいえ、最後の『嘘の証明』は終盤で意外な事実が明らかになる構成で、ぼくはまんまと騙された。
会話のみで描写がないからこそ成立するトリックだしね。
これだけは満足できるクオリティだった。

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2019年3月6日水曜日

子育ての役割分担


ひとりで子育てするのってむずかしいな、と最近特に感じる。

上の娘が五歳になり、もうすっかり一人前に見栄や意地を持っているな、と感じるようになった。
「早く着替えて」と注意されると 「今やろうとしてたのに!」と言いかえす。
「ぬぎっぱなしのパジャマ片付けて。出かけるから靴履いて」と言われると 「いっぺんに言われてもできへんやろ!」と反論する。
「早くお風呂入らないと絵本読む時間なくなっちゃうよ」と言われると 「おかあさんがそんなきつい言い方するからやろ!」と論点をすりかえて怒鳴る。

そこそこ弁も立つようになり、特に母親とぶつかることが多くなった。
(ぼくとあまりぶつからないのは、ぼくの場合、相手が五歳児であってもこてんぱんに言い負かそうとするし、「置いていくよ」と言ったらほんとに置いていくからだ。妻は「置いていくよ」と言いながらも待ってあげるので、娘も「どうせ置いていかれないだろう」とたかをくくって従わない)



妻と娘が喧嘩をしている間、ぼくは基本的に放っておく。感情的になっている人に第三者が何を言っても無駄だからだ。

喧嘩がひと段落すると、ぼくはふてくされて泣いている娘に近づいてゆき、
「ああいう言い方をしているとおかあさんもイヤな気持ちになると思うよ。そういう言い方はやめようね。〇〇って言ってたらお互い気持ちよく過ごせるんじゃない?」
とか
「おかあさんにいっぺんにいろいろ言われてイヤやってんな。でも最初に注意されたときにパジャマを片付けてたら言われなくて済んだやんか。今度からは早めに片付けような。その代わり、おかあさんにもいっぺんにいろいろ言わないようにおとうさんから言っとくわ」
とか言葉をかけて、事態の収束をはかる。刺激しないようになるべく優しい声で。

すると娘も、自分がわがままを言っていたということをわかっているので、泣きながらうなずいて「おかあさんごめんね」と言うことになる。

第三者の仲裁というのはとても大事だ。



これが親子ふたりっきりだとなかなかうまくいかないだろう。

喧嘩の当事者が「そんな言い方したらあかんで!」と言っても相手は耳を貸さないだろうし、「おかあさんも悪かった」と言って頭を下げれば子どもは「どんなわがままを言っても意地をはりつづければ相手が謝ってくる」と学んでしまうだろう。

べつに親である必要はないんだけど、子育てをする上で大人が複数いるのと二人しかいないのでは、難易度がぜんぜん違う。
単純なリソースの問題だけでなく、「叱る人/フォローする人」「厳しくする人/優しくする人」「現実を教える人/理想を教える人」「ばかなことをやってみせる人/たしなめる人」みたいな役割分担をできるメリットはすごく大きい。
一人より二人、二人より三人のほうがずっとやりやすい。

ぼくは「子育てなんてどんどん家庭の外に出すべきだ」と考えている。
一部の自称保守派が「子どもは親が育てるのが正しい」なんてことを言うが、親だけで子育てをする時代なんて、歴史的に見ても世界的に見てもごくごくわずかな例外だ。
できることならうちの子だっていろんな人に育ててほしい(現実的にはなかなかそうはいかないのでせいぜい親戚に預けるぐらいだけど)。逆によその子を預かることもある。
いっときは養子をとることも検討していた。養子はいろんな事情で断念したが、どこの誰とも知らない子を金銭的にサポートしたりもしている。少額だけど。
だからぼくはいろんな子どもの親だし、ぼくの子どもはいろんな家の子だ。

「子どもは親のもの」なんて意識が早く根絶されてくれることを願う。

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2019年3月5日火曜日

本の交換会


本の交換会をやった。


【きっかけ】


本の処分に困ったから。
最近はなるべく電子書籍で買うようにしているが、電子化されていない本も買うのでどうしても本が溜まっていってしまう。
家には数百冊、実家にも二千冊ほどの本がある。その99%はもう読みかえさないだろう。
古本屋に持っていっても二束三文なので労力にみあわない。
かといってまだまだ読める本を古紙として出すのもしのびない。

もうひとつの動機として、恩返し的な気持ちもある。
ぼくが中学生のとき、近くの公民館で定期的にバザーが開かれていた。そこでは本を1冊10円で買うことができたので、金のない学生としてはたいへん重宝した。
今の学生だって「本を読みたいのに金がない」と思っている気持ちは強いだろう。そういう人のために安く、もしくは無料で本が手に入る場所があればいい。
(このへんのことは 金がなかった時代の本の買い方 に書いた)

一方で本の処分に困っている人がいて、一方で本を読みたい人がいる。
この間を結びつけられる本の交換イベントがあればいいのになーと考えた。

調べたら「ブクブク交換」というイベントが見つかった。世界中で開催されているらしい。
しかしこのイベントのコンセプトは
「決められたテーマに合った本を持参して、自己紹介をかねた本の紹介をした後は、本の交換をするといういたってシンプルなコミュニケーション型ブックトークイベント」
というもので、ぼくが求めているものとはまったく違った。
ぼくはコミュニケーションなんて求めていない。黙ってやってきて黙って本を持ってかえるようなのが理想だ。本を選ぶときに他人と話したくない。

もっと無機質な交換会はないだろうかと調べているうちに、そうか、ないなら自分でつくればいいのだとおもいたった。

さっき「若い人のため」的なことも書いたが、同期の大部分は「自分があってほしいとおもうから」という気持ちだけだ。


【イベント内容】


ルールは以下のように設定した。

① 家にあるいらなくなった本を持ってきてください(1人20冊まで)
② 持ってきた本の冊数まで持ってかえることができます
 本、えほん、マンガを持ってきてください!

汚損の激しい本や成人指定図書は当然ながら、古本屋の買取基準を参考にして、雑誌、辞書、教科書、参考書、市販されていない本(付録・カタログなど)も対象外とした。欲しがる人少ないだろうし。
続きものの一部(上下巻の下巻だけとか)も対象外にしようかとおもったけど、『ドラえもん』の5巻だけとかならぜんぜんアリなのでそのへんは参加者の良識に委ねることにした。

当初は「持ってきた冊数+1冊まで持って帰っていい」というルールにしようかとおもっていた。
本が増える喜びがあるし、持ってきていない人でも参加できる。
資本主義に対するアンチテーゼみたいでおもしろいかなーとおもったけど、結局やめた。
本が枯渇してしまったらイベントが回らなくなるので。
それに、万が一「大人数で来て持って帰るだけ」「何度も来て1冊の本を10冊に増やす」みたいな人が現われたときに困るから。いないとはおもうけど、念のため。
(後から思うと、「+1冊」ルールは導入しとけばよかった)


【開催場所】


まずは場所を探した。
幸い、うちのすぐ近くには市民学習センターという公的な施設があり、レンタルスペースがある。
調べたら土日の使用料は2時間半で2,640円。

もうひとつの候補としてショッピングセンター内のレンタルスペースも検討した。
こちらは2時間で4,500円。市民学習センターより割高だが、人通りはこちらのほうがずっと多い(というより市民学習センターにはそこに用事のある人しか来ない)。

どちらにするか迷ったが市民学習センターにすることにした。
値段が安いこともあるが、本の交換会という性質上、たまたま通りかかった人に来てもらってもあまり意味がないからだ(たまたま交換できる本を持っている可能性は低いだろう)。
それなら人通りが多いとこよりも、落ち着いて本を見られる場所のほうがいい。


【宣伝】


さっきも書いたように市民学習センターには用事のある人しか来ない。
宣伝をしなければまったく人のこないイベントになってしまう。

とりあえずフライヤーを作ってみた。
Canva( https://www.canva.com/ )というかんたんにポスターを作れるWebサービスがあったので、これを使って作成。


これを、プリントパック( https://www.printpac.co.jp/ )で印刷。いくつかの会社を比較したが、プリントパックだとA4コート紙100枚で690円という破格の安さ(他社の半値以下)。おまけにはじめてアカウントを作ったら1000ポイントを付与された(1ポイント=1円として使える)ので、実質無料。
すげえ。
無料なのにちゃんとしたフライヤーが100枚も届いた。
プリントパックさん、ありがとう。

これを、娘の通う保育園、マンションの入口、近所の銭湯などに貼らせてもらう。
それから近所の知り合い(ほぼ娘の保育園の保護者)にも配る。
ぼくはしょっちゅう公園でいろんな子と遊んでいるので、そのたびに親に渡した。
とはいえ、100枚印刷したが配ったのは30枚ぐらい。

この時点で「絵本だけの交換会にしようかな」ともおもった。ターゲットをしぼったほうが子育て世帯にアピールできそうだし。

だが、やはり全年齢向けにすることにした。
「児童書を持ってきた小学生が大人向けの小説と交換していく」なんてことが起こったらすごくうれしいから。
それにもともとぼくの本を処分するのが目的で思いついたイベントなのだ。
あぶないあぶない、本末転倒になるところだった。

FacebookとTwitterのアカウントもつくり、ここでも情報発信をすることにした。
ぼくはWebマーケティングの仕事をしているので、このへんは専門分野だ。
広告費も投じてTwitter広告、Facebook広告も配信した。
地元の地名や、「古本屋」などのキーワードでツイートしている人をターゲットにして。遠方の人にリーチしてもあまり意味がないので。

Twitter広告の成果

Facebook広告の成果

すごくざっくりいうと、Twitter広告は3,928円使って17,286回表示され、1,182回のエンゲージメント(クリック、画像表示、いいね、リツイートなどの合計)を獲得。

Facebook広告は、542円使って311回表示され、41回のエンゲージメント。
Twitter広告のほうがよさそうだったので、Facebookはすぐに止めてしまった。

あとYDN(Yahoo!のディスプレイ広告)も配信しようかとおもったが、最低出稿金額が3,000円だったのでやめた。

少額での告知にはTwitter広告がいちばん向いているね。100円からでも配信できるし。ターゲティングの自由度も高いし。


【準備した本】


はじめにある程度の数の本がないと愉しくない。
「10冊の中から選んでください」では話にならないからね。

家にある「超お気に入り」以外の本と、実家にある本をかき集めて、500冊ほど用意。
実家にはあと1,000冊以上あるが、あまりに古い本はやめておいた。東野圭吾や伊坂幸太郎などの人気作家の本を中心に放出。

数はある程度確保できたが、絵本が少ないのが気がかりだった。
うちにもたくさん絵本はあるのだが、上の子が手放したがらないのと、下の子が0歳なのでこれから読むかもしれないと思うと、なかなか供出できない。

だが、隣県に住む姉にこのイベントのことを伝えると段ボールいっぱいの絵本を送ってくれた。
助かった。これでなんとか恰好はついた。


【結果】


忙しくて数えるどころではなかったのだが、2時間ちょっとの間に40人ぐらいが来てくれた。
本を選ぶために30分ぐらい滞在している人もいたので、常に誰かがいる状態。なかなか盛況だった。
広い会場ではなかったので、これ以上来ていたら窮屈だっただろう。
ちょうどいい人の入りだった。

「ふたを開けたら誰も来ない」というのは悲しすぎるので、古くからの友人、実家の両親、義父母、義兄にまで声をかけておいたのが功を奏した。



子どもとその保護者が多かった

半分以上は前もって声をかけていた知人だが、知人の知人、Twitterで知ったという方、近所の古本屋のご主人、たまたま通りかかった人なども来てくれた。
知らない人との交換こそがこのイベントの醍醐味なので、知らない人がたくさん来てくれたのはとてもうれしい。
「次回はいつ?」とも聞かれた。これもうれしい(後で書くけどたぶんもうやらないが)。

本を並べたり、終わってから会場の机や椅子を片付けたり、本をまた箱にしまって自宅まで運んだりするのは、相当多くの人に手伝ってもらった。家族や親戚が主だが、見ず知らずの人も手伝ってくれた。

いろんな人に協力してもらえたおかげで、まずまず成功したといっていいだろう。


【反省点1 お金】


結局使ったお金は、場所代(2,640円)+フライヤー代(0円)+広告宣伝費(4,470円)+雑費(来てくれた子どもに渡すお菓子や百均で買ったブックエンドなど)で、8,000円ぐらいだった。
収益は一円も発生していないので当然ながら赤字である。まあ損するつもりで開催した趣味のイベントなのでべつにいいのだが。

とはいえ、一回限りのイベントとしておこなう分にはぜんぜんかまわないのだが、もし定期的に開催するとなればばかにならない赤字額である。

じつは収益を上げる方法も考えていた。儲ける気はないが、収支±0円ぐらいにはできないだろうかとおもって。
だが参加費をとったらつまらないし、残った本を古本屋に売ったらただの故買屋(金銭ではなく本で買う形だが)になってしまう。
無人古本屋のBOOK ROAD(Twitter:@bookroad_mujin)というところが袋代としてお金をとっていると読んだので、そうか袋だけは有料にするのも手だなとおもったのだが、よく考えたらそれはダメだと気づいた。
なぜなら本の交換会に来る人は、袋やバッグに本を入れてやってくるからだ。有料の袋なんて買わないだろう。

「いいデザインのしおりを安く仕入れて、交換会に来た人に買ってもらう」という案も考えた。「売上は次回開催費にあてます」と書いておけば買ってくれる人もそこそこいたかもしれない。
だが、そんなことをしたら次回も開催しないといけなくなる。趣味でやっているので義務にはしたくない。

それに「気を遣ってくれる人だけお金を払って、そうでない人はタダ」というシステムは不公正な感じがしてイヤだ。

ということで、本の交換会で利益を出す(収支±0円にする)のは不可能だという結論に達した。
問題は、赤字分以上にぼくが愉しめるかどうか、だ。


【反省点2 持ちこまれる本】


金銭的な赤字については想定していたことなのでどうってことなかったのだが、持ちこまれる本の質が(ぼくからみたら)低いことは少なからずショックだった。

あらかじめ禁止していた本は以下の通り。
汚れや破れのひどい本 / 雑誌 / 辞書 / 教科書 / 参考書 / 成人指定図書 / 市販されていない本(付録・カタログなど)
あとは「参加者の判断基準」に任せていたのだが、その基準とぼくの想定との間にズレがあった。 たとえば

・上巻だけ/下巻だけ
・情報が古い実用書(十年前のパソコン書とか旅行ガイドとか)
・カバーのない本
・書き込みのある本
・成人指定図書ではないけど直截的な性描写があるマンガ

とか。
うーん……。ぼくの基準では「常識的に持ってこないだろう」とおもっていたのだが、こういうのを持ってくる人は数人いた。

ギャップの原因は、ぼくが本好きであるがゆえに「本をそんなに好きじゃない人の気持ち」が想像できなかったことだろう。

イベント告知フライヤーには「家にあるいらなくなった本を持ってきてください」と書いた。
「家にあるいらなくなった本」にぼくが込めた意味は、「自分はもう読むことがないけど誰かに読んでほしい本」だった。
そこまで言わなくてもわかるだろうとおもっていた。

もちろんそのへんの意図を汲んで本を持ってきてくれた人もたくさんいた。本好きの人はそうだと思う。「そこそこおもしろかった本」を持ってきたはずだ。
だけど「ただいらない本」を持ってくる人もまあまあいた。

『はじめての確定申告』みたいな本とかさ。ルールには反してないけど、うーん、実用書やビジネス書を持ってこられることは想定していなかったなあ……。
よほどひどい場合を除いて基本的には断らなかったんだけど、ちょっと悲しかった。

ぼくの見通しが甘かったのが悪いんだけどさ。
もし次やるなら「自分はもう読むことがないけど誰かに読んでほしい本」って書いとかないとな。

参加者のモラルに委ねているかぎりはこういう問題はついてまわるだろうし、かといってガッチガチにルールを決めちゃうのもつまらないしなあ。
このへんの匙加減はむずかしい。

「年間20冊以上読む人限定」とかにすれば質は担保されそうだけど、そういう人ばかりを集めるのなら一等地の会場を用意しないといけないし宣伝費もかかるなあ……。


【反省点3 本が増える!】


自宅の本の処分のためにはじめたイベントのはずなのに、結果的に本は増えてしまった。
「10冊持ってくるけど5冊しか持ってかえらない」というような人がけっこういたのが理由だ。
「ぜったいに持ってきただけの冊数は持ってかえってください」というわけにもいかず、開始一時間で数十冊分の本が増えてしまった。

これはまずいと思い、後半に来た人には
「何冊でも持ってかえっていいですよ」と伝えた。
また、たまたま通りがかって中を覗きこんでくれた人に「交換じゃなくても大丈夫です。さしあげますので好きな本を持っていっていいですよ」とまで伝えた。
それでも遠慮するのか、大量に持ってかえる人はいなかった。

十数冊持ってきて「引き取ってもらえますか。交換はいりません」と言ってきた人もいたが、さすがにそれは交換会の趣旨からはずれるので断った。廃品回収ちゃうぞ。

よく考えたら、本を読まない人にとっては本なんていらないものだし、本が好きな人はたいてい(ぼくとおなじように)置き場所に困っているもんなあ。
よほど興味のある本以外はタダでもいらない、ってなっちゃうよなあ。


【反省点4 若人が来なかった】


できることならぼくが提供した本は十代に読んでほしかった。

十代は知識欲がもっとも高まり、人生経験は多くないので吸収する力も強い。体力や時間もあるので手当たり次第に本を読むことができる。
しかし多くの十代は金がない。好きなだけ本を買える十代はほとんどいない。だから十代に本を届けたかった。

しかし、今回のイベントにティーンエイジャーはおそらく一人も来なかった(小学校中学年ぐらいの女の子がひとり来ていただけ)。

これは告知の方法が悪かった。
ぼくの近所の知人に十代はいないし、その親もいない。
ぼくの宣伝方法では本好きの十代に届かなかったのだろう。
近くの中学校や高校にでもチラシを貼らせてもらえばよかったと後悔している。


【総括】


たぶん本の交換会はもう二度とやらない。やるとしても自分の子どもが十代になってからかな。

やってみた感想としてはけっこう楽しかったし、娘も楽しんでいた。
いろんな人が本を持ってきてくれたことによってぼくが読みたいとおもえる本も十数冊手に入った。

しかし8,000円と大きな労力(本を持って自宅と会場を往復するのはかなりたいへんだった)を使って十数冊では、はっきりいって割に合わない。身も蓋もないことをいってしまえば、ふつうに買ったほうが安いし好きな本を選べる。

協力者を集めればひとりあたりの負担は減るが、組織にしてしまうと自分の好きなようにやれなくなってしまう。

正直な気持ちとしては
本の交換会はすごく愉しいイベントだから毎月でもやってほしい。ただしぼく以外の人が主催で
だ。
誰かやってくれねえかなあ。
市とか区とかがやってくれないかなあ。PTAとかやってくれないかなあ。ベルマーク集めるぐらいなら本を集めたほうが有意義だとおもうんだけどなあ。


そして目の前の問題は、再びぼくの家に帰ってきたこの五百冊ばかりの本をどう処分するか、だ。
とりあえず実用書やビジネス書の類は捨てて、絵本は子どもにあげて、あとは、うーん……(最初と同じ問題にぶちあたる)。


2019年3月4日月曜日

エレベーター長幼の序


エレベーターって先に乗りこんだ人のほうがエラいじゃないですか。

わかりますよね?
下に行くエレベーターだったら、10階から乗った人のほうが5階から乗った人よりエラい。
2階から乗ったやつなんて下の下。っていうか車椅子でもベビーカーでも傷病人でもないくせに1階分をエレベーターで移動するやつはなんなの。しかもそういうやつにかぎって扉が閉まりそうなタイミングで小走りで飛びこんできたりすんだよね。その元気があるなら階段使え。

後から来たやつは「乗らせていただいている」という意識を持って肩身狭く立っていなければならない。先に乗っていたお方に足を踏まれても文句を言ってはいけない。

ぼくは自分が最後に乗ったときはドアの脇に立って、新人の業務であるボタン押し係をつとめる。
1階に着いても(混んでて降りないと邪魔になるとき以外は)決して先には降りず、「開」ボタンを押しつづける。そして全員が降りたのを見計らってから「失礼します!」と一礼してエレベーターを降りる。
最後に乗った人間として当然のことだ。

逆に自分が先に乗ってて後から他の人が乗ってきたときは、そいつがどんなに偉そうにしていようと、決して「開」ボタンは押さない。
たとえ相手がダブルのスーツを着ていようが大統領だろうが天皇だろうが、エレベーター内においては先に乗った人間のほうがエラい。こないだローマ法王とエレベーターで乗り合わせたときも、「えっおれ教皇なんだけど?」って顔のローマ法王を尻目にさっさとエレベーターを出た。

「乗せてやってもいいけど」

ところが世の中には常識のかけらも持っていない人間がいて、後から乗ってきたくせにボタン押し係をやらないやつがいる。
特に年寄りに多い。年をとっているから敬われて当然と勘違いしているのだ。
そりゃあぼくだって人生の先輩を敬わなくてはという意識を持っているが、ここはエレベーターだ。先に生まれた人よりも先にエレベーターに乗った人を敬わなくてはいけない。

後から乗りこんできたくせに、先人に少しの敬意も払わず、目的の階に着いたらさっさと降りてしまうやつがいる。
しかもそういうやつにかぎって大統領でも天皇でもローマ法王でもないんだから、ほんと嫌になってしまう。


2019年3月2日土曜日

イージー育児


うちの子は五歳と〇歳だから子育てはまだまだこれからなんだけど、まあ比較的手のかからない人たちだな、と思う。
いやもちろん大変なんだけど。五歳児は意地っ張りだし休日の朝早くから「おとうちゃんトランプしよ」と起こしてくるし、そのくせ平日は起こしても起きないし、〇歳は〇歳で夜中に泣くしうんこ漏らすし決して楽ではないんだけど。
でもまあ他の子と比べたら楽なんだろうなと思う。
ふたりしか育てたことがないから(そのふたりだってまだまだこれからだけど)推察でしかないけど。

上の子はビビりで、ちょっとした段差でも「怖い」と言って飛び降りない。はじめてのものは食べたがらないし、出かけるときも親が近くにいないと不安がる。
親から見ても「もうちょっと挑戦的になってもいいのに」と思うが、そんな性格だから大きなケガなどしたことがない。ケガをさせたこともない。親としてはすごく助かる。
同年代の子を見ていると、どんな未知の領域にもずんずん足を踏み入れようとするコロンブスの生まれ変わりや、周囲から何を言われても不服従というガンジーの生まれ変わりや、すぐに他の子に噛みつくマイク・タイソンの生まれ変わりの子もいて(タイソンはまだ死んでないか)、こりゃあ親は気苦労が絶えないだろうなと同情する。
ぼく自身もそういうタイプの子だったから、命を落とさずに大人になれたのはただただラッキーだったと思う。

こういうのって親の教育方針とかの影響も多少はあるんだろうけど、それよりかは持って生まれた気質のほうが大きい。
娘の友だちに三つ子がいるんだけど、同じ日に生まれて同じ家で同じように育てられているはずなのに、性格はそれぞれちがう。
子どもが石橋を叩いて渡る慎重派になるかトラブルメイカーになるかのちがいは運でしかないんだろう。

あと健康というのもすごく大事な要素だ。
大人だったら少々の不健康でもそこそこ自分で調整をつけて生きてゆけたりするけど、子どもは体調管理能力がゼロだから、ポテンシャルがそのまま体調に直結する。
うちの子はしっかり食べるし、アレルギーや持病もないし、すごく体力がある。三歳ぐらいからお昼寝をすることをやめてしまったが、夜まで元気に遊んでいる。ぼくよりずっと元気だ。
保育園に入れるとき、いろんな人から「子どもはすぐ熱を出すから呼び出しがかかってたいへんだよ」と言われたので覚悟していたのだが、うちの娘は年に二日ぐらいしか保育園を休まない。体調が悪くても少し寝ていたらあっという間に治ってしまう。
職場の人にもあらかじめ「小さい子を保育園に預けてるんで何かあったらぼくがお迎えに行くかもしれません。ご迷惑をおかけすると思いますがよろしくお願いします」とことわっていたのに、そんな機会はほとんどなく、肩透かしを食らった気分だ。

下の子はまだ数ヶ月しか生きていないが、今のところ上の子に輪をかけて手のかからない人生を送っている。
すごくお腹のすいたとき以外は大声で泣くこともないし、夜中も新生児にしてはまあまあ長く眠ってくれるし、とにかく楽だ(新生児にしては、だが)。
しかも超絶ありがたいことに、必ずといっていいぐらいお出かけの前にうんこをしてくれる。これはすごく助かる。電車の中とかで出されたら困るからね。もうこれだけで一生分の親孝行をしているといっても言いすぎではない。絶妙なタイミングでうんこをしてくれたときは思わず赤子に「おまえは天才児か!」と言ってしまう。すごい才能だ。


ほうっておいても性格温厚・才色兼備に育つ子もいれば、死なずに大人になっただけでも奇跡という子もいる。誰も殺さなかっただけでも親を褒めなければ、という気質の子だっているだろう。
数年間子育てをしてみて思うのは、親の子育て方針が子どもの発達に与える影響なんてほんのわずかだってこと。
遺伝子とか時代とか政治とか隣人とかどんな教師にあたるかとか、ほとんど運によって左右される。
こうすれば子どもは成功する、みたいな必勝法は存在しない。これをしたらほぼまちがいなく子どもの人生は台無しになる、というクラッシュ方法はあるだろうけど。


結局何が言いたいかっていうと、「息子三人を東大に入れる方法」みたいなことを語りだす母親は何もわかっちゃいないからおまえが大学行って勉強しなおせってこと。

2019年3月1日金曜日

【読書感想文】不倫×ミステリ / 東野 圭吾『夜明けの街で』

『夜明けの街で』

東野 圭吾

内容(e-honより)
不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。ところが僕はその台詞を自分に対して発しなければならなくなる―。建設会社に勤める渡部は、派遣社員の仲西秋葉と不倫の恋に墜ちた。2人の仲は急速に深まり、渡部は彼女が抱える複雑な事情を知ることになる。15年前、父親の愛人が殺される事件が起こり、秋葉はその容疑者とされているのだ。彼女は真犯人なのか?渡部の心は揺れ動く。まもなく事件は時効を迎えようとしていた…。
『赤い糸』では介護、『手紙』では加害者家族の生き方、『さまよう刃』では少年法など社会問題とからめたミステリを手掛けてきた東野圭吾さん。
『夜明けの街で』はミステリ×不倫。
ミステリと他のテーマをかけあわせることによって、次々に新鮮な味わいを提供してくれる。そしてそのどれもが高い水準を保っている。
名料理人、という感じ。

ちなみにこのタイトル『夜明けの街で』は、サザンオールスターズの不倫をテーマにした『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』の歌詞の一部から。
舞台が横浜だったり、『LOVE AFFAIR』の歌詞に出てくるスポットが使われていたり、「秘密のデート」という言葉が何度も出てきたり……と、ずいぶん曲へのオマージュを感じさせられる小説。曲を知っていたほうがずっと楽しめるので、読む前に聴くべし。



「不倫相手の女性が15年前の殺人事件の犯人かもしれない」というのが本書のいちばんの謎。
でも正直いって、殺人事件の真相よりも不倫の行方のほうが読んでいて気になる。
はたして妻には気づかれていないのか、気づいていて素知らぬふりをしているだけなのか……。読みながらゾクゾクしていた。

ぼくは不倫をしたことはないが、どんなことがあろうとも自分はぜったいに不倫はしない! と言いきれるだけの自信もない。魅力的な女性に言い寄られたら毅然としてつっぱねることができるかどうか、我が事ながらたいへん心もとない。まあ幸か不幸か、独身時代も含めてそんな機会はないけど。

ぼくは自分の意志をぜんぜん信頼していない。だから、そもそも浮気のきっかけになるような状況に近寄らないようにしている。女性と一対一で会うなんてことはしない、どうしても会わなければならないなら昼間にする、飲み会が終わったら二次会三次会に行かずにさっさと帰る(飲み会が嫌いだからだけど)、好みの女性と会ったらまず子どもの話をする(自分に言い聞かすため)……。
まあそんなことしなくてもぼくみたいなしみったれと不倫してくれるような女性はいないとは思うが、気をつけておくのに越したことはない。

ぼくはタバコを一本も吸ったことがないし、パチンコを一度もやったことがない。麻薬も一度もやったことがない。
それは自分の意志にまったく信頼を置いていないからだ。「一度やったらハマってしまうかもしれない」とおもっているから、意識的に遠ざけるようにしている。不倫もそれと同じだ。ハマってしまいそうだから怖い。

不倫なんてしても99%良いことはない。誰もがわかっている。
バレれば家庭や金銭を失うし、へたしたら仕事や友情も失うことになる。バレなくたって罪の意識は残るだろう。

それでもしてしまう。もう本能的なものとしか考えようがない。麻薬と同じで、理性で太刀打ちできるようなものではないのだろう。こえー。



ミステリとしては、正直イマイチ。
東野圭吾作品の中でもかなり下位に位置する出来栄えだった。「十五年も××をしていた」(ネタバレになるため伏字)というのは無理があるし、真相が明らかになったところで「えーまさかあの人が!?」というような驚きもない。

ホラーとして読む分にはじつにスリリングでおもしろかった。
ぞくぞく。

ただ、結末ははっきりいって生ぬるい。さんざん身勝手な立ち居振る舞いをしてきた男がこれだけで許されるのかよ、と拍子抜けする。ぼくはもっとえげつない展開が見たかったぜ。
東野圭吾氏も男なので温情を見せてしまったのかなあ。

女性作家ならきっとこういう結末にはしなかっただろうな。

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