2024年4月5日金曜日

【読書感想文】武田 砂鉄『わかりやすさの罪』 / だめなんだよ、わかりやすくちゃ

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わかりやすさの罪

武田 砂鉄

内容(e-honより)
「すぐわかる!」に頼るメディア、「即身につく」と謳うビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く観客…。「どっち?」と問われ、「どっちでもねーよ!」と言いたくなる日々。納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うための一冊。


「わかりやすさが大事だよ」と求められる風潮に逆らい、いやいやわかりにくいことこそ大事なんじゃねえのか、ということを手を変え品を変えわかりにくく書いた本。

 論旨は明快ではなく、話はあっちへ行きこっちへ脱線し、そうかとおもうと同じところをぐるぐるまわり、はっきりした結論がないままなんとなく終わる。

 とにかくわかりにくい本。しかしそのわかりにくさこそが重要なのだ。


 目の前に、わかりにくいものがある。なぜわかりにくいかといえば、パッと見では、その全体像が見えないからである。凝視したり、裏側に回ってみたり、突っ込んでいったり、持ち上げたり、いくつもの作用で、全体像らしきものがようやく見えてくる。でも、そんなにあれこれやってちゃダメ、と言われる。見取り図や取扱説明書を至急用意するように求められる。そうすると、用意する間に、その人が考えていることが削り取られてしまう。
 本書の基となる連載を「わかりやすさの罪」とのタイトルで進めている最中に、池上彰が『わかりやすさの罠』(集英社新書)を出した。書籍としては、本書のほうが後に刊行されることになるので、タイトルを改めようかと悩んだのだが、当該の書を開くと、「これまでの職業人生の中で、私はずっと『どうすればわかりやすくなるか』ということを考えてきました」と始まる。真逆だ。自分はこの本を通じて、「どうすれば『わかりやすさ』から逃れることができるのか」ということをずっと考えてみた。罠というか、罪だと思っている。「わかりやすさ」の罪について、わかりやすく書いたつもりだが、結果、わかりにくかったとしても、それは罠でも罪でもなく、そもそもあらゆる物事はそう簡単にわかるものではない、そう思っている。

 物事が「わかりにくい」のにはたくさん理由がある。

「説明が下手だ/足りないから」もそのひとつだが、それがすべてではない。「自分の前提知識や理解が足りないから」「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「わかりやすい理由なんてないから」など、いろんな理由がある。

 池上彰さんがかつて(民放番組に出るようになる前)やっていたのは、「説明が下手だ/足りないからわからない」を取り上げて、わかりやすく解説するという仕事だった。

 だけど、考えることが苦手な人の要望に応えすぎた結果、「断片しか明らかになっていないから」「誰かが嘘をついていてどれが真実なのか誰にもわからないから」「わかりやすい理由なんてないから」みたいなことまで“わかりやすく”解説することを求められ、池上彰さんができる範囲で解説して、その結果、「どんなことでも上手な人の手にかかればわかりやすく説明できるものなのだ!」と考える人が増えてしまった。

 注意深く見ていれば、池上彰さんが「あえてお茶を濁していること」や「そもそも近づくことを避けているもの」に気づくのだが、ぼーっと見ている人は「このおじいちゃんは何でも説明できてしまうのだ」とおもってしまうのだろう。池上彰さんの番組に出る他の出演者は、「わかりそうなこと」しか質問しないしね。


 その結果、“わかりにくいもの”に出会ったときに「これは誰にもわからないものだな」とか「おれの知能や知識では判断できないものだ」と考えずに、「自分にでも理解できる説明がどこかにあるはずだ」と考えてしまう。



 少し前にも書いたけど、大谷翔平選手の通訳が違法ギャンブルをしていた件について「わかりやすい解説」をしている人がSNSにいた。多くの人が「なるほど、わかりやすい!」と言っていた。

 だめなんだよ、わかりやすくちゃ。

 だってそれはわからないことなんだから。当事者にしか、いやひょっとしたら当事者にすらわからないことなのに、誰かが“わかりやすい”解説をして、それに対して「なるほど、そうだったのか!」とうなずく。そして「やっぱり大谷さんがそんな悪いことするわけないとおもっていた」あるいは「やっぱりな。おれは前から大谷はいけすかないやつだとおもっていたんだよ」と元々持っていた思い込みを強化するための材料にする。


「わからない」状態はストレスを感じる。「なるほど、腑に落ちた!」のほうがスッキリする。腑に落ちてしまったらそれ以上考える必要がないから。

 だから脳の体力がない人は「わかりやすい説明」に飛びつく。足腰の弱い人がエレベーターや動く歩道で移動するように。けれどエレベーターや動く歩道だけでは行ける場所が限られてしまう。誰かに用意された場所に連れて行ってもらえるだけ。



 わかりにくさを抱えることの重要性を説いているので、もちろんこの本はわかりやすくない。

本来、起きていることの全体像を見にいくためには、それなりに時間をかけて様子見しなければいけない。様子見しながら持論を補強していく。俺の意見がたちまち確定している人というのは、様子見に欠けている。第三者の当事者性には、相手を見る時間が必要。「馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」になってはいけないのだ。自分が「わからなさ」を重宝する意味は、こんなところからも顔を出す。つまり、ある判断を迫られた時、ある事象への意見を求められた時、ひとまずその意見は、暗中模索しながら吐き出されたものになる。わからない部分をいくばくか含みながら、吐露される。わからない自分と付き合いつつ、わからない自分の当事者性を獲得しつつ、その対象に向かっていく。

 うん、よくわからない。著者自身ですら考えがまとまっていないまま書いているんだろうな、って箇所も散見される。

 でもそのわかりづらさが新鮮だ。おもえば、インターネット上で見られる文章はどんどんわかりやすくなっている。

 昔は動画はもちろん画像ですら載せにくかったからテキストばかりで長文を書いていた。それがブログになり、ほとんどが1000字以内に収まるようになり、画像が増え、さらにSNSでは短文の羅列が中心になり、動画が増え、そこで語られる言葉はどんどんシンプルなものになっていく。わかりやすく、わかりやすく。

 この本を読むと、久々にわかりにくいものを読んだなーという気になる。久しく使っていなかった筋肉を動かしたような気持ちよさがある。


 ぼくが書いているこのブログは時代遅れだとおもう。ほとんど人の役には立たない。書いているのは「読書感想文」であって要約や嚙み砕いた解説ではない。書いていることに一貫性はなく、そのときどきでころころ変わる。ちっともわかりやすくない。

 わかりやすいものが増えている時代だからこそ、わかりにくいブログがあってもいいよね。


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